相容れぬもの

 

序、闇に棲むもの

 

食物連鎖の階級は、自然界では実に分かりやすいものである。階級の上下は喰う喰われるによって決定され、それが逆転することは限定条件下でしか無い。それによって効率よく栄養が行き来し、自然界は健全な流動的生命を保ち、新たな命をはぐくんでいく。それは力の流れであり、栄養の攪拌であり、全体として一つの命だとも言える。

社会を作った人類はどうか。圧倒的な力を誇る人類は天敵と呼べる種族を持たず、今や地球上を我が物顔で闊歩している。単体では捕食者になりうる生物もいるが、種として抵抗できる存在はおらず、人類は我が世の春を謳歌していた。当然その状況は傲慢を生む。曰く、我は特別な存在である。曰く、我は神に選ばれた存在である。曰く、我の命はこの星よりも重い。

さまざまな並行世界で、その傲慢な種族レベルでの思い上がりが、人類の命脈を断ってきた。人類によって創造され、今やその保護者となった精神世界の住人、神々も、それには頭を悩ませ続けてきた。無数の並行世界で人類の自発的進化を模索してきた彼らは、自滅以外の道を知らぬ人類に対して、さまざまな実験を試みてきた。その一つが神子相争である。神子相争は大きな成果を上げている。神子相争の卒業者はそれぞれ社会的に大きな力を建設的に振るい、人類の進化に少なからず貢献してきたのである。

そして現在、銀月零香が暮らす人類社会で進行している、神々の手によるプロジェクトがもう一つある。

別段珍しい発想ではないし、今始まった物でもない。千年ほど前より続けられてきたプロジェクトで、僅かずつ、だが着実な成果を上げ続けたものである。現状の世界が滅びた場合、次に干渉する並行世界で、このプロジェクトは本格的に実行される予定である。

プロジェクト名は、内容そのままである。名付けて、上位種プロジェクト。

その名の通り、人類を糧として生存する、人類では抵抗できない、もしくは積極的に排除する気が起こらない存在を創造する試みである。

人類の驕りは、他生物に対する自らの無敵を妄想せしめる環境に起因していると、一部の神々は考えている。それを排除するためのもくろみであった。

現在、プロジェクトは実験段階である。如何にして人類を糧にし、如何にして人類には討伐できぬ存在を作り上げるか。さまざまな試行錯誤が行われていた。目立ちすぎても強力すぎても、人類は総力を挙げて抵抗に掛かる。逆に脆弱すぎれば人間の脅威とはならない。プロジェクトのデータを集めるためにも、基本的に実験的に作られた存在を、神々は支援しなかった。だから人間に破れるものも多かったし、人知れず死んでいったものも少なくなかった。

一部の能力者同様、素体は人間から選ばれることが多い。しかし多くは上位種となる過程でパラダイムシフトを起こしてしまっていたため、殆どの場合彼らは社会道徳に囚われるようなことはなく、嬉々として人を喰らった。また、僅かな例外を除くと、上位種は能力者の一種であり、社会と最初から乖離している存在も珍しくなかった。そして同じ能力者達も、上位種にはあまり手を出したがらなかった。

理由はさまざまにある。上位種は元々戦闘タイプの能力者ではなく、戦ってもあまり面白くはないこと。殆どの上位種が能力者としては充分に親身になれる悲惨な状況から、生まれ変わっていると言うこと。大概の場合、エサは喰われた所で誰も困らないようなろくでなしだと言うこと。

上位種の中には、補食を能力の一種とし、それにリスクを設定しているものが少なからずいて、故にそう言った状況が成り立つ場合が多かった。

そんな上位種の一人が、今、東京を徘徊している。闇に棲むものは極端に美しいか醜いというのは、謝った認識である。むしろ目立たない容姿の持ち主が多く、彼女もまたその一人だった。長い髪はそれなりに美しいが、背格好は若干低め、体の凹凸も控え気味で、何より顔立ちがとても地味だ。瞳に宿る強烈な闇が無ければ、誰もが普通の人間と錯覚するだろう、特徴のない容姿である。人間だったときの名前は、誰にも知られていない。ただ、彼女は、日本に在住する能力者と、その関係者からは、単純にこう呼ばれていた。

人食い。

世界屈指の大都会東京の闇に徘徊する、悲しい捕食者である。

 

1,地獄からの生還

 

高円寺真由美は、ボロボロになった体を引きずって、どうにか銀月家の玄関までたどり着いた。ここ一ヶ月間の修行は、今まで経験したどれよりもハードだった。

遺品(遺術というべきか)だったサイレントキラーのライフルはどうにか使いこなせるようになった。狙撃用の術も教えて貰ったし、自分の戦闘スタイルに合った技も一つならず伝授された。しかし、その過程があまりにもきつかった。思い出すのも嫌である。

零香先生は、淳子先生をライバルだと言っていた。その理由を、体で真由美は思い知らされた形になる。

気が抜けた途端、腰が砕けかける。門柱にもたれかかって、どうにか転ぶのは避けるが。鞄の中から、葉子の呑気な揶揄とも励ましとも取れる言葉が飛んできた。

「大丈夫、マユたん。 膝が笑ってるよ?」

「だ、大丈夫」

葉子はいつも純粋な感情を見せてはくれない。揶揄するときも半分は心配を言葉に込めているし、心配している裏で揶揄を言葉に潜ませてもいる。彼女が単一の感情を見せるのは、実戦の時くらいである。苦笑しながら、体を奮い立たせてしゃんと立つ。

銀月家の鍵は渡されていないから、チャイムを押す。平日の昼間だから、少なくとも林蔵さんはいるはずである。話によると零香先生と林蔵さんのどちらか一方は必ず在宅するのが決まりだそうで、それは絶対なのだという。意味が分からないが、こういう場合はその良く分からない銀月家のルールに助けられる。

やがて、扉の向こうに、ティラノサウルスにも似た強大な気配が現出する。ガラス戸がガラガラと開く。そこに立っているのは、ドアを塞ぎかねないほどの無口な巨体であった。林蔵さんだ。無口なのに、どんな雄弁な人よりも凄まじい存在感で、無言で真由美を見つめてくる。

「高円寺真由美、ただいま戻りました」

「おかえり。 ……風呂は沸かしてある。 疲れを取ると良いだろう」

相変わらず殆ど感情のない声だ。何を考えているのか分からない。だがどういう訳だか知らないが、真由美には不思議な確信があった。この人は、少なくとも零香先生よりも優しい人なのだ、という。

風呂に入って疲れを取る。広い銀月家の浴槽では、両足を思う存分伸ばすことが出来るので、そうさせて貰う。ほんのり紅に染まった若い肌は湯を弾いて、まだ頑張れると訴えかけてくるかのようだ。

まだノルマの勉強やら基礎トレーニングとやらがあるのだが、今は休みたい。しかし気を抜きすぎると浴槽で寝てしまうので、さじ加減が難しい。風邪を引くわけには行かない。適当にリラックスした所で、蛇口をひねって冷たい水を出し、顔を洗う。一気に気持ちを引き締めて、タオルで汗を拭って浴室を出た。着替えは用意してある。いつもの修行スポーツウェアだ。真由美は下はジャージを穿いても、上は必ずトレーニングシャツに決めている。精一杯のお洒落のつもりである。

筋肉痛が全身に広がっているが、それも以前に比べれば随分楽になってきている。思い出すのも嫌だ。淳子先生の課したクレイジーな量の修練。最初の数日は、本当に三途の川を何度も渡りかけた。東大阪の街は散々走り回って隅から隅まで把握してしまったし、立ったまま寝るなどと言う実に女の子らしくないスキルまで身につけてしまった。恐るべき精度を誇る淳子先生のスナイプにも、多少は対応できるようになってきた。クレイジーな量の修練で、大分真由美は強くはなれたのだ。しかし、強くなれば成る程、あの人達が遠くに思えてくる。先は長い。

携帯にメールが来ていた。零香先生から、定時連絡を求めるものだ。帰宅したことと、これから午後の自主練に入ることを伝えると、三日後から新しい仕事をして貰うという返信があった。たった三日で、もう次のナニか得体が知れない段階にはいるというのだから、異常なハイペースだとしか思えない。肩を落として、竹林に出る。静かで落ち着く其処に来たのは、随分久しぶりだ。

家の方からは、結香の遊んでいる声がする。楽しそうな、子供らしい純粋な感情をむき出しにした声だ。それを聞くと、やはりやる気が出る。少なくとも自分の前では、二度と悲劇を起こさせないために、真由美は腕を上げなければならないのだ。

肥前守を取り出す。そして、体の正面に、少し太めの竹を置く。枝葉が繁った、立派な竹だ。小さく呼吸すると、真由美は目を閉じる。神経を一気に集中していく。これは、淳子先生に教わった修練方法だ。東大阪では松の木を相手にやっていたが、別に松でなくても問題ない。

目を見開く。刀を抜く。

踏み込むと同時に、突きを十本。竹には決して当てないように、だが五センチ以上は離さないように。続けて、連ねて、更に突きを二十本。最初の内は随分松の木を傷付けてしまったが、今はこの通りだ。全く傷は付かない。

「せいあっ!」

体を回転させ、竹を視界に収めて半秒で、再び突きを十本。逆方向に回転して、更に二十本。瞬間的に状況を把握し、如何に精密な攻撃を繰り出すかの訓練だ。慣れてきたら鳥や猫を相手に行うのだとも聞いているが、百本こなすとまだどうしても一つ二つは傷が付いてしまうので、それは出来ない。経験値が屍の上に積み重ねられることは百も承知だが、回避できる死は出来るだけ回避する。更にバックステップし、一気に間を詰めてから、ラッシュを繰り出す。

「は、はあ、はっ、はあ、はあ」

程なく、百本が終わる。流石に疲れていることもあり、呼吸が乱れるが、徐々に一定のリズムに整えていき、間隔自体を長くしていく。肥前守を鞘に収める。ふと掌を見ると、もう豆は出来ていない。肥前守を振り回し始めた頃は、随分豆が出来たというのに。代わりと言っては何だが、最近は随分体が固くなってしまった。柔軟性が無いわけではなくて、筋肉が嫌でも付いてしまったという意味である。……今までが脆弱すぎたのだという話もあるが。

額の汗を拭って、小休止。竹林の端にある平らな岩に腰掛ける。

ノルマはまだある。この休憩も修練の一つだ。短い休憩時間でどれだけ体力を回復できるかというのも、訓練次第で大分調整できるのである。能力者の中には人外の域に達する超回復力を備えているものもいるという話だし、修練で鍛えられるというのなら鍛えておくのがベストだ。

冷蔵庫から出してきたスポーツドリンクを一気に飲み干し、精神を集中。ゆっくり息を吐いて、体内の力の流れをコントロール。時計を見て、想定通りの時間であることを確認。時間を感覚的に知ることも、淳子先生に徹底的に鍛えられた。朝定時に起きるくらいの間隔把握はもう出来るようになっていたが、淳子先生の修練によって更にその精度は高まったのである。

O市の町中を走る。学校から帰ってきているらしい高校生達と時々すれ違う。同じ学校の生徒もいるだろう。明日からまた登校するわけだし、顔を忘れていないかが自分でも心配だ。

家にたどり着くと、流石に疲れ切っていた。この状態で十キロ以上のマラソンは流石にきつい。門柱に再びもたれて呼吸を整えている真由美は、後ろから近づいてくる零香先生に気付いた。

振り向くと、零香先生は買い物袋を片手に提げていた。この辺りは住宅街かつ銀月家の所有物件ばかりで、一番近いスーパーまで四キロは離れているはずなのだが。

「おかえり。 アイス買ってきたよ」

「有り難うございます」

促されて、家に入る。零香先生はどういうわけかソーダ味が好きらしく、必ずソーダ系のアイスを買ってくる。真由美はチョコミントが好きなのだが、此処暫く縁がない。というのも、買いに行く暇もないからだ。

日中のノルマはどうにかこなしたので、縁側に出てストレッチ。結香は葉子が見えるらしく、時々肥前守を不思議そうに見ているので、心配だ。持ち出されると危なくて仕方がない。切れ味が尋常ではないのだ。下手に触ると指どころか手首まで刃が食い込む。危険物をきちんと管理するのは大人の義務だ。真由美はまだ社会的には子供だが、それでも結香や巧巳のような幼児を守るのは当然の義務である。

ストレッチも終わって、どうにか一息つく。これから一時間ほど休憩を入れて、それが終わってから、夜の修練だ。

零香先生がいつの間にか、縁側に腰掛けている真由美の隣にお盆を持ってきていた。湯飲みが二つ乗っている。

「母さんの差し入れ」

「有り難うございます」

「ん。 じゃ、一段落した所で、明後日からの話をしておこうかな」

自分用だという、やたら時代がかった湯飲みで茶を啜る零香先生。どうしてもその隣に座る真由美は緊張を覚えざるを得ない。無理もない話である。強くなってきたからこそ、この人の洒落にならない恐ろしさが良く分かるのだ。

この人が「人道」を守っている理由は、とても強固だ。そしてそれが無ければ、躊躇無くこの人は、人道を踏みにじっているはずだ。一般人とそれ以外があるとすれば、零香先生は確実にそれ以外に属する。普通の女の子とやらには確実に含まれない。

ああ、何と貧弱な言葉か。普通の女の子。

「実戦をやって貰う。 監督官には、私の友達が一人付くけど、基本的に戦略から全部自分で組んで貰うよ」

生唾を飲み込む真由美に、零香先生は更に続ける。

「相手は一人。 通称人食い。 まあ、一種の能力者と考えればいいかな」

「敵の沈黙が目的ですか?」

「沈黙? ……ん、ああ、そうなるね。 その人食いが、東京の池袋で確認された。 それをどうにかするのが、今回の真由美ちゃんの仕事になる。 どうするかは、自分で好き勝手に考えて良い。 殺すなり話し合うなりね」

殺すのは嫌だ。真由美はそう思う。手に染みついたサイレントキラー氏の血の臭いは、二週間掛かっても落ちなかった。肉に潜り込む刃の感触は、今でも手に残っている。

しかし、気になるのは人食いという通称だ。質問タイムと零香先生が口にしたので、真由美はおずおずと手を挙げた。

「あの、その人は……本当に、食べるんですか?」

「何を?」

「その……にんげん……を」

「食べるよ。 痕跡も残さずに、頭からつま先までバリバリね。 だから刑事事件にも発展しない。 証拠自体何も残らないから」

「おお、豪快じゃん」

葉子が感心して声を挙げたので、危うく真由美は意識がどこか遠くへ飛んでいく所であった。

能力者の非常識さ加減は良く知っている。それでも、やはり今の返答は恐ろしい。人間を丸ごと食べる能力者がいてもおかしくない。そしてその通り名は……。最悪の想像を真由美は口にする。

「まさか……にんげんを日常的に……食べているとか」

「日常的に食べているよ」

「ひっ! わ、私、その、辞退しても良いですか?」

「良いけど、その時はペナルティとして、0.5秒後にわたしが君を八つ裂きにして晩ご飯にしようかな。 いいよ今すぐ辞退しても。 丁度お腹が空いてるしね」

笑顔で宣う零香先生。彼女なら本当にやりかねない。そして真由美の今の実力では、抵抗しても1秒ともたない。相手が素手でもだ。

全身の血の気が引く音を確かに聞いた真由美。これを前門の虎、後門の狼と言うのであろう。

「辞退しないと受け取らせて貰う。 質問は他にないのかな?」

「は、はいっ! その人は、その、男性ですか女性ですか!」

「女性。 実際の年齢は分からないけど、確か数少ない目撃証言によると、見かけは二十歳くらいだそうだよ」

「背格好は分かりませんか? 好きなものは?」

「……残念ながら。 わたし達の業界でも、謎の多い奴だからね」

真由美は敏感に悟る。その情報を集めるのも、修練の一つであり、零香先生は聞かれたこと以外応える気がないとも。

そして多分、真由美の修練だけではなく、もっと大きな目的が裏にあるとも。

別に零香先生を疑っているわけではなく、裏を読んだだけである。この辺も淳子先生に散々鍛えられた。身体面を零香先生に鍛えられたとしたら、淳子先生に鍛えられたのは主に精神面だ。それは肉体の修練に負けず劣らず、辛い修練だった。

