学校の暗闇

 

序、都市伝説の担い手

 

学校という場所は、都市伝説の発生拠点である。誰もが知っている場所でありながら、誰もが知らない側面を持ち、噂が集積されては拡散される。更に学校に集まるのは、噂が大好きな子供達である。しかもその地区の子供達のほぼ全てが集まるのだ。それらの条件が重なった結果、いわば噂の絶好の生産工場となるのが学校だ。

学校から発生した都市伝説は或いは喜劇的であり悲劇的であり、または冗談では済まない事態を引き起こしたことも少なくない。

社会的な騒ぎを引き起こし有名になったものといえば、一例には口裂け女が挙げられる。実は田舎での牛の刻参り帰りの女性を目撃したという話が、尾ひれはひれついて全国に広がったというのが現在の定説だが、これも当時の子供達の間では真の恐怖とともに語られたのである。そして伝説は一端恐怖という味付けがつくと、際限なく暴走する。口裂け女は後期になれば成る程色々な性格が付け足され、化け物としての能力は際限なく上昇していった。そして噂が収束すると、誰にも見向きもされなくなったのである。

他にもこの手の学校を起点に広がったうわさ話と言えば、人面犬やメリーさん、三本足のリカちゃん等々、数限りなくあげることが出来る。また、社会そのものを示すような事例も少なくないため、研究書も大量に出ている。

その中に、トイレの花子さん、と呼ばれるものがある。

これは、最も日本で有名な都市伝説の一つであろう。知らない人間の方が恐らくは少ない。実は二十世紀半ば頃には原型が成立していたとされる非常に古い代物である。バックボーンになる話もかなり多岐に渡っていて、「花子さん」の名前もさまざまだ。傾向は大体決まっていて、女子トイレに出現する悪霊であり、呼び出し方は場所によって千差万別だ。姿もさまざまで、有害か無害かも場所によって全く違う。単にノックに対して返事をするだけの可愛らしいものがいる一方、悪質なものになると呼び出した人間が殺されることも少なくない。複数の存在がセットになっていることもあり、実在しそうな少女の名前が付いている場所もある。

ただ、伝説はあくまで伝説。実際にそれを見た人間がいるかといわれれば、殆ど絶無だろう。だいたい伝説が全て真実なら、日本中のあらゆる学校に人間を殺しかねない悪霊が住み着いていることになる。殆どの場合、この手の都市伝説はあくまで噂である。

ただ、無から生じる伝説はない。噂には、必ず起点というものがあるのだ。

口裂け女の伝説に関しては、牛の刻参りの女性がそうであった。トイレの花子さんの場合にも、勿論それはある。場所によっては自殺した小学生の噂が起点になっていたりするし、或いはトイレに対する畏怖そのものが、噂に説得力を与えている場合も少なくない。小学校などでは、男子の和式トイレは使っては行けないなどと言う不文律がある所も珍しくないが、それもその一つの形である。トイレに対する畏怖は現在も健在であり、花子さんに限らず、トイレを出現場所にする学校の妖怪は珍しくない。その殆どが恐るべき性質を備えているのだ。全部がそうではないが、これらの多く、噂に説得力を与えているものは、トイレに対する畏怖である。

元々学校は、墓地を潰して立てることが多い。土地を確保するには安い場所を漁るしかなく、それには元墓地というのは最適なのだ。同じ理屈で、高速道路も元墓地の上に造られることが多い。よくしたもので、高速道路も都市伝説の宝庫だ。

最初、S県のある公立小学校で囁かれる花子さんの噂に関しても、皆がそう考えていた。四十年の歴史ある学校で、現在生徒数は六学年で四百五十ほど。最盛期には二千を超えたこともある。一回校舎は取り壊されて立て直され、その過程で多くの都市伝説が作られた。学校の七不思議などと言うが、この学校に勤めた先生達は皆知っている。七不思議どころか、主要なものだけで二十を越すという事実を。それが故に子供達もうわさ話に退屈せず、学校の卒業生達はみな豊富なレパートリーを同僚や子供達に披露することが出来たものである。豊富な噂の中には花子さんも当然含まれていた。

生徒から噂が流れてくると、大人の教師達は皆子供の頃にはどういう噂があったと笑い合ったし、怖がって泣く女子生徒をなだめて一緒にトイレに行っただの、トイレに悪戯しようとする男子生徒をしかりつけただの、思い出話に花を咲かせたのだ。

だが、彼らの笑顔が凍り付く事態が生じた。

本当に死人が出たのである。

彼女は二目と見られない無惨な死に方をして、警察も変死で片づけざるを得なかった。学校は騒ぎが広がる前に、つてを頼って、さまざまな調査を行うことにした。そして死者が増えた。能力者が何かの返り討ちに会い、最初の少女と同じような無惨な死に方をしたのである。警察はお手上げ状態であり、他の能力者は現場写真を見るだけで腰を抜かして皆依頼を断った。誰も事件解決を引き受けてくれず、学校側は対処に困り果てることとなった。

そうして、赤尾利津に、話が回ることになったのである。百戦錬磨と言っても、彼女にとっては不幸な戦いの始まりであった。何しろ、考え得る限り、もっとも悪い条件で、もっとも質が悪い相手と交戦することになったのだから。

後々、彼女がその時のことを聞かれても、答えたくないと言下に拒絶したことでも分かる。赤尾利津、人生最悪の戦いが、この時始まった。

 

1,南アルプスの小さな強者

 

綺麗な海を左手に、電車が走る。新宿と名古屋を結ぶ東海道線だ。窓から見える美しい海に視線を固定したまま、混んでもいない電車の中で、高円寺真由美は一人嘆息していた。

強くなるには、まず基礎的な能力向上。それと兎に角最初は経験を積むことだと、真由美が心を許し切れていないあの人、銀月零香先生は言った。真由美は正直不服であったが、我慢して言われるまま修練を重ねた。零香に連れられて彼方此方に赴き、体を鍛練するのと併せて強弱さまざまな相手と交戦した。正確には、交戦を手伝った。攻撃手段を持たない真由美には、相手を倒すという行為が極めて難しかったからである。

その過程で、嫌でも経験は跳ね上がった。嫌でも実力は付いてきた。相手になったのは、主に低レベルの実体化まがつ神や、悪霊だった。そして知った。戦いとは殺し合いであると言うことを。情け容赦のないあの人の攻撃は、何度も夢に見るほど恐ろしかった。断末魔の叫び声を、この一月で一体何回聞いたことか。何回布団から跳ね起きたことか。夜中に何回シャワーを浴びなおしたことか。

世間では、夏休みだ。まだ十日ほど残っている。新しい高校はあの人のと同じに決まっている。妙な話で、あの人がたった二歳年上なだけだとは、真由美には信じられなかった。

高校の制服は可愛かったのだが、二学年隔ててあの人が通っていると思うと少し肌寒いものがあった。そしてあの人から、今日は指示を受けて、今東海道線に乗っている。S県北部、いわゆる南アルプスへ向かって。其処にあの人の旧友がいるという。その人の所で手伝うのが、今回の修行であった。

戦闘マスターである師の友人。どんなごつい戦士なんだろうとか思っていたら、ちっちゃい女の子だという。それでいて年は上だとか言うので、一瞬意味が分からなかった。写真を見せて貰って漸く理解できた。世も末だと思った。

写真中央に写っているのは、ごてごてとゴスロリファッションを着せられて、機嫌悪そうにぷうと頬を膨らませている女の子であった。顔立ちはかなり整っていて、実に可愛い。チョコレート色の肌も健康的で、ツインテールに結んでいる髪の毛もかなり綺麗だ。周囲にはブイサインをしていたり女の子を後ろから抱きしめたりしている大人っぽいお姉さん達が五人ほど写っていた。みんな大学の同級生だという。真ん中に写っている、小さな女の子の、である。

この写真の女の子は赤尾利津。現役の大学一年生であり、S大学の芸術学科に通っているのだそうだ。あの人の親友の中では唯一人、年が一個上。童顔と低身長のせいで年齢よりかなり幼く見える真由美だが、それでもこの写真の中の相手はちょっと度が外れている。ちなみに、小さいとか可愛いとかいうのは、利津に対しては禁句だという。消し炭にされるぞとかあの人は笑いながら言っていた。笑っていたのは口元だけだった。取り合えず、今回はこの人の所で、力の使い方を修練してくるのが目的だ。声を出しての呼び方はあの人同様先生をつける。ただ、頭の中では、親しみを込めて赤尾さんと呼ぶことに決めている。

何度か乗り換えて到着した甲府駅。此処からは、更に複雑な乗り換えがある。高山鉄道に乗り込み、幾つかの駅を経て目的の駅に着いた頃には、すっかり陽が落ちていた。此処からはタクシーだ。真由美は近接戦闘強化タイプの能力者ではないから、身体能力は一般人よりはましとはいえ、どうと言うこともないし、こういった文明の利器は有り難い限りである。Y県からS県に入った頃には、もう夜であった。タクシー代も結構高額であるが、旅費に関してはあの人が負担してくれた。

星が瞬く頃に、どうにか目的地に到着。タクシーを降りると、思わず感嘆の声が漏れていた。まるで宝石を黒絨毯にぶちまけたような、北海道に勝るとも劣らない美しい夜景だ。気候も涼しくて、肌に優しい。しかしながら、実戦用の道具を色々持ってきたために、リュックが重い。早く相手の家にたどり着きたい。普段着のスカートではなく、動きやすいジーンズに半袖シャツで着たのは、戦闘を最初から想定してのことだ。自分で決めたこととは言え、観光を楽しむ余裕が一切無いのは、少しばかり寂しい。

山歩きには慣れているから、夜闇に恐怖心はない。しかしながら電灯は非常にまばらで、道も狭く曲がりくねっていた。これだと何処に変質者が潜んでいてもおかしくない。もし襲われてもどうにか撃退できる自信はある。あるにはあるが、良い気分はしないし、やっぱり怖いのは事実。何というか、山よりも下手な田舎の方が怖い。東京にも多くあるコンビニが見えたときには、心底ほっとした。

二十四時間営業ではないコンビニに入って、明かりの下で渡された地図を確認。改めて位置関係を調べてみるが、やっぱりである。流石に頭が痛かった。かなり山奥の村だというのに、赤尾さんが住んでいるというログハウスは、更に山奥だ。

周囲には人家もほとんど無く、道すら怪しげで、かろうじて電気が通っているかいないかという状況。場所によっては自家用発電機を使っているという零香の言葉が本当なのだと、深淵の暗闇にある山を見ると実感できる。合流地点はまだ先であるし、決意して進む必要があった。コンビニを出るとき、やる気の無さそうな店員が、ずっと真由美の尻を見ていた。

歩く歩く、山を歩く。夜闇の山を歩く。足を速めたのは、間違いなくあの店員の嫌らしい視線であった。暗いし怖いけど、死んでいったコロポックル達の事を考えればなんでもない。強くなろうという決意を思い出せば何でもない。流石にこれだけ歩くと汗も掻く。セミロングの髪を掻き上げると、唇を噛んで、もう一踏ん張りだと自分に言い聞かせた。もうすぐで民宿があるはず。合流先は其処だ。生い茂る木々の植生も北海道とは大分違う。些細なことだが、それも少しストレスになっていた。

ようやく民宿に着いた頃、腕時計は夜中の十二時を指していた。

民宿と言うだけあり、ホテルと言うよりは殆ど民家に等しい代物だった。一時期はやった「ニューファミリー系」というタイプの宿で失敗し、通常の民宿に切り替えたのだという。二階建てで、多分屋根は紅い。敷地面積は七十坪ほどだろう。都会の家に比べると、かなりつくりが大きい。ただ、雰囲気はとても優しくて、真由美は少しだけ安心した。

チャイムを押すと、まるまると太ってエプロンをした、パーマを掛けた優しそうなおばさんが出迎えてくれた。宿の中に入ってみると、本当にまるっきり民家だ。部屋のつくりは広く取ってあり、その気になれば十人くらいは宿泊できそうであったが、今は先客が一人だけだった。その先客はダイニングの長机の奥に座って、日本語版のニューズウィークを広げている。その人の顔を見て、ようやく真由美は一安心することが出来た。

長机にはハムトーストが並べられていて、実に美味しそうである。おばさんはごゆっくりというと、すぐにダイニングを後にした。少し緊張して、先客の向かいに座る。稼ぎ時にこれしか客がいなくて、どうやって食べているのか少し心配になったが、先読みしたように先客が言った。

「私の客の宿泊の他にも、周辺の畑を耕して、収穫物を売ってお金にしているんですわ」

「そう、なんですか」

「高円寺真由美さんですわね?」

妙ちくりんなお嬢言葉を使うとは聞いていたが、どう考えても年齢を詐称していそうな容姿からその言葉が出てくると、頬が緩みそうになる。はいと応えると、憂鬱そうに頭を掻きながら、その人は言った。同情がその目に浮かんでいる。

「私が赤尾利津ですわ。 零香さんたら、かなり厳しかったでしょう。 あの人は昔っからああでしたわ」

立ち上がると、手を伸ばしてくるので、握手した。そうすると、背の低さが良く分かる。百四十pそこそこしかないだろう。平均よりも小柄な真由美よりも、さらに十センチ近く小さい。ツインテールに結んだ髪の毛が、幼さを更に助長してしまっている。肌は写真で見たとおりチョコレート色で、大きな目がとても愛らしい。手足はとても短く、そして太い。大型肉食獣の子供のようだ。ハーフズボンにスポーツ用のトレーナーが、良い意味での健康さを後押ししている。たまにいるのである。子供の頃から悪い意味でも良い意味でも殆ど容姿が変わらない人が。

「疲れたでしょう。 疲労回復には食事が最適ですわ」

「ありがとうございます」

優しい人だなと、真由美は思った。それに妙な語尾を除けば、とても言動がしっかりしている。話していると、大地に根ざした安心感がある。

ハムトーストはとても美味しかった。エネルギー消費がとても大きいのか、赤尾さんはむしゃむしゃとトーストを旺盛に平らげ、真由美は母性本能をかなり強烈に刺激され通しであった。赤尾さんは自分の分のトーストを平らげると、冷蔵庫からカルピスを出してきてくれた。礼を言いながら美味しくいただく。牛乳に入れてあるらしいのだが、配分が絶妙で、本当に美味しい。一通り食事を終えると、赤尾さんは紅葉みたいな手を机の下に伸ばして、書類を取り出す。

「高円寺真由美さん。 アイヌ名はピリカさん。 拠点防衛型の能力者で、実戦経験は十回以下。 得意技は防御結界と回復術。 以上でよろしいですの?」

「はい」

「素直でよろしい。 んー、他にも色々書かれていますが、それは後回しにして。 決定的な攻撃手段はまだ持っていらっしゃらないんですの?」

「はい。 その……今までは、必要ありませんでしたから」

いちおう、攻撃手段は教えて貰うはずだった。お婆ちゃんは薙刀の使い手で、それを教わる予定だったのだ。ただし、教わる前に事件が起こって、東京に来ることになってしまった。自習はしていたが、実戦で使えるレベルではない。

赤尾さんは腕組みして小首をひねった。あの人の話によると、この赤尾さんという人は戦略爆撃機に近い戦闘スタイルを取る人で、能力者としては広域爆撃殲滅型というとんでもなく物騒なタイプに分類されるのだという。攻撃能力はあの人を遙かに凌ぐとか。この可愛い動作の数々を見る限りでは、とてもそうは思えないのだが。だがしかし、その体を覆う焼け付くような凄まじい力は、真由美にも感じ取れる。単純な力の量では、あの人を遙かに凌ぐ水準だろう。

暫くは色々質問された。戦闘時の切り替えは上手くいっているのか、戦略は考えているか、戦術はどんなものを間近に見てきたのか。殆ど応えられないのが悲しい。赤尾さんは頭を掻きながら、最初はそんなものだと言って、優しく真由美の頭を撫で撫でした。不可思議な気分である。

