鉄壁の絶島

 

序、社会の外側

 

高橋陽明が物心着いたとき、彼は既に自覚していた。まともな生まれになく、彼自身もまた、まともではないという事を。日本に残った数少ない旧家の片隅に、ひっそりと産み落とされた忌み子が、彼であった。

自分の名前だけは知っていた。しかし、それ以外は何も知らなかった。両親という概念さえ、書物を通して知ったのだ。監禁されていなかっただけで、広大な屋敷から全く出たことがない陽明は、狭い世界の住人だった。だからこそに、手足が伸びきる前に世界の全てを踏破してしまったし、世界の全てを知り尽くしてしまった。

そんな状況下では、変化があるものに興味を覚えるのは当然のことであったとも言える。彼は屋敷の片隅にある道場で、木刀を振る剣術の修練を始めるようになった。誰も彼には構わなかったから、全て屋敷にあった書物を参考にしての事であった。自らの腕がどんどん上がっていくのが面白かった。先が見えない修練を通じて、陽明は始めて自分が生きているという実感を得ていたのである。

やがて、何種類かの書物にあった奥義を全て究めてしまった結果、当然の欲求が生じた。試してみたいと思ったのである。

現実と隔離された世界にいたからこそ、むしろ極端に現実的な考えをする部分も、陽明の中にはあった。剣術は剣道とは違い、スポーツではない。如何にして敵を粉砕破壊して、戦闘能力を奪うかという、現実的な戦闘技術である。だからこそに、その究極は殺人に向かう。活人剣などと言う理屈が、戦乱が終わった江戸時代に作られたことからも良く分かる。究極的に剣は殺しの道具なのである。

陽明はその頃から屋敷を抜け出すことを考え始めたが、屋敷内には警備の人間が多く、しかも剣術を始めた陽明は警戒され始めていた。塀は厚く高く、外へ抜けるのは非常に難しかった。空を仰ぐ日が多かった。雲はいつも自由に空を泳いでいて、楽しそうだなと思った。雲のように飛びたい。雲のように何処へでも行きたい。そんな事ばかり考えていた。

いつ頃からであろうか、空間を転移する能力を身につけたのは。かなり限定的な能力だったのだが、いつのまにか出来るようになっていたのだ。一回できることを覚えてしまうと、後はその能力をこっそり鍛えに鍛え、磨きに磨いて、実用に耐える代物に仕上げていった。もう一つ、物体を自在に動かす能力も手に入れていた。これも徹底的に鍛え抜いて、役に立てようと思っていた。

もし能力の存在が警備の連中に知られたら、どんな事をされるか分からないと陽明は思っていた。彼は警備員同士での陰惨な虐めをよく見ていた。その理由は、彼らが言う平均との差異が大きな要因となる事が多かった。彼自身が閉じこめられているのも、その平均からの隔離が大きな原因ではないかとも薄々気付いていた。だから、知られるわけには行かなかった。もし知られたら、一生剣を試す機会は無いものとして考えなければならなかった。

不思議と、警備の人間に剣を試そうという気にはならなかった。それは彼らが剣を持っていなかったからである。剣を持つ相手にこそ、剣を試したかったのだ。

そして彼は、屋敷を脱走した。

高橋陽明が、十二歳の時の話である。

 

陽明が目を覚ますと、誰かがいた。死んだ魚のような目をした、ゴスロリスタイルの隠密狙撃型能力者。五翼の一人、アースダイバー・スナイパーこと隠翼ナージャヤ。彼女が、陽明の前で編み物をしていた。姉に比べると大分社交的なこの娘であるが、その深い闇を湛えた目に、光や笑みが刺すところを、陽明は一度も見たことがない。肘枕をしてうたた寝をしていた陽明は、小さく伸びをしながら体を起こす。

此処は陽の翼の本拠。M国西部にある島。今では、かってこの島に住んでいた、陽の翼の先祖達が呼んでいたのと、同じ呼び名が使われている。オールヴランフ島である。今や千を越す陽の翼構成員が島に住み込んでおり、急ピッチで住居スペースの構築が行われていた。島の沿岸部にある防衛施設は、既にほぼ完成を見ており、今では地下を掘り進み、新しく入り込んできた住民達のためのスペースを作っていた。必ずしも快適とは言い切れない空間であったが、誰も文句は言わない。この島に住むことこそが、長年の夢だったのだから。

陽明は幹部用の共同宿舎の、リラクゼーションルームで昼寝を楽しんでいた所であった。起きたら、目の前にナージャヤが座っていたのである。

リラクゼーションルームと言っても、緊急時の連絡用スピーカーがすぐ側にあり、部屋も六畳間程度の広さしかない上、置いてあるのはソファーとテレビだけという貧弱さだ。陽の翼の辞書に、幹部が本島で贅沢を出来るなどと言う辞書はない。

逆に言うと、陽の翼の構成員達は保有する土地こそ貧弱だが、皆かなりの金持ちだ。海外に別荘を持っているヒラ構成員はゴロゴロいる。事実、備品は少ないが、床に敷いてあるカーペットもソファーもかなりの高級品だ。陽明も給料はかなり高めで、倉庫を幾つか外に借りて宝物を保管している。大事なコレクションである刀の殆どは、其方にあるのだ。警報は完備しており、いざというときは能力を利用してすぐに運び出すことも出来る。

「ナージャヤ殿、何用かな」

「別に。 ただ編み物をしていただけよ」

手元にある村正の人斬り包丁を手に取ると、陽明は分解して手入れを始めた。手入れを念入りにしておくことは、武器に対する敬意の表れだ。しばし無言が続くが、ナージャヤが先に口を開いた。

「うなされていたけれど、昔の夢?」

「そうだ」

過去を詮索しないのは、陽の翼の中での不文律だ。だがナージャヤは陽明にどうやら好意を抱いているらしい節があり、陽明もそれほど彼女を嫌ってはいない。丁度この場には二人しかいないし、陽明も自身の過去にそれほど深い傷を受けてはいない。だから、自然にその話が出ていた。

「拙者がはじめて家を出た頃の夢を見ていた」

「まだ子供の頃?」

「そうだ。 自力で能力を会得した拙者は、軟禁されていた屋敷を抜け出して、剣の腕を試そうと思って街中を歩いて廻った。 抜け出したことがばれない都合が良い能力だったし、少しずつ街を歩いて、外の常識を身につけていく時間はたっぷりあった」

三ヶ月ほどかけて外を知った陽明は、今まで自分がいた環境が如何におかしなものだったのか、嫌と言うほど思い知らされていた。普通の家に警備員などいないし、子供は自由に外を走り回っている。学校へ子供達は趣き自由に勉強し、金銭というものと物質を交換して食物にありついていた。金銭の存在は知っていたが、実際に見るとでは理解に雲泥の差があった。

親を羨ましいと思う年はとうに過ぎてはいたが、幼い頃の無闇な渇望が此処から来ているのだろうと言うことは、何となく理解出来た。いずれにしても、現実は尽く、陽明の理解を超える存在であった。

しかし、現実が陽明の域を超えていなかったものが一つだけあった。剣術である。

街を歩いている内に、陽明は剣道道場を何カ所かで見つけていた。中を覗いてみた陽明は、あまりにレベルの低いやりとりに失望を隠せなかった。剣の動きも、体捌きも極めて遅い。ただ、幾つかの道場を見て回る内に、陽明は悟っていた。これは陽明が勉強してきた殺し合いの技術ではなく、スポーツなのだと。

理解は必ずしも幸福へと繋がるわけではない。剣術が絶滅し、スポーツ化していることはショックだった。念のために、一度道場破りに入ってみたが、師範格でも全く勝負にならない有様であった。虚しい勝利だった。無為なだけの戦いだった。陽明にとって、人生で最初の挫折であった。

陽明は愚かではなかった。殺し合いとスポーツが根本的に違うことを理解していた。それ以上に、スポーツを行っている者に剣を向けても意味がないことを、本能的なレベルから悟ってしまったのだ。

「脱走する術を持っているというのに、拙者はそれからしばらく、屋敷から動く気がしなかった。 外に出ても、剣を試す術がない。 剣を交える相手がいない。 自分の存在に対する疑問も浮かんできてはいたが、挫折感の方がより大きく、何もする気力自体が湧いてこなかった。 そんな頃のことを、夢に見た。 また何も希望のない日に戻ってしまうことは、拙者にとってなによりの恐怖だから、夢に見たのだろう」

「陽明は、そうなると、今は幸せなの?」

「幸せだ」

即答した事に、一番驚いたのは、当の陽明自身であった。

結局、精神力が回復しきったのは十五歳の頃であった。剣に無言で打ち込むことにより、どうにか陽明は自我の平衡を回復し、それからの事を考える余裕を得たのである。そのうち、隠密行が自然と上手くなってきていた陽明は、警備員の一人を物陰に引きずり込んで半殺しにし、何故自分がこのような待遇を受けているのか、聞き出すのに成功していた。

陽明はこの家の当主の、前の妻の子なのだという。本来は家屋敷を相続する立場だったのだが、母が死んで当主が後妻を迎えてからはからは全てがおかしくなった。当主と後妻の間にも子が生まれたのである。そうなると後はおきまりのパターンだった。後妻側の圧力もあり、その子に家財産を相続させたいという事になったのだという。そのため、陽明は此処に軟禁されたのだ。存在そのものを隠し、いざというときの相続用の駒として確保するために。

下らないと、陽明は思った。それは全くの事実であったし、何より陽明自身に金銭欲そのものが無かった。もう此処にいる意味も失せたと思った陽明は、好きな剣術の本をもてるだけ持って、さっさと屋敷を脱走した。それから十年以上追っ手の姿があったが、高橋家が経営破綻し、同時に司法の手が伸びて数々の犯罪で「両親」が捕縛されてからは、それも無くなった。

完全に家を飛び出してから暫くは陽明も楽しかった。産まれた街を離れてみると、能力者や昔ながらの剣術を行っている者にもたまには出くわすことが出来たからだ。何年もしない内に、今時正真正銘の死合いを挑んでくる若者がいるという噂が、剣術を学ぶ者達の間に流れていた。陽明のことである。勿論陽明は、それによって自分が陽の下を歩けなくなることは承知していたが、本望だった。

生計は盗みで立てていたし、真剣勝負をすれば死体から戦利品を貰った。その結果、いつの間にか、剣のコレクションが増えていた。西洋剣もあったし、日本刀も多かった。中には変わり種として、古代の大太刀などもあった。どれもこれも曰く付きの妖刀ばかりだったが、陽明には始めて出来た大事な家族だった。

刀そのものも陽明にとっては大事だったし、それに住み着いている古代の悪霊達の声も心地よかった。陽明の手足が伸びきる頃には、コレクションは九十九に達していた。自己流の剣を、九十九一殺流と名付けたのも、この頃である。

陽明は幸せだった。幼い頃からの夢である、死合いと果たし合いが渦巻く世界に飛び込むことが出来たのだから。何年かする内に、陽明は陽の翼のスカウトを受けた。水を得た魚も同じであった。そして現在は五翼の一角にまで登り詰めることに成功した。

感慨深い日々であった。そして今も充実している。周囲には世界最高峰の能力者集団がいて、中でもパッセは陽明が剣の師事を仰ぐほどの実力である。戦っている各国の能力者も強者揃いで、特に零香などとはまた戦ってみたいと考えている。陽明にとって、戦闘は性欲よりも優先度が高い絶対事項である。陽明という鮫は、戦闘という水がなければ、乾涸らびて死んでしまうのだ。

「聞けば、米軍の大攻勢が近いと聞く。 古代龍共に美味しい所を持って行かれぬよう、拙者らも渾身の力で戦場に望まねばなるまいな」

「そうね。 今度ばかりは古代龍だけでは対処できないでしょうし」

言いながら、陽明は刀を組み立て直し、鞘に収めていた。笑いを押し殺すのが精一杯だった。あの零香と、本気で最初から戦えると思うと、眠れなくなりそうだった。由紀や桐でもいい。日本から参戦している能力者達は相当な使い手ばかりで、誰と戦えるとしても、最高の駆け引きが楽しめそうだった。

今回の戦いで、陽明は能力から言って撤退支援や後方攪乱が主になっていた。しかし味方戦力が本拠に集中し、後方には世界最強の能力者である太陽神が控えている現在、陽明も問題なく前線に立つことが出来る。今までの任務も重要だったし、それに対しての正統な評価だって受けている。だから別に不満はない。しかしそれとは別の意味で、陽明は今心が躍り立つのを感じていた。

「剣翼陽明様。 隠翼ナージャヤ様」

スピーカーからの声に、二人が同時に顔を上げる。

「敵が作戦を開始しました。 先ほど米軍艦隊より数十機の艦載機が飛び立ったのを、ガンガー様が確認しています。 すぐに艦砲射撃が始まるかと思われます」

「漸く来たか。 ならばいよいよ我らの出番であるな」

「はい。 天翼パッセ様が作戦の伝達を行うそうです。 すぐに神の間においで下さい」

「うむ。 すぐに向かう」

腰を上げた陽明は、少し浮かない様子のナージャヤに気付いたが、先に行くと言ってその場を後にした。そういえば、あの娘は陽明やパッセほど戦いを好んでいないと思い出したのは、神の間のすぐ手前のことであった。

神の間に着いたときには、既に陽明にも迫り来る気配が探知できるようになっていた。当然多少の攻撃ではユルングとガンガーが作り上げた防御システムはびくともしないので、末端の構成員達も落ち着き払っている。御簾の向こうにいる太陽神に一礼すると、陽明はパッセ、ジェロウル、キヴァラ達の姿を順々に確認し、彼らの横に並んだ。程なくナージャヤも追いついてきて、五翼が揃って太陽神に跪く。

御簾の向こうから、太陽神が語りかけてきた。声だけで、陽明の力ではまだまだ到底勝てないと分かる。勿論戦う気などさらさらない。

「聞いての通り、米軍の総攻撃が開始された。 まだケツアルコアトルの完成には少し時間が掛かる。 そのため、彼らの攻撃を払いのけておく必要がある。 皆には善戦を期待しておるぞ」

「はっ!」

「総司令官として、パッセを任命する。 被害を最小限に抑えることを第一に考えて、敵の攻撃を凌ぎ抜け。 全戦力を投入して構わぬ」

「お言葉のままに。 臣パッセ、全力をつくしましゅる」

こんな時も空気が漏れるパッセに、陽明は苦笑を押し殺すのに苦労した。パッセが昔の苦労を忘れないために敢えて差し歯を入れずにいるというのは知っている。だがこういうときは、その悲壮な覚悟を知っていても、面白いと思ってしまう。場の緊迫した空気が、却って面白いと思わせてしまうのだろう。

立ち上がったパッセは、皆に作戦を伝達した。全く無駄がない作戦で、異論を挟む余地がない。

この時点で、陽明は、この戦いの完勝を予感していた。

 

1、狭き入り口

 

人がどんどん死んでいった。人が目の前で死ぬのはもう経験したし、自分の手だって汚した。それでも、こんなに大勢目の前で死なれると、悲しくて悲しくて仕方がなかった。

敵本拠に対する攻撃作戦は、完全に失敗したのである。何チームかに別れて向かった味方も、軒並み壊滅状態だろう。あんな無茶苦茶な能力の持ち主が敵にいるのでは、どうしようもない。おっかない先生達だって、どんな苦境に遭っても眉一つ動かさなかった人達だって、今回ばかりは疲れ切った様子だった。

敵本拠からどれくらい離れただろうか。攻撃に参加した味方はどれだけ生き残っただろうか。出かけるときの三割もいないのではないだろうか。零香先生が、背負っていた兵士を横たえて、小さくため息。どうやら息が止まったようであった。衛生兵が人工呼吸を始めるが、助かる見込みは、傍目から見てもゼロだった。回復系の術が使える淳子先生は、とうの昔に力を使い果たしてしまっており、歩くのが精一杯の有様である。桐先生も、赤尾さんも、由紀先生も、この場にはいない。生きているのかさえも怪しい。

