迫り来る終焉の日

 

序、太陽と少女

 

思い出。美しきものか、苦いものか、人によってさまざまなもの。ただし、記憶の中の事であり、どうしても年経れば曖昧になっていく。

だが、どうしても忘れ得ない思いでもある。

御簾の中、頬杖をついてうたた寝をしていた太陽神は、子供の頃の夢を見たことに気付いて、憮然としていた。御簾の中であるから、彼女は外よりも遙かに感情豊かである。苛立ちを覚えた太陽神は、用意されているよく冷えたミルクを飲み干すと、大きく嘆息した。表情を部下達に晒すようなヘマはしないが、それでもガス抜きは必要になってくる。五百年以上も生きているのに、まだまだ感情制御には苦労する。

名前があった頃。人間であった頃。テティナと呼ばれていた頃。そんな頃の夢だった。

 

高山の斜面に張り付いた小さな村。人口百人にみたず、段々畑を作って暮らしていたそこで、テティナは産まれた。何もなかったが、何でもある所であった。何処までも広がる草原があった。何処までも続く山があった。可愛い動物もいたし、美味しい肉だってあった。テティナは石造りの村から飛び出して、元気に走り回るのが大好きだった。荒れ果てた岩地を走り抜けて、高山植物を摘んでおやつにして。何より大好きだったのは、村のはずれの岩肌に寝転がること。

其処からは、見えるのだ。山の裾から、遙か地平の果てにまで広がる、大きな大きなジャングルが。

高度があるから、木々の詳しい様子などは分からない。ただ緑であるだけだ。緑が延々と遠くまで続く、それだけの光景。今はまだ日の出前だから、暗褐色にしか見えないが、それでも素晴らしい。単純なだけに圧倒的、そしてあまりにも美しい。朝、畑仕事の前に抜け出して、陽が昇る前にここに来るのが、テティナの日課だった。褐色の肌を撫でる風が気持ちいい。

軍役に取られたおっとうはまだ帰ってこない。七人もいた兄妹達も、今は四人しか残っていないし、更に減ることも決まっている。おっかあは体をこわして、畑仕事は唯一の男手である兄さんと、その下のテティナの役割。そんな苦しい生活の中、テティナの唯一の楽しみこそが、この朝の日課であった。

それなのに、どうしても辛い。涙をこぼしそうになる。目を擦って、岩肌から半身を起こすと、大きく欠伸をして自分をごまかす。ごまかしきれない。下の妹が泣くのが分かり切っている。どうやって慰めたものか、苦しくて辛くて、心が張り裂けそうだった。

姉さんが生贄に取られてしまう。それを思うと、どうにも心を落ち着かせるのが難しかった。

地平線の彼方から、太陽がせり上がってくる。あいつのせいだ。あいつが悪いんだ。直射日光を見ないように目を細めて、唇を噛む。

詳しくは知らない。だが、概要は知っている。要するにあいつは人間の心臓が大好きで、それを与えないと臍を曲げるのだ。だから、せめて朝昇ってくるのを見て、憂さ晴らしをする。この位置から太陽が昇ってくるのを見ると、奴を征服したような気になるのだ。

生贄になるのは皆のため。だから最高の名誉が与えられる。

それだというのに。アステカが戦争をして、余所の国から足りない分の生贄を捕まえてくるのを、この国の民は誰だって知っている。その戦のためにおっとうが連れて行かれたことも知っている。それに、どういう訳だか知らないが、テティナの家から生贄が選ばれることが多いのだ。姉さんが生贄にされる前は、上の姉さんが。その前は更に上の姉さんも。名誉だ名誉だとはやし立てる村人が、影で安堵しているのを、テティナは知っている。

しかし、どうすることだって出来ない。テティナは多少お裁縫と畑仕事が出来るだけの無力な子供だ。まだ大人にもなっていない。

太陽が昇ってきたから、畑仕事の時間だ。テティナは村へと小走りで急ぐ。ぱたぱたと走り回る足音は一つだけ。こんな時間に外を走り回っているのはテティナだけだ。家に飛び込んで、姉と一緒にやつれた母の料理を手伝って一緒に作る。やがて兄と、一番下の妹が起きてきた。玉蜀黍の粉で作った粗末な粥をみんなで食べる。その後は畑仕事だ。辛い畑仕事が終わると、すぐに夜が来る。太陽が沈むと、一日は終わる。雑魚寝して、次の日が来るのを待つ。

人生はそれだけ。別にテティナだけではない。農民はみんなそのような生活を送るのである。誰もが悪い意味で平等であり、誰もに進歩の余地がない。それがこういう小さな村の灰色の現実であった。

何日かして、姉さんが連れて行かれた。役人達は名誉なことだと言っていた。

何が名誉だ。死んだら終わりじゃないか。テティナは心中毒づいていた。

薄々みんな感じていることを、テティナは具体的に心の中で形にしていた。生贄に連れて行かれる姉さんは着飾ってとても綺麗だった。だから何だ。殺されるだけじゃないか。

地主の家の犬が吠えていた。いつも誰かが生贄に連れて行かれる時、興奮して良く吠える嫌な犬だった。その日、犬は特にきゃんきゃん吠えていた。甘やかしている地主にも腹が立った。それ以上に、このバカ犬にはもっと腹が立った。名誉だ名誉だと単純に喜んでいる馬鹿な兄にも苛立ったが、仕方が無いことだと心を整理できた。結局、憎悪は犬に集中指向した。

夜。テティナは犬小屋に行った。忍び込むのなんて簡単だった。寝ている犬は太っていて無防備で、テティナ達小作人よりいいものを食べているのは明らかだった。その分鈍重で、テティナが側にあった太い棒で殴り殺すまで身動き一つしなかった。翌朝地主が大騒ぎしたが、結局犯人は見付からなかった。いい気味だった。その時だけは。

翌朝、目を覚まして、虚しいだけだった。何もかもがけだるかった。

そこで目が覚めた。夢だと分かっているのに、過去の光景は、太陽神をいつも疲れさせる。彼女は髪を掻き上げると、手を叩いて部下を呼んだ。すぐに飛んできた侍臣に状況を聞く。負傷していた能力者七名が順調に回復しているという報告は、太陽神を安堵させた。広域爆撃殲滅型能力者の攻撃をもろに受けたという彼らの怪我は、太陽神に取って最大の懸案事項だった。タラスクもほぼ回復し、明日からは前線に立てるという。

まだ朝も早い。眠れるときに眠っておくのが、支配者の仕事だ。気分は悪いが、再び無理に眠りに入る。今寝ておかないと、いつ寝られるか分からないのである。

案の定、浅い眠りの中、また昔の夢を見た。

 

姉が消えた虚脱から立ち直ると、テティナには新しい意識が産まれていた。自信である。それとは別に、犬を殴り殺したことによって、彼女の中で何かが生じていた。それは冷酷さであり、その反面の強さでもあり、勿論邪悪さでもあっただろう。

自分の負担が大きくなったこともあり、良い意味でも悪い意味でも力と自信を付けたテティナは、少しずつ時間を作っては遠出をするようになっていった。農作業の疲労はきつかったが、新しい場所を見る事の喜びに比べれば、何でもなかった。

いつ自分が生贄に選ばれるのか、分からないと言う状況でもある。遠出をするようになってから知ったのだが、村の連中は立場的に弱いテティナの家から生贄が出るように、揃って役人に賄賂を渡していたのである。そんな事実を知った以上、村に留まる気など無い。いざというときは、ジャングルにでも山奥にでも逃げ込むつもりだった。或いはアステカが戦っている別の国へ逃げてしまうのも良いかも知れない。

そんな事を考えている内に、状況は更に変化していった。戦争が激しくなったとかで、兄が兵士として徴発されたのである。母は病死し、妹も流行病でころりと逝ってしまった。村の連中はテティナを奴隷として売り飛ばすことに決めたらしく、夜中に捕まえに来たが、事前に気配を察知していたテティナはさっさと村を逃げ出した。もちろん、ただで逃げるような無粋な真似はしなかった。散々世話になった地主の家に火を付けて、更に自宅の周囲にはトラップを仕掛けての逃走であった。

夜闇の中走った。朝方走り回っていたお陰で、村の周囲はそのままテティナの庭だった。振り返ると燃えさかる地主の家が見えた。家の周囲でも五六人は死んだだろう。自業自得である。いい気味だと呟くと、テティナは村を去り、ジャングルに逃げ込んだのだった。

しばらくはそのままで良かった。ジャングルの中には豊富に食べ物があったし、点在する村の警戒域を縫うようにして抜けていけば、人間と遭遇することもなかった。簡易住居を造るスキルもどんどん上がっていったし、猛獣を避ける方法も身に付いた。毒のある食べ物もすぐに見分けられるようになった。後から思えば、この手のサバイバルに天性の才能があったのだろう。生活力は元々あったが、それも才能と経験値とが重なり合った結果、嫌と言うほど高まった。別に人間は人間と一緒にいなくとも、生きることが出来るのだ。

いつのまにかアステカの支配地域を抜けていたテティナは、ふとしたことで行き倒れを助けた。ヒゲが伸びた中年の男だった。特に深いジャングルでもないのに、しかも大人だというのに行き倒れる脆弱さがその時は不思議だった。まだ大人になっていないテティナは、まだ客観的視点が未熟で、少し歪な常識感覚を持っていた。

火を起こして粥を作り振る舞う。玉蜀黍だけではなく、野草を加えた粥だ。作った自分で言うのも何だが、昔村で食べていたのよりもずっと美味しい。ジャングルの中に作った小さな畑は、充分機能している。礼を言いながら痩せた男は粥を食い、代金代わりにと色々な話をしてくれた。言葉は微妙に違っていたが、イントネーションが似ていたので、かろうじて理解は出来た。ジャングルの中で社会から隔絶して生きていたテティナには新鮮な話ばかりだったが、別に社会に思慕は感じなかった。

その過程で、男の民族の宗教観を聞いた。太陽の崇拝は同じだが、それは微妙に違っていた。神の名前も違ったし、教えも違った。何より驚かされたのは、生贄が絶対ではないと言うことであった。神の機嫌がいいときには、生贄が撤回されることもあり、何より生贄を得るために戦争をする等という愚行はないというのだ。

この時、テティナが長年抱いていた疑問が、確信に変わったのである。

インカと呼ばれる別の国から来た男を見送った後、テティナは考えた。どうすればこの悪習を止めさせることが出来るのかと。他の国では別の考え方をしていて、それでも太陽は昇ってきているのだ。神は絶対ではないし、生贄だって絶対ではない。もし生贄のために戦争をするような制度がもっと早くに終わっていれば。おっとうも兄ちゃんも戦争に行かずに済んだはずだ。お姉ちゃん達も死なずに済んだはずだ。

悩み抜いたテティナは、アステカの首都に潜り込んだ。それが悲劇と破滅の第一歩だとも知らずに。

昔の光景が、恐ろしい速さで流れていく。夢だと分かっているのに、一度見てしまうと、止められない。数分で何年分もの夢を見たような気がする日もある。人間をやめてから、テティナの精神領域は桁違いに広くなったが、それとこれだけはあまり関係が無い気もする。

一つだけ、確かなことがある。テティナは後悔していないという事だ。失敗もあったし、悲しい思いにも囚われた。だが自分がしたことには後悔していない。

ぼんやりと目を開ける。目がまた醒めてしまったらしい。時計を見ると、まだ少し時間がある。再び目を閉じると、否応なしにすぐに夢に落ちる。まだ眠っていた方がいい。眠っていた方が。

肘枕が崩れて、がくりと体が落ちるが、そのまま寝てしまう。今眠る前は、六日も起きっぱなしだったのだ。疲れは、まだまだ全身に溜まりきっていた。

 

アステカの首都テノチティトラン。最盛期には人口三十万を数えた大都市であり、軍事大国アステカの首都。湖に浮かぶその巨大都市は、非常に美しい場所であった。

街には活気があり、奴隷も多くいた。それらに紛れ込んで、首都に入り込むのは難しくなかった。森で猛獣を相手にするより何倍も簡単だったし、食物の確保も容易だった。適当な空き家を確保すると、其処を拠点に、テティナはテノチティトランを探り始めた。

この頃のテティナは、昔のような無力な小娘ではなかった。まだ生理的に大人にはなっていなかったが、伊達にジャングルの中で一人暮らししていたわけではない。夜陰に乗じて動き回り、最初に彼女が確認したのは、街の人間の身体能力だった。流石に兵士はそれなりに強いようだったが、一般の街人達は充分テティナの手に負える相手ばかりであった。良く太っていて体格も良いのだが、動きが基本的に鈍い。どういう鍛え方をしているのかと、一人捕まえて問いただしてやりたい所であった。

何日かかけて湖の中央に浮かぶ水上都市を探っていく。特に中央にある神殿への潜入には気を使った。兵士が大勢詰めていたし、掴まれば確実に殺されると思ったからだ。一月ほどかけて、兵士の運行スケジュールを掴んだテティナは、神殿へと忍び込んだ。

ぐらり。

映像が揺れた。きしんだ。

これ以上進んでは行けない。見ては行けない。聞いては行けない。ノイズが耳の奥へと飛び込んでくる。体が熱い。

神殿の奥へ奥へ。最深部にあるピラミッド状の祭壇を目指す。巡回する兵士達の目をすり抜けて、ジャングルで培った身体能力にものを言わせ、ある時は天井にしがみつき、ある時は壁の隅に隠れてすすむ。やがて、最奥部で、見た。

燦々と注ぐ太陽。焚かれるかがり火。台座に縛り付けられている男の姿。その前には、石で作った大ナイフを手にした、仮面を被った屈強な男。一目で分かった。少し頭がおかしい。筋肉の動きもそうだし、視線の揺れ方も常軌を逸している。なんだこれは。これが、神に捧げる生贄?生贄の男は怯えきっていて、悲鳴を上げているではないか。そしてそれを殺そうとしている男は、頭のネジが何本も弛んでしまっているではないか。

呪文が唱えられている。延々と唱えられている。男の悲鳴がかきけされんほどに。徐々に高まっていく異様な気配。テティナは頭の芯が揺れるのを感じた。

だから言ったのに。行くんじゃないって。

誰かの声がする。誰かの声がする。嘲る女の子の声。そう、自分自身の声。

ぎゃああああああああああっ!

悲鳴が轟き渡る。何が行われているのか、一瞬分からなかった。脳があまりの光景に麻痺していた。

生きたまま胸に突き立てられたナイフが、皮を、肉を、骨を抉っていた。鮮血が吹き上がり、悲鳴が轟き続け、やがて真っ赤になった生贄の胸に、仮面の男が手を突っ込んだ。

ぎゃ、ぎゃああああ、ひぎゃああああああああああああっ、あっ!

そして、まだ生贄が生きている内に。心臓を、えぐり出していた。

糸が切れた人形のように生贄は仰け反ったまま動かなくなる。祭壇から多量の血が流れ、大気中に錆の匂いが充満していく。

仮面の男が、嬌笑した。

ひ、ひひ、ひひひひひひひひひひっ! ひひひひひひひひひひひひっ!

ばちんと音がして、頭の中で何かが弾ける。これが、儀式だというのか。これが、こんなものが!心臓をえぐり取った男は嬌笑し続けており、それを呪文がかき消していた。そして見た。祭壇の手前。一番儀式をよく見る事が出来る場所に座っているのは、この国の王ではないか。この街に来たとき、偶然見たから間違いない。しかも奴は、儀式を見て欠伸さえしている!

