総力戦
序、裏切者
見たことがない植生の森であった。しかも夜である。当然走りにくい事この上ない。すぐ後ろには、強大な力を持つ追っ手が複数迫っているというのに。
自分はまだ大丈夫だ。陽の翼の労働員として鍛え上げられてきた。しかし、手を引いている幼なじみのリズは違う。能力者の中でも非戦闘系で、箸よりも重いものは持ったことがないような育ちだ。逃げ切ることが出来る可能性は低い。既にバルジュは、覚悟を決めていた。リズの足が時々縺れているのが分かる。無言で素早く背中に背負うと、バルジュは走る。殺気はぐんぐん距離を縮めてきている。
「バルジュ、此処、何処?」
「俺が聞きたい」
島を出て、飛行機に潜り込んで。辛い生活が続いていたが、それでも弱音一つ言わなかったリズが、ついにそんな言葉を漏らす。しかし、今は慰めている暇がなかった。追っては最低でも五人以上。しかも五翼の一人、ジェロウルがその中にいるらしいのだ。並の兵隊よりは強い自信があるバルジュだが、五翼に勝てると思うほど愚かではなかった。
折角、此処まで来たのに。日本まで、逃れてきたのに。
バルジュは、リズが言う「恐るべき事の防止」にはあまり興味がない。恋人未満友達以上の幼なじみが必死な様子だったから、手を貸したのだ。それには恋心が起因していたことを否定はしない。何よりも、自己主張しないリズが此処まで必死になるのを、初めて見たと言うこともある。それに、何か意味があることをして死にたいと、前々から常に思い続けていた。
陽の翼のリーダー、太陽神に対する忠誠心は今でも篤い。あの方は偉大すぎるのだ。皆のことを第一に考えてくださり、食事も自分は常に最後に取り、重要な作戦では常に最前線で身を危険にさらしている。しかし、そのためバルジュのような一兵卒は、思考力を奪われがちなのである。青年らしい反抗心が、その状況にいつも疑念の一石を投じていた。あの方に悪意はないし、皆のことを心底から考えてくださっているのは分かる。しかし、自分の意志でも何かしてみたかったのだ。命を賭けて。
そんな子供じみたことが、幼なじみの「亡命」を手伝った動機だった。背中で震える幼なじみは、頭は良いし判断力も良いのだが、何より実行力がない。だからずっとバルジュが支えてきた。リズが頭で、バルジュが手足。それで漸く一人前だったのだ。だが、それが終わるのも近いと、バルジュは感じている。陽の翼は、あっさり逃してくれるほど甘い存在ではない。
逃げ切るのは不可能。バルジュが判断した。リズを背中から降ろす。困惑する彼女に、カラシニコフの安全装置を外しながら、バルジュは言った。
「先に行くんだ、リズ」
「……!」
「すぐに追いつく」
「嘘ばっかり……」
「何百万って人間の命が掛かってるんだろ? いいから行けっ!」
こんなに強い調子で、幼なじみに声を掛けたのは初めてだった。数秒躊躇していたリズだったが、やがて一つ頷くと、森の闇の中へ身を躍らせた。
同時に。闇の中から影が五つ現れる。四つはバルジュと同じ労働員だ。残りの一つ。今まで気配を全く感じなかったそれは、桁違いの殺気を今やむき出しにしていた。距離はおよそ十メートル。こんな近距離にまで迫られていたとは。冷や汗が流れる。
「自らの命を盾に、愛する者を守るか。 誇り高い行動だな」
「うるせえ。 誇りもくそもあるか。 死ぬ気なんかさらさらねーんだよ」
悪態を付きながら、震えを殺しきれない事に気付く。当然だ。バルジュはジェロウルの戦いぶりを見たことがあるのだ。並の兵隊では、十人束になっても手も足も出ないレベルの存在である。今、浴びせられている山津波が如き殺気の中で動くことが出来ているだけでも、奇跡に近い。ジェロウルは周囲の兵隊達に、軽く手を振って言った。
「手出し無用」
「はっ! 竜翼ジェロウル!」
「最後に問う。 降伏する気は?」
「あるわけ、ねえだろうがあっ!」
恐怖が怒りと混じり合い、心の釜の中で沸騰、爆発した。腰だめしてカラシニコフの引き金を引き、銃弾の雨をジェロウルに浴びせかける。残像を残して姿がかき消え、無数の弾丸は正確にそれを貫いた。弾丸を発射し続ける銃身を巨大な手が掴み、空に向けさせる。どんなに力を込めても、銃身は微動だにしない。そして、至近のジェロウルの巨体も。一瞬だった。あまりにも絶望的な力の差だった。膝蹴りを浴びて吹っ飛ぶバルジュ。
「く、くそ、ちきしょうっ!」
腰からアーミーナイフを引き抜く。そのままジェロウルの巨体に刺し入れようとするが、遅い。奴の右腕は既に振り上げられていて、そこには百キロはあろうかという巨大なトマホークが具現化していた。
『リズ……逃げ延びろ……!』
それがバルジュの最後の思考となった。夜闇の森に、鮮血が飛び散った。
「敵」を木っ端微塵に粉砕したジェロウルは、目をつぶって哀悼の意を表していた。誇り高い敵に対したのだから、当然の行為だった。そんな彼の意図とは裏腹に、無粋な声が飛んでくる。
「竜翼ジェロウル、娘を追いますか?」
「負傷した」
「……は?」
「今の戦闘で思わぬ反撃を受け、負傷した。 故に傷の手当てをするため、三十分間休憩を取る。 その間に、死体を片づけておけ」
若い労働員は小首を傾げていたが、年かさの労働員はジェロウルの考えを理解してくれているようだった。どのみちあの娘一人のがした所で大局に変動はない。
これで二回連続任務の失敗と言うことになる。何か失点を埋める工夫が必要になるだろう。しばしして、携帯に着信。電話に出ると、パッセからだった。
「首尾はどうでしゅか?」
「脱走者の一人は撃破。 しかし思わぬ反撃を受け、負傷した。 今回復している」
「そう。 ……相変わらず下手な嘘でしゅね。 貴方、一戦士としては立派ですけれど、兵士としては失格でしゅ」
「すまない。 迷惑を掛けた」
パッセの嘆きが電話向こうから聞こえる。自分が兵隊としては十人並みであることを、こういうときにジェロウルはつくづく思う。戦士としての誇りを優先してしまうのである。抑えることが出来る場合もある。しかし相手が命を賭して向かってきた場合、どうしてもその誇りを尊重したくなるのだ。
電話越しに次の命令を伝えられる。鷹揚に頷くと、ジェロウルは立ち上がる。空には無数の星が瞬いていた。
1,総力戦の幕開け
陽の翼がベースにしている倉庫の一つに、それは置かれていた。
壺と呼ばれているそれは、高さにして六メートル、幅は四メートルほど。上部と下部はくびれ、中央部が膨らんでいる。形状は確かに壺と言えなくもないのだが、しかしこれを見て壺だと思う人間がどれだけいるだろうか。
床に直に置かれているわけではない。持ち運び用の、車輪が付いたコンテナの中に格納されている壺は、普段はコンテナの一部を外し、「受け入れ」に備えた状態になっている。しかし今はコンテナの中で密封され、誰も見ることが出来ない。「容積」が一杯になったからである。開けておく必要が無くなったのだ。
この壺こそ、陽の翼の日本における活動の中心的な役割を果たすものであった。
日本に来ている陽の翼の幹部達は、実にこの壺を充たすためだけに来ていると言っても過言ではない。壺の容積は拡張可能なものなのだが、この間容積拡張に必要なものを確保し損ねたために、今のままではこれ以上の収集が不可能な状況である。更に、日本側の対応力が付き始めた事もあって、大事を取って一時撤退することが既に決定していた。当然の事ながら、壺は無傷のまま持ち出さなければならない。
今までにも二回、本国へ壺は搬送している。しかし、今回の搬送は、前とは比較にならないほど難しい作業になりそうだった。
日本の海上保安庁が、能力者を乗せた護衛艦を巡回させ始めている。戦闘機もスクランブル態勢を整えていて、哨戒ヘリも飛び回っている。その煽りをくらって密入国者も減っている程で、当然脱出も難しくなっている。一度陽の翼の幹部全員が脱出することも決まっており、今回の脱出行は、総力戦になりそうだった。
壺が入ったコンテナを眺め上げているのは、陽の翼のナンバーツーであるパッセ。前歯が一つ欠けているため、喋るとどうしても空気が漏れる人物である。西洋系の剣と鎧を愛用している彼女だが、基本的に陽の翼は使えるものはどんなものでも使う主義であるし、それについて咎められることはない。
今まで総合的な指揮に徹していた彼女だが、日本側の能力者の対応が速くなってきたので、出撃せざるを得なくなってきている。今回の作戦に関しても、勿論関与しなければならないだろう。
労働員の一人が走りより、跪いた。鷹揚に頷くパッセ。
「天翼パッセ」
「なんでしょうか」
「船の手配がどうにか済みました。 多方面から調べ上げましたが、罠の可能性は低いかと思われます」
「報告書を」
分厚い報告書を受け取って、労働員を下がらせて紙面をめくる内に、パッセは眉をひそめざるを得なかった。嫌な予感がするのだ。日本国内に飼っている何人かの協力者の手を経て、コンテナを輸送するに充分な小型船の手配に成功はしている。いつも通り沖合に停泊、陽明に搬送させて自分たちも後を追う。計画的には問題ない。計画の細かい部分にも疑念はない。
しかし、どうしても嫌な予感がぬぐえない。パッセの予感は当たるのだ。事実あの日本側のルーキーが死神奪取を防ぐのではないかという予感は見事に的中した。髪の毛をかき回すと、倉庫の一角に用意されている事務パーティションに行く。本腰を入れて調べる必要があると思ったのだ。
机について入念にレポートをめくり、計画の穴を入念に探っていくが、特に問題があるとも思えない。予想される襲撃は自分たちで退ければいいし、日本で一線級の相手の顔は全て把握している。彼ら全員に襲われたとしても、壺を守って逃走するというミッションだけなら遂行可能な自信がある。
しかし、なんなのだろうか。このぬぐえきれない不安は。
壺から「歌」が漏れ出ている。視線を労働員の一人に送ると、彼はすぐに反応、調整作業に入った。壺の安定性に問題があるというのだろうか。念入りに調整してきたのだが、しかしこれは生き物だ。不安は少しでも除いておいた方がよい。
倉庫にどやどやと人が入ってくる気配があった。陽明にキヴァラ、それにジェロウルもいる。ナージャヤ以外の幹部全員が、ここに揃ったことになる。キヴァラはデスクでレポートをめくっているパッセに気付き、片手を上げて歩み寄ってきた。
「ヨー、姐さん」
「? キヴァラ、戻っていたのでしゅか」
「相変わらず威厳のねえ喋り方だな。 この国出るって聞いたんだけどヨ、本当か?」
「ええ。 一度本国に戻り、後のことは太陽神に指示を仰ぎましゅ」
威厳がないのは承知の上だ。差し歯を入れないのには理由がある。まあ、他の五翼の面々も、大体それは察してくれているようで、あまり突っ込んでは聞かれないのが嬉しい。キヴァラはデスクに腰掛けると、お行儀悪く真っ白な歯を見せながら笑う。
「HAHAHAHAHAHAHA、もう一暴れしたいんだけどなあ」
「そうも言っていられないでしょう。 この国は警察も無能ではないし、能力者も粒が揃っている。 まあ、後者はここ数年で不意に質が高くなったようでしゅけれど」
「とはいってもヨ、連れてきてる実体化まがつ神はあらかた出すし、タラスクも全力で戦わせるんだろ? そうなると、俺らの出番がなくなっちまうぜ」
「さて、それはどうでしょうか。 相手の動き次第では、私やファーフニールがでなければならなくなる可能性もありましゅし」
キヴァラの戦いを愛好する性癖は良く知っている。最後の言葉を言った途端、彼の目が異様な光を帯びたのに、パッセは敏感に気付いていた。敵に情報を流すような真似はしないだろうが、レイカと呼ばれる能力者を始めとする、何人かの能力者は侮るには危険すぎる。リーダーの役割として、此処は釘を刺さなければならない。
「敵を侮ってはなりません。 それに、今回は陽動作戦を今まで以上の規模で展開することになりましゅ」
「HAHAHAHAHAHA、そりゃあいい。 ……俺も、出ていいんだヨな?」
「勿論。 壺の守りは私とファフニールで。 撤退の支援及び護衛は陽明に。 残りの五翼全員が、貴方も含めて陽動に出て貰いましゅからね」
「OKOK、派手な祭になりそうだな。 今から楽しみだぜ」
とりあえず、これで大丈夫だろう。キヴァラは戦いを好む傾向があるが、陽動作戦の意味は理解しているし、今まで何度もそれをこなしてきている。今回も作戦の意味を知っているだろうし、無茶はしないはずだ。
嘆息するのを見られないようにしながら、パッセは他の五翼も呼び寄せ、任務を伝えていく。ナージャヤは携帯で命令を伝える。まだ少し傷が残っているようだが、どうにかいけるだろう。元々あの子は、この手の隠密任務には何処の誰よりも適しているのだ。
賽は投げられた。この作戦に失敗しても後はあるが、状況は極めて厳しくなる。何より太陽神の期待を裏切ることになる。それだけは、パッセには耐えられなかった。
壺からまた歌が聞こえる。嫌な予感は、止まなかった。
携帯電話が鳴る。液晶画面を見ると、情報収集に当たっている部下からだった。
「何事でしゅか」
話を聞いている内に、見る間にパッセの眉の根が寄った。どうやら日本に飼っている情報屋達が、自衛隊の動きや、能力者の行動を掴んだらしい。携帯を閉じると、パッセは周囲を見回し、タラスクを見つけた。
「タラスク!」
「なんじゃい?」
天井に張り付いていたタラスクに、パッセは目的地と、支援するべき相手を告げる。山猫のような顔をしたタラスクは、面倒くさそうに生返事をすると、六本の足で這いずるようにして倉庫の外へ出ていった。奴は元々実在の人間が伝承の中で実体化まがつ神化していったものだけに、動物じみた闘争心よりも、人間的な濁った欲望が目立つ。しかし戦闘能力自体は確かなので、支援任務には打ってつけであった。それに忠誠心は確かだし、何より命がけの戦いをしたがらないので、無意味に命を投げ出すこともないだろう。
時間はあまりない。パッセは手を叩くと、皆に呼びかけた。
「これから、この国での最終作戦に取りかかりましゅ。 総員、総力戦用意!」
久しぶりの日曜日。しかも修練も仕事も予定が入っていない正真正銘の休日である。銀月家で真由美は、化粧室の全身鏡に自分を映していた。此処暫くは修練修練で、まともに鏡で自分を見る余裕もなかったからである。
下着だけになって、指を肩から手の甲に向けて滑らす。途中、何カ所かとっかかりがあった。肌に深く刻まれた傷跡だ。ターンして、背中から腰にかけて、足に掛けて入念に状態をチェック。随分肌に傷が増えていた。小さなものも大きなものも。幾つかは一生消えそうにない。少しだけ悲しいけれど、以前ほど美容に対する執着が強くなくなっているのもまた事実であった。よそ行きの服を着直す。この服も随分傷んでいて、そろそろ買い換えの時期だった。髪は少し切った。邪魔になってきたからだ。セミロングを保っているのは、僅かな意地の現れだが、それもいつまでもつか。
鏡を見ていても、今後どういう風に鍛えるかと考えている自分がいる。それに真由美は何度か愕然としたが、それはもういい。多分もっと強くなれば余裕も出てきて、お洒落だの何だのと考えるようにもなると、敢えて非現実的な楽観論で自分を抑える。誰も周囲にいないことを確認してから、閻魔大王の鎧を具現化させる。一度全身鏡で見ておこうと考えてはいたのだ。
改めて鏡で見てみると、少し雰囲気が違う。まず全体的な印象は、和鎧と道服を足して二で割ったような感触である。全体的に黒で統一しているのは確かなのだが、マントには赤系の縁取りもあるし、軽くて気付いていなかったのだが額には冠のようなものもある。ティアラと言うよりも烏帽子に近い感触だが、それほど大きくはなく、動きを阻害しそうにはない。
一度上手くいってからは、鎧の具現化だけならそれほど消耗せずに出来るようになった。その代わり、他の術を併用すると消耗が大きすぎて、未だに上手く使いこなせない。その分破壊力も大きいのだが、殆ど戦闘時に無駄が出来ないと言う威圧感が、無言の鎖となって真由美を押さえつけていた。
鎧を解除。少し肩が凝ったので、居間に行って煎餅を一つ摘む。術を使った後はお腹が空いて仕方がないのである。此処の煎餅はかなりの高級品らしく、今まで食べたどの市販品よりも美味しい。少しだけくつろいでいた真由美だが、すぐにそれも出来なくなった。
携帯が鳴る。北海道時代の友達も、前は少しは掛けてきたが、今はもうほとんど無い。友情など浅薄なものであると真由美は思う。代わりに掛かってくるのは、零香先生を始めとする、おっかない人達による、出来れば関わり合いになりたくない内容の電話ばかりだ。今回もそれに例外はなかった。
「真由美ちゃん、仕事。 すぐに準備して」
「はい」
「準備が終わったら、学校に来るように。 十五分以内ね」
返答を聞かずに、電話はきれた。折角の休日が台無しになったことを、真由美は悟るが、もう今更恨み言も何もない。それにもう昼近くだし、準備するようなこともない。高校の同級生が殆ど同時に遊びに誘ってきたが、ごめんなさいと六文字だけのメールで断り、肥前守を入れた鞄をひっつかんで外に飛び出した。
玄関近くの木の枝に、死神少女が座っている。この屋敷が気に入ったらしく、零香先生の言葉に素直に従って、保護を受けてくれているのだ。彼女は瞬間転移系の能力の持ち主で、しかも気紛れだから、これは異例の成果だと初めて褒められた。それ以上に、真由美は嬉しかった。言葉が相手に届いたのだから。
真由美に気付くと、死神少女は笑顔で手を振ってきた。手を急いで振り返して、少し充たされた気分のまま屋敷の前の通りに出て、学校への道をひた走る。どうやら真由美は元気な居候と周囲の住民達からは認識されているらしく、通りがかると手を振ってくるおばさんが結構多い。笑顔で手を振り返すのだが、表情ほど心は明るくない。何で居候しているか、彼女らが知ったらどう思うか、気が気ではないからだ。
「マユたん、感じてる?」
「うん。 何だか、物凄く嫌な気配だね」
鞄の中からの問いに、短く応える。閻王鎧の術を身につけてから、勘が以前よりもずっと鋭くなっている。零香先生も、あの神衣の術を身につけてからはそうだったという。
今の真由美は、零香先生のレベルの能力者に、「有効打を与える可能性がある」レベルの能力者にまで成長している、と説明を受けた。それは戦略面で大きな意味を持っており、戦い方次第ではあのジェロウルだって倒せることを意味している。後は実戦で技を磨き、自分で有効な技を作り、そして自分なりの戦闘スタイルを確立していけば。