死亡確認。生き残った米兵達も、皆無言だった。もう流す涙も残っていなかった。

死体を回収する余裕さえなく、敗者の行軍は続いた。この有様では、攻撃時にベースとした野戦キャンプも無事だかどうか怪しいものである。呆然としている米軍小隊長に代わって、全身傷だらけの零香先生が、戦死した兵士の瞼を閉じさせてやる。

今は兎に角、敵の本拠地から離れること。それ以外に、生き残る術はなかった。

街の灯が遠い。後ろにある小さな島が、いつまでも張り付いて追ってくるかのようだった。

無力感が溢れてくる。とても悲しいと、真由美は思った。

真由美は思い出す。どうしてこんな事になったのか。丁度二日前から、この無謀な作戦案は開始されていたような気がする。そして彼女は、それを止めることが出来なかった。止めようがなかった。

戦いが始まる前のことに、真由美の思いは飛んでいた。

 

遺跡での戦いより四日後のことである。あれから状況は膠着状態になり、米軍は今だ何も言ってきていない。傷を癒しながら敵の動きを見ていた零香先生達の下で、冬休みの宿題をしながら技を磨いていた真由美は、漠然とした不安に包まれていた。零香先生はあれ以来ずっと何か新しい術の修練をしているし、由紀先生は桐先生と一緒に出かけては、傷だらけになって帰ってくる。淳子先生と赤尾さんが二人を回復させながら、何やら話し込んでいるが、怖くて話を聞く気になれなかった。今だけは、戦いのない世界に現実逃避したいという事情もあった。

ファーフニールを殺したときの感触は、まだ手に残っている。味方を撤退させるために、命を賭けて盾となった忠実な巨龍を、真由美は殺したのだ。味方が良い奴ばかりで敵が悪い奴ばかりなどというのは、幼児向けの漫画の中でしかあり得ないと、真由美は知ってはいる。サイレントキラーを殺したときだって辛かった。今だって辛い。

ファーフニールの考え方は、真由美には分からない。どうせなら生き延びて、再戦するチャンスを狙いたいと思うのだ。だが、ファーフニールは自分の命を惜しまず、信じる相手を助けるために体を張って立ち向かってきた。その気高い行為を、どう否定することが出来るというのか。そんなのは、傲慢を通り越して卑劣だ。もしそれを否定する相手がいたら、真由美は躊躇無くはり倒しているだろう。

勉強が手に着かない。何回問題を解いても、頭に入ってこない。刃を交え、敵を殺すという行為が、頭の切り替えを極めて鈍重にしていた。

分からないから否定するというのは、人間社会が成立してから、ずっと行われてきた悪しき慣習だと、この間真由美は桐先生から聞いた。若者の新しい文化を親世代の人間達は否定し、親世代を頭が固いと言って若者達が否定する。異文化は愛玩と嘲笑の的となり、感覚がずれている人間は迫害の対象となる。それが普通のことであり、平均的なことなのだと、真由美は知らされた。事実、「今時の若い者は」という時代を超えた愚痴は、古代文明の時代から存在していたのだという。当然のことだが、老人をバカにする若者も、同じ頃から存在していただろう。

しかし、そんなものと真由美は一緒になりたくなかった。理解出来ない相手ではあったが、サイレントキラーやファーフニールの戦いを間近で見た以上、分からないから否定する等という行為は、責任放棄に思えて仕方がなかったのだ。もしそれで「普通」や「平均」や、「常識のある人間」からはじき出されるとしたら、真由美は別に構わない。彼らを否定し差別することで平均的な人間になると言うのなら、こっちから願い下げである。

ためいきをつくと幸せが一つ逃げるとか言う。真由美の幸せは、どんどん逃げてしまうようだった。責任放棄が幸せを呼ぶなら、幸せなんか後でいいと思う自分もまたいることを、漠然と真由美は感じている。

外で大きな音がした。零香先生の修練は、ここの所激しくなる一方だ。一応術によってこの廃ペンションの敷地からは音が漏れないようになってはいるが、それでも心配になってくる。零香先生は充分強いように真由美には思える。それでも何か術に改善をもたらさなければいけないほどに敵が強いとあの人は考えているのだろう。真由美は憂鬱だった。余程条件が重ならない限り、真由美にはどうにも出来そうにないからだ。隣の部屋では、淳子先生と桐先生が赤尾さんを交えて何やら物騒な話をしているのが聞こえてくる。内容については、あまり考えたくない。

ストレスが限界近い。頭を抱えて突っ伏す。条件が悪くて葉子は具現化できず、愚痴をぶちまける相手もいない。大島さんは話を聞いてくれるような時間がないし、この間一緒に戦ったケヴィンさんは怖くて話しづらい。何というか、年代も考え方も違いすぎて、悩みを共有できる気がしないのだ。この辺り、さっき思い出した不寛容の一種だと思うのだが、完全に克服できていないのは確かだ。自分の未熟が辛い。零香先生や他の先生方は皆戦闘を中心に物事を考えているような人達だし、こういう弱い心の悩みが共有できそうもない。昔だったらともかく、今のあの人達には特に。何しろ小学生の頃から、今の真由美が置かれているような環境にいて、ずっと血みどろの戦いを続けてきたと言うではないか。

気分を変えようと、リズさんの様子を見に行く。同世代の女の子と言うこともあるし、多分人生経験もそう大差がないだろう相手は、この人外の群れの中では砂漠のオアシスに近い存在である。此処に来てから暫くは、リズさんも沈み込んでばかりだったが、最近は少しずつ真由美にも心を開いてくれるようになって安心している。不思議な話である。真由美はどちらかと言えば穏やかなタイプで、リズさんはかなりきつい性格。本来だったら仲良くなる要素自体が皆無だというのに、肉食恐竜の群に放り込まれた子兎同士、という共通点だけで、親近感を感じてしまうのだから。

今、彼女は資材置き場の一角にスペースを確保して住み込んでいる。日本の漫画が好きなようで、最近はM国でも手に入るメジャーな本を憂さ晴らしに読んでいるようだ。仮にも陽の翼の一員であった彼女は、真由美が部屋に入ってくると、すぐに顔を上げた。

「なに?」

「うん。 少しお話ししようかな、って思って」

「……勝手にすれば?」

ついっと顔を背けるリズさん。動作と裏腹に、表情に拒絶はない。

幼なじみを逃走中に失ったという彼女。多分幼なじみの事が好きで、多分それを表に出すことが出来なかったのだろう。命を渡されたことになる訳だが、渡された方としてはどうして良いのか分からないと言う状況のはずだ。真由美だって、命を一方的に渡されるよりも、一緒に並んで歩きたいと思う。守られたいという願望はほとんど無い。

でも、その幼なじみは、共に生きる道よりも、自分の命を犠牲にしてでもリズさんを生かす道を選んだのだ。

悲しいことだが、それを否定する資格など、何処の誰にだってない。

しばし元気かどうかとか、天気がどうだとか、下らない話に終始した。不意に話題を切り替えてきたのは、リズさんだった。

「日本てさ、どんな所なの?」

「どんな所? そうだね、昔の人の努力で平和すぎる国になって、それに慣れちゃったから凄く苦労している所、かな」

「平和なんだ……」

「うん。 良い意味でも、悪い意味でも、ね」

確かに平和だ。だがそれでも、裏社会というものが存在はするし、毎日殺人事件も起こる。真由美だって何度も実戦を経験し、死ぬような目にだって散々あった。多分ある程度の水準まで行ってしまうと、世界の何処でも「平和」ではなくなるのではないかと、真由美は漠然と感じる。

「もし日本に産まれてたら、あいつ死ななくても済んだのかな」

「分からないよ、そんな事」

「そうだね、ごめん。 バカだな、私。 自分で決めたことなのに。 自分で決めたからこうなったのに」

自分の行為に、この人は責任を持とうとしているのだ。でも、責任を持ちきれていないのである。

どうしてこうなってしまったのだろうと、真由美は思う。そもそも陽の翼は、平和に自分たちの島で暮らしたいと思っていただけの人達だったはずだ。それなのに、なんで世界を相手に戦争することになってしまったのか。なんで核兵器よりも更に恐ろしい兵器を開発し、その猛威を振るおうとしているのか。誰が一体悪いのだろうか。この地に侵略戦争を展開したコルテスとか言う鬼畜に等しい者は勿論悪いだろう。だが、アステカ王国は近隣諸国や住民達に恨まれていて、ほとんど自壊するような形で滅びたという話もある。

考えたくはない。その先は考えたくない。だから真由美は、話に没頭することでごまかした。

「そ、そうだ。 この戦いが終わったら、日本へおいでよ。 そうしたら、美味しいお店とか、案内するよ」

「ありがとう。 いいな、豊かな国って。 昔、凄く偉い人がいたんだろうな。 大した資源があるわけでもないのに、世界で一番豊かな国の一つなんでしょ? 羨ましいな」

「そんなにいいものでも……ないけどね」

「いつかこの国も、そんな風になると良いな。 ……それでこんな事も、二度と起こらないで欲しいな」

笑顔で応じはしたが、内心真由美は複雑だった。分かる。多分それは無理だ。

人間が人間である限り、何度だって同じ過ちは繰り返される。真由美の故国日本は今でさえ平和だが、四百年ちょっと前には国中で殺し合いをしていたし、つい六十年前には無謀な国策の下暴走して焦土と化してしまった。十年後、日本が平和である保証など何処にだって無い。

だが、百年の平和を築くことは、努力さえあれば多分可能だろう。その百年の平和を築くことに、どれだけの血が流されるのか分からないが。

真由美はどんどん自分が現実主義に染まっていくのを、肌で感じていた。ちょっと前だったら死んだって許容しなかったような考えが、自然に喉を滑り落ちていく。しかし、口には出したくない。だが口に出さなければ、同じように現実主義の中生きている人達と和解することは不可能だろう。理解することはもっと不可能だ。

話していて分かる。リズさんはその辺りの事情をきちんと理解した上で、日本に憧れている。それはとても辛いことだが、その辛さを理解した上で話さなければ、リズさんを理解するには到らない。理解しなければ、友になることだって守ることだって、どっちも出来ないだろう。

「楽しくお話ししている所、いい?」

顔を上げると、大島美智代さんが、柔らかい笑顔を浮かべて立っていた。

「悪いけど、米軍から連絡が入ったわ。 攻撃作戦を実行するから、皆にも手伝って欲しいそうよ」

いよいよ来た。リズさんを見ると、目を伏せて、小さく首を横に振った。

 

二時間ほど後、迎えが来て一同米軍のベースへ移動することとなった。今回、米軍は前回の作戦失敗をふまえ、敵本拠地から百三十キロほど離れた森の中にベースを設置している。輸送ヘリのポートを始めとして、近くの小規模な空港は偵察機らしい飛行機がひっきりなしに離着陸している、かなり大規模なベースだ。

「多分、本来はここ、後方支援用の第二ベースだったんだろうね」

「零香ちゃん、傷は大丈夫ですか?」

「もう全快。 わたしを舐めて貰っちゃ困る」

桐先生に応えながら、零香先生が皮手袋を填めた右拳を、開いたり閉じたりしていた。殺る気まんまんで、はっきりいって傍目から見ていてかなり怖い。丁寧に偽装されたベースに通されると、勲章を一杯着けた米軍の高官らしいおじさんが、プロジェクタの前で、腕組みをして面白くも無さそうに座っていた。真由美達も奥へ案内され、パイプ椅子をあてがわれて座らされる。一番不機嫌そうなのは零香さんの隣に座らされたケヴィンさんである。何だか分かるような気がする。真由美だって、おじさんたちの間に放り込まれたら落ち着かないだろう。

席は間もなく一杯になり、作戦の説明が始まった。翻訳の術は掛けて貰っているが、プロジェクタの文字までは翻訳されないから、映像を見ながら専門用語を必死に理解していくしかない。

衛星写真か何かか、米軍は敵本拠のかなり精密な地図を手にしていた。連れてこられたリズさんは意見を求められ、いちいち頷いている。彼女としても、恐らく非の打ち所がない、精密な地図なのであろう。

作戦の説明が始まる。攻撃計画は、まず空軍と海軍による絨毯爆撃と艦砲射撃を浴びせて敵の抵抗力を削ぎ、それから陸上部隊が攻撃するというものであった。あの古代龍達を相手に、どれだけ艦砲射撃が通じるのが真由美には分からなかった。真由美の隣に座った赤尾さんも、難しい顔で何やら考え込んでいる。極端な童顔なので、えらくかわいい。米軍のクラスター爆弾やトマホーク巡航ミサイルの破壊力は真由美も聞き及んでいるが、相手は近代兵器ではなく、強力な古代の術で武装した龍達と、世界最強の能力者達なのだ。

「利津先生、上手くいくでしょうか……」

「さあて、やってみなければ分かりませんわ。 ただ……」

「ただ?」

「今まで交戦した古代龍の能力から考えて、物理法則に干渉する位のことは平気でやりかねませんわ。 そうなってくると、米軍が積み重ねてきた戦闘のノウハウが全く通用しない可能性もかなり高くなってきますし、大規模な攻撃を一度に仕掛けるのは危険という気もしますわね」

至極常識的な意見だと、真由美は少し偉そうなことを思った。ただ、この人達の下に着いてから、真由美は戦闘経験値を嫌と言うほど積んできていて、すらすらと戦争の基礎理論を理解出来るようになってきている。一通り話が終わった所で、米軍の指揮官が挙手した。皆の視線が集まる。

「Msレイカ」

「ん? わたしですか?」

「能力者としての意見を聞きたい。 この作戦案はどうだろうか」

「ふむ……そうですね。 今回ネックになるのは、敵の実体化まがつ神、特に古代龍だと思います。 敵がどれだけの防衛能力を展開できるのか、攻撃は何処まで届くのか、航続可能距離はどれほどなのか。 これらに対するデータをもう少し詳細に集めたい所ですね」

翻訳官が、司令官に耳打ちする。恐らく専門用語を訳しているのだろう。司令官は数秒考えてから零香先生に返答した。

「しかし、その時間がない。 奴らはそろそろ、水爆に近い威力を持つ兵器を完成させるのだろう?」

「今回の攻撃は失敗を最初から想定して、敵の能力把握に全力を注ぎ、第二次攻撃を本命として用意する、という手もありますよ」

「さらりと言ってくれる。 今回の作戦には一万近い人間が参加するのだ。 彼らを捨て駒として使えというのか」

「聞いての通り、連中は二十万近い人間を兵器完成のデモンストレーションとして犠牲にするつもりです。 その手段が分からない以上、場合によっては被害は更に増える可能性があります。 それを阻止するためなら、必要な犠牲だという考えもあります。 無論わたしたちも、作戦の最前線で、捨て駒としての犠牲を最小限に抑えるための努力をしますよ」

さらりと言う零香先生。自分もその努力要員にカウントされており、おそらく今までで最悪の戦闘を強制的に経験させられることになると真由美は悟り、蒼白になった。当然、抗議など許されている訳がない。嫌だとか言ったら多分殺される。泣きたくなってくる。

リズさんが、真っ青になった真由美に、同情するような視線を向けてきている。同情するくらいなら代わって欲しいが、代わる相手がいないからこそ零香先生は真由美の襟首を掴んで此処に連れてきているのだ。それくらい、今や充分に理解している。理解しているために、その場を逃げ出せない程度には。

「分かった。 それならば敵本拠対岸にレーザー誘導のために隠密布陣する特殊部隊を支援して欲しい。 彼らには敵の攻撃が予想されていて、サイキック部隊の護衛だけでは心許ない」