後は、どうやって逃げ出したのか、分からなかった。逃げる途中に、テティナは見た。牢に入れられた、若い娘達を。テティナと殆ど年が変わらないような娘もいた。みんな生贄にされるのだ。しかもみんなそれを喜んでいるのだ。

実際に儀式を見たから分かる。こんな事で、太陽の運行に影響なぞあるわけがない。頭のネジが弛んでる男が、人の心臓をえぐり出して、どう太陽が動くというのだ。どうみんなのためになるというのだ。こんな事のために、おっとうと兄ちゃんは、戦争に行って怖い思いをし続けているというのか。

あれほど社会には興味がなかったというのに。あれほどどうなろうと知ったことではなかったというのに。必死に訴えた。自分に出来る範囲内で、必死に訴えた。素質がありそうな人間を見つけては、必死に訴え廻った。

儀式とはどんなものかと。こんな儀式はまやかしだと。生贄の儀式は、狂気の沙汰だと。神様がいるとしても、こんな事で喜ぶはずがないと。あんな儀式にかけられて、お姉ちゃんが心臓を生きたままえぐり出されたというのか。

意外なことに。生贄に反対する人間は大勢いた。アステカの支配地域にあった他民族の者達は特に話に耳を傾けてくれる確率が高かった。テティナの訴えは少しずつ浸透していき、そしてある一定まで広がってから、徹底的に弾圧された。

テティナの訴えを聞いてくれた人達は、皆殺しにされた。

 

最後まで一緒に戦ってくれた屈強な戦士イフノフが頭をたたき割られた所で、太陽神は目が覚めた。戦士イフノフの最後は、今でも目に焼き付いている。既に大人だった彼は寡黙な戦士であった。そして、どうやらテティナを愛していたようである。数十年後に再会した彼の友人の話によると、テティナが大人になったら夫の名乗りを上げるつもりらしかった。娘を生贄に捧げながらも、社会のあり方に疑問を抱いていた彼。テティナの言葉を聞いて、皆の音頭を率先して取ってくれた戦士。テティナも彼が嫌いではなかった。だが、人間を止めてしまった瞳から、涙が零れることはなかった。古い思い出である。

何もかも失い、身一つでジャングルをさまよっていたテティナのもとに、地獄の使いと名乗る異形が訪れたのが、その後だった。テティナは迷うことなく魂を売り、人間としての名前を捨てた。そして自分を最後まで追ってきていた王の犬共を、一匹残らず喰い殺した。それが、人間としての、テティナの最後だった。

太陽神は全身の冷や汗を感じた。衣服を肌から滑らすと、用意されているタオルで全身を丁寧に拭いていった。褐色の肌は、汗で僅かに火照っていた。

彼女の人生には、失敗ばかりだった。私は絶対に帰ってくると言ったのも、大きな失敗だった。それが古代の英雄の伝説と結びつき、ケツアルコアトル信仰に繋がってしまった。その信仰は侵略者に利用され、アステカは滅びた。そして中南米は生贄の弊害の比ではない、欧米人による文明完全殲滅と根元搾取にさらされたのである。

だから、太陽神は守らなければならなかった。せめて、自分を受け入れてくれた陽の翼の者達を。

太陽神は深い罪悪感を抱え込んでいる。守るべきものを何度も護れなかった悔しさが、その主な根元だ。

客観的に見れば、責任は無いかも知れない。しかしそうやって割り切れるほどに、太陽神は人間の側から離れていなかった。そして責任を取る能力を持っている以上、逃げる気も無かった。

アステカから迫害されていた者達を助けて、そのリーダーに収まって。能力者について調べるようになってから、太陽神はさまざまに古代信仰について知ることになった。多くの人間から知識を吸収した為である。自分が神と呼ばれ信仰される側になったからという事もある。それを良く知ることが、組織をより効率よく纏める事に繋がるという理由もある。

古代の人類は、もっとも身近でありながら、もっとも近寄れぬ巨大な存在に信仰を抱く事が多かった。ある時は大河がそうであり、ある時は山がそうであった。海、雷、そして炎、、星、月、そして太陽。人知の到らぬ存在は神として崇められる存在となり、人間の基準でさまざまな性格が想像され、それに伴って儀式が行われるようになった。それは神との交渉であった。人ならぬ者と交渉し、ある時は力を、ある時は収穫を、ある時は平穏な日々を祈ったのである。

そんな古代信仰の中で、大きな勢力を持っていた形態は幾つかある。有名なのが大地そのものを崇める地母神信仰である。農耕民族はこの信仰形態を取ることが多く、その儀式は多分にエロティックな色彩を帯びることが多い。

太陽神崇拝も、そんな古くからある、強大な信仰の一つである。

この信仰形態の特徴は、太陽が社会に大きな影響を与える地域に多いと言うことであろう。中南米もそうであった。熱帯雨林に覆われたこの地域では、人間の生活は太陽の機嫌によって大きく左右されたからである。やがて、太陽に働きかけようと言う発想が生まれてきたのは自然な流れであった。

古代の信仰では、何処発祥の文明であろうと、残虐な生贄を要求する事が多かった。西欧のドルイドは巨大なヒトガタに人間を詰め込んで丸焼きにしたし、中東のモロク信仰では鉄の檻に入れた子供を丸焼きにして神に捧げた。アジアでは神となった王に殉死する形で大勢の奴隷が殺されたし、エジプトでは王の死後の生活を支えるために、大勢のミイラが作られた。

だから、決してアステカで行われていたことは異常な儀式ではないのだ。ただし、文明の発達とともに葬り去られるべき悪習であり、しかしこの地域ではそれが遅くまで行われなかった。それが不幸だったのである。

問題であったのは、中南米が他の地域と交わることが難しい地域にあったと言うことであり、組織的な技術交換がどうしても行われなかった。結果何が起こったかというと、停滞と、他文明地域からの殲滅的侵略の招聘である。

二度と、それを為してはならない。

太陽神は衣服を身につけ外に出た。もう疲れは大体取れたし、まだ御前会議までには時間がある。外に出て、礼をするタラスクの背中に登らせて貰う。遙か本土の先、地平の果てから、陽が昇り始めていた。

かって散々憎んだ太陽。恨んだ太陽。

だが、今はただ次の日の訪れを呼ぶものとして、認識できるようになっていた。

側に侍臣が跪く。

「太陽神」

「うむ」

「CIAに潜入させていたスパイからの連絡です。 米国が、太陽神の読み通り核攻撃の準備を始めた模様です」

「すぐに会議を行う。 皆予定通りの配置に付かせよ」

束の間の休みは終わった。そして、いよいよ最終段階が近い。

地下で胎動する巨大な力。自分の分身であり、組織最強の切り札。ケツアルコアトルが羽ばたく時は、間近に迫っていた。

 

1,暗躍

 

時間ばかりが過ぎていった。大損害を受けた米軍は司令官を交代させ、戦力の建て直しと増員を行っていたが、それはあくまで補充と再編であり、第二次攻撃を開始する様子はまだまだ見えなかった。敵がラドンを失った今こそ、攻撃の好機だと利津は睨んでいたのだが、言っても聞き入れてはくれなかった。笑いながら頭を撫でられたときには、流石に帰り道罪もない空き缶を蹴飛ばしてしまったほどである。

今日も米軍のベースに真由美を連れてわざわざ訪れたのだが、進展はなかった。米軍は増員を行っていると報告を受けただけで、具体的にどんな作戦を遂行する予定なのか、どれだけの戦力を投入するのか、説明は一切無い。部外者ならともかく、作戦の中核になる利津に、である。利津の能力者としての力は認めて貰っているようなのだが、戦略家としての力量は認めて貰えていないのだ。今度の司令官の力が前より劣るとは思わないのだが、築いておいた信頼が一からやり直しなのは少々面倒くさい。

イライラが募る。もともと利津はいつもの表情からも分かるとおり、優しいわけでもなく、気が長いわけでもない。無能なスポーツ業界の大人達の都合で痛めつけられ続け、実の両親と称する生物にも散々な虐待を受けた利津は、ねえちゃん以外の人間に対して、今だ心に壁を作っている。神子相争の同級生達は別だが、他は今でもまだ信用しきれない。弟子の一人である真由美もそうだ。

「利津先生」

「なんですの?」

「……っ、すみません」

「機嫌も悪くなりますわ。 それで、何ですの?」

側を歩く真由美も、苛立ちの要因になっている。真由美はまだまだ背が伸びていて、利津に会ったときよりも三pくらいは高くなっている。世の中は不公平だと思う。それ以上に、こいつがどうやら自分に対して母性本能を働かせているらしいことにも腹が立つ。女の子なら誰でもそうだと桐は言っていたが、それでも限度がある。よりにもよって四歳も年下(もう少しで三歳に追いつかれるが)のがきんちょの母性本能などの対象に、どうしてならねばいけないのだ。

「我々だけで、攻撃する訳にはいきませんか?」

「随分積極的に考えるようになりましたわね」

「え……はい。 でも、こんな戦い、早く終わらせたいんですから」

「はっきりいって、我々だけでの攻略は不可能ですわ。 ……今、世界のどれだけの国で戦争しているか知っています?」

具体的に戦争状態であることを宣言している国だけではなく、激しい内戦に見舞われている国をも含めると、その数は軽く世界全土に存在する国家の数割に達する。しかも呆れた話ながら、現在は世界の歴史上、もっとも平和な時代なのである。

そういった現実をまず見て、それから対処案を練る。それが大人の対応というものだ。基本的に何事も目標を設定して、それの成就に向けて動くのが当たり前。昔綺麗事だったものの幾つかは、現在では実行可能なものになってきている。それは言うまでもなく先人の努力のたまものだ。

「……」

「世の中は下らないし、世間に蠢く人間どもにはろくなのがいない。 それは事実ですけれど、私たちは少なくともそいつらと出来るだけ上手くやっていこうって考えているし、自分たちに出来ることは少しずつこなしていこうとも考えていますわ。 そして、今はともかく。 真由美さん、貴方もいずれはそれを本気で考えていかなければならなくなっていきますわ」

真由美が完全に沈黙したのを見計らうと、利津は完全にタクシー代わりにされてご立腹のケヴィンの車に乗り込んだ。ケヴィンは大音量でハードロックを掛けていたが、女性陣が戻ってくるときちんと音を下げるマナーも持ち合わせていた。この辺は年の功がなせる業であろう。

少し古めのセダンだが、乗る分には全く問題がない。暖房も良く聞いている。車に溜まっていた煙を、窓を開けて出しながら、ケヴィンは言った。

「どうだった?」

「どうもこうも」

「そうか。 合衆国が核の使用に踏み切るって、あんたは睨んでるんだったよな」

「……今のままでは、そうなる可能性が高いですわね」

ケヴィンは面白く無さそうだった。利津には気持ちが良く分かる。彼女の客先はかなり幅広く、外国人が品物を見に来ることもある。ネットでは交友関係も広く、米国人の友達もいる。だから、少しなら気持ちが理解出来る。

核兵器に対して過敏なのは、決して日本人だけではないのだ。

「そろそろ出すぞ」

「よろしくお願いいたしますわ」

「お願いします」

「ああ、少し揺れるかもしれねえけど、勘弁な」

ケヴィンは何回かの戦いを経てから、利津達に自然に敬意を払ってくれるようになった。それが利津には心地よい。

「なあ、何とかならねえのか?」

「陽の翼は巧妙ですわ。 まずは米軍の核使用を止めさせなければなりませんけれど」

「……大統領がどうでるか、次第だな」

左手だけで器用にハンドルを操りながら、ケヴィンはぼやいた。

ベースはあのペンションから、既に移動済みだ。この米軍ベースから十キロほどの、同じような構造の廃ペンションに代えている。機材等はもう既に運び込み済みで、いつでも戦闘に出られる。今度嬉しいのは、柔らかいベットが入ったことだろう。前の廃ペンションにあったベットは、硬くて仕方がなかったのだ。

さて、どうするべきか。車に揺られながら、利津は思惑を巡らせる。

米国は現在世界のしるべであり、経済力軍事力ともに追随する存在がいない。だがかってのローマ帝国がそうであったように、特定の国家が強力すぎる力を持つと、平和と同時に大きな歪みが生じるのもまた事実である。

また、米国による世界的な安定を産んでいる最大の要因の一つが、核兵器である。使用したらどのような兵器でも対抗する術はなく、一撃で全てが灰燼と帰すこの最強の存在が、世界から少なくとも表だっての大国同士の戦争を奪い去った。もしも核兵器がなかった場合、とっくに第三次世界大戦が行われていたであろう。

だが、広島長崎の悲劇を見るまでもなく、核兵器はその凄まじすぎる破壊力からも、忌み嫌われる存在である。更に使用後の放射能汚染も強烈で、まさに最終兵器と言うに相応しい。忌み嫌われながらも絶対に必要なそれは、軍事力というものの意味を極限まで圧縮したかのようである。そして米国人も、核兵器は決して好んでいない。広島長崎の悲劇は彼らも良く知っているのだ。

しかし、陽の翼による第二の抑止兵器開発が成功し、それが核兵器を凌ぐものだとすると、その話もまた意味が違ってくる。新しい秩序が構築されかねず、その過程で世界的に大きな混乱が生じるのは確実。下手をすると大国同士の衝突から核使用という悪夢に到達するかも知れない。

陽の翼は巧妙だ。自らの力を強化するためにという意味もあったのだろうが、先進各国で騒ぎを起こすことで耳目を引きつけさせ、けっして米国だけの問題ではなく、世界的な次元の話に今回の戦いを引き上げてしまった。表立っての話ではないが、今この件に注目していない先進国や大国など無い。

もし米国だけが相手なのであれば、こうはいかなかったであろう。米国も兵力を波状投入して来たかも知れず、そうなってしまえば幾ら陽の翼でもいずれば屈服せざるを得ない。古代龍は強いが無敵というわけではないし、味方の人員については更に限界の到達が早い。それに対して、今回の状況下、もし新兵器のデモンストレーションが成功すれば、陽の翼にすり寄る国が出てくる可能性は極めて高い。ロシアや中国は勿論、長年米国に主導権を握られ続けた西欧諸国も乗るかも知れない。

更に、米国が核兵器を使用してそれが通用しなかった場合は、考えるのも恐ろしい事態が発生するだろう。元々自由の国を標榜する米国だが、決してその本質がそうではない事は明らかである。世界の各地には植民地同然の扱いを受けている国家も多いし、抑圧されている民族も多い。はっきりいって、米国による一国主導が行われている事によって、生じている世界全土に跨った平和の恩恵は計り知れない。しかしその一方で、虐げられている者達もまた限りなくいるのである。それらの者達が、一斉に蜂起するかも知れない。

そうなれば、世界大戦の勃発に到りかねない。

偽善だとか、偽りの平和だとか、そういう言葉は愚かだ。現実に砲火がかわされないだけで、どれだけの無駄な犠牲が避けられるか。どんな政治体制にも矛盾はあるし、虐げられる人間が存在しない国家など、史上無い。それを少しずつ減らしてきただけでも、人類の努力は評価できる。無論腐敗しきった国家は滅びるべきだが、米国は果たしてそうなのだろうか。現在の平和はそうなのだろうか。

太陽神は今後の展開を見抜いているはずだ。奴にとって一番好都合なのは、米軍による核攻撃の実施であろう。さて、それをどうやって止めるか。

出来ることなら、やるべきだ。地獄の、どん底の状況から這い上がってきたからこそ、その言葉の価値が利津には分かる。

「ケヴィンさん」

「うん?」

「大統領を現在最も強力に動かしているパワーエリートは誰か分かりますか?」

「パワーエリート?」

素っ頓狂な声を上げたのは真由美だ。頭を掻きながら、利津は隣の真由美に説明する。

巨大なる米国を動かしているのは、実際には大統領ではない。大統領の後ろには、パワーエリートと呼ばれる、財界に巨大な力を持つ者達がいるのである。石油産業や軍事産業に大きな力を持ち、財界政界に大きなパイプをつなげている者達がそう呼ばれる。巨大な米国の、真の支配者である。

彼らが動かしうる金は尋常な量ではなく、手にしている組織の巨大さと言い、日本人の想像を遙かに超えるスケールの存在である。大統領の決断には、少なからず彼らの判断が影響しているのだ。大統領は彼らと意見を調整しつつ、世論や政界にも話を付けながら、さまざまな決断を下しているのだ。それが民主主義国家というものである。大統領が私的に出来ることなどたかが知れているのだ。

古代の貴族豪族は形を変えて、今も息づいている。こういった構造は、民主主義隆盛の現在も、古代の専制国家からあまり変わっていない。大きな差は、その支配者階級に一般人が食い込みやすいと言うことだろう。

古代社会では、国家が転覆する革命時や戦乱時にしかそのチャンスがなかった。今では出身が靴屋だろうがサラリーマンだろうが、到達点次第では大丈夫な所が古代と大きく違っている。ただ、米国の大統領には、最初に北米大陸に到達した英国系の者達の子孫がなる事が不文律となっており(例外少数あり)、この手の矛盾は先進国でも今だ解消されていないことが多い。また、少し油断するとすぐに社会的な風通しは悪くなり、国家そのものの弱体化に繋がるのは言うまでもないことだ。

そんな状況下で産まれたのが、パワーエリートである。古代から伝わる悪しき風習と、現在の社会構造の中で生き残る、巨大な力持つ社会的怪物である。

「大統領に直接面談するよりも、多分其方に話を付ける方が早いですわ」

「で……でも、そんなに上手くいくでしょうか」

「上手くいかなければ、じきに核兵器がぶっ放されて、最悪の場合世界大戦が始まりますわ。 不幸にも私も桐も零香も由紀も、国内の名士とはある程度面識がありますけれど、海外の名士には顔が利きませんし、どうするか考えないと難しいですわね」

「……」

ケヴィンが窓の外を見た。新しいベースへの帰り道、見知った家々が後ろへ飛んでいく。あまり豊かな国ではないM国は、今騒然としている。だがこの辺りは案外落ち着いたものである。理由は、多分陽の翼の協力者が多いからだろう。

