新たなる戦い

 

序、悲劇の太陽

 

その島は今や、戦場であった。いや、それは違う。正確には、屠殺場であった。戦いというには、あまりにも一方的であったからだ。

争っているのは二つの集団。一つは訓練されよく組織された正規兵。もう一方は銃さえ持たない、軽装備の者達。軽装備の者達は槍やら斧やら弓矢らで武装していて、中には素手の者さえいた。しかも衣服も脆弱で、半裸の者達も珍しくない。普通だったら、正規兵が圧勝するに決まっている。だが違った。怯えきった正規兵達は、殆ど抵抗することさえ出来ず、一方的に狩り立てられていた。軽装備の者達には、負傷者さえ希である。

元々きな臭い話ばかりが漂う島であり、民間人はほとんど住んでいなかったが、それでもこの島を悲劇が覆ったことに間違いはない。島の一角には、虐殺者達が侵入に用いたホバークラフトが数隻停泊しており、もう用はないとないとばかりに誰も見向きもしない。

島の岬には、輿に跪く複数の人影があった。輿は四人の大人が担ぐ豪勢なものであり、今は地面に降ろされている。台座には四本の柱があり、豪奢な細工が施され、屋根も着いていて雨露を通さない。更には柱と柱の間にはレースの覆いがなされていて誰も中が見えない。夜闇の中ではなおさらだ。岬は少し高い位置にあり、其処からなら火線が飛び交う島の様子が一望できた。一秒ごとに火線は減っていく。

「抵抗は軽微です。 間もなく制圧は完了します」

跪く老人の一人が、分かり切ったことを言った。牙や宝石を連ねた原始的な首飾りが風に揺れる。赤銅色の全身に入れ墨をして、白い髭を口元に蓄えた半裸の男だ。腰から下に履いている布状の衣服も、あまり都会の人間が身につけるものではない。他の人間達も、似たかよったかの格好だ。そして彼らが、近代兵器で武装した一個大隊の兵士達を、五十人程度の戦力で、こともなげなほどに圧倒的な実力で今排除しているのだ。

「ようやく、ようやく、よ、ようやく我らが悲願が……」

「言うな! 言うなロウザルス!」

誰かの目から涙がこぼれ落ちると、他の者達もすすり泣く。自分たちが後戻りできない所へ来てしまったことを、忘れてしまったかのような有様だ。輿の中から声はない。ただ泣きあかす者達を悲しむように、寂しむように。

不意に、頭垂れる老人達の前に、血だらけの正規兵が躍り出た。苦痛と恐怖で正気を失っている彼の手にはG36突撃銃があり、月光を反射してぎらぎらと輝いていた。彼は老人達と輿を視認すると、絶叫しながら引き金を引く。

輿の中が動いたのは、その時だった。

銃口から、凶悪な殺傷力を持つ無数の銃弾が、輿と老人達に襲いかかった。そして、彼らの六十センチほど手前にて、止まった。弾かれたのではない。まるで物理法則を無視するかのように、止まったのだ。音もしなかった。一発や二発ではない。乱射される銃弾のその全てが、六十センチ前の見えない壁にて停止していく。びっしりと浮かぶ大量の銃弾。兵士は恐怖に駆られて、悲鳴を上げながら、一歩、二歩下がりつつも、更に銃を乱射した。だが、壁はどうしても突破できなかった。

老人の一人が動く。口の中で何やら呟いたかと思うと、右手を天に向け、地面に何かを叩き付けるような動作をする。兵士の命が終わった。頭が千切れ、地面に叩き付けられて潰れたのだ。まるで飛行機から落とされたかのように、無惨な潰れ方であった。頭部を失った体はしばし痙攣していたが、やがて大量の血を撒きながら地面に崩れ落ちた。

老人は能力者であった。気や魔力などと呼ばれる力を使い、さまざまな人外の技を用いる者であった。魔法や術などと呼ばれる、高度にプログラム化された者を使う連中とは少し違う。より原始的で、より非理性的な、むき出しの刃のような力を得意とする能力者であった。

「太陽神、お手元をお騒がせいたしました」

「良い。 抵抗がある事は分かり切っていた」

輿の中から声がした。女の声だ。まだ年若い。だがとんでもなく落ち着いていて、聞くだけではっとするような威厳があった。老人は再び頭を下げると、周囲の警戒に入る。

驚くべき事に。輿に乗っている者を含め、この島を制圧しつつある五十人ほどの者達全てが能力者であった。

人口一億を超える日本ですら、国が把握している戦闘特化型能力者の数は二十に足りないのである。しかもこれは先進国ではトップクラスの数だ。それだというのに、今この場に戦闘にだけ用いるような物騒な能力を備えた人間が五十以上。これが如何に桁違いなことか。これほどの数の戦闘特化型能力者が集まっている場所は、この地球上、他に無いとも言える。

太陽の神と呼ばれた輿の中の者は、他の誰もが聞いていないことを確認すると、小さくため息をついた。もう引き返すことは出来ない。酷薄な世間に痛めつけられた陽の翼の者達は、彼女の可愛い子供達は、とっくに限界に来ていた。今組織的にやらなければ、誰かが単独でやっていた。こんな小さな島でも、この哀れな流浪の民達には約束の地であった。希望の丘であった。世界で唯一、人間として生きられる場所であった。

だから止められなかった。それに、止める気もなかった。彼女自身、いい加減純朴な武人達をもてあそんでは良いように使うことしか考えていない人間共には、嫌気が差していたからである。何時の時代でも、何時の国でもそうであった。良いように使われ、良いように殺され、良いように約束を破られた。ただ、この島が欲しい。要求はそれだけだったというのに。

「歩く。 護衛せよ」

「ははーっ」

輿の中の女が言うと、すぐに老人の一人が輿の幕を開けた。月光の下へ晒された女は、自分の足で、外に踏み出した。

能力者であれば、思わず息をのんだことだろう。その身を覆う、あまりにも桁違いな力に。金色に輝く魔力が立ち上るその身は小さい。質素ながらも丁寧に編み上げられた衣服を二重三重に纏い、全身に動物の牙や宝石の原石を連ねた不思議なアクセサリーを着けたその少女は、素足で地面に降り立った。足首には、純金製のアンクレットがあった。彼女が身につけている装飾品のうち、もっとも高価な代物であった。褐色の肌は月光を照り返し、黄金の魔力が圧倒的な威厳とカリスマを演出している。長い長い、枝毛の一つもない艶やかな黒髪は、背中で滝となり、地面にまで到達している。

異様に整った顔立ちの少女だ。整いすぎていて、むしろ作り物めいているのが欠点と言えば欠点か。表情も希薄だが、落ち着いたその視線と物腰は、貴種であることを自然に周囲へ振りまいている。顔にまだ残る幼さと、どちらかと言えば平坦なボディラインも、むしろ神聖性をより強調する助けになっていた。無駄な肉は体に一切無く、手足共に見かけの年齢よりもずっとすらりと長い。見る者が見れば分かったであろう。

これは見かけばかり美しい飾りの体ではない。実戦によって鍛え抜かれた、戦士の肉体だ。

老人の一人が言う。

「御髪を拝借いたします」

「うむ」

紅い絹の布を取りだした老人が、滑らかにうねる少女の髪の先を包むと、くるくると巻いて腰の辺りまで持ち上げ、装飾品がついているベルトの、三カ所の鍵に恭しくセットした。そうすると、後光が差したとき、翼を持つように見えるのだ。

少女は歩き出す。もはや引き返せない状況の先へ。数百年も戦い続けて、漸く取り返すことが出来た、小さな小さな島の、生まれ故郷の島の奥へと。

誰も危険だ等とは言わない。並の人間が並の武装を用いても、護衛の老人達はともかく、この少女を殺せる可能性は絶無に近い。

少女が島の中央に着いた頃、抵抗は完全に止んだ。生き残った兵士達は銃を捨てて降伏し、命乞いをするばかりだった。能力者達は、彼らの崇める太陽の姿を見て、狂喜した。喝采した。勝利の雄叫びを上げた。

「神なる太陽に輝きあれ!」

「陽の翼、万歳!」

「約束の地に、栄光あれ!」

感情を隠して、少女はそれらの喝采を身に受ける。こういうときは、そんな態度の方が相手が喜ぶことを知っている。これから大変なのだから、せめて今だけでも喜ばせてあげたいのだ。老人達も、若者達も、揃って涙を流していた。戦闘マシーンと怖れられる彼らが、子供のように泣きじゃくり、感動に噎せてさえいた。

世界最大最強の能力者集団、陽の翼。彼らはこの日、世界最悪のテロリストにして、史上最強の犯罪集団となった。

……北米大陸、M国西部の、名前もない小さな島。

日本の淡路島とほぼ同じ面積を持ち、血塗られた歴史に彩られた此処は、五百六十年という長き時を経て、最初にこの島に到達した人間達の子孫の手に、力尽くで取り戻された。それがこれから更なる悲劇の火種となっていくことは、未来予知者でなくとも分かり切ったことであった。

狂乱の中、一人少女は冷静であった。何処までも現実を主体に考えることが出来たから、彼女は今まで生き残ってくることが出来た。彼女の頭脳は既にフル稼働を開始していた。彼女自身が生き残ることよりも、この哀れな迷い子達を生き残らせることに、最重要点を置いて。

 

1,波乱の墓参り

 

空港を出ると、其処はもう東京ではない。日本で最も自然多く、最も気候厳しく、そして最も人の手が入っていない土地。北海道である。

懐かしいと思い、銀月零香は辺りを見回して、タクシーを探した。買ったばかりのスポーツシューズの履き心地が素晴らしい。半袖半ズボンの格好も、気候にベストマッチだ。適度に焼けた肌を風が撫でる。

神子相争に最初に参加したときは、草虎が連絡してくれていたお陰で、タクシーを探す必要もなかったが、今は違う。何度も迷ったことが功を奏し、タクシー乗り場はすぐに見付かった。少し並んでから乗り込む。行き場所を告げると、運転手は多少小首を傾げながらも、すぐに発進してくれた。

銀月零香は、年に一度北海道に赴く。最初に命のやりとりをした相手であり、喰らった相手であり、今でも感慨深い存在であるツキキズの墓があるからである。

時は初夏。新緑の季節。北海道のその季節は、日本の他の何処よりも過ごしやすい。神子相争が終わってから、此処に来たのは四回目。零香は高校三年生になった。手足はすっかり伸びきり、顔から幼さも既に消えている。ショートの髪には相変わらず銀が上品に混ざっており、黒縁の伊達眼鏡とこれ以上もなく良くマッチしていた。体型はどちらかと言えば貧弱で色気も希薄だが、それは逆に健康的な魅力を良く引き立てている。社会的には子供だが、もうすっかり零香は大人になっていた。大人になっているし、外出時には化粧をすることもある。ただ、今日は化粧をしてきていない。元々極めて模範的な健康優良児である零香には、殆ど化粧が必要ないというのも事実であった。生で零香という存在が確立しているので、人工物で引き立てる必要がないのだ。

周囲の状況もしっかり安定し、こんな事が出来るようになった。流れていく景色を窓硝子越しに見ながら、ツキキズとどんなことを話そうか、零香は思惑を巡らせる。間違いなく北海道最強の戦士だった彼を仕留めることが出来たのは、今でも零香の誇りである。

 

神子相争が終わって四年が過ぎた。零香の周囲にも、色々なことがあった。

例えば銀月家の状況であるが、それは完全に安定した。復帰した父林蔵は無言の威圧感で皆を従え、副家の長宗吾の引退も火種を消す要因となった。更に手腕を余す所無く発揮した零香の存在がある。零香はここ数年も怠けることなく分家と副家の間を駆け回り、銀月の家のトラブルを解決し続けた。零香自身に対する恩を積み重ねさせ、更には本家への忠誠心もきちんと獲得させる、一挙両得の上手いやり方であった。

だが、物事には良い側面と悪い側面が必ずある。ここ数年、零香にとって若干迷惑なことに、本家の跡取りは零香以外にないという声が主流を占めている。能力的には確かにもう零香以外の存在は考えられない。コネクション的にも、裏の実行部隊を率いる中月を完全に服従させ、法的な知識権限を持つ三日月を膝下に入れている。それに人格的にも、年齢よりも遙かに大人びている零香は問題ない。並の大人よりも遙かに老成しているほどだ。これ以上もないほどにリーダーの条件を満たしているのである。零香としては、将来的には総理大臣になりたい所なのだが、この分だとそれも難しいかも知れない。だがどうにか夢は叶えたい所だ。

私生活面でも、進展は決して少なくない。飛んでいくような時の中、溢れかえる力を制御できずに右往左往するのが若者だが、零香に関しては激しい実戦で鍛え上げたため、時間の中を丁寧に泳いでいる感がある。

父は相変わらず人間を完全に超えた領域で拳を磨いている。母は零香の妹である結香の次に、もう一人弟の巧巳を産んだ。後何人作るつもりかは、零香にも分からない。狼次郎先生は年を経てなお盛んであり、衰える気配は全くない。第一の友である奈々帆との友情は未だに続いている。高校生になった奈々帆はすっかり色っぽくなって、男子達には控えめな行動もあってモテモテだ。ただし零香と付き合い続けた結果かなり図太くもなっていて、安易に口説こうとしてけんもほろろにふられた男は少なくないそうである。また、暁寺にいた男子達も、それぞれの道を進んでいる。学校の暴君だった山崎はすっかり性格的にも丸くなり、今では零香とは別の高校で生徒会長をやっている。皆、それぞれの道を進んでいるのだ。

