破滅への門戸
序、呼ばれ集う者達
「へー、ここが同志クジマが今遊んでる街なのぉ」
「遊んでいるわけではないぞ、同志トクラン。 それに、蒼の刃の連中も策動している、あまり気を抜くな」
「もぉ、クジマったら、お堅いんだから」
寂れた町並みを見回し、トクランが言う。その相変わらず危なっかしい様子に、クジマが釘を差し、トクランは口を尖らせて不平を漏らした。
サイジェントの北スラムに、無色の派閥の幹部トクランが訪れたのは、アキュートとフラットの戦いにバノッサが介入して三日後の事であった。現在、サイジェントにはザプラも含めて三人の幹部が訪れている事になり、無色の派閥が如何にこの作戦に力を入れているか明らかだった。トクランが呼ばれたのは、この街を統べる領主の城を攻略する必要が生じたからで、彼女が操るドラゴンの戦闘力が作戦の骨子であった。
「ところで蒼の刃の連中、どれくらいの数が来てるの?」
「十五人前後。 今まで六人仕留めたが、増援が次々に現れている」
「面白いじゃん。 彼奴ら殺る気まんまんなんだ」
「まだ手は出すな、同志トクラン。 君が本気で暴れたら、軍がまともに乗り込んでくる可能性がある。 そうしたら、かなり厄介だ」
クジマの言葉に生返事を返すと、トクランは身軽に廃屋の屋根に登り、周囲を見回した。そしてある一点に視線を固定した。彼女の視線の先には、バノッサがいた。
「……あれが、例の?」
「そうだ。 スペアナンバー19だ」
「私の魅魔の宝玉、使いこなせてるんでしょうね」
「まだ完全ではないが、問題はない」
クジマに向けていたのとは、全く別の、差すような視線でバノッサを抉りながら、トクランは懐から林檎を取りだし、囓り始めた。しばしそのまま動きはなかったが、やがて彼女は、ゆっくりとクジマに視線を向けた。膨大な殺気と、殺戮を求める暗い欲望が、瞳の奥で燃えさかっていた。
「ねえ、クジマぁ。 ゴミ掃除くらいは、してもいいよね?」
「そうだな、それなら大歓迎だ」
一応クジマの返事を聞き終えると、トクランはゆっくり右手を挙げた。その右手には、禍々しい赤色の手甲が装着されていた。
サイジェントで活動中の蒼の刃は、繁華街一角の廃屋にアジトを構え、連日分析と協議を行っていた。流石に首領であるパッフェルほどの大物はいなかったが、いずれもベテランの諜報員達で、有能である。
彼らの間にいる小柄な人影は、蒼の派閥の召喚師ミモザである。彼女は自らの手でかき集めた情報と、蒼の刃が集めた情報を、分類わけする作業に追われていた。その隣にいる男は、同じく蒼の派閥の召喚師ギブソン。彼は膨大な資料を分析し、ある一つの情報に確信を得る作業の、最終段階に入っていた。
廃屋に、蒼の刃の諜報員が入ってくる。彼は小さく頭を下げると、忌々しげに言った。
「偵察に出ていたバルクが殺られた。 腹をぶち抜かれて即死だ。 多分拳法によるものだろう」
「……銀糸じゃないのか? ちっ、連中も新しい奴を呼んだみたいだな。 ただでさえ彼方さんには化け物じみた奴らが集まってるってのに……くそっ!」
言葉を交わしあう蒼の刃隊員には構わず、ギブソンが顔を上げた。彼の顔には、確信が言葉よりも雄弁に張り付いていた。ギブソンが資料の一枚を手に取り、皆に見せる。それには、魅魔の宝玉と呼ばれる召喚術具と、その詳細が描き込まれていた。
魅魔の宝玉。数ある召喚術用の道具、召喚具の中でも、最も危険な一つである。サプレスサモナイト石の大きな結晶を加工した物で、持ち主の精神に反応して、悪魔をサプレスから召喚、或いは送り返す事が自在に出来る。しかも使用主の体内に、サプレスから膨大な力を注ぎ込み、精神を破壊しつつ加速度的な魔力の成長も促すのだ。それは召喚具と言うより、サプレスとつながった小さなゲートであった。
「間違いない。 奴らが、無色の派閥が使っているのはこれだ。 あらゆる状況証拠から言って、ほぼ疑いないだろう」
「魅魔の宝玉? 確かこれって、昔大きな戦争を引き起こして、蒼の派閥に封印されていた道具よね。 それからどうかなったって話は聞いてないけど?」
「エクス様から渡された極秘資料によると、それからも時々蒼の派閥は秘密裏に使用していたのだそうだ。 しかしシュザールフォール紛争で暴走、膨大な被害を出してしまったため、二十年前にアスルテア支部に移して、そこで極秘に管理していたらしい」
「へぇ、あの紛争末期の悪魔大量発生って、それが原因だったんだ。 それに確か十七年も前に、アスルテア支部ってオルドレイクに潰されてたわよね。 彼奴も昔はそんなに派手には暴れてなかったけど、だからこそ盲点だったわ」
ミモザの言葉に、ギブソンは小さく頷いた。シュザールフォール紛争とは、聖王国と帝国の間で三十三年前から二十一年前まで、十二年間に渡ってシュザールフォール地方で行われた代理戦争である。表向きの発生の要因は、帝国聖王国双方の勢力境界上にある、属国同士による銅鉱山の奪い合いであった。両国は鉱山を巡って緊張状態を高め、何度かの小競り合いを交えた。元々民族的な違いから仲が悪かった二つの国は、それを機に総力戦へ突入。それに聖王国と帝国が銅鉱山の利権目当てに裏側から荷担したため、十二年に渡って紛争は続き、舞台になったシュザールフォール地方は焦土と化した。紛争末期には謎の悪魔大量発生事件も起きたが、蒼の派閥の尽力によって解決、現在同地方は帝国の領土下に組み込まれ、未だに復旧作業に当たっている。何にしても、シュザールフォール紛争が発生から終結に至るまで蒼の派閥が仕組んだ一人芝居であったと、エクスの資料は雄弁に告げていた。追記によると、この悪魔大量発生事件を解決した事により、蒼の派閥は帝国聖王国双方に膨大な恩を売る事にも成功したとも書かれていた。こういった行動によって莫大な富を独占出来るのは事実だが、良識派のエクスがそれを止めようと腐心するのも無理からぬ話であろう。
机の上には、魅魔の宝玉にも劣らぬ危険な召喚具の資料が山積されていた。それらはいずれも、極秘扱いの資料であった。重要書類の数々を脇に片づけながら、ギブソンは言う。
「しかし妙なのは、奴らが何故それを直接用いないか、だ。 魅魔の宝玉の力をフル活用すれば、こんな小国すぐにも落とせる。 たかだかチンピラ同然の小さな犯罪組織の首領にそんな物を渡して、奴らは何を考えているんだ? この地方を制圧し、独立国家を作る気はないのか?」
「だーかーら、君は考え過ぎなんだってば!」
「ぶっ! げふっ、ごぶうっ!」
ギブソンの背中をミモザが叩き、哀れな男は咳き込んで机に突っ伏した。呆然とする蒼の刃隊員達の前で、ミモザは腰に手を当てて続ける。
「正しい推論は正確な情報から導き出されるもんよ。 だから、もっと情報を集めましょう。 結論はそれからでも良いはずよ。 私は街全体を探ってみるから、君はその犯罪組織のボス、何だっけ?」
「確か、バノッサという名前だ。 姓は不明……いや、持っていないのかもしれないな」
「そうそう、そのバノッサの身辺を洗ってみて。 君達は、私達の護衛。 勿論影からね」
「了解しました」
言い終えると、周りの反応を良しとして頷き、ミモザは数人を連れて隠れ家を出ていった。ギブソンは小さく嘆息すると、栄養剤の入った瓶を取りだし、中身を一息に飲み干した。そして周りの者達へ、確認するように言った。
「この男の、細かい経歴は分かるか?」
「はっ。 此方になります」
差し出された資料を受け取り、ギブソンはそれに念入りに目を通していった。そしてその中の一つに目を止めた。
「……ほう、宿敵がいるのだな。 名はヒグチ=アヤか。 珍しいな、姓が前になるのか」
「本来犯罪組織と戦うような者ではないのですが、幾度も刃を交え、その度にバノッサを撃退しているようです。 剣術、体術、召喚術の他、蒼い光を発して不思議な力を使うとか。 所属組織にはまず一流と言っていい使い手が集まっていて、騎士団を小競り合いで撃退した事もあるそうです」
「ふむ……なるほど。 しかしヒグチ等という召喚師の家系は聞いた事がないな。 となると……貴族の子弟か外道召喚師か?」
「分かりません。 しかし、かなり評判のいい人物で、庶民の間では、悪い噂は聞きません。 ただ、臆病で内向的な性格で、周りのサポートがないと何も出来ない者でもあるようです。 マーン家の者達は何度か個人的に痛い目に遭わされたとかで、特に次男のキムランは蛇蝎のように嫌っているようです」
召喚師の中には、金銭で召喚術を召喚師の家系に属さぬ(賤民)に教える者がいる。そうやって召喚術を身につけた者達は、蒼の派閥や金の派閥からは外道召喚師と呼ばれ、忌み嫌われる事が多い。ギブソンはそう言った偏見とは無縁だったが、興味を覚えたのは事実だった。
「詳しい資料は?」
「此方になります」
「……ほう、女性か。 まだ若いな」
似顔絵を見ると目を細め、ギブソンは席を立った。そしてミモザに言われた事を実行すべく、サイジェントの街へ歩き出していった。
1,それぞれのプライド
このところ、マーン家三兄弟の次男キムラン=マーンは、目立って不機嫌であった。元々粗暴な男だが、本来はさほど悪しき存在ではない。しかしながら、だからこそ故に、自分の感情を暴発させ、周囲にぶつける事が多い者でもあった。キムラン指揮する近衛兵団の兵士達は露骨に上司を避けるようになり、兵士達にもその空気は広がっていた。
無理もない話である。兵士達も、召喚師の権威が落ち続けている事は肌で感じているのだ。政策の失敗は極限に達し、街では繰り返し暴動が起きた。更に、この間イムラン=マーンが、ズタボロの無惨な姿になって街の中に逃げ込んできた。これらが重なり、召喚師に対する畏怖自体が薄れ続けているのだ。街の中ではマーン家三兄弟を退け続けた娘の事が噂になっているほどで、その話は兵士も皆知っていた。
そんな中、キムランは不機嫌だった。召喚師の権威が落ち続けている事が原因かと兵士達は考えていたが、それは違った。キムランが不機嫌な理由は、別の所にあったのである。原因は、即ち兄弟達の異変であった。
「どうしたんだ、一体。 兄貴も、カムランも」
キムランは呟く。カムランは少し前に体中に痣を作って帰ってきてから、イムランはこの間頬に痣を作って帰ってきてから、様子がおかしくなったのである。カムランはしばし何か考えていた後、不意に政治に関する書物を読み始めた。最近ではあろう事か資財を換金して、騎士団が行っている炊き出しを金銭面からバックアップしている。イムランは部下に手を回して、なにやら資料の整理とチェックを行っている。二人とも不意に忙しくなり、更に言うと生活態度自体が変化した。背はしっかり伸び、眼光は鋭くなり、言動もしっかりしてきた。兄弟の中で自分一人が変化に取り残されている気がして、キムランは苛立っていたのである。
元々キムランは悪人ではないのと同時に、さほど頭がよい人間ではない。頭脳労働は兄弟に任せっきりで、兄が言うとおりに暴れてきた。弟はそれを見て(華麗だ)と絶賛してくれた。単純な彼は、それで楽しかったし、満足だったのだ。だが最近のイムランは、彼に(暴れてこい)とは全く言わなくなってしまった。カムランも、暴れる彼を崇拝してくれなくなった。なんで兄弟達が変わってしまったのか、キムランは理解出来ず、イライラをますます募らせた。
そんな中、キムランはイムランに呼び出された。久しぶりに暴れられるかと思い、勇みだって出かけたキムランは、唖然とする話を聞かされた。
「兄貴、何の用事だ?」
「うむ。 ……実はな、近々サイジェントに大規模な政治的改革を行う」