信頼しきっているのだ。太陽神のことを。

タバコを吸いたそうな顔で、ケヴィンは言う。

「俺は故国が好きじゃねえ。 俺は故国の作った法律のせいで、娘に会うことだって出来ねえ。 多分オヤジだって、名乗り出ることだって許されないだろうよ。 命を賭けて、故国のために戦ってきたってのにな」

「軍人が報われないのは、私の国だけではありませんわね」

「だけどな、こんな状況じゃ、俺だってどうにか出来ることをしたいって思う。 手が届く範囲内で、出来ることをしてみたい。 結果が全ての世界だってのは分かってる。 だからって、最初っから諦めるのは柄じゃないんでね」

案外ポジティブな思考である。利津も驚いたが、隣の真由美はまともに感動しているようだった。頬を若々しく染めて、こくこく頷いている。

「今の司令官じゃ難しいか……俺の上官に相談してみる。 あんたの戦略的な見識には、正直驚かされることが多いからな。 幸いなことに、俺の国の軍隊は能力主義だ。 何か上手い手を真剣に考えてくれるかも知れねえ」

「有り難うございます。 頼りにしていますわ」

それだけ言うと、利津はペンションに携帯で連絡を入れ、ケヴィン氏は帰り道から右折して道を変えた。司令部ではなく特殊部隊のベースへ急ぐ。特殊部隊のベースも司令部の近くに設置されているが、それでも二キロほどは走らなければならない。まあ、車であれば数分の距離だが。

「米国が好きではないのなら、どうしてこんな危険な仕事をしているんですの?」

「他に何の能もないからだよ」

「そんな……」

「どうしててめーが悲しそうな声を出すんだ。 頼むから止めてくれ」

真由美の本当に悲しそうな顔を見て、露骨に狼狽するケヴィン氏。零香が遊ぶのも何だか分かるような気がした。結構面白いおじさんだ。ついでに言うと、この人を振った奥さんには見る目がない。

ベースにはすぐに着いた。一応見かけはM国軍のキャンプだが、中にはいると米軍の特殊部隊員が彷徨いている。利津達能力者は前回の戦いで最後尾に残って戦い続けた。そのため、歩いていると兵隊さん達から普通に敬礼が飛んでくる。どぎまぎしている真由美に対して、利津はもう慣れたものだ。敬礼を返しながら歩いていると、不意に真由美が言った。

「大統領にそのパワーエリートって人達から話をして貰うのと並行して……太陽神って人に……話は出来ないでしょうか」

「今の時点では無理ですわ。 連中にとって思い通りに進んでいる状況で、交渉なんて受けるわけがありませんでしょうに」

「世界大戦になるとしてもですか?」

「それを知った上で、連中は動いているのですわ」

世の中には、利己的で酷薄非情な人間が幾らでもいる。例えば、環境次第で人間は別の幸せを見つけると宣うような連中が典型的なそれだ。そういう理屈を持ち出す人間は、他人の全てを否定してまわる事になんの躊躇いも覚えないし、その後に起こる破滅に対しても責任を一切取らない。奴隷労働を見ても平然としているし、命を奪っても罪悪感など覚えない。何しろ、正しいのは自分なのだから。

勿論、戦争が起こることを熱望する人間もいる。戦争の中で生きてきた人間の中には、自分たちの平和のため、大乱を起こすことをためらわないものだって少なくないだろう。最初はためらうとしても、他に手段がない場合はどうか。良心的な人間も、大乱を起こすかも知れない。

一つの視点でものを見るのは、思考の硬直化を招く。自分とは違う立場、思考の人間は世界に大勢いるのだ。だが人類の殆どは他者を理解しようとはしないし、そもそも他の思想を悪と決めつけることに疑問を抱かない。古来よりこの構造に代わりはない。だから戦争が起こり、悲劇は繰り返される。

人間とは、そんな程度の生き物なのだ。

そして、高い能力を持ち、あまねく広くを理解出来る人間は、英雄と呼ばれるのである。だからこそに、英雄は社会にとって都合の良い道具に過ぎない。また、広くを理解出来ても能力が足りない人間がどういう扱いを受けるか見ても、その醜い真実は明らかだ。

真由美は悲しそうに俯く。だが女の涙が通用する相手ではない。

「私には、分かりません」

「分からなければ、全滅するまで殺し合いをするだけですわ」

「……」

「現実を直視できないなら、此処に来た意味がありませんわよ。 もし他に案があるなら、具体的なレベルで呈示してご覧なさい。 もし太陽神を交渉のテーブルに今の時点で引っ張り出せる名案があるのなら、私が最大の支援をしてあげます。 現状を嘆く前に、何が出来るのか整理して、何をするべきなのか考えなさい。 それが大人の行動ですわ」

少し言い方がきついかとも利津は思ったが、此処は仕方がない。やれやれとばかりに頭を掻いているケヴィンが立ち止まった。ベースの中枢部に着いたのだ。歩哨に敬礼して中に入り、地下へ降りる。

基地の最深部には近代的な設備が置いてあり、何人かのオペレーターが機械に張り付いて情報を整理している。人が忙しそうに行き交っていて、殺気だった怒鳴り声もした。道のりからして、ケヴィンの上官はこの基地の司令官ではないらしい。迂遠な話である。

あの戦いの後も、特殊部隊は陽の翼本拠周辺に何度か偵察に行っており、被害も出しているらしいと利津は聞いている。仕事とは言え大変だ。

戸を開けると、デスクについて頭を抱えている中年のおじさんがいた。中年と言うには少し酷かも知れない。ケヴィン氏よりも大分若く、多分三十代前半だろう。ケヴィン氏が英語でしばしやりとりをしていたが、やがて振り返る。

「こちらが俺の上司ユンカート中佐だ。 数日前までは合衆国のベースで指揮をしていたのだが、今はこっちで本腰を入れて指揮に当たっている」

「ユンカートだ。 よろしく」

「よろしくお願いしますわ」

「よろしくお願いします」

丁寧に礼をする利津と真由美を見て、ユンカート氏はどうしていいのか分からない様子で、取り合えず握手を求めてきた。こういう礼儀作法の違いに、あまり接したことがないのかも知れない。米国式の礼儀作法を使ってくる相手としか会ったことが無いのかも知れない。エリートにはありがちな話だ。

用意された椅子に座ると、自分も少しだらしない格好で椅子に座りながら、ケヴィンが言う。

「専門用語は俺が翻訳する。 ユンカート中佐はエリートで、軍の上層部にもコネがあるから、ひょっとしたら話を通せるかも知れない」

「それは心強いですわ」

「り、利津先生……」

「まあ、なんだ。 正々堂々殺し合いをするよりも、汚い手使ってでも平和を創る方がいいってのには、俺も賛成だ。 で、話を始めてくれ。 翻訳って結構神経使うんだからよ」

ひょっとして日本語が分かるのか、ユンカート中佐は呆れてやりとりを見守っていた。

 

どうにか話が伝わって、ユンカート中佐も協力を約束してくれた。ケヴィン氏は相変わらず不機嫌そうに帰りの車を運転して、ベースに着いたのは夕刻だった。酒を買いに行くと出かけたケヴィン氏を見送って、ペンションに入ろうとするが、入り口でストップ。鍵が掛かっている。

面倒くさいが、此処は乗ってあげなければならない。

「合い言葉は?」

「いそおんな」

「はい、入ってよろしい」

ほくほくの笑顔で戸を開けたのは桐である。気配で分かっているだろうに。

「このオカルトマニア」

「最高の褒め言葉ですね。 ……で、収穫は?」

「どうにか核兵器使用を止めるように交渉はしてみましたけれど、さて上手くいくかどうか。 最悪の事態が起こったときのために、備えておく必要がありますわね」

前と同じ横に長い作りのペンションに入りながら、利津はコートを脱ぐ。分厚いコートを着るのは、そうすることで貧弱な体型を隠すことが出来るからだ。もっとも、零香の言葉を借りると、ひょこひょこ揺れるツインテールの髪型を変えない限り、年齢を間違われるのは避けようがないと言うことであるが。コートをハンガーに掛けながら、ペンションの中を見回す。淳子と由紀が出かけているらしく、中は随分殺風景だった。

「あの子は?」

「由紀と一緒にでかけていますよ。 夕食のかいだしだとか」

「……まあ、気晴らしにはなりますわね」

あのリズって子は探索型の能力者らしいし、もっとも機動力優れる由紀と一緒なら危険は少ないだろう。

今回のペンションは前回のものよりも広く、一人一つずつ部屋が割り当てられているのが大きい。自室に引き上げると、ベットの上に寝転がる。今後どうなっていくのかは、利津にも全く予想が付かない。不安でないと言ったら嘘になる。因みにこのベット、使い心地は良い。だから、子供用という表記を見つけるまでは好きだった。

部屋の戸を叩く音。気配からして零香だ。

「ちょっといい?」

「なんですの?」

「話をしておきたい、と思ってね」

半身を起こした利津の前に、完全装備のままの零香が入ってくる。腕組みして壁に寄りかかりながら、奴は続ける。

「いざというときのために、先に決めておきたいんだけれど」

「何ですの?」

「……もしICBMを撃墜できるとしたら、どうする?」

「くわしく、聞かせて頂けます?」

もしそれが本当なら、行き詰まりを打開する最高の策を作り出すことが可能になる。聞く態勢に入った利津に、零香は驚くべき策の全貌を明らかにしたのであった。

 

2,釣り野伏せ

 

澄み切った空を、ユルングは体をくねらせて泳ぐ。四十メートルに達する巨体も、空に浮いてしまえば小さなものである。空の広さの果てしない事よ。浮かぶ雲の雄大なる事よ。それに、ユルングは、自分より巨大な人間の乗り物が空を我が物顔に行く姿を何度も目撃した。海もそうだが、大自然の前には、生物など所詮は矮小な存在に過ぎないのだ。

陽の翼の本拠から離れないように、高度千メートルを保ったまま、ゆっくり辺りを旋回する。勿論任務としての警戒行動の一端だが、空を泳ぐ事自体も、ユルングは好きだった。虹色の鱗をなでる風が気持ちいい。時々巨大な口を開けて、咆吼を轟かせる。威嚇しているのではない。気持ちがよいからだ。

オーストラリアで信仰されるユルングだが、虹の神という特性もあって、世界中何処でも自在に存在できる。虹が出来ない場所など何処にもないからだ。ただし、虹に対する信仰は極めて古いため、実体化したときに精神的に老け込んでしまった。程なく警戒を終え、帰還するべく高度を下げ始める。すると、空気を振るわせ、色っぽい声が耳元でした。

「フー。 ユルング、お疲れさま」

「なに、としよりには、これくらいしかたのしみがないものでの。 つかれはせんて」

声の主はガンガーである。むしろ四六時中能力を展開していなければならない彼女こそ疲れているだろうに。優先的に好物の魚を回して貰っているそうだが、それでも疲れは取りきれないだろう。

現在陽の翼本拠の防御を引き受けているのは、古代龍であるユルングとガンガーである。特に水と感覚をリンクさせることで四十キロ四方の詳細な探索を行えるガンガーは生きたレーダーとも言える存在であり、自衛のための戦闘能力も備えているため、その実力は極めて高い。

ガンジス川の守り神であるガンガーは、インド神話で三貴神とよばれる最高の神々の一柱シヴァの妻であるパールヴァティと同一視される存在であり、現在なお深い崇拝を受けている。極端なまでに強力な能力は其処に起因しており、正面から戦えばユルングでも危ないだろう。

ファーフニールに続いてラドンが倒された現在、陽の翼の命運はますます厳しくなってきている。陽明の怪我も深く、他の能力者も島を簡単には離れられないのも厳しい。最強のアジ・ダハーカはまだ健在だし、タラスクも戦線に復帰はしたが、予断は許さない状況である。計画の一刻も早い進行を待ちたい所だが、すぐには難しいとも聞いている。暫くは少なくなった人手での、警戒を続けるしかない。

だから、いざというときのことを考えて、警戒度の低い今は、ユルングにもガンガーにも一日数時間の休憩が認められている。前は休憩と言っても食事に降りてくるだけだったので、これは大きい。

ユルングの代わりに、飛行能力を持つ陽の翼の能力者が三人でチームを組み、空へ上がっていった。すれ違いざまに、敬礼をしてきたので、軽く頷いて挨拶しておく。この間の戦いで大きな被害を受けたというのに、士気が衰えていないのだからたいしたものだ。色々と苦難の歴史については聞いているが、陽の翼の面々にとって、今回程度は苦労の内に入らないのだろう。

地上に着く。あまり激しく着陸すると被害が出る可能性があるので、パラダイススネークのように体を広げて、出来るだけ空気抵抗を大きくし、ふわりと着地する。島の一角にはすでにヘリポートや対空レーダー基地が設置されていて、陽の翼の豊富な資金力が良く分かる。流石に滑走路は造れないようだが、島全体を要塞化する工事も着実に進んでいる様子であった。

着陸したユルングは巨体を伸ばす。すぐに労働員達が群がってきて、体の掃除を始めた。モップで埃を洗い流し、海で取れたばかりの新鮮な魚介類を運んでくる。大きな容器に顔を突っ込んで食べ始めるユルングに、パッセが歩み寄ってきた。

「お疲れさまでしゅ、古代龍ユルング」

「おお、パッセたん。 なにかこまったことは、おきておらぬかの。 わしでよければ、すぐにでもてだすけするぞ」

「有り難うございます。 今は休んで鋭気を養ってください」

「うむ、そうかの。 パッセたんこそ、むりはせぬようにの」

軽く会釈すると、パッセは戻っていった。代わりにガンガーが話しかけてくる。

「ところでユルング」

「なんじゃろうの」

「また島の周囲に特殊部隊が現れたわ。 フー、懲りない連中ね」

「れんちゅうもしごとじゃからのう。 きょりはどれくらいかの」

およそ30キロとガンガーは言った。まだ近づいているという。いい加減四十キロがデットラインだと気付けばいいのにと、ユルングは思った。別に直接的な利害感情はないし、人が死なないに越したことは無いとも思うのである。陽の翼に属する古代龍の中で、ひょっとしたらもっとも温厚で非好戦的なのが、ユルングであるかも知れない。

掃除が終わったので、蜷局を巻いて、ガンガーが言った方向を見据える。タラスクが肩慣らしに向かったと言うことであったし、すぐに勝負も付くだろう。あまり殺しすぎないように釘でも差しておこうかと思ったが、昼ではない今、ユルングの力には大幅な制限が掛かっている。さてさてどうしたものかと思っていた矢先、眼前に大きな鳥が降りてきた。鳥はユルングの食べ残した魚をついばみながら言う。

「ご老体、どうしました?」

「ヴィゾフニルたんや、ちょうどええところにきたな。 ちょっとタラスクたんに、くぎをさしてきてくれないかのう。 まだわかいあやつは、ついころしすぎてしまうでの」

同じ古代龍を若造呼ばわり。しかし事実なのだから仕方がない。ユルングとタラスクでは、古代龍としての年期が違う。特にユルングの場合、空間浸食を展開した時の戦闘能力が桁違いと言うこともある。ユルングの空間浸食に巻き込まれたら、アジ・ダハーカでも危ないだろう。だから、誰も何も言わない。

ヴィゾフニルは温厚な実体化まがつ神で、ユルングとは気が合う。今の食べ残しをいただくような行動は、自然界では良くある力の差による食べ物の分け合いに近いもので、むしろ親愛の証である。だからこそに、ユルングはヴィゾフニルに頼んだ。

「心得ました、ご老体」

「おうおう。 ラドンたんがいなくなって、またすこしさびしくなってしまった。 そなたまでいなくなったら、わしはかなしいでな。 むりはせぬようにの」

美しい白銀の翼を広げ、ヴィゾフニルが飛び去る。鎌首をもたげてそれを見送ったユルングは、気付く。

何処か遙か遠くで、何か悪意に満ちた行為が行われている事実に。

 

桐は気付く。海を隔てた陽の翼本拠から、巨大な殺気が吹き上がったことに。双眼鏡を降ろし、徐に無線を取りだした彼女は、待機中の仲間へと連絡する。

「かかりました。 気配から言って、多分古代龍でしょう」

「倒せそう?」

「確実には難しいですね。 総力戦を挑めば、ひょっとするとってレベルでしょうか」

「ならば予定通りに行こう」

「了解」

無線を落とす。ジープの後部座席に乗っていた桐は、すぐに引き返すように運転手へ。統率が取れた特殊部隊一個分隊十名は、すぐにジープ四台を反転させ、帰還に移る。いわゆる釣り野伏せのための、第一段階だ。

