夜明けまでの混沌

 

序、神の憂鬱

 

夜空に五つの光源が発生した。それらは月を除くどの星よりも明るく大きく、月を含むどの星よりも美しかった。正体を知る者は殆どおらず、その半ばが戦慄し、その半ばが歓喜の声を上げていた。わずか一人を除いて。

冷たい無感動の中、立ちつくすのは太陽神。光源を作り出した古代龍ケツアルコアトルの創造主であり、その主人である。彼女の足下には、鈍く輝き無数の鱗に覆われた巨大な龍がいた。全長二十七メートル。翼を持つ蛇で、顔は若干ジャガーに近い。中南米の古代信仰において、生贄を要求しない数少ない神。「白き神」こと、ケツアルコアトルがこれだ。主人を頭に乗せたまま、翼持つ蛇は、自分が作り出した光球を、物静かに眺め続けていた。

日本や、西欧や、中東や、彼方此方から集めてきた負の力を体内にたっぷり蓄え、何人かの上位種の協力で完成した最強の古代龍。実力は現在休養中のアジ・ダハーカを凌ぎ、更に戦略級の超長距離爆撃能力を持つ。攻撃機能は「殲滅」と「爆撃」で切り替えることが出来、殲滅を用いると生物を根こそぎ特定範囲内から消滅させることが出来る。また、爆撃は殲滅よりも効果範囲がせまいものの、一定範囲内に原水爆に匹敵する熱と破壊をもたらすことが出来る。

有効射程距離は実に一万一千キロ。五千キロ以内なら、連射と半径三メートル以内に着弾させる超高度な精密爆撃が出来る。地球の半ば以上を覆い尽くす、超長距離攻撃網が、この古代龍の手によって完成したのである。勿論米国はその全土が射程距離に入っている。その気になれば、今から三時間で米国の全主要都市を人間ごとこの世から消し去ることも可能だ。……反撃がなければ、の話であるが。

だが、主要都市は滅ぼすことが出来ても、飛来する米軍のICBMを全て潰すことは出来ない。何しろICBMだけで四桁に達するのだ。ユルングと共同で処理に当たっても恐らく無理だろう。全面戦争になれば、確実に負ける。しかし、米国も道連れになる。特に、ニューヨークとワシントンの二大都市は完全に地図から消滅する。米軍の全面先制攻撃があった場合でも、それは可能だと既にシミュレーションが出ている。この状況で、充分だった。

世界大戦の勃発と新しい秩序の構築。新しい秩序の中で生き残る。それが当初の目的だった。だが、その作戦の失敗により、目標は下方修正せざるを得なくなった。痛恨の事態だが、それでも最終的な目標の遂行にはどうにかもっていけそうである。

交渉には相手に拮抗する力がいる。それが国家間や、組織間でのコミュニケーションにおける常識だ。力と言ってもそれは単純な武力だけではなく、技術や物資、人間の数であったりもする。そう言う意味で、今、陽の翼は米軍と交渉しうる材料を手に入れた。今後は、如何にして大統領と、その背後にいるパワーエリート達を交渉のテーブルに引きずり出すかの問題になってくる。

戦いの中、既に陽の翼の隊員およそ二千は、全てがオールヴランフ島に引き上げてきていた。作戦展開がこれ以上必要ないという事もあるし、今は戦力を集中しなければならないという事もある。女子供も当然のように多くいる。ケツアルコアトルに乗る太陽神の下では、彼らが喚声を上げ続けていた。太陽神は目を細める。守るべき者達を、今度こそ守ることが出来る喜びに。

米国との決着をきちんと付けない限り、この島に平和はこない。

そのためには、まだまだ血が流れる必要があるのだった。

「ケツアルコアトル」

「主君、何事か」

ケツアルコアトルは極端に短い喋り方をする。不要なことは一切口にせず、最低限の意志疎通さえ出来ればそれでいいと考えているようだった。この辺りは、自分の要素が少なからず入り込んでいるのに、不思議である。そんなに無駄が嫌いだろうかと、自問自答してしまう。

「砲撃の準備を」

「これ以上必要か?」

「場合によっては必要であろう。 今手を抜くことは、我ら陽の翼に属する皆の破滅に繋がる。 余は皆が死ぬ所など見たくはないでな」

「了解した」

狙いは、米国第七艦隊、及びその周囲に展開する米軍艦隊二つ。そして、M国にある非公式の米軍基地二つ。

もしも米国がまだ事態を把握していないようなら、つまり交渉に乗ってこないようなら、世界最強の戦力であるあの艦隊を、地上から消す。合計で人員およそ二十万がこの世からいなくなり、最新鋭兵器の数々が失われる。その結果、相手がヒステリーを起こす可能性もあるが、その時は全面戦争だ。

太陽神としてもその結果は避けたい。米国の指導者層がそこまでの阿呆だとは思いたくない。だが、常に最悪の事態を想定しておくのが、指導者としての勤めだ。いざというときは、皆を避難させなければならない。その方法も、確保はしてある。出来れば使いたくない方法だが、いざとなったら仕方がないだろう。

「フー。 太陽神、お疲れさま」

「うん? どうした、ガンガー」

耳元でガンガーの声がする。この時点での連絡と言うことは、何かある。すぐに臨戦態勢を整えるケツアルコアトルの上で、太陽神は腰を落として聞く態勢に入った。

「お客よ。 何処かのテロリストでしょう。 何の警戒も無しに、四十キロラインを越えてきたわ。 数は十五。 気配からして欧州人」

「うるさい蠅どもよの。 ナージャヤに処理させよ。 あの者もここの所失敗続きで、少しでも点数を稼ぎたいであろうしな。 機会を与えてやれ」

「御意。 フー、しかし本当に多いわね。 ここ数日だけで二十組織以上は潰したのじゃないの?」

「長期的な戦略もなく、ただ神の名の下に自爆テロを起こせば世界が自分の都合が良いように変わると思っているような阿呆共に、用など無いわ。 蠅は叩いて潰すに限る。 さっさと処理せよ」

太陽神には、時々人間の愚かさが分からなくなる。一体何処まで阿呆なのかと、問いたくもなる。

だが、太陽神が好きになったのも、同じ人間達である。

米軍がどんな行動に出るか分からない以上、今警戒レベルを下げる訳には行かない。部下達は交代して休憩に入らせているが、太陽神は恐らくこれから数十時間は眠れないだろう。

無言で星空を見上げる。先ほどケツアルコアトルが作り上げた光は、もう消えていた。夜風が吹く。頬を撫でる。囚われた者達や、命を落とした者達の事を考える。現実から精神が乖離して、ふらふらとさまよう。

やがて、事態は動くべくして動いた。侵入者を処理に向かったナージャヤが、妙な連絡を入れてきたのが一つ。もう一つは、交渉要求のライト点滅を行っている米軍艦船の接近報告であった。米軍の艦船については予想通りだ。しかし、もう一つの方が気になる。

一度地上に降りる。既に無線装置を、侍臣が用意していた。嫌な胸騒ぎを覚えていた太陽神は、単刀直入に聞く。

「報告は聞いた。 それは本当か?」

「彼らはそう主張しています」

「……証拠となるものは抑えたか?」

「はい。 書類に押されている判子は、詳しく鑑定しないと分かりませんが、ほぼ間違いなく本物です。 毒物反応、ウィルス、細菌反応は無し」

ナージャヤが困惑しているのが伝わってくる。太陽神も不可解だと思う。何故に、今頃英国がこんな交渉を持ちかけてくるのだろうか。確かに、EUが中国やロシアと一緒に、太陽神に対して交渉を持ちかけてくる可能性は考慮していた。しかし、英国が単体で、こんな秘密裏に交渉を何故仕掛けてくる。別に英国はEUの盟主ではないし、欧州随一の強国でもない。

「一度戻れ」

「使者はどうしますか?」

「帰らせよ。 生きて米軍の包囲網を突破できぬようなら、それはそれで構わぬ」

「了解しました」

罠を考慮してのことだ。太陽神は思惑を素早く巡らせる。幾ら何でも、英国が単体で今更世界の王となれる訳がない。そんな時代はとっくの昔に終わっているし、今後も来ることはあり得ない。だとすると、彼らの狙いは何だ。

未知は警戒すべきものであり、嘲弄したり侮蔑したりするものではない。戦場における未知は特に危険であり、今回の状況もそれに準ずる。英国の目的が読み切れなかった太陽神は、ケツアルコアトルの大きな頭の上で横になると、頬杖を着いて降るような星空を眺めた。

「……どうやら、まだ一波乱あるようだな」

太陽神に未来予知の能力はない。だが第六感は人間とは全く異なる次元で持ち合わせており、漠然とした不安には信頼が置ける。

まだ、勝ってはいないのだ。そう呟くと、太陽神は、想定できるさまざまな事態に備えて、頭を働かせ始めたのだった。

 

1,螺旋塔の入り口

 

実際にケツアルコアトルの攻撃試射が行われてからと言うもの、前線に配置されている米軍の司令部は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。

司令部の指示で艦隊の移動がすぐに行われ、地上軍の配備も即座に見直された。敵に居場所を把握されると言うことが、死に直結すると皆悟ったからである。ボタン戦争と呼称される近代戦では多かれ少なかれその傾向があるが、ケツアルコアトルのそれは極端すぎる。奴は呼吸するICBM発射装置であり、しかも連射が効き、正確無比な攻撃を可能としているのだ。

手遅れになる前に、攻撃をするべきだという意見も当然のように提出された。しかし戦略研究室が、もし攻撃を仕掛けた場合、最終的に勝利を収めることが出来る反面、ニューヨークとワシントンは確実にこの世から消えて無くなるという結論を出した。それ以来、同様の意見は出てこない。

もし、事前にICBMを打ち込もうとして、それが撃墜されていたら。そしてそれを全国に生中継されていたら。混乱はこの比では無かっただろう。そんな簡単なことに、皆が気付くのにも、随分時間がかかっていた。

司令部自体も移動し、四十キロラインに配置されていた兵力もかなりが移動した。混乱に乗じて陽の翼が攻撃を掛けてくるような事はなく、むしろ活発に動いたのはM国に潜入しているテロリスト達だった。十を超すテロリストのグループが四十キロラインを越えたことが確認されたのだが、彼らのただ一グループさえも二度とその圏内から出てくることはなかった。ブラックホールのシュワルツシルト半径と化している四十キロラインは、今も貪欲に人命を啜り続けていた。

一方で、明るい話題もある。米軍が強硬姿勢を崩し、陽の翼に交渉を持ちかけたという話が出始めている。陽の翼としてもそろそろ落としどころと考えているのは間違いなく、交渉がまとまる可能性は高い。上手くいけば、この戦いは、終わる。その出口が、急速に見え始めていた。

情報は勿論、ベースで大人しくしている真由美の元にも入ってくる。この間の戦いで大失態を演じた彼女は、反省の意味もかねて、自室で大人しくしていた。それでも定期的な会議には引っ張り出されるし、そこで嫌でも情報を耳にすることになる。日本にいた頃と違い、闇夜の中で手探りしながら戦うような不安感は無いのだが、その代わり巨大すぎる敵の存在が嫌でも見えるので、恐ろしい事に代わりはない。

前回の戦いから二日が過ぎた。とうとう冬休みが終わってしまった。この辺りは大島さんがごまかし工作をしてくれると約束してくれているが、憂鬱なのに代わりはない。常に戦闘のことを考えなければならず、それが無い日も学校の勉強に心血を注がなければならない。真由美はそれほど優等生ではないから、勉強をしなければ露骨に成績が落ちるのだ。

別に学業など気にすることはないと一度零香先生に言われたことがあるのだが、真由美としてはどうにか頑張りたい。これは自分が戦闘マシーンではないと、自分自身に抗議したいという欲求の現れではないかと、自己分析している。

虚しい自己分析の結果だが、気にすることなく今日も苦手な物理の教科書を開く。一応宿題はもう終わらせてある。だが教師がいない分、教科書の把握はやはり難しい。用意して貰った、小さな木机に教科書とノートを広げて、勉強勉強。

「高円寺さん、いる?」

「あ、はい。 なんですか?」

顔を上げると、大島さんだ。笑顔が素敵で、どうやったらあんな大人の笑顔を作れるのか、真由美としては是非前々から聞いてみたいと思っていた。自衛隊でも屈指の俊英だと言うことだが、能力の高さは間近で何度も見てきている。一番驚いているのは、この状況下で殆ど焦りを見せていないことだ。

「ちょっと用事があるのだけれど、一緒に来てくれないかしら」

「はい、今準備します」

せかせかと勉強道具を仕舞う。赤尾さんに言われたのだが、あのケツアルコアトルの火力が、此処に飛んでくる可能性はほとんど無い、という。理由は既にデモンストレーションを行ったことで、もし米国の動きが鈍ければ、第七艦隊を塵にする位のことはするかも知れないが、無差別攻撃にはまだ出ないだろうとも。

このペンションは敵に把握されていないし、把握されていても周囲には陽の翼の協力者である住民が山ほど住んでいる。彼らごとこのベースを消し飛ばすのは、今の陽の翼にとって損だ。能力者が攻撃を行ってくる可能性はあるが、陽の翼の象徴とかしつつあるケツアルコアトルの火力を味方に向けたとなると、確実にイメージ悪化に繋がる。それは陽の翼にとって致命的なのだという。

大島さんが動揺していないのは、それらの事情を把握しているからだと、真由美は分析する。実戦経験も少ないのに、これだけ複雑な戦略的状況を把握しているのだから、大島さんはやはり凄い。真由美はこれだけ半強制的な戦いに繰り出されて、ようやくその意味が分かってきたような状況である。大島さんの潜在的な能力の高さは、嫌と言うほど分かる。

二人で車に乗る。先生達の半分はまだ寝込んでいて、残り半分は米軍の司令部に行ったり特殊部隊の隊長に会いに行ったりと大忙しだ。しかし、真由美が普通の人と二人だけでM国を移動するのは始めてであった。大島さんの運転は兎に角静かで、テクニックで騒がしさをカバーしているケヴィン氏の運転と真逆だった。乗っていて全くストレスがない。

「どこへ行くんですか?」

「第七艦隊司令部よ」

思わず身を浮かせかけるが、大島さんは笑顔を崩さなかった。

三十分ほどで港に出る。軍艦が何隻か泊まっていて、仏頂面で大きな銃を構えた兵隊さんが山ほど彷徨き回っていた。制服から言って、半分が米国軍、半分がM国軍だろう。車を彼らの駐車場に預けて、船に乗り込む。気になったので、聞いてみる。

「零香先生は、みんなは知っているんですか?」

大島さんは応えてくれない。此処で引き返すべきではないかと、真由美は思った。今の実力なら、それも可能である。この位の数の兵士なら、実力で追い払える。大島さんを疑いたくはないが、この状況、ろくでもないことの片棒を担がされようとしているとしか思えなかった。

子供向け漫画の主人公は幸せだ。仲間を疑わなければ、絶対に報われる。愛とかいうものは絶対に何かを救うし、血縁は最強の力を確実に継承する。真由美は、そういった虚構の世界での約束事と、現実を混同するほど、もう幼くも愚かでもない。

足を止めた真由美。一応肥前守はもってきている。無言での抗議をくみ取ったのか、大島さんは振り返って笑顔で言う。

「大丈夫。 決定権は貴方にあるから」

「……話を、聞くだけです」

以前桐先生に聞いたのだが、洗脳の類は能力者の力を著しく弱めるという。その話の存在が、今は救いだ。真由美を利用するつもりの場合、その手は使えないと分析できる。それに罠を張られた場合には、却って先生達に対する信頼感が働く。あの人達なら、最善の手を打ってくれるはずだ。真由美自身でも、サイキックの二人や三人ならどうにか出来る。本気でやる気ならば、今なら戦艦一隻を実力で占拠する事も可能だ。

自分に言い聞かせながら、最大限の警戒を払いつつ、精神を落ち着かせていく。何、この程度のこと、あの古代龍や陽の翼の能力者達との戦いと比べれば、何でもないではないか。そう言い聞かせている内に、心の臓は一定のリズムへ戻り始めた。船が動き始める。思ったよりずっと早い。哨戒ヘリも飛び回っていたが、やがてそれもいなくなった。

