五色の幸せ

 

序、戦いの地にて

 

自室でキーボードを叩き、ネットサーフィンをして情報収集しているその時。神子相争の時が来た。静かにそれを告げる草虎に、天井近くにいる相棒を見上げた零香は、参加の意志を示した。意志を示してから、俯いて、少しセンチな気分になった。恐らくは、あと一回か二回で終わり。感慨が深くないと言ったら、それは嘘だ。神子相争に参加していなければ、今頃零香はどうなっていたのか。想像するのも恐ろしい。ひょっしたら、生きてさえいなかったかも知れない。

パソコンをシャットダウンする操作をして、立ち上がって伸びをする。手足はどんどん伸び、百五十センチに届いた身長は、まだ止まる気配もない。高校になる頃には、多分百五十半ばから後半に達しているだろう。手足が伸びきる頃には百六十に多分届く。眼鏡も成長に併せて変えた。今の零香のお気に入りは、黒縁だ。もう必要ないから伊達眼鏡なのだが、眼鏡自体に零香は愛着を感じているため、どうしても手放せなかった。

これまでに二年十ヶ月が経過し、零香は中学二年生になっていた。

準備を終えた零香は、草虎の言うまま戦場に降り立つ。不戦勝で終わりという可能性もあるが、それでは少しつまらない。今回の他にもう一回あるとしても、来月まではかからないだろう。二年十ヶ月というのは、歴代の神子ではほぼ平均値だという。ただ、最速の記録でも二年七ヶ月だと言うから、何時の時代でも神子達の力量が如何に拮抗していたか良く分かる。事実、全く問題が解決せず、三年が終わってしまった神子は存在しないのだとも聞いている。

草虎と別れだと思うと、少し寂しい。だが別れるときに、枯湖の秘密を教えて貰えるというのだから、少しどきどきもする。

今回の戦場は、最初に入ったのと同じ、誰もいないスラム街だった。崩れたビル群を冷たい生気のない風が吹き抜け、埃を舞い散らしながら去っていく。気配は、感じる。淳子の気配だ。さっさと気配を消すと、物陰に潜り込む。そして感覚拡大キューブを展開、クローの術を唱えて戦備を整えた。そういえば、最初の戦いも淳子とのものだった。今日は勝てるかどうか。

およそ半年前からだが、淳子とは連絡が付くようになった。由紀にコンタクトしてきたのだそうで、彼女から皆に連絡網が行ったのだ。その少し前に利津とも連絡が取れている。これに関しては珍事なのだという。草虎の話では、最後まで五人の神子が結びつく事は滅多にないそうだ。まあ、昔は通信連絡手段がほとんど無かったのだし仕方がないが、近年でも滅多にない事だというのだから、変わった条件下での戦いが続いている事になる。

同世代の神子達の内、既に由紀は神子相争を卒業している。利津もである。残っているのは零香と淳子、それに桐だけ。いずれの神子ももうほぼ目的を達成しきり、最後の詰めに入っている状態だ。新人ともそろそろ顔を合わせるようになってきた。朱雀の新人は、驚くべき事に近接戦闘タイプである。スピードと手数を生かしたタイプで、軽い飛行能力も備えている。ただ、まだルーキーだし、一度手合わせをしたが、手応えが無さ過ぎてつまらなかった。まあ、最初はほむら先輩も零香に同じ印象を受けただろうし、今後の成長次第だ。黄龍の新人は空間跳躍をメインとする戦闘タイプで、伸び方次第ではかなり面白そうだ。

さて、どう淳子を攻めるか。それを考えていた時、至近に気配があった。本能的な反射行動でビルを飛び出し、間合いを侵略、問答無用でクローをたたき込みに入るが、相手の眼前でストップ。光学ステルスはかけていないし、術を使った形跡もない。弓を具現化もせず、後ろ手でにこにこしている淳子は、零香を見て笑った。目の二ミリ先でクローが止まったのに、敵ながらたいした度胸だ。

「止めてくれるて、思うとったわ」

「……ひょっとして、淳子ちゃん、もう終わったの?」

「ああ。 だから今日は零香ちゃんに話をするためだけにきたんや。 終わったら、ギブアップして抜ける」

「それも少し嫌かな。 淳子ちゃんとは戦って決着付けたい……けど、こうなったらもう戦いにならないね」

くすくすと笑うと、零香は促されるまま、淳子についていった。今やどちらもプロの戦士、戦いで自らの道を切り開いてきた者だ。それである以上、相手に戦意があるかどうかは一目で分かるし肌でも感じる。

大きな廃ビルの前に来た。ちょっと今までにみたのと感じが違う。もう崩れてしまっているが、コンクリの分厚い壁に囲まれていて、建物自体も下半分くらいしか残っていない印象だ。そこの一角に、座るのに丁度いい場所があったので、二人並んで腰を下ろした。

「零香ちゃんの方は、今どんなや」

「後少し、だね。 母さんもそろそろ退院できそうだし、裏で動いていた奴の尻尾ももう掴めるよ」

「うちの方は、お父ちゃん昨日退院できたわ。 まだ少し後遺症のこっとるけど、指も動くようなったし。 工場はうちがぶっ潰した闇金の連中から巻き上げた金でどうにか立て直せたし、な」

「東大阪一帯からやくざと闇金全部追い出したんだって? また随分と派手にやったね」

「なに、神子との戦いに比べたら、殆どままごと遊びやってな。 こんなに簡単だとは思ってもみんかったわ」

淳子の噂はO市まで届いている。この一年ほどで彼女は国内外関係無しに東大阪に巣くっていた犯罪組織を根こそぎ壊滅させ、資金を絞り上げたのだ。何処から狙撃してくるかも分からない、そもそも存在しているかさえも分からぬ相手だ。具体的な場所にヒットマンを送りようもなく、内部犯を疑って疑心暗鬼に囚われ、被害を増やし続け、根を上げ尻尾を巻いて逃げ出したやくざの気持ちが零香には少しだけ分かる。というよりも、淳子を一般人が敵に回すなど自殺行為に等しい。数十回も戦った零香だからこそ良く分かる。淳子の能力は、はっきりいって通常の人間から見れば天敵に等しい。都市部に誘い込まれたら、特殊部隊だって手に負えないだろう。

零香もやくざと関わりがあるのだが、別に淳子がやった事に対して悪感情はない。というよりも、自業自得だからだ。

最近は借金はする方が悪いというイメージ宣伝を、金融業者が必死になって広めているせいか、金融業者に好意的な見方をする人間が増えてきている。確かに破滅的な金の使い方で身持ちを潰してしまい、やくざや何かに追いかけ回される人間もいるだろう。そういう連中に関しては確かに自業自得である。だがこういった金融業者は、多くの場合法知識がない人間をだまくらかして金を使わせ、一度使わせたら最後骨の髄まで絞り上げるような連中だ。一昔前に有名になった「保証人制度」等はその典型例である。更に、一般預金者を「ゴミ」と蔑む大手銀行から借金の取り立てを任されているような者もいる。彼らがお金をむしり取るのは、住宅ローンで首が回らなくなってしまったリストラサラリーマンや、気の弱い工場の経営主や、小さなお店の店長さんたちなのだ。保険に入らせて、家族を盾に自殺に追い込む事だって少なくない。このような金融業者などに、同情や同調など必要ない。

中月はやくざとしては規模が小さく、闇金にはさほど執心ではないから、別に今のところトラブルは起きていない。ただ、もし起こった所で、林蔵も零香も助けはしないだろう。中月は確かにやくざだが、別に銀月の中で最大派閥ではなく、もし問題が大きくなれば切り捨てられる立場にある。そう言う意味では本家の評判をあまり落とすような事は出来ないし、パワーバランスが取れている。中月安司が林蔵に傾倒し零香に心酔している事もあるし、隙さえ見せなければ、今後もあまり無様な関係が築かれる事はないだろう。

しばらく二人でさまざまな事を話し合う。ここ三年弱、本当に色んな事があった。思い出が一つずつ、浮かんでは消えていった。

利津の事、由紀の事、桐の事。強敵達の話が弾む。彼女らの現在は、どちらも完璧に把握しているわけではないから、話すたびに色々な発見があった。

戦場に相応しくない、楽しいお喋りはずっと続いたのであった。

 

1,青龍の幸せ

 

「ちきしょう! どこや! 何処から撃ってきやがったぁ! 出てこいやワレエ!」

人相の悪い男が路上で吠え立てる。サングラスに、強面に白スーツと一目で組関係者と分かる出で立ちだ。彼の名は政次。組の若頭である。上級のやくざになってくると世間体もあり、ある程度の身繕いが要求されるのだが、それを忘れさるほどに激高していた。となりには、年輩の、牛のように太った和装の男が倒れていた。男は両腕両足が殆ど千切れかけていて、大量の血が流れている。筋組織が露出し、粉砕骨折した骨が見え、中からは髄液が零れていた。この哀れな巨漢が、組長だ。周囲には一目で鉄砲玉と分かる柄の悪い連中が殺気だって走り回っていた。そして彼らの背後には、燃え上がる事務所があった。いうまでもなく、彼らの拠点だ。