今回、こんな小手先の技を試す理由は幾つかある。

まず一つ。もし米国が核攻撃に踏み切った際の、陽の翼側による最終防衛ラインの見極めである。敵の気配探知領域が大体四十キロだというのは分かっているが、それを立証する材料が欲しいのだ。そして米国を出し抜いてICBM(大陸間弾道ミサイル)を叩き落とすには、それより早くなければならない。

勿論もう一つの目的は、勝利に驕る陽の翼側の戦力を、この機に少しでも削り取ることだ。もっとも相手は古代龍か超一流の能力者、簡単には仕留めさせてはくれないだろうが。更に、米軍の視野がはっきり古代龍の撃破に入ったため、ここで一頭でも仕留めておけば、ひょっとしたら核攻撃を阻止できるかも知れないと言う希望的観測もある。

勿論、希望的観測であっても、手は抜かない。エサを元手に更に大きな獲物をつり上げ、あわよくば陽の翼の鉄壁防御に罅を入れる。

フルスピードで荒野を撤退するジープに、それ以上の速度で殺気が追いすがってくる。桐の乗る一台を最後尾にすえて陣を組み直し、後部座席に設置されている重機関銃に一人が手を掛ける。手榴弾をチェックしている隊員もいる。既に臨戦態勢だ。反撃開始予定地点は、陽の翼本拠のオールヴランフ島海岸線より四十三キロの平原。其方で待ち伏せている増援を上手く使い、最終的には神子総掛かりで敵をたたく。さてさて、乗ってきてくれるかどうか。

敵が追撃速度を落としたのは、四十キロラインの手前であった。桐が片手を上げて、運転手を制する。一旦速度を落としたジープは、不安定な蛇行運転を繰り返しながら、敵の様子をうかがう。その時であった。

ジープの一台が、激しい爆発と共に横転する。投げ出された特殊部隊員達を見た桐は、即座に大盾の術を展開、乗るように促した。同時に、敵古代龍も間を詰めてくる。この攻撃、アースダイバー・スナイパーか。なるほど、簡単には策に乗ってくれないと言うわけだ。

怪我人を手早く盾の上に引っ張り上げる特殊部隊員達。流石に良く訓練されている。米軍も、古代龍を一頭でも多く仕留めなければ、島の攻略はないと考えているのだろう。矢継ぎ早に盾を四つ展開し、ジープに併走させながら撤退に入る。古代龍は更に間を詰めてくるが、罠を警戒しているのかやはりある程度の位置で速度を落とした。といっても、もう姿が見えるほどの近距離である。

敵はタラスクだった。零香の白虎戦舞で徹底的に打撃を与えられたと言うことだが、もう復帰してきたというのか。流石に敵にも回復能力を持つ有能な能力者が多いのだろう。まだ、平原までは少しある。どうにかして引っ張り出さないと行けない。

先に手を出してきたのはタラスクだった。特大の火球を一つ、此方に向けて吐きかけてくる。大盾を動かして防御にはいるが、それと同時に桐の乗っているジープに猛烈な圧力がかかり、放り出された。良い連携だ。至近で炸裂する火球に、無言のまま特殊部隊員達が反撃に出る。スナイパーライフルとジープに積んでいる重機関銃でタラスクを撃つが、巨龍は平然としたもので、すぐに第二射の準備に入っている。身を起こした桐は、更に大盾を一つ出すとそれに乗り、今までの攻撃から敵の位置を割り出し、時限式地雷で撃砕するべく準備に入った。

桐が見た所、アースダイバー・スナイパーはかなり良い能力者だが、他の陽の翼幹部に比べると随分と劣る。能力は非常に良く使いこなしているが、思考が悪い意味で若い。淳子に同じ能力を持たせたら、多分半刻と掛けずに仕留めてみせるのではないか。候補の何カ所かに時限式地雷をセットするのと同時に、タラスクが第二射を放ってくる。盾に直撃した火球は空気を振るわせ、乏しい草木を容赦なく蹂躙した。

殆ど同時に、地面が傲然と揺れる。ジープにまだ乗っていた特殊部隊員が、すわ地震かと辺りを見回す。爆破音を聞いた桐は舌打ち。外した。掠ってもいない。ひょっとするとアースダイバー・スナイパーは、次への時間稼ぎか。或いは、桐の能力が既に解析されていて、警戒しているのか。

後者なら別に構わない。桐の存在自体が敵への抑止力となる。問題なのは前者である場合だ。今のタイミングでアジ・ダハーカに出てこられたら、周囲にいる特殊部隊員達を守りきる自信がない。手の届く範囲で人を護れるのなら、守りたい。それだけではなく、政治的な理由もある。既に千五百を超える死者を非公式に出してしまっている米国政府は、これ以上の被害が出ることを大きく警戒しており、出来れば一人でも死なせたくない。死者を大量にまた出すと、その分核攻撃の危険が近づくのだ。

特殊部隊員の一人がロケットランチャーを取り出し、タラスクへと弾頭を叩き込む。戦車をも撃砕する近代兵器の直撃を流石に疎ましいと思ったか、低威力の火球で撃ち落とし、亀とは思えぬ素早さで横へ動きながら、再び低火力の火球を放ってくるタラスク。桐は盾で連続して飛んでくる火球を防ぎながら、後退を指示。じりじりと引っ張り出していく。

タラスクのアーキタイプが人間であることは零香から聞いている。ならばその思考は亀よりも多分人間に近いはずだ。充分に人間的な思考でつけ込むことが出来る。慎重に追撃してくるタラスクと距離を保ちながら、桐は徐々に必殺の地へと、敵を誘い込んでいく。

タラスクの側に、輝く翼を持つ鳥の実体化まがつ神が舞い降りたのは、その直後だった。

 

ナージャヤは桐の鋭鋒を避けたわけではない。そもそも最初の二回の攻撃が陽動だったのである。

敵の動きを聞いた姉のパッセは、罠だと一言だけ返してきた。そして敵が誘い込もうとしている地点を即座に特定、調査するようにナージャヤに命じてきた。正直言うと、反発を覚えない点が無いと言えば嘘になる。だがこの間の戦いで大きな被害を味方に出してしまい、失敗続きと言うこともあり、立場が厳しくなってきているナージャヤは姉の言葉に逆らえなかった。

だから、二度の陽動を仕掛けて、タラスクが時間稼ぎをしている内に、敵が伏せているだろう場所へ調査に向かったのである。

地下三十メートルほどの地点を、ナージャヤは泳いだ。耳元でするのは、地下水の音だ。土の中は案外騒がしい場所で、時々土竜や虫と正面衝突することもある。あくまで表層のみで起こる事故だが。

ナージャヤは土を水のように掻いて、土の中を時速百キロ近くで泳ぐことが出来る。数分に一度息継ぎをしなければならないという弱点を、これである程度はカバーできているわけで、もともと暗殺に向いた能力を更に強力にしている。

ただ、隠密狙撃型はどうしても能力者を交えた戦では立ち回りづらい。M国の大統領だろうが米国の大統領だろうが暗殺する自信はあるが、敵に能力者がいる状況で偵察やら牽制やらはあまり得意ではない。ナージャヤの能力は、通常の人間を抹殺することに最適化したものであり、能力者と刃を交えるには若干不向きなのだ。切り札である術を用いても、まだ少し分が悪い。それでも充分に強力な部類には入ってくるのだが、今回はそれに加えて相手が悪い。日本から来ているあの能力者共と来たら、五翼に入れるほどの使い手ばかりではないか。

普通の人間が相手なら、百人でも千人でも仕留める自信があるのに。こう上手くいかないと、イライラが募る。

何度か息継ぎをしながら、目的の地点へ。周囲に小高い丘がある窪地で、伏兵にはもってこいの地形である。念入りに探っていくと、確かにかなりの戦力が伏せている。岩陰には偽装したエイブラムス戦車まで出張ってきていた。更に枯れ木の上には、枝に器用に乗っかって、あのジュンコが見張りに就いている。奴は確か相当な精度で音を探知できるはずで、あまり長時間の探索は好ましくない。素早く潜土して、さっさと離れる。戦力は大体把握した。この分なら、タラスクだけでどうにか出来るだろう。

だが、どうにも引っかかる。エサ役をやっているのは、あのキリだ。キリの頭脳は敵ながら認めざるを得ない所で、ナージャヤが感じ取った以上の罠を張っている可能性が極めて高い。数キロ距離を置いて、遠巻きにタラスクとキリ及び特殊部隊の戦いを見ながら、ナージャヤは無線を開いた。

「どうなっていますか?」

「伏兵がいます。 戦力は……」

「ふむ……怪しいでしゅね」

「罠じゃないでしょうか」

罠だとすると、何をもくろんでの事なのか、気になる。古代龍を一頭でも減らしておくことが目的なのか、それともタラスクの撤退につけ込んで島まで一気に攻め込んでくるつもりなのか。それとも、もっと別の目的があるのか。

それらを話すが、姉はふーんと呟くだけであった。明らかに、それ以上の答を要求している。圧迫的な沈黙に耐えきれなくなり、ナージャヤは提案した。

「撤退するべきだと思います」

「……もう撤退の手はずは整えました。 何故撤退が上手くいっていないのか、分かりませんか?」

「っ!?」

慌ててタラスクを見ると、陽の翼に所属する実体化まがつ神の中でももっとも温厚なヴィゾフニルが、タラスクと一緒になって猛然とキリに躍りかかっている。キリは攻撃を特殊部隊に任せ、自身は大盾を操って防御に徹しつつ、じりじりと下がっている。着実に、戦場はあの窪地に近づいていた。

「す、すぐ調べますっ!」

無線を切ると、再び潜土して、戦場へと向かう。激しい火球が何度と無く至近で炸裂して、地面の中にまで轟音が届く。地上での物音は、結構地中にも響くのだ。

タラスクは興奮していた。六本の足を目まぐるしく動かし、特殊部隊の激しい攻撃を正面から受けて立ちながら、キリの防御を突破しようと躍起になっている。だが、あのキリの防御は、ナージャヤの姉、天翼パッセですら簡単には突破できないほどの代物だ。火車と一緒に突破を試みたナージャヤだからこそ良く分かる。タラスクが興奮すればするほど、猛気を加えれば加えるほど、のらりくらりとキリは攻撃を阻み続けている。非常にまずい展開だ。タラスクはキリの得意とする状況に、完全に引きずり込まれてしまっている。

更にまずいことに、此処はとうに四十キロラインを超えてしまっている。何かあったとしても知らせるのにタイムラグが生じてくるし、いざというときに撤退するのにも支援が上手く働くか分からない。ともかく、タラスクを落ち着かせる必要がある。

観察してみるが、タラスクが興奮している理由が分からない。少し離れて地面から顔を出すが、やっぱり変な所は見付からない。前足を盾に叩き付け、抑えてかぶりついているタラスクは、完全に理性を喪失している。ヴィゾフニルも激しく旋回して、翼から光の矢を放っているが、キリの盾を突破できない。キリはと言うと傷ついた盾を次々新しいものに代えて、もはや余裕の体で攻撃を捌いている。

そう、ナージャヤを見つけるほどに。

目があった。殆ど同時に、十手が飛んできた。パワーだけなら零香も凌ぐと聞いているが、物凄い速さだ。慌てて潜らなければ、頭を串刺しにされる所だった。

更に距離を開けて、再び顔を出す。無線でタラスクの耳にセットしている子機を呼び出す。呼びかける。聞こえているはずなのだが、全く反応がない。頭に来たナージャヤは、思いっきり無線を岩に叩き付けた。雷が至近に落ちたような音がしたはずだ。ようやくタラスクが頭を振り、反応を示してくる。

「タラスク、どうしたの?」

「放っておいてくれんか。 儂は此奴を倒すまでは帰れぬ!」

「落ち着きなさい! 何があったの!」

「儂は、儂はこそ泥ではない! 誇り高き大川賊だっ!」

そういえばタラスクのアーキタイプは、川賊であった。実在の川賊であった彼は、さまざまな伝説を残し、そして病で死んだそうだ。周辺の民は偉大なる武人でもあった彼に畏敬の念を絶やさず、逆に政府の人間は深く恨んだ。それがやがて伝説とかし、邪悪な龍の物語となったのである。有名になったのは、後にキリスト教の伝道に悪役として用いられたからだが、それは仕方がないことだ。

仲間にした際に、ナージャヤはタラスクについてさまざまに調べた。彼は無学であることにコンプレックスを持っていて、それが終生足かせになっていた節がある。ナージャヤも話していて感じたのだが、タラスクは表社会に生きることを誰よりも侮蔑し、そして誰よりも恋いこがれていたのだろう。

漸く分かった。キリは多分、タラスクの逆鱗を的確に撫でたのだ。零香との交戦記録と、手持ちのタラスクの資料から正確に割り出して、精神的な急所を貫いたのだ。汚い策略だが、手としては間違っていない。タラスクはかなり血の気が多いし、やはり年を経ても人間が原型である以上精神的なトラップにははまりやすいはずだ。何よりタラスクは自分の腕を磨くことによってコンプレックスを克服してきたタイプであるし、その分急所を突かれると逆に脆いはずである。

人間の精神は有限で、完璧ではない。誰にも泣き所はあり、矛盾を抱えており、突けば崩れる急所がある。更に言うと、どんなに老練な人間でも、簡単に分析できてしまう弱点はあるものなのだ。古代龍といえども、人間をアーキタイプにしている場合は仕方がない。何しろ、同じ人間のすることだ。動物の行動よりも、分析しやすいのである。

ヴィゾフニルはどうしたのか。タラスクを止められないと見て、それならいっそキリを倒す可能性にかけたのか。そんな所だろう。精神的な疲労がじわじわと体を侵す。どうにかして、タラスクを黙らせようとした、その瞬間だった。

耳に飛び込んでくるのは、風切り音。かなり高度がある。鳥でもない、飛行機でもないこの音は、聞き覚えがある。

リツだ。

前回と同じ轍を踏むわけには行かない。奴は対地中攻撃を身につけており、地中は決して安全圏ではない。フェニックス・バンカーバスターと呼んでいたあの術は、多分地下数百メートルまで衝撃波を通す。この間は地上近くで使っていたが、おそらく地下深くに隠れた相手を粉砕するにも使えるはずで、しかもナージャヤの居場所はもう割れてしまっている。逃げるしかない。

全速力で距離を取る。幸いリツは時速7〜8キロくらいでしか飛行できないから、逃げ切るだけなら容易だ。問題は、その間タラスクを止めることが出来ないと言うことであり、適当な所で連絡を取らないとまずい。というよりも、リツとキリのコンビネーション攻撃は凶悪の一言に尽きる。空間浸食でも使わないとどうにもならないのではないか。

必死に逃げている内に、後方で物凄い音がした。爆発音らしい。もう生きた心地がしない。結局タラスクの暴走は止められず、今度は何だ。リツの爆撃が直撃したのか、それとも援軍が来たのか。何にしてもこの情けなさ、歯がゆさ、無念極まりない。

やっと息継ぎに顔を出したナージャヤは、見た。そして知った。

高速で空を疾走してくる三首の影。奴はアジ・ダハーカだ。姉が状況を重く見たこと、そしてナージャヤには荷が重いと判断したこと。最強の古代龍の到来が、言葉以上に雄弁に語っていた。

唇を噛む。あれが出てきてしまったら、もうナージャヤの出番はない。距離を置いて、殺戮撃を見守るしかない。すぐに膨大な火力の網が、キリの防御陣を包み始めた。

 

「かかりました。 では、作戦通りに」

印を組みながら、桐は素早く無線に言い捨てた。というよりも、返答を聞いている余裕がない。猛然と巻き上がる砂塵の中、あまりにも凶悪な力がふくれあがる。三層の詠唱が重なり合い、桐へと襲いかかってきた。

特殊部隊員達には、釣れ次第すぐに逃げるように、事前に言い含めてある。彼らは女性に殿軍を任せることに若干の抵抗を感じているようだったが、此処で逃げるのも仕事の一つ。決意すると、後は早い。さっと逃げ散った。同時に、視界を閃光が塞いだ。

横殴りに、青白い雷が盾を襲う。大木のような太さで、それも一本や二本ではない。素早く左右に盾を配置するも、電撃だというのに、圧力が盾を超えて桐の体を圧迫する。一撃目はどうにか凌ぐが、上から右から左から、飛んでくる第二の紫電の鞭。あまりの凄まじさに、タラスクと鳥の実体化まがつ神も少し下がり、攻撃するタイミングを計っているほどだ。目の前で、雷が弾ける。盾の一つが砕け飛んだのだ。アブソリュートディフェンスにぶちあたって、微弱な電流が逸れていく。更に巨龍の口に光が集まるが、どうにか印が間に合う。