三十分ほど経つ。無線を使っても良いかと大島さんに聞くが、良いと言われたので少し驚いた。しかし、すぐに使って良いと言われた理由が分かる。届かないのだ。無線からは雑音が聞こえるだけで、携帯も結果は同じだった。ため息をつきながら無線のスイッチを切ると、大島さんがくすくすと笑った。むっとしかけて、すぐに萎縮してしまう。

この間大爆発してからというもの、真由美は怒りに対してとても臆病になっている。あれほど言い聞かせていたのに、瞬間的にとは言え自分の制御が出来なくなったのは事実で、それが憎悪に対する恐怖を産んでいたのだ。まだ、この人が裏切って、何かろくでもないことをさせようとしているとは限らないではないか。そうしたら、真由美はまた、心の制御が効かなくなってしまうかも知れない。それは、とても怖い。

船の揺れはとても小さく、風を切って走っているのだと分かる。巨体なのにたいしたものだ。ちらりと部屋から顔を出すと、兵隊さんがすぐに構えなおして、戦闘態勢を取ったので、軽く頭を下げて部屋に引っ込んだ。これでは、部屋からは出して貰えないだろう。

ため息しか出ない。明るくなれる要素がない。特殊部隊の兵隊さん達とはとても仲良くなれたつもりだったので、この状況はとても辛い。兵隊さん達はガラス玉みたいな目で全く感情を真由美に向けてこないからだ。

特殊部隊の兵隊さん達は、とても親切にしてくれた。それが激しい戦いを何度も一緒に経験し、真由美の事を認めてくれたからだとは分かる。認め合う要素があって、始めて人は対等の仲間や友になれるのだ。それは分かっている。分かっているけれど、こうも拒絶されると、やはり悲しくなる。

思い出す。特殊部隊でも、一部の年かさの人達は、真由美がウブなのを良いことに冗談で済む範囲内のでセクハラを随分してきた。とても困ったのは事実だが、それも彼ら流のコミュニケーションの一種だと分かっている。だから、全くコミュニケーションを取ることが出来ない今の状況は、辛いのだ。

ふと、不意に思い出す。

そういえば、自分からコミュニケーションを取ろうとした事が、北海道にいた頃、一度でもあったか。

零香先生と会う前の、自分はどうだった。

家族とすら上手くコミュニケーションが取れない、極端に内気な少女だったではないか。弟を避けるようになったのはいつからだ。中学の時にはもう関係が冷え切っていたはずだ。

弟は愚かだった。悪友に勧められたシンナーを手始めに、徐々にドラッグ類に手を出して、気が付いたら誰にもどうにもならなくなっていた。家には帰ってくることさえ無く、孤独に起因した暴力を繰り返しては少年院に出たり入ったり。札付きのワルに落ちた弟を、本来なら自分が許して守らなければならなかったのに。

周囲の先生達は、みんな怖い。年齢は数才しか違わないから、本来なら「先輩」とでも呼ぶべきなのを、「先生」と自然に呼ばざるを得ないほど存在が違う人達。その人達に揉まれて育てられて、覚えたのは相手の殺し方と壊し方ばかり。だというのに、いつのまにか、こんな風に考えが変わっていた自分。多分、これはあの人達が教えてくれたことではない。自分で、反発の中で作り出していったものだ。

葉子はすぐ側にいるのに、なにも言わない。これは、真由美が結論を出すべき事だと、知っているのだろう。

大丈夫、此処は自分で判断して良い。自分の中で育っているものはある。それだけは、あの先生達にも負けないはずだ。だから、少しでいいから自分の判断を信じろ。そして、自分の行動に責任を持て。

今、暴れるのは簡単だ。この船くらいなら、簡単に乗っ取ることが出来る。しかし、今はそれをするときではない。痛恨なのは、先生の誰にも状況を伝えられないことだが、どうにかするしかない。昔話ではあるまいし、パンを撒いて退路を造るなどと言う事は出来ないので、此処は力を温存するしかない。

「ちょっと横になります」

「! ええ、まだ先は長いし、好きにして良いわ」

「有り難うございます」

ぺこりと礼をすると、部屋の隅にあるソファに転がって、目を閉じる。周囲に対する警戒を怠らないまま、出来る限りに体を休める。大島さんが目を細めるのが分かった。警戒度を上げている。ひょっとすると、このまま連れて行けば、真由美をどうにか出来る必殺の策があったのかも知れない。しかし、零香先生と渡り合えるような使い手を、米国が保有しているとは思えない。保有していたら、必ず戦いに投入しているはずだ。

ともかく、全ては着いてから。真由美は腕を枕に、そのまま寝息を立て始めていた。

 

一時間もしないうちに、船は停まった。言われるまま、肥前守を掴んで外に出る。船と船の間に架橋が掛けられており、ストレス無く渡ることが出来た。向こうにあるのは、案外小さな船だ。全長は二百メートルほどだろう。米軍第七艦隊旗艦である、揚陸指揮艦である。さっき大島さんが写真を見せてくれたので間違いない。船の向こうには、ある程度の距離をおいて展開している艦隊が見えた。勿論、巨大な空母の姿もある。

船に乗るとき、武器を取り上げられるかと思ったが、意外にも何もされなかった。安心するのは早い。米軍は今回の戦いで、能力者や古代龍の恐ろしさを嫌と言うほどその体で味わった。もし真由美にろくでもないことをするつもりなら、それ相応の準備をしているはずだ。肥前守を手にしていても、安心は出来ない。

ざっと気配を探った所、船には千人以上がいるようだった。陸はもう遙か水平線の向こうで、いざというときは船を乗っ取るしかない。その場合は艦長か他の重要人物を人質に取るしかなさそうだ。武装した兵士に前後を囲まれて、艦橋へ歩かされる。エレベーターを乗り継いで、複雑な通路を抜けると、案外狭い空間に出た。オペレーターが何人も張り付いている機器類と、デスクについて色々着いている中年男性。物凄く偉そうな階級章をつけている。照明も温度もコントロールされているようで、肌に対する感触は悪くない。

前を歩いていた兵士が鋭い動作で敬礼して、おじさんに何か英語で話していた。今日は出がけに翻訳の術を掛けて貰わなかったし、何を言っているのか分からない。そっぽを向くふりをして、周囲を観察。此処なら、その気になれば充分実力で占拠できそうだ。場所も覚えた。やがて大島さんが肩を叩き、笑顔で翻訳してくれる。

「応接室で話したいそうよ」

「まず、話の内容を聞かせてください。 場合によっては、此処で戦っても構いません」

「あら、それは困ったわ。 ちょっと待って、交渉してみるから」

あくまで笑顔を崩さず、大島さんが言う。しばし英語でのやりとりが続いた。護衛の兵士達と、真由美の間で、電気に似た緊張感が走る。彼らもプロの兵隊である。真由美が場合によっては殺る気だと、敏感に感じ取ったに違いない。

司令官らしいおじさんは、物凄く嫌そうにため息をつくと、大島さんに耳打ちした。相手が子供だと思ってなめてかかっているのが見え見えだ。同じ米軍の司令官でも、随分色々な人がいるものである。戦闘態勢を既に取っている真由美に、大島さんは言う。

「言うことを聞かないと、以下自主規制。 要約すると、人質がいるって言っているのだけれど」

「……!」

誰のことだ。リズさんは確か来る前に由紀先生と一緒に出かけていたから違うはずだ。他の自衛官の人達は、人質として有効だと考えられない。

それにしても、此処まで下劣な事態だったとは。米国は一枚岩ではないと聞いていたし、実際に動かしているのはパワーエリートという巨大資産階級だとも聞いていたが、こんな腐食が中枢部にあったとは。

前に桐先生に聞いたのだが、古代中国、三国時代の曹操は、有能であれば賄賂を取るような人間でも召し抱えろと言う布告を出していたという。それと同じなのか。或いは、人事にまで深々とパワーエリート達の思惑が絡んでいるのか。思考を目まぐるしく進める真由美に、更にカードが突きつけられる。

「ええと、幸広君、だっけ。 彼らは此処から随分離れた場所に、彼を捕縛してあると言っているわ」

弟の名が、大島さんの口から飛び出していた。あまりにも唐突だったので、反応が少し遅れたほどである。

「……っ、卑怯ですっ!」

「私に言われても困るわ。 それで、彼の話を聞くの? それとも此処で彼を殺すの?」

他人事のように語る大島さん。笑顔は崩れない。……妙な違和感。そういえば、大島さんは、いつも必要とあれば必ず最前線で体を張って戦ってきた人ではないか。事態の把握には物凄く積極的だったとも聞いている。これは、つまり。

「分かりました、話を聞かせて貰います」

「素直で助かるわ。 じゃ、待っていて、話を付けるから」

「仲間だから」信用する等という幼稚な思想を、真由美は持ち合わせていない。だから、まだ考えを翻す訳ではない。

ぎゅっと肥前守を握りしめる。促されて、艦橋を出る。エレベーターで深く深く降りて、案内されたのは鉄の箱のような、何処にも逃げ場のない部屋だった。ドアは分厚い鉄製だ。素早くドアを観察するが、術の類はかかってない。カギの構造も頑強だが単純だ。これならば、望む所だ。後は毒ガスなどの身体能力ではどうにもできない兵器を警戒すれば大丈夫である。

部屋にはテレビ電話が置かれていた。兵士が二人一緒について来て、仏頂面のより背が高い方がそれを操作する。部屋の出口に立っている司令官と合わせて、三人が一緒にテレビ画面に敬礼した。

画面に出てきたのは、声だけである。画面には砂嵐がかかったままだった。変声機を使っているのか、声のトーンもおかしい。随分用心深い相手である。それにしても、わざわざ真由美を拉致してこんな事をしている理由は何だ。隣で、大島さんが同時通訳してくれる。

「わざわざ来て貰ってすまないな、ですって」

「客を案内する態度では無いと思います」

「これは手厳しいな。 しかし、立場をわきまえた方が良いだろうな、売女が、ですって」

一時期、中年男性向けの週刊誌に、女子高生は皆援助交際をしているとか書いているような代物があったと聞く。そんな雑誌を真に受けたおじさんに、セクハラを受けたかのような、腹の底からせり上がる不快感に真由美は掴まれていた。

陽の翼の人達と戦って来たから分かる。彼らが戦術上では容赦がないが、本当にフェアな生粋の戦士達だと。一緒に戦った米軍の特殊部隊の人達だってそうだ。彼らのボスであるユンカートさんだって、好感が持てる人だ。それなのに、一番上にいる人達が、必ずしもまともではないというのはどうなのだ。能力主義だというのは見てきてはいるが、それでも腐ってしまうと言うのか。

真面目に怒っている真由美に、大島さんはくすくす笑いながら言う。どうにか、この人の考えている事が分かり始めたから、それに腹は立たない。

「それで、高円寺さん、どうするの?」

「話を進めるように言ってください」

「はいはい、そうね。 ……貴様に要求するのは一つ。 会談の場に同席させるから、太陽神を暗殺しろ、だそうよ」

その言葉で、今の状況を分析する。

真由美に対するこの行動、明らかに公式のものではない。もし公式であれば、真由美などではなく零香先生に、大統領か高官が頼みに来るだろう。真正面から。つまり、米国は現在陽の翼との和平に傾いていて、それを面白くないと思っている人達がいると言うことだ。五分ほどでその考えに到ると、真由美は一人なるほどと納得していた。

弟の命は、勿論惜しい。それに対しての怒りは、ふつふつと胃を焼いている。だが、今は冷静になるときだ。この間の失敗と、死線を潜り続けた経験が、真由美を急激にタフに育て上げている。

つまりこの人達のもくろみは、太陽神を暗殺して、主導力を失った陽の翼を一気に殲滅すること。歴史の闇に屠り去ることだ。それがどういう利益を生むのかは、今は後回しだ。もっと材料をそろえて、じっくり考えないと結論は出ない。だから、今は分かる所から片づける。

先ほどの態度から言っても、大島さんは、恐らく内偵をしているのだろう。もし彼女が本気で真由美を揺する気なら、もっとえげつない手をとっくに打ってきているはずだ。その辺りは、一緒にいたのだから分かる。

そしてこのテレビ電話に映る影、もしくはその後ろにいる黒幕は、多分核兵器発射を支持していた人ないし人達なのだろう。本当なら、真由美などは顔を見ることも出来ないような超VIPだ。だが、もくろみを把握してしまうと、むしろ同情すら沸き上がってくる。

「嫌だと言ったら、どうしますか?」

「君の弟は鮫の餌だ、そうよ」

「そうなったら、まずこの船の乗組員全員を殺して、いずれ貴方も必ず殺しに行きます」

さらりと、そんな過激な言葉が口から出てきた。多分、周囲の兵隊達も、その意味を悟ったはずだ。緊張が一気に発火点近くへ行く。大島さんは相変わらず肝が据わっていて、笑顔を崩さないまま、翻訳する。テレビ電話の向こうの影は、咳払いしてから、吐き捨てた。

「小生意気なガキが……! 後悔するなよ、ですって」

「……交渉決裂、という事でよろしいですか?」

肥前守の鯉口を切る。躊躇はしない。

真由美は、もし陽の翼との和平がなるなら、それを良しとする。二千人の命が救えるなら、弟には犠牲になって貰うつもりだ。彼には、いずれ地獄で謝る。それが、現実的な考え方。数千の人命と、結局一度も姉らしいことをしてやれなかった弟の命。本来天秤に掛けては絶対にいけないものだが、掛けるのであれば比重が傾く方向など決まっている。泣くのなんて、後で幾らでも出来るのだ。

この部屋を制圧するまで十秒。さっきの艦橋に到達するまで、エレベーターで潜っていた時間を考慮しても、三時間はかからない。

真由美の心が、どんどん醒めていく。ドライアイスのように冷え切っていく。不思議だった。怒っているのに、却って冷静になっていく。周り中銃をもった兵隊さんばかりなのに、全く怖くない。つい数ヶ月前は、変質者が怖くて夜道でびくびくしていたのに。

張りつめた空気が、炸裂しようとした瞬間だった。軽く手を叩いた大島さん。腰を落としていつでも抜けるように構えていた真由美と、銃を撃つ態勢に入っていた兵士達が、一斉に彼女を見る。

「まだ話は終わっていないみたいよ、高円寺さん」

「何ですか?」

「ええとね、少し言い過ぎた、冷静に話がしたいって言っているわ」

どうしてここで暴発を抑えるのか。大島さんの狙いが一瞬分からなくなるが、疑問もすぐに氷解する。

刀から手を離す。兵隊さん達も、ほっとして銃口を少し上に向けた。激発が回避され、不機嫌そうにテレビの向こうの影が言う。細かい条件の交渉をしたいそうである。真由美としてはこんな話に乗る気はない。だが、大島さんの狙いが分かった以上、此処は乗ったふりをしておくのが得策だ。

大島さんがテレビ電話から垂れ流される条件とやらを細かく報告してくれる。聞いたこともないような金額や、最新の化粧品、ベンツ、別荘、ポスト、美形のロックスターとの関係を取り持つなどというものまであった。半ばは耳に入った時点で逆側へ抜けていく。報酬には、どれも興味を持てなかった。

今は機会を待つ。時間を稼ぐ必要があった。幸い、相手は十五の、もうすぐ十六になる程度の小娘に、ベンツやら最高級の化粧品やらを暗殺のエサとしてちらつかせるような世間知らずだ。真由美でも、時間稼ぎはどうにかなりそうだ。どうにもならない部分は、大島さんがサポートしてくれるはず。

それに、今の反応で分かったこともある。この黒幕の人脈では、太陽神を倒すのに他に適した人材がいないと言うことだ。いるとしても、ピンポイントで確実に仕留めるような能力者の持ち合わせがないのだろう。何だか、底が知れてしまう。確かに真由美はピンポイントでの突破能力を持っていて、それで格上の人に大きな打撃を何度か与えてきた。だがそれは必ず格上の人の支援があって出来たことで、真由美一人では無理だ。まして相手は太陽神。直接会ったことはないが、あれだけの使い手達を心酔させ、世界最強の名を恣にしている人だ。暗殺をしようとした瞬間に察知され、古代龍のエサにでもされるのがオチである。真由美一人では、よほど条件が重ならない限り絶対に無理。

時間稼ぎに乗る。大島さんを通じてふっかけてやる。どれくらい時間がかかるのかは分からないが、もし大島さんの行動が真由美の勘違いだった場合をも含めて、この状況ならば大丈夫そうだ。真由美自身は。上手くやらないと、弟が何をされるか分からない。