「……は? 暴れるんじゃねえのか?」
「私は、民衆は力と畏怖で支配するべきだと考えてきた。 それは一面において正しかった。 だが、どうも今までのやり方は失敗だったようだ。 今までの方法では、民衆に疲弊と恐怖を強いるばかりで、却って効率が悪いのだとようやく理解出来た。 そこで、労働に関する法整備と、税制に関する法整備、更に貴族達に対する権限制限、軍、司法組織の根本的な改革を順番に行っていく。 お前にはそれを手伝って欲しい」
呆然とするキムランの前で、イムランは蕩々と喋り終えた。数十秒の虚脱の後、ようやく体勢を立て直したキムランが言う。
「ど、どうしちまったんだよ、兄貴!」
「……この間、アヤと言ったか、あの娘に殴られてから考えたのだ。 そして様々に資料を集めて検討してみた。 そうしたら、どうも今までのやり方が間違えていたらしいと結論する事が出来たんだよ。 私は金の派閥の学校で召喚師の優位性と民衆の愚鈍さを学んだが、どうもそれは机上論だったらしい。 あの娘と、一緒にいる平民共は、確かに有能だった。 ……そう、特にあの娘などは、私より遙かにな。 それで目が覚めた。 目が覚めてしまえば、結論はすぐに出たよ。 民衆を無視した政治などあり得ないのに、それを強行してきたから、街がこんな状態になってしまったのだ。 古今成功した政体は、いずれも民衆の事を考えたものばかりなのにな。 街の状態は壊滅的だが、今ならまだ間に合う。 だから改革を進める」
キムランはしばし硬直した。イムランの言う事が理解出来ずに、頭の中で必死に整理していたからである。やがて彼の脳味噌は、事実を追いつつも、極めて短絡的な結論を出していた。
「……あの小娘だな。 奴が、兄貴をおかしくしたんだな!」
「まあ、結果論から言えばそうだ」
「くそっ! あんなガキが、兄貴より有能なもんか! 俺が、それが間違いだって証明してきてやる!」
「やめておいた方が無難だ。 お前じゃ勝てんよ。 ……多分、我ら三兄弟が束になっても、勝てはしないだろうな」
イムランの言葉を聞き終えもせずに、キムランは部屋を飛び出した。そのまま鬼のような形相で、自宅へ走り帰った。早速彼は近衛兵団に招集をかけようとしたが、その途中で思いとどまった。近衛兵団の力を使って勝っても、兄の復権にならないと気付いたからだ。それにいかにキムランでも、そんな個人的理由で、軍を動かす事など出来ないのである。
悶々としていたキムランの元に、けたたましい音が聞こえ来た。面倒くさげに音源かと思われる庭に出た彼は、唖然とし、ついで怒りに震えた。
「お、お、お、俺の鉢植えが! 大事な鉢植えがっ! 誰の仕業だ、あぁんっ!?」
「も、申し訳ございません、キムラン様! 侵入者が暴れまして……」
吠え猛るキムランに、蒼白なメイドと、慌てた執事が頭を下げた。庭には足跡が無数に付いており、誰かが暴れたのは一目瞭然である。長大な愛刀を引っ張り出した彼は、血走った目を周囲に走らせる。今までたまりにたまった鬱憤が、怒りと言う形で炸裂したのである。
「何処に逃げたあっ!? ぶっ殺してやるから覚悟しろっ! あぁんっ!」
「つい先ほどの事なので、まだ遠くへは行っていないかと」
「そうかっ! 留守は任せたからなっ!」
巨体に似合わぬ身軽さで塀を乗り越え、キムランは屋敷を飛び出した。彼の視界に飛び込んできたのは、逃げる三つの影。一つは小柄で、今ひとつは頭に角が生えている。もう一つの後ろ姿は、彼には見覚えがあった。
「あ、あのアマぁっ! 兄貴達だけではなく、俺のウィンディちゃんにまで手を出しやがったなぁ! ゆるさん、許さねえぞ、あぁんっ!」
大事にしていたのに壊されてしまった鉢植えの名を叫ぶと、カムランは遠ざかる影をにらみつけた。そして口笛を吹く。口笛に反応して現れたのは、サビョーネルであった。サビョーネルは血走ったキムランの目を見ると、むしろ悲しげに言う。
「キムラン様、どうしましたか?」
「……俺の大事な鉢植えを、あのアマが壊していきやがったぁ! 兄貴達も、あいつのせいでおかしくなっちまった! もうゆるせねえ!」
「それで、私めに何をしろと?」
「決まってる! 一対一の決闘を申し込む! あのアマの居場所を探し出して、俺の挑戦を伝えてくるんだ! 一対一で正々堂々戦えば、マーン家の人間が彼奴なんかに負けるわけはねえんだ! それを奴に思い知らせ、兄貴とカムランの目を覚ましてやる!」
居丈高にキムランが吠える。ここで(殺してこい)とか、(社会的に抹殺しろ)とか言い出さない所が、彼の良点であり、良い意味での限界であろう。サビョーネルはしばし考え込んだ後、頷いた。
「分かりました。 ルールはどうしますか?」
「俺と奴とのタイマンだ! 召喚術ありの無制限一本勝負! 降参するか、気絶するかしたら終わりだ! そして俺が勝ったら! ウィンディちゃ……こほん、俺の植木を台無しにした償いに、屋敷で二ヶ月間下働きをさせてやるからなっ!」
体育会系そのものの思考法でキムランは言った。サビョーネルは頷くと、すぐに姿を消す。そして、一時間と時をおかず、了承の返答を受け取ってきたのである。
時は少しさかのぼる。アキュートの戦いが終わった事で、若干沈静化を見せ始めたフラット及びアキュートでは、幾度かの合同会議を経て、幾つかの事項が決定された。
まず、北スラムに対する監視の開始である。此方は三人一組を基本として、繁華街を中心に情報を収集する。これによって、異常な力を身につけたバノッサを監視し、いざというときは対応を即座に行う。此方はアキュートにも協力を仰ぎ、既に入れられていた。アキュートは協力者や人員を駆使して、繁華街を中心に調査を行う事も申し出ており、既に数日前から実行を始めていた。
続いて、街全体の監視をするチームも一つ編成する。此方はオプテュスに力を与えた者達の正体を探るためが一つ、総合的に町の様子を探るためが一つである。此方は二人一組で編成し、フラットのみで行う。これは南スラムや工場区の地理がフラット側にあるからである。
続けて、また寝ずの番を実行する事も決定された。これは召喚術を身につけたバノッサの戦闘力、更に街で動き始めた(得体が知れない連中)の事を考えると仕方がない話であった。
これらはいずれも手探り的な行動となったが、前回の戦いで捕縛したオプテュスの者達が役に立たなかった、いや何も知らなかったので、そうせざるを得なかったという事情もある。情況を聞こうにも、彼らは(得体が知れない連中)の数も正体も知らなかったのである。スタウトやラムダが多少脅しても結果は同じだった。
次に街全体の状況改善に対する働きかけだが、此方はアキュート、フラット共に、リシュールの提案で静観策に移行した。これはどういう訳かキムランを除くマーン家三兄弟が不意に勤勉かつ物わかりが良くなったからで、騎士や兵士の中にいるアキュート協力者が、小首を傾げながら良い情報を次々に持ち込んでいた。特に騎士団が貧民相手に行っている炊き出しのスポンサーをマーン家が、しかも(無能なボンボン)と嘲笑されていたカムランが積極的に買って出ているという情報は皆を驚かせた。その上イムランは、悪名高き税制や、地獄と同義語である労働条件にも変化をもたらそうとしているのである。権威と利権の上に胡座をかいて惰眠を貪っていた貴族や一部官僚は反発を示しているが、マーン家に逆らえる人間などサイジェントにはいない。勿論今後の展開次第では積極的に働きかけていく必要があるが、現時点でそれはない。アキュートの目的は柔軟に変化しつつあり、特に視野が広く知識豊富なリシュールが加入してからは、ヒステリックな極右思想が薄れつつある。革命が起こるのは基本的に何かしらの要因で住民の命に危険が及んだ場合であるから、その危機が薄れつつある以上、過激で近視眼的な思考も徐々に沈静化していくのは自然な流れであっただろう。
それに、リシュールの提案には、もう一つ裏があった。カシスの言葉により、オプテュスの危険性が皆に認識されたからである。正確には、異常な召喚術を身につけたバノッサの危険性である。もし危機が起きた場合対処するためにも、今は戦力を温存する必要があったのである。
本来今フラットやアキュートがしているような事は、サイジェントの警察機構がしなければならないのだが、そんな物は度重なる失策のせいでとうに力も権威も意欲さえも失っている。実に嘆かわしい話であるが、現実なのだから仕方がなかった。
最後に、フラットの人員と、アキュートの有志数名で、合同戦闘訓練を行う事も決まった。これは戦闘訓練と言うよりも、各員のスキル向上を目指した物で、図抜けた実力者であるラムダが、主にフラットの者達の訓練を見てくれる事になっていた。
そう言った事情で、綾は毎朝の日課である薪拾いと釣りを終えると、忙しい日々を過ごすようになっていた。バノッサと交戦してから五日が過ぎた現在、綾には街全体を監視する当番が回ってきていた。今日のパートナーはモナティであり、ガウムも同行していた。基本的にガウムは、何があってもモナティと離れる事はなかった。
南スラムを一通り回った後、三人は商店街へと移動した。リプレやガゼルを通じて出来た知人と一言二言かわし、軽く買い物などをして歩く。その間も綾はずっと周囲の気配を探っていたが、彼女をつけてきているような者はいなかった。ただ、気になる証言は時々得られた。いつも買い物をしている、商店街の八百屋のおばちゃんは世間話に混ぜながら言った。
「ああ、そうだ。 アヤちゃん、気をつけた方がいいわよ」
「はい、どうしてでしょうか?」
「何か最近、怪しい連中が彷徨いてるって話だから。 領主様は頼りにならないし、物騒な事件は起こるし。 それにね、これは秘密なんだけど、アヤちゃんの事調べてた奴がいたんですってよ。 もう、有名人はつらいわね」
苦笑いしながら話を聞いていた綾は、頃合をはかって欠伸をしているモナティの袖を引っ張り、その場を後にした。かってだったら、日が暮れるまで無駄話につきあわされていた事は疑いなかっただろう。自信によって意志力を強め始めていた綾は、自然にこういう情況を乗り切れるようになっていた。
他にも何人かと軽く世間話をし、市民公園へ何の気無しに歩きつつ、綾は思考を巡らせた。手をつないで歩いているモナティが、時々不思議そうに綾の顔を見上げる。
『……スタウトさんや、アキュートの人達も少し前までは私の情報を探っていたわけですから、それもあるのでしょうけど。 気になりますね。 正しい判断を導き出すためにも、もう少し情報が欲しい所です』
「マスター」
「……え? どうかしましたか?」
「あれ……」
モナティに釣られて綾が振り向くと、そこには露骨に挙動不審の人物がいた。体型的には女の子だが、フードを目深にかぶって個性を消し、辺りをこわごわ探りつつ歩いている。もし諜報を行っているとしたら、素人以下の技量である。全身から怪しさを発散しているその不審者は、無言で歩み寄る綾にも気付かなかった。綾がすぐ後ろで咳払いすると、不審者は雷でも落ちたかのように驚き、悲鳴を上げ転んで地面に延びてしまった。そのあまりに情けない反応に、むしろ綾の方が驚いたほどである。
「きゃ、きゃああっ!」
「えっ!? あ、あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわよ、この下等生物! 怪我でもしたらどうするつもりよっ!」
「か、下等生物!?」
