いにしえの闇

 

序、鼠

 

新月の夜。街の灯りは遠く、星の灯りは雲に隠れ、一寸先も見えぬ闇の中にて、獲物を貪り喰らう音が響いていた。野犬の死骸に群がる影は七つ。いずれも野犬より大きく、互いに肉を引っ張り合い、骨を千切り合い、見る間に死骸の形を無くしてしまう。顔を上げた捕食者の一匹が、ふと雲が途切れた瞬間、僅かな星明かりに照らされる。血まみれの口を長く紅い舌でひたすらなめ回すそれは、二本足で立ち、前足を手として使う事が出来る数少ない動物、齧歯類の一種であった。どぶ鼠によく似ているが、しかし幾ら何でも大きすぎる。ちいちいと挙げる声は確かに鼠のものだが、その凶暴で鋭い歯は野犬の体をたやすく噛み裂き、一夜の食料にしてしまった。まだ腹が満ちぬ様子で、彼らは周囲を見回し、視点を一斉に一カ所で固定する。何かの気配が、闇の中から浮き上がったためだ。

「まったく。 貴方達、何もこれから切り上げようって時に、私に見付からなくてもいいじゃないですか」

そんな声をのんびりゆっくりと挙げたのは人間。月明かりに僅かに照らされた姿は、長身の女であった。闇に溶けるような黒に身を固め、背中に流れる髪もまたあくまで黒い。鼠の一匹、一番大きな個体がゆっくりと歩み出す。他の者達も、皆舌なめずりしながら戦闘態勢を取る。半眼のまま、コートに手を入れるのと、(鼠)の一匹が躍りかかるはほぼ同時。鼠の素早さと猫の敏捷性と野犬の突進力をあわせたような鋭い突撃が、無惨な悲鳴と玉砕に繋がるまで、殆ど間はなかった。電光石火の早業で斜めに振り上げられた女の手には、鈍い光と垂れ落ちる鼠の血が残り、地面には頭を砕かれ舌を垂らした死体が転がっていた。鼠たちは知った。彼らが獲物だと思ったのは、野犬など比較にもならない、強大な獣だと言う事を。じりじりと下がる鼠たちに、ひゅっと風を斬って血を落としながら、女が言う。半眼だった目が、更に僅かに細くなり、圧倒的な殺気の光が放たれた。

「さて、さっさと片づけましょうか。 もうそろそろ眠りたいと思っていた所なんですから、時間を掛けるのは一種の罪悪です」

自分勝手なことをいいながら、一歩二歩と女が進む。勝てそうもないと判断した鼠たちが、逃げ出そうとしてきびすを返す。そして、一匹が地面のある場所を踏み、足を離して。闇夜の静寂が切り裂かれた。

青白い火柱が上がった。爆心地の周囲には、鼠の死体が散らばっていた。女は携帯電話をコートの裏から取り出すと、言う。

「こんばんわ、黒師院です。 はい、はい。 ええ、片づきましたよ。 予想通り野犬ではありませんでした。 可愛い鼠さん達でしたよ。 もうバラしちゃいましたけど、構いませんでしたか? ああ、それなら良かったです」

屈み、一匹の死体をつまみ上げる。犬ほどもある死体の上半分は吹っ飛んでいて、濃厚な血の臭いがする。他の死体も似たようなものだ。ひしゃげていたり、潰れていたり、千切れていたり、飛び散っていたり。散らばる鼠達の死体の真ん中の地面には、クレーターのような穴が開いていた。

「……ええ、どうやら間違いないようですね。 別料金になりますが、それでもよろしいですか? ええ、ええ。 それだけくれるのなら、問題なしです。 そうですね、一月はかからないでしょう。 幸い私の学校のすぐ近くですし、学業の片手間に片づけておきます。 では、進展があったら電話します。 処分は其方でお願いします」

携帯を切ると、女は鼠の死体を放り捨てた。もう腐り始めている鼠たち。やはり、何かがおかしいのは明白だ。

「さあ、疲れていますし、帰って寝ますか。 うふふふふふ」

寝る、と言う言葉に、異様な愛着が籠もっていたのはどうした事か。うっとりと頬に手を当てて呟いていた女は、のんびりゆっくり闇夜の中を歩き出す。松明のように立ち上った炎は、いつの間にか消え失せていた。最初から、其処には炎など存在しなかったかのように。

後には静寂ばかりが残っていた。

 

1,紅葉の中に

 

ここはY県K市。山の中腹にある緋山神社に続く石段には、紅葉の葉が数限りなく散り、黄金に染まった周囲の草と強烈な対比を為していた。其処をマイペースに歩き登る長身の女性が一人。タートルネックの黒セーターの上に、ダークグレーの膝まであるコートを着込み、下にはダークブルーのジーンズに、これまた黒一色のベルトを巻いている。長く艶やかな黒髪は背中で揺れており、幼さがほぼ抜けた顔の造作も悪くない。惜しむらくはその兎に角眠そうな目であり、それが美貌をうち消してしまっている。それが(眠そう)ではなく本当に(眠い)のだと、誰にでもすぐに分かるようにか、時々目を擦り、大あくびする。紅葉の色彩に彩られた階段で、墨を落としたような黒いその女性の名は、黒師院桐(こくしいんきり)。風貌からして社会人にも見えるが、実際はこの近辺にある普通の高校に通う、歴とした女子高生だ。趣味は昼寝。七時間の本睡眠にくわえて、三十分の昼寝を二回は入れないと気が済まないと公言する、生粋の昼寝マニアである。

階段を登り終えると、塗装が剥げかけている鳥居が一つ。柱には紅い塗装がしがみつくように残っていて、一見した所素材の木も相当に古い。柱の上に載せられた(笠木)はシンプルなデザインだ。二本の木を並べただけで、装飾は見あたらない。しばしそれを見上げていた桐は、半眼のまま視線を降ろし、再び歩き出す。やがて、鳥居の下にまで歩み来た桐は、空中に向かってノックをするような動作をした。ふわりと、空中に波紋が広がる。しばし立ち止まった後、桐は一歩を踏み出す。瞬間、彼女の髪が不自然に揺れたが、すぐに収まった。

無言のまま、神社の境内を歩く。そこそこに大きな本殿があり、其処へ丁寧に掃除された石畳の参道が延びている。境内の中にある木は皆燃えるように紅葉していて、はらはらと葉を散らし続けていた。参拝客は誰もいないが、それは仕方がない事だ。参道の脇をのんびりと歩きながら、桐はしばし美しい秋の神社を堪能する。時々零れる欠伸が、こういう時は多少鬱陶しい。半眼のまま、様々な美しいものを見ている桐は、自分を見ている者に気付いて振り向く。コートに手を入れたのは、無意識からの行動だ。視線の先には、巫女装束を着た娘がいた。箒を手にしていて、近くにはパステルグリーンの可愛いちり取りもある。しばし無言の見つめ合いが続いたが、声を先に発したのは桐であった。

「お掃除の邪魔でしたか?」

「えっ? いえ、そんな。 どうぞゆっくりしていって下さい」

「そうでしたか。 私は黒師院桐といいます。 貴方はこの神社の方ですか?」

「はい。 ここの神主の孫の、緋山美鈴と言います」

桐の礼に対して、慌ててぺこりと頭を下げる美鈴。この言葉遣いからして、桐を大人と勘違いしたのは間違いない。大人びた容姿が原因で、場合によっては私服警官に勘違いされる事もある風貌の桐だ。一度サングラスを冗談半分にかけた時などは、SPか何かと思われた事もある。高校に入った頃から、こういった反応をされる事には慣れた。多分年齢的にはほぼ変わらないだろう美鈴は、巫女装束がよく似合う綺麗な子だった。大きな目も下がり気味の眉も造作を良くしているし、体つきも女らしい。惜しむらくは、かなり世に不慣れそうな雰囲気であるが、それも好み次第であろう。

この神社に来たのは、調査のためだ。ゆっくり歩み寄る。と、随分と身長に差がある事がよく分かる。一メートル七十センチを超す桐に対して、美鈴は恐らく一メートル六十センチに達しない。

「もしよろしければ、幾つか教えて貰えませんでしょうか」

「は、はい。 何でしょうか」

「この神社で祭っている神様は?」

「八幡様です」

「八幡様ですか。 これはまた、霊験が灼かそうですね」

確かに表向きはそうだと、桐は心中で呟いていた。桐の下調べでも、郷土資料にてそう記されていた。八幡というのは、全国の神社の三分の一で信仰されている存在で、源氏の軍神として良く知られている。元は九州で信仰されていた神だが、源氏が崇めた事によって全国に広がった。いわゆる神仏習合の最も古い例の一つとして、大菩薩の称号も持っている。偉大な神霊であり、源氏に限らず多くの武将が軍神として崇めてきた存在でもある。また、八幡というのは一柱の神を指すのではなく、数種の神霊が複合した存在でもある。何にしてもスタンダードな神であり、この存在を祭る神社は珍しくもない。だが、この神社は少しばかりきな臭い。

本殿に歩み寄り、賽銭箱の前に立つ。とある存在と濃厚に関わり、結果力を得ている桐には分かる。これは八幡神の気配ではない。財布を取りだして、五百円を入れ、手を叩いて形だけお祈りする。境内を見回すと、本殿から少し離れた所に、注連縄を巻かれた大きな木があった。周囲の木々が燃えるように色づいた葉を山と枝につけているのに、その木だけは違う。まるで大海の中の孤島が如く、ただ彼一つだけが、青々とした葉を貫禄たっぷりに枝に付けている。堂々たる榊の巨木。目当てのものを見つけた桐は、ただ無言のまま、巨木を見上げた。余裕が為せる技だ。

「いい木ですね。 此方がご神木ですか?」

「はい。 当神社のご神体もかねています」

「……この神社に祭られている神様は、八幡様だけでは無いのでは?」

「えっ……? そ、そうなのですか?」

合祀という形で、複数の神を一度に祭っている神社は少なくない。しかし、まさかその神社の関係者がこんな反応をするとは、桐も考えていなかった。すっと目を細めてみるが、美鈴はおろおろするばかりで、嘘を付いているようには見えない。そうだとしても、百戦錬磨の桐にも見抜けない。

「ごめんなさい、不勉強で。 帰ったらお爺ちゃんに聞いてみます」

「いえいえ、変な事を聞いてしまってすみません。 それではこれで失礼します」

「姉貴、じいちゃんが呼んで……」

不意に第三者の声が割り込み、唐突に止まる。振り向いた桐は、内心でほうと呟いていた。其処に立ちつくしていたのは、近所の岸が丘中学校の制服をだらしなく着崩した少年だった。苛立ちと感情制御の希薄さが浮かぶ瞳を除くと、造作自体は姉に似ている。それにしても面白いのは。桐は出来るだけ大人っぽい笑顔を浮かべると、(弟君)に一歩歩み寄った。弟君はひくり、と体を震わせると、半歩下がる。怯えを必死に殺している様が、桐には滑稽だ。

「初めまして。 美鈴さんの弟さんですか?」

「あ、ああ」

「誠司、お客様に失礼よ」

「う、うるせえ。 じ、じいちゃんが呼んでた。 それだけだ。 じゃあな」

「こらっ! 誠司!」

小走りに、逃げるように去っていく誠司を、姉は頬を膨らませながら見守った。最近は反抗期で、自分の言う事を聞いてくれないのだと漏らす美鈴。可愛いものだと思いながら、桐は誠司に続いて神社を後にする。美鈴が手を振って見送ってくれるのは、決して悪い気分ではなかった。今時珍しい礼儀正しく親切な娘だ。

収穫は多かったし、個人的な訪問としても楽しかった。長い長い階段の中腹で、足を止めたのは、悪戯心からだ。

「で、誠司君。 私に何用ですか?」

「! ……っ」

コートのポケットに手を突っ込んだままの桐が視線を向ける木陰から、多少の怯えを残しながらも、坂道を踏みしめて、誠司が現れる。さっき神社を後にするふりをして木陰に隠れ、それからずっと桐を追ってきていたのだ。まあ可愛いストーキングであったし、桐としても暫く遊んであげても良かった。今声をかけて引っ張り出したのは、単なる遊び心からだ。

