継がれ行くもの

 

序、混乱から収束へ

 

太陽神負傷せり。その情報は陽の翼の内部を電撃的に駆けめぐり、通信傍受を掛けていた米軍にも少し遅れて把握された。一気に高まった緊張状態だが、負傷しつつも健在な太陽神が姿を見せたことで混乱は収まり、滞りなく米軍との和平が執り行われることとなった。

調印の場は、オールヴランフ島。太陽神神殿ではなく、屋外に設置したバイキングスタイルのホワイトテーブルである。其処に太陽神と国務長官が向かい合って座り、社会の表には決して知られることがない交渉が行われたのである。

米国の大使である国務長官は、包帯がまだ取れぬ太陽神と書類にサインを交わした。握手をシェイクしたとき、体格の良い壮年の男性である国務長官は、笑顔の奥に屈辱を湛えていた。

彼が主戦派の一人であり、この間英国の能力者ニードヘッグに暗殺されたユーバート=ホークスと友人でもあったことを、当然太陽神は米国内部に培った人脈から知っていた。彼の屈辱をより高めたのは、太陽神が噂通りの、少女にしか見えない存在だったからだろう。そんな相手に負けたと思えば、「見かけの強さ」を重視する文化を持つ米国人は、屈辱をより強めるものなのだ。

太陽神は会談が終わると、護衛の面子を見回したが、日本の能力者達はいないようだった。サイキックが十名ほど護衛についてはいたが、それでお終いである。軽く会食。非の打ち所のない洋食を振る舞って国務長官を帰す。下手物でも出されるかと警戒していた国務長官は、上質の食事に驚いたようで、小首を傾げながら帰っていった。これで一段落であった。

椅子から立ち上がると、まだ背中から腹に掛けて痛みが走る。すぐに侍臣が歩み寄り、頭を下げた。

「太陽神、ご無理なさいませぬよう。 すぐに輿を用意いたします」

「良い。 神殿くらいまでなら歩く」

軽く謝絶して、歩き始める。その姿を見せることで、部下の不安を取り去るのが目的だが、やはり痛いものは痛い。しかし、それを表に見せない位の精神力は持ち合わせている。

普通の人間だったら死んでいた傷であった。体を「二つ持つ」上位種であるから助かったのだ。だがしかし、それを考慮しても傷は深い。人間体の脊髄と肝臓は貫通されていて、腎臓も傷ついていたのである。太陽神自身はしばらく力を振るう訳にはいかず、回復のためには多くの食料も必要になる。米軍と本格的に開戦してから太陽神の食料の補給は難しくなりつつあり、暫くは大幅な戦力低下が懸念される。幸い、古代龍達は弱体化していない。それが唯一の救いであった。

古代龍そのものは弱体化はしていないが、太陽神自身が負傷したことにより、第二体の供給が滞る。他の上位種はもう契約内の仕事を終えてしまっていて、今後は協力してくれるか極めて微妙であり、戦力としてはカウントできない。結果、最大戦力の一角アジ・ダハーカの回復も遅れる事になる。

それだけではなく、今後の外交戦略に関しては、無骨な武人である五翼の面々が表に出る必要がある。今まで政略は太陽神に任せっきりだったため、この部分での打撃は大きい。しかもこれから、米国に対してさまざまな外交をまとめ上げなければならないのだ。重要な部分には太陽神が出ることが決まっている。しかし細部は幹部達が見る必要があり、細かいミスの蓄積が懸念されていた。

神殿に着いた頃には、もう米軍の駆逐艦は視界から消えていた。汗が傷口に染みて痛い。側に歩み寄ってきたパッセが、頭を下げて定時報告をしてくれる。頷くと、太陽神は自室に引っ込むことにした。

米軍は展開していた戦力を撤収させはじめ、陽の翼の恐ろしさを知ったテロリストはM国への侵入を停止。M国は急速に落ち着きを回復し始めていた。必死に米国に対して言い訳をした英国は、かなりの代価を裏で支払わされたらしいが、それは太陽神の知ったことではない。問題は、この後だった。

これで、一端は平和が来る。むしり取った領地には、協力者が移り住むに充分な空き地がある。元々住んでいた住民には、M国の時以上の待遇を与えればいい。資金は潤沢なのだ。オールヴランフ島も定住するには狭すぎるが、これにも解決策がある。一種の機能的首都として扱い、実際に住む人間を交代式にすれば問題がない。今後はフリーの能力者も受け入れる。人材はどうにかそれで補充できるはずだ。

しかし、今回陽の翼が世界に対して叩き付けた手袋の重みは、他ならぬ米国が一番良く知っている。隙を見せれば、いつでも米国は陽の翼を潰しにかかるだろう。M国をけしかけ、代理戦争に持ち込もうとする可能性もある。

御簾の向こうには、既に清潔なシーツが敷かれており、適温適湿に保たれていた。横たわると、頬杖を突いて、シーツを指先で弄くりながら思惑を巡らせる。

太陽神の悩みは晴れない。まだまだ、解決すべき問題は山ほどある。その最たるものが、戦力の不足だ。

特に痛いのは、ラドン、ファーフニール、タラスクの戦死だ。失った古代龍達の代わりは簡単には見付からない。ケツアルコアトルを除くと、稼働可能なのはユルングとガンガーだが、これでは少なすぎる。今までは戦闘時だったから紙一重の駆け引きが続けられたが、今後は外敵の攻撃に備えて頭数が必要になってくる。新しく入ってくる能力者くらいでは、彼らの代替にはならない。

対策としては五翼を人質返還で一刻も早く揃える必要があるのは勿論、何処かでまた虐げられた実体化まがつ神を探してくる必要があるだろう。それが龍族ならなおの事良い。しかし、古代龍は殆どの場合強大な力を怖れられて、念入りに滅ぼされてしまっている。つまりその能力をカウントするには、太陽神が回復しなければならない訳だ。ジレンマの壁は厚い。しかも、今後は今まで以上に各地での探索任務が難しくなってくる。技術供給をエサに、味方国を増やしていくしかないだろう。

それらも皆、時間稼ぎに過ぎない。当初の戦略的な目標が達成できていれば、恐らく二十年は早く、本来の目的を充足させることが出来ていただろう。しかし、こればかりは仕方がない。陽の翼の有能な五翼を出し抜き、太陽神の策を読み切ったあの日本の能力者達に負けたのだ。負けは素直に認め、次回にその教訓を生かすべきである。生き残ることは出来た。しかし、厳密な意味では、陽の翼は負けたのである。

今後は喧嘩をふっかけられない限り、表だって戦う理由はなくなる。今までは火が出るような激しい攻めを展開してきたが、今度は林のように静かな守りを布く必要がある。

約束の地へ去る、その日に向けた準備のために。

「太陽神」

「うむ」

「残念ながら、御食事はまだ用意できません。 T国での交渉が長引いておりまして、この情勢下、人員を割く訳にも行かず……」

「気にするな。 余はよい。 他の者達の安全と健康を最優先せよ」

「は、ははっ……」

心底からすまなそうにいう侍臣を下がらせる。肩を落とした彼の背中が寂しい。

ミルクくらいなら嗜好品として飲めるのだが、太陽神の力を回復させるには、どうしても邪悪な人間が必要だ。それが上位種となった宿命である。人肉でしか太陽神の傷は癒えない。部下達は喜んで自分の身を差し出すかも知れないが、それでは食物の条件から外れてしまっているため、補食できない。

これを米国に気付かれる訳には行かない。少なくとも、後数年は隠し通しておかねばならない。悩みは増えるばかりであった。

少し眠ると、気分は良くなっていた。痛みはまだしつこく残っていたが、疲れは少し和らいだ気がする。

御簾の向こうに人の気配。パッセであった。

「お目覚めですか、太陽神」

「うむ」

「実は、40キロラインに、日本の能力者が来ております。 日本に帰る前に、軽く話をしておきたいのだとか」

興味のある言葉であった。身を起こすと、素直に輿を用意するように告げ、太陽神は相手の思惑を探り始めた。恨み言を告げるつもりなのかも知れない。それでも、甘んじて受けねばならないだろう。帰還が決まっているジェロウルが、日本の北海道で負の力を集めるために、妖精種であるコロポックルに現地調達した実体化まがつ神で虐殺行為を行ったからだ。

すぐに輿は用意された。護衛にはパッセとユルングを連れて行く。現在の状況、島にはケツアルコアトルとガンガーがいれば充分だ。神殿を出ると、盛り土の上から、ガンガーが覗いていた。ガンジスカワイルカの鰭と、巨大な龍としての肉体、それに褐色の肌が美しい人間女の上半身を持つ彼女は、けだるげに言う。

「フー。 お出かけですか? 太陽神」

「うむ。 何かあったら余に連絡。 それが為せぬ場合は、ナージャヤと陽明に相談せよ」

「了解。 フー。 気をつけてね。 貴方が思っている以上に、貴方は皆に心配されているのよ」

不思議と、それに実感はない。太陽神が浴びてきたのは、崇拝ばかりであったからだ。太陽神は思う。もし昔の革命の時。アステカを倒すことが出来ていたら、歴史はどう変わっていたのだろうと。

輿が出る。既に船は用意されていたが、今回はユルングの背に乗せて貰う。自身も右腕に包帯を巻いたままのパッセが、油断無く周囲を警戒する中、鯨よりも巨大な空駆ける虹色の蛇は、地を離れたのだった。

 

1,戦いの終わりと

 

「戦いは、これで終わりじゃないよ」

朝食にしていた真由美に、零香先生はそう言った。言葉の意味が理解できなかった真由美は、最近は慣れてしまった辛いスープを口に運んでいたスプーンを急停止させていた。丸テーブルを囲んで食事中の他の面々は、皆スプーンの速度を変更していない。

「零香先生、どういう意味ですか?」

「言ったとおりの意味だよ。 戦いは終わってない。 多分、陽の翼はまだこの後も段階的な計画を持っているだろうね。 それがどんな風に世界に影響を与えるのかまでは読めないけれど」

「あんなに人が死んだのに、古代龍や実体化まがつ神だって随分傷ついたのに、まだ終わらないって、言うんですか!?」

大島弟が、ごちそうさまと言ってテーブルを離れる。最近真由美の気が短くなっているのに、敏感に気付いているのかも知れない。確かに、真由美はここの所機嫌が悪い。そして普通の人間と近接戦闘強化型能力者の真由美では、そのまま幼児とライオン位の力の差があるため、ちょっとしたことが大事故に繋がるのだ。

巡航艦での戦いが終わって三日が経つ。日本ではとっくに新学期が始まっている頃だ。米軍も帰還を始めているが、まだ零香先生は帰ると言いだしていない。傷を治す必要があるという事もあり、真由美はそれに文句を言わなかったが、心の何処かで反発はくすぶっていたのである。

「……」

「むくれない。 戦いが終わらないと言っても、当分は恐らく無いよ。 それに、今回は、わたし達の勝ちだ」

「どうして……」

「平和に生きられないかって? それはね、実際に平和なんて呼べるものは、この世には無いからだよ」

もう零香先生は食べ終えていた。そして岩塩のスティックを取りだして、囓り出す。一度真由美も興味本位で欠片を囓らせて貰ったのだが、死ぬかと思ったしろものだ。

「このスープだって、人間による魚の虐殺によって生産されてる。 現在の慢性的な世界平和だって、逆らったら勝てない米軍の存在が一番の抑止力になってるからで、本当は戦争がしたくてウズウズしてる国はいくらでもある。 そもそも人間ってのは群れを作る生き物で、自分の社会的地位を巡って慢性的に争う習性を持ってるし、それを持たない人間は淘汰されて死ぬ。 それが嫌なら戦いの中に身を置くルールに従うしかない」

受験戦争という言葉はもはや陳腐化しているが、それだけではない。まれに見るほど平和な国家である日本の内部でも、企業間の経営競争は生き馬の目を抜くが如き世界だ。日本では大砲の代わりに金銭が用いられているだけで、結局慢性的な戦闘が行われているのに等しいのだ。

だが、それでも、実際に砲火を交えるよりも何十倍もマシである。

「……そもそもね。 陽の翼の目的からしておかしいんだよ。 練りに練った作戦で、今回は米国を手玉にとって、世界的な秩序の中に身を置くことに成功した。 でもね、顔に泥を塗られた米国が、ずっと黙っている訳はない。 多分陽の翼は、もう一段階の作戦を考えてる。 それが発動するのはいつになるか分からないけれど、覚悟は決めておいた方がいいだろうね」

「零香先生、私、そこまで割り切れません。 今回だって、今回だって……」

涙が頬を伝って、スープの中に零れる。泣いても何も解決しないと分かっているのに。

「恨むんなら、人間って生き物そのものを恨むしかない。 でも、それが出来ないから、そう不器用にあがいているわけでしょ?」

「……」

「冷酷に見えるかも知れないけれど、それくらい強くならないと、結局一人前にはなれないよ。 そろそろ真由美も、いざというときは幾らでも冷酷に考えられるようにしておくんだね」

零香先生が席を立った。他の先生達もめいめい自室に散っていく。赤尾さんはまだ残って、スープをつついていた。意外と大食な彼女は、おかわりの常連で、今も確か他の先生達より多めに食べているはずだ。だがその彼女も、最後を平らげると、自室に戻っていく。リズさんはとっくに部屋だから、真由美だけが残ったことになる。

真由美は俯いたまま、動けない。真由美にも分かっているのだ。一番の差は、戦闘力でも身体能力でも駆け引きのセンスでもない。思考的に一線を越えているかいないかだと。あの人達は、戦闘マシーンだとか、そんな陳腐な代物ではない。人間を完全に精神面で越えてしまっている者達なのだ。だから怖いし、近づける気がしない。

狂気と共存していることだって、人間的な感情がある事だって、見たし知った。だが、それとは別の部分が、社会的に言えば完全に壊れているし、卑俗な言い方をすればブッ飛んでしまっているのだ。

でも、疑問な点もある。あの人達は、真由美をそう育てなかった。無理にそうしようと思えば、幾らでもそうできたはずなのに。

戦いが無くなることはない。そう零香先生は言った。反発してはいても、反論できない自分が此処にいることを、真由美は嫌と言うほど認識させられていた。

 

今日分の学習ノルマが終わったのは夕刻過ぎであった。やはり手こずったのは物理であり、時間の半分をそれに取られてしまった。学習は学生の本分だと良く言うが、苦手なものは苦手である。

ため息をついて伸び一つ。側で足をぶらぶらさせていた葉子が顔を上げるのに釣られると、視線の先に零香先生。もう包帯が全部取れていた。回復術とは恐ろしい。更に恐ろしいのは、何かろくでもない用事があるときの顔をしていたことだ。