「誰だって最初はそうですわ。 私だって零香さんだって、最初の頃は未熟な戦略の元で拙劣な戦術を行使して、見ていられなかったんですから」

「最初の、ころ?」

「そう、能力に目覚めたての頃。 まあ、どっちにしても、貴方には攻撃手段の確保が急務のようですわね」

何か釈然としないものを感じたが、赤尾さんは全く様子を変えず、カルピスのコップを両手で掴んで飲んでいた。何というか、ナプキンで口の周りを拭いてあげたい衝動に駆られるが、我慢する。

赤尾さんはあと二言三言話すと帰っていった。話によると、彼女の家は狭くて、真由美を泊めるスペースがないのだという。家庭的な広くも狭くもないお風呂に入って埃を流し、パジャマに着替える。このパジャマまで実戦を考慮して動きやすい作りになっているのが少し悲しい。セミロングの髪にドライヤーをかけているときだけが、僅かなくつろぎの時間だ。おばさんに二階に案内されると、和室に布団が引いてあった。お日様を吸ってふかふかだ。

やっぱり疲れは溜まっていた。電気を消して布団に潜り込むと、強烈な睡魔がすぐに真由美を眠りの世界へ引きずり込んでいった。

 

習慣というのは恐ろしいものだ。どんなに疲れていても、朝六時には目が覚めるようになってしまった。目が覚めた真由美は、おばさんに断って外に出る。朝露に濡れた高原が何処までも広がる美しい南アルプスが、其処には広がっていた。優しい朝日を、手で遮るのがもったいない。

携帯を開くと、現状報告を求めるメールが数分前に入っていた。そういえばあの人は、真由美が起きてくる頃には何時の日も、あの人類か微妙に疑問な父上林蔵さんと凄まじい組み手をしていた。林蔵さんを見たとき、あの人がどうして強いのかの疑問に答えを得て、なおかつ納得したのをよく覚えている。多分今頃、朝の組み手を終えてランニングでもしているのだろう。

返信してからポッケに携帯を放り込むと、朝練開始。ラジオ体操の後、軽くジョギングして、体をほぐす。朝の空気を肺に一杯吸い込むだけで、力が湧いてくるようだ。竹林の中の、あの人の家も、空気はとても良かった。だが此処の空気はそれよりもずっと優しく心地がよい。

地図で見た、赤尾さんの家の方は霧が掛かっていて、ぼんやりとしか見えない。一通りメニューをこなした後、赤尾さんからメールが来た。これから来るそうだ。そして携帯を閉じるか閉じないか、という時であった。

空から赤尾さんが降ってきた。吃驚した真由美は思わず尻餅をついてしまう。

「ひゃあっ!」

「なーにを驚いているんですの? 私が広域爆撃殲滅型の能力者だって、零香さんにきいているんでしょう?」

「は、はい、でも」

「ならば空くらい飛べるって判断できるでしょうに。 これは鍛えるのが少し骨折れそうですわ」

危なげなく着地した赤尾さんは、スポーツジム帰りのような格好だった。ハンドタオルを手に、ハーフパンツにトレーニングシャツ。健康的に焼けた手足には、これまた健康的な汗が光っている。そしてやっぱり、頭はツインテール。

思わずはっとする。この赤尾さん、顔はやたらと幼いのに、子供らしい表情の変動がない。動作は子供っぽいのだが、表情は嫌に大人びているのだ。ネガティブな意味では子供らしい表情も浮かぶようだが、少なくともポジティブな面ではない。その辺の妙なギャップに、今更ながら気付く。

多分子供らしいにぱっとした笑顔なんて、絶対浮かべないんだろうなと思った。汗を拭いていた赤尾さんは、真由美に着いてくるよう促した。この人も、歩いていて分かるが、動作にいちいち隙がない。ただ、あの人ほどの圧迫感を感じないのは、多分近接戦闘強化型の能力者ではないからなのだろう。

顔をタオルで拭き拭き、赤尾さんは歩く。自宅だという方でもないし、民宿の方でもない。霧の中、森の中を急ぎ足で行く。赤尾さんを見失ったら遭難しかねないから、結構気が気ではなかった。

森が不意に途切れる。代わりに、霧がぐっと濃くなった。行き着いた先にあったのは、何故か周囲に厳重に注連縄が張り巡らされた物置だった。物凄く嫌な予感がする。能力者である真由美は霊の姿を視認することが出来るが、物置の周囲にはちょっと見でも洒落にならない悪霊がうようよしているではないか。

「ほら、早く」

「は、はい」

注連縄を潜って物置の前に立つ。一般家庭用の奴よりも少し大きい。横に回り込んでみると、どうやらメーカー品の一般家屋用を改造して、二つ分の素材をくっつけているらしい。屋根はかなり大きめに取ってあるのだが、その下には重ねて釘を打ったことが丸わかりの二つ屋根と、壁の接合部分が隙間となってありありと見えていた。ペンキを塗ってごまかしているのだが、それでも隠し切れていない。朝だというのに、霧のせいで夕方程度の照度しかない森の中であるし、それは不気味さを助長するのに充分だった。

物置脇にある発電機のオイル残量を確認した後、赤尾さんが全身で紐を引っ張る。自動車のエンジンに似た稼働音が辺りに響く。音に驚いて鳥が何羽か飛び去っていった。物置の中にある電灯がついたのが、閉じている戸の隙間から漏れる明かりで分かる。戸には大げさな南京錠がついていたが、鍵も入れていないのに、赤尾さんが軽くひねるだけで外れた。頭の上にクエスチョンマークを複数浮かべる真由美。此処に来てから、あの人と話すときのような圧迫感は感じないが、不思議な感触を覚えてばかりだ。

少なくとも、この時まではそうだった。

物置の戸が開く。中に一杯陳列されていたものの正体を、最初真由美は理解出来なかった。

「さて、真由美さんには、どれが適当でしょうね」

赤尾さんは既に見繕い始めている。物置の入り口で硬直している真由美は完全に事態の展開からおいてけぼりを喰っていた。

「これなんか良いかも知れませんね。 話によると、おばあさまに薙刀を教わる予定だったそうでしたわね」

ごとりと、凄い音を立てて、それが壁から離れた。ベルトと床の留め金で固定されていたそれは、戦国時代などを舞台にした漫画とかで武者が振り回しているような、大薙刀だった。一振りで首が吹っ飛びそうな肉厚の刃に、太くて長い柄。多分軽く十キロはあるだろう。赤尾さんは、軽々とそれを振り回している。武器の心得があるようには見えないのだが、それでも冷や汗が背中を伝うのを、真由美は感じていた。

物置の中は、武器の展示場だった。薙刀だけでも数点。刀、槍、弓、斧。日本刀も長いのから短いのまで十数点は軽く陳列されている。

体が真っ二つにされそうな大鉞(まさかり)や、刃渡りが八十pはありそうな巨大な鉈。槍も刃先が炎のように波打っていたり何個も刃がついていたり、恐ろしい代物ばかりだった。西洋剣もある。奥にある巨大な鋸についている血が何の血なのか、考えたくない。つるされているモーニングスターにこびりついている肉塊は、一体何の肉なのだろうか。考えてはいけないと、必死に頭を横に振る。

膝が笑う。あんな戦いを間近で見たばかりだというのに、恐ろしくて、立っているのがやっとだった。しかも更に怖いのは、どの武器にも明らかに力が加わっていると言うことだ。日本刀には例外なく強烈な悪霊が十体単位で憑いていたし、一見真新しい槍や斧にも、血の跡が散見できた。物置の中は、クーラーを何台も稼働させているかのように寒い。

「な、なな、なんですか、ここ……」

「何って……私が引き取った、力や負の思念のこもった武具の保管庫ですわ。 昔は力のこもった道具を作って売るだけで商売していたんですけれど、お客様がそのうち手に負えない道具を引き取ってくれって言うようになり始めて。 他の人が作ったり戦場で振り回しているうちに自然に出来たりした力のある道具を、まとめて引き取って管理するようになりましたの。 まあ、お金も土地も有り余ってますし、問題はありませんわ」

さらりという赤尾さん。力のある道具を作って売る、というのを家族ぐるみでやって生計を立てているとは聞いてはいたが。表情は大人びているけど可愛い女の人、というイメージが、この武器の山を見ることで、がらがらと崩れるのを、真由美は感じていた。

「ちなみに、仏像神像系は別の物置。 そっちはちょっと危ないので、今の真由美さんを連れて行くわけには行きませんことよ。 その他の奴はちょっと数が多くなってきたので、害がないように私が手を加えてから、売り直すようにしていますわ」

「あ、あうあう……」

「さ、何がお気に入りですの? 貴方の実力なら、此処にある道具くらい持った所で「喰われる」ことは無いでしょう」

赤尾さんの言葉の意味を悟って、真由美は目の前が暗くなるのを感じた。これを使って、戦えと言うのか。

確かに戦いには来た。戦う術を覚えに来た。しかしこれは、いきなり露骨すぎた。抗議しようにも、相手の方が正しいのは分かる。だけれども、すぐに頭を納得させるのは難しい。じりじり下がっているうちに、すっころんで尻餅をついてしまった。気が付くと、至近から顔を覗き込まれていた。半眼のまま、赤尾さんは言った。

「やっぱり。 こんな反応をするんじゃないかと思いましたわ」

「ご、ごめんなさい……」

「貴方、元々持っている勇気は悪くないし、才能もある。 でも、まだ所詮は原石。 現時点で足りないものは幾つもありますけれど、まず一番最初に足りないのは、自分の手で凶器を扱っているという自覚ですわ」

赤尾さんはいつの間にか薙刀を戻していて、代わりに脇差しを手にしていた。鯉口を切り、ずらりと刃を抜き放つ。刀に取り付いている無数の怨霊が、軋みにも似たうめき声を上げた。不安定な裸電球の光を反射して、血に飢えた刃が存在感を見せつける。赤尾さんは、刃の先を、真由美に向けた。

「守りと回復に特化した力といえど、それは敵から見れば何よりも恐ろしい凶器。 そして此処に学びに来たのは、敵を直接的に傷付ける力でしょう? 何かを守ると言うことは、守るために脅威を排除するという意味ですわ。 そして排除される側も何かしらの正義を持っているなんて当たり前のこと。 場合によっては、視点が変われば状況がまるっきり逆転することだってあるのですわよ。 多分、ぴんとは来ないでしょうけれど」

赤尾さんは刃を鞘に戻すと、押しつけるようにして、脇差を真由美に持たせた。

「暫くは、これを持ち歩いて貰いますわ。 まずは武器の重さになれること。 相手を殺せる刃に慣れること。 そうしていけば、力の重さにも慣れて、自然と能力を使いこなせるようになっていきますわ。 そして自分と等質の正義を持って向かってくる相手を、容赦なく斬ることが出来るようにも、いずれなりますわよ」

攻撃力に関しては、あの人、銀月零香先生の友人達の中で随一。火力の申し子、赤尾利津。赤尾さんを恐ろしいと真由美が認識したのは、この時が始めてであった。

 

2,彼岸の狭間にて

 

民宿に真由美が泊まり始めてから、三日が過ぎた。

朝は六時に起床。パジャマを脱いで、ジーンズに足を通し、何着か持ってきた外歩き用のシャツの袖に腕を通す。歯を磨いて顔を洗って、近くの牧場で取れた美味しいミルクを飲んで、ふっくら焼けた手作りのパンにマーガリンを塗って食べる。瑞々しい山菜をサラダで頬張り、目が覚めた所で着替えて外に出る。ベルトをしているのは、貰った脇差しをぶら下げているからだ。普通の人が触ると色々な意味で危ないので、脇差しの鞘には何重にも利津先生手製の札を巻いている。外はいい天気だった。山にいつものように掛かっている霧が美しい。

そのままの服装で戦えるようになって貰う。零香先生のその言葉を思い出す。戦闘には汎用性が重要で、着替えないと戦えないようではいざというときに困るというのだ。確かにそれは一理ある。一通り体を動かし終わった頃に、欠伸しながら赤尾さんが来る。此処から、本格的な修練開始だ。

人気のない林に赴いてから、周囲を慎重に見回って、誰もいないことを確認。そして、脇差を抜く。同時に、辺りから大量の悪霊が群がってきた。昨日、一昨日と、散々構えから動きから叩き込まれた。赤尾さんは殆ど近接戦闘が出来ないと言う話だったが、なかなかどうして、的確な指導だった。力のかけ方も刀の振り方もとりあえずは覚えることが出来た。以前自習していた薙刀の訓練が役に立ったこともあるだろう。脇差しを振り回す分には問題ない。振り回す分には。

頭が半分潰れている落ち武者の悪霊が、うめき声を上げながら掴みかかってきた。兜はなく、鎧も粗末だから、多分足軽だろう。ゆっくりした動きだが、周囲には三十を超す悪霊がいるし、油断できない。ごめんなさいと謝りながら、拝み撃ちに切り下げる。殆ど抵抗無く抜けた刃。溶けるように崩れていく足軽だが、更に何体かが同時に前後左右から掴みかかってくる。サンドイッチを片手に、赤尾さんは静かに見ていた。

「こ、このっ! このおっ!」

振り回すたびに、腐った肉片をまき散らしながら、霊が崩れていく。切り口が浅いと、血をしぶかせながら、そのまままだまだ動いて襲いかかってくる。実体はないはずなのに、吐き気が止まらなかった。足首を掴まれ、刺すような痛みが走る。転んでしまう。大量の悪霊が覆い被さってきた。両腕を押さえつけられ、首筋にかぶりつかれそうになった瞬間、目の前が真っ赤に染まった。熱い。全身が焼けるようだった。巨大な力が、生のままの力が、辺りを蹂躙しているのだと分かった頃、力は唐突に消えた。

「ま、最初はこんなものですわ」

焦げ臭くなった林の中で、赤尾さんが真由美を見下ろしていた。仰向けに転がっていた真由美は、ついに吐き気をこらえきれなくなり、草むらにそのまま戻してしまった。折角のミルクと美味しいパンだったのに、台無しだ。沸き上がってくる吐き気。握りしめたままの脇差が、嫌に熱い。

辺りの草の中には、焦げているものもあった。赤尾さんはのほほんとしたものであったが、彼女の体から放出された力の量を考えると、もう一つ寒気がする。立ち上がれず、肩で息をつくばかりの真由美に、近くの石に腰掛け頬杖をつきながら赤尾さんは言う。

「んー、凄い力だとか、思ってますの?」

「……はい」

「おあいにくですけれど、私が優れているのは力の量、のみですわ。 力の制御や戦術等々は、零香さんを始めとする友達の誰にも及びませんもの。 今のも、辺りの悪霊に私の力をぶつけただけで、術とか技とか言えるような代物ではありませんわ」

どうしてこんな事をいうのだろうと、真由美は思った。ハンカチで口の周りを丁寧に拭き、どうにか立ち上がることには成功したが、疑念は残る。少し考えてみて、納得がいった。まだまだひよっこの真由美程度に弱みを握られた所で痛くも痒くもないし、大体そんな弱みが露呈するような戦いをするつもりもないのであろう。そう真由美は推察した。

「少し休みます?」

「いいえ、頑張ります!」

時間は待ってくれない。今まで浪費してきた時間のことを思うと、悔しさに歯がみしてしまう。

赤尾さんは三つ目のサンドイッチを口に運んでいた。辺りからは殆ど無尽蔵に、うめき声を上げながら悪霊が寄ってくる。手応えはないが、斬ると露骨に悲鳴が上がるし、実体はないが血もしぶく。金切り声は鼓膜を振るわせるし、掴まれれば感覚だって残る。こんな程度で参っていたら、実戦では何も出来なくなってしまう。

真由美は現代日本に育ったが、それでも赤尾さんの言葉が正しいというのは肌で感じる。少なくとも、あの戦いを経験した上に、あの人の圧倒的な戦闘能力を目の当たりにした後である現在は。