「あ、あんた、何者だ」

「ただのオカルト好きな高校生。 その名も黒師院桐ちゃん」

「ふ、ふ、巫山戯るなっ!」

「うふふふふふ、じょ、う、だ、ん。 お姉ちゃんと違って(みえる)から、分かりますよねえ。 結構押さえているんだけれど、貴方くらいの力があると、どんな風に見えるのですか?」

ポケットから手を出して、ゆっくり誠司の方へ向ける。誠司は思わず生唾を飲み込み、背中に木をぶつけてしまう。そのまま尻餅をつきそうになるが、何とか必死に態勢を立て直す。冷や汗を拭い、誠司は睨み付けてくる。戦闘非経験者にしてはなかなかの根性だ。実戦を三十回くらい経験させれば、そこそこに使い物になるかもしれない。

「あ、姉貴に近づくなっ! 今度近づいたら、ただじゃすまさねえからなっ!」

「どうただで済まさないのですか? 例えば、お腹をかっさばいて、内臓を引っ張り出してみる? 金属バットで頭をたたき割って、脳味噌をぶちまけてみる? さび付かせた鋸で指を一本一本切って、瓶に詰めて頬ずりしてみる? 目玉をえぐり出して、ホルマリン漬けにしてみる? 生皮を剥いで、壁に飾ってみる?」

蒼白になった誠司は、今度こそ尻餅をついてへたり込んでしまう。一般人としては根性がある方だが、激しい実戦をくぐり抜けてきた桐の気に当てられてしまえばこんなものだ。

「な、なにを……するつもり……なんだよ……」

「さあ? 今の時点ではまだ未定ですけれど」

まあ、十中八九戦いは避けられないでしょうね。そう心中で呟くと、桐は弟君を残して、神社の階段を下っていった。

桐が此処に来たのは、無論観光目的などではない。中学の二年から所属するようになったある機関の依頼で、調査に来たのである。最近周辺で起こっている様々な(怪異)の原因が此処だと当たりを付けたからだが、その予想は見事に的中した事になる。だが、桐の見立てでは、相当な相手だ。戦う際には徹底的に情報を集めると言う事は、六年前に卒業したある争いにより、体に染み付けられた鉄則だ。戦いは、刃を交える前から始まっているのである。

階段が終わる。振り仰ぐと、相変わらず山は燃えるように紅かった。後幾つか情報を集めてから帰るかと思い、桐は紅い落ち葉が舞い踊る街を歩き出した。

 

2,お昼寝女王

 

桐が通う高校は、県内でも有名なマンモス校で、生徒数は千五百を超えている。学力は上の下といった所であり、桐はその中でも真ん中ほどにいる。そろそろ受験の時期なのだが、桐はもうやりたい事が決まっているし、大学にも興味がないから、悠々自適の日々を過ごしていた。そしてそんな状況だから、学業の片手間に仕事をしているのである。昔得た力を維持発展するための修行も欠かした事がない。無力の悔しさを良く知るが故に。

退屈であまり意味がない授業が終わり、昼休みがやってくる。最近は自分でも二回に一回は弁当を作るようになったのだが、今日のは母が作った物だ。ひょいひょいとウインナーを口に運んでいる桐の耳に、様々なうわさ話が飛び込んでくる。有名人の誰々を何処で見たとか、校内の誰々と誰々が付き合っているとか、何処何処のケーキが美味しいとか。恋愛ごとに関しては、高校生など桐の眼中には最初から入っていない。物質に関しても金製品以外には全然興味がないので(それも最上級品だけ)、右から左へ流れていくに任せっきりだ。ましてや、有名人などそれこそどうでも良い事である。

「ねえ、きりー」

「うん? どうかした?」

「今度南町に新しいケーキ屋出来たって言うんだけど、買いに行かない?」

「日程次第かな」

二年生からクラスが同じ関係でそこそこ親しい女子生徒の言葉に応えながら、水筒に入れた紅茶を取り出す。いい水で出した、美味しいアイスティーだ。水に関しては水マニアの親友青山からアドバイスを受けて購入した物で、茶葉も厳選したものを丁寧に仕上げている。桐は生家が生家だから、こういったスキルに関しては普通の女子生徒を遙かに凌ぐ。反面自分で作った弁当に入っている料理はほとんどが冷凍食品という惨状であり、しかもどれもこれもレンジでチンしたものばかりだ。油を使う奴とか、フライパンで炒める奴などもってのほかである。水筒のコップにシナモンの薫り高い茶を注ぐ桐に、話しかけてきた女子生徒が続ける。彼女の周囲にいる女子達は、興味半分観察半分といった様子で会話を見守っている。

「今週の土曜日の午前中がいいなあって話になってるんだけど」

「十一時くらいまでならオッケー」

「ええー。 あんた一体、いつも何してるのよ。 付き合いわるいー」

「秘密」

実は、それは秘密でも何でもない。桐は基本的に一日に二つ以上余計な事をしないと勝手に脳内設定しているのだ。そのため、殆どの日は友人に付き合わないのである。余計な事に入らないのは修行や仕事などであり、余計な事にはいるのは友人づきあいや勉強などである。ようは面倒くさいのだ。この辺りの微妙な歪みこそ、桐は本来面倒くさがり屋であり、それほど大した人間なのでは無いという証明である。彼女を育て上げたのは激しい実戦と、その中でしなければならなかった厳しい決断の数々だ。そして著しい成長にこそ、他の生物を凌ぐ人間の利点がある。ちなみに、数年前の戦いで深く互いを理解した親友達とのつきあいは、余計な事に分類されない。

友人の周囲でひそひそ話を始める連中には構わず、茶で喉に残った食物の分解品を胃へ通し、空の弁当箱を鞄に入れると、後ろのロッカーから通学用のとは別の小さな鞄を取り出す。マイペースの極地である桐がさっさと食物を胃に掻き込むのも、このお楽しみタイムのためだ。パラソルにも使える傘を机の横から外すと、教室を後にしようとする桐に、友人が背中から声をかけた。

「きりー。 じゃあ港中北駅で、土曜の九時に集合だからね」

「了解。 じゃ、そう言う事で、五時限目にまた会いましょう」

「また昼寝?」

「昼寝。 ああ、愛しのマイスイートタイム」

語尾にハートすら付けながらいい、コートを羽織って、桐は教室を後にする。昼寝をするには絶好のポイントが幾つかある。夏場なら屋上の一角、冬場なら校庭の側にある植物園の中などが桐のお気に入りだ。プールの脇や機械室なども良いのだが、不良がたまり場にしている事があって、ぶちのめすのも挨拶を受けるのも面倒くさいので最近は避ける事が多い。自他共に認める昼寝マニアの彼女は、昼休みのうち四十五分は昼寝に費やす事を基本としている。一分でも無駄にしたくないのである。

様々な気紛れの結果、歩きながら今日は植物園に決めた桐は、鼻歌交じりにビニールハウスの戸を開けた。園芸部はここ数年廃部になっていて、此処を管理しているのは老いた用務員が一人だけだ。その用務員さんをお菓子で買収して、昼は好きに使って良いという許可を得ている。此処は静かで、桐のお気に入りの場所なのだ。たまに気が向いた時は、放課後に来てお爺さんを手伝っているので、問題にはなっていない。

ビニールハウスには棚が所狭しと並べられていて、大小様々の植木鉢が並べられている。どれにも植物が植え込まれていて、棚の脇には雑多にスコップや園芸土が置いてある。それもいつでも使えるように、だ。此処は隣の大学と共用でたまに使っていると桐は聞いている。たしか教職試験に関係してくる単位に絡んでいるという話だ。ビニールハウスの奥の方に、少し広く地面が露出している場所があり、其処はボイラーもうるさくない。傘の柄をぱきんと折り、空洞になっている中からビニールシートを出して敷く。シートに座ると鞄のチャックを開け、リバーシブルなそれの内側をめくって外側へとひっくり返す。そうするとあら不思議、ぷにぷにふにゅふにゅ感全開のマイ枕が完成するのだ。特注で作らせた品物であり、寝る前にこれを膝の上に置き、むにむにと掴んで揉んで、しばしぷにぷに感を堪能するのが桐の楽しみの一つなのである。鞄に偽装しているのは、流石に学校にマイ枕を持ってくるのがばれたら先生がうるさいからだ。実に幸せそうな顔で、マイ枕のぷにぷにぶりを楽しんでいた桐は、物音に気付いて振り向いた。

「あああっ!」

「ぶっ!」

其処にいたのは、美鈴であった。高校生くらいだと見当は付けていたが、まさかこの学校の生徒だったとは。右手には水色のじょうろを手にしていて、左手には小さなスコップを持っている。園芸部員はここ数年いないはずで、温室はこの時間桐の占有空間だったはずなのに。唖然としている桐の前で、彼女以上に動揺している美鈴が、慌てて言う。

「き、昨日の人、ですよね! ここは、その、高校のビニールハウスですっ! だから、あの、その……!」

「私は高校生ですよ。 しかもここの生徒」

「えっ! ええ……え……?」

「改めて自己紹介しましょう。 私は黒師院桐。 ここの三年生です」

真っ青になって立ちつくす美鈴。頭をかきながら、桐は昼休みの至福の時、お昼寝タイムが潰れた事を悟った。

 

毒をくらわば皿まで。桐の座右の銘である。彼女は昼寝を潰してくれた礼代わりに、今回の戦いのキーパーソンになりうる美鈴を、もう少し研究する事に決めていた。

それにしても、何を着ても似合う人間というのはいるものである。美鈴は巫女装束を着ても似合ったが、高校の制服を着ても、その上から茶色のコートを羽織っても、普通に似合っていた。無言のままマイ枕をひっくり返し、鞄にする桐。それを見ながら、おろおろとする美鈴。やがて、ぺこりと美鈴は頭を下げた。

「ごめんなさい、失礼な勘違いをして」

「いや、婦警とかに間違われる事もあるし、気にしていませんよ」

「ごめんなさい……」

「謝るのは止めてください。 それにしても、どうして昼休みに植物園に?」

「あ、はい。 私、園芸が趣味なんです。 それで、園芸部に入りたかったんですけど、廃部になってしまっているという事で、でも諦めきれなくて。 許可を得て、入らせて貰っているんです」

そういえば、ここの所随分手入れが良いなと、桐は思っていた。非常にまめで心優しい性格が伺える手入れである。棚も丁寧に掃除されているし、栽定や水やりも緻密に行われている。どっちにしても、桐より遙かに真面目で立派な理由だ。桐の理由を、美鈴の欲求に優先させる事など出来ない。これは新しいお昼寝ポイントを探す必要がありそうだった。別に人がいても寝られるのだが、商売柄他人がいるもしくは来る可能性がある所で寝ると、熟睡出来ないのだ。仕方がないので、ビニールシートに座ったまま、まだおろおろしている美鈴に言う。

「私は置物だと思って、作業をして下さい」

「は、はい。 すみません」

「もう謝らないでください。 それよりも、最近色々と神社の周囲で事件が起こっているそうではないですか」

「そういえば、そうなんです。 野犬に子供が襲われたり、老人が迷子になったり。 噂では、ホームレスの方が行方不明になったりしたとか。 噂の範囲は、越えていないんですけれど、ね」

でも物騒ですよね、と、美鈴は笑い、桐も笑い返した。だが、内心では笑っていない。残念ながら、それらは全部事実だからだ。桐が知っているだけでも、子供が夕方(野犬)に襲われた事件が三件起こっている。また、死体は上がっていないが、ホームレスが(怪異)に襲われて亡くなったらしいのもほぼ間違いない。電気が普及した現在、怪異の数は減ってきているが、その一方でたまに起こるともみ消しにも苦労する事になる。(野犬)はもう処理したが、あの神社の様子からして、放っておけばすぐにまた類似の事件が起こるだろう。あまり悠長にしている時間はない。