零香自身も、さまざまな事に挑戦している。生粋のバトルマニアであることを自覚し、更にそれを充足させる財力がある以上、何の惜しむ理由があろうか。

余暇を利用しては国内はくまなく巡り、海外も巡った。強いと言われる人間にはあらかた目を通してきたし、三十以上の道場破りを行い、十を超える能力者とも戦った。海外を旅行中に、ちょっかいを出してきた人身売買組織を根こそぎ壊滅させたこともあったし、マフィアの組を一つ潰したこともあった。自然界の強者で言うと、シベリア虎やアフリカ象、更にはホオジロザメとも交戦した。いずれもさまざまに興味深い戦いであり、零香の欲求を充分に満たしてくれた。更に世界の各地で、色々な実体化まがつ神とも戦ってきた。

それらの旅を通じて分かった事がある。零香はまだまだ未熟だと言うことである。拳は極めれば極めるほどに先がある。まだまだ頂点は全く見えない。究極の境地へたどり着こうと欲するからだと、最強の存在へなろうとする頭脳は共同しあい、暇さえあれば実戦へと自らを駆り立てた。

そして今の零香がある。零香は今の自分に満足しているし、未来も楽しみにしている。得た力を手放す気などさらさらない。弱者であることの悲しさを、イヤと言うほど知っている彼女なのだから。零香は今後も強者であり続けるつもりだ。ただ、子供時代の遺産に頼っている感がある事も確かにまた事実。何か新しいものを発見したいとも、零香は時々思ってはいる。

この旅は、軽い修行もかねている。タクシーは程なく目的の山麓に着き、料金を受け取ると無言で帰っていった。この周辺の山は完璧に把握しているし、危険はない。だが山とは生き物だ。植生は毎年代わるし、場合によっては風雨によって地形も変動している。今から変化した点を丁寧に見て回り、一週間の山ごもり修行に備えるのだ。

「変わらないな……此処は」

思わず嬉しさが口から漏れる。開発開発で国土を無意味に食い荒らす寄生虫共も多いが、この山にはまだ手が入っていない。どうだこの自然の美しさは。青々と瑞々しく、たかだかと猛々しく、ただそこに厳然としてある。古代の人間が、山そのものを異界として捉えたのも、この山をみれば良く分かる。

誰も見ていないことを確認してから、山道に入る。鬱蒼と茂った草木の匂いが、零香の気分を落ち着かせ、逆に野性を高揚させる。そして人間の視界から完全に隠れる位置にまで到達すると、身を低くしてダッシュ開始。一気に加速し、高速で森の中を駆け抜けていく。

神子相争をやっていた頃から、身体の強化、実戦の積み重ねは、欠かしたことがない。それでも、原点となるこの感覚は懐かしい。眼前に谷が迫る。勿論地形は把握しているからわざとだ。普通の人間なら落ちたら即死するほどの深さで、底には浅い川が流れている。舌なめずりしながら、零香は素早く印を切り、跳躍しながら術を発動させた。

全身が膨らむような感覚。神衣が体を覆っていく。白虎をかたどった、能力強化と近接戦闘に特化した神衣が具現化する。体の一部にまで入り込んだ、身体能力を桁違いに高める文字通りの神の衣だ。体を包む光消えぬまま、がけの中腹を蹴り、殆ど垂直の岩壁を素早く駆け上がる。上に出ると、態勢を低くしたまま、一つ咆吼した。

ガアアアアアアアアアアアアアッ!

びりびりと凄まじい音が山を駆けめぐり、野を圧し、木を揺らした。実に気持ちいい。咆吼の余韻にうっとりしていた零香は、だが殆ど間をおくこともなく、また山間を走り始める。殆ど音は立てない。

現在、昔に比べて神衣は若干の工夫を加えている。体の成長に併せて変化を加えるのは当然のことだ。

例えば、右手は神衣を具現化した時点で、ツキキズクローが装着されている。これはベースになる術として充分だと判断したからだ。その分神衣のコストは増しているが、それも今の力ならそれほど問題はない。同期の四人に比べて確かに術を扱う力は劣るが、それでも零香の保有する力は充分に増してきているのだ。

風のように、山の中をすり抜けていく。落ち葉を舞い上げることもなく、枝を軋ませることもなく。何もそこを通らなかったかのように、零香は駆ける。尻尾を最大限に使ってバランス調整能力をフル活用し、地形と植生に対する知識を補完しながら、零香は目的の場所へと近づいていった。

周囲の雰囲気が急転したのは、墓の僅か百メートルほど手前のことであった。

 

加速を続けていた零香は、不意の雰囲気変化を全身で感じていた。音で感じたのでもなく、匂いで感じたのでもない。むしろ殺気を感じたのだ。しかもそれは動物のものではなかった。

速度を落としつつ、周囲を見渡しやすい開けた場所へ移動すると、身を低くして足を止める。神子相争を終えた後も、人間の能力者や野生の猛獣、それに実体化まがつ神を相手に散々実戦を重ねて力を保存することに心血を注いできた零香だからこそ分かる。戦いは、いつ何があるか分からない。

戦場の相性が悪すぎて、格下に殺されかけたこともある。ラッキーパンチが見事に入って、一気に守勢に立たされたこともある。勝てると確信したときこそが危ない。神子相争で百回近く死闘を繰り返した零香だが、今でも自分が最強だ等という妄想は抱いていない。だからこそに、最善の迎撃態勢を整える。常に教わる立場だという姿勢を崩さない。そうやって、少しでも勝率を上げる。

敵の数は多分複数。一つ一つはそう大した相手ではないようだが、感じる雰囲気が未知だと言うことが零香の不安を加速させる。今まで見た誰とも気配が違うのだ。袋小路に移動して前面だけから敵を待つという手もあるが、相手の正体を特定できていない状況で、それは危険すぎる。出来れば避けたい。それらの判断を極短時間でしているうちに、状況に大きな変化があった。

ずっとせわしなく動いて周囲の音を拾っていた神衣の耳が、一方向からの音を探知したのだ。罠の可能性をまず考慮するが、どうも違うらしい。相手の戦闘面での力量は既に計り終えている。そう大した相手ではないようだが、それでも万全を期したい。

予備動作無し。不意に地面とほぼ水平に跳躍した零香は、一気に音との発生源をゼロにした。不意をつかれたらしく戸惑う相手の喉を左手で掴んで地面に叩き付け、もがくそれにクローを叩き込もうとして、寸前で止める。子供?いや、違う。小人だ。

周囲からわらわらと小人が出てくる。どれも背丈は六十pに届かない。それぞれ手に手に弓やら槍やら持っているが、幽霊の正体見たり枯れ尾花という奴で、特に脅威は感じない。妙なもので、相手の姿を見て、気配を直に確認すると、今までの警戒感は薄れていった。今ぎりぎりと地面に押しつけている奴同様。どれも大した力量じゃない。ハプニングが起こらない限り、一分以内で皆殺しに出来る。油断さえしなければ大丈夫だ。

手の下で暴れている奴はどうやら妙齢の女性らしく、もがくのが精一杯で抵抗するという感じではない。周囲を囲んでいる連中も仕掛けてくる様子はない。着衣は昔見たアイヌの民族衣装に近い。生の毛皮に近い地味な色合いの衣服を身に纏い、男はみんな髭を豊富に蓄えていて、女達も武装して周囲でどよめいている。アクセサリーも原始的で、牙や宝石の原石を使ったものが多かった。となると、これが噂のコロポックルと言う奴だ。抑えていた奴の喉から手を離した零香は、わざと大きな音を立てて手を払い、埃を落としながら言った。

「何? 戦いたいのなら、相手になってあげるけど?」

「だ、だまれ、怪物め!」

「怪物、ねえ……」

驚いたことに、標準日本語で返事が返ってくる。だが、驚かない。妖精に出会ったことは初めてではないからだ。大体の場合、妖精は語学堪能で、その国の標準語だけでなく、何カ国語かを使えることも珍しくない。何しろ寿命が長いし、人間から身を隠すには人間を知らないとならないからだ。

妖精という連中は実在する。彼らは実体化まがつ神の一種であり、人間の自然に対する信仰が何かしらの形を取ったものなのだ。戦闘能力は基本的に低めで、殆ど無力な奴も少なくない(たまに途轍もなく強力な奴もいるが、あくまで例外的な存在である)。この、北海道の伝承に出てくるコロポックルもその一種である。この手の連中と関わる仕事をしている親友の利津の話だと、それほどの力はなく、普段は山奥で生活していて人間と関わる事はまずないのだそうだ。昔北海道に住んでいた低身長種族の伝説が妖精化したというのは一般的な学説である。

以前利津や草虎に聞いた話によると、妖精達はどうしても人間世界で生活できなくなってくると精神の世界である神界へ帰ってしまうそうで、今ではイギリスも北欧も妖精は実存していないらしい。アジアの一部、アフリカや南北アメリカ大陸でも数は減少しているそうだ。中国辺りは現実主義の振興から絶滅が早く、十五世紀頃には姿を消していたのだという。コロポックルは先進国で生き残っている非常に珍しい妖精なのである。一部に対してはアイヌ出身の専門の能力者が保護さえしているそうだ。

彼らの生存率に対しては、人間の後ろ暗い生態が大きく影響している。何しろ、実体化まがつ神と違い、直接的な人間に対する脅威とならないことが減少の要因なのだ。動物は基本的に、脅威にならない相手に敬意を払わない。猿や鴉などの行動にはそれが露骨に現れているが、人間でもそれに大差はない。人間は容赦なく彼らの領域を侵略し続け、結果今では殆ど妖精は生き残っていないのである。

零香は取り合えず、神衣を解除する。光に包まれ、それが収まると、もとの半袖半ズボンに戻っていた。わざわざ解除したのは、怪物ではないのを示すのと同時に、別にこんな連中に一斉攻撃された所で、神衣が無くとも切り抜けられるからだ。

「これでいい? わたしは一応人間だよ」

屈んで相手と目線を合わせ、目だけ笑いながら零香が言うと、コロポックル達は顔を見合わせ、ひそひそと話し始める。拾った音声を解析すると、どうも不安に駆られてどうするべきか相談しているらしい。それにしても、臆病な者達である。何かしらの理由で零香を攻撃しようと出てきたのに、結局本人を見ると囲むだけで手を出してこなかったし、仲間を一人抑えられるだけで何も出来なくなってしまった。ただ、この臆病さこそが、彼らが絶滅せずに済んできた要因であろう。

「相談終わるまで待ってあげる。 ただ、墓参りしたいから、早く済ませてよね」

言い残すと、零香は近くの岩に腰掛け、リュックから買ってきた文庫本を取りだし読み始めた。長くなりそうなのは、相談の雰囲気から分かっていたからである。

墓参りをすぐに出来ないのは残念だが、別にそれはもういい。多分これは何かしらの戦いがこの先にある。それだけで、零香には充分だった。第一、あの戦士ツキキズに、面白い土産話が用意できるではないか。

零香はまだまだ、現役にて生粋のバトルマニアだ。戦意を抑えるには読書に限る。体の中でたぎる虎の、狂気の血が表に出過ぎてしまうと、戦いを冷静に進められなくなる。それでは勝率が下がる。勝っても損耗率が上がる。狂気と同棲してきた零香は、その辺りとても慎重であった。

文庫本の漫画を一冊丁度読み終えたとき、長老らしい、一際腰の曲がった髭の長い老人が零香に進み出てきた。髭は兎に角長いので、腰の辺りで綱状にしてベルトのように撒いている。目は胡麻粒のようで、顔には深い皺が刻まれており、動作は弱々しいが声はしっかりしていた。

「大変失礼いたしました。 此方、我らが里にご案内したいのですが、よろしいでしょうか。 貴方を一流の能力者と見込んで、頼みたいことがあります」

「丁度退屈していた所だし、話を聞くだけならかまわないよ。 引き受けるかはそれから判断する」

「有り難うございます。 有り難うございます。 では、此方へ」

見ると、数が減っている。先に住処に戻ったのか。慎重なことである。コロポックルを保護しているとかいう能力者が出張ってこない所を見ても、何かが起こっているのは明白だし、これは先が楽しみだ。平和が乱れることを積極的には願わないが、別に戦いがあっても良いとも思う。それが命のやりとりを愛するバトルマニアである零香の本音だ。

知っていたはずの山の中なのに、全く知らない場所がある。山にはいつも驚かされる。ツキキズと戦った辺りの大きな岩の側に亀裂があり、そこから地下深くへと降りられるのだ。周囲から非常に見えにくい構造になっており、これは盲点だった。

崖の途中には細い綱が幾重にも張り巡らされており、コロポックル達はそれを伝って器用に降りていく。零香はと言うと、しばらく腰をかがめて谷底までの地形を見ていた。そして地形を見切ると、そのまま跳躍、壁をジグザグに蹴って落下していき、四十メートルほどの谷底まで一気に降りきった。コロポックル達が怯えた声を上げる。谷底から空を見上げると、太陽がイヤにまぶしかった。谷底は湿っていて、蜘蛛が巣を作っている。蜘蛛の細い糸には露が沢山かかっていて、きらきらとまぶしい。ようやく追いついてきたコロポックル達が、おずおずと言う。