「……そうですね。 それならば、此方でどうにかしましょう。 ただし、相当な被害が出ることは覚悟していてください。 ああ、それと。 攻撃機は出撃しない方が良いかと思います」

「どうしてだね」

「敵には、生身で戦闘機と渡り合うような奴が複数混じっています。 其奴らにとっては、足の遅い攻撃機は好餌に過ぎません」

流石にどよめきが起こる。今回の戦いで、米軍は油断していたわけでもないベースを一つ根こそぎ壊滅させられているはずだが、それでもそれほどの力を持つ敵がいるとは想像しづらいのだろう。軍事理論を学び、膨大なマニュアルを頭に入れているだろう軍司令官の顔にも、恐怖と動揺が色濃く現れていた。

「た、確かかね、それは」

「確かです。 というよりも、古代龍一匹に大隊一つを壊滅させられても、まだ信じられないのですか?」

「報告は聞いている。 しかしそれは奇襲を受けたからで……」

「奇襲を受けなくとも、結果は変わらなかったでしょう。 連中は一匹で戦艦一隻に匹敵すると考えた方が無難だと思います」

分かり切ったことを、零香先生はぴしゃりと言った。これに関しては、真由美も全く同感だ。

間近で見たから真由美にも良く分かる。米軍は確かに世界最強の軍隊である。装備、士気、訓練、いずれも最強を誇り、何処の国の軍隊でも太刀打ちできるレベルではない。しかしそれはあくまで対人用としての事であって、実体化まがつ神を相手にする場合は勝手が違ってくる。

それでも、米軍は優秀だ。すぐに司令官が作戦本部に連絡を入れ、作戦案の見直しを計らせる。アジアでも五指に入る近接戦闘強化型能力者の零香先生の言葉は、信じるに足ると判断したのだからたいしたものだ。此処が怪獣映画などだと、頭の悪い上層部が無謀な攻撃を実施して、ただ被害を増すだけだという状況がよく見られるのだが。

桐先生が隣で捕捉してくれる。戦略的な切り替えが即座に出来るというのは米軍の良き伝統で、太平洋戦争で日本軍に勝利することが出来た一因は、実に此処にあるのだとか。最大の要因は物量と工業生産力の差だが、それでも米軍の戦略展開能力がなければ、こうもはやく太平洋戦争を終わらせることは出来なかっただろうとも。

上層部が無能で現場が優秀というのは、明治以降の日本の伝統だが、必ずしも他国でその常識は通用しない。常識などと言うものが、国によっても地域によっても時代によっても異なって来るという、良い証拠である。そう桐先生は締めくくった。

しばらく司令官は無線先の参謀と話し合っていたが、やがて結論が出たようだった。すぐに情報武官が説明を始める。要するに制空権を確保した後、どうにか古代龍と敵主力を島から引きずり出し、零香らと航空戦力で挟み撃ちにして撃破するという。まずは島に戦闘機隊でのクラスター爆弾とバンカーバスターによる爆撃を、艦砲射撃と巡航ミサイルによる飽和攻撃を加えて、それから戦闘機隊によって敵を地上へ引きずり出す。戦闘機による圧倒的な機動力を生かして、敵の反撃による損害を最大限抑え、更に瞬間的な敵の制圧を目的とする攻撃案だ。

真由美はその作戦案に賛成できなかった。そもそも戦闘機で制空権を抑えられるかどうかが際どい。被害を無駄に増やすだけのような気がした。しかし、だからといって、名案があるわけでもない。名案があるわけでもないのに否定するような、極めて後ろ向きな行動だけは避けたい所だ。そんな真由美の複雑な考えを見越してか、零香先生が言う。

「作戦開始時間は?」

「1700時を予定していたが、2000時に変更する」

「……分かりました。 それでは、被害を最小限に抑えるべく、努力しましょうか」

零香先生の横顔にも、作戦に対する僅かな不安が張り付いていた。しかし、時間が無限にあるわけではない現状を鑑みるに、作戦を選んではいられない。

桐先生や淳子先生も、あまり作戦に乗り気ではないようだった。真由美はそんな皆に囲まれて、更に不安をかき立てられていた。

唯一安心できたことがある。大島姉弟が後方支援組に廻ったことである。特殊部隊にあまり多くの人数を混ぜると混乱するという理由からであるが、これだけはマイナスの要因であっても良かったと、真由美は思った。そう思って、気付く。他の人は結局前線に行くのに、何を安心しているのだと。

やはり、まだまだ、精神的な修練が必要なようだった。

 

2,古代龍舞う

 

陽の翼本拠上空には、常時二体の古代龍が舞っている。一体は広域防御能力を展開することが得意なユルング。もう一体は広域探索能力を持つガンガーだ。ユルングは上空千メートルほどを、ガンガーはそれよりずっと低く二百メートルほどを旋回している。現在回復待ちのタラスクとラドン、それに最強の力を持つアジ・ダハーカは、普段は地上部に張り付いていて、眠っている時間の方が多い。

長大な体を持つラドンは、普段は蛇のように蜷局を巻いて、島の西の先端部にある岬で良く眠っている。元々彼は「西の果てにある」といわれる、ヘスペリデスの園という楽園の守護者であった。そのため、「西」はもっとも落ち着く場所なのである。こういった神話時代からの縛りは実体化まがつ神であれば避けられないことであり、ガンガーなどはそのために大幅に力を制限されてしまっている。

夕日が沈んで、空気が冷たくなって来た。忙しく働く陽の翼労働員達に混じって、歩み寄ってきた者がいる。パッセだった。

「ラドン」

「パッセ女史ではありませんか。 このような時間に、どういたしましたか」

「敵の総攻撃が近づいていましゅ。 貴方はユルングと一緒に上空で、敵の戦闘機及びミサイルの迎撃に当たるようにとの、太陽神の仰せでしゅ」

「了解しました。 翼が鳴ります」

ゆっくり体を持ち上げると、ラドンは長い長い翼を広げ、そして空へと舞い上がった。ラドンの能力はユルングと似ているが、その特性は広域攻撃に特化している。ユルングとラドンが組む所、敵はいない。特に近代兵器にとって、この二体のタッグは悪夢としか言いようがないほどに相性が悪いのだ。

上空千メートルほどにまで上がると、話を既に聞いているらしいユルングがいた。全長四十メートルを超える、ラドンよりも更に二周りも大きな巨龍である。虹色に輝く全身は美しく、そして神々しい。

「おー。 ラドンたんや。 きたようじゃのー」

「ご老体だけに手柄を独占されるわけにはいきませんからね」

「うむ、うむ。 わしのわかいころにそっくりで、たのもしいのー」

「貴方のような素晴らしい老い方をしたいものです」

二体の巨龍は、呵々大笑した。

ラドンはギリシャ神話出身の怪物である。しかもただの怪物ではない。ゼウスなどのいわゆるオリンポス神族の横暴に腹を立てた大地母神ガイアが産み出した懲罰のための最強の怪物、タイフーンの語源となったテュポーンの血を引く一体である。当然強力を極める龍であり、しかしギリシャ神話最強の英雄ヘラクレスの前に敗れ去った。

彼は典型的な宝物の番人であり、それ以外に存在の意味を与えられていなかった。神々の敵ではなく、むしろその宝の守り神であったことから、後世と違い悪魔的存在の解釈が緩やかであった事が良く分かる。そのあたり、極めて原始的な宗教の産物であるユルングと存在がよく似ている。だから相性もいい。同じように「番人」という属性が共通していたことから、ファーフニールとも仲が良かった。

ラドンは守る。託されたものを。

かってはヘラ神の宝である黄金のリンゴを、命を賭けて守った。そのためヘラクレスの敵であったのに、今でも龍座という星座になって、彼の存在は敬意を払われ続けている。今度は自分を必要としてくれた者達を守る。それが彼の存在意義なのだから。ファーフニールは守りきれなかった。だが、彼が命を賭けて守った者は守り抜いた。今後も守り抜いてみせる。それを為すためなら、命を賭けることだって怖くない。

存在意義があることは幸せだ。迷わずに、意義に向けてだけ戦うことが出来る。それは狭い生き方なのだという批判もあるかも知れないが、それなら大きく広い生き方を出来ている存在がどれだけいるというのだろうか。人間だって殆どが何かしらの意義に縛られて生きる者が殆どではないか。

それに、彼が自分として生きていた時代に比べれば、今の境遇は遙かにましだ。充実していると、はっきり感じる。

ラドンの耳元で、水分が振動した。同時に空中の水分の一部が結晶化し始め、全方位に地図を作り上げていく。水の支配者である、ガンガーの技だ。少し現物と違うが、ガンガーの声がする。

「フー。 来たわ。 おそらく戦闘機という人間の武器が三十前後、いや、四十」

地図の一部に、分かりやすく大きな染みが出来ていく。十、二十、二十九、見る間に四十まで増えた。

「距離は? 速度は?」

「かなり速いわね。 多分音の速度に近いわ。 フー」

パッセの声、それに技術担当者らしい労働員の声が割り込んできた。多分ガンガーを中心に、簡易ベースを組んでいるのだろう。

「敵の形状を割り出せましゅか?」

「これこれ、こんな感じ……」

「F-22ラプターですね。 米軍が誇るかなり強力な戦闘機です。 気をつけて下さい」

「具体的な能力と特色は?」

「はい。 今呈示します」

スペックが並べられていく。ラドンが驚くほどの数字であった。そうこうしている内に、下から強烈なサーチライトがたかれ、ユルングが戦うに充分な条件が整えられた。昼間ならもっと強力なユルングだが、星明かりとこの位の光の支援があれば充分である。ラドンは口中に光を集めていき、遠距離攻撃、近距離でのドッグファイトに備える。

敵速度、位置、距離完全把握。

音を越える速さの乗り物とは、人間共の作った兵器も進歩したものだと、ラドンは不敵に微笑んだ。だが、所詮は音速。光を操るラドンとユルングの前には、赤子も同然。

やがて、先頭の敵が、間合いに入り込んできた。

 

F−22ラプター四十機、十機ずつ四隊からなる攻撃軍を率いているサムスン=ライオネルはベテランのパイロットであり、米軍でも十指に入る空戦の名人である。天性の勘も優れているが、何よりも瞬間的な判断力では右に出る者がおらず、激しいGがかかる空戦で驚くほどに冷静な決断を下し続け、空の鷲の名を恣にしてきた。三十四歳の黒人士官である彼は、現在米空軍における、自他共に認めるエースの一人である。階級は中佐。もうすぐ大佐に昇格することが間違いないと言われている。

彼は湾岸戦争を始めとする大規模な作戦にも多く参加してきたが、今回のような隠密急襲作戦にもそれ以上に参加してきた。空の鷲というあだ名の他に、剃刀サムというあだ名を持っているのも、その辺に起因している。彼に任せればどんな堅固な目的も必ずピンポイント爆撃で仕留めてくれるという上層部の期待を、現場の兵士達が揶揄した結果作り上げられたあだ名である。

十三隻の護衛艦及び虎の子のイージス艦に守られた空母ヴェネフィック。三千を超える兵員を搭載した強大な母艦から飛び立った四十機の最新鋭戦闘機は、一糸乱れぬ統率を保ったまま、敵が潜むというオールヴランフ島へ向かっている。クラスター爆弾と対空ミサイルを装備した各戦闘機は、いずれも精鋭の名にふさわしいパイロットに操られ、超音速で敵地に迫っていた。

皆知っている。今回は人間が相手ではないと。戦闘機と生身で渡り合うような怪物が相手だと。半信半疑であったが、ベースを壊滅させる巨大なバケモノの映像を見た兵士達は、皆戦慄していた。あのようなバケモノが、敵には最低後三匹いるというのだから。出発前、十字を切っている兵士が何人かいた。サムスンは彼らを責めることが出来なかった。

F-22は桁違いの能力を持つ世界最強の戦闘機だが、慎重な司令部は更に攻撃をサポートすることを明言している。攻撃開始と同時にミサイルによる全方位からの飽和攻撃、更に艦砲射撃による絨毯爆撃を島に浴びせるという。やりすぎではないかと出撃前にサムスンは考えたが、しかしあのバケモノの事がどうも気に掛かる。

東洋のことわざに獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすというものがあるという。敵地を焦土にした後陸上戦闘部隊が残敵の掃除を行うわけだが、その負担を軽くするためにも、サムスンの部隊の役割は大きい。最低でも、制空権を抑えなければ、苦戦は免れないだろう。

攻撃部隊は途中から散開し、ヒットアンドアウェイで敵陣に爆撃と攻撃を仕掛ける予定である。ステルス機能を保有している上に、高いネットワーク機能を持ち、全機が高密度の連携をとることが出来るF-22。……だからこそに、悲劇は起こったのかも知れない。

「レーダーに反応あり」

「戦闘機か?」

「違います……これは!」

先頭の戦闘機のパイロットが、うわずった声を上げた。レーダーの映像が、すぐにサムスンの機にも転送されてくる。映っているのは、細長い何か。常識外のでかさを誇る、細長い何かであった。

「ドラゴン……!」

「狼狽えるな! 攻撃に備えて、さん……」

何かが光った。悲鳴も聞こえなかった。

先頭の機が、粉々に吹っ飛んだのは、その瞬間であった。歴戦のサムスンでさえ、一瞬の空白に囚われていた。ミサイルではない。ましてや機銃でもない。今、一番機は何に撃たれ、吹っ飛んだのか、全く分からない。

「散開しろ! 各自攻撃開始! 十機は俺に着いてこい!」

サムスンの機が猛悍な突撃を開始すると、味方機がそれに続く。各機がそれぞれ空対空ミサイルを発射し、それらは二匹のドラゴンだか蛇だかに向かって一直線に伸びる。伸びる。伸びて、曲がる。

圧壊。空中爆発。あらぬ方向へ跳んでいったミサイルが、次々に火を噴く。炸裂さえ出来ず、砕けて飛び散ってしまうものもある。何かおかしい。歴戦の猛者であるサムスンはすぐに気付いた。

「旋回! 一旦距離をとれ……!」

二機の僚機が立て続けに爆発四散し、更に急速回避が遅れた一機が、不自然な形に機体をへし曲げ、千切れ飛んだ。勿論パイロットが脱出する時間など無い。機銃を乱射しながら回避に成功したサムスンは、曳光弾がミサイルのように曲がらず、だが急速に速度を落とすのを、確かに見ていた。そうこうする内に、回避し続ける味方機の何機かが撃墜されてしまう。一方的な戦いだった。

「島の上空にはいるな! 一定距離から、機銃だけで攻めろ!」

最強の戦闘機に乗っているという意地と、最高の訓練を受けているという誇りが、サムスンを恐怖から遠のける。二度目の攻撃を仕掛ける際、彼はサーチライトに照らし出されるそれを見た。一匹はやたら派手な彩色の巨大な蛇。もう一匹はドラゴンとしか形容が出来ない、細長い怪物。今頃心中で神に祈りを捧げている兵士は何人もいるだろう。機銃が集弾していき、小さい方の「龍」に炸裂し始める。だが、味方の損傷率の方が遙かに大きい。

味方のトマホークミサイルが大量に飛来する。だが頼もしいはずのその援軍に、期待できるほどサムスンは子供でもひよっこでも無かった。この戦いは負けだと、サムスンは感じていた。案の定、米軍が誇る、高精度コンピューターを搭載した考える巡航ミサイル・トマホークは、何かの壁にぶつかったかのように、次々と圧壊、爆発、粉砕、空の藻くずと消えていく。

壁だ。サムスンは敵がやっている事に気付いた。何か壁があるのだ。機銃弾は通るほど柔らかいのだが、音速の戦闘機やミサイルが突っ込めば壊れてしまうほどの密度を持つ壁。どうやってかは知らないが、そんななにかを展開しているのだ。気が付くと、四十機の味方は、二十七機にまで撃ち減らされていた。特に先頭集団の十機は、四機にまで減らされるという有様であった。