戦いはどう美化しても殺し合いであり、つぶし合いなのだ。ただ、やはりあの人の言葉に対する反発は強い。反発が強いと言うよりも、頭が納得しない。全部いいなりになるのが癪だというのもあるし、何処かで別の方法がないかと、考えてしまう。

「いいですの、同時に複数を相手にしないように。 背中にも目を付ける気分で、周囲を丁寧に伺いながら戦うのですわ」

「はいっ!」

応えながら、後ろに回り込もうとしていた足軽の悪霊を切り伏せる。袈裟懸けにぶった斬った相手は、膝から崩れ、地面に染みこんでいった。頭が取れたまま、揺れながら歩いてくる一体が目にはいる。まだ幼い女の子ではないか。思わず動きが止まってしまう。それが二度目の致命的な失敗となった。一斉に覆い被さられ、掴みかかられる。眼球がこぼれ落ちている生首が、至近でけたけた笑っていた。気が狂いそうだった。

一人だけで戦っていたのなら、七回死んだ頃、やっと赤尾さんが言った。

「一休みします?」

「はい」

「大丈夫。 あの零香さんだって、最初は小動物を殺す所から、戦いに慣れていったそうですのよ。 まずは手応えの薄い相手から倒せるようになっていって、最終的には相手が人間でも容赦なく殺れるようになるのが理想ですわ」

「……っ」

息をのんでしまう。やっぱり、怖い。

確か猟奇殺人鬼の多くも、動物を最初は解剖して、最終的には人間へと言う経路を辿るそうではないか。本当に、戦いを選ぶと言うことは、狂気と紙一重なのだ。

あの人は、零香先生は、悔しいが理性的だ。あの凄まじいまでに先を読み合った戦闘を見る限り、それは事実だ。多分自分を律するという点では、その辺の一般人では勝負にもならないだろう。だが誰よりも狂っている。そして赤尾さんを見る限り、戦いに対するプロに近づけば近づくほど、それは誰も同じなのだ。真由美はそう思った。

じっと手を見る。手が血に染まる日も近い気がする。しかし戦うという道を選んだ以上、それは避けられないことなのだと、頭は理解出来なくとも、体は理解出来始めていた。

昼は民宿で食べたはずなのだが、何を食べたのか全然記憶にない。気付くと真由美は赤尾さんに連れられて、別の森の中に来ていた。そして、とんでもないものと相対していた。

それは球形の固まりであった。直径は二メートルほどで、薄紫をしており、体の各所には苦悶を浮かべた顔が浮かんでいる。三十以上の悪霊が統一意志の元融合した、レギオン体と言われるものであった。力に覚醒してから幽霊を見ることが出来るようになった真由美であったが、此処まででかくて恐ろしい奴は始めて見る。此奴だけではなく、地面から沸き上がるようにして、無数の悪霊が浮かび上がってくる。

膝が笑う。当たり前だ。此奴が湧き起こす恐怖の質は桁が違っている。

「あ、あの、あのあのあの! 赤尾先生っ!」

「何ですの?」

「こ、ここここここ、これと戦うんですかっ!?」

「貴方の保有する力の分量と、その肥前守の性能なら、問題ないはずですわ。 冷静に戦えば、ですけれど」

どうやらこの脇差、肥前守という銘があるらしい。しかし、真由美にはそんなことに気を回している余裕がない。

呻きながら蠕動を繰り返しているレギオン体は、とっくの昔に真由美に気付いている。手を出してこないのは、すぐ後ろに赤尾さんが控えているからだ。そうでなければ、すぐにでも襲いかかってきていたはずだ。

「戦いにおいて重要なのは、まずは恐怖心の制御。 人間にとって恐怖は生存に重要な感情ですけれども、意図的にコントロールできなければ戦いに邪魔なだけですわ。 だから実戦を積んで、その内にコントロール方法を覚えて貰いますからね」

「そ、そんなの、し、知りませんっ! わ、わ、わかる訳ありませんっ!」

「ならば一生弱いままですわ。 必ずしも弱いことが悪いことではありませんけど、弱いと言うことは強者の横暴に為す術がないことも意味していますわ。 それをよかれとしないからこそ、此処に来ているんじゃありませんの?」

痛い所を疲れた真由美は、口を必死に引き結んで、レギオン体を睨み付けた。笑い続ける膝は止まってくれない。

「はっきり言っておきますけれど、貴方が見たというジェロウルという男、そんな程度の悪霊では束になってもかなわないほどの相手ですわよ。 その鬼神がごとき使い手に、しゃらくさい口を利いたときの、勇気を思い出しなさいな」

「だ、だって、だってあの時は!」

「命の危険がないと何も出来ないのでは、汎用性が低すぎて、いざというときには役に立ちませんわ」

特定条件でのみ能力を発現できるタイプの能力者も存在しているが、それはあくまで例外。真由美は当然違う。だから、汎用性を考慮する必要がある。

「兎に角。 今の貴方は、どうすれば敵を倒せるかを、体で覚えるしかないのですわ」

「ううう。 怖いです」

「泣いて許してくれるのは、平和な世界にのみ生きている腑抜けくらいですわ。 さあ、相手の潰し方を体でさっさと覚える! それがならなければ、攻撃術の指南なんて、危なっかしくてとても出来ませんわ」

そう言われると辛い。今は戦いの術を身につけるしかないと言うのは真由美にも分かっているのだ。そして真由美は攻撃系の術を身につけないと、戦いでは話にならないと言うことも。

赤尾さんが数歩退くのと同時に、レギオン体が軋りながら迫ってきた。目を閉じて覚悟を決めると、奇声を上げながら大上段に脇差を構え、真由美は突貫した。

 

三日が瞬く間に過ぎた。激しい修練の中に身を置くと、時間がかっ飛んでいくように感じる。箸が重い。真由美は憂鬱な気分の中そう思った。目の前にあるサラダもバターロールもとても美味しそうなのに。

昼は食事が進まなかった。サラダは特にダメだった。掛かっている手作りらしいドレッシングがヤバい。まるでぶちまけられた臓物の中身だ。ホラー映画などもう怖くも何ともないが、露骨にそれに近いものを見せられると、食欲も失せる。

脇差は軽いとは言え連日積んできた実戦のお陰で、かなり使いこなせるようになってきた。しかし、それも手応えが薄い霊が相手だからであり、もし相手が実際の人間だったら、とてもではないが刃を突き出せないだろう。軽く攻撃術も習い始めはしたが、まだまだ発展途上で、実戦では使えそうにない。

赤尾さんはよく食べる。スポーツ系の人は学生時代に大量に食べる癖があり、結果スポーツを辞めてから太ることが多いと真由美は聞いたことがある。だが、エネルギーの吸収効率が違うのか、赤尾さんは小さいままで、おなかも出ていない。或いは、食べた分が全て力に返還されているのかも知れない。あの真由美とは桁が三つくらい違った力を見る限り、そんな印象が決して大げさなものだとは思えないのだ。

「りっちゃん、真由美さんの様子はどう?」

「素質は充分ですわ。 後は鍛え方次第で、数年後にはかなりの使い手に育ちますわね」

そんな会話があっさり飛び交っていた。このおばさんも、事情を知っていると言うことだ。分かってはいたが、分かってしまうとまた一歩知らない世界に踏み込んでしまった感が強くなる。兎さんの模様がついたフォークでもふもふ旺盛にサラダを食べる赤尾さんは、こんなにも可愛いのに。あの火力から繰り出される術は、どれほど恐ろしいのだろう。ふと真由美はそんな事を思う。綺麗な戦いなど存在するわけもないのだが、だからといって、頭と体では、まだ現状認識にずれが隠しきれない。

「ところで、りっちゃん」

「何ですの?」

「昼過ぎに、志治波羅(しじはら)さんが来るそうよ」

露骨に赤尾さんの顔色が変わる。青くなると言うよりも、むうっと膨れる感じだ。相当に苦手だが、多分お得意様なのだろう。

「遊びに来る、わけじゃあなさそうですわね」

「それは先週あったものね。 流石にあの子が幾らりっちゃんを好きでも、ああ仕事が忙しい以上、頻繁に私用では来られないでしょうしね」

「あ、あの……」

「オカルト系の荒事専門クライエントですわ。 滅多にここには来ないし、来ても大概は私から零香さんや桐さん、時には由紀さんを紹介して、仕事をして貰うことになりますけれど」

疑問を読んだように、即座に赤尾さんが答える。こういう反応はストレスが無くて良いのだが、一方で心を読み込まれているような恐怖感も時々感じる。

「嫌なら私が応接を受けておいてもいいわよ?」

「冗談。 私、これでもプロですわ」

「うふふふ、そうね。 ならば頑張って?」

赤尾さんの頭を撫で撫ですると、おばさんは奥へ引っ込んでいった。何か羨ましい。それからはしばし雑談になった。雑談と言っても、赤尾さんが真由美に色々と質問をして、それに真由美が答えるという形式であった。元々非常に奥手で引っ込み思案な真由美だが、こうもそれが露骨に出ると、少しは喋らないとという焦燥も産まれる。

最初は殆ど生まれがどうの趣味がどうのという内容だったが、そのうち北海道での出来事を詳しく聞かれた。零香の戦い方を聞く赤尾さんは真剣であり、やがてちっちゃな顎に手を当てて考え込む。

「流石は零香さん。 私だったら、同じ状況では戦いたくありませんわね」

「赤尾先生だったら、どうなさっていたんですか?」

「そうですわね。 私だったら、時間を稼ぎつつ、有利な状況へ持っていこうと考えますわ。 基本的には零香さんとは同じですけれど、開戦のタイミングがかなり異なりますでしょうね」

その先を真由美が聞くことは出来なかった。チャイムが鳴ったからである。心底嫌そうにドアへと歩いていく赤尾さん。ドアを開けると音と殆ど同時に、「むぎゅう」とか「ぎゅむう」とかそんな音が真由美の所まで届く。

「あらあああああああ。 利津ちゃんたら、わざわざ向かえに来てくれたのぉお? 嬉しいわあああ」

「ちょ、く、くるし、ですわ」

「ああんもう、ますます可愛くなって! このまま抱き潰しちゃいたいわあ」

「んー! んーんーんー!」

物凄く色っぽい大人の女性の声と、可愛がられすぎて苦しんでいる赤尾さんの声。何だか少し羨ましいと真由美が思ったのは一瞬のことである。

居間に入ってきたのは、三十少し前かと思われる色っぽいお姉さんであった。目鼻立ちはマネキンのように整い、髪は緩くカールが掛かっていて、ワンピースのスリットが大胆に取られた黒ドレスを着ている。日本人離れしたプロポーションの持ち主で、化粧は派手だが下品ではなく、美女という言葉がこれ以上もなく似合う。特に長い足は綺麗だ。身長は百七十pを越えているだろう。モデル並みの美貌だ。

右目元の泣きぼくろと言い、やたら膨らんだ胸と言い、妙にくびれた腰と言い、ちょっと色っぽすぎて逆に普通の人は寄ってこないかも知れない。手をつないでいるのは勿論赤尾さん。先生はげんなりしきった顔で、手を離してくれと無言の主張をしていたが、勿論色っぽいお姉さんは離してくれるわけもない。頬には当然のようにピンクのキスマークがあった。間違いなく、このお姉さんが、志治波羅さんだ。

そして、お姉さんの視線と、真由美の視線があった。悲劇の幕開けである。

「あらあら! あらあらあらまあ!」

「えっ……? あ、あの、な……」

「やっだああああ! 可愛い子が増えてるー!」

「ひっ……!」

蒼白になった真由美が腰を浮かすよりも、お姉さんの動きの方が遙かに速い。瞬きする間に間合いを詰められ、更にはむぎゅうと音を立てて抱きしめられた。感触からして女性なのは間違いないのだが、物凄い腕力である。ぎゅうぎゅうハグされて、窒息死しそうになった真由美。赤尾さんと同じように頬にキスマークを付けられて、やっと離して貰ったのは、たっぷり十分以上経ってからのことだった。

机に向かい合って座った志治波羅さんと、赤尾さんと真由美。真由美はあまりの事態に当然放心状態であった。

「……」

「しっかりしなさい。 もう商談は始まってますわよ」

赤尾さんが肘で真由美をつつく。おきあがりこぼしのように、真由美はぐらんと左右に揺れた。まだ脳が麻痺したままである。

「もう、ウブで可愛いんだから。 お持ち帰りしてもいいかしら? あたしのおうちで、色々お着替えさせて遊びたいわあ」

「か、かか、勘弁してくださいっ!」

涙目になりながら首を必死に振って蒼白の真由美が言うと、志治波羅さんはけたけた笑いながら、冗談よと言った。冗談であることを祈るしかないと、真由美は思った。ついでに、志治波羅さんのような強烈な人しかこの業界にはいない可能性に思い当たり、血の気が引く思いを味わう。そんな真由美は横に置いて、赤尾さんと志治波羅さんは話を進めていた。

「今日の依頼は、ちょっと急ぎの仕事なの。 他に誰も頼めなくて、此処に持ち込んだのよ」

「内容次第ですわ。 私が広域爆撃殲滅型で、限定条件下での戦闘には極端に向かないことを、ご存じでしょう?」

「其処を何とか。 戦略家としての貴方の手腕も、あたしは期待しているのよ」

「戦力、情報、補給、みっつ揃っての戦略ですわ。 それさえ揃っていれば、誰にだっていっぱしの戦略くらい組むことが出来ます。 ……内容に入って頂けます?」

赤尾さんの表情は、まるで研ぎたてのカミソリだ。相対している志治波羅さんも、にこにこしているが瞳の奥には鋭い光がある。早く気持ちを立て直さないとと真由美は思うが、なかなか上手くいかない。話を頭に入れていくだけで精一杯だ。

「これが、今回処理して欲しい相手よ」

「……厄介ですわね」

「ごめんなさい。 今回は私も他に頼みようがないの。 民間委託者とは言え、もう一人能力者が返り討ちにされていて。 それにこの力では、並の能力者では近づくだけで飲まれてしまうもの」

「ちょっとまって。 加勢が頼めるかどうか、調べてみますわ」

携帯を操作し始める赤尾さん。真由美は興味から写真を覗き込み、盛大に噴きだしていた。赤尾さんは真由美には見向きもせずに、携帯に喋り続けている。相手は多分零香先生だろう。

噴きだしたのも当然だ。何しろそれは、写真ではない。被写体を目に見える形で映し出していなければ、写真ではないのだ。それは真っ黒の紙にしか見えなかった。真由美も、紙から漂ってくる超弩級の力を感じなければ、そう思っただろう。

数日前に戦ったレギオン体など、これに比べればアリかハエか。数え切れないほどの悪霊が融合した超高密度の集合霊。それが写りこんだものの正体であった。多分何処かの部屋を写したはずだが、撮られた事自体が奇跡に等しい。

「ふふ、凄いでしょう」

こくこくと頷く真由美に、志治波羅さんは笑顔をすっと消して、言った。

「貴方はまだ能力者としては初心者ね。 覚えておいて。 世の中には幾らでも上には上がいるの。 このりっちゃんですら、仲間の助けを借りたくなるようなとんでもない相手だって、いるのよ。 これがその一つ。 ……S県のMヶ原市立小学校に現れた、希代の悪霊。 いわゆる、トイレの花子さんよ」

その名前は真由美も知っている。というよりも、知らない子供などいないだろう。全国中の学校でうわさ話がある、トイレに住み着く女子小学生の霊だ。座敷わらし的な性質をもつものから、人を殺す邪霊としての姿まで、さまざまな側面を持つという。しかし、まさかこれほど強烈な存在だったとは。唾を飲む真由美。隣で電話を切った赤尾さんが、絶望的なことを言った。

「どうやらすぐに動ける要員は、私だけですわ。 明日まで待てば、私の友人を二人確保できますけれど」

「それはダメ。 兎に角今日中に片づけないと。 明日、この写真の学校で、全校集会があるの。 あいつがそれを見逃すわけはない。 もし明日までに片づけないと、悪霊による未曾有の大量殺人事件が発生するわ」

