剣が背負うもの

 

序、闇の狭間で

 

サイジェントの北スラム地区では、オプテュスが活発な行動を再開しつつあった。しかも以前に比べて目立って行動が組織化され、しかも余所とのトラブルを率先して避けるようになったのである。北スラムの住民達は小首を傾げたが、政情不安に陥っている情況で、これ以上混乱が起きても困ると殆どの者は考えていたから、その状態に首をつっこむような真似はしなかった。

一方で、オプテュス内部では、不安を抱える者が一部出始めていた。バノッサの配下は基本的に実力も地位も横並びだが、その中で他より若干影響力があるヤルフトはその一人だった。彼は、時々仲間の相談を受けるようになっていたのである。個人的な悩みではなく、バノッサがつきあい始めた(得体の知れない連中)に対する物がその主を占めていた。

オプテュスはまがりなりにも社会の底辺を這いずってきた者達の集まりだから、危険を察知する能力は、それぞれが個人差こそあれど標準的な嗅覚として備えている。だから、彼らは感じ取る事が出来たのである。バノッサに召喚術を教え、得体の知れない道具を渡した連中が、今までに見た事もないほどの危険な存在だと。今までやりたい放題に生きてきた彼らでさえ、接近をためらいたくなるほどの存在だと。

確かに(得体の知れない連中)のお陰で、オプテュスの者達は以前より強くなった。ある程度の戦い方は教えて貰ったし、組織的行動の意味も覚えた。だが、自分たちが体の良い使い捨ての道具である事は、無意識的に組織構成員の殆どが悟っていた。悟っていないのは、出鱈目な力を手に入れ、それに目がくらんでしまっているバノッサだけである。バノッサは、以前は粗暴でこそあったが、部下の喧嘩はきちんと仲裁したし(彼流の乱暴なやり方ではあったが)、仲間内での仁義はきちんと護った。部下に押しつけるばかりではなく、出るべき所ではきちんと出張った。樋口綾が属するフラットとの交戦とて、最初はその仁義が、部下の仇は自分が取るという泥臭い仁義が発端で始まったのである。強いと言うだけでなく、根本的な所でそう言った筋を通していた事が、北スラム最大の影響力の原点だったのである。

だが、ヤルフトは違和感を覚え始めていた。バノッサが踏み込んでは行けない所に入ってしまったと、無意識的に悟っていた事が、その要因だった。彼は何人かの仲間と共に、慎重な協議を重ね、そしてある決断をした。バノッサを、見限る事である。

 

「ふん……所詮はただの愚物か。 部下の造反にも気付かぬとはな」

愛しげに魅魔の宝玉を撫でるバノッサを、近くの屋上から見やりながら、クジマが呟いた。この間のアキュートの作戦失敗で、既に彼は同組織から手を引き、ザプラのサポートに回っている。クジマはオプテュスの者達に簡単な武術と組織的行動を叩き込んだ後は、その監視に当たっていた。彼は有能で慎重であり、故にバノッサの、組織長としての無能さに気付いていた。

クジマは等にヤルフトらの造反勢力に気付いていたが、放って置いた。既にスペアナンバー19、即ちバノッサに対する方針は決まっているからである。それは基本的に、精神的に追いつめる事を主としていた。手ひどく部下に裏切られれば、どんなに力に目がくらんでいたとしても、相当な精神的打撃を受ける。また、強大な敵に立ち塞がられれば、ますます彼の視野は狭窄する。そうやって個人的周囲環境を狭めていき、ただでさえ力に走りやすい性格を利し、盲目的に力に依存していくようにすれば良い。別に、裏で糸を引かなくても、ある程度環境を整えていくだけでよいのだ。そして最期に、彼の絶対的絶望を引き出す点も既にクジマは見いだしていた。ただ、それに関しては、彼も苦悩していた。

その存在は、無色の派閥に属する者達同様の、(より弱き者)だったからである。バノッサに対しては様々な理由で何の同情もクジマは覚えなかったが、その者に対しては少々事情が違った。一応前後関係は既にオルドレイクに告げてあるのだが、いざというときには、クジマが自ら手を下そうとも考えていた。迷いを断ち切るために。

無言のまま、クジマは振り向きもせず右手を挙げ、そして振り下ろした。空を銀の糸が走り、小さな音がした。ゆっくり彼が視線をずらすと、そこには一般人に偽装した、蒼の刃の構成員が倒れていた。既に蒼の刃には、此処での活動は知られている可能性があった。

クジマの右に気配が発生する。彼には、視線を向けずともその正体が分かっていた。その者は、出っ張りに腰を落とすと、串に刺した焼き肉を差し出しながら言った。

「同志クジマ、此処にいたか」

「同志ザプラよ、蠅を一匹片づけておいた」

「うむ、すまぬな。 ……それよりも、スペアナンバー19の暴走を早める、絶好の事態が到来した。 奴は力を試したがっているが、それをかなえさせる絶好の機会だ」

「……そうか」

珍しくクジマの声に感情がこもり、ザプラは怪訝そうに眉をひそめた。二人はそのまま、無言で肉を口に入れた。

「……うまいな」

「うむ。 なかなか良い肉だ。 まだあるぞ」

「貰おうか」

珍しくクジマの感情が外に漏れるのが面白いのか、ザプラは笑みを浮かべながら、自分で食べようと思っていた肉まで渡した。

 

1,レイドの決断

 

その日、綾はリプレに誘われて、共に買い物に出ていた。特に綾の手が必要だとかそう言う事ではなく、女の子同士で和気藹々と買い物をしただけの事である。ただ、リプレもそう言う情況だからと言って無駄な買い物をするような性格ではなかったから、殆ど綾の意見は必要とされなかった。綾の致命的な生活能力の無さは、残念ながら今後も克服はされないであろう。それに習熟しすぎている、リプレが側にいる以上は。

「思ったより多くなっちゃったわね。 大丈夫? 重くない?」

「大丈夫です、これくらいなら全然」

そう言いつつも、綾は左手だけで荷物を持っている。もう大丈夫とカシスに太鼓判は押されているのだが、念のため、先日のラムダとの死闘で傷ついた右手を綾は自然に気遣っていた。更に何かあったときのために、利き手を開けているという意味もある。加えて、既に普通の男子よりも数段上の腕力を身につけていたので、その程度の荷物など何の苦にもならないと言う事情もあったが、これは本人にとっては素直に喜べない事でもあった。

「ガゼルの奴、最近気配とか分かるようになったんでしょ? 荷物持ちさせようとすると必ずいないのよね。 こんな事なら、レイドに鍛えて貰うんじゃ無かったわ」

「ま、まあ、大事なときにはアジトにいますし」

「いっそのこと、私も武術習おうかしら。 そうしたら気配消して、逃げる前に彼奴の襟首掴めるのにね」

リプレはそう言って笑ったが、綾は乾いた笑いしか返せなかった。これ以上リプレが強くなるというのは、想像を絶する恐怖だと思ったからである。リプレが目をそらした隙を見て、綾は視線を後方に送り、すぐに戻していた。

綾は先ほどから、意図的に平静を装っていた。商店街に入った頃から、丁度八メートルほどの距離をおいて、しかも少し高い所から追跡してくる者がいるからである。時々さりげなく牽制はしているのだが、余裕の様子でそのまま着いてくる。気配の消し方は上手く、しかも綾が気付くようにわざと自分の存在をアピールしている。それから推察される実力はかなりのもので、本気での戦いになった場合、勝敗はともかくリプレを護りきれる自信は綾にはなかった。

南スラムに足を踏み入れた瞬間、追跡者がアクションを起こした。距離を一気に今までの半分に詰めたのである。反射的に綾がリプレを庇い、買い物籠を捨て、腰を落としてサモナイトソードに右手をかける。その様を見て、リプレも表情を引き締め、逃げる準備を整えようとした。

「おいおい、仕掛けるつもりなら、とっくに仕掛けてるよ」

「スタウトさん、何の用事ですか?」

「お? お嬢ちゃんと話した事はなかったと思ったが、どうして分かった?」

「ここしばらく、私の後をつけている気配と同じだったからです。 ラムダさんとの戦いで、貴方が私を調べている事は分かりましたから」

綾の言葉を聞き終えると、禿頭をかきながらスタウトが姿を見せた。近くの廃屋の屋根の上から、二人を見下ろす。リプレが恐怖を忘れて、単純に驚いた。

「うそ! 屋根の上にいたの!?」

「仲良くお買い物とは平和なこったな。 ……で、用件なんだが、レイドって奴を呼んできて欲しい。 俺はなにしろ臆病者なんでね。 お嬢ちゃんの仲間のカシスって子、それにアカネって言ったか、同業者がいる所にほいほい乗り込むほどの度胸はねえのさ。 たのめねえか?」

しばし考え込んだ後、綾は笑顔をスタウトに向けた。

「分かりました。 レイドに確認してきます」

「おう、すまねえな」

「アヤ、大丈夫なの?」

「話を聞くか決めるのはレイドですし、それにあの人なら相手が誰であろうとも簡単に倒されはしません」

それだけ言うと、綾はリプレを促し、アジトへさっさと歩き始めた。何度か不安げにリプレは振り返ったが、やがて小走りでその後を追った。

 

レイドはアジトにいて、エドスを相手に机上遊戯をしていた。チェスと将棋を足して二で割ったようなルールで、レイドの方が有利に戦いを進めていた。カシスは椅子に逆さに腰掛け、椅子の背にもたれかかってその様子を見守っていた。綾はしばしその情況を確認した後、小さく咳払いした。

「すみません、少し良いですか?」

「うん、何だ?」

「アキュートのスタウトさんが、お話があるそうです。 大通りの、商店街と南スラムの境界線にいます」

三人が同時に立ち上がったので、綾は思わず一歩退いた。レイドはしばし俯いた後、出かける旨を告げ、剣を持ってアジトを出ていった。嘆息して綾が席につくと、話を聞いていたらしいガゼルが部屋に入ってきた。

「聞いたぜ、ついに仕掛けてきたな」

「……しかし、ただ話し合いたいだけとは妙ですね。 アキュートの保有戦力なら、このアジトを囲んで総力戦を仕掛けることも出来ます。 それをされたら、かなり厄介だと思っていたのですけど」