しかし、単純に敵を倒してはいおしまい、という訳にはいかないのも、難しい所だ。実際今桐が相手にしているのは、(歪に流れ出している力)というのが最も正しい表現となる存在であり、それを止めるには根本をせき止める、といった行動が必要になってくる。そう言った力の類似品を根本から受けている桐には、それがかなり困難な事だとよく分かる。必要になってくるのはその存在の解明であり、それには足を使った入念な調査が必要になってくるのだ。調査はかなり進んでいるのだが、それでもまだ少し足りない。決定打が欲しいと、桐は考えている。

それにしても、面白い姉弟だと、桐は思う。真面目な姉と不真面目な弟。優しい姉と乱暴だが根は優しい弟。弟を心配する姉と、姉を心配する弟。そして、能力を持つ弟と、能力を内在する姉。

対称的な存在だが、それでいて似通ってもいる。核家族化が進み、個人個人でより生きていけるようになった現在、現実社会に仲の良い家族は滅多にいない。自立のために子供が家を出る事は多いが、その理由の殆どが人間として自立したいからではない。実際には殆どの場合、親に干渉されるのが嫌だとか、自由勝手に生活したいということが理由だ。これからも分かるように、血を分けた家族ですら邪魔者だと考えるのが人間だ。これは現代日本人がどうこうと言う事ではなく、社会の発達と変化が原因で、そういった本質がより濃く出て来ているからに過ぎない。人間とは本来そう言う性質を持っているのである。

「あの、黒師院先輩は、どうしてうちの神社に?」

「ん、ちょっと調べごとがあったからですよ。 私は結構オカルトが好きで、彼方此方の神社を回るのが趣味なんです」

それを聞いて、美鈴がちょっと残念そうな顔をする。実にわかりやすい。要するに、今桐が告げたのは、興味から調べているという意味である。信仰が調査の要因では無いという事だ。それは実際に神を崇めている人間にはマイナスに受け取れるだろう。美鈴のように善良な人間には、残念な事だと思えるに違いない。

「オカルト……ですか」

「この地には、昔水神信仰があったことをご存じですか?」

「水神様?」

「ええ、水神様。 昔、川そのものを崇める信仰は珍しくありませんでした。 有名なヤマタノオロチも、その一つだという説があります。 こういった原始的な精霊神信仰は、世界各地にありまして、その特徴の一つは、生贄を要求すること」

ざわりと、ビニールハウスの空気が一変する。全く意味が分からないといった様子で、美鈴は硬直停止している。

「古代社会において、耕した田畑を一瞬にして泥の下に埋め、村を滅ぼし地の底へ沈めてしまう洪水は何にも勝る恐怖だったのです。 その力は人外の域であり、故に神そのものでした。 そこで、人は生贄を捧げて神である川をなだめようと考えたのです」

「悲しい話ですね」

「ええ、忘れてはならない歴史の闇です。 こうして神となった川に、古代では生贄として多くの人が沈められたのです。 社会が成熟するにつれて、こうした風習は影を潜めていくようになりましたが」

自然そのものを神格化する精霊神信仰は、宗教のもっとも原始的な形態の一つであり、非常に思想的な許容範囲が広いという利点を持つ。その一方で、多くの信仰で生贄を要求するという致命的な欠点があり、いずれの地域でも社会が発展するにつれて衰退していく事となった。しかし、衰退しただけで、それは社会の暗部に色濃く残っている。

この例は世界中に様々にあるが、日本の例でいえば、諏訪で信仰されていたミジャグジ神などが挙げられる。これは男根をかたどった柱をシンボルとする神であり、生贄を要求する存在であったが、タケミナカタ神に破れ以降は此方が信仰されるようになった、とされている。これには大和政権に圧迫された旧政権と当時諏訪にあった独立国の争いなどが裏に絡んでいるとも言われるが、それはともかく、結局の所は社会の成熟と共に生贄を必要とする風習自体がタブー視されていくようになり、衰退していったのである。ただ、ミジャグジ神の場合は名前さえ失ったものの風習自体が色濃く現在まで残っており、いい形で近代宗教と共存する事が出来たのである。

そして、これは何も遠い世界の話ではない。今桐がいる地域でも、昔行われた事なのだ。

「神が名前を変え、信仰が無難になる。 これは良くある事なんですよ。 そして先進国でも、いたるところでその実例を見る事が出来ます」

「ま、まさか……」

「ええ。 緋山神社もその一例ではないかと、私は考えています。 あくまで仮説ですがね。 この地では、昔凄惨な生贄を伴った、原始的な祭りが執り行われていたのではないかと思います」

「そ、そんな、でも、私」

「勘違いしないでください。 現在ではタブーとされている事が、昔は正義だったというのは良くある事なんです。 私は決して、闇に葬られた水神を悪しきものだとは思っていませんし、貴方の大事な神社を否定するつもりもありません」

ただ、危険だったら叩き潰すだけです。困惑する美鈴をなだめる優しい桐の笑顔の裏には、獲物を狙う獣の視線が隠れていた。この辺の強かさを通り越した強烈な獣性の制御は、数多くの実戦をくぐり抜けたからこそ、不自然なく実行出来ることだ。戦闘能力と獣性は切っても切れない関係にある。無数の戦闘をこなす事で、桐はそれとの共存を果たす事に成功したのである。

時間が大分押してきた。立ち上がると、ビニールシートをくるくる巻いてパラソルにしまう。きゅっといい音がしてパラソルが閉じ、先端部で地面を二度突いて感触を確かめると、そわそわと作業を続けている美鈴に、背中から言う。

「また近いうちに会う事になるでしょう。 その時もまたよろしく」

「……はい」

「あ、そうそう。 神社の南の山、近寄らない方がよいでしょう。 悪しき気が出ているようですから」

これは純粋な好意からの忠告だ。桐の見たところ、水神が力の根元にしている所は其処にある。今晩は直接調査に向かう予定だ。そして充分に交戦が予想された。まあ、素人に分からない程度に偽装はするが、もし一般人がその場にいた場合、守りきる保証はない。

「あ、それ、弟も言っていました」

「いい弟さんですね」

「えっ? ……はい、失礼な事ばかりいう子で、ごめんなさい。 どうしてあんなに捻くれてしまったのか、私にも分からなくて」

「大丈夫。 弟君は、私から見てもそう悪い人ではありませんよ」

美鈴の頭をなでなですると、桐はビニールハウスを後にした。新しい昼寝場所を探す必要が生じていた。

 

3,まがつ神

 

授業が終わり、放課後がやってくる。肌寒い空気の中、掃除当番を済ませて、さっさと家に帰り、黒セーターと黒コートに着替えてから図書館に向かう。此処しばらくの日課である。今日の目当ての図書館は、県内で最大規模の大学図書館だ。蔵書は三十万冊に達し、中には貴重な学術書も多い。最近の情報はもう集め終わったので、このところはもっぱら過去の緋山神社の調査に移っていた。桐が出入りしても誰も文句を言う人がいない理由は二つ。一つは以前から仕事の関係で出入りしていて、教授の何人かにコネがあり、その関係でパスを持っているため入り口で咎められる事がない。今ひとつは容姿が高校生離れしているため、不審に思う人間がいないという事だ。

図書館の深部に入り、重要な資料を幾つか持ち出し、集中して一気に読み進める。膨大な情報を整理し、必要ならばメモし、コピーし、記録を残していく。結果、今までに、分かった事は幾つかある。

まずこの近辺では、ほぼ二十年周期で怪異による事件が頻発する。古くには江戸時代にも記録が遡れる。そして資料にある所では、土地の長老の発言によると戦国時代にも似たような事件があったという。ただしこの最古の記録に関しては、裏付けが取れていないとも記述がある。また、昔は怪異による事件が今とは比較にならないほど多かったし、怪異による被害者が少ない事から、あまり問題視はされなかった事が、資料のあっさりした触れ方からも伺える。ただし、どの事件でも大体人が死んでいる。それはだいたい一人だが、最初の犠牲者が男性だった場合、必ず若い娘が死ぬ。今回もホームレスが一人亡くなっているし、二十年前は興味深い事にある人物が変死している。美鈴の母の姉だ。このまま行くと、また若い娘が命を落とす可能性は高い。怪異の種類は様々だが、多くは動物の変異や異常発生、幻惑などであり、多数の人を死に追いやるような事は無い。桐にこの事件の解決依頼が回ってきたのは、此処に手を回す余裕が出てきたからに他ならない。

大体事件を洗い終えた桐は、続いて土地の地質学研究に移る。興味があるのは、この土地の川だ。これも大まかな所が分かってきている。

この地にはひるやと呼ばれる川が流れている。昼屋とか古い記録だと蛭矢とか書かれていて、現在ではひらがなで表記されるのが一般的だ。今でこそ穏やかな小川だが、かってそれは山が多い地形をうねりながら流れる川で、その暴れぶりは言語を絶するものであった。古代の人間達がこれを神として崇め、生贄を捧げて鎮めようとしたのは無理もない話である。しかし長年の堤防工事が功を奏し、平安初期に信濃川と合流、流れも安定。平安時代後期頃にはすっかり大人しい川に変貌した、といわれている。しかし、桐の調査によると、どうもそうではないらしい事が分かってきた。

例えば室町時代前期の資料に、ひるや様が野分の日に大暴れなされた、という記述がある。野分というのは現在で言う台風であり、死者三十人という記述が残っている。また、戦国時代の資料には、ひるやの堤防工事についての記述もある。洪水の記録が無くなったのは江戸時代の寸前からで、それまでは安定しつつも小規模ながら洪水は起こり続けていたのだ。川の流れについての分析をつてを使って地質学者に依頼した所、ひるや川が完全に安定したのは、丁度江戸時代の寸前になっていた。また、ひるやの起点も大きく変わっている事も分かってきた。今はK市の南にあるJ市だが、昔はK市にあったらしいのだという。無論これらはわざわざ地質調査したのではなく、昔の調査記録から洗い出してくれたのだが、それでも桐には大いに助けになった。

そして、最後にこの地の民俗学研究だ。これは有名な武田信玄の研究に混じって、豊富に資料が隠されていて、それを洗い出す作業が大変だった。

ひるやをめぐる祭りには、山車を出して祝うようなオーソドックスなものが多いのだが、桐が目を留めたのは春に緋山神社を始めとした幾つかの神社で行う(足すぎ)とよばれる祭りだ。桐も行った事があるが、神社の境内で楽しんだ金魚すくいだとか綿菓子だとか、そんな事しか覚えていない。調査によると、神社関係者がひるや川で行う秘儀があるそうだ。細かい事は分からないが、千早を着た巫女が浅瀬で舞うのだという。結構荘厳な儀式だそうで、美しい舞だという言葉だけが残っている。その一方で、資料が少ないため、何故「足すぎ」というのかは分からない。昔は文字通り生贄の足を洗ったのか、それとも葦や何かの当て字なのか。昭和三十年代に実行されなくなってしまったそうなので、この辺りは、多分美鈴に聞いても分からないだろう。美鈴は多分、八幡神と合祀されている(もしくは名前だけ変えられている?)ひるや神の事も知らない。彼女の祖父なら知っているかも知れないが、しかし見ず知らずの桐に話してくれるほどお人好しでもあるまい。他にも知識を持つ老人はいるだろうが、土地の古老という存在が尊敬を集めなくなって等しいし、そういった事に知識を持つ者を探すのは至難だ。桐は足を使って三十世帯ほどの老人を訪ね回ったが、芳しい答えは何処でも得られなかった。

時計を見ると、すでに夕方になっている。事件に対する情報等の整理は出来たが、どうやらこれ以上は現地調査が必要になってくる。戦う分の装備は一応持ってきているので、問題はないが、まだ調査不足だとも思う。しかし、準備不足だが仕方が無いという事情もある。今までの情報を総合する限り、今日が生贄が失踪する日だからだ。

