地獄と沈黙

 

序、能力者の宴

 

家の前にタクシーが止まる。既に準備を終えて待っていた零香は、両親に出かけてくる旨を伝えると、すぐにタクシーに乗り込んだ。一見普通のおじさんである運転手は零香が乗ると、何も言わずにすぐにアクセルを踏んだ。

制限速度をきっかり守って、タクシーは走る。後部座席に腰掛けた零香は、目を細めて周囲の気配を探り通しである。窓は防弾ガラス、外壁には鉄板を仕込んでいるが、もし能力者に襲撃されたら気休めにもならない。その辺は運転手であるSPにも伝えてある。何かあった場合は即座に逃げて応援を呼ぶように、と。

このタクシーは偽装した政府の公用車である。運転手は自衛官からSPに抜擢された精鋭で、確か海外の特殊部隊でも極秘で訓練を受けている。しばしの無言の後、零香は警戒を解かぬまま言う。

「他の皆はもう集まっていますか?」

「淳子さんが少し遅れる予定です」

「まーたあの子は。 何か潰しにでも行ってるんですか?」

「知らされていません」

最低限の会話が途切れる。やがて車は首都高に乗った。高速道路とは名ばかりの緩やかな速度で、車は目的地へ走る。場所は東京都の一角。ある政府関連施設である。表札には生物科学研究所とだけ書かれているが、実体はそんなものではない。会合施設というのが正しく、地下には核シェルターが装備され、良く閣僚クラスの密議や、国家機密レベルでの情報交換が行われるのである。分厚いコンクリートと重厚な警備に阻まれた地下深くへ入り込むことが出来たマスコミは未だ存在しない。というよりも、殆どのマスコミはここの存在自体知らない。

零香が其処へ到着したのは、夕刻であった。既に陽はビルの影へ入り込み、空は鮮血をぶちまけたかのようだ。勿論車は正面からなど入らない。近くのトンネルへ向かい、其処から脇道へはいるのだ。小さなトンネルで人通りも少ないから、偽装には最適である。壁の一部がスライドし、暗い照明もまばらな道が現れ、運転手は器用に車を其処へ潜り込ませた。しばし暗黒の道を静かに進み、やがて駐車場に出る。照明が抑えめで、既に何台かの車が駐車している其処では、帯銃した自衛官が何人か警備に当たっていた。車を降りると、敬礼される。零香も敬礼し返す。

零香が此処に来たのは、陽の翼幹部であるジェロウルと高橋陽明と交戦したからであり、既にそれに関するレポートも提出している。それなりの報酬もあると言うことだが、それより久しぶりに友人が全員集まるのが嬉しかった。

やはり、淳子はまだ来ていないという。辺りの壁はコンクリがむき出しで、実に無粋だ。護衛二人と共に、薄明かりの下を歩いて、エレベーターに乗り込む。十階分ほど降りた後、エレベーターの戸が開いた。そこで漸く零香は文明の匂いを嗅ぐことが出来た。

かなり広い。地下空間は大きめにとられていて、圧迫感を感じさせないように色彩のレベルから計算しつくされている。灯りは優しく柔らかく、床には鮮やかなスカーレットの絨毯が敷いてあり、壁には何カ所かに美術品が飾られていた。どれも名のある芸術家の作品で、しかしそうたいした作品はない。多分客に強烈な印象を与えないためだろう。客と接するのに失礼に当たらない程度の化粧と、これは存在が似ている。

SPに案内されていく途中、廊下の何カ所かには戸が見えた。幾つかはSPの控え室で、幾つかは客のランク別に作られた応接室だ。入り口に完全武装の自衛官二名が控えた、その一つにはいる。円形のテーブルを中心とした部屋で、奥にはプロジェクターがあり、部屋の四隅には花瓶が置いてある。空席はほとんど無く、もう殆どの人間が集まっているようであった。自席に着いてから見回すと、見知った顔の他に、直接会ったことはないが顔と名前だけなら知っている者も何人かいた。最上位の席には現在日本政府にもっとも強い影響力を持つ能力者、東堂治郎が座っていた。やたらごついお爺さんで、零香と同じ近接戦闘強化型。アジア最強の能力者と言われていて、その戦闘能力は折り紙付きである。零香も正面からは戦いたくない。頭の方はそれなりだが、本人もそれは自覚していて、有能な秘書を何人も抱えることで対応していると零香は聞いている。

零香の友もいる。輝山由紀は奥の方の席に座って、手帳に目を通していた。ちなみに由紀モードではなくよそ行きのマキモードであり、かなり猫を被っている。二人きりの時に飛び出すあのヤンキー口調は聞けそうもない。相変わらずルックス及びスタイルは抜群で、すっかり手足が伸びきった最近は、モデルの仕事も良く来るのだという。

黒師院桐もいる。彼女は零香の隣で、その隣の赤尾利津とずっと談笑していた。桐は背がちょっと伸びすぎて、確か170センチを超えている。体つきはすらりとしているのだが、これで太ったら目も当てられないと、苦笑しながら良く言っている。利津は相変わらず小さな子で、母性本能を擽るかわいらしさだ。零香が席に着くのを見計らい、二人は話しかけてきた。

「お疲れさまですわ」

「お疲れさまです。 体の調子はどうですか?」

「順調だよ。 それよりも、壮観だね」

「そうですね。 後は淳子ちゃんが来れば、ちょっとした同窓会も開けますし」

三人でくすくすと笑い合う。由紀と目が合い、軽く手を振ると、向こうも笑い返してくれた。流石にこなれた感じの微笑みだ。

現在日本政府が公式に抱えている能力者は二十二名。野に確認している能力者は三十三名である。このうち政府に協力的な人間は十人ほどで、後は皆殆ど世捨て人に等しい状態だ。政府と言うよりも、社会そのものに興味を示さない者も少なくない。協力的な人間も、その殆どがかなりプライド高く、利害で釣られるような者はまずいない。これは政府が雇っている人間も同様で、彼らは気に入らない任務だと平気でキャンセルすることがある。

ただでさえ少なく、しかも扱いにくい能力者。戦闘タイプの能力者となってくると人数は更に絞られ、しかもその中でも一流の人材となるともっと数は減る。幸い、能力者は金銭欲が少ない場合が多く(当然の話ながら例外もいる)それが政府にとっては救いの一つであった。

その能力者の内、重鎮と呼ばれる人間達が、政府高官と共に一カ所に集まっていた。実に珍しい事態である。銀月零香も当然その中に含まれる。当然の話で、彼女は近接戦闘強化系能力者の中では、アジア全域でも五指に入ると言われる実力だ。ほどなく青山淳子も現れた。最近の彼女はロングヘアにしているのだが、これが儚げな容貌と抜群に似合っている。特に毎回変えている大きなリボンのセンスがいい。学校ではかなりもてるそうだが、同級生の男子など相手にする気になれないと言う。まあ、高校の男子など精神年齢的に合わないと言うのは、零香にも良く分かる。淳子は由紀の隣に座り、二言三言談笑すると、零香に軽く手を振ってきた。上品な振り方であった。

「さて、揃ったようだな」

東堂が斜め後ろの秘書に振り返り、レポートを配るように言った。東堂は九十歳という高齢にもかかわらずまだまだ頑健なのだが、喉だけ少しガタが来始めていて、喋るときに時々シュッと空気の漏れる音がする。上級の能力者は基本的に長寿だが、それでもこういったガタが来ることは避けられない。

「今回皆に集まって貰ったのは、他でもない。 陽の翼のことだ。 連中が我が国に潜り込み、なにやらやっていることは当然知っているだろう」

流石に貫禄が違う東堂が喋り始めると、一気に場はしんとなる。彼はレポートに目を通すように言うと、少し時間をおいて説明を開始した。

 

M国にて、陽の翼による大規模なテロが発生、島一つが制圧されたというニュースは、各国首脳と能力者達の間を電撃的に駆けめぐった。

強大な米国と境を接しながら、今までM国が独立を保ち続けてきた要因の一つが陽の翼であることは、各国の上層部や一人前以上の能力者なら皆知っていることである。その陽の翼が、前後関係が分からない意味不明な行動に出たのだ。誰もが着目するのは当然であった。

最初に彼らに接したのは米国であった。長年煮え湯を飲まされ続けた相手とは言え、もしM国からの分離行動を取ったのならば、味方に引き込むチャンスである。陽の翼の力は、能力者をあまり多く保有していない米国にとっては何よりも貴重なものであった。米国に続いて、先を争って各国の諜報部も陽の翼に接触した。ロシア、中国、イギリス、フランス、そして日本。特に熱心なのは、中世以降能力者の空白地帯と化している西欧諸国、それに中国であった。だが、何処の国も結局陽の翼から色好い返事を聞き出すことが出来なかった。

そればかりか、陽の翼の能力者が、日をおかず各国で暗躍を開始した。最初に彼らが現れたのは中東であったが、特に目立つ行動はせずにすぐに消えた。テロリストを虐殺したという話もあるが、いまだ確認は取れていない。続いて西欧。此方もちょっかいを出そうとした阿呆なバチカン関係者が何人か返り討ちにあった他は、特に何も問題が起こらず、すぐに彼らは消えた。陽の翼が何をもくろんでいるのか誰も掴めない内に、今度は日本で彼らが動き出した。そして初めてテロと小競り合いが起こった。

今、日本には最低でも陽の翼幹部五人が潜伏しており、政府は最大限の警戒態勢を敷いている。既に北海道と東海地方のS県、後は長崎県と島根県にてテロが行われたことが確認されている。政府及び政府関係の能力者の手によって一般人への被害は最小限に食い止められたが、まだまだ状況は予断を許さない。

M国でも状況は変動を続けていた。陽の翼が占領した島には、およそ六百人が集結し、元から住んでいた軍関係者や住民を力尽くでたたき出し、独立した生活系を作り始めていた。いずれもが陽の翼の関係者であり、彼らは約束の地、約束の地と声を揃えていた。現在、各国共に、情況を調査中である。無論日本も、例外ではなかった。

「それで、奴らの行動に関する共通点を我らは探しているのだが……これがどうにもつかめんのだ。 まずは零香君と利津君が持ち帰ってきた情報からだが……」

プロジェクターに映し出されるのは、シレトコカムイと名前も分からなかったタタラ神のデータであった。それに続いて、ジェロウルと高橋陽明の姿が映し出される。判明していることが並べられるが、大したことは分かっていない。高橋などは日本人なのに、日本政府が殆ど生い立ちや経歴を把握できていないのだ。

続いて長崎での情報が流れる。此方に対処したのは淳子と政府関連の能力者二人。うち一人が重傷を負った。淳子が確認した所に寄ると、此処で現れたのは死んだ魚のような目をした少女であったという。能力者としては淳子と同じ隠密狙撃型であり、かなりの使い手であったそうだ。呈示された能力を見て零香も思わず唸る。これを自在に使われるとかなり危険だ。それでもまがつ神を撃破しつつ、被害者を一般人含めて重軽傷十四名に抑えた淳子の手腕は大した物である。淡々と進められるプロジェクターの映像を見ながら、零香はそう思った。

最後に島根の映像が流れる。此方は元々霊的にかなり古い土地柄だと言うこともあり、今回の事態が始まってすぐに五人の能力者が配備されていた。その一人はツアーで訪れていた由紀である。で、ここに現れたのは黒人の陽気な青年だったそうだ。島根での戦闘では非常に強力な実体化まがつ神が現れたこともあり、能力者二名が重傷を負い、現在も療養中である。つまり、敵の動きが把握できない内に、政府関連の能力者が三名も行動不能にされているのである。逆に、敵の被害はほぼ分かっていない。

頭を振っていた能力者の一人がぼやく。彼は弟を病院送りにされているのだが、それでも積極的に仕掛けようと言う気は起こらないらしい。無理もない。

「情報が少なすぎる。 そもそも今奴らは何処にいるんだ」

「全力で調査中です。 何しろ探査系の能力者が全力を挙げて監視しているのに、上手くかわされ続けている状態で……。 諜報員も総動員で動かしていますが、何しろ相手は超一流の能力者ばかり。 すぐにはどうしても」

額の汗を拭いながら、頭が禿げ上がった防衛庁の調査官が応える。それに嘘がないことは、多分この場の全員が把握している。それでも問いつめざるを得ないのだ。

陽の翼の恐ろしさは能力者なら誰でも知っている。数百年前から存在する世界最大最強の能力者集団で、規模はどの大国が抱える能力者集団よりも、数においても質においても上回っている。しかも戦闘経験が半端ではない。それ程に強大な彼らの、しかも幹部が国内で不可解なテロを繰り返しているというのだ。全力で調査するのが当たり前である。噂によると、米国も対能力者特殊部隊を送り込んできているとかで、場合によっては彼らとの競争も発生しうる。

レポートがまた配られる。ツーマンセル(二人一組)の防衛部隊、探索部隊を幾つか作り、彼らの通報があったら近くの能力者がすぐに協力する態勢をつくるというものであった。その案自体は皆賛成した。だが、不安は隠せない。

「テロが行われた地点に何か共通点は?」

「上陸しているのは本当に幹部クラスだけか? 下っ端でも相当な実力者が揃っているとか聞くぞ。 我が国の能力者は先進国では比較的質が高いが、それでもまともに戦うのは厳しいのではないか?」

「もし太陽神本人が現れたらどうする? 奴は一人で一個師団を相手にする実力を持つとか聞く。 自衛隊は総力戦の用意をしているのか?」

額に汗を噴き出させながら、防衛庁調査官が質問に答え続けている。長い会議になりそうだなと、零香は頬杖をしながら思った。

 

会議が終わったのは真夜中。すぐに淳子は帰ると言うことであり、他の皆も時間が無いというので、零香は一旦近くのコンビニで合流した後、タクシー乗り場まで歩いていくことにした。久々に揃う仲間達の話は必然的に弾む。ただし、それは一般の人間がするものとは随分離れた内容である。

「で、零香ちゃん、最近はどうや?」

「ぼちぼちかな。 淳子ちゃんは、例の機械どんな感じなの?」

「この間カリウムを調節する機能を追加した所やね。 結構美味しいのが作れるようになってきたから、関西に遊びに来たときは是非寄ってな。 修行の方は、うちもぼちぼちやな。 何せ的には事かかんからなあ」

リボンで縛った綺麗な髪を弄りながら淳子が言う。少し遅れてついてきていた桐が、柔らかく釘を差した。

「あまり恨みを買いすぎると、後が大変です。 そこそこで許してあげなさいな」

「その恨みをばらまいたのは奴らや。 うちが気が済むまでは許してやらへん。 ……まあ、そうやな。 桐ちゃんの言うことも一理あるし、今後は入ってきた奴以外は許してやるかな」