「撤退許可を! 戦闘機による攻撃戦術が通用しない!」

「ドラゴンを島の上空からどうにかして引きずり出せないのか?」

「空中に変な壁がある! どういう仕組みかは分からないが、それがある限り、有効な打撃は与えられない! 敵を引きずり出すのなんて無理だ!」

吐き捨てるように言い返しながら、サムスンはクラスター爆弾を全部ぶちまけるように指示を出した。全機とも狙いが若干不正確なまま、イラク戦争で一個師団を瞬く間に壊滅させ、さらに爆撃機を絶滅危惧種としている根元である恐るべき爆弾を敵本拠へばらまく。誘導機能を持つクラスター爆弾だが、案の定殆どが途中で爆散してしまい、地上へ届くものはわずかだった。

艦砲射撃が始まった。だが今度は光の傘のようなものが出現し、それに炸裂して敵まで届かない。悪夢だと呟きながら、それでもサムスンは諦めない。敵の展開している「壁」はようやく場所が分かってきた。小さい方の「龍」が口を開けている方向の味方機が吹き飛ばされることも分かってきた。小さい方には弾だって当たるようになってきたのだ。此処で退いたら、撃ち落とされた味方機の無念が晴らせない。

島の上空まで一気に躍り出て、真上からミサイルを全部放つ。更に機銃を乱射しながら、龍へと躍りかかる。今まで見ていると、少しでも壁に対して角度がある攻撃は、弾かれるようにして散らされてしまっている。それならば、完全に垂直な、真上からの攻撃ならどうだ。サムスンの果敢な行動に、従ったのは三機。既に十五機が空に消えていた。

龍が空を仰ぐ。一瞬だけ、奴とサムスンの目があった。降り注ぐ弾幕が、奴の体を傷付けているのが分かった。ミサイルの一発が、奴の至近で炸裂する。始めての有効打だ。大きく体をくねらせた龍。だが、その目に嘲笑が宿るのを、サムスンは見逃さなかった。

「まずい、避けろーっ!」

絶叫は届かない。サムスンに続いていた二機が、連続して爆発した。更にもう一機が、僅かに遅れて粉々に吹き飛んだ。必死に回避行動を取るサムスン。彼は見た。自分に龍が口を向け、その中に光が宿るのを。もう一つ、見た。無数に飛び交う小さな何かを。絶望に身がすくむ。空に、まだ何か得体が知れない奴がいるのだ。そして、自分はもう、逃げることが出来ない……!

完全な絶望の瞬間、「龍」の側頭部に光の束が炸裂、大きく体が揺らぐ。正体は分からない。味方なのかも分からない。だが、確実に、龍に痛撃を与えている。サムスンの中の野性が、これを好機と告げた。アフターバーナーを噴かして一気に加速、撤退にはいる。生き残った味方も、おいおいそれに従って着いてきた。絶望の闇が抜けると、恐怖が一気に全身を包んだ。味方機が半数を切っていることがわかる。

傷つき疲れ果てた味方に対し、敵はわずかに傷ついただけだった。サムスンが始めて味わう、完璧な敗戦であった。

 

戦闘機隊の攻撃が完全に失敗したことは、対岸に伏せている零香からもよく見えた。すぐ側には、隊長機の撤退を支援した淳子が、複雑な面もちで立っている。周囲に展開している特殊部隊員達も、唖然と空の戦況を眺めやっていた。

島までの間は二キロほど。零香には分かる。敵は完全に此方の存在を把握している。敵は状況から考えて、戦闘機隊が今の半径四十キロ前後に入った時点で完璧な迎撃対応を見せていた。となれば、対岸に潜んでいる此方のことなど、把握していて当然だ。

特殊部隊は、先ほどからレーザーポインタを使ってクラスター爆弾の着弾地点を誘導していた。だが本来なら恐るべき精度を誇るはずのクラスター爆弾が、どれもこれも途中で爆発したり圧壊したりして、目標に届いたものはほとんど無かった。サーチライトが幾らか壊れたようだし、人的被害もそれなりには出たようだが、目立つほどのものでもない。

やがて、味方艦隊が艦砲射撃を開始した。戦闘機隊の撤退を支援するつもりであろう。

上空で暴れ回っていた古代龍が、此方に攻撃目標を転換したのも、その時であった。

「ドラゴンが!」

特殊部隊員の一人が、恐怖に彩られた声を吐き出した。肺が絞り上げられるような、悲痛な声。島から、ミサイルが射出されるように、巨大な龍が飛び立ったのだ。

サーチライトの太く強烈な光が、龍の周囲を目掛けて張り巡らされる。そうすると、その光の束に当たった艦砲が弾かれ勢いを殺し、海に落ちたり明後日の方向へ跳んでいったりする。ドラゴンは此方に来たのではない。艦砲射撃の射出地点を、明らかに目指していた。

「なるほど……そう言うことか」

「零香先生?」

思わず口から漏れる。唇を噛んで状況を見ていた真由美が、困惑して聞き返してきた。

「ん、あのサーチライトだよ。 多分敵の古代龍の一体に、サーチライトに何か仕掛けをする……多分光を何かしらの形で操作できる奴がいるんだ。 見た感じ、光に圧力を持たせるのか、それとも抵抗を発生させるのか、壁にするのか、そんな感じだね」

「そういえばうちの矢も勢いが鈍ったなあ。 当てた感触からすると、水と同じか、それよりも柔らかい位やったけど」

「音速を超える物体に、それだけの密度抵抗は命取りだよ。 戦闘機だったら機体がバラバラになるし、ミサイルだったら砕けるね」

地味なようだが、最新兵器に対しては恐ろしい能力だ。それに加えて、この間零香と闘ったラドンが上空で頑張っていたようである。奴の能力は光線系のブレスであったから、もし一旦発射されれば、戦闘機でも回避は難しいだろう。

島から飛び立った龍は砲弾の雨から抜けて、遠くへ飛び去っていく。首が三つある容姿から言って、奴が恐らくアジ・ダハーカだ。接近されると空母でも危ないだろう。唖然としている特殊部隊隊長に、零香が声を張り上げた。

「洋上の艦隊に警戒指示を! 敵の攻撃部隊が近づいてる! 位置を急いで変えた方がいいかも知れない! 小さな弾は多分効かない! 対艦ミサイルを用意させて! それと、すぐに艦砲射撃は停止して! 位置が知られる!」

「う、うむっ!?」

敵は音速まで到達できないようだが、それでも戦闘機や爆撃機などとは比較にもならない防御能力を有している。火力も凄まじいこと疑いなく、時速数百キロで空を飛ぶ戦艦だと考えていい。浮かぶ戦艦とアパッチ攻撃ヘリは呼称されるが、奴の場合はアパッチを子供とすればプロレスラーに等しいサイズの巨大戦艦だ。

零香達は二手に分かれて、制空権を確保しようとする攻撃部隊の支援と、制空権を確保した後の陸上突撃を任務としていた。しかし制空権を抑え損ねた今、此処にいるのは危険すぎる。行きがけの駄賃に一匹ぐらい古代龍を落としていきたい所だが、はてさて、乗ってくれるかどうか。

司令部より攻撃中止の命令が飛んできた。真っ青になっている特殊部隊隊長が、皆に撤退するよう指示を出す。光学ステルスを起動した淳子が、肩をすくめるのが気配で分かった。敵の戦力は想像以上だ。米軍の作戦に表だって参加していないフランスやイギリスや中国の特殊部隊は多分この機に乗じての上陸作戦を考えていただろうが、この有様では断念したこと疑いない。島には艦砲弾やミサイルが着弾したにはしたが、有効打を与えていないのは明白。今の状況で島に乗り込むのは、鶏がお腹を空かせたハスキー犬の小屋に飛び込むのも同じだ。敵の能力者を捕縛したり、ましてや抑止兵器を奪取破壊するなど、夢のまた夢である。

島から無数の影が飛び立つ。陽の翼側の実体化まがつ神だ。数は五十を軽く超えているだろう。艦砲射撃と航空機による攻撃が止んだと見たラドンも旋回を止め、此方に向かってきている。零香は立ち上がると、詠唱を開始。真由美も頷いて、閻王鎧を具現化させた。

「さっさと逃げる! 敵はこっちの位置を把握してる。 庇ってる余裕はないよ!」

「き、君達は!」

「出来るだけ敵の目を引きつける。 連中は対人用の戦術が通用しない場合がある。 何があっても、できるだけ平常心を保って戦うしかない。 さあ、早く行って!」

海の方で悲鳴が上がった。潜んでいたらしい何処かの国の特殊部隊が、支離滅裂に蹴散らされたらしい。助けているヒマなど勿論無い。大きいのも小さいのも、実体化まがつ神が雲霞の如く零香達に向かって襲ってきたからだ。

「真由美ちゃんは淳子のサポート」

淳子には何も言わない。言わなくても今やるべき事を分かっているからだ。真由美はスイッチさえ入ればそこそこに有能であり、淳子の防御くらいなら任せることが出来るだろう。

「撤退撤退撤退! 対空支援求む、対空支援求む!」

もう見栄も外聞もない。陣形も崩して、必死に逃げる特殊部隊員達を背に、零香は唱えていた術を完成させたのであった。

神衣が彼女の身を包む。戦闘態勢に体を切り替えていく。目を光らせた零香は、一声咆吼すると、無数の実体化まがつ神の群れに、躍りかかっていった。

 

3,必死の反撃

 

上空で滞空していたラドンは、決して無傷ではなかった。戦闘機隊の隊長はかなり頭が回るらしく、何機か撃墜した頃には既にラドンが攻撃の主軸になっている事に気付いていた。至近で炸裂したミサイル一発、全身に浴びた機銃弾およそ百三十。体の彼方此方の鱗が剥げ、鮮血が噴きだしている箇所も少なくない。前回の戦いで、零香に受けたダメージとほぼ同等である。

耳元で、ガンガーの声がした。一段落したらしく、少し安心が籠もっている。

「フー、敵の戦闘機隊は引き上げたわ。 再編成して攻撃してくるにしても、時間があるでしょう」

「うむ。 私は大丈夫だが、陽明、貴方は大丈夫か」

「問題ない。 拙者はまだまだ充分に戦える」

ラドンの目の高さにまで降りてきたのは、陽の翼最強の能力者の一人、高橋陽明。巨大な斬馬刀にサーフボードが如く乗り、自在に空を飛び回っている。彼の周囲には百近い数の、強大な妖気を纏った刀が浮いていた。

これが陽明が言う、九十九一殺流の戦闘スタイルである。物質操作の能力を最大限利用し、九十九本の妖刀を自在に操って攻防に生かし、敵を撃つ。その精度は、先ほど最新鋭戦闘機を撃墜して見せた事で証明済みだ。接近戦では流石にパッセに二歩は劣るだろうが、総合的な能力の展開度から言えば、なかなか侮れない実力者であり、ラドンも時々驚かされる。

ガンガーが再び水蒸気を使って地図を作り出した。島の周辺に、かなりの数の地上戦力が展開している。米軍の特殊部隊だけではなく、多分どさくさに紛れて太陽神の確保を狙っている各国の特殊部隊も多いのだろう。一部は海に入り込んで、上陸の好機を狙っている様子であった。

敵の戦闘機隊を退けた今、もう黙っている理由はない。

「鬱陶しい蠅共ですね」

「実体化まがつ神を全て出してこれから迎撃に当たりましゅ」

「敵の中に大きな気配が幾つかあります。 私も行って、追撃に当たります」

「……怪我は大丈夫でしゅか?」

アジ・ダハーカが出撃した今、島の防御陣の中で、ラドンが攻撃の要となっている。万が一の事態は許されない。多方向への攻撃はあまり望ましいことではないのだ。

「問題ありません。 それではいきますぞ、パッセ女史!」

「きをつけよ、ラドンたん。 ワシはひきつづき、じょうくうのぼうぎょをつづけるでな」

ユルングの言葉も半ばで、ラドンは防御網に守られた島から飛び出した。さまざまな姿形をした、五十を超す実体化まがつ神がめいめい飛び出し、辺りに展開している人間達に襲いかかった。

すぐに火線が空に糸を引き始める。断末魔の悲鳴が彼方此方で上がり、同時に敵の反撃も始まった。米軍の特殊部隊に襲いかかった実体化まがつ神達が次々に切り裂かれ、叩き落とされ、苦悶の悲鳴を上げながら消えていく。幾らかは潜んでいたサイキック部隊によるものだが、いやに動きが良い敵が混じっている。

やはりいる。あいつだ。レイカと言ったか。強力な近接戦闘強化系。しかも今回、奴は連戦の疲労が無く、逆に此方は傷ついている。面白い勝負になりそうだった。

ラドンが翼を振るわせ、反射球の術を唱え上げる。出現した六つの反射球は口の周囲に展開。光線のブレスを拡散し、ただでさえパルスレーザーの特性を持つそれを広域にばらまくのだ。上空に陣取ったラドンは、逃げ回る人間共に、容赦なく広域爆撃を浴びせる。時々反撃が飛んで来る。銃弾が傷口に刺さり、鱗をはじき飛ばす。だが気にしない。気にするのはただ一人、レイカというあの能力者だけだ。

降り注ぐ無数の刀。逃げに入った特殊部隊員達を串刺しにし、更なる獲物を狙って狂い廻る。上空はユルングだけに任せて、陽明まで降りてきたらしい。太く長い刀の一本が一閃し、ラドン目掛け恐ろしく正確に飛来した矢を弾き散らす。

「見たところ、此方の戦線だけで一流の能力者が二人、サイキックを含めて二流が十人以上もいる様子。 助太刀いたすぞ、ラドン殿」

「もう一カ所、敵が多く布陣している場所があったでしょう。 そちらはどうなりました?」

「今、ナージャヤ殿とジェロウル殿が、能力者十名を連れて向かっている!」

ならば問題はない。しかしこの総攻撃、失敗したら敵に乗ずる隙を与えることになる。後パッセかキヴァラ辺りが攻撃に参加してくれれば言うことはないのだが。

また一体、実体化まがつ神が叩き落とされた。急所を矢で刺し貫かれ、殆ど即死であった。歯がみするラドン。

戦況を見る限り、やたら腕が良い狙撃手が一人居る。能力から分析するに、確か隠密狙撃型能力者の、淳子とか言う女だ。隠密狙撃型は本来こういう場では無力だが、今回の状況では奴の側にそこそこの腕を持つ近接戦闘強化型が一人張り付いていて、かなり強力な防御術を駆使して専守防衛に当たっている。

「陽明殿は、ザコ共の掃討を。 私は、奴を確実に仕留めます」

「……空間浸食を使われるおつもりか」

「奴を確実に倒すには、それしかないでしょう。 では、武運を祈ります!」

ラドンは一際強烈なブレスを敵陣に叩き付けた。周囲の地面に雨霰と光弾が降り注ぎ、穴だらけになった兵士がボロ雑巾のようになって倒れる。防御をしきれなかったサイキックが何人か吹っ飛び、実体化まがつ神達が攻勢に出た。反撃は確実に弱くなってきている。安全圏に逃すわけには行かない。其処へ、レイカが残像が残るほどの速さで躍りかかってくる。陽明がタイミングを完璧に合わせて、離れた。

空間浸食、展開。

 

着地した零香は、舌打ちして周囲を見渡した。ラドンに対して、接近戦を挑むことが出来れば、確実に葬り去る自信があったのだが。奴は此方の能力を過小評価しなかった。最初から全力で潰しに来ている。空間浸食を使ったのが、その証拠だ。