「池袋にまだいる可能性は高いんですか?」

「高い、というかまだ確実にいるだろうね」

「? 能力者として政府に認められているとか、或いはその辺の能力者なんて敵ではないと考えているとかですか?」

「後者が近いかな。 もっとも、政府としても居場所を察知しても放置するだろうけどね」

それを聞いても別段怖くないのは、零香先生が決して必ず死に至るような任務を押しつけはしないと言う、不思議な信頼感があるからだろう。恐怖と同居するその不思議な信頼感は、ここ数ヶ月で培われたものだ。つまり、である。その「人食い」さんは二つ名の通り人を食うにもかかわらず、目の敵に追い回されない理由があるのだ。そしてその理由は、決して強すぎて誰の手にも負えないと言う事では無い。仮説は幾つか立てられるが、まだ結論を出すのは早い。

「分かりました。 今の内に準備をして、情報が集まり次第会いに行きます。 戦うかどうかは、その時にでも決めます」

「お、やる気だね。 ま、実際に足を運ぶのは明後日からで良いからね。 いつも通り電車代やタクシー代は後から請求しておいて」

「あの、いつも貰ってるお金ってお小遣いから出ているんですか?」

「それもあるけど、殆どは仕事の報酬からかな。 政府関連の仕事何かだと、七桁の報酬が普通だからね。 場合によっては八桁九桁も行くことがあるよ」

そういえば、赤尾さんもあの学校での戦いの後、三百万使ったが充分もとは取れたとか呟いていた。零香先生くらいのレベルの能力者となると、確かに出来ることはかなり大きい。それを考えれば、ごく妥当な額の報酬なのだと言えるのかも知れない。

それに、この銀月家の広さから考えると、一般人と小遣いの桁が違っても不思議ではない。英恵さんは四人目を産む気満々のようだし、それで経済が困窮するとはとても思えない。何度か分家の人というのにあったけれども、いずれも自然にお金を持ってそうな人達だった。成金趣味ではなくて、自然に金が余っている様子を見せている所が、ぽっと出のお金持ちではないという良い証拠である。

他にも幾つか質問をしたが、それほど零香先生も詳しくはないようだった。多分この修練、零香先生の友達も皆巻き込んでいるはず。今回監督官に付くという輝山由紀という人のアドレスを教えてくれた所で、零香先生は腰を上げた。神衣を発動させる。ただでさえ強烈な威圧感が、これで猛獣並になる。振り向いた先生の、眼鏡の奥の瞳は、獲物を欲して確かに輝いているようだった。

「じゃ、後は自分で調べてね。 わたしはこれから夕方の修練にいってくるから」

「はい」

「ん……いい顔になったね。 やっぱ命を自分の手で奪った後は違うか」

「もう、できれば二度としたくありませんけど……場合によっては何度だってやります」

それは静かな決意。確かな覚悟。

サイレントキラー氏を殺して、その命を背負ってから、真由美は変わった。

もういざというとき、綺麗事に心が動かされはしない。守るためには、必要とあればなんだってする。それが、本当の意味での実戦の結果を、知ってから得た強さだった。ただ、それでも、救える相手は救いたいし、避けられる戦いは避けたいと思う自分もいる。

零香先生は静かに微笑むと、残像を残すほどの速さで街に消えた。誰にも見られないよう気付かれないように街中を走り回る修練だという。このO市は、恐ろしい存在を内側に抱え込んでいるものだと、つくづく真由美は思った。

陽も既に落ちていた。肌寒くなってきたので、体を温めようと再び修練に入る。何度か竹林で素振りをしている内に、具現化して竹の枝に腰掛けた葉子が頬杖をしながら言う。

「で、どうするの?」

「淳子先生と、利津先生に話を聞いて情報を集めた後、詳細を調べてみるつもりよ。 早めに由紀さんってひとにも、連絡を取っておかないとね」

「おお。 何だかマユたん、プロっぽいね」

「ありがとう。 ……今回は人を食べる相手だって話だし、気をつけないとね。 準備はしすぎるって事がないはず」

何度か素振りをした後、肥前守を薙刀に変えて、連続して突きを見舞う。風に揺れる竹の葉の間を通しながら、真由美は思う。これから戦おうという敵の事を。零香先生が何を期待しているのかを。そして、今後自分はどうなっていくのかを。

何度目かの突きで、葉を一枚切り落としてしまった。まだまだ修行が足りない。頬を叩いて気合いを入れ直すと、真由美は再び修練に戻った。間近に迫り来る、新しい戦いに備えて。

 

2,人食い

 

ハードな仕事を終えて、ようやく自宅のソファでくつろいでいた輝山由紀は、自分の携帯に届いたメールの文面を読み終えて舌打ちしていた。休憩は終わりだ。

面倒くさい話だが、陽の翼関連である以上放ってはおけない。力を持つ人間は、その力に相応しい責任を持ち、力に相応しい行動を必要とされるのだ。戦いにつぐ戦いで、嫌と言うほどそれを学び続けてきた以上、陽の翼の行動を黙認するわけには行かない。しかし、忙しい中それをやるのは、兎に角大変なのだ。

現在、神子相争の同級生の中で、もっとも忙しいのが由紀だ。正確には、最も世間に晒されるポジションにあるのが彼女である。高校三年生になり、もはや名実ともに日本を代表するトップアイドルになった由紀には、当然の事ながらストーカーや、その予備軍となっているファンも多い。また、仕事量は調整してはいるものの、まだテレビ局との力関係は由紀の方が若干低いので、ハードワークに代わりはない。テレビ局上層部だけではなく、同世代のタレント達などを中心に、人脈を掌握すべく色々やってはいるのだが、まだまだ完全とは言い難い。時間を作るのには苦労するのだ。

仕方がないので、テレビ局への圧力は政府からかけて貰う。携帯の電話番号をイライラしながらプッシュし、日本の能力者関連の仕事を一手に引き受けている東堂氏に電話。用件を伝えると、重々しい声ですぐに東堂氏は動くことを了承してくれた。

今回は陽の翼関連なので、上手くいけば一週間ぐらい自由な時間を作るくらいの圧力ならかけて貰える。ただし、ある程度の成果を上げないと相当絞られるだろう。元々由紀は能力者としての仕事をあまり受けないので、桐や利津に比べてコネクションが細い。もし桐ならば、功績から考えても此処で二週間は時間を作って貰える所だ。忙しすぎる身が腹立たしい。

「さて、と」

携帯を音を立てて閉じると、耳ざとく聞きつけた家政婦の佐奈さんが振り向く。天然癒し系キャラを装っている由紀と違って、こっちは本物の純真無垢な人だ。どじっ子は相変わらず直らない。

「はい? 由紀ちゃん、どうしたんですか?」

「何でもないですよぉ。 これから部屋に籠もって精神集中しますから、だーれもとおさないでくださいねえ」

「はい。 例え大統領が来たって、グーで追い返してやります!」

本当にやりかねないが、別に大統領など来ないからそれでいい。今の米国大統領は由紀の大ファンだそうだが、まあ多分此処を嗅ぎつけて押し掛けてくるようなことはないだろう。佐奈は由紀が時々お茶碗コレクションルームでヒーリングし、リフレッシュして次の仕事に臨んでいることを知っている。だから命がけでその居場所を守ってくれる。まあ、色々どじでモノを壊したりするが、それを差し引いてもこの辺り本当に代え難い人材である。

閉じこもる。静かな茶碗達の中では、由紀は素に遠慮無く戻れる。五十万もする瀬戸物の茶碗に頬ずりしながら、ヤンキーモード時の鋭い目つきに戻ると、携帯を開く。かける先は勿論、零香だ。当然、強烈な甘ったるさも、声から消え失せる。

「ばんわ、零香」

「お、そろそろ来るかと思ったよ」

「うっせーんだよ、タコ。 それでアタシにひよっこの面倒みろって? 分かってんと思うけど、高いよ」

ファンが聞いたら青ざめるような、ドスの利いたヤンキー口調にも、零香はまるで動じない。

「ははは、その辺はわたしじゃなくて東堂さんにでも請求して。 ……ま、事情は説明したとおり」

「しかしまた厄介な話だな、ああん?」

「この間桐ちゃんとジェロウルが交戦したらしいって話は聞いていると思うけど、それと並行で連中くだらんプロジェクトを練ってるみたいだね。 早い所全貌を掴んでおかないと危ないね」

「ああ。 ただな、わからねえ事が多いんだよ。 龍脈とかから負のエネルギーを集めるってのまでは分かる。 だけどよ、上位種なんかと危険犯してまで連絡とりあって、連中に一体何の理があるってんだ?」

これは仮説だけどと前置きして、零香は恐るべき予想を口にする。聞いているうちに、危うく由紀は大事な瀬戸茶碗を落としそうになった。床に落ちる寸前にキャッチすると、由紀は携帯を床に置いて、茶碗を拭きながら続けた。

「……なるほど。 そうだとすると、連中のアタマが呼吸する戦術核なんて言われるのも分かる気がするな」

「こっちとしても、連中が日本から逃れるのを少しでも長く阻止したい。 頭数も当然減らしておきたい。 出来れば内通者を作っておきたいけれど、連中自体謎の多い奴らだしね、其処までは期待できないだろう。 今はただ、連中を少しでも知ることだ」

「にしてもよ、零香。 あたしは時々分からなくなる。 一体何処まで運命って奴は皮肉なんだ?」

「……さてね。 分かってるのは、予想の最悪って所だろうね」

その最悪の予想にもてあそばれた二人は苦笑しあうと、細かい打ち合わせに移った。能力者の出動は恐らく期待できないので(というよりも、相手の能力性質上、数を出しても意味がない)、由紀と真由美だけで撃破することを考える必要がある。真由美が人食いに殺される可能性は極めて低いが、もし頭に血を登らせて彼女に本気で襲いかかったら、由紀だって守りきれるかは分からない。ちゃんと真由美が成長していないと、少し厄介なミッションになるだろう。

「もう一度きいとくぞ。 その子、ちゃんと成長はしてるんだろうな」

「淳子ちゃんの話によると、もうそろそろ一人前だって。 わたしが見たところでも、もう一人で戦略から立てられるね。 良質な実戦で駆け引きを叩き込んだ結果だよ」

「昔のあたしらとおんなじか。 ……皮肉なもんだな。 結局血流すしか、強くなれる方法ってないもんなんだな」

零香は応えなかった。

何かを上手くやるには、練習するしかない。文字を上手くやるなら書取もしくは書き物。スポーツだったらトレーニングか試合の経験を積む。実戦だったら訓練か実戦そのもの。単純な理屈だ。

携帯を切る。無駄な脂肪のひとかけらもない肢体を床に寝そべらせて瀬戸茶碗に頬ずりしながら、精神を落ち着かせていき、ベストの状態で由紀は自身でも把握している敵との交戦をシミュレートし始める。

それは歴戦の猛者だからこそ出来る、趣味と実益の両立であった。

 

翌日。朝から仕事で、テレビ局での収録を三本続けて終わらせる。一本はバラエティ番組で、もう一本はニュース番組。最後の一本は国営放送の歴史解説番組であった。ニュース番組には肩が凝ったが、後は楽であった。

ニュース番組が苦手なのには理由がある。嫌な思い出があるのだ。

昔番組の収録で、剣道に挑戦などと言う無粋なモノがあった。当然の事ながら、一般的なレベルの剣道道場師範など、実戦で鍛え抜かれた由紀から見れば赤子も同然のレベルである。都内最大だというその道場での練習風景と師範のインタビューを収録した後、今最も有望だという女性剣士との試合を行うことになった。レベルの差は一目瞭然で、立ち会う前から既に由紀はげんなりしていた。

しかし叩きのめすのは問題が多い。アイドルとしてのキャラクターにも反するし、鷹として爪は隠しておいた方が良いという事情もある。勿論、適当に負けて、頭に絆創膏でも十字に貼り付けて「まけちゃいましたぁ〜。 てへ☆」とか舌を出していうつもりであったのだが。

丁度運悪く、由紀の気配探知圏内に、どっかの能力者が紛れ込んでしまったのである。

単純な通りすがりであったらしく、向こうは気付いてもいなかったが、由紀は瞬間的に実戦態勢に入ってしまった。そして完全に眼中から外れた女剣士が踏み込んできた。後の結果は無惨である。体の方が本能的に動いてしまった。女剣士は凄まじい一本を頭に貰い、その場で失神。後に自信喪失して剣道を辞めてしまったと聞く。それから暫くは、テレビ局にその師範とやらがえんえんラブコールを送ってきて、対処に困った。

その光景は勿論番組からはカットされたのだが、由紀にしてみれば嫌な思い出の上位に入る代物である。だから今でもニュース番組に出るとストレスが溜まる。ルビが振ってないと原稿が読めない容姿だけは立派なニュースキャスターを横目に、にこにこ営業スマイルをするのも、今では何となく苦手になってしまった。

皮肉なモノで、大勢いるファン達は由紀の心理とは一切同調しておらず、そのニュース番組は同ジャンル内での視聴率一位を独走している状態だ。

というわけで、疲れ果てて家に着いた由紀が携帯を開くと、早速真由美からのメールが入っていた。メールは三通。最初は情報の提示をバカ丁寧に求める文面であり、残りは質問が箇条書きにされていた。一生懸命考えたらしい項目だが、まだまだ手慣れていない。どちらにしても礼儀正しい文章で、パッと見とても好感が持てる。本当の意味で礼儀正しい奴は由紀の仲間達にはいないので、ある意味新鮮だ。ただ、少し気弱げなのが気になる。もう殺し自体は経験しているという話だが、実戦はまだまだ積んだ方がいいだろう。

メールに返信すると、ほんの数分で御礼メールが帰ってきた。明日から行動するとかで、かなり気が早い子である。聞かれていないことは応えていない。甘やかしても良いことはないのだし、それは当然だ。

由紀自身は、人食いが、人間を補食するのに必要な条件を把握している。また、情報から測れる人食いの逃走系能力は歴戦の由紀から見てもかなり厄介で、本気で殺そうとしても成し遂げるのはかなり難しい。その気になれば過去も調べ上げられるだろうが、そんなことはやる気にならない。目を背けたくなるような悲惨な過去があることは分かり切っているからだ。

マネージャーから連絡が入ったのは翌朝のことであった。ちゃんと一週間の休暇は降りたという。ありがとうと短く応えると、普段着に着替え、実戦装備をリュックに詰めて、サングラスをして外に出る。佐奈に暫く帰らない旨を伝えると、そのまま零香の家に直行。勿論電車など使わない。神衣を付けて走り抜くのだ。到着は二時間ほど後。ペースはゆるめだったから、特に疲労もせず。チャイムを押す。重々しい呼び出し音が響き渡る。

何度見ても、相変わらず広い家だ。また、修練場所にも恵まれていて羨ましい。辺りを見回している内に、零香の母である英恵さんが出てきた。相変わらず優しそうで、相変わらず若い。一時期狂気に囚われていたとはとても信じられない。背中には零香の弟の巧巳君を背負っていた。

「あら、貴方は確か……」

「由紀です。 お久しぶりですぅ、英恵さん」

「まあ、相変わらずね。 零香から話は聞いているわ。 遠慮無くあがって」

「ありがとうございますぅ」

遠慮無く上がらせて貰う。相変わらず静かな家で、とても過ごしやすそうだ。

零香達は学校に行っているはず。しばらくゆっくり過ごすには問題が無い。空いている部屋を一つ借りると、ノートパソコンに携帯を接続して、情報を収集に掛かる。既に池袋に人食いが来ているらしいと言う話は入手していたが、それに関する周辺情報を時間までにもう少し集めておきたい。それに、もう一人、陽の翼の幹部についても対策を練っておく必要がある。

時間はすぐに過ぎていく。夕刻頃に、零香が帰ってきた。

 