金庫を持ち出す暇もなかった。事務所の看板は、木っ端微塵に砕かれて燃え落ちていた。遠くから、消防車のサイレンが聞こえてきているが、周囲の住民は冷ややかである。延焼の恐れがある辺りに、誰も住んではいないからだ。時々、カーテンの隙間から興味津々の目が覗く。今時やくざが任侠組織で自身の縄張りに住む人間を守るを生業にするなどと言う黴の生えた建前を信用する人間など余程の世間知らず以外にはいないし、事実そんな事は絶対にないと誰もが知っているのだ。

このやくざ組織、Y組系日の出会に対する襲撃は今回で十三回目。東大阪に残った最後のやくざの事務所は、一週間で不審火三回、不審狙撃五回と、ひっきりなしの攻撃に晒されていた。組の実働要員の殆どが事務所に詰めており、更にはヒットマンと情報屋を彼方此方にはなって必死の調査を続けているのに、敵の尻尾さえ掴めない。組長が直々に指揮し、若頭が前線に詰めているというのに、である。

少し前に潰された中国系マフィアの仕業だという噂も流れたが、調査に来た警察もお手上げであった。何しろ弾丸も見付からず、狙撃位置も全く割り出せないのだ。酷いときは空から攻撃が飛んできている事さえあり、内部犯だろうと言う目を向けられた。自分たちでさえそうだろうと思った。だから凄惨な内部闘争も起こった。

少し前まで対立組織との激しい抗争に明け暮れ、逮捕と病院送りで主力の殆どを消耗し尽くした挙げ句に、人員補強をする暇もなくこれだ。やくざの間では、東大阪は呪われているという噂が流れている。手を入れた組織が例外なくあり得ない攻撃や抗争に巻き込まれ、次々に潰されていくからだ。今では一般の犯罪者も、やくざの同類とみなされて攻撃される事を怖れ、息を潜めている。中国人のピッキング窃盗団が壊滅させられてからは、なおさらだ。

倒れている組長が、政次に向かって呼びかける。両手両足を粉砕され、もう身動きできない彼は、言葉だけを最後のコミュニケーション手段としていた。

「政次、まさ、じ……」

「組長っ!」

「も、もう、ダメや。 此処からは手を引こう……俺達の手に負える相手やねえ……相手はバケモンや」

組長の情けない言葉に、政次は目の前が真っ赤になる思いを味わった。なんたる軟弱、なんたる弱気。例え残り一人になっても戦うのが流儀ではないのか。舐められたら終わりだと言ったのは組長ではないか。自分の発言を弱気になって翻す上司に、血の気が多い若頭の心は憎悪に猛り狂った。

「ち、畜生、畜生っ!」

地団駄を踏む政次。額には青筋が浮き上がっている。悔しくて涙さえ流れていた。弱い者虐めを生業としているやくざでも、それなりにプライドはあるのだ。歪んだプライドだが。勝ち目がないのは分かり切っている、だからこそ腹が立つのである。

ヒットマンも連日尽く彼方此方で返り討ちに会っていて、しかも相手の顔を見る事すら出来ていないのだという。切り札に投入したベテラン中のベテランのヒットマンが裸にされた挙げ句に、公園に逆さ釣りにされたのを最後に(しかも犯人は見ていない!)、もう日の出会の戦力は殆ど残っていない。今回は警察が念入りに調べる事は疑いなく、そうすれば火の中からチャカやらポン刀やらの残骸が見付かるのも確実だ。襲撃に備え、この事務所には組が保有する殆どの武器を持ち込んでいたのだから。頼りのY組さえもこの件に介入するのには二の足を踏んでいる。状況から、リスクのわりに得る物が少なすぎると判断しているのは間違いない。

「こらえろ、こらえるんや、政次。 此処で粘っても、もうダメや……。 お偉方だって、手を出そうとしねえんや。 きっと米軍のコマンド崩れか、モサド出身の凄腕のスナイパーか何かや」

「うるせえっ! 俺は退かねえっ! 退けるかボケ……」

完全に切れた政次がトカレフを抜いてわめき散らした瞬間だった。彼の右腕が吹っ飛び、この世からかき消えていた。ホースの先を抑えて、水を全開で出したような音がした。

「ぎゃあああああああっ! いでええ! いでええええええええっ!」

鮮血が大量に吹き出す。殆ど間をおかず、両膝が砕かれ、左腕も肘から先が吹っ飛んだ。血だまりの中に、抜きはなったトカレフが、手首と一緒に転がる。組長のように達磨になった彼は、地面に吹っ飛んで転がる。わめきながら転がり周り、血の轍を残すも、事態が解決するはずもない。逆に傷口を傷付け、元に戻る見込みをゼロにしてしまった。今まで悲鳴を上げる人間を散々拷問して、舌なめずりしていた男の、自業自得の末路であった。それを見た組員達は、口々に狙撃相手のことをわめき散らしてはいたが、完全に怯えきってしまっていた。こっそり逃げ出す者もいた。

この日、重傷者二名を残して、日の出会事務所は全焼。東大阪に最後まで踏ん張っていたやくざが、壊滅的な損害を受け、再建もままならぬまま撤退した。

 

燃えさかる日の出会事務所ビルより離れる事およそ一キロ。紺のブレザーに身を包んだ女子中学生の姿あり。おかっぱの、大人しくて穏やかそうな容姿の少女だ。そこそこに整った顔立ちだが、目立つのはその優しげな笑顔。通い始めた中学校でも、そのヒーリングスマイルと穏やかな物腰が、男女関係無しの人気に繋がっている。ちなみに部活はやっていない。

彼女はてくてくと独特の歩調で、笑顔を崩さず。隣に浮かぶハルキゲニアに似た生物に、さらりと恐ろしい事を言う。勿論、周囲に人間がいない事を確認した上で。

「あの程度で許してやるいうてんのに、聞き分けないからこうなるんや。 顔面無くならなかっただけでも、感謝しいや、て感じやな」

事実、そういう処置を執った事もある。顔面を吹き飛ばされ、それでも殺さなかったやくざの組長は、未だに病院で抗生剤や副作用の強い薬剤の投与を受け、生き地獄を味わっている。

「そうですね。 ジュンコはもう充分に一人前の戦士です。 今回も良く最小限の被害で敵を追い払いました。 しかし、しばらくは情報屋やヒットマンの襲来を警戒した方がいいでしょう」

「勿論や。 ……今まで、本当に苦労をかけたな、蓮龍」

「それは別れの時に聞きましょう。 今はまだ、胸の内に仕舞っておいてください」

言うまでもなく、少女の名は青山淳子。奇怪な生物の名は蓮龍。青龍の神子と、その神使である。地獄のスナイパーと彼女を最初に呼んだのは利津だが、今では正体不明の狙撃手を東大阪の界隈では普通にそう呼ぶようになっている。

東大阪に帰ってきたのは、一年ほど前の事だ。能勢にあったアパートを引き払い、此方に借りたアパートで二人静かに暮らしている。そして、今まで試験的に行っていたやくざの排除を、本格的に始めたのは、それから二ヶ月ほどしてからだ。今まであくまで試験的だった攻撃を本格的なものへと移行させ、そして今日、最後のターゲットを粉砕したのである。全面戦争は淳子の圧勝に終わったのだ。

てくてく歩きながら、感じの良い笑顔で淳子は自宅の方を見る。元々優しげな顔立ちが、それだけでほころぶ。心の中でだけ言う。お父ちゃん、もう少しだよ、と。

今思い出しても腹が立つ。淳子の父は、財産を無法に強奪された。保証人制度などと言うものと、人が良いという道徳的には優れているとされるのに実社会では失笑され搾取されるだけの要素を悪用され、母の遺産である虎の子の工場も、財産も、それに体の自由まで奪われた。腕力と知的暴力を利用して、である。そういう事をする連中は、同じく力によって全てを奪われても文句を言う資格など無い。つまり、力を得た現在、復讐をためらう理由は一切無い。激しい実戦を経て、淳子が得た結論がそれであった。穏やかな表面と裏腹に、淳子の心は激しい炎の一面を秘めていた。

だから、得た力を使って、時間をかけて奪い返した。復讐よりも、淳子の主目的はこれであった。

奪い返した金は、有効に使っている。国から補助金が出たとか言い含めて、父の治療代に使ったほか、工場の買い戻し費用にも使った。幸い新しく工場を手に入れていた人物は理性的で、淳子の粘り強い説明と交渉を正面から受け止め、そろそろ金が揃う現在、工場の返還が秒読みに入っている。