「全く。 大人しそうに見えて、零香さんよりも獰猛なんですのね、貴方って」

「お褒めにあずかり光栄や」

五つの笑い声が重なった。しばらく黙って話を聞いていた由紀が口を開く。

「それで、あの子の事はどうなってるんですかぁ? 私としても、結構興味がある所なんですよぉ」

「実力はまだまだだけど、あれは鍛えればかなり使えるよ。 次は淳子ちゃんの所で、精密な戦いの運び方を覚えて貰おうと思ってる」

「それなんやけど、ちいとまずい相手が来るらしくてな。 うち一人なら充分いてこませるんやけど、その後にして貰えへん?」

「いわん事ではない……そのうちもっと手強いのが来ますよ」

「望む所や」

桐の言葉にも、あくまでも淳子は笑顔を崩さない。目的地点が見えてくる。近くの駅の、タクシーターミナルだ。各々あそこでタクシーを拾って帰る。ただ一人、零香だけは走って帰る。ケチなのではなく、その方が単純に早いからだ。行きで車に乗った理由は、単に会合場所を知らなかったからである。

程なく解散となる。零香は夜闇の街をまっすぐ森まで行く。此処まではさっきタクシーで見ていたので簡単だ。後はO市に繋がっている国道を横目に、全力疾走で一気に家へ向かった。風を斬って走りながら、携帯にてメールを送る。相手は勿論淳子だ。

「敵の実力はどれくらい? あの子には出来るだけ早く強くなって欲しいから、無理でなければ一緒に戦ってあげて欲しいんだけど」

すぐに返信が来る。高速道路と並んで森の中を疾走しながら、受け取ったメールを見る。大きな川があったので、速度を落とし、橋の下に潜り込む。川を飛び越えながら、更に返信、返信。

「そうやな。 サイレントキラーって知ってるやろ?」

「ああ、あの国籍不明の」

「どうやらうちを殺すためにあいつを雇ったバカがいるらしくてな。 政府の方から警戒情報が飛んできたわ。 同じ隠密狙撃系ってこともあるし、一朝一夕に勝負はつかへんから、多分来月一杯くらいはそいつに掛かりっきりになる。 当然その子を鍛えながら相手にするとなると、かなーり厳しい戦いになるんやけど……。 零香ちゃんとしては、それでも真由美ちゃんだっけ、鍛えて欲しいわけなん? 結構大きな借りになるで?」

「そうだよ」

四文字だけのメールを送り返すと、淳子からも即座に返信がある。

「一体目的はなんや。 計算高い零香ちゃんの事やし、何も理由無く動くなんてないんやろ?」

「陽の翼は大量虐殺をもくろんでる。 それも、百万人規模のね。 知ったからには見過ごせない。 力がある以上、対処する責任がある」

僅かにメールの返信が遅れる。そうこうしている内に、ホームグラウンドであるO市に到着。真由美にもメールを入れると、子守でくたくただとか情けない返答がある。まあ、次女の結香(ゆうか)はやたら真由美がお気に入りのようでまとわりついているし、無口な長男の巧巳(たくみ)は、放っておくとどっかにいきそうになって危なっかしいので、多少神経は使う。帰ったら特訓と返信すると、泣きそうな感じで「はい」と二文字だけ帰ってきた。

そうこうしている内に、淳子からまたメール。ちなみに零香の携帯、着信音は無し。バイブ仕様だ。

「確かか? 政府のお偉いさんは気付いとんの?」

「東堂氏はどうやら気付いているみたいだね。 連中が、どうやら負の霊的なエネルギーを何かしらの手段で集めているって事は。 それも、実体化まがつ神をわざわざ具現化させて、なおかつ此方の能力者を消耗させる形でね。 連中が集めている力は、どれもまっとうな事業で役に立つようなものじゃない。 大規模なテロくらいしか使い道がないんだ」

「厄介やな。 陽の翼の首領言ったら、あの太陽神やろ? ただでさえたちがえろう悪いのに……。 どうしてさっきの会議では呈示されんかったんや?」

「恐らく、混乱を避けるためだね。 多分防衛庁のシミュレーション研究室が日本でその大規模テロを行われた場合の対策案を出せていないんでしょ。 もっともわたしは、日本で連中がその大規模テロを行う可能性は低いと考えているんだけど。 どっちにしろ、連中は止めなければならないね。 幾ら何でも百万人規模の虐殺は見過ごせない。 そのためには信頼できる戦力がいる」

そろそろ森を抜けるので、速度を落とす。此処からは警戒要なので、あまり気を抜きすぎるわけには行かない。つい昨年にも、ちょっとしたトラブルが起こり掛けたばかりなのだ。

「うちらだけでは足らへん、言うことやな。 そして真由美ちゃんいう子は、零香ちゃんが見込んだ程の人材やと」

「そう言うこと。 じゃ、また後でね」

「おお、気ぃつけてな」

携帯を閉じると、ポケットにねじ込む。

家はもうすぐ其処だった。

 

1、真由美の静かな日常

 

もう目覚まし時計が必要ないと、真由美は思い始めていた。

早朝。目を擦りながら起きた真由美は、学校へ行く前に、朝練をするべくのろのろと着替えた。歯を磨いてご飯を食べて、外でしっかりラジオ体操をして。目が冴えた頃には、もう道場からは凄まじい修練の音が響き始めている。いつあそこに引きずり込まれるのか冷や冷やしているのは事実だ。あの父君と零香先生に直接稽古を付けられて、生きて帰る事が出来るのか、甚だ自信はない。しかし、近接戦闘の訓練をしている以上、いつかはやらなければならないことだというのももう分かってはいた。

打撃音、爆音、粉砕音。それらを背に、いつものようにストレッチを始める。朝ご飯までに、基礎トレーニングはこなしておかないとまずい。いつまで経っても、あの人の足下にさえ追いつくことが出来ない。

あれだけ強いというのに、あの人は全く修練をさぼろうとしない。どんなに激しい戦いの後でも、確実に真由美より遅くまで起きていて、より激しいメニューをこなしている。最低限それ以上のことをしないと一生追いつけないのは分かっているのだが、基礎体力が違う。あの人が能力者になったのは小学生高学年だとかいう話だし、その時から激しい修練を続けていたとなると、基礎体力のレベルが違うのも仕方がないことである。だが、真由美だってここの所ぐんぐん力が付いてきている。何時かは並ぶことが出来ると言い聞かせながら、真由美はせっせと関節を暖めた。

銀月家の敷地は広い。それほど金持ちの一族というわけではなく、旧家の中ではそう大した規模では無いというのだが、それでもかなり凄いと真由美は思う。その広い敷地の周囲を、マラソンする。毎日ペースを上げているが、それでも時間内に二周するのが精一杯だ。竹林を内包しているせいか、空気がとても澄んでいて、心地よい。少し青臭い竹の匂いが、自然の息づかいを感じさせて、真由美を安心させてくれるのだ。基礎体力、基礎体力、基礎体力。言い聞かせながら、走る走る走る。

程良く汗を掻く頃に、朝のメニュー終了。家に戻ると、朝食だ。色とりどりの植木で飾られた玄関を通ってドアを開ける。

「ただいま戻りましたー」

「いつも精が出るわね。 みんなもうご飯を始めているわ」

「はい。 有り難うございます」

出迎えてくれた英恵さんに、思わずぺこりと頭を下げる。色々と前はあったそうなのだが、若くてとても優しそうな奥様だ。うちの母さんとは偉い違いだと、真由美はいつも思う。シャワーをさっと浴びて高校の制服に着替え、ドライヤーで頭を乾かしながら、居間の座布団に着く。白と青をメインにしたブレザーは、涼しくてこの時期過ごしやすい。北海道では考えられないデザインだ。

少し時代錯誤的な畳の居間に、丸テーブルを置いて、其処に朝食が並ぶ。昔は家政婦さんが作っていたそうなのだが、今では奥様の英恵さんが半分くらいは作っているのだそうだ。実のところ、箱入りの英恵さんはあまり料理が上手ではなく、お手伝いさんの山崎さんが作ったかどうかは味でも見た目でも露骨に分かる。だが、下手ではあっても、味がとても優しくて、真由美は好きだった。

今日のメニューはハムエッグとポテトサラダにほうれん草のお浸しだ。このうちほうれん草のお浸しは英恵さんが作ったらしい。盛りつけとかがとても下手だ。それに対してハムエッグは各人の好み通りに焼き加減が調節され、ポテトサラダはマヨネーズと塩の加減が絶妙だ。どれを誰が作ったかは一目瞭然。だが、どっちかが嫌われるようなこともない。

零香先生は正座して黙々と食物を口に運んでおり、その隣では二メートルを超える林蔵氏が窮屈そうに座って無言で食事にしている。婿だというこの人がどんな風に英恵さんを口説いたのか、真由美は少しだけ興味があった。まるで美女と野獣の組み合わせだが、英恵さんは物凄く林蔵さんを愛しているらしくて、ちょっとしたしぐさの端々からもそれが伺える。縁は異なものだ。また、林蔵氏も乱暴だとかそういう事はなく、ごく理性的である。この人が声を荒げたり、暴力を振るっている所を真由美は見たことがない。もしあったら怖いけど。

下の子供達に、好きなように世話を焼いて良いと真由美は言われている。

勢いよくご飯を食べている上の子。次女の結香は猫目が可愛い活発な子である。手足はいつも傷だらけで、健康的な笑顔をいつも浮かべている。悪戯したい盛りで、ストレッチ中の真由美に背中から飛びついてくるので、注意が必要な子だ。一度油断した所を飛びつかれて、危うく腰を痛める所だった。

決して箸の扱いが上手くはないが、黙々と丁寧に食べる下の子。長男の巧巳は物静かな男の子で、滅多に声を聞いたことがない。ただ、特に障害があるとかではなく、普通に無口なだけの子らしい。結香と遊ぶよりも一人で庭を探検することが好きらしく、時々迷子になるので目を離すのが怖い。ただ、そんな時は、零香先生がものの五分で見つけてくる。この広い庭を完璧に把握している事、近接戦闘強化型の図抜けた勘の鋭さには感服するが、それ以上の絆に近いものを感じて、真由美は羨ましいなと思う。二つ下の自分の弟との冷え切った仲を考えると、真由美は胸が痛い。

真由美は普通に子供が好きだから、子供達と接するのは楽しい。子供達も良く懐いてくれる。ただ、零香先生は二人の姉と言うよりも殆ど崇拝の対象なので、姉が欲しいというのも原因なのだろうと、真由美は踏んでいる。実際、年が離れた兄姉は親代わりになることが多い。ましてやそれが零香先生みたいに図抜けた能力の持ち主の場合は。

「ままー。 おかわりー」

「はいはい」

頬にご飯粒を付けたまま、結香が空のお茶碗を差し出す。優しい笑顔を浮かべながら、英恵さんが茶碗に白いご飯を盛る。林蔵氏や零香先生もかなり食べるのだが、結香も育ち盛りだけあって実によく食べる。微笑ましい限りである。

やがて食事が終わる。零香先生は殆ど喋らないが、英恵さんには時々優しい笑顔を向けて極短く会話する。ベタベタしているわけではないが、凄く仲がよい親子だと真由美は思う。事実、こんなにコミュニケーションをとる親子が、この国にどれだけいるというのだろうか。零香が立ち上がり、制服の襟をなおしながら、居間の隅に置いてある鞄を取る。真由美も急いでお浸しを口に入れると、喉に詰まらせ掛けて噎せながら、立ち上がった。

「行って来るよ」

「はい、行ってらっしゃい」

「今日は狼次郎先生の所によってから帰るよ。 それと、夕方辺りに宗吾さんが来るかも知れないから」

「はいはい、分かっているわ」

無言で催促されて、真由美も零香先生の後について歩き始める。玄関ドアを開けながら、師は言う。彼女はスポーツシューズのつま先を軽く地面に打ち付けていた。間違いない。学校まで走るつもりだ。そして恐ろしいことに、置いていかれると弁当の半分くらいを略奪されるのである。生唾を飲み、必死に呼吸を整え、ストレッチを始める真由美に、零香先生は言う。

「実戦も経験したし、大分身体能力が上がってきたね。 そろそろわたしが直接鍛える時期かな」

「! あ、あの……はい」

「……と言いたいんだけど、丁度いい戦が入ったから、そっちで鍛えて貰おっかな」

露骨に安心が顔に出てしまう。零香先生は当然気付いているようで、だが全く表情を変えず何も言わないのが却って怖い。

「わたしの親友に、地獄のスナイパーって言われている子がいてね。 彼女の元で能力者との実戦経験と、ついでに戦いの運び方を学んできて貰うよ」

「戦いの運び方……ですか?」

「敵より戦略的に有利な条件を整えただけじゃ、高度な戦術展開能力を持つ相手には負ける可能性がある。 この間はりっちゃんの所で攻撃術と戦略のイロハを学んできて貰ったけど、今度はそれをふまえた上で、どうやって勝てる状況に持っていくのかを学ぶわけだね」

鞄を肩に掛けるように持ち直す零香先生。軽く身を沈めると、地を蹴った。真由美も予備動作が分かっていたわけだから、いきなり置いていかれるような無様はしない。赤尾さんの所でも、此処暫く鍛えられてきたのだ。予備動作の見抜き方や、戦機の掴み方を少しくらいは身につけた。

風を斬って走る零香先生に、必死についていく。学校までおよそ一キロ半。朝のジョギングよりもずっと距離があるので、ペース配分を謝ると危ない。その上、障害物がたくさんある。此処で言う障害物とは、信号や歩行者の事だ。

曲がり角などでは、歩行者にぶつかってしまうと危ないし、零香先生にほぼ確実に置いていかれる。もっと危険なのは信号だ。最初から赤だった場合はよいのだが、青だった場合、零香先生に近い位置で走っていないと信号が変わったときに高確率で置いていかれる。この間はそれで卵焼きを持って行かれた。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

息が乱れてくる。ずっと同じペースで走る零香先生に対して、真由美はペースが崩されっぱなしである。理由は判断力の違いだ。零香先生は凄まじい集中力で障害物を見分けながら走っているため、殆どペースもスピードも乱れない。それに対して、真由美はまだまだついていくのが精一杯なので、どうしても集中力がとぎれがちになる。だからペースも体力も削り取られるように消耗してしまう。

学校の前にある最後の難関が、二百メートルほどの曲がりくねった緩やかな上り坂だ。坂自体はさほど急ではないのだが、道が曲がりくねっていて兎に角危ない。しかも此処は国道と国道を結ぶ裏道になっていて、マナーが悪いトラックのドライバーが朝だろうが夜だろうが関係無しに通っていくことがある。実際に今まで、二度も死亡事故が発生しているのだ。歩行者通路も狭く、恐ろしいことに曲がって変色しているガードレールが何カ所もある。

此処でも零香先生はペースを落とさない。トラックも時々通るので、真由美は気が気ではない。防御術を展開すればトラックくらいなら防ぐ自信はある。だけれども、此処でそれをやれば確実に他の生徒達に見られる。そうなったら、暫く外を出歩けなくなってしまう。