「終わった?」

「あ、はい」

「なら、出かけるよ。 丁度、帰る前に会っておきたい人がいたんだ」

「誰ですか?」

「誰って……太陽神」

思わず固まった真由美の服の袖を、葉子が引っ張る。この子に真由美がどれだけ助けられてきたか、分からない。

「いこ。 これでもう、帰れるんだし」

「……本当に、そうなのかな」

戦いは、終わらない。その言葉がずっと耳に残る。

ケヴィン氏が車を回す。空港までは一緒にいてくれるという。そういえば、リズさんはどうするのかまだ聞いていなかった。そう思ったら、丁度隣に座られるのだから、運命とは面白い。大島姉弟が同じように車を回したのだから、確率的には三分の一だというのに。

「リズさん」

「ん? 何よ」

「これからどうするの?」

「……そうね。 もう故郷には帰れないし、日本で厄介になろうかって考えてるけれど」

それを聞いて一安心。太陽神を見て、自殺行為に走らなければいいと、僅かに危惧していたからだ。

一時間もしないうちに、四十キロラインに到達。リズさんは流石に出る気にならないらしく、車の中に残るそうであった。自衛官の一人が無線機をいじって、少しして。空に浮かび上がる影一つ。零香先生は、神衣を具現化せず、他の先生達も皆同じだった。真由美は少しどぎまぎしていたが、結局それに習う事にした。

見たことがない古代龍だった。真由美も彼らが保有している古代龍の話は聞いているから、特定は出来る。多分ユルングだろう。桐先生の話によると、オーストラリアの神話に登場する龍神で、虹を神格化したものなのだとか。虹を神格化した龍の伝説は極めて古い部類に入るとかで、その力も極めて強力だろうとも。

空を泳いでユルングが近づいてくると、虹色に輝くその巨体が露わになってくる。全長はどう見ても四十メートルくらいはある。鯨より大きい。体が太くがっしりしているので、多分、体重も何トンという単位であるはずだ。下手をすると、あれと戦っていた、若しくは今後戦うことになるかと思うと、ぞっとしない。海にいたのなら、ホオジロザメを丸飲みにしてしまうだろう。

音もなく着地したユルング。思わず銃を構える自衛官達を、ケヴィン氏が制する。

「殺気ぐらい感じられるようになっとけ」

「銃向けると却って危ないよ。 戦闘になるかも知れないから、少し下がってて」

零香先生がいい、他の先生達と一緒に前に出る。真由美は少し遅れて、着いていった。爬虫類特有の感情が見えない瞳が、ゆっくり六人を見回していく。口からちろちろ出ている舌が、木の枝のように太い。

「あうのははじめてじゃが、なかなかのつらがまえよのう。 わしはユルングじゃ。 よろしくの」

「よろしく。 前の戦いで、トマホーク叩き落としたの、貴方の能力でしょ」

「ようわかったのう。 それなら、いまわしのまえにでることが、いかにきけんかも、わかっておるのじゃろう?」

「当然。 ただ、いざとなったら、こちらも黙っちゃいないよ」

零香先生はにこにこしたままだ。ユルングは何かしらの能力で空気を振動させて音を出しているらしく、喋っている間も口を全く動かしていない。

「さて、おしゃべりはここまでじゃ。 おおぜいしんだ。 わしのとももじゃ。 だから、もうたたかいはおわりにしたいのう」

「恒久的な平和なんて存在しないよ。 人間がいる限りね」

「そうじゃろうのう。 わしはずいぶんながいことにんげんをみまもってきたが、そんなものはあったためしがなかったのう」

とても悲しそうにいうユルング。真由美は胸が痛むのを感じた。人間の他の生物に誇ることが出来る唯一のものは、高い理性だというのに。それをこの龍の前では、誇ることが出来ないのが辛い。矛盾だらけの社会に起因する薄っぺらな価値が、メッキのように剥ぎ落とされてしまう。

巨龍の背から人間達が降りてくる。一人はパッセさん。そして何人かが担いでいる輿から、尋常ではない気配が漂い来ている。あの輿の中に、太陽神がいる。輿が地面に下ろされる。輿の四方を覆っている布を取りのけるように、中から小さな褐色の手が出て、続いて体が出てきた。一斉に陽の翼の面々が跪く。

日本でカルト宗教の猟奇性を見たことがある真由美だが、不思議と嫌悪感は感じない。太陽神がその実力と能力で部下達の崇拝を受けていると、彼らの行動から分かったからだ。纏っているのはどうも宗教衣らしいが、それも近代の象徴化をもくろんだ下品な作りではなく、古代の素朴な信仰心に基づいた原始的なものである。ただ、お腹の辺りには包帯が巻かれている。この間の暗殺者に、彼女も襲撃されたのだろうか。

既に翻訳の術はかけてある。だから、彼女の声はとても流暢な日本語として聞こえ来た。

「直接顔を会わせるのははじめてであるな、日本の能力者達よ。 余が太陽神である」

「はじめまして、太陽神」

一礼すると、零香先生はとても丁寧に、皆を紹介していった。とても丁寧に接していることから言っても、零香先生もこの人に敬意を感じているのは明かである。

「なるほど、そなたがレイカであったか。 部下達から、その力については聞き及んでいたぞ」

「光栄です」

「困ったことがあったら、いつでも余の元へ来い。 相手が何であろうとも、守りきってやろう」

「そうですね、そんな日が来ないことを祈るばかりです。 太陽神も、困ったことがあったら、いつでもわたしを頼ってください。 出来る範囲でなら、力になりましょう」

「頼もしいものよ。 そなたらを迎える事があったら、五翼の他に地位を創設しなければならぬやも知れぬな」

軽い冗談が応酬されるが、後ろで聞いている自衛官達は皆蒼白だった。けろりとしているのは大島美智代さんくらいで、弟さんは微妙に距離を取って偶発事態に備えている。無理もない話である。真由美から見ても、これはティランノサウルス・レックスとギガノトサウルスが談笑しているのと同じだ。陽の翼の能力者達も、いざというときにはいつでも戦えるように、心身を整えている様子だ。どちらかが暴れ始めたら、被害はオールヴランフ島にまで届くかも知れない。勿論訓練を受けた軍人、程度の人間はひとたまりもないだろう。

暫く零香先生と太陽神は談笑を続けていた。それを真由美は他人事のように眺めていた。この場の状況を形作った一員だという自覚がないのだ。それでも、訓練されたから、自然に観察はしてしまう。桐先生から、太陽神は高確率で上位種だと聞いていたが、それはなさそうだなと真由美は思った。前にあった上位種の佐伯さんは、とても地味な容姿だった。それなのに、太陽神は容姿そのものがカリスマの一部となっている。

そう思っていたのだが。

「ところで、太陽神。 やはり貴方は上位種ですか?」

「その通りだ」

「……それなのに、このようなことを?」

「余は他の上位種と違い、結局人間を嫌いになれなかった。 それだけよ」

太陽神が不意に真由美の方を向いた。俯きがちに話を聞いていた真由美は驚いて顔を上げる。小柄な太陽神だが、作り物のような綺麗な顔で、同時に手足もボディバランスも理想をそのまま形にしたような美しさだ。赤尾さんも同じように小柄で整った容姿だが、幼さが隠しきれない所が決定的に違っている。

「そなたはまだ未熟なようだが、上位種に会ったことがあるようだな」

「は、はいっ!」

「上位種は普通、不必要に目立つことを避けるために容姿を地味にする。 余は皆の指針となる必要があったから、百年がかりで容姿を整えた。 この顔も、体も、そうだ。 もう元の顔など覚えてはおらぬ」

壮絶な話であった。もし同じ立場にいた場合、真由美は其処まで出来るだろうか。いや、とても出来はしないだろう。女子にとって、容姿というのはとても大事なものなのだ。羞恥心とかそういう問題以前の、本能的なレベルで、である。真由美だってそれは同じである。もう少し年を取ってきたら、お化粧の仕方をマスターしたいと思っている。化粧しないで美しい女性なんて、そうそうはいないのだ。

黒い絹糸みたいな髪を掻き上げながら、太陽神は言う。ほとんど表情は動かない。

「そなたは若々しいな。 戦いに熟練しきった、他の者達とは違う」

「……それは、良いことなのでしょうか」

「ふむ、そのような問いが出てくること自体若々しい。 レイカよ、そなたの弟子か?」

「未熟者ですが、その通りです」

「今が最後の契機であろう。 戦い無き世界へ戻るのか、戦いの世界に身を置き続けるのか、選ばせた方が良いだろうな」

言葉が切れる。わずかな沈黙が過ぎ去った後、口を開いたのは零香先生だった。

「では、最後に。 貴方達は、何を最終的にもくろんでいるんですか?」

「それを聞いて何とする」

「場合によっては、次も邪魔させて頂きます」

一気にパッセさんと他の陽の翼の人達が殺気立つのを真由美は感じた。気が早い者の中には、剣に手を掛けているものまでいる。それなのに、ユルングは大あくびをし、太陽神も落ち着いていた。ひらりと芸術的に手を翻し、彼女は言う。

「よい、殺気立つでない。 ……そうさな。 そなたらの思想と能力ならば、それが可能だ。 それにそなたらが為し得ずとも、その子のような弟子達が為し得るだろう。 まあ良いわ。 ヒントだけならくれてやろう」

どうしてだか、緊張する。ただ会話しているだけだというのに。

「レイカよ、そなたらは神子相争の卒業者である事だし、知っておろう。 世界は一つではないと言うことを」

「! なるほど、移民、ですか」

「ほう、これだけで悟るか。 その通りだ。 綺麗な言葉で言えばそうなる。 正確には逃走に近いだろうがな」

「そう卑下なさることは無いでしょう。 ……まさか、次の狙いは幸片ですか?」

真由美には全く分からない会話だった。混乱する頭。そして、急速に殺気立っていく零香先生達。ひょっとすると、返答次第ではやる気か。慌てて肥前守に手を掛けるが、緊迫する空気を和らげたのは太陽神だった。

「いや、それはない。 今後は、時間を掛けて、じっくり目的を達成していくつもりだ」

「なるほど、それで世界大戦を」

「そういうことだ。 そなたらのお陰で、我らの目的は数十年は遅れてしまった。 一世代、いや二世代か。 夢を見る時間が長くなってしまったわ。 だが、過ぎたことを責めても仕方がないし、結果的に無為に死ぬ人間が、数十万、いや数百万は減ったのも事実であるしな。 余は、そなたらに感謝しなければならぬのかもしれぬな」

それで、話は終わったようだった。

零香先生が小さく頷き、パッセさんが剣を収める。軽く零香先生が礼をすると、太陽神は鷹揚に頷いて、輿に戻っていった。颯爽としていて格好がいい。苦もなく輿はユルングの背に乗せ上げられる。

ユルングは、輿が乗ると、不意に真由美に向けていった。

「マユミたんといったかの」

「あ、はい」

「たたかいをつづけるにしても、やめるにしても。 よければ、わしらのしまに、せんせいたちといっしょにあそびにくるといい。 おいしいおさかなを、ごちそうしてあげるでのう。 いっしょにバケツにあたまをつっこんでたべようのう

ユルングに対する警戒心が、真由美の中で急速に薄れていく。最後にとんでもない一言があったような気がするが、親しげに喋るのを聞くと随分可愛いおじいちゃんだ。真由美は出来るだけの笑顔を作って、お辞儀をした。

「有り難うございます。 機会があったら……伺います」

「おう、おう。 こんかいのたたかいで、ともがおおぜいしんでしもうたでな。 さびしいおじいちゃんをなぐさめるとおもうて、おねがいするぞ」

笑顔が凍り付いてしまう。真由美が仕留めたファーフニールや、零香先生が屠ったラドンや、桐先生が倒したタラスクや。他の実体化まがつ神かも知れない。或いは戦いの中、倒れていった陽の翼の能力者だろうか。

これが戦いの結果だ。これが戦いが終わった後の出来事なのだ。それを戦いだと割り切って、許してくれる古代龍の、何と悲しそうな事か。何と気高いことか。

泣くな。泣いたら、この古代龍の気高さに、埃を被せてしまうではないか。必死に言い聞かせて、笑顔を維持する。だけど、眉が下がるのを止められない。

「はい……必ず」

「たのむでの。 では、さらばじゃあ」

気が抜ける語尾と共に、ユルングは浮き上がった。そのまま体をくねらせて、文字通り空を泳いでオールヴランフ島に帰っていく。

真由美の肩を零香先生が叩いた。

「帰ろうか、日本に」

「終わっ……たん……ですか?」

「今回の戦いはね」

抑えていた涙が、零れ始めていた。

死んだコロポックル達の償いを、どうしたらいいのか分からない。しかし彼らはそうしなければ、滅び去っていたのである。敵討ちのために陽の翼を皆殺しにした所で、何も解決しない。真由美だって、彼らを戦いの中で散々傷付けてきたのだ。どっちが先だなどという議論は、文字通り何の意味もない。

戦争が一時的に終わった。それで良しとするべきなのではないか。

心の整理が、やっとついた。後は早く零香先生達に一人前だと認められて、北海道に戻りたい。戻って、あの悪夢の襲撃から生き残ったコロポックル達に、戦いが終わったと伝えたい。

涙を手の甲で擦ると、真由美は不機嫌そうに待っているケヴィン氏の車に乗り込んだ。少し乱暴な運転だったが、今は却ってそれが有り難かった。

 

ユルングの背の輿の中で、太陽神は憂いを秘めた真由美の顔を思い出していた。

そういえば、あんな顔だった。思い出の中に浮かぶのは、太陽神が人間を結局嫌いになれなかった原因。オールヴランフ島の先住民族である、フィツアルア族。苦境の中、健気に生きていた者達であった。

もう何百年も前の話だ。アステカの追っ手を皆殺しにした後、当てもなく悪人を喰い殺しながらさまよっていたテティナは、時がどれだけ過ぎたのかも忘れた頃、小さな密林の中の村にたどり着いた。

かって、自分が密林の中に作った「巣」にそっくりだった。アステカへの抵抗者を集め、共に励まし合いながら暮らした小さな村。戦い方を教え、生き残り方を教え、思想に囚われず自由に考えることを教え、邪悪に生きる強さを教えた村。

しかし、そこには何の戦略もなかった。何の物資的な裏付けもなかった。何の勝つための策もなかった。生きることのみを考え、真実を訴えることだけを考えていた。

だから、力によって、苦もなく滅ぼされた。

真実や思想は、強さとは結びつかないのだ。重要なのは如何に緻密に戦略を立てるか、それに基づいて戦術を行使するか。現実的に、客観的に事象を捉えて受け入れて、冷静に対処するか。それを思い知らされた場所。