少し安心してくると、別の不安が出てくる。自分自身の安全はどうにかなりそうだが、弟の危機には代わりがないのだ。時計を見る。船に乗ってから、二時間が経過していた。

 

米軍のベースに呼ばれて意見を聞かれていた利津の元に、携帯でメールが入ったのは、昼少し過ぎであった。相変わらず機嫌が悪い利津だが、それも改善されつつある。零香が以前提案してきた、極めて危険な「ICBMを撃墜する戦術」も使う必要が無くなりそうだし、此処の司令官も話を聞くようになってきたからだ。

朝から色々と戦略的な話をしていて、昼に小休止。その時、メールの着信に気付いた。

メールの主は大島美智代さん。時間差でメールを送信するシステムを使って、送ってきたらしい。内容は、かなり腹立たしいものだった。隣でタバコを吸っていたケヴィン氏が、利津の眉が露骨に寄ったのを見て、表情を切り替える。

「何だ、何かあったのか」

「あったも何も。 戦いが一段落したと思ったら、早速権力闘争を始めたバカがいるようですわ」

大島さんのメールは単純明快で、彼女の弟も事件に関わっていることを露骨に示していた。既に大統領直接指揮下の部隊が動いているらしく、真由美がそれに巻き込まれたようである。ついでに、その家族も。

メールが続けてくる。今度は大島弟からだ。彼は現在、ユンカート氏と共に行動しているらしく、利津と淳子に協力を要請している。リズはもう既に特殊部隊で保護したらしく、其処だけは安心できるが、不安要素の方が遙かに大きい。ケヴィン氏にもメールの文面を見せながら、利津は舌打ちしていた。

「これは、厄介ですわね」

「ニードヘッグだと! 本当だとすると、確かにやばいな」

「早めに対策を練らないと、真由美も助かりませんわ」

携帯を乱雑に閉じると、利津は司令官に軽く事情を話し、基地を後にする。ケヴィンも実戦態勢に心身を切り替えて、小走りで利津の後を追いかけてきた。車に乗り込み、淳子と合流すべく、ベースに戻る。早めに協議しないとまずい。

ベースに着くと、淳子が既に待っていた。メールで連絡を入れておいたのだ。零香はまだベットから動かない方がいいので、自室で携帯を開いて話を聞いている。桐と由紀はびっこをひきながら、会議室に出てきた。出かけていたリズは既にユンカートの配下が保護している。

状況は悪いが、絶望的な程ではない。淳子が会議室のテーブルにつきながら言う。

「なんや、大変な事になっとるみたいやな」

「冗談じゃありませんわ。 折角全てが丸く収まろうとしていたっていうのに!」

一番広いホールにベースの全員を集めて状況説明。大島姉弟がいない現在、指揮を執るのは利津と淳子になる。零香は動けないし、桐も由紀も今回は裏方だ。だから、指揮を執るのは最前線に立つ二人になる訳であり、意義を唱える者はいなかった。

米軍の内紛というだけなら、まだ問題は小さい。重要なのは、真由美を巻き込んだ側に、少々厄介な人間がついていると言うことだ。この間桐を襲撃した謎の実体化まがつ神がいたが、その操り手である。戦いの後、幾つかの情報をすりあわせて判明した。欧州にいる数少ない能力者で、英国に絶対の忠誠を誓っている変わり者として知られる男。世界でも屈指と言われる暗殺特化型能力者。ニードヘッグ。北欧神話の邪悪な巨龍の名を持つ男だ。

彼の一族は代々王室お抱えの能力者として動いていたそうで、零香の銀月家のように特殊な交配技術で稀少な能力者の才能を保存していたらしい。しかもこの人物、対能力者戦闘もかなりのレベルでこなすことが出来るらしく、超一流の能力者を仕留めたこともあるという。そう言った意味でも同種の能力者の中では抜きんでている。

現代の当主であるニードヘッグは典型的な猟奇殺人鬼で、英国の利益に反する相手を九割以上の確率で仕留め続けた実績を盾に、ホームレスやスラム街の住人を快楽のために殺し続けており、既に三百人以上を殺しているとも言われる。

ただ、このニードヘッグ、名前は世界中で知られているのに反し、顔が全く知られていない。多分淳子やサイレントキラーと同じくらい情報の機密性が高い。逆に言えば、国に所属してその支援を受けていなければ、とうに仕留められていただろう。

ケヴィン氏と、ベースに残っていた自衛官達と共同し、素早く周囲に連絡し、情報を集めていく。どうやら最も積極的に動いているのは、パワーエリートの一人。軍需産業に関係が深い人物で、第七艦隊の司令官は彼の息がかかっているらしいこと。どうも太陽神の暗殺をもくろんでいるらしいこと。勿論、そんなに露骨な情報を引っ張ってくることは無理だが、今まで最前線で築いた信頼を用いて断片的な情報を集めて整理していく内に、そういった事実が浮かび上がってきたのである。英国も一枚絡んでいることは疑いなく、大島姉弟の動きからして、日本の政治家にも一枚噛んでいる者がいるだろう。しかも、かなりの大物だ。

「それにしても、どうしてこんな……」

「折角核戦争が回避できるのに、一体何を考えているんだ!」

自衛官達が義憤に駆られている。利津は彼らと一緒になって義憤に駆られている訳にはいかなかった。考えなければ、本当に最悪の事態になりかねないからだ。

タカ派がこれだけ強硬な策に出ると言うことは、米国は陽の翼との和解に本格的に傾いたと言うことなのだろう。確かに、まともな思考の持ち主なら、そう傾くのが当然だ。だが、翻って、軍需産業の面から見たらどうなのだろうか。今の世界情勢は、米国の軍需産業にとって、望ましい事態なのだろうか。

今は平和すぎる。平和すぎるのは何故か。米国が強大すぎるからだ。米軍が弱体化し、世界中に戦乱の嵐が吹き荒れればどうなるのか。

米軍の兵器は優秀だ。例え世界の絶対覇者たる地位から米国が転落したとしても、その圧倒的な性能に衰えが来る訳ではない。世界中に戦乱が巻き起これば、米軍の兵器は大活躍する。国内でも売れるし、海外には更に高値で売りさばくことが出来る。米国は資源も人材も豊富で、一時的に世界の覇者から転げ落ちても自力で再び這い上がることが可能だ。その上、二線級の埃を被った兵器を、今以上に効率よく処分し、いつのまにか再び世界は更に強大化した米軍に握られることとなる。

或いは、米国による更なる一国主導ではなく、単なる金儲けが目的かも知れない。パワーエリートの中には、一国の経済力を凌ぐ金を動かせる者も少なくはないのである。

そして、そのパワーエリート達の、大統領のような纏め役ではない真の頂点に立てるとしたら。数千万の人命など惜しくはないと考える人間が現れるのは、不思議ではないのかも知れない。そのような人間には、猛り狂った陽の翼の反撃によって、ニューヨークやワシントンが、其処に住む数千万の人間もろとも消え去っても惜しくはないのだろう。

自分の価値観に従って恥知らずを罵倒するのは簡単だが、現実的にそれに対処する方法を考える方が先だ。

ユンカート氏から連絡が入る。政府高官の間で激しいやりとりが行われているらしく、第七艦隊内部でも混乱が発生しているそうだ。第七艦隊司令官は混乱を収めようとしているようだが、何隻かの艦では造反行動が発生しており、特に空母ニミッツは全く身動きが取れない状態だそうである。

ニミッツ内部で奮闘しているのは、以前オールヴランフ島上空戦で善戦したサムスンである。ニミッツ内部では司令部所属の人間とパイロット達がバリケードを挟んで睨み合いをしているそうで、パイロット達を束ねるサムスンが一歩も退かず、機能を麻痺させているそうである。ただ、幾つかの艦では司令部主導の行動が進んでおり、既に実戦態勢に移行しつつあるという。

一方で陽の翼では動きが見られない。というよりも、今は恐らく現在大統領サイドと本格的な交渉に入っているはずで、最悪の状況を想定すると、米軍内部の混乱を把握していない。

タカ派が何をもくろんでいるか、具体的なレベルではまだ分からないが、このままだと想像を絶する混乱が生じる可能性が高い。利津は思わず舌打ちしていた。折角苦労して大混乱の未来を回避したというのに、無能な味方がそれをぶちこわしにしようとして下さっているのだから。有能な敵よりも無能な味方の方が怖いとは良く言うが、その実例を味わうことになればぞっとしない。

タカ派の直接的な目的として、一番考えられる事としては、太陽神の暗殺だろう。真由美とニードヘッグを使うのか、或いはニードヘッグが事態をコントロールしていて、暗殺任務に有利なので真由美を巻き込んだのか。さまざまな可能性を想起し、一つずつ潰していく。ひっきりなしに入ってくる情報を素早く整理して、頭の中で練り上げなおしていく。

多分、第七艦隊側としては暗殺自体は成功してもしなくてもいいはずだ。成功すれば混乱する陽の翼に総攻撃を仕掛ける口実になるし、失敗すればお望み通りの展開となる。ただ、利津の見たところ、太陽神のことだから、もし下手な陰謀を仕掛けられたら、彼らの予想の更に上を行く凄まじい報復を仕掛けかねない。バカ共はそれで自業自得の末路を迎えるにしても、他の存在に散々迷惑がかかる訳で、回避するのが望ましい。そして、努力次第では回避できるだけの力が、利津には備わっているのだ。

問題は、ニードヘッグや、英国が何を考えているか、という事だ。敵に複層的な構造がある場合、その動きを読むのはとても難しい。ひょっとすると、ニードヘッグは本気で太陽神を殺すことを考えているかも知れない。噂の太陽神がやすやすと倒されるとはとても思えないが、欲や功名に駆られると、人間は時々猿よりも頭が悪くなる。

思考を進める利津。徐々に敵の思考を絞り込み、目的へと肉薄していく。桐に時々意見を聞いて補填しながら、今度は敵の戦力分布に思考を馳せる。力関係はどれくらいなのか、計画をどの程度実行できそうなのか。集めた情報から、類推していくしかない。それをただの妄想に終わらせるか、実戦で役立つ予想データに変えるかは、利津次第だ。責任重大である。

「な、なあ」

「何ですの?」

自衛官の一人が、うわずった声を上げたので、腕組みして思考を練っていた利津は思わず睨み付けていた。

「俺達は、一体どうすればいいんだ。 こんな状況、思考の限界を超えてる。 どうしたらいいのか、全然わからねえよ」

「……私たち、小学生の頃にはもう、この程度の決断は毎日のように強いられていましたわ。 情けないお声をお出しにならないでくださいまし」

全くの事実を、ただ淡々と告げる。ツインテールの髪をひょこひょこ揺らしながら、利津は目に炎を宿す。

「弱音を吐く前に手を動かす! 口を動かす! 耳を働かせる! 責任が重いのは、祖国の自衛に貴方達が果たす役割が大きいからですわ。 大人なんだから、自分で責任は背負いなさい。 逃げたいならどうぞご自由に」

沈黙した「大人」達を前に、利津は思惑を巡らせる。一番良いのは、黒幕を抑えることだが、これは多分ユンカート氏と大統領に任せて大丈夫だろう。支援に送るなら淳子だ。淳子なら、要塞の中に引っ込んだ要人でも、苦もなく暗殺してみせるだろう。

問題になるのはニードヘッグだ。今近接戦闘系の能力者で身動きできる人間が真由美しかおらず、利津は隠れた敵を燻り出す事は出来てもピンポイントで仕留めるにはむいていない。かといって、能力者相手に人間の兵士をぶつけるのは愚策だ。死体を量産するだけで、確実に仕留められる保証などどこにもない。

仕留めるには、居場所を把握しなければならない。だが英国の特殊部隊がM国内部の何処で動いているのかは良く分からないし、其処にニードヘッグがいる保証もない。まだ動くには早い。

「ユンカート氏の情報が少しでも多めに欲しいですわ」

「もう一人近接戦闘系が欲しいですね。 零香ちゃんはまだ動けないとして、傷の浅い由紀ちゃんに無理して貰いましょうか」

「人ごとだと思って、勝手なこと言わないで欲しいですぅ」

「うちはこれから戦いが想定されるし、桐ちゃん、責任とって回復術使って貰えん?」

「うふふふふ、心配しなくても、最初からそのつもりですよ」

嫌みを言うようだが、これらは全部冗談の範疇である。事実皆の息は綺麗にあっていて、すぐにソファに横になった由紀に、桐が回復術をかけ始める。利津の見たところ、由紀は参戦できてもフルパワーの半分ほどの力しか発揮できないだろう。

「後は真由美ちゃんやな。 あの子がどうしてるかやけれど……」

「あの子一人だけでは心配ですけれど、葉子ちゃんと大島さんがついていますし、大丈夫でしょう」

酷い言いようであるが、あの子が一人で戦ってきたことは一人前になってから今まで一度もない。だが、別にそれで良い。この世界、成果を発揮できれば方法など関係ないのだ。真由美と葉子は二人で一人であり、実力を発揮するにも揃っていないと駄目だ。だが、それで構わないのである。

「問題は、何処に主力を注ぐか、ですね」

桐がずばりと核心を突く。全くその通りである。今の最重要事項は、誰がこの状況をリードしているのか、敵の中枢は何処なのか、的確に把握すること。それが山と詰まれた黄金よりも重要だ。それを把握する事で、敵を崩すことだって出来るし、被害を最小限に抑えることも出来る。

つまり、この事態が、誰の得になっているかという、複雑な連立方程式である。

これさえ解ければ、次の手が読める。そうすれば先手を打つことも出来るし、敵に肉薄することだって出来る。そして十中八九、実際に状況をリードしているのはニードヘッグだ。お粗末すぎる行動をしている「黒幕」はどう考えてもピエロである。ただ、英国、それにニードヘッグの目的も分からない。奴が企むとしたら……。

指を鳴らす。利津の頭の中で、閃光のように敵の目的が判明したのだ。ぱたぱたと音を立てて、パズルのピースがはまっていく。なるほど、複雑に見えたが、こうも簡単なことだったとは。

「……なるほど、大体分かりましたわ」

「分かったんか?」

「ええ。 まず淳子さん、私の指示したとおりの場所へ行ってください。 由紀さんは私と一緒に行動。 実体化まがつ神との戦闘が予想されます。 気をつけてくださいまし」

「望む所ですぅ」

ソファに寝っ転がったまま、由紀が親指を立てる。頷くと、自分自身は何処に出向くか思惑を巡らせつつ、順番に敵の目的と、今後の予想される行動を説明していく。そして、最後に、重要な一手を披露した。

「陽の翼に、連絡が取れますか?」

利津の言葉に、自衛官は蒼白になった。

 

2,密閉空間での死闘

 

テレビ画面の向こうでがなり立てる老人。時々軽いジョークを交えながら、それを翻訳する大島さん。司令官は既に部屋の隅で小さく欠伸を始めており、護衛の兵隊さんも気がゆるみ始めている。動くなら今だと、真由美は思う。それなのに、大島さんは動きを見せない。

部屋は六メートル四方ほどの手狭さで、戦うとなるとどう跳弾から大島さんを守るかが課題になる。大島さんがやはり敵だという極小の可能性もあるが、それは取り合えず考えない。それに、不意を付かれても多分大島さんが相手なら致命傷は避けられる。兵隊さんは今のところ二人が視界内にいる。ただし部屋には監視カメラがあるし、戦いになればすぐに大勢駆けつけてくるだろう。

動くなら早い方がいいと思う。折角の好機なのだ。しかし、大島さんは動かない。

そして、動きは、彼女以外の所から来た。

「! マユたんっ!」

「伏せてっ!」

気配に気付いた真由美が飛びついた相手は、第七艦隊の司令官であった。驚く彼と、慌てて銃を構える兵士達の一人が、びくりと硬直して棒立ちになる。彼の側頭部には刃が突き刺さり、逆側へと貫通していた。勿論即死だ。真由美が押し倒さなければ、第七艦隊の司令官も貫かれていただろう。死体が崩れ落ちる。鮮血が噴きだし、パニックになった兵士が悲鳴を上げるが、一瞬後に繰り出された刃が、彼を背中から貫き通していた。大島さんが拳銃を取りだし、驚くほどの反応速度で刃の根本に生える黒っぽい何かを撃つが、すぐに引っ込んだそれは被弾しなかった。似たような光景を見たことがある。あのアースダイバー・スナイパーによる攻撃だ。あれほど精度が高い技ではないようだが……。