運動よりも、むしろ緊張が体力を容赦なく奪っていく。緩やかな坂がどうしてか地獄の岩山にも思えてくる。すぐ隣を何度もトラックが駆け抜ける。排気ガスが気持ち悪い。重心がずれて、鞄の中の肥前守ががっちゃがっちゃと音を立てた。

どうにか校門についたときには、へとへとだった。当然のように、零香先生は汗一つかいていない。

「良し、合格。 じゃあ明日からは、少し速度を上げるよ」

「はあ、はっ、はあ、はあ、はあっ、ひい」

「……じゃあ、わたしは教室に行ってるからね。 遅刻したら昼食減らすよ」

冗談ではない。がばっと顔を上げると、真由美は鬼気迫る表情で教室へと走り掛け、今はまだHR開始まで一時間もあることに気付いた。周囲の生徒はまばらで、しかも誰も彼も部活で早く来ている者達ばかりだ。思わずへたり込みそうになるのを我慢して、えっちらおっちら教室へ。三十人が学ぶ教室に漸くついて、汗を拭うことが出来た。顔が真っ赤だ。後から後から汗が浮かんでくるが、クーラーの利いた教室が、見る間に若い肌を鎮めてくれた。

「はあー。 疲れたー」

流石にぐったりした真由美が、プラスティック製の少し冷たい机に軟体動物が如く突っ伏すと、くすくす笑い声がした。

一月ほど前に、赤尾さんの所で友達になった、幽霊の葉子ちゃんだ。ちなみに、ある学校でトイレの花子さんの噂の起点となった、一家心中の犠牲者である。彼女は赤尾さんの所での修行が一段落すると、肥前守に取り憑いて、真由美に付いてきたのだ。肥前守に取り憑いている三十体ほどの霊の中で最強の力を持っている彼女が、今は剣の力のリーダーシップを取っている。具現化は疲れるそうなので、滅多に姿を見せてはくれないが。

「やだー。 マユたんたら、オヤジくさいー」

「勘弁してよ、葉子ちゃんたら。 あんなのに毎日付き合わされてるんだから……」

「でもあの零香って人の友達なんて、時速百キロ以上で暗い内から毎日あれをやってたんでしょ? マユたん、情けなーい」

「それは高速機動型の能力者だからだよ。 私は……あれ?」

「どしたの?」

言葉が詰まった真由美に、鞄の中の葉子が興味津々の体で食いついた。そういえば、自分は今何型の能力者なのだろうかと、真由美は思ったのだ。

かっては典型的な拠点防衛型の能力者だった。それなのに、今では何型なのか自信がもてなくなってきている。攻撃術を学んだし、薙刀、脇差、トンファーを用いた接近戦闘も学んでいる。今度は飛び道具も教わる予定だと聞いている。恐らく地獄のスナイパーさんに手ほどきを受けるのであろう。今のところ、その辺の人間なら確実に勝てる実力は身に付いている。同時に、もう自分は防御特化の拠点防衛型では無いという確信もあった。

確信を得ると同時に、不安も湧く。お婆ちゃんが教えてくれた数々の技が無駄になるのではないのかという、得体の知れない不信感。だが、頭では、そんな訳はないと言うことも理解出来ている。

「私……どうなるんだろ……」

「そんなのなってみないと分からないよ」

「そうだね。 それで……」

「しっ! マユたん、人来た!」

実のところ、葉子の方がまだまだ遙かに感覚が鋭い。慌てて鞄を開けて教科書を取りだして並べる。教室に入ってきたのは先生だった。三十台の男性教師で、痩せぎす黒縁眼鏡。前田というごく一般的な名前で、蟷螂のような印象を受ける先生だが、そんなに悪い人ではない。

「お? 高円寺、今日も早くに来て勉強か。 感心感心」

「有り難うございます」

ぺこりと頭を下げる真由美の視線の先で、前田先生は備品のチェックや、黒板の状態を確認していた。この先生、HRの前、かなり早い時間に教室に必ず来て、こういう作業をしていく真面目な人だ。一方で、真由美もこの時間くらいしか勉強出来ないので、良く顔を合わせるのである。

先生が教室を出ていくと、そろそろ学校が騒がしくなり始める。今日小テストがある現文の教科書を広げようとしたとき、葉子が言った。

「ねえねえマユたん。 あの先生、少しおかしくない?」

「どういう事?」

「うん。 まだちょっと分からないんだけど、何か違和感を感じるんだ。 それも、いやーな感じがするの」

「少し変わってるけど、いい先生だと思うんだけどなあ……」

真由美が見た所、あの前田先生はいい人だ。このクラスでは虐めもないし、困った生徒の相談にはきちんと応じている。特定の生徒を贔屓もしないし、テストの採点も公正だと聞く。零香先生の話でも、さほど問題はないようなのだが。

しかし葉子の勘が鋭いのは、真由美も認めている。というよりも、勘の研磨の修練を何度やってもコツが掴めない真由美に対し、葉子は零香先生の言葉を見事に反芻、理解して自分のものにしているのだ。天性の才能だろう。

教室に先生が戻ってきた。すぐに黙り込む葉子。逆に真由美は大慌てで現文を読んでいるふりをしなければならなかった。

「高円寺、また数日間出かけるというのは本当か?」

「は、はい。 今度は父の都合で大阪に行って来ます」

「毎度毎度大変だな。 体をこわさないように気をつけろよ」

多分零香先生に話を聞いて、確認のために戻ってきたのだろう。先生はそのまままた職員室に戻り、教室には静寂が訪れる。葉子はしかし、喋らない。

「どうしたの? 先生行っちゃったよ」

「……静かに。 マユたん、私今日はもう学校では喋らないから、そのつもりでね」

小首を傾げる真由美を余所に、葉子は本当に喋らなくなり、下校まで存在感そのものを消し去ってしまった。

……真由美が葉子の言葉の意味を悟るのは、ほぼ二月の後。秋が終わり、北海道に比べればそよ風のように過ごしやすい冬が訪れた頃であった。

 

授業が終わり、下宿先である、零香の家に戻ったのは夕刻。もう陽は沈み、外はすっかり暗くなっていた。

大阪行きはすぐ先のことである。だから準備はして置かねばならない。南アルプスに行くときにも使ったリュックを引っ張り出して、生活用品を詰め込み、貰ってきたお札の状態も確認する。そして一番大事な木彫りの熊を磨いておく。これは真由美にとっては、最大級の力を発揮するときに、絶対必要なものであり、生命線だ。

昔はそれほど真面目な性格ではなかった。それなりには真面目だったが、夏休みの宿題は終了二週間前くらいから始める、何処にでもいるレベルであった。それがこんなに用意周到になったのは、零香先生に仕込まれたからだ。

戦いに生きる以上、出来ることは出来るときに全部片づけておけ。その言葉通りに零香先生は常に行動し、そして真由美にも生活習慣のレベルから実行するように指示してきた。根が素直な真由美は、こういう理にかなうと思えることは、黙々と実行する。一方で、どうしても納得できないことに関しても、いやいやながら実行する。結局は実行するのだから、その積み重ねは大きい。

時々、流されているだけなのではないかと、自嘲することがある。心が沈む。しかし頬を叩いて、気鬱を追い出し、作業に戻るまで五分と掛からない。

真由美は確かに葉子を救うことが出来た。それを誇りに、自分の生き方を正しいのだと思うことで、心を保つ。そんな術を身につけ始めていた。それが建設的なことなのかは分からない。だが確実に真由美は強くなっていた。

準備が全部終わったので、ジャージに着替えて、肥前守を掴んで外に出る。最近のお気に入りは、道場のすぐ側、竹藪に入ったばかりの所だった。ジャージでうろうろするのは少し恥ずかしいが、それは零香先生の家の敷地内だというのが幸いして、クラスメイトにも知人にも見られることはない。

まずは軽く素振りから。最初は鞘を付けたままで。百回素振り。ひゅっ、ひゅっ、と風を斬り、肥前守が上下する。それが終わったら、今度は鞘を抜いて二百回素振り。さっきと違い、緊張感も気合いも段違いのせいか、風を斬る音が露骨に違う。びゅん、びゅんと、吠えるようにして剣は鳴る。

本番は此処からだ。目を閉じて、術を詠唱。体が炎の力に包まれるのを感じながら、詠唱を紡ぎ上げていく。肥前守の柄を作りだし、そして完成させる。目を開けると、握りしめているのは炎のような紅い柄を持つ薙刀である。持ち手を深く切り替えると、踏み込みながら薙刀を振るう。

「はっ! えいっ! えいっ!」

涼しい空に、気合いのこもったかけ声が届く。悪霊との実戦を思い出しながら、真由美は刃を振るう。右へ左へ、上へ下へ、そして足下へ。人間との戦いだけではなく、それ以外の存在も想定したこの薙刀使いは、零香先生の指示を受けながら、急速に進歩していた。

「えいっ! えいっ! せいっ! ……たあああああっ!」

三百ほど薙刀を振るった後、一際強く踏み込むと、渾身の力と共に刃を繰り出す。炎を纏った刃は空を焦がしながら、閃光が如き一撃を実現した。

それで一段落、一休み。滝のように流れる汗が、肌を伝ってジャージを濡らす。差し出されたハンドタオルを受け取って、首筋を、額を拭く。高校一年生の瑞々しい肌は紅く染まっていて、ちょっとしたそよ風が心地よくて仕方がなかった。ただ、汗を多量に掻くので、髪の手入れがとても大変だ。

「なかなか良い突きだね。 実戦で鍛えれば使い物になりそうだ」

「はい、ありがとうござ……っ!」

「ただ、声がだだ漏れだから、もう少し林の奥の方で修練した方がいいかな。 後、勘はもう少し鍛えること。 今のままだと、隠密狙撃タイプの能力者に襲われたらひとたまりもないよ」

当然のように側に立っていたのは零香先生。彼女はよく冷えたスポーツドリンクを手にしていて、真由美に差し出しながら言った。

「修練の後は肉を食べてスポーツドリンクで水分補給。 単純だけど、それでどんどん強くなれる。 後は色々なタイプの戦いをこなしていって、技と腕を磨き上げていけばいい」

「はい……」

「うなだれない。 君はどんどん強くなってる。 大阪から帰ってきたときが楽しみだよ」

かき消すようにして零香先生は消えた。夜の修練に出かけていったのだろうと真由美は推察した。納得できない部分も多いけど、あの人は確かに強い。何とかして一人前になって、出来ることなら追いつきたい。手にはスポーツドリンクが残されていた。これが酷くまずい。良薬口に苦しと言うが、修練は色々な意味で楽ではない。

汗が収まるのを待って、再び薙刀を手に立ち上がる。今度は肥前守とトンファーを使っての、二刀流の訓練だ。

元々切れ味が鋭い肥前守は術によって炎の力を纏っており、殺傷力が高い。それに加えて左腕のトンファーは硬度を重視していて、防御もそうだが敵を払い突くことも出来る。こっちも大分様になってきている。早くもっと鍛えて、自分一人で戦略から戦術まで全て組めるようになりたい。

修練をして体を動かしていくと、どんどん頭が戦闘的な方向へ流れていく。あくまで立ち位置を中心とした薙刀での修練に対し、二刀流のそれは円の動きを中心とした舞に近い。強く、強く、もっともっともっと強く!林の中、くるくると舞ながら、真由美は更なる力を求め続けていた。

 

2、サイレントキラー

 

東大阪に存在する地獄のスナイパーほど、日本及び、日本に関わってきた犯罪組織の面子を潰してきた者はいない。

どうやら国家に所属する人間だと言うことは、やくざ達も掴んではいる。しかしそれ以上の情報は一切漏れてこず、年齢どころか性別すらも分からない有様だ。たまに内偵要員を東大阪に潜入させようと試みる組織もある。だがどんな精鋭を送り込んでもその日の内に大体通信途絶し、数日後には確実に組織の本部が得体の知れない狙撃で壊滅させられてしまう。こうやって潰されたやくざは十二組に達しており、今では東大阪には絶対に近寄るなと言うのが彼らの間では不文律と化している。

インターネット等で東大阪の住民と連絡を取っては情報を集めようとしている組織は多いが、リスクのわりに殆どまともな情報が集まらないのが現状だ。地獄のスナイパーに感謝している東大阪の住民も極めてやくざに非協力的で、足元を見てろくでもない情報を高値で売りつける者さえいた。警察も躍起になって情報を集めてはいるのだが、地獄のスナイパーの存在が強烈な犯罪抑止力になっていることは誰もが認めており、共闘すべきだという声すら最近は上がり始めている。

強烈な恐怖心を煽られる一方で、どうにかして味方に引き込もうとするやくざもいる。一時期はY組系のやくざが東大阪の周辺部でかけずり回って、必死に地獄のスナイパーの情報を集めようとしていた。倒すのではなく、同盟か和解を図ろうとしたのだ。勿論、尻尾を掴めば倒すことも視野に入れていただろう。だが、それも上手くいかず、人員を消耗するだけの結果に終わった。

やくざ以外にも、東大阪で現在罪を積極的に犯そうという人間はいない。つい二ヶ月前も、韓国人の自動車窃盗団が、盗品に乗って逃走中にスナイプされ、全員が両手両足を失って警察に逮捕されている。また、東大阪を横切ろうとした珍走団グループが壊滅させられたことも一度や二度ではない。

当然の事ながら、こういう状況なので、地獄のスナイパーの存在は半都市伝説化している。名前の通り地獄からやってきた死人のスナイパーだとか、悪魔が人間の手足をかり集めているのだとか、米軍の特殊部隊が軍事訓練をしていて、日本国はそれを黙認しているのだとか。

ただ、地獄のスナイパーが隠密狙撃型の、しかも相当に戦い慣れた能力者であると看破している者もいる。その一人が、同じようなタイプの能力者に、地獄のスナイパーの撃破を依頼した。

能力者の本名は分かっていない。ただ、サイレントキラーというあだ名だけが伝わっている。顔写真どころか国籍も分かっていない人物で、どうやらスラブ系の男性だと言うあまり当てにならない噂のみが一人歩きしている状況だ。一流の能力者らしく気に入った仕事しか受けないと言う事が評判の人物で、仕事を非常に選ぶのだが、依頼料は低めで、達成率は極めて高い。そのため、彼にコネクションを持とうと必死になっている犯罪組織やテロリストは珍しくない。

今回彼が仕事を引き受けたのは、噂の地獄のスナイパーに興味を覚えたからであろう、というのが定説となっている。超一流の能力者は、殆どの場合超一流の変人だ。もちろん、サイレントキラーに関しても、それは決して例外ではなかった。

 

今回、真由美は目的地を知らされていない。新幹線に揺られながら、だから不安を隠せない。一緒について来ている葉子も、流石に大勢の人が乗っている新幹線の中で話すわけには行かないし、時々退屈そうな負の思念が肥前守から流れてきていた。葉子は退屈をいやがる。まあ、何十年もトイレに閉じこめられていたようなものなのだし、それは無理もないことだ。