アブソリュートシールド。自己再構築能力を持つ光の盾が、桐の眼前に出現する。神子相争をやっていた頃より二周りも大きい。同時に、巨龍が極太の電槍を、真っ正面から叩き付けてきた。空気が熱い。撒き散らされる殺気で、三半規管がどうにかなりそうだった。

光の束がアブソリュートシールドを直撃して、遅れて音が轟く。岩が砕け、枯れ木が弾け、小石が吹っ飛び、そしてプラズマ化した空気が爆裂した。放棄されていたジープが吹っ飛び、タイヤが外れてはじけ飛んだ。炸裂音が重なり合い、やがて致命的な空圧となって辺りをなぎ払った。

アブソリュートシールドを展開していなかったら、あまりの大音量に、ショック死していたかも知れない。

八十キロ以上もある大盾が揺れる。巨大な爆発が地面を穿ち、地形を歪める。目を細めた桐は、次の詠唱を準備しつつ、残っている盾を展開し直す。アブソリュートシールドは既に半分以下の大きさになっていた。それだというのに、奴は既に第二射を準備している。

「ちいっ……!」

舌打ちなどしたのは何年ぶりか。零香の白虎戦舞とぶつかり合ったとき以来ではないか。三つの首が全て青白い電流を纏い、一瞬後に叩き付けられる、恐らく億に達するボルトの雷撃。残った盾を全て射線上に展開、全力で防御にかかる。全てが焼け、地面が焦げる。激しいスパーク音が耳元でがなり立て、砕けた大岩が今度は溶けていった。

どすんと音を立てて、雷の直撃を防ぎ抜いた大盾が地面に落ちた。罅が入って半ば砕けている。割れ目から上がる煙は、際限なく焦げ臭い。土と水をベースに作っているこの盾を、これほどまでに焦がすとは。これほどの火力を一度の術で出す者を見るのは、利津以来だ。砕けた盾は、もう桐のコントロールを失っている。どうにか防ぎ抜いたが、想像以上の途轍もない火力だ。アブソリュートシールドは既に消滅してしまっていた。

強い。素直に桐は敵を賞賛した。流石に、伊達ではない。陽の翼が切り札にしているだけのことはある。しかも奴は、まだ本気を出していない。

肩で息をする桐の前に、傲慢な声が落ちかかってきた。

「ほう……我が輩の雷を防ぐか。 噂には聞いていたが、なかなかやるな……。 くくくくくくっ、これは予想以上よ。 楽しませてくれそうだ」

巨大な翼を羽ばたかせ、ゆっくり舞い降りてくる。中央の首は短く、左右の首は酷く長い。腕に当たる部分は無く、太く逞しい両足で地に降りる。翼は蝙蝠のようで、全体的な色は暗緑色。そして、酷い異臭がした。生物的にアンバランスな姿だが、不思議と安定感がある。

ゾロアスター教の大魔王アーリマンの片腕。災厄の邪龍、アジ・ダハーカ。降り立ったその全長は二十メートルを超すだろう。桐一人で相手に出来る存在ではないが、此奴を引っ張り出すのが、今回の作戦の主旨だ。まずは上手くいった。次は此奴を仕留めるか、若しくは深手を負わせる。

問題なのは、此奴の戦闘能力が、桐の予想を超えていたと言うことだ。

「手を出すな、アジ・ダハーカ。 そ奴は儂が倒す!」

「空間浸食でも使わなければ難しかろう。 病み上がりの体で無理をするものではないわ」

「……っ、確かに、まだ体が若干重い。 口惜しいが……」

「うむ、此処は我が輩に任せよ。 貴公は必要な人材だ。 ヴィゾフニルと共に、太陽神を守り奉れ」

タラスクの背中に着地した鳥の実体化まがつ神が、安心したように嘆息した。そういえば此奴は、最初から桐の無力化を図っていたような節がある。ひょっとすると、陽の翼でも数少ない穏健派なのかも知れない。

タイを釣ったのだから、もうエビに用はない。撤収していくタラスクを見送り、桐は少し乱れた髪を掻き上げる。味方が、到着したのだ。

時速数百キロで飛来した剣が、真右からアジ・ダハーカの胴を襲う。首の一つが素早く動き、シールドの術を使ったのか剣をはじき返して見せたが、殆ど間をおかずに直径二メートルはあろうかという大岩が、逆側から炸裂。更に上空から落ちかかってきた火球が、間髪入れずに巨龍の頭上にて爆発した。

乱れた髪を整え終わった桐が、洗練され尽くした笑顔を向ける。これで倒せるなどとは、此処にいる七人全員が考えていない。

「まずは、挨拶代わりです。 ゾロアスター教の邪竜さん」

「くくくくくく、なかなか躾がいがありそうな雌虎どもよ。 ファーフニールとラドンが遅れを取ったのも、分かるような気がするわ」

煙の中から沸き上がってくるのは、わずかに表皮が焦げただけのアジ・ダハーカ。今までにない巨大な敵との死闘が、今始まろうとしていた。

 

3,邪竜アジ・ダハーカ

 

戦いに出る前、零香とならんでストレッチをする真由美に、桐が話したことがある。これから戦う敵、アジ・ダハーカの物語である。戦う前に敵を調べるのは当然のことで、桐としても今回の戦いでジョーカーになりうる真由美には、全てを仕込んでおく必要があるとも考えていた。だからストレッチの時間を裂かせてまで、決して短くない話をしたのである。

ゾロアスター教。中東で発生した、天使の概念を始めて作り出した宗教であり、日本では拝火教の名でも知られている。善悪のバランスが取れている状態が正常だという特徴的な考えを持つ宗教でもあり、そのため現在においても知名度は高い。特に大魔王アーリマン(アンリ・マンユ)の名前は良く知られている。現在でも極少数の信者がインドにいるが、半ば滅びた思想であり、現在爆発的に広がる可能性はない。

だが、この宗教はユダヤ教、更にはキリスト教とイスラム教に大きな影響を与えた存在であり、現在でもその影響は計り知れない。時と共に忘れ去られ、死んでしまう思想は良くあるが、これに関しては形を変えて現在も存在し続けているのである。時の大河の中に存在し続ける思考の流れの大きな一つ。それがゾロアスター教なのだ。

ゾロアスター教は古代の宗教であり、その神話には魔法や邪悪な生物がふんだんに登場する。その中でも特徴的なのが、アジ・ダハーカの物語であろう。

さまざまな異説がある彼の物語だが、大筋はこのようなものである。

……古代、ある王がいた。王は善政を布く名君だった。千年の平和が統治によってもたらされたほどだという。だが時が経つに連れて、彼は残酷な生贄を要求するようになっていった。

彼は魔王の祝福を受け、両肩に龍の頭を生やしていたのである。それを直すためには、一日二人の生贄が必要なのだと信じていた王は、残虐な生贄を要求し、民を苦しめた。

王は暴君であったが強かった。千の魔法能力を持ち、近隣の敵や神々をも退け続けた。しかしついに、神が使わした英雄に、王は破れた。英雄は勿論王を殺そうとした。だが英雄が王の体を傷付けると、その体から無数の災厄があふれ出した。このままでは、世界が災厄に覆われてしまうだろう。英雄は王を殺せず、やむなく山の奥底に封印した……。

それが、アジ・ダハーカの物語である。

物語に対する、桐の解釈も併せて話す。真由美は非常に善良で素直な子である。人間社会で上手くやっていけるのか不安になるほどに。だから今回もとても悲しそうにその解釈を聞いていた。元人間アジ・ダハーカを屠るには、神話から推察できる弱点を突くのが一番である。だから、例え悲しくとも直視せねばならないのだ。

真由美は切り札となる策に頷いた。これでよい。迷うだろうが、最終的には決断できるはずだ。

桐はいつの間にか、真由美を重要な戦力としてカウントしていた。

 

人間の世界に伝わる自分の話を聞いて、アジ・ダハーカは感慨深かった。自らの事が歪みはすれど、そのような形で伝わっているのが分かったからである。

紀元前。今よりおよそ四千年ほども前の話である。

彼はメソポタミア地方のはずれにある、小国の王だった。現在の国家とは比較にもならない規模で、貧しい所であった。今やその国は存在せず、子孫達は世界中に散ってしまったが、今でも物語は生き残り、語り継がれている。それが少しだけ嬉しかった。

アジ・ダハーカの左右から、ゆっくり歩み寄ってくる影三つ。警戒リストの写真で見覚えがある。レイカ、ユキ、そしてマユミといったか。高空には影があるが、それはリツという奴だろう。更に何処かにジュンコという狙撃手がいるはずだ。加えて、近くに潜んでいる人間が一人。良い動きをする特殊部隊員がいると聞いたが、奴がそれだろう。

出てくるときに、パッセに言われていた。高確率でこれは罠だ。ひょっとすると、アジ・ダハーカを島から引き離している内に大規模な攻撃をしてくるつもりかも知れないし、或いは核攻撃をしてくるつもりかも知れないと。現在は昼。夜とは比較にならない能力を発揮できるユルングがいるし、ダハーカが戻るまで位なら、前回と同規模の攻撃でも余裕を持って耐え抜けるだろう。核なら願ってもないことだ。一気に計画を先に進めることが出来る。

アジ・ダハーカは、自信を持っている。千の魔法の中には、ありとあらゆる攻撃魔法、ありとあらゆる防御魔法、ありとあらゆる回復魔法が含まれている。洋の東西関係なし、それこそどんな術でも展開可能だ。それだけでなく、人間時代の蓄積経験値が、並の存在とは比較にならない。雲霞のような大軍と戦い、撃退したことが一度や二度ではない。それほどの戦闘経験が、巨龍の頭脳には詰まっている。

太陽神の思想と、アジ・ダハーカは深層からリンクしている。そしてその気高さに驚かされ続けている。普通同じ境遇に置かれたら、人間は決して耐えられない。発狂してしまうか人間社会に愛想を尽かすか、どちらかのはずだ。それなのに、太陽神は耐え抜いた。それだけでも、自分より凄いとアジ・ダハーカは思う。人間だったときに太陽神に会っていたら、最高の待遇で部下に迎えるか、或いは師事を仰いでいただろう。アジ・ダハーカは人間としてもそれ以上の存在としても、太陽神を尊敬しきっている。

だから、この戦いには負けられない。特にラドンを屠ったレイカは必ず此処で倒す。倒さなければ、どれほどの災いがもたらされるか分からない。

睨み合いは一瞬だった。

最初に動いたのはレイカであった。近接戦闘強化型らしく、人間離れした瞬発力で間合いを詰めると、クローに覆われた拳を叩き込んでくる。まずは軽くシールドでいなし、長い長い尻尾を叩き付けながら、首の一つを振り向かせ、後方に回り込んだユキを追う。奴は高速機動型としては熟練はしているがスタンダードな能力者で、運動エネルギーをそのまま武器として使ってくるタイプだ。確か質量操作も持っているらしいと聞いているが、分かっていれば問題は少ない。

奴が軽くアジ・ダハーカの頭上に剣を投擲した。レイカを太い尻尾で弾いた後、落ちてくる剣を中央の首で噛み取り、喰い砕く。四トンほどの重量があったようだが、これくらいならまだまだ軽い。その間に、マユミが正面に回り込んでいて、薙刀を構えてチャージを仕掛けてきた。翼を大きく広げ、巨体を浮かせて逃れ去る。同時に頭上から、数個の火球が降り注いできた。なかなかの連携である。楽しませてくれる。

頭上へ雷を放ち、火球を迎撃、叩き落とす。相殺した火球と雷撃は煙の分厚い膜を作りだし、轟音が感覚を鈍らせる。その隙に、至近にレイカが迫ってきていた。唸る拳を防ぐ術はない。胸の中央に、拳が炸裂した。それも一度や二度ではない。三度、四度、七度、十三度。僅かの間に二十近い拳を叩き込まれ、アジ・ダハーカの巨体が揺らぐ。

更に蹴りを叩き込もうとしたレイカが吹き飛ぶ。一部皮膚が破れたアジ・ダハーカの胸から、無数の触手が生えていた。それが拳のように固まり、不安定な空中にいたレイカをはじき飛ばしたのである。更にレイカの影から飛んできた剣を、触手は数本をはじき飛ばされながらも絡み取ると、そのまま圧搾して押しつぶした。

尻尾に違和感。マユミが今の隙に回り込んでいたのだ。どういう仕掛けか、薙刀が音もなくアジ・ダハーカの鉄壁の鱗に潜り込む。尻尾を振り回して地面に叩き付け、更に音もなく飛来した矢をシールドで迎撃する。だが直後、高密度の火球が頭上より飛来し、猛烈な熱と圧力がアジ・ダハーカを叩きのめした。地面に叩き付けられる巨体。その全身を、時限式らしい地雷の炸裂が再度叩きのめした。周囲の詠唱は止まない。マユミも吹き飛ばされることを前提としていたらしく、ふらつきながらも立ち上がってくる。

なかなかに、面白い。多分この間攻撃した艦隊の生き残りから、アジ・ダハーカの能力を分析して、戦術を散々練ってきたのだろう。防御の限界を突破しての攻撃の数々。上手く攻撃の要であるリツへ対応する暇がないようにしながら、自分たちのダメージを最小限に抑え、なおかつ切り札はまだまだ温存していく。

素晴らしい。これほどの使い手、陽の翼の外で見ることが出来ようとは。

「くくくくくく、くくくはははははははははははははははっ!」

思わず笑いが漏れる。両足を踏ん張って全身を起こす。傷が見る間に再生していくのを見て、能力者共は驚かない。多分予定の範疇にあったのだろう。

全身から湧きだした触手がまがまがしく蠢く中、アジ・ダハーカは様子見を終えた。これほどの使い手、全力で戦うにまさに相応しい。一体何年ぶりか。以前実体化まがつ神として甦り、倒されたのは千と二百年前。三十に近い能力者を道連れにして、アジ・ダハーカは倒れた。その時と同じか、それ以上の戦いが楽しめそうだった。

「行くよ……」

「くくくくくくっ! せいぜい、すぐには倒れてくれるなよ! 我が輩の目にかなったのだ、つまらぬ戦いをしたら許さぬからな!」

抑えていた力を完全解放。此奴らは、それだけの事をする価値がある。千の魔法を操る邪竜が、今1200年ぶりに、その全貌を現した。

 

恐ろしい圧迫感だった。立ち上がったアジ・ダハーカの傷が見る間に再生していき、先以上の力が溢れ上がってくる。どうしてこんなバケモノの前に自分がいるのか、真由美は時々分からなくなる。北海道でコロポックル達を守っていた頃にこの古代龍に会っていたら、恐怖だけで即死していたのではないか。

薙刀を握る手に汗がにじむ。唇が乾く。呼吸が知らず知らずに荒くなっていく。

「マユたん、大丈夫?」

「うん、大丈夫。 ……いざというときは、私は良いから、逃げて」

「もうあたし死んでるんだよ。 気にしなくていいってば」

語りかけてくる葉子に、そんな言葉しか掛けられない。逃げたい。怖い。しかし、自分の代わりは何処にもいない。それに、此奴らの思うままにさせていたら、いずれ世界大戦が起こるかも知れないのだ。

全身から無数の触手をあふれ出させたアジ・ダハーカは、天に向けて一つ咆吼した。態勢を低くしてじりじりと間合いを計っていた零香先生が、舌打ちしてバックステップし、距離を取り直す。由紀先生が唇を舐めながら、双剣の峰を舐めた。桐先生は幾つかの盾を周囲に展開させたまま、素早く印を組んで、何かの術の準備をしている。赤尾さんと淳子先生は遠すぎて分からない。

「かああああああああっ!」

アジ・ダハーカが吠える。触手が一斉に震え、一秒もしない内に、奴の周囲に千を越す火球が出現した。唖然としている真由美。零香先生の叱咤が、必死に意識を保たせる。

「何してる! 急いで防いで!」

全方位を強襲する火球の群れ。防御術を必死に展開した真由美は、胃の底から何か沸き上がってくるのを感じた。動けたのは殆ど反射行動だ。振り下ろされた長大な尻尾が、まるで砂糖細工でも砕くように、真由美のシールドを粉砕していた。横っ飛びに横転した真由美は見る。奴の口に出現する、まぶしすぎる青白い光を。そして、殆ど同時に、浮かび上がる千を越す火球を。馬鹿なと、桐先生が呟くのが聞こえた。

強すぎる。

これでは、頑丈すぎる赤尾さんを、何人も同時に相手にしているようなものだ。

巨岩と剣が同時に古代龍の左右から激突するが、火球が盾になってアジ・ダハーカへの直撃を防ぐ。他の火球は同時に全方位を強襲、再び爆発音が連鎖する。為すすべなく吹き飛ばされた真由美は、自分に迫る蒼い雷を見た。桐先生が飛ばしてきたらしい大盾が、間に割り込んで、しかし防ぎきれない。盾を貫通した紫電の一部が、真由美の全身を撃った。

