黒き鎧

 

序、哀れみから……

 

惨い光景だった。もう何百年も前のことだというのに、昨日のことのように覚えている。

異大陸からもたらされた、訳が分からない病で倒れていく人々。それをせせら笑い、そればかりか如何に酷使して絞り取るかしか考えていない非道の白き者達。

戦う気力も生きる意志もなく、生ける屍として三十にはもう老人のようになってしまう人達。楽しみと言えば薬物だけ。続ければ確実に命を奪う、死と隣り合わせの、狂った僅かだけの快楽。

いつからこうなってしまったのだろうか。少なくともテティナが人間を止めたときには、もう少しこの国は良い状況だったはずだ。あの頃には生贄の儀式などと言う下らないものはあったが、国自体も腐りきっていたが、それでも市場は活気に満ち、善悪両方が国に溢れ、流通も多くあった。クズ共も多かったが、それ以上に守りたい愛しい者達だっていた。

それだというのに。太陽神の化身を名乗るあの者達が国を滅茶苦茶にしてしまった。まるで悪鬼のように国全てを貪り尽くし、恐怖の顕現である異界の病を持ち込み、そして全てを奪い去っていった。

今は耐えろ。それしか言えなかった。陽の翼の構成員も激減し、戦う力も減っていた。それだけではなく、国全体から活気も気力も奪いつくされていた。今は耐えて、生き抜くのが最優先だった。いつか、力が蓄えられ、立ち上がることが出来る日が来る。だから、今は耐えるんだ。

率先して耐えるテティナを見て、奇跡を起こしていくテティナを拝んで、皆はこう呼んだ。この方こそ、真の太陽神だと。異大陸から持ち込まれた病気に対する抵抗能力を身につけ、食い尽くされた国力を少しでも上げ、人口を増やして、戦うのはそれからだ。身を潜める術も、隠す術も、皆で助け合う智恵も、今のうちに身につけて置かねばならない。テティナはそう説いた。支配者の知らぬ間に、陽の翼の力はどんどん強くなっていった。

戦いを始めることが出来たのは、それから二百年も経ってのことだった。世代が幾重にも交代し、その時にはもう、テティナの名を知る人間は一人もいなかった。

それでも良かった。名前はどうせ一度捨てたものだ。請われて告げたものだ。だからまた失われても構わない。激しい内乱の時代、最強の存在陽の翼は、どんどん名を上げていった。陽の翼が来ると言うだけで、戦いの半分は終わるようになった。敵が尻に帆掛けて逃げてしまうのだ。礼を言うと同時に、意見を聞きに来る指導者に、外に出ずまずは力を蓄えろとだけテティナは告げた。それを守ることが出来る者もいたし、出来ない者もいた。絶対によせと言ったのに、米国に戦いを挑んでしまった者もいた。必死の戦いは、それからも延々と続いた。

御簾にて外界と遮断された、小さな小さな閉鎖空間。豪奢なカーペットの上に半身を横たえ、頬杖をしてテティナは思う。

やっと、これで始められるのだと。

 

1、陽の翼

 

A県東北部にある恐山。日本でも有数の霊場であり、イタコと呼ばれる霊媒の修行場でもある。そしてつい一月ほど前、張り込んでいた黒師院桐と、陽の翼の幹部ジェロウルが激しい戦いを行った場所でもある。その痕跡は彼方此方に未だ残っており、管理しているイタコの一族が文句を言いながら修繕している最中だ。彼女らに死人が出なかったのが、不幸中の幸いだとも言えた。

ごつごつした恐山の斜面は、あまり長い間歩き回りたい場所ではない。空気も悪いし、事実悪霊の類も山ほどいる。霊感の強い人間や能力者は散々スプラッタな物を見ることになるし、長居したがる人間など殆どいないのが常だ。

しかし、此処の近くにホテルを借りて、一ヶ月近く探り廻っている人間もいる。最初の頃は折られた右腕を吊っていたのだが、今は両手をぶらぶらさせて、のんびりのったり歩き回っている。優しそうな、少し緩い笑顔を浮かべて彼方此方探り廻っている彼女は、本来白眼視される所だが、イタコ達はあまり文句を言わない。命の恩人であり、自分たちより格上の能力者である事は明らかだからだ。何人かはその戦いぶりを見ている。身に纏う凄まじい力も、である。悪霊も彼女が現れると、こそこそと姿を隠してしまう。

その能力者、黒師院桐はマイペースに笑顔を浮かべつつ、内心では苛立ちを抑えきれなかった。一ヶ月間ずっと滞在しているわけではないが、四回も訪れ、恐山を念入りに探し回ったというのに、何も無し。調査時間に対する成果の無さ加減にうんざりしていたのだ。

神子相争を終えてから、桐が行ってきたのは、知識の収集であった。民俗学を始めとして、神々や魔術の事を徹底的に調べ上げ、独自のデータベースまで作り上げている。他の神子がトラブルに直面したとき、その方面での知識を求められるほどにまで確実な代物だが、しかしそれでも分からないことは多い。

例えば、連中は負の力を集め廻っている事が分かっている。これは幾つかの状況証拠から明らかだ。しかし、集めている方法が分からない。今回敵の行動予測は利津と政府のシミュレーションチームに任せて、頭脳労働担当の重要人物である桐が戦場を再検討し続けているのには、勿論理由がある。

敵の反応から、今回敵が負の力を採取し損ねたからだ。

この戦場は、敵の手の内を探り出す貴重なサンプルのはずだった。それなのに、桐が調べても他の能力者が調べても、政府の科学鑑識チームが調べても、何も出てこない。魔術的な痕跡も科学的な痕跡も、一切残っていない。

桐が苛立つのも当然だった。元々桐は非常に奥深く物事を考えるタイプだが、しかし決して心優しい訳でもない。腹も立てるし、憎むことだってある。無言で陰湿な罠を張り巡らせることだって珍しくない。事実母を散々いたぶってくれた親族には、相当に手ひどい御礼をしている。

今日も戦闘の経過を思い出しながら、全体を丁寧に探り直してみたが、痕跡は一切無し。こんな時には、八亀の事を思い出す。あの齧歯類が好物で三葉虫によく似た桐の師は、今まで何度か顔を出してはくれたが、以前のように決して手助けはしてくれなかった。しかし、本当に大変な時期を一緒に生き抜いた相手でもあるし、側にいるだけで支えになるのは事実だ。桐は強い人間だが、時々こういう支えが欲しくなることもある。欲しくはなるが、一人で乗り切れるのが、彼女らしい所であるが。

結局何も痕跡は無し。新幹線を使っても帰りはかなり時間が掛かる。憂鬱である。零香や由紀のように身体能力が滅茶苦茶な訳ではないのだ。桐くらいのスピードだと、公共の交通機関を使った方が速い。だから出来るだけ急ぎたい。足が自然と速くなる。

山の麓には、政府の検証チームが出張ってきていた。プレハブを建てて、表向きは水道工事をしているように見せているが、実は最新の設備を持ち込み、護衛の自衛官まで詰めている本格的なチームだ。此処へ寄ることが、調査の際には定例となっている。しかし行きに寄って資料は目を通したし、目があった人間と一礼だけして、桐は帰ろうとした。何しろ面倒くさかったので。しかし、帰りたいという要望は傲慢な神には認められなかった。

「黒師院さん」

「はい?」

笑顔を作ったまま、桐は後ろから声をかけてきた男へ振り返る。勿論内心は舌打ちしている。

歩み寄ってきた童顔の男は、政府の検証チームの一人である大島氏だ。スーツを着ているが、ネクタイの結び目が雑で、いつも傾いている。中肉中背の、何だかつかみ所のない笑顔を浮かべる人物である。まだ若く、大学を出たばかりだとか。そんな若造で、しかも能力者でもない人間が、政府の精鋭チームの一員になっているのには当然理由がある。それを知る桐は、この男を過小評価していなかった。事実、笑顔の奥には実戦を知る鋭い視線がある。

「もう調査は終わったんですか?」

「ええ。 今から帰る所です」

「実は検証チーム内から、色々と話を聞きたいという意見が出ていまして。 もしよろしければ、彼らの質問に応えてあげて欲しいのですが」

「何故貴方がそんなことを?」

由紀ほど上手く人格変換は出来ないが、それでも感情と裏腹の表情を作ることに関して、桐は同年代の殆どの人間よりも上手い。分かりやすく言うと、由紀の場合は状況に応じて二つの人格を入れ替えている状況だが、桐の場合は狸の皮を被っているのだ。桐には大体大島氏の目的が読めていたが、それでも可愛らしく小首を傾げてみせる。

「僕は最年少のパシリですから。 検証チーム内でも、陽の翼って連中にはあまり実感が湧かないヒトも多いみたいでして。 実際に何度か戦った貴方の意見を聞きたいそうなんですよ」

実際には、桐に物怖じしない大島氏が頼まれたのだろう。検証チームと打ち合わせをする際、相手が恐怖を感じていることを、桐は知っていた。

桐ら神子相争の卒業者達は連帯も強く、今の日本の能力者達の中では実力もずば抜けている。実力で桐に確実に勝てる能力者と言えば、日本でも東堂氏くらいだろう。あの人物とだけは、流石の桐も戦いたくない。連帯の面で考えれば、桐達の戦闘遂行能力、作戦遂行能力の高さは図抜けているとも言える。

しかし、問題は性格だ。神子達は決して世間的に褒められるような人格者ではない。桐のように閉鎖的だったり、利津のように半世捨て人的であったり、淳子のように下手をすると反社会的行動に出かねないものもいる。分かりやすい社会的評価とは無縁である。そのため一部の勢力は警戒していて、桐も何度か防衛庁の諜報員が付けてきているのを確認している。

今回の意見交換は、彼ら側の様子見だろう。良い意味でも悪い意味でも、彼らはもう少し桐を知りたがっているのだ。それは間違いなく一種の歩み寄りである。或いは政府側から、警戒派の勢力に釘が刺されたのかも知れない。

桐としてはあまり気分が良くないが、此処は向こうの歩み寄りを尊重すべきである。面倒くさいし、早く家に帰りたいのだが、これくらいの不便は許容すべきである。社会人は皆もっと面倒くさい事を、自分を殺しながらやっているのだから。強要されるアフターファイブのつきあいだと思って、桐は高いですよと前打ってから、大島氏に着いていった。

最新のパソコン複数とモニター類が設置されているプレハブ小屋の入り口で、帯銃した自衛官に敬礼し、二階に上がる。二階は更に重要機密度が高い場所で、会議はいつもそっちで行う。壁には全部防音設備が整えられていて、防弾性能も高い。時々私服で上位の佐官級も進捗状態確認のために訪れることがある。

今日は中に五名ほどが詰めていた。時々顔を合わせる佐官が二人と、政府お抱えの科学者が二人。彼らは全員中年の男性で、痩せていたり太っていたり、特に際だった特徴がない。女性も一人居る。今この調査所を任されているエリートの女性仕官で、確か階級は一尉。大島美智代さんだ。名字から分かるとおり、大島氏とは姉弟になる。少し痩せぎすだが、良く感情と肉体を制御した様子の、長身の美女だ。頭脳面だけでなく、射撃の腕前は相当なものだと聞いている。この様子だと、今回は事前に裏で打ち合わせて、桐に話を聞くつもりだったのだろう。

彼女が丸テーブルに紅茶を並べている所に桐と大島氏は入室した。結構いい茶葉の香りがする。敬礼して席に着く。大島氏は着席を認められておらず、桐の斜め後ろに後ろ手を組んで立った。他に二名の自衛官が入ってきて、入り口で警備に立つ。

自衛官達はどう話しかけて良いか分からないらしく、笑顔の桐を前にしてひそひそと声をかわしていたが、最初に口を開いたのは大島さんだった。こういう場合、女性は強い。

「楽にしてください、黒師院さん」

「はい。 そうさせて頂いております」

事実桐は、この茶番劇を楽しんでいる。決して緊張などしていない。その辺り、大島さんは敏感に感じ取ったらしく、少しずつ多弁になっていった。最近の天気のことから始まって、紅茶の銘柄の話題、この辺りの名産品の味の話題や温泉の話題。更にはテレビで大人気を博している由紀の話題に移り、少し欠伸が沸き上がってきた所で恐山の調査の話に移った。絶妙のタイミングだ。桐が油断するか探りを入れる意味もあるのだろうし、退屈を紛らわすタイミングでもある。

「我々としても、恐山の戦いは全てモニターしていましたが、しかしあれだけの奇襲を成功させたのに、敵側の痕跡が出てこないと言うのは。 戦闘の痕跡もありますし、敵の遁走も確認していますが、しかし腑に落ちないと言う意見も多いのです」

「腑に落ちないのは私も同じです。 皆様方が不安を感じるのは当然ですが、私にも正直連中の使った手段は見当も付きません」

「はあ、そうなのですか」

「これでもそれなりに知識は蓄えてきたつもりなのですが……。 未熟が身につまされます」

向かいに座っている佐官達がひそひそと言葉を交わした。多分、桐がこんな反応をするとは思ってもいなかったのだろう。或いは言葉の真意を測っているのかも知れない。

あいにくだが、殆どの言葉は本当だ。敵の行動パターンから恐山襲撃を読み切ったのは桐の紛れもない功績である。そしてその後、敵の痕跡を割り出せなかったのは不手際とも言える。事実桐はかなりここの所怒りっぽくなっていた。勿論表になど出しはしないが。

桐が今回手こずっているのには、不得意な情報収集方法だから、という点も多い。或いは利津であったら、部下に付けられた人間を上手く使いこなして、短時間で割り出しを成功させたかも知れない。あの子は総合的に情報を包括して最適な選択肢を選び出すことがとても上手いのだ。

利津と桐の情報収集は根本的に方法が異なる。桐は書物を膨大に読み、先に大量の知識を蓄えて置いて、いざというときは其処から必要な情報を引っ張り出す。それに対して利津はその場その場で情報を集め、取捨選択してトラブルに対する。真逆とも言える方法の違いだが、相手のやり方の良さはそれぞれ取り入れていて、最近は桐もパソコンをカタカタ叩いたりもする。激しい戦いを通じて、互いの長所と短所を知り合った仲だ。今後戦うことがない以上、それぞれの良さを取り入れていくのは当然のことだ。

「話を変えましょう。 我々としても対処をしやすくするために、陽の翼の事を聞いておきたいのですが」

「機密がレベルごとに細かく別れているので、話せない箇所もありますが、よろしいですか?」

「渡されている資料には目を通してあります。 その上で、実際に刃を交えた人の所感を聞いておきたいのです。 今後戦っていくと、我らが対処しなければならない状況も生まれると思いますので」

桐は大島さんを見直していた。なかなか勇敢な人だ。あの戦いの跡を見た後で、それでも戦う意志を捨てていないと言うのだから。

逆にこっちは桐の得意分野となる。佐官達も身を乗り出して聞く態勢を整える。桐自身も、情報を整理する意味も込めて、話しておくことに損はなかった。

「彼らは元々、ユダヤ人に近い流浪の民でした。 それが現在のような、剽悍な戦闘集団になったのには、傑出したリーダーの存在がありました。 その名を、太陽神と言います」

 

陽の翼の成立は、数百年も前にさかのぼる。北米大陸最南部、その西部の島で、陽の翼の先祖達は細々と漁業を行って生活していた。先祖の族名は伝わっていない。多分必要もなかったのだろう。痩せた土地で良い作物は取れなかったが、代わりに豊かな水産資源があった。島は日本の淡路島程度の面積しかなく、決して広い土地ではなかったが、大きな諍いもなく、概ね平和な生活をしていたと推察されている。

状況が変わったのは、大文明の足音が聞こえてきてからである。人類の増加に伴って、科学技術、精神文明、情報伝達技術、いずれもが進歩し、やがて人々が集まり、社会は巨大化を進めていく。その結果、文明圏が誕生する。その中には、いわゆる巨大文明へと成長するものもある。アステカ帝国が、陽の翼の先祖達に接触したのは、必然であったとも言える。この辺りで、陽の翼の先祖達は族名を必要とし、フィツアルア族と名乗ったらしい、と桐の調査では出ている。

軍事力もないフィツアルア族は抵抗もままならず、大帝国の圧倒的な力に屈した。アステカ帝国は被征服民には寛大であったが、しかし人間が作った国家である以上齟齬は必ず出る。支配者として赴任してきたアステカ帝国の神官は極めて横暴な人物であり、フィツアルア族は思っても見ない暴政に曝されることとなった。(余談であるがこの神官は他の支配民族にも横暴を振るい、やがて更迭されている)やがて耐えきれなくなったフィツアルア族は反乱を工作。ひとたまりもなく露見し、激しい弾圧を加えられた。そして、島を取り上げられてしまったのである。これが大体十五世紀初頭のことであると言われている。