「急いで、立ってください!」

真由美が叫ぶ。腰を抜かしている司令官を、大島さんが英語で叱咤し、急いで立たせる。閻王鎧を具現化させると、司令官は情けない悲鳴を上げた。和鎧をベースにしている上に、配色が実に禍々しいこれは、確かに一般人にマイナスの大きな印象を与えるかも知れない。

「どういう事ですかっ!」

「読み違えたわ。 今は逃げることを! 説明は後で!」

当たり散らしても仕方がない。殿軍を大島さんに任せて、階段の方へ走る。エレベーターはこの状況下、動く鉄製の棺桶だ。敵が能力者なのか実体化まがつ神なのかはまだ分からないが、どちらにしても危険は大きい。奴の狙いは、真由美ではなく、この第七艦隊司令官だ。エリートであり、それなりに戦闘訓練も受けているだろうに、完全に腰が退けてしまい、真由美を盾にせんばかりであった。

殺気。真下からだ。司令官を突き飛ばす。脇腹に鋭い痛み。

「せあっ!」

気合いと共に、肥前守を一振り。床から突きだした刃は、その途中で切断され、黒い粘液を天井近くまで吹き上げた。脇腹は深さ一pほどの傷が穿たれており、切断面の下の刃は、またするすると床に潜り込んでいく。大島さんが発砲、一発が命中。爪が大きくかけて、鼠のような悲鳴が上がった。この短時間で動きを見切り、正確にヒットさせるとは、流石だ。

脇腹を押さえたまま、司令官を庇って階段へと進ませる。鎧が無ければ、多分胴体ごとやられていたはずだ。それなのに、どうしてあの敵は司令官だけを狙ってくる。この状況、まずは真由美を仕留めるのがセオリーとしては正しいはず。真由美としても、ピンポイントで狙われるとかなり対処が難しいのだが。

味方の兵士が駆けてくる。いずれも拳銃を手にしていて、真由美にフリーズ、フリーズと叫んだ。この状況下、そう言う訳には行かない。しかし、相手から見れば、真由美が司令官を襲っているように見えるのも事実だろう。生じる迷い。それが更に被害を増やす。

真下から串刺しにされた兵士の一人が、絶叫した。悲鳴を上げながら、絶叫する兵士に向けて弾丸を乱射するもう一人のごつい兵士は、首を叩き落とされて、鮮血を吹き上げながら床に転がる。更にもう一人が首を横から貫かれ、更にもう一人は頭を唐竹割りにされて、前のめりに倒れる。ぶちまけられる脳味噌と脳漿。泣きわめかんばかりの司令官は、床に懐いてしまう。飛びついて転がす。今度は肩に鋭い痛み。冷静に動いた大島さんが、今度は四発の弾丸を正確に刃に叩き込んでいた。

「しっかりしてください!」

真由美の叱責に、司令官は情けなく泣き始めた。体格的に真由美より勝る大島さんが、無理矢理神に祈りを捧げている司令官を立たせる。今の状況を見ていた兵士達が、増援を呼ぶように周囲に叫び散らしながら、必死に辺りを探っている。真由美に敵意が向かなくなったのは、不幸中の幸いか。

「敵の特性は?」

「地中、壁への潜行、体の一部を出しての攻撃です。 殺気は読めますけれど、多分口で言っていては間に合いません」

「……なら、広めの部屋に入れば多少は安全になるわね」

英語で大島さんが司令官を叱咤する。物凄く鋭い声で、真由美は思わずすくんでしまったほどだ。この人は、こんな声を出すことも出来るのだと思い、一瞬気を緩めてしまう。

「二フロア上に、会議室があるらしいわ。 其処へ逃げ込みましょう」

気配探知。そして今度は、真由美の対応が早い。振り向く。

刃が突き出されるよりも早く、肥前守を床に突き立てる。刃は真由美の頸動脈を僅かにそれ、天井へ突きだしていた。肩と脇腹から垂れる血が、床に紅い染みを作っていく。そしてそれを、床から吹き出す黒い血が塗りつぶしていく。

「ギョアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

「っ!」

耳を塞ぎたくなるような絶叫に、真由美は肥前守を引き抜き、飛びずさっていた。致命傷は与えられなかったが、確実に本体へは届いた。敵を退けたことが分かると、動悸が爆発する。冷や汗が滝のように背中を流れていった。

今、葉子が耳元で囁いたのだ。隙を出した奴から潰していっていると。だから、殺気を先に読むことが出来た。まだまだ、真由美は一人で戦えている訳ではない。構えを取り直すと、葉子に大島さんにも耳打ちして貰う。流石に彼女は驚いたようだが、頷くと、英語で司令官にも耳打ちした。だが、これはどれほど効果があるのか、良く分からないだろう。

引きずるようにして、司令官を階段の上に。遠巻きに見ている兵士達は、大島さんが何やら英語で言うと、ばたばた走り回って準備をしているようだった。どうにか階段を登り終えて、遙か遠くまで続く廊下を見てため息が出る。あそこまで、何処から攻撃してくるか分からない暗殺者から、皆を守らなければならないと言うのか。

そんな風に考えた瞬間に、それを見てしまったのは致命的だった。

エレベーターが、真由美のすぐ脇に停まる。じりじり下がり、二人を先に行かせながら、真由美は警戒がてらに其方を見た。戸が開く。

赤。赤。赤。赤赤赤赤赤。

千切れた腕。もげた首。飛び出した内臓。撒き散らされた脳味噌。

死体の、山。

兵士達が援軍に駆けつけようとエレベーターに乗った所を、奴が襲ったのだ。

右足に激痛が走る。腿を串刺しにされたと気付くより早く、体が浮く。床にたたきつけられる。

「がふっ!」

頭の中に星が飛ぶ。足を串刺しにされ、更に無理に体を床へたたきつけられたというのだけは分かった。靄がかかった視界の隅に、跳躍する何かの姿。やけに伸びた鋭い爪が目に入る。そうか、あの爪が刃になっていたんだ。

ぼんやりと考える真由美の上で、数発の弾丸に影が貫かれる。しかし、まだ動きを止めない。ゆっくり迫ってくる爪。顔に突き刺さる、その寸前。

意識が戻る。焼けるように熱い足を叱咤して、真横にはねる。頬を縦に裂いた爪が肩を切り裂き、奴は再び床に潜る。床に紅い跡が無数にはい回っていた。

肩で息を付く。大島さんの叱責が耳を打つ。まだ、まだだ。状況が全く分からない。せめてこの敵だけでも仕留めておかないと、真由美はベースで待つ先生達に顔向けが出来ない。

体を起こす。足の傷からは、まだ鮮血が垂れ続けている。しかし、収穫もあった。這いずるようにして、会議室にはいる。既に周囲を兵士達が堅め、机が詰まれて、その上に司令官が乗せられていた。大島さんが、拳銃に新しいマガジンを装填しながら言う。

「まだ来ていないわ」

「分かりました。 被害を増やしたくありません。 兵隊さん達には外に出て貰ってください。 外に出たら、一目散に別の階まで走るように言ってください」

「ん、どうもそうも言ってられないみたいね」

司令官が悲鳴を上げる。

壁から刃が伸びて、兵士の一人に襲いかかったのである。刃は易々と兵士の首を貫き、反撃の弾丸が壁を乱打した頃には、既に姿が消えていた。更に一人が貫かれる。更にもう一人。

真由美は目を閉じ、息をゆっくり吐き出していった。そして詠唱を続ける。次々に兵士達が倒れていく中、恐ろしいほどに、手負いの真由美は冷静だった。怯えきっている司令官のわめき声が、右耳から入って左へ抜けていく。それが、不意に途切れた瞬間。

真由美は天井に向け、術式を解放していた。

「駆けよ、天馬っ!」

打ち出された肥前守が、天井から司令官を襲撃しようとしていた黒い影を、正確無比に貫通していた。

会議室に入り込んでいた兵士達は、半数が倒されていた。

 

床にたたきつけられた黒い影は、人間とはとても思えなかった。右手左手には四本の長い爪が備わっていて、それぞれが刀のように鋭く、分厚い作りになっていた。極端な矮躯で、特に顔が凄まじいまでの異形だった。目は左右でずれていて、鼻の穴が大きく開き、口は耳まで裂けている。まるで映画に出てくるモンスターだ。

雰囲気としては、狐に似ている。この戦闘スタイルは、前回の戦いで桐先生を襲撃したという影そっくりだ。あれは英国の能力者が操作する実体化まがつ神だと聞いているが、そうなるとこれも同じなのだろうか。分からないことだらけだが、確かなことが一つだけある。此奴は、陽の翼の手の者ではない。

正確にねらい打てたのは、此奴の行動パターンを読み切ることが出来たからだ。最初は一撃必殺を狙ったが、その次からは外堀を埋めるやり方に切り替えてきた。戦力を削ぎ、気力を奪って、一瞬の隙をついて本命へのアタックを行う。そして皆が考える机の下よりも、天井から来ると、真由美は睨んだ。予想は完全に当たった。そして真由美は勝つことが出来たのだ。

激高した兵士が、まだもがいている影に、至近から容赦なく弾丸を叩き込んでいた。十発以上も四方八方から弾丸を受け、ついにとどめを刺された影は、溶けるようにして消えていった。医師が呼ばれて、負傷者の手当を始める。といっても、負傷者は真由美だけだ。他の襲われた人間は、みんな死んでいた。担架が運ばれてくるが、拒否。この場で治療して貰う。まだ拳銃を手にしたまま、大島さんが素直に頭を下げた。

「ごめんなさい。 完全に読みが外れたわ」

「話して、くれますか?」

「……。 ちょっと待ってね」

司令官に大島さんが英語で何か言う。心神喪失状態の彼は、憔悴しきって頷くばかりであった。情けない。今まで見てきた他の司令官達は、皆もっと毅然としていた。終いには、護衛の兵士に腕を取られて、医務室に引きずられていく始末だった。

兵士達が現場検証しているが、するだけ無駄だ。敵は死体も残っていないし、出てきた壁も床も何も痕跡がない。弾痕と血痕がそこら中に残ってはいるが、それだけである。ただ、真由美が皆を守ってあの実体化まがつ神と戦ったことは、生き残り全員が揃って証言してくれた。

包帯を巻いて貰い、消毒して貰う。少し痛いが、今までの戦いで受けた傷に比べれば何でもない。医師は熟練していて、手当の最中も殆ど痛みはなかった。ただし、すぐに歩くことは許して貰えなかった。松葉杖を貸して貰って、それで大島さんと別室へ歩く。道の途中で、片づけられる死体を何個も見た。真由美が戦っていた地点以外でも、彼奴は猛威を振るっていたのだ。一体この艦で、何人死んだのか。軍人は死ぬことが仕事であり、当然覚悟は出来ているはずだと言っても、やはり気は重い。

小さな部屋に入る。閻王鎧を解除すると、ようやく一安心できた。大島さんは周囲に誰もいないことを確認すると、言う。

「結論から言うと、米軍の内部で混乱が起きているの。 講和によって、今回の戦いで米軍が大きな損害を受けたことを世間に公表される事を怖れている者達がいるのよ」

「国の体面って、そんなに大事なことなんですか?」

「それもあるけれど、一番重要なのは、武器が売れなくなるって事よ」

大島さんは言う。

今回の戦いでは、米軍の最新兵器が尽く投入されている。世界最強の戦闘機であるF22ラプターを始めとして、同じく世界最強の攻撃機A10サンダーボルト、世界最強の戦闘ヘリコプターであるアパッチ、巡航ミサイルトマホーク、それに世界最強の一角を担う特殊部隊。最新鋭の技術を積み込んだ戦闘用艦艇の数々。それらで正面から戦ったのだ。

それなのに、米軍は大きな被害を出し、敵に状況をリードされ続け、結果的に講和に持ち込まれてしまった。しかも、その講和も、零香達が参戦していなければ、より屈辱的かつ危険な状況に持ち込まれていた可能性が極めて高い。

その結果、国内の軍需産業が自国兵器の優位性に疑問を抱き、打撃を受けるのではないのか、という事だ。その結果、軍事にパイプをもつ高級軍人やパワーエリートは大きな打撃を受け、地位を落とすことに繋がるかも知れない。また、非公式に同盟を結び、M国内に軍を展開していたことがばれれば、大統領の政治問題にも繋がる。

「でも、それは表向きの話。 そう考えた人達を煽って、第七艦隊に油断しているって彼らが思っている陽の翼を攻撃させようと思ったのが、あの黒幕さんよ」

「……何だか、きな臭いです」

「ええ。 どうもあの人は、陽の翼にわざと反撃させて、アメリカの力を一時的に弱体化させ、世界に混乱を起こす事が目的だったみたいなのだけれど」

「それも、武器を売ったり、最終的に世界を支配するため、ですか?」

大島さんの沈黙は、即ち肯定だった。怒りに拳が震える。

戦闘は現実社会のもっとも暗い部分を認識するのに最適だ。なぜなら何よりも物事を現実的に考えなければならないからで、その結果人間という生物がどのような性質を持っているのか嫌と言うほど知ることになるからだ。

だから、人間が本来ケダモノそのものであり、社会というものが存在することでようやく理性と呼べる薄皮の安定を手にしていることも、真由美は肌で感じている。そして数億に達する人間を制御する巨大国家や巨大社会では、それらのもっと仄暗い邪悪な人間の本性が露骨に表に出ることも。

だが、それでも許せない。その黒幕さんが普通の人間と同じで、単に社会的地位や保有する金銭という外的環境で「良心的な人間」と違う思考をもっているというのも分かるが、それでも許せない。金銭や社会的地位が、社会を動かすのに絶対必要で、それを否定しては近代国家は成立しないことが分かっていても、だ。

人間なんて大嫌いだと、叫び出したくなる。だが、それではいけない。あの「人食い」佐伯さんを見て、そう思ったはずだ。あの人の辛さや、背負っている悲しみは良く分かる。しかしあの人と一緒になってしまっては、絶対にいけないのだと。

「ただ、このタイミングで陽の翼が攻撃してきた意味が分からないわ。 彼らなら油断さえしなければ、第七艦隊による総力の攻撃もしのげると私は計算していたのだけれど」

「あれは、陽の翼じゃありません」

「! ……詳しく、聞かせて貰える?」

「その前に、大島さんは何を待っていたのですか?」

「米国の大統領はこの事態を把握しているわ。 もうじき、特殊部隊がこの艦の制圧のために乗り込んでくる手はずだったの。 分かっていると思うけれど、今の第七艦隊司令官はあまり有能な人物じゃないわ。 昔は俊英としてならしていたらしいけれど、女性問題でガタガタになってからはこの通り。 本当だったら、貴方一人密室に閉じこめられて……という展開も予想していたの。 それなのに、ボスである黒幕氏の話を聞くために、わざわざ貴方と一緒に個室に籠もるわ、信頼しきれないだろう私を側に置いたままにしておくわ。 貴方がその辺を突っ込まないか、ずっと心配していたのよ」

交換条件とばかりに、大島さんが話してくれる。合点がいったことが山ほどあった。それと同時に、分からないことも山ほど出てくる。例えば、あの暗殺者が、第七艦隊司令官を狙っていたのは分かる。だがそれは陽の翼の目的に見せかけるものだったのか、それとも真由美の手による暗殺をでっち上げるためだったのかは分からない。

あの影は、英国の能力者の使い魔的なものだという話は、桐先生に既に聞いた。英国が、この事態に裏から一枚噛んでいるというのか。でも、真由美は正直政治的な話は良く分からない。今の状況だって、大島さんに説明して貰って始めて納得がいったのだから。英国が何をもくろんでいるか何て、想像も出来ない。それとも、暗殺者本人が動いているだけなのか。

真由美が英国の話をすると、大島さんが目を光らせ、素早くメモを残していった。部屋の戸がノックされ、ゴリラみたいなおっかないおじさんが顔を見せる。零香先生の父上ほどではないが、凄く怖い。大島さんは、協力者よと前置きすると、英語で説明を始める。その過程で、色々話を真由美にも説明してくれる。