「ああああああああああああああっ!」

体を支える骨が全部砕けてしまったかのようだった。膝から崩れる真由美は、古代龍が三度目の全方位攻撃を準備しているのを、薄れ行く意識の中見た。もう防ぐ術はない。だが、その瞬間、特大の火球が頭上からアジ・ダハーカを直撃した。図らずも伏せる形になった真由美は、激しく髪が炎熱になで上げられるのを感じていた。

「そうだ、そうでなければ面白くないっ!」

煤だらけになった零香先生が、煙幕を強行突破、腰だめしたスパイラルクラッシャーを奴の腹に叩き込む。数十本の触手が吹き飛び、腹から血がしぶくが、太い尾ではじき飛ばされて地面に叩き付けられる。今の赤尾さんの爆撃で火球は全て誘爆したようだが、アジ・ダハーカの傷はそれでも回復していく。

真由美が見た所、アジ・ダハーカは異常すぎる。防御術と再生術を同時に使いながら、複数の攻撃術を同時に展開しているのだ。一体この古代龍はどういう怪物なのか。今まで見てきた無茶苦茶な古代龍共が可愛く見えてくるほどだ。必死に立ち上がるが、喉の奥から血の味がする。体中の筋肉が、焼け付くようだった。

とばせてしまってはならない。とばせてしまったら、防御能力の低い赤尾さんはひとたまりもない。だが見たところ、零香先生も由紀先生もかなり傷ついており、他人に構っている余裕がない。

真由美が寝ていては、戦線が崩壊する。

由紀先生が、一気に加速、数キロ後退した。同時に零香先生が眼鏡を胸ポケットに仕舞う。殆ど同時に、赤尾さんのいる空から、巨大な力の気配。目を細めたアジ・ダハーカが詠唱開始。全力で、ぶつかり合うつもりだ。だが、多分、詠唱は古代龍の方が早い。何とか時間を稼がなければならない。作戦を考える。思いつく。小手先の技だが、試す価値はある。

下段に薙刀を構えていた真由美は、中段に構え直す。全力での攻撃を仕掛けるのは、今しかない。辺りは全方位攻撃の結果による穴だらけで、道筋を間違えたらすっころぶくらいでは済まない。全員が死ぬことになる。薙刀を持つ手に、小さな白い手が添えられたような気がした。心強い。目を閉じ、集中力を一気に増し、そして見開く。

「はあっ!」

気合いと共に息を吐き出し、真由美は突撃を開始した。

真由美の力はこれでも一戦ごとに強くなってきている。周りの人達が極端すぎて実感はなかったが、最近は少しずつ分かるようになってきた。地面を蹴り、加速し、一気に時速百キロを超え、更に百五十キロを突破する。薙刀の刃には、葉子が考案し真由美が完成させた空間切断の力を纏わせる。空気すらをも蹴散らして、真由美は走る、蹴る、跳ぶ、そして迫る。

アジ・ダハーカの首の一つが、うるさそうに真由美を見る。そして尻尾を振るう。巨大なセコイアの木のような、物凄い太さだ。だが、こんなものに一度叩き伏せられて死んでいないのだ。真由美は確実に強くなっている。自信を持て、自信を持て、自信を持て、言い聞かせながら、真由美は急停止し、印を組み直した。

激しくぶつかり合うのは、真由美が展開した防御術と、叩き付けられた古代龍の尾。眉をひそめた巨龍は、今度は真上から尻尾を叩き降ろしてきた。狙っていたのは、この瞬間だ。僅かに立ち位置だけをずらす。防御術を撃砕した尻尾が落ちかかってくる。そこへ、逆に空間切断の力を纏わせた薙刀の刃を振り上げる。

敵の力も利用して、尻尾を叩き落とそうというのだ。

尻尾は充分に撓っており、急には止まらない。古代龍の目に興味の光が宿る。溜め込んだ力を吐き出しながら、一気に切り上げる真由美。刃は、確かに太い龍の尾を、半ばから抉りこんだ。多量の血がぶちまけられる。その血に、視界が遮られ、対応が遅れた。

何をぶつけられたのか、最初は分からなかった。ガードはしたが、骨が折れる嫌な音がした。

二十メートルは吹っ飛んだだろうか。地面に突っこみ、転がって、無数に空いている穴の一つに頭から落ちた。視界がえぐれた。激しい痛みが、視神経を一時的におかしくしたらしい。息が出来なかった。体が動かせなかった。音が聞こえなかった。

何も、感じなかった。

一瞬の間をおいて。

感覚が急激に戻ってきた。爆発的な痛みが全身を駆けめぐった。喉を絞り上げる痛みが、悲鳴さえも漏らさせない。何をされた、何をぶつけられた、何を、何を、何を。何も痕跡がない、ぶつけられたのは何だ。どうして骨が折れた。どうして、こんなにも痛い。

痛い場所を抑えることさえ出来なかった。ゴミ箱に放り捨てられたようだった。

担ぎ上げられる。零香先生らしい。桐先生の所に運んでくれるらしい。

「大丈夫?」

「……」

「時間、良くかせいだね。 ほら、見てご覧」

見せて貰ったなどと言う格好良い状況じゃない。肩に担がれて、ぶらんと仰向けに垂れ下がって、たまたまその光景を見ただけだった。

物凄いソニックブームと共に、由紀先生の剣が古代龍に叩き付けられていた。

 

舌なめずりした由紀。真由美が必死に稼いだ時間を無駄にするわけには行かない。今こそ、切り札を用いるときだった。

クラウチングスタートの姿勢を取る。敵との距離はしっかり五キロ。手持ちの力を殆ど全てこの術に投入。

神子相争の時とは、保有する力が違ってきている。だから改良を施すことも出来た、由紀の最強術。これを喰らって立ち上がってきた者は未だ一人もいない。最大級のリスクを伴うが、最大級の破壊力を確実に発揮できる。質量操作と高速機動の力を完全解放し、己の力を最大限に生かし切る術。ドラゴンインパクト。

身体への負担を抑える事には成功した。成功したと言っても、使った後は、丸二日は回復術を使ったとしても立ち上がれないが。威力も若干上がっている。上がっていると言っても、前に毛が生えた位だが。

それでも、全身の骨が砕けて、なおかつ力を全て使い切る前よりはましだ。

本気で真由美に対応した古代龍に、一瞬の隙ができる。零香が真由美を抱えて桐の影に走り込む。今だ。

発進、急加速。百キロ、二百キロ、四百キロ、音速。一キロ地点を突破した時点で、マッハ三に達し、三キロ地点で最高速に達する。剣を構える。剣の質量を十トンにまで引き上げ、そしてマッハ八に達した自らの運動エネルギーを全て剣へと移譲させる。全ての気合いを、絶叫と共に吐き出した。

いいっ、けええええええええええええええええええっ!

世界が急停止し、代わりに音速の八倍の速さで、自らの愛剣が敵へと飛ぶ。

爆発的なソニックブームが辺りの岩を蹴散らし、粉々に斬り飛ばし、アジ・ダハーカに傷付けられた地形を更に抉り込んでいく。

おおおおおおおおおおおおっ!

振り返ったアジ・ダハーカが吠えた。その中央の顔に、本気で焦りが浮かぶ。奴の前に、今までにない巨大なシールドが出現、ドラゴンインパクトと真っ正面からぶつかり合った。膝を突く由紀。しばらくは立ち上がれそうにない。零香が回収に来るのを待つしかない。物凄い火花を散らして、競り合ったのは一瞬であった。

シールドを貫通した。当然のことだ。いや、詠唱も無しに展開したシールドで、ドラゴンインパクトに一瞬でもあがなった事自体が凄まじいと言える。

がああああああああああああああああああああっ!

古代龍の絶叫が轟く。由紀は見た。奴の首の一つが、はぜ割れるようにして吹っ飛ぶのを。生き残った二つの首も、体共々ソニックブームで激しく傷ついている。ざまあみろ、ぼやきかけた瞬間であった。

空気が変わる。奴が此方へ、反撃を放ってきたのだ。

途中、間に入った桐の盾が相殺する。だが一発ではなかった。もう一つ、不可視の攻撃が、由紀にジェット機のエンジン音にも似た威圧感と共に迫ってくる。これは、ひょっとすると。

走れないと由紀は殆どなんの力も発揮することが出来ない。しかも、今は殆ど力も空っぽの状況だ。これは死ぬな。覚悟を決めたその瞬間、ジープのエンジン音。隣を走り抜けざまに、体を引っさらわれる。

ケヴィン氏だった。体をあまりにも乱暴に掴まれたので、非常にいたい。由紀のいたあたりが、半径十メートルに渡って陥没し、罅が入る。近接戦闘強化型の真由美を一撃で行動不能にしたのだし、まああんなものだろう。

「いったいですぅ! もっと優しくして下さいよぉっ!」

「なーにがですぅだ! ジェット機がアフターバーナーふかして特攻掛けたみてーな攻撃しやがって! てめー、絶対に猫被ってるだろ!」

悪態を応酬しながら、気付く。ケヴィン氏の手元に、つないだままの無線があることに。

「一旦味方のベースにまで戻るぞ。 いてえだろうが、我慢しろ。 此処で手当てするより、そっちのほうが確実だ。 向こうならお前らより力は弱いが、能力者も何人か来てるしな」

「……で、指示は桐? それとも利津?」

「俺が自分で判断したんだよ。 あまり一般人を侮んな」

助手席に無理矢理座らせる。その間殆ど運転が乱れないのだから、大した集中力だ。そのまま由紀は、ケヴィン氏と共に戦場を離脱した。

 

「おおおおおおおおっ、おおおのれえええええええええええええっ!」

首が減った、右側の首を失ったアジ・ダハーカが絶叫する。真由美を桐の側に横たえると、回復を任せて零香は歩み出す。利津が全力の火球を叩き込んだのはその瞬間。回復が追いつかないらしく、傷が塞がりきっていない古代龍は、必死に頭上にシールドを展開するが、思うつぼである。

此方も傷だらけだが、流石は由紀の切り札。何度か見たことがあるが、神子相争の同級生の中で、やはり最大最強の破壊力だ。破壊力だけを考えたのだから無理もない話であり、例え四式の白虎戦舞でも、あれ以上の破壊を瞬間的にもたらすのは無理だろう。

神衣は切り替えない。切り替えるのは、奴が空間浸食を展開してからだ。

加速、間合いを詰める。桐が残った盾の半分を飛ばし、此方の援護に向けてくる。火球がシールドを貫通、古代龍の体を激しく打ち据える。迫る零香。

だが、アジ・ダハーカは怒っても、焦っても、何処か底知れない。零香の突撃にタイミングを完璧に合わせ、不可視の攻撃を此方へはなってくる。真由美を一撃で行動不能に陥れた術だ。侮ることは出来ない。

「せあっ!」

零香も全力で不可視の攻撃にスパイラルクラッシャーを叩き込む。空に紅いスパークが走り、零香の腕に尋常ではない圧力がかかった。だがそれもすぐに終わり、零香は目の前で何かが砕けるのを感じた。

由紀への攻撃や、真由美への攻撃を見ていて分かった。この攻撃は不可視だが質量攻撃だ。要するに何か重い見えないものをぶつけているのである。それにしても、零香の腕を痺れさせるとは。

僅かに下がって態勢を立て直す零香を追い越し、桐の盾が古代龍へ飛ぶ。古代龍が吠え猛り、再び千近い火球を出現させた。襲いかかる火球の群れが、盾の一つをうち砕き、辺りの地面を蹂躙し尽くすが、零香には古代龍の限界が見えた気がした。展開した術が、火球だけだからだ。さっきまでなら、此処で一緒に雷の術も展開しているだろう。

利津はまだチャージに時間がかかるはずだ。ここで古代龍に回復の時間を与えるわけには行かない。

火球の群れを無理矢理に突破。傷を彼方此方に更に増やしながらも、零香はついに敵の間合いを侵略した。左腕に全力を込める。一足早く、桐の盾が回転しながら古代龍の全身に突き刺さった。更に、それで瞬間的に意識がずれた隙をつき、長い方の首の根本に、スパイラルクラッシャーを叩き込む。血泡を吹いた竜の首が引きちぎれ、吹っ飛び、地面に転がり落ちた。

更に右腕のクローを振るい、飛び降りざまに、古代龍の体を中央部の頭から股下にかけて一気に切り裂く。地面で飛び離れ、よろめく古代龍に利津の火球が炸裂するのを横目で見る。

息が上がっている。必死に離れて間合いを取るが、火球の爆圧にあがなえない。そのまま吹き飛ばされて地面に転がる。

まだ、勝負は付いていない。飽和攻撃で決定的なダメージを与えはしたが、これで倒れるとは、この場の誰も思っていないだろう。

立ち上がる。呼吸を整え、気配を探る。利津がとどめとばかりに、更に火球を叩き込んだ。髪を焦げ臭い風がなで回す。スカートだったら抑えないと下着が見えている所だ。ふと苦笑する。こんな時にも、下らない考えが浮かんでしまったことに。

「ふうう……前はこの姿になるまでに、十人ほどを道連れにしてやったのだが。 なかなか古代の能力者にも劣らぬ手練れ、恐れ入ったぞ……」

乾ききった唇を、手の甲で擦った。煙の中から、ゆっくり歩み寄ってくる大柄な人影が一つ。だが、それは人間と言うには、あまりにアンバランスで、不自然な姿だった。

アジ・ダハーカの伝承は、零香も桐から聞いている。なるほど、ドラゴンとしての姿で消耗しきると、こうなるわけだ。目の前にいるのは、流石に色彩には乏しいながらも、一目で丁寧に作られたと分かる頑丈そうな鎧に身を包んだ、威厳ある大男だった。髪は焦げ茶色で、髭は胸元にまで垂れ下がっている。全身筋肉質で、鎧の胸元には自国の紋章らしい二つの翼をもつ龍が刻まれていた。腰には二振りの剣。そして両肩からは、口から火と、一目で毒ガスと分かる紫色の障気を吐き出す、龍が生えていた。

アジ・ダハーカの「アジ」というのはドラゴンのことだ。つまり名前そのものはダハーカという事になる。ザッハークという別名もあるが、この辺りは異説が多くて混同されがちだ。要するに、この者は、英雄王ダハーカとしての姿に近いわけだ。

「空間浸食を展開しないと言うことは……更に切り札があるわけだ」

「元々あの姿は、敵の戦力を計るため、何より消耗させるための、防御主体の形態に過ぎぬ。 そして敵が消耗しきったら、今度は攻撃主体の此方でとどめを刺す」

「いいの? そんなことべらべら喋って」

「問題ない。 なぜなら……」

王が剣を引き抜く。剣はそれほど切れ味が鋭そうではなかったが、怪しげな模様が隅々にまで刻まれていた。術の媒体とするためのものなのであろう。

零香は分かる。この古代龍は嘘を付いていない。つまり、先に切り札を出させるのも、激しい飽和攻撃を行わせて消耗させるのも。全て計算尽くだったのだ。桐でさえ眼前の現実に流石に絶望に近い感情を覚えている様子だ。

「お前達は、先以上の力を持つ我が輩と、まともに戦える力を既に残していない。 唯一貴様は切り札を温存しているようだが、それを使った後……仮に我が輩を仕留め得たとして……。 その後空間浸食を展開した我が輩に、抗う術があるのかな?」

飲まれたら、その時点で負ける。分かってはいるが、零香は久しぶりに震えが背中を這い登るのを感じていた。

 

4,英雄王アジ・ダハーカ

 

古代文明の時代。自分が生きていた時代がそう呼ばれていることを、ダハーカは知っている。

それは人類の文明の基礎が出来た時代であり、最初の隆盛期であった。しかし資源の枯渇や政策の行き詰まりによって、例外なく滅びていった時代でもある。しかし滅びたのは国家だけであった。彼らの作り上げた技術や思想は、現代の文明に受け継がれ、めんめんと脈付いていくのである。そんな基礎となった時代、滅びていった小さな国の王が、ダハーカであった。

王に即位したのは十五の時であった。その時から、彼の人生は波乱に満ちていた。周囲には強国が林立し、隙あらば侵攻してこようといつでも目を光らせていた。不安に苛まれる家臣達や国民を、ダハーカは体を張って守らなければならなかった。

幼い頃のダハーカは、物静かな少年だった。穏やかで心優しい父王と、病弱だが心優しい母によって、たっぷりと愛情を受けて育った。その人柄からも国民から慕われていた両親だが、しかし対外的な圧力からは無力だった。ダハーカは他国の使者によって脅かされ、資源や人間を良いように奪われていく姿を見て育った。