以降、フィツアルア族は流浪の民となった。アステカ帝国内部で散り散りとなり、それぞれが最下級民としてくらしたり、島の奪還を目指して傭兵となったりして、必死に生き抜いていった。貧しい生活の中で結束を深めた彼らはやがて侮れない実力を有することとなり、島を取り戻すという希望が統一的な意志を与えた。アステカ帝国内でも一枚岩である彼らは重く用いられ、フィツアルア族で構成された部隊は大きな戦果を上げるようになっていった。

いつの間にか、彼らは職業戦闘集団となっていたのである。そしてその先頭には、太陽神と言われる不思議な存在が常にいたという記録がある。最古のものでは十六世紀初頭にまでその記述はあり、数々の奇跡を使いこなしたとも言う。勿論、太陽神などと名乗ることは帝国内では不敬罪にも匹敵するため、彼らの内部だけで秘匿されていたようだが。

「となると、陽の翼の首領は、代々太陽神を襲名していたという事ですか」

「調べてみないと、その辺はまだ分かりません」

桐はそう応えたが、現在の太陽神と当時の太陽神は同一人物だと彼女は考えている。それはさておき、話を続ける。

フィツアルア族はやがて陽の翼と名を変え、島を奪還する一歩手前まで行った。島をエサに彼らを働かせてきたアステカ帝国も、並ならぬ功績を無視できなくなってきたのだ。しかし、そこで悲劇が起こった。

欧州人の来襲である。

コンキスタドールなどと格好の良い呼び名を付けているが、事実上は軍事力にものを言わせた侵略行為であり、貴金属の略奪行為であり、文明の破壊行動であった。

ピサロやコルテスといった者達の鬼畜にも似た所行は現在にも伝わっているが、後から入ってきた宣教師達の非道な行動も目を覆わんばかりのものであった。彼らは宗教、文明だけではなく、国家、経済、そして人命までも否定し、卑劣極まりない方法と無茶苦茶なこじつけで現地人に言語を絶する迫害を加えた。アステカ文明の場合、周辺民族から集めた生贄の心臓を神に捧げるというばかげた行為だけはこれによって止んだが、以降は地獄の時代が来ることとなる。

当然、陽の翼もその煽りをもろに受けることとなった。このどさくさに島を取り返すと言うことを考える者もいたが、上手くいかなかった。スペイン人達が強大な軍事力にものを言わせて支配の拡大に掛かっており、雌伏する以外の選択が無くなっていたのである。更に、スペイン人によって持ち込まれた伝染病の流行により、後にM国となる地域の人口は二十五分の一に激減。その上凄まじい搾取にまで曝され、陽の翼がどうこういう時代ではなくなってしまった。革命どころか、生きるのにさえ必死の時代が来たのである。病気に対する抵抗力に関しては、精強な陽の翼だとて大差はなかったわけで、戦わず彼らが壊滅的な打撃を受けたことは想像に難くない。

19世紀初頭、やっと雌伏の時代が終わる。ようやく民衆に力が蓄えられ始め、搾取に対する反抗の気運が高まり始めたのである。陽の翼は蓄えていた力を、革命闘争に協力することで爆発させた。

「この頃から、陽の翼は能力者集団として超一流の存在になっていきます。 各国でその名は知られていたらしく、スカウトがひっきりなしに訪れたそうです。 中には引き抜きに応じて故国を離れた者もいるそうですが、殆どはカリスマである太陽神に従って独立運動に参加したそうです。 そればかりか、太陽神のカリスマに惹かれて、陽の翼入りした能力者は少なくなかったとか。 当時はまだ大勢いたキリスト教系の能力者とも激しい戦いが行われたことでしょう」

「イタリアで言うマフィアみたいな感じかしら」

「近いですが、犯罪組織とではなく、戦闘集団として特化していた辺り、大分性質は違うと言えますね」

博識な大島さんに、桐は笑顔で応えた。イタリアで言うマフィアというのは、元々今のような存在ではなく、支配者に対する抵抗勢力が徐々に犯罪組織化していったものだ。陽の翼の場合、終始目的は故郷の奪還と平和な暮らしであり、そのための手段は能力を生かしての戦いであったわけだから、陰と陽の違いがある。もっとも、陽が常に正しいわけではないと言うのも、世の理だが。

そうして十年ほどの戦いの後、M国は独立。スペインの支配をはね除ける。しかしまだまだ自立できる国家としての力はなく、西洋列強の干渉に曝され続け、米国に負けて領土の半分近くを取り上げられるなど、近代に至るまで受難の歴史は続いている。その激しい戦いの中で、陽の翼は最強の特殊部隊として、同国の裏で戦い続けてきたのである。強くなるのも当然であった。実戦経験の量が違うのだ。入り込んできた情報によると、1980年には米国の対能力者特殊部隊を壊滅させたというものもあり、その阿修羅が如き活躍の一端が伺われる。

しかし、やはり彼らは終始運には恵まれなかった。陽の翼の目的が故郷の奪還にあること、基本的に平穏な生活を望んでいることを知っていたM国の歴代政府は、あえて陽の翼に故郷の島を与えないことで戦力を維持。生かさず殺さず使うことで米国への対抗手段とし続けた。また、陽の翼を目の敵にした米国との激しい戦いも続き、戦力の有効な確保強化もなかなか出来なかったようである。更に言えば、リーダーの太陽神はともかく他の構成員達は無骨な武人ばかりで、政治的な駆け引きは苦手であったらしく、それも悩みの種の一つであったらしい節が、少ない資料の各所から伺える。

陽の翼の総員は二千名ほどだが、この数は伝染病の影響で激減した一時期を除き、数百年通して殆ど変わっていないのだという。一族内部では多産を奨励していると言うし、戦闘で得ている報酬金も相当なものだという話だから、如何に戦闘参加率死亡率が高い環境にいるかは明らかだ。平均寿命は二十代だとも言う。現在、彼らが集結している島には六百人ほどしかいない事を考えると、三分の二はM国内部に潜伏するか、各地で任務に当たっているのだろう。

「で、問題は、何故彼らが不意に今回のような行動に出たか、という事だけれど」

「問題は其処ですね」

「リーダーを太陽神などと呼ぶ阿呆共だ。 どうせくだらん宗教的な思想があって、それに基づいているんじゃないのか?」

「そんな連中だったら、秘匿的な組織でもない限り、数百年も命脈を保っていられませんよ。 インドの何と言ったか、タッグだかサギーだとかいう連中も、秘匿的なこと自体が組織の最大の武器となっていたようだし」

ああでもないこうでもないと、桐の前で話し始める自衛官達。馬鹿馬鹿しくなってきたので帰ろうかと思ったが、大島さんがきちんと場を纏めてくれた。この人は、桐が本当は面倒くさがり屋で昼寝が三度のメシよりも好きだと言うことに気付いているのかも知れない。

「それよりも、話を続けて貰いましょう。 桐さんはまだ肝心の部分に触れてはいないのですし」

「そ、そうだな。 すまない、話を続けて貰えないだろうか」

「……今のところ、陽の翼が凶行に出た理由は分かっていません。 ただ、ここの所M国政府との軋轢が強まっていたことは事実のようです」

桐も実のところ、現時点で陽の翼の暴発理由は解析し切れていない。ただ、現大統領になってから、些細な失敗をネタに今までの功績を白紙に戻すような通達が陽の翼に為されたと言うこと。更に陽の翼が故郷と考える島でウラン鉱山が発見され(大した規模ではないそうだが)調査のためと称して軍が基地を建設したと言うこと。更に陽の翼の一般構成員達の子供達の学費を貸与すると称して、金銭的な貸しを作ろうとしたこと、等が分かってきている。

以下はあくまで仮説である。

つまり、元々、頑張って戦うから早く故郷を返せとせがむ陽の翼を、どうなだめすかして活用するかというのがM国の命題だったというわけだ。

事実、世界最強の米国を隣に、いわゆる先進国でもない状態で独立を保ち続けるだけでも相当な苦労を要する。そのような状況下で、現在のM国大統領は陽の翼の制御に失敗し、彼らの神経を逆撫でするような事ばかりをしてきた。強まる反発を力で抑え込もうとすらしたかも知れない。陽の翼に感謝しているM国の民は大勢いて、彼らに情報が筒抜けだと言うことも忘れて。或いは就任直後で陽の翼の凄まじい戦闘能力を知らず、腕の良い諜報員、くらいにしか考えていなかったのかも知れない。空母ニミッツと拮抗する破壊力を持つとか言われる陽の翼と、まともに事を構えられるのは米国の諜報組織くらいだというのに。

陽の翼の構成員達は激怒し、ついに堪忍袋の緒を切った。それが、この悲劇の真相だろうと、桐は見ている。

分からないのは、切れ者だと噂の太陽神の行動だ。今回の性急な行動を彼女は良しとしたのだろうか。とてもそうは思えない。或いは部下達を押さえきれないと知って、勝負に出たのかも知れない。それとも、何か非合理的な理由があるのかも知れない。切れ者が現実主義者だとは限らない。その実例を、桐は何度も見てきているのだ。

太陽神の不可解な行動と、陽の翼の暴走が、桐の説を「仮」以上にしない。また、この大事なときに日本で暴れている幹部達の動向も分からない。此方にも仮説はある。零香の意見とほぼ同じだが、少し違う点もある。一度神子全員で集まって話し合う機会を設けた方が良さそうであった。

それらを機密レベルから選びながら話し終えると、考え込む自衛官が多かった。大島さんも難しい顔で考え込んでいる。無理もない話である。相当にスケールが大きい話であるし、そして日本とは何の関係がない話でもある。それなのに、何故彼らはこの国で暴れまわり、自衛官達は映画に登場するような巨大怪獣でも相手にするかのように怯えながら戦わなければならないのか。

彼らが辛いのは桐にも分かる。しかし桐自身も、この陽の翼事変が発生して以降、超一流の能力者と刃を交えているのだ。しかも危うく首を跳ね飛ばされる所だった。更に今後も、真面目に敵を阻止に掛かれば掛かるほど本気での戦いが多くなっていくだろう。少しは代わって欲しいと時々思う。

紅茶を飲み干すと、もう用事は済んだ。視線で促すと、大島さんは桐に続いて立ち上がり、儀礼的な挨拶を交わす。自衛官達も各々軽く一礼し、余計な手間を喰ったと思いながら桐はプレハブを後にした。

外まで大島氏が送ってくれた。彼は終始無言のまま会議を見守っていたが、外に出てから言う。

「どうでしたか? 今日の話し合いは」

「さて、どうなんでしょう。 私には何とも言えませんけれど」

「……まあ、大変でしょうが。 姉さん達の世話を今後もお願いします」

駅まで送ってくれると言う言葉を断って、国道まで歩く。空はどんより曇っていて、今にも雪が降りそうだった。玄武の神子である桐に、雪は何の苦でもない。むしろ気分が踊る。足早に帰宅する人々に混じって、桐は鼻歌を抑えるのに苦労していた。

タイミングを計ったかのように携帯が鳴る。零香からだ。帰宅後、会議を行うのと、例の真由美という子の面倒をみて欲しいのだという。そういえば他の神子相争同級生は皆もう面倒をみたとか聞いている。それに、そろそろ神衣に相当する切り札を覚えさせたい所だとか。確かにそうなってくると、豊富な知識を持つ桐が選定に最善だろう。新幹線で昼寝する時間だけは確保しておきたいと、桐は思いながら、通りがかったタクシーに手を挙げた。

 

2,決意への道

 

何時までも落ち込んでいられないと言い聞かせているのに。闇の底まで沈み込んだ心は、なかなか浮上してくれなかった。

人食いとの戦いで心身共に疲弊しきった真由美は、機械的に修練をこなしながらも、何の実もない日々を過ごしていた。どうにも出来ない事があることを嫌と言うほど思い知らされ、どうやっても救うことが出来ない相手がいることも悟らされた。戦いに負けたわけではない。しかし完全な敗北感に包まれていた。

しばらく葉子も肥前守から出てこない。ふと訪れた、強烈な孤独感。それだけが、今真由美の周囲にあった。

零香先生は何も言わない。これを乗り越えることが試練だとばかりに、殆ど事務的にしか話しかけてこない。英恵さん他銀月家のみなさんはとても良くしてくれるのだが、傷が癒えるのとそれとは別問題だった。

道場からは、実戦同様の激しい修練音が聞こえる。最近は混ぜて貰って一緒に体をいじめ抜くのだが、さっぱり気分転換にはならない。学校の友達と一緒にアイスクリーム屋等にも足を運んでみたが、全く同じく。平和な日本の高校に通っている同級生には感情を読まれない程度の精神修練はしてきたつもりだが、やはり勘がよい子は、真由美の不調に気付いている節があった。だが、気付いてくれた所で、どうすれば良いというのだ。弱いって言う理由で人間社会からはじき出されて、人を食って生きている人がいるのだけど、どうやったら救えるのかとでも聞くのか。馬鹿馬鹿しい。

サイレントキラー氏を殺したとき、必用に応じて相手を殺すことの重みは覚えたはずだったのに。それなのに、人食い、佐伯さんに呈示されたあまりにも重い命題は、真由美を苦しめ続けていた。

ノルマの修練はそれほど辛くなくなってきていた。身体能力が上がっているのは分かる。色々な術も覚えて戦い方の幅も広がったし、もっともっと強くだってなれるはず。

それだというのに、気は沈みっぱなしだ。

縁側に腰掛けて空を見上げる。大分寒くなってきたが、まだまだ北海道の冬に比べればそよ風も同然。それなのに、風は身を切るようだった。

「ちょっといい?」

「……はい」

後ろから声を掛けられて、無感動に振り向くと、零香先生が立っていた。珍しくスポーツウェアではなく、正装の紋付き袴だ。黒を基調として、背中に月をあしらった家紋を入れている、何故か男物の袴である。何度か見たことがある。公式行事用の、零香先生の制服で、これを着ていると雰囲気が基本的に違う。一種の勝負着なのだ。

それで気付く。家の中に、既に大きな気配が零香先生以外に二つある。更に二つが接近している。その幾つかには覚えがある。多分家の中に既にいるのが淳子先生と由紀先生。接近しているのが赤尾さんと、もう一人知らないけれど零香先生に拮抗する実力の持ち主。多分名前を時々聞かされていた、黒師院桐という人だろう。拠点防衛型の能力者で、昼寝好きの「腹黒い人」だとか聞いている。

「ちょっとこれから仲間内で重要な会議やるから、周囲の警戒に当たって頂戴」

「はい、分かりました」

「もう少し力が付いたら、会議にも参加して貰うよ。 立ち直るのは苦しいと思うけれど、頑張るんだね」

「……」

意図的にこの状況へ追い込まれたというのは、薄々感づいていた。これが強くなるために必要なステップだというのも分かる。しかし、あまりにも冷酷すぎるのではないか。

無言は抗議のつもりだったのだが、零香先生は知ったことかと言わんばかりに、さっさとその場を後にする。その背中は強大な鉄の壁のようで、真由美の抗議など通りそうもなかった。

肥前守を掴んで外に出る。話を聞きつけたらしい、中月家の人達が外で仏頂面のまま立ちつくしていた。護衛のつもりなのだろう。微笑ましい話である。林蔵さんはというと、英恵さんと子供達を連れて外に出かけている。どっちかは必ず家に残るというのを、忠実に遂行しているわけだ。

表口から出るとうるさそうなので、塀を乗り越えて外に。順番に、狙撃をしやすい場所や、襲撃者が身を隠しやすい場所を見回っていく。一種の実戦である。不思議と、気分が楽になる。鍛え込まれたためか、実戦に身を置けば気が引き締まって、悩みはなくなる。しかしそれが何の解決にもなっていないことは、真由美も分かる。戦いが終われば再び悩みは戻ってくるし、気だって弛む。しかし、だからといって戦闘マシーンになるつもりは毛頭無い。戦うこと自体が目的化する事態だけはどうやっても回避したい。

誰にも見られないようにして、辺りを見回る。実際にやってみるととても難しい。通行人は結構気配に敏感だし、視線もかなり高速で動く。更に男性と女性とでは視界が違うし、子供には霊的な勘が備わっていることも珍しくない。だから、自分自身が身を隠す場所を確保しながら、辺りを気付かれないように見回るのはとても難儀なことなのだ。一週間ほど前から始めたが、露骨に見付かることだけは今のところ避けているだけで、何度も通行人や飼い犬などに気配を感知されてしまっている。日々上達はしているが、完璧にはほど遠い。それに、時間も掛かる。

一通り銀月家の周囲を見回り終わった時には、一時間以上が経過していた。しかし、それでも狙撃などの可能性を考えると、完璧とは言い難い。淳子先生の所で、狙撃の恐ろしさは散々叩き込まれた。その経験を元に、更に探索範囲を広げていく。

随分久しぶりに、葉子の声を聞いたのは、その時だった。

「マユたんってさ、真面目だよね」

「えっ……?」

「辛いんだったら、逃げちゃえばいいじゃん。 男を作って依存するとか、この場から逃げるのだって良いし、修練さぼったっていい。 幾らマユたんが頑張ったって、殺されたコロポックル達は帰ってこないんだから」