淳子の収入はそれだけではない。これだけ復讐がスムーズに行っているのも、その副要素が主であった。

東大阪に戻った頃と前後して、淳子は非公式の公務員となっている。接触してきた政府お抱えの能力者の誘いで、主に日本に潜入してくる工作員やテロリストの処理に当たっているのだ。機密性の高い組織であるため、殆ど存在は知られていない。その中でも用心深い淳子は単独行動を得意とし、今までにアルカイダの構成員や北朝鮮の工作員を何回か闇へと葬り去っている。じきに零香や桐、それに利津や由紀も誘う予定ではある。彼女らと共に戦えれば、これ以上心強い事など無い。ただすでに由紀や利津は将来の道を決めているようだし、いい返事が聞けそうなのは零香や桐くらいではあった。

この仕事、兎に角給料が良い。仕事の内容が仕事の内容だし、何より極めて貴重な能力者が構成要員の殆どだという事もあるのだが、一回の仕事で百万を越える報酬などざらである。今までに七回の仕事を依頼され、文字通り影のようにいずれも問題なくこなし終えた。そろそろもう少し難度の高いミッションが来る可能性もあるという。望む所であった。東大阪で犯罪組織を相手に(ばれないように)暴れるのなら勝手次第という墨付きも貰っているし、淳子には願ったりの仕事である。

工場を取り返すまで、後二百万。自力で返せる金額である。敵からぶんどった金はそれより遙かに多いが、父が奪われた分ではない余剰金はマネーロンダリングしてスイス銀行に預けてある。こっちに手を付ける気はないから、自力で稼ぐほか無い。

父は指の治療がもう終わり、手はもう自由に動くようになっていた。粉砕骨折した指だが、最新の医療と長年の根気強い治療の結果、今では後遺症が少し残っただけで自由自在に動く。後は精神の方の治療だが、これは家に通っている遥香さんが上手くやってくれている。悔しいし嫌だけれど、遥香さんがいた方が色々と都合がよいのは、淳子も良く分かっている。実戦で鍛え上げられた合理的な頭脳が、父を独占したいという欲求を、非効率的だと退ける決断力をくれたのだ。

家に帰る途中、花屋を通りかかる。丁度潤いが欲しいなと思った所だったし、軒先に飾られている綺麗な蘭の鉢植えを買う。蘭の中には試験管の中でしか芽吹かないような種類もあるが、これは野性の繁殖力逞しい品種だ。

「お客様、此方の花などどうですか? お客様に似合うと思いますが」

「いや、これでええんや。 うちはこの花がええ」

綺麗にラッピングして貰った鉢植えを左腕に抱えて、にこにこと楽しそうに笑っているこの少女が地獄のスナイパーである事を、知る人間は殆どいない。他の神子だけだ。淳子は木の属性を持つ青龍の神子であるし、植物とは感応力が高い。だから花にもうるさい。見かけの美しさよりも、生命力の強い花にこそ引かれる。

自宅までもう少し。まだ安アパート暮らしだが、生活水準は目立って良くなってきているし、自然と足取りは軽くなる。

「ジュンコは、戦いが終わったら何か欲しいものがありますか?」

「ん? そうやな、しばらくは幸せでお腹一杯やろけど……。 うちはな、水を自由にカスタマイズ出来る機械を作りたいわ」

「ほう? それはまた、面白そうですね」

 蓮龍は木の属性を持つ青龍の神使である。だから淳子と、こういう所で話の話題は見事に一致する。

「そやろ? 色んな「美味しい水」飲んでみたんやけど、どれも物足りんしな。 うちは自分の好みに水を調整できる、最高の機械を作ってみたい。 作った後は、それで思う存分その日の気分に合わせて、美味しい水を飲むんや」

「それは興味深い。 神子相争が終わった後、いつか遊びに来たときにでも、ごちそうして頂けませんか?」

「勿論大歓迎や。 蓮龍には一番うまいの飲ませたるわ」

既に淳子の頭の中では、その具体的な構想も練り上げられつつある。カルシウムやマグネシウムと言った水の味を左右する成分を調整するほか、塩素や微生物などを丁寧に取り除き、更に温度を調整する機能付き。五千万くらいかければつくれそうだなと判断しているが、作るまでにはまだまだ時間が掛かりそうであった。そう頻繁に仕事があるわけではないのだ。かといって、東大阪の外にいるやくざにまで喧嘩を売る気もない。つまり、気長に仕事を待つしかないのだ。高校にはいるまでには作りたいものである。ただ、淳子は機械類がさっぱり分からない。組み立てには父の協力が必要不可欠だ。

帰る途中に、工場に寄る。稼働音はしない。土地には雑草が生い茂り、人間の生活臭がしない。機械類は余所に移した後だし、誰も来ないのだから当然だ。今から楽しみだ。この工場を甦らせるのが。鉢植えを少し強く抱きしめていたらしく、葉が締め付けられて鳴った。

「あ、ごめんな」

「さあ、ジュンコ。 今日はもう帰って英気を養いましょう」

「なあ、蓮龍」

「何でしょうか」

蓮龍はあと一週間で淳子の元を去る。既に新しい神子は見付かっているとかで、彼女の環境調査に入っているのだそうだ。勿論、神子の素性は教えてくれない。淳子が戦場で会う可能性は極小だが。

「次の子も、苦労しそうなんか?」

「そうですね。 どの時代も、大変な身の上の子供は少なくありません。 それを答えとしておきます」

「次の子も、よろしく頼む。 蓮龍がいなかったら、うち、もうきっと……」

「分かっています。 任せてください」

蓮龍がいなかったら。淳子はきっと中途半端な腕前のまま復讐に走り、殺されていただろう。蓮龍は充分な腕がつくまで、上手く淳子を制御してくれた。口調は優しいのにとても厳しい蓮龍に助けられたからこそ、淳子は上手くやって来られたのだ。

家に着く。アパートの一室は、潤いに覆われていた。アパートの廊下には鉢植えを置く棚が設置され、幾つかの植物が置かれていた。その一つが今花開いている。黄色に縁取られた紅い花びらには、黄色の点がアクセントとして散っている。緑の葉は生き生きと茂り、朝露の名残が葉脈に光っていた。その隣に、今日買ってきた蘭を乗せる。腰をかがめて葉を撫でると、とても愛おしい。やくざ共を業火の元踏みつぶした戦鬼の目元に、優しい安らぎが浮かぶ。それは一見矛盾しているが、確かに地獄をくぐり抜けた末に得たものだった。

アパートの廊下の一角、青山家のスペースには淳子と遥香が手入れする花が咲き誇り、雑然としたアパートの一角に潤いと癒しをもたらしている。蝶が飛んでくる事もある。卵を産んだ場合は品種を調べて、野に置いてくる。植物が好きだと言っても、虫が嫌いなわけではないのだ。

「頑張って咲いてな」

「淳子、帰ってたんか?」

振り返ると、父がいた。まだ少し指には震えがあるが、根気良い治療の結果、正気を保っていられる時間はもう一日八時間以上に回復している。後少しで、完全に立ち直れる。もう、幸片はいらない。淳子が一人で、幸せを掴める。弾けるような笑顔を淳子は浮かべた。

「ああ、今帰ったわ。 お父ちゃん、具合はどう?」

「上々や。 今、遥香さんがお夕飯買いに行ってくれてるで。 今日はハンバーグやて」

「それは嬉しいな。 それより、お父ちゃん! また新聞とってもうて! あかんやん、もう。 さっき出かけのついでに解約してきたからな」

「すまんすまん。 次からは淳子に対応してもらうかんな、堪忍や」

少し拗ねてみながら、淳子は思う。この人は、人が良いままでいいんだ。うちと、遥香さんと、死んだ母さんで、支えていってあげればいい。淳子はそう思う。人が良いって事につけ込もうとするダニ共は、淳子が追い払い、叩き潰す。優しい事の何が悪い。優しい事につけこもうとする奴の方が悪いと、淳子は力尽くでも世間に示す。それだけだ。

頭を掻きながら淳子に謝る父啓太。優しいけど少し口うるさい淳子。二人を優しく見守る遥香。新しい幸せは、確かに此処にあったのだった。

 

2,朱雀の幸せ

 

机の上に置いた木の彫り物。ねえちゃんにデザインを頼み、佐智に彫ってもらった、蛇の形をした、小さいけど緻密に作られた良い作品だ。じっとそれを見ていた利津は、大きく頷くと、手を翳す。

「朱雀よ、炎の鳥にて命すべし王よ」

火の粉が散り、利津の周囲を漂い始める。部屋の温度自体が、瞬間的に数度上がった。利津の額に汗が浮かぶ。

「汝の羽を一枚、風切羽を一枚、我に与えよ。 対価は我が魔力。 汝の命のひとかけら、我が力と引き替えに、この命無きものへと注ぎ込み賜え。 紅き滝よ、このものへと、移りこみたまえ……」

火の粉はますます数を増し、部屋の温度はどんどん上がる。火事にならないようにだけ、後で気をつけて辺りを調べなければならない。乱れる呼吸を抑えて、利津は相当量の魔力を、木彫りの蛇へと注ぎ込み、そして最後の呪文の一節を唱えた。