直接会うのは、この間の政府主導の会合以来である。ノートパソコンを畳んで立ち上がった由紀は、目を細めた。もう寒いと言うこともあり、零香はカーディガンを着ていた。猫科の影響を受けている彼女は、結構寒がりなのだ。一方、すぐ後ろに控えている大人しそうな小柄な子は、ノーマルな制服のままけろりとしている。北海道出身だと聞いているが、流石だ。

「久しぶりですぅ、零香さん」

「久しぶり。 ま、此処じゃ素は出せないか」

「何のことですのぉ?」

軽く冗談をかわしながら、由紀は後ろの子を注視した。この子が、多分真由美であろう。セミロングの髪が綺麗な、随分初々しい可愛い子だ。高校一年生だと聞いているが、かなり童顔で、外国だったら絶対に小学生と勘違いされる。小動物的な雰囲気で、少し臆病そうなのが玉に瑕か。実際に見てみると、結構鍛えているようだし、それといざとなれば結構頑張れそうな感じでもある。初対面としては印象は悪くない。

予備動作無く剣を具現化させると、比較的ゆっくり踏み込んで、顔面に突きを繰り出す。さて、どうか。

真由美は反応できた。が、それまでだった。左腕で庇いながら、右手で鞄に手を突っ込むのみ。既に左腕の皮に由紀の剣は触れている。実戦だったら、後頭部まで貫いている所だが、これだけ反応できればそこそこ良く仕上がっていると言える。

「……っ!」

「ま、こんなもんだな。 これだったら、人食いと話くらいはできるだろうさ」

「わたしの言うこと信用してなかったの?」

「信用はしてたさ。 ただね、一応あたしとしては何だって自分の目で確認しておきたいんだよ」

あんたらみたいなバケモンとやり合い続ければ、それくらい慎重になるんだよ。心中での呟きは、多分零香には届いているだろう。今だって、此奴とは絶対に戦いたくない。死ぬか殺すか、どっちかしかないからだ。手加減等というものを考えた瞬間に首を跳ね飛ばされる。それが敵としての虎帝、銀月零香だ。

左腕を降ろした真由美とやらは、目を白黒させているようだった。いきなりの刺突に加えて、極端すぎるキャラクターの変化だ。付いていけないのも当然である。手を差し伸べて、由紀は言った。

「あたしが輝山由紀だ。 そこの暴力虎とは腐れ縁になるね。 よろしく」

「は、はいっ! 高円寺です! 高円寺、真由美です! よろしくお願いします!」

ぺこぺこ頭を下げていた真由美は、慌てて思い出したように手を握ってきた。何だか可愛い奴。鍛えがいが確かにありそうだ。あのねちっこい淳子が嬉々として育てるのも分かる気がする。仲間達と違ってこの子は臆病だが、その代わり打算がないし素直だ。育った環境か、もしくは師匠が良かったのか、或いは。

元々戦闘を前提とした訓練を受けていなかったのかも知れない。

そう言う意味で、この子は由紀がこの業界で初めて接する、「普通の女の子」、なのかも知れなかった。

妙なものである。こんな可愛らしい子を見つけだしてきたのが、この国で最も危険な人間の一人なのだから。

少し良心が咎める。これから自分は、この子を零香の同類へと育てようとしているのだから。

「じゃ、わたしは修練に行って来る」

「あ、はい。 いってらっしゃいませ」

「さっさといってきな。 このトレオタが」

片手を挙げると、零香はもうかき消えていた。直線の高速移動を得意とする由紀には、ああいう残像を残して曲線的に動くという真似が苦手だ。まあ、スピードそのものでは、何処の誰にだってそうそう引けをとりはしないが。

「それで、由紀先生」

「あ、そうそう。 先に言って置くけど、これはあくまで地だから。 零香ちゃんがいないときはぁ、こういう口調で喋るので、よろしくお願いしますです」

おずおずという真由美に対して、由紀は既にアイドルモードに戻っていた。再びぽかんとする彼女は、聞こうとしたことを忘れてしまったようだった。

 

一晩真由美の修練に付き合ってから、朝から池袋に出る。念のためサングラスだが、髪はいつもどおりツインテールだ。今日は祝日と言うこともあって、池袋はまさに人の海だった。緊張して辺りを見回し続けている真由美。まだ慣れていないのが良く分かる。一緒にいる集合霊の葉子って子の方が、正直肝は据わっていそうだ。

地図を見ていた真由美が、行きたい所があるという。意外である。案外出来る子なのかも知れない。今日は漠然と歩き回るだけかと思っていたのだ。大通りから外れて、裏道へ。途端に空気が変わる。

通りの左右にある建物は不潔になり、原色のネオンが点灯の瞬間を今か今かと待っている。それなのに、道を行き交う人々は、普通に大通りと同じように歩いているのだから面白い。白々しく聞こえるのは、電車が通る音だ。近くの高架を、特急電車が走り抜けていく。

更に裏通りへ。人の数自体が減る。更に不潔でけばけばしくなる。普通の人間の場合、一人では絶対に来たくない場所だ。昼間だというのに、たむろしている目つきの悪い男女。露骨な敵意を感じるが、由紀にとっては子猫が体をなすりつけてきたくらいにしか感じない。その気になれば此処にいるチンピラ全員、一分もあれば肉塊に出来るのだから当然か。

「ここ、です」

先に歩いていた真由美が地図から顔を上げる。あの零香の弟子だというのに、随分しっかりした方向感覚だ。真由美の視線の先には、金網で覆われた廃ビルがあった。バブルの際に放棄されて、放置されている物件らしかった。

「此処で四日前に、近くの不良グループ四人が消えています。 痕跡も殆ど残っていなかったそうですが、彼らの一人が身につけていたシルバーのネックレスだけが落ちていたとか」

「へえ〜。 おっかないですぅ」

言葉と裏腹に、由紀は感心していた。よく調べたものである。ハッキングなどのスキルがあるとは聞いていないから、多分ネットなどで絨毯爆撃的な情報収集を行ったのであろう。当然由紀も話は聞いていたが、それは警察関連のコネクションからである。それにしてもいきなりどんぴしゃりとは。情報収集面ではなかなかに出来る。多分利津辺りに仕込まれたのだろう。

「ちょっと調べてきます」

「由紀ちゃんはちょっと用があるので〜、後でまた合流しましょう」

「はい。 葉子ちゃん、行こう」

「うん。 じゃ、また」

真由美は多分、調査は自力でやれと由紀が言ったのだと解釈したのだろう。実に真剣な表情で頷いて、ぱたぱたビルの中に入っていった。まだまだこの辺り、洞察力が鈍い。

「さて……」

戦闘モードに頭を切り換えた由紀が振り返る。由紀が用があるのは、さっきからこっちを伺っていたちんぴら共である。気配を消して、連中の背後まで回り込むのなど造作もない。相手の数は五人。二人がこっちを伺い、残りの三人が報告を待っているようであった。最初は紳士的に聞こうかと思っていたのだが、人数配分から警察に通報されたときの処置を考えている辺り小賢しくて気に入らない。潰す。

「おい、あの女何処に行った?」

斥候の一人が振り返ったときにはもう遅い。彼の同胞は由紀の手刀を延髄に浴び、白目を剥いて倒れていた。彼が地面に付く前に、由紀の放ったハイキックが、振り返ったもう一人の側頭部を直撃、コケの生えたビル壁に叩き付けて昏倒させている。携帯から彼らを呼ぶ声がする。

もう居場所は特定している。すぐ近くの、別の廃ビルだ。全部が廃棄されているわけではなく、下の二階が何もない状態で、上の三階には飲み屋が入っていた。ちょっとだけ加速して十秒ほどで距離をゼロにすると、木箱に腰掛けているリーダー格と、鉄パイプを持った部下二人を目視で確認。成る程、連中も連中で、失踪事件を調べていたのだろう。勿論、彼らが抵抗する暇など与えない。発見は同時。というよりも、由紀は正面から連中に襲いかかった。腰を浮かしかけるちんぴら共。

「て、てめっ!」

顔面にドロップキックが入り、沈黙する部下その1。更に着地し、鉄パイプを振り上げかけたもう一人の顔面に掌底を叩き込む。別に武術の心得があるわけではない。基礎知識があるだけだ。それを元々のスピードでごまかしているに過ぎない。腰を浮かせかけたリーダー格は逃げようと思ったようだが、逃がすわけがない。奪い取った鉄パイプを投げつけ、顔面に直撃させる。鼻血を吹きだして木箱の後ろに転がったリーダー格の顔面を踏みつけながら、由紀は言った。

「さあーて、説明して貰おうじゃねえか。 女の子の背後伺うなんてゲスな真似してくれた理由をなあっ!」

「ひ、ひいっ!」

「話せば助けてやる。 話さなかったら殺す。 ……まあいいや、段階踏むのもいちいち面倒くせーな。 おまえら、この間行方不明になった連中の事を調べてたんだろう? 知ってる限り全部吐け。 そうしたら、殺さないでおいてやる」

再び拾い上げた鉄パイプを、倒れた木箱に難なく突き刺してみせると、すぐに連中は従順になった。鼻血をだらだら流しながら、転がされているリーダー格は知っている限りの情報を吐き散らした。

行方不明になったグループは、彼らの同盟者的な存在であったこと。彼らと同じように弱いもの虐めとカツアゲで生計を立てていて、その日もカモから十万巻き上げたとか吹いていたこと。

「ゲスが……」

「お、俺らはあいつらほどワルじゃねえよっ! あいつらの半分もやってねえっ! そ、それで、それで……」

由紀の目に危険な光が宿ったことを、彼らは敏感に察したらしく、更に大人しく従順になった。文明を築く存在よりむしろケダモノに近いだけあり、こういう感覚は鋭敏だ。

その日、連中はあのビルに風俗嬢を連れ込んで、昼間からよろしくやっていたのだという。風俗嬢は金を貰ってはいたようだが、四人の相手を交互にさせられ、ふらふらになって帰っていったという。体には多数の傷すら付けられていたそうだ。その後も、夜までどんちゃん騒ぎは続いていた。

事件は、彼らの使いっ走りである少年が、ビルを離れた隙に起こったという。

「使いっ走り?」

「カツアゲの対象にされてたやつだよ。 連中は五人グループで、一人は金蔓だったんだよ。 金を取り上げられた挙げ句、パシリまでさせられてたんだ。 その上いざというときは共犯だって事にして、罪を軽くするつもりだったらしいぜ。 自分の金で散々飲み食いされた挙げ句、目の前で女まで抱かれて、たまったもんじゃなかっただろうぜ。 それに、共犯にされるのが怖くて、両親やサツにチクる事だって出来ないし」

「おまえらも同類だろ? ああんっ?」

「ひいっ! ほ、ほんとに俺らはそこまではやってねえよおっ! 信じてくれよおっ!」

顔面のすぐ横のコンクリ床に鉄パイプを突き刺されて、小便をちびりそうな様子でリーダー格は言う。

「そ、それで。 俺らがあいつらと一緒に飲もうと思って、ビルに行ったら」

「其処までは知ってる。 調べたからな。 で、行ったらどうなった」

「……行ったら、不意に声が消えたんだ。 それで、ガシャン、ガシャンって音がして……一回だけ、悲鳴が上がりかかったけど……消えたんだよ。 後はもう何も無かった……本当だ、信じてくれよっ! 心配して入ってみたら、誰もいなくなってたんだ! 血痕とか、戦った跡とか、逃げた跡だって無かった! わ、わけが、訳がわからねえんだっ!」

リーダー格は怯えきっていた。間違いない。人食いの仕業だ。

「こ、ここ何ヶ月かで、チームが何個も纏めて消えてる! どいつもこいつも、ワルからも怖がられるような、頭がいかれた連中だった! 人殺した奴だっていた! やくざに怖がられてるやつもいたんだっ! それが抵抗した跡もなく、煙みたいにだっ! みんな怖がってる! 池袋から逃げ出す奴だっていっぱい居る! お、俺達だって、おれた……」

恐怖がピークに達したらしいリーダー格は、泣きながら悲鳴を上げた。由紀が人食いだと勘違いしたのかも知れない。頭を蹴って気絶させると、情報を整理しながらビルを出る。慣れているらしく、上の方の階から、人が来る気配は終始無かった。

真由美は事件現場で葉子と地道に調査を続けていた。辺りは警察が調べたらしく、遺留品は何も残っていない。窓枠などには指紋を採取した跡があった。丁寧な仕事である。最近は不祥事が目立つが、たいしたものだ。由紀の顔を見上げて、真由美は本当に残念そうに肩を落とした。

「……ダメです。 何も残ってません」

「次行く?」

「そうしたいんですけれど、少し不可思議なこともあって」

真由美が視線を這わせる先は、いずれも誰かが死んだと思われる場所だった。殆ど逃げる暇もなく、床に座ってタバコを吸っていた二人が最初に。腰を浮かしかけた所でもう一人が。最後の一人は悲鳴を上げかけて、そして死んだ。

物理的な痕跡は一切残っていない。残留した気などを分析した結果だ。妙だと気付いたのは流石である。人が死ねば痕跡が気などにも残るのだが、それが一切無いのである。まるで切り取られたように無くなってしまっている。

「やっぱり此処で、人が死んだはずです。 しかも、四人も。 なのに、悪霊どころか、浮遊霊が寄りついた形跡さえない。 だから……私、仮説を立てました」

「どんな仮説ですのぉ?」

「人食いは、きっと魂も肉体ごと、一瞬で食べてしまうんです。 条件さえ満たすことが出来れば、きっと一度に何人だってひと飲みに。 そんな状況に気付いたから、悪霊すら此処には近寄ろうとしない」

80点と言う所だ。痕跡が無いという点から、此処までの結論を出したのは、まあひよっことしては合格点の部類にはいる。間違っている結論も幾つかあるが、大筋では合っている部分の方が多い。

真由美が唇を噛む。分かりやすい子だ。

「酷い……」

「喰われた連中が、最低のゲス野郎共だったとしてもですかぁ?」

「人は変わることが出来ます! やり直すことだってできます! でも、それも生きていればです。 死んでしまったら……何も……変わることだって」

真由美の「正論」は正直勘に障った。神子になってから強烈な現実主義者となり、それで少しでも勝率を上げてきた由紀は、瞬間的に素に戻っていた。サングラスを軽くずりあげながら、少し大人げないと思いつつも、評価を下げた真由美に言う。

「……悪いけどさ。 そうやって変われる奴なんて、本当に一部の一部なんだよ。 こんな所でたむろして悪さをしまくってるような奴らは、99%死ぬまでロクデナシのまんまだね。 僅かな可能性にかけるのは勿論良いさ。 だけどその結果、より大勢の弱者が踏みにじられ、搾取されるとしたら? クズの自主的更正の可能性のために、弱い人が大勢踏みにじられるのを黙認するのが真由美、あんたの正義か? 自分の趣味の範囲内でそれを通すのはいいだろうよ。 だけどその正義が、視界の外にいる弱い人を大勢踏みにじる事実を少しは考えてみたらどうなんだい?」

凄まじいまでにシャープで現実を抉る由紀の言葉。桐だったらもっと匠に誘導するだろうなと、由紀は言ってから少し思った。真由美はあくまで青臭く、涙さえ浮かべながら食い下がってくる。

「で、でもっ! 人食いさんがやっているのは人殺しです! この世界、相手を殺すしかないことは確かにあるって知ってはいます! 自分の手で味わいもしました! でも、殺すことを正統化するなんて!」

「此処にいた連中が玩具にして、自殺した女子高生が一人居る。 証拠が揃わず、事件性も発生できずに、親も泣き寝入りだってさ。 死ぬほど辛かっただろうね。 そして連中はその時のことを自慢にすることさえあれど、反省する事なんて一度もなかった。 真由美、あんたも少し調べたのなら、知っているはずだよ。 ……何が更正の可能性だ!」