今までにない種類の罵声を浴びて呆然とする綾の前で、不審者は悪びれもなく振り返った。至近から顔を合わせてみると、目鼻立ちの整ったそれなりの美少女である。ただし、目つきは剣呑で、愛嬌は全くない。そしてその耳の上からは、山羊のように丸く曲がった角が生えていた。両手で口を押さえる綾、慌ててフードを押さえる不審者。
「貴方、一体……」
「しまった……! つ、つかまってたまるもんですかっ! 食らえっ!」
次の瞬間、不審者の両目が薄緑の光を放ち、それをまともに見てしまった綾は身動き出来なくなった。表現ではなく、本当に指一本動かせなくなったのである。硬直が解けたのは丁度十秒後。硬直から開放された綾は、地面にへたり込み、激しく咳き込んだ。肺が酸素を要求し、貪欲にそれを取り込む。ようやく喋れるようになったのは、一分近く経過して後の事であった。
「こ、こほっ! ごほっ! い、今のは、一体何でしょうか!?」
「魔眼ですの」
「魔眼……?」
「モナティの世界メイトルパの、メトラル族が持っている力ですの。 目から光を発して、獲物や敵を少しの間だけ動けなくするんですの」
まだ少ししびれが残る体でゆっくり立ち上がりながら、綾は頭を振った。モナティは無言のまま、その背中をさすった。
『今の子、早さや力自体は、今のを見た限りさほどではありませんが、(魔眼)は厄介ですね。 戦いの時に受けてしまったら、ひとたまりもありません。 もしもの時は注意しないと……』
「マスター、あの、お願いがありますの」
「? どうしたんですか?」
「あのメトラルさんを、追いかけて欲しいんですの。 凄く、寂しそうな目をしてましたの。 きっと、とても悲しい思いをしてますの」
モナティの話によると、あのメトラルの匂いは初めて嗅ぐものだそうで、となるとこの街に来たのはごく最近だと言う事になる。また、あの世慣れしていない言動と言い、下手をするとつい最近召喚された可能性すらある。つい最近召喚されてああいう行動を取っていると言う事は、即ち召喚主が死んだか、その元から逃げ出したか、或いは捨てられた可能性が非常に高いと言えよう。モナティが(寂しそうだ)と評したのも、あながち的はずれではなかった事になる。いきなり知りもしない場所に呼び出された上に、一人っきりで放り出されたりしたら、必死さ故に奇行を行ってしまうのも無理はないといえただろう。
匂い自体が珍しい物の上、同じメイトルパ出身者と言う事もあり、モナティの鼻を使えば追跡は容易だった。追跡事態は容易だったのだが、しかしながらその過程が大変であった。メトラルの娘は、昼間から警備兵が彷徨く上流階級区へ足を踏み入れたのである。この辺りはガゼルが詳しいが、それでも堂々と忍び込むような真似はしない。はらはらする綾とモナティを置き去りに、メトラルの娘は堂々と道の真ん中を歩き、最も大きな屋敷、即ちマーン家の屋敷の前に立った。そしておもむろに頷くと、堂々とそこへ乗り込もうとしたのである。流石に絶句した綾は、さっさと間を詰め、その腕を掴んだ。一瞬体を引きつらせたメトラルの娘は、抗議の声を上げたが、素早く綾が羽交い締めにしてその口を塞ぐ。
「ちょ、なにするのよっ! もがっ! んーんー!」
警備兵がいつ出てくるかも分からないから、それに応えず、綾は物陰にメトラルの娘を引きずり込んだ。そして辺りの安全を確認してから、口を塞いでいた手を放した。モナティの万力じみた力に比べると、この娘の力はさほどでもなく、綾でも充分に押さえる事が出来た。怖いだろうに、明らかに無理に強がって、メトラルの娘は叫んだ。
「ちょっと、何するのよ! 下等動物!」
「此処は危険です。 それにあの屋敷に正面から乗り込んだりしたら、何をされるか分かりません」
「フンッ! 下等な原住民如きにこのエルカ様が捕まるもんですか!」
「ふふ、今その「下等な原住民」に、捕まっているじゃないですか。 それに、ずっと追跡していた私達に気付いていましたか?」
綾の言葉に揶揄するような響きはなく、エルカと名乗ったメトラルの娘は黙り込んだ。そのまま綾はまた辺りをうかがい、誰もいない事を再確認すると、声を落とすように頼んだが、エルカは聞かなかった。はらはらする綾を前に、エルカは高圧的な口調でまくし立てる。
「なんで悪い事してないエルカが、こそこそしなきゃいけないのよ!」
「他人の屋敷に忍び込もうとするのを見て、(悪い事ではない)と思う人なんていません」
「この誇り高きメトラル族長第一姫エルカに、入ってもらえる名誉なんて、滅多にないわよ。 むしろ感謝して貰いたいほどだわ」
「ここはメイトルパではありません。 貴方の権威を、見てすぐに分かる人なんて、いないんです」
綾の論理的で理性的な言葉に、エルカは二の句を告げずに黙り込んだ。心配げに二人を見るモナティの前で、綾は務めて優しい口調で言った。
「危ない事だって言うのは、貴方だって分かっているはずです。 どうして屋敷に忍び込もうと何てするんですか?」
「あんたの知った事じゃないわよ!」
「ひょっとして、故郷に帰りたいんですか?」
「……!」
『やはり、そうでしたか。 ……可哀想に、この様子だと、余程急に召喚師の元を離れたんですね。 召喚師がお金持ちだと言う事を調べ上げ、この家を探り当てたと言う事だけでも、むしろ大健闘と言う所でしょうか』
拳を固めてわなわなと震えるエルカ、それを困惑しながら見守るモナティ。やがて、暴発したエルカは、目に涙をためて叫んだ。
「ほ、放っておいてよ! エルカはこんな世界から、こんな怖い所から、一秒でも早くおさらばするんだからっ! うちに、メイトルパに帰るんだからっ!」
「待って、話を……」
「どけえっ!」
再び発動する魔眼の能力、とっさに綾は立ちすくんだモナティを庇い、背中からそれを受けた。先ほどより効果は薄かったものの、全身を虚脱感が襲い、再び身動きが取れなくなる。
「ま、マスター!」
「くっ……大丈夫……!」
痺れる体を無理矢理駆り立て、振り向いた綾の視界に映ったのは、塀を軽々飛び越えて、キムランの屋敷に飛び込むエルカの姿だった。どうも素早さやパワー自体はどうと言う事もなくても、身軽さだけは超一級のようである。或いは実戦経験がないため、他の能力は磨かれていないだけなのかも知れない。今までの言動からして、あの娘がメイトルパにおける支配者階級である可能性は非常に高いから、無理のない話であろう。実際に役立つ技能を身につけている支配者階級など、滅多にいるものではないのだ。
元々事態は悪化の一途を辿っていたが、致命的なエルカの短絡的行為が、それを更に悪化させた。何かが壊れる音、人が沢山出てくる音、吃驚したエルカが塀を飛び越えて逃げ出してくる姿。無言のまま右往左往するエルカの手を引いて、綾は駆けだした。兎に角南スラムに逃げ込まないと、命自体が危ない。人間だって何をされるか分からない情況である、はぐれ召喚獣であるエルカが捕まりでもしたら、その先の運命は考える事すらも恐ろしかった。
「何処に逃げたあっ!? ぶっ殺してやるから覚悟しろっ! あぁんっ!」
ドスの利いたキムランの叫び声が、綾の耳に届いた。困惑し恐怖するエルカの感情が、震えという形で、雄弁に彼女の手に伝わってくる。綾は唇を噛み、そのまま走った。そして、何とかアジトにたどり着く事が出来たのである。警備兵達は南スラムに入った時点で追跡を諦め、引き返していった。
アジトに戻った綾は、事情を説明し、エルカを皆に紹介した。安全な所に来たと肌で感じ取ったらしいエルカはまた尊大な態度に戻り、傍若無人な言動でガゼルを憤慨させた。しかし、最近目立って落ち着きを有してきたガゼルは、感情を抑える事に成功し、情報を整理して言った。
「要はいきなり召喚されてパニックになっちまって、話を聞かずに召喚師をコテンパンに伸して逃げてきちまった、って訳か。 で、召喚師を探して、マーン家に忍び込もうとしたと。 馬鹿なんだか利口なんだかわからねえ奴だな」
「うむ。 まあ本当に驚いたんだろうな。 無理もない話だ」
エドスが同情して言い、ガゼルは忌々しげにそれに応じる。
「にしても、また厄介を抱えこんじまったぜ。 よりによって、この大変な時期に」
「ご、ごめんなさい……」
即座に頭を下げる綾に、ガゼルは視線も向けずに手を振った。この場にいる誰もが、彼女のせいではないと知っていたからである。
「お前のせいじゃないっての。 辛気くさくなるからいちいち謝るんじゃねえよ。 で、彼奴はどうしてるんだ?」
「今、第二子供部屋でモナティと一緒にいます。 流石に、ショックだったみたいで」
「そりゃあ、そうだろうな。 ワシだって、同じ情況になったら、平静を保てる自信がない。 お前さんだって、最初に此処に来たときは、借りてきたネコみたいだったからな」
綾はエドスの言葉を聞いて俯いた。先ほど彼女は様子を見に行ったのだが、エルカは(召喚術を使った者以外、召喚獣を故郷に戻せない)という事情を知ってパニックになり、モナティ相手に当たり散らした後、押し殺した泣き声を上げてベットに突っ伏していたのである。その痛々しい姿を見て、綾は胸を痛めていた。その辺の事情を察してはいつつも、情況を進めるため、あえてガゼルは言う。
「で、今後どうするんだ?」
「もしあの子が良ければ、メイトルパに帰る方法が見つかるまで、うちで世話をしてあげられませんでしょうか。 問題はキムランさんが復讐に来ないかと言う事ですが」
「その件でお話がありますが、よろしいでしょうか」
不意にその場に第三者の声が入り込んだ。慌ててナイフを手にするガゼルと、立ち上がって構えを取るエドスと綾。彼らの前に姿を現した召喚獣を見て、綾が口を両手で押さえた。
「サビョーネルさん」
「お久しぶりです、アヤ様」
「し、知り合いか?」
「マーン家の人達を護っている大天使さんです。 以前カムランさんと交戦したとき、お世話になりました」
そう言って、サビョーネルは丁寧な礼をし、綾もそれに答えた。しばし流れる和やかな雰囲気。それをガゼルが、咳払いしてうち払う。
「うぉほん。 で、何のようだよ」
「実はその件で、キムラン様がアヤ様に、決闘を申し込んでおります。 ルールは一対一の勝負で、召喚術あり時間無制限一本勝負、気絶するか降参すれば負け。 もしキムラン様が勝ったら、手下を使ってウィンディちゃんを酷い目に遭わせた償いに、二ヶ月間屋敷で下働きをさせるそうです」
「あのエルカってガキ、人に怪我までさせたのか? 良くわからねえが、ウィンディってのはキムランの女か何かか? だとしたら、悪かったな」
「いえ、大事になさっている鉢植えです。 それに致命傷ではありませんでしたので、今頃メイド達が新しい鉢に移して処置をしていると思います」
その場にいたサビョーネル以外の全員が同時に吹き出した。エドスは豪快に笑い出し、ガゼルは部屋の隅にダッシュで移動して、そこで蹲って震え始める。途中から話を聞いていたリプレは、机に突っ伏し、肩を震わせ始めた。後から大きな気配に気付いて部屋に入ってきたレイドは、静かに苦笑していた。思考停止した綾は、ようやくそれを定位置に戻すと、笑顔でサビョーネルに応える。
「結構、可愛い趣味があるんですね、キムランさん」
「本当はお優しい方なのです。 だからこそ、アヤ様には決闘を受けて頂きたいのです」
「……?」
「実は、イムラン様もカムラン様も、アヤ様に鉄拳での制裁を受けてから、目に見えて変わる事が出来ました。 (平民は無能だ)(我らは優秀だ)という考えを、貴方の力を見、敗北する事で捨て去る事が出来たのです。 それからはきちんと自身の義務と責務を理解し、二人とも見違えるように立派になりました。 キムラン様にも変わって頂ければ、目付役としてはこれ以上嬉しい事はありません」