「全く、もう……!」

頭を掻きながら、赤尾さんは立ち上がる。そしてくるくる歩き回り始めた。目を閉じたままぶつぶつ呟き続ける赤尾さん。申し訳なさそうな志治波羅さんの様子から言って、彼女さえこの事を今日昨日知ったのかもしれない。腕組みしていた赤尾さんは、目を見開くと、今までにない緊迫した声で言った。

「学校の見取り図。 それに敵の性質、物資の確認。 後は出来れば敗退した能力者の戦歴と、戦いの経過。 まずはそれからですわ」

 

3,古き霊の真実と虚構

 

都市伝説。具体的には、物語性の強いうわさ話の総称である。その国、地域にあった都市伝説が、毎年のように産み出される。そして一度産み出された都市伝説は、広がり、形質を変え、または新たな都市伝説の母胎となる。それはまるで、情報を媒体にした生き物だ。

トイレの花子さんも、その一つである。

全国的にさまざまなバージョンがあるこの怪談は、子供達の間で長い間語り継がれてきたものだ。最古のものは1960年代には原型が成立していたと言われている。

机の上に並べられた写真を前にして、利津は真由美に説明を続けていた。志治波羅はと言うと、資料をかき集めに一旦戻っている。彼女が持参した資料だけでは足りないと利津が判断したためだ。桐にも電話で調査を依頼したが、そっちもじきに結果が来るはずで、それまでは真由美の知識を強化しておいた方がいい。

どうしてもこの業界に関わると、実体化まがつ神と話をしたり、倒すために正体を探ったりするから、オカルトの裏面に詳しくなる。トイレの花子さんについても、利津はかなりの知識を持っていた。そしてこれから未熟な真由美も人数にカウントして戦いに赴かねばならない以上、最低限の知識だけでも譲渡しておかねばならないのだ。

「トイレの花子さんは、名前だけでも二十以上もあり、性質も含めると更に多数の類種があります。 ただ、どれにも必ず共通している特徴がありますわ。 真由美さん、なんだと思いますか?」

「ええと……女の子の幽霊だと言うことですか?」

「外れ。 男の子の幽霊とセットで登場するものもありますわ」

「トイレに出現するとか?」

「それも外れ。 ものによっては、トイレから出て活動するタイプもありますわ」

真面目な零香の弟子は、腕組みして真剣に考え込んでいる。この辺り、見込みがあるし、何よりも可愛い。利津の親友である神子達は皆環境が環境だったため、すれかたが尋常ではない。一見大人しそうな淳子などは、特に酷い捻くれ方をしている。利津だって同じ事だ。その分、こういう純粋な子を見るととても愛おしく思えるのだ。今は一刻が惜しいから、残念だが利津は介入することにした。

「答えは、呼び出すためにはトイレで儀式を行う必要があると言うこと」

「! なるほど……」

「何かしらのアクションを行うことによって、花子さんと呼ばれる存在は現世に姿を見せることが許されるのですわ。 そして同一の性質を持つ存在は、何も花子さんに限りません」

そこで一旦話を切り、紅茶をひと啜り。おばさんの炒れる紅茶は実に美味い。この民宿のおばさんは、若い頃のほんの一時期能力者だったことがある。残念ながら年を重ねるごとに能力は薄れてしまい、今ではただのおばさんだ。が、その関係で築いた人脈を使い、能力者を利津に斡旋する仕事を今ではしているのだ。

「続いて、都市伝説ですわ。 都市伝説というものは、何故発生すると思いますか?」

「ええと、噂をみんなが好きだから、ですか?」

「惜しいけれど、それだけではありませんわ」

「ええと……」

真面目に考え込む真由美。こうやってきちんと真面目に物事を考えるというのは、若い子には貴重な存在だ。今も昔も、とかく若い頃というのは、ちょっとした事象から物事の全てを判断しやすい。実際は理解しているのではなく、脊髄反射でそう思っているだけなのだが、それをいつの間にか真実とすり替えてしまうのだ。そして世の中を知ったつもりになってしまうのである。知ったかぶりをする子供というのは大概そんな連中だ。

この真由美という子はとても臆病で大人しい性格だが、情報を与えてあげればきちんと考えるし、判断もいちいち間違ってはいない。育てがいがある。

噂が拡散浸透するにはさまざまな過程がある。同様にして、発生にも同じくさまざまな過程が存在している。そしてそれに対する理解が、今後対実体化まがつ神戦にて重要になってくるのだ。だから此処だけは、真由美自身に理解させなければならなかった。

考え込んでいた真由美は、案外早く結論を出した。

「必要とされるから、ですか?」

「どうしてそう思いますの?」

「ええと、良くは説明できないんですけれど……。 漠然とした何か良く分からないものよりも、それに定義を与えた方がすっきりするから、でしょうか」

「……まあ、そんな所ですわね。 上出来です。 零香さんほどの理解力ではありませんけれど、その年でそれだけ出来れば合格ですわ」

実際、感心して利津は言った。元々実戦で理解力や直感力を磨いた零香ら神子と素人より少しマシ程度の能力者が同じ水準にいるわけがない。これだけ出来れば充分すぎるほどなのだ。そして、説明に戻る。

都市伝説発生の要因には様々なものがある。インパクトのある事件がそうであったり、不気味な特定の場所が関係したりする。人は物事に理由を与えたくて仕方がないのだ。そうして、何か不思議なものに対する「物語」が作り上げられる。恐怖と好奇心がそれに味を付ける。結果出来上がった品物の味が良いと、後は爆発的に拡散していく。それが都市伝説だ。

発生段階の都市伝説は極めてシンプルなものが多い。例えば、口裂け女などは、最初は「私綺麗?」と有名な問いを発し、返答次第では裂けた口を見せて脅かすだけの存在であった。それが全国に拡散する内に、子供を捕まえて口を裂くとか、べっこう飴が好物だとか、百メートルを三秒で走るとか、整形手術が失敗したのだとか、ポマードと唱えると逃げていくなどの能力が付与されていった。

いわゆる「カシマレイコ」という都市伝説と一部混じっていったのもこの辺りからである。花子さんについてもそれは同じだ。初期の花子さんは名前を呼ぶと呼び返したり、トイレの中から引っ張ったりする程度の存在であった。後期のものは遊びをねだり、返答次第では相手を殺すものが少なくない。そして後期のものになればなるほど、凝ったバックヤードが設定されている。

そして、ここからが核心である。説明というのは難しい。ちょっと間違えると、すぐに何が何だか分からなくなる。真由美は結構頭がいい方だが、それでも勘違いを避けるためには慎重を期する必要がある。

「花子さんに限らず、トイレを舞台とした都市伝説、幽霊話の類はそれこそ建物ごとと言って良いほどにありますわ。 それは何故だと思います?」

「ええと、水回りには霊の類が集まりやすいからですか?」

「それは理由の一つに過ぎませんわ。 もう二つ、重要な理由があります」

正確には一つ半という所なのだが、それは後から説明する必要がある。この辺りからは、少し時間を掛けてでも、真由美には結論を導き出して欲しいので、利津は手助けしたくない。時間がぎりぎりになってきたら仕方がないが、今はまだ大丈夫だ。

「トイレの他には、同一の状況である場所があります。 浴室ですわ。 浴室には、トイレにつぐ二番手となる欠点もきちんとありますわ」

「! ひょっとして……」

そのまま口で言うのが恥ずかしいのか、真由美はわざわざ利津の所まで歩いてきて、耳打ちした。正解であった。

「その通り。 大正解ですわ」

「ん……あの……そ……の」

「その気になればもう結婚できる年だって言うのに、こんな事くらいで恥ずかしがらない」

もじもじとしている真由美は、利津の言葉で真っ赤になって俯いてしまった。

答えは、擬似的な密室であることと、人間にとって命の次に大事な生殖器を外気に露出しなければならない場所であると言うことだ。言うまでもなく、無意識下で人間が最大限の緊張を払うわけであり、ちょっとした物事や出来事を大げさに捉えやすい。早い話、人間が無意識下で一番怖いと思う場所なのだ。

更に言えば、擬似的な密室として周囲の環境と隔離されているという状況も、その無意識下での心理的な働きを更に後押しする。女子生徒がいわゆる連れションをしたがるのは、一種のコミュニケーションであると同時に、怖い場所に一人で行くのが嫌だというのが重要な理由の一つである。

風呂がトイレに怪談の発生件数で一歩劣るのは、風呂に浸かるという行為が極めて効果的なリラックスをもたらすからである。逆に言うと出先である旅館などの風呂には一人ではいることもあるし、未知の場所と言うこともある。当然体の方が無意識で警戒しているため、怪談の発生件数はかなり高い。一方で他人が入ってくると言う可能性が少ないせいか、旅館の、特に個室のトイレは学校のそれに比べて怪談発生率が低い。

すなわち、怪談とは、最初に幽霊なり妖怪なりがいて発生するわけではない。最初に怖い場所なり事件なりがあって、何故それが怖いのかを補完するために発生するのである。脳もそれに付随して悪戯をする。極端な恐怖は、人間に幻覚や幻聴をしばしばもたらすのだ。金縛りなどはそれのもっとも分かりやすい例である。

賢い真由美は、それまでの話を全て丁寧に飲み込んでいた。そして的確に纏めて返してくる。

「そうなってくると、この花子さんも、子供達に要求されて登場した、という事なのですか?」

「まだ一段階ありますわ。 最後の要因ですけれども、実はこの花子さんという妖怪、戦後に不意に登場したわけではありません。 「女の子の幽霊」になった過程については諸説ありますけれど、原型になったものはぐっと昔から存在していたのですわよ」

「それは、一体なんですか?」

「あの世と現世をつなぐ儀式ですわ」

思わず真由美が姿勢を正したのが分かる。濃密な自然崇拝者であるアイヌの能力者に育てられたのだから無理もない話である。現代の若者にとって、宗教とは異界だ。気味が悪いとだけ漠然と思っている人間も少なくない。近現代におけるカルト宗教の隆盛がそれに拍車を掛けている。

一方で、古代の信仰を間近で見続けている真由美は、現代の若者とは基本的に考え方が違う。神秘に対する敬意の払い方をきちんと知っている。

「古代から現代まで途切れることなく、日常と非日常の境になる場所では、さまざまな怪異が噂されてきましたわ。 そして過去の場合、それは色々な信仰と混ざり合うことで、儀式や願掛け、ちょっとした習慣になって、人々の心に続けてきましたのよ。 トイレでの、ノックをして何かを呼び出すというのもその一つ。 何故トイレになったかは経緯が複雑なので省略しますけれど、昔の怪談ではそれによって幽霊ではなく怪異が呼び出されていたのですわ」

「そうなると、今までの話を総合すると……。 基本的に怪談というものは、怪異が先にあるのではなく、人間の恐怖心や、得体の知れないものに対する補完欲求が形を為したものになる。 花子さんもそれの例外ではなく、大昔から形を変えながら伝えられている儀式に、現在では子供達の間で比較的リアリティがある存在である「悪霊」が乗っかることによって誕生してきた。 彼女のバックヤードになる物語は、それらしいものを事件事故から見繕ってきたり、作り上げたりして、後から追加したものである。 ……こんな所、ですか?」

「上出来。 それを理解しているだけで、今回の戦いはかなり有利になりますわ」

この答えを導き出せた段階で、利津はもう真由美を戦力として計算していた。

それにしても、文章にしてまとめてみると夢のない結論である。オカルトに真っ正面から関わっている人間の考えだとも思えないが、論理的に考えてみるとそうなのだから仕方がない。腕組みして情報を反芻していた真由美は、思い出したように話題に戻ってきた。

「でも、そうなってくると、今S県の小学校に巣くっているこの強烈な悪霊は一体何なんですか?」

「十中八九人為的に作り上げられた存在ですわ。 人為的に作り上げられた以上、構造さえ分かれば結構あっけなく崩せるはず。 そしてもう、大体の構造については予想が済んでいます」

真由美は考え込む。大体何を考えているかは分かる。あのジェロウルという男と似たような奴が、今回の事件を引き起こしたかと思っているのだろう。利津は真相を知っているが、それについてはまだ話すのが早い。政府が何故対策を取らないのかも知っているが、そっちについても黙っておく。

紅茶を飲み干す。そろそろ、詳細なレポートが届くはずだ。そうしたら、具体的な作戦の捻出にはいる。

まだまだ数値的な戦力としては心許ない真由美だが、この理解力と向上心は実に好ましい。数字以上の活躍は確実にするだろう。少しは楽が出来そうであった。

 

二時間ほどで、志治波羅が戻ってきた。レポートは三種類。一つは学校に最初に頼まれた能力者が作った物で、Mヶ原氏小学校に伝わる花子さんの話について。そこそこの腕前だったらしく、交戦前にはきちんと下調べをしていたわけだ。更にもう一つは、警察から裏ルートで取り寄せた事件調書。最初の殺人事件と、能力者の死体状況が知らされている。三つ目は学校の詳細な見取り図。能力者がどう倒されたかについては、調査が為されておらず、残念ながら分からなかった。だが、これだけあれば充分だ。調査員としての志治波羅はとても有能だと一目で分かる。一時期政府機関で働いていたというのも嘘では無さそうだ。

まず、花子さんだ。Mヶ原小学校は、かなり怪談の多い小学校である。歴史が長いと言うこともあるのだが、見取り図を調べれば一目瞭然だ。まず山の陰になっていて、全体的に暗い。構造が入り組んでいる。そして作りが狭い。マンモス校なのに、妙にこぢんまりしていて、至るところに影がある。隠れる場所があるというよりも、影が集まって学校になっているというような有様だ。特に夕方から夜には恐怖心を煽るに充分である。

そんな状況だから、七不思議と言いながら、主な怪談だけで二十以上もあるという有様だ。このレポートは、それを年代ごとに追いながら、花子さんに絞って調べ上げている。かなりの労作である。

最初にMヶ原小学校で花子さんの噂が上がったのは、1977年。この頃にどうやら教師の一人が修学旅行で伝わってきた噂を脚色し、子供達に話したのが噂拡散のきっかけらしい。それまでも噂はあったらしいのだが、いずれも子供が作った話らしく整合性が取れておらず、教師の作った完成度の高い怪談話に取って代わられたようだ。内容自体は、標準的なものである。三階の女子トイレの、奥から三番目の個室。それを夜中の三時に三回ノックし、花子さんを呼ぶと、返事があるというものだ。

二年ほどはこの噂が持ちきりであり、そしていつの間にか消えて無くなった。この花子さんにはバックヤードも用意されていて、それは戦時中に学校で焼け死んだ少女だというのだ。実際にはこの学校、戦後に建てられたため防空壕として利用されたことはなく、勿論少女も焼け死んでいない。ただ、近くの林で一家心中があり、それに関連しての怪談が多く、教師はそれをネタにして話を膨らませたのだそうだ。レポートにはそうある。

その後数年は人面犬などが噂の中心となっていたが、1980年代後半に花子さんの噂が復活した。この経緯は良く分からない。どうやら古い噂を聞いて肝試しに来た生徒が、女子トイレで何か怖い目にあったのが最初のようだ。二度目の噂は一度目と幾つかの変更点があり、戦時中の幽霊だという設定は無くなり、代わりに屋上から飛び降り自殺した少女の霊だという事になっていた。この辺りは、戦争というのが子供達にはもう身近な話題ではなかったという事が要因としてあげられる。噂に必要なのは、適度な「リアリティ」なのだ。ちなみに、学校で死んだ子供はこの時期まで一人もいない。転校した生徒こそいるが、全員無事に小学校を卒業している。

