死の森より、彼方へ

 

序、凍れる炎

 

暖かな日差しが、その男の周囲には降り注いでいた。男は優しげで、一目で業物と分かる武具に身を包んでいるにもかかわらず、雰囲気はとても穏やかだった。男は中年から老年にさしかかろうとする年代で、だが体のつくりはとても力強い。黒く長い髪は肩から背中へと垂れ下がり、日光を穏やかに反射している。男の目に宿る光は穏やかであり、だが内部には強烈な意志の力も秘めていた。相反する要素を共に内包させていたのである。男の目からだけでも、その深みが底知れないものだと、周囲に悟らせるには充分だった。

男が宙に手を伸ばすと、待っていたかのように小鳥がとまる。そして、目を細める男の掌から、餌を何の恐怖もなく食べた。男の右には子鹿がいて、男に身を預けている。左には数羽の兎がいて、男におびえる様子は全くない。

「お前達を、必ずや約束の地に導こう。 もう少しだ。 もう少しで、それはなる」

男が呟き、小鳥の背を優しげに撫でた。彼の目には慈愛があり、穏やかな心は周囲の空気までもを和ませていた。

不意に兎が耳を立て、一斉に男の前方を見た。子鹿は男の後ろに逃げ込み、かすかに震える。小鳥は男の手から飛び立ち、近くの木の枝へと非難した。男がゆっくり視線を向けると、影から沸き上がるようにして別の男が現れた。鬼をかたどった面を着け、全身をローブで覆っている男だった。

「オルドレイク様」

「どうした、クジマよ。 我が友たちが怯えておるではないか」

「……儀式の準備が、全て整いました。 後は、(選定作業)に入るだけです」

「そうか、いよいよだな」

鬼の面を着けた、クジマと呼ばれた男の声はまだ若い。だが、その言葉には、深淵から沸き上がるような憎悪がかすかに含まれていた。だが、その憎悪は、明らかにオルドレイクと呼ばれた男に対する物ではなかった。

「クジマよ、行こうか」

オルドレイクは立ち上がり、マントを翻した。そして、不意にその雰囲気が変わった。オルドレイクの視線が、枯れ果てた森へと向けられている。今のオルドレイクから発せられているのは、今までの暖かな雰囲気ではない。全てを焼き尽くすような、そう、さながら煉獄の炎が視線に宿ったようだった。

「約束の地を、創りに」

「はっ!」

クジマと呼ばれる男が頷いた。二人の男は、立ち枯れ異様な雰囲気を発する森へと歩き去っていった。

その背中にあったのは、使命感と強大なる意志力。そして、如何なる力にも抗する、不屈なる(想いの力)であった。

 

1,迷霧の森の儀式

 

カシス=セルボルトは、迷霧の森の中を歩き続けていた。周囲には立ち枯れた無数の木と、腐れ果てた地面、そして人と異形の獣の死骸がたまに転がっているばかりである。文字通りの死の森で、彼女は(儀式)の最終作業に参加し、戦っていたのである。

この森で行われている(儀式)は、要約すると生け贄の選定作業である。異界より、とある目的で強大なる存在を召喚せねばならない。そしてその存在は、召喚に多大な(罪)を宿した生け贄を欲するのである。そのため、彼女の父が無作為に産ませた四十人以上の(兄弟)が、この森の中で殺し合っていた。そして最後に生き残った一人が、生け贄になる(栄誉)を与えられるのである。

カシスは異界より異形の生き物や物体を召喚する(召還師)の一族に生まれ、(召還師)としての修行を積んできた。リィンバウムと呼ばれるこの世界では、比較的次元を隔てて近くにあるという四つの世界から召喚する術師が一般的な存在であり、カシスもその例に漏れない。

霊なる者達が住む、精神の世界(霊界サプレス)。荒ぶる鬼神と龍神達が治める、怪異と武の世界(鬼妖界シルターン)。大いなる文明と、至高なる科学技術が作り上げた、鋼の世界(機界ロレイラル)。猛々しき獣たちが舞う、溢れる生命の世界(幻獣界メイトルパ)。カシスはその中で、サプレスの住人達を召喚する事に長ける、(霊属性)召還師と呼ばれる者の一人だった。またこの儀式は、シルターンに伝わる(蠱術)と呼ばれる最強の呪術の一つを魔術的にアレンジしたものだとカシスは聞いていた。

「……ガルガンチュア、行くよ」

「了解、マスター」

カシスが足を止め、押し殺した声で言った。獲物を見つけたのだ。彼女の背後から着いてきているのは、サプレスの(天使)であるガルガンチュアである。天使とはサプレスで二大勢力を為す種族の一派で、(悪魔)と対を為す存在である。悪魔も天使もリィンバウムに来たときには肉体を得て活動する精神生命体であり、どちらも能力は人間に比べて非常に高い。天使だからといって善良で美しいかと言えばそれは大きな間違いであり、ガルガンチュアは刃物で出来たタガメのような姿をしており、銀白色の全身は淡く発光している。口は腹部にあり、縦に大きく開いて得物をかみ砕く。ガルガンチュアは召還師が終生護衛のために使役する(護衛獣)と呼ばれる存在だった。彼は十年も前からカシスの側にいて、その忠誠心は比類なく高い。

カシスが捕捉したのは、彼女の(兄弟)の一人であり、シルターンの生物を召喚する(鬼属性)召還師の一人だった。実力は兄弟達の中では並だが、一緒にいる鬼そのものの姿をした護衛獣(ジドゴキ)は侮れない相手である。だが、今回は楽に勝てそうであった。どうも一戦交えた直後のようで、召還師本人もジドゴキも傷ついていたし、ジドゴキ自身は仕留めたらしい獲物をむさぼり食うのに夢中である。ゆっくりカシスは手を挙げ、振り下ろした。

ガルガンチュアが、鋭い鋏となっている両腕を振り上げ、地を蹴った。背中の翼が開き、斜め上からジドゴキに躍りかかる。ジドゴキは気付いたが、傷ついている上に出遅れてしまってはもう勝ち目はなかった。ガルガンチュアの鋏が一閃し、ジドゴキの頸動脈を切断する。盛大に鮮血が吹き上がり、隣にいた召還師が狼狽の声を上げた。

「お、おのれっ!」

言い切る事は出来なかった。ガルガンチュアと同時に、召還師の死角に回り込んでいたカシスが、敵を羽交い締めにしつつ、その口を後ろから塞いだからである。そのまま無言で、カシスはナイフを横に引き、敵ののど頸をかききった。更に口を押さえた手に力を込め、敵の頭を後ろに引き、のど頸の傷を拡大する。召還師は、殆ど抵抗出来ずに絶命した。召還師は身を守るために接近専用の戦闘術を身につけている場合があり、カシスの場合それは剣術と暗殺術だった。その腕前は、おそらく(兄弟)達の中でも上位にはいるだろう。カシスは、この儀式で(栄誉)を得る、最有力候補の一人だった。

「マスター、お見事です」

「……すぐにこの場を離れるよ」

面白くもなさそうに敵の死体を放り捨てると、カシスは言った。油断無く周囲を見回すカシスは、ジドゴキが食べていたものに視線を固定させた。それは明らかに人間の死体であったが、既に頭部も失われ、元が誰だか分からない。この森では、食料もえられない。ジドゴキから流れた血は周囲にこぼれると同時に煙を上げており、到底これを食べる気にはなりえない。また、火などを起こせばすぐ敵に気付かれる。

「ガルガンチュア、その死体、晩飯にするから運んできて」

「一旦戻りますか?」

「……そうしよう。 トラップを仕掛けておいた他の場所も見回りたいしね」

 

森に入ってすぐに見つけた洞窟を、カシスは簡易拠点として利用していた。入り口は当然分かりにくいように偽装しており、中では一息つく事が出来る。周囲は既にトラップの巣と化していて、いかなる者であろうとも簡単には侵入出来ない。

ガルガンチュアに死体を切り刻ませ、食べやすくすると、カシスは護衛獣とそれを分け合って食べた。もう戦いは三日目に突入しており、辺りには人骨や召喚獣の骨が無数に転がっている。これが哀れなる敗者の姿であり、末路であった。そして生肉で腹をこわすような柔な者は、もうすでに一人も生き残っていないだろう。