どうやら、特殊部隊が乗り込んできたらしい。だが艦内での抵抗はなく、司令官もベットで真っ青になったまま拘束されたそうだ。各艦の艦長もぞくぞくと状況に従って艦を止め、一時的な待機状態に入ったらしい。これでどうにか米国首都消滅の事態は、一時的な危機を脱したそうである。それだけではなかった。

「自力で勝ったんやて? 随分頑張ったやないか。 持ちこたえるくらいのことは期待しとったんやけど、まさか勝てるとは思わんかったわ」

巨漢の影から顔を覗かせたのは、おっかない先生達の一人。

超一流の隠密狙撃型能力者、淳子先生だった。

 

3,渦巻く炎

 

ユーバート=ホークスは七十三才になる。体格の良い、白い髭を口元に蓄えた人物で、彫りの深い顔は若い頃随分ハンサムだった。軍事産業の一角を牛耳る米国でも屈指のパワーエリートで、歴代大統領にも当然のようにコネクションをもち、非公式のものも含めると、個人資産は日本円で兆の単位に達するとさえ言われている。一声かければ三十兆円が動くとも言われており、その影響力は一国の経済をたやすく揺らがせる。

彼の父親は一次大戦で財を成し、それを拡大することで名声を築いてきた男だ。その血が良い方向で継がれたためか、若い頃の彼は俊英としてならした。国屈指のエリートであることを、若い頃は実力で証明していたのである。

ただ、現在は状況が違う。今の彼は五十代前半から耄碌が進み、実子達と血みどろの権力闘争を繰り広げた挙げ句、ありとあらゆるダーティーな手段を使って無理矢理勝ち残り、現在も権力にしがみついているという、札付きの人物である。現役ではあるが最近は失策が目立ち、きめ細かかった性格は神経質なだけになった。剛胆な心は怒りっぽいだけになってしまった。人物も随分小さくなり、部下達は彼と出来るだけ顔を合わさないように情報を交換し合っている始末であった。

血走った目は真実から遠ざかるばかりで、人間の欠点ばかりを探し、それを人格の全てと判断することが日常となっていた。彼の部下からは自然有能な人物が遠のき、凡庸な気力のない者ばかりが残っていった。

猜疑心は部下だけではなく、政敵やかっての仲間、それに家族にすら及んでおり、スキャンダルの常習犯である。元大統領を杖で殴りつけたことさえあるほどだ。そのため、米国では危険人物にマークされており、今回も真っ先に調査の手がはいることとなった。

この手の人物には共通している悪癖であるが、ユーバートは典型的な差別主義者で、ユダヤ人を蛇蝎のように嫌っていた。若い頃は公平なものの見方が出来、論理的に思考し行動することで財を築いてきた人物だったのだが、年を経て変わってしまったのである。理由は誰も知らない。さまざまな噂が飛び交っていたが、いずれも真実とは違っていた。

彼が差別主義者に転落した理由は、四十代に経験した大病にある。病気自体は問題なく直り、後遺症もない。問題は、彼が信頼していた家族も部下も、尽くが裏切り者であったことだろう。彼らは病の床についたユーバートを見るや、まだ生きている内に権力と金を漁り始め、見舞いすら来なくなった。医者達には裏から手が回され、ユーバートの病気が悪化するようにし向けていた節さえあった。

ユーバートは絶望し、深い闇の中で全てを呪った。そして彼の体が治り、生き残って退院してからが、悲劇の始まりであった。

鉈で若木を斬り取るような大粛正が開始され、その中にはユーバートを裏切っていなかった者や、誠実に仕事をしていた部下もが含まれていたのである。こうして、人類は一人の鬼を誕生させてしまったのだ。そしてその鬼は、それ以降闇の底へとどんどん潜り込んでいき、死の沼を形成し続けていったのだった。良くしたもので、彼のあだ名は「底なし沼」である。差別主義者になった理由も、一番彼を怒らせた裏切り者が、ユダヤ人であったという事である。

ユーバートは家族も部下も会社も今の米国も憎んでいた。正確に言うと、彼の思い通りにならない部分があるもの全てを憎んでいた。

これは人間としては一般的な精神的反応で、特に極端な思想の持ち主には良くある。極右にしても極左にしても共通した感情であり、彼らは国家の特定の部分に憎悪を感じているのではなく、自分の思い通りにならない部分に憎悪のはけ口を求めているだけである。理論武装は後付に過ぎないのだ。その証拠に、極右勢力に属していた人間が何かのきっかけで極左勢力に転向するのは良くある。そしてその傾向は、何処の国でも何時の時代でも同じなのである。周囲の人間が皆迷惑を被る点でも共通している。

問題はこの精神的傾向が誰にでも出ることであろう。この場合国家の上層にいる人間に出てしまったことで、被害が拡大しようとしているのだ。

テレビ電話に向かってがなり立てていたユーバートは、不意に回線が切れたので、不快感に後押しされながら、ベルを鳴らして部下を呼んだ。彼がいるのはカリフォルニア州の一角に構えた豪邸であり、専門のガードマンだけで三十人という巨大なものだ。警備システムも整っていて、彼自身は何もせずとも生活が出来る。ベルを鳴らすとすぐに執事が飛んできて、テレビ電話のチェックにかかったが、問題を発見できなかった。

安楽椅子に腰掛けているユーバートは、杖をイライラしながらもてあそぶ。彼が不快になったとき、それで女子供だろうが容赦なく打ち据えることを執事は知っていたので、蒼白になった。

「まだなおらんか!」

「は、はいっ! 申し訳ありません。 どうやら此方ではなく、接続先に問題が発生したようでして、此方からはどうにも……」

「なら第七艦隊旗艦に連絡しろ! 何をやっとるか!」

動きが鈍い執事を叱咤すると、ユーバートは力任せに床を何度か杖で叩いた。彼はペットを飼っていない。というよりも、今は飼っていない。犬にしても猫にしても鳥にしても、苛立つとつい杖で殴り殺してしまうからだ。殴り殺す相手がいないので、ユーバートの苛立ちは更に募った。

執事が戻ってくる。第七艦隊旗艦と連絡が取れないと言う。この時点で、何かあったと、ユーバートも気付いた。

最初に陽の翼の行動に思い当たったのは流石であろう。すぐにそれに焦点を当て、ユーバートは思考を巡らせる。

大統領は現在、密使を陽の翼に送って調整行動に入っているはず。ユーバートの耳には、M国の幾つかの州の割譲(といっても、土地はそれなりに豊かな反面驚くほど狭い地域だが)を陽の翼が要求していること、米国、更にEU諸国が独立を正式に認めること、人質を返還すること、等の条件が入ってきている。交渉は上手くいっており、M国もぐずっていないそうで、第七艦隊の動きに気付いているとは考えにくい。

第七艦隊の現在司令官は軍部のコネで今も地位を保持している低能で、太いパイプをもつユーバートに逆らえるような者ではない。何しろ、強烈なプッシュがなければまず間違いなく退役させられているほど、スキャンダルまみれな状況なのだ。自分も同類であることを棚に上げて、ユーバートは無能な老いぼれがと口の中でぼやいた。

思考を巡らせ、脳を動かすと、ユーバートにも若い頃の明晰さが僅かだけ戻ってくる。この辺り、第七艦隊の司令官よりも大分格上の感がある。陽の翼ではないとすると、大統領の動きが早かったことになるが、それにしてもおかしい。大統領の周囲には配下を何人も飼っているが、彼らから報告が上がってきてはいない。

イライラする内に、時間はどんどん過ぎていった。部下からも何の報告もない。ホワイトハウスに飼っている部下に連絡を入れてみるが、特に動きはないという。ユーバートは杖で床を不規則に叩き始めた。控えていた警備員や、メイド達の顔が見る間に蒼白になる。ユーバートが爆発するのが近いと感じたからだ。

電話が鳴る。大統領からだった。大統領は冷静な声で、第七艦隊の私物化について詰問してきたが、軽く受け流す。どうして知ったのかという不可思議さはあるが、それを声に出さない辺りは流石であった。電話を切る。杖を力任せにへし折る。

それが、ユーバートにとって、最後の行動になった。

 

特殊部隊がユーバート邸に踏み込んだとき、其処は異様なほどに騒然としていた。一斉に突入したのに抵抗がないので拍子抜けしていた特殊部隊は、右往左往する使用人達や警備員を押しのけて、ユーバートの自室に踏み込んだ。

ユーバートは死んでいた。額に大穴が空いていた。彼を撃ったかと思われる警備員は逃走していた。すぐに調査が行われ、弾痕と登録されている銃が一致した。分からないのは、これからである。警備員がいつ逃げたのか分からないのだ。それどころか、いつ撃ったのかさえも、誰も見ていないと言う。

「探せ! 封鎖線を張れ!」

特殊部隊の長が言うのと、殆ど同時。ヘリのロータリー音。軍用ではない。報道ヘリだ。何故こんな所にと、特殊部隊員達が思うよりも早く、邸外に大勢の気配。報道陣が駆けつけている。

異常だった。誰も事態を理解できなかった。

 

英国の使者がもってきた手紙は念入りにチェックが行われ、その上で太陽神に差し出された。小さな手でそれを取ると、御簾の向こうから太陽神はパッセに声を投げかける。

「天翼パッセよ」

「はっ」

「この手紙を見るがよい。 その上で意見を聞かせよ」

「それでは、拝見いたしましゅ」

手紙を受け取り、目を通す。流ちょうな英語で、不可解なことが書いてあった。

同盟を結びたいという。陽の翼と英国には確かに目立った敵対関係がない。確かに五翼が開戦前に一暴れしたが、それでも人死には出ていないし、文化財の類を傷付けてもいない。それに、ICBM撃墜作戦の前までは、米国による一国主導崩壊後の同盟相手としては確かに検討はしていた。パイプも何本か確保している。しかし、米国との和平がなろうとしている現在、この提案に何の意味があるのだ。米国の神経を逆撫でしたら、今の英国はやっていけないというのに。

手紙が何かしらの能力の媒体になっている可能性はない。パッセは考え込みながら、手紙の隅々まで目を通す。出る結論は、一つしかない。

「英国には、これから米国が大混乱に陥るという確信があるとしか思えません。 それとも、そう我々に思わせ、米国と血みどろの最終戦争をさせるつもりなのかも知れません」

「優秀な諜報機関と、米国には劣るがまず一線級と言っていい軍事力を持つ英国はバカではない。 そうなると、余程に自説もしくは自分の策に自信があると言うことだな。 油断はならぬ。 警戒せよ」

「御意……」

「此方も総動員態勢で状況を探れ。 これ以上後手に回ってはならぬ」

この間の戦い以来、目的をマイナーチェンジするわ、後手に回るわで、元々戦力的に劣る陽の翼には面白くない事態が続いている。その中、また予想しない状況の到来である。陽の翼としては、さっさと状況にけりを付け、その後の平和な生活に移行したいのだが、なかなかそうはさせてくれない。

永世中立国は、強大な軍事力を持つ。平和だからと言って、軍事力がいらないと言う理由は成立しない。特定の閉じた空間で、安定した統一国家が出来れば武器の発達はとまるだろう。「江戸時代」の日本などがそうであった。しかし、陽の翼の周辺環境はそうではない。だから平和になっても、陽の翼で軍事力が必要にならなくなる、という事はない。

そう言う意味では安心感がある。だがそれも、計画を最終段階に進めなければ画餅に過ぎない。

太陽神の前から退出したパッセは、帰り道で女性の能力者に泣きつかれた。ジェロウルの事を好きらしい彼女は、愛する人の境遇を嘆いていた。早く助けて欲しいという。彼女をなだめるパッセも、囚われた二人のことは確かに心配だ。今の状況では、傷付けられる恐れはないと説明して女を下がらせる。彼女が頭を下げて去った後、自分の言葉に慰められる自身に軽い嫌悪を覚える。

まだまだ弱いなと、パッセは思った。だが部下達の詰め所に戻ったときには、その自嘲は消えていた。

詰め所に行き、部下達に最重要警戒態勢を取らせる。やっと休みにはいることが出来たのに、また警戒態勢に戻ったことで、彼らの表情には疲れが見て取れた。それはパッセも同じだから、心が僅かに痛む。その時だった。伝令の一人が、詰め所に飛び込んできた。

「天翼パッセ!」

「何でしゅか?」

「日本の能力者から連絡です」

「今度は何だ。 天翼パッセ、我々はどうすれば……」

「落ち着きなさい。 今は、何よりも冷静な対処が求められるときでしゅ」

今度はあの宿敵達が連絡をしてきたというのか。混乱を極める事態に、部下達も困惑している。パッセはいち早く混乱から立ち直ると、事態を制御にかかった。

 

四十キロラインに近づいてから、陽の翼本拠があるオールヴランフ島目掛けて無線の電波を飛ばす。事前にユンカート氏と地上部隊司令官には連絡が取ってある。側には米軍のジープを数台用意してあり、いざというときには戦闘ヘリも出られるように手配して貰った。一歩間違うと、再び戦いが始まってしまうのだから、責任は重大だ。利津の側に控えている特殊部隊員達も緊張しきっている。

各地の基地で例の黒幕氏主導によるサボタージュが頻発しており、それを沈めるにユンカート氏は手一杯だ。どうにか幾つかの基地の機能は回復したらしいのだが、その間に不可解な兵士の失踪や怪情報の発信が相次いでおり、どうにか状況を把握するので精一杯なのだという。ジープにお上品に腰掛けて、にこにこ笑っている由紀も、内心ははらはらしている事だろう。

ジープの一台には、特殊部隊が保護していたリズ嬢が乗せられている。彼女は不機嫌そうに、じっとオールヴランフ島を見ていた。ジェロウルが囚われてからというもの、ずっとこうだ。陽の翼に対する忠誠心が、薄れ始めてきた憎悪とせめぎ合っているらしい。痛々しい憂いが、ずっと顔に張り付いている。

幾つかの周波帯を試した後、反応あり。陽の翼側の人間と通話が繋がった。相手は利津の行動に少なからず驚き、目的をただしてくる。そして利津が目的を告げると、ほどなくパッセが無線に出た。

「何用でしゅか、日本の能力者」

「単刀直入ですわね。 まあいいですわ。 此方の用件は告げたとおり。 此方と同じく、其方も混乱しているでしょうけれど、ひとまず我々とあなた方で共同して事態打開に動きませんこと?」

「……やはり、其方も何かおかしな事になっているのでしゅか?」

相変わらずの歯っ欠けな喋り方で、パッセは重厚な不安を湛えながら言う。英国の不審な動きと、米軍の混乱は、彼らにも伝わっていると考えて間違いない。

「……」

パッセの沈黙が流れる。周囲の特殊部隊隊員達は、最大限の警戒態勢にいた。当然の話で、彼らは陽の翼の恐るべき戦闘能力を嫌と言うほど見続けているのだ。

「信用できない、といったら?」

「戯れ言を。 其方が米国との和平とそれによる建国に目的をマイナーチェンジしていることはとうにお見通しですわ」

「……っ、流石でしゅね、紅鳥の戦士。 それで、我々にどうしろと?」

「今此方でも情報をあつめていますのですけれど、英国か、もしくは英国の能力者ニードヘッグが裏で暗躍していることまでは分かっています。 其方でも、英国が何か仕掛けてきていませんこと?」

「どうやら、話を聞く価値はあるようでしゅね」

カードを広げながら、相手の出方を待つ。交渉の途中経過については、桐に詳しい話を幾つか聞いて、何度も予行演習をしてきた。だからすらすら応えられる。戦う前に、ありとあらゆる準備をするのは当たり前だ。それが舌戦でも同じ事である。

話を進める。利津は浅黒い肌に伝う冷や汗をレースのついたハンカチで拭きながら、頭の中で準備を反芻しながら、一つ一つ丁寧に告げていった。

交渉の基本は、力の呈示と、目的の交換だ。交渉に本来言葉は必要ない。必要なのは見せること。どれだけの力を保有し、それぞれの目的を如何にして達することが出来るのか。そのため、交渉は文盲の人間でも出来る。そう言う意味では、脅迫もダーティーではあるが、立派な交渉の一つなのである。

一方で、力が拮抗している場合。武力や知力も含めた総合力の話だが、この場合にはさまざまな交渉のテクニックが意味を持ってくる。利津は元々戦力を整えるのと、全体的な戦況を把握するのは得意だが、細かい戦術を使うのはどちらかと言えば苦手である。だから、戦況を把握しながら、事前に桐と話して整備してきたカードを使っていくしかない。本当は桐自身にやって欲しいのだが、今回彼女には別の仕事がある。