幸い窓側の席は確保できたので、高速でかっとんでいく景色を楽しむことだけは出来た。殆ど揺れがない新幹線だが、真由美にとって楽しい娯楽がほとんど無いのが悩みの種だ。それに大阪駅に着いたら、其処から別個で指示があるというのも不安で仕方がない。

この間の南アルプスの一件で、能力者は変人揃いだと理解したのも、その不安を後押ししていた。今度はどんな人がいるのか。地獄のスナイパーという名前を聞いて、有名な漫画の主人公である無表情なスナイパーを思いだした真由美は、ぶるぶると首を振った。本当になりかねないからだ。

薄々感づいてはいた。天才という人種もそうなのだが、常軌を逸した世界に生きている人間は、思考回路も当然普通とはずれてくるのである。今ならそれがはっきりと現実の事として理解出来る。

例えば赤尾さん。彼女がベジタリアンというのも生やさしい、野菜というか植物しか食べない超偏食家だと知ったのは、南アルプスを発つ前だ。勿論変なのは赤尾さんだけではない。可愛い子供が異常に好きな志治波羅さん。まるで闘争本能をそのまま人間にしたような銀月親子。真由美のお婆ちゃんだって、まともとは言い難い人だ。暇さえあればビーズを数えているという難儀な性格で、数え終わったビーズの箱が物置に何十と積んであるのだ。しかもビーズを数えているときのお婆ちゃんは鬼気迫る表情で、正直言ってとても怖い。夢に見て泣いたこともある。

零香先生は虎帝と言われているそうである。あの人らしい、とても恐ろしいあだ名だ。広域爆撃殲滅型の赤尾さんはデストロイヤー。そして次の名前も知らされていない人は地獄のスナイパー。どんな人が出てきてもおかしくない。地獄から這い出してくる鬼を想像して、思わず頭を抱えてしまった真由美。彼女は現時点では、笑いをこらえきれない葉子を、恨みがましく鞄越しに睨むことしかできなかった。

葉子に言わせると真由美はかなりの百面相なのだそうで、特に知人が近くにいないときは凄いのだそうだ。紅くなったり青くなったり、何を考えているのか想像するだけでも楽しいのだとか。見ている方は面白いかも知れないが、真由美からすれば冗談ではない。笑われて気分がいいわけもないし、大体百面相になる理由が理由なのだから。

間もなく新大阪に着く車内アナウンスが流れる。同時に、あっちこっちへ揺れていた心が、まとまり落ち着きを取り戻す。実戦の匂いを嗅いだこともあるし、此処からは向こうが指示すると言うことだから、あまり気を抜くわけには行かない。そうこうする内に、新幹線は駅に到着。

殆ど揺れなく止まった新幹線から、鞄を担いで降りる。リュックタイプの持ち歩きやすい鞄だが、はてさてどういう訳か、前よりずっと軽くなったような気がする。肥前守の分を考えると却って重くなっているはずなのだが。小首を傾げながら、真由美は新大阪の駅を歩く。何もかも珍しい光景ばかりで、少し心が躍り掛けた、その時だった。

眼前の壁、目の高さに、真由美の行く手を防ぐように、半透明の矢が突き刺さった。

気配すら感じ取る事が出来なかった。

跳ね上がった心臓をどうにか押さえつけながら、慌てて防御術の準備をしながら、辺りを見回す。ぼやきに近い声が、肥前守から聞こえた。

「てか、向こうがマユたん殺す気なら、とっくに殺ってるんじゃないの? 今の一撃、対応どころか気付いてもいなかったじゃん」

「そ、それは、それはそうだけど」

怪訝そうに見る周囲の人達から隠れるようにして、矢を引っこ抜くと、女子トイレに駆け込む。個室へ飛び込むと、洋式の便座に腰掛けてやっと一息。トイレが綺麗で良かったと思いながら半透明の矢を見ると、文字が刻み込まれていた。コインロッカーの番号だ。番号を覚えると、矢は空気に溶けるように消えてしまった。

トイレと相性がいい葉子が具現化、浮き上がる。青くなったり紅くなったりして考え込む真由美を空中から見下ろしながら、彼女は言う。

「これが連絡じゃないの?」

「うん。 そうだとは思うんだけど……」

真由美には不可解だった。今のスナイプは一体どうやったのか。あんな大勢の人が行き交う、辺りコンクリの壁だらけの状態で。真由美の眼前に、ミリの狂いもなく、誰にも気付かれず、どうやって矢を打ち込んだというのか。

零香先生は、真由美が出かける少し前に言っていた。能力者との実戦をこなして貰うと。まさか相手はその地獄のスナイパーさんになると言うのだろうか。或いは、彼女が交戦中の何か得体が知れない相手なのだろうか。この一撃が、地獄のスナイパーさんからのものだと断定できる要素はない。しかし、今の手腕を見る限り、真由美のこめかみを打ち抜くことなど造作もなかったはず。ロッカーに時限爆弾などと言う真似は流石にしないだろう。

「いこ、葉子ちゃん。 肥前守に戻って」

「うん」

駆け出す。駅の案内図を見ると、コインロッカーは三カ所。端から丁寧に当たっていく。矢に刻まれていたロッカーは二回目で見付かり、引いてみると鍵はついたままであった。念のために防御術を発動して、こわごわ開ける。

沈黙。

大きくため息をついた真由美は腰砕けになりそうであった。ロッカーの中には、別のコインロッカーの鍵が入っていたからである。これを見ても、地獄のスナイパーさん、もしくはその協力者がこの駅及びすぐ近くにいることは確実だ。

鍵を取りだし見ると、隣のロッカーの鍵だ。開けてみると、大阪のタウンガイド誌が入っていた。休憩所に行って目を通すと、交通アクセスの所、ある駅名に紅い印が付けられていた。他に妙な所はない。意図は明白だ。

何でこんな回りくどいことをするのだろうか。小首を傾げながら、真由美はリュックを背負いなおして、駅を歩く。途中如何にもちゃらちゃらしたお兄さんにナンパされかかったが、無視してそのまま行く。無視されたお兄さんは自尊心を傷付けられたか、後ろで怒声を張り上げているが、不思議と全然怖くない。

問題にされている駅への、電車のアクセスは悪くなかった。待ち時間もである。すぐに乗り込んで揺られ始める。新幹線に比べると流石に揺れが大きいが、それは仕方がない。何回か乗り換えて、二十分もした頃。目的の駅に到着した。

駅を出ると、其処は東京以上に空気が悪かった。町工場が建ち並んでいて、国道には大型のトラックがひっきりなしに行き交っている。治安が悪そうだと思ったが、不思議と駅前にたむろしている不良の類はないし、剣呑とした空気そのものがない。目で見ると、はっきり確認できる。地獄のスナイパーという存在が、この地区に与えている影響が、である。

零香先生に聞かされた。現在地獄のスナイパーさんは、日本で最も知名度のある能力者であると。東大阪からやくざと犯罪者を根こそぎたたき出した人物であり、その分彼女を狙う人間は後を絶たないのだと。今までの誘導行為はそれ故の用心かとも真由美は思った。

が、しかしそれにしては妙だ。もし一流以上の能力者が相手の場合、ひよっこの真由美がうろうろしていては却って居場所を突き止められることになりかねない。しかし、此処は地獄のスナイパーさんのテリトリーのはず。安易に他の能力者の侵入を許すとも思えないのだが。

考えれば考えるほど分からない。指示も来ないし、とりあえずはビジネスホテルを探して泊まりたい所である。交番があったので聞いてみると、親切に教えてくれた。まだ若いお巡りさんで、時々視線が真由美の胸に行くのが多少気になったが、それは男の業であろう。教えてくれたホテルはきちんとあったし、感謝しながら真由美はチェックインし、鍵を預かる。部屋にはいると、漸くリラックスして、リュックを降ろし、そして固まった。

ベットの上に、矢が転がっていた。

窓は開いていない。となると、今ドアを開けた瞬間に、その隙間から狙撃したと言うことになる。しかもベットに刺さらない程度の力で、である。一体どれほどの技量がそれには必要なのか、真由美には見当も付かなかった。

旅館も葉子には相性がいい。具現化した彼女は、固まっている真由美より先に矢を覗き込んで、ふーんと唸った。

「悪いけど、餌として動いて貰います。 ……だって」

思考停止から立ち直るまで、三十秒以上掛かった。もしもーしとか葉子が言って、ほっぺをつねられて、ようやく正気が戻ってきた。

「え、餌、えさ、エサ……。 あ、はは、あはははははははははははは」

乾いた笑いばかりが漏れてくる。冗談じゃない。慌てて矢を拾い上げて読んでみるが、葉子が読んだのと全く文面は変わらず、読み終えた途端に矢は空気に溶け消えた。何だか精神の地平が決壊して狂気の笑いがせり上がってきそうだったが、どうにかしてこらえる。落ち着け、落ち着け、落ち着け。言い聞かせながら、ベットに倒れ込む。バネの利いたベットに腰掛けて、天井を見上げながら、葉子は言った。

「マユたん、大変だねー」

「人ごとっ!? 人ごとなのっ!?」

「あ、そうだ。 このホテル、悪霊が何体かいるよ。 どれもたいしたのじゃないから、マユたんが近づいただけで逃げちゃうと思うけど」

「話を変えないでッ! も、もういやっ! いやああっ!」

葉子の心ない言葉に傷ついた真由美は、ベットに突っ伏したまま泣き出す。頭をよしよしと撫でる、葉子の冷たい手が却って腹立たしい。ぐすんぐすんと泣く真由美に、葉子は鋭い刃物を思わせる凶暴な笑みを浮かべた。

「つまみ食いしてきていい?」

「もうどうでもいいよ、勝手にして……ううっ、ひっく」

「はーい。 夜中には戻るよ」

するりと天井に潜り込んだ葉子が、すぐに見えなくなった。葉子は人間の少女の形さえしているが、実質的にはレギオン体の一種だ。元々年数はかなり重ねているし、その上肥前守と半分融合することによって、コアとしての人格を非常に強力な所で保持している。伊達にトイレの花子さんを何十年もやっていないわけだ。つまみ食いというのは、勿論他の悪霊を体内に取り込むこと。零香先生の所に戻ってから、恐らく十体以上は喰っているはずだ。

葉子が席を外してくれても、涙は止まらない。あの矢に書いてあった事が本当だとすると、他の能力者が既に真由美の存在に気付いているのは確実。しかもそれは、十中八九間違いなく、地獄のスナイパーさんほどの能力者が尻尾を掴みきれなかったレベルの力量を持っているのだ。そして、今までそんな強烈な奴に狙われていたという事実も、今頃になって強烈な震えとなって真由美の体を襲っていた。ようするに真由美は、今まで恐竜に後を付けられていると気付きもしなかった兎に等しいのだ。

具体的な指示は一切出されていない。と言うことは、これから何時襲ってくるか分からない敵の能力者に備えて、ずっとびくびくしていないと行けないわけだ。発作的にO市に戻りたくなるが、それでは修練にはならない。今後はもっと厳しい戦いを経験していかないと、強くなれないのは分かり切っている。だが、即座にそんな勇気が湧いてくるわけもない。今まで感じた中で、最大級の恐怖が真由美の全身を掴んでいた。

布団を被って震えているうちに、いつの間にか朝が来てしまった。勿論眠れるわけがない。目の下に隈が出来てしまった。側を見ると、ご機嫌な笑顔で葉子が添い寝している。年の功と言うべきか、何ともタフな子である。考えてみれば、この子だっていつその能力者に襲われるか知れたものではないのだ。

それで、ようやく窮鼠の勇気が湧いてきた。決めたはずだ。護れる者を守る力が欲しいと。目の前で弱者が虐殺されるのを、見過ごせないと。

洗面所に入り、栄養剤を一気に飲む。服を脱ぎ捨ててシャワーを浴び、顔を洗って気持ちを引き締める。いざ戦闘モードにはいると、真由美の心は鋭く引き締まる。ぎゅっと髪の水を絞って素早くドライヤーを掛けると、もう状況に適応した、戦乙女が其処にいた。

「葉子ちゃん、起きて」

「んー。 朝はパスタがいいー」

寝ぼけながら目を覚ます葉子は、真由美の表情を見て、状況を察したようだった。無言でしばし二人は見つめ合い、そして頷きあった。

「行くよ」

「うん!」

ようやく安心したらしく、力強く葉子は頷いていた。

 

3、戦闘開始

 

状況が膠着してからもう一月になる。サイレントキラーは、三割の苛立ちと、七割の高揚感の中にいた。今までもさまざまな能力者と交戦してきたが、これほどの相手は初めてだったからだ。東大阪近くの山中で、最大限の警戒をしたまま、小さく欠伸をする。彼は敵の姿さえ、いまだ見ることが出来ていない。

沈黙の殺し屋と言われてきた彼は、物心着く頃から暗殺者だった。コルシカマフィアの家系に産まれ、子供の頃から爆薬と銃火器を玩具に育てられた。十歳の頃には天才的な狙撃の実力を示し、十一歳で初の暗殺に成功。十六歳の頃には、一家の中でも有数の殺し屋として、近隣に名を響かせていた。特に敵陣深く潜り込むこと、苦境における判断力には定評があり、何度か米軍やイタリア軍がスカウトに来たほどである。

そして二十歳の時、一度死んだ。

破滅の始まりは突然であった。一家が警察の摘発によって人員、資金双方から壊滅的な損害を受け、ここぞとばかりに、縄張りに周辺のマフィア達が一斉に侵入してきたのである。勿論サイレントキラーは激しく抵抗し、その過程で四人ものマフィアのドンを射殺した。だが抵抗もそれまでであり、家族も皆殺しにされて皮を剥がれてつるされた。彼も十発以上の弾丸を浴びて川に叩き込まれた。

極寒の河中で、彼は全てが冷え切っていくのを感じていた。体も、脳も、心も。元々感情などあってないようなものだったが、それでも家族に対する不器用な愛情は持っていた。だがそれも、もはや意味を為さなくなっていた。もう誰も彼の味方はいなかった。生きている意味など何もなくなっていた。

それなのに、天は彼を生かした。

意識を取り戻したとき、周囲にあったものはゴミと、泡立つ汚い水と、コケだらけの煉瓦で舗装された川岸だけだった。目を開けさせたのは、汚い排水管から降り注ぐ腐臭漂う水であった。冷え切った体を引きずって、彼はスラムの廃屋に逃げ込み、そこで鼠を喰いながら体を養った。愛用のスナイパーライフルを始め、全てを失った彼が、体の中から沸き上がる妙な力に気付いたのはその時であった。

一年ほど掛けて能力を把握したサイレントキラーは、縄張りを荒らしたマフィアのドン達を皆殺しにすると、過去の清算は済んだとばかりにイタリアを後にした。それからは自己の能力を生かしての、暗殺者そのものとしての人生が始まった。