ストレートに傷を抉る言葉だった。普段だったら大げんかになっていたかも知れない。

だが、真由美は俯くだけで、言い返せなかった。この間の一件で葉子も相当深く傷ついていることは分かったし、それが正論だとも理解出来たからだ。

葉子は子供の姿さえしているが、膨大な数の悪霊を取り込み、何十年も学校に住み着き、大人の思考も理解している存在である。だから愛情で結ばれるカップルと同数以上に、依存を求めてくっつく男女が多いことは理解しているのだ。そして、それは決して恥ずかしいことではないと言うことも。

知識が付けば付くほど、発作的な感情の爆発は抑えられるようになってきた。このまま行くと、人が目の前で殺されても怒らなくなる日が来てしまうのかも知れない。強くなると言うことは、決して一般的な感覚で良い方向へと自分が進むことと同義ではないのだと、一言一言で思い知る。

しかし、もう決めたことは確かにある。それは誓いであり、決して破ってはいけない自分の法でもあった。

「でも、これが私の選んだ道だから。 ごめんね、葉子ちゃん。 私、逃げないよ」

「……ねえ、気付いてる? 此処暫く、歌が聞こえるんだけど」

不意に話を変えられて、真由美は一瞬脳が付いていけなくなっていた。既に空には星が瞬き、月明かりの下葉子は久しぶりに具現化して姿を見せてくれた。地上六十pほどの高さに浮き続けたまま、彼女は遠くを指さす。言われてみれば、遠くから不思議な歌がする。波長が独特だから、多分普通の人間には聞こえないはずだ。

「気付いてた? あの歌だけじゃない。 零香さんの家の周り、得体が知れない気配が異常に多いんだよ。 あの人、トレーニングのついでに掃除して廻ってるんだろうね、きっと」

「何が、言いたいの?」

「このまま進むと、この間の佐伯さんみたいなのと、延々とかち合い続けるって事。 少なくとも、零香さんの側にいればいるほどにね。 その時、マユたん、耐えられるの?」

それは、真由美を心底から心配しての言葉だと分かった。そして、とても甘い誘惑の言葉だった。

そうだ。普通の生活をする分では、あの佐伯さんのような人と会うことはまず無い。ぎりぎりの鍔迫り合いの中、信念を持った相手と殺し合うこともないし、何かを守ろうと必死な敵を傷付けることだって無い。

でも、その選択肢はやはり選べない。あの光景を見た以上、力の持つ責任を理解した以上。どんなに苦しくとも、逃げるわけには行かないのだ。

慣れるべきだ。真由美はそう判断する。熱い風呂でも、入っていればそのうち平気になってくる。厳しい環境に心を慣らして、強くなるしかない。

その決意を告げると、葉子はため息をついて、何も言わずに肥前守に戻った。謝っても、外には出てきてくれなかった。機嫌を損ねたのではなく、真由美が辛い道を行くのが悲しいのだろう。目を擦って涙を落とすと、真由美は頭を切り換えた。

零香先生もそうだが、あの人の家も強力な力を放っている。それに林蔵さんも相当な使い手だ。人ならぬ者が集まってくる条件は満たされている。人間に直接危害を与えるようなレベルの連中はすぐに掃除されてしまっているだろうが、それ以下のレベルになってくると、真由美が見回っても見つけることが出来そうだった。今は、あの歌と接触してみよう。そう真由美は決めた。

一度決めると、実戦経験が一気に精神を集中させる。一息にブロック塀に飛び乗ると、家々の屋根を伝って、直線的に歌の発生源へと距離を詰めていく。近づくと、歌がどんな代物か段々分かってくる。何か楽器を使っている。声は男のものだ。かなり若い。やがて、それほど大きくない街を抜けて、森に出る。夜の静かな森で、その歌はやはり異質だった。

木々の枝を飛び渡って、真由美は走る。やがて大きな木の枝に留まり、真由美はそれを見た。満月を背後に、弦楽器を弾く男の姿を。異様なのは、男が森一番かと思える巨木のてっぺんに座り込み、楽器を弾き鳴らしていることだろう。

「……」

目を細めた真由美は歌詞を解析してみようと思ったが、何処の言葉かさえ分からない状態だ。精神攻撃をされている雰囲気はないし、身体にも影響は出ていない。男は一目で生きた人間ではないと分かるが、悪霊というのも少し違う。何というか、歌から悪意が伝わってこないのだ。

真由美に背中を見せている男は、小柄である。体のつくりから言っても、子供ではないのは分かるが、しかし小さい。多分小柄な真由美とそう大差がないだろう。襤褸布のような、うす茶色の粗末な服を着込み、動物の毛皮で作ったらしい丸い帽子を被っている。帽子の尻からは、動物の尻尾らしいふさふさが垂れ下がっていた。開拓時代の米国人が被っていそうな帽子だ。にしては小柄なのが多少滑稽であった。

真由美はずっといざというときに備えて肥前守を握っていた。この男はあくまで囮で、近くに強力な悪霊なり実体化まがつ神なりが潜んでいる可能性は否定できないのだ。何を弾いているのかは真由美の位置からは見えないが、音から言ってギターでもウクレレでもないし、琵琶でもない。聞いたこともない音色だった。

「珍しい実体化まがつ神ですねえ」

「……っ!?」

「驚かない驚かない。 静かにしていないと、逃げてしまいますよ」

いつの間にかすぐ側に立っていたその人は、形のいい唇に上品に指を当て、真由美の驚きを制した。艶やかな髪が背中に流れる、黒一色に体を包んだ大人っぽい女性だ。かなりの長身である。優しげな瞳には知性の光があるが、それは少しばかり鋭すぎた。反射的に思い当たる。この人が、多分黒師院桐さんだ。

「歌を得意とする男神は女神に比べて圧倒的に少ないものです。 あれは例外の一つで、実に珍しいタイプの実体化まがつ神ですよ」

「黒師院桐さん、ですか?」

「ええ。 オカルト好きな女子高生、黒師院桐ちゃんです」

少しおどけて言う黒師院さんだが、真由美は敏感に悟っていた。瞳の中に宿る、知性と言うには苛烈すぎる光を。巨大な陰謀を自由自在に振り回す人なのかも知れないと、真由美は思った。

「あれは恐らく古代ギリシャの神パンの一種でしょう。 演奏しているのは草笛ではなくてキタラですが、後世で愛されたパンにはさまざまな属性が各国で付与され続けてきました。 零香ちゃんには感謝しなくてはなりませんね。 あんな無害で楽しいまがつ神を、この目で拝むことが出来たのですから」

「は、はあ……」

相づちを打つしかできない真由美だったが、この人がオカルト面で零香先生やその友達のブレインとなっている理由が分かった。冗談抜きにオカルトが好きなのだ。今のパンに対する語りも、心底楽しそうだった。好きこそものの上手なれという言葉があるが、その生きた実例が、今真由美の目の前にいた。

やがて、演奏は止んだ。木の天辺に座っていた男が立ち上がる。真由美は声を上げそうになった。下半身は明らかに人間のものではなかったからだ。足の曲がり方や毛の生え方などは、まるで動物である。振り返る。もう一度声を上げそうになる。あれほど美しい声色だったというのに、顔はまるで老人だ。白人系の彫りが深い顔に、白い髭がぼうぼうに生えている。目だけは異様にぎょろりとしていて、ピンポン玉のように張り出して、ぎらぎらと光を放っていた。なるほど、実体化まがつ神なのだと、真由美は実感した。

まがつ神の手にはギターの原型になったのかも知れないと真由美にも悟らせる、箱形の不思議な楽器があった。あれが「キタラ」だろう。パン神は暫く桐と真由美を見ていたが、桐に対して帽子を取って小粋な挨拶をすると、さっと姿を消し、森の闇へと紛れていった。

「元々かなり好色な神なのですが、人間に対して色気を出すようなタイプは、中世の暗黒時代にキリスト教系能力者によって殆ど狩られてしまいましたからね。 ああいう無害なタイプだけが、現在も細々と生き残っています。 それも能力者に見つけられたら、高確立で狩られてしまいますけれど、ね」

「……あんな無害な存在が、ですか?」

確かに容姿には驚かされたが、しかしあの神は歌っていただけではないか。しかも黒師院さんに対して小粋な挨拶をしてみたり、可愛い所もあった。狩るなんて、どうしてそんなひどい事が出来るのか。

「まずパン神はギリシャ神話のトリックスターであるヘルメス神の子でずるがしこく、キリスト教のサタンの原型の一つになった神です。 それだけに潜在能力は非常に高く、もし怒らせると危険な存在に変貌する可能性があります。 それに好色なあの神は人間の女性に悪戯することもあって、人間との恋の話も幾つか残っています」

「そ、それでも、あのパン神は……!」

「人間にとって鮫は鮫、豚は豚なんですよ。 米国の湖で、蚊のように体の周囲を飛び回って不快だからと言う理由で、無害なユスリカが駆除されたことを知っていますか? 人間って言うのは、いつの時代もそう言う事を平気で出来る生き物なんです。 それは負の僅かな一面だ等というのは、人間を知らない証拠ですね。 今後人間のために戦うなら、そういった人間の業を嫌と言うほど見せつけられ続ける事になる。 今後は人間とそれ以外をもっともっと天秤に掛けなければ行けなくなってくる。 力が足りないならなおさらです。 それが嫌なら、人間社会を離れるしかない。 能力者に世捨て人が珍しくないのは、みんな人間に愛想を尽かしているから、なんですよ」

まさに一刀両断。真由美は流石に意識が遠のくのを感じた。

この人の言葉には毒がある。由紀先生のように激しいわけではないし、利津先生のように純真な訳でもない。客観的に人間を見て、それを自分なりに理解している人なのだ。この人、もし条件さえあえば、喜んで人間を止めるかも知れない。そんな結論を、真由美は短時間で抱かされた。

黒師院さんが立ち上がる。夜闇に黒服が溶けるかのようだ。

「さて、と。 会議が終わったから連れてきて欲しいって頼まれていましてね。 帰りますよ」

「もう、そんなに時間が経っていたんですか?」

笑顔で見せてくれた金時計は、確かに真夜中を刻んでいた。今更徹夜くらいした所で翌朝の学校くらい平気の平左だが、それでも修練をする時間は惜しい。それにしても豪華な金時計だ。幾らするのだろうか。ひょっとすると特注品かも知れない。

「零香ちゃんが心配していましたよ。 さあ、帰りましょう」

言葉の前半部分は甚だ疑問だったが、断る理由はなかった。お腹も空いてきていた。お腹をみっともなく鳴らす位なら、悩みを抱えて帰る方が良かった。

 

帰ると紋付き袴を脱いだ零香先生が、いつものスポーツウェアに着替えて待っていた。夕食も用意してある。ご飯にみそ汁に焼き魚。もっとも、作ったのはお手伝いさん達だろう。零香先生は畳の床に足を投げ出して、眼鏡を丁寧に拭きながら言う。それにしても健康的で綺麗な足だ。栄養状態を完璧に保っているらしく、とくに弄った様子もないのに爪にはつやがある。

「会議で決まったんだけど、暫くは桐ちゃんの師事を受けて貰うよ」

「は、はい」

「今回の目的は、基幹になる術の開発。 つまり、戦闘スタイルの確立になるね」

ついにこの時が来た。真由美は高らかに決戦のラッパが吹き鳴らされるのを感じた。もしこの修練を完結させると、もう後戻りは出来なくなる。大きな悩みを抱えた今、それを確立できるのかという不安もある。進んでしまって大丈夫なのかというもっと大きな不安もある。大きな力には、大きな責任が伴う。その責任を背負うことが、今の自分に出来るのか。自問自答は虚しく流れていく。

隣の部屋では、淳子先生と由紀先生が談笑し、その隣で赤尾さんがストレッチしていた。体を揺らすたびにツインテールがひょこんひょこん揺れて、戦略爆撃機に近い戦闘スタイルを取る人とは思えない。可愛い。でも、そのかわいらしさを鑑賞する暇なんぞ無い。

さっきから、桐先生が真由美の手を引っ張ったり足を掴んだり、首筋を下から覗き込んだり、体を弄くりまわしているからだ。座らされたり立たされたり、擽られたりつねられたり。正直時々背中に変な汗が流れる。

「あ、あの、その……なんでしょうか」

「見ての通り、身体検査です」

「私の知ってる身体検査とは、大分違う気が……」

「そんな身体検査は犬の餌にでもしてあげなさい。 はい、バンザイしてください」

言われたままバンザイをすると、いきなり脇を両側から掴まれた。思わず変な声が出そうになって、真っ赤になって口をつぐんだ。しばらくセクハラもどきをしていた桐先生は、もう楽にして良いですよと言うと、少し離れて考え込む。

「どう? 結構みんな良く作ったみたいだけど」

「そうですね。 かなり良くできています。 これなら精神面さえ克服できれば、すぐにでもいけるでしょう」

「やっぱりそれがネックか。 この間、克服させようと思って人食いと戦わせてみたんだけど、却って落ち込んじゃったしね」

「みんな貴方のように、神経がチタン合金で出来てる訳じゃあないんですよ」

「酷いいいようだ」

零香先生と桐先生は、けらけらふふふと笑いあった。豪快な零香先生の笑いと、上品極まりない桐先生の笑いが重なると不気味である。更に、何の前触れもなく笑いがぴたりと止む。この人達の感情制御の人外ぶりは、真由美には怖い。

「で、何ヶ月で行ける?」

「変更無し。 私の仕事を代行して頂けるのなら、二ヶ月で仕上げて見せます」

「ふ……ん。 それならやっぱり問題はない、か」

「はいはい。 結局私の負担が増えますのね。 その代わり、きちんと資料面でのサポート、お願いいたしますわよ」

部屋に入ってきた赤尾さんが、半眼で零香先生を睨む。何の話をしているのかは真由美には良く分からないが、二つ確実なことがある。一つは、この人達がわざわざ集まって話し合いをするほどの事態がやはり起こっていると言うこと。もう一つは、この修練をクリアすれば、それを知ることが出来ると言うこと。もう一つ確実なことがあった。それを知ったら最後、多分細い糸でかろうじて真由美と繋がっている普通の女の子とか言う言葉は、完全に異次元の存在となる。

「一つ、聞いて良いですか?」

「ん? 何」

「もしその修練を終えたら……あのジェロウルっておじさんを、コテンパンにすることが出来ますか」

真由美の言葉は、座をしんとさせた。立ち上がって、真由美は思いの丈をぶちまけた。悩みを押さえ込むように。

「私が力を得たいのは、ああいう人に好き勝手に弱者を蹂躙させないためです! もう、二度と私の友達を、好き勝手にはさせない! そのための力が手にはいるなら」

「嘘言い。 そのジェロウルかて、他にしようもなくて殺戮の刃を振るったって、ええ加減気付いているんやろ?」

淳子先生が、一撃で真由美の図星を付く。立ち上がった真由美は、膝を突いてしまう。彼女がいる場所は、都合が良い正義と理想論で動く少年漫画の世界ではない。思想が力を決める世界でもないし、愛で全てが解決する世界でもない。血肉が通った人間が歩き回る、現実という名の修羅の世界なのだ。そこで物事を動かすのは力。リボンで纏めた綺麗な髪をなでつけながら、淳子先生は更に言う。

「桐ちゃん、この子頼むわ。 すこうし弱いけど、甘ったれでも阿呆でもあらへんから、きっと育てがいあるで」

「貴方がそこまで言うのなら、私としても楽しみです」

「二ヶ月後、楽しみにしているよ」

真由美は立ち上がれなかった。零香先生の友達はおいおい帰宅していった。その中、桐先生は帰らない。家がかなり近いのだという。それに、元々今日は泊まるつもりだったようだ。

零香先生は程なく修練に出かけていく。上品にお嬢座りをした桐先生と、俯いたままの真由美は向かい合って座っていた。やがて丸テーブルに手を伸ばし、煎餅を一つ取りながら、桐先生は言う。

「本当に、強くなりたいですか?」

「……はい」

「それなら、努力するしかありません。 いっぱい痛い思いをして、いっぱい苦しい戦いをして、それで自分でつかみ取るしかありませんね。 ちなみに、それを世間一般では地獄と言います。 地獄を抜けなければ、貴方が思っている敵と五分以上に戦う強さなど、絶対に得られはしませんが……いいのですね?」

ぱきりと、煎餅が砕ける音がした。真由美は無言で頷く。よろしい、と桐先生は言った。

「零香ちゃんのやり方を引き継いで、私が徹底的に貴方を仕込んであげましょう。 死ぬ気で、付いてきなさい」

笑顔の桐先生。とても整い洗練され考え抜かれた笑顔。しかしそれは、凶暴な肉食獣のものとしか思えなかった。

 

3,死の神

 

ギリシャ神話の牧羊神であるパンは元々民間で広く愛された存在である。口八丁手八丁で強大なオリンポスの神々を振り回し続けたギリシャ神話のトリックスター・旅と伝令の神ヘルメスの息子である彼(異説あり)は、下半身が山羊、上半身が老人であるという異形だ。しかしながら、好色でどじでおっちょこちょいで、憎めない性格である所が、後々まで人々に愛された。