大体目的を話し終える。正直、確率は五分五分と言う所だ。

「なるほど」

「損はないと思いますわ」

「確かに。 この状況下、目的をアップグレードすることはほぼ不可能ですし、米国が混乱しては却って我々にも面白くありませんね。 しかし……」

「私たちがどうして戦いをしているか、知っています?」

不意に話を切り替えるのも、交渉のテクニックの一つだ。冷静な相手に程良く通じる策の一つで、主導権を奪い取ることが出来る。しかもこの場合、話の相手は生粋の戦士であるパッセだ。戦士である以上、利津の事に興味がない訳がない。必ず乗ってくる。

「米軍ではなく、あなた方の個人的見解でしゅか?」

「ええ。 そうなりますわ」

「聞かせて頂きましょうか」

「目の前にある悲劇を防ぐ力を持っている以上、それを防ぐ義務があるから」

さらりと、だがしっかりと利津は言う。シンプル極まりない、戦う理由を。

神子相争に併設した悲惨な戦いの数々。力がなければ何も出来ない。力をきちんと使わなければ理不尽な社会的悪に勝つことだって出来ない。そう思い知らされた日々。その過程で、嫌でも現実的になる自分。

しかし、翻ってみれば。手に入れた力で出来ることが何と多くなっていたことか。力を使い切って戦い抜いて。それが終わってみれば、力だけが残っていた。今度は余った力を使って、かって出来なかったことをするべき時だ。そしてその中には、悲劇を繰り返さないために尽力するというものがあっても構わないはずである。

これは、道楽の一種だ。だが、命がけの道楽でもある。そしてその道楽によって、命を救われる者がどれだけ出ることか。

「なるほど、何だか貴方達が、より良く分かった気がします」

「私たちは、出来れば貴方達と最終的には和解したいと考えていますわ。 そのためには、全力を尽くすつもりです」

「……太陽神に相談してみます。 全てはあの方のお心次第でしゅ」

無線が切れた。

太陽神は切れ者だと聞く。多分これで交渉に乗ってくるはずだ。もしここで戦いを挑んでくるようなら、その時はその時。そんな程度の奴だったと諦めるまでである。

携帯が鳴る。淳子は携帯電話ではなく、艦内の特別な電話を使って掛けてきたらしい。電話番号がいつもと違っていた。

「利津ちゃん、首尾はどうや」

「どうもこうも。 どうにか太陽神をテーブルに引っ張り出した所ですわ。 ユンカート氏と陸軍司令官に連絡は済んでいるので、多分大統領も今頃テレビ電話での会談の準備はしているはずです」

「上出来やな。 こっちは想像以上に状況が悪いで」

淳子は言う。

被害者の数は四十七人。いずれも即死。真由美は重傷だが、深手はなく、淳子が治療すればすぐに戦闘に復帰できるという。第七艦隊の司令官及び、大島姉は無事らしい。淳子の声が少し弾んでいる。真由美がほぼ単独で、ニードヘッグの使い魔を仕留めたことが嬉しいらしい。

「もしこれで真由美ちゃんが負けとったら、この件は陽の翼のせいにされて、全面戦争になっとったやろな。 あの子は、ようやった。 大きな使命を果たしよったわ」

「弟子は成長するものですわ。 それで、その続きは?」

「そう急くな。 造反派の艦は徐々に制圧がすすんどるらしいわ。 ただ、な。 おかしな事がいろいろ分かってきとる。 まだ詳しくは分かってないんやけど」

英国の諜報員が動いていた形跡がないことが、妙なことの最たるものであった。今回状況をコントロールしている元凶の一端が英国だと利津は睨んでいたが、どうもそれは違うらしい。

また、見事なまでに襲撃者の痕跡もない。どうやって乗り込んだのか分からない。能力というものには必ず制限があり、無限の展開など出来はしない。そう考えてみれば、ニードヘッグが使い魔を操作するにも制限があるはずで、こうもピンポイントな暗殺が未遂にまで達したのは何故なのか。

「司令官が心神喪失状態というのも痛いわ。 まあ、もともとボンクラだったみたいやし、何かしっとるとも思えへんけどな」

「……分かりましたわ。 其方はお任せします」

「おお。 まかせとき。 真由美ちゃんは動けるようにしとくからな。 そっちも油断無いよう頼むで」

電話が切れて、今度は桐から連絡が来る。忙しい。ツインテールを揺らしながら、むすっとして利津は電話を取り直す。

「お元気ですか? 利津ちゃん」

「不幸にも元気ですわ。 それで?」

「うふふふふふ、まあまあ抑えて。 それよりも、良くない知らせです。 大統領に巨大スキャンダルが持ち上がっています」

よりにもよってこの時期に。利津がぼやく。

あの大統領は、それほど有能な人物ではない。というよりも、別に大統領が有能でなくともやっていけるシステムが、危ういバランスの中成立しているのが米国だ。確か利津の知る限りでも、表沙汰になった女性関係のスキャンダルがあったはずである。しかし、桐の口調からして、そんな程度ではないだろう。

「何やらかしたんですの? あのご老体」

「部下の暗殺です。 もっとも、実質的な力関係は、向こうの方が上だったようですけれど」

「! まさか」

「ええ。 第七艦隊を焚きつけていた張本人、米国を代表するパワーエリートの一人、ユーバート=ホークス氏です。 しかも特殊部隊突入の情報をマスコミが嗅ぎつけたらしくて、号外が出て大騒ぎになっていますわ」

大統領は法による裁きを受けない。だが部下の暗殺を行い、しかもそれが明るみに出たとなると、その支持率は致命的な打撃を受ける。当然、その精神にもだ。会談の時、冷静に話せるのだろうか。

「で、真相は?」

「分かる訳ないでしょう。 ただ、状況から考えて、暗殺を実行した可能性はあるでしょうね。 個人的な意見を述べさせて貰うと、多分違うでしょうけれど」

「ニードヘッグの仕業だとすると、ちょっと奴の能力の想像が付きませんわ」

「其方にも現れたんですか?」

こんな時にもマイペースな喋り方をする桐に、利津は少し遅れはしたが状況の説明を行う。桐はしばし頷いていたが、敵の能力を分析すると言い残して電話を切った。

最悪のタイミングで、無線にパッセが出る。一回深呼吸して、無線に出直すと、彼女は言った。

「太陽神の許可が取れました。 其方は準備が出来ましたか?」

「先手を打たれましたわ」

「先手、でしゅか?」

「大統領のスキャンダルが持ち上がりました。 まあ、臑に傷もつ人だというのは事実ですけれど、今回のは仕組まれたものっぽいですわね。 恐らく下手人は、英国の能力者ニードヘッグ。 伝説の、世界最強のイレイザーですわ」

無線の向こうで、人が変わる気配がした。

利津の耳に、同年代かと思われる、荘厳な声が飛び込んでくる。一発で分かる。これこそ、太陽神のものだと。

「そなたが、余の部下を苦しめ続けた、日本の能力者の一人か」

「お声を拝聴できて光栄ですわ、太陽神。 今までの無礼はお許し下さいますか?」

「よい。 戦の道は修羅の道。 戦って敗れたからと言って、それを恨むような者は余の部下にはおらぬ。 それよりも、この事態は如何なる事だ。 何がどうなっておる。 そなたが知っていることを……」

無線が途切れる。呼びかけても応えない。

どうやら事態は最悪の方向へ向け、加速度的に動いているらしかった。

次の手を急ぐ必要がある。今は、陽の翼首脳部に、動いているのが英国の能力者ニードヘッグであるというのを、伝えただけで良しとしなければならなかった。周囲の特殊部隊員に翻って、利津は言った。

「ユンカート氏に連絡を」

 

島の中に巨大な殺気が発生したことを、陽の翼の能力者全員が気付いた。その発生に立ち会ったのは、奇しくもその中で最強である、太陽神であった。

謁見の間で、無線を手にしていた太陽神が僅かに身を退いたとき。無線装置から刃が生えて、一瞬前まで彼女がいた空間を貫いていた。パッセが反射的に剣を振るうが、恐るべき速さで刃が引っ込み、その場から消えて無くなる。

「何事ですか!」

「構わぬ! 下がっておれ!」

部屋に入ってこようとした部下達を、太陽神が片手を上げて制する。この殺気、途轍もなく巨大。並の能力者では荷が重すぎる。無駄に命を落とすだけだ。

「すぐに皆をこの建物から退避せよ。 この不埒者は、余と天翼にて対処する」

「……っ、分かりました!」

ばたばたと部下達が走り去る。これでいい。遠慮無く、太陽神も本気を出すことが出来る。

床からせり上がってくるのは、黒い影。全身が闇色の触手に包まれたそれからは、大小無数の刃が生え、口から高密度の障気を垂れ流している。目は煌々と光を放ち、異臭が瞬く間に部屋中に満ちていった。この容姿、何時だか聞いたことがある。何十年か前、陽の翼の能力者が、五翼も含めた十人がかりのミッションに失敗したことがある。その時能力者七人を倒した謎の敵が、このような姿をしていたという。

運命とは皮肉だ。このような形で、あの時の敵討ちが出来るとは。

「俗に言う「能力者殺し」とは、貴様のことであったか」

「……」

「異常な戦闘経験を蓄積しておるな。 その様子では、代々記憶を何かしらの術で受け継いでおるようだな。 余とは別の意味で人外の者よ」

「……」

太陽神の問いにも、何も応えない巨大な影。周囲の空間が、闇色に塗りつぶされていく。空間浸食だ。この実体化まがつ神の力か、それともこれを使役している奴自身の力かまでは、流石の太陽神も分からない。

不意に、がばりと実体化まがつ神が口を開いた。そして、言葉を垂れ流す。喋るのではない。口の奥にスピーカーか何かが仕込まれているかのような発声だ。

「私の正体を知っているのは、日本の能力者と話していた貴様とパッセのみだな。 ならば、まだ問題はない」

「愚物が。 余を貴様呼ばわりした挙げ句に、随分舐めてくれたものよの。 この後、生きていられると思うなよ」

太陽神の全身から、殺気が吹き上がる。パッセも剣を構え直すと、戦闘態勢を取った。実体化まがつ神が体を低くする。既にその時には、周囲はコールタールのような闇のみの空間に移り変わっていた。太陽神は腰を低く落とすと、爛々と光る目に向け言う。

「覚悟は良いな……」

太陽神の言葉と同時に、戦いが始まった。

 

4,世界最強の能力者VS世界最強の暗殺者

 

全身から刃を生やした実体化まがつ神が、闇の中へと沈み込む。短距離連続空間転移で間合いを詰めたパッセが、横薙ぎに刃を払うが、一瞬遅い。舌打ちしたパッセが距離を取る。辺りは静寂のみになる。

「気をつけよ!」

鋭い叱責と共に、パッセが横っ飛び。彼女がいた空間を、鋭い刃が三本、連続して貫いていた。追撃するように刃が勝手に抜け、再び襲いかかる。短距離空間転移を利用して、ジグザグにパッセが逃げる。闇の中、光ひらめく。それは全て、死をもたらす悪意の具現だ。高速な連続攻撃と、それを回避し続けるパッセ。どちらも尋常ならざる使い手だ。

太陽神は裸足だ。基本的に、いつも同じような民族衣を着ている彼女は、それにあわせて常に裸足である。靴を履いたこともあるが、どうも合わないので止めてしまった。戦場で別に危険物を「踏む恐れがない」という理由もある。

太陽神の頭上、足下に、同時に殺気が炸裂する。ふわりと太陽神の体が浮く。無数の刃が前後左右上下から襲いかかる。コマ送りのように、ほんの一瞬の出来事である。

激しい激突音。

「太陽神!」

パッセが叫ぶが、決して絶望のものではない。それを裏付けるように無数に飛んだ刃が、全て太陽神の至近で止まっていた。刃はそれ以上通らない。空に浮いた太陽神は、手を横に振る。バラバラと壁に投げつけられた針が落ちるように、刃が闇の中に沈んでいった。

「何かいるな」

「ほう。 もう気付いたか」

ニードヘッグの声に太陽神が手をもう一振りすると、風が巻き起こる。闇だらけだった視界が渦巻き、それが何なのか少しずつ分かってくる。

建物の中だった。石造りの、重々しい古い建物である。壁には彫刻があるが、どうみてもキリスト教関連のものだ。しかもかなり古い。闇色の霧が周囲に立ちこめており、それらを覆っていたのだ。

「もう良い、ドレイク。 なるほど、幾つかある説の一つは、本当だったようだな」

「……」

「何を驚く。 余に戦いを挑むのであれば、当然知っておろう」

闇色の霧の中で、翼を広げる影。透明なその背に、太陽神が乗っている。首長く、尾長く、力強い四肢をもつ影。そう、龍だ。太陽神を守っていたのは、巨躯を誇る、透明なる龍だったのである。刃はその強靱なる鱗にはじき返されたのだ。

「余は龍を統べるもの。 伝説を失い、まつろわぬ神となった龍の一体や二体、こうして使役するのは当然よ」

「なるほど……小手先の技では、どちらも仕留め切れそうにないな」

闇の奥。教会の最深部。

イエスの像の前に、闇の塊が浮き上がる。間髪入れずに、パッセが斬りかかった。剣撃一閃、一刀両断。真二つに切り裂かれた影が、左右に分かれる。そして欠片の一つ一つが、無数の刃に散り別れながら、唸りを上げてパッセに襲いかかった。アイアンメイデンが閉じられるように、闇の罠が噛み合わされる。激しい火花が散り、どうにかパッセが逃れるが、全身に既に傷が浮いていた。教会の壁からも天井からも、黒い闇色の刃が浮き上がってくる。太陽神が舌打ちする。敵の正体が掴めない。ドレイクと呼ばれた透明な龍が炎を吐き、床を、壁を、天井を薙ぐ。闇の中、燃えさかる炎が、灯りを作り出す。

数本ずつ束になった刃が、太陽神に襲いかかった。いずれもが、今度はドレイクの体に突き刺さる。先ほどまでとは比較にならない貫通力だ。絶叫して龍は、尻尾を振り、翼を広げ、辺りを打ち据えるが、のれんに腕押しである。敵は次々刃を産みだし、それぞれを束にして叩き付けてくる。

ついに、ドレイクの口の中に、刃が飛び込む。白目を剥くと、巨龍は横倒しになった。巨龍が残した灯りに彩られた教会の中、地響きが轟く。床に舞い降りた太陽神に、四方八方から刃が降り注いだ。パッセは前後左右から間断なく襲いかかる刃に対処するのが精一杯で、身動きできない。

多数の刃が、一斉に太陽神の身に降り注いでいた。

 

ウニのようになった太陽神。確かな手応えを感じたニードヘッグは、目を細めて呟く。してやったりと。ついに世界最強の能力者を、彼は仕留めたのだ。長年の望みが、ついにかなったのである。

しかし、それもぬか喜びに過ぎなかった。刃の何本かに違和感。そういえば、どの刃も、手応えがおかしい。少女の体を貫いたにしては、肉厚すぎるのだ。何千という人体を切り裂いてきた彼は、それに敏感に気付いた。

「天翼! 止まった刃を一本も逃がすな!」

太陽神の声。何処だ。声は確かに、刃の鞠の中。その鞠が、内側から弾ける。中からは、多生傷つきながらも、それでも健在な太陽神の姿。衣服は流石に、ボロボロになっていた。

「ワーム! 刃を溶かし尽くせ!」

太陽神が叫ぶと、床を蹴破って、無数の筒状の怪物が姿を見せる。更に、太陽神に巻き付いて守っていたらしい一体が、力つきて崩れていく。ニードヘッグは聞いたことがある。英国に伝わる、もっとも原始的な形態の龍。古代の蛇神信仰の影響を強く受けた古代の邪神龍、ワーム。強大なミミズのようなそれは、透明な状態から色を取り戻すと、辺り構わず消化液をばらまいた。逃げ遅れた刃が尽く溶けていく。倒れていたドレイクも、刃をかみ砕きながら起きあがり、同じように辺りに炎を撒き散らした。