また、復活に伴って代わった点は設定だけではない。花子さん自身の性格も少し悪くなっている。呼び出す儀式は同じなのだが、呼び出した後にトイレに引っ張り込まれそうになるという風に変更されている。ちなみに、引きずり込まれた後に何をされるかは噂が流れた年によって全然違ってくる。定番の殺されるものから、何をされるか分からないものまで千差万別である。当然、実際に殺されたり行方不明になった生徒など一人も出ていない。当たり前の話である。

そして、この噂が現在まで存続した。徐々に下火にはなっていったが、時々花子さんを見たという生徒が現れ、驚くべき事に二十一世紀まで生き残った。そして、ほぼ消滅しかけていたその矢先に、女子生徒の惨殺事件が発生したのである。

レポートには写真が挟まれていた。無言の利津に対して、志治波羅は悲しそうに目を伏せて十字を切る。真由美も手で口を押さえ、必死に吐き気を殺していた。この位の死体は慣れっこの利津に対して、二人が一般人だという事が良く分かる。

被害者は小学校五年生。首を引きちぎられ、後頭部をかち割られて死んでいた。下半身は比較的無事だったが、首の傷口から零れた血がトイレ中にばらまかれていて、凄惨な光景を現出させている。

しばし写真を蒼白になって見つめていた真由美が、目尻の涙を拭きながら言う。

「妙です。 この段階の写真では、何も感じられません。 いや、この殺された子の霊と、もう一体正体不明の弱い霊はいるみたいですけれど、さっきの出鱈目なレギオン体はいません」

「良い所に気付きましたわ」

そこに気付くことが出来れば上出来だ。多分この女の子を殺ったのは、レギオン体ではない。恐らくは人間ですらない。

携帯に電話が掛かってきた。桐からだ。電話に出てみると、案の定であった。素早く敵の性質をメモ書きしていく。そうしながら、今度は警察の現場調書を広げた。

殺された少女の名前は二宮志鶴(にのみやしづ)。小学五年生である。既に葬儀は終わっており、その辺りの手続きも全て済んでいる。司法解剖の結果、死因は後頭部に対する何らかの鈍器での打撃。つまり頭を砕かれた時点で死んでいるのだが、その後が妙だ。倒れる前に首を切断されているのである。殺害に使われた刃物が何か、全く分からないと調書には記されていた。しかも周囲に犯人の痕跡は無し。血は四方八方に飛び散っているのに、犯人の体で遮られた様子がないのだ。

警察は変質者の仕業として辺りを調査したらしいのだが、結局犯人は見付からず。現在でも捜査は続いている。そして二件目。能力者の方である。

此方はトイレに入り、そこで殺されている。何かと交戦したかのように足跡は激しく乱れていて、周囲には少量ながら破壊痕があったと調書にはある。流石に無抵抗ではやられなかったのだろう。ただ、外には引きずったような跡も残っていた。幾つかの証拠を検分するに、まずトイレの外で交戦状態に入り、勝ち目がないと判断して逃げようとするも捕縛され、トイレに連れ込まれて殺されたものと思われる。

死因は頸部に対するひも状の物質での圧迫。つまり首を絞められて殺されている。殺された後八つ裂きにされ、死体はトイレ中に飛び散っていた。この死体の写真は現場では殆ど撮ることが出来ず、警察の鑑識班は困惑の声を残している。そして、撮ることが出来た数少ない一枚が、あのレギオン体の写真というわけだ。

「酷い……!」

涙を拭きながら、だが強い怒りを持って真由美が言う。この辺りはまだまだ甘い。この仕事を始めた段階で、死ぬ覚悟くらいはしているのが当然だ。それに殺した側だって、殺さなければ消されていたわけで、必死だったというのは良く分かる。戦いを生業にする世界で、殺した殺されないで恨むのは筋違いなのである。

それを説明すると、真由美は俯いてじっと聞いていた。それで良い。元々異常な環境下にいた利津や神子達と違い、この子は多少変わっていても、ごく恵まれた環境で育ってきた。だから悩んで悩んで悩み抜いて、納得して貰わないと永久に一人前にはなれない。

「では、最後に。 具体的な作戦案の立案に入りますわ」

「と言うことは、敵の正体はもう分かっているのね?」

「ええ。 情報を総合するに、かなり質が悪い実体化まがつ神であることはほぼ間違いありませんわ。 ただ、問題は、十中八九敵は其奴だけではないと言うことですけれども」

腕組みしていた利津は、軽く首を傾げながら言う。

「学校、どれくらいまでなら壊しても構いませんの?」

「出来れば、傷一つ付けないで欲しいのだけど。 廊下の壁やガラス、照明が壊れるくらいは学校側も我慢できるはずよ」

「……そう、ですわね。 出来れば明日の全校集会も取りやめて欲しいのですけれど、それも無理ですの?」

志治波羅は残念そうに頷く。教師達を説得するのも大変なのだろう。中にはオカルトを一切信じない人も多いのだろうから。

かなり危険な条件下だが、仕方がない。零香か桐が加勢してくれればかなり楽なのだが、零香はともかく桐は今重要な仕事が入っていて、手が離せない状態だそうである。政府関係の能力者も支援が期待できない。敵主力を引きつけるのは、利津一人でやるしかない。苦手だが、そんなことは言っていられない。

視線に気付いた利津が真由美を見ると、かなり怒っていた。頬を膨らませて、随分可愛い怒り方だが。

「学校を壊してもいいかって……随分じゃありませんか?」

「何を怒っていますの?」

「怒ります! 確かに子供達を守るのは大事ですけれど、歴史のある学校には、どれくらいの思い出が詰まってるか分からないほどです! ものだからって、そんな酷い言いかたないじゃないですか!」

「何か勘違いしているようだから、言っておきますけれど」

真由美の言ったことは確かに常識的に考えると正しい。ただし、それは平和な世界の常識に過ぎないのである。

「校舎ごと吹っ飛ばして良いのなら、百%勝てますわ。 確かに学校は無くなりますけれど、これ以上誰かが死ぬことはありません。 思い出を守るのと、未来の子供達を守るのと、どっちが大事だと思っていますの?」

「そ、それは……! でも!」

「でも、今回はクライエントの意向もあるし、何より周囲の人間の避難も出来ない。 私の一番得意な火力による広域殲滅が使えない。 だから危険度を跳ね上げてでも、今作戦を練っているのですわ。 ただ、戦略級の火力を使って良いのなら使って良いだけ勝率も上がるし作戦の危険度も下がる。 だから志治波羅さんに聞いているというだけですわ」

吐き捨ててから鼻息荒くふんと利津がいうと、真由美はか細い声でごめんなさいと謝った。

命を天秤に掛けるというのが、戦いの基本だ。それは平常生活とは基本的な思想から対極的な位置にあり、そもそも互いを計り合うこと自体が愚行である。平和な生活も、極限の戦闘も、どっちも知る利津だから分かる。

極論だが、家族を戦略に含めろと言われたら、利津は躊躇いなく計りに自分の命を乗せるだろう。逆に言えば、それだけの覚悟が出来ていない状態では、戦場に出てきて貰っては困るのだ。戦友が皆迷惑することになる。

「学校の見取り図。 出来るだけ学校を壊さないように、奴を屠るには、徹底的な地理の把握が急務ですわ」

外は既に暗くなりつつある。利津の最大の武器は視力だが、それも夜には効き目が悪くなる。真夜中になるまでには、決着を付けたい。机中に広げた学校の見取り図を暫く見ていた利津は、やがて作戦を決めた。

丁度いい。この真由美という子は素質もあるし鍛えれば絶対に強くなる。思い切りを持たせるには、今回の戦場は絶好の条件が揃っていた。

作戦を説明する。最初の頃はただうんうんと頷いていた真由美だが、やがて蒼白になり、わなわなと震え始めた。作戦に参加するかどうかは自由だと告げ、そのまま携帯に電話。ねえちゃんと佐智に仕事に出ることを告げて、そして必要な装備を確認しながら、志治波羅に車に運んで貰う。最後に、今回キーの一つとなる菊一文字則宗を鞘から抜いて刃の状態を確認しているときに、真由美が顔を上げた。

「やります。 私、頑張ります!」

「いい返事ですわ」

高く澄んだ音をわざと立てて刀を鞘に収めながら、利津は一人前の戦士らしく、切れ味鋭い笑みを浮かべて見せたのであった。

 

4,学校の戦い

 

赤尾蘭子は、星が瞬き始めた空を見て、ため息をついた。生の木で造ったベランダにひじをつくと、優しいぬくもりを感じるような気がするから不思議だ。

ここに島流し同然にされて移り住んできてから、色々なことがあった。蘭子は歩くにはもう全く支障のない程に回復し、そして妹が危ない仕事に手を染めていることにも、薄々気付き始めていた。利津の電話の様子では、これから結構危ない仕事に行って来るのだろうとも分かる。少し気が重い。妹の危険を少しは肩代わりしてあげたいとも思う。

軽く咳き込みながら、末妹の佐智がベランダに出てきた。肺に先天的な欠陥があるこの子は、多分一生喘息と付き合い続けなければならない。背はぐんぐん伸びていて、もう利津をとっくに追い越したのに、まだまだ気はとても弱い。山の半ばにある学校でも、とても大人しい子だと認識されているらしく、世話を焼きたがる人間が後を絶たないそうだ。それでいながら、芸術面での才能は、素人である蘭子でも目を見張るほどである。

「お姉ちゃん、また危ない所に出かけてくるの?」

「ああ。 でもあたし達が引き留めるわけにはいかないさ」

「うん……」

二つ咳をすると、佐智は身を翻して台所へ向かった。こういう時の佐智は、だいたい美味しい料理を作って利津を待つのだと相場が決まっている。蘭子はとっくに佐智より料理が下手だから、お帰りなさいと言ってあげるだけだ。

視線をずらすと、街の明かりが遙か遠くに見えた。何処かに利津がいるのかなと、蘭子は漠然と考えながら一つ欠伸をし、自室に戻る。そしてベットに身を投げ出して、ぼんやりと天井を眺めた。

この間から麓の民宿に泊まっているあの子は、利津の友達の従姉妹だという。セミロングの髪が綺麗な優しそうな女の子で、佐智とは凄く良い友達に慣れそうな雰囲気だ。現実に大人しい女の子なんて生き物は殆ど存在しないから、ああいう絶滅危惧種は同類を見つけて仲良くするのが大変なのである。

と言うわりには、一度見たときには物凄く不思議そうな顔をされた。大体理由は分かる。多分、カタギではない利津の仕事の弟子か何かだろう。だからカタギである蘭子を見て驚いたのだ。あんな優しそうな子が、危ない仕事をするに至った経緯は蘭子にも分からないが、頑張れと応援するほか無い。責めて怪我しないで帰ってこられればよいのだがと、蘭子はぼんやり考え続けていた。

 

目的地の二キロほど先で、利津は真由美と連れだって車を降りた。米国のメーカー製である極上の運動靴を履いて、革手袋をはめ、動きやすいお気に入りのスポーツ用シャツにハーフズボンだ。シャツにもズボンにも防弾チョッキなどに使われるケブラー繊維を編み込んで防御性能を上げているが、対実体化まがつ神では文字通り気休めにしかならない。インナーも同じ仕様だが、もし攻撃を受けた場合焼け石に水だろう。上着も下着も軽くて丈夫な良品だが、消耗品で、予備を常時五着以上ストックしている。

利津は小さなリュックを背負っており、腰のベルトには江戸時代に辻斬りが十年かけて合計五十人を斬った(最後に追いつめられて切腹したので、自分自身も含む)菊一文字則宗をぶら下げている。刃渡りは八十pほどであり、現在利津が最も使いやすい妖刀だ。ただし、これはあくまで防御用の武器である。

近接戦闘で敵を仕留めるという考えは、利津にはない。というよりも、保有する選択肢のカードに存在しない。一応修練はしているが、零香や桐、それに由紀と戦おうものなら半秒で膾切りにされるような腕前の利津である。目は良くて運動神経はオリンピック選手級だが、しかし裏返せばそれは人間の域を超えていないと言うことで、対能力者戦や対実体化まがつ神戦では有効な手段ではないことも意味している。

更に致命的なことに、利津は戦術面で他の神子達に大きく水をあけられている。知力を尽くして戦うような近接戦闘で、利津が相手をしのげる可能性は無に等しい。だから、今回は気乗りがしないのだ。

後ろにいる真由美は、利津より少し大きなリュックを背負い、かなりの重装備をしてきている。利津が貸した迷彩模様の軍仕様ズボンを穿いて、上には同じくケブラー繊維を編み込んだチョッキを着込んでいる。勿論防弾仕様だ。リュックの中には今回の作戦で重要な役割を果たす札が五十枚ほどストックしてある。合計して末端価格二百万を超えるのだが、それは真由美には内緒である。革手袋はサイズが合うのが無かったので、指先が出るタイプの軍手で我慢して貰った。無いよりマシだ。着慣れないアーミールックで真由美は困惑している様子であるが、すぐ適応するはずだと利津は睨んでいた。

「時計合わせ。 今、17時49分50秒。 5.4.3.2.1.0!」

「はい。 オッケーです!」

「では、作戦通りに。 時間を忘れて作戦をとちったら、零香さんにたっぷりお仕置きをして貰いますわ」

軽く冗談を言って緊張している真由美の気をほぐすと、早歩きで夜の学校へ。

ミッションスタートだ。

 

学校には現在、教師は一人もいない。本来なら宿直等で人員が残っているのだが、今回は志治波羅が話を通して、全員に退去して貰っている。学校側にも頭の固い人間はいる。能力者の存在を頭から信じていない教頭などは、最後までぐずって手を焼いたと、志治波羅は苦笑しながら言っていた。

真っ正面から堂々と学校に乗り込み、正面玄関を開けると、中は真っ暗だった。ペンライトを付けると、もう濃厚な霊気が漂っている。辺り中悪霊だらけだ。最初の子が死んだ前後くらいから学校中でラップ現象やらポルターガイストやらが多発していたとレポートにあったが、それも無理がない。うめき声を上げながら寄ってくる悪霊共。菊一文字を抜くと、ペンライトを口にくわえて、利津は突貫した。

組み付こうとしてきた奴を、踏み込んで間髪入れず横一閃に切り伏せ、後ろから声もなく迫ってきた奴の脇をするりとかわして胴を払い落とす。体が小さいことと卓絶した運動神経をフルに生かして、大上段から切り伏せ、袈裟懸けに斬り倒し、首を叩き落とす。しかし尋常な数ではない。下駄箱の影から、天井からしみ出すように、床から沸き上がるようにして、次々と悪霊が湧いてくる。それを斬る、斬る、斬る。だが敵の数は尋常ではない。

「おっと!」

足首を掴まれかけた利津は慌てて飛び退き、床から沸き上がってきた悪霊の首を跳ね飛ばした。だが既に周囲は十重二十重に敵に囲まれている。連中は数を頼りに、じわじわと包囲網を狭めてきていた。元々防御力に欠けた点のある利津は、この程度の悪霊でもまともに攻撃を受けると危ない。戦いには細心の注意が必要であった。

利津の最初の任務は、敵に能力を悟らせず、なおかつ自分が手強いと認識させることだ。この数だとそろそろ近接戦闘だけでは対応しきれないし、潮時だ。わざわざこの菊一文字を持ってきたのには理由がある。

ポケットから札を取り出し、素早く刀身に巻き付ける。そして刀身を天井に掲げ、最小限の力を注ぎ込む。フラッシュを焚いたように、札が粉々に吹っ飛び、単純な力の奔流と化して、辺りの悪霊を根こそぎ焼き払った。

悲鳴はすぐに消えた。三十以上はいた悪霊共はもう一体も残っておらず、新しいのも出てこない。

妖刀と言うだけあり、この菊一文字は力を伝導する効率が極めて優れている。今のように力を注ぎ込んでやれば、利津特製の札を吹っ飛ばして手榴弾のように辺り一帯を攻撃することが可能なのだ。新しい札を複数取り出し、刀身に巻いておく。これで軽い牽制になる。