「こ、此方です」

「うん」

他にも幾つか聞かれるが、適当に応えるだけ。能力をべらべら喋るような真似はしない。こいつらにはどうせ神衣姿を見られているが、それでも安全のために具体的な能力をあかさないのは当然のことだ。今見せた崖の駆け下り程度で零香の能力を誤解してくれる相手なら苦労はないのだがと、ふと心中にてぼやく。

実体化まがつ神の中には、とんでもなく手強い奴も少なくない。とくに信仰が原始的で強く残っている地域の連中は危険だ。以前、高校二年生の時修行中にアフリカの奥地で戦った奴などは、今戦っても勝率が二割を超えるかどうか。そんな奴が出てくれば素晴らしいのだが。

コロポックル達に連れられて、狭い洞窟を行く。この時点で、零香は人間の血の臭いを感じていた。ひょっとすると例の保護観察官かも知れない。そのうち腰をかがめても歩けなくなってきたので、伏せて匍匐前進で行く。コロポックル達はすいすい行けるのに、此処だけはちょっと情けない。

洞窟は風が吹いているが、どうもずっと長い間使われてきたものだとは思えない。足跡も生活臭もほとんど無いのだ。その代わり、充満しているのは汗と血の臭いばかり。つまりこれは、避難先というか防空壕というか、そんな場所なのだ。やがて、天井が不意に高くなった。立ち上がった零香は、肌や服に着いた土を落としながら、辺りを見回す。ちょっとした鍾乳洞だった。

天井は高さにして十メートルもないだろうが、球形と一言で呼称するにはあまりにも開けている。複雑な形状の鍾乳石が天井からぶら下がり、壁は段々になっていて、所々からは水音もする。辺りには蝋燭のようにちっちゃな松明が無数に並べられており、奥の方には人の気配があった。この空間にいたコロポックルの中には、零香に槍を向けている者もいたが、長老がすぐに話を始めて、こわごわながらに槍を治めた。

奥の人影は咳き込んでいる。零香が歩み寄ると、その周囲にいてかいがいしく世話をしていたらしいコロポックル達がさっと散った。床には草で編んだらしい茶色の布が敷かれていて、同じように草で編んだらしい布団がその人物には被せられていた。零香が歩み寄るのに気付いたその人物は体を起こそうとしたが、零香自身が止める。

「大丈夫。 楽にしていて」

「は、はい……」

「これは手ひどくやられたみたいだね。 病院に行かないとダメだよ」

無言のまま、その人物は首を横に振った。

コロポックル達をそのまま大きくしたような格好の少女である。アイヌ系の民族衣装なのだと一目で分かる。牙を連ねたネックレスが、素朴ながらも良く丁寧に手入れされているのが一目で分かり、なかなかに興味深い。年は中学生くらいだろうか、顔にはまだまだ丸みが残っていて、幼い印象を受ける。ひょっとすると小学生かも知れない。背丈もそんなに高くない。目が大きな、綺麗と言うよりも可愛い子だ。セミロングの髪も綺麗で、かわいらしさを引き立てている。

身につけているのは、或いは能力者特有の戦装束なのかも知れない。こういう民族衣装を戦装束にする能力者は珍しくないのだ。少女は袈裟に大きな傷を受けていて、左上半身は、はだけた状態で手当を施されていた。手当と言っても拙劣であり、傷はどうにか塞がっているが、傷周辺が熱を持っていて、あまり状況は良くない。栄養が悪いと死ぬ可能性も低くない。

自分が散々怪我をしてきたせいもあり、零香はこの辺的確な判断をすることが出来た。ただし、どうすれば直るかとか、どんな薬がいいのかとか、そういった専門知識はほとんど無いに等しい。餅は餅屋と言う奴で、応急処置以外は医者に任せる主義を貫いていたからである。

「どうして病院に行かないの?」

「私が、此処にいることで、どうにかコロポックル達は不安にならずにいます。 今離れたら、彼らは散り散りばらばらになって、結局みんなシレトコカムイの餌になってしまうでしょう。 助けを呼ぼうにも、携帯は壊されてしまいました」

そこまで話して、少女は咳き込んだ。なるほど、少女を此処まで痛めつけたのは、シレトコカムイという奴だと言うわけだ。カムイは確かアイヌ語で神だったはず。となると、実体化まがつ神か。なかなか面白い。舌なめずりしそうになる。

「話しにくいから、名前教えてくれる? わたしは銀月零香」

「ピリカといいます。 日本語の名前もありますが、此処ではピリカです」

確かそれは、アイヌ語で可愛いとか美しいとかそういう意味の言葉だ。充分名前通りの姿である。少し熱っぽくて色っぽさが増しているのも、その要因かも知れない。気弱そうな少女は、本当に申し訳なさそうに零香を見上げた。

「ごめんなさい。 私が弱くて頼りないばかりに」

「気にしないで」

「貴方は、政府関係の能力者ですか? 物凄い力を感じるのですが」

「残念だけど違うよ。 協力することは時々あるけどね。 今日は単に山ごもりの目的で来て、それで彼奴らに頼み込まれたわけ」

布団に寝かせると、バックからスポーツ飲料を取り出す。市販品の、何処でも手に入るものだ。それと後幾つか缶詰を取りだして開ける。

「ほら、見たところここ数日ろくに食べてないでしょ? 栄養付ける」

「私のせいで、何十ものコロポックルが命を落としました。 彼らのことを思うと、何も喉を通りません」

「食べないって言うのなら、力にもなってあげないよ。 わたしも慈善家じゃないし、面白くもない殺し合いはしたくないからね」

「……はい」

見たところ、かなりデリケートな少女なのは分かる。都会には今時生息していないタイプの、純朴という言葉が似合う、絶滅危惧種に等しい子だ。

此処で死なれても寝覚めが悪い。一応関わった相手なのだし、助けられるのなら助けておくのが情けというものだ。今まで散々関わってきた、下劣な人間共と一緒になりたくない。それが零香の本音である。だから、少し脅しも含んだきつい言葉を使った。まず、こういったときは喰うことだ。

少しずつ食べ始めるピリカを確認すると、零香は一旦空洞の端によって、長老を呼ぶ。どうしてこんな事態になったのか、聞く必要があったからだ。場合によっては戦いを避けなければならないし、それに戦いの前に相手の情報を最大限入手しておくのは基本中の基本である。

実戦は一ヶ月ぶりだ。戦うにしても戦わないにしても、眼前にすればやはりどうしても血が騒ぐ。岩塩のスティックを取り出すと、零香はひと囓りした。

 

シレトコカムイ。アイヌの言葉において、最果ての神という意味である。零香は正式に、そのシレトコカムイを撃破することを頼まれた。勿論答えはわざと曖昧にぼかしておいて、長老に話を進めさせる。受けるのは、一人で対処可能と判断してからだ。あまりにも手に余る場合は、仲間を呼ばねばならない。その可能性は、現時点では低いが、実戦では、どれだけ慎重を期しても過剰だということはない。石橋を叩いて渡る人間が、実戦の中生き残ることが出来るのだ。

アイヌ語、及びアイヌ文化圏において、神というのはほぼ同じながらも、若干日本語と意味が異なっている。例えば大鷲は大空の神と言われるし、シャチは大海の神と言われる。彼らは異界である山の中では人間の姿をしていて、里に下りてくるときだけ獣の姿に変わると言われていた。八百八万の神と言われる日本本土の自然信仰よりも、更に一歩踏み込んだ、濃厚な自然崇拝が行われてきた土地なのだ。北海道の厳しい自然環境自体が、その峻烈な崇拝そのものの母胎になったとも言える。

そう言った土地柄だから、自然現象も当然神の名が冠せられる。当然、悪魔的な存在にも、である。

シレトコカムイは、形がない存在だ。概念的な神には良くあることで、単純に「地の底に巣くう存在」としてコロポックル達には認識されていた。地の底に巣くい、時々地上に現れて災厄をもたらそうとするのだという。

こういった概念的な存在であることを後押ししているのが、文字が存在しないと言うアイヌ文化の形態である。文字がなければ言葉で伝えていくしかない訳で、必然的に形がないものはどんどん概念的な存在へと変化していくことになる。元々、シレトコカムイには何か原型があったのかも知れないが、今ではすっかり形がない神になってしまった訳だ。一流の民俗学者でも、原型を洗い出すのは難しいかも知れない。

空洞の隅で、時々ピリカがきちんと食事を取っているのか確認しながら、零香は長老に話を一つ一つ丁寧に聞いていく。聞き出す技術は、勝率を上げるために必要だから積極的に学んだ。零香の生活は、基本的に殺し合いを前提とした戦いを中心に廻っている。この辺り、最近の日本人には存在しない人種であるとも言える。そして零香は、そんな生活の中に自分を置くのが大好きだ。

長老の話によると、シレトコカムイが不意にコロポックルの里を襲ったのは、三ヶ月ほど前だという。なにぶんいきなりのことであったし、コロポックルは殆ど抵抗できなかったそうだ。というよりも、あくまで伝説的な存在だったシレトコカムイが、コロポックルを襲うことそのものが空前絶後の事態だったそうである。

「古い伝承にも、シレトコカムイが暴れたというものは多いです。 しかし、具体的な被害については殆ど触れられておらず、あくまでそれは自然災害の抽象化だと我らは考えておりました。 それに、我らが知るシレトコカムイは、龍脈に巣くっているだけの無害な固まりに過ぎません。 それが、我らの里を襲いました。 しかも、それは……」

形を持っていたのだという。外見的には熊に似ていたそうで、翼と無数の触手を持ち、顔は蛇に近かったそうだ。シレトコカムイと分かったのは、気配が同一だったからで、それがなければそうとは分からなかっただろうと、長老は言った。

基本的に、現世の信仰に現れる「神」は古代人が作りだした物だ。古代、信仰が社会的に必要だった時代。異界から純粋なる力を呼び出し、それに信仰を用いて形を与えた。それが神である。実体化まがつ神というのは、信仰が失われたり変動したりして、世界に取り残されたり、信仰で与えられたバグが顕在化して、無差別に破壊を繰り返すようになったものを指す。逆にいえば、こういった実体化まがつ神は、信仰にそった姿をしているのだ。形無き神であれば実体化まがつ神になっても普通形を持たない。それが、形を持っていたのだという。

少し考えた後、零香は話を進めて貰うことにした。まずは状況の全体的な把握が必要になってくる。

そのシレトコカムイの手によって、二つの里が滅ぼされた。シレトコカムイはコロポックル達を喰らうことよりも、里のある場所を制圧することに執心の様子だったそうである。残った者達は猛威を振るうシレトコカムイから逃れるためにすぐに各々の里を後にし、そのころ漸く状況を把握した長老の手によってピリカが呼ばれた。

ピリカは拠点防衛型の能力者で、防御結界の展開や回復系の術に秀でたものがあるという。雰囲気的には桐に似ている。ただ、少し話を聞いた分では、桐ほど戦闘向けの能力者ではないようだ。重火器を持った人間が相手ならどうにかなる、程度のレベルに過ぎない。回復術も自分にはかけられないなど、かなり制約が大きい。コロポックル達は戦力を集め、ピリカと共に、残った里の一つでシレトコカムイに決戦を挑んだ。しかしそのピリカも、圧倒的なシレトコカムイの力にひとたまりもなくねじ伏せられてしまった。

「その戦いで、我々も多くの仲間を失ってしまいました。 僅かながら術を使える者達も、皆戦える状況ではありません」

殿軍になったピリカが、大けがを負って倒れているのを発見したコロポックル達は、何とか残存勢力を纏めてこの穴に逃げ込んだ。どうにか態勢だけは立て直したが、しかしもう戦う余力は無いという。若い者達は、他の地域に住むコロポックルに危険を知らせに向かっており、今襲われたらひとたまりもないそうだ。そこへ零香が現れた。神経過敏になっていたコロポックル達は、襲って返り討ちに会いかけた、という訳である。

状況は大体把握したが、色々分からないことが多い。話を聞く分では、このシレトコカムイという実体化まがつ神、人を襲うようなタイプではない。どちらかと言えば自然災害への畏敬を保つために組まれた神であり、怖いことは怖いが実際に人に被害を及ぼす存在ではないのだ。

「シレトコカムイという神には、知性はあるの?」

「簡単なものなら。 ただ今は凶暴化してしまっていて、言葉が通じるとは思えません」

「いや、知性があることが分かればいいよ。 そうなってくると……」

仮説を立てた零香は、それを証明するべく、バックから携帯を取りだして親友である利津に電話した。普通のものよりも遙かに電波が強力な特別製だ。同じく神子相争の地獄をくぐり抜けた利津は、もっともまがつ神などに関わる仕事を今している。こういう話なら、利津の説の方が多分信憑性が高い。暫く話してみると、どうやら間違いなさそうであった。

「何か、分かりましたでしょうか」

「大体状況は分かった。 多分、敵はそいつとは別にいるよ。 シレトコカムイとか言う神は、操られているだけだね。 恐らくは、人間の能力者に」

「……。 我々には、とんと心当たりが……。 人間とは生活圏が重ならないようにしてきましたし、恨みを買ういわれはありませぬ」

長老は肩を落としきった様子で言った。確かに、コロポックルに恨みを抱く人間など聞いたことがない。開発事業があれば、無言で退去して別の所に移るような、反発心のない覇気もない、他者との摩擦を避けるだけ避けて生き延びてきた者達なのだ。噂によると、政府機関の人間も、手が掛からなくて良いと、日頃から良い意味でも悪い意味でも褒めちぎっているとか。