既にカシスは七人の敵を屠り去っていた。そして、周囲の様子からして、おそらく残りの数は既に半分を割っている。未熟者や弱者はもう残っておらず、強豪同士のつぶし合いが続いている。膝を抱えたまま、カシスは呟いた。

「……クラレット」

「クラレット様がどうしましたか?」

「何でもない。 栄誉を得るのは、結局一人だけだしね」

「……」

ガルガンチュアはそれに応えず、無言を保った。クラレットはカシスの一つ下の妹であり、最も仲がよい(兄弟)だった。

カシスは三時間ほどの仮眠を交代で取ると、再び洞窟を出た。体力が回復したのもあるが、一刻でも無駄には出来ないと考えたからである。

「マスター」

「どうしたの?」

「ここよりかなり近い場所で、相当な強者同士が戦っています。 チャンスかと」

「そうね。 漁夫の利を狙うよ」

二つの影は、月光が照らす森を疾走した。殆ど音を立てず、その動きはほとんど疾風のようだった。目には単純な殺意だけがあり、だが巧妙に殺気を押し殺しながら二人は敵へと間合いを詰めていく。

「……?」

カシスが足を止め、ガルガンチュアもそれに習った。周囲に飛び散っている鮮血に気付いたのである。そして、枯れ草の茂みの中に、何かが転がっているのをカシスは見つけ、拾い上げた。それは少年の生首だった。敗北感と絶望が顔中にこびりつき、口の端からは血が引いていた。そして、首の切り口は、明らかに獣が食いちぎったものだった。

「……キール」

生首が生前持っていた名前を呟き、カシスは片手を頭にやった。キール=セルボルトはカシスと同じ年の(兄弟)で、同じく(栄誉)を得りうる最有力候補の一人だった。それを倒したとなると、おそらく相手は一人しかいない。

爆発音が近くから響いた。反射的に身を隠すと、カシスは予想通りの相手を遠目に捕らえた。(兄弟)の中でも、カシスの召喚術の師匠であり、最年長であり、最強の実力を持つと言われるトラスト=セルボルトの姿が、其処にあった。彼は戦闘中であり、戦っている相手はおそらくキールと同じ年の(兄弟)ソル=セルボルトであろう。ソルは防戦一方であり、それを横目で見ながらカシスはガルガンチュアに耳打ちし、トラップを大急ぎで造っていった。

トラストは自身も強いが、彼の連れている護衛獣、天使グラアスファエルはおそらく(兄弟)達の保有する召喚獣の中で最強の存在であろう。動きこそ鈍いが、魔力で覆われている屈強な外皮が作り出す圧倒的な防御力、強烈な魔力が生み出す膨大な攻撃力、共にまともに戦って勝てる相手ではない。グラアスファエルは無数の触手を有する巨大な蛙のような姿をしているが、蛙と違ってその口の中には無数の牙が生えており、今捕らえたソルの召喚獣を貪り食っていた。そして、絶望を顔中に湛えるソルを触手で捕らえ、抵抗をものともせずに、その巨大な口に哀れな獲物を放り込んだ。

「畜生、ちくしょーっ!」

それがソルの最後の言葉となった。巨大な口は絶大な力で閉じ合わされ、何も外には漏らさなかった。さもうまそうに肉をかみ砕き、酵素の混じった唾液と混ぜ合わせる音がカシスの元にも響いてくる。それをトラストは満足げに見やっていた。おそらくキールとソルと連戦したであろうその体は、流石にいくらかの傷を受けており、右肩は焦げて煙を上げていた。また、グラアスファエルも外皮の幾つかに傷を受けており、触手も半減している。ソルもキールも、名うての強者、ただではやられなかったのである。撃破するなら、彼らの呪念が強敵を縛る、今をおいてなかった。

「打ち合わせ通りに行くよ」

「了解、マスター!」

カシスの背後で、切れ目を入れた縄が神経質な音を立てている。それは手近な材料で造った簡易投石機であり、石の代わりにキールの生首が乗せられていた。その口は堅く閉じ合わされている。縄がきれ、木の枝が撓るのと同時に、生首は恨み重なるであろうトラストへ飛びかかった。

「うぉっ!?」

流石に面食らったらしいトラストが体勢を崩す。それに注意を引かれたグラアスファエルが向き直るのと、ガルガンチュアが飛びかかるのはほぼ同時であった。ガルガンチュアの鋭い鋏が、グラアスファエルの表皮に食い込む。狙い違わず、それは傷へと食い込み、大きな亀裂を入れた。絶叫したグラアスファエルだが、流石にパワー自体が違う。巨体を揺すり、枯れ木にタックルして、ガルガンチュアを力任せにはじき飛ばした。真横にガルガンチュアが吹っ飛び、だがグラアスファエルは勝利にではなく、驚きに目を見張った。ガルガンチュアの真後ろ、つまり死角からカシスが飛び出したからである。そのままカシスは、自分が最も得意とする攻撃用召喚術を発動した。

「うち砕け、魔将の剛剣っ!」

それは、サプレスで鍛えられた悪魔の魔剣を召喚する術であった。そのまま三メートルもある長大な黒い魔剣が空間の歪みより現れ、至近からグラアスファエルを、表皮の大きな傷を狙い違わず刺し貫く。剣は相手の傷口を貪るように、柄まで埋まり、大量の鮮血が辺りに飛び散った。流石にこれにはひとたまりもなく、断末魔の絶叫を上げ、グラアスファエルがのけぞり倒れた。そして大量に精神力を消耗したが故に一瞬動きが止まるカシスに、驚きから立ち直ったトラストが杖を横殴りに叩き付けた。パワーの差もあり、無防備だった事もある。カシスはもろに吹っ飛び、木に叩き付けられてくぐもった声を漏らした。肋骨が数本折れ、彼女の脇腹に激痛が走る。

「くぁっ!」

「おぉのれ、良くもやってくれたなあ!」

カシスは傷ついており、ガルガンチュアもすぐには身動き出来ない。勝利を確信したトラストは、新たな僕を呼び出そうと、召喚術を使おうとした。だが、それはならなかった。彼の足下に転がっていた、キールの生首が炸裂したのである。カシスは、以前入手したロレイラルからの召喚品(小型爆弾)を、キールの口の中に押し込んでいたのである。

言葉にならない絶叫を上げ、地面をのたうち回るトラスト。彼の右足は吹き飛び、右手も肘から先が無くなっていた。脇腹を押さえながらゆっくり立ち上がると、カシスは親指を下に向け、ぐっと空を切った。ガルガンチュアが大きく口を開け、地面で絶叫するトラストに覆い被さった。トラストは、ソルと同じ運命を辿った。

 

2,彼方への叫び

 

「マスター、大丈夫ですか?」

「何とかね」

二人で支え合って、カシスは拠点に戻った。最強の敵を撃破する事に成功し、有力候補のうち殆どが今ので消え去ったのである。普段滅多に感情を見せないカシスの顔にも、自然と安堵が浮かんでいた。洞窟の壁に背を預けると、カシスは残りの生肉を分配しようとしたが、ガルガンチュアはそれを静かに拒んだ。

「私は先ほどの食事で空腹を充たしました。 マスターがお召し上がり下さい」

「……ありがと。 恩に着るわ」

「光栄の極みです」

鉄錆の匂いがする肉を口に押し込みながら、カシスは忠実な護衛獣に感謝した。折れた肋骨を修復するには、回復を得意とする召喚獣を呼び出さなければならないが、今の彼女では精神力がどう考えても足りない。食事と、休憩が必要になるだろう。常人であれば痛みでおちおち休めなかっただろうが、今まで鍛えてきたカシスにとっては、耐えられないものではなかった。二切れ目の肉を口に押し込むと、カシスはふと肉の中に転がっている小さな金属片に気付いた。そして、硬直したかのように手を止めた。

「マスター?」

「……クラ……レッ……ト!?」

わなわなとカシスが震え、金属片に手を伸ばした。それは、たまに(任務)で(外)に出る事を許されていたクラレットが、肌身離さず身につけていたネックレスの破片に相違なかったからである。