ひるや事件の資料には共通してある。最初の怪異が起こってから、二十と三日後に人が死ぬと。今日がその、二十と三日目である。

図書館を出て、緋山神社の方へ歩き始める。彼女の読みでは、おそらくそろそろ奴は動き出す。人気が無くなった所で速度を上げるかと思ったが、不意に気配が生じたので足を止める。進路には、険しい表情の誠司が立ち塞がっていた。

「あんたの仕業か?」

「うん? 何がですか?」

「……嘘つくんじゃねえっ!」

桐は目を細めた。相対的に見て絶対的な力を前にして、震えながらも、必死に虚勢を張るこの有様。大体の事態は飲み込めた。仲間や家族を守ろうとする時、こんな表情を人は見せる。かっての自分もそうだったから、なおさらよく分かる。

「お姉さん、でしょう。 ひょっとして、ふらふらと何処かに行ってしまったとか?」

「! やっぱ、あんたかっ!」

「落ち着きなさい。 何時頃に何処でどうおかしくなったか言いなさい。 もたもたしていると、手遅れになりますよ」

桐の言葉は静かだが、有無を言わせぬ迫力を持っている。事実、桐は無駄に人が死ぬのは避けたいと考えている。だから、熱には更に勢いが籠もった。

「私はお姉さんを、美鈴さんを助けられるかも知れません。 私に食ってかかって時間を浪費するか、力を持つ私を信用して姉を救う希望を託すか、どちらかにしなさい」

 

夕闇の中、桐が走る。風を蹴散らし、黒一色の影が走る。邪魔になる髪は縛り上げているが、それでも尻尾のように背中で揺れる揺れる。緋山神社のある山の中、鬱蒼とした秋の森の中、桐は走る。地面を走って、落ち葉を蹴散らすような無粋はしない。太い枝を選んで、音を出来るだけ立てずに、さながら影のように行く。そして進みながらも、桐は一つの痕跡を追っていた。足跡が続いているのだ。文字通りの足跡ではなく、人間が通った痕跡が、落ち葉積もる地面のそこかしこに残っている。痕跡の劣化度からしても、そう時間は経っていない。図書館を早めに出て正解であった。最初から泳がせるつもりではあったが、それでも情報と余裕があった方がやりやすい。元々攻撃用の術を殆ど持っていない桐には、相手に勝つのではなく撃破すると言う事は想像以上の難事なのである。

近接戦闘タイプの親友銀月のように、疾風の如く行くという真似は出来ないが、何とか人間が走るよりも速い程度に、枝の間を渡り行く位の事は出来る。そろそろ夜闇が光を消し去り始める頃だ。ふと振り返ると、もう街では灯りがつき始めている。鳥の声が、もの悲しく秋の山に響き、体の芯から冷えるような寒気が周囲から伝わってくる。ふうと白い息を吐くと、再び追跡に移る。やはり足跡は、緋山神社の南、深い山中に向かっていた。南はあまり桐にとって相性がよい方向ではないのだが、あまり贅沢も言っていられない。

禍々しい気配が、一歩ごとに強くなってくる。桐の予想は当たった。古代神族の、歪んだ顕現の一つ。いわゆるまがつ神がこの先にいる事は間違いなかった。

たかだかとそびえる木で、桐は足を止めた。斜め下に位置する、山の斜面の中少し開けた場所がある。其処にはくびれた形の沼があり、燐光が飛び回っていた。沼の真ん中には、巨大な障気が渦巻き、怨念と呪詛が桐のいる所まで届いてくる。完全に気配を消し、静かに状況を観察する。渦を巻く障気の中央へ、ふらふらと歩み行く少女の姿がある。美鈴だ。案の定、正気を残しているとは思えない、不確かな足取りである。高校の制服を身に纏ったままで、手も足も泥だらけだ。普段の清潔さは微塵も見られない。

誠司の話によると、美鈴は帰宅途中に誠司と一緒になったが、突然無言になり、何かが入ったように異様な気配を放ったのだという。そして誰何する誠司を放り投げ(その跡が誠司の制服に残っていた)、緋山の藪の中に駆け入ったという。その速さは尋常でなく、体力のない誠司はすぐに離されたそうだ。

沼は手入れされた様子もなく、ぼうぼうと周囲には雑草が生い茂っている。だが蛙や虫の鳴き声は殆どしない。印を組み、二つの術を準備する桐の視線の先で、無言のまま美鈴が上着の袖をびりびりと破いて、半袖の状態にする。薄闇の中でも、白い美鈴の肌が空気に晒される。結構頑丈な制服のはずだが。そう思ってよく見ると、爪がはげたか指先が血に染まっている。普段の美鈴だったら多分痛くてかがみ込むだろうが、何も気にしない様子で、膝の当たりまで深さがある所まで歩み行く。やがて、彼女は舞い始めた。まず一つ、泥水に足を洗わせながら回る。半眼のまま紅く染まった手を広げ、止まると二歩前に進み出、そしてゆるやかに半回転。そのまま浅い方へ一歩、回って深い方へ二歩。徐々に動作が速くなり、だが水音が殆ど気にならない。実に美しい。血に染まっている指先や、無理に藪の中を急行したため血だらけになっている腿、彼方此方無惨に破れている制服が殆ど気にならない。

「へえ……」

一つ目の印を組み終えた桐は、二つ目の印を組みながら呟いていた。これが足すぎの舞いか。そうだとは誰にも言われていないのに、桐には分かった。実に美しい、洗練された舞だ。神に捧げられた、秘なる舞い。それを特等席で、桐は見る事が出来たのである。虚ろな目のまま、美鈴は舞う。しかしそれが舞わされているのだと、桐は知っている。元々それに特化した血筋だと言う事は分かっているが、それでも消耗が大きいはずである。印を焦らないように、慎重に組む。

時間がない。ゆっくり見ていたいが、そうもいかない。何とか二つ目の印が間に合う。一息つくと、桐は発動のタイミングを待った。やがて、踊り疲れたか、沼の中に折れるようにして美鈴が倒れてしまう。仰向けに倒れ込んだのが幸いだ。そうでなければ、すぐに行動を起こさねばならない所であった。長い髪がばらけて、沼の水面に放射状に広がる。沼の中央が泡立ち始めるのは、それと同時であった。木の枝に手を着いて、第一の印を解放していた桐は、続けて第二の印解放に入る。泡だった水面が盛り上がり、それが姿を現す。

丸みを帯びたフォルムに、ぬっぺりとした表面。無数の触手が生え、大きな丸い目が無数についている。口らしいものは見あたらない。およそ生物らしからぬ、奇怪な存在が、泡を泥水を蹴立てて浮き上がる。哀れな姿だと、桐は思った。これぞまがつ神だ。まがつ神は蛇のように先が割れた触手を伸ばし、美鈴を捉えようとする。その瞬間、空に出現した巨大な円形の盾が自由落下を開始、踏みつぶすようにして、まがつ神を直撃した。巨大な分厚い盾は直径一メートル半、重量にして八十キロ近い巨大なものである。不安定なまがつ神の体はひしゃげ、透明な体液が周囲に飛び散る。。

ギオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!

屈辱の咆吼を上げるまがつ神が、更にそれを苦痛のものへと変化させた。術の解放と同時に跳躍した桐が、浮いている盾の上に、全体重をかけて飛び降りたからである。桐の体重は五十キロ後半に達し、装備をくわえると七十キロを超える。それが五メートル近く上から飛び降りたのだから、その衝撃力は凄まじい。普通だったら足の骨が砕けている所だが、平然と盾の上で体を安定させた桐は、屈んで盾に手を着く。もがきながら触手が盾に絡みついてくる。開いている手で二つ印を切った桐が、短く叫ぶ。

「封!」

同時に、まがつ神の動きが鈍くなる。最初に用意していた術がこれであった。まがつ神の全身に、淡い燐光が絡みついている。技術は桐が遙かに上だが、局所的な干渉力は神の方が遙かに上だから、時間稼ぎにしかならないが、それで充分。桐はまがつ神の周辺の水、それの性質を変化させたのだ。正確には、一時的に粘性を通常時の五十倍にした。今奴はコンクリの中でもがいているに等しい。だが、流石に腐っても神である。苦し紛れに触手を一閃、それが盾から飛び降りようとしていた桐を直撃した。桐の予想外の反応速度であった。受け身は間に合ったが、それでも凄まじいパワーに、はじき飛ばされるのは避けられない。水面を飛び石のように弾かれ、美鈴とは逆の方に飛ばされてしまう。盾を押しのけたまがつ神が、再びその異様を水面に現す。盾は泡を挙げながら水面下に沈んでいった。

泥水の中で直撃を貰った腹を押さえ立ち上がりながら、桐がぼやく。その目には、苛立ちと、露骨な殺気が閃光のように灯り始める。

「ちいっ! 面倒くさいですね……! いっそここでばらまいちゃいましょうか」

言葉と共に、桐の雰囲気が変わる。全身から立ち上る異常なまでの濃密な殺気。まるで其処に雷が顕現したような威圧感だ。桐の体から漏れだした濃密な魔力が、激しいスパークを周囲に巻き起こす。だが、それはすぐに収まる。本気で戦えば、美鈴を巻き込む事に桐の理性が気付いたからだ。桐は基本的に一番穏便な手から試し、アクシデントが起こると徐々に危険な手に切り替えていく、慎重な策士だ。彼女の策士としての本能が、確実に勝てるが確実に人も死ぬ方法を否としたのである。まがつ神の全身を掴む燐光が、徐々に激しさを増し始める。桐は水面に手を着くと、もう一度封と呟いた。激しいスパークが水面で沸き上がり、桐の額に汗が浮かぶ。動きが遅くなったとは言え、水面に出ている触手自体は全く束縛を受けていない。頭に血が登っているらしく、桐への攻撃に集中してくれているが、流石に桐も冷や冷やする。じりじりと下がる桐に、雄叫びを挙げながら、強引に神が肉薄してくる。壁が迫ってくるようで、なかなかに凄まじい圧迫感である。びゅんと、叩き落とすように触手が飛んできた。水が滴るコートに手を入れた桐が、手を抜きざまに斜めに振るい、触手をはじき返す。千切れかけた触手が水面に叩き付けられる。桐の手には、さっきまで無かった十手の鈍い光があった。刃が非常に太く作られた、殴打にも充分耐えられる頑丈な作りの十手で、その姿は極めて無骨だ。

だが、触手は見る間に肉を盛り上げさせ、再生していく。伊達に神ではない。奴はそのまま匠に桐を沼の端へと追いつめていく。びゅんびゅんと飛んでくる触手を、或いは水面に叩き落とし、或いは横薙ぎに跳ね上げ、或いは袈裟に切り落とす。専守防衛は桐の最も得意とする所である。しかし今回はハンデが多すぎる。敵の手数の多さに、じりじりと下がらざるを得ない。ハンデ付きの戦いは慣れっこだが、いつもながら冷や冷やする。そうこうするうちに、ついに背中が池の端に触れる。其方は崖になっていて、袋小路に等しい。無言のまま桐は印を組み始める。途中、触手が飛んできて、激しく頬を殴打されるが気にしない。膝を折りかけるも、印を組みながら立ち直る。七つの印をくみ上げ終えると、桐は目を見開き、首をへし折ろうと飛んできた触手を屈んで避けながら、水面に手を着く。同時に、神の体にまとわりついていた燐光が消えた。

「玄武よ、汝の加護にて、我を水と隔絶せよ! 翔っ!」

「ギガアアアアアアアアアアアアッ!」

術式の意味に気付いたらしい神が、自由になった巨体を振るって突撃してくる。しかし、桐はにっと笑い、殴打されて痣が出来ている頬を拭いながら、水面の上に足を抜いて立った。そう、水面に地面が如く立って見せたのである。後は、水面に波紋を残しながら走る。走り、雄叫びを挙げる神の真横を瞬く間に走り抜く。かっさらうようにして浮かんでいた美鈴を拾い上げ、そのまま一気に池の縁へと走り抜ける。わざわざ追いつめられたのはこのためだ。神を美鈴から引き離し、更には追撃を防ぎやすくするため。肩に美鈴を担いだまま池から飛び上がり、大地に足を降ろす。流石に全身の彼方此方が痛いが、そんなものは後で幾らでも直せる。怒り狂った神が、水を蹴立てて迫ってくる。その体から、無数の触手が伸び、うねりながら躍りかかってくる。それを見て、別に桐は驚くでも慌てるでもなく、水上歩行の術を解除、盾の術式とつなぎなおし、親指を下に突きだした右手を肩の高さまで引っ張り上げた。途端に、沈んでいた盾が浮き上がり、神の顔面を強打する。