しかし人の恨みはどんな形で発生するか分からないし、どんな風な経路で敵に向くかも分からない。それは神子相争の中で、嫌と言うほど思い知らされたことである。

彼を置いておいて、ピリカの元へ戻る。彼女は缶詰を全部綺麗に食べおえていた。何だかんだと言っても、結局お腹は空いていたのである。零香の視線に気付くと、ピリカは真っ赤になって俯いた。同性から見ても随分と可愛い子である。母性本能の強い人なら激しくそれを刺激されるかも知れない。

今度は具体的なシレトコカムイの戦闘能力と戦闘スタイルを聞いておく必要がある。十中八九、シレトコカムイとの戦いは避けられないし、出来るだけダメージは抑えなければならない。

数え切れぬほどの戦いを潜ってきた零香だからこそ、戦いには慎重なのだ。

暫く話をするが、少し交戦しただけだというのに、ピリカの記憶は正確であり、かなり参考になった。感心して頷いていた零香に、おずおずとピリカが言う。

「それで、引き受けてくださいますでしょうか」

「何かわたしに支払えるものはある? 別にキャッシュでなくても良い。 宝石とか、或いは力のこもった道具とか」

「そ、それは、その……」

「命を賭けて戦うんだから、それは当然のことでしょう? ま、勿論後払いで構わないけどね」

異形の討伐の依頼は、零香も何回かやったことがある。それで知ったのだが、この業界、報酬の後払いは不文律となっている。先払いして逃げられたら丸損というのもあるのだが、報酬を抱えて戦うわけには行かないと言うのも理由になっている。もう一つ、重要な理由がある。討伐を果たした後報酬が払えないのなら、依頼主を殲滅しても構わないと言うのが、暗黙のルールになっているのだ。こういう風潮が当然の業界である。元々能力者には気むずかしい人間が多く、狡猾で邪悪な、「普通の人間」を憎悪しているものも少なくない。事実、零香の親友にも一人居る。

応えに困るピリカに、長老が助け船を出す。コロポックル達はピリカを大事に思っているようで、それ以上に今を生き残ることに必死なのだ。

「そ、そうですな。 翡翠が奴に襲われた里に保管してあります。 た、確か人間の規格だと、四カラットほどになるはずです」

「それが今もある保証は?」

「金庫にしまってありますので、多分大丈夫かと。 それにあのシレトコカムイ、土地を占有することに興味を示しても、それ以外には見向きもしませんでした」

「……まあ、いいでしょ。 誓約書、サイン」

リュックから取りだした紙に素早く誓約書を書き付けると、零香は長老にサインを求める。長老は周囲の者達と視線を交差し会うと、それに血判した。ちょっと意地悪かも知れないとは思う。だが、仕事である以上、こういったことははっきりさせて置かねばならない。実のところ、無条件で助けてあげても良いとは思う。だが今回は、コロポックルに代金支払い能力もあるし、例外を一度作ってしまうと後でそれが一般常識とすり替わってしまう恐れがある。

以前会った妖精達は、コロポックルよりもっと酷い環境下で暮らしていた。富も持っていなかったし、保護を受けていない事もあった。内戦が行われている国の妖精などは、生活をいつも破壊され通しで、人間に対して不満しか持っていない様子だった。それでも、零香が助けたら、きちんと誠意を形で見せてくれた。形で見せることが出来ない者は、精一杯の恩を零香に向けてくれた。世の中は、そう言う風に廻っている。

少し厳しい目でピリカが自分を見ているのに零香は気付く。彼女は零香自身が分からないと言う言葉を、視線の形で向けてきていた。零香は柔らかい視線を向け返し、そして言う。

「どうして、て顔をしてるね」

「……ごめんなさい。 でも、分からなくて」

「まず第一に、わたしは戦いが好き。 正確には命のやりとりが好き。 今の日本には珍しい人種だってのは理解しているよ。 でもね、戦いが好きなの。 だからキミらに理があると言うことが分かった以上、引き受けるのに躊躇はいらない」

零香の言葉に、半身を起こしたピリカは明らかに非難の視線を向けてきた。金銭のために、私利私欲で殺し合いをするという事の意味は、平和な時代の人間からすれば理解出来ないだろう。

「第二に、わたしの恩人の墓が此処にある。 いや、恩熊か」

「その熊さんのお墓を、あらされたくないと言うことですか?」

「それもある。 メインの理由は、ツキキズに面白い土産話を持っていきたい、て事だけどね。 わたしが喰ったあいつも、戦いが心底好きな奴だった。 きっと聞けば喜ぶよ」

唖然としたピリカは、見る間に青ざめていった。零香は腕を軽く回して準備運動をしながら、もう一つ言う。

「最後に、直接的な利害はないといえ、困っている弱者がいるのだし、助けてあげても損はない。 理由としては小さいけど、これも歴とした本音だよ」

「そんな……」

「君は弱いね。 能力的な事じゃない。 誰かを守るには、弱すぎる」

「……はい。 自覚しています」

「ならば、強くなればいい。 強くなれる人間は限られているけど、君はその少数なのじゃないかなと、わたしは思うよ」

それだけ言い残し、零香はその場を後にした。ピリカの将来性があると感じた理由は一つ。あれだけの大けがを負いながら、生き延びるまで戦い抜いたと言うことだ。環境が良ければ、この子はきっと強くなる。それは零香の本音であった。

 

クレバスを這い上がると、外はもう夜になっていた。空には数え切れないほどの星が瞬き、光害に汚染された都会の夜空とは比較にならない美しさだ。何回か来て山ごもりをしたが、その際の楽しみの一つがこれであった。アフリカの奥地やヨーロッパの片田舎で見た星空も美しかった。だが此処は土地に格別の思い出があるだけあり、ひいき目も加わって別格だった。

神衣を発動、態勢を低くして一挙に駆ける。まずクレバスの周囲を回って奴がいないかどうかを確認する。問題となってくるのは奴の気配だが、実体化まがつ神と言う奴はどうしてかどれもこれも気配が似ていて、探すことだけなら簡単だ。ただしものによっては能力が桁違いに高く、撃破は極めて難しい。

まず最初に、コロポックルの滅ぼされた里を一つ確認しに行く。最高速でまず山を登り切り、そびえ立つ一本杉の幹を蹴って空へと身を運び、大きく跳ね踊る木を眼下に見下ろす。ロケットのように空へ飛んだ零香は、山々の連なりと、遙か遠くの街の光を見た。素早く地図を取りだし、現在地と方向を把握。里の方向を確認し、柔らかく着地した。落ち葉がふわりと舞い上がった。

再びダッシュ。まさか無いとは思うが、コロポックルの里を襲撃された場合、あのピリカという子は確実に死ぬ。抵抗能力を無くしているコロポックル達も全滅しかねない。仕事を引き受けた以上、それはまずい。コロポックルの里というのがどういうものなのか少し興味があるが、今は仕事優先だ。走り、走り、走り抜けた零香は、数分で山二つを越え、目的の地点に到達していた。

周囲に敵影無し。それでも気配は消したまま。最高レベルの警戒態勢を維持し続ける。

森の中、深い茂みの中にあるその村は、生きた者の気配がしなかった。焼け跡もない。単に潰され、なぎ払われ、押し砕かれた無数の木々。腐臭が酷い。死んだコロポックルは消滅してしまうのだが、飼っていたイヌや羊はそうではない。死んだ家畜は食い荒らされていたが、傷口はどうみても野犬の喰い跡であり、それ以上の存在のものではなかった。襲撃の後、野犬が食い荒らしたのである。

足跡が幾つかある。足跡はどれも熊のそれに近い。土のへこみ具合と足跡の大きさからいい、体重は……軽く六百キロに達するだろう。北極圏のシロクマには一トン級の大物がいると言うが、流石にそのプレッシャーは零香も味わったことがない。どちらにしても、このまがつ神はそのシロクマよりも更に強いことが確実。破壊痕を調べると、主に二種類。一種類は強靱な爪のついた腕での一撃であり、もう一つは罅状の痕だ。前者は分かるのだが、後者が分からない。触手による打撃とも思えないし、爪による傷とも思えない。

地面に触れて見ると、妙に冷たい。コロポックルは妖精らしく、龍脈と言われるエネルギーが流れる場所に住み着いていると言うが、妙な違和感がある。零香はその辺にはあまり詳しくないのだが、ひょっとしてシレトコカムイの狙いは龍脈に蓄えられたエネルギーそのものなのではないのかと思えたのだ。

どちらにしても、要注意だ。この足跡の配置と破壊痕から言って、まだ抵抗能力があっただろうコロポックルの村をものの数分で木っ端微塵に粉砕している。相当に強い。更に、零香の想像が正しければ、此奴の背後にまだ何かいる。力を消耗しすぎるのもまずい。二つ目の村も、三つ目の村も似たような結果だった。

取り合えず、一端はコロポックル達の住処に戻ろうとした零香の感度が良すぎる耳に、羽音が響いた。鳥のものではないし、昆虫のものではない。数百キロの物体が、羽ばたいて飛んでいるという、あり得ない現象によって生じたものだ。

舌なめずりすると、零香は態勢を低くして、ヤブの中に隠れる。この白虎をかたどった神衣の模様は、ヤブの中で戦うことを最も得手とする。身を伏せたまま、零香は敵の到来を待った。

 

それは降るような星空の下、翼を用いて飛んでいた。航空力学を学んだ人間が目撃したら、卒倒するような光景である。

ざっと見たところ、重量は軽く六百キロ以上。零香の予想通りだ。全体的な姿は熊に似ていて、首は長く伸び、蛇に形状がよく似ている。肩から背中にかけて無数の触手が蠢き、その数は五十を下らないだろう。そして背中の中央部には、鷲によく似た翼があった。それを羽ばたかせて、奴は飛んでいるのだ。しかも、羽ばたく速度はゆっくりであり、とてもあの巨体を浮かすことが出来るとは思えない。

力学上あまりにもあり得ないが、出来ないこともない。多分一種の術であろう。似たようなものを見たことがある。飛行の術はコストが高い術であり、奴はあまり高速では飛べないはず。ただ、奴が高空にいる以上、攻撃の失敗はあまりにも危険である。これらの事は経験上知っている。神子相争で三回に一回も勝てなかった、強敵中の強敵、朱雀神子赤尾利津のお陰である。

さて、どうやって叩き落とすか。それを考え始めたとき、敵が先に動いた。長い首をひねって、一点を見つめる。釣られて視線を移した零香は舌打ちした。偵察に出ることはないとコロポックル達には念を押しておいたのだが、使者に出した連中が帰ってくることは忘れていたのだ。

奴は視点を必死に走っているコロポックルの若者に固定したまま動かない。成る程、巣にまで帰らせて、そこを襲うというわけだ。コロポックルがそれに気付いたとしても、追跡することで自ずと大まかな巣の位置は判断できる。獣的な思考だが、それが故に合理的だ。そしてこれは零香にとってチャンスであった。何かに気を取られた瞬間こそが、一番危険な瞬間なのである。

術を唱え、カタパルトシューターの準備をする。翼の最大の弱点は兎に角脆いことであり、至近で爆弾でも炸裂させれば一巻の終わりである。そして、高確率で飛行の術は翼を媒介にしている。十中八九、翼を破壊すれば叩き落とすことが可能だ。

狙撃に使う弾に関しては、今回は側に転がっている重さ五十キロほどの岩を使う。球体ではないため、投射すると抉り込むような軌道で飛んでいく。ライフル弾の原理と同じで、そう言った軌道の方が敵にぶちあたる可能性は高くなるのだ。狙撃の瞬間は、どうしても無防備になるし、なおかつ殺気が漏れるから危険である。更には、第三者による側面射撃の可能性も否定できない。周囲の地形は把握済みで、その危険は少ないと零香は判断した。少し上体を持ち上げると、膝を立ててカタパルトを固定する。そして、視線でコロポックルを追い続けるシレトコカムイに射線を向けた瞬間だった。

零香の立っていた地点が、濛々たる土煙に覆い隠された。

 

土煙から飛び出した零香は、カタパルトシューターを解除し、数歩バックステップして茂みの中を急いで下がった。間一髪であった。同じような状況を散々経験していなければ、とてもあれを避けることは出来なかっただろう。零香がさっきまで伏せていた地点を直撃した、肉厚のトマホークを。

トマホークというのは、片手で扱う手斧だ。接近専用の武器としても使えるし、投擲武器としても効果が高い。何しろ斧なので、弧を描いてブーメランのように飛ぶため、攻撃を避けづらい上に軌道も読みづらい。それにしても物凄い破壊力である。トマホークが突き刺さった辺りは、軽くクレーター化していた。半径三メートルほどが完全に吹っ飛んでいる。直撃していたら、神衣の上からも深刻なダメージを受けていただろう。内臓が潰れるぐらいの事は覚悟しないとならない。

トマホークが消えていく。術で作ったのだと一目瞭然だ。後は何もなかったかのように、静かな沈黙が訪れた。素早く零香は摺り足で位置を何度も変え、森の奥へと後退する。

当然シレトコカムイは今のやりとりに気付き、旋回しつつ高度を上げている。逃げるのではなく、十中八九攻撃の準備だ。それよりも、零香としてはもう一人の相手の方が気になる。零香の警戒網の外から、よりにもよってトマホークで正確無比な攻撃を叩き込んでくる相手だ。はっきり言って、力量は零香と同等か、下手をするとそれ以上だ。しかも今の瞬間、零香が回避に移った隙に、既に零香の気配探索圏から逃れ去っている。一瞬神子相争の経験者かと思ったが、少し雰囲気が違う。