目指すは四階だ。其処に問題のトイレがある。

下駄箱から奥へ入っていくと、見取り図通り複雑に入り組んだ学校の構造が露わになってくる。物陰からは視線を感じ、時々曲がり角に入った瞬間に悪霊が襲いかかってくる。もっとも、その程度の相手なら、利津にも充分存在を察知できる。危なげなく斬り捨てながら、階段へ。階を上るごとに、どんどん周囲の霊気は濃くなっていった。

一度時計を見てから、更に上へ。まっすぐ最短ルートで四階へ向かう。階段を登っている途中にも散々悪霊が襲ってきたが、最初のように組織的な攻撃でなければ幾らでも対応は出来る。

四階についた。外は夏だというのに、まるで真冬のようにひんやりとしていた。

問題は此処からだ。雑魚の悪霊をなぎ払うくらいなら菊一文字の力を借りて出来るのだが、実体化まがつ神はその辺の悪霊とは力量の桁が違う。事実此処に最初に来た能力者も、一人前の使い手であったのに、殆ど手もなく捻り殺されている。勿論、利津だってこの校舎の中では、まともに戦っては勝ち目がない。つまり、まともに戦って倒そうとしてはならない。校舎の外に引っ張り出せばほぼ百%勝てるのだから、その状況に持って行かねばならないのである。

利津しかいない校舎の中で靴音が響く。嫌に高く響く。目指すトイレから女の子のすすり泣きがきこえる。ペンライトが照らす明かりの先に、ついに女子トイレのマークが浮かび上がった。

まるで罠の巣だと、利津は思った。虎ばさみの後ろで、銃を構えた猟師が待ちかまえているような印象だ。辺り中から視線を感じる。敵は確実に、トイレの中で獲物を待っている。

トイレの入り口に立つ。この学校での呼び出し方は奥から三番目のドアを三回ノックするというスタンダードなものである。だが、どうやらその必要は無さそうであった。目を細める。だだ漏れの殺気は、極めて濃厚だった。

まがつ神にも頭が良いのと悪いのがいるし、理性が働くのとそうでないのがいる。こいつは頭の方はともかく、理性は後者だ。まあ、それも仕方がないのかも知れない。桐の話を信じるとすると、こいつは恐らく千五百年以上獲物にありついていなかったのだ。一人や二人の魂を喰ったくらいでは満足しないだろう。結果、獲物を喰らいたくて喰らいたくて、殺気を消すことに失敗している。

踏み込む。トイレの中はまるで冷蔵庫だった。カタカタカタカタとトイレのドアが鳴っている。わざとらしく辺りを見回し、間髪入れずにバックステップ。大量の金属音と殴打音がトイレ中に響き渡った。

トイレの外で腰を低くし、刀に手を掛けた利津の前では、無数の触手が蠢いていた。それぞれに刃や槌を思わせる突起がついていて、ずるずると這い廻っている。取り合えず、第一段階成功と利津は口中で呟いた。もっとも、一番大変なのはこれからだ。人間の域を超えない身体能力で、実体化まがつ神とある程度は戦わなければならないのだ。

「せっかちですわね。 嫌われますわよ」

挑発に返答はない。ずるずると蠢く触手は、単純に獲物を狙っているだけであり、此方の戦力に警戒していない。舌なめずりする。今まで出来るだけ力を見せないように此処まで来たのだから、これくらいは上手く行って貰わないと困る。

第二段階は、獲物をこのトイレから引っ張り出すことだ。第三段階が完了するまで続行しないとならないこのステップが、今回の作戦でのキーとなる。

まず、第一に。此方がまがつ神のコアに打撃を与えうる存在であると言うことを認識させねばならない。そうしないと、奴は躍起になって追っては来ないからだ。特別に強めに作った札が三枚、既にポケットの中に忍ばせてある。それを叩き込むチャンスは、今しかない。

触手の一本が、無造作に襲いかかってきた。先に刃がついたそれを潜るようにかわしつつ、トイレの中に突貫。ポケットに空いている左手を突っこみ、低高度から迫ってきたもう一本を菊一文字で切り上げる。十本以上の触手が、唸りを上げて再び捕獲に入ってくるが、相手にしない。飛び込み前転をしながら更に奥へ入り込み、ポケットから手を出す。

既に三枚の札を握っている。刀身に巻き付けると同時に、両足、胴、それに首に多量の触手が巻き付いてきた。そのまま壁に叩き付けられる。タイル張りの壁は、物凄く固くて、冷たかった。

「ぐあっ!」

余裕無く、きゃあとか可愛い悲鳴など上げていられない。背骨が軋む。円形に罅が入り、壁に掛かっていた鏡が砕けた。利津の手に、既に菊一文字はない。それは細かく揺れながら、奥から三番目の扉に突き刺さっていた。そして、札が炸裂した。膨大な光がトイレ中に満ち、扉が砕けた。

ゴギャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!

爆音をかき消すほどの悲鳴が轟き渡る。触手が動揺し、何本かが千切れて吹っ飛ぶ。力が緩んだ隙に素早く地面に飛び出し、床に転がり落ちた菊一文字を拾い上げると、トイレから飛び出す。勢い余って壁にぶつかるが、立ち上がっている暇など無い。口から伝う血を拭いながら、手で床を弾き、足で壁を蹴って横殴りに逃げる。トイレの入り口から猛然と飛び出してきた数本の触手が、壁を、窓硝子を容赦なく殴打し、粉々に吹き飛ばした。一瞬遅れていたら一巻の終わりだ。

「はあ、はあ、はあっ!」

呼吸が乱れてくる。両足には、触手に掴まれた痣がくっきり残っていた。この分だと腹にも背にもだろう。バクテンして距離を取った利津に、触手が次々に迫ってくる。此処以降は交戦ではなく逃げるだけだ。だがそれがとんでもなく難しい。

ただ逃げるだけでは此方の作戦を悟られるし、下手に反撃しようとしても殺されるだけだ。更に、ある程度は怯えているふりもしてやらないと行けない。面倒な話だ。

「キシャアアアアアアアアアッ!」

『上古の神の一柱とも思えない、下品な咆吼ですこと……』

超人的な唯一の利点である視力を生かし、利津は下がりながら、触手の一撃をかわすのではなくどうにかいなしていく。だが、それにも限界がある。

一本を切り伏せた直後、もう一本が躍り上がるように、斜め下から襲いかかってきた。先端部には刃があり、突き刺されば終わりだ。動きは見えていたが、体の動きが追いつかない。

触手の刃がケブラー繊維を易々切り裂く。脇腹の辺りだ。浅いが、触手の可変性は生物の常識を越えている。利津が反射的にガードするのより僅かに早く、長槍と化していた触手は鉄鞭と変じ、真横から利津の全身を一打ちした。

不意に動きを変えたから威力自体は小さいが、何しろ太さは十六センチである。生きた鉄鞭は軽々と小柄な利津を吹っ飛ばし、教室の壁に容赦なく叩き付ける。

ずり落ちる。目の前が真っ赤になる。

更にとどめとばかりに上から触手が襲いかかってくるが、今度は利津が早い。顔面に刃が突き刺さる瞬間、最小限の動きで壁を蹴って位置をずらす。頸動脈の二ミリ横に、床を砕きながら触手が突き刺さる。その半ばは、既に菊一文字によって斬り捨てられていた。ずるりと触手が地に垂れ、溶けて消えていく。息を整えながら、どうにか立ち上がるが、状況は予想以上に悪い。

トイレから、奴の本体がずるずると出てきた。形は蛞蝓にも似ているし、魚にも似ている。体のありとあらゆる箇所から生えている触手を使って移動し、それ自体で攻撃も仕掛けてくる訳だ。真っ黒で、夜闇にとけ込むその姿は、無様の一言に尽きる。

失われた神とは哀れなものだと、利津は思った。己の形すらも忘れ去られ、信仰はおまじないや迷信という形で口伝の間に歪みに歪み、結果どれもこれもこんな姿になってしまう。

しかし、相手を気遣っている余裕など正直ない。体全体が痛い。今叩き付けられた痛みも相当なものだ。特にガードした左腕の状態は酷い。どうにか折れてはいないが、痛みは確実に集中力を削ぐ。じりじりと下がる。これから六階のその先、屋上にまで撤退しなければならないのだ。なかなか困難なミッションであった。

『あまり、長くはもちませんわよ……』

構えを取りなおす利津に、無数の触手が、容赦なく襲いかかった。

 

学校の裏門に来ていた真由美は、戦闘音に気付いて思わず身をすくませた。元々まだまだ一般人から足を抜けきっていない真由美は、深夜の学校を素直に怖いと思うし、暗い所には出来れば入りたくない。しかし、今この学校に巣くう花子さんと得体の知れない神様を何とかしないと、死人が大勢出る。時計を見ると、もうミッション開始時間だ。頬を叩いて気合いを引き締め、真由美は音を立てないように学校の裏へと忍び込んだ。渡されている鍵を使って、裏口から忍び込む。全身に走る悪寒は、既にこの学校が人ならぬものの楽園である事を示していた。

真由美がなさねばならぬ事は、基本的に一つ。敵の法則を崩すことだ。

赤尾さんが得意な戦略級の火力を使用できる状況に持ち込むには、まず敵を花子さんという「法則」から切り離す必要があるのだと、真由美は説明を受けていた。そのためには、敵の弱体化を行う必要がある。最終的に「花子さんが出やすい」という環境を壊して、根元になるものを壊せば、今学校に住み着いている得体の知れない存在は花子さんと切り離され、弱体化し、更に自由に動き回るようになる。その後は任せろと、赤尾さんは言っていた。だから、真由美も利津を信頼して、言われたとおりにミッションをこなすつもりだ。

さび付いた蝶番が、戸を開けるときに必要以上の音を立てる。ホラー映画などにも使えそうな、絶好の恐怖演出だ。首をすくめながら入ると早速、お出迎えがあった。天井からぶらりと生首が落ちてきたのである。何も考えないようにして肥前守を引き抜き、突き立てると、音もなくそれは消え去った。消え去ってから、心臓が激しく鳴り始めた。壁に懐いてしまう。怖い。怖い。怖い!震えを殺すのにも、多少の時間をロスしなければならなかった。

まずは地下室に降りる。機械室は見取り図通り其処にあった。

調べてみると、殆ど電源のブレーカーは異常がない。となると、各部屋の電源をきちんと入れていけば、電気は点くはずだ。鍵束が懐で鳴る。上で響く戦闘音は激しくなる一方であり、時間はない。配電盤に札を四枚貼り付けると、真由美は走り始めた。

まず、下の階から。窓を全部開けて、電気を全部点けて、ドアを全て開けろ。地図に記した要点には札を貼れ。それが最初の任務である。これを三階まで行う。

窓の鍵を外し、開けていく。途中何度も悪霊に出くわすが、グロテスクな奴ばかりだが、もういちいち怖がって等いられない。片っ端から切り伏せ、廊下の窓を乱暴に開け、教室の電気を点け、窓を開けていく。学校がどんどん明るくなっていく。外の健全な空気が入ってくる。よどんでいた空気を、風がかき回す。

一階がどうにか終わった。十分ほどで終われたのだから上出来だ。戸は全部鍵がきちんと掛けられていて、それが時間のロスを減らしてくれた。札もきちんと張り終えた。周囲の霊気は、明らかに弱体化していた。次は二階だ。段々怖さが麻痺してきた真由美は、うめき声をものともせず、一気に階段を登り上がった。その途中、足首を掴もうとする手を蹴飛ばす余裕さえ見せて。

窓硝子が派手に割れる音がする。急がないとヤバイと、素人である真由美だって分かる。あのシレトコカムイみたいな奴を、接近戦用の強力な術を持たない赤尾さんが相手にしているというのだから。

二階にはいると、ハプニングが起こった。通路の向こうから、一塊りになって、数十体に達する悪霊が押し寄せてきたのだ。動きは遅いが、しかし数が物凄い。一旦退こうかと思って振り返ると、後ろからも大量の悪霊が這いずってきていた。もう、逃げ道はない。

唇を噛む。どちらにしても、相当数の悪霊と交戦することは最初の段階から想定の内だったのだ。ならば此処で覚悟を決めるのが当然である。左手に肥前守を持ち変える。右手で印を切る。目を閉じて詠唱する。

こんな時に使うからこそ、術には意味があるのだ。相手を殺すための力である攻撃術。だが今は、その必要性を強く強く感じる。

「南方の守護神朱雀よ、汝の翼のひとかけらを、我が刃に臥し添えたまえ。 炎の薙刀を、この手に与えたまえ!」

肥前守が紅い力に包まれ、そして輝いた。光は前後に伸び、肥前守が姿を変えていく。光が収まると、真由美の手にあったのは、紅い柄を持つ薙刀であった。それを真ん中から折る。柄だけの方の半ばから持ち手が生え、それを掴む。左手のはトンファーとして、右手のは長刀として使うのだ。主に右手は攻撃に、左手は防御に回す戦闘スタイルである。

今、真由美が使ったのは、武器を具現化する術の一種である。能力者が扱うものの中ではポピュラーな存在で、中にはレールキャノンなどと言う真由美には原理どころか形状も想像できないものを具現化する術もあるそうだ。まあ、そんな高等術は手の届く範囲にはない。真由美に出来るのはこの位だ。しかし強力な肥前守を媒体にしているから、決して恥ずかしい威力ではない。

大丈夫。敵の動きは遅いし、この術によって真由美の周囲には炎の力が渦巻いている。丁寧に戦えばきっと勝てる。ここ数日、数え切れないほどの悪霊と戦ってきたのだ。それを思い出して、丁寧に戦う。それだけでいい。それだけで、いい。

「てやああああああああああっ!」

恐怖を押し殺して叫びながら、真由美は敵中に突撃した。

 

実体化まがつ神の体からは、斬っても斬っても触手が生えてきた。その再生能力は無限ではないのかと、戦っている利津を錯覚させる。それが妄想に過ぎないことは分かっているのだが、しかしこうも条件が悪いと、疲労から無駄な妄想をしてしまうものだ。

左腕からはぽたぽたと血がしたたり落ちている。さっき刀状の触手が一閃したのだ。傷は深い。右足腿には二カ所の裂傷が走っていて、脇腹も擦過傷が辛い。肋骨も既に一本折られている。

現在、五階、階段前。奴は巨体を器用に折り曲げ、隘路を速度を落とさず追撃してくる。此処を登りきれば、屋上まで後少しだが、そう簡単にはいかせてくれそうもない。

真由美が下の方で激しく暴れているのに、まがつ神が反応して、隙あれば下がろうとしているからだ。下手に階段を登れば、間違いなく奴は一気に退き、既に二階を制圧した真由美を捻り潰しに掛かるだろう。かといって此処で攻勢に出ようにも、一歩間違えば叩き潰されるだけだ。

一応充分な札は持ってきているが、もう一度触手によって捉えられた場合、もう逃れる自信が利津にはない。ただ、焦り自体はない。神子相争で、この程度の危機なら嫌と言うほど経験してきたからだ。

悲観的な要素ばかりではない。まがつ神は、最初の三枚の札起爆によって、利津の攻撃能力を認識している。下手に背中を向けられないと考えている反面、防御力に難があることもきっちり見抜いていて、さっきから遠距離での触手によるヒットアンドアウェイを繰り返し、それで勝負を決める腹づもりらしい。思うつぼといえる。だがこれを見破られたら戦況は一気にまずくなる。

階段に足をかける。一歩下がると、まがつ神も同じ分だけ本体を前進させてきた。奴が真由美と利津の連携に気付いているかまでは、まだ分からない。もう一歩下がる。冷や汗が頬を伝い、それを拭おうとした瞬間だった。

今までにない速さで伸びてきた触手が、先端に鈍器がついているそれが、斜め上から躍りかかってきたのである。とっさに真横に避けようとしたが、まがつ神本体が凄まじい勢いで突進してきた。更に今の瞬間、上に回り込んだ二本の触手が、利津を切り刻もうと躍りかかってくる。