そんな、巣にそっくりな村だった。

放っておけば、アステカに蹂躙されるのが目に見えていた。アステカの軍は強力だ。多少の抵抗勢力など、ひともみに砕き潰してしまう。

人間などに関わる気はもうなかったのに。どうしてか、テティナは彼らを助けようと思った。

最初は奇跡を見せることから始めた。それから徐々に村人達をてなづけていった。彼らはこのまま行くと、アステカに対して自暴自棄な攻撃行動に出てしまう所だった。それをどうにか、寸前でくい止めることが出来たのは、太陽神にとって快事だった。

特定のエサ以外には、人間には手が出せない体になってしまっていた。だから、自身は指揮に徹しながら、戦略を練ることに終始した。人を集めるために時間を掛けて容姿を変えた。戦うために、能力に工夫を加えた。徐々に力を蓄えていった。敵対思想を悟らせないように、表向きは従順に振る舞いながら、武力を練り上げていった。

敵対する部隊は、容赦なく粉砕した。テティナの力よりも、その頭脳がものを言った。素朴な村の者達は、鮮やかな戦略を組み、卓絶した戦術を見せるテティナを神と呼んだ。生贄を捧げようなどという馬鹿者もいたが、それは言下に拒絶した。

能力者の素質がある者を選抜し、一人ずつ鍛え上げていった。同時に村全ての組織化と軍化を進め、極めて強力な戦闘集団に鍛え上げていった。そして名を上げる内に、アステカ中に散っていたフィツアルアの民や、虐げられた弱者達が名を慕って集まってきた。

元々、フィツアルア族はアステカ中に散り、劣悪な環境下それぞれが逞しく鍛え抜かれていた。一度カリスマであるテティナを中心にまとまると、その潜在能力は見事に開花したのである。更に、テティナが鍛え上げた能力者集団の戦闘能力もあり、アステカ内でフィツアルアは見る間に名を上げていき、やがて国にオールヴランフの返還を迫る寸前にまでこぎ着けた。

以降の歴史は、皆が知る所である。白き邪悪な者達が海の向こうから現れ、全てを蹂躙し尽くしたのだ。太陽神と名乗るようになっていたテティナは、雌伏を皆に説いた。そして、今に至る。

島に着く。傷が少し痛む。

今まで太陽神が倒してきた敵達の痛みは、こんなものではない。

だからこれを全て受け入れるのも、太陽神の義務であった。

空腹も、痛みも、太陽神は全てを受け入れるつもりだった。

それが、指揮を執らねばならない太陽神に、非情になりきらねばならない指導者として、唯一出来る罪滅ぼしだった。そして、今後陽の翼を育て、導くことこそが、唯一の義務であった。

「余は負けぬ」

呟きは自分の耳にしか届かない。

かっての悲劇は、数百年経っても、まだ尾を引いている。人間の営みは、正であり負であり、連続したものとして、続いていくのである。

その中に、上位種となった太陽神も、確実に属しているのであった。

 

2,帰国、そして……

 

空港まではあっという間だった。荷物は自衛官達がまとめて、郵送してくれるというので、その言葉に甘えて、真由美は手ぶらで空港まで来ていた。少し前に別れたリズさんは暫く米国で事情聴取した後、どうやら桐先生の所で預かるのだという。丁度人手を探していた所だそうで、仕事をしながら厄介になるのだそうだ。

ケヴィン氏は帰りの車の途中で話したのだが、普通に米国に帰るのだという。今回のミッションはかなり厳しかったが、米軍の被害も半端なものではなかったので、大幅なボーナスは期待できないのだとか。生々しい現実が、重い口調からは伝わり来た。

何だか、周囲が狭く感じる。この空港を使って、数週間前にM国に来た。その時よりも、随分小さな空間に見えた。それに、M国に来てから、何年も経ったような感触がある。戦って倒れて、戦って倒れて、傷付けて傷付けられて。普通の女子高生が一生かかっても経験しないようなことを、ほんの僅かな期間に経験し尽くしてしまったような感じだ。ケヴィン氏は零香先生としばし話し込んでいたが、やがて敬礼しあった。話が終わったようである。真由美もさよならを言おうと思って歩み寄ると、ケヴィン氏はフランクな表情と口調で言った。

「頑張れよ、マユミ。 まだまだ大変だとは思うけどな」

「はい」

「俺は駄目だ。 俺の望みは、どうあってもかなわないものなんだ。 だけどお前さんは違う。 今からなら、何だってかなうだろうよ。 だから、頑張れ」

ケヴィン氏の望みは、確か娘さんに会うことだったはず。しかしそれは裁判か何かで禁止されてしまっているはずであった。多少ぶっきらぼうだが、とてもいい人なのに。今回だって、真由美はどれだけ助けられたか分からない。ケヴィン氏がいるといないでは、全然話が別だ。それなのに、こうも報われないとは。なんだか可哀想だった。

「ケヴィンさん」

「うん?」

「根拠はないけれど、きっと何とかなります。 希望を、捨てないでください。 陽の翼だって、あんな状況から、生き残ったじゃないですか」

「……そう、だな。 ありがとう、戦友」

「はいっ!」

ケヴィン氏は、大きな手で、真由美の手を握ってシェイクする。上下に振り回されるかと思った。アドレスを交換した。時々手紙を送ると言ったら、ケヴィン氏は嬉しそうに破顔した。

手を振って去っていくケヴィン氏。真由美の肩を、桐先生が叩いた。

「さあ、帰りますよ」

「はい」

離陸する飛行機のエンジン音。乗り込む飛行機のものではないが、M国との別れを至近に感じて、真由美は感慨深かった。

 

目覚まし時計の音が鳴る。けたたましく、起きろ起きろと鳴る。

布団の中から手を伸ばす。時計を叩いて止める。もぞもぞと這い出て、頭を掻きながら真由美が外を見ると、もう陽が昇っていた。外では零香先生が修練している音がする。小さく欠伸をしながら、丁度食事から帰ってきたらしい、窓をすり抜けて部屋に入ってきた葉子を笑顔で迎える。

「おはよう、葉子。 おかえり」

「おはよう、マユたん。 ただいま」

肥前守の中に消える葉子。鞄に愛刀を突っ込むと、階段を下りて居間へ。朝餉を作る音がする。もう英恵さんやお手伝いさん達は仕事の時間らしかった。畳み間の居間で、テーブルの前に正座して、テレビを付ける。ドゴン、と凄い音がしたのは、林蔵さんが修練を始めたからだろう。

日本に帰ると、露骨に時間の流れ方が変わった。M国のような、戦場での緊張感が喪失し、平静を取り戻した時の中での緩やかな生活が戻ってきたのである。零香先生の側にいる以上、真由美の環境が平穏だという事は絶対にあり得ないが、それでも平和が戻ってきたのは事実であった。

戦いが終わって、およそ二ヶ月。

その間に起こった最大の事件と言えば、M国が分裂し、陽の翼国という新しい国が突然世界地図に誕生したことであろう。しかもその国家の独立を、米国、EU、それに日本が揃って認め、中国やロシアもおいおい認めたのである。

国連への加盟はまだ先だという話であるが、世界中の報道機関はこの奇怪な事態に釘付けとなった。真相を知っている真由美の前で垂れ流されるテレビ番組では、「政治評論家」とか「軍事研究家」などと名乗る老人達がしたり顔で自説を披露していた。そのいずれもが真相とは大きく外れていて、真由美は複雑な気分であった。

現金なもので、学友達はそんなニュースには殆ど興味を示さず、示したとしても雑談のネタにする程度であった。何処にも、陽の翼が能力者集団であったとか、米軍が大きな損害を出したとか、そんな話は出てこない。千人以上も人が死んだというのに、である。下手をすれば、米国の首都はこの世から消えていたというのに、である。歴史の裏では、この程度の戦いは何度もあったのではないかと、真由美は思うことがある。

零香先生の家に再び下宿した真由美は、毎日激しい修練を行い、時々零香先生が持ってくる依頼を受けて、危険に身を晒しては力を高めていった。今度は、能動的に戦いに臨みたいからだ。引きずられて、引っ張られて、経験は散々に積んできた。だから早く一人前になって、能動的に悲劇を防げるようになりたいのだ。

真由美は今回、歯車の一つに過ぎなかった。零香先生も、淳子先生も、由紀先生も、桐先生も、それに赤尾さんも。全員自立意志で戦いに参加し、それぞれのやり方で戦況をリードしていたというのに。まるで一体の生物のように息を合わせて連携していたというのに。弟子というポジションであっても、真由美の果たせたことはあまりにも小さかった。

先生達は、機械のような連携をしていた訳ではない。時々喧嘩もしていたし、不平不満を漏らすことだってあった。人間だった。機械ではなかった。それなのに、互いを根底から信頼して、背中を預け合っていた。

それは多分、互いを知り尽くしているからだ、と真由美は思う。

美味しいご飯を食べてから、学校へ向かう。朝練をかねてのことだから、走って向かう。最近は単純な基礎能力強化に重点を置いているので、わざと学校の周囲を螺旋状に周り、非人間的な速度を人目にさらさないようにして、しかし決して人間が達し得ないタイムで到達しなければならない。人間の目を避けながら、所々で加速、所々で減速して走る。だが、こういう修練にも慣れてきた。

空を仰ぐ。蒼くて、澄み切った、美しい空だ。

「おはよー、マユー」

「おはようございます」

通りがかった学友に、手を振って追い越していく。もし陽の翼がICBMを撃墜する映像を全国放送していたら、こんな光景は二度と無かった、かも知れない。学校が見えてくる。前田先生はもう帰ってこないが、学友は全員いる。

教室でジャージから制服に着替えると、宿題をチェック。荷物もチェック。お弁当は英恵さんの手作りだ。最近とみに腕が上がっているが、それでもお手伝いさん達が創った方が美味しいのは秘密である。おいおい学友が教室に入ってくる。どうやら真由美は優等生キャラとして知られているらしく、宿題を教えてくれとせがむ同級生は後を絶たない。男子の視線も、かなり感じる。影でのあだ名が真面目ちゃん、である事もとっくに知っている。真由美の聴力なら拾うのは造作もないのだ。

現実と認識に大きな差があることを、こういうときに強く思う。真由美が優等生のわけがないのだ。そして、時々打ちのめされる。自分だって、M国に行く前は、彼らと同じだったのだと。

自分が認識した事柄を真実だと考える人間は本当に多い。だが、それは間違っている。人間が得ることの出来る情報なんて、ほんの一握りに過ぎないのだ。ましてや脳の中で動いている思考など、正確に把握できる訳がない。推論は出来るが、それも大まかに、である。陽の翼の姿と現実、非道な作戦とやむを得ぬ事情。それを見てきた真由美は、その事実を嫌と言うほど体で知っていた。この生徒達が、真由美の鞄の中、二重底に術を使って巧妙に隠されている奥に日本刀が入っていると知ったら、どんな顔をするだろうか。

「お、おはよう、高円寺」

「おはようございます」

隣に座った男子同級生に丁寧に礼。眼鏡を掛けた真面目そうな青年で、どうも真由美に熱っぽい視線を向けてくることが多い。意味は分かるが、物好きだと思う。

少女漫画などを信じるほど真由美はもう子供ではない。真由美の分析した所、男子の視線は顔、もしくは胸や腰や臀部に集中している。それである以上、男子が女子に要求するスペックはルックスとスタイルなのだろう。それを視線が証明している。

ルックスが真由美よりいい女子なんてそれこそ幾らでもいる。それに色っぽい女子など他に幾らでもいるだろうにと思いながら、真由美はホームルーム前に携帯をチェック。その理論だと、男子の視線の意味が説明できない矛盾は放っておく。その矛盾を解決するほどの興味がないのだ。

この携帯には、基本的に重要なメールしか送らないようにと関係者には連絡してある。だからかなりメールチェックは重要な行為だ。果たして携帯には、何通かのメールが入っていた。内一通は大島美智代さんからであった。

仕事の依頼だった。実体化まがつ神の掃除をして欲しいのだという。零香先生のメールも入っていた。その仕事依頼の許可ではない。今後は自分で判断して受けるかどうか決めていい、というものだった。

思わず真由美が立ち上がったので、周囲の視線が一斉に集まった。高揚と困惑、不安と驚きが心の中で駆けめぐっている。椅子に座り直すと、隣の女子がにやにやしながら聞いてきた。

「なになに、彼氏からのメール? デート?」

「いえ、違います」

「うっそだー! 今の反応、絶対彼氏からのメールだよねー!」

きゃあきゃあと騒ぐ周囲の女子達や、勝手に真っ青になっている何人かの男子に苦笑しながら、真由美は思惑を纏めていく。そして決めた。依頼を受けると。

そろそろ一人前だと認めてくれ始めたのだ。これが自立の第一歩なのだ。

まだ零香先生の足下にも及ばないのは分かっている。だが、ようやく此処まで来た。自分の手で守ることが出来る第一歩だ。

学校が終わると、大島さんに連絡。詳しい情報を聞き出す。全く見当もつかない生態であり、一瞬途方に暮れるが、慌てない。零香先生はこういうときどうするかと考えれば、すぐに結論は出る。それを元に桐先生に相談しながら、敵の概要をまとめて、戦略を練っていく。夜闇に紛れて閻王鎧を具現化、人里を離れて疾走し、夜半過ぎに能登に到着。指定された場所には既に、自衛隊が今回の陽の翼スキャンダルで創設した対能力者対実体化まがつ神特殊部隊が来ていた。工事現場に偽装した、プレハブのベースの中に展開している。突然夜闇の森から現れた真由美を見て、指揮官の痩せた中年男性は目を剥いたが、敬礼して名乗ると混乱しつつも応えてくれた。

「大島美智代さんから救援を依頼された高円寺真由美です」

「対能力者対実体化まがつ神第三特殊部隊隊長、藤間博です。 今日は支援感謝します」

良い腕のようですけれど、まだまだですと真由美は思った。反応速度が若干鈍かったのだ。ケヴィン氏が如何に優れた兵隊だったのか、他の人を見ると良く分かる。周りを見回して不安になるが、表情には出さない。このベースはあまり広くない。というよりも、人間の軍隊に対応する布陣をしていて、能力者や実体化まがつ神と戦うための備えをしていない。トラップは仕掛けてあるが、それだけだ。実体化まがつ神に発見反撃されていたら、ひとたまりも無かっただろう。