やがて、弱者を守り、強者を退けることが出来るようになる。
淳子先生が私怨からやくざを狩り、東大阪から犯罪者と一緒にたたき出したことを真由美は知っている。それを今後も継続するつもりだと言うことも、である。しかしこの間かの人は、現実を見ようとしない真由美を叱責した。後で零香先生に、それについて言われた。
一流の使い手になる前に、自己に対する分析を、完全に済ませておけと。
復讐に生きるのなら別にそれでも良い。弱者を守って生きるのも構わない。ただ、それまでの真由美は、相手にも事情があって行動しているというのを知らないふりをしながら、敢えて敵を悪と決めつけて腕を上げ続けてきた。そんなことをしていると、力を付けたときに、選択肢が増えたときに、自己の内部に存在する矛盾に押しつぶされて自滅してしまう。だから、自己分析を済ませておけ、と。
そう言われて、真由美は吹っ切れた。敵が悪だろうが正義だろうが、弱者を守って戦い抜くと。ジェロウルの行動は今でも許せない。だが、奴がこれから弱者を虐げる可能性がある以上、倒す必要がある。それでいい。その覚悟を告げると、零香先生は静かに頷いて、頑張れとだけ言ってくれた。そして心も随分晴れた。まだ、納得しきれない部分も少しはあるが、そこは精神鍛錬を続けて行かねばならない。
学校が見えてきた。嫌な気配はどんどん強くなってきている。しかも、今ひとつ、巨大な嫌な気配が近づいている。近づいてきているこの気配は、多分実体化まがつ神だ。それも物凄く強力な。今まで感じたこともないほどに強い。
「あ、真由美?」
「ごめん、後でね」
すれ違った私服の同級生が、怪訝そうな顔を真由美に向けてきたが、振り返る暇はなかった。人間と違い、動物たちは行動が速い。小鳥も猫も、そして蛇までもが、学校から離れ始めている。休日にも学校には人がいるが、どうにかして零香先生が遠ざけてくれていることを祈るばかりだ。
雨が降り始める。まだ春は遠い。冷たい雨だ。
坂を上りきって、学校にたどり着く。全力に近い速さで来たのだが、息一つ乱れていない。足を止めたのには理由がある。校門の門扉が閉まっていた。
すぐに裏へと周り、周囲に人がいないことを確認してから、柵を乗り越えて学校に入り込む。部活動をしている生徒もいないし、人の気配自体がない。妙だ。
大きな気配。今までにないほど濃厚に感じる。肩から提げた鞄にゆっくり手を伸ばし、肥前守を掴む。鯉口を切るのと、濃密な気配に紛れた小さな殺気が炸裂するのは同時。振り返りざまに、斜めに振り下ろされた一撃を受け止める。鞄に食い込んだナニモノかは、肥前守に受け止められて止まったが、真由美の小柄な体型では威力を殺しきるのは難しい。軽く下がって、衝撃を潰しきる。殆ど二つに千切れてしまった鞄から、肥前守を取り出すと、閻王鎧の術を発動、真由美は立ち塞がった人を見た。
真由美の前に立っているのは、良く知る人物だった。顔はいつも合わせている。名前は当然知っている。家族構成だって知っている。声も知っている。
いつも、授業に出ている。
能力者だと言うことは、少し前から気付いていた。葉子に指摘されて、怪しいとはずっと前から思ってはいたが、確信したのはつい最近だ。それでも、まさか戦闘タイプの能力者だったとは思っていなかった。
好きではなかったけれど、嫌いでもなかった。でも、この状況で仕掛けてくる以上、倒さなければならなかった。
遠くで雷が鳴った。降りしきる冷たい雨は、ますます激しくなっていた。黒い閻魔大王の鎧に当たる大粒の雨が奏でる不統一な音が耳障りだった。肥前守の握りが滑らないか少し心配だ。刀身も、後で念入りに磨いておかないといけない。
感慨を深めている暇はない。戦力としてカウントされている以上、それに応えなければならない。大きく息を吐き出すと、真由美は眼前の敵に、言い放った。
「何のつもりですか? 前田先生」
すぐ近くに、大きな雷が落ちた。
ほぼ同時刻。黒師院桐が調査している飛騨山中で、強大な実体化まがつ神とアースダイバー・スナイパーが出現。同行していた赤尾利津も巻き込まれた。青山淳子が調査中の京都山中にジェロウルが数体の実体化まがつ神と共に正面から出現。輝山由紀がコンサートを行っていた武蔵野の大ホール近くに、黒人の陽気な青年が実体化まがつ神を引き連れ現れた。武蔵野の森を調査していた政府の検証チームを狙ってのことらしい。更に数カ所同時に、強力な実体化まがつ神が出現。日本政府の能力者達は、いずれもが対応に引きずり回されることとなる。
総力戦の、始まりであった。
2,山中の死闘
最初に「それ」の餌食になったのは、意地になって桐の調査に参加していた自衛隊が持ち出していた指揮車両であった。
飛騨の山奥。以前に一度、陽の翼の幹部らしい人物が訪れた痕跡のあった場所である。山奥の廃村で、周囲に人影はなく、鬱蒼とした森が何処までも広がっている秘境だ。桐は暇が出来たという利津を誘って、ここの調査を行いに来た。此処は戦闘が行われたわけでもなく、痕跡が残っている可能性は低いと見なされ、事実桐もそう思っていたので後回しにしていたのだ。
政府側は能力者を付けようと言ってくれていたのだが、桐は謝絶。そうしたら何を勘違いしたのか、代わりに自衛隊が付いてきたという状況である。旅費は向こうが全額負担してくれたから、それは良かったのだが。付いてきた小隊の指揮官が能力者に対して疑いの目を露骨に向けてきている士官で、桐も利津も現地に到着したときにはもううんざりしていた。士官ではなく一般の隊員達は皆責任感もあり親切だったのだが、それでも上司がそんなだから空気は苦しい。どうやらこの国の悪しき伝統、下は有能司令部は無能というものは、今も健在らしい。
付いてきた自衛隊は実戦装備で、偽装した指揮車両と装甲車、それに自動小銃で武装していた。一個小隊の戦力で、場合によっては攻撃ヘリや戦闘機の支援も呼べるという。これだけは有り難い。
現地到着は昼。流石に寒い事もあり、冬でも半袖半ズボンの利津でさえ今日は長袖にジャンパーを着てきている。桐もタートルネックのセーターの下に、もう一枚シャツを着込んで調査に来ていた。廃村は特に荒らされた様子もない。何でもこの辺りは古戦場だそうで、しかしごっそり龍脈に溜まっていた負の力は奪われていた。辺りを調査している間、自衛官達はハイテク機器を持ち出して色々調査していたが、他の所同様成果は無し。桐もダウジングロットから風水盤まで持ち出して調査していたが、同じく成果無し。一旦昼食にしようかと、中腰で作業をしていた桐が腰を浮かし掛けた矢先であった。
桐が神衣を展開したときにはもう遅かった。天より飛来した火球が指揮車両を直撃、半壊させたのである。火事を起こした指揮車両から、慌てて指揮を執っていた尉官が飛び出してくる。確か飯島二尉(中尉)だったはずだ。太った偉そうなおっさんであるが、火に追われて逃げ出してくる様子は哀れである。
桐に遅れて神衣を展開する利津。地面に手を着き、跳躍への溜めをする彼女に、周囲に盾を展開しながら桐は言う。
「敵、見えますか?」
「見えますわ。 距離およそ2200。 ……翼もないのに空飛んでますわね。 術を使って浮いているみたいですわ」
ちなみに利津は双眼鏡の類は使っていない。裸眼である。神衣を展開した彼女の視力は、人類の限界を遙かに超越している。仲間内でも随一だ。
「どんな格好ですか」
「虎、……いや、体型から見てイエネコ、ですわね。 全身燃え上がったネコで、濃厚な負の気配を発してますわ。 此方に気付いたようで、第二射、第三射、撃ってくるつもりらしいですわよ」
桐は即座に相手を特定した。火車だ。
火車というのは葬儀の際に現れ、死体を引っさらっていく妖怪である。地獄の鬼のような姿をしているとも、ネコのような妖獣だとも言われるが、後者のイメージは後期になってから出来たものである。日本では高名な妖怪であり、知名度が高い以上相当に強力だ。侮ることは出来ない。
桐が気付くのと、利津が気付くのは殆ど同時だった。利津が跳躍すると同時に、地面から浮き上がるように強烈な一撃が来て、桐の動かした盾に直撃して弾かれる。無事に空へ舞い上がった利津は複数の術を展開、遠距離にいる火車に備える動きを見せている。更に、もう一撃上空から。逃げまどう自衛官達は待避に間に合わない。しかし、今度は桐が速い。動かした盾がスライドし、充分に余裕を持って敵の一撃を防ぎ抜いた。燃え上がる指揮車両から這うように逃げた飯島が、必死になって声を張り上げた。
「は、反撃だ、反撃しろっ!」
「て、敵は何処ですか!」
「敵は二体。 一体は地下に。 もう一体は北北東、距離2200」
唖然とする自衛官達。いつも笑顔の桐が、不意に戦士の表情に代わる。
「携行地対空ミサイル使いなさい! 射程距離圏内です! 地中の敵は私が対処します!」
「りょ、了解ッ!」
「じょ、じょ、状況開始!」
うわずった飯島の叫び声に続いて、装甲車が動きだし、負傷者を収容しつつ林立する木々の間に隠れ込む。銃の安全装置を外した兵士達が戦闘態勢を取り、各々遮蔽物の影に隠れ込む。しかし、相手の一人は地下にいるのだ。ほぼ百%、間違いなくあのアースダイバー・スナイパーである。二度の戦いのデータは桐も目を通している。大体の能力把握は出来ているが、この状況はちと厄介だ。
アースダイバー・スナイパーの能力は、遮蔽物が多くある場所で最大限に発揮される。ジャングルがそうであり、ビル街がそうだ。そして今桐がいる場所も、その一つとなる。分からないのは、何故こんな時に攻撃を仕掛けてきたか。考えられる可能性は幾つかあるが、もっとも有り得るとしたら。
何か大規模な作戦を隠蔽するための、陽動攻撃。
そうなると、此奴相手に手こずるわけには行かない。上では戦備を整えた利津が、早速火球を火車へと叩き込んだ所であった。携帯が鳴る。右手を動かし、低高度から飛来した一撃を盾で防ぎきりながら、電話に出る。
「はい。 今取り込み中です」
「そっちもか。 こっちも交戦中! 淳子もらしい。 零香と真由美もだ。 他にも何カ所かに、強力な実体化まがつ神がでてやがる!」
由紀の緊迫した声が、すぐに途切れた。電話どころではなくなり、すぐに携帯を切ったのだろう。舌打ち。どうやら敵は本気で全戦力を投入してきたらしい。この分だと、速攻でどうにかしなければ、敵はさっさと本命の作戦を果たしきる事になるだろう。
アブソリュートディフェンスが展開完了した。盾の一個を足下に飛ばして乗り、真下からのゼロ距離射撃に備えると、上の戦況を見やる。気配は今だ健在。利津の攻撃が利いた様子はない。それどころか……。
「敵健在! スティンガー効果無し!」
絶望を含んだ報告に、飯島の顔が歪んでいる。スティンガーだけではない。利津が叩き込んだ火球は既に四発。そのいずれもが、火車に有効打となっていない。利津も不信を感じて旋回を開始。恐らく、敵の本体が別にあることを推定しての行動だろう。その可能性は高い。あの利津の火球は、熱に強いタタラ神さえ屠り去ったのだ。如何に炎の名を冠した実体化まがつ神であっても、効かないはずがない。
素早く地中に時限式地雷を配置し、何発か炸裂させる。真下からのゼロ距離射撃をしようとしたら、即座に吹き飛ばすと言う牽制だ。更に、自衛官を攻撃するのを防ぐ意味もある。下手に手の内を増やせば、桐が行動パターンを察知、爆撃できるからだ。轟音。地面が震動する。頭を抱えてへたり込んでしまう自衛官もいる。情けない話だが、訓練で如何に鍛えていても、実戦は殆ど経験がないのだから仕方がない。後は、敵の正確な位置さえ掴むことが出来れば。
携帯を取りだし、利津に電話。作戦は単純明快であり、向こうにもすぐ伝わった。後は自衛官達が頼りだが、さてさて、どうしたものか。連続して四本の矢が地を這うような低高度で微妙な時間差を付けて飛来、それを盾を動かしながら防ぎきった桐は、後方に迫る殺気を感じ取った。
振り向く。閃光が視界を覆い尽くした。
「……! やりますわね」
上空で旋回していた利津は、桐に直撃した白色の火球を見てぼやいていた。同時に、利津へ向けても火球が飛来。火球で迎撃、中途で叩き落とす。視界を覆い尽くすほどの爆発が巻き起こる。利津の火球に勝るとも劣らない破壊力だ。もしも火球で防ぎきれない場合、ガーディアンバードでは迎撃しきれない可能性が高い。
利津は冷静に観察していた。今、桐に撃ち当たった白色の火球は、爆発を引き起こした後、小さくなって逃れ去り、途中で消えた。多分これが敵本体だ。しかし空中に浮いているネコにも火球による攻撃能力と、利津による爆撃に耐え抜く防御能力が備わっている。
さて、どういうトリックか。こういうときこそ、桐に頭を使って欲しいのだが。
先ほど桐から受けた指示は簡単なものである。まず自衛隊と連絡網を接続、周囲に散らせる。そして主に樹上に待避させ、スナイプ戦の態勢を取らせる事。今此処に来ている者達は、それなりの訓練を受けている。後はアースダイバー・スナイパーの動きをよく見ること。主に見るのは、矢の射出点と、息継ぎに出る能力者本人。奴は射撃をすると息継ぎをしなければならないのに加え、この森林地帯で低角度での射撃を繰り返しており、息継ぎするのにそれほど遠くに出られないはず。もし発見が速ければ、自衛官のスナイプで仕留めることが出来る。奴の耐久力は隠密狙撃型だけあり、大した事がないのだ。
問題は火車だ。今までの行動を見ている限り、あのネコは「砲台」に過ぎず、本体は何かしらのステルス能力かトリックを使って、利津の視力からも桐の五感からも察知を逃れている。火車という妖怪がどのような存在か分かれば対策も立てられようが、それは恐らく桐がやっているだろう。利津はアースダイバー・スナイパーを探すことに全力を注がなければならない。
携帯を忙しく弄くり、メールを飛ばすうちに、全員に連絡が行き渡る。現在動けるのは十七名で、そのうち四名がスナイパーとしての訓練を受けているそうだ。まずまずの結果か。残りは観測手になってもらうしかない。観測手とは、狙撃手と組んで広く状況を見渡す人間のことである。本来はスナイパーの訓練を受けた人間が行うのだが、この状況下では仕方がない。編成は飯島二尉に任せるとして、利津は戦場全体に対する観測を続けなければならない。
桐を覆っていた煙が晴れてきた。予想以上に打撃が深刻である。盾の破片が右腕を直撃したらしく、服から血が滴っていた。すぐに携帯で連絡。
「戦闘続行可能ですの?」
「いっつ……。 なんとか……大丈夫です。 こっちよりも、そっちは?」
「今、状況を観察中です。 ……よろしくないですわね、敵がこっちの動きを察知したみたいですわよ」
「そうさせることが最初から目的です。 火車の能力の説明をしますね。 それと、作戦も」
最後の返事はメールで来た。目を細めると、利津はもう少し高度を上げ、「火車の攻撃」に備えた。
高度を保ったまま、火車は相手の出方を見守っていた。今対峙している能力者共が相当に手強い相手で、気を抜けば即座に消滅に繋がることを、火車は肌で感じ取っていた。直前に仕掛けた収束熱線砲で仕留められなかったのも、火車の不安を後押ししていた。あれの直撃を防ぎきる能力者など、存在するとは思っていなかったのだ。
火車は本来、死体を地獄へと搬送する神であった。これは言い方を変えると、魂の導き手でもあったわけで、世界中にさまざまな種類がある「死神」の一種であったとも言える。それなのに、「壺」に選ばれなかったのは、後期になって「死体を盗む」という属性が付加されて、それが主になってしまったからである。それが神から妖怪へと火車を貶め、人への憎悪を蓄積させたのだ。
元々仏教に登場する神々(仏)は、複雑な存在である。西方から流れてきたアスラ神族とディーバ神族という二つの流れの神々の思想が、インドでバラモン教とヒンズー教の中複雑に変化し、更にそれを元にして仏教の神々を構築したのだから無理もない。アスラとディーバは信仰する宗教によって悪魔と神としての立場が複雑に入れ替わっている。ある宗教では悪魔なのに、別の宗教では神であることなど珍しくもない。互いの宗教に対して優位性を示すために神としての地位も複雑に変化している。その上インド神話の思想では、神々と悪魔だけではなく、人間から神になった存在や、コブラが神格化されたナーガなどの勢力が複雑に絡み合っており、それらも解釈次第で存在が異なっている。そのような状況下では、神族の解釈は複雑を極め、混乱するのも無理はないのだ。
更に日本に入ってくると、それら複雑な思想が、ただでさえ八百万の神々とも言われる多彩な日本の信仰と混ざり合うこととなった。宗教紛争を避けるために作り出された神仏混淆論(神仏習合論)が、その混乱を上塗りした。更に仏教は宗派ごとに解釈を違え、結果として神や妖怪のルーツは専門家にも分からないほどに複雑化していったのである。
火車も、そんな背景で神から妖怪化していった存在だ。あまりにも存在背景が複雑すぎたため、陽の翼の高度な技術を持ってしても、完全な原型再生は為すことが出来なかった。代わりに、能力面ではほぼ再生を果たすことが出来た。理由は簡単である。火車という「妖怪」が誕生した経緯が、あまりにも馬鹿馬鹿しく下らない物だったからだ。原型の構築は無理でも、人間社会で火車が誕生した経緯から、それに基づく能力を付加するのは容易だった。それだけの事である。
滞空を続ける火車。千々に別れた細かいエネルギーの粒子。それが火車の本体だ。空に浮かんでいるネコは砲台。熱エネルギーによる攻撃を吸収し、本体の幾らかを集中することによって操作することが出来る。当然吸収したエネルギーを発射することも可能だ。そしてこの砲台を使わずとも、本体を収束すれば熱線砲を放つことも出来る。砲台と細かい粒子、二つ合わせて火車なのだ。
敵は動きを止めているが、その結果自分が徐々に不利になっているのが分かる。あの空飛ぶ能力者は視力を武器にしており、しかも保有火力が尋常ではない。火車の本体が発見されたらひとたまりもなく焼き尽くされてしまうし、敵の視力が優れている以上、下手に動くのはまずい。そもそも現在展開している火車の能力自体が完全なカウンター型なのだ。或いは敵が、既にそれに気付いている可能性もある。