「躍動せよ! 汝の名は、朱龍!」

木彫りの彫り物が弾けた。紅い炎の蛇が吹き上がるようにして、木彫りの彫り物から溢れ出てくる。利津が右手を天に向けると、部屋一杯を明々と染めて蜷局を巻いていた巨蛇は見る間に小さくなっていき、手に巻き付いていった。

一応火力は調節したが、後で焦げていないか調べないと行けない。指先を木彫りの置物が置いてあった台へ向けると、紅い蛇はするすると可愛い火花をまき散らしながら其処へ戻り、木彫りの像と同じポーズを取り、そして動かなくなった。色はすぐに赤から茶色へ、焦げ茶へと戻っていき、さっきと少し色が変わったようにしか見えなくなった。完成だ。

どっと疲れた利津は、椅子に背中を一杯に預けると、額を拭って嘆息した。となりでは、祭雀が半透明の体を波打たせて浮いている。

「疲れましたわー」

「お疲れさま、りっちゃん」

「術を自力で組むのがこんなに大変だとは思いませんでしたわ。 本当にもう、肩こりました」

立ち上がった利津は、部屋の隅に置いてあるバケツで手を洗うと、部屋の隅々まで見て回った。前に一度小火を起こしかけたからだ。かといって、自分の魔力が染みついているこの部屋以外での作業はしんどいし集中力も途切れやすい。

術のかかった道具を売る商売は、完全に軌道に乗った。この蛇は、特定の呪文を唱えた相手の守護を行うガーディアンの一種で、非殺設定にしてあるが、それの調節にかなり手間取った。此処までは許容範囲という調整が兎に角難しかったのだ。

「良し。 これでりっちゃんは、完全に一人前だよ」

「……! ありがとう、ございますですわ」

「ううん、りっちゃんの努力の結果だよ。 僕はあくまで少し手助けをしただけ」

少し悲しかった。今の祭雀の言葉は、別離を告げるのと同義だったからだ。事実、もう神子相争を終えたわけであるし、いつ祭雀が行ってもおかしくはない状況だった。だから、覚悟は出来ていた。そのはずだった。それなのに、やはり分かってしまえば悲しかった。

「りっちゃん、泣かないで」

「今、私、泣きそうになってましたの?」

「うん。 曇り空が雨に変わりそうだった」

「大丈夫、ですわ。 私、もう泣きません」

目を擦ると、利津は以前のような、太陽の如き笑みを浮かべてみせる。そして木彫りの蛇を天井に向けて掲げる。

「明日は田沼さんから、いつも以上にふんだくってやりますわ!」

「うん、その意気だよ」

「それで、たまには御礼をさせていただけませんこと? 欲しいCD等があったら、遠慮無くおっしゃってくださいませ」

「うん? うーん、そうだなあ。 それじゃあマキちゃんから、サイン付きの新曲CD譲って貰えないかな」

精一杯無理をした言葉に、祭雀は気付かないふりをしてくれた。おやすい御用ですわというと、利津は祭雀に背中を向けて、もう寝ると言った。祭雀は本当にずっと強く強く利津を支え続けてくれた。涙をこらえるのが、こんなに大変だとは思わなかった。ねえちゃんが元に戻ったのも、佐智に笑顔が戻ったのも、祭雀のお陰だ。

布団に潜り込む。電気は小さくするが消さない。こんな時にまで、戦闘で身に付いた用心が行動を支配している。武器である視力を潰さないための処置だ。不意打ちを想定したこの備えが、利津の著しい成長を物語っていた。

 

「ねえちゃん」こと赤尾蘭子の手術が行われたのが半年ほど前。札の売上に加えて、祭雀に教わりながらせっせと作り続けた魔法の道具がよく売れたため、予想以上の速度で五千万が溜まったのである。蘭子が設計し、佐智が組み立てた芸術品は、非常によい魔法の道具の材料になった。金の出所は、道草先生がボランティアで基金を募ってくれたのだと言い訳した。道草先生も、金の出所には目をつぶってくれた。いずれ真実を話すとしても、それはまだ早すぎる。

手術が出来ると分かったときの、蘭子の顔を利津は忘れられない。最初はぽかんとしていたが、やがて真実に気付いて右往左往し、涙をこらえて部屋に戻ってしまった。それから暫くして部屋から出てきた蘭子は、泣き腫らしてはいたものの、すっかり昔の彼女に戻っていた。車いすの上で、蘭子は利津と佐智に頭を下げ、今までごめんなさいと謝った。希望がこんなにも人を変えるのだと、利津は初めて知った。他人の変化を見ないと、分からない事はどうしてもあるのだ。自分がこんなに強くなれたのは、蘭子がくれた希望のお陰だったというのに。

それから三人、抱き合って朝まで泣いた。本当の蘭子の姿を見た佐智は、もう蘭子を怖がらなくなった。

道草先生の現役時代のコネクションを生かし、使わせて貰った大学病院の手術室で、一大オペは行われた。赤尾家に知られれば邪魔が入るのは分かり切っていたから、あくまで迅速に、かつ秘密裏の手術だった。佐智は熱を出してしまって立ち会えなかったが、利津は手術室の隣でずっと祈り続けていた。勿論、幸片を全てつぎ込むのを忘れはしなかった。

道草先生の腕が衰えていなかった事も、蘭子の執念も。そして利津のつぎ込んだ幸片も。全てが作用した事は間違いない。手術は見事に成功した。

どれだけこの時を待った事か。どれだけこの事を願った事か。願っただけでは、とてもこれは実現しなかっただろう。激しい実戦をくぐり抜け、現実的に物を考える事が出来る頭脳と、動くべき時に動ける決断力と判断力を身につけていたからこそ、導き得た結果であった。

退院まで一ヶ月。山荘に戻ってきたとき、歩けるようになったねえちゃんの表情は、まるで別人のようだった。そう、それは利津を引き取った頃の、問題なく走れた頃の蘭子の顔だった。希望が、彼女を甦らせたのである。

無論、すぐにねえちゃんは走れるようにはならなかった。道草先生の指導の元、苦しいリハビリが行われ続けた。早朝に走る事も多かったから、利津も朝練には今まで以上に気を使うようになったが、実戦経験もない蘭子にばれるようなヘマなど犯すわけもなかった。仮にも利津は、あの零香や淳子、桐や由紀といった怪物じみた神子達と、三年近くも戦い続けてきたのである。

そして、今に至る。

 

夕方に、田沼さんが来た。蛇は予想通り七百万の値が付き(ただし、末端価格は五千万を越すという)、当分の生活費が手に入った。最初は六百万と言われたのだが、粘って七百万まで引き上げたのだ。田沼さんも、決して値上げ交渉に不快な顔はしなかった。一つの理由として、利津のブランドができはじめ、ファンが付き始めた事もあるだろう。利津が臍を曲げれば、他のブローカーと契約しかねない事は分かっているのだ。事実利津には、既に三人のブローカーが接触してきていた。田沼さんの態度次第では、今後は入札制にする事も出来る。

田沼さんとの軽めの戦いが終わった後は、夜の修練だ。いつも火力を解放して焼き尽くしている谷での訓練である。賽の河原のような寂しい雰囲気に、焦げ付いた岩や石が点在する殺風景な所だが、利津の魔力が染みついしているし、いるだけでなかなか心地よい。神子相争が終わっても、神衣は具現化できる。世捨て人になる神子は多いそうだが、力を捨てる者は一人もいないそうだ。頷ける話である。利津にしてもそうなのだが、無力の悲しさを体で味わった人間が、折角得た力を手放す可能性は低い。利津だって、折角手に入れたこの力を、手放す気などはさらさらない。

ありとあらゆる状況を想定しての戦闘訓練。もうそれを誰の助けも借りず、一人でシミュレート出来るようになってきている。最近は地上で敵に襲われた場合の訓練が流行りだ。近距離戦闘では無力に等しい利津だからこそ、その状況をどう打破するかの修練は重要になってくる。力を求めて寄ってくる実体化まがつ神もいるという事だし、暴力による脅迫を平然と行う悪質なブローカーも少なくないと聞く。今後はあらゆる戦闘を無難にこなせる技量が必要だ。

今日は飽和攻撃を想定しての訓練だ。飽和攻撃というのは、対応できないほどの数による、周囲からの一斉攻撃を差す。海上戦ではミサイルによる飽和攻撃に対抗する事を目的の一つとして、イージス艦が考案されたという説がある。

くるりと回って辺りの地形を頭に入れると、敵の攻撃ルートを想定し、如何に足止めするかを考える。飛び上がってしまえば勝ったも同然だから、それの時間をどう稼ぐかが問題だ。また、攻撃に適当な位置に陣取らせると負けが確定してしまうから、それを防がなくてはならない。こういうときこそ、実戦で鍛えた状況判断力が物を言う。