何人かの逃げ遅れた兵士も巻き込まれた。淳子と真由美は巻き込まれなかった。陽明の能力を見るのは始めてであったが、流石五翼の一角、凄まじい能力の持ち主だ。あの出鱈目な相手を防ぎながら、味方の撤退を支援するのはかなり骨だ。しかしやらねばならない。今回ばかりは、助けてやることも出来ない。

周囲は沼地であった。薄暗い足下には、泥沼が何処までも広がっており、空は薄い雲に覆われ、太陽の進出を拒んでいる。それだというのに、熱い。今は確か冬のはずで、緯度的に対して代わらないM国ではかなり寒いのだが。

いきなりの環境変化に、周囲の兵士達は唖然としている様子であった。円陣を組んで周囲を最大限警戒するように伝えると、零香は素早く辺りを見回して、地形を頭に入れていく。つま先で、少し柔らかい地面を叩いて、神衣の耳で三角測量。大まかな地質を分析していく。敵の正体は見当が付いている。桐に確認した所、ほぼ間違いないと太鼓判も押して貰っている。だから、攻略法は幾つか考えてきた。

零香が足を止める。

兵士達が落ち着きを無くして、ひっきりなしに辺りを見回す。奴は兵士達など眼中にないと判断できるから、零香も放っておくつもりだ。あのプライドが高そうなラドンとしても、邪魔者を戦略戦術にカウントするような事はしないだろう。となると、敵の打つ手は、おそらく。

真下から殺気。ぬかるみの中での戦いは始めてではない。横っ飛びして、水上に飛び出している岩を掴み、腕力にものを言わせて体そのものを別の足場へ投擲する。殺気が真下から追ってくる。敵はこの沼地の、水面下にいる。しかし、水面にさざ波も立たない。余程深くに潜っているのか、或いはそんな能力なのか。気配が掴めない。

水面にはやたら大きな蓮が幾つも浮かんでいる。その一つに飛び移ると、詠唱し、スパイラルクラッシャーを準備する。水面にはやはり何の変化もない。音もしない。だから、水面から伸び上がったそれに、一瞬反応が遅れた。

視界を、光が包む。

「ひいっ!」

恐れを知らない兵士達が、悲鳴を上げた。とっさに足下の蓮の葉を蹴り、泥に濁った沼の水を跳ね上げて威力を殺したものの、全て相殺するのは無理であった。大きく跳ね飛ばされた零香は、水面で何度かバウンド、沼の中に叩き落とされる。視界が悪い沼の中、力任せに手足を動かし、必死に水面へ。迫ってくる。巨大な影が。大きく口を開けて。その口の中には、第二の光の束が、既に宿っていた。

普通、レーザーは水中で破壊力を相当に落としてしまうのだが、あのバケモノにそんな常識は通用しないらしい。第二射、ガードがかろうじて間に合うが、そのまま勢いよくはじき飛ばされる。敵は衝撃の威力を想定し尽くしていて、零香は水底へと一気に押し込まれていた。流石に、水中戦では奴が一枚も二枚も上手だ。

泥を巻き上げ、沼の底へ着地。斜め上から、奴が一気に加速して、巨大な口でかぶりついてきた。接近戦で勝てるというのは、あくまで陸上での話。水中でライオンが鰐に殺される例は珍しくもないのだ。ましてやこの視界の悪さに、そもそもの零香の水に対する相性の悪さ。恐ろしい速さでのかぶりつきをどうにか身をひねってかわす。相手の下あごに手を掛け、顎を閉じさせようとするが、水中とは思えない力強い動きでラドンが体を捻り、跳ね飛ばされる。体の自由を失ってしまう。尻尾を叩き付けられる。物凄く太くて頑丈な尻尾だ。骨が何本か軋む。一方的な戦いだ。

ぎりと歯を噛み、零香は肋骨にひびを入れた尻尾を掴んだ。そして腕力にものを言わせて締め上げる。大量の泡が巻き上がる。そろそろ限界が近い。奴は全く平気な様子なのが頭に来る。

尻尾が右へ、左へ、力任せに振り回された。それにかろうじてしがみついている零香だったが、沼底にある大岩に叩き付けられた。岩に罅が入る。残りの殆どの酸素を肺から吐き出してしまった。目の前が暗くなるが、足を岩に絡ませ挟み、固定。捕まえた。右手のクローを尻尾に突き刺してやる。ラドンの口から大量の泡が、傷口から多量の血が噴き出す。力任せに、奴が体を振る。水流が大きく乱れる。チャンスは一回。3,2,1……。

力が不自然に掛かった一瞬を見計らい、不意に足を離す。

物凄い勢いで、零香とラドンは弾きあい、水中で離れた。

「はあ、はあ、はあ、ぐっ、はあ、はあっ!」

一気に水面に出た零香は、酸素のおいしさに感謝しながら、手近な岩場に上がる。兵士達が豆粒に見える。あんなに遠くに行ってしまったとは。すぐに殺気が迫ってくる。休んでいる暇も無いというのか。

今の交戦で分かったが、奴の古代龍としての能力は水中隠密だ。あれだけの巨体でありながら、泳いでも水面に何も影響を与えず、しかも音も気配も水に同化させてしまうことが出来る。更に元になっているアーキタイプは今格闘戦を行ったことで確認できたが、水中戦のために産まれてきたような存在である。しかも今の攻撃は半様子見で、零香の水中戦能力を試すための攻撃であったと分析できる。そして奴はもう、分析を終えてしまっただろう。零香だろうが、例え水中戦に強い桐だろうが、もう一度水中に引きずり込まれたら勝ち目はない。そもそも身体の設計構想自体が違っているのだ。口元の血を拭い、酷く痛む脇腹をさすりながら、零香は詠唱を開始した。

切り札を使うのは、今しかなかった。

殺気が水中に満ちる。沼水が一気に沸き上がったかのような、猛烈な威圧感だ。態勢を立て直したラドンが、再び此方に迫ってきているのだ。奴を屠り去るには、切り札しかない。ようやく実用に乗ったばかりだが、試すのは今を置いて他になかった。

目を閉じる。神経を研ぎ澄ます。辺りの自然と一体になるように。詠唱する。詠唱する。詠唱して、組み立てていく。

新しい、神衣を。

 

爬虫類。両生類から分化したこの生物種ほど、地上における生物の進化を代表する存在はいない。ほ乳類や鳥類はは虫類から分化したが、いずれもは虫類の一部変更モデルとでも言うべき存在に過ぎず、それほどに大きな違いはない。乾燥に強いという圧倒的に地上生活に有利な特性は、後の生物史に大きな影響を与え、進化の分岐点をなす存在となったのである。

現在、地上に生きているは虫類は、主に四種。蜥蜴、亀、蛇、そして鰐である。実際に生物的な分類では、蜥蜴と蛇は一緒の目に入り、そしてムカシトカゲという種類が独立した目として存在するのだが、煩雑なため説明は割愛する。どちらにしても、このいずれもが六千五百万年前の大量絶滅を生き延びてきた生物たちであり、その種としての強靱さはあの恐竜すらをもしのいでいる。その中でももっとも強大にして破壊力大きな種こそ、鰐である。

現在世界最大の鰐は二種類。イリエ鰐とナイル鰐であり、特にイリエ鰐は最大体長十メートルになるという噂がある。鰐は待ち伏せ型のハンターであり、そのため獲物を選ばず、猛獣の中では最も人間に対して害を為す存在となっている。陸上では象やライオンにはかなわないが、水性の生物としては間違いなく上位に食い込んでくる生態系の雄であり、まごう事なき強者である。特に顎の力は鮫にも匹敵し、尻尾の力は動物界で最強である。

現在でも強力な鰐であるが、恐竜の時代には更に強い種類がいた。イリエ鰐をも凌ぐ、恐竜さえ餌にして生きていた超大型の鰐が存在していたのである。

デイノスクス。体重にしておよそ十トン、体長十五メートル超。体長だけなら十八メートルに達する種も発見されているが、これは細い体をしている魚食性のガビアル種で、戦闘能力ではデイノスクスには一歩劣った。北アメリカ地域に生息していたこの亜種の化石が、ヨーロッパの一部で、かって古代ギリシャの住民達に偶然発見されたことがある。それが古き最強の鰐を、守護龍としての伝説に結びつけた。

ラドン自身は、恐竜の時代における最強のハンターだったわけではない。周囲に敵となる肉食恐竜は幾らでもいたし、草食恐竜だって簡単に手を出せる相手ばかりではなかった。

だがそれら恐るべき者達の中で揉まれ育ったラドンは、尋常ならざる戦闘経験を生涯の間に積み上げ、誇りに変えて生き、そして死すべくして死んだ。満足しきった生を全うしたラドンの思念は、だが一抹の不満とともに漂っていた。ラドンは好きだったのだ。獲物との、息詰まる攻防が。敵との、神経を引きちぎられるような心理戦が。もっと戦いたかった。もっと強者と技を競いたかった。欲求はいつしか無念に代わっていた。そして一度生じてしまった無念は、晴れなかった。

だが、運命は彼に味方した。彼の骨が古代の人間に発見されることで、伝説という外骨格を与えられ、実体化まがつ神の一柱として現世に再臨することが出来たのである。しかも再臨したその場所こそ、戦いにこれ以上もないほど満ちあふれた、陽の翼の太陽神の膝元であった。彼は太陽神を見て一目で分かった。この小さなほ乳類こそ、自分を戦いの楽園に導いてくれる存在だと。その命に従っていれば、幾らでも上質な戦いに導かれるのだと。そして、もし逆らっても、恐らく勝てはしないのだとも。

恐竜としのぎを削ってきたラドンは、力の見切りに自信があった。彼は自分の見立てを信用し、今後への指針とした。そして、今、力が接近した、最強に近い相手と全力での戦いをしているのだ。満足である。本望である。例え、この戦いに敗れたとしても。

 

ラドンは察知した。敵が、レイカが動きを止めた。何かするつもりだ。それも、かなり危険な。

この場での戦いで、ラドンに勝てる者はいない。ティラノサウルスに襲われても、勝てる自信はある。だが、この威圧感はただ事ではない。一旦距離を置くべきだと、ラドンの本能は告げていた。

ラドンは勇敢ではない。紳士的だが、それはじっくり待ち、観察するという性質から培われたものであって、正々堂々といった潔さとは結びつかない。紳士的な反面、獲物を仕留めるためならどんな陋劣な策でも実行するのがラドンだ。それは決して紳士性と矛盾しない。鰐という待ち伏せ型ハンターであった事から来た性格であって、生物的な特性と言って良い。そして、そういった特性を持っている以上、ラドンにとって楽しいのは、戦いといっても、相手を仕留めることの出来る戦いだ。

すっと、ラドンが水面から目だけをだした。鰐の平べったいこの体は、獲物や敵を効率よく偵察するのに適している。しかもラドンは古代龍としての特性を得てから、完全水中隠密行動の能力を手に入れている。水面から目を出した彼の気配は、殆どゼロ。水面から出した目の部分の気配のみが消せないが、逆に言えばそれだけしかない。レイカの斜め後ろからゆっくり距離を詰めていくが、危険な香りは相変わらず漂ってくる。ある一点で止まる。距離を詰められない。頭の中で、これから先は死地だと、警告音が鳴っていた。

潜行すると、ラドンは一旦距離を開けた。水は想像以上に硬い物質で、分厚い壁を作れば、即ち深く深く潜れば、相当な攻撃も凌ぐことが出来る。水は彼の味方であり、鎧であり、剣でもある。

今は距離を取り、遠くから広域爆撃で力を削っていこうと、ラドンは決めた。泳ぐために作り上げられた全身をくねらせ、沼の中を行く。奴は近接戦闘強化型。広域爆撃型と、隠密狙撃型の能力を兼ね備えた今のラドンならば、遠距離から叩きつつ、近距離なら水面下に引きずり込んで一撃で頭をかみ砕くべきである。そして今は前者の方法で、体力を削り取るのが理にかなっている。

再び顔を出し、レイカを伺う。ラドンは思わず動きを止めていた。微妙にだが、姿が変わっている。全体的に体積が増し、右手のクローと左手のブレードが無くなっている。配色も少し黒っぽくなり、縞が少し多めになっていた。話によると、奴は噂に名高い神子相争の卒業者だそうで、となると神衣と呼ばれる能力ブースト術を使うはず。それを切り替えたのか。どういう目的で切り替えたのか。水中戦が出来るのか、防御力を上げて広域爆撃に備えたのか。どちらにしても、面白い。此方は当初の戦略を変えない。距離を開いて、一気に叩く。潜行開始、しようとした瞬間であった。

レイカと目があった。全身に戦慄が走った。わずかに黒みを増した神衣に身を包んだレイカと目があった、それだけなのに、ラドンの神経は電流を帯びたかのように、全身に警告を放っていた。ラドンは圧倒的な戦闘経験に裏付けされた勘に絶対的な自信を持っている。すぐに急速潜行、距離を更に取る。

近づいてくる。居場所を把握したというのか。しかし、どうやって。

反撃の態勢を取る。深く深く沈み込みながら口を開き、ブレスの準備。ピンポイントで叩き付けて、ひるんだ所を食いちぎるつもりだ。一旦噛みついてしまえば、ひねって千切ろうがかみ砕こうが思うがまま。どんな速い奴でも、水の中では動きが鈍る。ブレス発射のタイミングさえ間違わなければ、ラドンの勝ちだ。

水中にいるというのに、レイカは正確に近づいてくる。気配は漏れていないはずなのに、どうして。いぶかしむラドンだが、すぐにそれどころではなくなった。

水面に、何か途轍もない圧力が産まれた。奴が拳を叩き付けたというのは、すぐに分かった。だがその威力が尋常な代物ではなかった。衝撃波がすぐに飛来し、ラドンの全身を翻弄する。更にもう一撃。水はにごりににごり、泡立ち、巨体を誇るラドンも翻弄された。尻尾を掴まれる。今の隙に、水中を接近されたのだ。今の拳の威力から考えて、奴は身体能力を強化する術を使ったのだろう。そのまま奴が体を這い上がってくるのが分かる。まずい。握力が、さっきの比ではない。腕力も桁違いに上がっていると見た。腹を殴られたら、多分体を貫かれる。

潜る。沼の底、泥水の中へ潜る。身体能力が上がっていると言うことは、酸素をより多く消費すると言うことだ。持久戦に持ち込めば、如何に身体能力が桁違いに上がっていても、勝てる。泥の中、何度も何度もレイカを倒木や岩に叩き付ける。今は守りを考えるべきで、攻撃に色気を出すべきではない。奴は手を離さない。そればかりか、急所に向け確実に這い上がってくる。恐怖がせり上がる。

ならば、水圧で引きずり剥がす迄のことだ。ラドンは恐怖の中、それでも正常な判断を下す。圧倒的な戦闘経験がそれを可能にする。筋肉の固まりである全身を撓らせ、にごり泡立つ沼の中を、全速力で泳ぐ。体の周囲を巨大な泡が流れ去り、鱗が剥がれそうになるほど水流が体を撫でていく。奴の動きが鈍る。ここで、更に追い討ちをかける。潜水し、更に掛かる水圧を上げるのだ。

淡水性の鰐であるラドンだが、水深三百五十メートルまでは潜ったことがある。この空間浸食は、勿論彼が生きていた沼地を再現したものだ。何処がどれほどの深さを有しているかは、体に染みこんでいる。この辺りは沼地だが、一部は湖に繋がっていて、まだ彼も潜ったことがないほどに深い場所が何カ所かにある。その辺りの地理は流石に分からないが、そっちへ引きずり込まないと多分剥がすことが出来ないだろう。

レイカが泡を吐いて、僅かに力が弱まった。好機。殆ど垂直に潜るようにして、水深五百メートルの深みへと一気に沈む。根比べだ。ラドンも流石に苦しくなってくる。そんななか、レイカが、ついに急所の前に張り付いた。同時に、ラドンも、湖底の巨岩に敵を挟み込んでいた。