強くなれ。それが強くなれなかった父から、ダハーカに託された願いだった。家臣達も皆、強くなることを願っていた。貧しい生活をしている彼らは、それでもダハーカに愛情を注いでくれた。ダハーカは時々一人で出歩いて、家臣や領民の生活を見回ることがあった。あまりにも貧しかった。あまりにも悲惨だった。

ダハーカの決意は、この頃には既に、醸造されていたといえる。

ダハーカには戦の才があった。父王の死と、即位したばかりの若い王。好機と見て攻め込んできた隣国の大軍。しかしダハーカは慌てず冷静に動いた。散々無理難題をふっかけてきた上に、今度は侵略してきた隣国に、ついに堪忍袋の緒が切れたという事情もある。彼の見事な指揮は一戦にして敵の大軍を撃破し、その七割を討ち滅ぼした。狭い谷に引きずり込んで前後を塞ぎ、火で焼き殺すという戦術は鮮やかに決まり、若き英雄王の誕生を国民に強く印象づけた。また、彼には乳兄弟として育った優秀な二人の部下がいた。智恵多いフェドラーンと、勇多きマッディーンである。この両翼に支えられ、ダハーカの快進撃は続いた。

三度、四度と隣国の大軍を撃破する内に、ダハーカの名声は嫌が応にも高まっていった。侵略しようと言う国は無くなり、彼を慕う者も増えた。そして漸く生活に余裕が出てくると、人間は他のことを考えることが出来るようになる。民の間からは、復讐の声が挙がり始めていた。他国へ決定的な打撃を与えて、恒久的な平和を築いて欲しいというのである。

二十七歳の時から、ダハーカはついに対外膨張策を開始した。それは平和のためでありながら、より多くの戦いを呼び込む、矛盾した行為でもあった。

彼が育て上げた精鋭は強かった。弱体化した周辺国の軍隊を縦横無尽に踏みにじり、蹴散らし、叩き潰し、戦えば必ず勝った。見る間に彼の国は元の二十倍の規模に達し、一旦拡大策を中断、富国強兵策に切り替えた。これは元々小規模だったダハーカの国には、支配地を統治するだけの人材が不足しており、これ以上の拡大策が無理であったという事情もある。

国には平和が訪れた。部下の言うことを良く聞き、優れた人材なら誰でも重く用いるダハーカの元には、賢臣名臣が多く集まった。統治も今までの国々よりも遙かに上手くいき、ダハーカは名君と称え上げられた。千年の平和が来るに違いないと、民の誰もが思っていた。

だが、この頃から既に歪みは顕在化し始めていたのである。

周辺の国々は、ダハーカを怖れた。あまりにも強く、あまりにも賢い彼は、周辺の王達を怖れさせるには充分だった。しかもダハーカは基本的に他国に譲歩をすると言うことを知らない人間であった。周辺国による惨い仕打ちが、彼をそう育て上げたのだと知らない者達は、それで更に震え上がった。

巨大な連合軍が結成され、ダハーカの国を襲った。既に中年になっていたダハーカは、鍛え抜いた精鋭を駆り、一撃の下粉砕した。敵の九割を殲滅するという大勝利だった。しかし倒しても倒しても敵は現れる。どうして平和に暮らさせてくれない。どうして戦を持ち込んでくる。苛立ちは殺意に変わり、元々心優しかったダハーカは、徐々に醜く変わっていった。それは周辺の人間も同じであった。

彼の軍隊が、報復行為を開始するようになったのはその頃からである。侵攻してきた国の民を徹底的に虐殺し、二度と逆らえないように思い知らせた。彼の軍が通った後は焼け野原となり、子供一人生き残ることはなかった。ダハーカはもう健常な判断力を無くしており、それは彼の家臣達もそうだった。

ダハーカが龍の化身だと言われるようになったのはこの頃からである。フェドラーンとマッディーンは忠勇無双であるが、忠実すぎるという欠点があった。二人は王の下最も積極的に虐殺を繰り返し、「ダハーカの双龍」と呼ばれ、悪鬼の如く怖れられた。

ダハーカ王が老境に入っても、戦いは止まなかった。しかし彼は、一戦士としてはともかく、戦略級の用兵家としては生涯無敗であった。戦えば必ず勝ち、敵は絶対に蹂躙した。しかし、ほころびは内側から来た。平和な国をダハーカが作ったために、それは生じた。

国民はダハーカが変わったと判断したのである。戦のための重税。平和のためと称して繰り返される侵略戦争。「心ある民」は嘆き始めた。

誰も、王の苦労など、苦悩など、考えもしなかったのである。

反乱が起こったと聞いたとき、ダハーカはショックを受けた。人生を注いで守ってきた民に裏切られたと思ったのだ。鎮圧を進言する部下達の声も、ダハーカには届かなかった。やむなく、有力家臣達が相談して兵を派遣し、鎮圧させた。失意の中で、王は急速に老けていった。王が活力を失ったダハーカの国は勢いを失い、それが却って戦を減らしていった。皮肉な話である。

それでも、散発的に戦は続いた。ダハーカは戦場に出ると昔日のように負け知らずであったが、全体的に見て気力の衰退は無惨なほどであった。特に彼を悲しませ苦しませたのが、民衆の反乱の報告である。苦しみの中、王は酒に溺れるようになった。彼の酒は、縮退するための道具であっても、心を奮い立たせるための剣ではなかった。

やがて、家臣の中からも裏切りが出た。有力家臣の一人が、若い頃のダハーカによく似た心優しい王子を立てて、退位を迫ってきたのである。王の罪を並べ立てる家臣に、ダハーカは言った。力つきた王の、最後の捨てぜりふだった。

「我を殺すなら好きにするがいい。 しかし、その後この国が治まるとおもうなよ」

それは事実だった。乱れているとは言え、この国には今だダハーカ王を妄信する民が大勢いる。彼らが、王が殺されたと聞いて、黙っているわけがないのだ。家臣は王を殺せず、深い山の中に幽閉することにした。対外的には隠居と発表された。この頃にはフェドラーンとマッディーンは既に老衰死しており、一連の行動を阻める者はいなかった。

ダハーカが作り上げ、守り抜いた国は、結局ダハーカを守ってはくれなかったのである。人間という生物が如何に一方的な存在か、この事象だけでも明かであろう。

幽閉先は僻地であり、寂しい砦であった。周囲の人間達は親切にしてくれたが、しかしダハーカの心は既に閉ざされていた。闇の中、ダハーカは死んだ。老衰死だった。戦士としての死ではなく、王としての死でも、用兵家としての死でもなかった。結局何一つ報われない人生だった。

だからこそ、ダハーカは守る。自分と同じ轍を、太陽神に踏ませないためにも。自分より辛い人生を送ってきた彼女に、せめて大望を果たさせるためにも。だからこそに、ダハーカは戦う。今度こそ、守るべき価値がある者達を、守り抜くために。

 

意識が戻ってきた。自分を包む癒しの光。真由美は指先から感覚を確認しようとして、いきなり躓いた。全身を弾き飛ばす程の痛みが走ったからである。

「つうっ!」

「静かに。 動くと回復に更に時間がかかりますよ」

桐先生の声が厳しい。至近で何か音がする。何の音だろう。殴打するような音。叩きのめすような音。爆音。燃えるような音。雷が走るような……。

唐突に思い出す。そうだ、戦闘の最中だったのだ。

徐々に意識がはっきりしてくる。それと共に痛みも強烈に存在感を誇示し始めた。桐先生は左手を真由美の手に置いて、右手をひっきりなしに動かして盾を操作しているようだった。理由は嫌でも分かる。あの、アジ・ダハーカの猛攻を凌いでいるのだ。

「外傷は大したことがありません。 ただし、打撲傷と内出血が酷いですね。 体力を猛烈に消耗すると思いますが、後五分ほどで動けるようにして見せます。 精神力を温存してください」

「はい……」

桐先生の声には、いつものおどけた様子が一切無い。見上げた顔にも、余裕が全くなく、冷や汗が流れ続けている。

「た、戦いは、どう、なっているんですか?」

「戦況は悪くなる一方です。 真由美ちゃんの特攻で、由紀ちゃんがどうにか切り札をたたき込めましたが、奴は形態を変えて攻めてきています」

「け、形態を、ですか?」

「今度は攻撃主体だそうです。 いやはや、冗談じゃありませんね」

第二形態は攻撃主体。と言うことは、さっきまで戦っていたあの姿。あの無茶苦茶な、出鱈目極まる攻撃能力で、防御主体だったとでも言うのか。背筋が凍る。いったい何を相手に戦っているというのだ。全力で攻撃しに来ている機甲師団か。

これはますます寝ている場合ではない。

真由美は酷いダメージを受けたが、力自体はまだまだ余裕がある。傷さえ治れば、術はまだ充分に使うことが出来る。早く治して、前線に立たなければならない。不思議な使命感が沸き上がる。

空が少し暗くなりつつある。これは好都合である。葉子が力を発揮しやすくなるし、閻王鎧自体の性能も若干上がる。後は体を動かせるようになれば。腰をかがめた桐先生が、砕けて逆に曲がっていた真由美の左手中指を、正常な形に力尽くでなおして、回復術をかけ始めた。勿論、死ぬほど痛い。

「ひあっ! い、いたい! いたいっ! いたいぃっ!」

「……さっきはもっと酷い怪我を治したんですけどね」

「ひいっ! ご、ごめんなさいっ! 怖いから聞きたくないですっ!」

「だったら黙ってなさい。 ハンカチでも噛んでると少しは楽ですよ」

口にハンカチを突っ込まれる。そういえば、何時だか真由美が暮らしていた日本とかいう所では、女の子はもっと優しく扱われていたような気がした。

凄く遠い所に来てしまった事を実感して、真由美は密かに滂沱していた。

寝たままハンカチを噛んで、目を閉じて意識を凝らす。素早く動き回っている零香先生を、同じ場所に立ちつくしている何か得体が知れない恐ろしすぎる存在が、一方的に射すくめている。時々赤尾さんが零香先生を支援しているようだが、全面的な敗北をくい止める程度の助けにしかなっていないのは見なくとも分かる。桐先生の方にも攻撃術は飛んできているようだが、それは零香先生がある程度引き受けているらしい。そうでなければ、既に防御を突破されているだろう。

徐々に思い出してくる。あのアジ・ダハーカが使った無茶苦茶な術の恐怖を。千を超える火球を発生させ、全方位攻撃。防御術と回復術を同時に使い、網膜が焦げるような雷の術も一緒に放ってきた。

攻撃主体と言うことは、零香先生がまともに対しているのは、それ以上の術と言うことではないか。

ゆっくり左手を持ち上げる。何度か握り直す。大丈夫、動く。

桐先生が冷や汗を拭った。半身を起こして、肥前守を掴み、感触を確認。まだ少し重いが、動ける。何とかなる。

立ち上がった真由美は、まだ全身が痛いのを我慢しながら、二歩、三歩と前に出る。戦場を把握したい。仕掛けるにしても零香先生の替わりに戦うにしても、状況が分からなければどうにもならない。

盾を避けて、慎重に前に出た。

戦場は異様だった。片膝を突いて、ボロボロになった零香先生が肩で息を付くその先に、髭を蓄えた傲慢そうなおじさんがいた。凄く強そうな鎧を着ていて、両肩からは口からガスと火を噴き出している龍が生えている。右手に持つ剣には、遠目からも分かるほどに、異常なまでの力を纏わせている。おじさんの周囲三十pほどの地面が残っているが、それ以外は深々とえぐれ、原形を残していない。一目で分かる。おじさんの術でああなったのだ。

「ほう? この短時間で回復させて見せたか。 素晴らしい腕の術者だな」

「お褒めにあずかり光栄です」

ようやく、少しおどけた桐先生の調子が戻ってきた。無言のまま歩きながら、真由美は桐先生がしてくれた、悲しい話を思い出す。その話の主人公が、今傲然と胸を反らしている、あのおじさんなのだろう。ダハーカ王。民のために尽くして、尽くし抜いて、そして結局報われなかった、悲劇の君主。晩年の失政で全人格を否定されて神話上の悪魔とされ、今でも名誉回復が行われていない。

人類は傲慢な生き物だ。その歴史には同族を始めとする、数多くの存在を踏みつぶした結果の、消しきれない血の轍が残されている。この人も、その血糊の一部なのだ。

真由美は人間だ。能力者ではあるが、結局社会に属する人間の一人だ。社会という巨大な生物が、どれほどのエサを生存のために必要とするか、薄々は分かっている。いや、このM国での戦いで、思い知らされた。だから、このダハーカ王に、敵意は感じない。しかし、倒さなければならない。

第三次大戦など、起こさせてたまるか。口中で呟く。どうにか敵への悪意を作り、力に代えようとした。でも、出来なかった。結局真由美は、ガキなのかも知れなかった。非情に徹しきろと自分に言い聞かせているのに、出来ないのだから。

呼吸を整えながら、零香先生が構え直す。真由美も肥前守を薙刀に戻すと、中段に構え直す。由紀先生の替わりになるかは分からないが、真由美が踏ん張らないと、今まで回復のために体を張って猛攻を凌ぎ続けた零香先生に顔向けできない。というか、戦いが終わった後に殺されるだろう。ダハーカ王も剣を構え直す。

そして、何の前触れもなく、激突した。

ダハーカ王の前、十メートルほどで、零香先生と剣が拮抗していた。もはや白熱している灼熱の炎を途轍もなく巨大な剣の形にして、振り回したダハーカ王。それをクローで受け止めた零香先生。バキンと音がして、剣が半ばから折れる。零香先生が先端部を蹴り上げる。空で炸裂する。光が零香先生と王を照らす。残った剣を、優雅に振り回す王。

優雅だったのに。そう、あまりに優雅だったから。真由美はそんな攻撃が来るとは思いもしなかったのである。

さながら台風のような突風が、真由美と零香先生と桐先生を等しく打ち据えていた。吹き飛ばされそうになる所を必死に踏ん張るも、風はいきなり止み、代わりに目にはいるのは散弾となって打ち出される無数の火球。打ち落とせるのは始めの数個だけ。残りは思うままに真由美の全身に着弾した。激しい痛みに息をのむ。鎧を脱いだらどうなっているのか、想像したくない。蹌踉めく真由美は、更に見せつけられる。先と殆ど同じサイズの炎の剣を、高々と振り上げる王の姿を。

風のような音がさっきからずっとしている。両肩の、龍の口から漏れている。成る程、詠唱はあれが代行しているのだ。感心している暇はなかった。剣は後ろに回り込もうとしている零香先生ではなく、眼前の真由美に向けて振り下ろされていたからである。受け止めたら、多分爆発する。必死に脇へ飛び退くも、剣は急に角度を変え、桐先生の数少ない盾を直撃、爆砕した。ついに防御陣を突破された桐先生が吹っ飛び、地面に投げ出される。真後ろに回り込んだ零香先生が蹴りを叩き込むも、寸前でシールドらしい術に防がれてしまう。

天から飛来した数発の火球が、反撃に移ろうとした王のシールドを直撃、炎に包んだ。風圧を利用して間合いを取り直す零香先生と、この隙にと詠唱を始めた真由美。更に飛来した淳子先生の矢が、横殴りに炎の中の王を襲う。だが炎は内側から吹き飛ばされた。王が地面に剣を突き刺す。

同時に、真由美は地面に叩き付けられていた。

「! ……っああああああっ!」

「重力操作か……っ!」

同じように地面に叩き付けられた零香先生の口から悲鳴が漏れる。景色が歪む。空気すらもが震えている。まずい、分かってはいたが、凄まじい、あまりにも凄まじすぎる攻撃能力だ。

象にでも踏まれているような苦痛の中、真由美は詠唱を続け、ついに完成させる。切り札となる術を。別に新しい術ではない。今まで覚えた術の、集大成となるものだ。だから複数個分の術を唱えるのと同等の詠唱が必要になってくる。

「おおおおおおおおおおおおっ!」

零香先生が立ち上がる。この人は、アフリカ象に踏まれても、自力で押しのけ立ち上がるのではないか。流石にダハーカ王の表情が曇る。人間がベースになっている証拠だ。しかし、ダハーカ王のシールドは、先ほどから赤尾さんの火力にも、零香先生の蹴りにも耐え抜いている。多分飽和攻撃が出来なくなってきているのも大きな要因の一つだろうが、どちらにしても此処は真由美が踏ん張る必要がある。

「流石だな……だがこれはどうする?」

言葉と同時であった。細い光の固まりが。まるで針。いや、大きさから言ってナイフか。それが王の周囲、シールドから生えるようにして、無数に出現する。王が指を鳴らすと、それが一斉に周囲に飛ぶ。倒れている真由美にも桐先生にも、零香先生にも。空へも遠くへも飛んでいく。