愛されていた証拠として、後世にはパン神を題材にした曲などが作られたりしている。また、いわゆる星座占いに登場する山羊座は、強大な邪神テュポーンに追いかけ回された彼が、慌てて逃げようと変化した姿である。慌てていたため、魚になろうとしたのに、上半身が山羊で下半身が魚という訳が分からない姿になってしまったのだ。それだけ彼はどじでおっちょこちょいだったのである。草笛で楽曲を奏で、踊り狂うのが好きな神で、父とは似ず無害な存在である。好色とは言っても、彼は女性には大変に評判が悪く、もてたためしが無い辺りもまた微笑ましい。

基本的に後々まで愛されるキャラクターは、その性格が重要となることが多く、容姿はあまり関係ない。パン神はその見本のような存在だとも言える。

しかし、彼のように陽気で愛らしい神も、決して皆からまんべんなく愛されるわけには行かない。

キリスト教で彼は淫蕩の権化として夢魔インキュバスの原型とされ、またその異形からサタンの原型ともされた。キリスト教が蔓延するにつれてパン神は元の姿から歪められ、必然的にさまざまな側面からさまざまに否定された。実体化まがつ神化したのも仕方がないことで、しかしその殆どがキリスト教系の能力者によって討伐され、姿を消している。

また、パン神の信仰自体、ギリシャ時代末期には歪められ、ドラッグを使って狂乱する儀式の題材に使われていた。万能の神などと言う滅茶苦茶なこじつけがなされ、何人かのエセ哲学者によって持ち上げられた結果である。その辺りがキリスト教の攻撃材料にもなったらしい。元々パンは戦いの神アレスのように、ギリシャ神話に取り込まれた異境の神だという説もあるが、それでも陽気な性格を歪めて解釈されたのは事実。

どちらにしても、人間の都合で作り上げられた陽気な神は、人間の狂気によって歪みに歪み、人間のエゴによって討伐されていったのだ。これを悲劇と言わずになんと言おうか。

その数少ない生き残りが、O市に今来ている。歌で異性を呼び寄せ幻惑する力は弱体化しきってしまっているし、もともとパン神を知る者が殆どいない土地だし、力らしいものはほぼ発揮できない。それなのに、彼は傷ついた体を引きずって、O市でギリシャ語の曲を奏で続ける。

彼はある存在を探していた。千数百年も掛けて、世界中を旅して廻って、その過程でキリスト教関係の狂信的な能力者に何度も襲われた。それでも彼は旅を止めない。住みやすいギリシャにも戻らない。

彼を唯一好いてくれた存在が、この地にいると確信していたから。

 

一定時間内に走る事が出来る距離は、毎日伸び続けている。それでも、まだまだ力を付けたいと、真由美は貪欲に願っていた。それに、走っている間は、何もかもを忘れ去ることが出来た。だから此処暫くは、学校から急いで帰ると、すぐにトレーニングに向かうようになっていた。やはり、雑念を払えるというのは大きい。体力は疲弊するが、余っていてもロクな事を考えないのだから、むしろギリギリまで絞り込んだ方がいい。

基礎的なトレーニングが終わると、O市郊外の森へと向かう。そこは人家から距離があり、力の流れも優れていて、実戦訓練には最適な場所だったから、である。家が近いらしい桐先生と、休日は昼間のうちに、平日は夕方から夜、ここで手合わせするのだ。

森の奥、人の声が届かぬ場所で、いつも桐先生と待ち合わせする。古戦場か何か分からないけれども、力の流れが乱れに乱れ、小動物も近寄らないほど嫌な気配が充満している場所だ。周囲は鬱蒼とした森なのに、この一角だけ開けているのも気になる。一カ所、クレーター状に地面が凹んでいるのも気になる。

桐先生は真由美が来ると、地面に直径六十センチほどの円をかいて、その中へはいる。そして、其処から一歩も出ない。両手に十手を具現化させている黒服の死神は、屈伸運動をしている真由美を、指先で招く。

戦いが始まる。

情けないことに、真由美は一週間経った今でも、桐先生を円から出すことが出来ないでいる。相手は術の一つも使っていないと言うのに、である。

肥前守を抜いて、構える。笑顔のまま桐先生は動かない。じりじりと後ろに廻る。それでも桐先生は動かない。殺すつもりで行かないと、そもそも勝負にならないと言うのは分かり切っているので、不意打ち奇襲何でも駆使していくしかない。

地を蹴る。やはり桐先生は動かない。ジグザグにステップして、斜め右後ろから斬撃を叩き付けるが、軽く十手を上げるだけで防がれる。振り向きもしない。そのまま二度、三度と斬撃を入れるが、どれも十手で防がれる。下がりつつ薙刀に変えて、渾身の力を込めてチャージ。背中の一点へ、吸い込ませるように、一撃を放つ。

「てえあっ!」

そこで、ようやく桐先生が振り向く。チャージに対して、軽く身を鎮めると、柔らかく刃先を包むようにして十手で受け、そして僅かに体をずらしながら力を上に掛け、引き寄せる。そして真由美の足を払って、転ばせた。流石に背中から叩き付けられはしなかったが、地面に強烈に体を打ち付けて、真由美はしばし身動きが出来なかった。

「それで終わりですか?」

「ま、まだ、まだ……!」

今、桐先生が見せた投げ技の凄まじい練度を、真由美は理解出来る。今のチャージ技はあの人食いに一矢報いた、術での加速も含めた必殺の一撃である。それを術を使いもせずに、体捌きだけで苦もなく返して見せたのだ。しかも、体術面では零香先生に遠く及ばないとこの人は前に明言している。一体この人達は、どういう世界に住んでいるというのか。

それでも、まだ前よりはマシになっているといえる。最初の戦いの時などは、額を強烈にプッシュされて、それですっころんで頭を打って気絶。今回のように、恐るべき練度の技を、見せてくれさえしなかったし、真由美自身は受け身にすら失敗したのだ。それを考えれば、状況は格段に良くなっている。

立ち上がり、再び桐先生へ躍りかかる。真後ろから躍りかかったというのに、背中に目でも付いているかのように反応される。十手で受けられ馬鹿力で放り投げられて、何とか着地してバックステップ。距離を取り直す。数日間手合わせを続けて、どうにか分かってきたこともある。

工夫をしなかったり進歩を見せなかったりすると、この人は静かに怒る。一見分かりにくいのだが、しかし返ってくるカウンターが確実に荒っぽくなる。今も少し機嫌が悪かった。頭を冷やして、少しずつ間合いを計り直す。そんな時だった。

またあの歌だ。森の何処からか、真由美の耳にまで届いたのだ。あのパン神は、まだこの森にいると言うことだ。少し気が抜けた瞬間だった。がつんと物凄い衝撃が額に来て、思わずひっくり返る。頭を押さえで悶絶していると、少し高い所からため息が聞こえてきた。

「真面目すぎる。 真面目すぎるから、そうやっていちいち場に入り込んだ新しい要素を過敏に解釈しすぎるのです。 それくらい流しなさい。 或いは感覚の精度を今の十倍に上げる」

「す、すみません」

桐先生の片手に十手が具現化するのが見えた。と言うことは、気が抜けた今の一瞬に、十手を投げつけてきたと言うことになる。しかも刃が刺さらないように工夫して。悔しいけれど、この人達にはまだまだ勝てない。

桐先生は真由美に背中を向けて、パンの歌の方に向いていた。今がチャンスだと思うくらいでないと、この人達には近づけないのだろう。そう思っていたら、意外な言葉が飛んできた。

「何を探しているんでしょうねえ、あの神様は」

「探している、ですか?」

「十中八九。 あれは濃厚な恋歌ですよ」

それで桐先生の言葉の意味が分かった。無作為に異性を求めているのなら、この間見かけたときに此方に何かしらのアクションを起こすはず。それが一礼しただけで見向きもしなかった。単に此方が向こうの好みに合わなかったという可能性もあるが、それにしては反応が淡泊すぎる。

桐先生が円から出て、近くの切り株に腰を下ろした。休憩の合図だ。側には鞄が置いてあり、中には何とティーセットが入っていたりする。零香先生以上のお嬢様だという話は真由美も聞いていたが、この辺りはちょっと凄い。これで執事やメイドを常時引き連れていたらもっと漫画的なイメージそのままなのだが、流石にそこまではないようだ。お嬢様はお嬢様でも、実家の経済状態がかなり厳しいという説もある。

零香先生の家から、修練を開始するときに借りてきて、森に常備した折り畳み式のテーブルの上に茶を並べて、軽く一服。紅茶をひと啜りしてから、桐先生は言った。

「そろそろ聞こえるかと思っていたのですけれど、まだ何も感じませんか?」

「え? あ……はい」

「聞こえたら次の段階に行きましょう」

その意味が、まだ真由美には分からなかった。

 

ギリシャ語の辞典を探すのは大変だった。しかも現在のギリシャ語ではなくて、古代のギリシャ語なのだからなおさらだ。図書館の先生に聞いて、隅から隅まで調べまわすも発見無し。休日の開いている時間を使って、市立の図書館で司書さんに聞いて、ようやく発見できた。分厚い時代がかった本で、重さもキロ単位である。多分聞いたこともない値段が付いているんだろうなと思いながら、聴いた歌詞を少しずつ並べ直して翻訳していった。雑念が入らないように図書館の個室で。パーティションに区切られた個室が三十ほど用意されている、良い図書館だ。最近は図書館の出入りが大分少ないので、かなり集中して翻訳を行えた。

そして三十分も経った頃には、頭が真っ白になっていた。

呆然としている真由美の袖を、葉子が引っ張っている。桐先生との修練が始まってから、前のように少しずつ出てきてくれるようになったのだ。個室はカギを掛けているから、見られる恐れはないと言うこと。図書館自体、霊体と相性が良くて具現化が出来ると言うこと。などなどの理由から、無言で具現化していて翻訳作業を見ていた葉子だったのだが、流石に固まっている真由美を見かねたのだろう。我に返った真由美は、葉子の目からさっと翻訳した紙を隠す。子供に見せるものではない。

「どしたの?」

「な、なんでもないよ。 う、うん、なんでもない。 何でもないから」

「おかしなマユたん」

つまみ食いに行く気配もなく、葉子は空中に半端に浮かんだまま、足をぶらぶらさせている。真っ赤になったまま真由美は葉子から翻訳文を隠し、これからどうしたものか頭を抱えた。

古代社会は近親相姦が横行し、社会的なレベルで性に極めてオープンだった。その話を真由美は聞いたことがあったのだが。あまりにもこの歌の内容は強烈すぎる。素人の書くポエムというのは根本的に恥ずかしいものなのだが、これはそれとは全く別のベクトルで恥ずかしすぎる。

性的な語句のオンパレードで、要するに恋人と寝たいというのを極めて露骨にかつストレートに語り、実際に行いたい具体的なことに付いてまで触れているのだ。もし現代日本語に翻訳されていたら、恥ずかしくて聞けないだろう。パンクロック系な曲の歌詞も凄い代物だが、これに比べるとお遊戯レベルだ。ポルノ作家ですら此処までの物はなかなか書かないのではないか。

神妙な顔をしてあの山羊め。真由美は思わずぼやいていた。本当は甘く切ないラブロマンスでも歌っているのだろうと思っていたのだ。或いは古代ギリシャではこれがラブロマンスの歌になるのかも知れない。どっちにしても、真由美にはちょっと刺激が強すぎた。

気分が悪くなったのでトイレに行って顔を洗う。戻ってくると、葉子が隠して置いた紙を広げてじーっと見ていた。慌ててひったくって隠すが、半眼でじっと見られる。

「あのさ。 あたし、マユたんより年上なんだけど」

「そう言う問題じゃないっ!」

「で、その恥ずかしくてエロいポエムが、あの山羊爺さんの歌ってるのなんだ。 山羊って多産の象徴だって桐さんに聞いたけど、本当だったんだね」

首まで真っ赤になって俯いてしまう真由美に対し、意味を明らかに理解している葉子は全然平気の体である。頭から湯気が出そうになった。またあの曲を聴いたら、体がまともに動きそうにない。恥ずかしすぎて。

聞こえたら次の段階に移ると言われて、何かの参考になるかと思って調べてみたのに。今夜からまともに修行が出来るか心配だ。翻訳した紙をバラバラにちぎって捨てて、本を返して。帰る途中も、周り中に白い目で見られているような気がして、真由美は自然に足を速めていた。その帰り道のことである。

誰もが見ていない所に、それはいた。駅へと続く、O市最大の大通りでの事である。

この間の人食いさんと似た感覚である。都会のエアポケットに、その人は潜り込むようにして座っていた。電信柱の天辺に、猫のように。白いワンピースを着た、金髪の少女だ。髪はかなり長くて、腰まである。足は素足で、靴も履いていない。多分人ではないなと、一目で分かったが、悪霊の類とも違う。それにしても、かなり深くまで大気に露出している腿が目の毒だ。

行き交う人々は其方を見ようともしない。見えていない、という事はないはずだ。多分、注意を向けさせない何かがあの子にはあるのだ。真由美はそれを突き抜いて、あの子の方へ目を向ける事が出来たわけで、それまでは他の人達と同じように見てみなかったのかもしれない。

髪の色もあるが、顔の作りからしてどうみても日本人ではない。年は真由美と同じくらいに見えるが、白人系の女の子は早熟なので一目には判断できない。ひょっとすると、ずっと年下かも知れない。

口が動いている。しかし、声は聞こえない。単に動かしているのではなく、発声している様子なのだが。

行き交う人々の邪魔になると行けないので、真由美はさっと脇にずれて、観察を始めた。唇を読むなんてスキルは持っていないから、集中して声を聞き取るしかない。何だか眠そうに半分目を閉じているが、それが却って色っぽい。うす桃色の肌色と言い、首筋のラインと言い。かなり距離的に離れた真由美から見ても、反則的な色気である。

「何かの実体化まがつ神かな」

「うん。 何だろうね……」

背筋に強烈な寒気が走った。自分が見られていると、真由美は本能的に悟る。歌う少女に、ではない。何かもっとずっと禍々しい、出来れば関わり合いたくないものに、だ。戦闘態勢を取るも、気配はすぐに消えた。そして気が付くと、電信柱の少女も消えていなくなっていた。

「……」

唇を噛む。また、自分が意図せずしてとんでもない何かに関わってしまったのではないかという予感がした。そしてこの手の予感は、最近外れたことがない。北海道では仮にもコロポックル達の守護者をしていたのだ。

「今の、気付いてた?」

「うん」

「早く帰った方がいいんじゃない? 今の視線の主、多分零香さんとか桐さんとかが出てきて、初めて勝負になるレベルの相手だと思うよ」

「ん……うん」

歯に衣着せぬ葉子の物言いが、今は有り難い。というよりも、今感じたレベルの相手だと、気が付かないうちに首をはねられていた可能性も低くはないのだ。意地など張っている余裕は、ない。

それから真由美は、最大限に警戒しながら、銀月家にまっすぐ帰った。玄関を開けると、出迎えてくれたのは林蔵さんである。何でも零香先生は恩師の所で後進に軽く稽古を付けに行っているという。携帯をかけても出ない。

零香先生よりも、桐先生の連絡が先に来たのは皮肉か。掛かってきた電話に、ありのままを相談すると、電話向こうの桐先生の表情が一気に緊張するのが、真由美にも分かった。

「なるほど。 それで、その子の歌は……聞こえましたか?」

「い、いえ。 すみません」

「そうでしたか。 ……見ることが出来ただけでもマシ、と考えるべきですか」

待っているようにと言い残して、桐先生は電話を切った。道場では、林蔵さんの修練音が聞こえてくる。子供達は英恵さんが世話をしているので、今はどうにか一人、もしくは葉子と二人っきりになれる。自室に戻って、壁に背を預けてため息一つ。どうしてだか、この銀月家には結界の類も張っていないのに、鉄壁の要塞が如き安心感があるのだ。

三十分も掛けずに、桐先生が到着。英恵さんと随分フレンドリーに話し込んでいる様子から言って、この家には随分出入りしているのだろう。笑顔の桐先生を自室に案内する。ドアを閉め、英恵さんの気配が消えると同時に、桐先生の顔から笑顔が消える。笑顔のない桐先生は、別人のように怖かった。

「結論から先に言いましょう。 今回はある強大な組織よりも先に、先ほど真由美ちゃんが見た少女を確保することが任務になります」

「強大な組織、ですか?」

人間の組織が相手なら、今の真由美は互角以上に戦える自信がある。軍隊とかが相手になったら分からないが、地方のやくざレベルだったらどうにか壊滅できるだろう。武装が拳銃や日本刀レベルなら余裕で対処できる。しかし、桐先生がわざわざ強大などと前ふりを付けて言うのだから、そんなレベルの代物ではないと明らかだ。

「組織名はまだ言えませんが、O市には彼らの中でもリーダー格に位置する人間が来ている模様です。 それで、零香先生と私、それに真由美ちゃんで迎撃態勢を取ります」

「ちょ……っと、待ってください。 それほどの態勢で迎撃しなければならないほどの相手なんですか?」

「死者を出さずに済ませることが出来れば、幸運だと思ってください」

これは予想以上に洒落にならない。ひょっとすると、今まで交戦した相手の中で最強の存在が、これから姿を見せるかも知れない。生唾を飲み込む。自衛隊とか特殊部隊とかは助けてくれないのだろうか。O市には今、怪物が来襲しようとしているというのに……!