彼は憎しみの連鎖から一度は逃れ出たのだ。それなのに、好きこのんでその輪の中に戻ってしまった。それには不幸な数々の事情があったが、それは他人が理解出来るようなものではなかったし、一方的に善悪を判断できるようなものでもなかった。サイレントキラーは、哀れな男であった。

日本にも四回足を運んだ。二回はただ観察のため。能力を得てからの彼は、普通の人間に一度も姿を見せていない。そのため観光という習慣はなく、必然的に観察となる。もう一回は依頼を受けての暗殺だ。これはやくざの組長がターゲットであったが、サイレントキラーの名を聞いただけで迎撃のヒットマンは逃げ散ってしまい、途轍もなく簡単な仕事に終わった。

そして今回。暗殺者としては間違いなく世界で五本の指に入るサイレントキラーは、まともに戦える相手を求めて、此処にいた。当然彼は、駅から現れた発展途上の能力者には気付いていた。彼女が、妙な動きをしていることも。十中八九これは罠だと、百戦錬磨の彼は看破していた。しかし、罠に近づかなければ、状況の改善は決して出来ないことも理解していた。膠着状態は一月も続いている。そして、決して彼に有利とは言えないのだ。

自己の感覚探査範囲ぎりぎりに彼女を置くと、サイレントキラーは動き出す。彼はライフルも拳銃も持っていない。今や必要ないのである。

いつでも作り出せるのだから。

 

ホテルを出た真由美は、急ぎ足で東大阪の郊外に向かっていた。現在の状況及び、地獄のスナイパーさんがほぼ確実に支援に入ってきていることは、理解出来ている。だから、やるべき事は一つ。自分を餌として魅力的に見せると言うことだ。

工場街を抜けると、まばらな住宅が徐々に自然へと移り変わっていき、やがて山が見えてくる。車が減り、通行人もまばらになり、真由美にとってとても心地よい空気が満ち始めた。早足で急ぐ。

タウンマップはもう出がけに頭に入れてきた。どっちに行けば山へ行けるかはすぐ分かる。そういえば、あの零香先生は度を超した方向音痴だとかで、一度通った道であるか、或いは分かりやすい目印をつないでいく形で目的地に向かうかしないと、確実に迷うのだという。方向感覚を北海道で鍛え抜いた真由美は、其処だけでなら、零香先生に勝っていた。今も大体の方角さえ理解すれば、問題なく山へと向かうことが出来る。

そろそろ頃合いかと思ったので、懐から木彫りの熊を捕りだした。これが無くても防御系の術は発動できるのだが、あった方がシールドが硬くなる。早足で行く真由美に、周囲に人がいないからか、葉子が話しかけてきた。

「ねえねえ。 マユたんのバリアって、どういうものなの?」

「ええとね、何日か前に零香先生に見て貰ったんだけど、慣性防御なんだって」

「カンセイボウギョ?」

「うん。 要するに、物体には動いているときに、動くって行為そのものにエネルギーが発生するんだ。 それを防ぐことによって、物体自体も防ぐ、ってものみたいだよ」

ちょっと小学生には難しすぎるかと真由美は思ったが、葉子は案外博識な所を見せる。

「じゃあ火とかには無敵になるの?」

「無敵って訳じゃあないけど、炎そのものだったらほぼ通さないよ。 質量攻撃も、四トントラックくらいの物体が時速五十キロくらいで突進してくるならどうにか防げる。 フルパワーで展開しなきゃ行けないし、私自身も多分ふっとんじゃうけど」

これは実戦で経験済みだ。フルパワーで展開したシールドは、あの巨大なシレトコカムイの全力チャージを防ぎ抜いた。ただ、それ以前では、真由美は自分のシールド強度がどれくらいか把握していなかった。

ちなみに、今のはわざと少な目に申告した防御能力だ。今の真由美の実力なら、本気でやればシレトコカムイのチャージを喰らっても吹っ飛ばずに持ちこたえることが出来るはずだ。

さて、わざと聞かせるためにした今の会話、きちんと相手は聞いていてくれただろうか。

こういう能力の誤認が、いざというときかなり役立つと言うことは、身をもって体験している。零香先生がシレトコカムイとジェロウルを退けたときも、それを用いたトリックによって、一気に戦況を傾けたという話だ。そういった戦い方を、少しずつでも良いから学んで行かねばならない。知識の量は、即ち選択肢の量を示している。色々知れば、色々と出来ることは増える。だから、知識は宝なのだ。

携帯を取り出す。かける相手は零香先生だ。頭の中で素早く文章を練って、短縮にセットしておいた電話番号をプッシュ。三度ほどコール音が鳴ると、零香先生はきちんと出た。今の時間帯は、学校へ向かっている途中だろうから、当然走りながらだろう。あまり時間はない。

「おはようございます。 真由美です。 はい、はい。 もう作戦行動中です。 はい……はい。 分かりました」

電話終了。葉子がすぐに合いの手を入れてくる。分かっているのかいないのか、この子の行動は真由美にとって、いつも物凄く助かる。

「零香さん、何て言ってた?」

「うん。 気をつけてね、だって」

「あの人らしいね。 それだけ?」

「それだけ」

くすくすと笑いながら、真由美は徐々に傾斜が掛かってきた道を急ぐ。勿論、「それだけ」の訳がない。この辺りになると、もう民家もほとんど無く、畑や田圃が目立つ。交戦するならこの辺りだ。

後は、防御。相手が超一流の使い手であっても、分かりやすい形で打ち込まれた術くらいはどうやってか止めてみせねばならないだろう。感覚を研ぐ。そのまま茂みに飛び込んで、森の深い方へ深い方へとダッシュ。森の中なら走り慣れている。多分道路より早く行ける。それに、森の中でなら、無数の木々が守ってくれる。こっちの方の修練は、お婆ちゃんに何年も鍛えられたのだ。

勿論、口にした言葉を、いちいち信じてくれるような甘い相手だとは、真由美も思ってはいない。そんな奴なら、零香先生がライバルだと言い切る程の人と、一月も膠着状態にならないだろう。さっきの電話ではそれを告げられた。だが、もう震えは消えている。

さあ、何か仕掛けてこい。地獄のスナイパーの援軍は此処にいるぞ。心の中でそう真由美は呟いて、大きな木を背にした。それが致命的な失敗だった。

うずらの卵を踏みつぶしたような音がした。回避するどころか、着弾するまで気付くことも出来なかった。

「……っ! ああああああっ!」

肩を押さえて蹲る。右肩には決して小さくない穴が空き、其処から多量の血がこぼれ落ちてきていた。折角買ったばかりのよそ行きの上着が、見る間に真っ赤に染まっていく。必死に回復の術を発動しようとして気付く。

治療の術を、自分に掛けることが出来ないと言う、冷酷な事実を。

木に背中を預けたまま、地面に崩れ落ちる。痛いと言うよりも、右手が痺れる。抑えても血が止まらない。

「臥せてっ!」

発せられた叫びに呼応するように、必死に地面に臥せる。頭があった位置を、何かが通過していった。そのまま必死に這って、安全な場所を探す。傷は火で炙っているかのように痛い。

仕事は餌だ。だからこそ、相手に攻撃をさせればさせるほどいい。それは頭では分かる。分かるのだけれど、これはやばすぎる。今のだって、葉子に言われて必死に伏せなければ、頭を撃ち抜かれて即死していた。まだ攻撃の正体すら分からない状態である。兎に角、周囲に木が一杯生えている、出来るだけ窪んだ場所に逃げ込むしかない。洞窟か何かがあれば最高なのだが、流石にそれは高望みしすぎであろう。這う。逃げる。呼吸が荒い。小便を漏らしそうであった。

必死に這って、どうにか適当な場所に逃げ込む。周囲は太い立木がそびえ立ち、地面も適度に凹んでいて、狙撃が極めて難しい。右肩を押さえながら、必死に辺りを見回すも、やはり何も見つけられない。殺気すら漏れていないのか、小鳥たちが呑気に囀っている有様だ。右腕は感覚がない。諸肌を脱ぐと、血だらけの左手で消毒液を取りだし、乱暴に傷口にかける。火箸でも刺したかのような痛みが襲ってきて、思わず身をくの字に曲げてしまう。

「ぐっ、ううっ! はあ、はあ、はあ……っ」

包帯を取りだして、少し乱暴に巻く。見る間に血がにじんでくる。唇を噛む真由美に、具現化し手を翳して辺りを見ていた葉子が言う。

「おかしいなあ……少なくともこの辺にはいないよ。 どうなってるんだろう」

「葉子ちゃん、ふせて。 相手が誰だか分からないけど、多分葉子ちゃんも傷付けることが出来るはずだから。 あまり出ると危ないから!」

「心配してくれるのは嬉しいけど、まずは自分の体をどうにかしようよ。 よっと」

一際高い木立に飛びつくと、葉子は更に上の方へと登っていった。悔しいが、葉子の言うとおりである。

傷の状態を調べる。何かが貫通したことだけは分かった。骨を打ち抜かれていて、きちんと治療しないと右腕は使い物にならないだろう。しばらくは戦うにしても守るにしても、左腕一本でやるしかない。

リュックに手を突っ込んで、肥前守を取り出す。懐に入れた木彫りの熊と、この肥前守だけが今や生命線だ。ぎゅっと身を縮めて、心を必死に落ち着かせていく。敵の能力を分析しないと、攻撃を避けることさえ出来ない。そもそも相手は何処から、どんな方法を用いて攻撃してきたのか。既に恐怖は消えている。次々的確な思考が沸き上がってくる。

考え込む真由美の前に、木の葉を蹴散らし葉子が飛び降りた。肩を押さえて考え込む真由美に、葉子は小さな掌に何かをのせて差しだした。

「マユたん、これ」

「! これは?」

見覚えがある。先端は潰れているが、これは間違いない。ライフルの弾だ。具体的な種別は分からないが、間違いない。

「さっき撃たれた辺りに落ちてた。 でも、これちょっと変」

「どういう事?」

「さっきはもう一個あったんだけど、消えちゃった。 っ! あれれっ!?」

葉子の掌にあったライフル弾が、かき消すように無くなった。無言のまま真由美は葉子を押し倒し、仰向けに振り返って全力でシールドを展開する。飛来した弾が、二発、凶悪な音を立てて弾かれた。もし直撃していたら、真由美も葉子も額を打ち抜かれていた。シールドには深い亀裂が入っていたが、やがて静かに修復されていった。ダメージが軽い場合、自動修復されるのがこのシールドの強みだ。

しばし声を殺して真由美も敵の出方をうかがった。しかし、それ以上敵は仕掛けてくる気配を見せなかった。嘆息した真由美は、激しい痛みに見舞われている右肩を押さえた。ちょっと油断するだけで、意識が飛びそうだ。眉根を寄せて辺りをうかがう葉子が言う。

「零香さんとかが使ってる神衣、便利そうだね。 あれが出来れば、ひょっとしたら……」

「あれはまだ無理。 ちょっと聞いてみたんだけど、相当に特殊な事情で身につけたらしいの。 理論自体は教えて貰ったけど、まだ私には高度すぎて無理よ」

「……そう、だよね」

実戦で思い知らされたことは幾つもあるが、その一つ。漫画みたいに都合良く新しい技を戦闘中にひらめくことはまず無いと言うことだ。新しい技は入念な修練と積み重ねの上に誕生する。零香先生は真由美から見ても天才の域に達している人間だが、それでも戦闘中にひらめいて即座に実戦投入できたことはないそうだ。ひらめくことはあっても、実戦ですぐ使おうとは思うな。それが教わり身で学んだ事である。

地獄のスナイパーさんの支援はまだか。そう考えつつ、今シールドに直撃した弾丸の痕跡から、撃ってきた方向を割り出そうとする。影の向きと時間から考えると、東だ。しかし、分からないことがある。東は此処より高度が低く、もしそうだとするととんでもない長距離から弧を描く軌道で弾を飛ばしてきたか、或いは超至近距離から撃ってきたか。しかし、超至近距離なら絶対にとどめを刺しに来るはず。そうしないと言うことは、超長距離からの狙撃と考えてほぼ間違いない。

下手にくぼみから顔を出すのはまずい。傷の痛みが引くまで待つか、或いは状況をどうにかして変化させるか。発煙筒を使う手もあるが、そうなると一般人を招き寄せて巻き込む可能性が高くなる。目まぐるしく考えを入れ替える真由美の服の袖を、葉子が引いた。

 

あの発展途上の能力者が隠れた山よりおよそ十七キロ離れたビルの屋上から、精密無比な一撃を放ったサイレントキラーは、だがしかし舌打ちしていた。今の一撃で仕留められないとは。相手の能力を低く見積もりすぎていた。いや、相手もそうだが、一緒にいる集合霊もかなり手強い。一度引いて策を立て直すべきだと、サイレントキラーは判断した。

すぐにライフルを消し、自分自身の姿も消して、ビルを離れる。もたもたしていると、地獄のスナイパーに居場所を把握されかねない。

いや、もう把握された。

天空より飛来する矢が一本。慌てて飛び退いて回避にはいるが、もう遅い。まるで兎を狙う荒鷲のように躍りかかってきたそれは、サイレントキラーの至近で炸裂した。爆圧に吹っ飛ばされ、ビルの屋上を囲う金網に叩き付けられる。更に連続して四本。金網に叩き付けられることを見越していたかのように、いや見越していたのか、恐るべき精密さで前後左右から襲いかかってきた。普通の使い手なら、これで終わる所だ。だが、サイレントキラーは、今まで能力者を含む百近い狙撃手と交戦、その全てを退けてきた古強者である。

轟音。ビル街を行き交う人々が、何事かと天を仰ぐ。ぱらぱらと燃え尽きた金網の一部が、彼らの顔に降り注いだ。慌てて目を閉じる者、顔の灰を払う者、そして通報する者。反応はさまざまだった。

四本の矢は、サイレントキラーのいる位置で破壊力が相互拡大するように、完全に計算し尽くした位置で炸裂した。しかし、獲物は逃した。

となりのビル。廃ビルとなっているその薄暗い廊下を、サイレントキラーは走る。今のは危なかった。現に彼の肩には、金網の大きな破片が突き刺さっていた。下手には抜けない。敵が自分と同じように、音をあり得ないほどの精度で感知することを、サイレントキラーはとうに把握している。

流石だ。もう音を発する事が出来ない喉の代わりに、思考でサイレントキラーは素直に相手を賞賛した。そして、今の攻防で、能力を把握されたことも悟る。状況は確実に悪くなったが、しかし心は子供のように躍っていた。素晴らしい。噂以上の腕前だ。仕留めるのが楽しみで楽しみで仕方がない。切り札である空間転移で逃れなければならないほどの相手だ。どんな味がするのか、想像するだけで涎が止まらなかった。