「ギャアアアアアアアアアオオオオオオオッ!」

「カモン、神様」

桐は走りながら、軽く挑発する。盾を押しのけて、まがつ神が追ってきた。陸に上がったその巨体は、正に合成生物と呼ぶが相応しい存在であった。全身は半透明で、ぬめぬめとした粘液に覆われ、無数の足はザリガニのようであり、背には鰭が揺れている。触手が生えている全身は、あるものに似ていた。蛇のようだが違う。長いが蛇ではない。藪を蹴散らし走りながら、ちらちらと視線を後方に送り、桐はその原型をみきわめんとする。恐るべき速さで迫り来る神は、口を大きく開けて咆吼した。体の下半分がまるまる口になっていて、深海魚のようにあり得ない位置まで大きく開いていた。口に生えた無数の牙は鋭く、噛みつかれたら牛や馬でもまず逃げられないし、人間だったら一発で真っ二つだ。今まで喰われた者達は、痛みを感じる暇もなかっただろう。それが不幸中の幸いだ。

来る前に解析し、途中に確認したとおりの動きを見せながら、神は追ってくる。来る途中に設置して置いた罠まで引っ張り込めば桐の勝ちだ。それにしても、これほど強固に実体化したまがつ神は久しぶりに見る。数百年分のたまりにたまった歪みが、ねじ曲げ、捻りあげ、こんな姿にしてしまったのだ。桐には良くこの神の悲劇が分かる。だからこそに、まずはこのまがつ神の体を屠らねばならない。

何かの拍子に、担いでいた美鈴の体を、強く肩に打ち付けてしまう。意識を取り戻すと同時に、激しく咳き込む美鈴。桐の背中に美鈴の頭が向くように担いでいるので、即ち彼女は凄まじい勢いで夕闇の山を追ってくるまがつ神を直視する事になる。結果は分かりきっている。手足の痛みよりも先に、恐怖によって、美鈴が絹を裂くような悲鳴を上げた。

「きゃあああああああああああっ! いやあああああああっ!」

ギガオオオオアアアアアアアアアアッ!

美鈴の悲鳴に反応した神が、一段と激しく禍々しい咆吼を上げた。無数の触手が唸り、桐の頭上すれすれをかすめ、脇のすぐ側を強打し、かなり太い木に大穴を穿つ。頭を抱えて悲鳴を上げる美鈴に、さりげなく方向を変え、(支流)に入り込みながら桐は言った。

「それはないでしょう。 美鈴さん」

「……! こ、黒師院、先輩!?」

「はい、黒師院です。 そんな事よりも、あのまがつ神の正体が何だか、分からないのですか?」

「分かりませんっ! なんですか、なんなんですかっ! あの怪物はっ! いやああっ!」

「貴方が崇めてきた神様の、なれの果てですよ」

美鈴は絶句し、言葉も出ない。自らの巫女にすらこう認識されるのだから、神も立つ瀬がない。哀れなと思いながら、桐は後ろを見て、舌打ちする。離れすぎた。足を止め、振り返りざまに十手を振るい、触手をはじき返す。二本をはじき返すが、一本ははじき返しきれず、水草を絡みつかせたそれが桐の胸部中央を直撃した。大きく飛ばされた桐は、木に肩から激しく叩き付けられ、吐血しながらも美鈴を離さない。一撃の瞬間、十手を盾にはしていたが、それでもかなり聞いた。咳き込み、気道に入り込んだ血を吐き出しながら、桐は濡れた手の甲で口の血を拭った。

「黒師院先輩っ!」

「ごほっ、ごほっ! 静かに。 痛い思いしてまで助けたんですから、黙っていてください」

追撃に飛んでくる触手の一本をはじき返しつつ、真横に飛ぶ。瞬間、今まで桐が立っていた所を、神の巨体が直撃していた。樹齢百年はあろうかという巨木が、一撃にへし折られ軋みながら倒れていく。神はそれで体を痛めた様子もなく、猛然と反転、すぐに追撃にかかってくる。

かなり頭が痛いし体中も痛い。足下もふらつき始めている。厳しいミッションだが、これより厳しく激しい戦いなど嫌と言うほど経験してきた。再び、盾の術とつなぎなおし、更には時計を確認する。無骨なデザインのそれは、強度と精度だけを重視した特注品だ。彼方此方に金細工が入っている所のみ、桐の趣味と嗜好を反映している。その時計が、秒刻みで正確なミッションの遂行を告げている。今の激突で、進みすぎていた時間がほぼ戻る。再び突進してくる神。身を翻し、コートの裾から水を垂らしながら、桐は走り出す。美鈴の声が、背中で僅かに聞こえた。

「八幡様、八幡様、八幡様……!」

巫女がこうではつくづく救われないと、桐は思った。美鈴に悪意が無いのは分かっている。彼女はただ無知なだけだ。頭を振って、雑念を追い払う。さて、もう少し。緩やかな坂の下、なだらかな平地で、咳き込み、体を折って地面に手を着く。チャージを受けたら文字通りひとたまりもない場所だ。案の定神は大口を開け、触手をうねらせながら全速力で突進してきた。

「十、九、八……」

呟きながら、印を切る。神が至近まで迫ってくる。頭を抱えた美鈴が、神様と呟くのが聞こえる。六まで言った所で、全力を駆使して横っ飛び、触手に打たれながらも飛び退く。美鈴を離してしまい、自身は木にぶつかりながら止まる。追い討ちの触手が、強かに腹を打つ。目の前が真っ赤になるが、しかしカウントは止めない。

「五、四……!」

「きゃああああああああっ!」

触手に捉えられた美鈴が、再び悲痛な悲鳴を上げた。だがそれも一瞬で、すぐにぐったりしてしまう。無理もない話で、あまりの恐怖に再び気絶したのである。桐は無言のまま、右手親指を下に突きだし、ぐっと右手を跳ね上げる。同時に、最初に呼び出した盾が天空より降り来、触手の数本を切断しつつ地面に潜り込んだ。神がぎゃっと悲鳴を上げる。美鈴は投げ出され、もがく触手と一緒に地面に叩き付けられた。神は気付いた。自分が袋小路に入ってしまった事に。このために、わざわざ攻撃を受けながら此処まで誘導したのである。時間を調整さえしながら。カウントは止めない。神は必死に盾に体当たりして、死地から逃れようとするが、分厚く重い盾を弾くには助走が足りないし、そもそももう遅い。元々ひるやは川の神。その力が及ぶのは、かって川があった土地だけ。今、彼が立っているのは、かって支流があった場所、その先端。地面としては開けているように見えても、何処にでも逃げられるように見えても、神である以上その法則からは逃れられない。如何に暴走した法則であってもだ。そして、桐の数少ない攻撃術の一つ、事前にセットして置いた時限式水圧地雷、十六個の発動時間が来た。セットする時間が遠ければ遠いほど威力を増す、非常に使い方の難しい術だが、緻密な桐の計算はそれを完璧に使いこなして見せたのである。

「三、二、一!」

ガ、ギア、ギャアアアアアアアアアアアアッ!

「時限式地雷、爆!」

緋山の地に、轟音と共に蒼い柱が立ち上った。ウォーターカッターにも匹敵するその圧力は、もともと不安定なまがつ神を、木っ端微塵に粉砕した。

「一時の別れですよ、ひるや神」

降り散る無数の肉塊を見ながら、叩き付けられ凹んだ木を背に、桐は呟く。やがて、光を放ちながら落ちてきた何かを、無言で桐が回収した。

全身が痛い。後で追加料金を請求してやろうと思いながら、桐は落ちてきたものを見る。それは血と泥にまみれた、蒼く輝く石であった。

 

4,ひるやの神

 

緋山神社を管理している緋山家は、神社の麓の住宅街にある。祖父と美鈴、誠司姉弟が慎ましく暮らす一軒家で、管理をしている美鈴の緻密な性格を示すように、玄関から綺麗に掃除されていた。庭を見ると様々な花が美を競って咲き誇り、その美しさはなかなかのものだ。

此処に美鈴を運び込んでから二時間。冷たい沈黙が続いていた。美鈴の手当はすぐに済んだ。事実体の方の傷は大したこともなく、跡が残るような事もない程度のものだ。右手人差し指中指、左手薬指小指の、剥がれた爪が肉体面では一番の重傷と言って良い。だがしかし、安心は出来ない。心のダメージが肉体とは比較にならないほど大きいのだ。ベットに潜ったまま、布団をかぶって、美鈴は出てこない。震えているのが布団の上からも分かる。無理もない、あんな恐怖に直面して、冷静でいられる人間の方がむしろ少ない。美鈴の平常心は、致命傷を受けていた。

「美鈴さん、貴方も含めた緋山家の皆に話しておきたいことがあるのですが」

返事はない。まあ、精神的なショックが収まるまで、何を言っても耳には入らないだろう。トラウマが残る可能性も少なからずある。しかし、ひるや神も狂気に落ちていたとは言え罪な事をする。自身の降臨媒体となるべき人間を喰らおうとしたばかりか、心を半壊させてしまうとは。

「まあいいでしょう。 もし、気が向いたら居間に降りてきてください」

返事はやはり無い。それを見届けると、桐は居間に降り、出てきた紅茶を口にする。案外味は悪くない。彼女の向かいに座っているのは、如何にも厳格そうな老人と、むっつりと押し黙る誠司である。表札からして、老人の名前は緋山浩一郎。神社の老神主はこの人だ。観察しようとする桐の先手を打つように、いきなり高圧的に話し始めたのは誠司であった。

「おい、何が起こったのか、説明しろよ。 あんたに姉ちゃんを助けて貰ったのは感謝するけどよ、あの怪我の原因はあんたにもあるんだろ!?」

「誠司、よせ。 客人に失礼だろう」

弟君を一言で黙らせると、老人が桐に向き直る。なかなかに鋭い眼光の老人だ。にこにこと笑みを絶やさぬ桐。

「まず最初に、貴方は何者ですか?」

「ただのオカルト好きな女子高生、黒師院桐ちゃんですよ。 それ以上でも以下でもありません」

老人は笑わない。しばし頬に指先を当てて考え込んだ後、桐は大きく嘆息した。

「とまあ、それは冗談です。 政府のとある機関に依頼されていましてね。 この地で二十年周期で起こる失踪事件を解決に来ました、多少力のある者です。 少しだけある存在の力を借りる事が出来、いくらかの実戦を積んだ事を除けば、私は貴方達と同じ人間ですよ」

「二十年周期の失踪事件?」

「そうですか、ひるや様を倒しに来られたのですか」

「お、おいっ! じいちゃん!」

大きく肩を落とす老人に、誠司が困惑する。なだめるように、敢えて優しい言葉を選びながら、桐は続けた。

「ご安心を。 私は他者の思想や信仰を自分の感覚や思想で否定して悦に入るような趣味を持ち合わせてはいません。 私はあくまで狂気を取り除きに来ただけ。 それさえ済めば、もうひるや様には手を触れません」

「有り難いことです。 我々は結局今の今まで何もする事が出来なかった。 美鈴や、先頃無くなった田中さんや、今まで死んでいった方の分まで礼をさせて頂きます」

田中というのは、この間失踪したホームレスの名だ。深々と老人が頭を下げる。彼は事情を全て知っている。桐はその姿と、長年の苦労で禿げ上がった頭頂部を見た時、そう確信した。正座を崩して足を揃えた楽座にすると、桐は本格的に話す態勢に入った。