無言のまま綾は考え込んでいたが、やがて頷く。話し合いで解決出来れば言う事はないのだが、もし適度な暴力がそれ以上の効果を示すというのなら、仕方のない話だった。
「分かりました。 ……決闘をしてもよろしいでしょうか?」
「確認取るまでもねえよ。 命のやりとりするわけでもねえし、ただ気だけはつけてな」
「そうだな、事情が事情だから構わないだろう。 ただし、無理はしないようにな。 キムランはそれなりの使い手だ。 侮ると痛い目に遭うぞ」
「はい、気をつけます」
皆に確認を取ると、綾はサビョーネルに振り返り、表情を改めた。
「では、私は依存ありません。 もし私が勝ったら二度とエルカさんに手を出さない事を約束して貰います。 場所は市民公園、時刻は今日夜半で。 ……それと、鉢植えは大丈夫だったか、私が心配していたとも伝えてくださると嬉しいです」
「了解しました。 ……有り難うございます、無理難題を聞いて頂いて」
再び礼をすると、サビョーネルはかき消すようにいなくなった。小さく上品に手を振ってそれを見送ると、綾は笑い始めた。やはり彼女にも、キムランの趣味はおかしかったのである。ただし彼女の場合、プラスの方向での笑いであった。
2,知る事、変わる事
深夜の市民公園では、約束通りキムランが待っていた。傍らに控えているのはサビョーネルだけである。綾の感覚は最近ますます鋭くなり、気配探知能力に覚醒した当初は半径十メートルほどの範囲まで探査できたが、現在は半径十五メートルまでその力を拡大していた。その鋭い探査能力を持ってしても、隠れている不逞の輩は見つからなかった。綾の傍らには、ガゼルとジンガがいた。二人は見届け人であり、寝ずの番の当番ではなかったため、万が一を考えて着いてきたのである。二人はキムランの供がサビョーネルだけである事を確認すると、一歩下がった。綾はキムランが(仁義)を護った事に感心し、キムランとの距離を安心して詰めた。
キムランは無言だったが、やがて大振りの刀を引き抜いた。そして目に爛々たる怒りを湛え、切っ先を綾に向ける。
「……さあて、今日は真っ向勝負だ。 きたねえ手なんぞ使えねえからな! 覚悟しやがれ、あぁんっ!?」
「キムランさん、どうしてそんなに怒っているんですか?」
「決まってるだろうが! てめえにやられてから兄貴もカムランもおかしくなっちまった! 兄貴なんかなあ、お前が有能だとかほざいてやがったんだ! 平民如きより、召喚師の家系に産まれた俺達が劣る訳なんてねえんだ! てめえをぶちのめし、兄貴の目を覚まさせてやるっ!」
サビョーネルが頭を振り、綾も心の中に悲しみを覚えた。過剰なプライドが、現実感を喪失させる、その実例を目にしたからである。バノッサと似たような事を言うキムランに、切なさを覚えたと言う事もあった。キムランは明らかに体育会系の思考方法をする男だから、負けを認めさせるには、方法は一つしかない。相手の力を受けきり、その後に撃破する事である。
サモナイトソードを鞘から開放し、綾は下段に構えた。月の光を反射し、名刀が輝く。舌なめずりすると、吠え声を上げ、キムランが躍りかかった。
キムランの剣は、兎に角パワーに重きを置いた剛の剣であった。元々キムランは召喚師よりも、一戦士に向いている人間である。人より優れた力と体格を利し、上から振り下ろすような剣が、幾度も綾を襲った。しかしそれは、彼女の髪の毛一本傷つける事は出来なかった。綾は巧妙に立ち位置をずらし、或いはサモナイトソードで的確にはじき返し、全く刃をその身に寄せ付けなかった。響く剣撃の音は以外に小さく、また少ない。
「……勝負にならねえな」
ぼそりとガゼルが呟いた。中距離戦専門とは言え、度重なる実戦で鍛えられ、最近はラムダの実力を何度も目にした彼は、相手の力量を的確にはかれるようになっていた。彼には、綾がキムランをあしらっている様子が手に取るように見えていたのである。決してキムランは弱くなかったが、相手が悪すぎた。パワーはまだアヤより若干上だったが、スピードと技量はまるで大人と子供のレベル差だった。キムランはラムダと同じタイプのパワー型戦士だったが、ラムダと比べるとその技量はまさしく天と地ほどの開きがあったのである。
「ガゼル兄さん、アネゴ、ますます強くなってるな」
ジンガの言葉にガゼルは無言で頷いた。二人の前で、キムランは徐々に乱れ始め、額にも汗が浮かび始めていた。呼吸も乱れ、忌々しそうに何度も頭を振る。対し綾は、殆ど汗もかいておらず、平然と構えている。これは要するに、キムランが綾の数倍以上も体力を無駄に消費し続けているからである。元々体力そのものは、キムランの方が圧倒的に勝っているのに、この体たらくだった。キムランは汗を拭うとバックステップし、印を切った。
「誓約においてキムラン=マーンが命ずる! 俺の身を守れ、アーマーチャンプ!」
「……」
キムランの頭上に、防御シールドを展開する盾の形をした召喚獣が浮き上がる。以前の戦いでも、キムランが使用した召喚獣である。目に切実な焦りを浮かばせ、キムランは吠えた。強がっているのが見え見えだった。
「くはははははは、はあ、はあっ! どうだ、これならもう、俺にてめえの剣は届かねえぞ!」
「……誓約において、樋口綾が命ずる。 我が敵に怒りの雷を放て、ガフォンツェア」
綾の頭上に現れたのはガフォンツェア。アーマーチャンプと同じ、ロレイラル系召喚獣である。かぶと虫に似たその側面が開き、小型ミサイルが上方へ射出された。全部で十発放たれたミサイルは、空中で角度を変え、呆然とするキムランに襲いかかった。アーマーチャンプのシールドでは、残念ながらそれを防ぎきれなかった。危険を本能的に察したキムランは逃げようとしたが、ミサイルは尽く至近距離に着弾した。轟く音、響き渡る悲鳴。濛々たる煙が収まった後、キムランは何とか立っていたが、すでにアーマーチャンプは、ロレイラルに帰還していた。シールドへのダメージが大きすぎたからである。無言のままの綾は、流石に大業を使った直後であったから額の汗を拭ったが、まだまだ余裕があるのが誰の目にも明かである。しかしキムランは、それでもまだ諦めなかった。そのまま大上段に構え、突貫する。自暴自棄の光を目に宿し、キムランは吠える。
「お、おおおおおっ! まだだ、まだ負けてねえぞっ! 食らええええええっ!」
その時、初めて綾が能動的に動いた。キムランの倍以上の速度で一気に間を詰めると、交錯の瞬間、袈裟懸けにサモナイトソードを走らせたのである。峰打ちであったが、破壊力は充分だった。響いた音は意外にも小さかった。無駄のない、芸術的な一撃故に、却って音はなかったのである。もろにそれを喰らったキムランは、それでも数秒立っていた。
「……あ……が……!」
「ごめんなさい。 でも、負けるわけには行かないんです」
「……」
白目を剥いたキムランが、地響きと共に、前のめりに倒れた。そして、サモナイトソードを乾いた音と共に鞘へ収めた綾の前に、意外な人物が現れた。
「ぐ……おお……」
「おや、兄さん、目をさましましたか?」
「? カム……ラン?」
「こっぴどくやられましたね。 兄さん」
キムランは弟の声を聞き、ゆっくり目を開けた。彼が半身を起こして辺りを見回すと、そこは私室であった。そしてカムランと、サビョーネルが控えていた。キムランはそれを確認すると、うなだれた。
「負けちまったよ、完璧にな」
「私も負けました。 でも、それで良かったんですよ」
「どういう意味だ?」
「これから、南スラムに出かけてみましょう。 兄さん、変装してくれますか?」
いぶかしみながら、言われるままキムランは庶民の服装へ着替えた。同じように平民に偽装した信頼出来る護衛数名と共に、二人は町へ出た。騎士団が行っている炊き出しの煙、貧しい者達が群がる様が、やがて見えてきた。貧しい者の中には女子供も多く、例外なく汚い身なりをしていた。キムランは汚いとか臭いとか言いそうになったが、カムランに制止されて押し黙った。
騎士団の者は当然二人を知っていたから、少し警戒気味に敬礼した。カムランは隊長に直接会い、配布する食糧の貯蔵量を聞くと、今後の支援を約束した。不安げに辺りを見回すキムラン。貧しい子供達は騎士団に礼を言い、旺盛な食欲で食べ物を平らげ、帰っていく。食料だけではなく、毛布やミルクを要求する者もいて、騎士団は快く応じていた。
「……な、なあカムラン」
「何ですか?」
「お前、汚いのとか臭いのとか、嫌いだったじゃないか。 どういう心境の変化だ?」
「……アヤという娘に殴られてから、私なりに色々調べてみたんです。 そうしたら、今まで私がしていた事や、それによって何が起きてきたかわかり始めたんですよ。 ……確かに今の子供達は華麗じゃありません。 しかし華麗じゃなくしてしまったのは、私たちなんです」
黙り込んだキムランを促して、カムランは屋敷へ戻り始めた。その途上で、更に続ける。
「……要は私達は、何も知らなかったんです」
「あぁん? 何言ってやがる」
「知らなかったんですよ、自分たちが持っている力の意味も、その使い方も。 街にいる人達の生活も、彼らの心も。 イムラン兄さんでさえ、ね」
「……」
キムランは拳を固め、忌々しげに壁を殴りつけた。そして、押し殺した息を吐き出す。
「良くわからねえが、あのガキがつええって事だけは認めてやる。 最後の袈裟、あれは凄まじかった。 いずれ俺も、あんなすげえ一撃を繰り出してみせる」
「それで良いんですよ。 ……少しずつ変わっていきましょう、兄さん。 強くなれないかもしれませんが、事実を知れば選択肢は増えるはずですから」
「言うようになったじゃねえか、あぁん?」
キムランは笑顔のまま、カムランの頭を脇に挟み、拳を押しつけた。久しぶりにキムランの顔に、素の笑顔が戻った。凶暴ではあったが、単純で、故に純粋な笑みが。
愚劣な事で知られたマーン家三兄弟が変わったのは事実であったが、彼らが実際に大規模な改革に着手するのは、少し後の事である。
決闘を終えた翌朝、綾が目を覚ましたのは、けたたましいノック音によってだった。目をこすりながら彼女が戸を開けると、そこにはエルカが立っていた。頭上にクエッションマークを浮かべる綾に、エルカは何の断りもなく部屋にはいると、少し俯き加減で言った。
「……あの、ありがとうね」
「ええと、どういう事ですか?」
「あのレビットに聞いたのよ。 ……あんたがエルカと同じって事も、エルカのために巨人みたいな大男と戦ってくれたって事も。 メトラルの族長第一姫の名にかけて、忘恩は許されない事だから。 だから、礼を言いに来たのよ」
顔を紅くして、嫌々ながらを装いつつ言うエルカは、年以上に幼く見えた。そのまま気まずそうにしているエルカに、綾は笑顔のまま言った。
「エルカさん、もしよろしければ、しばらく此処にとどまりませんか?」
「えっ……いいの?」
「私も、モナティもそうですし、同じ立場の人間が此処にはいます。 それに召喚師であるカシスも。 私と一緒に、帰る方法を探しましょう」
「……しょ、しょうがないわね。 そこまで言うなら、この原住民の汚い家に暫くいてあげる。 あ、あんたが頼んだからいてあげるんだからね。 勘違いしないでよ!」
そのままぱたぱたとエルカは綾の部屋を出ていった。笑顔のまま綾はそれを見送ったが、パジャマのままであったこと、髪も整える前であった事に気付いた。ある程度集団生活をしているのだから仕方がないが、急に気恥ずかしさを覚えて、小さくため息をついた。要は情況に慣れた結果、悪い方向へ変わったしまった気がしたのである。無言のまま綾はいつもより念入りに身支度を整える。悪い方向に変わってしまった事に気付けば、いくらでも修正ははかれるはずだった。