ちとヒントを与えすぎたか。それだけが今の言葉の反省点。蒼白になった真由美は、口を押さえて蹲ってしまった。

そう。人食いは生きていても害にしかならない、本当の意味でのゲスしか喰わないのだ。

さて、この子は人食いと接触したとき、どうするのか。成長できるのか。説得しようとでもするのか。人を食わないように?もしそうなら笑止である。ライオンに肉を喰うなと嘆願するようなものだからだ。逆に、単に思想があわないからと殺しに掛かるような奴を、零香が拾ってくるわけがない。反応は実に楽しみであったりする。

一つの理屈で、世界を計ることは出来ない。人間の理屈とライオンの理屈は当然異なっているし、シマウマの理屈ともまた違う。最大公約数的な理屈ですら、同一種族の中でさえ確立が難しい。それを無理矢理一緒にすればより大きな悲劇が生まれる。しかし、混沌はまた大きな悲劇を産む温床でもある。それは醜い二律背反である。

それ以前に、目前に迫った問題が一つある。そろそろ此処に来ているかと思われる、陽の翼の幹部がこっちに気付いているはずだ。

連中は案外非好戦的だという事は分かっているのだが、それでも目的を察知すれば有形無形の邪魔に入ってくるだろう。後悩んだりするのは真由美に任せるとして、由紀は最大限の注意をする必要がある。例の隠密狙撃型でないことを祈るしかないのが辛い。今のところ、彼女の攻略法は思いつかないからだ。

具現化した葉子が、声を殺して泣いている真由美の背中をさすっている。霊体である以上、此処は物凄く怖いはずなのに。仲の良い姉妹のようだ。微笑ましい光景だが、黙ってみているわけにも行かない。由紀なりのやり方で、この子を鍛えてあげないといけない。

「さ、どうします? 泣いていても何も解決しませんよぉ?」

「……はい」

目を擦りながら、真由美は立ち上がる。どうにか笑顔を作ろうとする痛々しい様子が少しばかり気の毒だった。だが、此処で立ち直れるのは、やはり強くなっている証拠だ。サイレントキラーを手にかける前であれば、こうはいかなかっただろう。

さて、人食いを探すこと自体は恐らく真由美にも簡単である。由紀自身はもうとっくの昔に捕捉している。一度戻るか、それとも今日中に会ってコミュニケーションでも試みるのか。どっちにしても、由紀は気を抜くことが出来なかった。

 

3,相容れぬ存在

 

池袋で発生したという集団失踪事件の現場を三カ所ほど調べた後、真由美は一度零香の家に戻った。いずれも痕跡無し。どの現場でも、一人から多くて四人が、何の生存跡も残さずかき消えていた。痕跡が無いこと自体が、人食いの恐ろしさを静かに告げていたとも言える。

明日からは平日だから、調査は夕方からになる。この辺りは初冬の現在でも充分に暖かいので、風邪を引く恐れはない。以前Mヶ原小学校で行った夜間戦闘も、薄闇の中での戦いに自信を付けさせてくれた。ただ、気分は重い。

由紀先生の言葉は、真由美の胸に深く突き刺さっていた。道徳の皮を被せることによって、誰もが見ないふりをしてきた、見ないふりでやり過ごすことが出来てきた理論を、正面から突き刺されたからだ。その刃の何と鋭いことか。何と冷たいことか。アイドルとしての華山マキとあまりにもキャラクターが違う由紀の本性に、驚いていた自分はもう何処かへ飛び去ってしまっていた。この現実認識のシャープさ、ひょっとすると敵は容赦なく叩き潰せと教えてくれた零香先生以上かも知れない。

戦いに勝つには、現実的にものを考えるしかない。必用に応じて相手を斬ることだって、今ならできる。しかし、更に現実に踏み込んでいけば行くほど、その凄まじいまでに深い闇は、真由美の心に突き刺さってきた。

人食いは、一体どんな奴なのだろうか。

敵を知るには、思想だけではなく、どんな風に生きてどんな風に育ってきたのかを調べるしかない。零香先生も由紀先生も、聞かれていないことは教えないと言っていた。それにこれは真由美の勘だが、二人とも重要な情報は意図的に蓋をして自力での探索を求めてくるだろう。

せめて直接会うまでに、ヒントくらいは掴んでおきたい。泣いて解決する事なんて、何一つ無いのだから。

サイレントキラーを殺して、真由美は変わった。それでも、人殺しの正当化はどうしても是認できない。サイレントキラー氏の命だって、背負ったと思っている。しかし、相手の思想の否定は、相手との対立、屈服、支配、それに怨恨を産むだけだ。明らかに間違っているというのならともかく、世の中に明らかに間違っている理屈など、殆ど数えるほどしかないではないか。

パソコンを立ち上げて、情報収集を開始。隣では葉子が覗き込んでいる。この子、数十年分の退屈を紛らわせるように何にでも興味を示すし、集中力が高いのか学習効率も凄まじい。多分もう一般のパソコンユーザー以上に、自由自在に扱えるはずだ。

ただ、スペックが高い葉子にも致命的な難が一つある。ぜんぜん用語の類が覚えられないのだ。操作や全体的な理解は早いのだが、細かい用語や技術の名前などはまるで覚えられない。この辺り、真由美は劣等感を覚えずにすむ要因であった。

真夜中になる頃には、一般的なサイトで、人食いの情報はあらかた洗い出してしまった。目新しい情報は無し。後は警視庁にでもハッキングを掛けるか、アングラサイトにでも行くしかない。ハッキングのスキルなど持ち合わせていないから、最初から選択肢は一つしかない。

念のためデータの待避を行い、アンチウィルスソフトのバージョンを最新にし、ファイヤーウォールの状態を確認すると、真由美はネットの深部へ潜っていった。ひっきりなしにウイルスや違法ソフトの警告がポップアップされる。分からない所は時々情報収集の師である赤尾さんに電話して聞きながら、最深部へ潜っていく。ちなみに赤尾さんは元々それほどパソコンが詳しいわけではなかったそうで、二年前から零香先生に習って覚えたのだそうだ。今では情報収集の腕は零香先生以上だとか。

主にウェブリンクを利用して、どんどん深い所へ。アングラ系のサイトに行ったことは今まで何度かあるが、此処まで深い所にまで入ったのは、今回が初めてだった。

やがて自分のサーバーで作っているらしい、猟奇事件を扱ったサイトを見つける。以前から噂だけは聞いてはいたが、実際に目にするのは初めてだ。ジャバは切ってあるので、ブラクラを踏むことはないが、どんなウイルスを仕込まれるか知れたものではない。生唾を飲み込んで、真由美はリンクをクリックした。

目を背けたくなるような写真が、山ほどアップされていた。流石に血の気が引く音を聞きながら、真由美は情報を確認していき、必要と思われるものをメモしていく。情報量が半端ではない。週刊誌等に乗っているレベルの情報は当然のこととして、場合によっては犯人の実名、経歴なども乗せられていた。

それにしても、噂になるだけあり、すごい。グロテスクな写真だけではなく、一般の犯罪関係の写真も多く載せられており、その他関連情報も凄まじい。このサイトを経営している人間、相当なマニアだ。設置されているチャットに、サイトの管理人が入っているのを確認。

「うっわ、悪趣味な会話……サイテー」

「う、ん。 ちょっと……酷いね」

葉子がぼやく。死体の内臓がどんな具合だとか、糞便がどんな様子だとか、管理人達は嬉々として会話していたのだ。正直すぐブラウザを閉じたい気分だが、我慢してチャットにログイン。人の考え方はさまざまだし、実際に行動しなければどんな猟奇的な思考だって自由なのである。

管理人達はすぐに話しかけてきた。mayuというHNでログインした真由美は、質問攻めに曝された。あまりこういう場での会話は慣れていないので、対処に困る。管理人と一緒にいたもう一人は露骨に口説きに掛かってきたので、無視すると黙った。ほっと一息。

「人食いについて調べています、と」

「ストレートだね。 相手引いちゃわない?」

「それならそれでいいよ。 場合によっては、情報を知ってる人を紹介して貰えないか、零香先生に頼んでみる」

「お? おーおーおー。 食いついてきたね」

葉子が身を乗り出してモニターを覗き込む。相手は対価として情報が欲しいという。多分真由美を警察関係者か、マスコミ関係者だと考えているのだろう。何度かのやりとりで、池袋の犯行現場を見たこと、痕跡が見事に何もなかった事を告げると、相手は感心したようで色々と話してくれた。

まず、人食いは移動型だという事。警察は出没し始めた頃はともかく、今ではもう組織的に追う気がないらしい事。大阪、神戸、九州、海外でも類似の事件があるらしいこと。ある程度の人数を喰うと、消え失せたようにいなくなり、数ヶ月後にまた別の所で出没するらしいこと。

犯人は人間では無いという噂もある、と管理人は言った。また、今回の池袋での滞在はかなり長く、在住の友人などからチンピラが減って助かっていると連絡が来ているとか、笑いながら管理人は話していた。

思わず人が死んだのに何を楽しそうにと真由美は書き込みそうになったが、ぐっとこらえる。コロポックル達の死が、人を手にかけた今でも、重く真由美の精神にのしかかっている。隣で葉子があかんべえをしてくれていて、それで少し気分が楽になった。

由紀の言葉が正しいというのは分かっている。世の中には、その場で倒してしまわないと行けない相手というのがいるのだ。零香先生が何故あの時ジェロウルを逃がしたのかは分からない。まだ今の真由美には分からない。だけど、力を付けたら……次は……逃がさない。

嫌だが、今後役に立つかも知れない。お気に入りに追加して、礼を言ってサイトを後にする。インターネット環境から隔離してから、念入りにチェックして、ウィルス等がないのを確認してからパソコンを切る。

外はもう真っ暗だった。コートも羽織らないまま、真由美は肥前守を持って外に出る。体の中から火が出そうだった。怒りで体が火照って火照って、目の前が見られなくなりそうだった。

どうしても相容れないものはこの世に多く存在する。あのおぞましい写真の数々を嬉しそうに話す人達はそのもっとも身近な例だった。刀を振り回す。汗にして怒りを外へ吐き出す。それでも足りない。思わず天に向けて、真由美は叫んでいた。

「わあああああああああああっ! うああああああああああああっ!」

分からない。分からない。分からなければいけないのに、どうしても分からない。分からないまま戦えば血の雨を降らせるだけになってしまうというのに、どうしても体が分かろうとはしてくれない。

荒れる、という言葉があるが、今の真由美は生まれて初めて、その状態を経験していた。荒れ狂う怒りをどうして良いか分からない。

いつの間にか、腕組みした零香先生が眼前に立っていた。顎をしゃくられる。周囲の竹が滅茶苦茶に傷ついていた。

「荒れてるね」

「……」

「その様子だと、生まれて初めてでしょ。 どんな気分?」

「最悪です!」

自分に対する嫌悪感で、真由美は吐きそうだった。切れ味鋭い肥前守で抉られた、周囲の竹達が可哀想だった。葉子が側で、少し悲しそうに見つめてもいる。涙がこぼれてきた。止まらなかった。こぼれ落ちる涙を、手の甲で拭っている内に、心がどんどん醒めてきた。

「わたしの師匠が言ってたことなんだけど、ね」

「……」

「協調ってのは、相性が良い奴とだけ仲良くすることじゃあない。 どう考えても思想的に相容れない奴とも、仲良くしていくことを言うんだよ。 良く世間一般で仲間だ仲間だっていうけれど、本当の立派な人間は、その仲間以外ともきちんと仲良くする道を考える人なんだ。 まだ君には辛いとは思うけれど、ね」

「だから……あのジェロウルって人を、見逃したんですかっ!」

「それとはまた話が別」

さらりと真由美の追及をかわすと、零香先生はクローを具現化し、傷ついた竹の剪定を始める。

「世の中には、協調したくたってそれすら出来ない人だって大勢いるんだ。 思想があわない、程度のことで、協調の可能性を自ら放棄するってのはどうなんだろうね」

「だったら、あんな、人の死を喜んでいるような人達と、仲良くしろって言うんですか!?」

「喜んでいるだけなら、積極的にぶっ殺す事もないだろうね。 それを楽しむために自分でも犯罪しようって考え始めるようだったら、遠慮無くぶっ殺すべきだけど」

仲良くの定義が違いすぎる。しかし、今後能力を拡大していけば、それが違わなくなる日も来る可能性がある。黙り込む真由美。零香先生は手を動かしながら言う。

「誰だって心には理性と相容れない獣やら悪魔やらを飼ってるもんだよ。 今、真由美ちゃんだって、自分でそれを思い知ったろ。 逆に言うと、普通の人と反社会的な人の境界線は、それを表に出しているか出していないか位の差でしかないんだ」

「……ごめんなさい。 時間、ください」

「まあ、今晩に限っては、寝てていいよ。 その代わり、明日の修練は、今日の分もあわせてやること」

「はい」

真由美にはやっぱりこの人が分からなかった。

とても怖いのは今でも同じだ。でも、背筋が凍るような凶暴性と、とても崇高で磨き抜かれた理性が共存しているのは、今の言葉でも確かだ。

明日、どうにか人食いさんを見つけたい。そして話すだけでもしてみたい。

力を得て、世界が広がれば広がるほど、分からないことが増えてくる。きっと人食いさんは酷い人なのだと思うけれど。それでも、少しでも、世界を広げておかねばならなかった。

 

翌日、由紀先生と合流して、夕方再び池袋に。流石に大都会だけあり、大通りで私服にて歩いている某有名人Mを見かける。Mは由紀先生の方をちらりと見て、小首を傾げながら歩き去っていった。有名なJ事務所出身のMは、以前真由美も好きだったことがあったのだが。今でははっきりいってもうどうでも言い存在に成り下がっている。

三十階建てほどのビルを見つけて、屋上の展望台へ。360度全方位を見回せる此処は、何かを探すには打ってつけの場所だった。狙撃を教わるのと一緒に、狙撃対象を探す訓練も急あしらえとは言え仕込まれている。順番に各方位を調べていく真由美に、後ろから由紀が言う。

「当てはあるんですかぁ?」

「昨晩考えました。 人食いさんが何故捕まらないのか。 人食いさんらしい方の目撃証言自体はあるみたいなんです。 能力者の中にも、人食いさんを攻撃した人はいると思います。 それなのに、人食いさんは警察ともトラブルを起こさず、なおかつ殺されずに今でも平然と池袋を歩いている。 ……多分、人食いさんは、補食の他は、逃げるって事に非常に大きな重点を置いた能力を持っているんだと思います」

「へえ?」

「だから、探すだけならきっと大丈夫です。 不自然な人が見付かるはずです」

展望台は美観を最優先し、柱の位置等まで考えられて設計されている。要するに美しくないものが見えにくいように、である。

そろそろ陽が落ちる。いつのまにか由紀先生は展望台の端にあるカフェで、パフェを頬張っていた。何でも高速機動型である彼女は、走ると走った分だけ食べたくなるのだそうだ。物理的に消耗した分だけではなく、勿論術の力も借りて高速機動している訳なのだが、その分もあわせて体が栄養を要求するのだという。真由美も激しく動いた後はお腹が空いて好いて仕方が無くなるが、油断するとつい食べ過ぎてしまうので、ひやひやものだ。パフェなど此処暫く食べたこともない。ずっと血と汗と鉄の匂いばかり嗅いでいた気がする。

190度ほど探索を終えた頃だった。展望台にはカップルが増え始め、人目をはばからずべたべたくっつきあっている。中には堂々とキスをしている者達もいた。そんな中、一人浮いていた真由美は、狙っていた相手を見つけた。

其処に、大きな闇の固まりがあった。勿論比喩だが、異常な雰囲気が確かにあった。大通りの一つ。そのビルとビルの間だ。普通に歩いているように見える通行人達が、半無意識的に避けている。集中して気配を探ると、その中心点に確かに人の気配。……いやこれは、人の気配ではない。

実体化まがつ神のそれとも、悪霊のそれとも大分違う。濃密で、体の芯から震えが来る程に闇を放っている気配。いや、これは……。

自分の反応の正体に気付いたとき、真由美は戦慄していた。そう、この反応は北海道でよく見た。草食動物が、熊を見たときに見せる反応に近い。つまり天敵に対する、本能的な恐怖。