視界の隅に光が入った。地面から少しだけだした手鏡によって作り出されたもので、攻撃しろと言う合図である。捨て駒にするつもりかと一瞬思ったが、地面で盾を展開している能力者を集中砲火で仕留めるつもりだと理解する。
奴は収束熱線砲を防ぎ抜いたとはいえ、既に手負いだ。しかも、どうやら奴が司令塔であるらしいことは、火車にも分かる。ならばこの膠着状態を打開するにはもってこいだ。それに、あの空を飛ぶ能力者も、多分支援に廻るはず。隙を作ることだって出来る。火力がある分、隙を作れば脆いはずで、一気に勝機が生まれる可能性が高い。火車は勝負に出ることにした。
千々に別れていた本体を、一気に砲に収束させる。空飛ぶ能力者が気付くが、動く前に此方で攻撃を実行に移す。本体そのものをエネルギー化し、先ほど以上の威力の収束熱線砲を作り上げる。天空に煌めく破壊の雷。プラズマ化した空気が奏でる轟音と共に、敵を撃つ雷となるべく、火車は吠え猛った。
同時に、地面から四本の矢が連続して、空飛ぶ能力者へと放たれる。狙いは正確で、しかも速度は尋常ならず、迎撃しなければ即座に串刺しである。後顧の憂い無く、火車は全身火の玉と化して、地面にいる盾の能力者に突撃した。
プラズマを散らしながら、火車が突撃してくるのが桐には見えた。それはさながら、恐竜を滅ぼした彗星が今また降り注いでくるような光景。腰を抜かした飯島が装甲車にすがりついて、股間に染みを作っている。目を細めた桐は、動く左手で盾を具現化し、既に具現化している盾を二枚その裏に重ね、激突の衝撃に備えた。
空に炎の花が咲く。多分ガーディアンバードでは迎撃しきれずに、利津が火球で矢を叩き落としたのだ。利津にもいまの攻防で、火車の能力は把握視認出来たはず。後は、アースダイバー・スナイパーだが。
背後に殺気。
海面から獲物を狙うホオジロザメが飛び出すかのように、アースダイバー・スナイパーが、地面から躍り出た。死んだ魚のような目をした少女は、軽機関銃を手にしていた。桐そのものを火車の盾にして、背後から乱射を浴びせるつもりか。多分観測手が見つけているが、しかし対応が間に合わない。複雑に軌道を変えながら桐に迫る火車とタイミングを完全に合わせて、アースダイバー・スナイパーが引き金を引く。桐も盾を動かすが、軽機関銃の銃口には間に合わない。流石陽の翼、絶妙な戦術だ。ただし、桐に戦術で挑もうなどとは百年早い。
二つの火球が、同時に炸裂した。
二カ所での強烈な爆圧が、広場にあった物全てを吹き飛ばした。燃え尽き掛けていた指揮車残骸は吹っ飛び、装甲車は横転しかけ、その影で震えていた飯島は五メートルも吹っ飛んで木に引っかかり、逆さにつるされていた。木ノ上で狙撃態勢を取っていたスナイパー達も或いは落ちたり或いは体勢を崩したり、観測手達も殆ど同じ状況である。辺りは猛烈な煙に覆われた。死にも近い沈黙が終わり、徐々に煙が晴れてくると同時に、惨状が明らかになってきた。
腰を落とし、二つの爆発を凌ぎきった桐が状況の確認を終えた。火車の攻撃を防ぎ抜いた三枚の盾はぼろぼろに崩れ落ち、利津の攻撃を凌いだ盾もしかり。何が起こったか分からない様子で、ゴスロリファッションに身を包んだアースダイバー・スナイパーは地面に転がっていた。
流石に桐も全ては防ぎきれず、鼓膜が嫌な音を奏で、傷ついていた右腕からは感覚が無くなりつつある。動かせない。左腕もかなり状況は悪い。特に中指は大きく石片に抉られ、骨が出ていた。アブソリュートディフェンスがなければ手首ごと無くなっていただろう。それでも血を無くしすぎた。少し頭がくらくらする。立ち上がるも、少しふらつく。
今の瞬間、桐は火車の攻撃と桐自身を挟んだ対角線に、最小威力の火球を利津によって叩き込んで貰ったのである。動かしていた盾は、その衝撃を防ぐ目的で、軽機関銃を防ごうとは思っていなかったのだ。
火車が単独の火力で司令塔である桐の防御を突破できないことは、今までの攻防ではっきりしていた。それならばアースダイバー・スナイパーはまず間違いなく、火力の要である利津の動きを封じた上で、桐に全力で攻撃を叩き込んでくるはず。それは息継ぎの時間を利用しての、能力ではない恐らく火器による近距離密着攻撃だろうと桐は予想していた。
しかし桐は既に片手を負傷しており、自衛官達にも其処までの瞬間的な狙撃は期待できない。手を使わなくても盾の操作はできるが、精度は落ちる。そこで少し大味な利津に、矢の迎撃と同時に火球を叩き込んで貰ったのである。利津が具現化できる火球は同時に七つ。四本の矢を迎撃しても充分におつりが来る。そして、アースダイバー・スナイパーも、まさか味方を巻き込んでまでの攻撃を、しかも自分をもそれに巻き込んで攻撃してくるとは、思っていなかったのだ。だから殆ど直撃に近い形で利津の火力を浴びることになった。
あの零香をも神子相争で翻弄し続けた、戦術の鬼。黒師院桐、本領発揮であった。
「ぐ……ううっ……」
「終わりです」
煤だらけになって地面に転がり、身動きすら出来ず、ようやくうめき声を上げたアースダイバースナイパーに、桐は容赦なく盾の一つを落とした。勿論殺す気だ。能力的に捕獲が難しいし、周囲の人間が死ぬ可能性も高い。しかし、場に必死な声が入り込み、盾を押しのけるようにして、桐との間に割り込んだ。燃えさかる粒子の集まりだが、その姿は桐が予想したとおりであった。
「やらせはせんっ!」
「やはり。 実体化に要したアーキタイプは古代の神族ではなく、火車の伝承の元となった人間でしたか」
「! う、ぬぬぬ! 貴殿は最初に屠るべきであるという、この娘の策は間違っていなかったのだな……!」
盾は押しのけられても威力を殺しきらず、半分火車を押しつぶすようにしていた。火車が苦痛と屈辱、それに怒りに顔を歪めている。あんな破壊力の術を二回連続で、しかも体を削って出したのだ。その上、桐に最初から正体を掴まれ、それが故に手の内を読まれたのだと分かればなおさらだ。周囲からわらわらと無事だった自衛官達が掛けてきて、半円状に火車とアースダイバー・スナイパーを囲んで自動小銃を向ける。
火車は袴に烏帽子を付け、いわゆる神主のような姿をしていた。ネコなどではなかった。そう、火車の伝説の元になった存在は、人間だったのである。
火車の姿によって実証された、桐の仮説はこうだ。
火葬の習慣という物は、仏教が日本に持ち込んだ。元々日本古来の神道式葬儀は土葬であり、根本的な面で仏教と異なっていた。当然、それによる摩擦も数多くあった。中には、仏教と神道で家中が対立し、葬式前に密かに遺体を盗んでしまうようなものもいたのである。場合によっては火葬場へ運ぼうとしている所を強奪する者もいただろう。当然事を起こすときは変装していただろうし、葬儀中の心理も手伝って、襲撃者が化け物に見えた者もいたのである。そこを起点とし、仏教が持ち込んだ悪神の伝承がまじわり込み、妖怪の伝説が誕生したのである。
伝承の一つに、死体を火車に盗まれる事は家中の最大の不名誉である、という物がある。これは仏教側の勢力が、神道側の勢力に死体を盗まれ葬儀をされることを防ぐために、念入りに監視を行う事を義務づけたためだ。日本全国で伝承があるのも、死体を盗むという奇怪な習性に合わせて、仏教側が勢力を強めるために、最大限の警戒をしていたためである。
仮説を桐が披露し終えると、火車はそれを否定しなかった。
「……こんな所ですか?」
「如何にも! 我は異国の教えから我が国を守ると称し、実際は自らの名誉と体面のために愚行に手を染めた人間共の、思惑の結実である! 故に我は憎む! 我をこのような醜き怪物にした、人間共の愚行を!」
「ば、ばけものめっ! くたばれえええっ!」
圧迫的な火車の声に畏怖した自衛官の一人が引き金を引くと、それに合わせて皆銃を乱射し、火車に浴びせかけた。火車は粒子の密度を高くし、体中から鮮血のように赤を吹き出しながら、必死に後ろのアースダイバー・スナイパーを守る。桐は目を細め、事態の推移を見守った。さりげなく盾の一つを移動し、いざというときに備えながら。上空で旋回している利津からメール。ネコが消えたという。大ダメージを受けている火車が、そんな事をする理由と言えば……。
「まずい、逃げなさい!」
「へ?」
「へじゃない! 待避、待避ッ!」
「させるかああああっ! しねえええええええええええええっ!」
落ちるようにして、アースダイバー・スナイパーが地面に潜り込んだ。同時に、火車が絶叫しながら、自爆した。
倒木を押しのけて、桐が立ち上がる。意識が飛びそうだが、アブソリュートディフェンスによる緩和と、いざというときに備えて動かしていた盾のお陰で、何とか命に別状はない。
周囲を見回す。敵影、気配、共に無し。倒木を背にへたり込む。救護班が既に到着して、利津と一緒に怪我人の収容に当たっていた。装甲車は何とか無事だったが、車体上部にある砲塔は吹き飛んで影も形もない。飯島二尉は元気なようで、救急車に運び込まれながら痛い痛いとわめき散らしていた。
此方に気付いた利津が駆け寄ってきた。彼女は殆ど傷一つ無い。だがかなり力を消費している様子で、額には薄く汗が浮いていた。
「大丈夫ですの?」
「どうにか。 ちょっと、もう身動きできませんけど」
腰を落として、回復術を使い始める彼女に、自分でも回復術を用意しながら桐は聞く。
「被害は?」
「死者二、重傷十、軽傷十八。 この小隊は壊滅ですわ」
「……そう、ですか。 私は自分で出来ますから、他の人の手当をお願いします」
頷くと、利津はぱたぱた駆けていった。あるていど傷を治さないと、思考がまともに働いてくれない。今だからこそ、思考をクリアにしておかねばならないのだ。死なせてしまった者達のためにも。
桐とアースダイバー・スナイパーはほとんど相討ちになる形で負傷したが、利津は殆ど無傷である。これは戦略上大きな利点だ。彼女をどうにかして活用して、敵の作戦遂行をくい止めて貰わなければならない。利津もそれは分かっているはずだ。さて、どうしたものか。情報を集めた後、二人で協議しなければならないが。鈍痛の中、どうにか其処まで思考を進めた桐の携帯が鳴った。
零香からであった。
3,武蔵野の戦い
武蔵野は東京都とS県に跨る広大なローム地帯で、豊かな原野に恵まれ、かっては広大な農業生産地としても栄えた。皇居が此処にあるだけではなく、他に重要な施設も多数あり、それでいながら豊富な自然も保たれている。まさにこの国にとって宝のように貴重な地域である。
その一角で、今死闘が行われていた。政府側の能力者四人が護衛に付いている研究チームに、実体化まがつ神六体と、陽の翼の能力者一人が急襲を掛けてきたのである。少し離れた大ホールでコンサートを行っていた輝山由紀に救援要請が飛んだのは当然の話で、由紀はアンコールを急用があると言って切り上げて、残念そうにしている四万を超えるファン達を後に残し、戦場に急行したのである。こっちは後でアンコールをもう一回やって上げるとか、埋め合わせをすれば済む。しかし戦場では一分の遅れが大量の死者を生産することもままあるのだ。
何しろ場所は武蔵野。都心にも近く、重要な施設が近くに山ほどある。政府側も追加で何名か能力者を派遣し、自衛隊にも出動を要請すると言ってきていた。陸上戦力はともかく、戦闘機や攻撃ヘリなら能力者にも対応しうる。後は戦況を見ること、なのだが。
既に神衣を具現化している由紀は、全速力で急いでいた。嫌な予感がする。淳子と零香に携帯を入れると案の定であった。同時多発攻撃だ。東堂氏から連絡。他にも何カ所かで攻撃があり、そちらは政府側の能力者を総力で招集して対策に当たるという。東堂氏も出るようだ。ちょっとその戦いは見てみたい。
森の中、木々を縫って走る。それほど深い森ではないが、由紀の戦闘タイプとは物凄く相性が悪い地形だ。
戦場が近づいてくるにつれて、状況が良くないことが分かる。空を飛ぶ実体化まがつ神が一方的にマシンガンのような攻撃を浴びせていて、殆ど移動していない。戦闘はまだ続行中だが、殆ど勝負は付いているような印象だ。或いは長引かせて、各個撃破のために後続を誘っている可能性もある。即座に詠唱開始。距離を詰めながら発動。具現化させた双剣に運動エネルギーを集中、撃ち放つ。
運動エネルギーを全て双剣に譲渡した結果、瞬間的に由紀はストップし、時速数百キロで空飛ぶ実体化まがつ神に襲いかかるキネティックランサーの軌跡を見送る。二秒後、直撃。実体化まがつ神は回避行動も取れずに、ザクロのように弾けて消滅した。
さて、問題は残りの敵がどれほどか、だ。敵は数で攻めてきていることが分かっているし、それに一度交戦した黒人の陽気な青年もいるらしい。あいつはかなり厄介だ。携帯をプッシュし、現場で戦っていた能力者を呼び出す。四回目のコールで、奴は出た。それなりの実績と能力を持つ、ベテランの能力者だ。
「こ、こちら草月……」
「こちらマキちゃん。 戦況は、どんなですかぁ?」
「ぐっ……早く……救援を。 も、もうそう長くは……支えきれない……」
悲鳴が聞こえた。甲高い奇声もである。あの青年、何でも切り裂く光の鞭を振るって、やりたい放題に暴れているらしい。最初に戦ったときには随分苦労したが、これ以上好きにはさせない。携帯を荒々しく切ると、戦場へ急行。状況が見えてきた。
戦場は森の中、少し開けた場所である。ただ平地というわけではなく、斬り倒された木が散在していて、小川らしいものもある。踏みにじられていたが。
敵、実体化まがつ神四体が健在。二体は人間型で、一体は馬に近い形で背中に鰭があり、一体は蛇に近いが背中に一対の翼がある。人間型はどちらも巨大な武器を縦横に振り回し、残り二体は見事な連携を見せていた。更に黒人の能力者は無傷で、必死に追いすがっているこちら側の能力者を軽々あしらっている。
こちら側の能力者は一人が粉砕された木々の中に半分埋まっていて意識が無く、一人が必死に黒人の能力者と戦っている。近距離戦闘強化型の能力者で、何度か顔を合わせたことがある。三十代の男性で、槍の名手であるのだが、零香に比べると一段劣る。あの黒人の能力者の相手は辛いだろう。残り二人も満身創痍で、猛攻を掛ける実体化まがつ神四体にどうにか抗戦している状態だ。一人はさっき電話した草月氏。五十代の拠点防衛型で、長い白い髭が目立つ痩躯の男性だ。三節棍という可変式の棒の使い手だ。もう一人は双子の能力者で、由紀より三歳若い。こっちは十手に似た武器であるサイを使う高速機動型だが、まだまだ発展途上。ちなみに双子の片割れは、瓦礫に埋まって伸びている。後は研究チームが逃げ延びることが出来たかだが、幸い周囲に死体はない。
猶予は無い。戦場に飛び込み、今倒れている味方能力者に、グレートアックスを振り上げた人型実体化まがつ神の懐に飛び込む。西洋の実体化まがつ神だろう。顔を歪める其奴の頸動脈と二の腕を切り裂きつつ後ろに抜け、更にバックステップして、背中を合わせるように肩胛骨の下部に双剣を差し入れた。貫通した双剣が大量の鮮血をぶちまける。突き刺さったそれを離し、奇声を上げながら突進してきた馬の蹴りを捌きつつ、負傷癒えない二人から遠ざける。蛇も鎌首もたげて、由紀に躍りかかってきた。由紀に気付いた黒人の能力者が、心底楽しそうにわめいた。
「HEY! いつぞやのサムライガール! 俺と遊ぼうぜえっ!」
「お断りですぅ!」
我ながら迂遠なキャラだと思いながら、由紀はかぶりついてくる馬に対処する。馬だというのに、物凄い牙が生えていて、肉食動物のようだ。体も青緑と妙な配色で、足指には水かきも付いている。電光石火の一撃だったが、由紀の方が速い。至近まで引きつけかわして、首筋に一撃を与え、水車のように廻って襲ってくる蹴りを真横に飛んでかわしつつ、胴に更に一撃を入れ、連携して後ろに回り込み尻尾を叩き付けてきた蛇の一撃から跳躍して逃れる。残像を切り裂いた蛇の尻尾には棘が一杯生えていて、間違っても喰らいたくない。一瞬由紀を見失った二体に、黒人の能力者が叱責した。
「アハ・イシュケ! ウィルム! そいつは手強いぜ! 油断するなヨ!」
「分かってる! しかしすばしっこい娘ッ子だね!」
歯を向いて、アハ・イシュケと呼ばれた馬が睨み付けてくる。相当肌が硬いらしく、首にも胴にも傷が薄く走っているだけだった。由紀は力がない分敵の隙間を斬る技術を磨き抜いてきたが、その絶倫なる剣腕をもってしてでも、である。木々の間を飛び回りながら、由紀は二体を引きつける。どちらもかなり速く、自衛隊の陸上戦闘部隊くらいでは太刀打ちできないだろう。戦闘ヘリのミサイルくらいなら動きを追いきれるだろうが。
ちらりと視線をやると、草月氏とひよっこちゃんは、残った一体の人型実体化まがつ神に対して攻勢に出ていた。後は槍使いのおじさんだが、どうにか猛攻を凌いでいるのが精一杯で、速く救援に駆けつけてやらないとまずい。傍目から見てもレベルが違いすぎる。走りながら由紀は詠唱を続ける。
「しゃあああああああああっ!」
追いすがってきていたアハ・イシュケが、奇怪な声を上げた。反射的に身を庇った由紀は、数メートル吹き飛ばされ、双剣を一つ手放してしまい、木に叩き付けられた。音波攻撃の一種らしい。そのままずり落ちようとする由紀ののど頸に、馬が殆ど音速に近い勢いでかぶりついてくる。由紀は目を閉じたまま動かない。
「もらったああああっ! 小娘、そっ首いただくぞえええええっ!」
「まずい、さがれッ!」
ウィルムの叱責は届かない。由紀の白い喉にかぶりつく寸前、アハ・イシュケの脳天に数トンに達する剣が突き刺さり、地面へと叩き落としていたのである。
途中の木の枝に危なげなく着地し、空を見上げる由紀の手に、再び双剣が具現化する。地面は数トンの物体が落下した衝撃で、ズドンと物凄い音を立てていた。それを見下ろしていたウィルムは、舌打ちしつつ、鋭い赤い目で由紀を見据える。
「質量操作か……」
「マキちゃんの、十八番ですぅ」
「お主、緩いふりをしているが、目には獣の光がある。 いや、獣と言うよりも……我らが同胞に近い」
滞空していたウィルムが大きく翼を広げた。その姿、その威圧感、これではまるで……。
由紀は思いだした。西洋でも龍は蛇よりその形を為したと言うことを。善悪は洋の東西にて違うが、あの姿は蛇神そのものだ。即ち奴は龍が一種。
この間零香と桐が真由美も併せて龍族と戦ったと言うが、こちらも同じ状況になったわけだ。元々悪魔の顕現として逆の意味での信仰を集めた龍族は、実体化まがつ神になると並のそれとは比較にならない戦闘能力を発揮することになる。奴もそうだとなると、まずい。速攻で仕留めるという訳にはいかなくなる。