小さめの火球をつくり、回転と同時に周囲にぶっ放す。殆ど同時に七カ所で爆発が巻き起こるのを横目で確認しながら、浮遊の術を発動。爆発力で一気に上昇し、空に逃れた。もう0.7秒は短縮できるはずである。無事に浮き上がれた利津は、すぐに術を解除して、地面に降り立つ。今度は少し立ち位置を変えて、同じ訓練を行う。今度は更に敵が近い情況で同じ訓練を。最後は、敵が至近にまで迫ってきた、最悪の状況を想定して、訓練を組んだ。

保有する力の三割ほどを消耗した所で、休憩に入る。休憩と言っても、奇襲を想定して、周囲に散々張り巡らせた結界の中で行うのだ。今展開している結界は、いつもの迷路と言うよりも、鳴子に近い。もし何か不逞の輩が来たら、すぐに位置を特定して充分に排除できるほど、精密な鳴子だが。

訓練前につんでおいた木の実を口に入れる。植物質の食べ物が美味しくて仕方がない。零香が塩を大好物にしている事や、淳子が機械音痴になっている事、桐が昼寝マニアになり、由紀がお茶碗マニアになっている事はもう知っている。サラダマニアの利津は、暇さえあれば何か植物を口に入れたくて仕方がない。

リラックスした隙を、祭雀はついてきた。いつものように、この少年じみた神使は、必用に応じてとても狡猾な行動を取る。

「りっちゃん、もう分かってると思うけれど」

「……いつ、ですの?」

「そうだね、多分三日以内だろうね。 もうりっちゃんは幸せと、自立できる実力を手に入れた。 僕は次の神子の面倒を見に行かなければならないよ」

耳を塞ぎたかった。でも、聞かないわけには行かなかった。

利津は確かに幸せになれたが、世の中には不幸な子が幾らでもいる。そう言った子が神子になれれば嬉しいとも思うし、祭雀には誇りある仕事を最後までやり遂げて欲しい。だけども、エゴは利津にだってある。一緒にいたいと思う。

祭雀から顔を逸らす。もう泣かないけれど、見られたくなかったから。そのまま利津は言った。

「がんばって、祭雀。 もう由紀には話をしてありますから、CDは餞別に差し上げられますわ」

「ありがとう。 さあ、最後まで訓練はしよう。 家に帰ったら、術の組み立ての練習も見てあげる」

子供っぽいのに、凄く真面目なんだから。心中で呟くと、利津は立ち上がって、笑顔で振り向いた。利津は強くなれる。まだまだ幾らでも強くなれる。だから、今は強くなるべく、最大限の努力をするだけであった。

 

起きると、もう朝だった。外には霧が立ちこめていて、殆ど何も見えない。目を擦って起きだして台所に出ると、書き置きがあった。ねえちゃんはいざというときの事を考え、朝のリハビリに出るときにも、書き置きを残していくのだ。

書き置きの内容は、今日のリハビリのランニングコースと、予想される所有時間であった。利津は大体の経路を頭に入れると、外に飛び出す。隣には何時の間にか祭雀がいた。

「行きますわよ、祭雀」

「うん。 今日も頑張ろう」

走り出す。産まれ持った絶大な運動神経を生かし、緩やかな下り坂で一気に加速していき、跳躍。術を発動し、空に舞う。濃霧の中、紅い神子は滑空し、風に乗り、見る間に高度を上げていった。

最近は料理を作るのが楽しくて仕方がない。佐智も料理が作れるようになってきたし、蘭子も手伝ってくれる。今まで、どうしても利津のレパートリーでは料理の幅に限界があったが、蘭子や佐智が手を入れると全く別の物が仕上がってくる。ただ、肉料理も出てくるので、それはちょっと困る。

日に日に修練の時間は短縮されていく。山菜を見つけだす眼力、森の事を把握した経験が、戦闘で磨いた直感と一緒になり、日に日に進歩しているのだ。山菜を集め終え、帰りの途中のねえちゃんと合流、家に帰る。ねえちゃんはうっすら汗を掻いていたが、とても気持ちよさそうだった。冷たい水を渡すと、ねえちゃんは昔通りの笑顔を浮かべてくれた。

「サンキュ、利津」

「このくらい、おやすい御用ですわ」

小走りに二人で走る。アスリートとしての利津の才能は蘭子も認める所だが、残念だが利津はそんな方へ進む気などさらさら無い。オリンピックの女子短距離で優勝する自信くらいならあるが、赤尾家が総力を挙げて潰しに掛かってくるのは目に見えている。そうすれば佐智にも蘭子にも迷惑が掛かる。赤尾家に反撃を開始するのは、もっと財産を手に入れて、力を蓄えてからだ。潰すまでやる気はない。ただし、二度と逆らう気が起きない程度には、ぶちのめしてしつけてやるつもりだ。自分の器に不釣り合いな力を手に入れて調子に乗っている馬鹿には、丁度いい報いをくれてやるのが一番だ。

他の神子と利津で共通している点は、一般人に対して実戦で得た力を行使する事をためらわないと言う事にある。というよりも、今回の神子達は全員が全員、得た力を使う事に躊躇いを感じない。力を誰かを守るためだけに使うのが美徳だというのも、一つの考え方ではある。しかしそれは如何にも現実に即していない、理想論に近い物だ。激しい実戦で現実的な考え方を学んだ神子達がそういった理想論に身を浸さなかったのは、ある意味当然であったともいえた。

「ねえちゃん、大分足は治ってきましたか?」

「うん、大分良いよ。 全力疾走は無理だけど、軽めのマラソンなら、二三キロはいけそうだね」

「流石はメダリストですわ」

「ううん、それよりも私は利津の足に驚かされたよ」

会話が弾む。ちょっとした言葉のやりとりだけで、本当に嬉しい。大好きな相手と結婚したての娘のように、今利津は幸せだった。

遠くで、佐智が手を振っていた。最近はどんどん声が大きく、元気になってきている。萎縮しきっていた彼女は、押さえつけられていた分、今伸びつつあるのだ。近いうちに、とうとう成長期を越えても大きくならなかった利津の背を追い越すかも知れない。

「利津おねえちゃーん! 蘭子おねえちゃーん!」

「さーち−! 今日はー、蕨のいいのが、とれましたわー!」

「それは楽しみだ。 さ、利津、いそご!」

「はい!」

利津は走り出す。少し遅れて、蘭子が小走りでついてくる。ゼロになった三人の距離は、きっと、今後も離れる事はないだろう。戦って、勝ち取った幸せなのだから。

 

3,黄龍の幸せ

 

スポットライト降り注ぐステージ上で、立ちつくす姿は、現在日本最高のアイドルに成長した輝山由紀、芸名華山マキだった。そしてステージの上では、由紀はマキである。胸と背中、それに腿を大胆に切り込んだ衣装は、子供らしい健康な色気を前面に出し、マキの魅力を最大限に引きだしていた。決して絶世の美女ではないマキだが、その圧倒的なカリスマと、表情、それに雰囲気が、凡百の子供とは全く違う凄みを周囲に見せつける。時に大人すら圧倒するオーラを、文字通りの意味で全身から放出しながら、マキはマイクへと歩いていく。

かってはオタク青年達の女神だった彼女だが、卓絶したダンスの力量と歌唱力、更にはファッションのセンスによって、同世代のハートを掴む事にもしっかり成功している。彼女が出るだけでテレビ番組は五%から十%の視聴率増加が見込めるとも言われ、スポンサーに名乗り出る企業は後を絶たなかった。コンサートは必ず満員になり、CDの売上も他の歌手の追随を許さない。下らないバラエティ番組には一切出ようとしない身持ちの堅さも人気を後押しする一因となっていた。

マキが片手をマイクへ伸ばし、軽やかに取る。その動作だけでも決まっていて、ホールの客が見事にしんとなった。スポットライトが左右に揺れ、バックミュージックが流れ始める。豊かな声量を全開にして、マキが歌う。舞う。熱烈な恋をテーマにした歌は、客の全てを虜にし、激しいダンスは魅惑を通り越して幻惑した。バックダンサーなど必要ない。マキは引き立て役など必要としないのだ。絶叫と歓喜が広い広いホールの天をも貫かんと荒れ狂った。客の全てが正気を失い、拳を振り上げ、叫び、そして歓喜と美声に酔いに酔った。

「マキちゃーん!」

「愛してるよ、マキちゃーん!」

客の一人が絶叫すると、他の人間も皆それに習う。老若男女関係なし。コンサートは、一種の狂乱である。その狂乱をコントロールする中心点は、音響でもなければ照明でもない。マキ自身だ。

二流三流のアイドルの場合は音響や照明、演出などでごまかして客を狂乱へ誘う事が珍しくもない。だが、マキは違う。マキが歌うたびに、ちょっとした動作を見せるたびに、プロ顔負けのステップを見せるたびに。客は沸き立つ。勿論トップアイドルという権威付けもそれに関与しているが、それ以上に彼女自身の魅力が大きい。彼女はすでに、演出家泣かせのアイドルだと裏で囁かれている。掛け値なしの実力で客を引きつけてしまうので、腕の振るいようが無いというのである。嘆き半分、賞賛半分の言葉であった。