「では、それを確実にするために、双方の情報を照らし合わせましょうか」

「いいでしょう。 誠司、お前は聞いていなさい。 お前にも出来る事があるはずだから」

老人も話す態勢に入り、紅茶にミルクを注いだ。場の空気が、戦をしているかのように張りつめた。

 

元々この地には、ひるやと呼ばれる大河があった。それは桐が調べたとおりの暴れ川であり、この地の住民には偉大な富をもたらすと同時に巨大な被害をももたらす、暴れ龍であった。平安時代くらいまでは、ひるやの神には例年男女の生贄が捧げられ、その儀式は凄惨を極めたのだという。

「足すぎの原型は、その頃には既にあったと聞いております。 巫女が川に降りて舞い、その後に生贄の男女が捧げられるものであったそうです。 大体は生きたまま、急流に投げ込んだとあります。 ひるや様は生きた人間を好みになったそうなので。 時代が下るに連れて生贄の儀式の間隔は開き、最末期には二十年に一度執り行われていたとか」

「ふむ……なるほど」

「じいちゃん、そんな話、始めて聞くぞ」

「お前には話しておらなんだからな。 神社を継ぐ気はないと言っていたし、まだ聞くには若すぎたしな。 ひるや様への信仰はその後も続きましたが、平安時代のある時期に、洪水の後の川の流れが信濃川と上手い具合に合流し、、不意に安定した時期があったのだそうです。 丁度その頃に生贄の儀式も取りやめられたらしいと、先代の者は話しておりました。 土地の領主はその機を逃さず、治水工事に着手しました。 川の勢いを殺し、或いは川自体の水量を別の安定した川へ注ぐ事で減らしていく。 幾度かの戦乱の合間にもそれは微力ながらも着実に続けられ、信玄公の時代にはその他の治水工事と併せてほぼ完成を見たそうです。 そしてこの頃に、神社で祭る神も八幡様に置き換えられたそうです。 ただ、これは秘密裏にすり替えられたそうで、今でも古老の中には緋山神社をひるや神社と呼ぶ者がおります」

この辺りは大体桐の情報とも合っている。それ以上に詳しいものもあったが、まだ確信には触れていない。先を言うように促す桐に、老人は少しためらった後、話し始めた。

「そして、怪異が起こり始めたのも、その頃からでした。 当時はもう、いつ人が死んでもおかしくないご時世でしたから、あまり気にはされなかったのですが、ひるや様のお怒りだという声はもうあったようです。 大体、そうですな。 二十年周期ごとに女性か、或いは男女双方が失踪し、しばらくは何も起こらない。 失踪の前には様々な怪異が起こり、江戸時代のある時期には牛や馬を捧げて神をなだめようと言う試みもされたそうですが、効果を示さなかったそうです。 そして現代にいたるまで、怪異は続いていた……という所です。 我々は代々密かに怪異を止めようとしてはいたのですが、何分微力の身、今日まで何も出来ませんでして」

「なるほど、大体話は分かりました。 では、私の方から解釈を述べさせて頂きましょう」

桐は蒼く光る球体を机の上に置いた。こつんと音がした。石は転がる事もなく、机の上で蒼く光り続けていた。

「見覚えがありませんか?」

「古い記述に、かって神社のご神体は蒼く光る石だったとあります。 それでしょうか」

「正解。 おそらく神が八幡様に切り替えられた時に、美鈴さんが襲われた池にでも処分されたのでしょう」

紅茶を飲み干す。大体これで今までの推測が確信へと繋がった。そして、この地の怪異を終わらせ、ひるや神も救う事が出来る。

「元々、古代の神は人間に非常に近しい存在でした。 何処の世界の古代神話を見ても分かりますが、そこに書かれている神々は姿形や能力こそ人外ですが、精神は非常に人間と近しい存在だったのです。 これが時代が下るにつれて、精神的にも人間を超越した存在へと変貌していった。 これは何故かというと、その方が為政者にも民衆にも都合がよいからです。 道徳律の変遷と複雑化に伴い、人格化した法規範である神も高度に知性化された存在へと変貌していった。 それは世界中の何処でも、社会の発達と共に行われた事です」

カップから新しい紅茶を注ぐ。まずはそれを一口注ぎ、クリームを追加しながら桐は続ける。

「これは逆説的に言うと、神を作っているのが人間だという事でもあります。 古代の人類の中には、先天性にしろ後天性にしろ今の人類よりもずっと多く超自然的な力を持った存在がいました。 今で言うとそう、誠司君や、私のように。 そういった人々は、異界から溢れ来る純粋な形無き力に形を与え、時には民衆のために、時には自分のために用いたのです」

丁度いい温度に調整された紅茶を、香りを楽しんで後飲む。それほど良い茶葉ではないが、入れ方が丁寧で、桐としては好感度の高い味であった。茶の味は、入れ方によって幾らでも良くなってくるのである。

「つまり、神は人が作ったわけです。 ありとあらゆる意味でね。 実際の神は現在の人間が想像しているほど万能な存在でもないし力もありませんが、それでも並の人間では太刀打ち出来ないほどの力を持ち、それで古代には様々な人外の奇跡を起こす事も出来たでしょう。 この地にいたひるや神も、何かしらのアーキタイプを元に作られた神でしょうが、生贄を捧げる事によって洪水の被害を軽減する位の事は出来たかも知れません。 当初はそれで良かったのでしょう。 しかし、時代が下って技術が進歩していくと、人類は自力で洪水に対処出来るようになっていき、必然として元々あった信仰の形は歪み変わり始めた。 存在する必要が無くなった法(神)は、形骸化し、或いは形を変えていくのが自然だからです。 おそらく、それが決定的になったのが、戦国時代の徹底的な治水工事だったのでしょう。 それによってひるや川は暴れ川ではなくなり、元の恐ろしい暴れ龍としての姿を失った。 神に対する原型の信仰も消えたわけです。 しかし、それで事は終わらなかった。 形を与えられたひるや神は、存在を残していたからです。 あくまで、散らばっただけで」

それはあくまで仮説であったが、しかし全ての証拠が事実であると告げていた。怪異の数々は、生贄が捧げられなくなった頃から起こり始めた。これは形を変えていく神が漏らした力の余波がもたらしたものだ。そしてそれが決定化したのは戦国時代の治水工事によって、神の恐怖が消えた事。これによって、神の(生贄を求める部分)が暴走を開始したのである。それが二十年ごとに怪異を起こして人を喰らい、桐と美鈴に襲いかかってきたあのまがつ神だ。

「……意味がわかんねえよ。 そんな事が本当にあるのかよ」

「証拠なら、貴方達の体が覚えているでしょう。 先ほど貴方達二人も、山で放たれていた常軌を逸する気の衝突は感じていたはずですが?」

「……っ」

「誠司、まずは話を聞こう」

頷くと、桐は話を続ける。今度話は、どうやって神を鎮めるかという段階に移った。

そもそもこれは誰が悪いというような話ではない。治水を行った大名達に勿論責任などあるわけもないし、自然災害の恐怖を前にして神を頼らざるをえなかった古代の民達だって悪くない。現代と古代ではそもそも災害のもたらす破壊と恐怖が違うからだ。そして、人間の事情で様々な形を取らされ、歪みうち捨てられた神にだって責任など無い。彼の存在はただ形と法を与えられ、それに従って動いただけだ。無論命を落とした者達は不幸だが、同数以上の人命をひるや神は救ってきたのである。それに洪水のもたらした肥沃な土が、どれだけ下流の田畑を豊にしたか。川のもたらした水が、どれだけの人の渇きを癒したか。ひるや神が殺めた人間の事は悲劇としかいいようがないが、ひるや川とひるや神の恩恵が今までどれほどのものであったか考えれば、それのみを元に全てを考えてはいけないのだとすぐにわかろう。

しかし現実問題として、神は鎮めなくてはならない。なぜなら桐達は人間であり、人間の社会の保全と安全を元に思考を進めなければならないからだ。勿論自然や信仰との共存は当然の事だが、人命も優先せねばならない。そこで、役割を終えた神には、静かな姿となって眠って貰うことが最適である。人間の身勝手だと分かった上で。そうしなければ、またいつかまがつ神が現れ、生贄を欲して人間を喰らうだろう。まがつ神は飢えていた。もっとも感応しやすい美鈴を喰らおうとした程に。放っておけば、数十年もしないうちに、またかの存在は姿を見せる事疑いない。

「方法はただの一つ。 ひるや神に現在の己の姿を理解して貰い、神として整備される前のアーキタイプへと戻ってもらう。 それしかありません。 アーキタイプについては私に既に見当が付いています。 しかし、私一人では作業が少々困難です。 そこで、貴方達にも協力をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか」

「ふむ……どうすればよろしいのでしょうか」

「まず、信仰の散逸化によって分解してしまったひるや神の精神を一所に纏めます。 そのためには、この地で最も強烈かつひるや神と感応力が高い霊的磁場のある所を知る必要があります。 これは長年この地で暮らしてきたあなた方に適任です。 私が調べるよりも、ずっと速く正確に分かるでしょう」

「それならこの誠司が役に立ちましょう」

不本意そうだが、誠司はむっつりと頷いた。満足して桐は頷き返し、少し考え込んだ後に言う。

「後は神を降ろす巫女の存在が必要です。 美鈴さんになってもらうのが最適なのですが、それは少し難しそうですね。 強力な内部素質を持つ人間でないと、つとまらない事なのですが、人材はいっそ此方で用意しましょうか」

「内部素質?」

「要は霊的な能力が体の内側に籠もるタイプの人です。 霊的なものが見える誠司君とは逆のタイプで、霊的なものは見えない事も多く、発覚しない事が少なくありません。 神降ろしには、この手の人材が必須となります。 見たところ、美鈴さんは最適の人材の一人です。 しかし、あの有様では」

皆まで言う必要はなかった。冷静に茶を飲み干すと、桐は最後に言う。

「後は、ひるや神を降ろす儀式ですが、それは神社に伝わっていませんか?」

「執り行うのは初めてですが、なんとか儂がやってみましょう」

「分かりました。 では明日の夕方、作業に取りかかりましょう。 それまで体をじっくり休めて、英気を養っていてください」

笑顔を維持するのも大変な事だ。休んでおけという桐だって、今日は昼寝もしていないし、全身の疲弊が激しいのである。桐は茶の礼を言うと、緋山家を後にする。外はもうすっかり夜になっていて、激戦があった後とは思えない静かさであった。

骨こそ折れなかったが、全身に打撲が十カ所以上。切り傷も何カ所かある。コートは頑丈な特別製だから何とかなるが、体力的にも結構きつい。速攻で家に帰って眠りたい気分だったが、いざというときのために手配はしておかなければならない。真っ黒な折り畳み式のケイタイを取り出し、掛け慣れている番号をプッシュする。すぐにつながり、落ち着いた男の声がした。短く用件のみを求める声に、桐は苦笑した。

「黒師院です。 とりあえず、当初の目的は達成しました。 そこで恒久的な解決のために、巫術担当の要員を準備していて貰えますか? 明日までに。 ええ、ええ。 無理な話だって事は分かっていますが、それを承知で言っています。 はい、三種級の力量であれば問題ありません。 はい、はい。 分かりました、彼女でお願いします。 まあ、此方にも候補要員が確保してありますので、出動する事になるかは分かりませんけれど、二種待機で準備しておいて貰ってください」

ケイタイを切ると、再び沈黙が戻る。夜闇の中、黒づくめの桐は歩く。音もなく、闇に溶け行くように。

 

5,アーキタイプ

 

ひるや川には、もう大きな河原は殆ど残っていない。数少ない残りの一つ、街の最南端にある小石転がる其処には、既に神下ろしの準備が整えられていた。地元の古老達が手伝ってくれたらしく、学校帰りの桐が到着した頃には、既に全ての下準備は終わっていた。敷かれた紅い布の上には祭壇が置かれ、神主の正装をした浩一郎老人が、何やら祈りを捧げ始めており、正座が厳しいのか難しい表情でその後ろに誠司が座っている。場所は全く申し分ない。紛れもなく誠司の手柄である。桐はその様子を見て満足して頷くと、鞄を下ろし、二人に歩み寄る。此処は地理的にも方角的にも桐に有利で、昨日よりもぐっと面白い戦いが楽しめそうであった。