「先ほどの対空攻撃、お主の技だな。 小鳥を装っても鷹は鷹。 我が目をごまかすことはかなわぬ。 これより全力でいかせてもらうぞ」
『ちっ……。 どうやら此方も手を抜いている余裕は無くなったようだね』
間髪入れずに、頭上から無数の針が降ってきた。一つ一つが二十センチ近くもあり、それぞれが木の枝をたやすく砕き、幹に突き刺さり、葉を吹っ飛ばして弾き散らす。しかも狙いが精密無比である。コンピューター制御された近代兵器のようだ。木々の間を抜けて避ける由紀だが、敵は巧妙に行く手行く手を塞いでくる。
残った一匹の実体化まがつ神は、実力的にもそう大したことがなかったし、多分草月さんとひよっこちゃんでどうにか出来るはず。しかしその二人が加わった所で、主力である黒人の能力者はどうにも出来ないだろう。あいつはレベルが違う。このウィルムと同等か、或いはそれ以上だ。
「考え事か? 余裕だな」
「!」
携帯メールを打ち終えて気が付くと、真横に奴が来ていた。木々を縫って体をくねらせ、時速二百キロ以上で飛んでいるのだ。これは、少し洒落にならない。慌てて回避にかかるが、鞭のように振られた尻尾の破壊力は先ほどの非ではなく、木を数本なぎ倒し、衝撃波だけで由紀を跳ね飛ばした。何度か木を蹴って威力を殺しながら敵から目を離さない由紀だが、奴は尻尾から無数の針を放ち、その隙に真下に潜り込み、白筋で全身が構築されている蛇らしく、とんでもない瞬発力で空を切り裂くようにかぶりついてきた。
強い!由紀は掛け値なしにそう思い、戦慄していた。今まで戦ったどの実体化まがつ神よりも速く、そして判断も鋭く、そして強い。
間一髪、髪の毛ほどの差で奴の牙を避けた由紀は木を蹴り、奴が体を恐ろしいほどに柔軟にくねらせ繰り出した第二撃をもどうにかかわす。超重量剣は多分もう通用しないし、やるならキネティックランサーを叩き込むしかない。しかしそもそも距離を稼がせてはくれないだろうし、大体此処でそれを放つのは難しい。今だって離れる隙に二回斬撃を叩き込んでやったのだが、鱗の間をを縫ったというのに傷一つ付いていない。キネティックランサーでも通用するかどうか。巨体をくねらせ、しかし殆ど音を立てず、ウィルムは木々の間を滑って接近してくる。
「恐ろしく速いが、しかし直線的だな」
「そちらこそ、余裕ですかぁ?」
「当然だ。 お主の主力技、あれはためを行わないと使えないだろう」
腹立たしいことに読まれている。しかし、戦闘経験という点では、由紀は仲間内でも随一だ。巨木を走るようにして蹴り登り、殆ど距離を置かずに付いてくるウィルムを後目に森を突き抜けて空へ跳躍。奴も翼をつぼめ、跳躍。狙い通りだ。迫る有線式のミサイルが目にはいる。
距離およそ二キロ。先ほど指定したとおりの行動だ。自衛隊が支援をよこすというのは聞いていたので、アパッチに攻撃地点を指定して置いたのだ。流石浮かぶ要塞。正確無比な攻撃である。
そのまま、ミサイルの側部を軽く蹴り、軌道修正。唖然としているウィルムの顔面に、ミサイルが直撃した。大きく仰け反る蛇竜。更にアパッチの主力兵装の一つ、大口径チェーンガンの弾丸がウィルムの全身に嵐が如く叩き込まれる。それを見届け終えることもなく、森の中に飛び込んだ由紀は地面に飛び込むようにして降り立ち、落ち葉を吹き上げ一気に加速。五秒もしないうちにウィルムが森へ飛び込んでくる。体も翼もかなり深々と傷付けているが、顔面はまだ形を残している。
「やるな! 面白い! しかし人間の使う武器も進歩したものだ! かなり痛かったぞ!」
「ちっ……」
「そう邪険にするな! 次は何をしてくる!」
そういいつつも、奴は低高度を保ったまま、尻尾の針を連射してきた。世界最強をうたわれる攻撃機A10サンダーボルトに追尾されている気分である。アパッチも流石に追い切れないだろう。何しろ森の中を時速二百キロ以上で飛ぶ常識外の化け物だ。奴は由紀の動きを見切り始めていて、何度も針が腕や足を掠めた。肩を掠めた一撃が、頬に派手に返り血をぶちまける。仕事柄顔だけは守らないといけないが、それも為せるかどうか。
巡り巡って、最初の広場に飛び出る。ちらりと横目で戦況を確認。
黒人の能力者は、二人相手に押し気味に戦っていた。ひよっこちゃんは地面に転がっていて身動き一つ出来ない様子で、草月さんと最初に戦っていたおじさんが必死に食らいついている。実体化まがつ神は既に倒されていた。戦況は徐々に悪くなりつつある、といった所だ。どうにかして、十秒でいいから時間を稼がないと。携帯にメールを入れる。移動経路を予想し、其処にチェーンガンをぶち込んで貰って、ウィルムの足を止めるのだ。
と、その時。ウィルムの気配が不意に途絶えた。龍族と言えば、切り札は決まっている。ジグザグに最高速度で走り、そしてある一点で横っ飛び。
間髪入れず、森の中を、一直線に超高熱のエネルギー塊が通り抜けた。
森が吹っ飛び、燃え上がる。これは市街地からも見えているだろう。政府側がどんな風に情報を隠蔽するのが楽しみだが、由紀としてはそれどころではない。第一これを市街地に叩き込まれたらどうなるか。
更に、もう一発。直線的に、長さにしておよそ四百メートル、幅にして八メートル、森が消えて無くなる。衝撃波が由紀を吹き飛ばし、地面に強か叩き付けた。血を吐き捨てながら、由紀は立ち上がる。目が霞む。体中痛い。
アパッチの爆音が旋回している。今の破壊力を見て回避行動に入ったか。まあ無理もない話である。詠唱開始。そのまま森の中を走り抜け、第三射を用意しているウィルムへと。
「むうっ!?」
森の上部に滞空している奴は驚く。ジグザグに由紀が走りながら、突進してくるからだ。零香にこれは通じなかったが、こいつならどうか。そのまま最高速度に達した由紀は、翼をすぼめて迎撃態勢に入ったウィルムの正面へ。無数に打ち出される棘に体の彼方此方を傷付けられながら、黄龍の神子は絶叫した。
「いいいいいいっっ、けえええええええええええええええっ!」
ベンドランサー改。複雑な軌道を通っても運動エネルギーを蓄積し、剣に収束して放つことが出来る、由紀の切り札の一つだ。性能はベンドランサーと比較にならないが、その分使う力も桁違いに多く、神子相争では実用に適さない。チェーンガンの猛射で傷ついていたウィルムの口中に、打ち出された剣が突き刺さり、複雑に体を傷付けた挙げ句背中へと貫通した。地面に降り立った由紀は、光になって消えていくウィルムの賞賛を聞いた。
「見事だ……龍の戦士よ……」
「あんたもだ。 流石……龍の一族だね」
「くくっ……覚えておくがいい……陽の翼にいる龍の中で……我はむしろ弱い方である事実を……! 気をつけよ……特に……アジ=ダハーカ……には……!」
ウィルムの気配、消滅。しかし、由紀も深刻な打撃を受け、片膝を付いたまま、しばし立ち上がれなかった。これほどの消耗を強いられるとは。しかもウィルムの吐いた言葉、正直洒落になっていない。北欧神話に登場する強大な悪龍ファーフニールが奴らと共に現れたという話は聞いていたが、そのレベルの龍族が、陽の翼の使役下にゴロゴロいるというのか。まさか、奴らがヨーロッパや中東に出現した理由というのは。
戦慄している暇はない。まだ敵は残っている。しかも一番厄介な奴が。
顔に飛んだ返り血を手の甲で拭いながら、由紀は戦場へ走る。上空でアパッチのロータリー音がする。別の音も。とっさに双剣の一つを投げつけて、更に地面に転がるようにして避けなければ、首を飛ばされている所だった。円盤状の光の固まりが、由紀がいたあたりをなぎ払い、木を数本切り倒していった。紙のように抵抗無く。恐るべき切れ味だ。
倒れたままでいるわけにも行かない。地面を叩くようにして体を跳ね上げ、木の幹を二度蹴って鋭角に木の枝に駆け上がり、リズムを取りながら此方に歩いてくる、殆ど無傷な黒人の能力者を見やる。既に息は上がり始めている。
「流石だ、サムライガール。 今のをかわすかヨ」
「ガールじゃありませんー。 マキちゃんは、アイドルですぅ」
「OH! OKOK、今からユーは俺の中ではサムライアイドルだ。 で、サムライアイドル、相当疲弊しているヨうだが……それでも本性は見せてくれねえか。 流石だな」
黒人の両手から、光の鞭が二筋伸びる。以前戦ったときにも見たが、触る物全てを切り裂く不思議な術だ。斬っているときの抵抗がほとんど無いことから、多分物理的な斬撃ではないのだとは分かる。多分桐の盾でもひとたまりもあるまい。
「ウィルムを倒しやがるとは、流石だな。 ……名前、聞かせてくれるか? マキってのは芸名なんだろ? 俺はキヴァラ。 もう知ってるだろうが、陽の翼の五翼が一人だ」
「由紀」
「ユキか。 短くていいな。 サムライアイドル・ユキ、ちと本気で行かせて貰うぜ」
此奴は根っからの戦闘狂だ。由紀はキヴァラの喋り方を見て確信した。奴の全身からは、まるでチェーンソーの刃のような殺気が迸っている。由紀も実は面白そうな戦いだとは思うが、その前にやっておくことがあった。
「その前に聞かせて貰いたいんですけどぉ。 貴方達は、一体なんで見ず知らずのこの国でぇ、こんな事を繰り返してるんですかぁ?」
「? もう察しているとは思っていたがな。 俺達もこの国には恨みがないが、ここでしか調達できないもんがあってな。 悪いと思ってるから、出来るだけ市街地では暴れなかったし、一般人だって巻き込まなかっただろ? 今だって、その気になれば出来るのに、敢えてテンノーの宮殿には手も出してねえだろヨ」
確かにその辺り、そう言う意味では陽の翼は立派だった。彼らは無差別に市民を巻き込むような下劣な戦い方はしなかった。巻き込まれた不幸な人々はいたし、人間以外の、例えばコロポックルなどの妖精種の被害は甚大だったが、日本政府側が全力で反撃に出ず、一部の自衛隊と保有している能力者に対処を任せたのも、その辺が理由であった。
「それでぇ、集めた力でー、核兵器に代わる物でも作ろうって腹ですかぁ?」
「緩いふりしてるが頭は切れるじゃねえか。 まあ、応える権限は貰ってねえし、自分で考えな。 さあて、そろそろ行くぜ? さっきの二人ヨりは楽しませてくれヨ!」
由紀が飛び離れると同時に、キヴァラが両手を複雑に動かし、木がみじん切りになった。剣を投げつけながら木々を飛び渡ってさがるが、投げつけた剣は瞬時に粉々にされ、円盤カッターが連続して飛んでくる。さっきと同じく、全く遮蔽物を苦にせず、しかも楕円軌道を描いて飛んでくるそれは、由紀の巧妙な避け方にもかかわらず至近を連続で掠め去った。
木を駆け下り、落ち葉を巻き上げ着地。そのまま突撃、至近まで間を詰め剣を振るう。しかし剣は半ばから弾かれ、舞いながら地面に突き刺さる。由紀の太股から鮮血が吹き出す。同時にキヴァラの脇腹からも鮮血が吹きだした。一瞬の交錯で、由紀の剣は光の鞭に斬り飛ばされるも、脇腹を抉り去っていたのだ。振り返りざま、キヴァラが円盤を飛ばしてくる。肩当てを深く切り裂かれ、更に頸動脈の少し上の首を浅く切り裂かれる。同時に投げつけた双剣が、キヴァラの左二の腕に柄まで突き刺さっていた。
「GOOD! SO COOL!」
興奮したキヴァラが叫ぶ。奴の全身を物凄い量の光が覆っていく。まずい。あの光が、攻防共に活用できることは容易に想像が出来る。事実奴が腕から引き抜いた双剣が砕け、溶けるように消えていく。腰を低く落としたキヴァラが、三十メートルほど瞬間的に後退した由紀に対し、突撃を開始。間に木があるがお構いなし。触った部分から木が吹っ飛んでいく。動きが鈍っている由紀は目を閉じると、両手を左右に広げ、全身の神経を一点に集中した。
「HAHAHAHAHAHAHAHAHAHAHAAAAAAAAA!」
剛腕一閃。太い腕に光を纏わせ、キヴァラが一閃させた。同時に由紀も目を開け、前に躍り出る。二度目の交錯。死にも似た沈黙。
由紀の脇腹の鎧が大きく吹っ飛び、鮮血が吹きだした。皮膚が大きく破れ、肋骨が一部で露出した。たまらず、流石の由紀も落ち葉の地面に倒れ込む。だが同時に、脇腹から背中にかけて大きく切り裂かれたキヴァラも、鮮血を天へと高く吹き上げながら絶叫していた。
「GAAAAAAAAAAAっ! く、くそっ、ちきしょうッ! いてえええええええええっ!」
逃れようと由紀は手を必死に動かすが、体が動かない。視界もおかしくて、ぐらぐらと揺れるばかりだ。キヴァラのがなり声と、羽音が聞こえる。大きな鳥の羽音だ。
「ヴィゾフニル! てめえ、何のつもりだ! 離せ、離せえええっ!」
「損害を出しすぎです。 陽動作戦で死ぬつもりですか!」
「ヤかましいっ! まだあのサムライアイドルを切り刻んでねえ! 殺してねえっ!」
わめき声が遠ざかっていく。必死に剣を握りしめて意識を保ちながら、由紀は救護が来るのを待つ。大丈夫、この程度の傷なら死なない。神子相争で何度も経験したから分かる。死なない、死なない、だから、もう少し我慢するんだ。
「か、帰ったら、新しいお茶碗……」
意識が飛んだ。後には暗い闇が訪れた。
4,古都にて
各所での戦闘経過が、青山淳子の元には逐一届いていた。桐は負傷して回復に専念しており、利津は体力を回復しながら東京に向かっている。由紀は武蔵野の戦闘で、敵能力者を撃退するも意識不明の重傷。酷い怪我だが、どうにか命に別状はないそうだ。最初は意識不明とだけ伝えられていたので、淳子としても気が気ではなかった。かって散々殺し合った仲だというのに、不思議な物である。向こうには回復系の能力者も急行しているそうだし、上手くいけば傷も残らないだろう。暫くは療養が必要だが。
陽の翼は今まで二度京都に出現した。京都と言えば、何度も大規模な戦いの舞台になり、腐敗した政治の餌食となり、人々の怨嗟を散々溜め込んできた魔の都だ。飢饉の度に多くの死者が出、その悲惨さは数々の文学の題材にもなり、現在まで伝わっている。負の力はさぞ大量に摂取できたことであろう。一度は軽く日本側の能力者と陽の翼の能力者が交戦しているが、どっちも死者はだしていない。そして今回である。
今回姿を見せたのは件のジェロウル。陽の翼の中で、最も活発に活動している男だ。彼は何体かの実体化まがつ神を連れている。どれもそれほど大きな力は感じないが、能力者同様とんでもない特殊能力を備えていることが多く、油断は出来ない。
戦闘開始よりおよそ三時間。風光明媚な京都であるというのに、それを楽しむ余裕など無い。
淳子は今、清水寺から調査チームを護衛しつつ、人混みに紛れて市街地を離れている所である。空を飛び回っている実体化まがつ神の警戒網から外れた一瞬を見計らってのことだ。ジェロウルは音から察する限り、今は動いていない。どうにか着替えを済ませ、一般人に偽装させた調査チームは七人。もう少し行けば、自衛隊の特殊部隊が車を用意して待っている。問題は淳子だ。
接近するジェロウルに先駆けて、三体の実体化まがつ神の強襲があった。奇襲を受けたときに、得意の隠密戦ができなかったという理由もある。戦闘能力のない調査チームを守るのには、他に方法がなかったという理由もある。
淳子自身も負傷した。
脇腹に一撃、かなり深いのを貰ってしまっている。仕掛けてきた三体は潰したが、敵には確認しているだけで三体の後続がいる。しかもジェロウルは獣以上の勘で、此方を探しに掛かっている。状況は極めて悪い。
私服のままの淳子は、脇腹を押さえたまま、傷だらけのチームの少し後ろから付いて行っていた。調査チームに加わっていた何処かの大学教授らしい女性が、心底悲しそうにちらちらと此方を見てくる。庇って怪我したことを未だに気に病んでいるらしい。護衛なのだから仕方がないのだと、何度も言って聞かせたのだが。
やがて、目的地に着いた。自衛隊の特殊部隊が警戒する中、負傷している調査チームは収容され、一目散に京都を後にした。能力者の増援もよこすと言っていたが、どっちにしても、これから淳子がやることは一つだ。ジェロウルと、実体化まがつ神共を郊外へと引きずり出す。連中は普段こそ一般人を巻き込まないが、必要とあれば幾らでも巻き込む。状況から考えて、多分、連中の狙いは日本の能力者そのものだ。つまり、淳子にある程度の打撃を与えるまでは、何処までも追ってくるつもりだろう。破壊規模が大きいジェロウルの戦闘スタイルから言って、市中で戦端を開くわけには行かない。数百人単位で死人が出る。
京都郊外には森林地帯も多いし、人が入らない古刹もある。問題は連中が乗ってくるか、だが。人質でもとって立てこもってくれるようなら却って有り難い。時間は稼げるし、動きも読みやすいからだ。今日は休日という点では条件が悪い。一般人の数がいつもより遙かに多い。
適当な古寺を発見、中に入り込んで神衣を発動。周囲に人はいない。あまり有名な寺ではないらしく、管理が悪く、蜘蛛の巣が隅っこに張っている。荒れ寺と言うほど酷くはないが、拠点の一つとしては丁度いい。光学ステルスを起動して外に這い出す。敵の足が止まった。淳子の気配が途端に薄くなったことに気付いたのであろう。
ただし、停止は一瞬。ジェロウルは止まったままだが、すぐに実体化まがつ神が動き出す。罠を張りながら、周囲を調べていく。寺の裏手には広大な森林があり、戦闘にはもってこいの地形だ。
敵の一体を確認。予想以上に動きが速いし、大したことがないと言っても先鋒の三体に比べると桁違いに気配が強い。蠍によく似た実体化まがつ神で、寺の屋根を器用に足を動かしてはい回り、周囲を警戒しつつ淳子が神衣を展開した寺に近づいている。非常に鋏が大きく、全長はおよそ五メートル。人間など一撃で両断出来るだろう。気配を消したまま、距離を取る。森の上部では既にもう一体が旋回を開始している。少し遠いが、羽音からして鷲に似ている。これも翼の音からして、翼長七メートルはあるだろう。更にもう一体が淳子の気配探知圏内に入り込んできた。裏路地を高速で進んでくる其奴は、無数の足を持つ長細い生き物、百足に良く似ている。これは細長く、体長十メートルを超えている。
流石というか何というか、敵も戦い慣れている。匂いを残すようなヘマはしていないが、それでも淳子が神衣を展開した位置から、交戦予定地点に殆ど迷わず、しかも人間の目に触れることなく到達している。
そして、満を持してジェロウルが動き出した。かなり速い。淳子は脇腹を押さえながら、山肌に絨毯のように広がる森の中へ入り込む。二次戦闘開始である。