十トンを超す体重も、水中の、しかも大水圧の中ではその威力を十全に発揮しきれない。不安も残ったが、だが確かにレイカの体中が軋む感触を、ラドンは感じた。

 

水中で強烈にプレスされた零香は、全身が軋む音を確かに聞いていた。二式の白虎戦舞を使っているとはいえ、全身の骨が、筋肉が、流石に悲鳴を上げて抗議してくる。ラドンはそのまま、全身の筋肉を撓らせ、押しつぶしに掛かってくる。

狙いは見えている。動きが鈍った瞬間、その数トンにも達する顎の力で噛みつぶしに来るつもりだ。あるいは一旦距離を取って、ブレスで仕留めに掛かってくるかも知れない。ラドンが鰐だと言うことは、以前戦ったときに分かっていた。だからその戦闘スタイルが隠密潜行、一撃必殺を狙ってくることも分かっていた。それが故に、こういう密着消耗戦闘を挑んでいる。案の定、それなりに頭が回るラドンも、この状況下では必ずしも的確に動けているとは言えない。

水中でなければもうミンチにしている所なのに。万力に潰されているような感触を味わいながら、零香は毒づく。頭の中が殺意と興奮で一杯になっている現在、相手を殺すことでしか零香は充足を得られない。白虎戦舞の身体強化を極限まで生かし、足の力で一気にラドンを押し上げる。そして、腹に渾身の拳を叩き込んだ。

ラドンが多量の泡を吐き出した。わずかに浮き上がった巨体に、更に連続して拳を叩き込む、たたき込み、打ち込み、殴りつけ、そして抜き手。突き刺した右手を引っこ抜き、傷口に左拳を突っ込む。そして敵との位置を固定して、渾身の右拳をぶち込んだ。更に、力任せに引きちぎる。掴んでいた部分の皮膚と鱗が纏めて剥げ、内臓が露出する。ラドンが必死に離れるが、そうはさせない。力任せに手足を動かす。即座に追いつく。

徐々に目の前が真っ赤になっていく。知ったことか。

必死に叩き付けてきた尻尾を掴むと、全身のスナップでへし折った。体中ボロボロだが、此奴を潰すまでは沈めない。拳を、蹴りを、連続して叩き込み、抵抗力を奪い尽くしていく。内臓を引っ張り出し、鱗を引きはがし、真っ赤に染まっていく水の中、零香は咆吼と共に脳天に拳の一撃を叩き込んでいた。

ラドンが多量に血を吐き出し、ついに抵抗力を無くして沈んでいく。同時に、頭が冷え始めた零香は、水面に向けて手足を動かした。水泳の技術は、この年までついに身に付かなかった。無理矢理水を押し分けて、体を水面へと運んでいく。異常な馬鹿力が無ければ、無理な芸当だ。

まだ切れるな、まだ切れるな。動け、わたしの手足。言い聞かせて、ついに水面に出る。白虎戦舞が解除される。息を吸い込み、息を吸い込み、息を吸い込み。全てを忘れてまずは呼吸。全身が痺れている。だが、零香は成功を感じていた。

動ける。いつもほど酷いダメージではない。若干黒みが増している神衣はたっぷり水を吸っていて重いが、零香の腕力であれば充分に体を動かしていくことが可能であった。

これこそ、三式以上の白虎戦舞の負荷を減らすために作り上げた新型神衣。白虎神衣二式とでもいうべきものだ。通常戦闘と、あらゆる局面での対応を想定して作り上げた一式神衣と違い、此方は通常戦闘用の装備を一切外し、一種の拘束具として身体のダメージを減らす思想の元に作り上げられた。そして今回、その試運転として、白虎戦舞二式を発動、実戦投入を行ったのである。

まだ、動ける。しかし、疲労は酷い。全身のダメージも酷い。骨折だけで六ヶ所。打ち身や肉離れも酷い。どうにか、巨大な蓮の葉に這い上がる。呼吸を整えて、周囲を伺いに掛かった瞬間だった。

空中に跳ね上げられた。足下からブレスを叩き込まれたのだ。ガードする暇も、回避にかかる余裕もなかった。そして、静寂を蹴散らし、全身朱にまみれた巨大な鰐が水中から飛び出してくる。マンタのジャンプなどの比ではない。全身十五メートルに達する巨大鰐が、水面から跳躍したのである。

歯が欠けた口で、ラドンは零香にかぶりついてきた。かぶりつかれる瞬間、上あごと下あごを右肘と左腕で支えるのが精一杯だった。そのまま水中に落ちる。ラドンは残った全ての力を掛け、零香を噛みつぶしに来ていた。敵の口の中に入ってしまった零香は、身動きもならず、最後の力を掛けて決戦を挑んできたラドンとともに、大量の泡に見送られながら沈んでいく。

何度も激しくラドンは口を閉じに掛かってきたが、零香は必死に耐えた。その度に、腕の骨が悲鳴を上げた。体を縮めざるを得ない。両足で下顎を、右肘で上顎を支える態勢に無理矢理移行して、零香は左拳を上あごに抉り込む。口の中を、そのまま突き上げるわけだから、脳に直接揺さぶりをかけることが出来るはず。二回、三回。拳を叩き込む。ラドンも必死に噛みつぶそうと力を掛けてきたが、四度目の拳が皮膚を裂いて潜り込むと、ついに抵抗の力が尽きた。

ラドンの体が光り始める。徐々に消えていく。

「……くくく……ふふふふふふふふ」

力無くした顎から抜け出した零香は、再び水面に向かう。ラドンの苦しそうな、それでいて心底楽しそうな微笑みが、それを送った。

転覆していた蓮の葉の切れ端に捕まり、体を引き上げる。最後のラドンの一撃で、右腕は力が半減してしまっていた。どうにか折れてはいないが、戦闘に用いることは難しい。連戦は出来ないだろう。

白虎戦舞の負担は大きく減った。しかし、流石に古代龍。連戦を許してくれるほどの余裕など与えてはくれなかった。水の中から、声が聞こえてくる。

「楽しかったですよ……人中の猛虎よ……。 これで……やっと満足して……逝けそう……です」

「……ありがとう、ラドン。 わたしも、楽しかったよ」

心底から零香が応えると、丁度空間浸食が切れた。再び、M国の夜の空が戻ってくる。辺りを見回すと、淳子+真由美VS高橋陽明の戦いにも、今漸く決着が付いた所であった。

 

4,己だけの価値

 

空を舞う無数の剣。そして空に浮かぶ巨大な剣に乗り、此方を見ている男が一人。真由美はその人物に見覚えがあった。赤尾さんとS県の学校で共に戦ったとき、見た。確か、名前は、高橋陽明。

剣術使いだと聞いていた。しかし、これは一体どういう事か。無数の剣を空に浮かべ、悠々と此方を見下ろしている姿は、まるで魔王だ。魔王が無数の眷属を従え、人間を見下ろしているかのようだ。刃を水平に浮かせてそれに乗り、顎を撫でるその様子は、絶大な実力と余裕に満ちあふれていた。声を聞くだけでまだまだ怖い。

「ほう……あの時のひよっこが、此処まで腕を上げたか。 ラドン殿から話は聞いていたが、正直驚かされたぞ」

まだ刃を交えてもいないのに、陽明はそんなことを言った。真由美は笑わない。淳子先生も笑わない。分かっているからだ。刃を交えなくても、この位の使い手は、相手の実力を正確に把握できると言うことを。

周囲では実体化まがつ神の大軍が、生き残った特殊部隊の隊員達と、彼らの護衛に付いてきていたサイキック達を襲撃し続けていた。一時の混乱から態勢を立て直し、どうにか組織的な反撃を始めた彼らだが、不利は否めなく、一秒ごとに数を減らしている。淳子先生はさっきまで彼らの援護をしていたが、今はその余裕もなく、矢をつがえたまま動きを止めている。

今、対しているのが、そういうレベルの相手だと言うことだ。一手でも間違えれば、即詰みの運命が待っている。

陽明は身動き一つしなかった。だが、殺気が迸る。複数の刀が僅かに高度を変え、斜めに躍りかかってきた。火花を散らして、真由美の防御術に正面から撃ち当たる。一本一本が、尋常でない圧力だ。どうにかはじき返すが、鋭い刃が火花を見せつけながら、悠々と離脱していく。更に次が来る。五本、その次は七本、更に十五本、どんどん数が増えていく。陽明は顎の無精ヒゲを撫で、周囲の悲鳴を背景に悠々と見ていた。

必死に防御術を展開しながら、真由美は唇を噛む。相手が遊んでいると思ったからだ。

陽明と真由美の実力差は確かに大きい。だが、これだけの状況下で、悠々としている神経は、真由美には理解出来ない。人が一瞬ごとに何人死んでいると思っているのだ。唇を噛む真由美。顎を撫でている陽明。矢をつがえたまま身動き一つしない淳子先生。三者の状況が、膠着する。

二十二本の同時攻撃をどうにか防ぎきった真由美は、早くも息が上がり始めていた。閻王鎧の術を展開した状態で、こんなに同一の術を長く使ったのは初めてだったのだ。息の乱れを必死に押さえている真由美に、余裕綽々の陽明が上から語りかけてくる。

「ファーフニール殿の火球を防ぎ抜いたと聞いているが、なかなかの防御術だな」

「……」

「くくくくく、拙者も嫌われたものだ。 さて、お前達に援軍が来たようだし、そろそろ本腰を入れるとするか」

陽明の言葉が終わるや否か、ヘリのロータリー音が夜闇を切り裂いた。この音には聞き覚えがある。AH-64D・アパッチロングボウ。チェーンガンが火を噴き、実体化まがつ神の一体が蜂の巣になる。特殊部隊員達がこの機を逃すはずもなく、さっと撤退に入る。ヘリは徐々に後退しながら追いすがろうとする実体化まがつ神に猛射を浴びせ、有線式の高精度ミサイルを叩き込んで戦力を削り、獅子奮迅の働きを見せた。新手の兵士達もいるようで、真由美はジープのエンジン音や、気合いの入った喚声も聞いた。振り向いている暇はなかったから、どれほどの規模かは分からなかったが。

当然大口径のチェーンガンは陽明にも襲いかかった。だが陽明の周囲に浮かんでいた剣が数本位置を変え、殆ど揺らぎもせずにはじき返してしまう。一本一本が宿している妖気が尋常ではない。更にミサイルが襲いかかるが、結果は同じ。猛獣のように襲いかかった妖刀の一本が、苦もなく両断してしまった。淳子先生が無線機を手にし、ゆっくりと、だが威圧感を含んだ口調で言う。

「こいつはうちらが引きつける。 あんさん達は、さっさと逃げな」

「すまない。 支援、感謝する!」

ヘリが更に後退していく。真由美は肥前守を薙刀に切り替える。同時に、ゆっくり淳子先生が後ろに下がり始める。

小さく真由美が頷く。淳子先生が、それに併せて口笛を吹く。息が、完全にあった。

顎を撫でていた陽明の手が止まる。口の端がつり上がった。

「来い……!」

「いきますっ!」

真由美が、地を蹴った。

真由美はこれでも近接戦闘強化型。さまざまなタイプの先駆者に教えを受けたため、器用に戦えるようになったが、本質は接近戦で勝負するタイプだ。だから、究極的には、接近して戦うことになる。

真っ正面から行く。なぜなら、淳子先生の実力を信頼しているから。自らの防御力を頼んでいるから、ではない。真由美も戦いを散々経験させられて、状況判断は出来るようになってきている。此処は、囮になってでも、隠密狙撃型の淳子先生から攻撃を反らさなければならないのだ。だから、真っ正面から、陽明に防御せざるを得ない攻撃をたたき込みに行く。

陽明が右手を軽く振る。同時に三本の一際強大な妖気を放つ剣が、それぞれ十本ほどの剣を従え浮き上がる。そして列を成して真由美に正面から襲いかかってきた。

手を間違えたら、二人とも一瞬で死ぬ。

真由美は速度を落とさず走る。そして薙刀で先陣の数本を斬り払い、獲物を襲うアナコンダの如く伸び上がって迫ってくる一本を、正面から見据えた。体を低くし、地を這うような疾走に切り替える。

「それは世に出ていない村正の一刀。 戦国時代に人斬り包丁として活躍し、十三人の手を経て、二百五十人を斬った」

陽明の言葉は嘘ではない。その破壊力は、さながらアフリカ象の突撃であった。詠唱を素早く済ませ、チャージ術を真っ正面から叩き付けるも、押し負ける。斜めに弾くも、威力を最大限に殺したにもかかわらず真由美は打ち負け、十メートル以上ずり下がらされる。追撃を掛けてくる数本を、何とかなぎ払う。だが、一息ついている暇など無い。今度は真上に殺気。振り仰ぐ真由美。恐怖を押し殺すのだけで、精神力を使い切ってしまいそうだ。

「実戦使用目的の日本刀は、人斬り包丁と呼ばれた。 これもその一本だ。 美術品としての精緻は劣るが、刀としては世界でも最も実用的な一つにはいる。 刀工は不明だが、渾身の力を込めた一作だったのだろう。 手に馴染む、良い刀だ。 これはちなみに、二百七十名を殺めている」

真上に展開する十本の妖刀。そして更に、今弾いた最初の一群が旋回を完了、真右から襲う態勢を見せていた。クロスファイヤーポイントに追い込まれたのだ。そして、陽明の手元にもまだ一群が残っている。その上、およそ七十本が、奴の周囲を旋回したままだ。

今、淳子先生と陽明は、互いの先手を待っている状態。つまりそれは、真由美がどれだけ陽明の刀を引きつけられるかで、本当の意味での勝負が決まる。陽明も淳子先生の力量は良く分かっているだろうから、仕留めるつもりなら必殺の攻撃を叩き付けに行くだろう。そうしなければ、返す刀で喉を貫かれる可能性がある。

空の刀と、右の刀が、同時に躍りかかってきた。耐え抜き、進まなければならない。戦術を誤ったら、死ぬ。防御術では、こらえきれない。手は、一つしかない。

再びチャージ全開。出るのは、正面に、だ。一気に前に抜け、空に待ち受ける陽明の懐へと躍り込む。間合いが詰まっていく。地面に多量の剣が突き刺さる音、空を抉る無数の刃。抜けきった。数本が掠めたが、どうにか……。

脇腹に灼熱が走った。

脇腹に、槍が突き刺さっていた。

刀だけではなく、浮いていたモノの中には、槍もあったというのか。違う。伏せていたものが、僅かにだけ浮き上がったのだ。だから気付かなかった。

蹌踉めく、膝を突く。

「クロスファイヤーを抜けて拙者の元へ来るには、さっきのチャージ技で前進するしかない。 ……それなりに場数は踏んだようだが、拙者ら五翼の者を出し抜こうなど、思い上がるな」

「は……あっ……!」

「ちなみにそれも、五十六人を殺した名槍だ」

多量の血を吐いた真由美。力が全身から抜けていく。顔を上げるだけが精一杯。そしてその視界の先に、手を一振りする陽明の姿。

その全身に、さながら針鼠のように、矢が突き刺さっていた。

 

「……っ!」

唖然とした陽明。体に十五本の矢が突き立っていた。どれも小型の矢で、いずれも急所は外したが、意識が瞬間的に遠のく。

淳子からは目を離さなかったはずだ。それなのに何故。妖刀はどれも反応したが、対処しきれなかった。必死に踏みとどまり、落ちるのを避ける。淳子は今や悠々と矢をつがえ、次の射撃を準備していた。そして腹から槍を引き抜いた真由美も、薙刀を構えなおし、突撃の構えを見せている。