「すぐに移動しますか?」

「移動します」

状況開始、と藤間氏が叫ぶ。自衛官達がばらばらと散り、それぞれジープに分乗する。真由美は指揮車に乗せて貰った。一個小隊三十人の内、十八人が現地に向かい、残りはサポートする態勢らしい。

「今回の任務について、藤間さんから軽く説明して頂けますか? 情報のすりあわせと、新しい情報の確認のためです」

「分かりました」

まだ現地までは時間がある。スポーツドリンクを口に含み、体力を回復しつつ、必要なことは全部しておく。今までは戦場までに零香先生達がみんなやってくれていたのだが、今度は真由美が一人でやらなければならないのだ。

道はどんどん狭くなり、舗装がいい加減になっていく。北海道ほどではないが、星がとても綺麗だった。

更に山奥へ入り、敵を見つけた。まだ肉眼では見えないが、いる。二キロほど先だ。

大島さんは言った。今回は真由美のミッションだと。真由美が皆を守り、或いは敵も守らなければならないのだと。

「止まってください。 います」

「了解!」

藤間さんの言葉と共に、ばらばらと自衛官達が展開する。夜の闇の中、迷彩服の完全武装の兵士達が、今だ見えない敵に向けて戦う準備を整えていく。最後に降りた真由美は、肥前守に手を掛けたまま、敵を捕捉し、ゆっくり間合いを詰めていく。

夜闇に紛れて動く巨大な影あり。どうやら事前の情報からの予想通りだ。森の中、巨木の枝に足をかけているそれは、桐先生の言葉が確かならば、猩々と呼ばれる猿の妖怪だ。

猩々。本来は石川県どころか日本の妖怪ですらないのだが、オランウータンやチンパンジーの和名ともなっているため、日本でも知名度がある。それに本来は凶暴な妖怪ではなく、どちらかといえば善神、福神の類になる。しかし、この存在は最近一週間ほどで飼い犬や猫を何匹も捕らえて食べており、人里に近づきつつあり、昨日ついに公園から帰る途中だった子供を襲った。幸い子供は無事であったが、ついに排除のために自衛隊の特殊部隊が動くことになったのである。

猩々の目は闇夜の中爛々と光り、手には捕らえたらしい何か動物を持って、ばりばりと食べていた。形状から言って多分猪だろう。真由美の見たところ、さほど能力は高くないようだが、どんな特殊能力を持っているか知れたものではない。注意に注意を重ねて、接近する必要がある。

自衛官達は既に銃を構え、スターライトスコープを装着して攻撃準備を終えている。RPGも既に準備されている。戦車ですら仕留めることが出来る兵器が、容赦なく猩々に狙いを付けていた。

「私がまず行きます。 敵が倒れても、すぐには近づかないでください」

「分かった。 気をつけてくれ」

「そちらも」

周囲の地形を把握していく。真由美一人で一気に仕留めるつもりだが、場合によっては自衛官達の持つ近代的な火器に頼る必要も生じてくるだろう。藪の中を這うようにして距離を詰めていくと、相手の大きさが良く分かってくる。かなり大きい。体格的にはプロレスラー以上だ。

隣の木にまで詰め寄った。すぐ隣の大木で、猩々が獲物を貪っている。咀嚼音が耳元で聞こえるかのようだ。生々しい息づかいも、すぐ近くで響いている。原型が善神だとは思えないが、しかし容姿で相手を判断するのは愚の骨頂だ。ユルングを見て、真由美はそれを良く知っている。

緊張の瞬間。肩の力を抜くと、真由美はさっと木に手を掛け、体を空へと運んだ。一気に加速して幹を蹴り上がり、音もなく猩々の乗る枝に舞い降りる。猩々と目が合う。夜闇で金色に光る、丸い目だ。

肥前守は鞘に収めている。緊張の一瞬だ。まずは交渉をしてみる。敵意は感じられないし、いきなり仕掛けるのはよろしくない。対話で解決が図れる可能性がある以上、試すのが論理的だ。

「言葉は、分かりますか?」

返答無し。だが、刀を抜くのは、まだ早計。

「私は話をしにきました。 言葉は、分かりますか?」

「分かる」

野太い声だった。その声に、僅かならず怯えが混じっていることを、真由美は感じ取る。無理もない話だ。実体化まがつ神である以上、人間の能力者の恐ろしさは良く分かっているだろう。

「何故、人里に降りてきたのですか? 一種の自然神である貴方は、それがどれだけ致命的な事か、分かっているはずです」

「巣が、壊されてしまった」

「巣、ですか?」

「そうだ。 我の巣だ。 巣だけではない。 水も、食べ物も、みなそなえられなくなってしまった。 我は三十の年まった。 だが、人間共は何もしてくれなかった。 敬意を忘れてしまったようだった。 腹が減った。 だから、降りてきた」

すぐに信じる訳には行かない。携帯を開くと、桐先生に連絡。携帯を見て、猩々が怯えるが、真由美に殺気がないことを感じ取ってくれてはいるようだ。

「貴方の住んでいた場所は?」

「越前と呼ばれていた。 山の奥だ」

「三十年前に、巣が壊されたんですね。 今調べて、代わりの巣が作れないか、すぐに調べてみます」

難しい作業だが、やるしかない。実体化まがつ神の形成には、土地が重要な要素を占める事が多いのだ。十中八九宅地造成で住処となる祠や神社などが壊されてしまったのだろう。

「一つ、聞かせてください」

「何だ」

「どうして、子供を襲ったのですか?」

「腹が減っていたからだ。 三十の年、我は何も食べなかった」

悲しい言葉だった。もしも、住処を作り直してこの実体化まがつ神が消えたとして。ありのまま報告したら、自衛隊はどう動くのだろうか。猩々が「人間に害を為す可能性」はある。厳然としてある。それが人間の行動に起因としているとしても、人間社会的に、それは絶対悪だ。

携帯が鳴る。桐先生からの返答だ。どうやらそれらしい神社があるという。宅地造成で潰され、今では住宅地の下だそうだ。続けて、大島さんに連絡。今の状況を連絡して、手を打って欲しいと頼む。だが、絶望的な返答があった。その周辺は根こそぎ宅地造成されていて、神社を復旧するのはほぼ不可能だという。そもそも山が根こそぎ崩されてしまっているというのだ。これでは、猩々が帰る場所などないではないか。

その瞬間だった。全身が、浴びせられた殺気にざわついた。振り返ると、猩々の目が、紅い光を放っていた。半開きの鋭い牙が並んだ口からは、生々しい臭気が漏れ、あえぎと共に恨みの言葉が吐き出される。

「そうか、我は帰ることが出来ないのか」

「他の場所では、駄目ですか?」

いやだっ!

絶叫が轟く。物凄い声だった。猩々は残っていた猪の肉片を捨てると、枝の上で器用に立ち上がり、吠え猛る。

そもそも、自分たちの都合で我を作ったは貴様ら人間だ! それを、いらなくなったらゴミのように捨てるというのか! 悪獣として退治しようと言うのか! 我は元の場所がいい! それ以外は絶対に嫌だ! それ以外の所へ我を押し込めようと言うのなら、目に付く人間全てを喰らい、我が肉と化してくれよう!

本能的に危険を察した真由美が飛び退くのと、今まで居た枝が木っ端微塵に吹き飛ぶのは同時だった。この攻撃、見たことがある。真由美が、戦いの道に踏み込むきっかけとなった、あいつと同じ攻撃だ。

「死ねえええええええええッ! 人間ッ!」

わめく猩々に、光の矢が襲いかかり、頭部に直撃した。ロケットランチャーによる一撃だ。木から落ちる猩々に、更に無数の弾丸が浴びせられる。激しい射撃音の中で、ゆっくり巨体が体を起こす。冷静に真由美は携帯を開いて、藤間隊長を呼び出す。

「敵は音を操ります。 下がってください。 私が仕留めます」

「信用して、いいんでしょうね?」

「……どういう意味ですか?」

「何故すぐに仕掛けなかったんですか。 まあ、まさか無いでしょうが、バケモノを前に、怖じ気づいたのではないかと思ってね」

あまりにも心ない言葉だった。高性能の集音機を使っていただろうに、真由美と猩々の会話は聞いていただろうに。どうしてそんな酷い言葉が出てくるのか。怒りよりも、悲しみが沸き上がってくる。

相手は知能を持ち、人間の行動の結果凶行に走った実体化まがつ神ではないか。どうしてそんな言い方が出来るのだ。確かに猩々は人間の形をしていないし、同じ価値観のなか生きていない。だが、人間の形をしているというのは、そんなに素晴らしいことなのか。人間というのは、そんなに価値ある存在だというのか。人間ではないと言うのは、そんなに愚かで醜いことだというのか。

ユルングの言葉を思い出す。仲間を散々殺されたのに、戦いの中での悲劇として割りきり、遊びに来て欲しいとまで言ってくれた気高い言葉を。真由美は知っている。人間では無い者のほうが、むしろ遙かに人間的で、気高く心優しい事が時々あることを。人間なのに、動物より非理性的で、愚かな者が少なくないことを。

携帯を切る。傷ついた猩々は、血だらけのまま天に向けて咆吼する。月光の中浮かび上がるそのシルエットは、とてももの悲しい。猩々は激しい銃撃の中跳躍し、口の中に力を集めていく。だが、それが発射される事はなかった。

遅いのだ、あまりにも。実戦の中力を付けてきた陽の翼の実体化まがつ神や古代龍、それに能力者達と比べると。殆ど動物に毛が生えた程度の力でしかない。目覚めてから時が経っていたり、古代の術で強化されていれば話は別だろうが、この猩々は違う。未熟な真由美でも充分に手に負える相手だった。

柔らかく真由美が着地したのは、猩々の背中。そして敵が暴れるよりも早く。猩々の太い首に、後ろから肥前守を突き刺していた。

 

零香先生の家に帰ったときは、もう夜明けだった。猩々が消えた後に、残っていたのは、エサになった動物の肉片。食い込んだ無数の弾丸。そして神体だったらしい、頭のかけた像だった。桐先生に調べて貰わないと、具体的な正体は分からないだろう。でも、どうにかして助けてあげたい。神としての猩々を、鎮めてあげたい。真由美はそう思う。

後の調査は自衛官達に任せて、さっさと真由美は引き上げた。ロケット弾の直撃と軍用ライフル弾の乱打に耐え抜いた猩々を一息に屠り去った真由美の実力は、流石に彼らを充分に納得させていた。現金なもので、藤間隊長も帰るときには敬礼をしていった。真由美が神像を持ち帰り処理することを申し出ると、三十分ほどの協議の末にオッケーが出た。

戦いの道は、血塗られた悲劇の道。だが、自分で対処できる悲劇なら、自分でどうにかしたい。

知らない方が幸せだという言葉があるが、それは違うと真由美は思う。知らないと言うことは、放棄することだ。先送りにするだけのことだ。子供も性の仕組みを何時か知らなければならないし、どんな平和な国に生きていても戦争の生む悲劇は知っておかねばならないのだ。そうしなければ、いざと言うときに、更に被害を大きくするのである。

閻王鎧は、O市に入った所で解除した。誰の目にも付かないように家に来た。理由は簡単だ。猩々の返り血を全身に浴びていたから。血を浴びた制服は、自分で洗った後、クリーニングに出さなければならない。問題は、今からまた学校へ行かねばならないことだが、M国でこなしてきた地獄の戦いや、今まで経験してきた煉獄の修練に比べれば何でもない。二日や三日の徹夜ぐらい、平気だ。

庭では、零香先生が修練をしていた。ぼんやりと其方に行くと、修練に使うスポーツウェアに身を包んだ先生が、大きな岩に連続して拳を叩き込んでいた。大した音もしないのに、岩は確実に変形していく。やがて小さく気合いと共に繰り出した拳が、岩を真ん中から綺麗に砕いていた。

飛び散る砂利の中、零香先生が振り返り、眼鏡を軽く直しながら言う。汗一つかいていない。

「ん、お疲れ。 桐ちゃんから話は聞いたよ。 大変だったみたいだね」

「いいえ、こんなの、何でもありません」

「早くシャワー浴びてきて。 今日も学校だよ」

「はい」

ふらふらと、自分でも少し頼りないと思う足取りで、シャワールームに。服を脱ぎ捨てる。猩々の断末魔の絶叫が、まだ耳に残っている。苦しそうだった。悲しそうだった。その声を絞り出させたのは、自分なのだ。

シャワーを浴びると、頭が少しすっきりしてきた。湯の雨の中、天井を仰いだ真由美は、神像をずっと握りしめていたことに今更ながら気付く。

大丈夫、絶対に救ってあげます。

目を閉じ、血を洗い流していくシャワーの中で、真由美はそう誓った。まだ、涙を抑えることは、難しそうだった。

 

軽めに修練を終えた零香は、竹林の中にぽつんとある大岩に腰掛けて、スポーツドリンクに口を付けていた。岩塩のスティックを取りだして囓る。実に塩気が心地よい。徐に携帯を開くと、淳子からのメールが来ている。文面に目を通すと、面白い事が書いてある。

「判断、行動共に問題なしや。 後は精神力をもう少し鍛錬すれば、充分一線級の能力者として動けるで」

「了解。 ならば来年にはあの子も北海道に帰れるかな」

メールを返信する。すぐに軽快な音がして、メール送信済みのアナウンスが流れた。

今回のミッションには裏があった。たまたま淳子が能登半島に行く用事があったので、彼女に真由美のサポートを頼んだのである。零香達にとって、真由美はそれなりに重要な意味を持った子なのだ。表だって手助けはしないが、これくらいの心配はしている。淳子も喜んでミッションの影からの護衛を引き受けてくれた。

己の技を継ぐ、次世代の創造。それを人間の手だけで行う。

利津の戦略。淳子の計算。桐の戦術。由紀の勇気。零香のタフネス。神子相争という異常すぎる状況で培われたそれらを、普通の高校生である真由美に継がせる事が出来るのであれば、人類の未来は必ずや明るくなるはずだ。異常な環境によって産み出された技も、普通の世界で生まれ育った者へと受け継がせることが出来ると分かったとき。それは世界に散る能力者達の希望となる。

勿論、単純に弟子が可愛いという感情もある。そんなそぶりは絶対に見せないが、零香にとっても真由美は可愛い弟子なのだ。勿論他の神子達にとってもそれは同じである。一番それを表に出さないのは多分利津だろう。あの子は兎に角不器用だ。今後も人生で苦労する事は間違いない。