3,蒼の派閥
エルカは案の定、モナティ以上にとけ込むまで時間がかかった。食事はモナティ同様生きた動物しか受け付けなかったし、しかも一度に兎一匹を丸ごと頭から平らげた。また、言動は傍若無人で、しかも性格はきつく、典型的な子供だった。即ち、自分より弱い人間に侮蔑を覚えるタイプである。その上基本的に綾の言う事しか聞かなかったので、小さな摩擦が絶えなかった。それでも数日間をかけてじっくり皆になれていき、少しずつ会話をするようになっていた。綾の側にいる時間が、圧倒的に多いのも事実だったが。
気配探知能力をも駆使して、綾が魚を釣り上げる。最近は餌に魚が食いつく瞬間が、勘ではなく着実な気配探知によって分かるようになっていた。その隣では、エルカが膝を抱えて座り込んで、様子を見守っていた。(着いてきたかったから)と言う理由で、ここ数日彼女は毎日のように綾の釣りを見学していた。モナティが嫉妬するかと最初綾は心配したが、意外に大人であるモナティは、エルカの行為に不満を漏らす事はなかった。ただし、流石に胸の内で何を考えているかは分からない。
五匹目の魚がかかり、手慣れた動作で綾がつり上げた。同時に鋭く尖った小石が飛来する。無言のまま綾は左手を釣り竿から放し、小石を柔らかく受け止めた。振り向くと、案の定カシスがいて、笑顔のまま小さく手を叩いていた。
「流石。 結構本気で投げたのに、もう喰らわないね」
「ええ、カシスのお陰です」
「……ありがと。 早速だけど、進展があったみたいだよ。 きりがいい所でアキュートのアジトに行ってくれる?」
魚籠をモナティに渡すと、綾はアキュートのアジトに向かった。モナティはきちんと言われたとおりアジトに帰ったのだが、エルカは着いていくとだだをこねた。
「エルカは、エルカが行きたい所に行くの!」
「でも、エルカさんにはとても退屈ですよ? 難しいお話をするわけですし」
「難しいかどうか何て、聞いてみないと分からないでしょ?」
そこまで言いきったのに、所詮子供は子供であった。アジトについて、二三細かい話をし始めると、エルカは見る間に瞼を落とし、そのまま眠りについてしまったのである。綾は平身低頭して謝り、自分で借りたベットにエルカをおいてくると、居心地悪そうに席に戻った。
現在、アキュートのアジトである酒場の隠し部屋には、アキュートの幹部と、レイド、ガゼル、綾、それにカシスが集まっていた。他の者は規定通り見回りに行ったり、警戒に当たっている。ローカスのように、和解した後も出来ればアキュートのアジトには入りたがらない者もいた。彼にしてみれば、結果的にアキュートは自分を利用した相手であり、気持ちを整理するには時間がかかる事なのである。また、会議嫌いのジンガやアカネは、会議と聞いた途端にパスと即答した。
綾が席に戻ると、リシュールが茶のカップを持ち上げ、中身をかき混ぜた。そして平常のまま、辛らつな言葉を吐く。
「しかしまあ、メイトルパもこの世界と大差ないみたいだな」
「ごめんなさい、でも悪い子では無いんです」
「ま、子供はきちんとしつけるこったね。 難しいのは分かってるけど」
「せ、先生、どうして俺を見るんだよっ!」
「べーつーにー」
流石はリシュール、ガゼルの扱い方を完璧に心得ている。笑顔でガゼルの背中を軽く叩くと、リシュールは不意に真剣な表情に入り、幾つかの資料を並べた。
「冗談はさておき、本題に入ろう。 今サイジェントには、今までこの街にはいなかった勢力が入り込んでいる。 それについて、調べてみた。 そして、興味深い事が分かった」
「興味深い事?」
「どうも、入り込んだ勢力は二種類いるようだ。 両者は激しい暗闘を繰り返していて、現在北スラムは非常に危険な情況になっている。 そして双方共に、我々と、君らと、両方に調査の触手を伸ばしているらしい」
「……なるほど」
レイドが頷き、リシュールは一旦言葉を切った。綾が感じた監視の視線は、やはり杞憂ではなかったのである。リシュールに変わって口を開いたのは、スタウトだった。
「……で、入り込んだ一方については身元が割れた。 連中は、(蒼の刃)だ」
「なんですか、それは?」
「裏の業界で最も恐れられてる連中の一つだ。 召喚師達の組合、(蒼の派閥)の中で、汚い仕事を一手に引き受けてる奴ららしい。 かなりの凄腕揃いで、今回も入り込んでごく短期間で俺らや街の情報を尽く集めちまったらしいな」
「蒼? 金じゃないのか? 何が違うんだ?」
小首を傾げたガゼルの疑問に、カシスが応える。
「どっちも大差ないよ。 基本的に金の派閥ってのは、召喚術で直接金銭や名誉や地位を得ようって連中の集まり。 この街の召喚師達も金の派閥の一員だね☆ これに対して、蒼の派閥は、表面上は学術研究を行うための派閥だけど、裏では軍事研究をして、それで国から金を搾り上げてる連中なの。 蒼の刃はその手兵として、各国の紛争を裏から煽ったりもしているんだよ」
「……何かお前を前に悪いんだけど、召喚師を一生好きになれそうもないぜ、俺は」
「ガゼル、気持ちは分かるけど、そいつらがやらなければ別の誰かがその利権に食い込むだけなんだ。 嫌ったり否定するだけでは意味がない。 要はどうすればいいか、みんなで考えていくのがもっと大事なんだ」
「耳が痛いな」
諭すようなリシュールの言葉は、何もガゼルだけに向けられたものではなかった。特にラムダの言葉は、皆の気持ちを代弁した物だと言えただろう。だが別にたいしたことを言ったわけでもないと言った表情で、リシュールは続きをスタウトに促した。
「……で、バノッサのバックにいる連中なんだが、蒼の刃じゃねえ。 それどころか、蒼の刃の精鋭諜報員を、もう何人も殺ってるらしい。 此奴らについては、まだ調査中だが、本格的に調べるとなるとまず間違いなく死人が沢山出るぜ。 俺自身は連中に引けをとらねえ自信がある。 でも、他の奴らは違うからな」
「ふむ、どうした物かな。 アヤ、君はどう思う?」
「敵の敵は味方、とは行きませんが、そうなると蒼の刃と共同戦線を取った方が良さそうですね」
「……説明してくれ」
即答したアヤに、(俺は嫌だぞ)と顔に書きつつガゼルが言う。だが同時に、それは(理由があるなら納得する)と言う無言の意思表示でもあった。
「あ、はい。 バノッサさんと私達が敵対している以上、そのバックにいる人達とも争う事になる可能性が非常に高いと思われます。 である以上、同盟ではないにしろ共同戦線を張って、情報を得る必要があると思います」
「ただ、気をつけないと連中の盾にされて、良いように使われる可能性がある。 ある意味、敵以上に気を抜けないよ」
「はい。 しかしバノッサさんの実力が死の沼地で見た程度では無いとなると、正直手段を選んではいられないとも思えます」
「まあ、そう考えるのが妥当だろうね」
あっさり納得した事から言っても、リシュールは最初から綾と同じ結論を出していた可能性が高かった。しかし、それは違った。綾の結論に、レイドもガゼルもカシスも賛意を示したのを見て、髪の毛をかき回すと、リシュールは苦笑したのである。
「いやいや、そう結論出してくれて良かったよ。 実はね、もう連中、我々にアクセスしてきたんだ」
「何っ!?」
「成る程、それで急に私達を呼んだんですね。 それに情報源についても、今ので納得がいきました」
「ああ。 何分話が急だったものでね。 連中と組むのを君達が断ったら、話がこじれる所だった。 ミモザ女史、どうぞ」
してやられた事に気付いたガゼルが憮然とする中、隠し戸を開け入ってきたのは、眼鏡を掛けたショートカットの女性だった。目の奥には知的な光があるのだが、兎に角動きやすい事だけを重視している服装と言い、実用一点張りの飾りっ気のない靴と言い、(実直)を通り越して粗野な印象さえ周囲に与える。ただそれが致命的にならないのは、元々の容姿がよいのと、服装が実用一点張りでも高級で清潔な点にあっただろう。簡単にリシュールが彼女を皆に紹介すると、勧められてもいないのに席に着き、クリームも砂糖も非常に大雑把な分量ぶち込んで茶を飲んだ。数分で、皆が彼女の事を悟り始めた。要は、粗野ではなくがさつなのだと。鯨が如く数杯の茶を飲み終えると、忘れていたように女性は自己紹介した。いや、事実本当に忘れていた可能性も極めて高いだろう。
「ミモザ=ロランジュよ。 よろしくね」
「……それで、早速なんだけど、情況をもう少し詳しく聞かせてくれる?」
「うーん、まず貴方達の実力を見せて欲しいかな」
「おい、どういう事だよ」
露骨に不審を湛えたガゼルに、涼しい顔で新しい茶をセシルに注文しながら、ミモザは言った。
「分かってると思うけど、敵は途轍もなく強力よ。 君達が信頼するに、いや同盟するに値する実力を持っているならともかく、そうでなければ機密情報なんて明かせないわ」
『まあ、正しい判断だとは思いますけど……』
「そこの君」
「えっ? 私ですか?」
ある意味カシス以上に遠慮がないミモザの言葉に苦笑した綾は、一瞬後に指名されて驚いた。だが、知ってか知らずか、ミモザはお構いなしの様子で言った。
「実はね、私の相棒が今、北スラムをかなり直接的に探ってるの」
「そんな……」
「ええ、かなり危ないわね。 モチのロン護衛はつけてるけど、連中の襲撃を受ける可能性が非常に高いわ。 で、相棒を君達も影から護衛して欲しいの。 多分今までの様子からして、一両日中に襲撃される可能性が高いわ。 その時の戦いぶりで、私も判断させて貰うわね。 そっちの僕も一緒に行ってちょうだい」
かくして綾は、(相棒)とやらの似顔絵を渡され、ガゼルと共に繁華街にいた。何でも(テスト)にはその似顔絵と特徴だけで(相棒)を探し出すのも含まれているとかで、ナチュラルに傲慢なその態度には、終始ガゼルは腹を立て通しだった。ただ、相手を信用するためにテストをするのは自然な事だし、情況が情況であるから、ある程度は仕方がない事ではあった。綾はガゼルほど腹が立たなかったが、ガゼルの気持ちはよく分かったし、それについてはコメントを避けた。カシスは二人への同行を申し出たのだが、綾がやんわりと断った。まず最初に、相手の顔を立てておく必要があると考えたからである。
地の利があると言っても、探す際に何かしらの方針は必要になる。ガゼルはしばし辺りを見回した後、言った。
「で、どうやって探す?」
「さっきの人の格好、覚えていますか?」
「ああ、上物だったな。 ……成る程、見当がついた」
「おそらく、すぐに見つかるはずです。 北スラム周辺を中心に調べてみましょう」
綾の言葉は当たった。半刻もしないうちに、北スラムと繁華街の境界線上で、挙動不審な人物が発見されたのである。ローブで全身を覆っているが、体型は男の物である。また、ローブ自体が上物で、他人の目を致命的に気にしていない。貴族か、召喚師である事は、以上の状況証拠からほぼ間違いないだろう。二人は頷くと、気配を消して路地裏に引っ込んだ。声の届く範囲を正確に把握しているガゼルが、声を丁寧に落とす。
「……どうやって顔を確認する?」
「いえ、その必要はありません。 あの人の周り、気付きました?」
「成る程。 近くに二人、少し離れて一人。 やけに気配が薄い奴がいるな」
ガゼルの言葉に、綾が頷いた。それを確認すると、ガゼルは声を落とし、悪戯っぽい口調で言った。