深手の一本を力任せに引き抜くと、陽明は吠えた。痛みに落ちそうになる、自分を引き留めるため。

「おおおおお。おおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

「やっぱり打たれ弱いわ。 それだけの数の刀を操作しているんやから当然か」

あくまで冷厳な淳子の声。それが陽明の精神を激しく揺さぶる。だが、この陽の翼で歴戦の勇士として鍛え上げた陽明である。実力でぐらついた精神を立て直す。そして、思い出す。

真由美が決定的な行動に出る瞬間瞬間、淳子が少しずつ立ち位置を変えていなかったか。それで合点がいく。そして戦慄させられる。

あんな瞬間に、これだけ正確な一斉攻撃を準備していたというのか。陽明は淳子の実力を確かに計っていた。油断無く計っていた。しかし、一対二の悲しさか、注意が廻りきらなかったのだ。異常に高度な「達磨さんが転んだ」を、陽明はいつのまにか強いられていたのである。

淳子がゆっくり見せつけるようにして新しい矢をつがえる。そして、いつの間にか槍を引き抜いた真由美が、至近にまで突撃してきていた。

手近に浮いている妖刀を手に取ると、空中で斬撃を受け止め、突きを巻き返す。真由美は匠に浮いている妖刀を足場に、反転して更に陽明に打ちかかってきた。激しく火花が散り、二人は弾きあう。火花の糸を引きながら、再びジグザグに妖刀を蹴って跳ね飛んだ真由美は、果敢な攻撃を仕掛けてくる。小さな足場、斬馬刀の上で、陽明は飛び乗ってきた真由美と鍔迫り合いを強いられた。

「ふうっ!」

「やああっ!」

二合、三合、密着状態でのやりとりが、一秒ごとに激しくなる。思った以上の腕だ。それに、今の大ダメージで、陽明のコントロールが半ば失われたことを敏感に観察している。これは良い能力者になると、陽明は真由美を見直していた。

気合いと共に突き出された一撃が、陽明の頬を掠め、カウンターに入れた膝が真由美を吹き飛ばした。更に斬馬刀自体を動かして切り裂こうとするが、真由美のガードが間に合い、長刀の石突きで強烈に弾いてくる。真由美は地面に叩き付けられるも、綺麗に受け身を取り、再び突撃する戦意を捨てていない。更に、淳子が新しい矢を撃ち放つ。全力で妖刀を展開、散弾化した矢を全て防ぎ抜くも、全身から抜けていく血が、精神力をむしり取っていく。まずい。長期戦はまずい。

妖刀を全て引き寄せると、絶対防衛体制を取り、そのまま後退を開始。敵には充分な損害を与えた。此処で倒れてしまっては損だ。

敵陣でアパッチの一機が爆発四散した。実体化まがつ神の攻撃を受けたのだ。そのまま実体化まがつ神達も後退を開始。更にラドン殿が展開していた空間浸食が消え、傷だらけの零香が特殊部隊員数名とよろめきでて来た事が決定打となった。あのラドン殿が破れたというのか。陽明は再び慄然とする。実体化まがつ神達も、戦意を無くして逃げ腰になる。

陽明にとって、陽の翼は何より大事な居場所。太陽神は唯一尊敬する人物だ。

此処に来たときのことを思い出す。人として陽明を評価し、能力を認め、仲間として歓迎してくれた時の喜びは、今でも忘れることが出来ない。そんな人は、何処にもいなかったのだ。

幼いときから、ずっと。いつも異常者か、犯罪者扱いだった。思想自体が、根本的に現世と合わないものだったのは認める。しかし思想が違う存在を一切認め得ぬ現世に、陽明は悲しみを感じていた。それを太陽神は巨大な包容力で解決してくれたのだ。何と大きな人かと、陽明は自分の胸ほどしかない娘に思った。恋慕などよりも、偉大なる存在への敬慕が先に生じていた。陽明はオールヴランフ島に招かれてから、もっとも早い時間で太陽神に絶対臣従した一人である。しかし、忠誠心については、自他共に認めるほど確かなのだ。

だから、此処は退く。太陽神の部下達を、これ以上失うわけには行かない。自分を認めてくれた、世界で唯一の存在の部下達なのだ。陽明にとっても、これ以上もないほど大事な部下達だ。人間だろうがなかろうが関係ない。

「一度退く! 態勢を立て直すぞ!」

そういいつつ、陽明はただで帰るつもりなどさらさら無い。身近に引きつけた妖刀を、淳子に向け五十本、真由美に向け三十本、それぞれ飛ばす。ダメージが酷くて凝った動きは出来ないが、隠密狙撃型に回避できる攻撃ではない。

「帰りがけの駄賃だ! 腕一本だけでも貰っていくぞ!」

無数の刀を叩き付けられた真由美は、その半ばまでは対処したものの、残りは防ぎきれなかった。腕を、足を、腹を次々に刀がえぐる。途中からはガードに徹して、首だけは守り抜いたのは褒めてやってもいいだろう。だが太股を四カ所に渡って抉られた真由美は、ついに崩れ、薙刀を杖に倒れるのを防ぐのが精一杯の状況となった。

淳子は強力な妖刀を速射で片っ端から叩き落としていたが、対処しきれる数ではない。小型の妖刀は次々に体を抉り、傷を増やしていく。だが冷静に対処し続け、致命傷になる一撃だけを叩き落としながら、軽い一撃は無視。血まみれになりながら矢を射続ける姿は驚嘆に値した。だがそれにも限界がある。零香が寸前で飛びついて位置をずらさなければ首に突き刺さっていた所であった。それで充分。味方実体化まがつ神達の撤収を見届けた陽明は、斬馬刀の上で片膝を着きながらじりじり下がり、距離が開いた所で撤収にはいる。それにしても、あのラドン殿が一対一で敗れ去るとは。アジアで五指に入ると言われている近接戦闘強化系能力者零香、実力は侮れない。

敵にも大損害を与えたが、味方の被害は大きい。特にラドンが倒れたのは不覚であった。ラドンの紳士的な言動を思い出し、陽明は悲嘆にくれる。良い奴だったのにと、むなしさを嘆息に変えて吐き出した。実体化まがつ神数体に援護させるか、自分も一緒に空間浸食に巻き込ませるべきだった。たとえラドンが、零香との決戦に心をたぎらせていたとしても、である。

更に、島にたどり着いた陽明を待っていたのは、もう一つの凶報であった。

ナージャヤとジェロウルが率いていた攻撃部隊も、大きな損害を受けていたのである。

 

5,ジェロウルの潜在

 

地面の下から敵を自在に狙撃する、アースダイバー・スナイパーことナージャヤ。

パッセの妹であり、不動の五翼一角である。人間相手には天敵に等しい能力を持つ彼女だが、弱点も多い。その一つ、ナージャヤは一定以上の時間、地面に潜ることが出来ない。そのため島を渡るときは、船を使うか、或いは実体化まがつ神に運んで貰う。今回は後者を手段として採用した。巨大な蝙蝠の実体化まがつ神に乗って混乱する敵陣に向かうナージャヤの隣には、仏頂面のジェロウルの姿があった。更に、十人の能力者が続いている。

過去を詮索しないというのが陽の翼での無言のルールであるが、それが当てはまらない場合もある。陽の翼の構成員の多くは古参であるからだ。古参同士は互いの情報を深い所から知っているため、過去を詮索するも何もない。ナージャヤとジェロウルはもろにその関係に当たる。

いわゆる幼なじみという奴だが、ナージャヤが子供の頃にはもうジェロウルは成人していたし、色々あったせいで恋愛感情など抱きようもない。幼なじみは、世間で言われているほどいいものではないとナージャヤは良く知っている。

ナージャヤは他人には見せないが、コンプレックスの固まりである。幼い頃はむしろ天才としてもてはやされたのは彼女だったのに、年を経れば経るほど姉がその地位を略奪していった。それが為か、幼い頃には姉に悪意や嫉妬を感じたことなど一度もなかったのに、成人した頃はすっかり負い目を抱くようになっていた。ナージャヤは愚かではなかったから、知っていた。無能と嘲られる姉を見下していたことを。将来を嘲笑される姉を踏み台にして精神の栄養にしていたことを。

そんな自分が、如何に愚かかと言うことを。

当然五翼に就任したのも姉が先だった。そしてナージャヤが陽の翼の仕事で、M国に麻薬を流し込んでいた某国の組織首領を側近もろとも暗殺するのに成功して五翼入りした頃には、五翼筆頭になっていた。

昔の愚かさが、ナージャヤには苦しかった。天才ともてはやされて、努力を怠った自分。無能と影で嘲られながらも、確実に努力して強くなった姉。そしていつのまにか、努力では追い切れないほどに差が開いてしまっていた。

ゴスロリファッションを愛好するようになったのも、この頃からである。無意識のうちに、子供時代をやり直したいとナージャヤは考えていたのかも知れない。目に光が無くなっていったのもこの頃からである。自責の念が、いつのまにかそんな形で体に影を落としていたのだ。

ナージャヤはあがいている。少しでも愚かな昔の埋め合わせをするために。だが苦しくて仕方がない。誰にも言えないこの苦しさを、払拭する方法が、ナージャヤには思いつかなかった。だから戦いに没頭する。それだけが、彼女の唯一の逃げる場所だった。

脆弱だと笑うことが出来る者がどれだけいようか。人間はどんなに年を経ようが強くなろうが、逃げ込むための精神的な場所を必要とするのだ。それがない人間など存在しない。存在しないならもう人間ではない。たまたまナージャヤには、それが戦いなのだ。それだけのことだ。

海上での掃討戦を終えた後、逃げ始めている地上の米軍特殊部隊を攻撃に掛かる。ラドンと陽明が向かった辺りでは、既に激しい銃火のきらめきが夜空を彩っていた。実体化まがつ神からばらばらと降り、敵兵に襲いかかる能力者達に遅れて、ナージャヤは地面に降り立つ。辺りは何もない砂浜、そして延々と続く荒れ地だ。街までかなりの距離がある。米軍は荒れ地の辺りにまで撤退しているが、すぐに追いつく。最後に実体化まがつ神から降りたジェロウルが、低い声で言った。

「気をつけろ。 日本から来た能力者が、こちら側にも三人いる」

「こんな遠いのに分かるわけ? 流石ね」

「……これは龍化を使う必要があるかも知れないな」

「ちょっと、冗談じゃないわよ。 あんなのやられたら、地面の下でもただじゃすまないわ」

物騒なことを言うジェロウルに、ナージャヤは慌てて釘を差し、自分の弱気にげんなりして地面に沈み込み始める。こういう場所でのナージャヤは、まさに死神と化す。全方位の地面から、何時攻撃が飛んでくるか分からない状況を想像すれば分かるが、存在自体が抑止力になるのだ。

すぐに銃声が響き始める。敵兵はざっと百人だが、此方は能力者十人に実体化まがつ神十体である。すぐに戦いは一方的なものになる。ナージャヤは地面の下を泳ぎ回りながら、丁度良い狙撃地点と、息継ぎ地点を物色に掛かった。

泳いでいる内に、状況はどんどん流れていく。上ではジェロウルがキリと戦いを始め、ユキが高速機動しながら此方の能力者三人と同時に渡り合っている。残りの能力者六人が実体化まがつ神と一緒に兵士達を襲っているが、勝敗は見えきっている。ナージャヤの仕事は、彼らの援護ではない。キリとユキと、後さっきまで存在が確認されていたリツの撃破だ。特にリツは厄介だ。奴の力は、条件さえ揃えば此方の部隊を一撃で破壊しうる。出来るだけ早く仕留めなければならない。

ざっと地下の様子を把握したナージャヤは、戦場外縁部に浮き上がり、息継ぎしながら様子を確認。必死に撤退する米軍に能力者達が遠慮のない攻撃を仕掛けている。ある者は武具を振るって、ある者は炎や力を放出して、逃げ腰の兵士達を薙ぎ倒す。ユキは三人の高速機動型に絡まれてにっちもさっちもいかなくなっており、キリはジェロウルの猛攻を凌ぐので精一杯だ。さて、リツは。……リツは。

辺りの空を見回すが、目視できない。おかしい。広域爆撃殲滅型で、空中戦を得意とする奴が何故空にいない。焦りが湧いてくる。何か、とんでもないミスを犯したのではないのか。勘が告げる。危険だ、危険だ、危険だ。

地面に飛び込む。そのまま駄賃代わりに弓を具現化して引き絞り、六本の矢を同時に放つ。逃げていた兵士達が、顎の下から、股下から、つぎつぎ貫かれ、竿立ちになって崩れ落ちる。そのまま、全速力で離脱に掛かる。

キリとリツのコンビと戦った時の事を思い出す。火車を失ったあの戦いで、キリは恐ろしい頭のさえで先の先まで徹底的に状況を読み、ナージャヤに痛撃を浴びせてきた。奴に対する本能的な恐怖もあるが、それ以上に手が読めないと言う状況の方が怖い。

二百メートルほど距離を取り、再び顔を出す。やはり見付からない。先に逃げたと言うことは無いだろうし、その辺に死体になって転がっていると言うことも無さそうだ。焦りがじりじりと平常心を殺していく。そんな時だった。

見つけた。

キリの盾だ。それが荒れ地の中、ぽつんと生えている木の上に浮かんでいる。そしてリツはそれにちょこんと乗っかっていた。しかも何か詠唱している。銃弾はひっきりなしに飛んできているようだし、余裕のある能力者がちょっかいを出そうとしているが、その度にユキが剣を叩き付けて撃退している。

途轍もない嫌な予感がする。何だろう、これは。キリはジェロウルと戦いながら、盾一つを遊ばせておく余裕があるとでもいうのか。ユキは三人の高速機動型と渡り合いながら、何故リツをかばう余裕がある。その意味に行き当たったとき、ナージャヤは全身に戦慄が走るのを覚えていた。

まずい、この距離ではまずい!逃げるのは無理だ、ならばせめて!

地面に飛び込み、全速力で移動に掛かる。今回は此方が先に気付いた、絶対に先手を取ってやる!