汗を拭きながら道場へ。まだ少し時間があるから、軽く父と組み手をしようと思ったのだ。正座して瞑想していた父は、零香が来ると目を開けた。

「日本に戻って来てからも、まだ忙しいようだな」

「父さんは、どう?」

「俺は特に忙しいという事もない。 このまま一生、マイペースに自らを鍛え、家と英恵を守り続けるだけだ」

機械的な人生を選んだ父。だがそれも、自らの選択による結末だ。零香に口を出す権利はない。

「そっか。 わたしね、来年あたりまたアフリカに行ってこようかなって思ってる。 父さんも、何処か海外に出かけてくれば?」

「そうだな。 その間、お前には苦労を掛けるが、構わないか」

「大丈夫。 ついでに母さんと、ちび共も連れていきなよ」

「そうだな。 英恵もたまには海外で羽を伸ばしたいだろう」

会話しながら構えを取る。自らの究極を探求するという点で、零香と父の人生はよく似ている。だから神子相争でも、半ば連携するような形で、戦い抜くことが出来た。

二つの影が激しくぶつかり合う。それは、一般とは違うが、確かに親子の形の一つであった。

ほどなく、母が朝食の完成を告げてくる。今日もまた、一日が始まる。

零香にとっては代わり映えがない、普通の人生とは全く違う、一瞬一瞬が、その全てが戦いである一日が。

 

3,流れる時の中で

 

弟の入院している大学病院からの帰り道。高円寺真由美は、携帯の着信音に気付いて足を止めた。トラックが通り過ぎるのを横目に道の脇に寄る。伸ばし始めた髪を掻き上げると、真由美は電話に出た。胸元にはシルバーのネックレスが光っており、大人の女性のおちついた余裕あるファッションセンスが伺える。足下の有名メーカーのスポーツシューズを始めとして、全体的にはスポーティなファッションだが、それの中できちんとアクセントになっている辺りが子憎い。

「はい、高円寺です」

「久しぶり」

「お久しぶりです、零香先生」

思わず頬がほころぶ。この声を聞くのも、一年ぶりであった。真由美ではなく、電話を掛けてきた零香先生が忙しいのだ。

「早速だけど、仕事。 沖縄に飛んでくれるかな」

「はい。 具体的な時期はいつですか?」

「四日後」

「……分かりました。 準備します」

その後、ミッションの詳細を聞いて、頭の中にメモしていく。電話を切ると、自宅に向けていた足を、大学図書館へ向け直す。調査することがあったからだ。図書館に入ると、カードを見せて教授や職員しか入ることが許されない奥へ進む。薄暗い空間には、梯子のかかった巨大な本棚が隅々まで並ぶ世界が広がっている。迷うことなくその一角に足を進めた真由美は、すらりと伸びた手足を伸ばして、手際よく必要な本を集めていった。

図書館の一角の長机に腰掛けると、ミッションに必要な情報を高速で整理していく。すぐに敵の正体は特定でき、後は戦術をどう駆使するかに話は移る。集中し、時が遅く感じられるほどに頭を酷使し、それが終わった頃にはおよそ二時間が経過していた。鞄からスポーツドリンクを取りだして呷る。ふっと隣に具現化する影。

「どう、いけそう?」

「ええ。 順当に行けば、苦戦はしなさそうよ」

となりに浮かぶ影は、大人の姿をしていた。落ち着いた和装の美人で、しかし足は地面から離れ、体は危なげなく宙に浮いている。ある時期から悪霊を喰うのを止めた葉子の、今の姿がこれであった。長い髪が実に艶やかで、切れ長の目には知性が浮かんでいる。体型も動作も大人っぽくなったが、結局童顔のままの真由美とは決定的に其処が違っていた。おかっぱまん丸顔の少女然としていた葉子がこうも化けるのに、自分は結局年を取ってもこうなのだから、世の中は不公平だ。

真由美は一端図書館を出ると、赤尾さんにメール。保険を掛けておきたいと思ったのだ。すぐに電話が鳴り、以前と全く代わらない赤尾さんの声がする。

「はいはい、なんですの?」

「お休みの所申し訳ありません。 真由美です。 実は在庫があるか確認したいものがありまして」

「言ってご覧なさい。 他ならぬ貴方ですし、少しはおまけしてあげますわ」

「はい、有り難うございます。 実は……」

在庫はあると返事。これで勝率は更に上がる。後は、仕事まで体を休めて力を養いつつ、死角を埋めていくだけだ。行動は的確で、余裕がある。ひよっこだった頃とは、全くの別人だ。

高円寺真由美、二十五才。現在アジアにおける現役の能力者の中では、間違いなくトップ10に入る。今やアジア最強の名も高い零香先生を筆頭とした「五神」に継ぐ実力者として、最前線で働き続ける、超一流の実力者であった。

 

零香先生の元から離れた真由美が、北海道に戻ってから。さまざまなことがあった。真由美だけではなく、周囲の人々全てに、である。

まず先ほども電話で会話した零香先生だが、相変わらず激しい人生を送っている。彼女は高校を卒業すると当然のように国立の一流大学に。更にそこを首席で卒業。そして市議会に入り、瞬く間にそこで地歩を確立すると、国会議員になった。今では圧倒的な求心力と指導力で与党であるJ党の若手をまとめ上げ、独自の派閥を構築。次は大臣になるのが確実とさえ言われている、最強のホープだ。

あまり世間では知られていないことだが、例の陽の翼事件の際に米国と確保したコネクションや、日本の権力中枢に能力者として張り巡らせたコネクションがものを言っているようである。四十までには総理になるだろうと国内外で言われていて、今や日本で最も知られる女性議員である。

現在の総理は指導力があまりなく、国会が私語や野次で荒れることが珍しくないのだが、零香先生が議員になってからそれも減った。というのも、一年前に零香先生が一喝で黙らせたことがあるのだ。テレビの外にまで爆風が飛んでくるような、とんでもない一喝であった。真由美も国会中継で息をのんだほどである。それがあってから、野党の議員も「小娘に一撃で黙らされた」という悪評を避けるために、国会では静かにせざるを得ないらしい。

その時以来、どういう風の吹き回しか、能力者時代のあだ名である「虎帝」と、零香先生が呼ばれるようになった。これに関しては、当人も苦笑気味なのだとか。ただ、親愛よりも畏怖を感じられることについては、まんざらでもないらしい。根っからの武人気質だからだろうか。

表側の出世頭としては零香先生だが、一方で桐先生は裏側の出世頭と言えるかも知れない。

黒師院家は双葉総帥の下数年で規模を拡大し、今では海外にも触手を伸ばした財界の雄として知られているが、その躍進の鍵となったのが桐先生だと、真由美は知っている。

桐先生は能力者として常に最前線で活躍し続け、その関係で政府要人や国内外の有名人とのコネクションを接続。更にゴシップを握ることで、黒師院の躍進を裏側から支えたのである。

また、黒師院双葉総帥は以前にも増して強大な権勢を振るうようになったが、再び名声を当て込んですり寄ってきた者達は見事に袖にされ、路傍にて屍を晒すこととなった。良くて吸収合併、悪ければ会社は粉砕。以前のように、先祖のトラウマに振り回され、人格を壊してしまった不安定な強者の姿は其処にはなく、今や黒師院双葉は鉄の女と呼ぶに相応しい存在であった。黒師院というネームバリューは一端消滅したが、今度は黒師院双葉という別のネームバリューが誕生した訳である。

現在の財界は黒師院という巨大台風の動向に一喜一憂する有様であり、どうゴキゲンを伺うかで必死な状況である。何処から嗅ぎつけたのか、真由美にもそのコネクションを頼んで桐先生への口添えを頼む者までいた。呆れた話である。人間は何処まで醜くなることが出来るのか、その展覧会場が真由美の前に広がったのだから。

黒師院の新たなプリンセスと羨望の視線を浴びる桐先生は、今後も正体を表に出すつもりはないらしく、あくまで裏方と参謀に徹するそうである。腹黒いと周囲に言われる彼女だが、真由美から言わせるとそこまで酷くはないような気もする。ただ、煮ても焼いても食えそうにないのは確かだ。

そして由紀先生だが、此方もまた自身の道を強力に進んでいる。

M国から帰還してから、由紀先生は着実に己の地歩を確保し、テレビ局を始めとするマスコミの掌握に力を注いでいった。法による保護で実質上の抵抗能力を殆ど失っていたマスコミに残っていたのは、高収入に胡座をかいた金の亡者ばかりであった。

由紀先生がテレビに登場した頃からテレビ離れが危惧されていたが、何のことはない。テレビ側に問題がありすぎたのである。それに依存する新聞もまたしかり。そんな中、強力に視聴率を牽引できる由紀先生の力は大きかった。それを由紀先生は遠慮無く容赦なく利用していった訳だ。

真由美が高校を卒業した頃には、テレビ番組は大きく様変わりしていた。後ろでスタッフの笑い声がしているだけの面白くもないコメディ番組は姿を消した。ドラマ、アニメ、いずれも露骨に品質が増した。バラエティ番組では、「素人いじり」なる悪習がはびこっていたが、それも姿を消し、真剣に笑いを追求するプロの駆け引きが見られるようになった。また、素人の出演者には敬意が表されるようにもなった。

テレビ離れを加速させていたものの一つに、誰もが知っているやらせの問題があった。誰もが知っているのにテレビ局だけがばれていないと考え続け、客が白けて退いているのに「面白い番組を作るためには仕方がない」などと称して見え見えのやらせを続けていたのである。結果、呆れた視聴者はテレビを見なくなっていった。これも由紀先生がテレビ局を掌握してからは消えて無くなったという。

真由美は思う。例えば由紀先生も、二つの人格を使い分けていた。テレビ用と、対友人用にである。だがそれはテレビによる組織的なやらせとはあくまで別の次元の話であり、少なくとも視聴者にそれを悟らせる事はなかった。また、媚びを売ることもなく、あくまで自分の魅力で客層を引きつけていた。視聴者をバカにしきった上に、その視聴者のニーズに引きずられて、下らない行為を続けていたテレビ各局とは違う。由紀先生の別人格は化粧に近い。それに対して、テレビ局のやらせは体面を繕うための、臭いものに被せる蓋だ。

また、テレビ局と言えば閉鎖的な環境による凝りがたまり、正社員と名が付くだけで年収一千万が普通という異常な世界であったが、その高収入に胡座をかいていた無能な老社員達は由紀先生主導の元根こそぎ寒空の下に放り出され、適正な給与によるまともな経営が開始されていた。

由紀先生自身はアイドルとしての活動を二十二才で停止。以降は非常に硬派な歌手に生まれ変わり、相変わらずの存在感を見せつけている。由紀先生が出てくるだけで、視聴率が10%前後動くという有様である。新聞の掌握も着々と進んでいるようで、景気の良い話が時々電話をすると伝わってくる。ただ、今でも二つの人格を使い分けてはいるようだ。

彼女ら三人は世間的にも知名度を確保し、同世代最高の出世頭として認められており、俗にスリースターズと呼ばれている。ただ、三人が親友であると知っている人間は殆どいないようで、裏で互いの利益のために連携して行動していることに気づいている者はもっと少ないと真由美は見ている。

皆に比べると大人しいのが淳子先生だ。彼女はM国との戦いの後、東大阪に戻った。そして工場を経営している父と、再婚相手である義母と、静かに暮らしているという。東大阪は相も変わらず犯罪者が一切入れない都市と化しており、数年前には噂を軽視して入り込もうとした百人ほどの珍走団が十分ほどで全滅させられるという事態も発生している。彼らはバイクを尽く潰され、更に利き腕利き足を使い物にならないほどに傷付けられており、半分以上が一生病院から出られないだろうと言われている。いい気味である。

淳子先生はその他にも、政府関連の仕事で暗殺任務を行っているらしいのだが、社会にその存在を示す事を一つだけしている。それは水の販売である。趣味である水のブレンドに納得行く結果が出て、更に機械が完成し、量産化に成功したらしく、数量限定で「淳子の美味しい水」という名前で売り出しているのだ。

二リットルボトルで一日五百本しかでないという稀少品なのだが、その圧倒的なおいしさが噂を呼び、毎日即座に売り切れてしまうと言う。テレビ等でCMは一切していないのだが、北海道でも時々その名前は聞く。二年前に東大阪に遊びに行ったとき、真由美も一本分けて貰った。確かにとんでもなく美味しい水だった。

だが、真由美としては先生達の間では、零香先生の次になじみの深い人でもある。仕事上で一緒になることが兎に角多いからで、一度などはチベットに一緒に行って、強力な象の実体化まがつ神と戦った。淳子先生は今でも元気な現役隠密狙撃型能力者で、後も一緒に戦うことは多いだろう。

他の四人に比べて、一番静かに暮らしているのが赤尾さんだろう。あの人はマイペースの人生を選ぶつもりらしい。

赤尾さんは南アルプスの家で、今でも暮らしているらしい。「ねえちゃん」こと赤尾蘭子さんが結婚したらしいのだが、それでも関係ないようだ。今でも仕事のことがばれているのかいないのかは、教えてくれない。

世間一般に一切名前は出てこないが、それでも政府から時々仕事を受けてはこなしているらしく、何度か真由美も一緒に戦った。その時は実に心強い。また、相変わらず術を使って作り上げた道具を売りさばいたり、逆に強力な呪いがかかった道具を貰い受けては処理しているそうだ。前に見に行ったとき、物置がぐっと大きくなって、中に陳列されている武具がますます禍々しくなっていた。

お金は山ほど貯め込んでいるらしいが、結局全体的にはとても静かな生活である。仕事で何時死ぬか分からないが、その反面普段の生活は他のどの仲間よりも静か。最も巨大な火力を持ち、最も激しい気性を持つ赤尾さんが、そんな生活を良しとするのだから、真由美にはまだまだ世の中が分からない。

この間家にお邪魔させて頂いたのだが、赤尾さんは家でもあの調子だった。可愛いのに、ぶっきらぼうでへの字口で。それがまた抜群に可愛い。

姉妹仲は羨ましくなるほどに物凄く良く、一時期アル中になっていたらしい蘭子さんも今では健康そのものだ。真由美も最近はお金に余裕が出てきたので、赤尾さんは重要な取引相手だ。肥前守が使えなくなった時に備えて、セカンドウェポンを揃えているのだが、それには赤尾さんの存在が必要不可欠なのである。

些細な変化だが、赤尾さんは最近ツインテールを止めて、ポニーテールにした。あまり変化がないような気もするのだが、本人にとっては一大決心らしい。どうしてそうしたのかは、結局真由美にも教えてくれなかった。ひょっとすると、蘭子さんのお腹にいる子供に何か関係しているのかもと、真由美は推察している。