汗が飛ぶたびに、客の狂乱も更に増す。ステージの下にいる警備員達は、客を監視するので精一杯だった。中にはイヤホンをしている者さえいる。マキの歌を聴くと、狂乱に飲まれてしまう事が多いからだ。警備員の中にも、マキのファンは決して少なくないのだ。

この凄みあるコンサートの源流が、凄まじいまでに血みどろの実戦だと言う事を知る者は、この会場には誰もいない。マキは聴衆の全てをコントロールし、全ての脳細胞に自分の歌を刻みつけ、全ての網膜に自分の舞姿を焼き付けた。零香や淳子との戦いに比べれば楽なものだ。

二回のアンコールを含め、およそ五時間のコンサートが終わり、客の99.9%以上がこれ以上もないほどに満足して帰っていった。今日も、コンサートは大成功だった。

この手のアイドルには、事務所との兼ね合いの悪さから来る過剰労働や精神の負担が付き物だが、マキに関しては違う。家族経営という、極めて珍しい事務所の形態を取っているからだ。

疲労が溜まった体を引きずって、事務所へ戻る。途中から合流したマネージャーが、タオルで顔の汗を拭きながら言う。因みに、マネージャーは三十路の男だ。しかも女装してもばれないほどの美形である。

「今日も素晴らしかったわ、由紀ちゃん。 もうあたしったら、年甲斐もなく鳥肌が立っちゃった♪」

「有り難うございます、マネージャー」

最初の頃はこのおねえ言葉を聞く度にこっちの方が鳥肌だらけになったのだが、流石にもう慣れている。三年以上付き合い続けたマネージャーだし、腕は確かなのだ。となりでは、くるくると五色の石を回転させながら、くすくす石麟が笑っていた。あれこれいうマネージャーにテキトウに返しながら、控え室のドアノブをひねる。其処には、事務所の社長が待っていた。

「由紀ちゃん、お帰りなさい」

「母さん、ただいま」

「疲れたでしょう。 スポーツドリンクを冷やしておいたわ。 マネージャーも、一緒にどうぞ」

「あら、奥様ったら、素敵! 最高の心配りだわ」

まるで小学生の女の子が如き笑みを浮かべながら、マネージャーがスポーツドリンクに手を伸ばす。ステージから降りたのだから、今は輝山由紀だ。由紀は一度だけ、昔とは別人のような笑みを浮かべている母を見た後、スポーツドリンクに手を伸ばす。妄執から解放された母は、由紀が知るどの時代よりも、優しい笑顔を浮かべていた。

「由紀ちゃん、どうしたの?」

「ううん、何でもないですよぉ」

だから、由紀も優しい笑顔で返す。激しい実戦をくぐり抜けてきた戦鬼とはとても思えない、或いは観客を虜にしてコンサートの熱狂に巻き込んだトップアイドルとも思えない、年相応に見える笑顔で。

 

由紀の父の会社に続いて、母の会社も倒産するのに、さほど時間は掛からなかった。今まで由紀の稼ぎを全てつぎ込んで、それでようやく水際で持ちこたえていたのだから当然だ。会社は解体され、社員達はめいめい他の会社に移っていった。危険察知能力の高い人間はもうあらかた辞めていたので、被害が最小限ですんだのが、不幸中の幸いだったとも言える。宝くじのせいで始まった狂想曲は、此処に終わりを告げたのである。

一旦両親から距離を置いた由紀が、マイホームを手に入れたのも、ほぼ時期を同じくしている。

借家のすぐ近くの家は、六十坪もある立派な家で、二階建て。由紀好みの綺麗な庭と、閑静な住宅街が周囲に広がっていた。家自体も可愛い。ブルーの曇り無い瓦屋根と、クリーム色の壁が由紀好みで、出窓が三カ所にあり、庭では洗濯物を干す事が可能で、蝶や小鳥が普通に訪問する素敵な家だ。絵本に出てきそうな雰囲気である。

兎に角辺りの治安が良くて静かだというのが、由紀の琴線に触れた。この辺りは高級住宅街で警察が巡回している事もあるし、何より誰にもこの場所は教えていないので、鬱陶しいストーカー共も近寄りようがないのだ。いずれ知られるとしても、この辺りは治安も良いし、迂闊には近寄れないだろう。面倒くさい掃除をしなくてすむのが素晴らしい。

当然の事ながら、これだけの好条件には、代価が伴う。土地込みで四千七百万。それなりに高くついたが、今の由紀はそれを充分に支払える能力を持っていた。そのために数ヶ月間貯金してきたのだ。即金で払うと、予定通り由紀は其処へ移り住んだ。勿論、愛するコレクション達と一緒に、である。家には七つの部屋があり、そのうち一つをお茶碗部屋にして、コレクションの全てを其処に納めた。激しい巡業の後には、そこでヒーリングするのが、由紀の日課となっていた。

これで、やっと、両親を救う手だてが整ったのだとも言えた。

両親が事務所にアクセスしてきたのは、新しい家に引っ越して数日経っての事であった。自分たちが今までどうして会社を経営できていたのか、如何に由紀に負担をかけていたのか。由紀の思いきった行動で、ようやく悟った二人は、すっかり反省していた。マネージャーにすぐには家を教えないように釘は刺しておいたのだが、感動体質のマネージャーは大泣きしてすぐに家に駆け込んできた。

本当に両親が変わったのか、由紀はすぐには信じられなかった。今までの数々の確執が彼女を慎重にさせていたと言う事もある。すぐに出ていっては、元の木阿弥になるのではないかという怯えもあった。だから、まず二人には、会社の権利関係を綺麗に処分して、その後に事務所の経営だけをやって貰うという形で、誠意を示して貰う事になった。

後で聞いたのだが、石麟はずっと前に分析を終えていたのだそうだ。由紀の両親は、トップには決定的に向かない人材なのだと。何かしらの押さえがあって、初めて機能する人達なのだと。ずっと昔には、サラリーマンであり、逆らえない上司がいる事がそうであった。主婦であり、由紀という扶養家族がいる事がそうであった。それが外れてしまってから、二人はおかしくなってしまったのだ。妙な形で芽生えてしまったプライドも、それを後押しした。それを排除してから、再び抑圧のある形に戻して、ようやく二人は正気に戻れるのだと、石麟は言った。由紀もその言葉が真実だと思った。だから自分流のやり方で、少しずつその道を踏破していった。それは、ロッククライミングのように、孤独で厳しい作業であった。

少しずつ、アクセスを増やしていった。限界に近かった由紀は、何度か両親に分けて会う事で、少しずつ信頼を回復させていった。二人は事務所の経営者として、つつましく無闇に手を広げることなく働いてくれた。由紀の関連グッズを扱う企業の手綱もきちんと取ってくれたし、スケジュールも今まで通り無茶をしないレベルに抑えてくれた。およそ一年の苦闘の末、両親が今の家に移り住む事を提案してきた。ずっと石麟と家政婦しかいない生活だったから、違和感もあったし抵抗もあった。何より一番大きな感情がある。それは恐怖だった。

怖かった。当然の話である。徐々に狂っていった両親の姿を、由紀は克明に見てきたのだ。治りかけているというのを目で見ていても、体は拒絶していた。本当に元に戻りつつあるのかと、何時も自問自答した。本当に怖かった。夜中に布団の中で震えた事もある。子供のように夜闇に怯えて、悲鳴を上げて蹲ってしまった事もある。恐怖は、なかなか克服できなかった。

こんな時、両親から提案があった。いきなり住み着くのではなく、少しずつ家にいる時間を増やしていくつもりだと。この言葉を聞いたとき、由紀は両親が元に戻った、いや以前よりぐっと良い親になったのだと、実感する事が出来た。

少しずつ両親との接触時間が長くなっていった。今までのように嫌々ではなく、二人とも笑顔で仕事終わりの由紀を迎えに来てくれるようになった。学校の事も聞いてくれるようになったし、今まで自分でやらなければならなかった細かい喉や肌のケアにも気を使ってくれるようになった。過保護にならないように気をつけてもくれたし、まずい所はきちんと叱ってくれた。三人が、本当の意味で親子になれたのは、この時からかも知れないと、由紀は思う。

両親が完全に新築の家に住み始めたのは、一月前からだ。二人は少しどじが目立つ家政婦の佐奈さんとも仲良くやっているし、不安はもう感じない。それで、ようやく気付く事が出来た。これが求めていた幸せなのだと。もうすぐ神子相争が終わり、その立て役者である石麟と別れる事になるのだと。今後は全て一人で、道を歩いて行かねばならないのだと。そう考えると、少し寂しかった。

 