「へっへー、勝ったぜ。 アヤ、お前十五メートルくらいまでは完璧に探知出来るけど、それより外には何がいるかわからねえだろ」
「……はい」
「実はな、更に少し離れてもう一人いるぜ。 気配の消し方はすげえ上手い。 多分此奴が小隊長か何かだな」
「流石です、凄いですね」
綾が力を付けているだけではなく、フラットの他の人員もそれぞれの得意分野を着実に延ばしている。それを見せつけたガゼルは満足げに頷くと、真剣な表情になった。
「念のため、俺が顔を確認してくる。 後は、気をつけて尾行しようぜ」
ローブの男、ミモザが言う(ギブソン=ジラール)と思われる人物は、しばし北スラムの方を探った後、街の外へ出た。しかも、外壁の穴からである。気配を消し、等距離を保ったまま進みつつ、ガゼルが言う。
「襲ってくれって言ってるようなもんだな」
「はい。 一種の囮捜査なのでしょうが、かなり危険な行動ですね」
「……で、気付いてるだろうけど、どうやらお客さんがおいでなすったぞ。 気をつけろ、ただものじゃねえ!」
ガゼルが言うのと、ギブソンと思われる人物が振り向くのは同時だった。辺りに人がいないのを確認すると、男は咳払いした。
「ブラッシュ! 状況を報告してくれ」
『……! 速い! 駄目です、助かりません……!』
「くっ、こいつは試験どころじゃねえぞ!」
ギブソンと思われる男と違い、綾とガゼルは気付いていた。男の護衛が、次々と屠られている事に。やがて一番腕が立つ、小隊長と思われる男の気配も消えた。ナイフを抜くガゼル、サモナイトソードの鯉口を切る綾。二人は頷きあうと、物陰から飛び出した。ギブソンらしき男はそれを見て、いぶかしげに構えた。
「君達は? 何をしているんだ?」
「バカ野郎! 伏せろっ!」
飛びついたガゼルが、ギブソン?を地面に組み伏せた。同時に、一瞬前まで彼の頸動脈があった地点を、小さな音と共に光が通過していた。それは金属製の糸であり、獲物の肉を切り裂けなかった事を知ると、主君の元へ不満そうな声を発しつつ巻き取られていった。腰を落とす綾、立ち上がり、彼女と背を合わせて立つガゼル。藪の中から、鬼の面を着けた少年と、口を布で隠し個性を消した男が二人現れた。周りを包囲しつつ、ゆっくり間合いを取る三人の敵。埃を払って立ち上がりながら、ギブソンらしい人物が言う。
「むう、護衛達はやられてしまったようだな……」
「あんた、ギブソンだろ? ミモザって女に言われて護衛に来たぜ。 間一髪だったな」
「……そうか、すまないな。 だが護られてばかりでは悪い。 私も戦う」
どうも現実感のない様子で、ギブソンが構えを取った。先ほどの反応からして、本人である事は疑いがあるまい。ただ、接近戦に持ち込まれたらひとたまりもない腕である事も一目瞭然だった。だが、召喚師として有能である事も、すぐに示して見せた。男達が動く前に、ギブソンは高速で呪文を唱え終わり、印を切る。同時に、彼の周りを、小さな光の球が五つ飛び始めた。詠唱速度に関しては、明らかにカシスより上だった。取り合えず少しだけ安堵して、間合いを丁寧に取りながら、ガゼルが言う。
「どうする、アヤ?」
「速攻で勝負をつけましょう。 増援を呼ばれては厄介です」
「おう! 分かったぜ!」
一瞬後、二人はギブソンを残し、弾かれたように反対方向へ跳んだ。
綾は口を隠した男へ、一気に間を詰めた。この男はかなりの使い手だが、鬼の面を着けた少年よりは数段劣る事が分かっていたからである。男は連続して二本ナイフを投擲したが、綾はサモナイトソードを鞘から開放、走りながら二本とも叩き落とした。男は一瞬目を細めたが、すぐにシミターを抜き放ち、綾を迎撃した。刃がぶつかり合い、弾きあう。連続で剣を叩き付ける綾に対し、男は守勢に徹した。その理由は、すぐに明らかにされた。
鋭い音と共に、金属の糸が飛来する。鬼の面の少年が放った物に間違いない。それを悟った綾は一瞬隙を作り、男が攻勢に出る。クロスファイヤーポイントに追い込まれた事に悟った綾は、素早く思惑を巡らせた。
『下がるか、進むか、或いは此方がクロスファイヤーポイントに誘い込むか……』
「行けっ、ポワソ!」
「! 感謝します!」
ギブソンが叫び、鈍い音と共に、光の球の一つが金属糸にぶつかり軌道をずらした。どうも光の球は、ポワソというらしい。安心した綾は一気に敵に対して攻勢に出る。やはり敵は奇襲及び中距離戦が専門のようで、綾の攻撃に苦悶を浮かべ、じりじりと下がった。体勢を崩した敵に、綾は一気に踏み込み、逆袈裟の峰打ちを叩き込んだ。崩れ落ちる敵、だが一瞬とは言え攻防は激しく、綾は肩で息をつきながら振り返ろうとした。だが、気配が超高速で接近してくるのに気付き、慌てて転がるように飛び退く。反応速度を超えて、金属糸が一瞬前まで彼女がいた空間を鞭のように撓り抉っていた。綾が立ち上がると、そこには鬼の面の少年がいて、ゆっくり立ち上がっていた。
「くっ……!」
「……なかなかやるな。 だが、今度は俺が相手だ」
手元に糸を回収しながら、少年は言う。押し殺したような低い声で、何とも言えぬ強烈な威圧感がそれには備わっていた。ガゼルは押し気味とは言え、まだ敵と交戦の最中である。また、ギブソンは時々ポワソを少年に向け放っているが、無音のまま揺れるように動く少年の体を捕らえる事は一度も出来なかった。鬱陶しそうに少年はギブソンにナイフを一本放る。数個のポワソが固まってそれを防ぐが、ギブソンの額には汗が浮かんだ。今までの様子からして、ポワソというのは攻撃防御共に活用出来る浮遊ビットだが、やはり操作すると魔力を消耗するらしい。再び数本のナイフを取り出す少年、させじと間を詰める綾。だが少年はゆらりと動いて立ち位置を変え、斜めから抉り込むように三本のナイフを綾に叩き付けた。綾は息を止め、(集中)を駆使する。ナイフが川を流れるようにゆっくり飛び来、その力の流れが全て綾には見えた。一本目を上に跳ね上げ、二本目を刀身で跳ね返し、そして三本目を叩き落とす。しかし、次の瞬間、上空からギロチンの刃が如く襲いかかった少年には対応しきれなかった。彼が放った糸だけはかろうじてガードできたが、続いて放たれた前蹴りは綾の鳩尾に炸裂し、吹き飛ばしたのである。地面を数度転がり、綾はようやく止まった。激しく咳き込む綾、それを見下ろす少年。
「く、かはっ!」
「そろそろ勝たせて貰う」
『な、何て重い蹴り……速いだけではなくて、まるでカノン君のような、凄まじい力の持ち主ですね。 く……肉弾戦では、勝てそうもありません。 何とか距離を取らないと』
半身を起こした綾に、立ち上がる隙を与えることなく、少年は躍りかかろうとした。だが、彼は舌打ちと共に止まった。ガゼルが今一人を蹴り倒し、彼の背中にナイフを放ったからである。少年は倒れた部下達を驚くべき力で担ぎ上げると、綾を一瞥し、そのまま走り去っていった。誰にも追撃する余裕はなく、その隙もなかった。
「何とか助かったな。 全く、冗談じゃねえぜ。 とんでもねえ奴らだ」
顔に幾つか痣を作ったガゼルが、綾を助け起こした。かなり精神力を消費したらしいギブソンが、小さく嘆息した。
「すまない、助けられてしまったな。 僕一人だったら、まず助からなかっただろう」
「……皆の所に戻りましょう。 これは、情報を交換しあって、きちんと対策を練らないと全滅します。 今の男の子なんて、下手をするとラムダさん以上かも」
綾の言葉に異論を唱える者などいなかった。その夜から、フラットアジトにおいても、アキュート本部においても、今までにない厳戒態勢が取られるようになった。
4,魅魔の宝玉
「むう、にわかには信じがたい話だな」
ミモザとギブソンによる、魅魔の宝玉の説明、更に無色の派閥の説明を聞くと、開口一番にレイドはそう言った。皆の言葉を代弁するのはリーダーの責務である。それに対し、ミモザは菓子を頬張りながら、ギブソンをつつく。ギブソンは整理された頭脳で皆を納得させるべく口を開き、ガゼルが応じる。
「しかし、彼らの実力は見ての通りだ。 また、バノッサ少年の戦闘力も、それで説明が付くだろう」
「確かに、な。 だけどよ、分からないのは、そんなヤバイ連中がなんでバノッサなんかに荷担するんだ。 大体何を企んでやがる」
「それは我々にも分からないんだ。 だからそのヒントを掴むためにも、君達と合流したのだ」
「何だか頼りねえ話だな」
ガゼルの言葉に、ギブソンは押し黙った。壁に寄りかかって目をつぶり、カシスは話に参加しようとしない。いつもと若干様子が違う気がして、綾は時々不安げに視線を送ったが、カシスは反応しなかった。一旦停止した話であったが、今度はリシュールにせっつかれてラムダが言う。
「では、質問だ。 それは具体的に何が危険だ? また使い続けると、どうなるのだ?」
「使い続けると精神が侵されていく。 そして最終的には、力に飲み込まれた破壊魔が誕生してしまうのだ。 使えば使うほど力が増すという性質からも、力に頼る者が使うと危険が大きい。 今は正に危機的状況といえるな」
「誰がそんなヤバイ物を作ったんだよ。 爆弾と同じじゃねえか」
「大昔の召喚師よ。 それに、本来の使い方をすれば安全なの。 そこの子、召喚師でしょ? 召喚術の起源について、説明出来るわよね」
呆れたように言うガゼルに、お菓子を飲み込んだミモザが口を拭きながら応える。話を振られたカシスは一瞬だけ当惑したが、すぐにいつもの口調で始めた。
「諸説はあるんだけど、召喚術の起源は、(送還術)だって言われてるんだ。 古代のリィンバウムは異世界の侵略者に脅かされていたけど、彼らに対して人間はあまりに非力だった。 怯える彼らの前に現れたのが(エルゴの王)と呼ばれる英雄。 で、この英雄が編み出したのが(送還術)。 大まかに言うと、召喚術の逆の技術で、リィンバウムに入り込んだ侵略者を強制的に送り返す術だよ☆ もう、送還術は失われちゃったけど、こういう形で今も名残が残ってるんだ」
「なるほど、魅魔の宝玉というのは、本来サプレスの悪魔達を送還する道具だったんですね。 そしてそう使うなら問題はないというわけですか。 ……で、どうして送還術は失われてしまったんですか?」
「これも諸説あるんだけど、(エルゴの王)が張った結界が、余所からのリィンバウムへの侵入を不可能にしたから、ってのが大勢を占めてる。 事実はどうだか知らないけどね」
「なんだか、でかい話になってきやがったな」
綾とカシスの話を聞いて、苦笑したのはスタウトだった。彼は優れた諜報員だが、あくまで人間の世界が専門分野だから、こういう話には着いて行きづらいのである。細かい話をリシュールが聞き始め、それに伴って綾は思索を切り替えた。
『それにしても、異界からの侵略が無くなったとしても、対召喚術用の切り札として送還術は非常に有用なはずです。 この辺も突き詰めてみれば何かありそうですね。 それに人間の使う召喚術程度で(結界)を突破出来るのに、余所の世界の強大な存在にそれが出来ないと言うのは何とも妙です。 召喚師達は、その辺にどういう説明をしているんでしょうか』
「アヤ、ちょっといいか?」
「え、あ、はい。 何でしょうか」
「とりあえず、敵の最終的な目標については今はおこう。 君は、今後バノッサが、どういう行動に出ると思う? 君だったらどうするか、でもいい」
思索を中断したレイドの言葉に、綾は考え込み、六秒半で結論した。
「私がバノッサさんなら、正面から城を攻略します」
「何っ!?」