間違いない。あれだ。

「見つけました、由紀先生」

「んー。 じゃ、パフェ食べたら追いつくのでぇ、先に行っていてくださいねえ」

「はい!」

ぺこりと頭を下げて、真由美はリュックを背負い直し、半がけにする。いざというときすぐにでも肥前守を抜けるようにするためだ。今回ばかりは、あらゆる状況証拠からも、自分の推理が正しい自信はある。そのまま現地に急行。人混みを避けるのは物凄く上手くなった。というよりも、以前とは身体制御のレベルが比較にならない。朝ダッシュで零香先生にも鍛えられたし、淳子先生にも散々鍛え抜かれた。誰にもぶつかることなく遮られることなく、真由美は目的の人物の前にたどり着いていた。呼吸さえ乱れていない。

その人は、ビルとビルの間、都会の闇の産み出すエアポケットで、膝を抱えて座っていた。黒髪の綺麗な女の人だ。背は真由美と同じくらいか。髪に比べて顔立ちは地味で、目を離すと忘れてしまいそうなほどに特徴がない。全身黒っぽい衣服に統一しているが、右手には金の腕時計をしていて、靴は真っ白なスポーツシューズだ。

「人食いさん、ですか?」

真由美の問いかけに、人食いさんは顔を上げた。同時に背中に恐怖の冷線が走り抜けた。違う。視線の意味が違う。人間に対する視線ではない。これは殆ど、獲物を識別するための視線だ。言葉も音声として捉えていて、感情の一パターンとしては決して聞いていない。

「なに?」

「その、少し話をさせてくれませんか? おごりますから、近くの喫茶か何かで」

「何か話したいなら勝手にしなさい」

再び顔を下げてしまう人食いさん。以降は動く気配なし。最初っからコミュニケーションを取る気がないのが見え見えだ。というよりも。そもそも意志の疎通をする雰囲気が感じられない。

本当に、人間はエサなんだ。真由美はそれを思い知らされる。

真由美は最近自分の容姿について、随分綺麗になってきたとクラスメイトに良く言われる。同時に男子の視線を顔だけではなく、胸や腰に感じるようになってきた。それは欲望の一方通行的な発露であり、コミュニケーションとは言えない。ただ、それでも理解は出来る。此方から意志を返すことで、拒否の姿勢も示せるし、受諾の反応だって出来る。だが、この人のは本当に違う。

人間をエサだとしか考えていない。若しくは音を発する物体だとしか考えていない。気配が人と違うのも納得できる。少なくともこの人は、精神的には絶対に社会を営む人間と相容れない。

真由美は悲しくなってきた。この人が一体どんな経緯で、こうなってしまったというのか。今の状況を普通に受け入れるようになったのは、何故なのか。社会から何故はじき出されてしまったのか。

サイレントキラー氏からライフルを受け取って、何度か具現化してみて。その使い込まれた様と、サイレントキラー氏の悲しい孤独が真由美には良く分かった。妄想の中で己を慰め、ライフルだけに愛情を注ぎ、刹那の戦闘快楽だけで身を支えてきた。それも決して本人のせいだけではない。社会にも大きな責任があったはずだ。

この人食いさんを見ていると、真由美はつくづく思う。弱い方が悪いという理屈は、一体どれだけ醜いのか、という事を。

しかし、多分人食いさんはもう、同情さえ何とも思わないはずだ。エサに同情されて感心する人間がいないのと同じ事だ。人食いさんにとって、人間社会はそれこそどうでも良いものなのだ。身につけている物品も、多分自分の力で具現化したもののはず。何の人間社会の恩恵も害毒も受けてはいない……。

実際に姿を見て、視線を見て、少し会話して。

それだけで、真由美は深い絶望を味わっていた。こんな人をどうすれば良いというのか。

何の前触れもなく、不意にすっくと人食いさんが立ち上がる。真由美には目もくれず、影のように歩き始める。人を食う気だ。唖然と固まっていた真由美は、周囲の状況に気付く。通行人が山ほどいる。こんな状況で戦端を開くわけには行かない。だからと言って、見送るわけには行かない。

諦めたくない。

「待って!」

人食いさんは待たない。さくさくと歩いていってしまう。どうしてか、ただ歩いていくだけなのに、どんどん距離が開いていくようだ。彼女にとって、人間はエサかそうでないかの分類でしかない。そしてエサ以外の人間はそれこそどうでも良い存在だ。動きを見てもそれが良く分かる。子供の泣き声を聞いても目もくれない。距離をゼロにしているカップルを見ても何とも思わない。背中がどんどん遠くなる。

人通りが消える。四つ裏路地にはいると、もうそこは別世界だ。真由美は決意と共に、肥前守を抜いた。

「待って! お願い、待って! ……このっ!」

相手は動きを止めない。走り込んで、肩へ後ろから斬りつける。その時、漸く動いてくれた。

振り返った人食いの手に、何か細い棒状の物体が出現、肥前守を楽々受け止めた。よく見るとそれは、鉄パイプだった。漆黒の力を纏った鉄パイプだった。L字に曲がった先端部分には血みどろの何かえたいが知れない物体が仕込まれている。あれを喰らったらどうなるのか、背筋が寒い。完全な均衡状態だが、相手は片手で、左腕をぶらりと垂らしたままだ。対して真由美は両手で、しかも完全に全力で踏み込んだ状態である。まずい。冷や汗が流れる中、人食いがぼそりと言う。

「邪魔」

「私は人間です! だから、人間を貴方にこれ以上殺させない!」

「分かりやすい理屈だね。 独りよがりな正義だの信念だの振り回すよりずっといい」

感情を交換しているのではない。ただ、発せられた音声の意味を面白がっているだけだ。だけど、真由美は必死に食い下がる。諦めたくないから。

「……お願い、止めてください! 貴方はどうして、そうなってしまったんですかっ!」

「止めてっていわれてもねえ。 じゃあ、君はパンとか魚とかに頼まれたら、翌朝から食事を止めるのかな? 私はもう人間しか受け付けない。 止めるって言うことは、餓死するって言うことなんだけど? つまり死ねって言っていると、判断してもいいのかな?」

一瞬の空白の後、真由美は十メートルも跳ね飛ばされ、ゴミ捨て場に突っ込んでいた。悲鳴も上がらない。必死に頭を庇いながら立ち上がるが、追撃もなければ逃走もない。真由美くらいの能力者なら放って置いても大丈夫だし、いざとなればいつでも逃げられるとでもいうつもりか。

肥前守を薙刀にシフトチェンジすると、真由美は全速力で突っ込んだ。ふわりと浮き上がる人食いさんに追撃を掛けるが、鉄パイプで防ぎつつ、衝撃も利用して民家の塀の上へ逃れる。着地の瞬間を狙って足下に仕掛けるが、またふわりと避けられる。路上に着地する人食いさん。間合いを詰めて連続して突きを繰り出すが、どれも当たらない。ふらふら、ふらふら、避けられてしまう。おかしい。動きを読まれていると言うよりも、とても相手の動きが不自然だ。幻覚の類ではないし、斥力でも生じているとしか思えない。それに追撃の機会は幾らでもあったのに、何もしてこなかったのも、明らかに妙だ。

「……っと、晩ご飯に逃げられる」

「待っ……!」

ぼそりと独り言を呟いた人食いさんは消えた。制止も届かなかった。どうやって消えたかと言うことを知る前に、肥前守を取り落としてしまっていた。人が死んだ。自分の力不足で、また人が死んだ。

でも、あの人が言うことを正しいとすると、人食いさんを殺さなければ、それを阻止することは出来なかった。結局どちらを殺すかと言うことなのだ。しかも人食いさんを殺して護れるのは、人を傷付け放題に傷付けて何一つ省みることなど無く、弱者を踏みにじって己の快楽に酔いしれ、刹那の暴力を振るって周囲を傷付け放題に傷付けているような連中ばかりだ。何という醜悪なパラドックスか。

へたり込んでいる真由美の肩を、いつのまにか具現化していた葉子が優しく叩いた。

「マユたん、帰ろう。 今のままじゃ、準備不足だよ」

「だって、だって! このままじゃあ、また人が、人が……!」

「マユたんにだって、零香先生にだって、由紀先生にだって、どうにも出来ないよ。 悔しいと思うけど、帰ろう」

ぐうの音も出ない。

もう情けなくて、涙も出てこなかった。力が欲しい、もっと力が欲しいと、真由美は本気で思った。

その夜、真由美は今までにないほど激しい修練で、自分の体をいじめ抜いたのだった。

 

4,決意と現実

 

食事を終えた人食いが池袋の闇の中をふらついていると、いつも現れるあいつがやってきた。陽の翼とか言う世界最大の能力者集団の幹部。死んだ魚みたいな目をした女だ。ゴスロリファッションというのか、ごてごてフリルやらレースやらが付いた黒っぽい服を着込んでいて、目にあまり優しくない。こういう服を着ている人間は色素の薄い髪に白い肌の場合が多いのだが、この女は黒髪で肌はうす茶色だ。食事を邪魔するわけではないので、別にどうでも良い相手である。持ってくる話にも、あまり興味が湧かない。

「食事帰りかしら?」

「食事帰りだよ」

「なら話が早い。 あの話、受けて頂けないかしら」

「興味がないって言ってるでしょう」

他の上位種がどうこう言われても、それこそ自分にはどうでも良いことだと、人食いは思っている。人間による迫害など怖くも何ともないし、死ぬときは死ぬときである。子孫を残すことなど興味もないし、ましてや愛情など欲しくない。

人間を止めてからというものの、あんなにこがれていた愛だの恋だのに対する興味が一気に消え失せた。現実を知ったからだというのもあるし、肉体レベルで人間では無くなっているという点も大きい。人食いは知っている。自分が生物としては完全体に近く、故に子孫を残す必要性自体がないのだと言うことを。だから愛情にも恋愛にも興味がない。ぬくもりが欲しいと思ったこともない。好きだった相手もいるにはいるが、そいつも人間ではないし、交わって子を授かりたいとも思わない。

定位置に座り込む。人混みの中だというのに、そこだけ切り離されたように静かになる。女は人通りを挟んで、大通りの向こう側に立った。それなのに良く声は聞こえる。すぐ側にいるかのように。背がそこそこ高い女は腰を落として、なおもいつも通り説得を続ける。目は死んだようだが、口元には感情が浮かんでいるから不思議だ。ひょっとすると義眼かも知れない。

「貴方が無欲なのは知っているわ。 でも貴方と同じ存在、いや貴方よりも更に強力な上位種である方が、貴方を欲しているの。 いや、世界に十人といない上位種全員を欲していると言っても良い」

「それは御苦労様」

ちなみに此奴は人間だ。しかも上位種が何か知っている。エサが何故それほど上位種に入れ込むのかは良く分からないし、その強力な上位種とやらの思考も興味がない。ようするに、人間世界のことなどどうでも良い。他の上位種の事さえどうでもいい。エサさえあればいいのだ。

よそでやってくれ。それが人食いの本音であった。

人食いの思惑が通じたのか。場に第三者が乱入した。降ってきた剣。気配なし。慌てて飛び退く女の前で、剣は柄まで突き刺さり、小さなクレーターさえ作って消え失せた。女は地面に潜り込みながら、また来ると呟く。通行人達の視界の外にいる瞬間を見計らって、である。なかなかたいしたものだ。しばらく通行人共は騒いでいたが、やがておいおい散っていった。

その後、池袋でどんな戦いが繰り広げられたのか、人食いは知らない。かなり長いこと強い気配がぶつかり合っていたが、どうでもいい。知る必要も無いことであった。

 

人食いに逃げられてから三日が過ぎた。真由美は池袋に行かず、零香先生に頼んで猛特訓の中自分を置いていた。そうでもしないと、とても自分を制御する自信がなかった。潰れてしまいそうだった。

あの後傷だらけになって帰ってきた由紀先生は、自分自身で何か調べていて、真由美が声をかけない限り何もしてはくれなかった。

竹林の中、肥前守を薙刀に変えて、零香先生と相対する真由美。自然体の零香先生に対して、真由美は刃先を僅かに下に向け、短めに薙刀を持って間合いを計っている。後ろに廻っても零香先生は微動だにしない。しかも仕掛ける隙がない。

零香先生は戦いの話を聞いて、少し悩んだ後、この訓練を提唱してくれた。避けることだけを考えている相手に、当てる訓練だ。零香先生の仮説を聞いて、真由美は戦慄する。確かに、人を食うことだけが目的であれば、仮説のような能力でも問題がない可能性がある。そしてその仮説通りなら、相手の防御をうち破って有効打を浴びせるのはとんでもなく難しいこととなる。

真由美が練っている能力は、あくまでも戦って勝つ事を目的としているものであり、交戦する相手もそうであることを前提としている。つまり攻撃と防御のバランスや、如何に戦いを少ない損害で乗り切り、自分の能力を生かして敵に叩き付けるか、等と言った事を相手も考えていると想定して、自身も力を練っているのだ。勿論戦闘訓練も同じ事。相手がこの場合どう動くかというような想定は、戦いに勝つことを相手が考えている、という前提に基づいている。

しかし、零香先生の仮説。相手がそもそも補食以外は、敵から逃げることのみを能力に注いでいるというのが事実であると、その訓練は無駄になってくる。

例えば、逃げることだけを前提とした能力の場合、攻撃の不可という最大級のリスクを能力に設定することができる。どういった攻撃を不可とするかで随分結果は変わってくるが、それでも戦闘を前提とした能力では到底不可能な、無茶な逃走能力を実現できるのである。

能力のイロハを把握している真由美には、それの恐ろしい意味が分かる。つまり仮説が正しいと、人食いは、「こういう状況でこういう風に戦って、危地を切り抜ける」ではなく、「獲物を食べたら後はさっさと外敵から逃げる」という事のみ考えているのだ。捕まえられないのも当然である。加えて、人食いは獲物の条件を複雑に設定している可能性が高く、それが更に敵の能力を上乗せしているのは間違いない。

悩みもある。あの醜悪なパラドックスを、真由美は解決できそうにない。だから、今は力を高める。ある程度の力がなければ、相手と話すことさえ出来ないからだ。

「せええいあああっ!」

踏み込んで、下段から上段へ跳ね上げるように薙刀を振るう。斜め後ろから刃を振るわれたというのに、零香先生は少し前に踏み出すだけで避け、頭上から降ってきた二の太刀を、軽く横にずれるだけで避けてみせる。其処から僅かに立ち位置をずらしつつ、脇から首に抜けるようにして第三の太刀を間髪入れず。これは高さ的にも最も避けづらいはずの軌道だが、軽くバックステップして零香先生は余裕でかわす。

これはこういう訓練だ。零香先生は普通の組み手と違い、攻撃、反撃を念頭に置いた動きをしない。ある程度以上の達人がそれをした場合、捉えるのは至難の業だ。まして人食いは、下手をすれば何十年もその業だけを鍛えている相手だ。

「ええいっ!」

切り返しつつ大きく踏み込んで、突きを放つ。同時に零香先生が前に出て、柔らかく跳躍。大きく踏み込んでいた真由美の頭を踏んづけて、後ろに抜ける。体勢を崩した真由美はすんでの所で踏みとどまるが、零香先生を完全に見失った。

「くっ……!」

「此処だよ」

斜め上。太い竹の枝に、器用に重心を取りながら零香先生は立っていた。いや、注視すると違う。竹の幹を片手で掴んで、さも枝に立っているかのように全身を支えているのだ。眉一つ動かさずに。凄まじい身体能力である。

降り立った零香先生は、暫く肥前守を見ていたが、小さく頷く。

「なるほど。 数日間付き合ってみたけれど、これじゃあダメかな」

「……何処がダメなのか、お願いします」

「要するにさ、剣術、薙刀術としては、真由美ちゃんの動きは立派なわけ。 だけど、捕縛術としては全く駄目。 言っている意味が分かるかな」

「相手に打撃を与えることを目的とした動きが中心で、相手の動きを止め捕縛することが中心では無いと言うことですか?」

それもあるけれど、と零香先生は前置きしてから、少し懐かしそうな目をした。

「要するに、目前しか見えていないんだ」

「観察範囲が狭い、という事ですか?」

「飲み込みがいい。 そう言うことだね。 今のやりとりでも、わたしに如何にして打撃を与えるかばかりを考えてるから、さくっと逃げられる。 もっと地形のレベルから包括的に相手を見て、包み込むように攻撃してご覧」