陽の翼は、今も相変わらずM国の西に存在している。人口は三百万人ほど。独裁政権だとか宗教国家だとか陰口を叩かれているが、太陽神自身が政治を執っている訳ではなく、民主的な議会が開かれており、一般の政務は其方が執り行っている。一種の立憲君主制だが、太陽神の存在などは公にされていないから、一応表立っての指導者は大統領になる。それに、「民主主義の牙城」を名乗る米国ですら、民主主義国家といいながら内部には多分に封建国家としての要素を含んでいる。どこの先進国もそうだ。人のことを悪し様に嘲笑する資格など無いだろう。

二度ほど、真由美はオールヴランフ島へ出向いたことがある。真由美のことは関係者に伝達されていたらしく、島へはノーチェックで通して貰った。太陽神とは会えなかったが、五翼の面々も健在で、ユルングもちゃんといた。人なつっこいユルングが健在なのを見て、真由美は心底から安心した。

ユルングは言葉通り巨大なバケツに充たされた魚を、頭を突っ込んで食べていた。動物の親愛表現に、同じエサを食べるというものがあるらしく、危うく真由美もそれを強要される所だった。

真由美を助けてくれたのは、あのアジ・ダハーカだった。すっかり死闘の傷から回復したダハーカは、真由美の分と称して体長二メートルほどの鮫をバケツに頭を突っ込んでくわえ取って、そのまま皿に載せてくれた。そして有り難くも、そのまま喰えと言ってくれた。元人間なので、良識を期待していたのだが、それは見事に裏切られた訳である。どうやら古代龍になったときに、一部の記憶が抜け落ちてしまったらしい。

馬鹿でかい皿に乗せられた涎だらけの巨大な鮫を前に固まる真由美を見かねて、助け船を出してくれたのは何とあのジェロウルだった。ジェロウルはトマホークで豪快に鮫を捌くと、丸焼きにして皿に載せ直してくれた。勿論味付けは塩だけである。こうして真由美は親愛の情を向けてくれる古代龍+がさつな面々に感謝しつつ、蒼白になって鮫のぶつ切りを必死に平らげたのであった。M国ではそんな楽しい思い出が刻まれた。二度目も大差なかったのはお約束であろう。

その後も、M国では戦争が始まる気配はない。外部からの攻撃には備えているようだが、積極的に何処かへテロを仕掛けようと考えてはいないようだ。しっかりその辺りを見て回った真由美は、そう結論を出している。零香先生との会談で、何を言っていたのかは良く分からないが、多分それは時間が経てば自然と達成できるものなのだろう。

ケヴィン氏とは、時々手紙をやりとりしている。去年軍の後輩と再婚したそうである。ずっと気にしていた娘さんの事だが、綺麗さっぱり諦めたそうだ。もし助ける必要があるなら、ミサイルが降ろうが助けに行くとも書いていたので、未練が残っているのが分かるが、その辺はあくまで微笑ましいレベルだ。また、体力的にも衰えが目立つようになってきたので、そろそろ特殊部隊の前線から退き、教官になるつもりだという。

リズさんは、今でも日本で暮らしている。黒師院家でお世話になっているそうで、最近は占いのスキルを身につけ、小金稼ぎをしているそうだ。今度桐先生の所に行ったときに、真由美の恋愛運でも占って貰うつもりである。

真由美自身にも色々なことがあった。

O市での生活が終わり、高校三年生になってから、真由美は北海道に戻った。真由美を知っている級友はほんの僅かで、今まで自分が如何に影のように過ごしていたか、摩擦を怖がっていたか、改めて思い知ることとなった。

北海道に戻ってみて、はっきり分かった。今までの真由美は、誰にとっても、いてもいなくても同じ存在だったのである。

北海道に戻って最初に向かったのは、弟が入院している病院である。実は帰国してからすぐに北海道へ向かおうとしたのだが、その時は面会謝絶の状況で、門前払いされてしまったのである。結局面会が許されるようになったのが、丁度零香先生に一人前の太鼓判を押して貰った頃であった。

静かな病院の中、真由美が北海道を離れたときには、まだ不良として暴れ狂っていた彼は、見るも無惨な姿に変わり果てていた。最初それが誰か分からなかったほどである。

どちらかと言えば筋肉質だった体はやせ衰え、骨が浮き出るほどに頬がこけていた。点滴の針が腕に突き刺され、口には酸素吸入器が当てられており、側では無機質に心音計測器が音を刻み続けていた。

元々重度の薬物中毒だった上に、捕縛されてから吸わされた睡眠薬が体内に溜まっていた薬物と厄介な化学反応を起こして、瀕死の重傷になったという。米軍が口外しない代わりに治療費を出してくれると申し出てきたが、真由美は口外しない約束をして、治療費だけは自分の貯金から払うことにした。それくらいの蓄えは、命がけの殺し合いの連続で、既に溜まっていたのである。

弟に関しては、社会的に全く許される状況ではない。薬物中毒と言うだけではなく、分かっているだけでも暴行七件、窃盗四件、放火未遂一件、レイプ未遂も二件起こしている。取り押さえようとして、指を食いちぎられた人もいた。淳子先生だったら、有無を言わさず両手両足を引きちぎって半殺しにしていたかも知れない。真由美は無力だった。関係は冷え切っていたし、どんどん凶行に手を染めていく弟を、どうにもできなかった。

幼い頃は仲が良かったかというと、そうでもない。元々大人しい真由美と、極端に活動的で何にでも興味を示す弟は、仲が良くなかった。というよりも、互いに相手と相性が悪いと、子供心に悟っており、定距離を常に置いていた。どちらも互いを必要とせず、どちらも互いに期待しない。そんな関係だった。関係が完全に冷え切ったのは、好奇心が強すぎる弟に入浴を覗かれて以来である。思春期の微笑ましい行動だったのに、気弱な真由美はどうしてもそれを許すことが出来なかったのだ。幼いうちは一緒に入浴する姉弟も世間では珍しくないのだが、高円寺家には不幸にもその習慣もなかった。だからより溝は深まったのである。

両親が弟をその分可愛がっていたのだが、別に嫉妬をしたこともなかった。血筋絶対主義者の人間からは信じがたいものがあるかも知れないが、親兄弟などそんなものである。血統だけで運命の共有意識を抱く人間など、実際には殆どいないのだ。

その頃の真由美は、外圧から自分を守るだけで精一杯だった。真由美は弱者だった。強者の圧力に為す術がなかった。だからカメレオンのように、自身の気配を消して、強者の暴力にさらされないように、息を潜めるのに必死だったのだ。

昔は、そうだった。しかし、今の真由美には、弟を助ける力がある。勇気もある。財力もある。もう遅いかも知れないが、今から出来ることはするべきであった。

そうして、真由美は今だ目覚めない弟のために、貯金の幾らかを切り崩して使っている。どうせまともな使途では使い切れないほどの金が、通帳には振り込まれているのだ。この位の消耗など、何でもなかった。今後はどうするのか、まだ決めていない。ただ、両親が弟の身体面での世話を申し出てくれている。両親と一緒に、今までの埋め合わせをしていきたい所である。

他にも起きたことは色々ある。北海道に帰還してからは、すぐにコロポックルの保護官に戻った。壊滅した幾つかの村の建て直しは既に終わっていたが、人口だけはどうやっても短期では回復できない。だから今まで以上に厳重な保護が必要であった。

まだまだ現役としてコロポックルの保護に当たっていたお婆ちゃんと一緒に、真由美はすぐに保護態勢を整えた。てきぱきと保護の戦略を整える真由美に、お婆ちゃんは笑顔で頷いていた。

保護活動が軌道に乗ってくると、政府から大島さんを通して仕事が来るようになった。殆どが実体化まがつ神の掃除だったが、たまに日本に入り込んだ海外の能力者の捕縛と言った難度が高いミッションもあった。そういうミッションは大概零香先生達と共同で行ったのだが、まれに真由美より後輩になる能力者と組んで教えながら行うこともあった。

どうしても陽の翼との戦いで積み上げた濃度の高い経験とは比べられなかった。だがそれでも、力は着実に付いていった。生ける戦闘兵器に対する嫌悪感はいつのまにか消えて無くなっていた。

弟の意識が戻ることを待ちながら、コロポックルの保護をしつつ、政府の仕事を請け負って能力者として出来ることを続ける日々。充実している。普通の人間とは根本的に違う人生だし、危険も大きい。だがいつのまにか、体がそれに適応していた。

高校を卒業後、真由美は自立して小さな家を買った。庭は少し広めに取り、隅に地下倉庫を造って、普通の人には見せられない道具を其処にしまい込んだ。肥前守のセカンドウェポン数本もそこに入れてある。比較的几帳面な性格が出て、家の中はいつも綺麗だ。だが綺麗にしすぎると子供が生まれたとき教育上良くないという話なので、どうするか今から悩んでいる。特定の相手もいないのに妙な話である。今は勿論、其処に独りで住んでいる。

少しは成長できたのだろうかと、真由美は良く自問自答する。だが、一端仕事に入ると、雑念も消し飛ぶ。

そう、仕込まれたから。

 

リュックに必要な装備を詰め込んで、もう一度敵について纏めたメモをチェック。沖縄本島ではなく、離島の一つに出かけなければならないため、いざというときのことを考えて装備は少し多めに持っていく。実体化まがつ神の中には、飛行機や船を撃墜するくらいは簡単にする者も多いのだ。それをM国で散々味わってきた真由美は、敵の能力に対するありとあらゆる備えをして、戦場へ出かけていく。

四日はあっという間に過ぎていった。戦いは、真由美の本能の一部と化している。いつ頃からか一流の能力者と呼ばれるようになった。そのうちそれに超が着くようになった。その頃からだっただろうか。完全に戦いに対して吹っ切れていたのは。

必要なら斬ることが出来るようになった。後悔を戦闘後に持ち越せるようになった。傷を割り切ることが出来るようになった。

一度などは、凶事に手を染めた知人を、容赦なく斬った。

狂気との共存が、一流の戦士の条件だ。いつのまにか真由美も、それを本能のレベルから出来るようになっていた。

だが戦闘後の後悔は、まだ無くならない。無くしたくない。

それが真由美の、人生的な拘りであった。そして恐らく、先生達への、無言のただ一つの反抗であったかも知れない。

日本最北端の空港から、最南端の空港へ。其処から既に用意されていた船で数時間。

目的地となる島は、鬱蒼とした原生林に覆われた、淳子先生や零香先生が大喜びしそうな場所であった。隠密狙撃型の能力者としては実に面白い戦いが出来るだろうし、こういった場所での戦闘が得意な零香先生には独壇場だろう。

二人のことを考えながら、真由美は沖縄本島で合流した自衛隊の対実体化まがつ神特殊部隊と船上で打ち合わせ。(一年ほど前に、対能力者部隊と対実体化まがつ神部隊に分けられたのだ)情報交換の後、U島へ上陸した。美しい砂浜に接舷した揚陸艇から、ばらばらと降りる自衛官達。一番最後に降りた真由美は、美しい砂浜の感触を楽しんだが、それも一瞬のこと。すぐに視線は密林へと向く。

既にその脳裏は、具体的な作戦案に満ち、余計な雑念は消え失せていた。顔つきは完全にプロの戦士のものであり、其処に弱さが介在する余地はなかった。視線は鋭く、地図と森の相違点を丁寧にチェックし、今後の戦術をどうするか思惑を進めている。

自衛官達は、既にキャンプの設営を始めていた。リュックから取りだした肥前守を腰にくくりつける。戦いの本番は、これからであった。

 

4,継がれる強さ

 

北海道とは根本的に植生が違う森の中。それほど歩きづらくはないのだが、辺り一面生物の気配ばかりであり、なおかつ縄張り意識などから敵意を持っているものも少なくないので、どうしても敵の割り出しが難しい場所だ。

一番厄介なのは、そんな状況下、独走した者がいると言うこと。

しかも救出する事が出来る可能性があるのは、真由美だけだと言うことであった。

苔むした倒木を飛び越えると、素早く木の上に這い上がり、辺りを見回す。敵の気配を探りながら、少しずつ敵の巣を絞り込む。島の南部に広がっているジャングルはさほど広くはないのだが、それでも山狩りをすれば丸一日がかりになる。そんなことをしている内に、攫われた子は骨になっているだろう。

近くでけたたましい鳴き声。鳥類のものらしい。鳥類を装った悪意ある者のものではないと、声の性質から見極め、気配を消して再び行く。

密林での戦闘は初めてではない。M国でも経験したし、零香先生や淳子先生と一緒に、アフリカや南米で何度か戦った。一番重要なのは、雑多な生態系に埋もれた異常を的確に発見し、敵から身を隠しながら、不意をつくことだ。人間相手なら不意をつけば瞬時に勝負がつく。これでも人体急所は知り尽くしている。能力者や実体化まがつ神が相手の場合は、不意打ちを仕掛けた後、敵が倒れなかったときの事を考えて動かないといけない。後が続かなくなるからだ。

島に唯一存在する滝に到達。周囲は開けていて、奇襲が極めて難しい。滝の音が此処まで届く。眉をひそめた真由美は、どうやら自分が当たりを引いたらしいと気付く。

不自然に転がっている牛の骨。動物が漁ったらしくバラバラだが、腰をかがめてよく調べてみると、異常に大きな噛み跡がある。牙はかなり鋭いようだが、幾つかの噛み跡はどうも臼歯で潰したような形だ。牛の骨は一体分や二体分ではない。犬の骨も幾つか散らばっていた。

滝の周囲を念入りに回るが、どうやら奇襲は不可能だった。落差が十メートルほどの小さな滝だが、水量はそれなりに多い。その水量に隠されるようにして、滝壺の裏に大きな気配がある。

異常な足跡が、辺りに滅茶苦茶に散らばっている。事前の情報から、敵の正体はある程度見当がついてはいる。この証拠が、その確実性を上げている。人質の危険度も、である。

辺りを調べるも、奇襲は断念。奇襲できる場所が見あたらない。敵がいるのは天然の要塞で、正面から出向くしかない。だから、正面からの攻撃に切り替える。悩んでいる暇はない。リスクは承知の上だ。

鳥が鳴いている。ゆっくり歩み出て、滝壺の前に立つ。雨が降るような音が、原色の密林に不思議な安らぎをもたらしているが、それを楽しんでいる暇はない。肥前守の鯉口を切るのと、巨大な影が滝壺から躍り出るのは同時だった。

モガアアアアアアアアアアアアアアッ!