ジェロウルは敵が、ジュンコと呼ばれるスナイパーが、森に自分たちを誘い込むつもりだという事を悟っていた。その上で行動を開始していたが、この程度のことは別に伝えるほどのことでもなく、自然に実体化まがつ神達は理解し、各々適宜に動いて包囲陣を完成させていった。
ジェロウルは森に堂々と入り込むと、気配を完全に消した。ジェロウルの気配消去技術は陽の翼随一であり、奇襲と隠密侵入にかけて彼の右に出る者は存在しない。ナージャヤは能力が隠密狙撃型なだけであって、技術に関してはジェロウルがトップだ。森の動物たちは到って静かである。誰も恐るべき存在には気付いていないのだ。冬の枯れ果てた森の中、静かに進むジェロウルは、その場にいても殆どの人間が知覚できないほどに、気配を発していなかった。
敵が散々トラップを配置しているのは承知の上である。そのため、より頑丈な実体化まがつ神達を先に行かせた。敵が可変系のスナイパーであることは既に調べ済みである。非常に多彩な攻撃能力を持っており、ナージャヤも随分苦しめられたそうだ。歩きながら、周囲を見回すが、それほど広大な森ではない。この国は街も森も基本的に密度が高い。狭い国土に適応した結果なのだろう。狭いとは言え、ジェロウルの気配探知圏内はカバーしきれないし、それに冬でも活動している小動物が多い。少し気配探知にはコツがいりそうだった。
実体化まがつ神達は、綺麗に三角形のフォーメーションを組んだまま、ジェロウルと等距離を置いて進んでいる。効率よく敵を探し、攻撃を受けた場合も隊全体が致命傷を避けるための態勢である。今のところ、半径二キロ以内に人間はおらず、邪魔が入る可能性はないが、しかし連中は増援を出してくる可能性がある。軍隊なら問題はないが、能力者が出てくると邪魔である。
もっとも、この国の能力者は、今頃他のチームに掛かりっきりで、手を出してくる余裕はないだろうが。用心はするに越したことはない。油断して死んだ同胞は数え切れないほどなのだから。
落ち葉が深くなってきた。空を見上げると、木々の間に葉がほとんど無く、空がよく見える。何も知らない鳶が旋回していた。ジェロウルが目を細めた瞬間であった。
空が煌めき、四本の矢が同時に降り注いできた。そしてジェロウルが回避行動を取ると同時に炸裂、吹き飛ばしたのである。
二本直撃、一本はクリーンヒット。光学ステルス機能が強制解除され、気配を消したまま移動している淳子は、冷静に現在の戦果を分析していた。時間差攻撃矢と通常の矢を併せて撃ち放ち、鳥とジェロウルにはスプレッド弾を、百足と蠍には貫通弾をお見舞いしてやったのだが、鳥は想定外の速さでスプレッド弾を全弾回避、ジェロウルに到っては具現化させた何か、多分話に聞く大トマホークではじき返して、何弾か掠っただけで殆ど無傷である。蠍と百足には直撃したが、しかしまだまだ動いている。四方向から攻撃してやったのだが、さてどう動くか。
脇腹の鈍痛と、それ以上に倦怠感が酷くなってきている。応急処置はしたが、しかし毒が入っていたのがまずかった。解毒は著しく体力を奪うのだ。そして体力の減少は精神力も痛烈に摩滅させる。神子相争の時も、誰もがそれで判断を誤ったことがある。早めに勝負を付けたいが、敵の力量から言って、勝負を急ぐと危険だ。勝負を急がず、速攻で敵を仕留めなければならない。
敵が動き方を変えた。百足の動きが察知できなくなる。それぞれに気配以外の消去に重点を置き始めたのだろう。多分百足は音を消すことに重点を置いて動き始めたのだ。クリーンヒットさせてやったし、一部装甲にも穴を開けてやったはずなのだが、なかなかにやるものだ。だが、しかし、まだまだダメージは稼がせて貰う。詠唱しながら、淳子は青龍の大弓を引き絞る。元々、百足は頭を潰しても一週間は動くほど生命力が強い。この程度で死ぬとは思っていない。
次の狙いは鳥だ。今の回避行動で、行動パターンは分かった。問題はジェロウルだが、奴は逆に動きを止めて、気配を消すことに終始している。あまり攻撃するチャンスはないだろう。奴の勘の鋭さは以前零香がぼやいていたことがあるほどで、下手をすると即座に間を詰められ首をはねられる。
罠を張りながら移動終了。山の斜面に伏せながら、相手の出方をうかがう。
ジェロウルが顔を上げた。敵の第二波攻撃を感じ取ったのだ。それは空飛ぶ鳥の実体化まがつ神である、アエローに対してであった。アエローはギリシャ神話のハーピーが一体であるが、邪神としての側面が強く、中世の暗黒時代に実体化まがつ神は殆ど覆滅されている。死神としての側面も殆ど原形を残していない。今陽の翼にいるアエローは、その数少ない生き残りである。
それだけに老練なのだが、三方向から飛んできたスプレッド弾には、流石のアエローも回避手段がなかった。そこで下手に避けようとせず、翼を畳み体を丸めてダメージを少なくするのに務めたのは流石である。恐らく三百を超える散弾を浴びながらも致命傷を避けた鳥の実体化まがつ神は、しかしそれでも著しいダメージを受け、甲高く一つ鳴くと、空に曲線を描きながら撤退行動に移った。既に味方は三体を失っているし、今の攻撃で敵の癖を掴むことが出来た。最初から無理をするなと言われていたこともある。
アラブの名も無き実体化まがつ神である大蠍と、日本で調達した百足の怪は、二体とも今の攻撃で音で敵が動きを察知していると判断、それぞれ音を完全に消して行動を開始。流石に古豪だ。動きが極めて的確である。ジェロウルも腰を上げると、大トマホークをぶら下げたまま、慎重に行動開始。まだ特定は出来ていないが、奴の大体の移動速度はこれで分かった。居場所の絞り込みは充分に出来た。
恐るべき勘で、それを更に絞り込み、ジェロウルは疾走する。身を低くして、落ち葉積もる森の中を、まるで狼のような勢いで。ジェロウルの考えでは、半径二百メートルにまで接近できれば居場所を察知できる。二体の手練れとジェロウルで包囲網を作り、それをせばめ、完全な勝利へと近づく。
その時であった。空をロータリー音が切り裂いたのは。
無言で足を止めたジェロウルは、それでも即座に判断した。攻撃ヘリではない。テレビ局などの報道ヘリだ。すぐにヘリは遠ざかっていった。歩兵にとって最大の敵である攻撃ヘリはジェロウルに対しても脅威である。木に張り付いていたジェロウルは、再び動き出す。その矢先であった。
大蠍に異変。音からして突然鋏が吹っ飛び、体液をまき散らしながら絶叫して後退した様子だ。それから来る飛来音。つまり、だ。奴は音速以上の速さでの矢を放てると言うことだ。大蠍は片方の鋏を失い、後退開始。ジェロウルも許可する。これは、更に慎重を期さなければならない。ジェロウルだって、ライフル弾で一斉攻撃されて、それをかわし抜く自信はない。如何に頑丈な肉体を持っているとは言え、ジェロウルは実体化まがつ神ではなく、人間なのである。
それでも、敵の居場所は更に絞り込まれる。大百足とジェロウルは今や居場所を隠さず、一直線に敵へと突進した。大百足の動きが変わる。奴の警戒範囲内に、ジュンコが引っかかったのは疑いない。殆ど間をおかず、大百足の体に数本の矢が突き刺さり、一つは傷口にクリーンヒットして、もう一つは複眼に深刻な打撃を与えた。苦悶の声を上げながら、大百足は待避行動に入る。音からそれらの状況を把握したジェロウルは口の端をつり上げる。一対一の状況になったが、これはむしろ望む所。奴の居場所は完全に掴んだ。
その首、貰った!
姿をついに視認。光学ステルスはやはり発動リスクがあるらしく、それはジェロウルの予想通り攻撃直後には展開できないようだった。奴はジェロウルを見据えたまま、木の枝の一つに立ち、大弓を構えている。真上から飛んでくる一矢をかわしながら突撃。至近で炸裂するも、トマホークを盾に、半分くらいの弾を防ぎ抜く。左半身に鋭い痛みが走るが、致命傷ではないから構わない。半壊したトマホークを捨て、新しいトマホークを作り出す。距離は三十メートルを切った。奴は動かない。この間合いなら、逃げるのが無理だと分かり切っているのだろう。わざと足を止め、構えを取り直す。さて、どう距離を詰めるか。退避行動に入ったりしてくれれば却って有り難いのだが、そう上手くはいかないだろう。
「おっちゃん、ジェロウルいう名前やったな」
「如何にも」
何の時間稼ぎだと思いながら、ジェロウルは動きを止めたまま、構えを崩さない。奴もまた構えを崩さず。しかし、ジェロウルは看破した。脇腹に傷を負っている。しかもそれによって相当疲弊している。
先手に出した一体に、強い毒を持つ者がいた。奴から調査チームを守るために、身を挺してその怪我を負ったのは間違いない。誇り高い行動で、大いに尊敬に値するが、此処は敢えて其処を突き、勝利に結びつけさせて貰う。
奴は疲弊し、精神的にも限界が近いはずだ。それなら敢えてじっくり構えて、相手の誘いに乗ることはない。少しずつ奴の矢立に矢が増えていくが、別に構わない。如何に速射でもこの距離からなら対応する自信がある。
「わざわざ誘いに乗ってくれて、ありがとな」
「我々も、出来れば無辜の民を傷付けたくはないと考えている。 あくまで我らの利己的な目的で動いているとしても、な。 必要があれば、幾らでも傷付けることは仕方が無いとも考えているが」
「それで抑止兵器か」
「! ……鋭い奴らだとは思っていたが、流石だな」
賞賛は浮かんできても、不快ではない。わざわざ口に出すと言うことは、此奴の仲間は皆知っていることであろうし。ここでむきになって否定したり、口封じに此奴を殺しても益無きことだ。ただし、計画は急がないといけないだろう。太陽神からの撤退命令である以上従うが、今後の展開がより厳しくなるのは容易に想像できる。
「一つ、聞いておきたい事があるんや。 ええか?」
「事柄次第だ」
「抑止兵器化した術を操るなら、デモンストレーションが必要になるやろ。 それも、十中八九大量虐殺が。 ほんまに脅しだけやなくて、実行するつもりなんか?」
「太陽神次第だ」
奴が眉をひそめた。構えは微動だにしないが。
「うちはポリシーで相手を否定する気はさらさらないし、それ自体は別に何の文句もあらへん。 でもな、そろばん勘定は無視して欲しくないんや。 例えば、仮にそれが上手くいくとして、や。 独立国家なんかつくって、あんたらだけでやっていけるって、ほんまに思うてるんか?」
「……」
「的はずれなことを言うな、て顔やな。 ならええ。 それだけ分かっただけでも、うちとしては充分や」
ジェロウルは判断しかねていた。此奴らがどれだけ掴んでいるのか。今言った言葉のどれだけが想像から来ているのか、或いは今当てずっぽうで言ってみて、単純に反応を見ているのか。
それに、この会話の意味も分からない。今までの能力を見る限り、此奴にこれ以上の切り札があるとも思えない。後は近づき、最後の抵抗を排除して首をはねるだけだ。仮に爆発物の類をセットしていたとしても、ジェロウルの優位は揺るがない。殺気が全身から迸る。奴も既に言葉を止めていた。
矢を放つのは、奴の方が早かった。音速を超える矢だ。しかし、動きを見ている以上、対応は出来た。トマホークではじき返すようにして突撃。更に第二矢をつがえるのを見ながら、トマホークを振り上げる。その時、奴が予想外の行動に出た。
木の枝から、軽く後ろに飛び降りたのだ。既に枝に向けて跳躍していたジェロウルは、眉をひそめながらトマホークを投擲。奴の第二矢が、それをはじき飛ばす。木の枝を蹴り、弾かれたトマホークをキャッチ、最後の五メートルを詰めるジェロウルは、奴が最後の一矢をつがえるのをみた。
いや、最後の一矢では無かった。
「ぐうっ!」
背中に灼熱。第一矢が曲がり曲がって突き刺さったのだととっさに判断する。軌道変更を行うことは知っていたが、まさか弾かれる角度、更にはジェロウルの動きまで計算していたのか。続けて第二矢がトマホークを持つ右手に後ろから突き刺さる。そして奴が、満を持して第三矢を放ち、そしてジェロウルも渾身の一撃を見舞っていた。
自衛隊の輸送ヘリが現場に駆けつけたときには、大木を背に、淳子が腹に回復術を使っている所であった。大木には凄まじい斬撃の跡が残っており、ほんの僅かにそれが外れただけで淳子は死んでいたことが良く分かる。横一文字に切り裂かれた腹は当初内臓が露出していたのだが、今はどうにか命に別状がない所まで回復させることに成功している。しかし、もう一歩も動けない。体力の損耗が酷すぎる。
駆け寄ってきた自衛隊員が必死に間抜けなことを言う。
「大丈夫ですか! 意識はありますか!」
「無事に見えるか、阿呆。 ちょっと、流石に……疲れたわ」
辺りには血痕が点々としている。とくに淳子の足下は酷い。血液型を告げて、輸血を頼むと、淳子は目を閉じた。精神力が限界近い。
担架が降ろされ、淳子が乗せられる。武装した自衛隊員達が辺りを警戒するが、もうジェロウルはいない。殆ど相討ちになったのを悟った瞬間、余力がある内にと撤退していったのだ。
最後、わざわざ枝から飛び降りたのは、ジェロウルを矢の軌道上に誘導するためだ。奴ほどの使い手が、この状況下で淳子がそこまで計算しているとは判断できなかったのは、ダメージが大きいことを見せてやっていたことが要因としてある。奴の判断は的確であり、故に間違った。一流の使い手同士の騙しあいでは、時としてこんな珍事が発生するのだ。それにしても手強い相手だった。出来ればもう二度とタイマンはしたくない。
零香から連絡。身動きできるかという問いに、否と答える。
どうやら事態は、最終局面に向けて動いているようだった。
5,学校の戦い
雨が降る中、零香は対峙していた。古代龍の一体と。
西欧において、龍は悪魔の化身とされる。にもかかわらず人気があり、騎士達の盾の紋章となり、さまざまな物語にダークヒーローとして登場する。同じく原型が蛇であるのに、東洋の龍とは全く異なる扱いだが、しかし人気という点では正負の違いこそあれど同じだといえる。これはあくまで桐に聞いた仮説だが、古代にそれだけ強大な蛇神信仰があったのだろうともいう。闘争に破れた側の宗教の神が、悪魔とされるのはよくあることなのだ。どちらにしても、龍族は西欧において、悪魔的存在としては非常にポピュラーで人気がある。それだけに、龍族の実体化まがつ神は強大を極める。しかし、近代に到る過程で、殆どが滅ぼされたとも聞いているのだが。
学校の屋上。零香の前には、小山のような巨体を誇り、そいつがいた。顔は山猫のようで、背中には巨大な甲羅があり、足は六本。尻尾は鋭く長く、口からはちろちろと炎が漏れている。これだけ特徴的な容姿だと、桐に聞けば一発で正体を割り出すだろう。
足下では、既に交戦が始まっていた。この事態を演出した当人である、この学校の教師前田と、後から呼んだ真由美が激しく刃を交えている。視線を戻すと、少し退屈したように、巨龍は前足で顔を掻いていた。
「そろそろ、始めたいんじゃがのう、かまわんかいの」
少し零香はどういった口調で応じるか迷った。状況に応じて敬語を使うのは人として当然の判断だが、今回は必要ないと考える。相手は対等の戦闘を望んでいるし、社会的な立場も部外者に属するからだ。
「……別にいつでもいいよ。 わたしとしても、速く決着を付けたいからね」
「良い答じゃ。 儂はタラスク。 貴様は?」
「零香」
「零香、か。 聞いているぞ、ジェロウルや陽明と戦った能力者だな。 くくくくくくくくくく、ザコばかりが相手で退屈していた所じゃい。 いい暇つぶしになりそうじゃの」
かなりの自信だが、過信ではない。此奴は強い。この間戦ったファーフニールと同等か、それ以上だろう。
しかも、前のファーフニールと違い、リミッターを解除している状態だ。戦闘能力はどうにか真由美が手に負えたあの状態とは比較にならない。零香でも勝てるかどうか。いずれにしても、逃げても何処まででも追ってくるだろう。此奴は此処で仕留めなければならなかった。
戦いのきっかけは数時間前。零香が朝の巡回に出かけた頃にさかのぼる。
零香は暫く前から、教師の前田に目を付けていた。どうもきな臭い動きをしていると中月からも連絡があり、自分自身でも確認していたからだ。そして今日、朝早く中月から調査レポートが届いたのである。しかも、巡回を終え、歩いて帰宅中の零香の隣に、安司が車を止めて呼び止めてきたのだ。
「零香さん。 ちょいとお時間いいですか?」
「安司さん、いきなりどうしました」
勿論笑顔だが、零香は若干不快だった。余程の急用でもなければ、事実上の銀月家ナンバーツーであり、国家組織で言えば宰相になる零香を、呼び止めるなどと言うのは失礼に当たるからだ。
「頼まれていたものができやして。 それで、色々不可解な点があったものでして、すぐに見て欲しいと思ったんでさ」
「どれ」
「へい。 これです」
そろそろ五十に手が届こうというやくざの親玉然とした人物が、威厳があるとは言え小娘にすぎない零香に此処までへりくだった丁寧な口を利くのは一見妙だが、この街の住人達なら誰も違和感を覚えないだろう。皆知っているのだ。内紛下にあった銀月家を、父が精神的に復帰するまで支えたのが、この零香であり、今は事実上この一族をとりしきっているのも彼女だと。特に古参派の街の住人には、零香は隠然としたコネクションを持っている。いずれも小学校高学年から中学生にかけて、草虎にアドバイスを受けながら築いたものだ。
足を止めた零香がレポートをめくり、見る間に顔色が変わった。前田先生の調査レポートなのだが、確かに明らかにおかしい。
前田先生は孤児院出身。両親が事故でなくなったとかではなく、若さに任せて駆け落ち結婚した両親が、苦しい現実の生活、まだ遊びたい自分自身の身勝手なエゴなどから手に余ってコインロッカーに捨て、それを拾われたというのが孤児院に引き取られた経緯であったそうだ。呆れた話だが、個人のエゴが先行する現代、子供を可愛がらない親など珍しくもない。自分の子供をガキなどと言う人間が増えていることからもそれは良く分かる。
幸いにも前田先生が引き取られた孤児院は良心的な場所であった。責任感ある教師達の下で、前田先生は特に心に闇を抱え込むことなく成長、中学、高校と問題なく卒業して、推薦入学で入った大学で教職免許を取得。苦学を続けた結果、とうとう教師になったそうである。
しかし、それは表向きの話であった。
孤児院は確かに悪い場所ではなかったが、他はそうではなかったのである。