「それで、其奴らと戦うのが、今晩から数日後だと予想されます。 まあ、十日以上の時間はおかないでしょう」

「そんな急に、ですか?」

「というよりも、はっきり言って此処で真由美ちゃんに状況説明をしている時間も惜しい、と考えてください。 零香ちゃんが今見回っていますけれど、もし戦いが始まれば私はすぐに行かなければなりませんし」

そこまで危険な状況だったとは。真由美は今更ながらに、背筋を寒気が這い上がるのを感じていた。

「で、その時のために。 真由美ちゃんには、ちょっときつい自習をして貰いましょうか」

「? え……? あの……」

「真由美ちゃんを、一人前の能力者とする。 そのための基幹となる術を、これから数日で身につけて貰う。 あの子の歌が聞こえるようになってからなら万全だったのだけれど、そういうわけにはいかなくなりましたし。 覚えておいてください」

桐先生が術を紡ぐ。真由美は必死に覚え込む。今までの術の中で、一番力強く、そして不思議な響きの術であった。

「時間があるときは、私が稽古を付けます。 最大でも七日以内には、術を自分のものにしてください」

桐先生はなおも言う。術はただ唱えるだけでは使いこなせない。どんなタイプの能力者になりたいのか、はっきりしていないと初期設定が上手くいかないのだという。術が発動した後は、滅茶苦茶に上がった身体能力をどうにか制御して、せめて走れるくらいにはなっておかないといけないのだという。術の完成性質次第では、身体能力が必ずしも上がるわけではないそうだが、今から覚悟はしておいた方がいいだろう。

一緒に庭まで出る。竹林に出る真由美を、桐先生は笑顔で見送ってくれた。あの視線の主は確かに怖い。しかし今教わった術を使いこなせば、場数はともかくとして、戦える力が身に付く。それは魅力的な話だった。しかし、不安も大きい。

力を得て、自分が変わってしまうのではないかという不安もある。力を得て、本当に誰かを護れるのかという不安もある。今まで見てきた超一流の能力者は、真由美がたとえ今の十倍以上の力を手に入れても、誰かを守りながら戦うのは難しそうだ。しかし、それらから目をそらすわけには行かない。常に現実を把握しておかなければ、戦いには勝てないのである。

槍のようにそびえ立つ無数の竹。地面には細かい粒子の砂。零香先生も、桐先生も、今自分の戦いをしている。ならば真由美も自分の戦いをして、そして自分の主張を通せるように、必ずなる。

両手を広げて、目を閉じる。どんな術者になりたいのかは、もう決めている。

「空よ、海よ、地よ。 そのいずれにも潜む死の王よ。 ヤマと呼ばれ閻魔大王と呼ばれ、死者達の魂を統べる偉大なる王よ」

閻魔大王。真由美も知っている超有名な存在だ。インド神話ではヤマと呼ばれ、最初に死んだ人間。最初に死んだため、後から地獄へ来た人間を裁く責務を担ったのである。桐先生が閻魔大王の名を冠した術を組んでくれたときには、不思議な気分だった。自分がその力を駆使することになるなど、思いもしなかった。

だが、真由美は生者よりも死者と、色々な意味で関わってきた。一番の友達は死者だし、守っていた者達だってどちらかと言えば「死んだ」存在だ。社会的に死んだ存在をも守るという意味であれば、閻魔大王の力を借りるのも納得がいく。それでも構わない。

全身の力が吸われていくような、物凄い消耗だった。今まで唱えたどの術よりも、桁違いに力が強い。一気に額に汗が噴き出すのを感じる。背中に支えてくれる手。多分葉子だろう。感謝しながら、更に詠唱を紡ぐ。

「我は今生ける人。 いずれ汝の元へ赴く小さな命。 だが見よこの輝きを、冥界を照らす蜘蛛の糸を」

全身の力が抜けそうだ。詠唱の一語一語ごとに、百メートル全力疾走した以上の力が消耗されていく。

「その光を守るため、我に汝の鎧を貸し与えたまえ!」

 

桐の携帯に零香からのコールが届いたのは、夜半過ぎ。庭でぶっ倒れた真由美を回収して、寝かせて直後のことであった。側には葉子が付いているが、彼女も輪郭が定まっていない。この術では、葉子もかなり消耗するのだ。まあ、今日は初日だ。真由美は天才の素質を持っているが、いきなり最初からこなせるとは桐も考えていない。

今回、当初の予定では、陽の翼が何かしらのアクションを起こす前に、せめて真由美に神衣に相当する術を覚えさせるつもりだった。それを使えるように鍛えながら、次の段階へ進めようと思っていたのだが。呼び出し音に携帯を取ると、メールである。短く居場所と交戦中とのみ書かれていた。

今回、陽の翼の居場所を察知できた理由は二つ。一つは完全に偶然である。流れ者のパン神を調査していたら、たまたまちょっと珍しい実体化まがつ神を見つけた。そしてそれをも調べている内に、大きな気配の接近を察知したのである。

もう一つは、どうにか監視態勢を作り上げた日本政府からの協力要請である。彼らの麾下にいる探索系能力者の一人が、移動中の陽の翼の一人を見つけたのだ。ただし、後者のはかなり罠臭い。今までどうやらいるらしいとは分かっていたが、一度も姿を見せなかった陽の翼幹部の五人目が、不意に姿をこんな形で見せたことも気になる。写真は受け取っている。五人目は、女だった。

家を出る。夜中なので、誰も起こさないように。夜の街を駆ける。遠くで怯えきった犬が鳴いていた。遠くで連続して火花がひらめいている。一目で分かる。今までで見た中でも、最強と言っていいレベルの相手だ。

ざっと見たところ、零香は市街地で交戦開始、苦労しながら森に引きずり込んだようである。走りながら詠唱を進め、森にはいると同時に神衣を発動。驚くべき事に、零香はかなり苦戦している。即座に助けに入る必要がある。幸い、此処はかなり広い森林地帯だ。もし双方切り札をぶつけ合うこととなっても、被害は最小限に済ませることが出来る。

桐の眼前で、巨木が物凄い音と共にへし折られる。零香が叩き付けられたのだ。傷だらけの零香は、頭を抑えながら身を起こす。神衣の耳は既に片方が吹っ飛んでいる。連続して盾の術を唱えながら、桐は月を背に闇より浮かび上がった、歩き来る敵の分析を開始。

細い女だ。背は桐より少し低い。髪は黒くて短い。肌は浅黒く、目はかなり細く、柳眉で表情はほとんど無い。顔の作りから言ってM国ネイティブ系の人間だろう。

噂に聞いているアースダイバー・スナイパーとは少し違い、強大な理性で表情に仮面を付けている印象だ。細いと言っても体の筋肉の付き方は美しく、見事な戦士の肉体を形作っている。

軽量の西洋鎧をつけ、手には大振りの西洋剣。背中には長物を何本か差している。わざわざ持ち歩いていると言うことは、相当な業物だ。西洋的な格好だが、首からぶら下げている、恐らく太陽を模しているらしい木彫りの飾りがネイティブの誇りを現しているかのように見えた。周囲に四つの盾を浮かべた桐は、零香の肩に手を置き、回復術を唱え始める。零香は片膝をつき、敵を見つめたままである。

「高速機動型。 だけど、重さを武器にしてない。 スキルだけで攻めてくる」

「厄介ですね。 陣を張りますか?」

「……そう、だね。 よろしく」

女は一言も喋らない。切っ先を目の高さに水平に剣を構え、ゆっくりと間合いを詰めてくる。余裕の体だ。ジェロウルも相当な使い手だったが、この女は更にその一枚上を行く感触である。

基本的に、単純な戦闘スタイルを極めきっている相手はかなり質が悪い。能力者の場合は、性質を読めれば簡単に倒せる場合も少なくないのだが、こういう連中は単純に頭脳勝負になるので、いつ何時も気が抜けないのだ。

さて、二人になった時点で退いてくれればいいのだが。桐がそう思った瞬間であった。敵の姿がかき消える。桐が指を動かすのと、盾の一個に巨大な亀裂が走るのは同時。殆ど止まらず、更に二つ目の盾に大きな亀裂が走る。零香の攻撃でも、此処までのダメージが一気に盾に行ったことはない。戦慄を隠しながら、詠唱完了。今の攻撃軌道から読み切った敵の眼前に、キネティックシールドを具現化させる。凄い音がして、敵と弾きあう。構えを残したまま後ろ滑りして、構えを取り直す敵と、一撃で半壊したキネティックシールドを目を細めて見やると、桐は言う。

「これは……洒落になりませんよ」

「東堂氏と五分か、それ以上か。 確かにちょっと洒落にならないね」

しかし、零香は退かないだろう。この辺りは零香にとって大事な土地だ。土地に対する拘りは、桐にはないものだから、この考えは理解出来ない。しかし理解出来ないからこそ、尊重しなければならない。北海道でのジェロウル戦でも、危うく双方切り札をぶつけ合う所まで行く所であったという。零香と言い淳子と言い、戦い方がスマートではない。だからこそ、自分にないその思考を立てて行かねばならないのだ。

再び敵が動く。右、後ろ、左、木が音を立てる。幹を蹴って奴が移動している。その姿を捉えることも出来ない。パンと音がして、キネティックシールドが砕ける。だがそれは予想済み。詠唱済みなので、すぐに次のキネティックシールドが具現化し、そして条件が満たされる。アブソリュートディフェンスが桐の周囲に展開した。一定時間動かないと言う条件を満たして、陣が完成したのである。

それと殆ど同時に、前後左右上から、真っ黒な剣が飛び来た。それぞれが盾に柄までも突き刺さる。殆どは防ぎきったが、真正面から心臓へ向かってきた一本には対応しきれない。其処に零香が割って入り、二本欠けているクローではじき返した。

へし折れたクローの刃が、回転しながら地面に突き刺さる。

尻尾を揺らし、好機をうかがう零香の前に女が現れ、間髪入れずに袈裟掛けの一撃を叩き込む。剣を突き刺された盾はどうしてか制御を失っているので、十手を投げつける。零香自身も前に出ることで敵の一撃の威力を殺し、クローの残った二本の刃で敵の剣を受けきる。

零香のカウンターの膝蹴りが入り、眉をひそめながら離れようとする敵の脇腹を、桐が馬鹿力で投げつけた十手が掠め、激しい火花を散らした。僅かに態勢を崩しつつも、残像さえ残さず、奴は数度バックステップして二十メートルほど距離を取り、指を鳴らす。黒い剣が皆溶けるように消え失せ、盾の制御も戻ってきた。

今の攻撃で見るぶん、高速機動はかなり物理法則を無視している。風が不自然に動いた様子もないし、術による何かしらのトリックを用いた高速移動だろう。それに常識外の剣の腕を上乗せしているのだ。由紀のような運動エネルギーを利用した攻撃は出来ないだろうが、しかし盾に一撃で入った打撃を考える限り、まともに喰らうとかなり危ない。

女はグリーブ(鉄製の臑当て)に守られた足で軽く地面を叩きながら、ゆっくり桐の左から右へと移動していく。零香が立ち上がって神衣を再起動。回復魔法を掛けている暇は無いという判断だろう。桐だったら逃げることを考えるが、零香はこの戦力を生かして勝つつもりだ。

「零香ちゃん、無理は禁物ですよ」

「分かってる」

再び激突。

桐の防衛圏内を跳びだした零香が、無言で斬りかかる。女は軽く下がりつつ、二合、三合と攻撃を捌き、指を鳴らした。同時に、空から二十を越す黒い剣が降り来る。

真上から連続して降り注いできた黒い剣を、木が複雑に生える周囲の地形を利用しつつジグザグにかわす零香を横目に、桐は数度指を動かして、盾を剣の軌道上におく。盾を軽々と貫く恐ろしい音が響くが、どれも完全に貫通するにはいたらない。十手を振り上げたのは、真横にいつの間にか回り込んでいた女の一撃を受け止めるためだ。

激しい火花を散らし、十手に西洋剣が食い込む。殆ど同時に、動きを読み切っていた零香が、真横から女に強烈な蹴りを叩き込んだ。二本の木を吹き飛ばしながら吹っ飛んだ女だが、受け身もガードも完璧で、余裕で立ち上がってくる。追加で桐が投げつけた十手も、軽々とはじき返してみせる。

追撃に廻った零香。ジグザグに木を蹴って高速で近づくも、瞬間的に後ろに回り込まれ、蹴りを叩き込まれて地面に叩き付けられる。盾を支援に回し、零香にとどめを刺そうとする一撃を防ぎ抜く……が、それも敵の織り込み済みだったのだろう。女戦士は軽く盾を蹴ると、近くの木を掴んで、猛烈な蹴りを盾に叩き込んだのである。盾が死の鉄板となり、地面にめり込む。

零香が間一髪で反応し、横っ飛びに逃げなければ、彼女はミンチになる所だった。

逃げ延びた零香に、再び黒い剣が降り注ぐ。勿論、牽制がてら桐にも、である。その分桐は新しい盾を出して対応せざるを得ず、接近を許してしまう。零香は勿論間に合わない。抉り込むようにして、突き出される剛剣。十手で抑えるようにして軌道をずらし、アブソリュートディフェンスの特性を生かして力の掛かり方をずらしてやる。そのまま引きずり込めれば首の骨でもへし折ってやる所だが、アブソリュートディフェンスの正確な半径を把握したらしい女戦士は余裕で剣を引き、しかも駄賃に一個盾を真っ二つに両断していく。数歩下がって剣の身を舐めた女戦士は、疲労のひの字も浮かべていない。それに対し、零香も桐もダメージは小さくないし、疲労も少なくない。

強い。今回も桐と零香を同時に相手にしながら、様子見をしている感触だ。攻撃を喰らったときも、技を見るためわざと喰らっている印象である。此方もそれは同じだが、しかし肌で感じる。此奴は他の陽の翼とは一線を画している。女が指を鳴らすと、黒い剣は全て消え失せる。

「……何かこの地に拘りでもあるんでしゅか?」

二人同時に吹き出す。だが不意に口を利いた女は表情をぴくりとも動かさない。どうやら喋るときに空気が漏れてしまっているらしいのだが、それを周囲の誰も指摘してくれないのか、或いは直す気がないのか。まだ若い、真由美と殆ど同年代くらいだろうに、直せば直せると思うのだが。いやいや、これだけ日本語を使いこなせれば良しとするべきか。しかし、しかし、しかし!整った顔立ちで強い理性に身を包んでいるのに、もったいない!台無しである。

「しょれならば、貴方達も分かっているとおり、「死神」を渡しなしゃい。 そうすれば、我々としても、無駄な争いをしゅるつもりはありません」

よく見ると、前歯が一本欠けている。空気が漏れているのはそれからだろう。黙っていれば威厳が保たれているのに、喋ると台無しなのは、歯並びが見えないことも大きいのだろう。どういう理由で差し歯を入れずにいるのは分からないが、しかしやっぱりもったいない。

もったいないもったいないもったいないと身震いしている桐に対し、若干冷静なのは零香である。色んな変人に接し続けたことが大きいのだろう。銀月家の凄まじい歴史は、桐も聞いて知っている。

「聞くと思ってる? 悪いけど、今後も見かけたらぶっ殺すよ」

「……交渉決裂と、判断しましゅ」

女が片手を振ると、空から何か降りてきた。実体化まがつ神だ。四枚の大きな翼を持ち、全身は青黒い鱗に覆われている、鰐のような生き物である。全長はおよそ八メートル、最大級のイリエ鰐に匹敵する。これは恐らく、西洋のドラゴンの一種であろう。西洋は能力者の空白地帯だが、それにはドラゴンを始めとする実体化まがつ神の完全排除、キリスト教以外の能力者の排除が影響していると桐は聞いている。それを再生したというのか。

零香から噂は聞いてはいたが、しかし……恐るべき力である。しかも住処ではない日本で、これだけの力を保持したまま存在させているのだから。術に関する技術で、陽の翼が世界的な水準を遙かに超えているのは間違いない。

女はドラゴンに乗り込む。ドラゴンは此方を見たまま、不遜な動きを見せれば即座に喉を食い破るぞと、視線で威圧し続けていた。元々プライド高い実体化まがつ神に、此処までの忠誠を誓わせるだけでも、洒落にならない。撤退するのは、今回の戦闘が強行偵察中に始まった遭遇戦だったからだろう。