「この間のバノッサさんの言葉から考えても、バノッサさんは力の信奉者で、それを示す事で地位と居場所を確保してきた人です。 もし彼がこの街を支配しようと欲するのなら、圧倒的な力で城を蹂躙して、民衆に力を見せつけようとするはずです」
「しかし、城には騎士団もいるし、兵士達もいる」
すがるように言うレイドを、カシスが突き放す。他の皆も、視線を集中する中、彼女は何も制約するもののない口調で言う。
「この間戦ったレベルの大悪魔が十体、それでおそらく充分だね。 それだけの戦力があれば、あんな小さな城、ひとたまりもないよ☆ マーン家三兄弟なんて、多分相手にもならない。 騎士団がいても、結果は同じだね。 まんべんなく皆殺し、ハイお終い」
場が沈黙に覆われた。カシスは相変わらずの何処か壊れたような笑みを浮かべ続けているが、それだけだった。やがて、ラムダが場の沈黙にとどめを刺した。
「……よく分かった。 手遅れにならないうちに、奴を止めねばならぬと言う事が」
バノッサの居場所が分かったのは、それから程なくのことであった。偵察に出ていたアカネが、北スラム近くの廃屋に入る彼を目撃したのである。即座に綾とラムダが赴き、その廃屋を確認すると、地下には大きな空間がある事が分かった。それはもう使われなくなった下水道で、奥へと続いていた。松葉杖で後から着いてきたリシュールが、中を確認して、目を細めた。
「大勢で行くと却って不利だ。 少数ずつのチームに別れて、別行動した方がいいね」
「バノッサさんに宝玉の危険性を説明して、和解するわけには行かないでしょうか」
「無理だ。 後ろ盾がそうはさせないだろうし、何より奴の目的に合致しない」
「……?」
小首を傾げる綾に、リシュールは言う。リプレに人間観察の技を教えたのは、何を隠そう彼女なのである。
「分からない? 彼奴がムキになる理由。 キミを越えたいんだよ。 彼奴は何もかもがキミより劣るって思いこんでる。 だからムキになって力を求める。 まあ、支配したいってのも本当だろうけど、キミが説得した所で逆上するだけだ。 推測だけど、まず間違いないだろうな」
「……そんな」
「そんな顔するなって。 力ずくでぶんどって、ぶっ壊せばいいよ。 後は時間を掛けて解決していけばいい」
「ちょ、ちょっと、何勝手な事を言ってるの? 確かに危険だけど、非常に貴重な道具でもあるのよ!」
さらりと投げられた爆弾発言に、ミモザが食いついた。だが、リシュールは冷淡に応じる。ミモザもかなり肝が据わっているが、リシュールに比べるとまるで大人と子供である。同年代の大人といえど、経験はまるで天と地ほども開きがあった。
「私に分からないと思ってるの? キミら、その宝玉ってのを何度も軍事利用してきたんだろう? だからその性質を知り尽くしてる。 それで持ち帰った後も、軍事利用するつもりなんだろう? 自分たちの利益のために」
「そ、それは……! 確かに……今まではそうだったわよ。 でも、エクス様は、そんな事には用いないわ」
「さてね。 何にしろ、キミらみたいな連中に、魅魔の宝玉を持たせとくのは危険すぎるね。 アヤちゃん、偶然装ってぶっ壊しちゃいないよ。 私が許す」
むっとするミモザとギブソン、それを無視してチームわけを始めるリシュール。彼らに挟まれて精神的に右往左往する綾。フラットのアジトにはアキュートから腕利きが何人か派遣されてさりげなく周辺の警護に辺り、アキュートの幹部及びフラットの戦闘要員は、チームわけされて下水道に入り込んだ。
下水道の中は匂いが強すぎて、モナティも辟易し、匂いを追う事が出来なかった。故にバノッサの足取りを追うのは困難を極め、リシュールと蒼の刃で構成された司令部がチーム別に指示を出し、少しずつ地図を作っていった。幸い下水道は複雑に入り組んではいても平面的な構造であったため、地図作り事態は粛々と進行していった。
綾はモナティ、ギブソン、ジンガとチームを組んでいた。エルカは下水道攻略が決まった頃に起き出してきて、綾と一緒に行きたいとぐずったが、ラムダと一緒に行くようにリシュールに言われて渋々従った。リシュールはリプレの人間的な師であり、その性質を伝えた存在でもある。リプレ同様、逆らいがたい物を感じて、エルカも文句を言わなかったのである。
スタウト、カシス、綾、アカネ、ガゼルは別チームに分散していた。これは敵を探知するのに長けているからで、グループごとに分散していると敵の奇襲を防ぐ盾になるからだ。探索は一日では終わらず、緊張状態が続いた。一旦痕跡を消して、一日目は引き上げたが、張り込んでいたガゼルが同廃屋に入るバノッサを見つけたため、二日目の探索が開始された。二日目の探索では、地図が出来てきた事から探索はより円滑になったが、なかなか敵の手がかりは掴めなかった。
北スラムの地下にも、広大な下水道網が広がっている。一部は枯れていたが、一部は問題なく水が流れていた。数十年がかりで作り上げたこれら下水道網は、サイジェントが他都市に誇れる数少ない物なのだが、だからといってその中をはいずり回るというのは気分が良い行為ではない。ほぼ二日間に渡って、悪臭に晒され続けたモナティが、鼻を押さえて愚痴る。
「うにゅううううう、お鼻がおかしくなりそうですのー」
「確かに、酷い悪臭ですね。 我慢してください、モナティ」
「は、はいですの」
苦虫を噛みつぶしたような表情で、モナティは涙を拭う。比較的に大丈夫そうな顔をしているジンガが、曲がり角の向こうを伺いつつ言った。
「アネゴ、それにしてもバノッサの奴、こんな所で何してるのかな」
「訓練だと思います。 魅魔の宝玉を使いこなすための。 もし実力が充分に高まっていれば、性格上すぐにでもお城の攻略に乗り出すはずですから」
「……じゃあ、これなんか、その跡じゃないか?」
ジンガが指し示した先には、無惨にえぐり取られた壁の跡があった。無言のまま進み出たギブソンが、それをさわり、調べる。やがて彼は、頭を振って嘆息した。
「サプレス系上級召喚術による傷に間違いない。 君達の話には聞いていたが、ブラックラックだろう」
「どういう召喚獣さんなんですか?」
「サプレスの技術で不死の体を得る代わりに人を捨てた、古代のリィンバウムの召喚師、といわれている存在だよ。 上級の召喚術としては威力と使い勝手が共にいいから、非常によく使われる術だが、まさかあんな若者が使いこなすなんて」
「なるほど。 ……あの、サプレスの力をたどれるなら、バノッサさんの痕跡を、そこからたどれませんか?」
「ふむ、やってみよう」
ギブソンは一旦壁に腰掛けて休むと、それから動き出した。綾のチームの探索は少し遅れ気味だったが、それにはギブソンの体力の無さが深く影響していた。ただ、今それを挽回する金星を上げたわけだから、それをとやかく言う者はいなかった。
ギブソンは集中し、下水道を辿り始めた。警戒し、その後を着いていく綾。やがて四人は、南スラムの下に出、更にその先へと歩を進めた。途中二回戻り、地図を作った後、再び探索へ戻る。やがて、ギブソンが汗を拭い、足を止めた。彼の前には、鉄製の扉があった。取っ手がさび付いてはいるが、最近開け閉めした跡が残っていた。
「……ここだ。 此処に出入りしている」
「この辺りは、工場区ですね。 ……増援を呼んでから、同時に踏み込みましょう」
「それが利口だな」
踏み込んですぐに、綾は何故バノッサが此処を選んだか分かった。ここは暴動で閉鎖された工場の一つ、その地下だった。地上部分に入り込む者はいても、その地下への戸は鍵が厳重に掛けられていて、しかも物でふさがれている。南スラムに近い事は近いが、入り込むのは極めて困難な場所だった。加えて中は防音措置が取られ、極めて安定した気候が維持されていた。広い空間には幾つかの大きな机が並べられ、そこには葉っぱの残骸らしき物が大量に乗っていた。
綾はレイド、エドス、カシス、ミモザからなるもう一チームを増援として呼ぶと、彼らと共に踏み込んだ。ラムダ達は地上部分で、逃げてきたバノッサを捕捉するべく張り込んでいる。大きな部屋に踏み込んで、数歩歩いた綾に、覆い被さるように第三者の声が投げかけられた。
「ここはな、キルカ虫を飼ってた場所だよ。 今は俺様が使わせて貰ってるがな」
「バノッサさん、ひょっとして気付いていましたか?」
「まあな。 が、俺とお前の決着をつけるにはこういう広い場所がいいとも思ってな」
笑みを浮かべる綾の前に、堂々と正面からバノッサが現れる。凶暴な男だが、こういった所には威厳のある態度を取る者でもあった。既に彼は双剣を引き抜いており、口の端をつり上げていた。彼は八人を順番に見回していき、やがてギブソンとミモザで視線を止める。視線に応えて、一歩ミモザが踏み出る。綾はその間も、周りに現れた四人の男に視線を配っていた。
「ん? みかけねえ奴が混じってやがるな。 誰だてめえら」
「蒼の派閥の召喚師、ミモザ=ロランジュとギブソン=ジラールよ。 貴方が持っている魅魔の宝玉を取り返しに来たわ」
「ほう……」
「君、それを使うのをすぐに止めなさい。 それは持ち主の意識を浸食し、やがて狂気に落としてしまう魔性の道具よ。 力を得ても、頭がおかしくなっちゃったら元も子もないでしょ? そいつらに何吹き込まれたか知らないけど、早く返しなさい。 今ならまだ間に合うから」
ミモザが言い終えると、バノッサが笑い始めた。その反応は、既に綾も予測していた。ミモザが説得を試みたのはおそらくリシュールの言葉に反発しての事だろう。だが、やはりリシュールの言葉は正しかったのである。いや、バノッサの心は、それすらも凌駕していた。
「全部、分かった上だ、って言ったらどうする?」
「……!?」
「俺は今まで地獄の底を這いずってきた。 何かするときには命張ってきたし、それで死んでも悔いはねえと思ってる。 ……今回は、俺にとって一世一代のヤマだ。 それに命かけないでどうするんだよ。 お前、蒼の派閥の召喚師とか抜かしてたな。 多分貴様らには一生わからねえよ。 数少ないチャンスを、例え身を削ってでもモノにしなくちゃあいけねえ立場の人間の気持ちはな。 心を砕いても、手に入れなきゃいけねえ人間の気持ちなどはなあっ! くくくくくく、楽しい賭けじゃねえか。 俺が壊れるか、先にはぐれ女が壊れるか! 俺は例え体が壊れても、それで地獄に堕ちたとしても、全てをこの手に掴んでやる! 掴んでやるんだっ!」
その凄まじい覚悟は本物だった。圧倒され、一歩下がるギブソン。蒼白になって、唇を噛むミモザ。彼らの前にいるのは、正に地獄から来た悪魔だった。彼らとは、根本的に違う世界から来た存在だった。無論寒門出身者であるギブソンもミモザも、辛酸という物は知っている。だがバノッサが味わってきた、いや味わっているそれは比較にならないほど凄まじい物だった。
彼らを押しのけて、前に出たレイドが剣を引き抜いた。モナティは棒状のガウムを構え、ジンガとエドスも構えを取る。カシスは既に、いつでも召喚術を撃てるように構えていた。
「……周りの連中は、私達が引き受ける。 アヤ、何人か連れて、バノッサを頼む」
「はい。 ミモザさん、ギブソンさん、サポートをお願いします」
「分かったわ、何処まで出来るか分からないけど」
「全力を尽くそう」
そのまま腰を落とし、綾はサモナイトソードの鯉口を切る。それが合図となって、戦いが始まった。
『バノッサさんの力から言っても、長期戦は不利です。 肉を切らせて、骨を断ちます!』
バノッサが構えると同時に、綾は直線的に間を詰めていった。いつもの彼女らしくない戦い方ではあったが、だからこそバノッサは一瞬とまどった。だが、それも一瞬でしかなかった。