小学校時代から、前田先生は言語を絶する虐めに晒されていたのだ。人間など基本的に大人も子供も男も女も考えることは同じである。弱い相手は虐めたいし、違った相手は痛めつけたいのだ。そういった人間の中で、モラルが低い連中が虐めと呼ばれる行為に手を染める。そして虐めなどをやるような輩は、罪悪感など持ち合わせない。
レポートにはそのあまりにも凄惨な様が克明に記されていた。実行犯のうち何人かはこのO市に今ものうのうと住み着いている。戦いが終わり次第圧力を掛けてそいつらを追い出すことを零香は密かに決定したが、それはさておき、問題はその先である。どうやら高校生の辺りで、誰かが前田先生に資金の援助を始めたらしいのだ。そして、同時期、不意に虐めが無くなっている。この虐めが無くなった理由がどうにも掴めない。
前田先生は中堅程度の大学に入るのに充分な成績を上げていたそうだが、孤児院出身である以上資金はないし、大学へはいるのは難しい。推薦入学するには成績が足りない。しかし此処で誰かが資金を援助したため、前田先生は大学へはいることが出来た。しかもその資金は、どうもM国から来ているらしいと、レポートにはあったのだ。
「今、零香さんに迷惑を掛けているって連中も、M国の奴らだそうじゃないですか。 元々日本とあまり関係が深い国でもないし、きっと何かあると思いましてさ、失礼を承知で呼び止めさせて頂いたわけでして」
「分かりました。 有り難うございます、安司さん」
「おやすい御用でさ」
安司の車を見送ると、零香は舌打ちしていた。これで大体状況が分かったからだ。
前田先生は多分高校になってから能力に目覚めた。そしていじめっ子共を力尽くで制裁し、虐められないようになったのだろう。いじめっ子と言われるような連中は基本的に自分より弱い人間にしか暴力を振るえない。不可解なまでに強力な力でぶちのめされれば、後は怖れるばかりで何も出来ない者ばかりである。まあ、虐めが無くなった理由はそれで分かる。そして何処からか能力に目覚めたことが陽の翼に伝わり、彼らが前田先生の立身を援助したのだろう。恐らくは、将来何かの役に立ってくれることを期待して。
露骨に見返りを期待するよりも、こういったやり方の方が、後に回収できる利益は大きいことが多い。事実前田先生は、陽の翼に情報を流し続けたのだろう。今回の事件が発生してからも。ひょっとすると、日本側の能力者にも、同様の存在がまだいるかも知れない。
携帯で東堂氏を呼びだし、状況を説明。東堂氏もある程度は知っていたらしいが、国内協力者の特定は初めてだったらしく、すぐに動くと約束してくれた。零香は急いで高校へ向かい、職員室へ行こうとして、そこで気付いた。
学校中に強烈な力が満ちている。これは誰か能力者がいるのではない。強力な力の持ち主が接近し、土地の磁場が乱れているのだ。これだけ磁場が乱れるとなると、それは実体化まがつ神だろう。人間だと如何に強力な能力者でも、ここまではいかない。あの伝説となっている太陽神でもない限り。
職員室に飛び込む。教員が皆気絶し、縛り上げられていた。校長もそうだ。縄を解くが、誰も襲撃者を覚えていない。十中八九前田先生の仕業だ。凶悪犯がまだ学校にいること、警察にはもう通報したこと、速く皆を脱出させるべきであることを告げると、先生達はすぐに動いてくれた。僅かながらいた生徒達も皆速やかに脱出を済ませた。この辺りは、零香が普段から築いている影響力の賜物である。零香は先生方と脱出するふりをして、校門を閉じてから中に戻り、そして屋上に上がった。
遠くから、黒雲の固まりが近づいてくる。前田先生を見つければ一瞬で片づける事が出来る自信はあるが、零香の見たところあの人は近接戦闘強化型で、気配を消す技も上手いだろうし、奴が来るまでに見つけるのには骨が折れそうだ。だから真由美に連絡。零香が見た所、今の真由美なら前田先生をどうにか出来るだろう。だから真由美に任せてしまう。
よくしたもので、前田先生も零香の力量には気付いているらしく、近づいては来ない。多分学校の何処かで息を潜めているはずだ。それでいい。主力決戦中に、横やりを入れられたらたまらない。
東堂氏から連絡が入る。陽の翼が彼方此方で一斉に動き出したらしい。総力戦の開始というわけだ。この間戦った女剣士が、この辺で能力者がらみの事件を起こせば零香を引きずり出せると判断したのであろう。姑息だが上手いやり方だ。
そして、巨龍がやってきたのである。黒雲から稲光が走り、屋上に着弾。顔を庇っていた零香がガードを外すと、其処には既に小山のような巨体があった。飛行の術を使ってもらったのかは分からないが、着地音は意外と小さかった。タラスクが着地するのを見届けるかのように、雨が降り始めた。
零香は感慨無く巨龍を迎えた。そして今に至る。
タラスクは兎に角でかい。しかも亀をベースにしているためかがっしりしている。体高四メートル強、体長は十二メートルを超えるだろう。この間交戦したファーフニールよりもサイズ面で上回っている。重量は多分二十トンくらいはありそうだ。
間合いの取り合いは既に始まっている。このタラスク、零香の力量を正確に見切り、最初から全力で戦いに来ている。零香としても本気で行くのに異存は全くない。ただ、問題なのは、この学校が保つかと言うことだ。出来れば郊外の森まで戦場を移動したいのだが、それも難しい。出来るだけ大威力の術や技を抑えつつ、この学校が半壊する程度にまで被害を抑えるしかない。つまり、此奴と徹底したガチンコの戦いをすることになる。スマートなやり方ではないし、華麗な戦術の入る余地も少ないが、他に方法はないし、強者と技を競うのは零香としても望む所だ。
政府側に状況は伝えてあるから、多分封鎖線は敷いてくれるはず。じりじりした空気の中、十メートルほどの距離を取って、屋上でにらみ合う零香とタラスク。頭を低くして、尻尾を金網近くで揺らしているタラスクに、クローを床に擦るほど低く構えて零香が対している。下では、戦闘が激しさを増し、此処まで剣戟音が響いてくる。音だけで分かるが、どちらも上でにらみ合う二人から見ると隙が多すぎる。タラスクが苦笑した。
「ひよっこ共が元気な事よ。 のう」
「ひよっこもいずれは大人になる。 わたしだって、貴方だって、元はひよっこですしね」
「違いない。 では、行くぞっ!」
速い。巨体とも思えぬスピードで前足を振り上げたタラスクが、五本の足を高度に連携させて間合いを侵略、一撃を加えてくる。爪の一枚一枚が至近で見えるほどにまで引きつけさがると、間髪入れずに繰り出される横殴りの一撃を見る。風を抉り去りながら迫る、五本の爪を生やした巨大な腕。残像を残しながら前に出た零香は、タラスクの牙の匂いが嗅げるほどにまで接近、柔らかく跳躍、額を蹴って背に上がろうとするが、狙いを悟ったタラスクが高速後退したため横っ飛びし、金網を蹴って鋭角に着地した。
最初の一撃で、屋上全体に罅が入っている。全体にダメージを浸透させているのだ。このまま何回か屋上に打撃が入ると、恐らく学校が丸ごと崩落する。巨体であるタラスクにはあまりそれは望ましくないはずだが、さて何を考えているのか。
「狭いのう。 もっと大暴れできる所で殺りあいたい所じゃい」
相変わらずの無駄話をするタラスクだが、その理由を神衣で強化されている零香の五感が看破した。低濃度の毒ガスが場を充たしつつある。多分一種の神経毒だろう。気付かない程度の濃度から、徐々に慣れさせてあげていき、最終的には体が動かなくなっているわけだ。姑息と言うよりも、完全に全力で仕留めに来ていることが分かって、零香としては望む所だ。
詠唱完了。これでいつでもスパイラルクラッシャーが具現化できる。額を蹴った感触では、奴には自力でのスパイラルクラッシャーでは致命傷を与えられないだろう。さて、問題はどう近づくか、だが。
再び予備動作無し、いきなりタラスクが動く。あの巨体で残像さえ残しながら、三分の一秒で最大限に加速、巨大な口を開けてかぶりつきに掛かってくる。退避箇所を覆い尽くすような一撃であり、さがる余地はない。むしろ態勢を低くして前に躍り出た零香は、下あごを踏みつけ、スパイラルクラッシャーを具現化。真上から降ってくる、四十センチはあろうかという巨大な林立した牙に向け、スパイラルクラッシャーを叩き込んだ。とっさに身を退き致命傷を避けるタラスクだが、簡単には退かない。零香の足が下あごから外れると殆ど同時に、前足での一撃を繰り出したのである。
スパイラルクラッシャーを具現化し、一瞬だけ鈍った動き。間に合うのはガードだけ。強か叩き付けられた零香は、それでも僅かにさがって威力を殺し、床に、ついで金網に叩き付けられる。だが戦闘を前提に作られていない金網は根こそぎその衝撃で空中に投げ出され、零香も空に身を躍らせる。
牙を十本ほど吹き飛ばされ、上あごから大量の血をまき散らしながらも、タラスクは追撃に掛かる。せわしなく六本の足を動かし、空へはじき出された零香を追う。金網を掴んだ零香は、遠心力を利用して学校の壁に無理矢理着地、コンクリのそれにひびを入れながら蹴り上げ、学校の外壁を垂直に駆け上がり、追撃してきたタラスクの下あごに真下から頭突きを叩き込んだ。巨体が浮き上がりかけ、必死に巨龍は中足、後ろ足を動かしてバックする。
「ぐ、おおおっ!」
「ちいっ! 硬いッ!」
屋上の縁を掴み、落ちていく金網を後目に這い上がった零香は、バックしすぎたタラスクが後ろの金網を盛大に突き破って吹き飛ばし、隙を補うために火球を乱射しながら再び迫るのを見た。火球はとっさに作りだした物らしく大した威力ではなく、二個、三個と叩き付けるようにしてはじき飛ばす。だが奴の突撃はまた違う工夫を凝らしていた。今度は頭を引っ込めて、猫科の猛獣のように両前足で包み込むようにしての一撃だ。猫科の猛獣が獲物を捕らえるときの態勢である。
殆ど隙がない、逃れるのも難しいが、冷静に零香は状況を見た。僅かに左が速い。右へ逃れる、胸の寸前を巨大な爪が掠めるのを見る。上あごへの一撃と、牙を何本か吹き飛ばしたことで、奴のバランス感覚が微妙にずれているのだ。そのまま横に何度か跳躍、旋回行動に入ったタラスクの背中に上がると、左手を付く。二度目の詠唱は、既に完了している。スパイラルクラッシャー発動。
金網が殆ど外れて壊れてしまっている戦場に、閃光が迸った。直撃。甲羅に蜘蛛の巣状の罅が入るが、手応えがおかしい。旋回による猛烈な遠心力が掛かり、零香ははじき飛ばされる前に自ら甲羅より飛び降り、四度ほど罅だらけの屋上の床を蹴ってストップした。タラスクは上あごの牙を何本か失い、口からだらだら血を流していたが、特にダメージを受けた形跡もない。甲羅を通して体内には相当の打撃を加えてやったのだが、効いた様子がないと言うことは。
「やはり、この戦場で、なおかつこの姿では、お前さん相手だと相性が悪いのう。 まさか小手調べでこれほど打撃を受けるとは思いもよらんかったわ。 手を抜いていた訳ではないんだがのう」
「……アーキタイプで来るつもり?」
「くくくくくくっ、察しが良くて素晴らしいの。 では相性に併せて、形態を変えるとするか!」
徐々に強まる雨足。甲羅が開いた。巨龍の骨格の一つであるはずの甲羅が、まるでジオラマのように前後左右に展開したのである。グロテスクな中身が、さらさらと音を立てて砂のように広がっていく。思わず零香は残っている金網の上に飛び乗って退避したが、それには全然構わない様子で、形を崩したタラスクは広がっていく。否、その場を空間的に侵略していく。
学校の中に誰もいなくて幸いだった。学校そのものが、作り替えられていく。盛り上がり、或いは溶け崩れ、何か別の物へと。空が歪む。地が胎動する。砂の山に水を掛けたように、周囲の全てが変わっていく。
零香は聞いたことがあった。世界に何人も使い手がいない、最上級の能力。実体化まがつ神の中でも、最上級の連中がごくたまに扱うというレベルの代物。空間侵食。自分に戦いやすい場所に、周囲の空間をある程度塗りつぶしてしまうのだ。流石は上級の龍族。今まで零香が戦った中で、最大の力の持ち主である。
ある程度基礎が出来た状態で、地鳴りと共に盛り上がってくるものがある。木による大きな盾や、馬防柵、それに物見櫓。粗末だが、論理的に連携しきり、立ち並ぶそれらは、零香には一目瞭然であった。これは砦だ。小規模だが、恐らく守り手の数倍の敵を退けることが可能な、地形を利用し尽くした鉄壁の要塞。
その中央には、一目でこの砦の主だと分かる男が居た。
背は恐ろしく高い。二メートル近いだろう。零香の父林蔵よりほんの僅か低いだけである。埃にまみれた金髪は荒々しく伸び、肩に掛かっており、傷だらけの顔と、同じく傷だらけの鎧を覆っている。目は鷹のように鋭く、鷲鼻の下は粗野で長い髭に飾られていた。右耳は下半分が欠け、左耳は髑髏を象ったピアスをぶら下げている。鎧は鱗をかたどったスケイルメイル。右手には巨大な戦闘用の棍棒があり、無数の棘が植え込まれ、一部からは刃もはみ出している。左手には亀の甲羅をかたどった楕円形の盾。そして全身から吹きだしている、圧倒的な殺気。
この男こそ、タラスクの正体。悪龍の原型となった、実在の人間に間違いなかった。名前は多分、タラスクというのだろう。
物見櫓に半ば飲み込まれた金網から音もなく飛び降りた零香は、周囲に満ちた濃度の低い毒ガスと、それよりもこの男の圧倒的な迫力に戦慄せざるを得なかった。多分空間侵略に、真由美は巻き込まれなかったのだろう。気配は前田先生もろとも周囲にない。だが、それでいい。此奴相手に、周囲を気にして戦う余裕など、ない。
棍棒で軽く肩を叩きながら、ゆっくりタラスクは歩み寄ってくる。ダメージを受けている様子は、ほとんど無い。
「さあて、第二ラウンドと行こうかのう」
「この砦の様子からして、貴方はいわゆる盗賊?」
「そうよ。 六足の蛇龍こと、大川賊タラスク様とは儂の事じゃい。 そしてお前さんの最後の相手にして、最強の相手でもある。 冥土のみやげに覚えておけい!」
「その言葉……そっくり返してあげる」
睨み合いは一瞬。多分相手の能力は変わっておらず、サイズだけが縮んでいる。そして此処は奴が隅から隅まで知り尽くしている「自宅」だ。
再び、先手を取ったのはタラスクだった。振り上げられた棍棒に植えられた無数の突起が、禍々しく赤紫に変わっている空の光を反射し、獲物を求めているかのように輝いた。速い。やはりスピードが段違いに上がっている。
「かあああっ!」
タラスクが吠える。異界と化した砦の中、炸裂音が響き渡った。
すぐ近くで行われていた凄まじい戦いの余波に、真由美は翻弄されっぱなしであった。屋上から降ってきた金網には潰されそうになったし、学校を包んでいった妙な靄からは逃れるので精一杯であった。空気が何だか少しずつ悪くなっていたようだし、物凄い音が頭上で響き通しで、いつ学校が崩れるのか気が気ではなかった。今、校庭にあるサッカーゴールのすぐ側で、前田先生とにらみ合っている。どちらもかなり息が上がってきている。ちなみに、前田先生も逃げるのにむしろ忙しかった様子で、少し微笑ましかった。
前田先生は片鎌槍という武器を扱っていた。以前赤尾さんに稽古を付けて貰っていたとき、見たことがある。槍と鎌を足したような武器で、槍の穂先とクロスするようにして刃が付いている。変幻自在な攻撃方法を得意とする武器であり、薙刀としても槍としても棒としても斧としても使えるのだが、いかんせん扱いが極めて難しい。事実真由美は何度か振り回してみて、これは自分には使えないと素直に諦めた。薙刀の方が絶対に使いやすい。
しかし肥前守を薙刀化している真由美も、今まで付け入る隙が見いだせなかった。突こうと思えば絡め取りに来るし、振り回した隙に懐に入ろうとしても石突きが飛んでくる。しかも前田先生は体術もかなり頻繁に攻撃に混ぜてきていて、頭上からの一撃を受け止めたときなどは、間髪入れずに飛んできた膝蹴りに鳩尾を潰されそうになった。その上加速の術を持っていて、不意に動きが速くなったり、急減速を見せたりもする。身体能力は真由美が上だが、スキルは前田先生の方が遙かに高い。総合力は若干真由美が上だが、簡単には勝てそうもなかった。
不思議と、零香先生が心配ではない。学校が根こそぎ変な靄に包まれて、それきり物音一つしないというのに、である。それよりも、今はようやく前田先生との戦いに集中できる。前田先生も同じように考えたらしく、穂先を高く上げ、体を低く退き、真由美に対して決戦の構えを見せた。ライフルを使って近距離戦闘を避ける手もあるが、距離など簡単には取らせてくれないだろう。真由美は槍を短く持ち、腰に溜めて、大きく足を開いて構えを取る。突撃必殺の構えである。
つまり、勝負を受けて立つという意思表示だ。張りつめた空気が不意に弛む。今まで一言も喋らなかった前田先生が、口を利いたからだ。
「短期間で、急激に強くなっているな、高円寺は」
「! 前田先生……」
「以前ならひと揉みに仕留められただろうに……上もどうしてこんな時期に」
「上って、陽の翼って組織の事ですか?」
真由美もその組織の名は聞いた。ただし、あまり詳しくは教えて貰ってはいない。教えて貰う前に、今日という日が来てしまったからだ。数日後に、詳しく零香先生から聞く予定だったのだが。
「どういうつもりだか、聞かせてください! 私、先生と戦いたくなんてありません!」
「そのわりには容赦がない戦いぶりだったではないか。 ええ?」
「そ、それは……。 鍛えられた環境が……そうだったから」
「ふふん……まあいい。 聞きたければ力尽くで聞け。 俺に勝つことが出来たら、何でも喋ってやる。 ……そんな器用な勝ち方を許すほど、腕を鈍らせてはいないがね」
喋りながらも、前田先生は隙一つ見せない。やるしかない。加速の術を掛けている前田先生は、簡単に懐に入れてくれないだろう。下手に懐に飛び込めば、頭をたたき割られるか串刺しにされるか。だが、怖れていては何も始まらない。
真由美は知っている。どんなに耳に優しい理屈でも、どんなに心を打つ理屈でも、他人がそれに感銘するかは分からないと言う現実を。どんなに素晴らしい理論でも、誰もを救えるわけではない。精神の救い以上に、一切れのパンが欲しい人は幾らでもいる。それと同様だ。相手を理解するには、相手を尊重し、その理屈を受け入れるしかないのだ。自分に出来る限りで。そうしなければ、絶対に相互理解なんて無理だし、協調だって同じだ。耳によい言葉で精神的に相手を蹂躙し屈服させることを、協調などとは言わない。