突き刺さる。傷口に灼熱が走る。それだけではない。一瞬後、炸裂した。

十近いナイフが突き刺さった真由美は、生きたまま焼かれる苦痛に、もう悲鳴も上がらなかった。更に煙が晴れない内に、第二射が来る。重力操作も払いのけられていないと言うのに。火球に比べて威力は小さいが、誘導性能が比較にならないほど大きい。更にもう一撃、もう一撃、もう一撃、もう一撃。

どすんと音がして、赤尾さんが落ちてきた。彼方此方から煙をあげ、既に意識を手放しているようだった。淳子先生の支援が飛んでこない。これはひょっとすると、向こうもダメかも知れない。十回以上傷口を抉られた頃であろうか。視界に倒れている零香先生が入ってきた。寝ている真由美ですらこれだけ喰らうのだ。立ち上がっていた零香先生がどうなったのかは、想像に難くない。

「少人数でよく頑張ったが、此処までだ。 それとも空間浸食を覚悟して、切り札を用いるか?」

戦闘中に、ダハーカ王は良く喋る。それが精神攻撃だと言うことは、真由美にはもう分かっていた。王は強い。言葉ですら、相手の動きを制限するための戦術にしている。桐先生が時々使っているらしいが、ここまで大胆には出来ないだろう。王は、この場にいる誰よりも上手だった。多分、この場にいる誰もが戦う、今までで最強の相手のはずだ。

まだ意識がある様子の零香先生が歯を噛み、それでも立ち上がろうとする。だがもう何射目か分からぬナイフの一斉射撃を浴び、吹っ飛んで転がった。人肉の焼ける嫌な匂いが、真由美の嗅覚をつく。自分の体からも、周囲からも上がっているのは間違いない。

殺される。死ぬ。

ダハーカ王に油断はなく、容赦もない。攻撃には一切の無駄が存在せず、甘さも隙もない。

今までにないほど濃い、死の匂いだった。ジェロウルを最初に見たときよりも、サイレントキラーに狙われたときよりも、古代龍の凄まじい力を最初に見たときよりも。さっきから葉子が耳元で何か叫んでいる。多分励ましているのか、叱咤しているのか。もう良く聞こえない。満足に対応できない。

事前に聞かされている。零香先生の三式以上の切り札は、他の白虎戦舞と併用できないと。消耗が大きすぎるのだ。この間ラドンを屠った新式の神衣を用いても、イメージ的に使用した際の消耗を考えると耐えられないらしい。精神力の問題ではなく、耐久力が根本的に追いつかないのだ。ましてやこのダメージである。この状況で、切り札を用いて今の形態をうち破ったとしても、空間浸食されたらもう終わりだ。今度は逃げることも出来ないし、全員百%確実に死ぬ。そんなカードは切れない。

零香先生は戦闘のプロだし、真由美もそこへ片足を突っ込んでいる。だから分かる。それは選択肢に、無い。

「マユたん! しっかり、しっかりっ!」

涙声だった。葉子の声が、嫌に良く聞こえた。死の寸前だからだろうか。

「……飽和攻撃を浴びせることが出来れば、多分仕留めることが出来ます」

桐先生の声が聞こえる。誰かが突破口を開ければ、勝機はあるという意味か。桐先生も酷いダメージだろうに。

詠唱が聞こえる。赤尾さんの声だ。多分、最後の術を用意しているのだろう。由紀先生は事前に切り札を投入して力を使い果たし、既に離脱していると聞く。後は淳子先生だ。やられていなければ、最良のタイミングで、一斉攻撃に参加してくれるはず。

顔を上げる。朦朧とした意識の中、ダハーカ王が頭上に巨大な火球を掲げているのが見えた。分かる。あれをそのまま眼前に落とし、全員にとどめを刺すつもりだ。ダハーカ王自身はシールドで守られているから問題ない。だが此方は、あれを喰らったら確実に全滅する。

そしてこの様子から見て、まだ五秒と経っていない。今が、仕掛ける最後のチャンスだった。

桐先生は言っていた。アジ・ダハーカは、ほぼ間違いなく複数の人格が統合した存在であると。である以上、頭は弱点になり得ない。真由美の能力特性を生かし、奴に痛打を浴びせるには、突くべき場所は一つであると。

 

「……!」

マユミが立ち上がる。驚きがダハーカの脳裏を充たした。まさかこの状況下で立ち上がってくるとは。一番頑丈なキリやレイカですらもう起きあがる力も無いというのに。そういえば、かなり強力な集合霊を鎧化しているようだし、それから力を得ているのかも知れない。それとも、若さ故の無謀な肉体酷使か。

「陛下、此処は光刃でもう少し力を削り取りましょう」

「俺もそれに賛成です。 此処は慎重に出るべきかと」

フェドラーンとマッディーンが口々に言う。このような奇怪な姿にはされたが、「肩の龍」のアーキタイプである二人は今やダハーカと精神的に統合しており、戦闘時には詠唱を代行してくれるし、アドバイスもくれる。一度にダハーカが複数の術を使いこなせる秘密も、実にここにある。

「いや、ここは一気に決める。 これ以上の反復攻撃は逆手に取られる可能性がある」

「それでしたら、神火球の直後に、神雷か神撃をするべきでしょう」

フェドラーンに頷く。その通りだ。念には念を、とどめにはとどめをだ。

手を振り下ろそうとした、その瞬間だった。マユミが姿勢を変えた。薙刀を短く持ち、まるでライフルを構えるように。本能が警告するよりも、それは早く来た。マユミが、呪文詠唱の最後の一節を解放する。

「駆けよ天馬、そして貫け!」

ダハーカ王は目を見開く。貫通されたのだ。あまりにも簡単に。

そういえば、この子の術は威力半径こそ小さいが、さっきも強固な鱗に覆われた尻尾を簡単に切り裂いていた。多分、防御を貫通する何か特異な性質を持っているのだろう。腹に突き刺さった刃を見て、絶叫するよりも早く、敵が動く。

飛来した矢が、恐ろしいほど正確にマユミが開けた穴に入り込み、シールドの内側にて炸裂する。全身に突き刺さる無数の破片、内側からの打撃で罅が入るシールド。そのシールドに、間髪入れずに大盾が突き刺さる。まるで落石を受けた自動車のフロントガラスのように、ダハーカを守ってきたシールドが粉々に砕ける。必死に態勢を立て直そうとするダハーカの眼前に、跳ね起きた血だらけのレイカが迫っていた。剣を引き抜き、気合いの声で彼女を迎撃する。

「おおおおおおおおおおおおおおっ!」

「せえああああああっ!」

おのれ、おのれおのれ!ダハーカは心中で幾度も舌打ちする。マユミというジョーカーの力量を見誤っていた。本人は既に意識を手放して地面に倒れ、奴の剣はコントロールを失い此方の腹に突き刺さったままだというのに。これ以上奴に出来ることはない。まだ何かあることを警戒すべきなのか。

力を大分失っているレイカだが、一撃一撃の重さと来たら。拳を受けるたびに、剣を持つ手が痺れる。蹴りを避けるたびに、肌を尋常ならざる圧力がねぶる。十合、二十合、三十合。四十合を超えた所で、危険だと判断。機を察した忠臣二人が動く。同時に炎を吐いて、ダハーカの至近で戦うレイカに浴びせかける。流石に一瞬だけ動きが鈍るレイカに、頭突きを入れ、更に蹴り上げる。詠唱し、さっき周囲に展開した重力魔法を、奴の周囲にだけ展開。一気に押しつぶしにかかる。

その時だった。不意に、足下に、小柄な少女が現れたのは。意味が分からず、今度はダハーカが唖然とした。そして正体を悟る。マユミの鎧が消えている。つまり、これは、奴を守っていた集合霊。

対応は悔しいが集合霊が早い。腹に刺さったままの剣を手に取ると、無言で一気に切り上げた。頭を顎の下から唐竹割りにされたダハーカは、鮮血を撒き散らしながら、一歩、二歩と下がる。さっと飛び離れる集合霊。シールドをうち砕いた大盾が、至近で倒れているレイカの側へ飛ぶ。これは、まさ、か。

「終わりですわ!」

叩き落としてやったリツの声。そして、頭上には、さっき展開したまままだ消していない神火球の巨大な存在。其処へ、最小威力の火球が叩き込まれる。

お、おお、おおおおおおおお、おのれええええええええええええええっ!

絶叫は爆音にかき消される。

第二形態が炎に溶けていく。まずい、非常にまずい。まだ空間浸食という切り札があるが、このままだと連中の思うつぼだ。一番厄介なレイカがまだ切り札を温存しているし、あれだけの戦士が此処まで温存していたと言うことは、ダハーカの充分な脅威となる技のはずだ。此処は退くべきか。戦士としては非常に不名誉なことだが、用兵家としては不名誉ではない。何より太陽神の守護者としては此処で死ぬわけには行かない。

体を再構築。小型の飛龍に変え、逃げに入る。空間浸食しない限り反撃する余力は無いから、背後から迫ってくる殺気を振り切るように、空へ飛ぶ。

「逃がすかあああああああっ!」

後ろから恐ろしい勢いでレイカの声が迫ってくる。その叫びが途切れる。何事かと振り返ると、奴が飛んでくる矢を払いのけていた。成る程、潜んでいたナージャヤの小娘が、ここぞとの活躍を見せたわけだ。そのままダハーカは敵を振り切り、逃げ切ったかと思った。しかし、である。

飛来する人間の武器。確かミサイルとか言ったか。対応する暇もなく、それが至近で炸裂した。翼をやられたダハーカは墜落していくが、途中で掴まれる。首を巡らせると、実体化まがつ神の一体だった。

「急いでください! アジ・ダハーカ殿の傷は深い!」

ヴィゾフニルの声がする。後ろから迫る攻撃ヘリのロータリー音。しかも複数。戦闘能力が低めのヴィゾフニルが、奴らに勝てるとは思えない。ナージャヤもレイカから逃げるので手一杯だろう。

「すまぬ……!」

「奴らは貴方に勝ったとは言え、しばらく行動不能でしょう。 古代龍に勝てる可能性がある奴らが動けなくなり、時間を稼げただけでも、私が捨て駒になった意味はじゅうぶんにあります。 さあ、早く本拠に! 傷を癒すのです! そして陽の翼をお守り下さい、英雄王ダハーカよ!」

激しい射撃音。弾丸が肉にめり込む音。

傷つき余力を無くしたダハーカがオールヴランフ島に逃げ込んだとき。ヴィゾフニルの断末魔が、聞こえた気がした。

 

5,呼び込まれる核の炎

 

米国中枢では調整が続いていた。そろそろマスコミに事態が隠しきれなくなってきている。そうなる前に、核兵器で全てのケリを付けるか否かという議論が、活発に行われていたのである。

大統領はあくまで最終決定役でしかない。民主主義というのは、凡人が政治を行うためのシステムであり、逆に言うと合議が基本になってくる。現在、大統領の支援者となっているパワーエリート達は意見を二分させていた。

一つの意見は、核兵器使用肯定派であった。此方は主に経済関係の人間が多く、しばらくは大戦争を起こさず、富を蓄えたいと考える者達であった。一方で軍需産業関係の人間達は二つに割れていた。第三次世界大戦が起こるかも知れない今の事態を歓迎しているものと、そうなると収拾がつかなくなり、却って米国の不利益になる可能性が高いと考える者達である。前者は核否定派で、後者は肯定派だった。

総合的に見ると、核使用肯定派の方が若干多く、後は軍司令官達との協議に話が移ってくる。既に大統領は軍の技術者達に、どの基地からICBM(大陸間弾道ミサイル)を発射するのか、発射するならいつがいいのか、立案させる作業に入っていた。

そんな緊迫した状況下で、大統領の下へ興味深い意見が飛び込んできた。現場からの報告である。それを支援すると言って来たのは、パワーエリート達の中では若手の一人で、古くからの金持ちではなく、一代で財を成した傑物であった。若いながらもアメリカンドリームを達成した彼は敬意を周囲から払われており、老獪な年寄り達も一目置いていた。

そうである以上、大統領も座視しているわけには行かない。報告書を作成したユンカートという中佐がすぐにホットラインで呼び出され、大統領は秘書官を隣に、報告を聞くことにした。

 

しなびた瓜のような顔をした大統領は既に老境に入っており、あまり切れ者ではないと世間では思われている。だが彼も一応エリートである。米国のエリートは非常に高度な教育を受けていて、能力はおしなべて高い。最初世間の評判から心配していたユンカートだったが、大統領は一応の理解力を示し、眼鏡の奥の瞳を瞬かせながら言った。

「すると、敵にはICBMを叩き落とす能力があり、なおかつその後に反撃する力があるというのかね」

「はい」

報告書には、中性子爆弾に近い性質を持つ兵器だと言及した。しかも射程距離は未知数で、最低でも数百キロに達すると。しかもこれは最低限の数値で、下手をすると米国本土に到達するかも知れないとも。

報告書には、他にもさまざまな事項に言及がある。敵の目的は、ICBMを撃墜し、アメリカの面子を丸つぶれにすること。更にその後、核を超える兵器を駆使して、現在の世界的なパワーバランスを一気に崩すこと。

そうなれば、米国の利益などと言っていられなくなる。下手をすると、核攻撃も含む、全面世界大戦に発展する可能性もあるとも。

「しかし、これは敵の内通者による情報と、現在の戦況から割り出した結論だろう?」

「二十機以上もF22ラプター戦闘機を撃墜してみせるような相手です。 更に奴らが保有しているドラゴンは、重武装の巡航艦を真っ正面から撃沈して見せています。 その上、艦隊からの巡航ミサイルでの攻撃も通用していません。 連中が開発中だという最終兵器のドラゴンは更に性能が上だという、ただそれだけの話ですが」

「う、うむ。 しかしどう皆を説得したものか……」

「大統領、連中はワシントンを丸ごと消し去る能力を持つかも知れないのです。 しかも核兵器を行使して失敗した場合、米国の威信を失った上で、それを敵にするかもしれないのですぞ。 これは、決して大げさな話ではありません!」

事態の重さをようやく飲み込んでくれたのか、大統領は蒼白になっていた。陽の翼は既に事態を影ながら世界的なものにしてしまっている。もしICBMでの攻撃に失敗し、誰かマスコミの人間が概要を掴んだら最後、取り返しのつかない混乱が世界を覆うことであろう。

まあ、その時は、米国の首都がこの世から消えているかも知れないのだが。

「ど、どうすればいいのかね」

「使えるだけのサイキック部隊を今すぐ此方に回してください。 後、第二次攻撃の準備を。 日本から来ている能力者達の活躍によって、陽の翼が保有しているドラゴンは戦力を半減しています。 もう一度、総攻撃を行えば、勝てる可能性があります」

「リスクが大きすぎる。 何とか講和の可能性は探れないか。 M国を丸ごとくれてやるとか……」

「勝てると分かっている状況で、相手がそんな条件をのむと思われますか!」

大統領が分かってくれるかは微妙だが、ユンカートは彼なりに故国を愛している。だから声を大にして叫んだ。

「講和を計るにしても、敵に決定的な打撃を与えてからです! 此方が手も足も出ない状況を打開しない限り、敵を交渉のテーブルに引きずり出すのは不可能です! 今や、事は数百万、いや長期的に見ればそれ以上の命がかかった事態に発展しています! 大統領、ご決断を!」

 

大統領は分かった分かったと言っていたが、事態がどう転ぶかはいまだ未知数だった。ユンカートは暗黒と化したテレビ画面を見て嘆息する。

今日、日本の能力者が全員酷い怪我をして帰ってきた。あの巡航艦を撃沈したドラゴンに決定打を与え、暫く行動不能の状態にしてきたという。だからユンカートは、大統領にあれだけ強気に出たのだ。だが大統領の決断が遅れれば、全ては機を逸してしまう。

外に出る。陽が沈む。ケヴィンが装甲車の側の廃タイヤに座って、たばこを吹かしていた。そういえば、ドラゴンの追撃を的確に行い、更に傷を深くしてきたのは彼だという。やる気が無さそうだが、有能な部下だ。隣でたばこに火を付けながら、ユンカートは言った。

「君は、事態をどう見る?」

「さあね。 正直分からないですよ」

「……私は祖国を守りたい」

「俺は娘一人護れれば、それでいい。 俺のことをパパって呼んでくれればもっと良いけどな、もうそれは諦めましたよ」

人権の重視が、却って人権を奪ってしまう悪例がある。その一つが此処にある。だが、それでも戦ってくれるという男の中の男が此処にいた。

「あの子達との戦いを頼む」

「俺が何処まで役に立てるかは微妙ですが、頑張ってみますよ」

再び、ケヴィンはたばこを吹かす。

わっかになった煙が、空に流れていった。

 

(続)