「ハン、不意なんかつかせねえよっ!」
バノッサは詠唱さえしなかった。しかし、ブラックラックが具現化した。そして、綾に向け、光の雷を投擲する。しかし、雷が綾の身を捕らえるより一瞬早く、援護が彼女の身を護った。
「誓約において、ミモザ=ロランジュが命ずる! 現れ出でよ、フォールフロール!」
ミモザが地面に手を突き、同時に工場の床を突き破って、菱形の塊を無数につなげた、蛇のような生物が空へ躍り出た。それは柔軟に線から面へと姿を変え、壁となって綾の前に展開する。一瞬後、爆音が轟き、工場地下を光によって漂白した。それを切り破って、綾が突貫する。壁をサイドステップで避けて、まだ熱い煙を突き抜いて、一気にバノッサとの距離を至近に詰めたのである。それは確かに正しい判断だったが、バノッサの力は常軌を逸していた。彼が右手を振ると、綾の頭上に殺気が生じる。慌てて飛び退いた彼女の眼前を、鎌が抉り去っていた。一瞬遅れていれば、真っ二つにされていただろう。髪の毛を数本散らされ、慌てて綾は間合いを取り直した。
鎌を振るったのは、カニのような体つきをした悪魔だった。ただし鋏が着いている箇所は蟷螂にそっくりの鎌へとすり替わっており、いかにも頑強そうな甲羅の周りには、十二個の目が、放射状に着いていた。まるで消耗した様子がないバノッサが、バックステップして距離を取りつつ、言う。
「大悪魔ブラウトルエル、そいつらを殺れっ!」
「リョウカイ・マスター」
「大悪魔を、一瞬で召喚するなんて……!」
ミモザの驚きは無理もない事であっただろう。ブラウトルエルが一歩出ようとした瞬間、ギブソンがポワソを五つ、連続して叩き付けた。そのうち二つは目を抉り、カニの悪魔に一瞬の隙が生じる。更にミモザがフォールフロールに呼びかけ、それは一直線の姿に戻り、空を切るように襲いかかった。
だが、流石に大悪魔である。フォールフロールを面倒くさげに鎌を振るってはじき返すと、周りを飛び交うポワソを巨体に似合わぬ素早い一撃で叩き落とす。叩き落とされたポワソは光を失い、すぐに消滅した。その間、綾は何度か関節を狙って打ち込もうとしたが、その間も大悪魔は隙を見せなかった。そして悪い事に、バノッサが更に増援を召喚する。今度彼が呼び出したのは、ヒトデのような姿をして、空中に浮遊している悪魔だった。五つある足には無数の小さな触手が蠢いており、感覚器官らしき物は見あたらない。
「大悪魔トラーテル、奴らを殺せっ!」
「了解、マスターバノッサ」
「くっ! 冗談じゃないぞ!」
ギブソンが舌打ちし、ミモザも及び腰になった。それを見たブラウトルエルが、鎌を振り上げ、鈍い音を立てる。鎌を延ばすか、或いは投擲するか、どちらかであろう。だが綾は、ブラウトルエルが、隙を作った一瞬を見逃さなかった。そのまま一挙に距離を詰め、懐に入り込むと、口の中へ手を突っ込み、最大出力のゼロ砲を叩き込んだのである。
「ガ、グギャアアアアアアアアアアアアッ!」
大悪魔の絶叫と共に甲羅の内側から閃光が迸り、はじけ飛ぶ。数歩蹈鞴を踏んで下がると、全身から煙を上げ、ブラウトルエルは倒れた。以前クルシーエィルを倒した際と同様の方法であったが、相手が隙を見せてくれたからこそ巧くいったのである。
だが、今ので綾はほぼ力を使い果たしてしまった。思わず膝をつく彼女を、愉快そうに見下ろすと、バノッサは更に増援を召喚しようとした。だが、彼の顔に、今日初めて苦悶の表情が浮かんだ。彼の体を覆う禍々しい魔力が露骨に乱れ、綾同様に片膝を着く。不意に大量の汗をかきながら、バノッサは忌々しげに言った。
「ちぃっ、まだ制御しきれないか、くそったれな宝玉だぜ! トラーテル! そいつらをぶっ殺すまで戻ってくるな!」
「了解」
それだけ言い捨てると、バノッサは蹌踉めきながら退却に移った。レイド達と戦っていた四人の男達も、交戦を放棄してそれに習う。地上に逃げるのではなく、別のルートから下水道へ。追撃しようとしたジンガに、真上からトラーテルの声が被さった。
「野郎、逃がすかっ!」
「おっと、私を無視して行くつもりですか? 舐められた物ですね」
「ジンガさん、危ないですのっ!」
モナティの警告にジンガが飛び退くのと、地面にトラーテルが自らの体を叩き付けるのは同時だった。響いたのは、無数の釘を壁に打ち付けるような音。ゆっくり床から体を剥がして浮き上がるトラーテルの下には、沢山の穴が空いた床が残されていた。トラーテルは中空を保ちつつ、全身に生える触手を蠕動させ、増やしていく。その数が一定に達した瞬間、無数の針が辺り一面に投擲された。慌てて身を隠す皆だが、襲い来る悪魔の針は小さな板くらい簡単に貫通した。隙を見つつ、遮蔽物を利して綾の側にカシスが移動する。彼女は、消耗しきっている綾を気遣いつつ言う。あまり動けないから、最少人数への指示で事態を打開しなくては行けないのが厳しい所である。
「アヤちゃん、どう攻める?」
「敵の能力は、無数の触手の瞬間硬化、更に即時再生ですね。 更に動きは素早く、足を止める工夫が必要です。 足を止め、大業で一気に仕留めなければ……」
「アハハハハハ、何をこそこそしているんです? 位置をずらしますよ!」
言葉通り大悪魔が居場所をずらすと、針が飛来する角度が変わり、それに伴い皆は移動を余儀なくされた。しかも全員が、今の戦いでかなり消耗しているのである。この情況では、下手に援軍を呼ぶわけにも行かない。その時、行動に出たのはエドスだった。彼は手近な木箱を持ち上げると、有利な位置に陣取り続ける大悪魔に投げつけたのである。数本の針が彼の体を貫くが、意に介さずに。
「ちまちました業など撃たんで、大業でこんかあっ!」
「むうっ!」
流石に木箱を叩き付けられて、トラーテルが蹌踉めく。それによって生じた隙を逃さず、エドスに習ってモナティも木箱を叩き付けた。流石にメイトルパのパワー、今度は蹌踉めくどころでは済まずに、大きくトラーテルが体勢を崩す。それに続いてミモザがフォールフロールを延ばし、腕の一本を絡め取った。
「やった! 今よっ!」
「ふん、甘いですねっ!」
「ええっ! きゃあああああああっ!」
いや、絡め取られたのは、フォールフロールであったかも知れない。ヒトデの悪魔は見かけに寄らぬ力で敵を振り回し、その一端がミモザの隠れていた至近を直撃した。悲鳴を上げて弾かれる彼女に、無数の針が投擲される。ギブソンもジンガも間に合わず、万事休すかと思われた瞬間、ミモザの前にレイドが立ちはだかり、ガードポーズを取った。無数の針がその体を貫くが、かろうじて鎧のお陰で致命傷を避ける。しかし、ダメージは大きく、彼は苦悶の声と共に一歩下がった。
「くっ! エドス、モナティ!」
「おうっ! そこの蛇、ヒトデを離すなよっ!」
吠えたエドスが、フォールフロールの端を抱え込んだ。モナティもそれに習う。そして気合いのかけ声と共に敵を振り回し、ついに壁に叩き付ける事に成功したのである。大悪魔は苦しそうに痙攣し、地面にずり落ちた。
「貰ったあ!」
「う、うぉのれ、甘いわっ!」
ストラ拳を叩き込もうと突貫したジンガを、腕の一本を振るってトラーテルがはじき飛ばす。だが、それは陽動だった。その後ろからは、カシスがつっこんでおり、彼女が保有する現時点で最強の召喚術を叩き付ける。長さ三メートルに達する剛剣が出現し、斜めにトラーテルを貫いた。金属を切断するような音、壁を砕く音、共に鈍重な音が空を貫く。
「うち砕け、魔将の剛剣っ!」
「が、ぐごあああああああああああああああああっ! お、おのれえええええええっ!」
正に断末魔の一撃、トラーテルは全身を一杯まで広げると、残った触手を辺りの全方向に投擲したのである。辺り中から悲鳴が上がり、だがその中で動き得た者がいる。体を低くして、最後の力を振り絞って突貫した綾だった。そのまま彼女は、斜めにサモナイトソードを振るった。
両断されたトラーテルの下半分が、ゆっくりと地面にずり落ちていく。壁に刺さっていたカシスの召喚剣が悪魔の上半分を固定していた。しばし悪魔は痙攣していたが、やがて動かなくなった。右上腕部に二本の針を喰らっていた綾が、腕を押さえながら、うつむき加減に言った。
「……ごめんなさい」
何とか危地は凌ぐ事が出来た。だが皆は、バノッサの常軌を逸した実力と、彼が呼び出す悪魔の戦闘能力を再確認させられ、しばしの間言葉を発する事が出来なかった。
5,凶雲
かろうじてバノッサの放った悪魔を撃退こそしたものの、かなりの打撃を受けた皆は、無言でセシルとジンガの治療を受けていた。カシスもプラーマを使って回復に加わり、ギブソンもそれに習う。エルカは綾の包帯を巻きたがり、セシルに教わってぎこちなく作業を覚えていった。幸い針には毒の類はなく、だがそれ以上の不安と焦りを皆の心へ植え付けていた。そんな中、リシュールが手を叩き、言った。
「みんな、少し話したい事がある」
「何か、進展があったのか?」
「……取りようによっては朗報、或いは最低の凶報かな。 オプテュスが、バノッサを見限ったらしい」
辺りがしんとなった。最初にガゼルが、忌々しげに吐き捨てる。
「先生、詳しく頼む」
「まだ調査中だけど、オプテュスのヤルフトって奴が代表になって、バノッサに手切れを要求したらしいよ。 オプテュスのうち、カノン以外全員がそれに従ったそうだ。 バノッサはそれを無感動に受け入れたとか」
「いわん事ではない……」
エドスの言葉は、バノッサへの同情に満ちていた。そして、今後の暗き展開への恐れにも。バノッサはこれで、文字通り今まで作って来た居場所を失ってしまったのである。彼の背後の扉は、閉ざされてしまったのだ。それが何を意味するか、誰もが分かっていた。黙り込むガゼルの背中を軽く叩くと、リシュールは言った。
「ガゼル、リプレ呼んできてくれないかな」
「先生?」
「彼奴、料理の腕上がっただろ。 何しろ私の弟子だからね。 アキュートの奴らにも、振る舞ってあげたいんだ」
「ああ……彼奴も、喜ぶと思う」
リシュールが何を言いたいのか、何をしたいのか、即座に悟ったガゼルは、苦しみを押し殺してそう答えた。
「へえ、あのアヤって子、クジマに殺されなかった程の使い手なのぉ。 私も戦ってみたいなー」
「今はそれどころじゃないだろう。 強敵と遊ぶ暇は無いぞ」
「へいへい、分かってますってば。 べーだ」
トクランが舌を出し、クジマが苦笑する。和やかな雰囲気であったが、彼らは不意に姿勢を正し、立ち上がって敬礼した。さもありなん、そこにいたのは、ザプラを伴ったオルドレイクだったのである。ついにオルドレイクが、サイジェントでの作戦を完全にするべく動き出したのである。
「ご苦労、同志クジマ、同志トクラン。 楽にしてくれ」
「「はっ!」」
「計画の進展はどうだ?」
「スペアナンバー19は予定通りの成長を確保。 後は、いよいよ城の攻略に取りかかるだけです」
クジマの言葉に鷹揚に頷くと、オルドレイクはサイジェント城を見上げた。北スラムからも、無駄に豪華に作られたその偉容は明かである。サイジェントの何処からでも、その偉容が見えるよう計算しつくされて造られた城。そんな無駄をするくらいなら、街の発展に力を注ぐべきなのに。今、ようやく改善の兆しが見え始めはしても、全ては遅きに過ぎたのである。
サイジェントが、今までにない戦いに巻き込まれる。それに気付いていた者達、気付いていない者達。全ての要素が、常軌を逸した力により、強制的に束ねられようとしていた。
(続)
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