これは面白くなってきたと零香は思った。今のヒットアンドアウェイは、想像を絶するほどに緻密な技だ。それに圧倒的なパワーを必要とする攻撃を織り交ぜている。次はどんな手を打ってくるのか、自分の命など度外視にしてわくわくする。度し難いバトルマニアの性だ。記憶を呼び起こせば、トマホークは長さにして一メートル半、重量は軽く百キロ以上もありそうなとんでもない大業物だ。

「シャアアアアアアッ!」

高空にて、シレトコカムイが咆吼する。戦いはまだ、始まったばかりであった。

 

2,異国の能力者

 

シレトコカムイの咆吼が轟き渡る。それに軽くトラウマを覚えている様子のコロポックル達は悲鳴を上げて逃げまどう。無理もない話である。元々臆病な小人達が、あのような巨神に破壊の爪を振るわれたのだ。泣く子供もいるし、腰が抜けてしまって震えている女もいる。だが、逃げるわけにはいかないものもいた。ピリカである。長老さえ右往左往している中、ピリカは身を起こし、立ち上がろうとさえした。それを見たコロポックル達が、静まっていく。長老が慌てきった声を上げた。

「ぴ、ピリカ殿!」

「怖れていてはなりません。 あの人は、零香さんは、あのシレトコカムイと戦っているんです。 だから、我々は自分たちに出来ることを……んっ……!?」

それ以上は言えなかった。傷口に焼き鏝を押し当てたような痛みが走ったからだ。自分の無力が憎い。弱さが辛い。強くなりたい。慌てて寝かそうとするコロポックル達に、ピリカは優しくも厳しい視線を向けた。

「まず、逃げる準備を。 今此処にシレトコカムイが来たら、みんな殺されてしまいます」

「は、はい!」

「若い人達は状況を確認してください。 他の人達は、退路の準備を」

「ピリカ様は!?」

「私は、最後まで残ります」

他には誰も出来ないのだ。だからやるしかない。着衣の乱れをただして、血だらけの道具を取り出す。時間稼ぎにしかならないが、それでも防御結界を張ることが出来なければ、あの不可解な遠距離攻撃を貰って一発で真っ二つだ。回復の術は自分に掛けることが出来ないが、ひょっとしたら負傷した零香を治療する機会があるかも知れない。ピリカが使うのは、先祖伝来の熊をかたどった木彫りの人形。熊はピリカの一族が崇めてきた、山の神の一種だ。

ピリカはアイヌ名の他、日本人としての名も持っている。其方の名前は高円寺真由美。実のところ、生粋のアイヌ人でもない。父は東京の商社マンであり、祖母は大阪の工場から嫁いできた。生活もアイヌ式というわけではない。普通に一軒家で暮らし、寒いときはストーブに当たり、暑いときはクーラーで涼む。今年高校生になったが、未だに連立方程式は苦手だし、英語は殆ど喋れない。

学校では殆ど特徴のないピリカは、空気のような存在であった。気が弱かった彼女は女子達ときゃあきゃあアイドルの話に興じることだって出来なかったし、夜遊びなんてもってのほかだったし、男の子なんて怖くて目だって合わせられなかった。そもそも自己主張が殆ど出来なかったのだ。遠足にしても、学園祭にしても、自主的に担当部署や班を決めたことなどほとんど無い。小学生の時、分からない問題で先生に指されて、おろおろするうちにクラス中に注目されて泣き出してしまったこともある。

単純に小動物的な魅力があり、無害であったから、虐められることはなかった。ただし、誰にも相手にされなかった。そんな真由美が変わったのは、中学に上がった頃である。

全身を掴む倦怠感と必死に戦いながら、立ち上がる。冷や汗が滝のように背中を胸を流れ落ちていった。傷口にも当然はいる。思わず悲鳴を上げそうになるが、我慢する。右往左往するコロポックルの一人と目があったので、必死に笑顔を作る。ただ立ち上がる、それだけの事なのに、まるでマラソンを走りきるような疲労が全身を蝕んでいた。傷口はどうにか開かなかったが、傷口の熱が脳に廻ったかのように、思考がはっきりしない。

「は、はやく皆準備せい!」

長老が叫び、皆あたふたと動き始める。昔の自分のようだと、ピリカは思う。悲しいし、それ以上に情けない。生きた鏡達が、彼女の眼前にいる。

能力に目覚めた日の事は今でも良く覚えている。三年前のこと。能力者としては早くも遅くもない覚醒であるという。買い物に出ていた先でトラックに轢かれかけたピリカは、避けようとして慌てた結果、激しく道に叩き付けられた。怒鳴り声を上げて走り去っていくトラックのエンジン音を聞きながら、自分が不思議な淡い光に包まれていることに気付いた。そして怪我一つしていないことにも。それを見ていたお婆ちゃんが、それが代々伝わる力だと言い、自らも同じような光を発言させて見せた。それが、転機の始まりであった。両親はこの日を覚悟していたらしい。自分が鍛えるというお婆ちゃんに、何も逆らわなかった。

能力に目覚めたピリカは、一年ほど激しい修練をした後に、コロポックル達の守護についた。ピリカという名前もその時に貰った。修行自体はイヤではなかった。何も出来ない非力な自分が、修練を通じて露骨に強くなっていくのを感じることが出来たからだ。

学校での態度も変わった。背がしゃんとしたし、からかう男子にも逆らえるようになった。イヤだと言うことは前よりもずっと強く意思表示できるようになった。自然変わっていく自分を感じるピリカは修練に身を入れ、どんどん力を使いこなせるようになっていった。

だが、コロポックルの守護に関しては、気乗りしなかった。何しろ最初は気持ち悪いだけだったのだ。中途半端な大きさのコロポックルは、生理的な恐怖感をピリカに呼び起こさせたのである。人形には大きすぎるし、子供にしては小さすぎるからだ。当然関係も上手くいかなかった。ピリカがコロポックル達と話していくうちに、まるで自分が眼前にいるような感触を覚えるまでは。

弱いから臆病。脆弱だから事なかれ主義。だから生き残ってくることが出来た。

生物としては、それは正しいことだ。事実先進国で生き残っている数少ない妖精なのだ。実績がそれを証明している。その生き方に異を唱える事も出来ないし、そんな資格もない。だから、ただ守ろうとピリカは思った。自分がたまたま手に入れたこの力で、守ることが出来る者達を。そんな格好いいことが出来ればいいと、漠然と思っていた。その結果がこれだ。

世の大人達が、子供を守るためにどれほどの犠牲を強いられているのか、ピリカはこの年くらいまでは全く考えることも出来なかった。殆ど趣味だって出来ず、毎日ストレスに追われ、残業残業また残業。頭を下げたくもないゲス共に平身低頭せねばならず、分からず屋のユーザーのクレームを受けて胃を痛め、行きたくもない酒屋に行って上司のくだに付き合わねばならない。プライベートな時間は残業残業で削らねばならず、家庭を犠牲にすることが会社への貢献だと褒め称えられる。

平和な社会の大人ですらそれだけの犠牲を払い、殆ど人生をそれのみに費やしているのだ。こういった戦いのある世界で、何かを守ると言うことを、あまりにもピリカは甘く見すぎていた。この怪我は、その報いだともいえた。

どうにか立ち上がるが、一歩、また一歩と行くたびに頭ががんがん鳴った。まるで足を何かに掴まれているか、或いは泥沼を歩いているかのようだ。コロポックル達はもう荷物を纏めて逃げに入っている。それでいい。

あの零香という人は明らかにピリカよりも何段も格上の能力者であり、下手に出ていけば邪魔になるだけである。殿軍を務めたというのに、味方の足を引っ張って戦線を崩壊させてしまったら笑い話にもならない。クレバスを何とか半ばまで這い上がり、コロポックル達が逃げに転じるのを見届けると、ピリカは呼吸を整えながら、ぎゅっと熊の彫り物を握りしめた。行ける。頑張る。何度も言い聞かせて、クレバスから顔を出した瞬間であった。

最初、ピリカはそれが何だか分からなかった。体を何かが突き抜けた。物理的なものではないし、術でもない。体は傷ついていない。

体が動かない。どっと冷や汗が拭きだしてくる。こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい!体の内側から、今まで感じたこともない程の、濃密な死の気配と恐怖が噴きだしてきた。やばい、やばいやばいやばい。息をするのもやばい。声を出すなんてもってのほかだ。瞬きだって危ない。息をのむなんて、怖くて……。

生唾を飲み込んでしまった。

心臓が激しく叩き鳴らされた。

その時始めて、ピリカは気付く。自分が何かとんでもないものを見てしまったことを。それは人間だけど人間とは思えなかった。岩の上にすっくと立ち、何処か遠くを見ている。手には冗談のようなサイズの斧があり、頭の上には羽をかたどった飾りがある。上半身は裸で、下半身には米国製と思えるジーンズを穿き、圧倒的な筋肉で全身を覆い尽くしている。顎は四角く、目は色素が薄い。その視線は固定されていたが、幸いだった。もし見られたら、絶息していただろう。

隠れろ、隠れろ、隠れろ!言い聞かせるのに、体が動かない。そうして、ピリカは二度悟らされる。自分が今首を突っ込もうとしている世界が、文字通り人外の存在共が跳梁跋扈し、神域の駆け引きが日常的に行われ、死がいつも側にいる場所なのだと。

そして零香が、そのレベルの戦いを日常的に経験し、なおかつ楽しんでさえいることを。

男はピリカの視界から消えた。どうして消えたのかも分からない。歩き去ったのか、空を飛んでいったのか、それさえも分からない。多分自分の存在は気付かれていたのだろうと思った瞬間、顎から汗が垂れ落ちた。激しい爆発音が連鎖し、傷口に汗が染みこんだ痛みが全身に広がり、やっとピリカは正気を取り戻した。

とんでもない使い手を目の当たりにしてしまい、思考停止した自分の情けなさを恥じるよりも、情けないことに此処から逃げようと考える体が許せなかった。逃げまどうコロポックルが殺されていくあの光景を思い出す。きっと空を見上げると、あいつが、シレトコカムイが旋回しながら、めちゃめちゃにあの不可視の攻撃を撃ち放っていた。さっきのおじさんははっきり言って勝てる気がしないが、シレトコカムイだけならどうにか足止めできるかも知れない。かも知れないのが情けない。

命を賭けろ。自分に言い聞かせて、頬を叩く。そのままクレバスから這い出し、走り出す。零香の邪魔になるわけには行かない。だから、せめてシレトコカムイだけでも足止めする。足がすくみそうだったが、全身の水分が冷や汗になって流れてしまいそうだったが、それでもピリカは走った。自分なりの、自分に出来る限りの戦いをするために。

 

零香が飛び退く。ひゅっと小さな音がするのと同時に、半径十メートルほどの草が一斉に切り刻まれ、飛び散る。惨劇は一瞬にして行われ、傷口は地面にまで達している。もしも直撃を受ければ、神衣の上からでもダメージは覚悟しなければならないだろう。こういった原始的な信仰に基づく実体化まがつ神は、スキルや戦術面ではともかく、パワーでは後の時代に現れてきた神々を遙かに凌いでいる。また、大体にして非理性的な反面、野性的な鋭い攻撃を仕掛けてくることが多く、油断できない。

旋回しながら時々攻撃してくるシレトコカムイは、堂々としたものである。零香が森林戦のエキスパートと言うことはとっくに分かっているのだろう。時々こういう広範囲爆撃を不意に仕掛けてきては、自分自身は悠々と飛んでいる。ダメージを与える気があるとは到底思えない。単にあぶり出そうとしているにすぎない。ラッキーパンチが入ればしめたものだ程度に考えているのだろう。

零香はさっきの斧を投げてきた相手も警戒しなければならず、多分奴はそれも考慮に入れているからこそ、こうもあぶり出すことに専念するような攻撃行動が取れるのだろう。

だが、それでいい。

零香の第一目標は、まずはコロポックル達を逃がすことだ。気配は次々に安全圏に離脱していく。しかも組織的に。ピリカがきちんとやってくれていることの証明だ。

第二の目標である、相手の能力の解析も達しつつある。攻撃の直前、シレトコカムイの背から無数に生えている触手が小刻みに揺れるのを、零香は確認している。それにさっきの村にあった破壊痕や、至近で見て触ったピリカの傷。今までに七度ほど視認した攻撃そのもの。それだけで、大体この長距離攻撃の正体は分かった。展開度もである。

現状で、戦力比は1対1.5〜1.7という所だ。数字的な戦力面だけで考えれば完全に負けている。しかしここは零香が散々毎年走り回っている森で、勝手は知り尽くしている。シレトコカムイのさっきからの攻撃を見ても、相手がこの森の地形を把握していないのは明々白々。情報面では零香が大きく凌いでいる。それを加味すると、勝率は決して低くない。

戦闘で勝負を決める大きな要素は三つ。情報、補給、戦力だ。戦力では負けていても、情報では勝っているのだから、決して悲観することはない。戦力で圧倒的に勝っている相手との戦いなら嫌と言うほど積んできた。だから心を乱すようなこともない。神子相争で得た物は、途轍もなく大きい。

再び、シレトコカムイの触手が蠕動する。零香のすぐ側の草むらが吹っ飛び、千切れた草の破片が盛大に飛び散った。少し位置を変えようかと零香が思った瞬間、横殴りにトマホークが飛んできた。