生理的な恐怖感を覚えさせるうなり声。真っ黒い影は、全身を逆立たせ、真由美を強敵と認めて全力で襲いかかってきた。

 

人口二百人ほどのこのU島での任務は、そもそも一月前に発生した家畜の連続盗難事件に端を発している。密林の一部を切り開いての畜産業と、豊かな海産資源を生かしての漁業が収入の殆どを占めるU島では、それは死活問題だった。犯人は人間とは思えず、本来なら猟友会が出る所なのだが、そうはならなかった。

現場に残されていた足跡が、あまりにも異常だったからだ。しかもその足跡は一定しておらず、偶蹄目の足跡にも似ていたし、ある時は食肉目の足跡のようであった。共通しているのは、いずれも異常な大きさであったことだ。牛であれば体重三トン超、猫科の動物であれば体長五メートル超という出鱈目な数値が足跡からははじき出された。すぐに警察から上に話が飛び、真由美に出動が依頼された訳である。

状況から、実体化まがつ神が犯人で、その特定もすぐに行われた。「マー」と呼ばれる存在だ。牛のような鳴き声をするという事だけが伝わっている不思議な存在であり、正体は漠然としているのだという。ただ、このU島に伝わる伝承は少し違っている。

その姿は、見る人によって異なる怪物であり、見てしまった者を容赦なく喰らうのだという。

娯楽のない離島では、そういった伝承が唯一の生活のスパイスだったのだと、分析は出来る。或いは、何かしらの存在が、その伝承の元になったのかも知れない。厄介なのは、その存在があくまで「漠然とした姿」であり、弱点が全く分からないと言うことだ。だが、決して弱点がない訳ではない。こういった「漠然とした怪物」は伝承の中では珍しくないため、対応策は既に編み出されているのだ。

それを準備した真由美は、自衛隊と共にU島に到着。此処で問題が生じた。U島には、まだ幼い土着の能力者がいたのである。

その子は典型的な野生児で、人間嫌いな両親と共に森の奥で暮らしてきていて、森の守護者だと自分を思っているのだと分かっていた。両親は既に他界しており、その思想を色濃く受け継いだその子は村の人間を一切近づけず、森の中で一人暮らしているのだとか。その話を聞いた途端、真由美の脳裏に危険信号が点灯する。すぐにその子の家に自衛官が向かったが、既にもぬけの殻であった。

自らが暮らした森を守るため、不意に現れた敵と戦う。美しい行動だが、しかし実力が伴わなければただの自殺行為だ。真由美は、その無謀さと、犬死にしかねない行動の意味を良く知っていた。何しろ、自分がやったことがあるのだから。

数日前までは、その子は目撃されていたという。それならば、まだ間に合う可能性がある。真由美は許可を取ると、自衛隊の特殊部隊に先んじて、森の奥へと向かったのである。

そして今、その「マー」と真由美は正面から向かい合っていた。

対峙は一瞬。敵には、間合いという概念すら無かったのだ。殆どノーモーションで、マーが突撃してくる。流石に眉をひそめて、真由美は半歩下がった。

激しい突進だった。足は四本だったが、見る間に六本に増え、加速力が増す。印を切ると、真由美は息を吐き出し、肥前守を振り下ろした。

「せあっ!」

「ゴオオッ!」

展開した防御結界が、真っ正面からマーの突撃を受け止める。滝壺に鋭く波紋が走り、ついで弾ける。砂利が飛び散り、轟音が森を揺らす。

物凄いチャージだ。真由美は素直に感心していた。同時に悲しんでもいた。事前の情報から、対話の可能性は少ないとは思っていたが、少し刃を交えただけで分かった。これは意識とか意志とかそういうものは持っていない。対話による、平和的な事態の解決は、不可能だった。伝説が不安定で曖昧な実体化まがつ神にはたまにある事なのだ。

マーの体重は二トン、いや三トンはあろうか。双方、激しく弾きあい、真由美は十メートル以上も砂利を蹴散らしながら下がった。買ったばかりのスニーカーが、底から煙を上げている。

おかしいと、真由美は口中で呟いた。離島の実体化まがつ神にしては強すぎる。このパワーは、最も強力な実体化まがつ神の一種である龍族とまではいかないが、それに近い。知能がない故にパワーがあると言うよりも、これはまるで、悪意のある何かにより、無理矢理強化されたかのようだ。嫌な予感がする。また、何か大きな力が動いているのだろうか。

戦略を練り直す。最初は巣から引きはがし、密林で戦う予定だったが、此処で倒す事にする。相手の特性については、当初の予想通り。ただしパワーの桁が二つ違っている。実戦でパワーは非常に重要な要素である。桁が二つも違えば、戦略も変わってくる。このパワーと可変性だと、もし密林の中に引きずり込んだ場合、地形による有利を生かせないだろう。むしろ形状が固定された生物体である以上、真由美にとって不利になる。それならば此処で、技による勝負で一気に片を付ける方がいい。此方の被害も大きくなるが、それは別に構わない。

ま黒き影は、見る間に姿を変えていく。いや、それは違う。そうではないのだ。影は、姿を一定に保つことが出来ないのである。形無き巨体の中、赤黒い一対の目だけが爛々と光っていた。

熊のような巨大な前足が背中から生え、口が耳まで裂けて鋭い牙を露わにする。涎を吐き散らしながら、影は全身の触手を振るわせる。結界を解除すると、真由美は敵の懐に潜り込み、肥前守を一閃、頭を唐竹割りにした。雷のような早業であった。一瞬だけ、マーが動きを止める。

「……っ、浅い!」

舌打ちと同時に、触手がなぎ払われる。肥前守でガードするも、吹っ飛ばされた真由美は巨木に叩き付けられ、それをへし折りながら倒れ込む。立ち上がろうとする真由美に、今度は翼を生やしたマーが、斜め上から躍りかかってくる。体の両側からは蜘蛛のような足が生えて蠢いている。あまりにもあまりな異形だ。その口の奥に、槍のようなものが覗いた。舌だ。

弾かれるように横っ飛びするのと、残像すら残して「槍」が撃ち出されるのは同時。連続して繰り出された槍は、真由美の至近を掠め続け、激しく地面を抉る。まるで鯨狩りに使うアンカーだ。真由美が飛び退くが、その直後、着地したマーが不自然な態勢から不自然な動きで剛腕を一閃させる。ガードしつつも、激しくはじき飛ばされて、真由美は岸壁に叩き付けられる。

岸壁に巨大なクレーターが出来る。物凄いパワーだ。威力はかなり殺したのだが、それでも一瞬息が止まる。背中が軋む。

ゴオオオオオオオ……モゴオオオオオオオオオオオッ!

紅い双眸を輝かせ、突撃してくるマー。手加減できる相手ではない。血の糸を引きながらずり落ちた真由美は、目の奥に光を宿らせる。全身の痛みをこらえながら立ち上がると、真由美は閻王鎧を纏った。そして、続けてライフルを具現化、マーの眉間に連射して弾丸を叩き込んだ。激しく肉片が飛び散るも、マーは動きを止めない。再び、真由美が展開した結界に、巨大な腕を叩き付けてくる。

一撃、二撃、激しい打撃が大地を揺らす。巨大な影は、一秒ごとに姿を変えながら、嵐のような打撃を叩き込んでくる。じりじり下がりながら、真由美は冷静に敵の動きを見る。敵が出来る限界行動へ、誘い込んでいく。

そろそろかなと、真由美は思った。こういった特性の相手は確かに手強いが、とんでもなく脆い側面も持ち合わせているのである。パワーがどれだけ上がっていても、それは同じだ。

振り下ろされた腕が、結界を痛烈に叩いた。周囲の地面に亀裂が走る。余波を受けて、一抱えもある岩が内側から粉砕される。もう、結界が保たない。そう思った瞬間、マーが猛烈な攻勢に出る。原始的なりに、急速な学習を行っているらしい。口を開いて、さっきの槍のような舌を連射して繰り出してくる。だが、残念だが、もうそれは通じない。結界の強度は、体で覚え込んでいる。

結界が敗れた瞬間、繰り出された舌も僅かに動きが鈍る。踏み込んだ真由美は、肥前守を横薙ぎ、舌を真ん中から断ち切った。そのまま、袈裟懸けに斬り倒す。真っ黒な体液が、天にも届けと吹き上がる。

モ、モゴオオオオオオオオオオオオ、ぃいいいオオオオオオオオオッ!!

全身から触手を噴きだし、めったやたらに打ち据えてくるマー。数度鞭のようなそれを浴びながらも、斬り払い、打ち払い、飛びずさって距離を取る。

マーが両足で立ち上がる。蜘蛛のような足がばらばらと体の脇から落ち、黒い血が無差別に噴き出す。千切れた足は地面で瀕死の蛇のようにのたうち回り、やがて液状化していった。ぼとりと、赤黒い眼球の一つが溶け落ちる。それでも、マーはダメージに屈する様子がない。というよりも、これ以上戦うと危険だとか、体の機能が停止するとか、そんな本能もないのだろう。最初熊のようだった顔は、猪のようになり、今では蛙のようになっていた。

気の毒で、哀れな存在だ。制御という事を知らない。力を使い果たすまで暴れ狂うことしかできない。栓が壊れた水道の蛇口のようだ。

大きく体を反らせたマーの腹の辺りが大きく横に裂け、其処から巨大な口が姿を覗かせる。多分、口まで胃液を持っていくのが面倒くさいから、直接胃袋から吹きかけようと言うのだ。滅茶苦茶だが、それが出来る存在には無茶苦茶ではない、ように見える。多量の酸を噴き付けてくるマー。酸が当たった部分の岩が、木が、見る間に溶けていく。滝壺から魚が浮かんでくる。だが、マーの動きは、確実に鈍くなっていく。

当然の話だ。自然に生きる生物は、当然意味のある形をし、意味のある動きをしている。それを超越すれば、無理が来るのは当然のこと。超越の度合いが凄まじければ凄まじいほどに、無理も桁違いなのだ。それを無理矢理パワーで成立させていたマーだが、それにも限度がある。

行動限界。

ついに、マーの動きが止まる。噴きだしていた酸の勢いも弱まり、たれて自らの体を溶かしていく。

全て、計算通りだ。真由美はわざとマーが力を浪費するのを助けていた。そのためには、多少の苦戦も必要だった。確実にこの実体化まがつ神を倒すには、それが一番だったからだ。ジグザグに走り、一気に間合いを蹂躙する真由美。

マーは気の毒だ。両足で立つという行為が、如何に難しいか。バランスを保つだけで、どれだけの労力を要するか。殆どの動物は本能的に知っているのに、それすら分かっていない。

自然の定めた形をあまりにも軽視しすぎたこと。マーの敗因は、それであった。肥前守に、光を纏わせる。葉子が開発し、幾多の強敵に痛撃を与えてきた必殺、空間切断剣。

横を通り抜けざまに、胴を一撃両断。更に振り返り、背後から跳躍、脳天より唐竹割りに斬り落とす。

ついに形態を保てなくなったマーの体内から、白い骨が覗く。あまりにも異質な、清浄なそれ。真由美はこの瞬間を待っていたのだ。

この手の形態が不確実な存在は、何かしらの極めて不安定なコアを中心に体を成り立たせている。そうでなければ、そもそも「形」を保つことが出来ずに、四散してしまうのだ。実体化まがつ神は、強力な者から弱い妖精種まで、皆その弱点を共有している。強力なものでも、とんでもなく脆弱なコアを持っていたりするものなのだ。一方で、コアが概念的な存在となっている実体化まがつ神もいるが、それは例外である。真由美が戦った最強の実体化まがつ神であるアジ・ダハーカですら、コアはそれほど複雑なものではなかった。

キイィイイイイイッオオオオオオオオオッ!

崩れつつあるマーが、絶叫と共に最後の一撃を放つ。細い糸のような触手が、数十本、真由美に向けて打ち出される。バックステップ、ガードしながら下がる下がる。糸は鋭い切れ味を持ち、真由美の肌を切り裂き、抉り、血をばらまいた。頬を斬り、耳を切り、腿を裂いた。真由美は眉一つ動かさず、肥前守をマーに向ける。

マーは必死にコアを隠そうとしているが、そんな暇など与えない。

「駆けよ、天馬っ!」

真由美の手から打ち出された肥前守が、正確無比に、マーのコアを貫いていた。

 

マーの亡骸が、呻きながら地面に沈んでいく。コアは、どうやら牛の骨のようであった。だが、形がおかしい。黒い液体はほどなく全て流れ落ちて、跡には幾つかの牛の骨だけが散らばっていた。真由美は、マーの正体を悟った。

奇形の牛だった。骨は彼方此方無惨なまでに歪み、ひしゃげていた。村で産まれた奇形の牛が、森に捨てられて、幸運か不運か生き残ってしまったのだろう。多分、元が牛であるかどうか分からないほどの無惨な姿に成長したそれが、マーの原型だ。鳴き声だけは、牛に近かったのであろう。あまり長生きは出来なかっただろう。

静かに眠らせてあげたい。真由美は骨を拾い集めながら、そう思った。もうこの子が、人間の業の餌食になるのは全力で阻止したい。骨は持って帰る。ただし処置に関しては、利津先生に相談しないといけないだろう。不得意分野で他人のアドバイスを仰ぐのは、決して恥ずかしいことではない。あの零香先生だって、必用に応じて良く仲間達と協議していた。

骨を調べた分では、もう当分再生の恐れはない。軽めの結界を張って、念のための防護を施してから、戦場から少し離れた場所に放置していたリュックに入れて、完全に気配が消えた滝の方へ歩む。無線を取りだし、自衛官を呼びながら。耳の傷が、少し痛んだ。

「高円寺です。 実体化まがつ神「マー」、沈黙しました」

「了解」

「今から、要救護者を探索します。 医療班に待機させてください」

「了解」

無機質な会話は、無機質に終わった。

滝壺の裏には、当然のように洞窟が口を開けていた。というよりも、マーが其処から飛び出してきたのだし、当たり前だ。滝壺近くの岸壁に這い着くようにして、何とか洞窟に入り込む。だが、内部は半ば浸水していて、努力は無駄だった。諦めて、膝まである水位に足を浸す。ペンライトを点灯し、奥へ進む。

洞窟の中は凄い血臭だった。入り口近くには、半ばから食いちぎられた猪が、足からぶら下げられていた。他にも牛の後ろ足が、天井近くの岩から、糸状の物質でつるされている。マーは蜘蛛の特性も取り入れていたのだろうか。

水の中にも、骨やら肉片やらが散らばっていて、蠅が飛んでいた。蛆が湧いている死体もある。年頃の少女が見たらトラウマになるだろう。真由美は平気だ。この位の光景で参っているようなら、M国でとっくに死んでいる。まとわりついてくる良く太った銀蠅を追いながら、慎重に奥へ。