「一般人を巻き込むのは、私の主義ではありません。 しかしあなた方がそれに背く行為をしゅるようなら、私は容赦しません」

「殺し合いに容赦も何も無いよ。 いつでも受けて立つから、かかってくるんだね」

「そうさせてもらいましゅ」

女はドラゴンの背を軽く撫でた。一声、鋭い咆吼を上げると、ドラゴンは空高く舞い上がる。

後は静寂だけが残った。大きくため息をついた桐は、ぼんやり空を見上げながら言う。

「また、強烈な奴ですねえ」

「そうだね。 あの出鱈目な機動力については、解析よろしく。 まあ、あの黒い剣の性能を見る限り、大体見当は付くけれど」

「零香ちゃん、冷静ですね。 それにしてももったいない子です」

遠い目で女を見送る桐を、少し呆れたように零香は見ていた。そろそろ眠りたくなってきた桐は、帰る旨を告げて、その場を離れたのだった。

 

4,闇の鎧

 

目が覚めると、もう朝だった。

真由美は思わず跳ね起きて、じっと手を見た。昨日詠唱が終わってからの記憶がない。記憶がないと言うことは。頭を抱えてしまう。意識がブッ飛んでしまったのだ。まだまだ未熟。まだまだ力不足。情けなくてため息しか出ない。

葉子も疲れ切っているらしく、挨拶しても非常に気のない返事しか来ない。トレーニングウェアから制服に着替えて、鞄を掴んで自室の外に出ようとして、躓きかける。全身に針金が入ったかのような痛みだ。思わず悲鳴が口から漏れた。

「ひっ……」

「らいじょーぶー?」

「だ……だいじょ……ぶじゃ……ないかも」

特に足の痛みが酷い。腿がぱんぱんだ。居間に出るまでいつもの三倍掛かった。しかも、痛くて座れない。此処まで酷い筋肉痛は産まれて初めてである。ぎしぎしと不格好に歩く真由美を見て、結香が不思議そうに首を傾げていた。

零香先生はいつものようにトレーニング帰りの様子で、既に制服に着替えている。怪我をしている様子もないし、この分だと、昨晩は戦いがなかったのだろうなと真由美は思った。そうなると、真由美としても時間が確保できたことになる。一週間。一週間で、あの術を使えるようにならなければならない。かなり大変だが、時間はどれほどあるか分からない。

ご飯を食べて、学校へ。零香先生はどうしてか、今日ばかりは走って登校するいつもの習慣を強要しなかった。学校にたどり着くと、教科書類を並べて勉強しようと思ったが、足が痛くて全く集中できない。授業中も酷い有様で、級友が時々心配して声を掛けてきた。適当に礼を言いながら、弁当を食べようと昼休みに屋上に出る。そして、聞いた。

見る見る真っ赤になるのが、真由美自身にも分かった。例のヤギ神の歌だ。恥ずかしい歌詞が脳内でぐるぐる回り、顔から火が出そうだった。思わず耳を塞ごうとしたが、それに混じって別の歌が聞こえるような気がした。

「あ……あれ……?」

「マユたん、どしたの?」

「う、うん。 葉子ちゃんは聞こえる? あの恥ずかしい歌に混じって、聞き覚えのない歌が聞こえる……あれ? 聞こえたような……」

「気のせいじゃない?」

身も蓋もない葉子の返答。どちらにしても、この歌はまじめに聞くには少し恥ずかしすぎた。耳を塞いで教室に戻り、時間を無駄にしたことを嘆きながらそこで食事にした。

その後、授業を終えて帰宅するときには、もうあの恥ずかしい歌は聞こえなかった。その代わり、あの少女を再び見ることになった。

 

道に紅が差し、世界の色彩が変わり始めているその時間。ようやく少し筋肉痛が収まり始めていた真由美は、あの少女を見た。

同じように白いワンピースを着た少女は、今度は電信柱ではなく、民家の屋根に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら口を動かしていた。眠たそうに半眼で、どう考えても歌っているように見える。気のせいか。あの子の背中に、光の筋が見えたような。

足を止めて見上げる真由美に吊られて、下校中の男子生徒が屋根を見たが、すぐに視線を逸らして去っていく。やはり、他の人には見えないのだ。ぼんやりと眺めている内に、少女が口を動かすのを止めた。そして空を歩くように、ふわりと身を躍らせる。

「ちょっ……!」

慌てた真由美の声は無意味であった。少女はそのまま空を歩き出したのである。唖然としたのは、スカート部分を手で隠す様子がないことだ。風でスカート部分が足にまとわりつくのも厭わず、少女はぽてぽてと歩いていく。同じ性別の真由美から見ても恥ずかしい光景だ。恥じらいとかそういうものはないのか。

否応なしに、後を付けることを真由美は強制されたも同然である。そのまま小走りで少女の後を付いていく。彼女は真由美に気付いている様子がない。辺りには人気が多く、少女に近づくのはリスクが大きすぎる。零香先生くらいの身体能力なら、衆目を掠めてあの子を引っさらう位のことは出来そうだが。兎に角、今は走る。やがて、少女は病院の前で止まった。O市最大の病院である。

少女は空に階段でもあるかのように歩いていって、病院の窓に顔を突っ込んだ。ガラスがはまっているのだが、すり抜けている。病院の窓を眺め続けている真由美を、通行人が怪訝な顔で見ていた。

やがて、少女は(窓がはまっている)窓枠に腰掛けて、再び口を動かし始めた。そして真由美が目をそらした一瞬の隙に、またいなくなってしまった。

釈然としないまま帰宅した真由美は、再び昨日の術の修練に入った。体中が痛くて痛くて武術系のトレーニングはとてもいつも通りできないので、型をきちんと通して行い、素振りを三分の一だけやってから、一旦スポーツドリンクを飲んで、精神集中。同じように詠唱をしようと言う所で、後ろから声が掛かった。

「今日は無理。 やめておきなさい」

「あ、桐先生」

「今日は修練を最小限にして、回復に務めなさい。 無理をすると、却って術の修得が遅くなりますよ。 ただでさえ、貴方は普段無駄に使い流している力が多すぎるのだから」

そのまま殆ど半強制的に、修行時に休憩に用いている石に座らされる。座ってみると分かるが、桐先生はやはり長身だ。女性で長身というのは決して良いことばかりではないのだが、この人のそれはすらりとした体型もあり、かなり格好が良い。

「今日、ひょっとして別の歌が聞こえませんでしたか?」

「あ、はい。 はっきりではないですけれど、少しだけ」

「……ならば、術を完成させることが出来る日も近いでしょうね。 焦ることはないですよ。 明日からまた、じっくり頑張ってください」

「……あの子、一体何なんですか? あの歌、ひょっとして、あの子が歌ってるんじゃないですか?」

桐は笑顔を崩さない。誰でも推察できる程度のことだ。

「多分実体化まがつ神の一種なんだろうなってのは、私も分かります。 でも、何か変です、あの子。 人の目を反らすような能力を持っているみたいだし、歌は聞こえないし」

「まず仮説を聞きたいですね、真由美ちゃん」

「あの子、天使とか……ですか?」

「キリスト教におけるエンジェルは両性具有で、実際には男性的なイメージが強いものですよ。 それに一口に天使と言っても、九階級に別れていて、それぞれの階級ごとに象徴も仕事も違う。 その中でも最下層に位置するエンジェルはニケーと呼ばれる戦いの女神を原型にしている存在です。 そもそも天使の原型を作り出したのはゾロアスター教で、ユダヤ教、イスラム教、いずれも天使の概念を持っていて、キリスト教のそれとは根本的に雰囲気からして違っているのですよ」

安易な言葉を口にするなというプレッシャーが、桐の説には籠もっていた。それに今の話が主体だとすると、あれがエンジェルの実体化まがつ神だという可能性は極めて低いと言える。それに、歌とは結びつかない。

「それで、あの子をどうするつもりですか?」

「危険なようなら……何とかしなければいけませんし」

「危険性、自体はありませんよ。 まあ、自分で調査するのが一番良いでしょう。 幸い今日は修行をするには向いていませんし。 パソコンにでも向かったらどうですか?」

言われたままに、礼を言ってから、真由美はパソコンへ向かう。パソコンをこんなに実戦的に使っている高校生はなかなかいない。

調査は夜半にまで及んだ。ある程度の仮説は立てることが出来たが、図書館に行って念入りに調査した方が良さそうだった。ふと、遠くで強大な気配がぶつかり合ったような気がしたが、一瞬でそれも消えた。

真由美は気付いていた。この忙しい中、鋭利な頭脳を持つ桐先生が調査を許してくれたと言うことは、これに大きな意味があると言うことだと。そして例の組織とも多分関わっていると。間違いなく、保護対象はあの子だ。

体の痛みは少しずつ退いてきているから、明日は修練が出来る。今度こそ、あの術を成功させると、真由美は自分に言い聞かせていた。

 

翌日。図書館で女の子の調査をしてから帰宅。調べてみて分かったが、歌う女をモチーフとした存在は、民話や神話、童話などに数限りなく存在している。

古代の物で有名なのは、ギリシャ神話に登場するハーピーだ。はげたかと人間を足して二で割ったような姿をしていて、凶暴で不潔な怪物なのだという。ゲームなどでも良く下等な敵として登場する。ただ、これは死神としての存在もかねていて、北欧神話の死神ヴァルキリーと共通する部分も多いのだとか。ヴァルキリーは日本でも有名な死の女神だが、ハーピーと似通った存在だと分かると、少し不思議な気分である。

他に有名どころで言うと、ギリシャ神話のサイレンなどがある。セイレーンとも言われるこの存在は、海に出現する。そして船乗りに魅惑の歌を聴かせて海に引きずり込み、その肉を貪り食ったり、船そのものを難破させたりするのだという。ギリシャ神話時代には半人半鳥、後期のヨーロッパでは人魚の姿をしていると信じられたそうだ。此方はぐっと古い信仰がギリシャ神話に取り込まれた物らしい。ギリシャ神話に取り込まれて悪神、邪神化する神は珍しくないが、その一つとも言える。

同じくヨーロッパではバンシーなどが有名だ。泣き女と言われるこの妖精は、死人が出る家の側に出現して泣く。姿は醜く、肌は緑色で、鼻の穴は一つしかないそうだ。これも一種の死神だと言える。

東洋ではインド神話の迦陵頻伽(かりょうびんが)等がある。これは非常に美しい声で鳴くそうで、仏の声とも称される。これも半人半鳥の姿をしており、しかし死神としての属性はない。ただし、あの少女の姿を見る限り、どう考えても西洋系の存在であろう。他にも幾つか調べてみたが、歌は西洋では不吉の象徴だったのだろうかと、真由美は思った。醜かったり、綺麗な声で歌っても死を招く存在だったり、残虐な性格をしていたり。

真由美は決して歌が嫌いなわけではない。幼い頃の一時期は、当然アイドルに憧れたりもした。だからちょっとこの研究成果は悲しい。それにしても、西洋系の神なり妖精なりだったりすると、あの子は十中八九死神だろう。それもまた悲しい話である。どうにかそれが事実でないことが、今後の研究で分かることを祈るばかりだ。

帰り道。いた。またいた。

今度は、あの少女は、塀の上を歩いていた。バランス感覚が相当優れているらしく、全然落ちそうにない。時々通りかかる猫は少女が見えているらしく、上手いこと避けて歩いていく。話しかけるチャンスだった。小走りに駆け寄ると、真由美は周囲に人がいないことを確認して後、言った。

「あ、あの。 私の声、聞こえますか?」

少女の足が止まる。少し驚いた様子で、真由美を見る。

『なんですか? 人の子よ』

「ひあっ! な、なに?」

『テレパシーとかあなた方が呼ぶ力です。 元々私は、この国の言葉を知りません。 こうやってコミュニティを取るしかありませんし』

「……その。 貴方のことを知りたいです。 貴方は死神なんですか?」

不思議そうに小首を傾げる少女。苦笑した真由美は、頭の中で集中して言い直した。そうすると、返事が来る。

『積極的に死を呼ぶ神という意味ですか? それは違いますわ。 死に呼び寄せられる神ではありますが』

『そう、なんですか』

『古代には生きた人間の命をもぎ取っていくような神も作られましたが、殆どの「死神」は死を悲しんだり魂を冥界に運ぶ存在ですわ。 人間が勝手に死ぬのを、後始末する神であることが殆どです。 それなのに、西洋では随分迫害されてきました』

少し安心した真由美は、胸をなで下ろした。今の話を信じるならば、病院での人の死に、この子は関与していない。戦う必要は、無い。

ぴんと来た真由美は、ダメ元で聞いてみる。

『パン神は知っていますか?』

『ん? ああ、あのお爺さん。 知っていますわよ』

『この街にいます。 多分……貴方を捜して』

『ふうん……それで? 私には関係ありませんわ』

恐ろしいほどに突き放した物言いであった。絶句してしまう真由美の前で、死神少女はふらりふらりと歩いていく。

『私には貴方達で言う生殖と言う概念はありません。 パン神は嫌いではありませんが、性愛を押しつけられても困るだけですわ』

『そ……んな……。 貴方を捜して、きっと何百年もあの神様は、世界中を廻っていたんですよ』

あのヤギとか考えていたのに、真由美はむきになってパン神を弁護していた。この辺り、真由美はやはりまだ「普通の女の子」なのだ。それに対し、ワンピースの死神は、至って淡泊だった。この神様は、「普通の女の子」ではない。

『私に与えられた役目は、人の死を悼み、歌うことだけです。 その他の機能は与えられていません。 人の姿をしているのは、もし私を見てしまった人間がいた場合、怖れさせないため』

『……自我は、ないのですか?』

『残念ながら。 そうですね、例えば私の同胞を散々殺した人間が目の前にいても、何も感じないでしょう』

「マユたん、仕方がないよ。 それが実体化まがつ神、なんでしょ」

肥前守の中に入ったまま、葉子が言った。悔しいがその通りだ。

真由美だって知っている。実体化まがつ神というのは、人間がプログラム化した神の残骸だ。古代社会で、道徳の規範としてどうしても必要だった存在、神。社会の発達につれて必要が無くなり、プログラムとして残ってしまい、後はちぐはぐな動きしかできなくなってしまった者達。精神世界にいる本物の神々の一部の力を使って作り出された、可哀想な自動機械。

人間に危害を加える場合も多い。そう言った場合はむしろ分かりやすい。しかし、この眼前にいる少女のような場合はどうなるのだ。ただ死人が出るのを察知して歌うだけで、それだけで排除され、目の敵に追い回されてきたのではないか。しかも、それでも人間を恨んではいないと言う。恨む機能が与えられていないのだから。

恨む機能がある実体化まがつ神もいる。真由美も見たことがある。しかし、そうではないこの少女の方が、より悲しい存在だった。例え、危険ではなくとも。

この子は、壊れたロボットだ。人間が作って、必要がなくなったからゴミ箱に捨てた、壊れたロボットだ。

涙がこぼれてきた。少女は小首を傾げている。何故に真由美が泣いているのか理解出来ないのだろう。酷すぎる話だった。しかし、どうにも出来ない。

『せめて……パン神に会ってあげてくれませんか?』

『向こうが来るなら勝手にすればいい。 私は仕事を続けるだけです』

周囲を見回す。パン神の歌は聞こえない。気紛れならしく、いつも何の法則性もなく歌っているのだ。こんな時に限ってと真由美がぼやいて、振り返ったときには、もう少女の姿はなかった。

また、真由美は救うことが出来なかった。一体何度目のことだろうか。ひどい頭痛がした。

その日の修練は、今までにない程集中できた。やはり、真由美には根本的に力が足りないのだ。何かをするには力がいる。今の真由美には、何も出来ない。何も出来る段階ではないのだ。

今日は筋トレや素振りの類は一切無し。詠唱だけに全力を注ぐ。竹林の中に一人立った真由美は、両手を広げ、全神経を集中して、詠唱開始。

「空よ、海よ、地よ。 そのいずれにも潜む死の王よ。 ヤマと呼ばれ閻魔大王と呼ばれ、死者達の魂を統べる偉大なる王よ」

今はただ、強くなることだけを願う。余計なことは後で考えればいい。力を、力を、力を。力を得なければ、そもそも選択肢が得られない。力を得てからでないと、選択する権利すらがないのだ。漸く真由美はそれを理解した。数々の失敗の上に。

不思議と、消耗が以前ほど激しくない。ただ力を、力だけを。念じる真由美は、自然な流れの中で、詠唱を紡ぐ。

「我は今生ける人。 いずれ汝の元へ赴く小さな命。 だが見よこの輝きを、冥界を照らす蜘蛛の糸を」

体に不思議な変化を感じる。体の芯が物凄く熱い。肌が内側から焼けそうな程に、だ。

「その光を守るため、我に汝の鎧を貸し与えた前!」

全身から生気が搾り取られていく。だが、耐えられないほどではない。私は、死者の守護者。死者であれ、生者であれ、身近な弱者を護れるならばそれでいい。大事な人を守るためなら、襲い来る強者を傷付けることだって厭わない。私はエゴの塊かも知れない。しかし、それでもいい!