サイレントキラーの能力の一つが、この空間転移だ。弾丸を空間転移させる場合と、自身を転移させる術があるのだが、どちらにもリスクがある。

まず弾丸を空間転移させる場合だ。転移先と転移元の間に障害物がないこと。軌道上にしか転移できないこと。この二つを充たさないと、テレポートさせることが出来ない。一件無意味なようだが、これによって彼の攻撃半径は理論上無限大になり、なおかつ運動エネルギー消耗がないため、至近距離から撃ったような凄まじい破壊力で敵を狙うことが出来るのだ。勿論、保有している超高性能スコープで把握できる外にいる相手に対しては無意味だし、相手が軌道からそれては弾も当たらない。それに、ライフル弾を防ぎきるほどの防御能力には通用しない。だが、サイレントキラーは、鉄壁に守られた敵を仕留めたことが何度もある。誰もが四六時中、強大な防御の中にいるわけではないのである。

つづいて身体を空間転移させる術だが、此方は壁を越えて転移できる一方、半径百メートル以内で、なおかつ自分が具体的に把握している場所でないと転移できない。すなわち、自分で見た所でないと駄目だと言うことだ。更にもう一つリスクがあって、発動後三十分は狙撃自体が出来なくなる。これは自分の精神にロックが掛かるという意味で、引き金を引こうとすると頭の方に制止が掛かってしまうのだ。だから、本当に最後の手段となる。

幸い、ステルスの性能はサイレントキラーの方が上だ。今のところ、相手は音で此方の動きを把握していることが分かっている。サイレントキラーは空間転移後、もしくは一時間以上狙撃をしないことにより、三十分単位でオートステルスを発動させることが出来る。このステルスは光学だけではなく、音も遮断する。サイレントキラーの名の由来は、実に此処にある。

敵は追撃を仕掛けてこなかったが、多分次には空間転移も通じなくなる。音波ステルスもそろそろ通用しなくなるだろう。サイレントキラーは舌なめずりすると、今の攻防で割り出した敵の大まかな位置へと急いだ。向こうは光学ステルスしか持っていない。次のスナイプで、決着が付く。いや、付ける。

一月に渡る長い戦いだったが、終末の時は案外あっけなかった。サイレントキラーは、今の攻防で、敵のアキレス腱を特定していたのだ。

 

手応えはあった。しかし討ち漏らしたことに気付いた淳子は、舌打ちして弓を降ろした。今の状況、今までの情報から総合して、奴は防御術ではなく空間転移を使って回避していることが確定した。そう遠くへは空間転移できないようだが、それでも充分以上に厄介な能力である。

互いの位置が割り出せない。狙撃の後の的確かつ迅速な移動。更に、双方の力量が総合面で互角である。これが両者がさまざまな技術を駆使しあっても、全く勝負が付かなかった要因である。今も囮を使って狙撃位置を絞り込み、狙撃の音をたぐって位置を特定、ようやく攻撃に成功したのだ。正直言って、かなり悔しい。囮の真由美が良くやってくれただけになおさらだ。

まずいことは多い。サイレントキラーの有効射程攻撃距離はおよそ二十キロに達し、淳子の十一キロを遙かに凌いでいる。つまり、である。先制攻撃を仕掛けて避けられた場合、ほぼ確実に逃げられない。

淳子には家族と素性というアキレス腱がある。何処の誰かと言うことを把握されてしまうと、家族を守りきれなくなる可能性が高い。敵もどうやらそれに感づいているらしく、しかも淳子の正体を日に日に絞り込んでいるようだ。あまり時間的な猶予はない。

銃火器を持った一般人如きに家族を傷付けさせはしないが、それでも素性が完全にばれてしまった場合、刺客の処理が鬱陶しくて仕方なくなるのは目に見えている。その点、サイレントキラーは狙撃の癖や動きから言っても、家族がいないのは確実。この辺りは、明らかに敵が有利だ。

嫌な予感がする。淳子の直感はさほど強力ではないが、無視は出来ない。今までにかわした狙撃は、淳子三十一回、サイレントキラーが三十七回。ちなみにほぼ半数は、初日のさぐり合いでのものだ。これだけの回数互いの狙撃を見れば、相手がどんな人物か見当を付けることが出来る。淳子も、サイレントキラーが三十代の男性で、多分イタリア人であることを看破している。サイレントキラーも、淳子が十代後半の日本人女性だという事くらいは看破しているだろう。ひょっとすると、今の狙撃によって、家族を特定したかも知れない。そうなると極めてまずい。家族を射程圏内に収められたら、大勢死人が出ること確実の切り札を使ってでもしとめるしかない。家族は、淳子の宝だ。だが、宝を守るためだとは言っても、普通の人間を傷付けるのは気分が悪い。家の周囲に住んでいるのは、この時代には珍しく親切な人ばかりなのだ。

無言のまま位置を移す。敵が今の狙撃地点を把握したのは確実であり、それである以上次の手を睨んだ動きを如何様にするかが駆け引きになってくる。事務所ビルの屋上に這い上がり、ヤモリのように移動しながら、淳子は零香が送ってきた援軍のことに思いを馳せる。かなり酷い怪我をしたようだが、勝つには彼女を利用するしかないだろう。敵が空間回避行動後、二十分から四十五分ほどの間狙撃が出来ないことは掴んでいる。つまり、安全な時間はそれしかないのだ。一応、以前零香に聞いて装備と大体の技量は把握している。数分で使えそうな戦術を練り上げる。

余計な術を掛けている暇はない。素早く矢に用件を書き連ねると、そのまま援軍である真由美に向けて、淳子は大弓を引き絞った。携帯を使う余裕はない。居場所が特定されている現在、声を出すのは致命的な行為だ。

矢が飛ぶ。光の筋となって、弧を描いて飛ぶ。サイレントキラーも見ているだろう。視線も感じる。すぐにビルの影に入り込むと、ステルスを発動し、淳子は走り出した。これで勝負が決まる。ハンカチを噛む力が、心なしか強くなっていた。サイレントキラーは、当初の淳子の見積を遙かに超える強敵であった。

 

4,極限のデス・チェス

 

至近距離に突き刺さった矢には、伝令文が書かれていた。真由美は左手で引っこ抜くと、細かくびっしり書かれた字を葉子にも見えるようにして読んだ。

指示は複雑だった。だが、頭に入れること自体はさほど難しくなかった。問題は実行の過程である。まだ右腕は動かない。しかもこの指示を見る限り、市街地に入らなければならないから、肥前守は持ち歩けない。服に染みこんだ血も問題だ。こっちは着替えれば上からは隠せるが、しかし歩くときにはどうしても不自然になる。注目を集めると、少しやりづらくなるのは疑いない。我慢できるレベルの痛みではないし、痛みを我慢していてはどうしても集中力が削がれる。

葉子はさっきから危険を顧みず、身を乗り出して、周囲を念入りに伺っている。凄く勇敢で優しい子だ。こんな子が友達だったら、真由美はもっと充実した学校生活を送れていたのかも知れないと自嘲する。虐められなかったのは、単に運が良かっただけ。孤独で孤立していた小学校中学校。学校が楽しいと思ったことなど、産まれて一度もない。

「マユたん、動ける?」

「大丈夫。 葉子ちゃん、肥前守に戻って」

「良いけど、本当に平気? 私が憑依すれば、痛みを少しは和らげることが出来るかもよ?」

「そうしたら肥前守とのシンクロが維持できないでしょ? 私は大丈夫だから、気にしないで」

無理に笑顔を作って、葉子の頭を撫でた。そうだ、この子を守るのだ。何十年もトイレに閉じこめられて、いまやっと自由の翼を広げて大空を舞っているこの子を。サイレントキラーというのがどういう人なのかは分からない。場合によってはその人の死に手を貸すことになる可能性も高い。だが、今は悩んではいられない。迷いは死に直結する。

予備の上着を着込み、肩を押さえたまま、ささやかな隠れ家を出る。片側にだけリュックを掛けるから、少し安定が悪いが、仕方がない。

勝つためには真由美の協力が必要だとある。ひょっとすると、ジェロウルとの戦いの時切り札の存在をほのめかしていた零香先生同様、地獄のスナイパーさんも何かしらの手段を他に用意しているかも知れない。いや、している可能性が高い。しかしざっと見ただけで、これほどの駆け引きをする人の切り札だ。きっと使えば、辺り一帯がただでは済まないのだろう。

一歩ごとに肩の傷が痛い。錐を揉み込むように痛い。どうにか道路に出て、突っ立てられているミラーを見て苦笑した。顔は泥だらけだった。手の甲で泥を拭いながら、真由美は小走りで駆け出す。

指定された地点までは、まだかなり遠い。その間に狙撃されることも考えられたが、そこは地獄のスナイパーさんを信じるしかない。すぐ隣を自動車が通り過ぎていった。先にこっちに来たときとは逆に、どんどん自然が少なくなっていく。

腕時計を見ると、指定通りの時間から少し遅れ気味だ。肩への負担が更に増すが仕方がない。大きく息を吸い込むと、真由美は身を沈め、全力で走り出した。

 

サイレントキラーは地獄のスナイパーが何か援軍の少女に指示を送ったのに、勿論気付いていた。そして四回の狙撃であの少女を仕留められなかったことで、評価を一変させていた。何かされるとまずい。素直にそう思う。地獄のスナイパーもステルスを稼働させて移動を開始している。此処は思案のしどころであった。

元々サイレントキラーは、この仕事を受けて日本に来る前から、地獄のスナイパーのことを入念に調査していた。プロとしては当然のことである。東大阪の住民約六十万の中から探し出すのは大変であったが、しかし戦場に到着したときには、候補をおよそ三千にまで絞り込んでいたのだ。

そしてもう、地獄のスナイパーの正体には当たりを付けている。名前は青山淳子。東大阪の高校に通う、目立たない女子生徒だ。地味ながらかなり容姿は優れているらしいのだが、どうやら精神の成熟が相当に早いらしく、同級生とはあまりつるまないらしい。と言うよりも、一緒に遊んでも全く楽しくないのだろう。

今ならその理由が分かる。この少女は、サイレントキラーである自分の同類であると。超がつくほどの過酷な環境で育った結果、精神が異常な速さで成熟し、そして常軌を逸した強さを得たのだと。剣士は剣を交えて相手を知るとか言う。当然スナイパーは、狙撃戦を通じて相手を知る。ごく当たり前の事だ。

先ほどの狙撃の前から、もう青山淳子には当たりを付けて、調べを進めている。その結果、彼女が一度全てを失い、廃人となった父と別の地区で数年間暮らしていることが分かっている。そして数年後、何があったか東大阪に戻ってきた。それからである。暴力的なまでに圧倒的な力で、やくざがこの地区から完全排除されたのは。彼女の父はお人好しを絵で描いたような人物であり、まるで社会対応性がなかった。有り体に言えば弱く、周囲の人間がそれを貪り食う形で壊した。やくざももちろんそれに関与した。

だから彼女は排斥した。自分と同じだ。親近感を感じこそすれ、侮蔑も嘲笑も浮かばない。そして此奴を殺すのは、どんな極上のステーキにも勝る、最高の味を約束してくれるだろう。皮肉な話で、実力も拮抗している。年齢は随分離れているが、それは才能の差だ。まあ、快楽殺人者、いや快楽狙撃者であるという一点だけは共通していないようだが。

自己分析はしたことがある。サイレントキラーは自傷趣味で、重度のナルシストでもある。まるで蟷螂に潜むハリガネムシのように歪んで気色の悪い精神的一面だ。異常な性癖であるとサイレントキラーは自覚している。事実、サイレントキラーになってから、彼は性的なパートナーを一切必要としていない。狙撃で敵を倒す快楽に比べたら、生殖行為がもたらす快楽など、火山とその辺の小石ぐらいに違うのだ。超理性的な反面、超偏執的。だがそれが天才の条件である。

実力が拮抗している以上、生半可な駆け引きは死に繋がる。勿論、彼女の両親を人質に取りに行くように見せて、その裏を掻く。

まず、移動するのは彼女の生家よりおよそ距離十一キロ、寂れた商店街だ。その一角にある、テナントが殆ど入っていないビルを最初の狙撃に使用する。周辺のトラップは全て取り除いてある。最終的に利用する狙撃地点は此処だ。此処の重要な所は、淳子の生家を狙撃できないと言うこと。となりにもっと大きなビルがあり、それが邪魔になっているのだ。

策は簡単である。恐らくは、淳子は家に急行し、その周辺を重点的に警備し始める。その過程で、此方が仕掛けたトラップに引っかけさせる。

罠自体はそう大した物ではない。奴の生家を狙撃したように見せかける罠だ。タイマー式のライフルであり、玄関を正確に打ち抜くように仕掛けてある。そして、罠を排除しようとした所を、撃つ。

奴は時間差での狙撃が出来るようだが、全速力で急いでいる途中、なおかつアキレス腱である家族を狙撃されて平静でいられるとは思えない。加えて、淳子が先にライフルを発見した場合も、解除するような時間などありはしない。音を立てて蹴飛ばすか、遠くから術を放って吹き飛ばすしかないのだ。また、別に攻撃を仕掛けてこなくとも良い。動揺すれば居場所が露出する可能性は高い。時間差を置いて、三つのライフルを既に仕掛けてある。

武器を自在に作り出す。これはサイレントキラーの能力だ。彼は二つのリスクを克服した先で、力を消費して銃器を自在に作ることが出来る。一つはその武器で、敵を殺したことがあるという実績。そのためさまざまな種類のライフルは自在に作り出すことが出来るほか、何種類かの拳銃も作ることが出来る。変わり種では、バズーカー等というものもある。ただしこの大味すぎる武器を、サイレントキラーは決して好きではない。もう一つのリスクは、作ったものは弾丸に至るまで、出している間はステルスが弱体化する。弾丸を発射すれば完全にステルスは消えるし、銃を出したままの状態だと光学ステルスが消滅する。

つまり、今は光学ステルスが解除されている状態だが、別に問題ない。奴が音を使って敵を探していることはもう分かっている。その点はサイレントキラーも同じだが、姿が見えている状態でも、上手く隠れていれば問題ない。そしてその隠れるという点に関しては、サイレントキラーは狙撃手の中でもトップクラスだ。

不安要素はあの援軍だが、これに関しては臨機応変に対処するしかない。これが実のところ一番怖い。最初にかなり高度な防御能力を保有していることが分かっているし、それ以外の能力は未知数だ。まだまだ戦い慣れしていないようだが、ルーキーがベテランを倒した例など幾らでもある。攻撃力だ防御力だの数値的なパラメーターで、能力者同士の戦いは全く計ることが出来ないのだ。

ましてや、あのルーキー少女は近接戦闘系の可能性がある。もしそうだとすると、接近された場合非常にまずい。この国では、淳子の同世代にはどういうわけか一級の能力者が多く、それらの誰かの弟子だと話が厄介である。あの動きを見る限り、大器の片鱗が見える程度だが、何かしらの大業を隠し持っている可能性もある。注意は払わなければならない。