真面目に暗殺術と召喚術の訓練ばかりしていたカシスにとって、(外)を知り、感情を持つクラレットはまぶしい存在だった。感情を殺すようにトレーニングしていたカシスは、感情を持つ事を許されているクラレットを羨ましいと思っていた。今回の(儀式)の概要が告げられたときも、名誉な事だと思いつつも、一方でクラレットとは戦いたくないと思っていたのである。カシスにとって、クラレットは誰より大事な家族であり、妹だったのだ。

強烈な嘔吐感を覚えたカシスが、血まみれの手を地面に着いた。だが、はき出す事は出来なかった。ここで吐けば、体力の回復に支障が出るからである。徹底的に合理的に(創られた)カシスは、精神で肉体を押さえつける事が出来た。だが、それも完全ではなかった。押さえきれなかった分は、激しい咳の形で体の外に漏れ出た。

「が、がはっ! げほっ!」

「マスター! お気を確かに!」

「ク、クラレット! クラレットっ!」

肉を切り刻むように命じたのはカシスであり、ガルガンチュアに何一つ責任はない。震える手で、カシスは金属片をかき集めた。ほんの一部だけが回収出来た。鎖の部分は完全に寸断されており、先端部に着いているロケットも半分ほど欠けていた。夢遊病者のようにそれを弾いて開けると、中には無表情のまま立ちつくすカシスと、その隣で優しく微笑むクラレットの絵が納められていた。この画質からして、おそらくロレイラルの召喚品を利用したのであろう。

「わ、わたし、わたし……!」

今までになく精神が混乱するのを、カシスは自覚していた。視界がかすみ、地面に汗ではない何かが大量に落ちた。震える手で、カシスは自らの頬に触れた。血塗られた手を、熱い液体が濡らし、流れ落ちていく。

「なに……? これ……」

「涙です、マスター」

地面にへたり込んだカシスは、耳を押さえると、絶叫していた。

「い……いやぁあああああああああああああああああっ!」

感情を持たない戦闘兵器として造られた少女に、あり得ない感情が芽生えた、その瞬間であった。

 

それから、カシスは明らかに精彩を欠いた。残りの者達を危なげなく倒せたのは、単に力量で劣る相手だったからに過ぎない。キールやソルが生きていて、対戦する事になったら、破れていた可能性が非常に高かっただろう。

ともあれ、カシスは残りの者達を順当にうち倒し、最後の一人と向き合っていた。最後の一人は既にかなり深い傷を負っていて、護衛獣も失っていた。ぼろぼろになって這いずり逃げようとするその姿を見て、カシスは唱えかけていた召喚術を止めた。

「マスター?」

「何だろう……攻撃したくないよ」

カシスは不可思議な感情が浮き上がってくるのを感じて、俯いた。それは哀れみだった。必死で逃げる姿を見て、クラレットの事を思い出したのである。ジドゴキに食われたとき、クラレットはこんな風に逃げたのだろうか。そして捕まってしまったのだろうか。今自分は、クラレットがされたのと同じ事をしようとしているのではないだろうか。

「マスター!」

ガルガンチュアが絶叫した。カシスが顔を上げると、数本の細い槍が自らに向け飛んでくる所だった。ガルガンチュアが体当たりし、他愛もなく弾かれてカシスはしりもちをつく。そして忠実な護衛獣の背中に、槍は全て突き刺さり、鈍い音を立てた。召還師が、全身から冷や汗を垂らしながら嬌笑を上げている。その脇には、メイトルパから召喚されたらしい一つ目のヤマアラシのような召喚獣がいた。

「ガルガンチュア……」

「ぉ……うぉおおおおおおおおおおおおっ!」

ガルガンチュアは背に数本の槍を生やしたまま振り返り、鮮血をばらまきながら突貫した。悲鳴を上げ逃げかけた召喚獣の首をはねとばし、そのまま力つきて地面に倒れ込む。(兄弟)はそれを見て更に新手を召喚しようとしたが、それはならなかった。カシスが放ったナイフが、その喉を深々と貫いていたからである。押しつけられるように、地面に倒れる召還師。カシスは重病人のような足取りで、致命傷を受けたガルガンチュアに歩み寄り、そのすぐ脇にへたり込んだ。

「ご無事でしたか……マスター……」

「ご……ごめん……私のせいで……」

「お気になさらないでください。 マスター」

震える手でカシスはガルガンチュアに触れ、撫でた。目からは再び、涙とかいうものがこぼれ落ちていた。

「マスター……もうお仕え出来そうに……ありません……。 後生ですから……最後の……願いを……聞き届けて……もらえません……か」

「何でも聞くよ……ごめん、ごめんガルガンチュアっ!」

「光栄です……マスター……。 マスター、生きてください。 生け贄になど……なってはいけません……貴方には……生きる価値が……権利が……あ……」

頷くカシスの前で、ガルガンチュアは死んだ。カシスは精神疲労が限界に達したか、そのままガルガンチュアの亡骸に折り重なるように倒れ、意識を失った。

 

気がつくと、カシスは祭壇の上に転がされていた。ぼんやり空を眺めれば、そこはただ暗く曇っている。周囲からは大がかりな召喚術を使う際の、呪文詠唱の声が重なって聞こえ来る。何が起こったのか、カシスはそれだけで正確に理解していた。

「そっか……私(栄誉)を与えられたんだ……」

ぼんやり詠唱を聴くカシスの視界を、誰かの顔が遮った。いつも氷のような視線で彼女を見やる絶対者、(お父様)オルドレイクだった。

「良くやった、カシス。 これで、約束の地建設へもう一息の所までこぎ着けた」

「お父様……」

「お前の心には、今膨大な(罪)が充ち満ちている。 誰よりも大事だったクラレットを食べてしまった事、忠実な腹心ガルガンチュアを自らの失敗で死なせてしまった事。 それは我が目的である、サプレスの(獣神)を呼び出すのに充分なほどだ。 後はそのまま、楽にしているが良い」

(お父様)は心を覗く事が出来ると、カシスは知っていた。心を覗いて、全てを知ったのだろうと、カシスは自然に推測した。そのまま冷気の籠もったねぎらいの言葉をかけると、(お父様)は行ってしまった。カシスは知っていた、(お父様)が自分や(兄弟)達には一貫して氷河のような冷気の視線を向け、動物たちや(仲間)達には一貫して太陽のような暖かい視線を投げかける事を。

「そっか……(お父様)……私たちが嫌いなんだ」

その意味を、カシスは自然と理解出来ていた。感情が急激に発達しつつあるカシスの中では、膨大な雑念が渦巻き、形になっていく。クラレットが笑顔を浮かべ、そのまま歩み去っていく。ガルガンチュアが紳士然とした礼をし、歩き去っていく。そして、(お父様)が、冷気のような視線で、カシスを見ている。

孤独だ。この世に私はたった一人だ。クラレットは行ってしまった。ガルガンチュアも行ってしまった。(お父様)は最初から私の側にいない。私は一人だ。世界にたった一人だ。もう(兄弟)もいない。私は、私は、私は、私は……!

重なり合う呪文詠唱の中で、カシスは身をよじった。その口から、絶望が漏れ出る。それは本来、(生け贄)に理想的な状態のはずだった。

「イヤ……」

カシスの目から涙が溢れ出る。大きくなり、早くなり、激しくなる詠唱の中で、カシスは落涙した。

「イヤ……イヤッ! 助けて……! みんな壊れる……世界も……私も……」

負の力が、強烈な反発を生じさせる。周囲の空間が歪み、どよめきの声が挙がった。詠唱が止み、怯えの声が走る。だが、カシスには聞こえていなかった。

助けて……助けてっ! 誰か…………すけ……て!