その日は、思っていたよりずっと早く来た。最後の神子相争が終わって、四日後の事であった。

その日は新曲の収録も早めに切り上げ、まだ明るい内に家へ帰る事が出来た。喉の手入れを済ませた後、佐奈さんに断って茶碗室に籠もる。十六畳もあるこの広い部屋には、地下室も設けられており、所狭しと棚が置かれている。その半分ほどに、耐震措置を行われた茶碗が並べられており、由紀の到着を今か今かと待っていた。

今日は一番お気に入りの瀬戸茶碗を手に取った。冷たい肌触りが心地よい逸品で、七十万もした品だ。高ければ良い品だというわけではないが、これは何十年も大事に使われてきた秘蔵品で、質流れしてきたものをたまたま見つけて一目惚れしたのだ。勿論これでご飯を食べるわけではない。頬ずりするのだ。

どうして一番良いのを選んだのか、無意識では分かっていた。いや、有意識下でも、本当は分かっていた。分かっていないふりをしていただけだ。石麟はずっと隣に着いてきてくれている。彼女の五色の石が、いつもより回転速度がずっと遅い事に、由紀はとっくに気付いていた。

「ねえ、由紀」

「あんだよ、石麟。 イイとこなんだから、じゃましないでくれる?」

二人っきりだから、ぐっとフランクな口調になる由紀。くすくすと笑っていた石麟は、やがてぐっと重い雰囲気を湛えた。そして、秒針を二周させてから言った。

「お別れよ、由紀」

由紀は聞かないふりをして、寝転がったまま茶碗に頬ずりした。この時が近く来る、というよりも、高確率で今日来る事は、由紀も分かっていたのだ。朝練の時に。

石麟の雰囲気が、今日はいつもと確実に違った。石の回転速度もそうなのだが、飛行にキレがなかったというか、全体的に動きに軽快さを欠いていた。動きが鈍そうな石麟だが、そんな事はないと由紀は知っている。いつも修練中どれだけ由紀が飛ばしても、絶対に石麟が遅れる事はないのだ。だから、おかしい事は歴然だった。たかが時速三百キロ程度で少し遅れたのだから。

「何か、聞きたい事はある? 零香ちゃんなんかは、神子相争について色々草虎を問いつめるつもりみたいよ」

「あたしは別に特にないよ。 ……そうだ、ねえ、何か欲しいものない? この茶碗でも良いよ。 何でも言ってみてよ」

手に入れるのに時間が掛かるものなら、それをネタに出発を遅らせようと言う考えが、頭の何処かにあった事を否定はできない。だが、石麟は、寂しく笑うばかりであった。

「何もいらないわ。 由紀にはもう、本当に色々なものを貰ったから。 後は幸せに長生きしてくれれば、私は何もいらない」

「無欲だね、石麟は。 あたし、あたしは、あたしさ……あ、あれ?」

涙がこぼれ落ちる。座り直すと、隣に茶碗を置いて、目を擦る。まっすぐに石麟を見据えながら、由紀は気持ちを落ち着ける。

「あたしは、今でも欲張りなままだよ。 両親が帰ってきて、優しくしてくれて。 それなのに、お茶碗も欲しいし、それに……石麟にも側にいて欲しい。 ほんとに、もう、自分勝手で、欲張りだよね」

「貴方は欲張りなんかじゃないわ。 ありがとう、由紀。 今の貴方の幸せそうな姿が、私には最高の宝物なのよ」

「石麟っ!」

感極まった由紀は、そのまま石麟に抱きついていた。抱きしめる冷たい感覚が、見る間に消えていくのが分かる。まだ、消えて貰いたくはない。そう必死に思うのに、現実は残酷だった。

「お願いが、一つだけあるんだ、石麟!」

消えていく石麟。由紀はあらん限りに、声を張り上げた。

「次の子も、次の黄龍神子も! 幸せに、してあげて!」

目の前を通り過ぎた青い石が、少しだけ早く動いた、気がした。ふっと音がして、石麟の姿が消えた。気配も、である。

完全防音の部屋を良い事に、由紀は泣いた。永遠の別れではないし、石麟が死んだわけではない。だけど、ずっと側で支えてくれた最高の相棒が行ってしまったのは、とても悲しかった。もう彼女の助言を聞けないと思うと、胸が張り裂けそうだった。彼女を独り占めできないと思うと、悔しくて涙が止まらなかった。

もう由紀は一人で歩いていける。幸せを守って、戦っていける。だから石麟は次の神子の元へ行った。此処暫くは、気持ちの整理を付ける事だけが、最大の懸案事項だった。今日こそは気持ちの整理を付けて、石麟を気持ちよく送ってあげるはずだった。それなのに、それなのに。

やっぱりガキだと、由紀は自嘲した。だけど、今はガキだという考えも出来る。戦士としては十二分に一人前だという考えだって出来る。

茶碗を棚に仕舞うと、部屋を出る。ソファでうつらうつらしていた家政婦の佐奈さんは、慌てて飛び起きた。

「わひゃっ! 寝てません! 寝てました! ……あれ? マキちゃん?」

「由紀、と呼んでくれると嬉しいですよぉ、佐奈さん」

もう泣いていた素振りなど欠片も見せず、由紀はおどけて見せた。地獄の戦いをくぐり抜け、名実ともにもう大人の戦士となった由紀の、余裕がなせる業であった。

 

4,玄武の幸せ

 

窓から外を見ると、空を黒々と覆う雲から、今正に雨が降り出す所だった。窓を開けて、湿気に満ちた空気を一杯に吸い込む。この湿気が、玄武の神子である黒師院桐には心地がよい。燕が低空飛行していて、雨の到来が近い事を予感させる。やがて、雷が鳴り出し、雨もそれに伴って降り出した。洗濯物はもう取り込んである。雨の勢いは弱いから、部屋に吹き込んでくる可能性も少ない。しばしそのまま、桐は雨が織りなす、自然のオーケストラを堪能した。

窓を閉めて、雨音を背後に聞きながら大きく伸び。この分だと、また壁に蔓が這ってしまう。鄙と源治といっしょに掃除をする必要があるだろう。確かに良く雰囲気は出るのだが、壁が傷むのが早くなるし、難しい所である。

財産をほとんど処分したから、今残っているのはこの洋館だけ。ささやかな古屋だが、それでも大事にしないと行けない。こんな状態になっても、母についてきてくれている鄙と源治のためにも。

黒師院家の、新しい出発はこれからだと、桐は知っている。だから、足元からしっかり固めないと行けない。まずは昼寝だ。疲れを取って、思考をクリアにするのだ。何しろ、頼りになる相棒はもう側にいないのだから。

ベットに寝ころび、小さく欠伸をしながら、桐はここ数ヶ月の事に、思いを馳せていた。さまざまな事があり、そしてようやく幸せを掴んだ時期であった。

 

桐の母双葉がついに心労から入院して、それからさまざまな事が身辺で起こった。後々に考えてみれば、あの時母が倒れたのは、不幸中の幸いだったのである。

まず、双葉に完全に見切りを付けた、「親族」の連中が完全に手を引いてきた。黒師院というブランドが終わった事を見越して、改名した上で、血縁の切断を弁護士から通達してきたのである。ストレスで倒れた母は、それを聞いて、そうとだけ呟いた。桐には分かった。母はようやくこれで、下らない慣習から解放されたのだと。ちなみに、母に嫌みを言いに来た親族は全員病室まで辿り着けなかった。途中で車が大事故を起こしたり、病院の階段で転んで大けがをしたり。どれも原因不明で、犯人像はようとして警察にも掴めなかった。それらについて、桐は自身の関与を肯定も否定もしなかった。まあ、桐が盾で車をぶっ潰したり、時限式地雷を仕掛けたりして、死なない程度に叩きのめしたのだが。まあ、手足を失ったり恐怖のあまり精神に異常をきたした者もいたが、そんなのは知った事ではない。自業自得である。

それからは、静かなときが続いた。総資産が減りに減っていると言っても、まだ三億ほどは保有しているのである。入院費用は問題がなかったし、鄙や源治を喰わせるのにも全く支障なかった。A県産の美味しい林檎を病室で剥きながら、桐はこれで良かったのだと何度も思った。

諦めない心とか、折れない心とか、そういったものが大事だと言う事は、今では桐にも良く分かっている。激しい実戦をくぐり抜けてきたからこそ、互角の戦いで精神を平常に保つ事が如何に大事かは、身に染みて分かっている。だからこそに、それだけでは何にもならない事も良く分かっている。精神力は万能などではないのだ。

病室での母の表情は、静かだった。それは、一端の精神的な死を意味していた。

母はようやく諦める事が出来たのだ。自身のアイディンティティを、下劣な官僚の下らない性欲むき出しの言葉によってぶっ壊されて、心労で倒れて、一族に完全に離反されて。愚物共を背負う事から解放された。今まですり寄ってきていた、育てた部下達までもが離反を表明していた。それが却って良かったのだ。とことんまで落ち、精神的に一度死ぬ事で、再生の道を歩き出す事が出来たのである。後は気持ちの整理を付ける時間だけが必要だった。