「お疲れさまです。 いつでもいけますか?」

「問題ありません」

「美鈴さんは?」

無言で誠司が顎をしゃくる。いるのには気付いていたが、わざと聞いたのである。誠司が示した方向、そこに彼の人はいた。

「私、やります」

確固たる意志を瞳に秘めて、千早姿の美鈴が立っていた。禊ぎは既に済ませたらしく、髪は艶やかに濡れている。手に巻いた包帯が痛々しいが、顔は青ざめているが、しかし強烈な意志力が見て伺える。

「ひるや様の話、聞きました。 悲しい神様に、私酷い事をしてしまったんだって、思いました。 だから、私がやります」

「……恐らく、昨日よりもっと怖い目に遭うと思いますよ?」

「構いません。 私が選んだ事ですから」

静かな美鈴の言葉は、深く強い土台に立っていた。桐はこの手の言葉をかって何度も聞いたし、自分でも言った。だからこそに分かる。今の美鈴であれば、巫女としての役割を貫徹出来る。

巫女という存在は、基本的に神主のサポートをするのが役目だが、もう一つ大事な仕事がある。シャーマニズムにおけるシャーマンの仕事だ。神をその体に降ろし、その声を民へと届けるのが、本当の仕事なのである。

河原に敷かれた紅い布。その上に立つと、緊張した面もちで、美鈴が一歩を踏み出す。同時に浩一郎が荘厳な祈りを祭壇に捧げ始める。桐はコートに手を突っ込むと、おもむろに亀と蛇が絡みついた文様の剣を取りだした。十手の横につるしている剣で、銀を始めとする特殊な成分で加工した、名工の品と言って良い懐剣である。鞘を抜くと、研ぎ澄まされた刀身が露わになる。幅が広く分厚いそれは、強力な魔力を纏った桐の愛剣だ。

一心不乱に祝詞を捧げる浩一郎と、真剣に舞い続ける美鈴。舞という行動は人間をトランス状態にしやすいため、古代の宗教では単調な音楽とセットで、宗教儀式に良く用いられてきた。ここで薬物も一緒に用いられる事もあり、トランス状態に陥ると復帰が難しいため、儀式は決して楽でも簡単でもない。また、舞は実際に魔術的な力を持つ行為でもあり、見る間に美鈴の周りに凝縮された魔力が集まっていくのが見える。桐はゆっくりと刀を振るい、自らもひらひらと舞いながら、頃合いを見て呪文を唱え始める。

「我が守護者南神玄武よ、我が願いに応え、我の剣に力を与えよ。 北の地より流れる悪しき気と、南の地より来る悲しみの心と、東の地より来る大いなる死と、西の地よりいずる破壊の御劔。 中央に座する龍族の王へ、我が願いを届けたまえ!」

「フルベユラユラフルベユラユラオンモウシアゲタテマツルアゲテマツリタテマツルヒルヤノカミヨヒルヤノタイシンヨオンコウリンシタマエヒルヤシンヨカワノナガレタルタイシンヒルヤヨオンモウシアゲタテマツル!」

二つの詠唱が重なる。目を見開くと、桐は集まり始めた神の残滓を、剣の力によって導き、練り上げ始める。始めて行う作業ではないが、この手の作業は親友の赤尾に二歩は劣る。桐が得意なのはあくまで専守防衛だ。水飴のように練り上げられていく極めて密度の高い思念体は、やがて美鈴の周囲に集まっていく。舞い続ける美鈴の額に汗が目立ち始める。やがて、最も強烈な思念体が、渦を巻きながらやってきた。おそらくは、これがひるや神の中核だ。制御を続ける桐も辛い。額の血管が破れ、血が流れ落ちる。集中しろ、集中しろ、集中しろ。心中で自らに言い聞かせながら、桐は思念体をまとめ上げていく。そして頃合いを見て桐は小さく叫ぶと、剣を一気に振り下ろしていた。

「せええいあっ!」

「……っ!」

雷のような閃光と共に、美鈴が竿立ちになり、どうと地面に倒れる。とりあえず、降神は成功した。大きく肩で息をつき、呼吸を整えながら、額の血を手の甲で拭う。これから、第二ラウンドの始まりだ。びくりと美鈴の体が跳ねる。彼女の口から、言葉が漏れ始める。

お。 お。 お、お、お、おお、おおおおお、おおおおおおおおおおおおおおおお

「カモン。 神様」

それは言葉ではない。長年つもりに積もった怨念の音声化したもの。自分たちの社会発展のために勝手に定義した挙げ句、必要が無くなったら歪め歪め、挙げ句の果てにポイ捨てした人間に対する怒りと憎悪。ゆっくり立ち上がると、十手に持ち替えた桐を、美鈴、いやひるや神は見据えた。目から凄まじい殺気を放ちながら。

おおおおおおおおおおお、おおおおおおああああああああああああああっ!

低い態勢から、十メートル以上の間合いを半秒弱で侵略、蓄積した怨念の籠もった拳を叩き付けてくる。流石に神が完全憑依しただけはある。人間の身体能力を完全に超えている。上から被せるようにして、十手でガードしつつバックステップ、砂利を蹴散らしながら滑って威力を殺す。間髪入れず、ひるや神が後ろ回し蹴りを放ってきて、桐の顔があった空間を強烈に抉った。残像が残るほどの速さだ。髪が数本舞う。屈んで一撃を避けた桐は横に飛びつつ態勢を立て直し、神は全くそれに翻弄されることなくついてくる。そのままラッシュを掛けてくる神に、十手で攻撃の乱射を防ぎつつ桐は叫んだ。

「カモン。 どうしたの? ほらほら」

「ぐおあああああああらああああああああっ!」

言葉と裏腹に、桐に余裕はない。強烈に刺激された神は、全力を込めて踏みしめ、正拳突きを放ってきた。超重量級の一撃に、桐も腰を落とし、全身をバネにする形で十手を振るい、弾くようにして受ける。火花すら散り、二秒ほどの衝突の後、桐は吹っ飛ばされて、河原で三度バウンドして川に落ちた。小石が流星のようにあたりに飛び散り、派手に水しぶきが上がる。拳から血を垂らしながら、美鈴、いやひるや神は吠える。その体から立ち上るあまりに禍々しい力は、肉眼で視認可能なほどに強烈だ。

「汚らわしい人間めが……良くもわしの体を傷付けおったなああああああ!」

水の中から、ゆらりと桐が立ち上がる。長い髪から水を滴らせ、コートから水を滴らせ、十手の先から水を滴らせ。ゆっくり顔を上げる。ひっと小さな悲鳴を浩一郎と誠司が漏らす。ひるや神が目を見開く。口から血を引いた桐は首を微妙な角度で傾けると、人差し指で二度、神を招いた。

「どうしました。 それで終わりですか?」

「ふざけるなああああっっ!」

河原が爆発した。それほどの圧力で、ひるや神が地を蹴り桐に襲いかかったのだ。印を組み終えた桐が、盾の術を発動。川から浮き上がるようにして、巨大な盾が発生、それに真っ正面から神が拳を叩き付ける。二秒ほどの抵抗の後、盾に放射状の亀裂が走り、真ん中から粉々に砕ける。だが、その拳は桐に届かない。桐は既にその場にいなかったからだ。呆然とする神。その後ろ頭を掴むと、後ろに回り込んでいた桐は容赦なく頭から神を浅瀬の石に叩き付け、更に背中を踏みつけた。水を蹴散らし、神が身を跳ね上げる。その影が急速に大きくなる。二発目の盾の術だ。頭上から迫り来る、巨大な盾。

「同じ手を、二度もくうかああああっ!」

吠え猛り、神が炎すら空気との摩擦で放ちつつ、拳を盾に叩き付ける。八十キロ超の盾がものの見事に空中で制止し、木っ端微塵に砕け飛ぶ。にいと笑う神の瞳に、自らに振り降ろされる十手が映る。今の瞬間、バックステップして跳躍した桐は、盾の影に隠れていたのだ。拳と入れ違うようにして、十手が神の額を直撃、よろめく神に、容赦なく着水した桐が後ろ回し蹴りを叩き込む。今度は神が吹っ飛ぶ番であった。二度水面でバウンドし、深みの水をたかだかと跳ね上げ、水面下に没する。舌なめずりしながら、桐は手を左右に広げる。川に溢れる、水の気を吸収しているのだ。傷は治らないが、思考は冴えてくる。痛みは無くならないが、精神は集中されていく。

「がああるああああああああああああっ!」

川から飛び出した神が、殆ど川と水平に飛ぶようにして、桐に躍りかかってきた。後ろに倒れ込みながら、桐は水面に肘を打ち込み、ほんの一瞬だけ反発力で体を浮かせる。そして空を切った神の拳を見ながら、神を真下から強烈に掌底づきで跳ね上げた。六メートル近く浮き上がった神は、体をひねりつつ、拳に力を溜める。禍々しい気が、さながら巨大な毒蝮のように形を取る。桐も跳ね起きると、素早く印を二度切る。そして神剣を、コートの裏から引き抜く。神が桐から四メートルほど離れた水面に着地するのと、片足を軽く挙げた桐が、水面を踏み抜くのは同時。両者が溜めた力を放つのもほぼ同時。火花を散らしながらチャージを掛ける神。容赦なく淡い光を纏った剣を振り下ろす桐。一瞬だけ、桐は数年前の、戦いの日々を思い出して楽しくなっていた。ちなみに桐が使ったのは、方形の盾を生じさせる上級の守りの術。それと神の拳が全力でぶつかり合い、五秒ほどかみ合う。発生する熱量が、周囲の水を容赦なく蒸発させていく。一瞬だけ、二人の周囲の川が干上がり、それを飲み干すように大量の水が押し寄せる。それが合図だった。

爆弾でも落ちたように、水しぶきが十メートル以上も上がった。

どすんと、鈍い音を立てて河原に落ちてきたのは桐である。息が相当上がっている。立ち上がらず、髪を掻き上げながら、ゆっくりとダメージを確認する。骨は折れていない。ただし、全身に対する打ち身が深刻だ。後で回復の術法を念入りに使わないと痣が山ほど残る。取り合えず、内臓にダメージがない事を確認してから、何とか半身を起こし、ゆっくり痛みと相談しながら立ち上がる。走るのは難しいが、何とか歩くのは大丈夫そうだ。

「はあっ、はあっ、はあっ!」

慣れない体で辛かろうに、川の中から、ひるや神が立ち上がる。親友の銀月ほどではないが、なかなかの体術で、桐も充分に楽しい。そう言えば銀月と戦うために、腕力はあるが鈍くさくて格闘戦が出来なかった桐が、必死に接近戦闘用の防衛技術を覚えたのだ。やはり、人間は本能的な奥底で戦いを好む。桐も原始的で野蛮な殺し合いを好む。理屈ではなく、体でぞくぞくと快感を覚える。ぼろぼろの姿でくすくすと笑っている桐に、神は怒りを通り越して、ようやく冷静さを取り戻してきていた。

元々桐は今日、神との戦闘を想定していた。もしもの時には奥の手も使うつもりだったが、それを使う必要は無さそうなので、少々安心したのだ。冷静になってきた神は、相当な打撃を受けつつも余裕のある桐に、恐怖を覚え始めたようであった。これでいい。後は何とでも出来る。

「お、おのれ、おのれ……! 貴様、何やつよ。 その余裕、何処よりいずるものだ!」

ゆっくり桐は歩き行き、立ちつくしているひるや神の元までたどり着く。そして、耳元に小声で囁く。大きく神が目を見開く。体が震えだす。肩にぽんと手を置くと、桐は言った。

「貴方に、見せてあげたい物があります」

「……なんじゃ、それは」

「ついて来なさい。 それで貴方は、全てを悟ることとなるでしょう」

 