態勢を低くして刃をかわした後、クローを振り上げて柄をたたき上げ、斧を跳ね上げた理由は一つ。斜め上から抉り込むようにして、もう一本飛んできたからである。そのもう一本と今跳ね上げた一本がぶつかり、弾きあうのを見ながら零香は後ろに跳ね飛ぶ。シレトコカムイの追撃が、まるでレーザーのように、零香がいた空間を抉り抜いていた。派手に草木が切り刻まれる。

態勢を立て直すより早く、更に真後ろから、トマホークが飛んでくる。舌打ちした零香が身を起こし、振り向きざまに地面に叩き込むようにしてトマホークを叩き付け、左腕で頭を庇う。そして横っ飛びするが、間に合わないのは分かっていた。シレトコカムイの第三撃が襲いかかってきたのはその瞬間。金属を斬るような鋭い音が響くのと、ガードに回した左腕の神衣が派手にはじけ飛び、皮膚に鋭い傷が幾条も走るのは同時だった。ヤブに転がり込んだ零香は、右手で大斧を振り上げる巨漢を眼前に見る。月を背にしたその大男の頭には、無数の羽が植えられているように見えた。

かわしがたい圧力で大男が斧を振り下ろす。零香が片手を軸にして身を旋回、強烈な足払いを掛ける。零香が少し早い。横殴りに男の体が浮くが、男は体の軸をぶれさせられながらも斧を振り下ろし、驚異的な反射神経で回転軸をずらして首をすくめた零香の神衣の右耳を吹き飛ばした。斧が地面に突き刺さり、男が左手で地面を掴む。楕円に体を旋回させきった零香が少し離れる。二歩後ろに跳ね飛び、そびえ立つ古木を踏み台にして一瞬止まる零香と、大斧を低い態勢から投げつけてくる大男の動作は計ったように同時。どちらも咆吼を上げていた。

「せあああああああああああっ!」

「ほおおおおおおおおおあああっ!」

投擲された大斧、途中で柄が木を撃つ。軌道が僅かにずれ、零香の首筋を僅かに外す。跳躍した零香、素手になった大男のガードの上に強烈なドロップキックを叩き込む。僅かに下がる大男に、側の大木を掴みつつ、それを支えに蹴りを乱射。男の足下の地面が、パイルバンカーでも叩き込まれたかのように吹き上がる。同時に、蹴りの衝撃と零香の握力で、激しい勢いでえぐれていった木の幹が吹っ飛び、巨木が中央からへし折れ倒れる。

大男、眉をひそめ、大斧を手にまた具現化させる。巨木、二人のすぐ側を倒れていく。着地した零香、真っ正面から躍りかかる。巨大なツキキズクローと、巨大な大斧が正面からぶつかりあう。

一合、二合、五合、十合。二十合、見る間に五十合。青い火花を散らし、両雄が戦を舞う。一撃ごとに火花が舞い、咆吼が飛び、殺気が轟いた。袈裟に振り下ろされた大斧を間一髪でかわし、その柄を踏みつけつつ、頸動脈を狙ってクローをふる。しかし斧はかき消え、男の左手に出現した新しい斧がその一撃を防ぐ。均衡は一瞬。僅かな間の後、どちらも砕け散る。どちらも弾きあう。

飛び退く零香、構えを取り直す大男。パワー、スピード、スキル、いずれも現時点では甲乙付けがたいが、接近戦なら零香が僅かに上か。しかし零香は、大男が切り札を温存していることを見抜いていた。それに気配を消すのは向こうの方が上手い。条件はほぼ同じだが、相手が保有している切り札の性質次第では面白くない。激しい激突で少なからず傷ついているクローを再度具現化させるべく詠唱して、神衣の再起動を行う。寡黙に構えをとり続ける大男。

「こんな僻地に、貴方ほどの使い手が何用?」

「悪いが、応えるわけには行かぬ」

会話はそれだけ。戦闘中の会話は相手に性格を悟らせ、不利を招く。不意に斧を地面に叩き付け、多量の土埃を舞い上げる大男。土埃を破るようにして、連続してトマホークが襲いかかってくる。弾きながら下がる零香に対して、上空からシレトコカムイが広範囲の爆撃を連続して叩き付けて来た。それと連携して、上から横からトマホークが飛んでくる。

しかし零香は既に対応策を身につけていた。大量に木々が生い茂っている所にまで下がり、其処をジグザグに下がり始めたのである。同時に、露骨に爆撃の精度が落ち始めた。トマホークも枝に当たって軌道をずらし、或いは幹に深々突き刺さり、零香に正確に追いすがれなくなってくる。零香も相当な手傷を負っていたが、此処に入り込めば状況は全く違う。

零香はシレトコカムイの爆撃の正体を知っていた。それは、音であった。

音というものは空気の振動であり、それは使い方次第では凶器にもなるし兵器にもなる。さっきからシレトコカムイが使っているのは、指向性を持たせた重振動音である。波長の重い音はそれだけで大きな破壊力を有している。触手を複数同時に揺らすことによって、それを指向性を持たせて零香に向けて発射しているのだ。

だが、不可視にして高速、なおかつ防ぎがたいこの攻撃も、今零香がいる地点では効果が四半減する。複雑に入り組み、多量のブッシュのあるこの地点では、音は拡散してしまい、その売りである指向性が失せてしまうのだ。案の定というか何というか、苛立ったシレトコカムイは攻撃を広範囲爆撃中心からピンポイント切断中心に切り替えてきた。鋭い圧搾音とともに、幾つかの木が斜めに両断され、木の葉をまき散らしながら地面に倒れかかる。さて、此処から予定通りに事を進めよう、そう零香が考えた直後であった。

戦場に、第三の要素が入り込んだ。

 

3,達人の戦い

 

零香が眉を跳ね上げるのと、シレトコカムイが露骨に首を其方に向けるのはほぼ同時であった。多分あのネイティブアメリカン系の格好をした大男も気付いている。全身傷だらけのピリカが、戦闘圏内に入り込んできたことを。

邪魔だ、とは思わない。仮にもピリカは回復系の術を操り(未だに零香は使えない)、更に軽微とは言え防御系の術も保有している。具体的な戦力として扱えるかはともかくとして、使い方次第では充分に戦況が動く。

零香は作戦をくみ上げた。ピリカの大体の能力を、さっき話、傷口を至近から見たことで把握しているから出来たことであった。これに対し、あの大男もシレトコカムイも、情報が不足していて零香と同じ結論は出し得ないはず。大きく羽ばたいたシレトコカムイが、辺りをねじ伏せるような、獣王の咆吼を発した。

 

ヤブに隠れ、状況を見ていた戦士ジェロウルは、好機と口中にて呟いていた。

ジェロウルは、ネイティブアメリカンで最も猛々しく気の荒い一族であったアパッチ族の末裔である。その破壊力を怖れられる強力な攻撃ヘリの名ともなったことで知られる戦闘民族、その中でも祭を司っていたシャーマンの家系の出身者だ。ジェロウルの一族は忌まわしい強制移住法で故郷を追われて貧しい土地に閉じこめられ、餓死していった本隊とは離れ、M国へ入り込んでいった者達。そして、組織には三代ほど前から属している。その過程でアパッチ以外の者との血も混じったが、気にしていない。信仰を自由にしていいと言われているからだ。

コロポックルのような弱き者を蹂躙せねばならない今回の任務は正直気持ちがいいものではなかったが、祖母の代から仕え、恩もあるあの方のためであり、組織のためでもあるから仕方がないと自分を強引に納得させていた。誇り高い男であるが、精神鍛錬も怠ったことがないから、任務に支障がない程度に自分をねじ伏せることが出来た。一戦士である以上に、主君に仕える軍人としての顔も持つ男であった。

世界にいる能力者は強弱全て合わせても一万に達しない。その中でも近代兵器に対抗しうる実力を持つものは五百弱だと言われている。更にその内で一流といえる使い手に属するジェロウル。彼を作り上げてきたのは、豊富な戦闘経験と、心身に対するたゆまぬ修練と、良き師匠の存在であった。

膨大な戦闘経験の中には、当然さまざまな条件下での戦闘も含まれている。第三者闖入という事態も嫌と言うほど経験してきた。ここでいう第三者とは、この戦場にいるのがおかしいほどの弱者を指す。誇り高い戦士であるジェロウルだが、別に自分の誇りを他の人間に押しつける趣味はなかったから、弱者に対して怒りを感じることはなかった。むしろ、それを奇貨として、膠着状態の戦況を打開することを計った。

シレトコカムイが旋回し、どんどん高度を上げている。視線の先にいるのは、もう倒れる寸前なのに、気力だけでどうにか立っている感じの少女だ。アイヌ族の民族衣装に身を包んでいるのは、それが戦装束だからであろう。しかし、この神域の戦場に立つには、能力は低い。以前シレトコカムイとの交戦を少し見たが、全く手を貸す必要さえなかった。根本的に経験とスキルが足りないのである。

見所がないわけではない。とんでもない殺気が充満するこの戦場に入り込んできた勇気と、それの延長線上にある潜在能力はなかなかのものだとジェロウルも認めるが、しかし戦場で必要なのは潜在能力ではなく、今どれだけのスキルと力を使えるかだ。惜しいなと、ジェロウルは思った。

シレトコカムイは攻撃の末にチャージを仕掛けるつもりだろう。以前音波砲で仕留めきれなかったのだから、確実に倒せるチャージで行くはず。そして接近戦に持ち込んだ場合、あの弱者には分かっていても逃れる術がない。そして、シレトコカムイの行動はあの女戦士も読んでいるはず。其処がチャンスだ。

印を組み、己の崇める神に祈り、詠唱を行う。そして今までの大斧よりも、更に二周り大きい強大な武具を具現化させる。柄に神の彫り物がある、破壊力を三割ほども増した投擲用の上級術だ。気配を消し、大斧を構えたまま、敵の気配を探る。あの虎の力を操る女戦士、恐らくシレトコカムイが弱者にチャージを仕掛ける瞬間、シレトコカムイを叩き落としに掛かるだろう。其処を狙う。相手もかなり警戒しているだろうが、それでも叩き潰す自信がジェロウルにはあった。

全身の神経が張りつめ、筋肉が盛り上がる。勝負は一瞬。あの優れた力量を持つ女戦士のことだ、針先が薄布を通過するほどの時間しか、隙を見せないだろう。其処を突き、倒す。為し得たら、正に戦士の誉だ。それを考えるだけで、ジェロウルの心は少年のように高揚した。

天の高みへと躍り上がったシレトコカムイが、翼を何度も羽ばたかせ、狙いを絞り上げる。それに対し弱者は肩で息をしながら、木彫りの熊を必死に握りしめ、詠唱を行う。健気なことである。シレトコカムイを引きつけて、あの女戦士を少しでも有利にしようと言うのだろう。ジェロウルがトマホークを叩き付ければ、一瞬でその細首は胴から離れるというのに。その心意気、ジェロウルは確かに買った。此処で戦力を削いでも損はないが、敢えて殺さずにおく。

しゃああああああああああああああっ!

シレトコカムイの雄叫びが爆発した。そのまま奴は、斜めに自らを落としながら、一挙に加速していく。体重六百キロ超の巨体が、翼に起因する術の力を借り、速度を一秒ごとに跳ね上げていく。見る間に時速百キロを超え、二百キロを超え、三百キロを超え、そして四百五十キロに達する。太くて堅牢な両腕を前に出し、生ける帚星と化したシレトコカムイ。異境の神は、即ち破壊の権化となった。

弱者は逃げない。それを見ながら、ジェロウルは全神経を集中させ、女戦士を捜す。仕掛けるタイミングも、大体見当がついている。如何に巧妙に気配を消していても、ジェロウルからは逃れられない。汗が目に入っても全く動じぬほどの集中が、擬似無音空間と、擬似時間停滞をうむ。

さあ、来い。そう念じた瞬間、ジェロウルは気付いた。側面の異変に。しかし、気付いたときはもう遅かった。読み違えたのだ。至近だった。さっき使おうとしていた遠距離攻撃用のカタパルトに大岩を乗せた女戦士が、今まさに一撃を叩き込もうとしていた。しかも、シレトコカムイではなく、ジェロウルに。ゼロ距離から。

振り返りざまに、トマホークを薙ごうとするが、間に合わないのでガードに切り替える。どうにか間に合う。脇腹に、五十キロはあろうかという巨岩が、唸りを上げて直撃した。吹っ飛ばされる。

四本の巨木を蹴散らしながら吹っ飛んだジェロウルは、岩壁に突っこみ、崩れ落ちてくる土砂の中に消えた。

 

最高速度に乗ったシレトコカムイは、一直線に、人間の術者へ躍りかかっていた。以前大事な任務を邪魔してくれた怨敵である。自らの爪でずたずたにしてやらねば気が済まなかった。防御の術を使っているようだが、そんなものはこの全力でのチャージで蹴散らしてやるだけのことだ。あまりの速さに、周囲の空気が火花を散らしている。あの厄介そうな女戦士はジェロウルが何とかしてくれるはずだし、シレトコカムイとしては弱そうな方の術者を肉塊にすることに全力を注げば良かった。

シレトコカムイは、忘れ去られた神である。もともと古代の術者が、自然への畏怖を絶やさぬために、一種の社会的な防犯装置としてくみ上げたのが、シレトコカムイという神だ。正体不明の「恐ろしいもの」を複数アーキタイプにして作り上げられたシレトコカムイは、自分の正体が何であるかも知らず、知ろうと思うことさえなく、アイヌ人が衰退した後は龍脈で惰眠を貪る毎日であった。くみ上げられた後に放擲されたと言う事実のみが、整合性を欠く頭脳の中で、恨みとして蓄積していった。