「おいおい、縁起でもねえ事言うなよ。 ……まあ、あのレイドが簡単に殺られるわけはねえからな。 待つとしようぜ」

ガゼルが冷静な口調で言ったので、居間は落ち着きを取り戻した。実際アキュートと本格的に事を構えてから、夜襲に備えて寝ずの番を行っていたのである。皆が漠然とした不安を心に抱えていたのは事実であり、それを上手くガゼルが緩和した功績は大きい。この辺は、サブリーダーが故の仕事を良く理解していると言えるだろう。ガゼルが綾とほぼ同じ台詞を吐いたのは、それが最も効果的だと素直に理解出来たからであろう。それからしばしして、何事もなかったかのようにレイドが戻ってきた。そして、さながら買い物にでも出かけるような口調で言った。

「ラムダ先輩が私に会いたがっているそうだ」

「それで、行くつもりなのか?」

「そのつもりだよ」

レイドの答えはあまりにもあっさりとしていた。皆が困惑の視線を投げ掛け合う中、ガゼルは頬杖を着いたまま、綾に視線を移した。

「アヤ、レイドに着いていってくれないか? 念のため、な」

「心配せずとも、あの人は卑怯な真似などしないよ」

「でも、一人くらい供がいても迷惑はかからないはずです。 お話自体にも、嘴を挟みませんから」

「そうか、そうだな。 では、行くとしようか」

レイドは頷くと、少し面倒くさそうに腰を上げた。いつもと若干様子が違う事に、この場の何人が気付いていただろうか。モナティも一瞬行きたそうな顔をしたが、すぐに指をくわえて黙り込んだ。そんな事を言い出す雰囲気ではないと悟ったのである。

アジトの外にはスタウトが待っていた。今度は屋根の上ではなく、路上で林檎を囓りながらである。彼は綾の姿を見ると、からかうような口調で言った。

「お、保護者同伴か。 まあ、それもいいけどよ」

「い、いくらなんでもそれは……」

「いや、いいんだ」

苦笑した綾に、振り向きもせず言うと、レイドはそのまま歩き始めた。三人は商店街を抜け、繁華街に入り、そしてその一角にある酒場にたどり着いた。こじゃれた雰囲気の酒場で、昼間なのに結構人が入っていた。そして、当然のようにマスターをしているのはペルゴであった。辺りを所在なさげに見回す綾の前で、スタウトはペルゴに頷くと、当然のように壁に手を突き、そして隠し扉をまわした。店にいる客は、私服ではあったが、良く見れば全員以前交戦したアキュートの者達だった。スタウトが、物珍しげに辺りを見回す綾に顎をしゃくる。レイドは、既に隠し扉を潜っていた。

「こっちだ。 きな」

『……何というか、禁酒法が施行されていた時代の米国みたいです』

「ん? どうした? 別に何もしやしねえよ。 大体あのラムダ様に一矢報いた嬢ちゃんを、簡単に仕留められるなんて此処の誰もが思っちゃいねえ。 仕掛けるとしても、ここじゃ殺んねえから安心しな」

「あ、はい。 今行きます」

少し背が低い隠し扉をくぐると、そこには少し寂れた雰囲気の部屋があった。部屋の中央には丸テーブルが置かれ、リシュールが座って手酌でジュースを傾けていた。椅子には松葉杖が立てかけられ、隣の席ではセシルが大人の雰囲気が漂う上品な笑みを浮かべていた。部屋の隅には急勾配の階段があり、上に手すり付きの廊下が壁にそって這っており、それに隣接して幾つかの部屋がある。無言のまま綾を観察するリシュールに代わって、セシルが席を勧める。

「ようこそ。 貴方はその辺の椅子に適当に座って」

「はい」

「早速だけど、レイドさん、ラムダ様が上階一番奥の部屋でお待ちよ」

「分かった」

言葉短かに頷くと、レイドは階段を上っていった。床を踏む音は規則的で、一歩ごとに綾から遠ざかっていった。しばし綾はレイドを見上げていたが、彼は視線を一切余所に向けず、まっすぐ指定された部屋に入った。それきり、音は一切止んだ。

スタウトは少し離れたテーブルにつき、明らかにアルコールと分かる飲み物を、鼻歌交じりで、手酌で傾け始めた。リシュールは無言のまま、綾を見つめ続けている。ペルゴが少し遅れて隠し部屋に入ってきたが、彼もかなり寡黙な方だったので、綾は息苦しさを感じた。このまま放っておけば、リシュールは知能テストを始めかねないし、スタウトに至っては綾が最も苦手な性的な話を、しかも最初に会った頃のカシスのような思いっきり下品なセクハラを始めかねない。綾はセシルに緩衝剤になってくれる事を期待し、その希望はすんなりと叶えられた。

「楽にして良いわよ。 そうね、貴方の事でも話してくれないかしら」

「どんな事を話しましょうか」

「貴方がはぐれ召喚獣だって事は知っているわ。 故郷はどんな所だったの?」

「……そうですね、召喚術はありませんでしたが、科学文明はこの世界より数百年分は進んでいました。 でも、人々の心には大差がなかったと思います。 むしろ、心はこの世界の人達より貧しかったかも知れません」

綾の言葉に、セシルは頷き、更に話しやすいように様々にお膳立てしてくれた。歴史に詳しい綾は産業革命時のヨーロッパと今のサイジェントを比べ、幾つかの比較点を示したが、リシュールはその後どうなったかを知りたがった。頷くと、綾は差し障りがない範囲内で、要点を整理して説明した。スタウトは手酌でアルコールを傾けながらにやにや笑いを浮かべ続け、リシュールは単純に楽しそうな様子で言った。

「へえ、面白いな」

「お役に立てましたか?」

「……ああ。 リィンバウムも、キミの世界も、科学技術以外は大差がないって事はよく分かった。 それに、今後取るべき方策も、少しずつわかり始めた。 ……ま、文明の差異とかは後においておくとして、キミ自身の事を聞かせてくれないかな」

「……はい」

綾の声が不意に精彩を失った。リシュールが目を細め、セシルが咳払いした。二人とも、綾が故郷に居場所を感じていなかったのを、即座に悟ったのだろう。またセシルが年長者としての機転を効かせて、話を良い方向へ持っていってくれた。

「今度は、私達の事を話してあげましょうか?」

「? 私自身は聞きたいですけど、良いんですか? 刃を交えた相手に、そんな事を言っても」

「貴方が私達の個人的な情報を握った所で、それを使って何かするような人間とは思えないけど? まあ、貴方の事を聞いたし、私達が何も言わないのはアンフェアだしね」

言葉の端から、良識家と言う事をにじませながら、セシルは笑みを浮かべた。かって綾はカシスに笑顔が素敵だと言われたが、この笑顔の前には自分のそれなど月と鼈だと、自然に考えていた。セシルが促すと、その場にいる者達は、自然に自己紹介を始める。無論差し障りがない範囲内で、である。

「私は、元々ラムダ様の部下だったんですよ。 レイド氏とは同僚でした。 ラムダ様が退役すると同時に野に下って、行動を共にしています。 私と同じ行動を取った者は、他にも何名かいます」

「俺はな、元々暗殺家業をしてたんだけど、ボスからの連絡が途絶えちまってな。 人生の目標無くしてふらついてる所を、ラムダ様に拾われたのさ」

ペルゴとスタウトは、顔色一つ変えずにそう言った。どちらにしてもあまり良い過去ではないはずなのに、その口調には別に自嘲も怯みもない。現在の情況に満足している事が、それだけで伺えるだろう。彼らに続いて、セシルとリシュールが簡単に自己の経歴を説明する。

「私はラムダ様を何度か治療しているうちに、理想に共鳴したの。 ……この街が好きで、どうにかしなければならないって気持ちを、ラムダ様に賭けてみたのよ」

「ま、私の事はガゼルにでも聞いて。 リプレでも構わないんだけ……」

「すまない、遅くなった」

レイドの声がして、リシュールが言葉を切った。別に喧嘩をしたわけでもなく、淡々と話し合いを終えたらしいレイドが、上から綾を見下ろしていた。セシルらと二言三言かわすと、そのままレイドは帰路に就き、慌てて綾は後を追った。

「話し合い、どうなりました?」

「ラムダ先輩とは、アキュートとは和解したよ。 もう君達が戦う必要はない」

レイドは、心配げな綾に、不器用に笑みを浮かべながら付け加えた。

「……心配をかけたな」

 

アジトに戻ると、ガゼルが真っ先に二人を出迎えた。彼は心配げにレイドの顔を見たが、最初綾はその意味が分からなかった。

レイドはその後、先ほどのエドスとの勝負を再開し、冷静に盤の情況を優勢に保ち続け、結果危なげなく勝利した。さらにその後はアルバに剣の稽古をつけ、居間でしばしリシュールの蔵書を読んでいた。特に話しがたい雰囲気を放っていたわけでも無く、沈んでいたわけでもなかった。だが、何処かが、いつもの彼とは決定的に違っていた。

それも無理がない話であったかも知れない。彼は、この日を人生最後の一日と決めていたのである。彼がラムダと話し合った事はただ一つ。異なる信念の決着を、一騎打ちという形で果たす事だった。それは、騎士であった、いや今でも騎士の心を持つ彼とラムダが自然に選択肢の中から抜き出したものであり、仲間を一切巻き込まない、(犠牲が最も少なくてすむ)最善の解決策でもあった。そしてレイドは、自分の力がラムダには及ばぬ事を良く悟っていた。結果、残った選択肢は、差し違える事しかなかったのである。レイドは出来るだけ平静を保ちながら、最期と決めたフラットでの一日を過ごした。そして翌日、澄み切った表情で彼の家を後にした。もう、二度と戻らぬ覚悟で。

 

2,意地の激突

 

その日は、いつもと同じように始まった。綾は朝薪を取りに森に出かけ、それを終えたら朝食を取り、釣りに出かけて昼に帰宅した。釣りの最中、塔の天井がもう一枚破れ、新しい召喚獣が呼び出せるようになったが、まだ綾は実効を試していなかった。釣果はいつもと同じ程度で、無感動に綾はリプレに魚籠を渡したが、袖を引く者に気付いて振り返った。

「ラミ、どうしたの?」

「お姉ちゃん、レイド、いないの」

「情報収集に出かけたんじゃないの?」

「ううん、剣、持っていったの」

無言のまま綾はレイドの部屋に行ってみたが、確かにラミの言葉通り剣が消えていた。ラミは小さな足音でついてきて、また綾の袖を引いた。

「レイド、ラミの頭撫でて、顔じっと見ていったよ」

「そう。 ……レイド、私が探してくるから、安心して」

心の底から信頼した様子でラミが頷いたので、出来るだけ平静を保ちつつ、綾は部屋を出た。他の子供達は呑気に遊んでいたが、レイドの事に対する反応は悪い方へ動くばかりであった。