次の瞬間、閃光が全てを漂白した。膨大なエネルギーが行き場を無くし、周囲全てを蹂躙し尽くしたのである。

 

3,心弱き娘

 

樋口綾は日本の平凡な公立高校に通う二年生であり、周囲からは今時珍しい(貞淑なお嬢様)として知られていた。彼女は財閥の一人娘であり、大人しげな容姿と穏やかな性格、優れた成績の持ち主(体育除く)として知られ、非常にその人望は厚い。故に二年になった途端に生徒会からスカウトされ、現在は書記として安定した仕事をし、周囲からの評価を一日ごとに高めていた。周り中から好かれる、優しくて可愛い何でも出来るお嬢様。だが、綾自身は思っていた。それらの評価が実体を伴わない、過剰な物だと。綾は自身の事を、感情の起伏が少ない貧弱な弱虫だと評価していた。いつも優しい笑顔を浮かべていたのも、惰弱な自分を隠すのにそれが一番好都合だったからである。

昼休み、綾は大体校庭か体育館にいる。理由は簡単で、(友達)の遊びの誘いを断れないからである。たまたま綾のクラスには体育会系の女子が多く、人気がある綾は引っ張りだこだった。元々綾は筋金入りの運動音痴で、特に球技は苦痛以外の何者でもなかったのだが、性格上断る事は出来なかった。本当は本を読んだり書記の仕事をしたいのに、二年になってからそれが出来た日は一度もなかった。

高校生でも髪の毛の色を抜く事が珍しくもない今、綾は綺麗な黒髪の持ち主として、内外で有名である。そう、黒髪の良さを褒められる数少ない存在なのだ。その黒髪を揺らして、綾はクラスの女子達と一緒に、草バレーボールに参加していた。周囲の男子のいやらしい視線が、ブルマー姿の彼女に無数に突き刺さる。それもイヤだったのだが、元々引っ込み思案の綾は文句一つ言う事も出来なかった。そして、元々引っ込み思案で口数が少ないという性分は良い方に取られ、(貞淑)だとか(優しげ)だとか(儚げ)だとかいう評価が定着しているのである。

そういった評価が嫌ならそう言えばよいのだろうが、気が弱く自分に自信が徹底的にない綾は、そう強く出る事も出来なかった。何度目かの攻防の後、綾はトスを失敗して、ボールを弾いてしまった。運動音痴の上に背も低い彼女は当然ブロックやアタックなど出来るわけもなく、レシーブとトスに行動が限られる。それも臆病な故に上手くないので、体育の集団球技の際はたんなるお荷物と化すのが通例であった。今日もそれは例外ではなかったが、周りは綾にいつも優しかった。それが綾にはいやだった。

「ごめんなさい、今取ってきますね」

「綾、ドンマイ!」

笑顔でクラスメイトが手を振っている。綾は男子が(儚げで可愛い)と噂しているらしい、少し困ったような表情で笑顔を浮かべると、ボールを取りに走った。ボールはかなり遠くまで跳ねていってしまっていて、すぐには見つからず、困惑する綾に、元気の良い声がかけられた。

「樋口センパーイ!」

「あ、日比野さん」

「ボールいきますよー!」

綾が振り向くと、其処にいたのは綾の後輩で、一年の日比野絵美であった。綾以上に背が低い娘だが、機動力は比較にならないほど高く、その行動力は非常に高い水準にある。以前廊下で、落としてしまった書類を集めるのを手伝った所、なつかれてしまった存在である。元気でお調子者で、時々校則を破って少しだけ悪い事をしているのを綾は知っている。綾からしてみれば、自分には絶対出来ない事をしている、非常に羨ましい後輩だった。

その日比野が持っているのは、間違いなく今綾が弾いてしまったボールだった。笑顔で綾はそれを受け取ろうとしたが、危険に気付いた。綾と同じように校庭で遊んでいた男子の投げたボールが狙いを外れ、日比野の後頭部めがけて飛んだのである。蒼白になって立ちつくす綾の前で、何も気付かない日比野は笑顔のままだ。

「日比野さん、危ない!」

「え?」

次の瞬間、不意に風が吹き、ボールの軌道がそれた。そしてそれは校舎にぶつかってバウンドし、綾の側頭部を直撃したのである。綾は泣く事はなかった、悲鳴も上げなかった。そのまま、へなへなとへたり込んだだけであった。

「あああっ! ひ、樋口センパイっ!」

バレーボールを放り出し、素っ頓狂な声を上げたのは日比野の方だった。頭を押さえてうずくまっている綾に駆け寄ると、殺気を込めて辺りをにらみつける。

「誰だっ! 私の樋口センパイをキズモノにしようとしたウスラバカはっ!」

「日比野さん、大丈夫、大丈夫だから……」

「樋口センパイっ! 嫁入り前の大事なお体に、傷でも付いたら大変な事ですよぉっ!」

頼むから大声を出さないでくれ、そう言おうとして綾は結局言えなかった。他人へ自分の思う所を告げられない、いつもの弱さが露呈したのである。

まただ、また起こった、そう綾は痛みの中で思っていた。どういうわけか綾にとって、今のように(他人に降りかかりそうになった不幸が自分に襲いかかる)事は日常茶飯事であり、痛いのも慣れていたのである。痛い事自体は大丈夫なのだが、ボール直撃のダメージは脳に響いていたし、日比野の大声はそれを更に増幅していた。その上、この後の展開が綾には読めていたのである。頭がくらくらする綾を、更に予測していた不幸が追い討ちした。

「わりー、ごめんごめん、て、樋口先輩っ!?」

どうやらボールを投げた主らしい男子生徒が現れた。それは日比野の幼なじみであり、同じく綾の後輩である西郷克也であった。性格はそのまま日比野を男子にしたような感じであり、故に日比野とはいわゆる(喧嘩するほど仲がいい)関係だった。案の定な相手を見つけて、日比野が早速噛みついた。

「テメーか、このボール投げたのは!」

「そうだけど、何で樋口先輩に当たってるんだ! お前の石頭で受ければ良かったじゃねーかっ! 樋口先輩は、お前と違ってデリケートで繊細で貞淑でお淑やかなんだぞっ!」

「な、なんだとーっ! 言うに事欠いて、何を抜かすかーっ!」

二人の大声は更に綾の頭痛を加速した。痛いのを我慢して綾は二人の仲裁をしようとしたが、事態を更に悪化させる事となった。

「二人とも、喧嘩は……」

「今日という今日はゆるさん! 日比野流戦闘術奥義! 赤竜剛雷襲!」

日比野と西郷は、共に空手をやっている。素早く構えを取った日比野は、間に入ろうとした綾が止めるまもなく西郷に回し蹴りを見舞った。格闘家の本能で西郷はそれを避け、日比野の靴底は空を切り、綾の額を見事に直撃した。

「ああああっ! 樋口センパーイ!」

遠くなりつつなる意識の果てに、日比野の絶叫を聞きながら、綾は意識を失った。

 

保健室で目を覚ました綾は手を合わせて謝る日比野と西郷をいつものように許すと、普通に授業に戻った。何しろいつもの事なので、いちいち怒っても仕方がないと綾は考えていたからである。そしてその(優しさ)を二人は褒め称えて感動の涙を流したが、綾は心の中で嘆息していた。それが心の弱さからもたらされる事だと、二人に告げられないのが口惜しかったからである。

放課後、書記の仕事を手早く片づけてしまうと、綾は帰路に就いた。彼女にとって、家は帰るべき場所ではなかった。学校の者は殆ど知らなかったが、綾は自分の居場所を家に感じていなかったのである。

家にたどり着くと、難しい顔をした父が綾を出迎えた。綾とこの父に血のつながりはない。だが育ててくれた恩人であり、小さな頃は父らしい事を大体してくれた記憶が綾にはあった。しかしバブル崩壊で事業が失敗してからは、笑顔の一つも見せない冷たい男に変わり果ててしまっていた。

「遅かったな、こんな時間まで何をしていた」

「生徒会で、書記の仕事です」

「……そうか」

父は学力を付ける事を強制はしなかった。別に門限を五月蠅くも言わなかった。ただし、未来については強制した。一流の大学に進む事、それを出たら財閥を継ぐ事、である。

綾の父は生まれつき子供を作れない体だった。そこで、孤児院で子供を世話して貰い、綾を育てる事にしたのである。綾は殆ど孤児院の記憶はないが、後に聞いた事がある。父は孤児院の院長に、(頭が良くて大人しければ何でも良い)といって綾を選ばせたのだという。

綾は寡黙な父に気にいられようと、小学校の頃から様々な事をした。頑張っていい成績を取ったし、習い事も積極的に行った。だが、父は一度として笑いかけてくれなかった。もっと小さな時には笑顔を見せてくれた事もあったが、今の父は氷像と同じだった。学校の事で迷惑をかけては行けないと思い、極力大人しく振る舞った。そしていつの間にか、綾は言いたい事を何も言えない、胆力の弱い娘となり果てていたのである。元々綾は気が弱かったが、ここまで後ろ向きな性格になったのは、心が出来て以降の後天的な事情に寄る所が大きかった。