 

「南神朱雀よ、我が守護神よ。 今、我は汝に願う。 地の果て深く、穿たれし闇に、一点の光を結ぶ道の示唆を……」

キリと斬り結んでいたジェロウルの耳に、そんな言葉が飛び込んできた。リツの声だ。陽の翼でも珍しいアブソリュートディフェンスと地雷によるトラップ、それに強固な盾の術。それに毎回精度を増してくる戦術。キリは手強い相手であるが、それでも近接戦闘強化型と拠点防衛型。攻めるのはジェロウルで、守るのはキリ。ならば、ちらりと振り返る余裕くらいはある。

さっきから、ジェロウルにも気にはなっていた。ナージャヤにも聞き、自分でも実際に戦って確認している、戦術参謀として恐るべき手腕を持つ能力者キリ。それが、どうして戦略爆撃機にも等しいリツを遊ばせておくのか。どうしてこの局面で活用しないのか。乱戦だから、というのは多分違う。何か罠があるはずだ。

キリの周囲には三つの大盾が自動旋回していて、アブソリュートディフェンスも展開済み。十手をもてあそびながら、ずっとジェロウルの攻撃を誘っている。ジェロウルも倒せる自信があったから、攻撃を続けてきたのだが、やはりおかしい。どう攻めても攻めきれない。さっきからちょろちょろ仕掛けてくる狙撃手も鬱陶しい。普通の人間らしいのだが、嫌に良い腕で、的確に隙を狙ってくる。

真上から落ちかかってきた盾を、トマホークで受け流す。露骨にキリの右手に隙ができるが、踏み込む気になれない。案の定、タイミングを綺麗に併せて狙撃。殺気で察知して、トマホークを振るってライフル弾を叩き落とす。狙撃手はすぐに移動し、じりじり下がりながら再び攻撃姿勢を取る。潰しに行こうと何度も思うのだが、その度にキリが邪魔してくる。鬱陶しくて仕方がない。

最善なのはまずリツを潰して不安要素を排除することだ。しかしこの状況、リツの方へ向かおうとしたら、どれだけ地雷を踏む危険が高いかは分かり切っている。だが、龍化は使いたくない。あれは最後の手段。使った場合には、味方を全員丸ごと巻き込む。

わずかな沈黙。そして結論。

「後退! 距離を取れ!」

ジェロウルは吠えた。彼の本能が告げている。このまま戦えば、必ず陥穽に片足を突っ込む。良く訓練された能力者達は一斉に後退し、遅れて実体化まがつ神達もそれに習う。だが、既に遅かったのだ。リツの詠唱が完成する。そして、キリが指を鳴らした。

「今、穴を穿つ! そして地底に汝の威光、轟かせん! フェニックス……!」

「させるかあああっ!」

飛び出したナージャヤが、連続して四本の矢を放った。だが、真横から飛んできたユキの剣に叩き落とされる。一本はリツの右腕に突き刺さったが、奴は気にもせずに詠唱を続ける。しまったと、ジェロウルは呟く。味方に後退を命じたのが、こんな形で裏目に出るとは。ナージャヤは更に矢を放とうとするが、舌打ちして岩陰に隠れる。狙撃手にロックオンされそうになったからだ。狙いがはずれた一瞬を見計らい、リツにトマホークを投げつけるが、それはユキ自身が追いついてはじき返した。更にユキは、キリの盾に飛び乗る。そして、狙撃手の元には、キリの盾が急行、這い上がらせた。

「バンカーバスター!」

リツの詠唱、最後の一節が解放される。超高密度の火球が手から放たれ、尋常ならざる圧力が、真下から吹き上がる。

地面そのものが吹っ飛んだかと、ジェロウルは思った。逃げろと、言う暇もなかった。

 

利津を中心に、辺り一帯は壊滅状態だった。フェニックスチャクラムを地中攻撃用に改良した、フェニックスバンカーバスター。見事な威力である。それは陽の翼の能力者十人と空に逃げそこねた実体化まがつ神四体をもろに巻き込み、行動不能に落とし込んでいた。桐が指を鳴らしたのは、米軍特殊部隊が攻撃範囲から逃れたのを見届けたからだ。

周囲確認。陽の翼の能力者の内、二人は岩に潰されて死んでいる。三人は手足を失ってもがいており、残りも立ち上がれるような状況ではない。実体化まがつ神の内三体が、光になって消えていった。

桐は掴まっていた盾から降りた。アブソリュートディフェンスはもう消えてしまっている。再び展開するには時間が掛かる。敵は壊滅状態とまでいかなくとも、完全に行動不能に陥っている。生き残った実体化まがつ神も旋回しながら右往左往している状況だ。一息付けると、安心しかけた瞬間であった。

矢が三本、横殴りに飛来する。二本は叩き落とすが、一本は脇腹にもろに入った。鎧に防がれて内臓を逸れ、致命傷にはならなかったが、思わずよろけるには充分。視線の先には、頭から血を流して、弓を構えているナージャヤ。夜叉のような顔だ。無言のまま間を詰めた由紀が、一刀で斬り伏せた。袈裟に斬られたナージャヤは、崩れて動かなくなった。

由紀はとどめを刺せなかった。斬りかかる瞬間、周囲に途轍もなく嫌な感触が漂ったからである。足を止めた由紀が、蒼白になってジェロウルに振り返る。矢を引き抜きながら、桐は利津を叱咤する。

「急いで空に!」

「分かりましたわ!」

倒れているジェロウルからだ。嫌な気配は。そしてこの気配に近いものを、桐は知っている。

由紀が飛び離れて、詠唱開始。桐も急いでアブソリュートディフェンスと、アブソリュートシールドの準備。イージスシールドでは力不足だ。あれを防ぎきるには、桐の持ち札の中にアブソリュートシールド一つしかない。

倒れたままのジェロウルから漂い来る気配の恐怖は、肌に染みこんでいる。即ち、零香の、あの白虎戦舞だ。

「どうやら、この術を、使わざるを、得ないようだな……!」

ジェロウルの気配が膨れあがっていく。獰猛な殺気が収束し、そして炸裂しようとする、瞬間であった。

数体の実体化まがつ神が、場に割り込んできた。同時にアパッチのロータリー音。重なるようにしてジープのエンジン音。敵味方同時に援軍が到着したのである。

「Hurry!」

ジープが荒れ地を踏み渡り、乗った米兵が手を伸ばして乗るように促してくる。桐は一瞬躊躇したが、自分からジープに飛び乗り、跳ね起きたジェロウルに盾を纏めて叩き付け、十手も投げつける。飛びかけていた利津はアパッチに飛びつき、中に潜り込む。チェーンガンを乱射しながら戦闘ヘリは撤退に入り、由紀は最後尾で残った負傷者を抱え上げると、追っ手を撒いて走ってきた。

殿軍は更に幾らかの損害を出しながら、どうにか撤退に成功。ざっと見回した所、一個中隊いた米軍特殊部隊は、一個小隊をどうにか形成できる程度にまで減っていた。ケヴィンがジープの助手席で、タバコをふかし始めていた。冷や汗をかいているようだが、あの乱戦の中的確な狙撃の数々、実に見事だった。素晴らしい職人芸である。

「……危なかったですう、今の術」

先にジープとヘリで負傷者を運ばせ、最後尾に一緒に残った桐と由紀と利津。負傷者の一人をかついで歩きながら、由紀がぼやく。皆分かっていることだった。あれはおそらく、何かしらの力を借りて、能力を極限まで跳ね上げる術だ。そしてそれをジェロウルが使った場合……どうなるかは想像したくない。

今此処にいる能力者くらいになってくると、さっき利津が使ったフェニックス・バンカーバスターくらいの破壊力を持つ切り札を持っていると考えるのが妥当である。あのナージャヤも多分強力な切り札を持っているだろうし、他の連中も同じであろう。

ジェロウルの攻撃で彼方此方傷ついた体が痛む。無線で連絡を取ると、零香達の手伝った部隊も殆ど同じ状況だと答えが返ってきた。これでは攻撃部隊は総敗北だ。さて、この失敗を生かして、第二次攻撃を米軍が計る気になるのか、それとも。

桐の予想では、多分次に米軍は核攻撃を考えるはずだ。それは多分失敗するとも桐は思う。問題はその次。

嫌な予感がする。恐らく、此処までの展開は、被害の大小は流石に無理だとしても、太陽神は読んでいるのではないか。考え込む桐に、隣を歩きながら利津は言う。

「おそらく、太陽神は、此処までの展開を全て読んでいますわ」

「そうでしょうね。 利津さんは、今後どうなると思いますか?」

戦略面では、桐は利津に二枚は劣る。だから此処は是非意見を聞いておきたい。利津は少し考え込むと、言った。

「私の予想では、太陽神のターゲットは米軍基地。 次に米軍は、核兵器、ICBMで一気に勝負を付けようと計るでしょうね。 それを敢えて待って、例の抑止兵器とやらを、核兵器を発射した基地にでも使うつもりですわね。 具体的にどうやるかまでは分かりませんけれど。 そして、米国相手に独立を前提とした外交カードを叩き付けるつもりですわ」

「なるほど、理にかないます」

このままいくと、まずい。リズの言うとおり、二十万人だか三十万人だか分からないが、更に死体が量産されることになる。いや、死体さえ残らないかも知れない。

思わず桐は空を仰いでいた。

陽の翼は上手く動いている。多分この状況に米軍を引きずり込んだのも、他の国の特殊部隊を引きずり込んだのも、全て計算尽くだ。そしてこの計算が更に進んでいくと、人が大勢死ぬことになるわけだ。

陽の翼と戦ってきたから分かる。間接的に知ることが出来た。太陽神は彼ら癖がある部下達の心を掴むに充分なカリスマの持ち主だ。そして分かっているはずだ。これがどれほど惨い行いであるか。彼らがどれほど悲惨な境遇で生きてきたかは良く分かる。しかし、阻止しなければならないだろう。

零香風に言えば、対処できる力があるなら、対処する義務がある。桐としても共感できる言葉である。今後は、それを守るため、更に強く前進しなければならないだろう。

脇の傷が痛む。怨念が籠もった一撃は、重かった。

 

6,一つの敗戦

 

敵の撤退と共に、真由美は前のめりに倒れてしまった。刀傷を十カ所近く受けていて、一つ一つが焼けるようにいたい。どうにか傷口に手を当てて、赤尾さんに貰った回復術を込めた短刀を翳して応急処置をしていくが、明らかに普通の刀傷よりも酷い痛みだった。多分、何十人と人を殺した妖刀の怨念が作用しているのだろう。

気付けば、辺りは死体と悲鳴が充満していた。腕を食いちぎられた特殊部隊員が、何かわめきながら転げ回っている。ジープは走り回って負傷者を収容し、ヘリも手伝っているが、とても手が足りない。一番傷が酷い者達を乗せて彼らが去ると、それ以外の特殊部隊員達は徒歩で撤退を開始した。同じように応急措置を済ませた淳子先生が、零香先生と相談している。腿の傷を触れて、真由美は愕然としていた。どうにか血管は避けたが、骨まで傷が達していたのだ。自分の骨に直に触れてしまうと言う経験をした真由美は、吐き気をこらえきれなかった。

二度、胃の中のものを戻してしまう。酸っぱい。喉が焼け付きそうだった。淳子先生が真由美を抱き起こすと、回復術を掛けてくれる。だが表情は決して優しくない。

「分かってると思うけど、一度、四十キロ圏内から撤退するで。 リスクが大きいから、救援部隊は四十キロラインより入れへんからな。 それまで、うちらより酷い目にあっとる兵隊さんたちと一緒に、歩いて帰る事になるわ。 大丈夫か?」

「は、はい……」

「もう少しきたえなあかんな。 さ、歩くで」

見上げると、淳子先生だって決して平常心を保っているわけではなかった。青い神衣は赤黒く染まっていて、表情だって若干青ざめている。吐いている場合ではなかった。何度か失敗してから、立ち上がる。

こうして、地獄の撤退行が始まった。

真由美は苦痛に声を上げ続ける兵士に肩を貸して、一緒に撤退行を歩んだ。皆血だらけだった。皆疲れ切っていた。零香先生と淳子先生を除いて、怯えきっていた。

真由美の耳に、嫌でも被害報告が飛び込んでくる。最初に攻撃に参加した特殊部隊員は、一個中隊、九十人だった。そのうち五十七人が戦死し、特に傷が酷い十人がヘリとジープで撤退した。残りの二十三人の内、撤退途中に五人が死んだ。

真由美は思う。どうしてこんな事になってしまったのだろうか。こんな事態を、避けることは出来なかったのだろうか。

艦隊はどうにかしてアジ・ダハーカから逃れたという無線報告が入ってきた。ただし、何隻かの艦が囮になって、である。撃沈二、大破三。艦載機七機が撃墜。今回の作戦にはたしか一万前後の人数が参加していたはずだが、恐らく最終的な被害は千人を超えるのではないのかと、真由美は思った。

悲惨だった。無惨だった。

ベースが見えてきたときには、もう夜は白み始めていた。

 

大島姉弟は、真由美の顔を見ると、心底安心した表情で言った。

「無事で良かったわ」

「……有り難うございます」

「ほら、暖かいココアを用意しておいたわ」

奥へ通される。心が痛む。回復術を駆使しても、助けられない人が大勢いるのに、自分がこんな風にくつろいでいて良いものなのか。ココアが物凄く美味しい。涙がこぼれてきた。何も言わずに見守ってくれる大島さんの優しさが痛かった。

何カ所かに展開していた、陽の翼攻撃部隊は、おいおい帰還を始めていた。そのいずれもが手ひどく傷ついていた。だが、それでも米軍の特殊部隊はまだましだろう。何処の国の特殊部隊かは分からないが、あの海に潜んでいた者達は、一人も助からなかったに違いない。恥を忍んで、英軍や仏軍の特殊部隊もベースに収容して貰って、手当を受けさせて貰っているようだった。

ベースはそのまま野戦病院と化し、悲鳴とうめき声が充満していた。頭が冴えてきたから、回復術を使っての救護に参加する。赤尾さんがどう見てもくっつきそうにない腕を見事につなげて見せて、喚声を受けていた。其処までは真由美には出来ないから、傷が深い患者から選んで、順番に傷口を埋めていく。きりがない。負傷者も相当数に達しているはずだった。

話によると、海岸部に展開した特殊部隊だけではなく、中距離から砲撃をかけようとしていた陸戦部隊も攻撃を受け、壊滅したらしい。其処の負傷者も運び込まれているそうだ。最終的な被害は千五百を少し超えるだろうと、忙しく手を動かしながら医者が言う。殿軍になって敵を引きつけ、全身傷だらけになって奮戦した零香先生達には畏敬と憎悪両方の視線が浴びせられていた。誰かを恨まなければ心の平静を保てないのだから、仕方のないことであった。

ザクロのように裂けた傷口を、術で必死に修復する。楽になったらしい背の高い兵隊さんが礼を言ってくる。真由美は額の汗を拭いながら、微笑みかけて、失敗した。そのまま前のめりに倒れる。気が付いたときには朝だった。隣には、リズさんが座っていた。

「聞いたわ。 散々だったんだってね」

「……」

テントの中だった。陽の光がまぶしい。リズさんは真由美の額のタオルを代えようとしている所だったらしく。手のやりどころに困って、結局膝の上に降ろした。

「流石ね、あの人達。 零香って人なんて、由紀って人と特殊部隊の精鋭と一緒に、生き残りを迎えに一度戻っていたわよ。 更に何人か逃げ遅れを助けてきたみたい。 陽の翼でも五翼としてやっていけるんじゃないかしら」

「あの人は……特別だから」

「特別な人なんて、太陽神様だけよ」

さらりと言い切ると、リズさんはポットからココアを注いでくれた。ココアばっかり飲んでいるような気がする。でも、美味しい。

「何百年も、騙され続けて、報われない戦いを続けてきた人達、なんだよね。 陽の翼って」

「そうよ。 あたしね、今だって太陽神様は憎んでも恨んでもいないもの。 恨む事なんて……できない」

「どうしたら、仲良くなれるんだろう。 どうしたら、一緒に生きることが出来るんだろう」

「一緒に暮らすことが無理な者はいるのよ。 真由美ちゃんは良い子だけど、イリエ鰐とかホオジロザメと一緒に生活できると思う?」

思えなかった。ペットとして飼うことは出来るだろうが、一緒に対等な存在として暮らすことは無理だ。

リズさんは一緒に暮らすことが出来ている。しかしそれは、幼なじみを殺されたという憎悪と、現在はリズさんの情報が米軍にとって必要だという条件が重なってのことである。極論すると、この戦いが終わってしまえば、リズさんは用済みとして消される可能性すらある。逆に陽の翼が引き渡しを要求してくるかも知れないのだ。

零香先生に相談すれば、リズさんを守ってくれるかも知れない。いや、多分守ってくれるだろう。あの人は、こういう事に関しては心底から信頼できる。だが、それはあくまでリズさんだけの話だ。陽の翼の、他の人達はどうなる。

相談すれば何でも解決できる。そんな言葉が、故国で流行っている事を思い出して、真由美の心は深淵に沈み込んでいった。

何と現実を知らない言葉か。何と楽観的で無責任な言葉か。

平和を願いたい。だが、誰に願うというのだ。神か?悪魔か?権力者か?平和を作るのは人間だ。である以上、人間が望まない平和は来ない。社会が望まない人間は生存できない。裏社会というものも、人間が望むからそこにあるのだ。この戦いが終わったとき、陽の翼は多分誰にも望まれない。

混乱する真由美の肩に、リズさんが手を置いた。その優しささえ、今は悲しかった。

 

(続)