力を、力を、力だけを。そう念じ続ける内、真由美は光を見た。

目を開ける。

「マユたん」

「うん……成功したね」

今までにない至近距離で、葉子の声がする。理由は分かる。体で感じ取ることが出来る

手を見る。黒い手甲がついている。手甲は和鎧の物に似ていて、甲の部分は金属で覆い、指先は丈夫な黒布で包んでいる。体を触ってみる。全部が鎧というわけではなく、上半身は胸部分だけを金属が覆い、腹はかなり防御が薄めになっている。ただ、網状の繊維が覆ってはいた。鎖帷子という奴に似ている。臑当てはそのままブーツに近い形状で、足を動かしてみると少し重いが、しかし身軽さ自体は阻害していない。少し体を回してみると、背中にはマントがあった。不思議な質感のマントだ。腰には肥前守がある。分かる。術で、鎧そのものと一体化している。

そして気付く。この鎧、体そのものとも一体化している。恐らく、零香先生が以前見せた、神衣という奴と同じだ。そしてそれは、葉子の変じた姿でもある。

全身から力が沸き上がってくる。しかし、少し強烈すぎる。黒い力が体のありとあらゆる箇所から吹き上がり続けている。つまり、鎧を付けているだけで力を消耗していくというわけだ。

歩いてみようと思って、失敗する。唖然とした真由美は、歩こうとしただけなのに、何が起こったのか、必死に分析開始。

足下がふらついていると言うよりも、自分自身が巨大な鉄の塊になったような感触だ。関節が硬い。平衡感覚がおかしい。案の定、無理に歩こうとしても出来なかった。そのまま顔面からすっころぶ。派手に砂が吹き上がった。

「いったあ……」

「結局近距離戦闘強化型、ですか。 まあ、それにしては随分多彩な能力の持ち主に育ちましたけれど」

顔を上げると、腕組みをしたまま桐先生が太い竹に背中を預けて立っていた。立ち上がろうとしても、なかなか上手くいかない。というよりも、感覚が暴走している。つい力が入りすぎて、立ち上がるどころか今度は仰向けにひっくり返ってしまった。しくしく泣く真由美に、桐先生が慰めにならない慰めを言う。

「最初は零香ちゃんもそんなだったそうですよ。 もっとも、能力者として数年に達するキャリアがある真由美ちゃんなら、三日もすれば慣れるはずですけれど」

「あの人、一般人の段階から、こんなのを使いこなしたんですか?」

「一月ほどでね。 さ、休んでいる時間はありません。 決戦は何時来てもおかしくないのですし、せめて今日中に歩けるようになって貰いますよ」

化け物か、あの人は。乾いた笑いが漏れる。しかし、今日、真由美は大きな前進を得た。これを使いこなせれば、自分には選択肢が備わることとなる。

もう、少なくとも自分の間近では、あんな悲劇を起こさせない。真由美の決意を受けたように、黒い鎧は月の光を浴びて輝いていた。

 

5,光の剣

 

夜闇を走る。風を斬って走る。人気のないO市の闇の中を走る。家々の屋根を蹴って走る。零香は走る。

向かう先には、陽の翼の女がいる。かなりの速度で移動中だが、此処からなら捉えられる。戦闘時の動きは速いのだが、移動時の動きはそうたいしたことがないのだ。

零香には二つの歌がはっきり聞こえていた。一つはギリシャ語で、濃厚な愛の歌。パン神が歌っている物だ。もう一つはフランス語で、此方は鎮魂の歌。死神の少女が歌っている物である。後者はロックが掛かっていて、雑念があると聞こえない。どう考えても実体化まがつ神化したときの、プログラム的なバグなのだが、それが故に彼女は今まで狩られずに来たのだろう。バグとは不思議な物である。ごくごくたまに、こういった完全に想定外の効果を良い方向で産み出すことがあるのだ。

一週間で既に四度。あの女と交戦している。少しずつ戦況は良くなってきているが、しかし分からないことも多い。別に「死神」自体は珍しい実体化まがつ神ではないのだ。洋の東西を問わずにさまざまな伝承があるし、種類もさまざまなのである。それなのに、連中はわざわざリーダー格を投入してきている。陽の翼で言うと太陽神に次ぐであろう超重要人物を、である。

桐の仮説によると、あの死神こそが、負のエネルギーを回収するのに役立てた切り札なのではないか、という事であった。確かに筋は通っている。もしあの死神の中に、何処かしらから奪い取ってきた負のエネルギーを沢山蓄えているとしたら。しかしそうなると、他の面々も加えて全員で回収に来てもおかしくない。

まだ謎となる事柄は多かった。陽の翼の幹部だけが本当にこの国に来ているのか。負のエネルギーをそんなに集めて、一体どういう目的の、どういうテロを行おうとしているのか。独立運動のためというのでははっきり言って芸が無さ過ぎるし、M国で広い地盤を確保している陽の翼らしくもない。陽の翼は稼いだ金を貧民救済や、孤児の育成に使っているという話もあるのだ。それが無差別テロなど起こしたら台無しだ。陽の翼の人員は二千ほどだが、協力者の数は軽く百万を越えるという話すらもある。それだけいると、日本に紛れ込んでいてもおかしくはない。

桐から連絡。回り込むという。零香から返信。追い込む。

距離は徐々に詰まってきている。敵は当然気付いている。それにしても、不快なのは死神だ。元々殆ど自我がないのは分かり切っているが、追ってきている相手から逃げようともしないし、保護にも応じようとしない。まあ、自己保存の意識自体がないようなので、仕方が無いとも言えるのだが。

追加で桐から連絡が来た。真由美を参戦させるという。わざわざ連絡してくると言うことは、多分戦略的に用いるのだろう。あの子は戦略兵器的な術を持っていないから、抑止兵器として相手の行動を制限するために戦場に立って貰うわけだ。今はそれで良い。そのうち、超一流の使い手とも渡り合えるようになって貰う。

敵の動きが止まる。火花確認。交戦開始確認。上手い具合に人家がない森の中で戦いが始まった。ただし、今回は奴も本気らしい。零香が見た所、例のドラゴンらしき実体化まがつ神が参戦している。戦場へは、急ぐ必要がありそうだった。

 

O市郊外、森の中。ふらふら歩きながら歌う少女に、高速で接近する影一つ。それに向けて接近する影二つ。上空で旋回する影一つ。

激突。

弾きあった桐先生と鎧の女。少し遅れてたどり着いた真由美は、生唾一つ飲み下す。凄まじい力量の使い手同士がにらみ合っている。桐先生が素早く詠唱、周囲に浮かび上がる巨大な盾、合わせて五つ。無言のまま間合いを詰めた女の剣が、その一つに半ばまで食い込んだ。あんなに分厚い盾に、である。信じがたい剣の腕だ。桐先生が左手で印を切りながら、ちらちらと上空の影に視線を送っている。それに対して、激しく攻撃を仕掛ける女。一つ目の盾が吹っ飛び、二つ目の盾が砕ける。

死神の少女はふらふら歩きながら歌い続けていて、緊張感の欠片もない。女の隙を見て保護しようと走り込んだ真由美は、今までに感じたこともないほどに濃厚な殺気を覚えて、振り向く。いつの間にか、剣を最高の間合いで振り上げた女の姿。肥前守を引き抜く。剣閃と、刀閃が互いを打ち抜き合う。横殴りの一撃を、振り仰ぐように受け止めたが、受けきれず。真由美は五メートル以上も吹き飛ばされていた。女は舌打ちして、脇腹に目をやる。今の瞬間、桐先生が十手を投げつけてくれなければ、真由美は死んでいた。

叩き付けられた痛みは、思ったより大分緩い。それよりも、やっぱりまだ体が制御し切れていない。この四日間で何度も地獄を見たが、それでも、だ。奥歯をかみしめながら、真由美は立ち上がる。誰だか知らないが、あの子を傷付けさせはしない。弱者を傷付ける強者は悪だ。少なくとも、真由美の目の前で、それを許すわけには行かない。佐伯さんのような被害者を、二度とださせはしない。

死神少女の前に両手を広げて立ち塞がる。女は軽く立ち位置をずらすと、天へ手を翳した。桐先生の支援がある間は、真由美を簡単には倒せないと判断したのだ。

「……ファーフニール!」

「よろしいのか? 此方に接近している虎が如き女の押さえはどうするのだ」

「構いません。 しょっこうで決めます! しょの邪魔者の排除に全力を注ぎなさい!」

「了承!」

……今、何か物凄く可愛間抜けな喋り方をしたような。一瞬気が抜けた真由美だが、それも即座に吹っ飛ぶこととなる。

旋回していた何かが、高速で飛来するのを目視したからだ。あの女の言葉を信用するとなると、馬鹿でかいさっきの声の主で、多分名前はファーフニール。何処かで聞いたような名前だが、分かるのはただ一つ。プレッシャーが、あのシレトコカムイよりも更に大きいと言うことだ。桐先生はあの女らしい光の線(悔しいが、動きを見切ることも出来ない)と激しい戦いを演じていて、とても此方を助けに廻る余裕はないだろう。しかし、これでいい。

少なくとも、戦略的にこれで桐先生は有利になっている。戦略的には今、真由美は状況に貢献しているのだ。そしてこの黒い鎧の術を身につける前だったら、それすらならなかった。頬を叩いて気合いを入れ直す。自分は力があると言い聞かせる。

振り向くと、まだ死神少女はふらふらと歌っている。無言のまま抱きかかえてダッシュ。抵抗する様子もない彼女に、流石に真由美も苛立ちを感じる。背中からは、ぐんぐんファフニールの気配が近づいていた。

『どうして逃げないんですか!』

『逃げる? どうして? くすくす』

『このままでは、殺されてしまいますっ!』

『言ったでしょう。 私にはそう言った感情が作られていないし、まがりなりにも神である以上今後も作られる可能性はないのですわ』

「それは、嘘ですっ!」

思わず叫んでしまった。腕の中で怪訝そうな顔をする死神の少女に、迫り来るファーフニールをちらちら見ながら、真由美は続ける。

『私が守っていたコロポックル達は、実体化まがつ神の一種でしたが、学習をすることが出来ました! 貴方が如何に不完全な存在であったとしても、学習そのものは出来るはずです! 神であろうと、不完全な人間の理屈で作り上げられた以上、その存在は完璧では有り得ません! 貴方は、可能性を放擲してしまっています!』

『それは貴方の理屈でしょう。 私には、そもそも可能性って概念もないの。 降ろしなさい。 あの大きな竜の狙いは、私ですのよ』

『だったらなおさら、降ろすことは出来ません!』

ファーフニールは見る間に迫ってきている。黒い鎧を装着している真由美は、たどたどしいながらも自動車並みの速度を出しているのに、だ。鋭く空を斬る四枚の翼、明々と輝く目、そして大きく開いた口の奥に集まる光。不意に真由美は生い茂る木々の中へサイドステップして紛れ込み、ブッシュの中へ突っ込んだ。死神少女を降ろすと、彼女の手を引いて、体を低くして駆ける。これで上手くいけばまけるはず……だが。

いや、無理であった。詠唱開始。間に合うか。空では更に殺気が濃くなっていき、そして爆発した。

巨大な火球が、ファフニールの口から放たれる。

ブッシュの真上に、小型のキノコ雲が出現した。

静寂。広がる煙。そして消えぬ命。

シールドの強度が明らかに上がっていた。以前だったらはじき飛ばされていただろう今の火球の直撃を、黒い鎧で強化されたシールドは完璧に防ぎきった。しかし、消耗もそれに比してでかい。何度も術を唱えていられない。更に言えば、煙に猛烈な違和感を感じた真由美は、ぼんやりしている少女の手を引き、自らも口を押さえながらすぐにその場を離れようとする。

毒だ。今の火球、破壊力だけではなく、炸裂と同時にこんな効果まで持っているとは。

しかし、今は煙で視界が遮られている分、此方が有利である。短く詠唱してライフルを作り出すと、ゆっくり旋回して出方をうかがうファーフニールの影を目掛けて狙撃。翼を狙いたい所だが、そんな余裕もない。二発続けて放つと、真由美は煙幕から飛び出した。やっと息が出来る。少女はガスを吸い込んでしまっていないか不安だったが、見たところ大丈夫そうで、一安心であった。

自分の影が大きいことに気付いたのは、直後のことである。

「……っ!」

振り下ろされる巨大な前足。何時の間に至近に来ていたのか。フクロウ並みの消音飛行性能だ。必死になって少女を抱きしめて横転する。顔のすぐ横を、巨大な爪が抉り、地面に突き刺さった。土煙が顔に掛かる。そして、なま暖かい得体が知れない息も。肥前守を抜き、全速力で下がりながら薙刀に変える。鎌首を巡らせ、子供ならひと飲みに出来そうな巨大な口が、土煙を食い破って躍り出、真由美にかぶりついてくる。

ゴオオアアアアアアアアッ!

「せいっ!」

気合い一閃。振り下ろした薙刀が、ファフニールの上顎、鼻先を直撃。とんでもない硬度を誇る鱗を突破することは出来なかったが、鼻白んだ様子で、少しだけ後退する巨竜。その腹辺りには、ライフル弾が直撃した跡が確かに二カ所あったが、全く動きは鈍っていない。全身を覆う鱗によって防がれたのだ。恐るべき敵から庇うように、真由美は少女を背に、更に詠唱。今なら分かる。葉子と半融合した今だからこそ分かる。この間、人食い、佐伯望実さんに葉子が放った斬撃の正体が。

巨体を揺るがせ、ファフニールが再びかぶりついてくる。間に合う。この速度なら。頭が嫌にクリアに働く。詠唱完成。目を見開く。そして見る。薙刀を覆う、途轍もなく高い密度の力を。そして、僅かながら生じている、空間の断層を。そのまま、ためらわずに、真由美は真横に振り抜いた。

ファーフニールの巨大な牙が一つ、根元から切り裂かれて、宙に舞った。

「むうっ……!」

苦悶の声を巨竜が上げるが、同時に嫌な予感。巨竜が二歩下がりつつ、僅かに体を横にする。視界の隅から何かが高速で迫ってくる。追撃するか、それに対処するか。それとも。コマ送りのように流れていく世界。……守りに廻るべきだ。

殆ど本能的に、薙刀で迫ってくる何かをはね除ける。しかし。相手の方が一枚上手だった。迫ってきていた何か、槍のように鋭いファフニールの尻尾はミミズのように柔軟に動き、槍から鞭へと身を変え、強か真由美の腹を打ち据えたのである。血が食道に逆流するのを感じた。

ふらついた所を第二撃。顔面へ繰り出される槍の如き尻尾の先端。尻餅をついている少女の気配が後ろにある。まずい。此処で退いたら最後、彼女は死ぬか連れて行かれて、何をされるか分からない。真由美ごと、吹き飛ばそうとする連中だ。無事で済むわけがない。

踏ん張る。むしろ前に出て、一息に薙刀を振り下ろす。吹っ飛ぶファフニールの尻尾。しかし、それは切り落とされながらも、真由美の肩の鎧を貫通、突き刺さっていた。更に、真横から、小型の火球が飛来。今の短時間で巨竜が練り上げた物だろう。ガードする暇など無い。

直撃した。

背中から地面に叩き付けられる。舞い上がる。今度は顔面から地面へ。転がる。

全ての感覚が遮断して、戻ってきたときには全身を覆う痛覚に入れ替わっていた。鎧の損傷も激しい。肩を貫かれた、左腕が動かない。それなのに、間近で感じる巨大すぎる竜の気配。そして、側に立つ少女の気配。目を開ける。視界が定まらない。体がバラバラになってしまったように、感覚が不安定だ。しかし、恐怖はない。守るべくして得た力、今使わずしていつ使う。立て、立ち上がれ、立ち上がるんだ、高円寺真由美!叱咤する。自分を必死に励ます。

聞き慣れない言葉。少女の声だ。竜もそれに応えている。意味は理解できないが、わかる。少女は、真由美を守るために、自分を犠牲にしようとしている。心が通じた喜びを感じている暇など無い。

叫ぶ、立ち上がる。竜の目に驚愕が二重に浮かんだ。一つは場に飛び込んだ影が、少女を抱え上げ、飛び去ったと言うこと。もう一つは、血だらけの真由美が、右手に薙刀を構えたまま、立ち上がったと言うことだ。

薙刀を肥前守に戻す。そのまま脇近くに引きつけ、突撃。これが最後のチャンスだ。困惑しながらも、巨竜は判断を誤らなかった。巨大な翼を広げ、跳躍。空に逃れる。窮鼠の一撃を受け止めようとするよりは、その間合いから逃れる方がいいのは自明の理。しかし、その判断は予想済みだ。

右肩を回して、下投げで、肥前守を投擲する。最後に残った力が、その刃にはまとわりついていた。

飛んだ肥前守は、猛禽のようにファフニールの翼の一つに食らいつき、叩き落としていた。バランスを崩した巨竜は、悲鳴と共に地面に落下する。だが、流石に古豪。落ちながらも、真由美に小型の火球を放っていた。