「みんな、レイド知らない?」

「レイドね、おいら達の頭なでて、じっと顔を見つめてから出かけていったよ」

「変なの。 なんか、これがお別れみたいな雰囲気だったわ」

「……レイドさん、少し寂しそうだったよ」

アルバも、フィズも、フラウも、口々にそんな事を言った。嫌な予感が胸の中で増幅されていくのを覚えた綾は、出来るだけ平静を保ちつつ、台所に出る。台所では、リプレが魚を捌いており、ガゼルが芋の皮むきをさせられていた。

「リプレ、ガゼル、レイド知りませんか?」

「どうしたの? 普通に出かけていったんじゃないの?」

「それが、愛剣も持ち出しているようなんです」

「……!」

無言でガゼルが立ち上がった。不思議そうにその姿を視線で追うリプレに構わず、ガゼルは綾に真剣な面もちで言う。

「レイド、昨日何か言ってなかったか?」

「心配をかけたな、としか」

「最悪だ。 多分彼奴、一人で責任取って事態を解決する気だぞ」

「……でも、どうやって」

「一騎打ち、だろうな」

不意に第三者の声が割り込んで、三人が振り向くと、そこにはローカスがいた。相変わらず鋭い視線ながらも、最近はフラットの面々に対する対応が若干柔らかくなってきている。子供達と遊んでくれる事もあり、心も許し始めてくれている。だが、現在の彼の視線は、射るように鋭かった。

「彼奴らは騎士だ。 そしてどっちも、自分が犠牲になって皆が救えるなら幾らでも犠牲をかって出るタイプだ。 ……である以上、選択肢は搾られるだろう。 どうせどちらの思想もそれなりに正しい、口だけじゃ決着なんてつかない。 そう考えた彼奴らは、二人だけで決着をつける気なのさ。 これ以上仲間を巻き込まないためにな。 騎士伝統の、不器用な男伝統の、一騎打ちって方法でな。 馬鹿な話さ」

「……本当に、バカなんだから!」

押し殺した声の主はリプレだった。悲しむでもなく、彼女は沈鬱な怒りを湛えて、握り拳を固めていた。

「どうして男って、話し合いで解決出来ないわけ? 話し合いで解決出来たって言うから、私安心してたのに! 相手が死んじゃったら、これ以上話し合う事なんて出来ないのよ!? 相手が死んじゃったら、見つかるかも知れない妥協点も永遠に見つから無くなっちゃうのよ!?」

「男ってのは、そういう不器用な生き物なんだよ。 特に剣を持った、その中でも騎士なんて連中はな」

ローカスは冷静を保ったままそういった。かって彼も、剣を使って大事な者達を護ろうとした男である。それが故に、レイドの気持ちは痛いほどに分かるのだろう。リプレは視線を逸らすと、綾に言う。

「……アヤ、お願い。 二人を止めて。 そんなの、不器用だとか、そう言う問題じゃない。 貴方なら、分かるわよね?」

「そう……ですね。 確かにリプレの言うとおりだと思います」

「……探すなら、早くしようぜ。 命をかけた戦いなら、負けたら死ぬだけだ。 長引いても、確実にどちらかが傷つく。 時間は、想像以上にねえ。 俺はエドスとカシスに声を掛けてくる。 お前はモナティと頼む」

「はい」

今まで黙っていたガゼルが立ち上がり、返事もそこそこに台所を出ていった。ローカスもしばしそれを無言で見ていたが、やがてきびすを返して台所を出ていく。綾は庭でジンガと組み手をしていたモナティとガウムに声を掛けると、サイジェントの街に飛び出していった。ジンガもそれに続き、慌てて辺りを見回す。

「なあ、アネゴ、一つ聞きたいんだけど」

「はい?」

「レイド兄さんを、どうやって止めるんだ? あの人、騎士の誇りにかけて戦ってるんだろ? ……こんな事言うのも何だけど、もし俺っちが武闘家としての誇りにかけて戦ったとき止められたら、例え止めた相手がアネゴだったとしても一生恨むと思う。 アネゴがレイド兄さんを止めたいって言うんだから従うけど、誇りをかけた男の戦いは止められっこないぜ」

「……ううん、二人が戦っているのは、おそらくは誇りのためではありません。 命をかけなくてはならないほどの誇りは、確かにあると思います。 でも、今の二人が戦うのは、おそらくもっとずっと個人的な内容です」

きょとんとしているモナティと、更に説明をくれと表情で言っているジンガに、綾は苦笑した。

「私が思うに、要は、二人とも意地で戦っているはずです」

「意地?」

「はい。 私達とアキュートの戦いの原因、それにレイドとラムダさんとの戦いの原因を考えてみてください。 ……二人の戦いの原因は、些細な思想の違いです。 そしてそれは、妥協出来ないほどの物でしょうか。 相手の命を奪わねばならないほどの物でしょうか。 話し合っても、本当に解決出来ないほどの物なのでしょうか」

「うーん、そう言われてみれば確かに……」

ジンガは頬を掻きながら、若干納得がいかない様子で応える。苦笑すると、綾はモナティに話を振った。

「モナティ、レイドの匂いは分かりませんか?」

「だめですの、レイドさんの匂い、街中にあって、分からないんですの。 モナティ、新しい匂いと、古い匂い、区別出来ませんの……」

「アキュートの連中に聞いてみるってのは? アネゴが説得すれば、何とか居場所教えてくれないかな?」

「……まず無理です。 それに彼らはプロの戦争屋さんです。 例え殺されたって、拷問したって、機密になる事は喋らないと思います」

ジンガの言葉に応えると、綾は思惑を巡らせる。意固地になって歩き回るよりも、一度情況を整理した方がよいと考えたからである。

『意地で戦いを行うと言っても、重要性から考えて、ほぼ確実に誰も邪魔に入れないような場所で行うはず。 更に、あの二人が総力戦を行うとなると、それなりの広さは必要なはずです。 となると、大きな建物の中か、或いは屋外ですね。 屋外となると、街の外と言う事も考慮に入れないと行けませんが……』

綾は辺りを見回した。サイジェントで大きな建物というと、工場や貴族の邸宅、城などである。稼働中の建物は論外として、大きな廃屋というのは、例えば暴動で放棄された工場などがある。だがそれは南スラムに非常に近い場所にあり、邪魔が入りやすい。また、北スラムにも幾つか大きな廃屋があるにはあるが、オプテュスが行動を再活性化させている事もあり、邪魔が入る事は充分に予測される場所である。

『となると、おそらく街の外ですね。 街の外で、邪魔が入りにくい場所というと、おそらく危険な場所か、知名度の低い場所のはず。 一旦ガゼルと合流して、相談を……』

「よぉ、はぐれ女。 久しぶりだな」

無言のまま綾が振り向くと、そこにはバノッサがいて、へらへらと笑みを浮かべていた。

 

思わず戦闘形態に、即ち棒状に変化するガウムと、それを持って構えるモナティ。そして、無言のまま構えを取るジンガ。バノッサは額に手を当てると、大げさな動作で笑った。

「ヒャハハハハハ、そう構えるなよ」

「お久しぶりです、バノッサさん。 何か御用ですか?」

「……相変わらず礼儀正しい奴だな。 調子狂うじゃねえかよ」

綾が他の者にするのと同様に、丁寧に礼をして笑みを浮かべたので、バノッサは毒気を抜かれた体でそう言った。綾にしてみれば、バノッサに戦意がないのが分かり切っていたので、そう言う態度を取っただけだった。しばしの沈黙の後、白き悪鬼は咳払いし、用件に移った。

「……てめえら、あの騎士崩れを探してるんだろ?」

「……!」

「ハン、どうやら図星みてえだな。 俺様が行き先を知ってるって言ったらどうする?」

「勿論伺いたいですけど、何が目的ですか?」

綾が笑顔のままで応えたので、ジンガとモナティは思わず一歩下がった。妙な迫力がそこにはあり、二人を怯えさせるには充分だったのである。バノッサは、例え怯えたとしても表情には出さず、思い切り邪悪に口の端をつり上げて見せた。

「目的なんかきまってんだろ? 屈服だよ。 まあ、降伏しろ、何ていわねえよ。 頭下げて頼んだら、教えてやらねえ事もねえ。 勿論様付けでな」

「……そんな事なら。 バノッサさま、教えてくださいませんか?」

「つくづく調子が狂う奴だな……! ああ、もういい! 奴なら死の沼地だ! さっき街を出るのを見かけたからな、部下につけさせたんだよ! 分からなきゃガゼルにでも聞け! ケッ、屈辱に体を震わせながら頭を下げでもしたら面白かったのによっ!」

笑顔のまま綾が頭を下げたので、毒気を抜かれたバノッサは別の意味で逆上し、地面を蹴りつけながらその場を去っていった。誇りは確かに大事なものだが、それに拘りすぎても無駄な血を流すだけである。それを分かった上でバノッサに頭を下げたのは、むしろ気高い姿だったと言えよう。ただし、相手によっては、不快感を抱かせる可能性が高い行動であったのも事実であった。困惑して視線を交わしあうジンガとモナティに、綾は表情を崩さないまま言う。

「ジンガ君、モナティ、一旦アジトに戻ってから、ガゼルと合流、今後の対策を協議しましょう。 ……それと、気をつけて」

「? 何がだ、アネゴ」

「バノッサさん、自信満々でした。 あの情況から言って、多分私達と交戦する事も想定していたのに、手下も連れていなかったのに、です。 あの人はああ見えて、戦闘を行う際に、事前の戦略的な準備は怠りません。 多分、何かしらの非常に強力な切り札を手に入れている可能性があります。 油断だけはしないようにしてください」

 

一旦アジトに戻った綾は、ガゼルとモナティ、それにカシスと一緒に出立した。アジトに戦力を多く残したのは、バノッサの行動が罠で、主力である綾とガゼルがいない隙にアジトを襲われた際の対応策である。モナティを連れて行くのは、レイドの匂いを確認するためである。また、ジンガは街の中を、アカネは南スラムを中心に探索を続行し、街の中にレイドとラムダが残っていた際に備えた。こうして足元を固めた後、綾はレイドがいない際のリーダーであるガゼルに探索を提案、受け入れられて出立したのであった。