ニードヘッグは太陽神の行動の意味を悟った。ドレイクに、周囲に炎を吐かせたのは、刃の動きを観察するためだったのだ。

ニードヘッグの全身に痛みが走る。当然の話だ。この能力は、かって彼が飼われていた廃教会の闇の中に、無数に散らした自分の体を潜ませ、四方八方から襲わせるものだ。高度な操作性を持つ反面、こうやって一つ一つ体の部品を潰されるとじり貧に陥るしかない。この体は実体化まがつ神を使ってはいるが、一度使役すると最低でも数年は休まなくてはならず、しかもこのまがつ神は気むずかしくて十年に一度くらいしか動かせない。

「シャアアアアッ!」

体を揺らめかせながら、ワームが吠え猛る。教会の壁が、床が、強烈な酸によって見る間に溶かされていく。濛々と上がる煙の中、ついに床の一部が溶かしつくされ、体が潜んでいた床下が露わになった。オタマジャクシのように蠢いていた刃達が、一斉に溶け消えていった。

攻撃を受けていない箇所から、刃を一斉に出す。総攻撃しかない。このままでは、体を内側から溶かされる。だが、その時、今まで守勢に廻っていたパッセが、短距離空間転移を繰り返しながら、出現した刃を片っ端から切り裂いた。恐るべきコンビネーションだ。痛撃を受けたニードヘッグは、思わず悲鳴を上げる。本体のある方に、的確に太陽神が向く。

「タネが知れてしまえば底は浅いな。 余の敵ではないわ」

「ふっ……ふふふふふふふっ……流石よ。 見事な力だ。 だが!」

残った刃を集め、全身を床からせり上げる。一気に勝負を付ける。まだまだ、手は幾らでも温存している。能力者として最強なのは太陽神かも知れないが、殺しの技術で最強なのは自分だ。これだけは譲る訳には行かない。それに、太陽神の弱点なら、既に見つけた。それをつけば、勝てる。

再構築した体が、殺気と共に、咆吼を上げた。

 

「……ほう」

太陽神は、姿を見せたニードヘッグの本体に、思わず感嘆を漏らしていた。なかなかにおぞましい。そして力強い。走り寄ってきたパッセが、蠢くワーム達に混じって、剣を構え直す。体中、既に傷だらけだ。

「無理はするな、天翼」

「太陽神の負担を増やす訳にはいきません」

「うむ、心強く思うぞ。 ……あの様子だと、気付いたようだな」

勿論、太陽神の能力には弱点がある。というよりも、能力者であれば皆何かしらの弱点はもっているものなのだ。上位種になった今もそれは同じ事である。

再構築されたニードヘッグは、まるで刃で出来た犬だった。体を低くし、紅く燃える瞳で此方を睨み付けながら前足で地を掻いていた奴は、不意に走り出す。ワームが一斉に消化液を吐きかけ、ドレイクが炎を吐き付ける。嵐のような猛攻の中、犬は不意に分解、黒い針の嵐となって、ワームの一体を貫き、粉々に砕き散らした。同時に太陽神の右二の腕が、鮮血をしぶく。

眉をひそめた太陽神は、振り返りざまに軽く手を一振り。数体が絡み合い、ワームが束にまとまる。そしてシャワーのように消化液を刃に浴びせかける。避けきれず、多くの刃が煙を上げながら溶けていくが、途中でまた集まり、黒犬の姿に戻る。空中で黒犬になったニードヘッグは壁をジグザグに蹴って間合いを詰め、今度は体を崩さずに、太い前足の一撃で、ドレイクの翼を通り抜けざまに毟っていった。今度は太陽神の左腿が裂け、血をしぶいた。

太陽神の使役している古代原始龍には秘密がある。身体構築に、太陽神の第二体を用いているのだ。そのため、龍がダメージを受ければ、太陽神自身も傷を受ける。そして上位種といえども、致命傷を受ければ、死ぬ。

パッセは動かない。動きを見切るために、全身を感覚器官として、敵の動きを探っているのだ。

追撃で体を削られながらも、再度身をひる返し、突進してくるニードヘッグの黒犬。

「時間を稼げ」

「はっ!」

突進したパッセが、連続して短距離空間転移を繰り返しつつ、黒犬に躍りかかる。その一撃は、真っ正面からそのコアへと叩き付けられていた。だが間一髪、空中で分解した犬は激しい追撃とワームによる迎撃消化液で消耗しながら、太陽神を守る一体に飛びつき、ずたずたに切り裂く。太陽神の肩と腿が裂け、鮮血が噴きだした。思わず片膝をつく太陽神。全身から黒い液体を滴らせながらも、黒犬が炎を吐きかけるドレイクに躍りかかる。これがとどめだといわんばかりに。

ドレイクが、かき消える。

態勢を崩した黒犬に、追いついたパッセが猛烈な蹴りを叩き込んだ。床にたたきつけられた黒犬。

「閃光弾!」

「御意!」

印を切り終えた太陽神が叫び、懐から閃光手榴弾を取りだしたパッセが、投げつける。激しい閃光が黒犬の頭上で炸裂。そして、まるで巨大なハンマーを叩き付けたように、黒犬の周囲の床ごと、押しつぶした。

「グゲアッ!」

印を更に切る。額の汗が更に多くなる。

ワームが次々に消えていく。第二体を、詠唱のために引き戻しているからだ。首をもたげた黒犬がわめく。

「な、貴様、貴様あっ! 何を、したあっ!」

「言ったはずだ。 余は龍を統べる者だと!」

今のはユルングの能力。強い光を攻撃用に用いれば、ざっとこんなものだ。そして次は、ガンガーの能力。太陽神が未だ身動きできぬ黒犬に血だらけの左掌を向け、右手で印を切り終える。大気中の水分を高速振動させる。黒犬の全身から煙が上がる。即席の電子レンジに放り込まれたのだから当然だ。

お、オアアアアアアアアアアアアアアアッ!

絶叫、絶叫、また絶叫。だがその時。闇の中で、迸る殺気。

再び、周囲の床から大量の刃が浮かび上がる。黒犬が疾走するとき、ダメージを受けて剥落したと見せかけて、これだけのまだ無事な刃を、地面に潜行させていたのか。パッセがすぐに戻り、太陽神の盾となろうとする。そして必死に剣を振るい、飛来した刃の内、三十までは叩き落とした。

だが三十一番目の刃が、背中から、太陽神を貫いていた。

血を吐き、仰け反る太陽神。狂気の笑いが上がる。溶け、消えながら、ニードヘッグは嬌笑した。

「殺った! 殺ったあああああああ! ギ、ギヒャハハハハハハハハハハハハ!」

空間浸食が解けていく。

後には、膝から崩れる太陽神と、彼女を必死に抱きしめるパッセの姿が残されていた。

 

5,撃墜への飛翔

 

ユンカート中佐は、複数の部下を連れて、軍基地を忙しく歩き回っていた。日本の能力者達と連絡を密に取りながら、他国の諜報員の仕業も念頭に入れつつ、サボタージュ行動を一つずつ潰していく。状況は少しずつ沈静化しつつある。そんな中、大統領による部下の暗殺疑惑と、英国の暗躍疑惑が殆ど同時に彼の耳に入った。再び、元の木阿弥だ。いや、更に状況は悪化してしまった。しかも、英国の実働要員として動いているのは、あのニードヘッグだ。

「何て事だ……」

部下がいるというのに、愚痴がこぼれてしまう。今までは絶対にない事だった。

特殊部隊員なら、誰もが英国のニードヘッグの話は聞いたことがある。英国が飼っている世界最強の暗殺者で、猟奇殺人鬼で、仕事を失敗することはほぼ無いという。ユンカートくらいのポジションになると、ニードヘッグが能力者で、超一流の能力者を何度も仕留めたことがあるという事くらいまでの情報は知っているのが普通だ。そのニードヘッグが動いているという。緊張するのは当然だった。それを日本の能力者達に告げても、安心は出来ない。真由美がニードヘッグを退けたと聞いても、である。敵の手は、停まっていないのだ。

大統領はスキャンダルへの対応で一杯一杯になっていて、つてを辿っても連絡が取れない。更に悪いことに、陽の翼側とも通信が途絶したという。今ユンカートに出来るのは、一つ一つガン細胞を潰していくことしかない。これは特殊部隊の仕事ではない。どちらかと言えばMPの仕事だ。肝心のMPは、こんな非公式の任務には連れてこられないし、第一マニュアル外のこんな状況には対処できないだろう。歯がみするばかりである。

エリートであるユンカートは、大学をトップクラスで卒業した俊英である。

米国の大学は、入るのだけなら簡単だが、中で好成績を維持し、卒業するのが極めて難しい。大学を出て軍に入った後も、エリートコースを駆け抜け、そして若くして今の重要なポストを射止めている彼は、エリートという言葉を経歴で表している存在だ。コネクションも油断無く積み上げてきたし、実戦経験も年齢とは裏腹に豊富に蓄えてきた。それなのに、今回ほどの事態では、流石の頭も働き場所がない。

幼い頃から、貪欲さとユンカートは無縁だった。家は裕福で、家庭も円満。能力の範囲内で仕事をすれば結果がついてきたし、結果があれば周囲の人間も穏和な反応を見せた。極論すると、彼は才能に恵まれたお坊ちゃんであり、温室の外を知らない。挫折も知らない。今までいた温室は広大で楽園とはほど遠かったが、その外にはもっと危険な世界が広がっていたのだ。

日本から来た能力者達が、その温室外の存在だというのは、明晰な彼には一目瞭然だった。だから尊敬もした。活用もしたし、言うことも良く聞いた。特殊部隊にも欲しいくらいの人材だと、前々から思ってもいた。しかし、それは多分、人間を相手にしての事ではなく、記号を相手にしてのことだったのだ。今、温室の外に出て、挫折を知ったユンカートは、それを思い知っていた。そして打ちのめされていた。

一端特殊部隊のベースに戻ってきたときには、三本の栄養剤を開けていた。鏡を見たら頬がこけているのではないかと思えるほど、疲れ切っている。自室のデスクに座り、椅子に背を預けきってしまう。

隣でサポートしているのは、日本から来た自衛官のオオシマ青年だ。姉よりは全ての面で若干劣るようだが、頭も要領も良いので、秘書官として非常に役立っている。この非公式任務が終わったらコンビを解消せざるを得ないのが実に惜しい。さっとコーヒーを入れてくれたオオシマ弟には、逆に余裕すら見て取れる。

「ユンカート中佐、どうぞ」

「ありがとう。 助かるよ」

もうオオシマは砂糖とクリームの分量を覚えている。非常に優秀な秘書である。目を通さなければならない書類は山のようで、これではいつミスを犯してもおかしくない。今までは惰性でミス無く行動できていただけだ。

「少し寝た方が良いのではありませんか?」

「そうもいかん。 今、冷静に動ける人間は少ない。 情報の結合役になる私が休む訳にはいかないのだ」

「赤尾さんも黒師院さんも銀月さんも頼りになると思いますよ、僕は」

「確かに彼女らは頼りになる。 だが、これは米軍の問題だ。 彼女らには英国の能力者の対処はお願いできても、合衆国の尻ぬぐいまでして貰う訳には行かない」

生真面目さを発揮してユンカートが言うと、オオシマは苦笑したようだった。それで思い出す。尻ぬぐいに付き合わせている自衛官達も、部外者であることに。

部屋に部下が飛び込んでくる。彼の顔も疲れ切っているようだった。

「中佐!」

「今度は何だ」

「日本の能力者から連絡です。 是非中佐に代わって欲しいとの事でして」

「……此方に回してくれ」

まだ心を整理しきれないユンカートに、連絡を取ってきたのは利津だった。疲労しきった手を、無線に伸ばす。

「私だ」

「ユンカートさん? やっと繋がりましたわ」

「何か、分かったのかね?」

「高確率で、今陽の翼が攻撃を受けていますわ。 恐らく次は、予想通り陽の翼の捕虜達が狙われますわね」

だからどうしろというのだ。ユンカートは疲れ切った声でそう返そうとして、どうにか理性で思いとどまる。

利津にさっき英国の予想される目的は聞いた。理にかなうと思った。しかし、それを鵜呑みにする訳には行かない。色々な情報が必要だ。

利津に、英国が動いているらしいこと、動いているのがあのニードヘッグらしいことを伝えたのは彼である。たまたま捕まえた、英国の諜報員が吐いたのだ。流石に計画の全貌までは知らされていなかったらしく、それ以上は自白剤を投与しても聞き出せなかった。その断片的な情報と、起こっているカオスな事態から、敵の目的を割り出したのは尊敬に値する。

しかし、今ユンカートは、ユーバート氏がばらまいた不和の種を摘むのに精一杯で、秩序を回復することすら出来ていない。捕虜が何処に連れて行かれたかはまだ分からない。M国に米軍か建設したベースのどれかではないとだけは分かっているが、最近停泊した米軍の艦船だけでも数十隻という状況で、米国本土にまで連れて行かれた可能性は高く、そうなってしまうと今の彼にはお手上げだ。

彼の立場上、正確な情報無くして動く訳には行かない。今までも、情報の裏付けがあったからこそ、彼は日本の能力者達と高度な連携を保つことが出来た。今回はサボタージュしているタカ派の流した雑音じみた情報から真実を拾い上げていかなければならず、それがこの疲労を呼んでいたのだ。

「すまない。 まだ彼らの居場所は分からない。 米国本土だとは思うが……」

「分からなければ、守りようがありませんわ。 彼らを殺されたら、陽の翼との交渉も、暗礁に乗り上げますわよ」

「手が、廻らないんだ……! どうにかしたいのは、こっちも同じだっ!」

静かに、だが冷然な怒りを、ユンカートは吐き出していた。

後悔が押し寄せてくる。紳士とはとても言えない行動だった。大人の行動とも言えなかった。二の句が継げないユンカート。聞き覚えのある声が意識を揺り戻す。

「俺だ、中佐」

「ケヴィンか、どうした」

「ちょっと休め。 それと候補だけでもいい、教えてくれないか? こっちで分析してみる」

一応十まで絞り込んだ候補を告げる。しかしそれも確実ではない。うなだれるユンカートは無線を切り、椅子に力無くもたれかかった。

「すまない。 少し休む」

「分かりました。 二時間で、起こしに来ます」

オオシマは、敬礼すると、部屋を出来るだけ音を立てないように出ていった。

 

高速巡航艦は最新鋭で、数十発のトマホークミサイルを搭載し、数分で一つの街を灰にする火力を誇るという。対空装備も充実しているそうだ。艦長は第七艦隊司令官の突然の不可解な命令にも従わなかった冷静な男で、既に初老である。ラッド大佐という名の彼は、一兵卒からのたたき上げだそうで、非常に厳しいながらも公平な人物として知られ、兵士達の人望がある。反面今回見せたような硬骨な行動が多いため、上層部からは疎まれ気味だそうだ。

案内されて、第七艦隊旗艦よりも若干狭い艦橋へ通される。艦橋はやたらめったら整理されており、何一つ無駄がない。無駄な音も一切無い。オペレーター達が縮み上がっているのが真由美にも分かった。指揮シートに座っている、少し太ったもの凄く厳しそうなお爺さんが、件の艦長だとも。髪は真っ白だが、威厳と迫力に衰えは全くない。

米国は騒々しい文化の国だと真由美は思っていたのだが、印象が一変してしまう。こんな硬い人物も、普通にいるのである。あの気むずかしいケヴィン氏ですら大衆文化の見本のようなハードロックが大好きだという事から、つい失念していた。

大島さんが率先して敬礼して、淳子先生の少し後ろにいた真由美も遅れて敬礼する。もう少し後ろで、焦燥しきった表情で護衛の兵士に支えられていた司令官は、敬礼さえせずに言った。少し後ろには、護衛役と同じおっかない兵士達の姿がある。大統領命令で、彼を監視しているのだ。

「ラッド大佐、失礼する」

「これは司令官殿。 このようなむさ苦しい場所にようこそ」

口調は丁寧だが、物凄くおっかない。言葉を大島さんに翻訳して貰っても、真由美は背筋に寒気が走るのを感じた。ラッド大佐は、何をしに来たと文面ではなく口調で威嚇していた。司令官はうなだれたままだったので、大島さんが代わりに流ちょうな英語で説明した。鼻を鳴らして、大佐は言う。真由美には英語がさっぱり分からないので、会話の意味は掴めなかったが、それでも歓迎されていないことだけは分かった。