これでいい。あの少女は、さっき場に入り込んだ気配、多分パン神が引っさらって逃れた。直撃しても、傷つくのは自分だけで済む。そして、零香先生がもう側まで来ているはず。

あの子は、助かる。

「マユたん! マユたんっ!」

葉子の声が遠くから聞こえる。だが、もう応える気力も残っていない。落ちてきた肥前守が地面に突き刺さる音。火球が迫る音。落ち行く意識の中で、真由美はその二つを、至近にて同時に聞いた。

 

間に合った。

場に飛び込んだ零香は、倒れ込む真由美を左手で支えつつ、右手で火球を斬り払った。吹っ飛んだ火球が煙をまき散らす。真由美を抱えたまま、零香は突撃。煙を吹き飛ばしながら跳び出し、態勢を立て直そうとする巨竜の鼻面に蹴りを叩き込んでいた。したたか上あごと下あごをかみ合わせた竜は、必死に下がり、零香から逃れようとする。真由美の冥王鎧の術が解除され、消耗しきった葉子が光体になって肥前守に戻る。その様子を横目で見ながら、気絶している弟子に、零香は呟く。良くやったね、と。真由美が知ったら驚くほど優しい目で。

真由美を降ろすと、一歩、二歩、進み出る。ファフニールが動く暇を与えない。振り下ろされた尻尾を軽く撫でるようにして力の作用点をずらし、間合いの内側へと滑るように潜り込む。前足を振り下ろしてくるファフニールの視界から外れ、全身をバネにして跳躍、下あごを全力で蹴り上げた。数トンに達する巨体が五メートルほども浮く。

だが、敵も然る者。伊達に古豪ではない。翼を使って威力を最大限に浮かしつつ、小型の火球を真由美に向け乱射してくる。当然零香は下がってそれの対処に当たらざるを得ず、その隙にファフニールは下がって間合いを取り直す。近接戦闘の力量はシレトコカムイより若干劣るが、しかしパワーと毒ガス入りの火球の能力を持ち、更に能力にリミッターが掛かっている分此奴の方が手強い。ならば手加減無し。潰す。態勢を低くし、構えを取り直す零香。それを見た竜は、正しい判断を下した。

「……ちっ。 主君! 引き時かと思うが!」

桐相手に押し気味な戦いを勧めている女戦士が、飛びずさって距離を取る。当然の話である。ファーフニールの戦闘パターンは、既に零香の把握下にある。真由美が体を張って集めてくれたためだ。戦略的に非常に役にたった。そしてその結果、このまま戦いを続けた場合、女戦士が桐を倒すよりも速く、零香がファーフニールを屠り去るのは確実。そうなれば、疲弊した女戦士は、零香と桐の同時攻撃を受けることになる。素人でも分かることだ。それに、あの偏屈な死神が真由美に心を開いたのは、完全に予想外だっただろう。

問題は、あの女戦士がまだ本気を出していないと言うことだが、零香も桐も余力を残している。更に、守勢に強い桐は、まだまだ余裕で女戦士の攻撃を持ちこたえること疑いない。例え、相手が本気モードになったとしても、だ。さて、どう出るか。増援が来る可能性もあるが、その場合はこっちも東京で待機中の政府側能力者を呼び集めるだけだ。それに、だ。

死神を背負ったパン神は、零香の家に直行している。あそこなら父さんがいる。神子相争が終わった後も腕を磨き続けている父さんは、はっきりいってその辺の能力者よりも遙かに強い。事情は既に話してあるし、何があっても大丈夫だという安心感がある。

思案していた様子の女戦士は、小さく嘆息した。

「あの未熟な子を、良く短期間であそこまで育て上げましたね。 感心しましゅ」

「何、土台はしっかりしていました。 其処にカンフル剤を打ち込んだだけですよ」

「……ファーフニール。 退きましゅよ。 貴方は先に上がりなさい」

「はっ」

悔しそうに頭を下げると、口を血だらけにした巨竜は舞い上がり、西の空へ消えていく。どちらにしても、消耗した奴一体では父さんに勝てない。

ゆっくり歩み寄る零香。戦闘態勢を解除せずに聞く。

「さて。 出来れば話して貰えないかな。 貴方達みたいな誇り高い戦士が、こんなダーティーワークを続けている理由を、さ」

「我らが同胞のため」

「M国に対して独立戦争でも仕掛けるつもり? 君達の協力者が百万を越えるってのは知っているけれど、だからって無茶じゃないの?」

今のは勿論鎌掛けだ。それを当然のように見越した女戦士は、苦笑を浮かべるだけだった。桐が会話を引き継ぐ。

「それに、一体誰に対してどんなテロを仕掛けるつもりですか?」

「鋭いのは認めましゅ。 しかし、それで私が口を割ると思っているのでしゅか?」

「いーえー。 襤褸を出す事を期待しているだけです」

「面白い人でしゅ。 でも、そんなヘマはしません。 誇り高き天翼の名にかけて」

「……もうあの死神を奪取するのは無理でしょう。 真由美ちゃんが心を開かせましたし、これから我々の完全な保護下に入りますし。 どうするつもりですか?」

不意に話の切り口を変えた桐に、女戦士は感じがいい笑みを浮かべてみせる。根は優しい人なのだなと、零香は悟る。

「これ以上の作戦継続は無意味。 よって撤退しましゅ」

「……信じましょう。 出来れば、この国でもうテロを繰り返さないで欲しいのですけれど、それは無理なのでしょうね」

少し悲しそうに女戦士は首を横に振った。彼女が感情を持ち、この任務を必ずしも喜んではいない、しかし信念に基づいて動いている良い証拠であった。話している間も一切隙を見せなかった女戦士は、音もなく場から離脱した。意外であった。移動速度は案外遅かったので、こんな撤退技を持っているというのは予想の外だった。敵が完全に戦闘圏内から離脱したことを確認した零香は、肩を回して筋肉をほぐしながら言う。側の地面には、意識を失っている真由美が、静かに寝息を立てている。生命に危険はない。

「これで、はっきりしたね。 連中は「死神」を必要としているけど、「あの子」が絶対に必要だというわけではない。 それならもっと多くの戦力を投入してきていたし、この状況下でも、意地でも取りに来ただろうし。 わたし達と、ガチで殺し合いになって、戦力の大きな消耗が発生したとしてもね。 あの女戦士は、明らかにそれを拒否した」

「後は、あの死神の解析ですが、そちらは私が引き受けます。 それと……これは仮説ですが。 やはり連中の目的は、抑止兵器の製造ではないでしょうか」

「根拠、聞かせてくれる?」

「今の女戦士の力量から言って、太陽神は更に強力な能力者だと言うことがほぼ結論できると思います。 それならば、核兵器級の術を使うことも、今陽の翼が集めている膨大な負の力の量を考えれば可能であるかもしれません」

抑止兵器。存在そのものが戦略上の切り札となる兵器のことだ。最も有名なのは、言うまでもなく核兵器である。それに相当する物を、連中は作り上げようとしている。それは零香も初期から考えていたが、桐に言われて確信した。やはり別の角度からの考察は心強い。

ただし、術による、という所が問題だ。核兵器と違って存在がメジャーでない術は、当然抑止兵器化するにはデモンストレーションを必要とする。連中は一体どういう手段によって、デモンストレーションを行うつもりなのか。

更に言えば、独立国家を作った所で、抑止兵器の拡散には現在世界中が神経をとがらせている。国際的に孤立して、二千や三千の人口でやっていけるのかという現実的な問題もある。切れ者であると噂の太陽神は、その辺りどう考えているのか。或いは、現実世界上での国家建設などには興味がないのか。それとももっと俗物的で、M国の実権掌握や、或いは米国を屈服させることでも考えているのか。

核心には確実に近づいている。だが、まだまだ分からないことが多すぎる。

零香は真由美を背負うと、桐を促して帰宅する事とした。帰る途中に政府関係者に連絡を入れ、家にも連絡。今は熱いシャワーが浴びたい。そして真由美の成長を祝いたかった。

 

6,分岐点への道しるべ

 

都内某所。薄暗い倉庫群の一つ、表のシャッターには17号倉庫と書かれている。陽の翼が日本に確保しているアジトの一つである。表向きは鉄鋼資財の置き場と言うことになっているが、実情はハイテク機器を持ち込んだベースであった。似たような基地が、現在日本に五つあり、それらを移動しながら使って作戦を行っているのだ。

倉庫内には、バラバラに寸断された人間の死体が散乱している。英国諜報部の精鋭部隊のなれの果てだ。今丁度それを成し遂げた陽の翼の一員、キヴァラが得物の糸を手元に巻き戻している所であった。隣で見ている陽明が手を出す必要もなかった。彼は労働要員を銃弾から守るだけで充分だった。

「見事な腕前だな」

「何、此奴らが弱すぎるんだヨ。 能力者を侮りすぎてヤがったのさ。 俺がつええからこうなったんじゃねえ」

「それなら、拙者らも彼らの轍を踏んではなるまい。 早めに移動するが吉だ」

生首を蹴飛ばす、キヴァラの目には薄暗い殺戮への喜びが浮かんでいた。すぐに陽の翼の、労働担当者達が死体を掃除に掛かる。彼らも落ち着いた物であった。

キヴァラは陽気な黒人の青年である。アロハシャツがお気に入りで、下は勿論ジーンズである。とはいっても米国系ではなく、元はアフリカ最貧地帯のチャイルドソルジャーだった。それがさまざまな経緯を経て陽の翼に拾われ、今では太陽神に絶対の忠誠を誓っている。

黒人としてはかなり背が低いキヴァラであるが、それでも日本人としてはかなり長身な陽明よりも大きい。幼い頃に両親に売り飛ばされ、血と硝煙の中で育った彼は、陽の翼の中でも最も感情制御が苦手で、キレると敵を必要以上に虐殺してしまう悪い癖がある。また、殺し自体を楽しんでいる節もあるが、それは他の陽の翼達も同じような物だ。戦いの中で育てば、いやでもそうなる。そうならないと、精神の均衡を維持できないのだ。

筋骨隆々というよりも、猛獣じみた実戦的筋肉に全身を包んだ黒豹が如き戦士は、飾りが一杯付いたサングラスを小指でずり上げながら、陽明に語りかける。

「聞いたかメイ。 パッセの姐さんがとちったらしいぜ。 死神取り損ねたらしい。 日本のレイカとか言う能力者、なかなかやりやがるぜ」

「うん? それは珍しい。 だがあの女傑のことだ、ただでは負けていないだろう」

「無論だ。 レイカと、後キリって女の戦闘データ、ばっちり拾ってきたらしいぜ。 前にジェロが拾ってきた分と合わせれば、相当に今後は有利になるだろうよ。 くえねえ姐さんだヨ」

HAHAHAHAHAHA。キヴァラが笑った。戦いが仕事で、他の行動には趣味を除いて殆ど興味を見せないキヴァラは、自分が真面目だと思っている。その反面、戦いに対して美学はなく、戦闘方法は冷徹かつ残虐を極めるのが常だ。この辺り、同じ戦士でも、陽明やジェロウルと随分違う。パッセとナージャヤの姉妹は性別の違いもあり、何を考えているかキヴァラには良く分からなかった。

戦いは戦い。殺し合いは殺し合い。だったらそんなものに美学を入れるのは間違っている。方程式として組み立て、そのまま実行すればいい。それが戦場で育ったキヴァラの哲学だった。ただし、他の人間にそれを押しつけようとも思っていないし、それを誰かに話したこともない。

「おう、お前」

「はい、何でしょうか。 地翼キヴァラ」

「俺のレコード、17番だしてくれヤ。 ちとゴキゲンになりてえんだ」

陽明の指示で荷物を纏め始める労働要員達。その中で手が空いている者を呼び寄せ、お気に入りのレコードを持ってこさせる。時代がかった再生機にそれをかけて、ブランデーを開ける。血の臭いの中に、芳醇な高級ブランデーの香りが混じり込む。折り畳み式のパイプ椅子に彼が腰掛けると、シャンソンの名曲が流れ出した。彼は激しい性格だが、不思議と音楽はラップやロックよりも、こういうものを好んだ。クラシックではモーツアルトがお好みである。ちなみにコレクションはM国で、倉庫一つを借り切っているほどの規模だとか。

手慣れた労働要員達は、荷物をトラックに積み終える。陽明は彼らに促され、トラックの一つに乗り込み、窓から顔を出しながらいう。

「拙者は先に行くぞ。 しかし死神を捕獲し損ねたとなると、また作戦行動が少し遅れるな。 今後の回収活動には「壺」の容積が少し足りないだろう。 この間もそれで負の力を回収し損ねたではないか」

「いや、姐さんはそれ抜きに、一度戻るつもりらしいぜ。 どうやら神さんの直接指示らしい。 この国の能力者は案外手強いし、残りの分は「貯金」でも使うきなんじゃねえのかな。 ま、後で姐さんに詳しく聞こうぜ」

「となると、集合場所は「港」の方がよいか」

「そうなるな。 それヨりかメイ。 裏切り者はどうなったか聞いたか?」

「今同志ジェロウルが探している所だ。 見付かってはいないらしいが、ただ、もう絞り込みは終わっているらしいな。 さて、もう行くぞ。 無駄話をしている暇はなかった」

トラックが発進する。二台に分けて次のアジトへ。勿論陽明は護衛代わりだ。労働要員にそろそろ時間だと言われ、鷹揚にキヴァラも体を起こした。お気に入りにレコードがストップし、それに合わせて水でも飲むようにブランデーを飲み干す。

セダンに乗り込む。トラックから少し遅れて護衛する任務だ。ただし、陽明がトラックに乗っている以上、戦闘機でも連れてこなければ危険はない。だからキヴァラは寝ながら行くつもりだった。それを知ってか知らずか、隣に乗っている労働要員はカラシニコフをいつでも使えるように運転席の下に隠している。能力者相手に戦えなくとも、彼らは立派な戦士だ。

キヴァラは言う。

「なあ、お前」

「はい、地翼キヴァラ」

「モーツアルト頼むわ。 レコード聞ききれなかった分、少しは補完しておきてえんだヨ」

「かしこまりました」

労働要員はすぐにCDラックに手を伸ばし、モーツアルトの一枚を取りだしてキヴァラに見せ、確認を取ってから再生した。案外公衆道徳がしっかりしているキヴァラは、外に音が漏れない程度に自分で音量を調節、美しい音符の重なりに酔った。

窓の外を見る。戦禍を知らないような美しい国だ。数十年前は焼け野原だったと言うが、とても信じられない。

だが、この国の病根が如何に深いかも、キヴァラは良く知っている。だが、キヴァラが感知することではないし、知った所でどうにも出来ない。大きく欠伸をすると、後部座席に手を伸ばし、麦わら帽子をひっつかんで顔に被せ、眠り始めた。モーツアルトの精緻な旋律が、すぐに彼を眠りの世界へと運搬していった。

 

真由美が目を開けると自室だった。パジャマに着替えさせられていて、額には濡れたタオルがあった。

半身を起こす。電気は豆電球のみになっていた。辺りを探ると、硬い感触。肥前守だ。

「良かった、起きたね」

「うん、ごめんね」

暗闇に浮かび上がる葉子に、真由美は微笑みかけた。葉子が促したので、布団から出る。足が吊りそうになった。物凄く疲弊して、気絶したのだと思い出す。あの火球を喰らって、よく生きていたものだと、真由美は手を見て思った。

「あの火球ね。 零香さんが防いでくれたの」

「え? ……ほんと?」

「ほんと。 それよりも、ほらほら、はやく」

戸を開ける。此処は二階だ。広い廊下が部屋の前にはあり、ガラス窓がずらっとならんでいる。促されるまま、窓際に寄る。驚いた。

庭の竹林の中にある、一際大きな竹の枝に、あの死神が腰掛けている。それの側にはパン神が座っていて、キタラをかき鳴らしてあの恥ずかしい歌を演奏していた。死神の少女もそれに合わせて、自分の歌を歌っていた。パン神がじりじりにじり寄ろうとするたびに死神少女は手で押して近寄らせようとしないのが何処か微笑ましい。腕力は少女の方が上らしく、パン神はいつまで経っても距離を縮めることが出来ないのだった。

死神少女が真由美に気付いて、手を振ってきた。静かな笑顔で。自然な笑顔で。真由美は涙がこぼれそうになったが、必死に押さえて笑顔を作り、手をぶんぶん振って応えた。

守ることが出来た。強者による蹂躙から、守り抜くことが出来たのだ。体を張った事なんて、痛い思いをしたことなんて、何でもない。何が壊れたロボットだ。見るが良い、あの笑顔を。

「私、頑張る」

「あたしも」

真由美と葉子は見つめ合うと、軽く肘と肘を打ち付けあい、そして微笑み合った。

新たな力を得た真由美は、その力を振るうことにより、確かに守るべき者を守ったのであった。

 

(続)