作戦変更。コースを変えるしかない。

階段を蹴った利津は、まっすぐ突撃してくる敵本体……恐らく体重半トン以上……に向けて突撃した。その過程で四本の触手を切り伏せ、巨大な口を開けて突撃してくる奴の寸前で、真横に跳ね、触手に打たれて半壊している戸を体当たりで破って教室に飛び込んだ。幾つかの机を跳ね飛ばして止まるのと、奴が壁に激突する振動が伝わってくるのは殆ど同時。階段はもう一つあるが、それは直線にして百メートル以上を走り抜けねばならない。奴は最大で時速四十キロはどう見ても出している。かなりギリギリの勝負になる。

教室から飛び出すと、壁に頭を突っ込んでもがいている奴の姿が見えた。だがすぐに態勢を立て直すことは間違いない。刀を鞘に収め、クラウチングスタートの態勢をとる。現在、女子の百メートル走世界記録は十秒半ば。利津は十一秒前後程度でなら走れる。これで、身体能力は同期の神子達の中ではビリから数えた方が速いのだから、異常な世界である。

「キシャアアアアアアアアアアアアアッ!」

「はああっ!」

息を吐き出すと同時に、残った力の全てを燃焼させる。狭い場所では発現さえ出来ない神衣の特色が、こういうときは少しばかり苛立たしい。

スタート。なかなか良いスタートダッシュだ。一気にスピードにのり、最高速へ。敵も態勢を立て直し、追いすがってきた。背中へ感じる圧迫感が凄まじい。まっすぐ走ると触手の好餌であるから、時々不意にサイドステップし、速度を落としながらも走らなければならない。

背中に、まがつ神の威圧感が張り付くようである。階段が見えてきた。曲がる瞬間が一番危ない。わざと少し速度を落として歩幅を狭めつつ、曲がる半径を極限まで短くする。背中に追いすがってきた触手が、リュックを掠めるようにして、次々に角の壁に着弾、何枚かのガラスを割り砕いた。壁を削りながら追いすがってきた一つが、リボンの一個を直撃して、吹っ飛ばした。頭を反射的に低くしなければ、側頭部を貫通されて即死していた所だ。ばらけた片髪を舞わせながら階段に飛び込むと同時に、すぐ後ろの壁にまがつ神本体が直撃。思わず手すりに掴まる。

態勢を立て直した利津が階段を駆け上がるのと、僅かに遅れて四本の触手が追いすがるのは殆ど同時。踊り場に飛び込み、床を蹴る利津のすぐ後ろで、触手の二本が壁に突き刺さり、もう二本は上から回り込みに掛かっていた。本体もすぐに迫ってきている。だが、此処は視界も小回りも利く利津が有利。回り込もうとしていた触手の一本を切り伏せ、更にもう一本を踏みつけて足場代わりに飛び越え、ついに六階に到達した。

距離が迫っているという不利に変化はない。だが同時に、敵に勝機をちらつかせているという有利もまた一つ。後方からの一撃を避けきれずに、肩が切り裂かれ、血がしぶく。更に太股にもう一カ所。ぐらついた所に、後方から本体が大口をあけて、全力で迫ってきていた。前方五メートル、曲がり角。この先が階段だ。

足に絡みついてきた一本を切り伏せる。ひくつく触手を足に絡みつかせたまま、曲がり角へ飛び込むと、利津は一瞬息をのんだ。其処は廃棄された椅子や机が積み重ねられており、その先に十段ほどの階段と、古風な南京錠が掛かった屋上の扉があったからだ。

万事休すか。だが、呆けている暇はない。飛びつくようにして机をよじ登るが、ついに追いつかれた。

「ガアアルアアアアアアッ!」

今までにない至近に、奴の気配を感じたときには、反射的に机を盾にしていた。奴の突撃が、机の山ごと利津を吹っ飛ばす。必死に机を盾にする利津を、まがつ神は強烈に圧迫し、階段を見る間に登り上げ、背中から屋上の戸へ叩き付けた。扉が脆くも吹っ飛び、屋上へ机の残骸ごとたたき出される。同時に、脹ら脛に貫通感。

「ぐっ! あああああっ!」

「てこづらせて、くれたな……!」

机の残骸の中、利津が顔を上げようとすると、触手が顔面を張り飛ばした。そのまま数メートル飛ばされて、フェンスに叩き付けられる。目の前を無数の星が飛んだ。

そして引きずられる。見ると、刃型の触手の一本が貫通していた。苦痛の中、思考を絞るのにさえ時間が掛かる。触手を奴が引き抜いた。鮮血が飛び散った。更にもう一本の足を、槌が殴打した。骨が折れる。

「ぐうっ!」

「自慢の足ももう役には立つまい。 貴様をすぐにでも料理し、ついでに下の奴も片づけてやる」

まがつ神は気付いていないだろう。自分が何故喋ることが出来るのかを。無様な形だった奴に、明確な輪郭ができはじめている。それは桐の予想通りの姿であった。

頭から流れる血が、血だまりを作っていた。体を起こし、まがつ神を睨み付ける。もうそろそろ良いはずだ。案の定、奴は原型を取り戻しつつある。

口の中で詠唱。

利津は勝った。

 

5,解放、飛翔

 

最後の一体を叩き斬ると、辺りには静寂が戻ってきた。

へたり込む。がらんと音を立てて、トンファーを投げ出してしまう。床に手を着いて、息を戻すのに務める。真由美は限界寸前だった。

ついに四階の、件のトイレにたどり着いていた。真由美は肩で息をしながら、辺りの凄まじい戦いの跡を見やった。得意分野でもないのに、これだけの戦いをやってのける赤尾さんの実力に、改めて真由美は戦慄した。

全身は傷だらけだ。四回に渡って薙刀は再起動したが、体の方の傷はそうも行かない。悪霊の起こすポルターガイストもあるし、上級の悪霊の中には物理干渉能力を持つ奴もいる。ざっと見ただけで、二の腕は右左とも三カ所以上、腿、腹、首筋にも何カ所か貰っている。特に右手の甲の傷は酷い。まだ血が止まらずに、床に新しい血痕が作られ続けていた。

行かなくちゃ。やらなくちゃ。自分が決めたのだから。

強者によって弱者が踏みにじられる。戦いに生きる世界ではそれが普通だという。自然界では、少なくともそれが普通だ。むしろ弱者に生きる余地が与えられているだけ、人間社会はましなのだ。だがしかし、人間社会でも極めて原始的な場所。戦いが支配するこの場所では、支配する法は自然界のそれに近い。

分かる。分かるのだけれど、真由美は認めたくなかった。

護れるものがあるのなら、守りたい。そのためには、力がいる。自明の理だ。そしてここでいう力とは、今真由美が振るったように、生き死にはともかく外敵を排除する能力のことだ。それは言葉を使ったものであることもある。物質をつかったものであることもある。だが、どちらも真由美には無理だ。だから、暴力の使い方を、必死に学んでいるのではないか。

零香先生はここに来る前に、真由美に言った。

「何処の誰だって、考えるのは自由だよ。 どんな風に理屈を展開しても良い。 信念を持つのも良い。 ただし、これだけは言っておくからね。 殺し合いの時には、頭を思想面では真っ白にしなさい。 相手を殺すことだけを考えなさい。 容赦なく敵を叩き潰しなさい。 必要とあれば殺しなさい。 それが出来ない奴は、誰を守るどころか、自分だって護れないよ」

実際に散々斬った今は、その正しさが嫌と言うほど分かる。

分かるのだけど、やっぱり体が受け付けてくれない。

これが大人と子供の頭の差なのだと、強引に納得させて、真由美は立ち上がった。吐いている暇なんて、ない。

トイレにはいる。敵の抵抗はない。と言うよりも、気配自体がほとんど無い。スイッチを入れるが、電気は点かない。ペンライトを付けて、口にくわえる。粉々に壊されたドアが見えた。壁にも大きな破壊痕が残っている。踏み込む。

壊された扉の奥。いや、個室が破壊されてしまっているため、トイレの上にそれはいた。洋式トイレに座り、足をぶらんと個室の外へ向け投げ出して、大きな目で興味津々と言った様子で真由美を見つめている。生者ではない。ペンライトを口から出して、見つめ合う。

見覚えがある。確か、レポートにあった、一家心中したという女の子だ。写真が一枚だけあった。サスペンダー付きのスカートを穿いていて、おかっぱ頭の可愛い女の子。特徴は全部合致している。顔立ちが整っていると言うよりも、子供らしい感情がむき出しの、見ていて元気になるような雰囲気だ。服の真ん中には、包丁が突き刺さっていて、血が流れた跡がある。調査によると、父の借金、弟の病気を苦にしての一家心中だという。酷い話であった。

「あたしが見えるの?」

「うん……」

「そうだろうね。 で、此処に来たと言うことは、殺しに来たってこと?」

「……」

にんまりと、女の子の幽霊は笑った。

真由美は説明を受けた。花子さんの伝説の根幹となっているのは、戦前から流布されてきた召霊の儀式であると。それは西洋から入ってきた降霊術(霊を呼び出して話をする儀式)の影響も受けてはいるが、根幹になっているものは違うと。そしてその儀式を本来司っていたのが、今学校に巣くっているまがつ神だ。恐らくはいわゆるまつろわぬ神……大和朝廷に邪教として討伐された、それ以前の上古の神であろうと。

今回噂が爆発したのは、少女の無惨な最後がきっかけだ。これの経緯は分からないが、誰かが実際に儀式を行うようにし向けたのであろう。そしてトイレで待ち伏せて惨殺するか、或いは実体化まがつ神の原型をトイレに配置し、それに襲わせた。その結果花子さんの噂は顕在化爆発化し、噂によって法則を作り出されたまがつ神は一気に実体化。自分の派生物である花子さんを苗床にする形で更に強大化し、辺りの悪霊を片っ端から吸収して今回の騒ぎを引き起こしたというのである。

赤尾さんの言葉が全て正しいのは、自分の目で見てきた。

「閉鎖空間」を解除するごとに、学校に満ちていた霊気は弱くなっていった。「暗がりが多くて怖い」という条件を解除するごとに、更に状況は良くなった。それらを四階まで行った事で、敵はかなり弱体化している。そして、ここで赤尾さんの指示が頭をよぎる。

赤尾さんは言った。法則の最後の鍵を壊すことで、実体化まがつ神を法則的に孤立化させよと。

実体化まがつ神は、花子さんという法則に則ることで実体化している。すなわち。「花子さん」の都市伝説の根幹ではなく、「この学校の花子さんの噂の発生源」を潰すことにより、実体化まがつ神がこの学校にいる「理由」を排除するというのだ。その結果奴は力を増すことも、このトイレを巣にすることも出来なくなる。其処を叩くのだという。

そのために必要なのが。この女の子の霊を、現世から消滅させることだというのだ。

「いいよ斬っても。 そのカタナで斬れば、あたし成仏できるんでしょ? それなら早くやっちゃってよ」

「そんな。 きっと苦しいよ」

「いいってば。 あいつの中でずっともみくちゃにされるのはもういやだし。 それにその年その年で勝手な噂されて、好き勝手にあたし自身を弄られるのだってもう沢山なんだから」

女の子の霊の瞳には、人間への憎悪がたっぷり詰まっていた。無理もない話である。一家心中したくらいだし、幼い内から人類社会の闇は嫌と言うほど見せつけられているだろう。それに「花子さん」の母胎にされてからは、毎年好き勝手な噂を作られて、それに振り回され続けたのだ。人間そのものに、良い感情を持っているわけがない。

だけど、とも真由美は思う。そんな悲惨な目に会い続けた女の子の霊を、せめて自由にしてあげたいと。成仏がどういう現象なのかは分からないが、悪霊を斬ったときの様子からしてもあまり楽そうではないし、天国が良い所などとは思えない。

「どうしたの? はやくしてよ。 はやくしないと、あの小さなお姉さん、喰い殺されちゃうんじゃないの?」

「貴方を自由にしてあげたいの」

「ほえ?」

「……自由には、なりたくないの?」

真由美は問う。目に真剣な輝きを見て取ったか、女の子は足を揃えて真剣な表情で向き直った。

「そりゃあなりたいよ。 でもね、今のあたしは、もうさっさと楽になりたいなーってのが本音。 というか疲れた」

「だったら、自由にしてあげる」

「……嬉しいけど、出来るの?」

「貴方を殺すほかに、もう一つあの神様を此処から切り離す方法があるって、私の先生が言っていたの。 それを試してみる。 ちょっとトイレに乗らせて」

無言でどく女の子の霊。不安そうに真由美を見つめている。トイレの上に登り、肥前守を抜くと、天井を何回か突く。見つけた。点検口がある。肥前守でつついて蓋を開けると、むわっと強烈な霊気が漂ってきた。間違いない。

一応能力者の端くれ、一般人よりも身体能力は若干高い。ペンライトをくわえて飛びつくと、二度目で成功した。埃の感触が少ない。這い上がるようにして登ると、ペンライトの明かりに、物騒な代物が浮かび上がってきた。

狭い天井裏に、剣が突き刺さっている。ナイフくらいのサイズだが、見た瞬間に分かる。ヤバイ。触るだけでヤバイ。赤尾さんが言っていた、まがつ神の信仰に使われた物体だ。まがつ神を此処に呼び出し固定するために、上古の信仰の残骸を引っ張り出してきて、此処に刺すことで固定したのだという。花子さんを消すか、この剣を引っこ抜くかが、真由美に与えられた選択肢であった。

言うまでもなく、簡単なのは前者だ。花子さんと言っても、原型になっているのは怨念も薄れかけた少女の霊に過ぎない。その一方、此方の剣は、怪しい術をたんまり受けたであろう、古代の神様の怨念がたっぷり入った曰く付きの代物である。触るだけでただでは済まないだろうに、引っこ抜くとなれば一体どれほどの危険を伴うか。

狭い天井裏で、数秒間、真由美は剣とにらみ合っていた。だが目を閉じ、懐から熊の木彫りを取り出すと、ぎゅっと握りしめる。

決めたのだ。綺麗事であったとしても、それを通せるときは通すのだと。通せる可能性があるから、今回はそれにかけるのだと。

ナイフの柄を掴む。同時に頭に猛烈な痛みが走った。それが全身に走っていると気付くまでに、一秒を要した。ペンライトが口から転がり落ちる。

体が内側から破裂するかのようであった。剣を伝って、身体の内部に得体が知れない力が入り込んできているのが分かる。悲鳴が迸る。

「ああああああああああああああっ!」

「おねえちゃんっ!」

女の子の声がした。奥歯を噛んで、意識を平常位置に戻す。痛いけど、痛いけど、痛いけど。負けるわけには行かない。燃えるコロポックル達の家が、シレトコカムイの爪に容赦なくバラバラにされるコロポックル達の無惨な姿がフラッシュバックする。

ま、け、る、も、の、か!