緋山神社の南の奥。深い深い山の中。まがつ神と戦った沼を更に過ぎ、深い藪を奥へ奥へと進む。先頭に立つのは桐であり、そのすぐ後ろに美鈴に入ったひるや神が続いている。浩一郎は見届けるためか、無言で誠司を連れてついてきていた。

何とも不便な場所だ。車も使えないし、歩くにも遠い。しかしこれは調査している間に見つけた場所であり、今までの情報を総合して間違いないと当たりを付けていた所なのだ。色々な意味で歩きにくいらしく、ひるや神は藪を払いながら、口を尖らせて文句を言う。古代神は人格が未熟であったり本能に忠実であったりすることが多い。桐から見ても、微笑ましい行動である。

「こんな所に、何があるというのじゃ。 戦士としての貴様の力は認めたが、人間としての貴様を完全に信用したわけではないぞ」

「出来るだけ、それは人前では言わないようにしていて貰えますか?」

「知るか。 それよりも、さきより歩きにくくてかなわぬわ。 わしの領土が一歩ごとに狭くなってきておるではないか」

「それは、貴方の本来の姿に近づいているからですよ」

「!」

ひるや神が足を止め、考え込む。変遷し続けた信仰のせいで、神はもう忘れてしまっているはずだ。自らのアーキタイプを。何故に自らが形を為したかを。今では、桐が守護者である存在の力を借りて強引に集めて、やっと統一した思考の形を保つ事が出来ている有様なのだ。桐だって、必要な時だけ崇められて、用が済んだら千切ってポイ捨てなどという事をされたら、きっと気分が良くないだろう。相手と同じ目線で、何かをしたらされたらどんな気分かを考える。コミュニケーションの基本であり、裏を返せば戦闘の基本でもある。

「もう、人間に振り回されるのはいやだ。 そう考えていませんか?」

無論よ。 都合のいい時だけわしに頼り、わしを勝手に定義し、勝手気ままに生贄を捧げ、勝手にわしの体や精神を弄くりまわし、用がなくなったら異土の神霊とすげ替えて後はどうなろうと知らんぷり。 挙げ句の果てに、身の程知らずにもわしを祟り神だの調伏しようだの、勝手な事ばかりほざきおるわ。 最近は護岸工事だのを行ってわしを辱め、そればかりかわしの体にごみを無軌道に投げ入れおる。 そのような生物、二度と助けとうない。 虫酸が走る

「ならばなおさらに、原型へと帰りましょう。 貴方の原型は、きっとこの先で見付かるはずです」

「それは本当であろうの。 嘘を付いたら、舌を引っこ抜いてやるからな」

桐は無言で頷く。かって、人間とひるや神の間でギブアンドテイクが成立していた頃は、この神も此処まで性格がひねてはいなかったのだろう。桐には良くその気持ちが分かる。だからこそに、精神を誘導出来る。だからこそに、滅ぼすまでの事はしたくない。まあ、最悪の事態でも、舌を引っこ抜かれてなどやりはしないが。

話してみて分かったが、ひるや神は人格的には無邪気な少女だ。きっと場合によっては、人間との共存も可能だろう。ただ、今はまだ無理だ。数百年単位で蓄積された憎悪が、彼女の人間への視線にフィルターを掛けている。さっき敢えて柄でもない真っ正面からの肉弾戦を受けて立ったのも、それを多少なりと発散させ、自らの力を認めさせて話をするためだ。

少し高台に出る。周囲は暗くなり始めているが、其処は良く光が差し込んでいた。少し整備すればデートスポットにもなりそうないい風景だ。

「さて、そろそろ、ですね」

「うん? 急に我が領地が広がったような……いや……これは……」

「およそ千五百年前、此処には小さな湖がありました」

藪をかき分けて追いかけてきた浩一郎と誠司にも見せる。夕焼けに照らされる、美しい土地の姿を。窪んだ地面には木々が密生し、紅く色づいた葉が夕焼けと混じり合い、さながらに血を蒔いたような有様だ。それが幻想的で蠱惑的で、さらさらと風に揺れる葉の音ですら美しい。山間の、僅かな平地には、美術的な空間があった。

ここに湖があった事は、地質学の調査からも明らかになっている。主要幹線道路からも街からも遠いので開発はされていない、秘境と言って良い場所だ。進み出たひるや神は、落ち葉を蹴散らして、奥へと走っていく。絵になる光景だ。目を細めて、桐はその後ろ姿を視線で追った。

桐はもう分かっていた。ひるや神は、実在した水生生物が伝説化し、神格化したものだと。恐らくその正体は、湖に住んでいた魚類であろうと。さぞ大きな魚類だったのだろうと。まがつ神の動きを見て、それを悟っていた。後は簡単な事であった。アーキタイプの湖の神が、時間を掛けてやがて川の神になっていき、様々な側面が付与されていった。そしてもともと小さかった湖そのものが土壌堆積によって消滅する事により、神すらも元の姿を忘れてしまったのだ。

「此処は……そうだ。 確かにわしはここに住んでいた。 そう、此処は少し深くなっていた。 この大樹が生えている所は、そうじゃ、めだかが沢山住んでいた。 この辺りは水草が茂っていて……此処は……此処は……」

斜面を見上げるひるや神。斜面を歩いてきて疲れたか、呼吸を整えながら、今までずっと会話を聞くだけだった誠司が言う。

「まるで、無邪気な子供だな……」

「古代の神は、そういった存在です。 古代の人々は、巨大な力を目にする事は出来ても、高度な理性と論理立てた知性は想像出来なかった。 社会的な構造が故に、ですけれどもね。 純粋なる善とか、悪とか、そういったものは想像出来ても、具体的にどういうものかは示せなかった。 理論が組めなかった。 結果、古代人にくみ上げられた法である神は、ああいうふうに、人に近しい精神を持っていたわけです」

桐の解説は立て板に水を流す如く。所在なげに歩き回るひるや神を見ながら、浩一郎老人は、すがるかのように桐に言う。

「我らはどうすれば良いのでしょうか」

「今更信仰を元の形に戻したり、狂信する必要はないでしょう。 しかし、古くなったからと言って、無闇に滅ぼしたり否定したりせず、その存在背景を理解して敬意を払うべきです。 それこそが、人間が彼女や他の神々にするべき事でしょうね。 何しろ形はなくとも、古代の社会の道徳律の規範となる事で、国家や世界そのものを支えてきた功労者なのですから。 勿論それは試行錯誤の過程で多くの悲劇を生みましたが、それ以上に社会の規範となると言う大役を確かに果たしてきたのですから」

「世の中って、難しいんだな」

誠司がぼやく。まあ、確かに中学生には少し早い話かも知れない。大人にだって難しい話だ。手を合わせて、浩一郎老人が何か祈りを捧げていた。

斜面。何もない崖。所々草が生い茂る、登れない事もない緩やかな場所。それをずっと見上げているひるや神の目からは、涙が零れ始めていた。

「そうだ……ここだ……ここにわしは住んでいた。 だが、そこからが分からぬ」

「これが、助けになりますか?」

蒼い石を手渡されたひるや神は、しばし呆然としていた。わずかの間が、とてつもなく長く感じる。風が落ち葉を舞いあげていく。

「イワナ……」

「……」

「そう……わしは……イワナだった。 此処の滝壺に住んでいた。 人間の単位で言うと、確か五尺六寸ほどだった。 この美しい湖で、主として……生きていた。 これは……わしが生きていた頃に飲み込んだものだ……懐かしい。 懐かしいのう」

ひるや神が目をこする。声が震えている。懐かしさと、悲しみが混じり合い、感情の坩堝を作り出していた。そばに歩み寄った桐達に、ひるや神は呟く。

「人間共はわしをあがめていたな。 湖のぬしだと。 わしも人間には敬意を払っていた気がする。 人間共も、無闇に湖を汚さず、自然に敬意を払っていた」

「そういう社会だったのですね」

「……それが良い社会だったのかは、分からぬ。 社会は変わり行き、わしの体も心もそれに伴って変わっていった。 それは変化であり、良きでも悪しきでもないと知っていたはずだ。 にもかかわらず、この気持ちはなんなのだろう。 あの頃に、戻りたい。 あの湖に帰りたい」

ひるや神の精神が統一されていくのが、傍目から見ても分かる。ふっと美鈴の瞳が落ち、慌てて誠司が抱き留める。石が魔力の光を放ち始める。

ひるや神は、安定したのだ。己の原型を思い出して。千々に別れた哀れな神は、ようやく安息の時を取り戻したのである。そしてそれは、おのれのアーキタイプである、遺品と言っても良い蒼い石に入った。もう、この周囲で怪異が起こる事はないだろう。

ミッションコンプリート。小声で呟くと、桐は古代の滝壺の後に一礼し、皆を促し、意識を失っている美鈴を背負いその場を後にしたのであった。

 

6,巫女の役割

 

数日は体が痛かったが、念入りに掛けた治癒の術法もあり、ゆっくりとった休息もあり、桐の肉体はすぐに回復していった。仕事が入るまではまたのんびりまったりした生活と修行の日々である。弱者である事の辛さを知る桐は、今後も弱くなるつもりなど無い。修行は続けるつもりだし、今後も更なる力を求めるつもりだ。だが、学校にいる間は、愉快なオカルト好きの昼寝マニアとして、のんびりしている。

温室はもう使えないと判断して、最近桐はプールサイドの機械室を昼寝ポイントにしている。此処は温かい上に場所によっては機械音が気にならず、しかも適度に暗く人気が無いという絶好の昼寝ポイントだ。まだ時々たむろしていたちんぴら共には力尽くで話を付けたし、学校側に使用許可は既に取った。鼻歌交じりに弁当を食べ終えた桐がパラソルと鞄を抱えて其処へ行こうとすると、背中から声がかかった。

「黒師院先輩!」

「え? ああ、美鈴さん。 こんにちわ」

「こ、こんにちわ。 以前はお世話になりました」

ぺこりと頭を下げるのは美鈴であった。妙な違和感を覚えた桐は、ふっと口の端をつり上げ、言う。

「良いですよ、無駄な演技はしなくても。 お久しぶりですね、ひるや神」

「なんだ、もうばれてしもうたか。 久しぶりだな。 黒師院」

「いけませんよ、悪戯しては。 精神表面への憑依でも、巫女に対する負担はそれなりに大きいんですから」

「本人同意の上だし、別に良かろう。 なに、流石にもう巫女を喰らうような事は考えぬ」

けたけたと笑う美鈴(の中に入ったひるや神)の腕には、あの蒼い石がブレスレットに収まって輝いていた。綺麗に磨くと、なかなかに美しい石だ。それにしても、本人同意の上だというのが、桐には微笑ましい。悲劇は確かにあった。美鈴の叔母を喰らったのもおそらくまがつ神化したひるや神だろう。しかし責任能力がなかったというのが桐の見解だし、実行した体の一部は桐が屠った。また、精神を変容させたのは人類の責任でもある。そして、美鈴にはその辺りの事情を告げた上で、神と意志疎通する方法や、憑依を回避する方法を伝えておいたからだ。さまざまなしがらみを乗り越えた上で、限定的な条件かとはいえ、人間以外の存在が人間にまた興味を持ってくれたのは、一種の希望になるのではないかと桐は思う。まだ、桐と美鈴くらいにしか興味を持ってくれていないのだろうが、それでいい。充分だ。

「聞く所によると、汝は昼寝が好きだとか。 その枕とござも、それに用いるものなのか?」

「おや? もうばれましたか。 そうですよ」

「わしも長い事退屈していたし、その鬱憤を晴らすに何か趣味を見つけてみたいものだのう。 何か教えてくれぬかな。 趣味は世界によって大きく変わるもの。 この時代この社会にて楽しめる趣味が見付かると良いのう」

興味津々の様子で、ひるや神は桐を見ている。少数の人間に限っても、多少なりと興味を持ってくれたのだし、良しとするべきだ。

今日も昼寝が潰れてしまった事を多少残念に思いつつも、桐はひるや神に場所を移すことを提案する。波乱含みの平和な日は、こうして今日も過ぎていくのであった。

 

(終)