いつも街の外に出るとき通る壁の穴を潜りながら、ガゼルは言う。その顔には、焦りと同時に目的地に対する畏怖も雄弁に張り付いていた。

「死の沼地か。 出来れば行きたくない所だな」

「どういう所なんですか?」

「一言で説明すると底なし沼だよ。 しかも普通の沼じゃなくて、変な毒みたいのが浮いてやがるんだ。 そのお陰で、近くの植物はみんな枯れちまってる。 空気も悪くて、こんな用事じゃなきゃ絶対に近寄りたくねえ場所だな。 ただ、街からはちけえから、急げばまだ間に合うはずだぜ」

ガゼルは街を出ると、一旦東へ、そしてクレーターの辺りから北上した。彼の言葉通り、荒野を少し歩くと、雰囲気が露骨に変わり始めた。今までは単に死があるだけの場所だったのが、死を生産する場所へと移り始めたのである。時々生えている木は枯れるどころか腐り始めており、彼方此方にはよどんだ水たまりがあった。それらには汚らしい油膜が浮き、異臭を放っていた。地面はぐずぐずに腐った所と、乾いてしっかりした地盤を有する場所にはっきり別れ、乾いた地面はさながら迷路のように入り組んでいた。辺りには、蠅すら飛んでいない。条件は、先ほど綾が考察した決戦地点に、嫌と言うほど合致していた。

「モナティ、レイドの匂いは?」

「こっちにずっと続いてますの」

「……間違いないみたいだな」

ガゼルが呟き、綾は少し考え込んだ。カシスは念入りに辺りを見回しており、時々背後に視線を送っている。

『バノッサさんは、戦略という物の存在を理解している人です。 である以上、普通ならレイドの居場所を私に告げず、亡き者にした方が有利だと、自然に悟るはず。 ……先ほどの態度からしても、確実に何か企んでいますね』

剣撃の音が聞こえ始めたのは、程なくの事であった。

 

激しい剣撃の音が、辺りに響き渡っていた。近づくにつれ、乾いた土を踏む音、踏みとどまる音、踏みしだく音、鎧が立てる金属音、様々な音も加わり始める。綾が駆け出すのと、ガゼルが駆け出すのは、殆ど同時だった。モナティが慌てて後を追い、カシスがそれに続いた。

綾が足を止めたのは、複数の人の気配に気付いたからである。行く手を塞ぐように現れたのはセシルだった。彼女に続いて、スタウト、ペルゴ、それに松葉杖をついたリシュールも姿を見せる。他にも若干名の護衛がいたが、アキュートのほんの一部に過ぎない人員のようであった。彼らの遙か背後に、戦うレイドとラムダの姿があった。

彼らの足下には、縛り上げられたオプテュス構成員が二人転がされていた。おおかた深入りして、捕らえられたのであろう。まあ、実力差から言えば、妥当な結果である。ただのチンピラ風情のオプテュス構成員が、プロの戦争屋を尾行して情報を持ち帰れただけでも奇跡に等しい。

ガゼルはすがるようにリシュールを見たが、(先生)は無感動だった。一歩前に出たセシルは胸の前で手甲を打ち合わせると、端から喧嘩腰で言った。

「どうやって此処を嗅ぎつけたのかは知らないけれど、無粋な事はさせないわよ」

「話をさせていただけませんか?」

「悪いけど、信用出来ないわね。 貴方の戦闘力だったら、懐に入られたらかなり危険ですもの。 私達は、貴方の実力を過小評価しない。 だから、油断もしないわ」

無言のまま綾はサモナイトソードを腰から外し、モナティに手渡した。モナティはそれを受け取った後、まるで鉛製の刀でも持ったかのようにがくりと腰を落としたが、今はそれに関わっている暇はなかった。綾はそのまま、二歩進み出る。セシルの目に剣呑な光が宿り、ペルゴとスタウトが構えを取り直す。

「何のつもり?」

「見ての通り、私は丸腰です。 話だけでもさせてください」

無言のままセシルはリシュールに視線を送り、小さく頷いた。リシュールはしばし考え込んだ後、面倒くさげにてをひらひらと左右に振った。小さく嘆息すると、セシルは言った。

「分かったわ。 しかし邪魔はさせないわよ」

「……」

唇を噛んだ綾がガゼルに頷き、前に進み出る。説得をする役は、事前の会議で既に綾に決められていた。これはラムダが耳を貸すのが力ある者の言葉だけだと言う事、その力を見せたのが綾だけだと言う事が原因である。

ゆっくり進み出る綾の耳には、果てしなく続く死闘の音が入り続ける。綾の目には、汗を散らして戦い続ける不器用な二人の男が映り続ける。綾は迷う。二人を止めて良い物なのかと。二人の決意が肌を通して伝わってくるからこそ、迷う。これほどの決意に、自らが介入して良いのかと。確かに意地のぶつかり合いなのだが、二人の気持ちは本物であり、介入は際限ない罪悪のように思えたのだ。

しかし、綾は自信をつけ始めていた。呼吸を整え、彼女は気持ちを整える。リプレの言葉を思い出す。自らの考えに、もう少し自信を持つべきだと、必死に言い聞かせる。たっぷり数呼吸分の時をおいて、意を決した綾は唇を噛んで顔を上げた。彼女は歩みで、今正に最期の一撃を応酬しようとしていた二人がそれに気付いたのだった。

 

レイドは明らかに格上の実力者であるラムダに、粘り着くように食いついていた。下がるどころか前に出て剣を振るい、逃げずに積極的な体術も交えて戦う。力の差はいかんともしがたかったが、それでもラムダは余裕が無く、何度目かの剣撃を受け止めると、小さく笑った。

「腕を上げたな。 俺が思ったよりもずっと」

「貴方に追いつくため、必死でしたから! 断頭台と呼ばれた貴方の必殺剣に追いつくため、無我夢中でしたから!」

「だが、まだ追いつけてはいないな」

「ええ。 しかし、勝つつもりです!」

レイドは絶叫すると、不意に一歩下がり、体をひねって下段から剣を振るい上げた。彼の剣は途中で不意に伸び上がるように軌道を変え、そしてまた途中で地面と水平に動きを変える。それは非常に早く、ラムダは舌打ちしてかろうじて受け止めたが、一歩下がるのを余儀なくされた。

これはレイドがフラットに入って以降、オリジナルで開発した切り札とも言える技であった。二段階の変化を与える事により、的確に相手の胴を狙う攻撃である。しかも一段階目の初期変化は身体に隠れて見えにくく、なかなかに真の狙いを悟らせない。構想は早くからあったが、完成したのはつい最近で、名はまだつけてはいなかった。だがそんな事とは関係なく、確かにあのラムダを焦らせるほどに追いつめた。下がったラムダに、レイドは更に連続して剣撃を叩き付けるが、それまでだった。無言のままラムダは今まで以上の破壊力がある中段からの剣撃を見舞い、レイドの一撃を文字通りはじき飛ばしたのである。数歩下がったレイドは思わず片膝を着き、逆にラムダは体勢を立て直し、余裕を持って剣を構え直す。

「くあっ!」

「限界だな。 今の技はなかなか良かったが、一度見た以上二度と喰らわん。 レイドよ、最期の時が来たようだな」

「くっ、まだまだっ!」

汗を拭い、レイドは立ち上がる。疲労は激しいが、まだその目に宿る闘志は衰えを知らない。ラムダもそれを見て取り、ゆっくりと剣を大上段に構えた。名高き必殺剣、断頭台のお目見えである。

轟音と共に踏み込んだラムダ、更にそれに併せてレイドも逃げずに真っ向から踏み込む。凄まじい火花を散らして二つの剣がぶつかり合い、かろうじてレイドはそれを止める事が出来た。綾に対ラムダ戦の詳細を聞いていたからこそ、出来た事であった。だが、これほどの高圧剣技を喰らってただですまないのもまた事実。レイドの剣には凄まじい負荷が、手には強烈なしびれが走り、続いての横殴りの一撃は受けきれなかった。一歩下がるレイドに、攻勢に出たラムダは連続して剣撃を叩き付ける。鋭く早い剣が、着実にレイドの体力を削っていく。だが流石にレイドも名うての強者、やられてばかりではなかった。汗を飛ばして不意に体の立ち位置をずらし、敵の脇目掛けて蹴りを見舞ったのである。意表を突かれたラムダは再び下がり、額の汗を拭った。

綾が来てからフラットの面々は着実に力を付けてきた。絶え間なく繰り返された激しい戦いがその要因だが、その過程でレイドも着実に力を付けていた。もしその前であれば、ひとたまりもなくラムダに斬られてしまっていただろう。大きく肩で息をつくレイドに、ラムダは冷徹に目を光らせた。ラムダにはまだまだ余裕があったが、ノーダメージというわけでもなく、若干の疲労を外から感じ取る事が可能だった。剛剣を地面に突き立て、彼は野太い声で問いを投げかける。

「……これほどの決意を持って騎士を続けてくれていれば、召喚師どもが大きな顔をする事も無く、俺がこんな事をせずとも良かったのにな。 何故逃げた、何故責任から逃げてしまったのだ、レイドよ!」

「確かに私は逃げてしまった。 しかし以前も言ったはずだ! もう私は二度と逃げはしないと! 確かに私は恥ずべき事をした! しかし今後、それを償っていこうと考えている。 だから今、ここで負けるわけには行かないんだ!」

「ならばどうやって償う。 お前達が逃げたせいで、召喚師どもに徹底的に痛めつけられてしまったこの街を、どうやって救うというのだ! 俺のやり方の他に、効果的な方法があるなら示して見ろっ! 何もせず、安穏に生きるだけが貴様の答えだというのなら、俺は絶対に貴様を許さん!」

「確かに今は妙案はない。 しかし、私には誇れる仲間達がいる! 若く力溢れたガゼルも、智恵に優れたアヤも、力強いエドスも、冷静なカシスも、皆を支えてくれるリプレもいる! 彼らと力あわせ、必ず妙案をはじき出してみせる!」

叫び終えると、無言のまま、ラムダとレイドは剣を構えなおした。二人とも、これが最期だと悟ったからである。レイドは心の中でフラットの皆に別れを告げると、静かに目をつぶった。