つまり、である。相手を潰すために、さまざまな伏線を攻撃に含めるべきだと言うことだ。そう真由美は解釈した。確かに言われたとおり、今までの攻撃は少し素直すぎたかも知れない。

構えを取り直す。石突きを少し降ろして、薙刀を心持ち上段に。周囲の地形全てを頭に入れていく。どうやったら逃げ道を塞ぐことが出来るか。どうやったら相手に必殺の一撃を叩き込むことが出来るのか。どうやったら相手を黙らせることが出来るのか。

……あの人と話をするなら、黙らせてからだ。多分、そうするしかない。人しか食べることが出来ないと言っていたけれど、他に方法があるかも知れない。それにはもっとコミュニケーションを取って、もっとあの人のことを知って。そうすれば、悲劇を回避する術があるかも知れない。

あの人がもう何百人と殺しているのは事実だろう。人間社会に復帰するのはその意味からも不可能だろう。でも、あの人の悲しさは、肌を通して伝わってきた。あの人が今の状態で幸せだとは思えない。何かしてあげたい。人類の皆が敵視する相手であろうからこそ。

「君は真面目すぎる。 それに優しすぎる」

「分かって、いますっ!」

左手に竹がある。それを遠慮無く利用する。右斜め上から、包み込むように斬撃を仕掛ける。深い一撃で、下がる隙も少ないが、獣のように態勢を低くして砂地の地面をざっと下がる零香先生。しかし、それは予定済み。切り抜かず、そのまま踏み込んで、斜め上から流星が如き一撃を顔面目掛けて叩き込む。口笛を吹いた零香先生は真横に跳躍し、二度はねて竹の幹に横から止まり、続けての、振り返りざまの横薙ぎの一撃をかわし抜いて見せた。切り落とされた竹が、ずるずると切断面からずり落ちていく。それを片手で受け止めて、地面に深々突き刺すと、零香先生はにっと笑ってみせる。

「まだ狙いが見え見えだけど、良い感じだね。 教えがいがあって嬉しいよ」

「有り難うございますっ!」

「スピード、更に上げていくよ」

それからの戦いは、今までより更に有意義なものとなった。

低い態勢になった相手には、上から被せ込むように。下がった相手には、下がり切らさず貫ききる。飛んだ相手は、跳躍軌道を読み切って待ち伏せ、横へ逃れようとする相手は斜め上から被せ込むように。そしてどんどん狭い所へ追い込んでいく。広域戦闘技術を基本からみっちり叩き込まれた。いつの間にか陽は落ちきり、星が瞬き始める。何度か小休止を入れつつも、どんどんコツが体の中に入り込んでくる。

真夜中まで集中して修練を続けて、気が付いたときは自室に寝かされていた。葉子が上から覗き込んでいた。気が抜けた途端に、気絶してしまったらしい。

「良かった……心配したんだから。 無茶な訓練しちゃだめでしょ」

「ごめんね。 ……明日、勝負を付けるよ、葉子ちゃん」

「うん。 でも、意識は変わったし動きも随分良くなったけれど、新しい能力が備わったわけでもないし。 大丈夫なの?」

「大丈夫。 出来ることを、最後までやってみる」

 

翌日は平日。学校の授業が終わるのが、これほどもどかしいと思った日はなかった。学校が終わると、そのまま自宅に直帰。由紀先生はもう身支度整えて待っていてくれた。すぐに決戦の地である池袋へ。

修練の合間、池袋の地図は頭に叩き込んだし、例の趣味が悪いサイトにも足を運んで人食いさんの情報は集められるだけ集めた。今回は、前のようにあっさり逃がしはしない。力尽くでも、話を聞いて貰うし聞かせて貰う。

由紀先生とは途中で別行動。というよりも、彼女も後見人という役以上のナニカの仕事のため、此処に来ているのは、真由美ももう分かっている。あの人食いさんは多分あんな傷を付けるような攻撃能力を持たないし、意志もないはずだ。

一体何故あんな深い闇に落ちてしまったのか。それが知りたい。助けられるのであれば、助けたい。

人間同士の関係が、現代では希薄になりつつあると言われている。そう言う意味では、真由美のこういった考え方は「変な考え」に属するわけである。常識的とは言い難く、後ろ指を指されやすい代物であり、場合によっては偽善とさえ罵られる。

つまり、常識とは、社会とは、そんな程度の代物に過ぎない。そんなものに乗っかり、常識人だのまともだのとふんぞり返っている生物の、何と醜く脆弱なことか。

駅を出る。さっさと大通りに出て、徐々に裏通りへ入っていく。寂れたビルを一つ見つけて、人々の視線をかいくぐってその中へ。素早く階段を駆け上がって屋上に出る。テナントがないわけでもなく、人がいないわけでもなかったのだが、誰も真由美が駆け抜けたことに気付かなかった。

屋上に出た真由美は、詠唱を開始。詠唱そのものは意味さえ通じれば日本語でも構わない。

「唯一の友たる遠討ちの銃よ。 天かける馬に似たその肢体、今現世に移し換えよ。 神々の吐息にも似たその愛しき声で、敵の心臓貫くがために。 おお、愛しき我が友よ、汝の存在、無二なり」

光の中、形を為していくライフル。長さは八十五センチ、重量一キロ半、スコープ付き。材質は主にプラスチックだが、グリップの一部には木を使用。更に遅れて具現化する弾丸二つをキャッチすると、すぐに銃の背から詰める。連射は利かないが、今の真由美の腕でも二百メートル先から95%以上の精度で命中させる。銃自体に術の補正が掛かっているし、淳子先生にみっちり仕込まれた。それに相手が動かないのならなおさらだ。

人食いさんは、全く同じ位置に座り込んでいた。一撃で仕留められるとは、最初から真由美も思ってはいない。まずは挨拶代わりだ。

 

狙撃自体は、初めて受けるわけではない。むしろ受ける攻撃の種類としてはかなりポピュラーだ。

飛んできたライフル弾が、「第二体」の触手に突き刺さって弾けた。

人食いは二つの体を持っている。一つは第一体と呼ばれるもので、人間として生きていた頃の体をベースとしたものだ。もう一つは第二体と呼ばれるもので、不可視の存在。第一体と存在の位相を僅かにずらして、体の周囲に展開している。無数の触手蠢く分厚い肉の壁で、これを使って殆どの攻撃を防ぎ抜いてきた。再生も速い。人食いはこの第一体と第二体を連携して動かしており、両方同時に滅ぼさないと死なない。また、第二体を使って人間を補食する。第一体の口と位相が重なっているため、第一体の口も動かさないと咀嚼できないし、食べかすなどは第一体の口から取り出すことも出来る。

イタリアではマフィアのボスを三人くらい喰ったので、随分攻撃されたものである。そのうち殺せないと悟って、無駄に兵を損ずるだけだと悟って、正体さえ掴めないと悟って、居場所さえ掴めないと悟って。一種の嵐だと襲撃者達が諦めて、いつしか止んだが。

ちなみに、攻撃は散々されたが、人食いの存在を特定できた組織は一つもない。つまり飛んできた弾は流れ弾ばかりで、人食い自身は誤解と混乱から生じた周囲の殺し合いをぼんやり眺めるだけだった。

顔を上げる。弾丸の射撃線から、狙撃地点を特定。ライフルを上げて、此方を見ているのは。おやおや、五日前に少し遊んであげたあの子だ。面倒くさい。正直な話、此処しばらくの食事で随分お腹は膨れている。此処では全く喰うのに困らなかったのだ。一年くらいは持ちそうだし、別に戦う理由もないのだが。

あの子の目は、随分久しぶりに見る。信念に燃える目だ。しかも信念だけで空回りするのではなく、力量も充分伴っている。そろそろ一人前に昇格できるくらいの実力だろう。

人食いの能力は、食事と逃走にのみ特化したものだ。それに人食い自身、戦いがそう好きなわけでもない。地獄のような環境から生き残るために戦った。戦った結果こうなった。だから戦いそのものは人食いにとって思い入れはあるし、さまざまに研究もしたが、別に戦いに勝って敵をねじ伏せることに快感を得るとか、そう言うことはない。

それにしても。あの子の目的が分からない。人食いの習慣を止めさせるのが無理だというのは分かっているはずだ。醜悪なパラドックスの存在にも気付いているはず。それなのに、どうして本気モードでまた現れる。今まで僅かな回数しか会ったことのない人種だ。

埃を払って立ち上がる間に、更に二発弾丸が飛んできた。通行人達は全く気付かない。触手を蠕動させ、弾をはじき出して、道路に転がすと、ようやく怪訝そうに其方を見る連中が出てきた。弾丸はすぐ消えてしまう。能力で作ったものだから当然か。

本体となる「第一体」から力を送り込み、不可視の「第二体」の修復を実行。その後、何事もなかったかのように歩き出す。食事に向かうのだ。腹は別に減っていない。相手の目的を見るための行動である。

人間としてのあの子に興味は全然湧かないが、能力者としてのあの子になら少しは違う。或いは上位種が何かを知らず、一種のカニバリストとでも考えているのかも知れない。

「どっちにしても……面白そうかな」

久しぶりに興味のある存在を見つけた。人食いはふらふらと雑踏の中に紛れ込み、どんどん裏路地へと入り込んでいった。あの子、狙撃の腕は一般人としては立派だが、能力者としてはかなりお粗末なレベルになる。さて、これが向こうの目的であったはず。乗ってあげたのだから、さっさと次の手を打ってきて欲しいものだ。

強力な気配が、少し離れた所でふくれあがる。一方はずっと話しかけてきているあの鬱陶しい女だ。もう一方は分からないが、少なくともあの子ではない。今の自分の行動が、第三者達の戦端を開かせたのは確かだが、そんなことは別にどーでもいい。別に街一つ吹っ飛ぼうが、知ったことではないからだ。

やがて、周囲の人気が無くなる。半スラム化している一帯に入り込んだのだ。誰も人がいない商店や、何かのビルのなれの果てがそこら中にあり、落書きだらけのブロック塀が左右に立ちはだかる。同時に。あの子が行方を阻むようにして現れた。

「さっきはライフル弾をごちそうしてくれてありがとう。 今日は何のよう?」

「私、高円寺真由美といいます」

鯉口を切って刀を抜きながら、真由美という子は名乗る。きょとんとした人食いは、思わず小首を傾げていた。

「ハア?」

「名前、教えて下さい。 人食いなんてのが、名前ではないって事は分かっています」

「……名前、ねえ」

やはりこの子は分かっていない。上位種という存在の事が。そして意味が。

「名前ってさ、そもそも何?」

「個体を識別する一種の記号です。 ……でも、その人を示す、大事なものでもあります」

「ふーん、まあ、理想的な模範解答だね。 だったら人食いって呼べば良いんじゃないのかな」

「貴方は少なくとも昔は人間だったはずです。 人間だったのなら、人間の証であった名前も持っていたはず! 私は、貴方の、尊厳を踏みにじりたくありません」

「そんなもの、とっくの昔に捨てたけど?」

やはり分かっていない。

名前というものは、一定数以上の人数がいるコミュニティでこそ意味を為してくるものだ。例えば人名というものは、社会というコミュニティ内で、相手を識別するために用いるものだ。コミュニティの大小で、それの意味も大分変わってくる。

人食いは、弱いという理由で、自分をはじき出した人間社会に興味をもう持っていないし、戻りたいなどと言うたわけた事も思わない。最小単位の記号である性別ですら、もう今では意味がない状態だ。人間社会は畑に過ぎず、名前はせいぜいエサを分別するための意味でしかない。人間であったことなどもうどうでもいいし、その頃の名前になどそれこそ何の思い入れもない。

この子は人食いが人間社会に戻れるとでも思っているのだろうか。そもそも戻ることは出来ないし、頼まれたってまっぴらごめんだ。人食いは、自分の意志で人間を止め、そして捨てた。その選択には何の後悔も未練もないし、これからも感じることはあり得ない。

人間の頃からだが、永遠の命など欲しいと願ったことなど無い。欲求が満たされればいいと思ったことも極めて少ない。別に恋人を熱望していたわけでもないし、大事な人に優しくして欲しいとも思わなかった。特に願っていたことなど無かった。弱いという理由で自分を狩り出し、迫害し、尊厳を踏みにじり、命までも奪おうとした人間社会に見切りを付け、去っただけだ。弱いと言うことが人間社会で害悪となり、生存の権利が認められないと言うのなら。人間を止めて、その社会を去るだけのこと。だから去った。

弱いものが、生きるということ自体が悪。少なくとも、人食いが暮らしていた周辺の社会では、それがルールだった。そして大なり小なり、人間社会ではそれがルールだと、人食いは世界中を渡り歩いて知った。

人食いの視線が冷め切っていることを、真由美という子は敏感に悟っているはずだ。中段に構え、刀の切っ先を此方に向けたまま、じりじりと間合いを詰めてくる。

「人間以外の存在が、人間を殺すことは悪、か。 人間社会の根本ルールだね」

「貴方は、人間です! それに、人間が人間を殺すことだって、充分に悪です!」

苦笑が漏れてしまう。若い、実に若い。

この子は現実のあまりにもおぞましい姿を、若さで乗り越えようとしている。

「どうして貴方がそうなってしまったのか、聞かせて貰います。 力尽くでも!」

「あー。 聞かせてあげても良いけど、それでどうしたいわけ?」

「理由が分かれば、貴方の存在を理解することが出来ます。 理解することが出来れば、共存だって和解だって出来るかも知れない。 貴方だけで完結した世界では、分からない解決方法が、見付かるかも知れないじゃないですか!」

「若いなあ。 若いし、暑苦しい。 ま、そう言うからには、力尽くで聞き出してご覧」

右手に鉄パイプを具現化させる。構えなんて、勿論取らない。どんな攻撃にも対応するためだ。

この子、真由美も分かっているのではないか。聞いた所で、解決方法など無いと言うことを。それでもどうにかしたくて、最後まで可能性を探りたいのだろう。どっちにしても、つまらなくはない。本気で相手をしてあげるには充分だ。数度鉄パイプを振り抜く。

「私は能力者としてカウントすると、そんなに強い方じゃない。 せいぜい中の上くらいかな。 それでも、超一流の能力者から逃げ切ったこともある。 私は、そういう存在だよ」

「でも、私の師匠からはきっと逃げられません」

「……面白い。 じゃあ、さっき言った通り、力尽くできなさい」

停滞は一瞬。即座に動へと移行。

踏み込んできた真由美が、真横に刀を振り抜き、下がった所に突きを繰り出してくる。伸びの思い切りが以前よりずっと良い。更に、突きを放ちながら術を発動、薙刀に切り替えて瞬間的に間合いを拡大してきた。受けきれないふりをして鉄パイプで防ごうとする。しかしその瞬間、刃を引き、踏み込んで即座に回し蹴りを叩き込んできた。態勢を低くして側頭部を打ち抜こうとした一撃を凌ぐ。真由美は回転の勢いを殺さず、地面に擦るような超低空の横薙ぎで、一撃を叩き込んできた。鉄パイプで防ぎつつ横っ飛び。激しい火花が散る。

ブロック塀に追いつめられた人食いに、真由美は間髪入れず斜め上からの一撃を叩き込んでくる。戦い方がぐっと上手くなっている。客観的な戦況の見方を覚えたらしい。概念を理解するのとそれに基づいて戦えるようになることは随分違うが、この子は天才的な素質があるらしく、その差を短期間でかなり埋めている。師匠が桁違いの腕前であるのもあるだろう。しかし何より、この子の精神的な集中力と、激しい錬磨がものを言っているのも事実だ。