そんな時であった。ジェロウルが現れたのは。

ジェロウルは古代の技を知っており、シレトコカムイをアーキタイプに戻してくれた。伝説的なサイズを誇り、二つの集落を壊滅させた大熊。人間の赤子を好んで浚い、人さらいの伝説を作った大鷲。どうやってか北海道の地に紛れ込み、四人を飲み込んだ後冬を越せずに死んだ大錦蛇。それが自分の原型だと、シレトコカムイは知った。

ジェロウルは自身に従うことを要求したが、二つ返事で承諾したのはそれが理由である。今まで周辺にいた連中は、自分のことを教えてさえくれなかった。ただ気持ち悪い物体としてだけ扱い、古代の凝りとして嘲笑した。自分たちで作り上げたくせに。

ジェロウルの要求は、コロポックルの村を襲って、連中が住処に蓄えている龍脈の力を奪うことであった。コロポックルは意識こそしていないのだが、一種の妖精であるため、住処には自然と大地のエネルギーラインである龍脈の力が蓄えられる。おやすい御用であった。コロポックルも人間と大差ない連中である。燃え上がる復讐心に任せ、シレトコカムイは思う存分刃を振るった。それを邪魔しようとする奴は、例え何であろうと、八つ裂きにするまでの事であった。

見る間に弱者がシレトコカムイに迫ってくる。決意を決めた顔だ。しゃらくさい。小便臭いメスガキ程度が、覚悟を決めた所で何になろうか。戦いとは如何なるものか、生涯これ全て戦いであった伝説の獣三頭の集合体が、目に見せてくれよう。首を縮め、衝撃に備えたシレトコカムイは、防御の術を二重三重に展開する弱者に、真っ正面からチャージの全エネルギーを叩き付けた。

圧縮したように流れていた時間が、炸裂音と共に爆発した。破壊力を殺しきれなかった防御術が壊滅、小娘が吹っ飛んだ。

小娘が吹っ飛んだのと同時に、シレトコカムイもはじき飛ばされる。正直驚いた。まさか、まさか今のチャージを受けて、致命傷を避けるとは。翼に著しい負荷が掛かっていたため、取り合えず着地。小娘はどうにかチャージを防ぎきったものの、十メートル以上吹っ飛んで木に背中を強打し、身動きどころか意識を保っていない。何があったか知らないが、ろくに戦いも知らぬこの小娘が、短期間でシレトコカムイ渾身の一撃をどうにか防いで見せたと言うことになる。危険だ。生かしておく訳にはいかない。額から血を流している小娘は、意識さえないが生きているとシレトコカムイには分かっていた。

獅子は他の肉食獣の子供を見つけると、例え腹が減っていなくても、容赦なく息の根を止める。将来厄介なライバルになることを知っているからだ。シレトコカムイも殆ど本能的にそれを知っている。少ししびれが残っている前足を踏み出す。頭をかみ砕いて、すぐに終わらせるつもりだった。どうせ今頃、あの強力な女戦士も、ジェロウルに倒されているはず。そうシレトコカムイは考えていた。理解者と言うよりも、記憶覚醒者とでもいうべきジェロウルには、その力量と同様の敬意をシレトコカムイは抱いていた。奴なら、きっとやってくれる。そう考えていた。

だから、高速で接近する殺気に気付いたときには愕然とした。闇の中、殺気が高速で迫ってくる。間違いない、奴だ。接近戦ではあのジェロウルすら凌ぐ怪物である。地上戦では分が悪い。慌ててバックステップし、空に逃れようとするが、しかし敵の方が早い。

一刀両断。

同族のものとも思える巨大なクローが一閃した瞬間、シレトコカムイの背にある三つの獣の象徴である一つ、大鷲の翼が、根本から断ち割られていた。触手の半ばもそれの後を追っていた。

ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!

怒りの咆吼が喉から沸き上がる。地面に叩き付けられそうになりながらも、どうにか態勢を立て直して着地、戦闘態勢を取るのは古豪の意地だ。それに対し、一閃で翼を叩き落とした女戦士は、まるで猫科の猛獣のように低い態勢のまま、続いての攻撃に移ろうとしていた。

 

零香は知っていた。傷口の深さや、判断力などから、ピリカが一撃だけであれば、シレトコカムイの全力でのチャージに耐え抜けることを。だからこそに、敢えてピリカを放置した。

この状況下、ピリカを助けるために、若しくは攻撃時の隙をついてシレトコカムイを狙撃すると考えるのが常識的である。ネイティブアメリカンのあの戦士も、同じように考えた。だから隙が生じた。結局読み合いに勝利するには、情報量が多い方が有利。至近で傷を見て、きちんと話して、ピリカのことを知ったからこそに出来たことであった。

翼を失ったシレトコカムイが吠え猛り、残った触手を全て蠕動させ、やたらめったらに音波砲を叩き付けてきた。ジグザグに迫る零香は、出来るだけ触手の動きを見ながら動いていたが、それでも全ては避けきれない。腕に、腿に、頬に、次々に裂傷が走る。

だが距離は見る間に縮まり、拳が閃く。触手のほぼ全てが再び吹っ飛ぶが、伸びた蛇の頭が、零香の頭にかぶりつく。間一髪かわすも、神衣の左耳をえぐり取られ、舌打ちしてバックステップ。追撃に出るシレトコカムイが、熊の最大の武器である巨大な前足を叩き付けてくる。

一閃、二閃、三閃。三閃目で零香の頬を軽くかするも、身を沈めた零香が無防備なシレトコカムイの懐に潜り込み、喉と顎の中間点に強烈な頭突きを叩き込む。体が浮き上がるほどの猛烈な一撃であった。首が折れるのだけはどうにか免れ、残った触手を使って木に絡みつかせ、強引に退こうとするシレトコカムイ。そこに、巡航ミサイルのような、猛烈な前蹴りを叩き込む。同時にシレトコカムイの何か得体の知れない一撃も、零香の腹を横殴りに捉えていた。

吹っ飛んで転がる零香と、後ろに叩き倒されるシレトコカムイ。

腹に走る激痛に、零香は眉をひそめた。腹のガードは腹筋だけだが、それを鍛えていなければ、内臓が潰されていた所だ。正体はすぐに分かった。シレトコカムイの尻の辺りから、滑らかに動く太く長い尻尾が見えている。熊のものではない。錦蛇のそれだ。持久力こそ無いが、全身が筋肉の蛇の尾の一撃は凄まじい。しかもシレトコカムイのそれは実体化まがつ神だけあり、並の錦蛇のそれを遙かに凌いでいた。間違いなく、奴の隠し弾だ。なかなかに味なことをする。

零香すらもすぐには立ち上がれず、ふらつきながら態勢を立て直す。面白い戦いだ。叩き落とせば瞬殺出来ると思っていたのだが、考えが甘かった。流石に大したものだ。

相対した両者は、一秒とそのまま留まりはしなかった。轟音、旋風、激突、反転。

連続してクローを叩き付ける零香に対し、シレトコカムイは見事な身のこなしで下がり、逆に尻尾で足下を狙ってくる。軽くステップしてそれをかわした零香は、不意に速度を上げ、詠唱を開始。連続して地を蹴って下がりつつ跳躍、木の幹を蹴って高速で接近に転じた。

巨木が大きく撓るほどの蹴りであり、勢いは凄まじい。勝負時と見たか、シレトコカムイは熊にとって最強の戦闘形態を取った。後ろ足で立ち上がったのだ。今までとは比較にならない圧迫感が、迫る零香に叩き付けられる。

後ろ足で立ち上がったシレトコカムイと、その足下に高速で着地した零香の視線が、刹那の時の中で交錯した。

振り下ろされる巨大な腕。躍り上がるように伸び、零香にかぶりつかんとする大蛇の頭。振り上げられる零香の左腕。着弾は、零香の拳の方が、ほんの僅かだけ早かった。大蛇の頭は零香の頭に噛みついていたが、噛みつぶす時間がなかった。

シレトコカムイの分厚い毛皮と、肉と、内臓が、内側から吹っ飛んだ。

秘拳、スパイラルクラッシャー。いまや自力でも自在に撃てるが、零香は相手に敬意を表し、術を使って全力のそれを放ったのだ。素手の方も、中学二年の頃とは威力も比較にならぬほど向上しているが、それでもやはり術を使えば破壊力は桁違いに上がる。シレトコカムイほどの相手と戦うのだから、全力を尽くすのが筋であった。

腹に大穴を開けたシレトコカムイはそれでも立っていたが、零香が軽く押すと、抵抗感無く後ろに倒れた。鋭い牙が密生した頭もぐらりと揺れ、外れて体の後を追う。零香の右足に巻き付いて締め潰そうとしていた尻尾も同様。地響きが轟く。そしてその巨体は、光になって消えていく。零香の脳裏に、直接声が響いた。荘厳な声であった。

「……娘よ」

「なに?」

「……楽しかった。 ありがとう」

「そう。 ふふふ、わたしもだよ。 こっちこそ、ありがとう。 友に良い土産話が出来たよ」

僅かな間が空く。声はどんどん小さくなっていった。

「名を、聞かせて欲しい。 強き戦士よ」

「銀月零香」

「覚えておくぞ……再戦の機会はあるまいが……な……」

シレトコカムイは溶けるように消えた。満足そうであり、幸せそうであった。痕跡も残らなかった。再度実体化するには、数百年の時が必要になるだろう。その間退屈しないだけの戦いは、して見せたつもりだ。

呼吸を整える。今の攻防で相当な精神力を消耗したし、何より終わりではない。全身の痛みは、冷静な判断力を少しずつ着実に奪う。数限りない戦いで、零香はそれを思い知らされている。

まさか無いとは思うが、念のため。軽くびっこを引きながら、零香はピリカの所へ向かった。別に足が動かないのではなく、単に今の戦いで大きなダメージを受けた右足に負担を掛けないためだ。ピリカは呻いていたが、零香の接近でうっすら目を開けた。

「ん……」

「お疲れさま。 もう休んでいて良いよ」

「ごめんなさい……役に……立て……」

ピリカが声を止めたのは、零香の視線の先に立つ存在に気付いたからだ。目に見えてピリカが震え始める。無理もない話だ。

其処には、あのネイティブアメリカンの戦士が立っていた。降り注ぐ星明かりの下で、まるで地獄の鬼が如く、全身血まみれで。

 

4,決意

 

大男は大斧を手に立ちつくしている。血潮の匂いが、実に零香には香ばしい。疲れていることもあるし、その気になればすぐに八つ裂きに出来るのも隣にいる。後で岩塩スティックを口に入れないと理性が危ない。

ダメージは、五分。といっても、どちらも戦闘を続行できないほどに深刻ではない。即ち、場合によっては、これからが本番だ。場合によっては、だが。

全身痛くて動けないだろうピリカが、身をよじって逃げようとした。もしあの大男がその気なら、逃げられるわけがない。こういう所が弱いというのだ。どうせなら生存率を少しでも上げる努力をしてみせればよいのである。ピリカには見向きもせずに、零香は大男へ言う。

「さて、お互い邪魔も入らないことだし、全力でいきます?」

「俺が一戦士として此処にいれば、問われるまでもなくそうしただろう」

無論問いかけは零香のいやがらせだ。こんな誇り高い戦士が、今回みたいなダーティワークを、好きこのんでやるわけが無い。その辺の事情は刃を交えているうちに理解していた。相手に、誇り以上に優先するべき、どうしようもない事情があることも。そして任務の関係上、恐らくもう戦う気はないことも。だから、それ以上は何も言わない。単純な戦士としての相手にも、相手の切り札にも興味はある。だが露骨に害になると分かっていない以上、無理に戦いを続ける気は、零香にはなかった。

驚いたことに、ピリカが何か言おうとしている。多分声を聞いたことで、超的な存在であると認識していた大男が、一気に人間だと理解出来たのだろう。頭ではなく体がだ。この少女、まだまだ未熟だが、精神力にはかなり見るべき所がある。正直な話、一人前の軍人でも、零香とこの大男の殺気がぶつかり合う戦場では、正気を保っていられないだろう。それほどに強烈な威圧感の中、勇気を振り絞れるのだからたいしたものだ。きっかけが何かしら必要なようであるが。

「ど、どうして、どうしてこんな酷いことを! コロポックル達が、何をしたって言うんですか!」

大男は応えない。野暮だと零香は思うが、気持ちも分からないも無い。ただし、それに関しては、敵に対しても同じだ。

「人でなし! 人殺し! 私、貴方を、絶対に許さない!」

「……」

「な、何とかいったらどうなんです……っ」

声が止まった。大男が視線をピリカに向けたからだ。やはり、まだまだ体が言うことを聞かないだろう。こんな高密度の殺気を叩き付けられては。完全に歯の根があわないピリカに、大男は静かに告げる。

「言いたいこと、問いたいことがあれば、力を付けろ。 それが戦いに生きる者の流儀であり、戦場での決まり事だ」

「……悔しいと思うけど、このおじさんの言うとおりだよ、ピリカちゃん。 さて、わたしとしては追撃しても良い所なんだけど……どうします? おじさん」

「引く。 追撃したいなら勝手にしろ。 此方も容赦はせん」

「そうでしょうね。 ……辞めておきますか。 わたしもね、此処には墓参りに来たんですから。 利害関係が良く分からない以上、引くって言う相手を追撃して怪我するのも馬鹿馬鹿しいですし」