『……君達なら、私がいなくても、ラムダ先輩がいなくても、街を正しい方向へ導けるはずだ。 さらばだ、みんな』

「……来い、レイド」

「行きますとも……」

二人が同時に一歩を踏み出し、致命的な激突へ向け突進しようとする。だが、その瞬間、二人の耳に闖入者の声が届いた。

「二人とも、いい加減にしてくださいっ!」

驚いた二人が振り返ると、そこには怒りではない、むしろ悲しみの表情を湛え、綾が立ちつくしていた。

 

最初に口を開いたのはラムダだった。構えを解かぬまま、鋭く目を光らせ、綾に言葉を叩き付ける。

「無粋な真似をするな。 これは俺とレイドの問題だ」

「その通りだ。 例え君でも、この戦いを止める事は許さない」

「……本当にそうなら、私も何も言いません。 ですが、この戦いは見過ごす事が出来ません。 まして、それによってどちらかが傷つくのも、死ぬのもです」

「この戦いに大義がないと、貴様は言うのか。 大義のために死ぬ事が、無駄だというのか」

ラムダの言葉に、綾は即座に頷いた。その時、初めて彼女の前で、ラムダが感情を乱した。レイドも若干不快な様子で、綾の口元に視線を注いでいる。

「第三者が何を言うかっ! 誇りある騎士の戦いに、口を挟むな!」

「……違います。 二人とも、もう少し冷静になって下さい。 本当にこれは、二人が命を奪い合わねばならないほどの戦いなのですか? 絶対に妥協点がみつからぬほどの食い違いなのですか?」

「……!」

「私は、人の心を読めません。 でも、これだけは推察出来ます。 二人の戦いは、ただの意地によって、引き起こされたものなのではありませんか?」

綾の右横には、いつの間にかリシュールが立っており、興味深げにやりとりを見守っていた。セシルが前に一歩出て綾に文句を言おうとしたが、素早くリシュールが右手を挙げてそれを制する。そのやりとりには関わらず、綾は再び口を開いた。

「ラムダさんも、レイドも、まだまだ騎士だと私は思います。 騎士の仕事には、確かに戦場で死ぬ事も含まれるとも思います。 自らの誇りを、命より尊ぶというのも否定しません。 でも、相手との妥協点を探さず、命を無駄に捨てるというのは含まれているのでしょうか。 貴方達二人の思想は、本当に些細な違いだと、私は客観的に見て分析出来ます。 そしてその違いの間に、大きな溝を作っているのは何でしょうか。 それは、二人の個人的な感情にあるのではないでしょうか。 ……心を読む事なんて出来ませんから、具体的な指摘は避けます。 でも、思い当たる節は、本当にありませんか?」

「……むぅ」

「それに……二人が死んだらいやだと考えている人は沢山います。 いるはずです。 私だって、いやです。 剣を納めて、話し合いで、本当に解決出来ないのでしょうか」

無言のまま、レイドとラムダは俯いた。乾いた音が響いた。それは、リシュールが手を叩いた音であった。皆の注目が集まる中、リシュールは綾の頭に手を置いて、撫でながら言った。

「……もう良いだろ、二人とも。 もう子供の喧嘩は止めて、妥協点を探そう。 この子が指摘したとおり、はっきり言ってキミ達の戦いは子供の喧嘩だ。 そんなもんで命を捨てるなんて、騎士とか戦士とか関係なしに、ただのバカのただの愚行だ。 それに、実際問題私だって、キミが死ぬのも、ガゼルやリプレの保護者が死ぬのもやだね。 それに、私が示して君が蹴った案と、彼らの思想は共存出来るじゃないか」

「せ、先生っ!」

リシュールの言葉に、思わず感極まったガゼルが叫んだ。リシュールは視線をかっての被保護者に向けると、茶目っ気たっぷりにウィンクして見せた。そして、そのまま、セシルとスタウト、ペルゴにも視線を向けていく。

「キミらは? 子供の喧嘩で、ラムダ様が死ぬのを見たい?」

「正直、私はいやよ。 もし話し合いで解決出来るのなら……」

「俺は、ラムダ様の望む事ならなんでもかなえたいし、行きたい所には何処でもついていくさ。 でも、確かに無駄死にしたいって言うのは、歓迎出来ねえな」

「私も同感ですね。 ……ラムダ様、真剣なぶつかり合いで相手の心を知る事が出来たのだから、もう良いのではありませんか? 元は戦う理由など無かったのですし、そろそろ共存の道を探しても良い頃合いかと私は思います」

彼らが言葉を終えると、今度はフラットの面々が口を開いた。彼らの気持ちも、等しく同じであったのだ。

「レイド、俺はあんたに世話になりっぱなしだ。 だから今度だけは恩返しのつもりで言わせてくれ。 ……こんな戦いに、価値なんてねえよ。 ましてや、頼むから死ぬなんて言わないでくれ。 リシュール先生も、あんたも、いなくなっちまうのは嫌だぜ」

「モナティも、レイドさんがいなくなったら悲しいですの……」

「私も、レイドがいなくなったら寂しいかな。 何しろ恩人の一人だし、それにアヤちゃんが悲しむだろうしさ。 ……もうやめなよ。 意地なら充分に示したんじゃない? 街を良くしたいって気持ちは、二人とも同じなんでしょ? だったら手を組む事を考えればいーじゃん☆」

皆の声を受けた不器用な男二人は、小さく嘆息した。最初に剣を納めたのはレイドだった。続いて、ラムダもそれに習う。

「分かったよ。 確かに、傲慢で偏狭な考えだったようだな。 もう、一人で決着をつけるなんて考えないさ」

「自分が犠牲になれば、全て丸く収まるなどと言うのは傲慢だったのかも知れぬな。 分かった。 君達と共存の道を探し、街を変えるための方策を練り行こう」

小さく嘆息し、綾は胸をなで下ろした。彼女の前で、レイドとラムダは握手を交わす。それに対して、祝辞を述べようとした瞬間、場に第三者の殺気が入り込んだのである。皆が一斉に振り向くと、そこにいたのは、白き悪鬼だった。

「バノッサ……何用だ」

レイドの問いに、少し小高い位置に立ったバノッサは、口の端をつり上げて見せた。今度は殺気と戦意を全身から放っており、無言のまま綾がサモナイトソードをモナティから受け取る。彼女が感じた危険は、決して偽物ではなかった。間髪入れずに、バノッサの全身から、膨大な魔力が迸ったのである。

 

3,炎に包まれる野

 

「……ハン、二人で殺し合ってくれれば、手間が省けたってもんなのによ」

膨大な魔力を全身から迸らせながら、バノッサが言った。その目には絶対的な自信が宿り、言葉からは優越感がにじみ出ていた。ラムダが一歩前に進み出、咳払いする。

「手間だと?」

「この街は俺が頂く。 そのためには、テメーらは邪魔なんでな」

「北スラムさえ掌握しきれず、少数人員のフラットに破れ続けたお前なぞに、街を支配などできん。 過ぎた野望は身を滅ぼすぞ」

「過ぎた野望? それは違うなあ。 ……なあ、はぐれ女。 権力ってのは何だ?」

不意にバノッサは話を綾に振った。サモナイトソードに手を掛けたまま、綾は静かに応える。

「……力です。 社会や国家を動かす為の力を、そう呼びます。 一流の為政者は社会を良くするためにそれを振るい、二流の為政者は立身や保身のために乱用する物です。 それが、どうかしましたか?」

「ヒャハハハハハ、正解だ。 俺は北スラムを支配したから知ってるが、お前の言うとおりなんだよ。 権力は力だ。 そしてそれは恐怖とも結びつく。 そして今の俺には、充分にそれが備わってるんだよぉっ!」

「ひっ! 止めてくれ、アニキッ!」

地面に転がされていた二人のオプテュス構成員が悲鳴を上げたが、バノッサは止めなかった。そのまま印を組み、そして呪文を完成させた。

「誓約において、バノッサが命ずる! 滅ぼし焼き尽くせ、ブラックラック!」

次の瞬間、場が閃光に包まれた。バノッサの側に、空間の裂け目から這い出すようにして現れた、黒衣の魔術師。それが杖から巨大な火球を放ったのである。一瞬遅れて轟音が響き渡り、地面が激しく揺動する。煙が濛々と上がり、バノッサは嬌笑した。だが、それが舌打ちと共に止まる。

綾達の前に、カーテンのような光の帯が出来ていた。そして綾の上には、リピテエルが具現化している。これはガフォンツェア召喚と同時に使えるようになった、リピテエルの第二防御シールドであった。術者本人だけを護る第一防御シールドに比べて防御力は劣るが、広範囲に壁を展開する事が出来る。その代わり消耗も第一防御シールド以上に激しく、綾の額からは汗が伝っていた。口の端をつり上げたバノッサは、怒りと憎しみを持ってそれを見やった。

「ほぉ……俺と遊んでた頃と比べて、更に強くなってやがるな」

「やはり、召喚術を身につけていましたか。 先ほどの態度からして、そうではないかと思いましたが」

「ちっ! テメーは相変わらずむかつくぜ! だが、すぐに乗り越えてやるからな! それに、テメーらはもうお終いだ! 直撃は防いでも、足元を見てみな!」

バノッサの言葉に呼応するように、死の沼地が燃え上がり始めていた。一気に爆発的な燃焼を見せるのではなく、徐々に、だが着実に燃え上がりつつある。更に、吸ったらまずいと露骨に分かる黒い煙も、それに伴って立ち上り始める。どうやらこの沼に浮いている油に似た液体は、有毒なだけではなく可燃性もある代物のようであった。

綾と比べて、汗一つかいていないバノッサは嬌笑した。破壊力はヴォルケイトス以上かとも思える召喚術を使った直後だというのに、である。そのまま彼は身を翻し、侮蔑に満ちた視線を炎の中に立ちつくす綾に叩き付けた。

「仮に生き延びても、今日は顔見せ程度だ。 俺様が手に入れた、新しい、最強の力のなぁ! 俺はもう二度とテメーには負けねえ! 俺は自らの血に相応しい最強の力を手に入れたんだ! もうテメーなんぞには負けねえからなっ! 地獄から、俺がサイジェントを支配する様を、指をくわえて眺めてやがれっ!」

「ひ、ひいいいいいいっ! アニキ、助けてくれっ! 見捨てないでくれーっ!」

部下が絶叫するが、バノッサは振り向きもしなかった。有毒の煙が立ち上る沼地を後に、さっさと引き上げていった。

 