舌打ち。少なくとも殺す目的で、人食いは鉄パイプを振るうことが出来ない。もっと遙かに手だれた近接戦闘系の能力者に襲われたこともあるし、乗り切ったこともあるが、どうも今回は勝手が違う。手の内を見せれば見せるほど、この子はどんどん加速度的に強くなるような気がする。

「はあっ!」

「せいあっ!」

鉄パイプを跳ね上げ、薙刀を正面から迎撃。ぶつかり合い、均衡が訪れ、その隙に連続してバックステップ。目を見張る。いつのまにか真由美の右手にライフルがある。左手で素早く脇差しを鞘に収める。しかも器用に落ちてくる弾を装填すると、容赦なく撃ち放つ。一連の動作完了まで、二秒と掛かっていない。仕方がない。第二体を出して防御。触手の一つに、ライフル弾が鈍い音とともにめり込んだ。この近距離、破壊力凄まじい弾は触手を貫通、更に防ぎに入った触手の半ばにまで達し、力を失いゆっくり地面に落下した。額の五センチ前である。

「……!」

ライフル弾は、ライフル具現化と同時に二発出るらしい。装填しなかった一発が地面に跳ね返って乾いた音を立て、すぐに消え失せる。

「この間の不自然な動き、それを使ったんですか?」

「お? そっか、この距離なら、冷静なら力の流れが見えるか……」

真由美は少し俯いて、唇を噛んでいる。気付いているはずだ。これが術ではないと。魂が変質した結果、生じたものだと。本当に人食いがもう人間ではないのだと。そして、人間に戻るという選択肢自体が存在しないのだとも。

素早く弾を発生させて最装填すると、もう一発撃ってくる。触手が勝手にガードする。存在に気付いても、全ての動きを見切れるはずもない。その隙に動いていた他の触手がコンクリの地面を叩き、体を空高く舞上げた。追いすがってくる。しかし伸びた触手が何本か辺りの地面やコンクリ塀を掴んで引っ張って、素晴らしい連携で体ごと敵の遠くへ遠くへと運んでいく。この分だと、空間転移を使う必要も無さそうだ。

触手は逃げているだけではなく、獲物の元へも人食いを運んでいる。動けば腹は減る。丁度エサの条件を満たした人間が、五六匹たむろしているのを知覚。地元のチンピラややくざは露骨に池袋から逃げ出しているが、最近他県から入り込んできた連中の中には、危険に気付いていないようなバカも少なくない。丁度いい。現実を徹底的に見せつけるには良い機会だろう。眉を跳ね上げた真由美は、全速力で付いてくる。わざとゆっくり、空間転移さえ使わずに、彼女をエサ場へと誘導していく。

逃げ足には自信があったのだが、真由美はかなり速い。近接戦闘強化系なのかは分からないが、逃げることのみに特化した人食いに随分頑張って追いついてくる。術ではなくて、磨き抜いた身体能力のお陰だろう。一流とまでは行かないが、一人前レベルの近接戦闘強化系に近いレベルだろう。やはりこの子は現実を徹底的に見せつけて、それから置き去りにしてやりたい。どんな風に育つか楽しみだ。

体が反応した。積み上げてきた戦闘経験によるものだ。

不意に視界を塞いだそれは、いきなり天から地に抜けるような鋭い斬撃を叩き付けてきた。急停止して、触手で防ぎつつ、残った触手で斬撃線から体を反らし、廃工場の塀の上に着地。千切れた触手が吹っ飛び、かき消える。

「葉子ちゃん、戻って!」

「……ダメ。 逃げられる」

手を広げて、人食いのすぐ側に浮いているのは、いわゆる集合霊だ。多分百近い数の霊を、強力な一体が統率している。その統率している一体の、生前の姿をとっているのだろう。おかっぱ頭の、赤いサスペンダーつきスカートを穿いた小学生くらいの女の子だ。胸の中央には死因らしい包丁が突き刺さっていて、血痕が目立つ。上履きは名前入りのズックで、実に微笑ましい。成る程、名前は葉子というのか。条件の縛りからは外れるので、食物には出来ない。……しかし、今触手の一本を切り裂いたのは何だ?胸に刺さっていた包丁を使った形跡は無いのだが。

夕方とは言え、具現化はかなり負担が大きいだろうに。この子は自分のダメージを一切気にせず、此方から片時も目を離そうとしない。余程深い信頼関係で結ばれているのだと分かる。

「マユたん、気をつけて! こいつ、体が二つあるよ!」

「! やっぱり……!」

「お。 流石に霊体だけあって見えるか。 いいパートナーがいるね。 感心感心」

秘密を看破した集合霊に、人食いは舌なめずりした。まあ、そこそこの実力の能力者なら、誰でも看破できることだし、特に感慨はない。

後ろから真由美がじりじりと間合いを詰めてくる。どうやって攻めを構築するのか、少し興味深い。

狭いブロック塀の上でバランスをとり続けている人食いは、当然遠くで離れ近づきを繰り返している強力な気配二つには気付いていた。別に必要ないと言っているのに、片方、あのゴスロリ女が人食いを支援しようとし、それをあのツインテールが邪魔しているのは分かり切っている。どっちも出来れば戦いたくない相手だし、関わりたくない相手でもある。今、人間でエサ以外の興味があるのは、この真由美という子だけだ。

前後同時に動く。前にいた葉子が鋭く下がり、同時に後ろにいた真由美が塀に飛び乗り、斜め下から抉り込むような斬撃を叩き付けてきた。上手い。左右にも避けられないし、飛べばさっき葉子が見せた妙な攻撃の餌食だ。だから、下がる。

振り向きざまに、薙刀を触手で抑えつつ引っ張り、態勢を泳がせた真由美の至近で踏み込む。顔が超至近ですれ違う。良い表情だ。そのまま馬跳びの要領で、真由美を飛び越す。触手二本を強引に切り伏せた真由美が踏みとどまり、振り返りつつ猛烈な一撃を叩き込んでくるが、しかし遅い。人食いは既に塀の下へと逃れた後だ。

さて、問題は、あの葉子がどう動くか、だが。道路に着地すると同時に、至近に殺気。触手二本をぶつ切りにする気配に逆に当て身を喰らわし、腕を掴む。そのまま壁に叩き付けて、力が弱まった所で飛び退く。飛び退かなければ飛び降りてきた真由美に頭をたたき割られていた。

壁にずり落ちる葉子。やはり今の攻撃の正体が分からない。葉子を背に庇った真由美が、構えを取り直す暇もなく、切っ先を向けて強烈なチャージを仕掛けてくる。鬼のような顔だ。鉄パイプで防ぎながらバック、バック、四度地面を蹴ってはじき飛ばされるのを少しでも緩和する。緩和しきれない。

ブロック塀の切れ目から、廃工場の中へ、背中から突っ込む。多量の埃が舞い上がった。

 

「葉子ちゃん、速く肥前守に戻って!」

「ごめん、面目ない」

「いいからっ!」

工場の中へ突っこみ、埃を多量に巻き上げた人食いを見ながら、真由美は後ろにいる葉子へ叫んでいた。いつもより口調が荒いのは、葉子が本当に消されるかと思ったからだ。

本気で戦ってみて、はっきり分かった。人食いは強い。身のこなしはかなりしっかりしているし、戦闘時の判断力も鋭いし、何より喧嘩慣れしている。これなら確かに数多の刺客から逃れ得たわけである。

逃げるのみに特化した能力で、攻撃を禁止している可能性が高いと言っても、その条件が人間にのみ向いているか、能力者のみが対象なのかと言われると、分からないとしか応えられない。だから、今脳内のリミッターが、瞬間的に外れていた。呼吸が乱れる。怒りを必死に押さえる。そうしないと、爆発しそうだった。

薄暗い工場の中で、倒れたドラム缶を押しのけて、人食いが立ち上がった。体が二つあると葉子は言ったし、自身でも実感はしたが、その意味はまだ良く分からない。分かっているのは、奴が殆ど無傷で、今のチャージを防ぎ抜いたと言うことだ。

「いーい顔になってきたね」

「……」

「私がさ、その幽霊の子喰うなり消すなりしたら……もっといい顔になるのかな?」

そんなことを言われると、怒りは却って醒めてしまう。苦笑が浮かんでしまった。

「心にもないことを言わないで。 貴方が葉子ちゃんを殺す気なら、さっきチャンスはありました」

「お。 怒りながらも冷静に見てるね。 やれやれ、この位で理性を飛ばしてくれる相手なら、やりやすいんだけどなあ」

「どうして、憎まれようとするんですか?」

「……最初に、一方的に憎んだのはあんたらだろう」

人食いの口調が露骨に変わった。背筋に氷の矢が何本も刺さったかのような感触だった。だが、それもすぐに消える。真由美は触れてしまったのだ。この人が、抱え込んでいる、あまりにも強大な闇に。負の記憶に。

「さて……そろそろ逃げるかな」

「そうはいきません」

「丁度晩ご飯を見つけた所だしね。 これ以上構うのは正直めんどいんだけどなあ」

「私も晩ご飯抜きます。 それでどうですか?」

この切り返しは予想していなかったのか。きょとんとしていた人食いは、やがて笑い始めた。真由美は素で返事をしただけだったのに。思わぬ効果に、嬉しくて涙がこぼれそうだった。笑ってくれると言うことは、少なくとも此方の存在を見てくれたのだ。

「分かった分かった。 ……どうせ君が能力者として生きるなら、私ら上位種の話は、そのうち何処かで聞くことになる。 それが上位種本人からってのは間違いなく変わり種になるだろうけど……そういうのが一人くらいいても良いだろ」

「……」

「そんな顔するなって。 ……それと、分かってると思うけど、話の途中で正義だ大義だとか間違ってるだとかほざきだしたら、即座に私は帰るからね」

それは真由美も承知の上だ。

何とか肩の荷を降ろすことが出来た。しかし、大変なのはこれからだという気もする。

人食いは薄くらい工場の中へ入っていく。バックパックから懐中電灯を取り出すと、点灯してそれに続いた。

真由美はまだ気付いていない。自分がこれから、人類の業と直面することになるという、酸鼻な事実に。

 

5,悲劇

 

ビルからビルへ時速二百キロほどで飛び移り、ひっきりなしに場所を変えている輝山由紀は、人食いの動きが止まったことに気付いていた。しかも、それは恐らく、かなり平和的な対話の結果だと言うことも。やるじゃないか、あの子も。口の中で、静かに真由美を賞賛する。勿論面と向かって等絶対に言わない。

池袋の繁華街で敵捕捉。交戦開始より、すでに二時間ほどが経過している。どちらもかなり疲労している……はずだと思いたい。かなり疲れてきている由紀は、相手の性質の悪さにイライラし通しだった。淳子の報告書で内容は知ってはいたが、実際に直接戦うことになると、その性格の悪さに腹が立ちっぱなしだ。前回はその苛立ちを突かれて、コテンパンにされた。

四十階建てほどのビルを垂直に駆け上がり、屋上で一旦停止。場所を移そうと辺りを見回した途端、足下に殺気。飛び退くのと、足下から飛び出してきた矢が、右腕、左腿、そして頬を連続して掠めた。舌打ちして双剣を出し、四本目の矢をはね除ける。敵発見。距離およそ五百七十メートル。十階ほどこのビルよりも低いビルの屋上にいる。すぐに地面に潜ろうとするが、そうは行かない。無言のまま構え、加速、運動エネルギーを剣へと乗せる。四秒立たず時速三百キロまで加速した由紀は、その全てのエネルギーを乗せた剣を、破壊の槍として打ち出していた。

一閃。爆裂。

奴がいた地点に、大きな穴が開いている。上手く外れるようにはしたつもりだったが、イライラが手元の狂いに着実に現れていた。コンクリ床に突き刺さった剣は、弾けて虚空に飛び、そこで消えるようにコントロールしたつもりだったが、今日もう十四回目のキネティックランサーである。流石に手元が狂ってきていた。今の剣はコンクリ床を直撃、其処に小さなクレーターを穿ってしまっていた。ビルに住んでいるらしい人達が慌てて屋上に出てくる。身を隠した由紀は、すぐにその場を後にした。

通称、アースダイバー・スナイパー。陽の翼幹部の中で、本名不明の人間は多い。その中でも最近ちらほら姿を見せていた謎の隠密狙撃系能力者が奴だ。

今見せたように、奴は地面の中を泳ぎ、相手の足下から地面を透過する矢を用いてスナイプを仕掛けてくる。泳ぐ速さもかなりのもので、時速五十キロ以上は余裕で出る。一度に四本までしか矢が撃てず、撃った後は二分以内に息継ぎをしなければならない弱点はあるものの、地面に接した固体の無生物は何もかも通り抜けることが出来るため、非常に危険だ。飛行能力を持つ利津などに対しては相性が悪いだろうが、空を飛べない者には天敵に近い。地面にずっともぐり続けることはできず、何もない状態でも十分に一回ほど息継ぎをしているのは由紀も確認している。ただ、それでも、此奴を捕捉するのは難しい。攻撃直後ならともかく、それ以外では砂漠で土竜叩きをするようなものだ。

幸い、淳子のように矢に変な仕掛けをすることは出来ないし、防御系の術は殆ど持っていないだろうと推察されている。土竜叩きの要領で攻撃を加えることも出来る。今のはかなり深い所にまでヒットした。次は当てることが出来るだろう。この間はコテンパンにされたが、今度はそうはいかない。

決意は決意として、現実的に考える。次の狙撃を受けると、此方もかなりまずい。しかし、奴もこのままの状態で、人食いの所に救援に向かえはしないと気付いているだろう。そんな風に隙を見せられる相手ではないと、今までの交戦で見せつけてやった。下手に真由美を狙いに行くようなら、キネティックランサーで串刺しにしてやる。ずっと地面に潜っていられるわけではないのだ。精密な攻撃の前には、どうしても一度顔を出して空気を吸っておきたいだろう。そう言ったとき、注意を向けていない第三者からの攻撃が、面白いようにヒットするものなのだ。

ビルの壁を駆け下り、別のビルへ。今度は少しずつ高度を落としていく。恐らくは、次の一撃が、戦闘続行可能の線引きになる。切り札で勝負に来る可能性もある。由紀としては、それは避けて欲しい。こんな所で由紀くらいのレベルの能力者同士が切り札を使いあったら、死者数百人ですむかどうか。

それに由紀としても、アースダイバーは出来れば捕獲したい。陽の翼が何を企んでいるのか聞き出したいし、本音から言えば殺さなくてもすむ相手なら殺したくないのだ。

六つ目のビルの屋上を蹴って飛ぶ。同時に奴が勝負に出た。

ビルに着地した瞬間、殺気がふくれあがる。ジグザグに走っていたというのに、此処まで正確に着地地点を見切るとは、流石だ。

コンマ一秒の、更に数分の一の世界。着地と同時にコンクリの床からせり上がってくる矢は、正確に由紀の心臓に向いている。その矢に向けて伏せながら、手にした双剣で斬り払う。折れた矢の破片が、肩口に突き刺さり、鎧を大きく傷付けながら回転して飛んでいった。こんな危険な伏せ方をしたのには当然理由がある。首筋のすぐ後ろを、二本、連続して矢が抜けていく。更に一本の矢が、太股を貫いていた。鮮血が後ろ腿から吹き出す。

無事だった方の足で、床を蹴る。回転しながら跳躍。敵を見つける。視線があったことに、明らかに驚いた表情だ。死んだ魚みたいな目に、やはり表情は浮かばない。やはり義眼か。

距離百三十メートル。術はもう唱え終わっている。奴はビルの壁から上半身だけ出して、すぐに戻ろうとしていた。戻すものか。腿に刺さった矢、骨は傷付けていない。キネティックランサー一発なら、どうにか撃てる。

着地。踏み込む。加速。狭いビルの屋上で、一気に最高速度に、そして双剣の片割れを放つ。

ビルの壁へ、一条の破壊の光が、吸い込まれるようにして伸びる。空気を切り裂く音が、由紀の所にまで届いた。

爆発した。

着弾点の上下階の窓に、蜘蛛の巣状の罅が入る。トラックが激突したに等しい衝撃が加わったのだから無理もない。奴は間一髪コンクリの中に逃げ込むのを見たが、無傷ではすむまい。しかし、此方の受けたダメージも深刻だ。