肩をすくめる零香に、大男は軽く一礼する。ピリカはもう何も言えなかった。心が弱い人間なら、一生トラウマが残るだろう。それほどに強烈な殺気を、彼女は浴びていた。

「強き女戦士よ、名を聞かせろ。 俺はジェロウルだ」

「零香です。 ……戦うことがないことを祈りましょうか」

「……そう、だな」

こういうとき、姓を聞かないのは一種のマナーである。相手が名乗ったときだけ聞けばいい。これは素性を探り当てられるのを防ぐために、無言の不文律として発展してきた考え方だ。ジェロウルはそれ以上語ることもなく、去っていった。あの様子だと、目的は半ば以上に達していたのだろう。コロポックルの村はみんな無人化していたし、蓄えられていたエネルギーを回収するのは決して難しくなかったに違いない。それを何に使うつもりなのか迄は分からないが。

さて、敗北感に打ちのめされているピリカをどうにかしてやらねばなるまい。それに悪いとは思うが、仕事料も回収しないといけない。痛む腹と足も治療しないといけない。まあ、もっとも。敵が切り札を投入し、零香が白虎戦舞の最終形態を用いていたら、敵もこっちもそしてこの辺り一帯も、こんなしょぼくれた被害では済まなかっただろう。山そのものが消えて無くなった可能性が極めて高い。ツキキズの墓まで無くなってしまった可能性も高いから、零香にしてみれば満足すべき結果であったといえる。

神衣を解除すると、どっと疲れが襲ってきた。腰を抜かしてへたり込んだままのピリカを背中に担ぐと、ヘリのロータリー音がした。ピリカはもう気絶していた。スポットライトを手で遮りながら見上げてみると、自衛隊の最新鋭戦闘ヘリ、AH64Dアパッチロングボウだ。ガンシップ(浮かぶ戦艦)と言われる高性能戦闘ヘリであり、しかも実戦装備である。中に乗っている自衛官達も、皆ぴりぴりとしていた。その上、見知った能力者がヘリに乗り込んでいる。

どうやら自分が予想以上にとんでもない相手と戦っていたらしいと、零香はこの時悟った。

 

ピリカは目覚めた。ぼんやりと傍らを見ると、デジタル時計があった。あの戦いから、三日後を示していた。最後の方のことは、殆ど覚えていない。とても怖かったが、それ以上はぼんやりしている。

体を包んでいるのは清潔な白衣。傷口はもう痛くない。明かりはまぶしすぎず暗すぎず、少し消毒液の匂いがした。お婆ちゃんの声がする。

「目が覚めたかい?」

「うん……」

病室だった。修行中に何度かお世話になったことがある所で、調度品や窓の外の光景に見覚えがある。

隣にはまだまだ現役の能力者をやっているお婆ちゃんが見舞いに来ていて、政府関係のスーツを着てサングラスで表情を隠したエージェントも何人か詰めていた。お婆ちゃんは兎に角強いひとで、この年まで政府と殆ど一人で交渉し、コロポックルの保護に全力を注いできた事に誇りを持っている。保護観察の地域も広く、能力もまだまだピリカとは比べ者にならないほどに高い。ピリカはお婆ちゃんの受け持ちの地域の、一部を任されているに過ぎないのだ。それだけに、お婆ちゃんは厳しい。安堵の表情を見せたのはほんの一瞬であり、すぐに厳しい表情に戻った。

「悪いが、外しておくれ」

「一時間だけですよ」

「ああ、ああ。 わかっとるよ」

スーツ男達がぞろぞろと出ていく。何であんな人達が来ているのか、ピリカには良く分からない。タオルを水に浸して絞りながら、お婆ちゃんは言った。

「力不足が露骨に出たね。 やっぱりあんたに任せるのは、まだ早すぎたかねえ」

「……悔しいよ」

「それでええ。 大体の事情は、あの零香って子にきいておる。 だから、一つだけ、重要なことを聞きたい」

「なに?」

タオルで額を拭いてくれるお婆ちゃんの手の動作はとても優しい。ただし、表情はとても厳しい。

「強くなりたいかえ?」

「……うん」

「とても厳しい修行になるだろうが、それでも良いかえ?」

「うん。 もう、こんな悲しい事、目の前で許したくないから……」

それが綺麗事に過ぎないと言うのは、もうピリカ自身にも分かっていたかも知れない。自分から見ても文句なしに強いあの零香の言動を見ていても、そうとしか思えない。他者の思想を検分するか、あるいは尊重していくと、どうしても大事なものに大きなずれが生じてくる。それは例え、命であっても例外ではないのだ。零香は、あのジェロウルとか言う大男に対して、腹を立てていなかった。それに、あのシレトコカムイも、である。むしろシレトコカムイは、ジェロウルのことを心底から信頼している様子だった。自分を弄くり回した相手だろうに。

理解出来ない。あんな酷いことをしたのに。コロポックルの村を滅ぼし、静かに暮らしていたシレトコカムイを洗脳し、破壊の限りを尽くしたというのに。

事情が良く分からない以上、追撃しても損だ。そう零香は言った。コロポックル達は何のために死んだのか、これでは分からない。自分の鏡像だったコロポックル達の悲しい最後は、未だにありありと思い出すことが出来る。シーツをぎゅっと掴んだ。

「コロポックル達の被害は、最終的にはどれくらいになったの?」

「死んだのは四十七人。 あたしの手当で二十人助かった」

「……そう」

ピリカの監察下にあるコロポックルは百三十ほど。お婆ちゃんのも含めると、五百弱。およそ一割が命を落としたことになる。悲しい話だった。

「政府も、アイヌ文化の継承者の一手であるコロポックルに対する今回の事件はそれなりに重く見ていて、多少の増援を回してくれるそうだよ。 ただ、どうもそれだけじゃあなさそうだけどねえ。 どっちにしても、此方はあんた抜きでも大丈夫だ」

お婆ちゃんはリンゴを剥き始める。軽く手を上げ下げしてみたが、すこぶる調子がいい。回復系の能力者としての、お婆ちゃんの実力と、この病院での的確な治療が良く分かる。立ち上がろうとしてみたが、流石に止められた。その代わり、甘えて良いのは今日だけだとも釘を差される。厳しいお婆ちゃんだ。

「明日、午後三時に此処にいきな。 もう学校とかの手続きは、全て済ませておいたよ」

「うん……」

「今夜、史郎とみつ子が見舞いに来るはずだ。 暫く会えなくなるから、この機に積もる話もしておくんだよ」

厳しいけど優しいお婆ちゃんは、病室を出る前に、そんなことを言い残していった。

後は忙しかった。病人だというのに、エージェントのおじさん達に根ほり葉ほり色々聞かれた。おじさんたちはジェロウルとか言う大男の能力について知りたがったが、殆どあの人のことは見ていなかったし、応えようがなかった。シレトコカムイについては細かく応えることが出来た。あんな恐ろしい神様よりも、人間であるはずのジェロウルの方がよっぽど怖かったとも言うと、エージェントは小声で何か言い交わし合っていた。

両親との話は、あまりはずまなかった。ピリカは実のところ、両親にあまり深い情愛を抱いていない。弱いばかりだった自分を鍛えてくれたのはお婆ちゃんと能力そのものだし、頼ってくれたのはコロポックル達だ。虐めを受けていてもおかしくなかったピリカだが、果たしてそうなっていたとしても両親は助けてくれたのか、極めて疑問だと思っていた。だから、心配そうな言葉を掛ける両親に、うんうんと頷くだけにしていた。

二人は名残惜しそうに帰っていった。家には弟もいる。どうせ自分はいらない。そんなことを、ピリカは考えていた。今は強くなることだ。ジェロウルの言葉が、頭の中に響く。何か言いたいことがあるのなら、最低限の実力は身につけろ。

悔しいけど、その通りだ。だから、幾らでも力はいる。そのためなら、ピリカは今の家族も、自分が居ても居なくても何も変わらなかった学校も、必要とあれば全部捨てるつもりだった。

 

翌朝早くに退院する。血だらけの民族衣装はクリーニングに出されていて、変わりにお婆ちゃんが新しいのを一セット用意してくれていた。着替えとか荷物を全部リュックに詰め込むと、外出着に着替えて、地図を持って山に向かう。山登りがあるからスカートではなく、二万円もした高級なジーンズだ。

体の調子はすこぶる良い。スキップできる。地図の地点は思いっきり山の中を指していたが、それに関しては問題ない。コロポックルを保護観察する過程で散々山歩きしてきたし、野性との付き合い方も知っている。所詮はある程度、だが。お婆ちゃんのように、山の中で十年生きていても平気というわけではない。せいぜい二三日の野宿程度なら平気で、自在に歩き回れるくらいだ。

辺りには戦いの爪痕が残っていた。だがそれを覆い隠すように、自然の回復力が芽を伸ばし始めている。抉られた地面には雑草が目を出し始めていたし、倒れた木には昆虫や鳥が群がっていた。翌年には、もう何もなかったかのように、この辺りは回復しているだろう。素晴らしいなと、ピリカは思った。

藪が深くなっていき、光が薄くなっていく。少し疲れ始めた頃、不意に藪が開けた。

不思議な光景だった。

墓石があり、その前に零香が座っていた。周囲には散乱した骨。今食べたばかりらしく、まだ湿っている。墓石の側には巨大な熊の霊が蹲って、楽しそうに零香の言葉に耳を傾けていた。熊の額には特徴的な傷。そして墓石は、その辺から持ってきただろう、無骨な大岩だ。表面には「ツキキズの墓」と刻んであった。

話に寄れば、零香はこの熊と殺し合いをして、肉を喰らったと言うではないか。それなのに、何故こんなに楽しそうに零香と熊が接しているのだろうか。ピリカには理解しがたい世界であった。

「さて、お迎えが来たみたいだし、そろそろわたしは行くよ」

辺りを片づけながら、零香が立ち上がる。ツキキズの霊は名残惜しそうにそれを見ていたが、やがて一吠えして友人を送り出す雰囲気を作った。一言二言かわすと、零香はその場を後にする。ずっとツキキズはその後ろ姿を見送っていた。困惑するまま、ピリカは零香についていく。振り向きもせずに、零香は言った。

「理解出来ないって、顔をしているね」

「……はい」

「正直で結構。 今後、理解出来るようになって貰うよ。 君のお婆ちゃんに土下座までして頼まれたからね」

申し訳ない気持ちだった。お婆ちゃんは其処までしてくれたのだ。そしてあの人生経験豊富なお婆ちゃんがそうしたと言うことは、この人に教われば強くなると言うことでもある。

でも、何もかも矯正されるのは嫌だった。自分らしい力を身につけたかった。だから何でもかんでも言うことを聞く気はなかった。

いつのまにか、零香が顔をのぞき込んでいた。

「そう、それでいい」

「えっ?」

「強さを育てるのは、従順じゃなくて反発心と向上心。 今の君を覚えておいて。 そうすれば、いつかはひょっとすると、わたしに並ぶことが出来るかも知れない」

ピリカは唇を噛んだ。悔しいけど、今はとてもかなわない。山を下りると、正式に頭を下げた。

「お願いします。 私を、強くしてください」

「厳しいよ、わたしは。 それでもいいんだね?」

「はい。 お願いします」

「いいでしょ。 鍛えてあげる」

優しそうに笑っているのは零香の口元だけだ。目が笑っていない。怖いけど、今は兎に角力を付けるしかない。

零香に促されて歩き出す。東京に向かうと、彼女は言った。北海道を出たことがないピリカには、未知の土地である。僅かな期待と多量の困惑と、それ以上の使命感に胸を充たして、ピリカは続いた。まだ心を許すことが出来ない、思想を理解も出来ない、兎に角強さだけは認められる人に。

 

空港で軽くおみやげを買って、予定通りの飛行機に乗り込む。零香の隣に座ったピリカ改め高円寺真由美は離陸時こそ緊張していたが、高空にさしかかって安定すると、余程疲れているのか眠りについてしまった。可愛い横顔を見ながら、岩塩のスティックを取りだし囓る。弟子を取ってくれと頼まれたのは初めてだが、受けた以上はやらないといけない。それに、この子は強くなる。他の神子達にも協力して貰うつもりだが、何にしても完成型が今から楽しみであった。加えて、この子を育てておきたい、もう一つの理由もある。

手を見る。無数の傷が走っていた其処に、もう痕跡はない。高円寺はな、といったか。あのおばあちゃんの回復術の腕前は大した物であった。元々零香の治癒能力は図抜けているが、それでも此処まで綺麗に傷を消すのは難しい。

それにしても。この子を見ていると、何やら今まで感じていたもやもやの正体が分かってくるような気がする。答えは、強烈な目的意識だ。新しいものを探したいというのではなく、切実な目的意識から来る到達点への疾走。それがこの子を、零香に魅力的に見せている要因だ。

零香はどうか。現状の保全と、暫定的な未来への飛躍にかまけてしまってはいないか。総理大臣になりたいという夢は確かにある。準備も着々と進めている。だが間違いなく体も頭も円熟期に入ってしまっている零香は、若い力を側で見たいとも思うのだ。世間では、若者だと言われる年齢なのに、である。

この子に技を叩き込むのと同時に、何か得られる物があると嬉しい。降下に転じ始めた飛行機の中で、零香はそんなことを考えていた。

 

(続)