さまざまな思惑を巡らせながら、サイレントキラーはトラップを仕掛け終えた。そして想定した隠れ家に、誰の目にも触れないまま隠れこみ、本命のライフルを具現化させる。幼い頃からずっと肌身離さず使ってきた、相棒だ。多少古い型だが精度と破壊力は比類無く、なおかつ原形をとどめないほどに改造したため、どの銃とも弾痕が一致しない。オリジナルは失ってしまったが、今ではいつでもすぐ側にいる。

スコープを覗き込む。敵が通ると思われるルートは七つほどに絞り込んでいるし、サイレントキラーは音を察知して敵を射るタイプの能力者だ。そして焦りは確実に大きな音を立てる。淳子は呼吸音さえ殆ど漏らさないが、焦ってしまえば話は別。ステルス迷彩も転んだりぶつかったりすれば意味がない。狙撃戦は精神戦に近い。あせろ、あせろ、あせろ。心中にて呟きながら、サイレントキラーは絶好の好機を待つ。

妙な音が鼓膜を揺らしたのは、その直後であった。

 

地獄のスナイパーさんから真由美が受けた指令は複雑であった。まず第一に、指定された位置まで急いで向かう。今その最中である。そして指定された場所にまで行ったら、周囲を見回して、怪しい気配がないか探る。そして、それが終わった後、第二の指令に入る。

指定された場所にはどうにか着いた。というよりも、見上げたというのが正しい。呼吸を整えながら、真由美は額の汗を拭い、目的地を見据える。

これだけの距離を走って息切れするだけなのだから、体力は確実に付いてきている。真由美が立ちつくして、呼吸を整えているのは、テナントが二割ほど入った商業ビル。その錆びた手すりが紅い螺旋階段の前であった。

ビルの外側に設置されたこの非常用階段は、風に揺られてギシギシ言っている。そして今まで見上げていたのは、ビルの屋上。此方も囲っている金網がさび付いていて、痛々しい。ビル全体が老いていると言うよりも、泣いている。手入れをして欲しいと、人が行き交って欲しいと嘆いていた。こういった存在は、時間が経つと悪霊を集めたり、質が悪い実体化まがつ神の寝床になったりする。

素早く周囲を見回して、螺旋階段に飛び込む。そしてリズミカルに床板を踏みながら駆け上がる。殆ど使っていないらしく、足下はかなり危ない。がたがた揺れながら、葉子が言う。

「大丈夫? 踏み抜いたら死ぬよ!」

「大丈夫! 今の力なら落ちても多分死なない!」

威勢良く応える。二階、三階、四階、五階の高さへと駆け抜ける。床板から錆がバラバラこぼれ落ちる。途中あったダンボールの山を飛び越えると、其処は鍵が掛かった屋上への入り口。丁度鉄格子みたいに、鉄柵状の小さな戸がついている。片手をついて、身軽く飛び越える。下が奈落の底とも思えるほどに先なのに。真由美は此処しばらくの実戦で築かれた自身の勇気にはまだ気付いていない。

さび付いた金網に覆われた屋上に到達した。いつの間にか、真由美は肩の痛みを忘れていた。リュックから少し乱雑に肥前守を取り出す。葉子の力でどんどん強くなる妖刀は、真由美が鞘を噛んで鯉口を切ると、歓喜したように陽光を照らして輝いた。刃を引く。鞘を引く。刃が半ば、その身を見せたとき。一息に真由美は刃を鞘に収めていた。

不思議な音色が空に広がる。通行人の中には、思わず空を見上げた者もいる。これが地獄のスナイパーさんの指示であった。刃を鞘の中で高速にて走らせることにより、こういった音を立てることが可能。これを鍔鳴りという。達人がやると非常に澄んだ美しい音色が辺りに響く、神秘的で美しい技だ。真由美が達人なのではない。むしろ、肥前守と、それについている葉子の力である。肥前守から口を離すと、真由美は驚いた。物凄く耳に残る音だ。今もまだ聞こえているかのようである。

感慨にふけっている暇は残念ながら無い。すぐにリュックに肥前守をしまい、真由美は自分に言い聞かせるかのように言う。

「次、行くよ」

「うん。 地獄のスナイパーさん、負けてないよね。 ……大丈夫だよね」

「大丈夫! 私達は、私達の仕事をするだけだから!」

アドレナリンの分泌量がとても多い。そう冷静に分析する自分がいる一方で、理想論にも近い事をいう自分もいる。

螺旋階段を駆け下りる。指定されていた地点は五カ所。更にそれらでの仕事が終わったらもう一つ仕事がある。地獄のスナイパーさんの実家へ向かって、そこで防御シールドを展開しないと行けない。まだまだ仕事の先は長いのだ。次の指定地点でのタイムリミットは十五分後。感慨に浸っている暇はない。高さにして地上より二十メートル近し。風が吹き荒ぶ中、真由美は躊躇無く螺旋階段に飛び込み、滑るように駆け下っていった。

 

なかなかいい仕事をする。淳子はそう思って、遠くで広がる鍔鳴りの音に感服していた。

無音のまま、鉄橋上へ移動。そこで集音する。暫く電車は来ないので、此処はかなり丁度いい。

音というものは、要するに空気の振動である。文字通りの音速で伝わるそれは、発信源からさまざまな障害物に邪魔されつつも、健気に自ら辿り着ける限界まで飛ぼうとする。その波の一つを鼓膜で拾い上げ、そして解析する。そして敵を倒す。

そのために、鍔鳴りを使った。真由美が行った鍔鳴りの威力は相当なもので、淳子の予想を良い意味で遙かに上回っていた。

独特の澄んだ音を発するこの技は、より広く遠くへ伝わる。もし奴がこの音の届く範囲にいた場合、伝達される反射音が妙な具合に変質するはず。奴が音波ステルスを使っているのはもう分かっている。これを逆利用させて貰う形だ。それに、奴が妙なものを仕掛けていても、発見しやすい。

耳を澄ませていた淳子は、音を回収し、し終えて舌打ちした。音が届いた範囲内に、厄介なものがあったのだ。奴自身は見付からなかったが、しかしこれは最悪だ。実家の方を向いたタイマー付きのライフルである。

サイレントキラーの狙いが、淳子には手に取るように分かった。分かった上で手の打ちようが無かった。ライフルを潰しに掛かれば、其処をねらい撃ち。放っておいても動揺することは間違いなく、狙撃のチャンスに繋がる。そして淳子に、例え狙いがいい加減で初弾はまず当たらないと分かっていても、自宅へ向くライフルを放っておく手はないのだ。しかも、近づいて処理する時間はない。術を使って排除するしかない。更に悪いことに、タイマーの具体的な残り時間までは分からないから、見つけ次第処理しなければならないのである。最悪やなと、淳子は心中呟いていた。

奴の武器が可変性の低いライフルだと言うことだけが救いだが、淳子の光学ステルスは攻撃と同時に切れ、三十秒攻撃行動を取らないか、或いは術を使うかしないと回復できない。そして奴は恐らく、十中八九、その瞬間を狙っている。しかも、淳子が通るであろう道を、今までの狙撃の癖からほぼ特定した上で、だ。

悔しいが極めて効果的な手段だ。ただ、これによってサイレントキラーの死刑は決定した。今まで関係のない第三者を巻き込まない行動を取っていたから、殺さずにすむならそうしてやろうと思っていたのだが、その気も失せた。殺す。叩き潰す。頭を吹っ飛ばして脳味噌をぶちまけてやる。淳子は言動こそ穏やかだし気も長いが、反面怒りは根に持つしずっと溜め込んで炸裂させるタイプである。信じられないほど残虐に潰される敵が多いのもそのためだ。ちなみに、第三者を巻き込む奴で、思想的に相容れないからというのが淳子の怒りの根元ではない。単に家族を狙う魂胆に腹が立ったからだ。淳子は思想で相手の存在を好き嫌いと思うことはあっても、否定するような趣味はない。むしろ行動に価値を見る。

この状況下、打てる手は少ない。無理に切り札を投入した場合、死者は百人ではきかないだろうし、それだけはギリギリまで避けないとならない。真由美は良くやっているが、鍔鳴りがサイレントキラーを発見できる可能性に賭けるほど、淳子は素人ではない。かといって今更真由美を自宅に向かわせて防御術を使わせるのも現実的ではない。情報の伝達手段がないし、今居る場所は確実に奴の予想範疇内のはずだ。下手に弓なんか引いたら即座に頭を打ち抜かれる。サイレントキラーが隠密狙撃型でなければ、むしろこれは楽な状況なのだが、相手の戦闘タイプが悪すぎた。

ただし、どっちにしても、遅かれ早かれこの状況は来ていた。双方の腹のさぐり合いは今日真由美をエサに使ったことで一気に加速はしたが、どちらにしても来るべき時だったのである。それに、どのみち奴はもう仕留めなければならない。淳子の情報を漏らすようなことは恐らく無いだろうが(そういうサイレントキラーの妙な律儀さは淳子も業界内の奇談として聞いている)、逃がせば何度でも此処にやってくるだろう。

ならば、覚悟を決めるときだ。

肉を切らせて骨を断つ。問答無用のどつきあいになれば、怪我をしてない分淳子の方が有利だ。スナイパーらしからぬ理屈だが、零香と散々戦うとこんな考えが普通になってくる。全方位守られない鉄橋上は不利だ。焦らず、そのまま淳子は走った。

 

サイレントキラーは読んでいた。ライフルを見つけた淳子が、如何に動くかを。多分相討ち狙いで来るはずだ。そしてそれは、自分への狙撃成功確率を出来るだけ下げるために、かなり狭い所から行うはず。それを大体絞り込んでいたからこそ、サイレントキラーは狙撃場所を決めていたのである。

恐ろしいほどに高度な手の内の読み合いが行われていた。一月も前からだ。だが、こういった駆け引きは、大体アキレス腱を抱えている方が負ける。スナイパーが、高度な腕前を持っていれば持っているほどに、である。

初撃で勝負を決める。勿論仕留め損ねたときには、側のビルにも転移できるように下調べはしてある。だが此処は、どうしても初撃で決めたかった。引き金に指をかける。片膝をついたままの姿勢で、無限とも思えるときが過ぎ、そしてついに終末が来た。

天へと矢が打ち上げられる。それは空中で二度軌道を変え、タイマーセットしたライフルへと着弾した。音速近い矢である、常人ではまずその軌道を見切ることなど不可能だが、サイレントキラーは見事に見切った。居場所特定。やはり想定していた三カ所の一つ。

スコープには、ステルス解除された淳子の側頭部が映りこむ。大胆にも、一番狙いやすい反面一番リスクが大きい商店街の小型モールの上に片膝を突いての射撃。敵ながら見事。だが死ね。躊躇無く引き金に掛けた指に力を入れようとした瞬間、また例の音が聞こえ来た。キーンと耳に響くあの音だ。瞬間的に指を引っ込め、冷静に状況を伺おうとするサイレントキラーより早く、淳子は二矢、三矢を次々につがえ、撃ち放っていた。そしてサイレントキラーも引き金を絞り込む。この間、わずか一秒。

しまった。舌打ちが漏れた。淳子は躊躇無く横っ飛びし、更に第四矢を放ったのである。飛び退く彼女の脇腹に一発かすり、首の後ろに一発かする。だが、直撃弾はない。更に淳子は側転して位置を変えながら、連続して矢を放った。

淳子の放った矢は次々に、サイレントキラーがもっとも隠れやすい場所へと着弾した。本能的にサイレントキラーは危険を悟る。彼が見て、淳子のいる場所を狙撃するのに有効な、というよりも彼自身が有効だと判断して隠れる場所は七箇所。そのうち三カ所は既に火に包まれ、更に一カ所に矢が直撃した。更に二矢が既に発射済みだ。

まずい。思わず脳裏にそんな言葉が浮かんだ。焦りに囚われたのはサイレントキラーの方だった。それに気付いて更に舌打ちする。状況は坂を転がり落ちるように悪化を続けていた。

あのルーキーが作った異音は音波ステルス圏の探索目的だと思っていたのだが、考えてみればあのルーキー自体の居場所を警戒せざるを得ないのだ。つまり、音が聞こえたら、反射的に其方に意識が向く。そうだ、先ほどの攻防を終えて指示を飛ばしたときに、音を鳴らすタイミングは既に伝達していたのだろう。それを利用したのだ。まさか、こんな微妙な戦術に、引き金を引くタイミングを遅らせるとは。

もう居場所は割れている。というよりも、敵の四回の狙撃で当たらなかったことを幸運だと思うしかない。すぐに場所を移そうと身を起こすが、テレポートに切り替えざるを得ない。矢の一本が、直撃コースで彼の居場所を狙ってきていたからだ。立ち上がって一発放つ。奴の右腿に着弾。術で作ったらしい鎧を食い破って足に食い込むのを確認。同時にテレポート。0.5秒の差で、潜伏地が炎に包まれていた。

転移を終える。近くにある廃デパートの屋上で、さび付いた遊具が彼方此方にある。そう大した規模ではないが、どうしてか此処が気に入って、転移先の一つに選んでいたのだ。逃げるのが遅れたため、爆発の一部も一緒に転移してしまい、壁に盛大に叩き付けられ肋骨が二本へしおれた。それでもすぐに走り出す。携帯を取りだした淳子がルーキーに指示を出しつつ、殺気を的確に向けてくるのが分かる。追いつめられたのは、今度はサイレントキラーの方だ。奴へ出来るだけ音が届かない方向へ逃げるしかない。

幸いさっきの音から判断する限り、ルーキーは遠い。ステルスが発動中だという事もあり、怖れる必要はないと思ったのだが、ガラスがはまっていない窓から外を見て息をのんだ。

今の爆発音を聞いて、人が集まってきている。更なる状況の悪化だった。あの中を通るわけには行かない。通れば不自然な無音地帯を作ることになり、奴に発見してくれと言うようなものだ。そして奴なら、人混みに紛れた子犬の瞳くらいなら簡単に打ち抜く。

焦りを鎮めて、地下へ逃げ込もうとする。其方には機械室があった。あそこなら空間転移の時間を稼ぐくらいなら、上手くいけば籠城できる。それに、タイマー式のライフルはまだ二丁が健在なのだ。奴は其方にも注意を払わないと行けない。まだ、勝機は……。

「チェックメイトや」

奴の呟きが耳に届いた。不思議なもので、それでサイレントキラーも負けを察して、却って落ち着いてしまった。

右膝が砕かれ、殆ど時間差無く利き腕の肘から先が吹っ飛ぶ。分かっていたはずだ。次には空間転移も通じなくなると。それなのに何故逃げられると思ったのか。乾いた笑いがこみ上げてくる。奴も片足を打ち抜かれているが、こっちは利き腕を失ったのだ。湿った床に転がり、多量の血を垂れ流しながら、サイレントキラーは静かに笑っていた。プライドも、積み上げた経験も、そして狂った欲望も。血と一緒に流れ出して行くようだった。