矢を双剣で切って、前後から抜く。動脈は避けたが、しかし強烈にいたい。バックパックから包帯を取りだし、圧迫して止血に掛かる。これだと、あまり速くは動き回れないだろう。動きからも正確性が失われる可能性が高い。

携帯を取り出す。念のためだ。現在、一番近くにいるのは零香である。ひょこひょこと歩きながら、由紀は支援要請の一報を入れた。癪だが仕方がない。

程なく零香は捕まった。元々、陽の翼がいつ何処で何をするか分からない状況である。重要度が奴らにとっても低いと思われるこの戦場に、過剰な戦力を投入するのは望ましくない。それは由紀にも分かっていたから、少し零香には申し訳がなかったのだが。零香の反応は予想と随分違っていた。

「そっか。 取り合えず、自力で戦線は離脱できるね」

「……何かあった?」

「あった。 話を聞く分だと、アースダイバーも多分戦闘続行は無理だね。 真由美ちゃんにはこっちから連絡しておく。 由紀もすぐに引き返して」

目を細めた由紀は、了解と呟いて電話を切った。

水を差された形だが、それも仕方がない。次に出くわしたら必ず潰す。なま暖かいビル風が、傷ついた由紀の全身を撫でていった。

 

携帯を閉じた零香は、臨戦態勢だった。神子相争に出かけたときのように、スポーツウェアに身を包み、心身共に刃のように研ぎ澄ましきっている。周囲の空気はぴりぴりと鳴り、小動物は殺気を怖れて近寄らない。

今回の仕事、零香は二つの可能性を考慮していた。一つは言うまでもなく陽動作戦である。

連中は今まで、霊的磁場の強い土地に現れては、強い負の力を何かしらの手段で集めていた。それが不意に上位種と随分気の長い交渉を行い、しかも上手くいっていない。相手にその気がないのが見え見えなのに手を引こうとしない。上位種が何か、世の中の矛盾とどう戦うか、体で真由美に覚えさせるために派遣はしたが、連中の狙いは他にあるとずっと零香は確信していた。

しかしこの状況、もう一つの可能性を考慮に入れなければならない。即ち、上位種の協力を取り付けることが、連中の計画に関わっているという事だ。

それを裏付ける情報が、さっき桐から届いた。一つは、陽の翼の中級構成員を中心とした少人数の部隊がオセアニアの数国に出現、上位種と交渉し、現地の政府側能力者と戦闘の末撤退したと言うこと。どうも其方の上位種は陽の翼についていったらしい。幸い、此方は被害がなかったそうだ。もう一つは、インドの情報。インドでも陽の翼構成員五名が、同じような事をしていったそうである。同国は保有する戦闘向け能力者が少なく、止せばいいのに特殊部隊が突っかかって敢え無く返り討ちにされ、結果委細は不明だそうだ。

つまり、連中は重要な本拠の守りを裂いてまで、上位種との交渉を行っているのだ。これは陽動作戦の訳がない。確実に主要な作戦の一つだ。

つまり、それに対して戦力を集中させれば、連中も戦力を集中して来る可能性が高い。池袋のような大都市で、零香のような超一流の能力者が複数戦ったらどういう事になるか。毎回既に滅びた世界で瓦礫の山を生産していた神子相争を思い出すまでもない。下手をすると、池袋は地図から消える。

もし零香が今から向かえば、陽の翼側も黙っていないだろう。ジェロウルなり陽明なりが出てくる可能性が高い。連中を途上でつり上げ待ち伏せするには、此方の情報が不足している。零香達と同程度の能力者が日本にいないわけではないのだが、連中の組織力も神出鬼没の行動力も、長年米国を相手にし続けて養ったものだろうし、相当に洗練されている。内務省や自衛隊配下の諜報組織が必死に嗅ぎ廻っても、そうそうに尻尾は掴ませないだろう。更にこの国には、情報収集系の、超一流の能力者がいないのも厳しい。

一旦由紀には引き上げて貰って、代わりに零香が監視に行くのがベストの選択肢だ。真由美については、多分それほど危険視はしないだろう。零香から見ても、真由美が本気になった人食いを殺すのは無理だし、人食いも真由美を殺そうとはしないだろう。

連中はいったい何を考えている。零香は何度も自問自答した。膨大なエネルギーの使い道が分からない。そもそも、小さな島を制圧し、それを維持するのに、一体どんな理想郷への道があるというのだ。

陽の翼の首領、いわゆる太陽神は切れ者だと聞く。奴の正体については零香もある程度見当が付いているが、だからといって同類を集めて意味があるとは思えない。というか、同類が「力を貸す」ことなどあり得ないと、奴は知っているはず。それなのに、何故この状況下で、戦力を無為に裂いてまで。

今は情報が少なすぎる。桐辺りは結論にまでたどり着いているかも知れないが、零香にはまだ分からない。

今はただ、一刻も早く真由美を戦力として鍛え上げなければならない。それが眼前に迫った、至上の命題であった。

 

蒼白になった真由美が俯く先で、人食いは頬杖していた。薄暗い工場の中では、空気すらもがよどんでいて、今聞かされたあまりにもおぞましい話を後押ししているかのようだった。

「……酷い」

「酷いねえ。 他人事ならそういえるねえ」

人食いの言葉は拒絶に満ちていた。

真由美は悟る。人食いは、何を言われても、今後人間と共存する気がないという事を。自分から搾取し陵辱し続けた人間社会に対して、何一つ希望を持っておらず、愛着も思い入れも無いと言うことを。

人食いの、人間としての名前は佐伯望実。真由美も聞いたことがある。数年前に起こった、史上最悪の、虐めを起点とした連続殺人事件の実行犯だ。道徳の授業で聞いたことがある。閉鎖的で腐敗した高校で、既に一人を残虐な虐めで自殺させていたグループによって、保険金殺人を計画されかけ、グループを全員おびき出して残虐な方法で殺した人物である。そして佐伯さん本人から、その裏にある更に凄惨な事実を今聞くことになった。

虐めグループは佐伯さんを仲間のように見せかけ、それに引っかかった警察は訴えを何も聞いてはくれなかったと言うこと。

学校側は死者が出ているというのに隠蔽を計って見て見ぬふりをしていたと言うこと。

虐めグループのリーダーは地元の名士の一族で、マスコミも全て味方に付けていたと言うこと。そのため児童相談所も一切話を聞いてはくれなかったと言うこと。

佐伯さんの母は水商売上がりの人で、事件当時は心神喪失状態にあり、相談に乗ってくれるような状況ではなかったと言うこと。更に虐めグループは、その状況を理解した上で、佐伯さんを徹底的に虐め付けていたと言うこと。それには街のチンピラなども関与しており、レイプされかけたこともあり、覚醒剤を注射されそうになったこともあったと言うこと。

その挙げ句に、ペナルティが存在しないと錯覚した虐めグループが考えたのが、保険金殺人計画だったと言うこと。連中の一人などは、それで家を買う予定まで立てていたという。

耳を塞ぎたくなってくる。世の中には、見てはいけない、聞いてはいけないことがあるのだと、真由美は思い知らされる事となった。

強くなれとか、弱いから虐められるとか、世に蔓延する戯言が如何に卑劣で邪悪か。佐伯さんの味わった苦境を直に聞かされると、吐き気を覚えるほどだ。更に、自室に侵入された挙げ句、自殺用の縄をつるされたと聞いたとき、思わず真由美は涙をこぼしていた。

「別に今は何も想ってないよ。 連中は皆殺しにしてやったし、それに社会に見切りを付けることも出来た。 ちなみに刑罰はちゃんと受けたよ。 それが私の社会に対する恩の返し。 あんな最低な代物でも、それまで生きるために力を貸してくれたシステムだったからね」

「佐伯、さん……」

「さて、どうする? 私は社会から弱いって理由ではじき出された。 一方的にね。 殺さなければ殺されていたし、誰も助けてくれる人間なんていなかった。 私を助けてくれたのは喰人鬼のトビだけだった。 である以上、社会の外側で生きる気はあっても、中に戻る気もないし、理由も義務もない。 勘違いして貰っちゃ困るな。 私は今じゃ人間をエサかそうじゃないかでしか見ていない。 社会はエサを育てるための飼育場で、それ以外に何の価値もない。 そしてそれは別に復讐でも何でもない」

耳を塞ぎたい。しかし、この話は聞かなくてはならなかった。

この人は人を食う。人を食って生存の糧としている。しかし、そうさせたのは、紛れもなく人という種族そのものだ。この人に責任はない。追いつめ、駆りたて、そしてはじき出したのは、人間というこの世で最も愚かな生物ではないか。

「さあ、どうする? 不幸な人生を終わらせてあげるとか言って、私を殺す? それこそ偽善だって、自分の価値観の、自己満足に基づく暴力による押しつけだって、気付いているよねえ」

あはははははと、佐伯さんは笑った。本人は何も感じていないのだろうが、真由美は悲しくて仕方がなかった。葉子も俯いて黙り込んでいる。この人が受けた悲劇は半端なものではなかった。いうならば、この人の周囲の人間、いや社会そのものが、この人の尊厳を踏みにじりあざ笑い続けたのだ。しかも、自分たちは正しいという盾に隠れながら。

この人を救う事は無理だった。本人は人間が言うような救いなど求めていないし、人間自体にもう何一つ求めていない。真由美が思うような救いを押しつけた所で喜ばないし、どんな人間にだって答を出すことは無理だ。外敵として排除することは出来る。しかし外敵を作ってしまったのは、人間そのものなのだ。

そして、上位種とは、皆彼女のような者達なのだ。

「……わざわざ夕食を抜いた君に免じて、今日だけは食事をしないで上げるよ。 じゃ、ばいばい」

音も立てずに佐伯さんは消えた。何も言えなかった。現実を知っているからこそ、自分の無力さが良く分かった。

そして真由美は、能力者が出来るだけ上位種に関わりたがらない訳が嫌と言うほど良く分かった。

見上げる月は丸い。葉子が泣き出した。真由美も涙がこぼれてきた。どうにもならない。本当にどうにもならない。悲しみと同時に、使命感が沸き上がってくる。

「せめて……私の目の届く範囲では、あんな目に遭う人を、絶対に出さない! 同じ事は繰り返させないっ!」

「うん!」

誰もいない工場の中で、二人だけの決意が響く。

勝者も敗者もない戦いだった。しかし、どうしようもない世界に対する二人の宣戦布告が、静かに響き渡った瞬間であった。

 

6,太陽神

 

M国西部、名も無き島。陽の翼に強制的に制圧された此処は、急ピッチに改装が進みつつあった。軍施設をそのまま流用して宮殿が造られる。宮殿と言っても粗末なものだ。内部はそのままに、外側には土砂を積み上げて整え、ピラミッドのような外観を形作る。防御火器は島の外縁部に全て移し換え、三十人ほどの能力者が、二千ほどの非能力者を守りながら警備を続けていた。宮殿の建設に携わったのは、主にこの非能力者達だが、大した規模の宮殿でもないしすぐに終わった。

陽の翼内部で差別はない。能力者は戦士として、非能力者は労働者として棲み分けをしているだけだ。また、能力者の致死率は高く、けっして能力者が崇拝されるわけではない。崇拝されるのは、常に最前線に立ち続け、どのような苦境でも皆のことを考えて動き続けるリーダー、太陽神だ。

五翼と呼ばれる幹部達は全員が日本で任務を遂行中である。十人ほどは五人ずつ二チームに別れて上位種の探索。そしてもう一チーム五名の任務は、食事の調達であった。

陽の翼はM国内部だけではなく、発展途上国に広く根を張っている。内戦の鎮圧、暴君の暗殺、軍部の粛正と、彼方此方で恩を売ってきたのだ。そのつてを使って、食料を得てくる。今日も一人、獲物が到着した。

M国軍の司令官が使っていた部屋。内装を全て落とし、代わりに御簾と豪奢な椅子を設置した其処へ、両腕を後ろで縛られた目つきの悪い男が左右からふたりがかりで抑えられ、運び込まれてきた。アジア系の中年男性で、一目でカタギでないと分かる。御簾に向かって跪かされる男は、終始不機嫌そうにしていた。御簾の前に立ち、槍を捧げ持ちしている、顎髭を長く伸ばした老人が言う。

「そのものの罪状を述べよ」

「はっ。 強姦殺人四件、暴行障害多数。 犯罪組織の構成員で、T国より譲り受けた死刑囚です」

「太陽神、お聞きの通りでございます」

「うむ」

御簾の向こうで太陽神が頷くと、男を抑えていた二人が最敬礼して下がる。抑える者がいなくなった男は不審そうに左右を見回していた。感じてはいるのだろう。何か、嫌な予感を。

唐突に男の人生は終わった。見ていた人間達には、ぺしゃりと左右から潰れたようにしか見えなかった。それだけだった。何も残らなかった。血痕さえも。御簾の向こうから、本当に僅かに、ものを噛む音がした。

「太陽神、味はいかがでしたか」

「うむ、悪くない」

咀嚼する音さえ神々しいとでも言うかのように、護衛の老人達が恭しく頭を下げた。食事に続いて、伝令が入り込んでくる。

「ご報告いたします」

「うむ」

「インド戦線では、説得に失敗。 上位種ハスヴァーヤ様、当方への協力拒絶。 オセアニア戦線にては、説得に成功。 戦闘に手は貸さないと言う条件付きですが、上位種アルティア様、当方へ協力して頂けるとのことです。 現在、護衛隊と共に此方に向かっています」

「吉報だな。 報告大義であった。 疲れたであろう、ゆるりと休め」

深々頭を下げると、男は出ていった。代わりに女の伝令が入ってくる。頭を下げて、報告の旨を伝えると、彼女は言った。

「日本戦線では、恐山でのエネルギー採取失敗。 臣ジェロウルは敵能力者と引き分け、現在次の襲撃地に向かっています。 秋芳洞戦線では、臣キヴァラがエネルギー採取成功、ただし敵能力者の攻撃により、軽傷を負って撤退。 臣陽明と臣パッセは現在計画の再編成を行っております。 臣ナージャヤからは、上位種佐伯望実様の説得に失敗したとの報告がありました。 ナージャヤは敵との交戦で負傷し、撤退しております」

「大義であった。 休んで疲れを取るがいい」

「有り難きお言葉にございます」

下がった女伝令を見送ると、太陽神は御簾の外に控えている老部下へと言う。

「これで我が方へ協力しそうな上位種は三名か。 寂しいことよのう」

「皆なかなかの強情者にて」

「うむ。 ジェロウルらには無理をせぬように伝えておくように。 彼らは余の宝じゃ」

それからは少し雑談が続く。夜も遅くなってきて、不意に太陽神は外へ出たいと言った。すぐに御簾が開けられる。自分の足で踏み出した太陽神は、精緻な芸術のような、きめ細かい浅黒い肌で空気を感じながら、神殿の外に出た。

夜風が気持ちいい。狭い島だが、夜空は何処も平等に美しい。今までに七度特殊部隊による襲撃を撃退している。M国は米国に支援を要請したと言うし、そろそろ作戦も次の段階だ。強力な米軍は、丁度いい相手になるだろう。

不思議な話だ。口の中の、血肉の味は愛おしいというのに。獲物に分類されない、周囲にいる部下達のなんと可愛いことか。必死に一緒に生き抜いてきて、地獄を何度も潜ってきた戦友達の、何と愛らしいことか。

老人さえ、太陽神からすればおしめをしていた頃まで記憶をさかのぼることが出来る。何百年も続いた戦いは、まだ終わる気配もない。

例外中の例外。人間を嫌っていない上位種。世にも希なその存在こそが、この太陽神であった。それが如何に奇跡的なことなのか、理解出来る人間は少ない。そしてそれが世界に未曾有の悲劇を引き起こそうとしていると知る人間もまた少ない。

世界の悪意の結晶。太陽神は自らを慕う部下達にねぎらいの言葉をかけながら、島を見回る。彼らを絶対に守るという、強き決意と共に。

 

(続く)