夕食の時も、父は何も言わなかった。ただ無言でニュースを見ており、身じろぎ一つしなかった。時々綾は気を利かせて、落語やバラエティの番組をつけたりもするが、それでも笑顔一つ見せなかった。もっとも、綾もそれらをみて心の底から笑う事など一度もなかったのだが。

親子の歯車のずれは、近頃では極限に達していたといえる。気まずい空気を感じた綾は、食事を終えて立ち上がった父に言った。

「あの、会社の経営状態はどうですか?」

「良くないな。 お前には私の右腕になって、大いに働いて貰わなければならない」

強烈な期待を感じて、綾は萎縮した。綾はいつも周囲に期待をかけられ、それに応えるため必死だった。期待は、綾にとって常にかけられる物であり、常に背負う重荷だった。無論その重荷を、綾は好いて等いなかった。それを知ってか知らずか、父は更に続ける。

「悪い事をするなとはいわん。 今の内に、好きな事を好きなだけしておけ」

今は好きにするがいい。ただしその後は、徹底的に働いて貰うからな。父の言葉に含まれているその真意を察して、綾は黙り込んだ。父はそれ以上何も言わず、寂しい背中でテレビをずっと見ていた。

 

翌日の学校では、不意に降ってきた金ダライが途中の障害物に当たってはね、級友の頭の代わりに危険を告げようとした綾の頭を直撃するといういつものありふれた不幸以外特に変わった事もなく、平和な日常が続いた。綾はいつもの後輩二人にまとわりつかれながら帰宅の途に着いていた。綾は小心であったから、クラスの女子と歓楽街になど怖くて行けなかったし、誘われるのもいやだった。その点この二人は、お調子者であってもやる悪事はせいぜい買い食いくらいだったから、安心して一緒にいられた。この二人と一緒にいれば、不幸にあう確率が四割り増しになるのは今までの統計で綾も分かり切っていた。だが綾にしてみれば、不幸にあう事よりも、父が二度と笑わなくなるような事態に遭う事の方が怖かったのである。綾は知っていた、自分がコインロッカーに捨てられていた事を。それは綾のコンプレックスであり、心を縛る鎖だった。

いつもはぎゃあぎゃあと騒がしい二人組であるが、今日は日比野が静かであり、結果いつもより大分大人しい雰囲気であった。丁度心地よかったが、日比野が沈んでいるのが事実であったから、黙っているわけには行かないと綾は考えた。ジュースを買おうと日比野が少し席を外した隙に、綾は西郷に言う。

「西郷君、ちょっといい?」

「センパイ、どうしたんすか?」

「ちょっと日比野さんが心配だから、先に帰ってくれますか?」

「ああ、構わないっすよ。 センパイ、優しいっすよね。 俺、センパイのそんな所が好きっすよ。 正直、羨ましいっす」

自分は絶対に言えない台詞をさらりと言う西郷を、綾は羨ましいと心底から思った。西郷を見送る綾に、日比野が追いついてきた。

「あれ? 克也の奴どうしたんですか?」

「ちょっと用事が出来て、先に帰るそうですよ」

「へえ、そうなんだ」

明るく呑気な日比野の表情に影が差すのを見て、綾は心が痛むのを覚えた。日比野とは親しいと言う事もあるが、それ以上に、綾は単純にこういう時相手を心配出来る性分だった。それが(優しい心)であり、皆が綾を好く要因だと言う事に、当人は気付いていない。

「ねえ、センパイ」

「なんですか?」

「もしセンパイが男だったら、どんな女の子が好み?」

さらりとはかれた言葉は、相手によっては多大な誤解を与えたであろう。だが綾はそれを曲解する事も歪解することもなく、素直に応えた。

「元気で、明るい女の子です」

「どうして?」

「一緒にいるだけで、心が温かくなるじゃないですか」

「……アリガト、センパイ」

日比野は笑った。そして、影のある表情で、だが決意を込めていった。

「私、好きな男子がいるの。 でも、男子ってみんなセンパイみたいな優しくて心が綺麗な人が好きなんじゃないかって思って。 少し自信なくしてた」

それは違う、私は優しくないし、心だって綺麗じゃない。そう綾は心の中で言ったが、伝わるはずもない。日比野は、そんな綾の心境を知ってか知らずか、独白を続けた。

「でも、センパイがそう言ってくれたお陰で、ちょっと自信つきました。 よしっ! 思い切って、告白してみよっと!」

「頑張ってくださいね」

「はい!」

日比野は礼をすると、手を振って駆けていった。笑顔でそれを見送ったが、心の中で綾は泣いていた。

『私には人を好きになる勇気もないし、告白をする勇気もないの。 私より、ずっと貴方の方が心が綺麗。 羨ましい、貴方の澄んだ心が』

 

公園で、綾はブランコに揺られていた。この公園は、綾にとって思い出の公園だった。父は仕事でいつも忙しかったが、たまに綾を公園に連れて行ってくれた。如何に無理して、多忙な父が時間を作っているか、綾は良く知っていた。そして父は無理に作った時間なのに文句も言わず、ブランコを、大事な娘が落ちないように気をつけながら押してくれたのである。背中に当たる父の手が、如何に力強くて温かかったか、綾は今でも鮮明に覚えていた。

綾の(母)はもうその頃亡くなっていたため、殆ど記憶にはない。だが、綾にとって、このころの、笑顔がまだあった父は心の拠り所だった。また、笑顔を見せて欲しいと、綾は願っていた。だが、願うだけで、具体的な行動は殆ど何もしていなかった。

学校では絶対に見せられない暗い顔で、綾はブランコに揺られていた。ため息はつかなかったが、心の中は雨が降っていた。もう一度背中を押して欲しい、そう綾が思った瞬間。心の中に、(声)が響き来た。

助けて……

「え? ……誰……ですか?」

立ち上がった綾は、慌てて周囲を見回したが、誰もいない。だが、声は続けて心の中に響き来る。

みんな壊れる……世界も……私も……

「世界も? わたし……も? 大丈夫ですか? しっかりしてください!」

助けて……助けてっ! 誰か…………すけ……て!

「……っ!」

視界が不意に漂白され、耳障りな音が綾の聴覚を蹂躙した。同時に上下の区別が無くなり、辺りが轟音と共に回転し始める。思わず耳を押さえ、へたり込む綾の周りの景色が、凄まじい勢いで渦を巻き、一点へと収束していった。そしてその集約点へ、綾は地鳴りのような轟音と共に落下していった。

「きゃぁあああああああああああああああああああっ!」

綾の悲鳴は、爆発音にかき消された。そして、暗闇と静寂が訪れた。

 

4,異界の覚醒

 

「う……ん」

綾の全身を激しい痛みが襲い、縛っていた。辺りには地面の感触があり、綾はこわごわと目を開けた。光が目に飛び込んでくるが、それは以外に優しく、安心して臆病な娘は身を起こして辺りを見回した。

そこは円状にくぼんだ土地の真ん中であった。周囲は米国のグランドキャニオンのような赤土の大地で、文字通りの(荒野)だった。これ以上(荒野)である場所を探せといわれても、なかなか見つかりはしないだろう、そんな場所だった。

落ちる感覚はあったが、落ちたのはせいぜい一メートルほどで、しかも背中から落ちたらしい。不幸に会い慣れていて、痛みにも慣れている綾は、冷静にそう分析した。ゆっくり立ち上がった綾は、地面から焦げ臭い匂いがする事、所々何かの破片が散らばっている事に気付いた。

『クレーターの真ん中でしょうか。 どうしてこんな所に今、私はいるの?』

心の中でそう綾は呟いたが、勿論応える者はいない。ともあれクレーター(?)から這い出そうと綾は思い立ち、上れそうな場所を見つけて登り始めた。地盤は意外にもしっかりしていて、崩れる事はなく、悪戦苦闘の末ではあったが綾は登り切る事が出来た。

改めて綾は辺りを見回してみた。荒野ばかりがそこには広がっており、所々立ち枯れた木が突っ立っているばかりである。ゆっくり周りを見回していき、綾はあるものに目をとめた。それは、消し炭状の塊と、輝く宝石のようなものだった。