勝負はこの瞬間ついた。顔を上げるサイレントキラー。彼の瞳に、更に飛び来る矢が映った。

 

5,理由

 

具体的な理屈は分からないのだが、真由美は携帯に電話が掛かってきた瞬間、地獄のスナイパーさんが勝ったのだと気付いた。第六感という奴なのだと、一拍遅れたタイミングで理解する。

指示の変更が告げられる。地獄のスナイパーさんの実家へ向かわなくて良い代わりに、仕留めた敵のとどめを刺しにいけというのだ。声を聞く限り、地獄のスナイパーさんはとても優しそうで、穏やかそうにゆっくり喋る人だ。それなのに、とても怖い指示を出される。やはりあの零香先生のライバルなのだなと、携帯を仕舞った真由美は思った。

鍔鳴りの仕事は程なく終わる。気が進まない。場所は指定してあり、それが具体的に何処なのかは分かるのだが、足が重い。もう狙撃される恐怖は無くなったというのに。行きとは裏腹に、とぼとぼ歩き出す真由美に、葉子が心配げに言った。

「マユたん、大丈夫? 辛そうだよ」

「大丈夫。 大丈夫……のはず」

肩の痛みがぶり返してくる。それでも行かねばならない。どちらにしても、誰かを守るための力は、他の誰かを傷付ける力だ。それは真由美にも良く分かっている。いつかは来ることだと分かってはいた。何時かは人を殺さなければならないのだとはとっくに理解していた。

肩を落として歩くうちに、サイレントキラー氏を仕留めたという廃デパートに着く。寂れたもの悲しい所だ。最近は大阪から不況が去ろうとしているが、こういった傷跡は至る所にある。地獄のスナイパーさんとサイレントキラー氏が一月に渡ってこんな戦いを行えたのも、そういった廃屋廃墟の類が彼方此方にあったからだろうと、真由美は自然に知ることが出来た。何カ所かでは人混みが出来ていた。二人の戦いのとばっちりで小火が起こったらしい。人混みに逆らうように、意気消沈したまま真由美は行く。

周囲にはロープが張り巡らされており、立ち入り禁止と入り口には書いてある。が、人が散々はいった形跡が彼方此方にある。恐らくは地元の不良であろう。誰も見ていないことを確認してロープを潜り、白線が消えかかっている駐車場を抜けて中にはいると、内部は更に酷かった。壁中には卑猥な落書きがされていて、彼方此方にジュースの空き缶やたばこの吸い殻が転がり、割られたガラスの破片が散らばっている。饐えたような匂いが充満し、壁には所々黴が生え、そこら中にある水たまりにはボウフラが湧いている。松尾芭蕉の句が自然と脳裏をよぎる。夏草や、兵共が、夢の跡。

このデパートの創業者はどうしたのだろう。生きているのだろうか。幸せにやれているのだろうか。スプレーで壁一面に描かれた何を示しているのか知りたくもない落書きから目を背けながら、真由美は思った。

実体化した葉子は、既にふわふわと彼方此方を見て回っていた。壁を抜けて向こう側を覗き込んだり、壁の落書きを見て首をひねったり。好奇心旺盛な十代前半の少女らしい挙動に、殺伐とした空気の中一瞬の安らぎを感じた真由美は表情を崩す。だが、すぐに引き締めざるを得ない。

「いるよ。 気をつけて」

言われると同時に気付く。闇と同化するようにして、人が倒れている。血の臭いがした。

まだ感覚探知が鈍いというのもあるが、気付くのに遅れた理由はもう一つ。相手の呼吸音が全然聞こえなかったからだ。近づくと分かる。そいつは布きれをくわえていた。

壁により掛かるようにして倒れているその人間は、右手の肘から先が無く、左足は膝からあり得ない方向に曲がっていた。更に左腕はコンクリの壁に縫い止められ、半ば千切れて骨が露出していた。脇腹は見事に穴が空き、小腸が飛び出していた。吐き気がこみ上げる。左手で口を押さえながら思わず呟く。

「ひどい……!」

「敗者の末路……だね」

近づくと、その人の格好が見えてきた。無精髭を生やした三十代の男性だ。服装は特に代わり映えのない感じで、配色センスの良いポロシャツに、迷彩模様の長ズボンを穿いている。整った目鼻と、少し尖り気味の顎。白皙の肌にすらりとした長身。ルックス自体はかなり甘く、目さえ見なければ女性の半分くらいは好意を寄せるかも知れない。

そう、目が異常だ。初めてこの目を見たのであれば、真由美も腰を抜かしていたかも知れない。ジェロウルや戦闘モード時の零香先生と同じ目をしている。目の中には殺意と憎悪をしかなく、破壊への欲求を隠そうともしていない。

足下には割れたサングラスとごついライフルが転がっていた。葉子が蹴飛ばして遠くに転がす。その音で、目に魅入られかけていた真由美は正気に戻った。そして思い出す。とどめを刺すようにと、言われていたことを。ライフルを踏みつけながら、葉子が促す。

「マユたん、斬るなら早くしたほうが良いよ。 喋ったりすると、多分斬りづらくなる」

「葉子ちゃん……そんなのないよ。 この人もう、身動きだってできないじゃない」

「この人は能力者だよ。 だったら、完全にコロスまで、安心は出来ないんじゃないのかな」

「……。 そう……だね。 言われなくても……分かってる。 分かってる……」

ぎゅっと握り拳を作る。分かってはいる。今までの作戦行動も、直接相手を傷付ける行為ではないとは言え、この人を追いつめる一助になっていたのだ。その意味では、刃で傷つけるのと何ら変わらないのである。直接殺した人だけに罪があるとでも言うのか。直接傷付けた人だけが命の重みを背負わなければならないとでも言うのか。アシストした者だって同罪に決まっている。

実戦の世界に身を置いてみて、真由美は知った。此処は非情にて冷徹なる世界。一般人が暮らす、平穏なる社会とは根本的に違う思想が世を動かしている。一瞬の判断ミスで首が飛ぶ世界である。逆に言えば、一瞬の判断ミスをした敵の首を飛ばせるようでなければ、誰かを守る力なんて得られないのだ。

これは、スポーツではないのである。

扱っているのは凶器だ。人を殺す技であり道具なのだ。

鞘を噛んで、左腕で肥前守を抜く。この人は隠密狙撃型能力者で、今まで何百人も殺してきたのだ。そして当然の事ながら、自分が殺される覚悟くらいは出来ているはず。国には家族がいるかも知れない。家族の恨みを買うかも知れない。でも、そんな相手を殺せるようでなければ。自分の大事な人だって護れはしないのだ。勿論、戦いが回避出来る場合は最善の努力を尽くさなければならない。しかし、いざ戦いになったら、ものを言うのは総合的な戦闘能力なのである。その総合には覚悟や時の運も含まれるのだ。

男、サイレントキラー氏は観念しているようで、抵抗する様子は見えない。というよりも、逃げようとした所で此処の状況を把握している地獄のスナイパーさんがズドンだろう。此処で斬らずとも、結果は同じである。分かってはいる。分かってはいる。分かっている。

でも、踏み込めない。振り下ろせない。

左手が震えている。疲れているから何てのは言い訳だと自分でも分かる。自由になることが出来た時の葉子の笑顔を思い浮かべる。一緒に平和に暮らしていた頃のコロポックル達を思い浮かべる。守るんだ、守るんだ、守るんだ。だから、だから、だから、力を得るために、この人を、コロス。

「……一つ、頼みがある」

頭の中に声が響く。はっとした真由美は見た。葉子が男の額に右手を置き、真由美の腹に左手を置いていることに。

意志を疎通してくれているのだと、真由美は気付く。サイレントキラーの思考が、どんどん流れ込んでくる。

「俺の銃を貰って欲しい」

「あのライフルですか?」

「俺にとっての、世界でたった一人の相棒だ。 本当は、最初に死んだときに無くしちまった。 だけど、俺が心配だったのか、ずっと俺の側にいてくれた。 そして一緒に罪を重ねてきた。 一心同体になれる奴がいたからこそ、俺は今まで生きて来られた」

それが一種の妄想であることは明らかだ。だが、この男はそうやって、自身を慰めながら生きてきたのだろう。男の過去も同時に流れ込んでくる。真由美の目からは涙がこぼれ落ちていた。男は、こうやって愛銃に人格を設定しなければ、自我を保つことさえ出来なかったのだ。そして救えないのは、男がそれに気付いていたことだろう。

無惨な妄想が織りなす自演の中で、やっと保たれる自我。孤高の暗殺者は、悲しい人だった。

「俺はもう死ぬ。 だから、あんたにあいつを、フェーベルを貰って欲しい」

「どう、して? 私より、地獄のスナイパーさんの方が」

「あいつとは理解し合えたが、それは殺し合いをする者同士としてだ。 だがあんたは……今でも俺に同情している。 本気で心配して、哀れんでいる。 俺がどんなやつか知った上でな。 ……だから、貰って欲しい」

それからは、フェーベルというあの銃を構築し、いつでも具現化できる詠唱が流れ込んできた。忘れようにも忘れられそうにない。とても悲しい呪文だった。

「少し癖があるが、良い奴だ。 だから、可愛がってやってくれ」

「……はい」

「苦しくてたまらん。 早く楽にしてくれ。 其処のちっこいの、口が利けない俺に代わって、ありがとうな」

「ちっこいのいうな」

葉子が手を離した。男は見る間に青ざめていく。今まで我慢してきたのが、限界に達しているのだろう。

目が霞んで、よく見えなかった。だから光で補おうと、真由美は思った。最大出力で、術を唱え、肥前守を薙刀へと変える。炎の力籠もるそれで、真由美は全身の力を込め、男の胸を突いた。

最後に少しだけ。沈黙の暗殺者と呼ばれた男が、笑みを浮かべたように見えた。

 

指定された場所である小さな公園に行くと、ベンチに腰掛けて女の人が待っていた。ブレザーを着た髪の長い女の人だ。首、お腹、そして腿には包帯を巻いていて、腰掛けているベンチには長い棒がある。

「お疲れさま」

「……はい」

「最初のコロシは辛かったやろ? だけどようやった。 死体は政府の関係者が処分するさかい、きにせんでええ。 今日はホテルで早めに休みな」

それだけ言い終えると、彼女は回復術を唱えて、大分肩の痛みを楽にしてくれた。ゆっくり優しそうな声で喋る人だ。そして声を聞いて理解する。この人が地獄のスナイパーだと。

怪我と包帯を見て、この人も無事では澄まなかったんだと、不思議な感慨があった。しかし、考えてみれば当たり前だ。超一流の使い手同士が、総力戦を行ったのだから。棒は松葉杖代わりなのだと、今更気付いたのが不思議だ。戦いが終わって、頭が呆けてしまったのだろうか。

空は紅く染まっている。どこか上の空な真由美に、地獄のスナイパー、青山淳子さんは言う。

「ちょっとうちの工場寄ってき。 明日からは厳しい修練するからな、今日はおいしいもんごちそうしたるわ」

「ありがとう、ございます」

「今日一日は落ち込んでええ。 でもな、明日からはしゃきっとして貰うで」

不思議な人だった。実際にあってみると、そう感じられた。優しい反面とても厳しい感じがする。シュークリームのような甘さの中に、とても現実的な強い意志も感じられる。笑顔はとても柔らかい。素敵なお姉さんだ。この素敵なお姉さんが、あのサイレントキラーさんをバラバラにしたのだ。

工場はすぐ近くにあった。周囲の町工場と変わらない作りで、夕方になっても中から機械音がずっとしている。汗を拭いながら働く叔父さん達。どこの町工場とも変わらない。ただ、敷地はかなり広く、周囲の工場の倍以上あった。ただし、作業場自体は殆ど変わらない。残りの半分は妙なものが占めていた。

変な機械だった。全体的には潰れた巨大ペットボトルを思わせる。青黒い鉄塊で、彼方此方にコードやらパイプやらタンクやらメーターやらがついている。側にはポリタンクやペットボトルが沢山積んであった。

「何ですか……これ」

「うちの夢。 美味しいお水製造器や。 ……そうやな。 今日はちょっとマグネシウムを多めにしてみるわ」

吹き出す真由美の前で、淳子さんはやたらとたくさんあるダイヤルの一つを少し回す。グオングオン恐ろしげな音がして、レンジみたいにチーンとか分かりやすい完成音。側にセットされている紙コップを取り、蛇口をひねると、冷たい澄んだ水がでてきた。

「ほれ、飲んでみ」

「……」

美味しかった。冷えていると言うだけではなく、何というか切れ味鋭く、だけど後味柔らかく、ほんのり甘い。水道水などとは比較にもならない。いわゆる市販品の名水よりもずっと美味しい。

何だかこの人みたいな不思議な味だなと、真由美は思った。

工場から恰幅の良いおじさんが歩いてくる。剽軽そうな、少し太めの、機械油まみれの人だ。

「おお、淳子、帰ったか。 今日は母さんがカツカレーにする言うてたで」

「それは嬉しいわ。 で、お父ちゃん、納期は大丈夫なん? こんな所で油売っててええんの?」

「大丈夫や。 それに、大事な娘が帰って来たのを迎えんで、オヤジ言えるかい。 ……て、その傷どないした! 何があったんや!?」

「ちょっと外で転んだだけやて、大丈夫や。 多分一週間くらいで跡も残らず綺麗になるわ」

「そ、そうか。 それならいいんやけど……嫁入り前の大事な体や、きいつけるんやで」

側にいる真由美が目に入らない様子で、おじさんは淳子さんに質問攻めをしていた。こんなに娘を心配しているお父さんを、真由美は初めて見た。そして自然に愛情を返す、淳子さんの優しい目にも気付く。

それからやっと自己紹介し合う。真由美がぺこりと頭を下げると、おじさんは照れて頭を掻きながら、青山啓太だと名乗った。暫く歓談してから、真由美は帰ることにした。邪魔したら悪い。

素敵な親子だ。そして真由美は知った。今更ながらに気付いた。狂気を内に宿したまま、あんな素敵な家族のままいられるのだと。努力が必要なのは間違いないし、努力が報われる保証もない。サイレントキラーさんの目がそれを照明している。

だけど、可能性はあるのだ。

真由美は希望を見た。今まで戦いの道に踏み込めば、狂気に飲み込まれて帰って来られないとばかり思っていた。それが気鬱の原因であった。しかし違うのだ。

零香先生の家は、あんなに温かい家族であったではないか。淳子さんはあんなに素敵な親子関係を築いているではないか。あの赤尾さんだって、お姉さんと妹と、仲良く生活しているというではないか。

狂気と正気は共存できる。努力次第で、戦いの世界に生きながら、平和にも生きられるのだ。

今日は色々なことがあった。辛いこともたくさんあった。命も背負ったし、形見も貰った。だが最後に、大きな大きな希望を得た。

真由美の足取りは少し軽かった。ずっと悩んでいたことに、ようやく光明が見え始めていた。

 

                             (続)