咳き込みながら、リシュールが言った。その顔には、珍しく露骨な焦りが張り付いていた。

「こほっ、ごほっ! 脱出するぞ! 逃げられそうな場所を探して!」

「それなら、東へまっすぐ行けば、抜けられるはずです! あっちは大地がしっかりしていて、沼に踏み込む可能性も少ないはず!」

「分かった! それと奇襲に気をつけて! 伏兵がいる可能性がある!」

ペルゴの言葉に注意を促すと、リシュールは口を押さえた。ますます濃くなり始めた煙の中、皆は一丸となって東へ突破を計った。濛々たる煙は一秒ごとに勢力を増し、数メートル先も分からぬ状態になった。そのなか、必死にカシスが所持していたコンパスを駆使して、皆は進む。だが、惨事が起こるべくして発生した。

「きゃ、きゃああっ! マスターっ!」

「モナティ!」

固い地面を踏み外し、モナティが燃え上がる泥沼に足をつっこんでしまった。慌てて綾がレイドと協力して引き上げ、足に燃え移った火をはたいて消したが、彼女は火傷して身動き出来ない状態になっていた。レイドが無言のまま痛みに泣き震えるモナティを担ぎ、そのまま皆は進む。リプシーを召喚している暇など無い。炎は着実に燃え続け、煙が立ち上り続けていたからだ。

這いずるように必死に沼を抜ける皆は、互いを気遣う余裕など無かった。ペルゴは律儀にも両脇に捕虜二人を抱えていたが、彼の表情にも余裕はない。剣豪も、召喚師も、自然の猛威の前には為す術がなかった。途中アキュートの一般兵士一人がモナティと同じように沼に踏み込んでしまい、火傷して身動き出来なくなった。スタウトが肩を貸して必死に歩き、共に脱出を目指す。沼地自体はさほど広い物ではなかったのに、途轍もなく広い地獄だと綾は思った。皆体力の限界に近づいたとき、ようやく明るい空と、見たくもない者達が見えてきた。

かろうじて地獄を抜けた彼らの前に待っていたのは、武装して待ち受けていたオプテュス構成員であった。数は十名ほどで、煙で激しく疲労したアキュート及びフラットの者達を、手ぐすね引いて待ち構えていた。サモナイトソードを抜こうとする綾を手で制し、進み出たのはラムダだった。

「どけ。 君は負傷者の手当をして欲しい。 此奴らは俺一人で充分だ」

「ハン、煙でズタボロなの知ってるんだぜ! おまえら、やっちまえっ!」

無言のままラムダが前に出る。その後の光景は、(千切っては投げ千切っては投げ)という言葉通りの物となった。多少強くはなっていたが、それでもチンピラ程度がラムダの相手をするのは荷が重すぎたのである。煙で弱っているというハンデがついていたとしても、それに代わりはなかった。ただ、最期の一人は、背後に回った所をラムダが対応しきれず、とっさに割って入ったレイドが叩きのめしたのだった。ガゼルが冷や汗を拭い、心底安心した様子で言った。

「……なんか、彼奴と戦わなくてすむってのはほっとするよな」

「君だって、結構良い線行ってるよ。 そんな事より、全員いる?」

カシスの言葉に、無言のまま辺りを見回したガゼルは、最悪の事態に直面した。リシュールの姿が、何処にもなかったのである。見る間に少年は蒼白になり、絶叫した。

「せ、先生! せんせーっ! 頼む、いたら返事してくれっ! ち、ちきしょう、ちきしょーっ!」

「まって、飛び込んでも何にもならないよ!」

慌ててカシスがガゼルを羽交い締めにしなければ、少年は火の中にまた飛び込んでいっただろう。ラムダが何か言おうとし、振り向いて舌打ちした。

敵は、これだけではなかったのである。地響きを立てて向こうから巨体が歩み来る。大きな亀のような姿だが、あるべき箇所に目はなく、変わりに甲羅の頂点から太い突起が延び、その先端に目が着いていた。しかも椰子の実のように放射状に、併せて六つもである。甲羅の上には無数の穴が空き、両手両足からは鋭いかぎ爪が延びていて、動きも決して鈍くない。それは、敵意をむき出しに咆吼した。

「貴様ラガ、マスター・バノッサノ言ッテイタ人間共カ……。 俺ノ名ハ、クルシーエィル。 恨ミハナイガ、此処デ死ンデモラオウ。 覚悟シロ!」

「くっ、新手かっ! ちきしょう、こんな時にっ!」

「サプレスの悪魔だね。 手強いよ、気をつけて!」

「アヤっ! どうする、此奴を相手にしてたら、多分先生を助けられねえっ! でも、背を向けて、無事に済むとも思えねえぞ!」

『煙の中に誰かが助けに行っても、一人や二人では二重遭難になる可能性が非常に高いです。 仮に全員で行っても、見つかるかどうかは賭けになります。 しかしこの敵を相手にしなければ、下手すると煙の中で追撃を受ける事になりますし、負傷者や倒れているオプテュスのみなさんが……! ガフォンツェアでは周りの人を巻き込んでしまいますし、ヴォルケイトスであの敵を撃破して……! いや、一か八か、新しい召喚獣を、(彼)を試してみます!』

まだ誓約はしていないから、サモナイト石を消費しての召喚になる。小さく頷くと、綾は懐から朱色のサモナイト石を取りだし、強く念じた。サモナイト石が淡く発光し、辺りに朱色の輝きをまき散らす。それを天に掲げ、綾は叫んだ。

「私達を助けてください、シュレイロウ!」

 

空間に穴が空き、召喚獣がそこから這い出してくる。現れたのは、文字通りの毛虫であった。ずんぐりとした短く丸っこい体型、鉄条網のように生えた毛は、綾の故郷にいた、イラガと呼ばれる非常に強力な毒を持つ蛾の幼虫そっくりである。体の両脇には白く長い翼が着いていたが、そのほかは全て尽くがイラガの幼虫だった。体長五メートルに達する彼は、穴から抜け出ると、綾を見据えた。昔イラガの幼虫に差された事があり、大泣きした経験がある綾は、精神的にも肉体的にも一歩下がったが、その分召喚獣に即座に間を詰められた。

『い、いいいいい、イラガの幼虫っ!?』

「あー、おじょーちゃんかのう、わちをよびだしたのは」

「は、はいっ! あ、あの、その……!」

「おー、なんとゆーか、わちごのみの、あいらしーおじょーちゃんじゃのう。 ほれ、なでなでしてあげようのー」

ゆったりのったりした老人口調で喋っていたが、かなりとんでもない行動をする召喚獣であった。皆が呆然とする、悪魔までもが唖然とする前で、シュレイロウは引きつった綾を、無数の足でしっかりと抱きしめ、頬ずりした。文字通り固まった綾、心底羨ましそうに呟くカシス。

「あーあー、羨ましいなあ、あの召喚獣」

『た、たたた、助けて、ややややや止めてください!』

「おー、なんともうぶでかわいいのう。 ほれ、こんどはのー、なめてあげようぞ」

二またに分かれた長く太く紅い舌で、シュレイロウは綾の顔を、下から上へ丹念になめ回した。蒼白になり、脱力する綾。色々な意味で石化した綾になおも頬ずりしながら、シュレイロウは言う。

「で、おじょうちゃん、わちになにをさせたいのかのう」

「……あ、あちらで、煙の中に倒れている人がいるはずです。 助けてきてください」

「おーおー、おやすいごようじゃあー」

震える手を何とか持ち上げ、綾は火中を指さした。それを見た召喚獣はようやく綾を放し、意外に素早い動作で、煙の中へ歩み去っていった。

 

地面に手を突いて、下を見続ける綾。しばし非常に気まずい沈黙が場を包んだが、それをうち砕いたのは、立ち上がって無言で顔を拭いた綾であった。うつむき加減の彼女の顔を、まともに見られた者は誰もいなかった。悪魔でさえも。

「……シュレイロウさんは私の精神力を少しずつ吸収していますが、戦う分には問題ありません。 敵を排除して、安全圏を確保しましょう!」

「任せて、大丈夫なんだな?」

ガゼルが慎重に悪魔に対して間を詰めながら言い、綾が頷いた。ようやく場に緊迫した空気が戻り、皆が戦闘態勢を取った。ラムダは無事なアキュート兵達に、鋭く命令を飛ばした。

「負傷者を後送しろ。 更に、その辺に倒れているそいつらを縛り上げて、安全地帯まで運べ! ペルゴ、お前は護衛に当たれ」

「はっ!」

「セシル、スタウト、俺を援護しろ!」

愛剣を振り上げ、ラムダが一気に悪魔への間を詰めた。レイドも小さく頷くと、綾に視線を向ける。

「何か妙案はあるか?」

「……今、私は召喚術が使えません。 敵の実力も分かりませんし、戦いつつ方針を練るべきだと思います。 ガゼル、私はレイドと一緒にラムダさんと逆方向に回り込みますから、目をピンポイントで狙ってください。 カシス、貴方はモナティを治療して、その後一緒に参戦してください。 それで様子を見て、その後順次柔軟に方針を変えましょう」

「うむ、それで行こう」

「オッケー、分かったよっ☆」

頷きあうと、レイドと綾はほぼ同時に地を蹴った。そのまま悪魔に向け、間を詰めていくが、何しろ足場が悪い上に、背後は猛火であるから地理的な条件が悪い。その上、悪魔は強かった。ラムダとスタウトが的確なコンビネーションで攻撃を叩き付けているが、上からそれを見下ろし、丸い体を旋回させて確実にそれを防ぎ続ける。水平方向には、死角のない相手であった。また攻撃も鋭く重く、三度目の横殴りの一撃をスタウトは防ぎきれず、苦悶の声と共に転がった。彼の代わりにセシルが前線に出るが、戦況は好転しない。更に逆側からレイドと綾が参戦し、それと同時に悪魔は戦法を変えた。

甲羅の上の穴から、無数の触手が生えたのである。柔軟に伸縮するそれの先端部には鋭い爪がついていて、殆ど真上から周囲の人間達に襲いかかった。更に水平方向からは、体を旋回させながらの、前足や後ろ足についたかぎ爪が襲いかかる。基本的に人間は上からの攻撃には耐性を持たないし、同時に水平方向からも攻撃されればどうにもならない。それでも即座に倒されず、防戦一方に持ち込んだだけでも大した物であった。じりじりと追い込まれる人間達。攻撃を更に激化させる亀の悪魔。