『これは? 宝石?』

心の中で呟く綾に、宝石(?)はただ輝く事で応えた。宝石(?)は灰、赤、緑、青紫の四種類があった。だがどれも、綾が知る宝石とは違っていた。ルビーでもサファイアでもターコイズでもアメジストでもないし、ましてやダイヤモンドでもない。無造作に散らばっているそれらを無心に拾い上げると、綾はそれが袋のような物の残骸からこぼれ落ちている事に気付いた。嫌な予感がして、綾は炭化した塊に視線をゆっくり移し、それの正体に気付いた。

『うそ……そんな事って!』

両手で口を押さえた綾は、全身に悪寒と震えが走るのを感じた。それは、人間の死体だったのである。そして、同様の炭化物は、周囲に無数に散らばっていた。最低でも十人分以上の亡骸が、辺りには転がっていた。

もしこれが生に近い死体であり、内臓とかがぶちまけられていたら、綾はショックで気絶したかも知れない。だが、死体は原形をとどめないほどに炭化しており、綾は恐怖ですくみ上がりはしたが、目を慌ててそらして耐える事が出来た。そのまま、出来るだけ死体を見ないようにして、綾はその場を離れた。徐々に急ぎ足に、影から見て西へと思われる方向へ歩いていく。やがて、綾は無言のまま駆け足になった。怖くて怖くて、一刻も早くその場を離れたかったからである。

暫く走ると、体力の無さから息切れしてしまったので、綾は適当な枯れ木に背中を預けて一息ついた。情況からして、明らかにここは日本ではない。枯れ木になっている植物も、いずれも綾が見た事も聞いた事もない形状をしていたし、時々近くを飛んでいく虫や鳥も同じだった。

『私、どうしてこんな所に来てしまったの? 怖い……』

さっきの死体の事を思い出して、綾はもう一つ身震いした。そしてそのとき、ようやく綾は先ほど拾った宝石がまだ手の中にある事に気付いた。震える手で財布に宝石を入れて、綾は呼吸を落ち着けていった。まず、何にしても、情況を分析しないと行けないと思ったからである。

『ここは日本じゃないけど、さっきの死体からして、多分人はいるはず。 どうしてこんな所に来てしまったかは後で考えるとして、まず人を捜して助けを求めないと』

まず心の中に目的を設定すると、綾の心はほんの少しだけ楽になった。いろんな方角へ行っても無駄に迷うだけだから、綾は再び西へと歩き始めた。特に予感はなかったし、西に行って何もなければ今度は東へ行くだけの事だった。

 

日差しは強くも弱くもなく、気温も高くも低くもない。それは綾にとって幸運だった。ここが南極並みの寒さだったり、砂漠並の日差しと暑さだったら、とてもではないが貧弱な綾など耐えられはしなかっただろう。

一時間ほど歩いた後、綾は遠くに城壁を見つけた。綾は心の中で安堵の息をつくと、小走りで駆けだしていった。門の前には白く塗装した鎧を着た男達がいて、右手に槍を持っていた。綾が話しかけようとすると、槍を鋭く構え、男が誰何する。驚くべき事に、日本語で。

「とまれ、何者だ!」

「あの、助けてください! 私、その……」

日本語が通じる事に、安堵する暇もなかった。明らかに訓練された動作で槍を向けられ、綾は小さく悲鳴を漏らしかけた。男は犯罪者でも見るような目つきで綾を見ながら、厳しい口調で言う。

「何者かと聞いている! 奇妙な格好をしおって! 通行証がなければ、門の中には入れられないぞ!」

「えっ? あ……あの……」

「どうした、何の騒ぎだ?」

「騎士隊長閣下、これは失礼しました。 この娘が、要領の得ない事をいうもので」

不意に背後から現れた若い男に、兵士らしい男が敬礼する。騎士隊長と呼ばれた男は、兵士らしい男よりも明らかに作りの良い鎧を着ていて、目つきは鋭いが雰囲気自体は優しい。困惑顔で二人を見比べる綾に、若い男は笑みを浮かべた。

「ちょっと此方へ」

「は、はい」

困った綾はそのまま若い男へ着いていった。男は兵士の声が聞こえない位置まで行くと、声を落としながら言う。

「君は何処の子だい? この街の住人じゃないね?」

「はい。 私にも、何が何だか分からないんです」

「家は? どこから旅してきたの?」

「その……何処にあるのか……何処から来たのかも……」

俯いた綾の前で、男は考え込んだ。そしてわざと声を落とし、耳元で言う。

「これは僕の独り言だ。 だから聞き流して欲しい。 この城壁に添って西に行くと、街に入れる場所がある。 街の中は、街の外よりは安全なはずだ。 でもその辺りはスラムだから、気をつけなさい」

「はい、ありがとうございます!」

「何の事かな? あ、もう僕は仕事に戻らないとね。 独り言を言っている暇はなかった」

そのまま男は城壁の中へ戻っていった。兵士と一言二言かわすと、後はもう振り返りもせずに。綾は、相手がわざわざ職務をおかしてまで見ず知らずの自分を助けてくれた事を悟り、もう一度心の中で礼を言った。名前を聞く暇さえ無かったが、(街の中は街の外より安全だ)という言葉、わざわざスラムらしい街の中に入るように促してくれた事から、推測できることは一つであり、ぼやぼやしている暇はなかった。もう太陽の位置は大分傾いており、影は長くなり始めていたのである。

『何か分からないけど、危険があるという事ですね。 いそがないと』

 

男の言うとおり、真正直に綾は城壁を西に辿っていった。すると言葉通り、城壁が破れている箇所があり、綾はもう一度男に感謝しながらそれを潜った。中は言葉通りごみごみした町並みで、廃屋や朽ち果てた家のなれの果ても目立った。周囲には人もいたが、いずれも生気が無く、話しかける気にはならなかった。

綾は歩きながら、周囲の家を観察した。家自体は木造の物が多いようで、硝子も窓にはまっている事が多い。だが建築様式等は現代日本の物とは明らかに違い、昔の日本の家屋とも似ても似つかない。ここは違う世界だと、綾は改めて確信した。もし好奇心旺盛な者なら目を輝かせて新世界を楽しむのかも知れないが、とてもではないが綾はそんな気持ちにはなれなかった。これからどうしよう、どうすればいいんだろう、そればかりが心の中でぐるぐる回り、心の中で何度もため息をついた。無論、普段の習慣から、笑顔を崩しはしなかったが。

「おい、其処のアンタ」

「え?」

不意に後ろからかけられた声に綾が振り向くと、そこにはぼさぼさ頭の小柄な少年が立っていた。少年は両手をポケットに突っ込んでいて、口は笑っているが、目は笑っていない。その隣にはボディビルダーのような筋肉質の大男がいて、上半身裸で腕組みをしていた。その後ろには、にやにや笑みを浮かべている、(チンピラ)としか形容出来ない少年が二人、綾をいやらしい目つきで眺め回していた。どうも彼らのリーダー格らしい小柄な少年が、ゆっくり歩み出る。何とも言えない迫力がその動作にはあり、気弱な放浪者は生唾を飲み込んだ。

「……女一人で武器も持たずにここを彷徨くとは良い度胸だな」

「え? あの……」

「用件は分かるな。 金目の物全部おいてけ。 そうすれば何もしねえよ。 アンタも、そいつらに好きなように何てされたくないだろ?」

まずい、綾は単純にそう思った。経緯からして、彼らは追いはぎの類であろう。逆らったら、文字通り何をされるか分からない。綾は立ち向かうよりも、屈する事を真っ先に選んだ。

「これで良ければ……」

どうせ日本円が通じるとも思えなかった綾は、先ほど拾った宝石らしい物を少年の掌に置いた。残念ながら、それは最悪の選択だった。

「なっ! これは、てめえ……まさか召還師か! そうか、妙な格好しているわけだぜ」

「召還師……?」

「その(サモナイト石)はてめえらが怪しい術ん時に使う石だろうが! 知らないとでもおもってんのか!?」

召還師。綾はそれが何かを知っていたが、それはあくまでファンタジーやおとぎ話の知識としてであり、まさか自分がそうだと言われるなどとは思っても見なかった。それに、召還師などが実在するわけもないと思っていた。そして(サモナイト石)とやらのことは、本当に何がなにやらさっぱり分からなかった。