だから、真由美は前田先生と戦う。
距離、七メートル弱。雨足が徐々に強くなりつつある。
雷が至近に落ちると同時に、真由美は仕掛けた。雨を黒い鎧で弾き散らしながら、摺り足で前に。一撃目を腹に叩き込む。柄で抑えるようにして受けつつ、前田先生は僅かに下がり、槍の穂先を回して喉を狙ってきた。今度は真由美が槍を跳ね上げる。一瞬の均衡。パワーは真由美が上だが、技術は前田先生が上だ。加速の術で強化されている身体を齣のように回転させ、均衡を外して槍をそのまま振り回し、今度は中段から真由美の腹を狙ってきた。それに対し、真由美は薙刀の術を解除、横殴りの一撃を避けずそのまま懐に飛び込んだ。
前田先生の一撃は強烈であったし、何より鎧の装甲が薄い場所を的確に狙ってきた。脇腹に鈍痛が走る。本来なら肋骨が折れ、内臓まで打撃が浸透したかも知れない。が、前田先生は超近距離戦に切り替えた真由美の脇への一撃を警戒して踏み込みきれず、退避に掛かる。だが、それが狙い。そのまま片鎌槍の柄を掴み、前田先生の顔面に頭突きを叩き込む。
「むぐっ!」
雨に濡れたセミロングの髪が、荒々しく舞う。呻いた前田先生に、今度は膝蹴りを叩き込んだ。どうにか股間はガードした先生だったが、真由美は最初から鳩尾を狙っている。装甲は真由美の方が厚いのだ。激しい一撃に、吐血、ついに片鎌槍を手放した前田先生は、泥の中に背中から倒れ込む。スーツが台無しだ。
奪った槍を放り捨てながら、真由美も泥の中に先生を組み伏せに飛びつくが、足の長さを利して蹴り上げられる。泥の中に背中から落ちた真由美と、泥の中に転がされた前田先生は殆ど同時に起きあがる。前田先生は片鎌槍に飛びつこうとするが、そうはさせない。雨に濡れた肥前守が、血を吸わせろ血を吸わせろと真由美にせがむが、我慢してと呟きながら、再び薙刀へ切り替える。
前田先生が泥の中をスライディングするようにして、片鎌槍を拾い上げる。加速の術を使って飛び退き、距離を取ろうとする。それに対して、真由美が使った戦術は姑息だった。薙刀の刃を使って、思いっきり先生の顔面に泥を引っかけたのだ。予想外の攻撃だったらしく、隙を生じさせる前田先生。躊躇い無く、真由美は中腰のままの前田先生の脇腹に一撃を叩き込んでいた。
前田先生の脇から血がしぶいた。薙刀の刃が、皮膚を裂き、肉を斬って、肋骨の半ばまで潜り込んでいた。肥前守に取り憑く無数の悪霊が、歓喜の咆吼を上げる。人を斬る感触は初めてではないが、やはり気分が悪い。眉をひそめながら、真由美は言った。
「抵抗したら、このまま胴を真っ二つに斬ります。 槍を捨ててください」
「ぐ、くっ……出来るかな? ……がぐっ!」
真由美が本当に力を入れたので、前田先生は吐血して俯いた。脅しではない。場合によっては、本当に真由美は斬るつもりだ。そういった覚悟がない言葉は、相手には届かないと、真由美は何度も思い知らされている。
「私、人を殺すのは初めてじゃありません。 本当に、殺しますよ」
「……」
前田先生はちらちらと真由美の方を伺いながら、槍を投げ捨てた。落とされた片鎌槍が大量の泥水を跳ね上げた。
「聞かせてください。 こんな事をした理由は?」
「恩返しだ」
「……一体何が目的で、こんな事を?」
「上の意向でな。 日本側の強力な能力者がこの近辺にいるから、引きつけて欲しいって事だった。 それで、だ。 撃破するために陽の翼から強力な実体化まがつ神も借りていたが、まさかあの古代龍を一騎打ちでどうにかするとは……。 信じられん。 それに高円寺も陽の翼に逆らっているとは思ってもいなかったが、な。 それとも政府の飼い犬になっているのか?」
「以前はそうでしたが、今は違います」
雨が泥を叩く音がうるさい。しかし前田先生から目を離すわけには行かない。
「陽の翼って、何なんですか? M国の組織だって聞いています。 それなのに、全然関係ないこの国で、なんでこんな事ばかりしているんですか!?」
「俺はただ恩返しに、彼らの手伝いをしているだけだ。 本国にいる連中が何を考えているか何て、知らないし知る機会だって無い」
「それが、弱者を散々踏みにじり、関係ない人達を散々巻き込む事だったとしても、ですか!」
「知った風な口を叩くんじゃない!」
至近にまた雷が落ちる。学校の周囲に人の気配が増えてきたことを、真由美は感じ取った。多分自衛隊とかが封鎖を完了して、状況の観察に入ったのだろう。二人が近いこの状況でスナイプを試みるほど無謀ではないことを祈るしかない。
「……前田先生の事情を知らずに勝手なことを言ったのは謝ります。 でも、陽の翼が集めている負の力は、建設的に使えるような物ではないし、それを集める過程で大勢の人が傷ついています。 私が保護していたコロポックル達は、何十人も殺されました。 それに、今後彼らの動きを許していたら、どんな悲劇が起こることか! 前田先生、もう止めてください!」
「悪いが、お断りだ。 俺は無辜の民とやらを守るくらいだったら、恩人のために命を捨てることを……選ぶ!」
「っ!」
足を払われて、地面に叩き付けられる。左足首に鈍痛。装甲を突き抜いて、片鎌槍の、鎌の部分が突き刺さっていた。槍が勝手に動き、足を払った上に、足首に突き刺さったのだ。その隙に薙刀で更に腹を傷付けてしまったのだが、前田先生は意に介さぬ様子で、手に片鎌槍を戻す。そして、倒れた真由美に、電光石火の突きを繰り出してきた。
泥の中を転がって、第一撃をかわすが、連続して繰り出された第二撃で肩を、第三撃で首筋を傷付けられ、更に振り下ろされた第四撃が右二の腕に深々突き刺さった。やはり槍に何か仕込まれているらしく、傷口は火でも出るかのように痛い。薙刀を取り落としてしまう。手から放れた肥前守は、見る間に脇差しの姿に戻った。押さえつけるように、前田先生は口角から泡を飛ばして、槍をグリグリと傷口に抉りこんできた。
「形勢逆転だなあ、高円寺いいいっ!」
「……ぐ……っ、うっ!」
前田先生は気付いていない。自分がさっきの真由美と同じ過ちを犯していることに。頭に血が登りすぎているからか、或いは。穂先を傷口から引き抜くと、前田先生は柄で何度も何度も真由美を打ち付けてきた。その目には、凶熱が宿っている。
「綺麗事は沢山なんだよっ! 俺が救われたのは、備わった力によってだ! 俺が大学に行けたのは、無辜の民なんぞの為ではなくて、俺の境遇を理解してくれた陽の翼のお陰なんだよ! 俺は現実だけで生きてきたっ! 薄っぺらい道徳が、俺を地獄から救ってくれたか? 虐めを行うクソ共が、話し合いなどに一度でも応じたか!? 施設出身てだけで、どれだけの学校が俺の配属を蹴ったと思う! 学校で窃盗やらなにやらが起こると、いつも俺が真っ先に疑われた! それを晴らすために、俺は教師として全力を尽くしたし、誠意だって持って動いて来たっ! 俺のクラスで虐めを許したことなんぞただの一度だって無い! それで誰かが俺に敬意を払ったか! 敬意なんて、今までただの一度だって払われたことなどあるものかっ! 世の中に蔓延している綺麗事の、万分の一でも実在していれば、こんな事に合う奴はいないんじゃないのか!? それなのに、この世は俺の同類だらけじゃないか! どうなんだ、どうしてなんだ! 言って見ろ高円寺ィ! 綺麗事言うだけなら、ハイハイしかできない幼児にだって出来るんだよッ! だから、俺は、唯一俺を評価してくれた陽の翼に、命を捧げてるんだっ!」
わめき散らす前田先生の腹からは、腸がはみ出していた。さっき傷付けた腹の穴からだ。
真由美は痛みから以上に、悲しみから涙を流していた。わめきながら、前田先生は槍を大上段に振り上げる。脳天をぶち抜くつもりだろう。まだ動く左腕を、泥水の中で真由美は払った。前田先生の動きが止まった。
前田先生の右肩に、後ろから肥前守が突き刺さっていた。殆ど肩を切り落とすほどの深さで、である。先生が片鎌槍を取り落とす。忘れていたように、大量の鮮血が噴きだした。この鎧の術を使えるようになったとき、桐先生に教わって身につけた術だ。元々肥前守と真由美は、葉子を介して物凄く相性がいい。修得は極めて容易だった。
校庭に自衛隊の特殊部隊が突入してきた。全員ガスマスクをしていて、凄く強力そうな銃で武装している。抵抗しようとする前田先生だったが、素早く立ち上がった真由美がタックルを掛ける。身体能力は真由美の方が上なのだ。
そのままパワーに任せて泥水の中に押さえ込むと、マウントポジションを取り、更に肥前守を左手に引き寄せる。そして前田先生ののど元に押しつけて、叫んだ。先生の左腕を押さえている右腕が痺れて、千切れそうなほどにいたい。打たれた場所も感覚がおかしくなりそうなほど痛い。だが、この人はもっと痛いはずだと言い聞かせて、自分を励ます。
「片鎌槍を抑えてください! 術が掛かっていて、自動で動きます!」
「き、君は大丈夫なのか!」
「大丈夫! だからはやく!」
自衛官達が真由美に気圧され、すぐに動いた。大げさにも何人かが片鎌槍に飛びつき、体ごとで押さえ込む。更に一人が麻酔銃を取り出すと、動けずいる前田先生の脇腹に叩き込んだ。
「うぐっ! く……畜生……畜生ッ!」
「前田先生……もう……もう動かないで! 内臓が出てます! だから、だからっ!」
「く……くくっ。 良いんだよ、そんなことはな。 俺は彼奴らの、役に……たてたん……だから……本望……だ」
急速に前田先生の動きが鈍っていった。やがて、ガタガタ動いていた片鎌槍は微動だにしなくなり、前田先生の瞼が落ちる。泥だらけの真由美に、女性自衛官の一人がタオルを掛けてくれた。特殊部隊にも女性がいるのに、少し真由美は驚いた。
「すぐに離れてください……あっちでは、私とは比較にならない使い手同士が戦っていて、いつどうなるか分かりませんから」
「確認済みです。 それよりも貴方は、自分の心配をしなさい」
「……ありがとう……ございます」
肩を借りて、泥だらけの真由美は必死に涙を抑え込み、その場を離れた。自衛官達も、周囲を警戒しつつそれに習う。まだ学校は奇怪な靄に包まれたままであった。
6,作戦の収束
二合、三合、激しく火花を散らしながら、零香とタラスクは激突した。しかし余裕があるのは常にタラスクだった。零香のクローを的確に亀甲の盾で防ぎ抜きながら、りゅうりゅうと巨大な棍棒を振り回して仕掛けてくる。パワーは零香以上である。零香の額から汗が飛ぶ。それには血も混じっていた。
巨大な棍棒が振り上げられ、爆音と共に振り下ろされる。地面に突き刺さったその先端部は、爆発を巻き起こし、回避に入った零香を衝撃波で吹き飛ばした。壁に叩き付けられ呻く零香に、爛々と目を光らせたタラスクが迫る。形勢は完全に逆転していた。
「悪龍の舞、その四っ!」
心底楽しそうにタラスクが吠える。彼は今まで悪龍の舞とやらを1から3まで披露しており、そのいずれもを零香はかわしきれなかった。
タラスクが低い弾道から棍棒を振り回す。地面を擦った棍棒は加速、猛烈な勢いで斜め下から零香を襲った。態勢を低くし、横っ飛びにかわしに掛かる零香に対して、タラスクは全く動じることなく、大地を踏みしめ、更に二度回転。回転しながら零香との距離を保ちつつ、最後はすっぽぬくようにして棍棒を伸ばしてきた。柄が長いこの棍棒は、握りの位置を調節するだけで、こんな風に瞬時に間合いを変えることが出来るのだ。両手をクロスさせ、どうにか直撃だけは防ぐが、左腕のブレードが負荷に絶えかねへし折れる。更に、である。タラスクの棍棒には二次効果がある。
閃光、炸裂。十メートル以上も吹っ飛び、物見櫓の一つに突っこみ、降り注ぐ瓦礫の下敷きになる。更にタラスクは肺を膨らませ、口から火球を射出した。零香が埋もれた瓦礫へ向け、合計六発。周囲の施設も巻き込まれ、業火の中へ崩れ落ちる。高笑いするタラスク。それは零香が燃える瓦礫を押しのけ、立ち上がってくるまで続いた。
「くっくっく、頑丈じゃのう。 この四の舞を見るまで儂の攻撃に耐え抜いた奴は、儂が生きている内にはとんと目にかかれんかった。 嬉しいぞ」
軽口に、憎まれ口を返す余裕もない。毒ガスのせいで、どんどん動きが鈍り始めている。その上このタラスクは、戦闘経験の固まりのような男だ。指先にまで戦闘経験値がみなぎっている。零香のありとあらゆる動きに対し、殆ど完璧と言っていい程に最善の手を返してくる。その上此処は奴の庭。形勢は、不利だった。
既に一度神衣を再起動していたが、今装着している神衣はボロボロであった。棍棒の二次効果である爆発の衝撃をもろに受けた事もあるし、攻撃自体が一撃一撃洒落にならないほど重い。生前は能力者ではなかったようだが、関係ない。仮に生前の全盛期のタラスクと今の父とが会ったら、良い勝負をするだろう。それほどの、桁違いの使い手だ。
今まで見てきたタラスクの動きは、全て見切った。だが此奴は底が知れない。まだ何か隠しているような気がする。息を整えながら、零香が前に出ようとした瞬間だった。
「そろそろ飽きたのう。 武器を変えるとするか」
タラスクの側の空間が歪み、武器がずるずると粘着質な音と共に現れる。トゥーハンデッドソードと呼ばれる長大な西洋剣、ハルバードと呼ばれる槍と斧をあわせた武器、モーニングスターと呼ばれる棒と鉄球を組み合わせた打撃武器、単純な長槍、そして六十キロはあろうかと思われる巨大なバトルハンマー。どれも磨き抜かれ、使い込まれた業物ばかりだと遠目にも分かる。その中から、タラスクは西洋剣を手に取った。そして右手一本で振り回してみせる。名の由来が、零香には分かった。
「成る程、それで六足」
「くくくくっ、光栄に思えよ、零香。 儂が二つ目の武器に手を出したのは、お前さんが初めてじゃ。 一つ目の奴はそろそろ動きを見切られ始めていたしな」
「……どうやら、ちんたらやっている余裕はなさそうだ」
「おうよ。 さっさと本気で来い」
言われずとも、そのつもりだ。胸の前で、零香は軽快な音を立てて、右掌を左拳に叩き付けた。そして、使う。実に実戦投入するのは一年ぶりになる、自らの奥義を。
傷だらけになっていた零香の神衣を、白色の力が覆っていく。それは徐々に力強さを増し、零香の全身に浸透し、渦を巻きながら駆けめぐる。タラスクは目を見張ると、口の端を喜びに歪めつつ、腰だめして全力の迎撃態勢を取った。理性があるうちに零香は眼鏡を取り、腰ポケットに入れた。
全身の力が、爆発した。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
大地が震える。空気が揺れる。砦全体が鳴動していく。詠唱を高速でくみ上げていく。零香の精神の多くを、狂気が浸食していく。精神を狂気で充たし、それを一点に凝縮した理性で統率、潜在能力を極限まで引き出す究極奥義。
その名を、白虎戦舞。
現在四式まである白虎戦舞の、二式。狂気浸食率六十%。それが今、零香がくみ上げている術であった。どのみち、このタラスクには白虎戦舞を使わないと太刀打ちできないと、空間浸食を使われたときに分かっていた。そして懐の広さを見せつけられた今、使用を踏みとどまる理由は何処にもなかった。
零香の体を流れる力が、臨界点に達する。同時に零香が、本能から雄叫びを迸らせた。
「かあああああああああああああああああああああっ!」
「来いッ!」
ゆらりと体を浮かせた零香が、次の瞬間にはタラスクの前に出ていた。空気が揺れる。今までと段違いのスピードに、全身の筋肉が悲鳴を上げる。そして何のガードもない状態から、五十発近い蹴りをいきなり叩き込む。タラスクは慌てて防ぎに掛かるが、その半ばで自慢の盾を吹っ飛ばされ、鎧に二十を越える蹴りが入る。老雄が耐えきれず下がり掛ける所を、虚ろな目のままの零香が不意に頭を下げるようにして地面に両手をつき、全身を旋回させるようにして回転蹴りを打ち込んだ。
「ごぶっ!」
たまらず悲鳴が上がる。タラスクは四度地面に叩き付けられ跳ね、砦の防御壁に大穴を開けてそこで漸く止まった。零香の口元に笑みが浮かび、体がねじ切れるほどの速さで跳ね起き立ち上がると、今度は稲妻のようにジグザグに動き、どうにか立ち上がったタラスクの頭上からクローでの一閃を見舞った。踏み抜く一歩ごとに、地面に罅が走り、砦が軋む。
風圧だけで柵が吹っ飛ぶ中、タラスクは反応する。反応できる。反応しないと死ぬから反応できる。それだけでも凄まじい。零香は笑う。渾身の力をぶつけることが出来る相手に遭遇したから。
壊れてしまった盾に代わり、新しい盾を具現化させたタラスクは、それが一撃で半壊させられたのを見て目を見張る。それ以上に目を見張ったのは零香がいきなりハイキックを叩き込んだからだ。側頭部にもろに入った超速の蹴りに、巨体が蹌踉めく。零香は相手が蹌踉めこうが一切関係なし。ガードも何も無し。攻めて壊して潰して引き裂いて砕いて殺し尽くすだけ。
頭の中が殺戮一色。血の臭いが甘美すぎる、体を制御するのが難しすぎる。
回転して脇腹に更に蹴りを一撃、腹に拳を固めての一撃、クローがあまりの勢いに、相手の鎧と心中してへし折れる。半ばはタラスクの腹筋に突き刺さる。右手左手をまるでマシンガンの弾丸のように、零香は連続して叩き込む。五十、八十、百三十、二百を越えた頃、タラスクが血を吐きながら叫ぶ。
「調子に乗るなよ、小娘があああああっ!」
とうに西洋剣を手放してしまっていたタラスクは、両拳を固めて零香の頭にうち下ろした。鈍いがしかし重い衝撃で、零香が地面に叩き付けられる。激しすぎる地面への負荷に、砦全体が揺動した。拳のラッシュで全身血まみれになっていたタラスクは、腹に刺さったへし曲がったクローの破片を引き抜いて、零香を踏みつぶそうとしたが、足下にもう猛虎はいない。
なんと言うことか。タラスクが足を上げた瞬間に、零香は真横に跳ね飛び、自らの勢いを殺しきれず物見櫓の一つを吹き飛ばしながら後退。そしてその助走距離を纏めて破壊力に変え、タラスクが振り向いたときには眼前に拳を接近させていたのである。拳、直撃。顔面を潰されたタラスクはのけぞり、回転しながら破壊力を殺し、必死に両腕を使って体をガードした。零香が吠える。
「ほこれえええええええええっ!」
誇れ、誇れ、誇れ。零香が吠える。この状態の零香に、一撃を浴びせることが出来た、その超人的武勇を誇るがいい。零香が叫ぶ。誇れ誇れ誇れ誇れ誇れ誇れ誇れ!そして誇りを抱いて死ね!