次の瞬間、絶好の狙撃位置に到達したガゼルが、絶妙のタイミングでナイフを放った。矢と違い、ナイフは同時に沢山投げられる上、予備動作が少ないという利点がある。彼は次々に大刃のナイフを投擲し、それは次々に目を貫いた。だが、敵もさるもの、劣勢に追い込まれてからも動じない。触手の何本かをガゼル向け、次の瞬間先端部の爪を発射したのである。それは狙い違わずガゼルの足下に連続して突き刺さり、さしもの彼も確保した拠点を放棄せざるを得なくなった。

「う、おわっ! や、野郎っ!」

「ガゼル、そのまま気を引いて! もう一つ二つ目を潰してください! ラムダさん、セシルさん、レイド、中距離を保って、触手にのみ対応してください!」

「考えがあるようだな、承知した! ぜいっ!」

「オノレ、コレ以上好キ勝手ニハサセンゾ!」

ラムダが咆吼し、真横から襲いかかったかぎ爪を鋭い一撃ではじき返すと、真上から連続して襲いかかった二本の触手を転がって避けた。悪魔もそれに応じて吠え、触手を振るって次々に攻撃を繰り出す。先ほどガゼルが沈黙させた目は三つ、だが残り半分は健在である。また、時々頭を狙ってセシルが拳を叩き込もうとするが、動きが早い上に甲羅に閉じこもってしまうため、なかなか直撃はならなかった。綾にも頭上から触手が襲いかかったが、何とか彼女はそれを避けると、サモナイトソードでの一撃を叩き付けた。触手は爪ごと両断され、鮮血をまき散らして地面に転がった。サモナイトソードの切れ味は凄まじく、二本目、三本目の触手が次々に後を追った。更にセシルが一本の触手を捕らえ、ストラを叩き込むと、それは水風船のようにはぜ割れた。

触手は千切られてもむしられても、次々に生えてきた。驚くべき再生能力であったが、流石に瞬時には復活出来ない。綾とセシルが数本を叩き潰した結果、ガゼルに襲いかかる爪の数が若干減った。それに乗じてガゼルが再びナイフを投擲し、ついにもう一つの目を沈黙させた。悪魔が苦痛に絶叫し、無茶苦茶に触手を振り回す。台風のように襲い来る無数の触手を弾きながら、綾は心中で呟いた。

『回転しながらの間断無い攻撃、まるで上杉謙信公が考案した車懸りの陣ですね。 厄介です。 あれを封じるには、やはり……』

「マスター!」

「助太刀するよ!」

綾が振り向くと、ついに火傷を治したモナティが、ハンマー状に形態変化したガウムを持って駆け来ていた。その背後にはカシスの姿もある。増援を素早く考慮に入れると、綾は一旦後退し、ラムダとモナティ、そしてカシスとセシルに相次いで耳打ちし、それからサモナイトソードを構えなおした。悪魔は回転しながら、徐々に綾との間を詰めていった。それに呼応するように、モナティが地を蹴り、少し遅れて綾がそれに続き、一気に敵との間合いを詰めていく。更に、ラムダが彼らから少し離れた位置で、直線的に敵へ突貫した。

「オノレ、小癪ナッ!」

「援護しろっ!」

絶叫したラムダに、抉り込むように、斜め上から無数の触手が襲いかかる。綾より若干先に飛び出したモナティも、それは同様だった。思わずすくみそうになるモナティだったが、彼女の前を横切るようにレイドが走り、数本の触手を一気に叩ききった。また、ラムダの頭上に躍りかかった触手は、半身を起こしたスタウトが投擲したナイフが横殴りし、勢いを鈍らせる事に成功した。ついに敵の懐に潜り込んだモナティは、敵左足に、ハンマー状のガウムを叩き付けた。

「え、えーいっ!」

「きゅーっ!」

凄まじい音が響いた。亀の目がない頭部に、驚愕の表情が走った。刃の如き彼のかぎ爪には、亀裂が走っていたのである。

「ガッ! キ、貴様、ソノ異常ナパワー、メイトルパノ獣人カッ!」

「受けてみろっ! 我が必殺剣を!」

殆ど間をおかず、ラムダが敵右足に、(断頭台)を叩き付けた。同様に轟音が響き散り、亀が苦痛に絶叫し、回転が止まった。だが流石に悪魔、それだけでは屈せず、動きが止まったラムダとモナティに、無事だった無数の触手を真上から驟雨の如く叩き付ける。だが、間をおかずカシスが召喚術を解き放つ。六本の剣が真上から亀に降り注ぎ、同時に戦況を見ていたガゼルが、無数のナイフを投擲していた。

「唸れ、光将の剣群!」

「おおら、これでも喰らいやがれっ!」

「ガ、グギャアアアアアッ!」

それはモナティとラムダに襲いかかった無数の触手の根元を襲い、或いは引きちぎり、鮮血をぶちまけた。そして、その隙に間を詰めた綾が、先までにガゼルが作った敵の死角に潜り込んだ。そして甲羅を蹴って敵の上に飛び乗り、すれ違いざまに、甲羅の頂点から延びている、目が生えている突起を撫で斬った。サモナイトソード、虚空一閃。突起は根元から真っ二つになり、今までにない大量の鮮血が飛び散った。動きが止まる亀、勝利を確信する皆。だが、今の攻防で無事だった触手が綾の手に足に絡みつき、逆さ釣りに宙につり上げたのである。触手の力は強く、綾は自力でふりほどく事が出来ず、苦痛に顔をゆがめた。

「くっ……!」

「惜シカッタナ、ダガ俺ノ勝チダ! コノママ八ツ裂キニ……」

悪魔はそれ以上喋る事が出来なかった。動きが止まった頭に、真っ正面からセシルが突っこみ、最大出力のストラ拳を口の中に叩き込んだからである。甲羅の内側から光が迸り、内蔵が潰れる音と押し殺したような絶叫が響いた。そして、ついに亀は地面に崩れ、二度と起きあがらなかったのであった。

 

ガゼルが遮蔽物の影から現れ、大きく息をついた。戦いの最中、敵の狙撃をかわすためにずっと走り回っていた彼は、前線で戦い続けた他の者達と同様に疲弊していた。対し、参戦が遅かったため疲弊が少なかったカシスは、若干余裕のある様子で応える。

「はあ、はあ……冗談じゃねえ。 なんて奴だ。 悪魔ってのは、どいつもこいつもこんなに強いのか?」

「いや、此奴は私が今まで見た悪魔の中でもかなり強いほうだよ。 雑魚悪魔は、私一人でもじゅーぶん手に負えるもん。 下手すると此奴、大悪魔クラスじゃないかな。 まあ、大悪魔の中じゃあ最弱のレベルだろうけど」

悪魔、かよ。 しかもその中で最弱だって? 全く洒落になってねえ。 ……で、このでかい亀、死んだのか?」

「此方にある肉体はね。 サプレスにいる本体は全然無事だよ。 違う世界で活動するから、流石の此奴らも力を発揮しきれないの。 で、肉体を擬似的に形成して戦うんだけど、それには当然限界があって、私達でも相手に出来るわけ。 ……ただ、あまり強くない天使や悪魔は、此方で死ぬとそれまでなんだけど」

カシスの顔に影がよぎり、ガゼルは複雑な事情を自然に察して会話を切った。数度忌々しげに頭を振ると、ガゼルは疲れ切った様子で、ナイフを拾い集めていった。嘆息して頭を押さえた彼の視界に、炎の中を蠢く影が入った。それは先ほどのシュレイロウであり、彼の胸元にはリシュールが抱えられていた。意識はない様子で、慌ててセシルが駆け寄り、リシュールの細い体を受け取り横たえる。ガゼルはナイフを放り出し、その側に寄った。ラムダ、スタウト、それに負傷者の後送を終えたペルゴも、傍らに膝を突いた。セシルは素早く状態を確認すると、ストラで生命力を注ぎ込み始める。

「先生、先生っ!」

「取り合えず……大丈夫ね。 命に別状はないわ」

「どうやら、わちのでばんはすんだようじゃのう。 でわ、しつれいするぞい」

シュレイロウが空間の穴から、這いずるように帰っていった。それとほぼ同時に、リシュールの指先がひくりと動き、目をゆっくり開けた。ガゼルはこぼれ落ちる涙を拭いて、無理矢理笑顔を作って見せた。

「せ、先生、良かった、良かった……」

「いい年こいた男が泣くな。 ……ごめんな、心配かけた」

ガゼルにほほえみかけると、リシュールはセシルに肩を借りて身を起こした。それを見終えると、綾が言った。

「……一旦引き上げて、善後策を練りましょう。 それと、オプテュスの人達も捕まえておけば、後で重要な情報が引き出せるかも知れません。 ……以前のバノッサさんなら、部下ごと攻撃したり、部下を使い捨てに何てしなかったはずなのに。 聞きたい事は山ほどあります」

「そうだな、それに此処にとどまるのは危険だろう。 それにしてもバノッサめ、やってくれたものだな」

ラムダが燃え上がる死の沼に振り返り、頭を振って歩き出した。アキュートの者達が、慌ててその後を追った。綾も追おうとしたが、不意にラムダが足を止め、彼女に振り返った。スタウトとセシル、それにペルゴもそれに習った。小首を傾げる綾に、ラムダは不器用に笑みを浮かべて見せた。レイドと同じように、不器用な笑みを。

「忘れていた。 今日は君のお陰で助かった。 礼を言わせて貰おう。 ありがとう」

「へへ、そう言うこった。 正直、嬢ちゃんと戦わずに済むのは嬉しいんだぜ」

「私からも礼を言わせて貰いますよ。 アヤさん、これからも良きおつきあいをお願いしたい所です」

「色々あったけど、これからは共に戦いたい所だわ。 よろしくお願いね」

「はい。 此方こそよろしくお願いいたします」

今日初めて、綾は心からの笑顔を浮かべて、礼をした。いつものように、完璧な角度での礼を。いつもより更に心のこもった、温かい礼を。

 

燃え上がる死の沼地は、まだ鎮火する気配を見せなかった。既に幹部を除くアキュートの面々は撤退を終え、ガゼルはリシュールにつきっきりで、珍しく喜びに興奮した様子で話している。まだふらつき気味のリシュールを支えているのはセシルで、色々ガゼルと共に話しながら歩いていた。ただ聞こえ来る話を総合すると、まだリシュールはフラットのアジトに帰る気はないようで、ガゼルは時々寂しそうな顔をしていた。それを少し離れた後ろから見ながら、綾は目を細めた。割り込んでは行けない場所であり、雰囲気だった。