少年の言葉からして、あの(宝石)が召還師が儀式の際に使う石なのだろうが、それを渡して怒気を向けられる意味が分からないのだ。困惑する綾の前で、少年はわなわなと震えながら、目に殺気を宿した。それが本物の殺気だと気付いて、綾は困惑を通り越して純粋な恐怖を感じた。

「ここであったが百年目だ、覚悟しな! たまりにたまった恨み、晴らさせて貰うぜ!」

「私……何か悪い事をしましたか?」

「悪い事をしたと言うよりも、それを渡した相手が悪すぎたというべきだったな」

大柄な男が、ご愁傷様と表情で言った。おもわず二歩、三歩と綾はさがったが、彼女の脚力で逃げ切れるわけもない。少年の前に、後ろのチンピラ二人が進み出る。

「ガゼル、犯っちまっていいか?」

「好きにしろ……」

「へへへ、そうこなくっちゃな」

大柄な男はそれを一瞬止めようとしたようだったが、やれやれという感じで肩をすくめるに留まった。綾は自分がとんでもない窮地に立たされた事を悟った。このままでは、このちんぴら二人に力尽くで押さえつけられ、暗がりに連れ込まれてまわされる事は間違いない。しかも、助けてくれる人などスラムにいるはずもない。殆どが黙認するか、無視するか、或いは自分も加わろうとさえするかも知れない。傷物にされる以上の恐怖であり、綾は腰を抜かしてへたり込んでしまった。逃げなくては行けないのに、体が動かない。恐怖の表情を見て、チンピラ共はますます嗜虐性を刺激されたようだった。

武器になりそうなものと言えば、一応ペーパーナイフを持っているが、そんな物役に立つはずもない。震えながら地面を後ずさりする綾に、男達は容赦なく歩み寄ってくる。学校で男子生徒に受けたものより、何倍もいやらしく陵辱的な視線が突き刺さる。綾の恐怖が限界に達した瞬間、何かがはじけた。

 

「ここは……?」

綾は不意に自分が真っ白な空間にいる事に気付いた。周囲は円状の壁であり、丸く閉ざされた空間の中に自分がいると綾は悟った。今までいた場所と根本的に違う場所である事に困惑する綾に、声が投げかけられる。

「よぉ、ピンチじゃねえか。 このままだと路地裏に連れ込まれて、まわされちまうなあ」

「誰……ですか?」

「いいじゃねえかよ、そんな事。 そんな事よりも、助けてやろうか?」

けたけたと笑う声がそれに続いた。綾はもう、藁にもすがる気持ちでその声に語りかけた。

「お願いします、私……」

「おうおう、素直で良いこったぜ。 ……ここはな、イメージ化したお前さんの頭の中だよ。 上、見てみな」

言われたまま綾が点を見上げると、そこには透明な天井があった。そしてその上には更に透明な天井があり、延々と続いているようだった。綾は自分が文字通りの(塔)の中にいると悟った。ただ、頭の中をイメージ化したというのなら、頭の中が(塔)で示されるイメージに置き換える事が出来る物なのかも知れない。

「どうだ、感覚的に物を捕らえてみな」

「はい」

「天井見て、どう思う?」

「……破れ……そう?」

(声)が爆笑した。そして、笑い収まると、憮然とする綾に言う。

「そいつはな、(リミッター)だ。 人と言わず動物といわず、あらゆる生き物が無意識下で自分の能力に掛けているリミッターだよ。 さ、そいつをぶち抜いてみな。 今のお前さんなら、二枚くらいは抜けるはずだ。 どんな力が発現するかは、やってみてのお楽しみだがな」

「どうやって壊せばいいんですか?」

「壊したいと思え。 ただそれだけだ」

声はそれっきり聞こえなくなった。綾は自分の肩を抱きしめると、言われた事に従った。まわされるのは怖かったし、他に方法もなかったからである。

透明な天井が、ぴしぴしと音を立ててひび割れていく。そして、二枚同時に、粉々に砕き割れたのである。

 

5,初めての戦い、そして

 

ふと綾が気付くと、舌なめずりしながらチンピラ二人が歩み来る所だった。恐怖の余り幻覚を見たかと綾は思ったが、塔のイメージは頭の中に明確に残っていた。そして、天井が破れたイメージも。何より違うのは、歩み来るチンピラが前と違って、全く怖くなくなっている事であろう。この二人程度になら、問題なく勝てる、故に恐れる事はない。綾は本能的にそう悟っていた。恐怖で抜けてしまった腰も、普通に動くようになっていた。

綾は立ち上がると、無言で学生服に付いた土埃を払った。相手が不意に落ち着きを取り戻した事にチンピラは少なからず動揺し、凶暴性を逆に刺激されたのだろう。右に立つ少し大柄な一人が、うなり声と共に綾に掴みかかってきた。綾は小さく息をのむと、相手の動きに(集中)した。同時に、綾の体が淡い蒼光を帯びる。

時が、まるで粘つくような感覚だった。綾には、掴みかかってくる男の動きが、まるでスローモーションのように見えていた。綾自身も早く動けるわけではなかったが、これなら対応出来そうである。冷静に柔道の授業を思い出し、相手の手を取りつつ、その力を利用して投げる。今の綾には、相手の力がどのように流れているか、何処が支点が、そして何処に力を加えれば崩せるか、全部が冷静に見えていた。ゆっくりと、相手は体のバランスを崩し、宙で一回転して背中から地面に激突した。悲鳴さえ、妙にゆっくり聞こえた。綾の投げ方が上手くなかったのか、チンピラが受け身を知らなかったのか、おそらくその双方だろう。チンピラは白目を剥いて、地面に延びた。(集中)がその瞬間切れ、綾は全力疾走したかのような疲労を味わった。

「な、このアマあっ! 何しやがった!」

「近寄らないでくださいっ! 私だって柔道出来るんですよっ!」

「ジュウドウ? わ、わけのわからねえ事ほざくんじゃねえっ!」

もう一人が掴みかかってくる。もう一度綾はその動きに(集中)した。さっきと同じように、敵の動きが遅く見える。自分の動きも遅いが、冷静に相手に対応する事が可能だった。そのまま綾は掴みかかってくる相手の手をかわし、体を前に泳がせておいて、思いっきり足を払った。チンピラは見事に顔面から地面に突っこみ、そのまま悶絶した。剰りにも痛そうだったので、綾は両手を口に当てて反射的に謝っていた。

「ご、ごめんなさい」

「ちいっ! 全く使えない奴らだぜ。 後は俺がやる!」

ガゼルと呼ばれたリーダー格の少年が舌打ちし、前に歩み出る。今の綾には分かった、この少年が、今の二人とは比較にならない使い手であると。しかも、前後の言動からして、手加減をする気は全くあるまい。おそらく、今の力を使っても、勝てるかどうかは微妙だろう。伊達に、スラムの悪ガキ達のリーダー格をしているわけではないという事だ。更にもう一つ悪い事があった。もう綾の精神力は、限界に近かったのである。体力だけではなく、精神力も綾は貧弱だった。更にそこを二日連続で徹夜したような精神疲労が襲ったのだからひとたまりもなかった。今度こそ万策尽きて、綾は膝から地面に崩れ、地面に両手をついた。少年はナイフを取りだし、それを見た大柄な男が慌てて言った。

「おいおい、ガゼル、幾ら何でも殺しはまずいぞ」

「心配すんな、エドス。 半殺しぐらいで勘弁してやるよ」

『じょ、冗談じゃありません!』

綾は心の中で呟くが、当然相手に届くわけがない。目に殺気を湛えて、ガゼルという少年は一歩一歩近づいてくる。その後も悪ガキ達は一言二言かわしていたが、パニックに陥った綾は、相手の言葉など殆ど聞いておらず、単純に思った。死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない。誰か、誰か助けて!