マーは異常に強かった。あまりにも不自然な戦闘能力だった。である以上、その実体化に外的な要因が働いた可能性が強い。真由美が調べた範囲内では、彼なり彼女なりが住民に冒涜された形跡もないし、祭の類が不意に停止された様子もない。誰かが、静かに寝ていたマーをたたき起こし、強力すぎる力を与えた可能性が高いのだ。それが人間か、実体化まがつ神かは分からない。しかしこの予想は、恐らく当たっているはずだ。

許せない。体中の傷がちりちり痛い。怒りで、肌が火照るようだ。

人間の肉片は、今のところ無い。死臭ばかりだが、まだ希望はある。不意に隣に、葉子が具現化した。

「見つけたわよ、真由美」

「! どこ?」

「もう少し奥」

すらりと伸びた手をあげて、葉子が奥を指さす。相変わらず、気配を探るのは葉子の方がずっと上手い。一安心した真由美は、洞窟の最深部へ足を踏み入れた。

 

酷い光景だった。だが、屠殺場も、他の動物から見ればこのような感じなのかも知れない。

最深部は僅かに広い空間になっていて、中央部十メートル四方ほどが水に浸かっていなかった。水に浸かってはいなかったが、代わりに血肉に浸されていた。死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体死体死体死体死体。エサ場で捕らえられたであろう動物は全て此処に運び込まれ、マーのエサとなったのだ。殆どが食い残されていて、白骨化しているのはむしろ少数だった。蠅の羽音が凄い。ゴキブリも物凄い数がはい回っていた。腐った屍油が水に流れ込んで、異臭を更に凄まじいものにしている。

生きている動物も少しいた。というよりも、生かしておいた方が長持ちすると、マーも学習していたのだろうか。

生存者発見。といっても、山猫だった。縛られていた山猫をほどいてやると、よろよろと身を寄せてきた。回復術を掛けてやると、安心したのか、大人しくなる。ぬるぬると滑る死体の山をかき分けて、臓物の奥に手を突っ込むと、糸でぐるぐる巻きになっている大型の鳥が出てきた。翼を噛まれていたが、多分命に別状無い。ほどいてやると、飛んで逃げようとしたが、羽を引きずるばかりだった。傷口が化膿しているので、回復術を掛けるのは危険だ。医療班に任せた方がいいだろう。

「消毒してあげないと駄目ね」

「そうね。 後は……」

葉子と真由美が同時に奥を見る。死体がうずたかく積まれた其処に、気配がある。自ら上がって、近づくと、甲高い声がした。

「く、くるなっ!」

足を止める。そのまま、出方を待つ。

子供の声だ。消息を絶った野生児ちゃんに間違いない。刀を収めると、真由美は両手を広げてみせる。

「マーは私が倒したわ。 もう安全よ」

「都会もんの言うことなんか信用できるかっ!」

真由美はきょとんとしてしまう。思わぬ言葉だった。別に嬉しくもない。腰を落として相手と視線を合わせると、小首を傾げてみせる。

「私、出身は北海道です。 それも僻地。 貴方と同じよ」

「う、うるさい、五月蠅いっ! 来るな、くるなあっ!」

「錯乱してるわね。 黙らせる?」

「もう、やめて葉子。 貴方ってば、本当に手加減しないんだから」

葉子くらいの霊になってくると、人間の生気を吸い尽くして一瞬で気絶させるくらいは朝飯前だ。勿論、滅多にやらないが。

蛆虫と臓物の山の中、蹲っているのは褐色の肌の女の子だ。赤尾さんよりももっと肌が健康的に黒い。髪の毛は男の子のように短く、整えている形跡もない。黒のランニングにカーキのハーフパンツと、今の年齢しかできない格好がその健康性を更に目立たせている。目が大きくて、磨けば可愛い子になるだろう。ただ、今は野性味がありすぎて、半分以上の人間に性別を間違われそうだ。

女の子は鉈の一種を手にしていて、それにはかなりの力が宿っている。身体能力もそれなりにありそうだ。野山を駆け回って鍛えているのは伊達ではない。将来は十中八九、近接戦闘強化型だろう。

しかし惜しむらくは、まだ相手の力が読めないと言うことだ。だからマーに喧嘩を売って、危うく喰われかけた。真由美に対して、身の程知らずにも武器を向けている。右足、股の辺りに大きな傷がある。背中から左脇腹にかけてもだ。まだ傷が塞がっている様子はない。相当にいたいはずである。恐怖でようやく意識を保っているのだろう。

真由美の無線がなって、女の子がびくりと体を震わせた。無線に出ると、自衛隊の士官だった。救援隊が、滝壺に到着したらしい。結構迅速な行動だ。ヘリを使っていない事を考えると、相当な練度である。

「さ、行きましょう。 お医者さんが来ました」

「来るなって、いってんだろっ! ぶっ殺すぞっ!」

ため息一つ。

少女には見ることも出来なかっただろう。立ち上がった真由美が抜刀し、鉈を一撃ではじき飛ばしたことを。唖然とする少女。刀を鞘に収める。どうにか自らを保つ事に成功していた少女が、耐えきれなくなり、泣き始める。限界だったのだ。

歩み寄って、抱きしめる。最初は恐怖に身をよじって暴れようとした少女も、真由美が回復術を使って傷を治してくれているのに気付くと、徐々に抵抗を止めていった。そして、抱きついて泣き始める。

多くの命が失われたが、その中で幾つかの命を助けることが出来た。泣きじゃくる少女の頭を撫でながら、真由美は僅かな幸せを感じていた。救うことが出来たとき、真由美は喜びを覚える。力は有意義に使うものだ。その有意義の定義が、真由美にとっては救うことであった。

ほどなく、滝壺に自衛隊が踏み込んできた。惨状に唾を飲み込む彼らに、少女の頭を抱えるようにして、真由美は振り返った。

「生存者救出。 状況終了です」

天井から血が落ちてきた。ぶら下げられた死肉から垂れたものだった。真由美の頬に、赤が伝った。

 

幸い少女の怪我は大したことが無く、命に別状はないと言うことだった。ただ、肋骨が一本折れていて、しばらくは運動を控えた方がいいという。鳥が消毒して貰うのを横目で見ながら、真由美は担架に乗せられて治療される少女の脇に腰を下ろした。

「大丈夫? 痛くない?」

「こんなの、へっちゃらだよ」

少し頬を染めて、少女がそっぽを向く。資料では、確か名前は日堂彩里(ひどうさいり)。十才。十才にしては少し発育が遅いが、それは仕方がないだろう。両親は確か事業に失敗してこの離島に流れてきた者達で、それで人間不信になっていたらしい。強引な借金の取り立てや、尽く裏切った周辺の人間達。淳子先生の過去を聞いている真由美は、心底から同情することが出来た。だが、同情だけなら誰にだって出来る。真由美に必要なのは、この子と正面から向き合うことだ。

真由美自身の怪我にも、すぐに手当がされる。どれも急所は外しているし、骨も折られていないから、二三日で直るだろう。体力の消耗が著しいが、一杯食べて寝てればどうにでもなる。問題はマーを凶行に走らせた者の存在だが、多分この辺りにはいないと、真由美は思う。痕跡がないし、葉子にも気付かれないのだ。それに、もし今の真由美でも気配を悟れないほどの敵が相手なら、どうにもならない。その際は、自分が盾になって、出来るだけ多くの人間を逃がす事を考えなければならないだろう。

手当の終わった山猫が、ぽんぽんと跳ねて森の奥へ消えていった。消えるときに、一瞬だけ真由美に振り返ったようだった。鳥はまだ治療が必要なので、しばらく村に預けるという。丁度村に大学の研究チームが来ているので、彼らに任せることが出来そうだ。怪我は大したことがないので、一月以内で森に離すことが出来るだろう。

問題は、この子だ。真由美の方をちらちらと伺っている彼女の目には、警戒と興味が争っている様子が、ありありと現れていた。

「な、なあ」

「うん?」

「さっきの、ビュンッて奴、俺の鉈をはじき飛ばした奴、どうやるんだ?」

「居合いのこと?」

「イアイっていうのか?」

興味津々に彩里が担架から身を乗り出そうとして、自衛官に抑えられる。実演して見せてもいいのだが、そうすると多分もっと興奮するだろう。完全に興味が勝ったらしく、彩里は続けざまに質問をしてきた。

「な、なあ、ほんとうに、あいつをやっつけたのか?」

「ええ。 大変な相手だったわ」

「ほんとか? すっげー。 俺、あいつには、全然歯が立たなかったのに。 ど、どうやって、やっつけたんだ? 凄い武器か? イアイかっ?」

苦笑してしまう。この子が弱いのではない。あのマーが異常だったのだ。多分並の能力者では、確実に返り討ちにされていただろう。不意に、彩里が悲しそうに顔を背けた。

「俺の友達が、いっぱい殺された」

「……」

「俺、森の中で一番強かった。 だけど、あいつには何も出来なかった。 逃げることだって、喰われる友達を、助けることだって出来なかった」

泣いているらしい。あの暗い洞窟の中で、友とも呼べる動物を目の前で食べられて、そして何も出来なかったのだとしたら。良く正気を保っていたものだ。

「強くなりたい。 俺、強くなりたい……」

静かに泣く彩里。今は泣くと良い。泣いても何も解決しないのを、知るのはもっと後でいい。

真由美のやり方は、零香先生とは違う。あの人は尊敬できる使い手だが、それを全て模倣するのが正しい訳ではない。

自衛隊が撤収を開始するという。調査が終わったし、敵の沈黙は確認できた。意外とこの部隊は多忙なのである。真由美は司令官に、少しの間彩里と一緒に此処に残ると告げた。彼は、そうかと、一言だけ呟いた。勿論、今回の件はこれで終わりではない。彩里は色々今後検査が必要だろう。それに森の中で一人放置しておく訳にもいかない。

その夜、真由美は島の隅にあるペンションを借りた。彩里は島ではかなり悪名が知れ渡っていたらしく、何処でも白い目で見られた。彩里が言った「都会者」とは、両親が憎んでいた本当の意味での都会の人間ではなく、島の住民達なのだと、すぐに分かった。マーを撃破した真由美がいなければ、石を投げられていたかも知れない。

包帯を何カ所かに巻いた彩里は、ベットの感触を不思議そうに確かめていたが、やはり精神的な疲労がピークに達していたのだろう。すぐに寝息を立て始めていた。村人にはずっと警戒の視線を向け続けていた彼女も、眠ってしまえば無邪気なものであった。強烈に母性を刺激される。

部屋を出た。携帯を開く。アンテナ三本。便利な時代になったものだ。

「こんばんわ、零香先生」

「ん、真由美か。 どうだった、仕事は」

「マーは予想の百倍近い戦闘能力の持ち主でした。 多分、人為的に力が加えられていたのだと思います」

沈黙。零香先生は少し考えているようだった。陽の翼が動いている可能性はない。状況から言って考えられない。彼らは数年の苦闘で充分に戦力を補充しており、リスクが高い日本に手を出す理由がないのだ。それだけが、唯一の吉事であった。随分強くなった今だって、真由美一人では古代龍を相手にするのは厳しいだろう。

「分かった。 どうやらまた動かないといけないかな」

「そうですね。 それと……向こうが良いって言ったらですが、私、弟子を取ることにしました」

「へえ、それはそれは。 何か教育面で分からないことがあったら、遠慮無く聞きにきなよ」

「勿論そのつもりです。 いざというときは、お願いします。 それでは、失礼します」

携帯を切る。この世界に入ってからもう決まっていたことだが、真由美は生涯、安定とか平穏とかとは無縁だろう。だが、別にそれで良い。

部屋に戻ると、彩里が布団をはね除けてしまっていた。かけ直してから、窓際に。優しい気持ちで胸がいっぱいになる。包帯が巻かれた手でブラインドを上げると、北海道のものに勝るとも劣らない、光害に全く侵されていない美しい夜空が現れた。

これからも、真由美は守る。出来る範囲内で、護れる相手を必ず守る。護る価値のあるものを、全力で見極める。そして、必要とあれば、誰であろうと斬る。

茨の道だ。困難な道だ。だが、真由美は決して負けはしない。此処まで来たのだ。零香先生と、淳子先生と、桐先生と、由紀先生と、赤尾さんから、色々なものを受け継いで。それを次の誰かに渡す義務がある。

力は流れる。師から弟子へ、そのまた弟子へ。

それは簡単に途切れてしまう。不変ではない。だが、真由美の目が黒いうちは、そうはさせない。

必ずや時代へつなぎ通す。それが今の真由美の、決意だった。

 

エピローグ、一筋の未来

 

精神世界。神々のいる所。

幸片が光の筋となって降り注ぐ複雑な模様が刻まれた巨大な壺の下にて、玄武が鎌首をもたげる。近づいてきた方角神達に気付いたのだ。

金色の龍。紅き巨鳥。蒼き龍。白き虎。五神が一堂に会するのは、久しぶりであった。

「どうした、皆でそろって」

「うむ。 実はな」

黄龍が言う。神子相争によって産み出された能力者達が、予想よりも遙かに優れた活躍をし、業績を残しているという事を。ひょっとしたら人類は、今までの不可避な破滅から逃れるかも知れないと言うこと。

「シミュレーションの結果は、まだ二%ほどに過ぎないが、望みはある」

「しかし、人間世界よりもたらされる幸片は全く減らないではないか」

「うむ。 安心するのはまだ早計だな。 だが、ようやく我らの悲願が成就するやも知れぬ」

黄龍が言うと、白虎が、青龍が、おおとうめき声を漏らした。今までは手探りで、希望さえ無かった。さまざまな事を試し、いずれもが失敗した。誰の心にも、諦めが色濃く浮かんでいた。努力は無駄なのかと、諦める神も出始めていた。

しかし、光はあった。闇の中から、希望が沸き上がってきたのだ。

人間世界の映像が、玄武の作り出した水鏡に映る。相変わらず雑多で、混沌としていて、利己的で、愚か。だが、それにも終わりが来るかも知れない。

「期待しよう」

「おお、そうとも。 期待しよう」

朱雀の言葉に、皆が唱和した。神子相争は継続する。それが人類の希望につながりうると分かったのだから。それが自分たちの希望につながりうると分かったのだから。

巨神達の目に光が浮かぶ。皆が見上げる空からは、まだまだ間断なく幸片が降り注ぎ続けている。

ひょっとしたら見ることが出来る、人類の希望の未来を、五神の誰もがその時夢想していた。

 

(白虎戦舞・完)