『良かった……しばらく、彼らだけにしてあげたい所ですね。 ガゼル、おめでとうございます。 本当に、本当に良かったです』

綾も疲れ切った足を引きずって歩き出したが、カシスがその横に並んで言った。その顔には、珍しく逡巡が張り付いている。

「……ねえ、アヤちゃん。 気付いた?」

「バノッサさんの事ですか? あれほど大がかりな術を使ったのに、汗一つかいていませんでしたね」

「うん。 ……気をつけた方がいいね。 どんな凄い召喚師でも、大業は連発出来ないものなんだ。 でも奴は、その常識を覆す行動をしてた。 それに、あの悪魔の戦闘能力、ただ事じゃない。 あれクラスの悪魔を沢山呼べるとなると、サイジェントの田舎軍隊なんてひとたまりもないよ。 何か、尋常じゃない力を手に入れたとしか思えないね」

カシスの言葉に、綾は真剣に頷いた。どうやら何にしても、フラットとアキュートで戦っている場合などではないようだった。バノッサの力は、あまりにも常軌を逸していたからである。また、今まで凶暴ではあっても仁義を通していたバノッサのあまりにも人が変わった行動も、綾には気になる所であった。

 

台所で、リプレが洗い物をしていた。いつになく小さく見えるその背中に綾が咳払いをすると、彼女は慌てたように振り返り、そしてすぐに顔を戻した。肩を振るわせる彼女に、レイドは言う。

「……迷惑を掛けて済まなかったな」

「頼むから、もう、一人で解決しよう何て思わないで。 出来るだけ、相手と対話する事を考えて。 ……こんな胃が痛い思いするの、もういやなんだから」

「すまない」

リプレは振り返り、涙を拭って、笑顔を浮かべた。ガゼルはいつにない晴れ晴れした笑顔で、レイドに続いた。

「もう一つ、いい知らせがあるんだ。 ……先生と仲直り出来た。 まだ、帰っては来ない気みたいだけど、もう戦わなくて良いんだ」

「……お祝い、しなくちゃね。 もう、もう! 今日はいい日何だか悪い日何だか。 ガゼル、準備手伝いなさいよー。 あまり大がかりなお祝いは出来ないけど!」

「ああ、何でもするぜ。 ちゃっちゃとやっちまおう!」

二人は協力して洗い物を始め、レイドもそれを手伝い始めた。綾は小さく頷くと部屋を出たが、出口で三人に呼び止められた。彼女が振り向くと、三人は同じ言葉を言った。

「「「ありがとう、アヤ」」」

「……はい」

涙を拭うと、綾は自室に戻る。幸せな気分を抱え、明日からの努力を再確認して。

 

フラットのアジトでは、アキュートとの戦いが本当に終わった事が告げられ、張りつめていた空気が一旦開放に向かった。ガゼルはいつになく機嫌が良かったし、リプレは些細なお祝い料理を作って、リシュールとの和解とレイドの無事な帰還を喜んだ。だが、喜んでばかりいられない事実も幾つか判明し始めていた。

その情報を持ち込んだのはアカネであった。彼女は自らも食材を持ち込んで祝祭に参加していたが、それが一段落した後、綾とレイドに、改まった表情で言った。

「……あのねあのね、気をつけた方がいいんだけど、今この街に、とんでもないヤバイ連中が来てるんだ。 今日ちらりと見かけたんだけど……」

「……どういう人達ですか?」

「アタシも一応裏家業の世界に生きてきたから、ししょーも入れて色々色々いーろいろヤバイ人は見てきたけど、それでもヤバイって思うほどの人達だよ。 ……北スラムには、暫く立ち入らない方がいいかも知れない。 アタシも深入りしてたら、今頃ドブに浮かんでたかも」

「そうか、本格的な協議が必要かも知れないな。 明日でも、会議を開こう」

バノッサの、そしてあの悪魔の異常な力を目撃したレイドは、深刻な表情で頷いた。綾も決して、気楽な気分にはなれなかった。

 

4,広がる死の匂い

 

「も、もう少しゆっくり歩こう」

「なーにいってんのよ。 相変わらず軟弱だわね」

「そう言われても、僕はデスクワークが専門なんだ。 フィールドワーク専門の君と一緒にしないでくれ」

「何それ、わたしがそれじゃあ逞しいみたいじゃない。 この細身柳腰眉目秀麗の美女を捕まえて何を言うかな、君は」

「ぐ、ふぐっ! げごふっ!」

サイジェントに続く街路で、一組の男女が奇怪な会話をしていた。一方はショートカットの女性で、小さな丸眼鏡を鼻に乗せている。もう一方は尖った顎が目立つ、青白い長身の男である。女性には全然余裕がある様子なのに、男性は杖などをついて、挙げ句女性に背中を叩かれて激しく咳き込んでいた。どうやらこの二人、見かけと運動能力が正反対のようである。

男性の名はギブソン=ジラール、女性の名はミモザ=ロランジュ。どちらも蒼の派閥に属する若手の召喚師である。召喚師としてはかなり家格が低く、実力を買われてエクスに抜擢された者達であり、将来の幹部候補と噂されている。家格が低いため、蒼の派閥内部に蜘蛛の巣が如く張り巡らされた軍需産業利権の網には今のところ縁が薄く、そのためエクスも手兵として重宝し使っていた。二人とも小さな動乱に参加した事があり、その際に実戦を経験している。召喚術の腕はまず一流と言って良く、実戦で度胸も身につけている事から、普通の盗賊程度なら充分に撃退する実力を持っている者達だった。

しかし、ギブソンの体力が致命的にない事、ミモザの性格があまりにもがさつだと言う事、この二つは揺るぎない事実であった。あまりにもギブソンがぐずったため、ミモザも休憩をする事に同意し、休憩所に寄った。だが、すぐに(休憩)は終了し、また二人は進み始める。ミモザが、ギブソンを半ば引きずるようにして。

サイジェントの治安が悪化している事は、近隣都市でかなり有名であり、そこへ向かう馬車などはかなり数を減らしていた。そのため彼らは徒歩でサイジェントに向かわざるを得なかった。ただ、二人ともそれに不満を感じていたわけではない。特に、歩く事自体が好きなミモザは、倒れそうになるギブソンを幾度も引きずり起こしながら鼻歌交じりで道を進んでいた。蒼の刃も二人を支援しているのだが、今のところ彼らの前に姿を現してはいなかった。まあ、彼らが姿を見せるときは、本当に危険な時のみなのであるが。

二人はあくまで匿名の密使だから、マーン家三兄弟とも会う予定はない。現地にいる蒼の刃の者達と合流し、その後にサイジェントで何が起きているか探るのが任務であった。

「な、なあミモザ」

「うん?」

「もし無色の派閥がサイジェントで何か企んでるとしたら、君はなんだと思う?」

「そうねえ。 太古の魔物が封じられた土地って訳でもないでしょうし、どうしても欲しい場所って訳でも無いわよねえ。 特に含有する魔力が膨大な土地だと言う事もないでしょうし」

ミモザの言葉に、杖をついて後を追いつつ、ギブソンは思惑を巡らせる。ミモザは振り返ってそれを眺めやると、にんまりと笑みを浮かべ、背中をまた激しく叩いた。

「が、ごほっ! げごふっ!」

「まあまあ、考えてもどうにもならない事はあるんだから。 今は情報が少なすぎるし、判断は無理よ。 何にしても、いつも余計な事まで考えすぎるのが君の欠点だぞ。 それに、考えすぎると……」

「……?」

「は・げ・る・わ・よ! キャハハハハハハ」

硬直し、呆然とするギブソン。けらけらと笑いながら、さっさと先に行くミモザ。奇妙な道中は延々と続いた。やがて、小さな峠を越えた二人は、サイジェントの姿を確認した。汗一つかかず、額に手で庇を作って遠くを見やるミモザ。地面に両手をつき、滝のような汗を地面に投下しているギブソン。

「ようやく見えた。 ほら、ギブソン、あれがサイジェントよ」

「い、いま……は、はな……し……かけ……」

「こんな程度の峠越えたくらいで、何死にかけてるかな君は。 オラ、しっかりしろやボケがあ!」

「ごふ、げ、ぶふうっ!」

ミモザがギブソンの背に蹴りを入れ、地面に倒れたギブソンが激しく咳き込む。しばし和やかなどつき漫才の空気が辺りに流れたが、やがて顔を上げたギブソンの顔は、真剣そのものになっていた。サイジェントを見やるミモザの顔もである。仕事をする際の、プロの職人の顔であった。眼鏡を直しつつ、ミモザが言う。

「取り合えず、まずは周辺の情況を総合的に探りましょうか?」

「そうだな。 僕は僕で、無色の派閥の動きを直接探ってみようと思う」

「じゃ、連絡先は指定通りで。 わたしは先に行くわね」

「……ああ。 では、また後でな」

ミモザを見送ると、ギブソンは印を切り、召喚術を唱えた。現れた小さな影に、囁くように命令を伝える。やがてそれを終えると、ギブソンは背中に靴跡をつけたまま、マイペースで峠を下り始めたのだった。

蒼の派閥が本格的にサイジェントでの活動を開始した瞬間である。二人は確かに有能であり、短期間で真相に迫った。しかし惜しむらくは、活動を開始するのが遅すぎた、という事であった。

 

北スラムの廃屋、その一つの中に、愛しげに魅魔の宝玉を撫でるバノッサがいた。彼の力は加速度的に上昇しており、また精神の均衡も一秒ごとに失われていた。カノンの諫言ももはや届かなかった。やがて闇の中、彼は笑い声と共に顔を上げた。舌なめずりしながら、狂気に満ちた悪鬼は言う。

「俺は全てを手に入れる……力も、富も、名誉も……居場所もな……ひひ……ひひゃははは……ハハハハハハハハハハハハハハ!」

狂気の笑いは辺りに響き続け、それを聞いた部下達は怯えた。だが彼らは程なく、怯える事さえ出来なくなる身だった。

サイジェントに致命的な破滅を伴う変革が訪れるまで、後一月を切っていた。忍び寄るように、這いずるように、それは着実に近づいていたのであった。

 

(続)