綾の体を、再び蒼光が包む。そして、先以上に、激烈な効果が現れたのである。

「な……!?」

「え?」

ガゼルの声に綾が振り向くと、そこには黒い奇怪な空間があった。裂け目のような物が、空間自体に出来ていて、そこから何か得体の知れない物が顔を出している。ピスタチオの殻のような顔であり、目も鼻も口もない。空間の裂け目に、鰐のような手を掛け、それは花が咲くような感じで、(顔)を開いた。

おぞましい光景だった。その生物の顔が開くと、其処には大きな舌と、無数の大きく丸い目があったのである。しばしその生き物は綾を見ていたが、やがてガゼルにゆっくり向き直る。そしてさも面倒くさそうに、小さな光の球を弾くようにして放った。身動き取れないガゼルに、それは一直線に襲いかかった。ガゼルが目をこれ以上もないほど大きく見開き、絶叫する。

「う、うわああああああああっ!」

「ガゼルっ!」

エドスと呼ばれた大柄な男がガゼルをつき飛ばし、光の球は身代わりになったその体を直撃した。大柄な体が見事に吹っ飛び、瓦礫につっこんで動かなくなる。何が起こったか分からない綾の前で、現れたときと同じように奇妙な生物は無音で引っ込んでいった。空間の切れ目は、すぐに消えて無くなった。

「て、てめえっ! よくもエドスを! もう絶対ゆるさねえっ!」

「そこまでだ、ガゼル」

激高して立ち上がったガゼルが、後ろから掛けられた声に動きを止めた。其処にいたのは、城門にいた兵士のように鎧を着込んだ、落ち着いた雰囲気の男だった。顔立ちはまだ若いのだが、落ち着きすぎている雰囲気が、見かけの年齢を二割も三割も押し上げている。様子からして、ガゼルの保護者か、或いは兄貴分か何かであろう。見る間にガゼルの激高は沈静化していき、だがまだ不満そうに少年は言う。

「レイド、でも此奴のせいでエドスが」

「私は最初から見ていた。 彼女は身を守ろうとしただけだ。 明らかにお前達が悪い」

「うっ……」

「それに、エドスは気絶しただけだ。 死んでも怪我してもいない」

冷静な口調はガゼルを落ち着かせ、少年は舌打ちしてそっぽを向いた。レイドと呼ばれた男は、綾を立たせると、頭を下げた。口調からも行動からも、理知的な性格がにじみ出ている男だった。

「私の知り合いが失礼な事をした。 許して欲しい」

「い、いえ、そんな事はもう良いんです」

「そうか、ありがとう。 所で、君は何処の人だ? この辺りの住人とはとても思えないのだが」

「それは……私にもさっぱり分からないんです。 気がついたら、荒野にいて。 質問を返すようですが、教えて下さい。 此処は一体、何処なんですか?」

「なるほどな……そう言う事か」

訳が分からないと顔に書いているガゼルに対して、レイドは全ての情況をもう把握しているようだった。

「私たちの家に来てくれないか? そこで、大体の事情は説明出来ると思う」

「あ、ありがとうございます!」

「ケッ! 好きにしろっ」

レイドの前で、ガゼルは不機嫌そうにそっぽを向き、エドスを助け起こしに行ってしまった。綾はそれを横目で見ながら、ようやく理知的な人に会えた事で安心していた。そして、それは気の緩みにつながった。

「! 大丈夫か!?」

そのまま綾は前のめりに倒れた。心労と精神力の消耗が、限界に達したからである。

「ガゼル、エドス! こっちに来てくれ!」

レイドの声が、遠くから響いてくるかのようだった。綾の意識は、そのまま闇へと落ちていった。

 

6,幕間狂劇

 

「カシスめ、最後の最後で生に執着するとはな」

暗い森の奥で、男が忌々しげに呟いた。そろそろ中年にかかろうかといった年頃の男で、豊富な髭を蓄えている。彼の正面に座る焦げ茶の瞳を持つ大人びた風貌の女が、つまらなそうにそれにつけくわえた。

「少しは使えるかと思っていたけど、役に立たない道具だったわね」

「全くだ。 奴に戦闘術を教えた俺の立場がない」

女に応えたのは、全身をフードで覆い、鬼の面を着けた少年だった。だが、彼の周囲の者達は、別にそれを責めたりはしなかった。くるくるした亜麻色巻き毛の、可愛い女の子を皮切りに、口々に慰める。

「クジマのせいじゃないよぉ。 気にしないで」

「そうとも、お前に責任はない。 あの道具が、役に立たなかったのが悪い」

「いっそ、完全に自我を奪っておくべきだったかしらね」

「……ありがとう、みんな」

「うむ。 一人は皆のために、皆は一人のために」

四人は新たに現れた男に視線を向け、敬礼した。新たに現れた男は、悠然とテーブルに着くと、暖かい眼差しを皆に向けた。

「喜べ、吉報だ。 儀式は失敗したが、完全な失敗ではなかったらしい。 サプレスの上級召還獣の話から、例のもの、或いはその一部が此方に召喚された可能性が非常に高い事が判明した。 一部であってもその力は強大、必ずや我らの手助けとなろう」

「本当ですか? オルドレイク様!」

クジマと呼ばれた少年の言葉に、新たに現れた男、オルドレイクは満足げに頷いた。

「それに、計画は一度の失敗で破綻するほど柔ではない。 (例のもの)の覚醒を待つのと並行して、(あれ)を用いた計画Bを発動する。 それに伴って、ラーマ、ザプラ、トクラン、クジマ。 君達(同志)にも動いてもらうぞ」

「はっ!」

四人が同時に言い、忠誠度に満ちた瞳で敬礼した。それを満足げにみやると、オルドレイクは言う。

「後はカシスだが、どうも(サイジェント)の辺りに潜伏している可能性が高い。 どうするべきだと思う?」

「捨て置いて構わないかと。 どうせ廃品ですしな」

「同感。 あんな役に立たない道具、放っておくのが正解だよぉ」

「同じく。 時間の無駄でしょう、あんな輩に構うのは」

ザプラと呼ばれた中年の男、トクランと呼ばれた女の子、それにクジマが口々に言うが、ラーマと呼ばれた女の意見は異なっていた。

「私は一応監視をつけても良いかと思います」

「ほう?」

「あれはいちおうクジマ同志の手ほどきで訓練を受けています。 あり得ない話ながら、もし我らにあがなおうとし、蒼なり金なりの派閥に接触したら、余り面白くない話になるやもしれません」

「ふむ。 奴らなど攻めてこようと充分に返り討ちに出来るが、確かに計画の邪魔になる可能性は捨てきれないな。 同志諸君、どう思う?」

オルドレイクの前で、他の同志達は概ね賛意を示した。オルドレイクは頷き、言った。

「よし、ではラーマの意見を採用する。 カシスに関しては、何かしらの監視策を講じよう」

「ありがとうございます、オルドレイク様」

「では、今日の会議はこれにて終了する。 約束の地に向け、同志達よ、全身全霊を尽くし邁進しよう!」

「はっ!」

全員が立ち上がり、敬礼した。それはこの同志達の結束を確かめる儀式であり、心を通い合わせる確認作業でもあった。

 

カシスは、サイジェントと呼ばれる街の中にいた。そこはたまにクラレットが様子を教えてくれた場所であり、行ってみたいと常々思っていた場所だった。街の中にはスラムや工場地帯もあったが、今彼女がいるような華やかな繁華街もあった。屋根の上で、気配を殺しながらカシスは思う。一度で良いから、普通にあの中を歩いてみたいな、と。

ただ遊ぶためだけに、カシスは此処に来たわけではない。あの儀式の後、隣に倒れていた娘が、この街に入り込んだからである。カシスは物陰から、あの娘が発動した召喚術や、奇妙な蒼い光も見ていた。もしもあの娘がサプレスの(獣神)を体に宿しでもしていたら、(お父様)や(同志達)以上に危険極まりない存在となる可能性が高い。カシスは、ガルガンチュアの遺言を覚えていた。そしてそれを、可能な限り実行するつもりだった。生きるためには、あの娘が邪魔になる可能性があり、必要とあれば処分するつもりであった。

もう収容された場所は確認済みであるから、今は余った時間を無駄に消費している状態だった。こんな経験は初めてであり、ぼんやりと繁華街を行き交う人々を眺めるだけでもカシスは楽しかった。

カシスには、楽しいという感情も芽生え始めていたのである。

「クラレット、明るい子が好きだって、言ってたっけ……」

ぼそりと呟くと、カシスは(明るい子)というのがどういう存在か考え始めた。そしていつの間にか、カシスは自分が(明るい子)となるべく、群衆を観察し始めていたのだった。

(続)