純粋な闘志が、真由美の中に燃え上がった。それはじりじりと痛みを押していき、全身の筋肉に行き渡っていく。最後に真由美の中でフラッシュバックしたのは、困惑する女の子の霊の顔であった。自由という言葉に困惑する、可哀想な女の子の顔。最後の、渾身の力を込める。

「てえええええええええっ!」

勢いよく引っこ抜ける剣。同時に、痛みが消える。気が抜けた真由美は、学校のトイレの天井裏で、安堵の笑みを浮かべながら気絶した。

 

利津が神衣を発動させる。同時に、空へと舞い上がった。

爆発力を利用して、術者を一気に高空へ送り出すこの術は、神衣の付属品である。地上では殆ど全くと言って良いほど戦闘能力を発揮できない利津の神衣の力を、最大限に発揮するための、必須の術だ。

強烈なGが全身に掛かるが、慣れっこである。神子相争で五十回以上やった。唖然と自分を見上げるまがつ神の姿が、見る間に小さくなっていく。速度は徐々に落ちていき、やがて最高点に達すると、背中に翼が開いた。鳥のとはにていない。ハンググライダーのそれに近い。高速で飛ぶことは出来ず、滑空するようにして使う。高度が安定した所で、第二の詠唱開始。

「破壊の鳥朱雀よ、熱き汝の爪よ! その描く孤を戦輪と為し、眼下の塵芥をただ一息になぎ払え! そして後には、緑の沃野を!」

「ゴオオアアアアアアアアッ! これが狙いか! しかし、しかし! そうはさせるかああああああああああっ!」

全ての触手をバネのように軋ませ、まがつ神が飛んだ。初速もかなりのものだ。触手全てを束ねて、槍のようにして、貫くつもりであろう。彼の後ろからは、数百数千に達する悪霊が、笑い声や、うめき声や、悲鳴や、嬌声を上げながら続く。利津が何もしなければ、届いただろう。何もしなければ。

「フェニックス……!」

「死ねええええっ!」

「チャクラム!」

火力の申し子赤尾利津。朱雀の神子の、まさに神域の破壊術が解放された。

直径二メートルに達する超高密度の火球が、利津の手から放たれ、飛ぶ。そして利津から二百メートルほど離れた地点で発動した。それは、神子相争の時は地上の障害物と敵を半径数百メートルに渡って処理するための術であった。中心点にある火球から、周囲の円周上に小型の火球を連射するものである。小型の火球は何かに触れた瞬間に炸裂する。結果的に、円盤状に周囲をなぎ払い、草一本残さない。

今は空中で発動可能なように調整が行われている。空に出現したのは、大輪の炎の花であった。それは摂氏八千度に達する超高熱を発しながら、半径三百五十メートルに渡って展開。薄い円盤状の勢力圏内にいる、全てのものを焼き尽くし、蒸発させた。

悪霊などひとたまりもない。実体化まがつ神の触手も見る間に焼き尽くされ、絶叫は轟音の中に消えた。続けて第三の術を唱える。ガーディアンバードだ。利津の周囲百メートルほどの円周上を自動哨戒する術であり、一定時間で消滅するが、オートで動くために奇襲を防ぐのには最適だ。詠唱を終えると、無数の炎の鳥が、利津の周囲を飛び始めた。今の一撃を生き抜いたり、迂回して回避した悪霊が続々群がってくるが、どれもガーディアンに叩き落とされ焼き尽くされ、利津には近づくことも出来ない。希に近づく者もいたが、神衣を身につけた利津の巨大な力に当てられ、触ることも出来ずに焼き尽くされ消えていく。

第四の術を唱える利津。彼女の表情は、まだ決して明るくない。フェニックスチャクラムが消えた跡には巨大な煙の輪ができており、それは利津に対しても敵に対しても煙幕になっている。目を閉じ、全身の痛みに耐えながら、利津は最後の激突に備えて神経を研ぐ。

「シャアアアアアッ!」

正面から僅かにそれた地点。全身焼けただれた男が飛び出してきた。全身に原始的なタトゥーを入れた半裸の男で、目は片方が無く、髪もない。歯もほとんど無い。手には古風な、中央部の幅が膨らんだ、埴輪が持っているような剣を手にし、眼光はぎらぎらと利津の首筋だけを狙っていた。最初の跳躍にも迫る勢いで、男は利津へと一気に距離を詰めてきた。無数のガーディアンバードが立ちはだかるが、苛烈を極める迎撃砲火にも男の勢いは減殺されず、ついに利津の首をはねるかと思われた、その時。

利津の詠唱が間に合った。

それは利津の基本術。火球を最大七つ同時に発生させ、敵に撃ち放つ。命中精度は低いが、一発一発がビルを吹き飛ばす程の破壊力を持つ。唖然とする男の前に、四メートル超という桁違いの火球が出現する。

「幾ら火に強いタタラの神でも、これを受けて無事でいられますかしらっ!」

「ほざけえええええええええええええっ!」

撃ち放たれた火球と、神がぶつかり合う。しばし互角の競り合いが続いたが、傷だらけの神はじりじりと押され、やがて火球に完全に飲まれた。火球は速度を徐々に上げ、利津から三百メートルほど離れた地点で炸裂した。

直径百メートルに達する爆発が、Sヶ丘小学校の空をこがした。

この日、空に浮かび上がった異常な火球は、これが最後であった。

 

ゆっくり高度を落とし、まだ僅かに残っている悪霊共を掃除しながら、利津は疲れ切った肩を自分で揉んでいた。足はもう感覚がないので、後で回復の術を念入りにかけねばならない。桐ほどではないが、利津も回復術が使える。ただこの傷だと、治るまで数日を擁するだろう。

そんな利津の前に、もう力を残していない実体化まがつ神の輪郭が浮かび上がってきた。凄惨な姿であった。唇を引き結ぶ神と利津はしばし相対していたが、やがて利津が表情を緩めた。

「流石は古代の神。 素晴らしい実力でしたわ」

「いや、空駆ける戦士よ。 貴公の圧倒的な勝利だ。 我をおびき出し、巣を滅ぼし、そして自分が最も得意とする局面へ引きずり込んだ手腕、恐れ入った」

「いやいや、作戦では確かに勝っていましたけれど、何度も冷や冷やしましたわ。 悲しいことですけれど、もう、名前は覚えていないのでしょう? 恐らく遺品を供養するだけになりますけれど、我慢して頂けますかしら?」

「貴公ほどの武人に供養されるのなら、我は本望だ。 さらばだ、紅き空の戦士よ」

神が消えていく。煙のように溶けていく。手を振っていた利津は、力が抜けていくのを感じて、思わず呻く。

流石に利津も、此処までこの実体化まがつ神……今はもう名前も失伝しているタタラの神がやるとは思っていなかった。だから、傷が増えた。

タタラ。製鉄技術の事だ。古代、製鉄技術は国家を左右するほど貴重な代物であった。技術を持つ人間はタタラ師と呼ばれ、畏敬を持って接せられていた。有名なヤマタノオロチの正体の説の一つが製鉄技術を持つ一族であるという説の存在が、人々の畏敬の大きさを良く示しているとも言える。

古代の製鉄技術は過酷であった。何しろ鉱物加工の強烈な光を遮るものがなかった。だから多くのタタラ師が片目を失っていた。また、常に鞴(ふいご)を窮屈な姿勢で反復的に動かさねばならないため、片足に障害を持つ者も多かった。だが、タタラ師は自分の技術が生命線であることを知っていたから、その危険な技術を秘匿した。それがより畏敬を大きくし、やがては神格化、伝説の妖怪化を産んだ。有名な妖怪「イッポンダタラ」等は、そのものずばりタタラ師の姿を示しているとさえ言われている。

この実体化まがつ神も、その一つであった。

時代が流れると、タタラの技術は専有物ではなくなり、伝説のみが残って変質していった。この神はタタラを行う一族が崇めていた存在であり、アーキタイプの姿を見ると、伝説的な腕前のタタラ師が神格化されたものなのだろうと分析できる。

そして、花子さんを構成したおまじないの一部には、その信仰が紛れ込んでいたのだ。

西洋の降霊術だけではなく、さまざまな古代の信仰が混じったり消えたり現れたりしながら、あの戸を叩くという儀式に繋がった。そのつながりの過去には、もはや誰も知らないタタラの信仰が生きていたのである。原初の儀式がどんなモノであったのかは、桐ですらも分からないだろう。

だから利津は覚えておく。刃を交えた、あの姿のことを。

そして、まだ戦いは終わっていない。利津は唇を噛むと、若干高度を上げ、更なる戦いに備えてガーディアンバードを唱えなおした。

 

遠くからの呼び声に釣られて、真由美が目を覚ます。頬に走る冷たい感触。まだしびれが残る手をペンライトに伸ばして、其方を照らすと、女の子の霊が真由美と同じように腹這いになってにんまり笑っていた。

「ありがとう、お姉ちゃん。 あたし、トイレから、出られるようになったみたい」

「うん……良かった。 体、おかしな所はない?」

「幽霊に対して言う台詞? あははははははははははは」

「ご、ごめん。 もう笑う余力もないよ」

けたけた笑っていた女の子の頭に手を伸ばして、撫でる。不思議と涙がこぼれてきた。

「どうして泣くの?」

「嬉しいの。 初めて、生まれて初めて、守ることが出来たから」

「……辛い?」

「大丈夫。 そんなに、辛くはないよ」

どうにかこうにか苦労しながら点検口から降りる。トイレから降りるときに、腰が抜けてタイルの床にへたり込んでしまう。天井をすり抜けて降りてきた女の子は、けたけたと笑いながら、何か言いかけて止まった。一点を見つめていた彼女は、不意に真由美の前に背中を向けて立ち塞がると、手を横に広げた。何かを防ごうと言うみたいに。真由美を庇うみたいに。どうしたのと言おうとした真由美は、腰が抜けた理由がやっと分かった。

震えが止まらない。怖くて動けない。歯がかみ合わない。

復活した明かりに照らされ、男がトイレの入り口に立っていた。汚い浅黄色の着物を身に纏った男で、年は四十少し前くらい。髷を結い、四角い顎は無精髭だらけ。時代劇のように腰に大小の刀を下げ、逆側の腰には妙にエキゾチックな袋を付けていた。

分かる。今なら分かる。この男、赤尾さんや、あの人に匹敵するか、それ以上の使い手だ。

「おねえちゃん、逃げてえっ! こいつ、こいつだよっ! 犯人はこいつだよっ!」

女の子の声が届く。すぐ近くで発せられているのに、そう感じる。ダメだ、もうダメだ。あいつの殺気は真由美自身に向いている。それである以上、逃げられる……訳がない。ジエンドだ。少し力が付いてきたから、余計に分かる。この男が、どれだけとんでもない存在なのか。

「ふうむ。 どうしてあの「デストロイヤー」がこんな小娘を育てているのか分からなかったが、合点がいったわ。 こやつは強くなるな。 災いの芽は……早めに摘むか」

「おねえちゃん! おねえちゃんっ! 早く!」

「うるさいハエだな。 散れ。 ……っ!」

刀を何時抜いたかさえ分からなかった。分かったのは、乱入したもう一人に対して、男が反応したこと。しかし反応より早く、乱入者が前蹴りを放ち、刀でガードした男がトラックに跳ね飛ばされたかのように吹っ飛んだこと。

男の代わりにトイレの入り口に立ったのは、あの人。銀月零香先生だった。

「間に合ったみたいだね。 真由美」

「ど、どうにか……」

「良くできました。 今の実力から考えると上出来以上だよ。 後は……わたしに任せて、一旦この場を離脱して」

「くくくくくくっ。 貴様、あの「虎帝」レイカだな。 近接戦闘強化系能力者ではアジアで五指に入る腕前だそうではないか。 この九十九一殺流(つくもいっさつりゅう)、高橋陽明の剣……受けてみるが良い!」

何事もなかったかのように、男の声が近づいてきた。分かる。零香先生と殺る気だ。零香先生も態勢を低くする。まずい。あんな奴と零香先生が本気でやり合ったら、学校が吹っ飛んで無くなってしまう。

「おねえちゃん、早く!」

「う、うん! でも」

「早く! まだおねえちゃんじゃ足手まといだよ!」

悔しいが女の子の霊の言うとおりだ。手を引かれて、真由美はトイレを駆け出た。背中で、物質化するほどの高密度な殺気がぶつかり合っていた。振り返ることも出来なかった。怖くて怖くて、無理だった。

ダメだ、まだ力が足り無すぎる。もっと強く、もっと強く。更に強く!

先以上の人外魔境と化した学校を、女の子の霊に手を引かれて脱出しながら、真由美は強くそう思った。

 

6,新たな力を求めて

 

真由美は夜闇を走った。女の子の霊に手を引かれて走った。

どうにか志治波羅さんの車に逃げ込む。血相を変えた真由美と、一緒に乗り込んできた幽霊を見て彼女はすぐに表情を引き締める。この辺、流石は荒事専門のクライエントだ。事情を伝えると、すぐに民宿まで車をすっ飛ばしてくれた。ただ、それだけで安心は出来なかった。追撃を受けるのではないかと気が気ではなかったからだ。

疲れ果てているのに朝まで眠れなかった。それが終わったのは、朝方のことである。零香先生と赤尾さんが何事もなかったかのように帰ってきたのを見ると、疲労がどっと出て、倒れるように眠ってしまい、夕方にやっと目が覚めた。布団に入った覚えはない。玄関で出迎え、二人を見た直後から記憶がない。そのまま倒れて、布団まで運んで貰ったらしかった。

夕日が山稜に掛かり、世界が紅い。外に出ると、赤尾さんが民宿の縁側に座り、素足を揉みながら回復術をかけていた。年頃の女性なのだから、下手するとかなり艶っぽい光景になるはずだが、この人の場合はそれもない。健康的なだけだ。すぐそばには、あの女の子の霊が、縁側で腹這いになって、足をぶらぶらさせながら様子を眺めていた。本当に自由になることが出来たのだと分かって、真由美は少し嬉しかった。

胸がいっぱいで、何から話して良いか分からなかった。だから、最後まで気にしていた言葉が、最初に出てしまった。

「学校は……」

「開口一番がそれですの?」

苦笑した赤尾さんは、学校は無事だと言った。考えてみれば、真由美がもたついた分だけこの人は怪我をしたのである。一言謝ると、真由美はもう一つの疑念を口にする。

「あの怖い侍みたいな人は、どうしたんですか?」

「もう目的は果たしていたみたいですし、零香さんと軽くじゃれた後、すぐに帰ったそうですわ。 全く……」

「あの人も、ジェロウルさんの……」

「それについてはノーコメント」

まだ力量が足りないから教えられないと、赤尾さんの目が語っていた。肩を揉むように言われて、無言で従う。赤尾さんの肩は、結構こっていた。

「まだ、強くなりたいですの?」

「はい。 今回だって、零香先生が助けに来なければ、私じゃどうにも出来ませんでした」

零香先生が少しでも遅れれば、きっとその子も斬られていただろう。自分の命さえ守ることは出来なかっただろう。力が決定的に足りない。綺麗事を幾ら並べたって、あの状況では本当に何もならなかっただろう。あの侍を少しでもくい止められるだけの単純な力が、真由美には必要だったのだ。

「なら、明日からは少し厳しく鍛えますわよ」

「……お願いします」

思想に反発している暇はない。相手の思想を吟味する余裕すらない。相手と和解するなどもっと無理だ。

だから力が欲しい。もっと強くなりたい。そう願う真由美の瞳には、強い意志力が宿っていた。

 

肩を揉み終えると、赤尾さんは軽くびっこを引きながら、民宿の居間に戻っていった。体はまだ治りきっていないし、何より力の消耗が激しいので、お菓子を食べて昼寝をするのだとか。何しろ力の絶対量が凄まじいため、一晩休んだくらいでは回復しきらないのだそうである。

後には女の子の霊と、真由美が残された。女の子の霊は仰向けになると、ぼんやりと空を眺める。

「何だか、青空見たの久しぶり」

「辛かった?」

「最初はね。 いっそ噂通り、きゃあきゃあ騒ぐ小学生共をトイレに引きずり込んで八つ裂きにしてやろうかと何度も思ったわよ。 でも、あの神様が本当にやってるのを見て、気分が物凄く悪かった。 やらなくってよかったって、あの時は思ったっけ」

怖いことをさらりと言うが、表情は随分すっきりしている。だから、真由美も怒らずに、軽く笑って受け流した。

そういえば、忙しくて、大事なことを忘れていた事に思い当たる。真由美は体を起こして欠伸をした女の子の霊に、少し腰をかがめていった。

「名前、教えてくれる? 私は高円寺真由美よ」

「知らなかったの? あー、そういえば名前呼んでくれなかったっけ」

「教えて。 知りたいの」

「……美鈴葉子(みすずようこ)よ。 花子なんて名前じゃありませんからね」

二人は笑い合う。

不思議な友情が、始まった瞬間であった。

 

(続)