一歩間違えば独裁体制だ。絵に描いたような軍隊式である。真由美の先生達とは、違う意味での怖さがある。

立ち上がったラッド大佐が周囲に命令する。嫌々ながらという感じだ。兵士達が縮み上がり、すぐに動き始める。どうにか真由美は一息付けて、しかし一向に気分は休まらなかった。淳子先生は大した物で、大島さんに告げてさっさと艦橋を出ていく。一番音が聞き取りやすい場所へ移動するのだそうだ。

高速巡航艦が海原を駆ける。目的は、赤尾さんが告げてきた、陽の翼の捕虜が収監されている場所である。

候補は最初十個あった。内三つはM国に近い米国の基地だったが、それをみるなり赤尾さんは却下したという。いずれも陽の翼の能力者や協力者が行動半径にしている場所で、もしそれらに収監されていたらとっくに陽の翼に情報が行き、別の情況が起こっていただろうと。そして米軍の上層部も、流石にそれくらいは計算できているだろうとも。

残りの七カ所は艦船であった。そのうち四つまでを赤尾さんは次々に切り捨てた。理由はそれぞれが、尽く海戦になったら主力となる、最新鋭艦であったからだ。それら最新鋭艦は戦闘時に重要な役目を果たし、もし内部で捕虜が暴れでもしたら勝てる戦いにも勝てなくなる。

そうして三隻が残った。いずれも老朽艦もしくは少し古い艦であり、戦闘時の目的も補助及び兵員輸送が主になる。それらの中に、最近M国の港に停泊したものが幾つかあり、それらが候補となった。今、一隻目を見て、駄目だった所である。これから二隻目を調査に向かう所であった。赤尾さんはこうも言っていた。本当だったら、最初からこの三隻だけをユンカート氏は呈示していただろうと。

以前桐先生に真由美は聞いたのだが、あれだけ冷静に戦闘を運ぶ零香先生が、とんでもなく単純かつ致命的な判断ミスを犯したことがあるという。それは白虎戦舞を使って疲れ切っていたときの事だそうである。判断するときには疲労を取れ。それが桐先生の言葉だった。

艦橋が息苦しくなったので、真由美は断って甲板に出た。予想よりも遙かに速い足で、海を疾走する巡航艦。風を切る音が、耳元でやかましい。

足にはまだ少し違和感があるが、どうにか戦える。まだ先は長い。淳子先生の疲労を抑えるために、何度か時間を分けて治療することになっていて、次の艦に到着する頃には、一時的な治療が完了するという。

真由美の体は、ここ数週間の死闘で出来た傷だらけだ。戦えるように治してはいるが、どれも一時的なものだという。内部的にはまだ直りきっていない傷も多く、それは日本に帰ってからじっくりなおしていくものなのだそうだ。

ふと、船の甲板から海を見ると、いるかの群れが泳いでいた。テレビでは何度も見た光景だが、実に美しい。数頭の群れが巡航艦に併走しているが、兵士達はそれを楽しむ余裕がないようだった。船の縁で跳ね飛ぶ海水がきらきらと輝いて、幻想的な雰囲気すらある。心が解けるような安らぎを、真由美は感じていた。

船が見えてきた。すぐに接舷して、乗り込む。少し小さな駆逐艦だ。中に入った瞬間、真由美はアタリだと確信した。サイキックの気配を感じたのだ。第七艦隊の司令官が、焦燥しきった様子で、出迎えた駆逐艦艦長と交渉する。胡散臭そうに真由美を見ていた艦長だったが、上官の命令には逆らえず、真由美を奥へと案内する。淳子先生は、ついてこなかった。

エレベーターで船底近くまで下りる。最下層の一角に、真由美は懐かしい気配を感じた。感情の見えないサイキック数名が護衛についた奥に、いた。

ジェロウルとキヴァラだった。クスリでよく眠らされているようだった。本来懲罰牢らしい部屋に、二人は放り込まれていた。ジェロウルを捉えたのは零香先生だ。そして、今、その気になれば、皆の仇を取ることが出来る。出来る、が。

壁に背を預けて眠っているジェロウルから視線を反らす。

次の瞬間。

抜刀した真由美が、壁から這い出してきた影の刃を、正面から迎撃していた。激しい火花が散る。弾きあった敵と真由美。構えを取り直す。

「みんな離れてください! 私が、何とかします!」

閻王鎧を具現化。あのジェロウルを守るために、全力で戦う。今は、それが全てだ。全力で、この敵を倒す。倒せないにしても、絶対にあの人達が、何とかしてくれる。

「はあああああああっ!」

チャージを仕掛けた真由美が刃を振るう。一合、二合、三合。駆逐艦の腹の中、黒い鎧に身を包んだ真由美は、同じく黒づくめの敵と、死力を尽くして渡り合った。

 

甲板に出ていた淳子は、当然駆逐艦の下層で始まった戦いにも気付いていた。彼女は無線を取り出すと、言う。

「始まったわ。 桐ちゃんの予想通りやな」

「ええ。 これでだいたいの位置が確定しました。 今の淳子ちゃんの位置から、狙撃可能です。 十六キロくらいありますけれど、いけますか?」

「そうやな、流石に精密狙撃は無理やけど、倒すのなら大丈夫やろ。 まかしとき。 そっちこそ、手はず通り頼むで」

神衣を具現化させる淳子を見て、周囲の米兵達がおののく。青龍の大弓を構え、更に光学ステルスを発動。露骨などよめきの声がうるさい。

敵は、空にいる。それが桐の出した結論だった。

 

6,掃除の終わり

 

高度一万メートル。孤独な空に浮かぶ、影が一つ。ニードヘッグの本体である。

正確には、ニードヘッグというのは個人名ではない。一族の名前である。彼は数百年前からその名と血と記憶を受け継いでいる、現代のニードヘッグ当主であった。

ニードヘッグは英国の出身ではない。北欧神話の邪悪な龍を名前に冠していることからも分かるように、本来の出身はそちらなのだ。しかも、うっすらと残っている記憶では、彼は元々大罪を犯し、追放された身であった。そしてヴァチカンに拾われたのである。

忌まわしい魔女狩りと並行して行われた能力者殺しで、ニードヘッグはもっとも活躍した一族だった。勿論西欧以外でも戦い、陽の翼と刃を交えたこともある。キリスト教の特徴は、自分以外の思想を認めないことにある。能力者の存在などもってのほかであった。そこで、キリスト教は、自らの手足として使える、道具としての能力者を必要とした。ニードヘッグはそれに最適だったのである。

能力者がほぼ西欧から絶滅し、ニードヘッグは不要になった。当然粛正されそうになったが、追っ手を返り討ちにして、彼は英国に逃れた。同じようにしてヴァチカンから逃れた能力者は少なくない。一部は陽の翼に合流した。

新教の支配する英国は彼に心地よく、またすぐに職を手に付けることも出来た。かって能力者に向けて振るわれた刃が、英国に都合が悪い人物や、邪魔な組織に向けられるようになったのだ。

彼の一族の目的は、居場所を確保すること。そのために最強になること。

世の中、力がなければ何も出来ない。故郷を追い出されたのも、元はと言えば「無能である」という事が要因だった。力がなければ、悪夢のような教会で飼われる日々も、生き残ることが出来なかった。だから、力を得る。最終的には、最強の存在となり、今まで彼を支配し続けた世界を、逆に支配し返してやる。それが、ニードヘッグという、呪われた一族の宿願であった。

今回、彼は英国の指示で動いていた。目的は、米国と陽の翼を共倒れにさせること。そのために、呆けきった老醜なユーバート=ホークスの計画に便乗した。双方を混乱させて消耗戦に持ち込ませるために。

黒師院桐とタラスクの戦いに割り込んだのも、戦いを長引かせるためだった。日本の能力者の知恵袋になっている黒師院桐は邪魔だったのだ。

第七艦隊司令官を暗殺し、大統領をスキャンダルで失脚させる。更に太陽神を暗殺する。そして陽の翼が要求する講和の重要なファクターである捕虜を暗殺する。いずれもが、状況を更に混乱させるための手だ。最悪の場合、米国の力を出来るだけ裂くようにと、ニードヘッグは指示を受けている。しかし、ニードヘッグの目的は別にある。これだけ派手に暴れれば、能力者の中で知られているニードヘッグの事が、ばれないはずがない。

ニードヘッグの狙いは、英国をも共倒れに巻き込ませることだ。

世界をリードする米国を、陽の翼と共倒れにさせる。それに英国も巻き込み、EUも沈没させる。そしてその後に来る混乱の中、ロシアでも中国でも日本でもドイツでもいい。乗り込んで支配し、今度はニードヘッグが全てをリードする。

桐の暗殺は失敗した。第七艦隊司令官の暗殺も失敗した。だがユーバートの暗殺は成功した。

黒い闇に包まれた彼は、ほくそ笑んでいた。手応えがあったからだ。彼の最強の僕が、太陽神を倒した。殺したかまでは分からないが、深手は負わせた。失敗二つだが、これで大成功。状況は一層有利になった。

彼の能力は、僕の派遣である。全部で六体ストックしている僕達は、いずれも彼の力を吸って動く実体化まがつ神であり、感覚をリンクし、自在に動かすことが出来る。欠点もある。一度に複数は動かせないし、一度動かすと最低でも一年は休ませなければならない。すぐに五体目を派遣する。狙いは、陽の翼の、捕虜になった幹部二人。これが終われば、一端英国に戻る。そして悪化する事態を、高みの見物するだけでいい。

場所はもう掴んでいる。力を送って、三十分がかりで、僕を目的の場所に具現化させる。目標捕捉。その時。

激しい反撃を受けた。刃を受け止められる。立ち塞がったのは。

驚きにニードヘッグは唾を飲み込んでいた。先ほど第七艦隊司令官の暗殺を邪魔してくれた、あの小娘ではないか。

 

無線を切ると、桐は戻ってきた由紀と一緒に、空を見上げていた。距離、およそ三十キロ。計算上は、どうにか届く。

今までの敵の行動パターンから、桐は分析を完了していた。ニードヘッグは部下になる実体化まがつ神を戦場に投入する能力の持ち主だ。かなりの遠隔操作を可能とする強力な力だが、能力者の特性上、何かしらのリスクも負わなければならない。これだけ強力な能力だと、そのリスクもちいさなものではない。

出現地点を分析し、そして思い当たる。恐らく、この出現地点全てに関連がある。そして桐が割り出したのが、微速移動する空中の点。そしてそれならば、リスクも克服できる。何しろ、そこならば、「誰もが見ることが出来る」からだ。誰も見ているが誰にも気付かれない。空とは、隠れるには最適な場所ではないか。

桐が分析した位置は、高度一万メートルの一点。だが、まだ半径四キロから絞り込むことが出来ない。そこで、米軍に出動を依頼した。

今、高度一万メートル、該当の空域を、F−22ラプターが飛び回っている。パイロットは以前の戦いで善戦したサムスンで、彼の他にもエース格の五機を動員して貰っている。第七艦隊の沈静化がいち早く済んだために、出来たことであった。大統領はまだ報道陣に追いかけ回されているそうだが、それでもこれだけの尽力はしてくれた訳だ。あまり有能とはいえない男だが、今回は感謝するほか無い。

無線が入る。サムスンからだ。

「発見した!」

「座標を。 一端離れてください。 どんな迎撃手段を持っているか分かりません」

「了解。 ドラゴンとの戦いで懲りてるからな。 距離を保つ。 上手く仕留めてくれよ!」

座標が転送されてくる。細かい座標の特定が完了した。

これで、勝負はついた。

素早く側に置いたノートパソコンを立ち上げる。用意して置いたマクロに数値を叩き込み、計算完了。この辺は自衛官がやってくれた。複数の盾を具現化させる。そして、それを階段状に並べていく。由紀がゆっくり距離をとり、精密な計算の末はじき出された説明を受けて頷く。淳子にも連絡。準備は、完全に整った。

「十、九、八……」

カウントダウン開始。

 

ニードヘッグは気付く。何か、嫌なものが近づいてくることに。それが真横からだと気付いたときには、既に遅かった。

全身を、無数のスプレッド弾が穿つ。操作に能力の大半を裂いている彼は、飛行時まともな防御手段を有していないのだ。今投入している実体化まがつ神を戻せば防御も攻撃も可能だが、これではそれも無理だ。

「お、おのれ、おのれええええっ!」

更にもう一撃。逆側から飛んできたスプレッド弾。地上から、もしくは海上の艦上から、淳子に狙撃されているのは間違いない。距離がありすぎて、一撃必中とは行かないようだが、それでもスプレッド弾が体に何発も突き刺さり、肉を抉り、骨を裂く。おのれ、おのれおのれおのれ!わめくも、手詰まりだった。真由美に阻まれた僕は今だ暗殺任務を果たせていない。此処は退くべきだと、彼の本能が告げている。後少し、後少しなのに。

実体化まがつ神を戻す。此処は死ぬ訳には行かない。そして、最後の一体を具現化させる。まだだ、復讐は全く成し遂げられていないのだ。此処で死んでは犬死にだ。此処は退き、次の機会を狙うしか……。

思考が途切れる。気付いたからだ。何かが、斜め下から飛んでくることに。それは、明らかに、音速を超えていた。

実体化まがつ神を鎧のように纏おうとする。しかし、全てが遅い。突き刺さる。爆裂するソニックブーム。

完全にコントロールを失ったニードヘッグは、全身をずたずたに切り裂かれながら落ちていく。まだだ、まだ死なない、死ぬ訳には……。

光が見えた。近づいてくる。どんどん近づいてくる。

分かった。それが、ICBMを叩き落とした、あの光だと。太陽神は死んでいないのだと。だが、何故か、ニードヘッグの両目からは、涙が零れていた。

ニードヘッグは嬉しかった。この状況下、これほどの攻撃を放ってくる相手に、あそこまでの深手を負わせたことが。誰もが彼が最強の暗殺者であることを疑わないだろう。彼は凌駕したのだ。彼を痛めつけ続けた世論を。最強となり、そして伝説となった彼は、満足した。

閃光が、全てをかき消した。

 

弓を降ろした淳子は、ため息一つ。光学ステルスを解除すると、やはり周囲の米兵達がどよめいた。

最後の一撃は、太陽神によるものだった。恐らくニードヘッグは最強の部下を投入しただろうし、流石にただでは済まなかっただろうに、しっかりけじめを付けたのだからたいしたものだ。船底での戦闘も既に収束している。これで、本当にどうにか決着が付いたようだった。

無線。桐からだ。

零香が最初に提唱した戦術を、桐は完全に再現して見せたことになる。本当は白虎戦舞を使った零香が、階段状に連ねた盾を蹴り上がって、岩なり鉄骨なりを超音速で投擲、ソニックブームでICBMを撃墜するというものだった。強化型のベンドランサーを用いた由紀がその代わりを務めた訳だが、それでも大変だっただろう。大した手腕である。

「淳子ちゃん、どうなりましたか?」

「終わったで。 敵は完全に沈黙」

「良しっ! グレイトだぜ、アンタ達!」

サムスンが割り込んでくる。徐々に周囲に喚声が広がっていった。皆知ったのだ。これでどうにか、致命的な事態が避けられると言うことを。

神衣を解除する。船底に降りる。真由美がいた。片膝をついて、剣を杖に体を支えて、肩で息をしている。滅茶苦茶に傷が入った壁、床、天井。怪我をして呻いている兵士達を、医者が搬送させている。その中で、淳子は真由美の前に立った。

「守りきったな」

「……はい」

「気持ちの整理はまだつかんやろうけど、これでええ。 まだ色々やらなければならん事は多いけど、真由美ちゃんは守りきったんや」

真由美の両目から涙が零れている。痛いからでは無いだろう。

今は一人にしてやらなければならない。これは、一人で精神の整理をすることだからだ。

ようやく戦いが一段落した。これから後は、各国の首脳部がすることだ。ニードヘッグという超大物がユーバートと一緒に消えた以上、横やりを入れることが出来る者はそうそういないだろう。無能な米国大統領だが、ここまで状況が整えば、何とか出来るに違いない。

甲板に出る。風が気持ちいい。空を見ると、カモメが飛んでいる。

携帯で写真を撮りながら、淳子は日本に帰った後、最初に何をするか、考え始めていた。

 

(続く)