百発近い拳を叩き込む。間断なく叩き込む。壊すために叩き込む。殺すために叩き込む。……精神が徐々に平静を取り戻していく。時間切れが近いのだ。倒しきらなければ、負ける。
タラスクも分かっている。攻撃を完全に捨てたタラスクが、必死にさがって零香の猛攻を凌ぐ。足下に踏み込み、ロケットを射出するような蹴りを顎に叩き込むのが最後だった。顎の骨を砕かれつつ、空へ打ち出されたタラスクは、番屋の一つらしい小屋の屋根から落ち、その瓦礫の下敷きとなる。同時に零香の白虎戦舞が切れた。
がくりと膝から崩れる。
「はあ、はあ、はあ、はあっ……!」
肺が酸素を要求して、急ピッチで伸縮拡大する。体中の細胞がストライキを起こし、それをなだめるため心臓が最大限の働きを強要されていた。筋肉は酷い疲労でズタズタになり、当分動きたくないとだだをこねる。そんな中、片膝を突いた状態で、顔を上げただけでも、零香の凄まじい精神力が分かろう物だ。
空が元に戻っていく。周囲も元に戻っていく。学校の屋上は傷だらけの、滅茶苦茶な状態になっていたが、それでもまだましだ。上が壊れただけで、中身は無事なのだから。
零香は立ち上がれない。その視線の先には、大の字に転がっているタラスクの姿があった。
「……しぶといな」
零香のぼやきが届くか届かないか。タラスクが膨らんでいく。人間ではなく、翼持つ、最もチープなドラゴンの姿に。全身傷だらけだが、青黒い鱗に覆われた体は、龍そのものだった。弱体化しきったタラスクの姿が、それなのだろう。体長も三メートルを切っていた。
無理をすれば、まだ動けないこともない。少なくとも、弱り切った今のタラスクはどうにか倒せる。ドラゴンは長い首を巡らせ、周囲を見回した。
「あの男……無理をするなと言ったのに」
「前田先生の事? ……もう、真由美に倒されたみたいだね」
「真面目で良い戦士じゃった。 儂が鍛えてやれば、陽の翼でも一流の使い手になれただろうにの。 だから、真面目などと言うのはいかんのだ。 損をするばかりだというに」
「そう、だね。 一理はあるかも知れないね。 さて、覚悟はいい?」
神衣を再起動する。体はボロボロだが、力自体はまだ残っている。無理矢理体を起こす零香に、タラスクは最初から交戦する気を見せなかった。翼を大きく広げて、床を蹴る。もう限界だったためか、学校の屋上が崩壊を始めた。コンクリの床に穴が開き、下界へと崩落していく。一カ所でそれが始まると、全体へすぐに波及していった。
これでは、流石に追えない。一方でタラスクも、もう火一つ吐くことが出来ないようだった。零香は頭を掻きながら、崩れるコンクリ床から跳躍、もう崩落が終わった瓦礫の上に移る。それだけで殆ど余力を使ってしまった。
「ちっ……運が良い奴」
「今の技、誰にも言わぬ。 その代わり、今度会うことがあったら、また戦おうぞ」
「そうだね。 私としても、白虎戦舞使って仕留めきれなかったのは心外だし、他の武器での技も見てみたい。 いいよ、戦士としての約束。 また会おう、六足の悪龍」
同類だという実感がある。それに現実問題、この状態ではもう仕留められない。だから零香はそんな言葉を返した。悪龍はふらつきながらも、東の空へ去っていく。携帯を開く。追撃するなと、あの龍は言っていなかった。第一、また会おうというのは、あくまで生き残ったらの話である。
連絡先は東堂氏だ。同氏は流石で、既に二カ所で実体化まがつ神を屠るか、或いは遁走に追い込んでいた。其処へ、今の戦と、逃走中であるタラスクの存在を告げる。偵察機にでもつけさせれば、容易に敵の集結地点を割り出せるはずだ。それほど手ひどく痛めつけてやった。零香も酷い目にあったが。
東堂氏はすぐに自衛隊に話を付けると言ってくれた。礼を言って携帯を閉じると、仲間達へとかけていく。利津は無事であったが、桐、淳子、由紀、真由美、いずれも重傷。対応に追われた能力者達も、あらかた行動不能で、身動きできる状態ではない。至近にコンクリの固まりが落ちるのを意にも介さず、零香は瓦礫の山の上腰を下ろし、懐から岩塩スティックを取りだして口に含んだ。
この状況から考えて、敵は十中八九何かしらの作戦のために陽動攻撃を仕掛けてきたと見て良い。どの戦線での行動が本命だったのか、或いは全てが陽動だったのか。すぐに結論が出る。全てが陽動だ。なぜなら戦力に偏りが無く、何処でも時間稼ぎを目的としているのが明確だったからだ。実際問題、一部を除いて何処の戦線でも、実体化まがつ神も陽の翼の能力者も、無理をせず退きに掛かっている。今の戦いだって、タラスクは逃げた。もし殺しに来ているのなら、最後の一勝負を挑んできていたはずだ。
ならば、目的は何だ。タラスクを追尾した先で、それを見つけられる保証はあるのか。
利津から電話。電話に出てみると、仲間内で随一の戦略家である彼女は、四方八方から集めた情報を吟味した末に、ある結論を出していた。
「恐らく陽の翼の目的は、戦闘能力を持たないナニモノかの護衛、もしくはどうしても守らなければならない何かの、日本からの搬送ですわ」
「なるほど、理にかなうね」
言われてみれば確かに。大きな被害が出るのを覚悟の上で、全体で陽動攻撃を仕掛けてきた理由はそれが故か。でもそうなってくると、搬送部隊と逃走部隊は別行動と言うことになる。疲弊してしまえば、如何に一流の能力者といえども、近代兵器には勝てない。発見さえしてしまえば、一気に殲滅できる可能性も大きい。
タラスクの追尾は既に告げてある。タラスクは途中低空飛行や蛇行飛行を行って巧妙に逃走ルートを隠蔽しようとしてはいたが、この辺りは最新機器の方が上手だ。既に太平洋側の、ある港湾都市に向かっていることが判明している。海上自衛隊にも声が掛かっていて、日本にも少ないイージス艦が敵を捕捉するために動いているという。巡洋艦級の戦闘能力を持つ護衛艦も三隻巡回を開始しており、いざ敵を発見すれば高い練度を誇る彼らが、対艦ミサイルを正確に叩き込んでみせるだろう。
「もし彼らが、「搬送しなければいけないもの」と一緒に逃走するつもりであれば、近海上にいるかもしれませんけれど、私の予想では、その可能性は低いですわ」
「そう、だね。 それでは陽動の意味が無くなる。 虎の子はもう逃げ切った後か。 でもそうなると、陽動部隊はどう逃げるつもりなんだろう」
「問題はそれですわね。 陸路でも海路でも空路でもない、別の逃走経路でも持っているというのなら……」
「! まずいね、それは」
「何か思い当たる節でもありますの?」
陽の翼の能力者達の力を思い出す。そして零香は発作的にある一点に気が付いた。それが事実だと、下手をすると連中は、無傷のまま逃げおおせる事が出来るかも知れない。
利津に説明して、すぐに現地に飛んで貰う。足は自衛隊のヘリがいいだろう。零香自身もすぐに其方に向かう。零香は気配を察するための要員だ。危険だが零香が行った方が遠くから気配を探ることが出来る。
時間はない。もう全戦線で敵は撤退を開始、集結を始めているだろう。此処で少しでも打撃を与えておかなければ、連中の計画が更に進むのを手助けするだけだ。
全身が痛いが、もう一踏ん張りだ。携帯を切ると、零香は次の相手に連絡を取る前に、岩塩のスティックをもうひと囓りした。
零香の不安は当たった。利津が爆撃の態勢を整え、陽の翼が根城にしていた倉庫に零香が到着したときには、もう中に敵の気配はなかったのである。連中は、逃走を成功させたのであった。
陽の翼に大きな損害を与えはしたが、これは負けと言って良かった。零香は大きく嘆息すると、悔しがる利津に、ただ一つだけ言った。
「悔しいけど、これは負けだ。 帰ろう」
今はもう、打つ手がなかった。当然悔しい。しかし今は、体を休める必要があるのだった。リベンジのためにも。
7,次の戦いへ
M国の太平洋側の港の一つ。陽の翼に協力的な者が多い土地であり、本拠の島とも近い。そこに、パッセを乗せた船が入港した。
M国の土をおよそ半年ぶりに踏んだパッセは、周囲を警戒する労働要員達に苦労をねぎらいながら、壺を降ろすように命じた。クレーンがコンテナを降ろしに掛かる。漸く此処まで来たと、それを見ながらパッセは思った。
陽の翼の、日本撤退作戦は成功した。最後まで倉庫に残っていた陽明が撤退したのは、自衛隊の包囲を感じたからである。空にはあの広域爆撃殲滅型能力者の気配もあったし、戦うのは分が悪かったと、陽明から既に説明は受けている。全くの事実であったし、責める気は最初から無かった。苦労をねぎらうと、一時待機を命じてある。
陽明の能力は、二つ。物体操作と空間接続である。壺を沖合に運ぶには、この物体操作の能力を用いた。一方で空間接続は、あらかじめ決めておいた地点と陽明の手元を結ぶ能力である。
強力だが当然リスクも大きい。ゲートの接続先に指定できるのは数カ所だけ。一回使うともう一回使うのに時間をおかねばならない。ゲートは生物でなければ通ることが出来ない(実体化まがつ神や、身につけている衣服程度の重量なら装備も通れる)。一回誰かがゲートを潜ると、その者は翌日までは使用できない。
だから、壺を本国まで搬送することは出来ない。一気に本国まで搬送することが出来るのは、撤退者だけだ。陽明は四割ほどに打ち減らされた実体化まがつ神達と、手ひどく傷ついた五翼の者達をM国に輸送し終えてから、きちんと撤退した。鮮やかな行動であった。
そしてパッセが海路で無事壺をM国まで搬送し終えた。もう少しで海上自衛隊に追いつかれる所だったが、どうにか逃げ切ることが出来た。かなり危ない所まで迫られていて、一時期はファーフニールが甲板に迎撃態勢にまで出ていたほどだ。
パッセの危惧は半分当たったこととなる。壺の搬送には確かに成功したが、作戦での被害が想像以上に大きすぎた。特にタラスクが致命傷に近いダメージを受けて帰ってきたのには、流石のパッセも驚いた。タラスクは太陽神の膝元で、数週間は療養しないと回復しきらないだろうと、船上でパッセは既に説明を受けていた。
そして、作戦が次の段階にはいると言うことも。
M国に戻っても、まだまだ戦いは続く。ケツアルコアトルが羽ばたくまでは。
「天翼パッセ!」
部下の一人が駆けてきた。緊迫した表情から、何かろくでもないことがあったのは間違いない。無表情を装うのが難しい。しかも今、五翼でまともに動けるのは彼女と陽明だけなのだ。
部下の報告は、とびきりの凶報であった。すぐに備えなくてはならない。壺を全速力で本拠へ運ぶように部下達に命じると、パッセは陽明に連絡し直し、待機が中止になったことを告げなければならなかった。
凶報とは、他でもない。
今まで中立の姿勢を保っていた米軍が、陽の翼に対して、敵対の意志を示したのである。
病院で目を覚ました真由美は、昨日の出来事を思い出して気鬱であった。窓から差し込む朝日はあれほどに美しいというのに。朝の空気は涼しくてとても心地よいというのに。ベットの上で、掛け布団を掴む。前田先生の言う社会矛盾は、真由美にも辛い。そんなにいい先生だとは思っていなかったけれど、いつかあの人も救えるくらい強くなりたいと思った。力が、もっと欲しい。
「おはよう」
振り返ると、病室の入り口に零香先生がいた。何カ所かに包帯を巻いている所を見ると、あの人も相当に手こずるほどの相手だったわけだ。ベットの側のテーブルにはリンゴが置いてあり、それを丸ごと囓りながら、零香先生は言う。
「お疲れさま。 また一つ、辛い戦いを乗り越えたね」
「零香先生は、辛くないんですか?」
「難しい質問だね、それは。 辛い所もあるし、楽しんでいる自分もいる」
見る間に綺麗に芯だけを残して食べ終えると、ハンカチで指先を拭きながら、先生は言った。
「陽の翼は本国に去ったよ。 それで、これから多分我々は、M国へ行くことになると思う。 政府が米国から頼まれたらしいし、それにM国からも。 M国は日本の友好国の一つだし、恩を売る良い機会だとも考えたんだろうね。 それ以上に、何よりわたしとしても連中を放置してはおけない。 真由美ちゃんにも来て欲しい」
「……。 教えて下さい。 零香先生と戦っていた人は、前田先生の事を気遣っていましたか?」
「それは心配ない。 わたしを倒し次第、助けて連れて行くつもりだったみたいだよ」
小さく嘆息。前田先生が捨て石と思われていなくて、本当に良かった。もう会えるかは分からないけれど、この戦いが終わったら、お見舞いに行きたい。
「じゃあ、少し遅くなったけれど、陽の翼のことを話しておこうか」
ベットで半身を起こしたまま、真由美は彼らの悲しい歴史を聞くこととなった。自分で決めたことだから、悔いはない。これから戦う相手のことを知らなければ、理解することも、和解することも無理だと分かり切っていたから。
俯いてばかりではいけないと、真由美は思った。
(続)
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