ただ、人間はそんなに簡単な生物ではない。弱みにつけ込んでたかってくるハエはまだまだいたし、精神の再構成はとてもデリケートな作業であったから、予断は許さなかった。幸片は手に入れる端から全てつぎ込んだ。そうしなければ、母は結局、病床から立ち直れなかったかも知れないし、最後の資産もハエ共に略奪されていたかも知れない。桐自身も周囲を念入りに守ったし、源治も鄙も気をつけてくれた。元々守りは桐の専売特許だ。実戦だけではなく、こういった戦いでもそれは同じだった。

そうしてほぼ一年をかけて、双葉はどうにか病床から立ち上がれるようになった。強烈なトラウマを刺激されて壊された心は、元に戻るとまではいかなくとも、日常生活をどうにか送れるレベルにまでは回復したのである。まだ松葉杖は手放せなかったが、それでも桐に肩を借りて、双葉は少しずつリハビリを始めた。どん底に一度落ちた肉体と精神は、少しずつ回復していき、一月後には退院する事が出来た。

洋館に戻ってきた双葉は、ゆっくり辺りを見回して、嘆息した。丁度一年が過ぎた事で、季節は丁度四度変わり、元に戻っていた。一年もの時が過ぎたというのに、屋敷は何も変わってはいなかった。双葉は確実に老い、頬はこけてさえいたというのに。桐はそれがどんな意味を双葉にもたらしたのか、手に取るように悟る事が出来た。洋館の戸を開けて、鄙と源治が走り出てきた。二人の目には涙が浮かんでいた。

「奥様!」

「奥様、よくぞお戻りなされました」

「心配をかけました。 本当に申し訳ありませんでした」

屋敷の掃除をずっとしていてくれた鄙と源治に詫びる双葉の姿が、桐には痛々しかった。母がいいように利用されるだけ利用されてきた事を、桐は良く分かっていた。本当は怒って良いのに、それでも謝っている母に、悲しみを覚えた。でも、これで良かったのだとも知っている。なぜなら。

「黒師院家の人間ではなく、一人の黒師院双葉として。 貴方達に心配をかけた事を詫びます。 許してください」

「奥様、顔を上げてください」

「この源治めは、死すときまで奥様にお仕えすると決めております。 黒師院家の双葉様にではなく、双葉奥様にです。 ですから、詫びる事などありません。 お顔をお上げ下さい」

隣で桐は、無言のまま口を押さえていた。悟る事が出来たからである。双葉が黒師院のくびきから、どうにか逃れる事が出来た事を。自身のアイディンティティと、黒師院の誇りを分離する事に成功した事を。

双葉が家に入って最初に命じた事を聞いて、桐は母が救われた事を確信した。彼女は居間にはいると、こう命じたのである。

「源治、鄙。 始祖様の肖像画を外して、物置に丁重に仕舞ってください。 失礼があってはなりませんよ」

「は、よろしいのですか?」

「構いません。 始祖様の加護はもはや私に必要ありません。 今後は私の力そのもので、道を切り開いていく事になります」

「……! わ、分かりました! すぐ外します!」

鄙と源治が、肖像画を外し始める。桐は手伝おうかと申し出たのだが、二人は首を横に振った。仕事を取っては行けないと悟った桐は、それ以上嘴を突っ込まなかった。きっと二人も、双葉が新しい道を歩き出そうとしているのを、手伝いたかったのだ。体が小さな鄙は多少ふらふらしていたが、手元はしっかりしている。側に付き添って、桐は倉庫にまで歩いていった。

「お嬢様、鄙は大丈夫です」

「ううん、私にも最後まで付き添わせて。 これは私にとっても、節目になる大事なことなのだから」

倉庫の戸はさび付いていたが、今の桐には軽いものだ。軽く開けて中を照らし、埃を払って二人を導く。大きな絵を降ろした後、ビロードのカバーを掛けて、壁に立てかける。これで、黒師院を縛り続けた亡霊は、倉庫の中に眠る事となる。いつか何かの理由を付けて、あの自称親族共に押しつけてやりたい所だ。

倉庫の戸を閉じると、千代は完全に洋館から遮断された。洋館に巣くった妖怪一匹、何の事はない、退治するのはこんなに簡単だったのである。精神的な鎖は、一度切れるとこれほどまでに脆い。精神が万能のツールなどではないよい証拠だ。沈黙が流れ流れて、鄙が言った。

「やりましたね、お嬢様」

「ええ。 これで母様は、救われます」

「全て無くなってしまいましたけど……。 あれ……涙がでます。 嬉しいのに、どうしてだろう」

「私もです、鄙。 大丈夫、お金が無くなっても、私達がいます。 私と、鄙と源治と、三人も。 それで母様には充分です」

にんまり笑って桐は笑い、涙目の鄙とハイタッチした。子供の頃から、仲の良い悪戯友達であり、理解者でもある鄙。主従であるが、並の姉妹より仲は良いつもりだ。一緒に事に当たれて本当に良かったと、桐は思った。

安居島鄙は、黒師院家に仕えてきた一族の者だ。勿論黒師院家は旧家ではないから、それほどの歴史はない。話によると、始祖黒師院千代が田舎から連れてきた小作人の子が安居島家の先祖だという。ぶ男で小男だったが、千代のお陰で美人と結婚できたと言う事で、感謝していたのだという。その恩義が忠義となって代々伝わってきたわけだ。ただ、鄙に関しては、しっかりしている今とは違い、ぐずだった昔に双葉に良くして貰った私恩を返しているのだと、いつか聞いた事があった。だから安居島家すら根こそぎ離れてしまったにもかかわらず、双葉についてきていたわけだ。ちなみに、安居島家からはすでに勘当されているという。

「奥様は、これからどうなさるのでしょうか」

「私としては、黒師院ブランドならぬ双葉ブランドを作って、財界を一から支配して欲しいですね」

「それは素晴らしそうですね。 そうなると、私はメイド長になるのかな。 奥様の事だから、この新黒師院家を財界の帝王にする事だってできるでしょうし、メイドの人数は数百人? そのメイド長だなんて、きゃー♪ ステキ!」

「こら、鄙。 お嬢様も、奥様がお待ちです。 早めに戻りましょう」

流石は年長者の貫禄である。はしゃぎ過ぎた鄙を窘めつつ、源治が場を纏めてくれた。二人に先に行って貰い、桐は側にずっと居た八亀に振り返る。そして、頭を下げた。

「八亀、ありがとう」

「儂に礼を言う事はない。 これは全て、桐がつかみ取った当然の戦績じゃからの。 だから、桐は誇りを持って、楽しめばいい」

桐は首を横に振った。絶対に一人では、この日は来なかったからだ。戦いを勝ち抜く事など到底無理だったからだ。

八亀は静かだが、確かに桐を支えてくれていた。時々くれる的確なアドバイスは桐にとって百万の味方にも勝る助力となったし、支えてくれる事が孤独に対する防御にもなった。そして、桐は知っている。この日が来た以上、八亀と別れる時も近いのだと。八亀は長い長い触覚を揺らして、桐を促した。

「さ、早く行くと良いじゃろう。 双葉ちゃんが、心配して待っておるじゃろうからの」

「はい」

いつも戦いの時には二重三重の罠を仕掛ける策士。とても純粋な子供らしい笑みがその表情に浮かんだのは、これが最後だった。

 

ベットに寝ころびつつ、過去の事に思いを馳せていた桐は、側に八亀が居るような気がして寝返りを打った。当然、いるわけなど無く、ため息だけが零れる。

八亀は、もう既に桐の側を去った。母が復活してから、少しして神子相争が終わり、その数日後の事であった。桐にも仕方がない事だというのは分かっている。他にも不幸な子は幾らでもいるのだし、いつまでも桐にくっついているわけには行かない。ドスケベで良く分からない感性の持ち主だったけれど(後で聞いたのだが、八亀は他の神使の中でも変わり者だそうである)、側にいないととても寂しい。別れた直後はそれほど感じなかったのだが、今になって精神的な打撃の大きさが良く分かる。八亀は掛け替えのないパートナーだった。

双葉の人生はこれからだと分かるが、それは桐にとっても同じだ。今後どうしたらいいのか、幸せを持続するためにも真剣に考えて行かねばならない。手に入れた力は、大事な人を守るだけではなく、自分を守るためにも使っていかねばならない。巨大な力は使う事に責任がある。一般的には、力を使わない事に意味があるというような考え方が主流になっている所もあるが、桐は決してそうだとは思わない。現実社会を動かしてきたのが力である以上、それを使って何が悪いというのだ。

利津からの誘いがあったが、それをこなしながら、今後はどうするかだと、今のところ桐は考えている。財界に進んで母の手助けをするのもありだが、戦い続ける事で何か道を探したいというのが本音だ。

進路が決まっている他の神子達が羨ましいが、嫉妬を覚えるほどではない。双葉同様、桐もこれからだというだけだ。戦いの先には、巨大な力と、それを自由に扱える環境が残っていた。ダメなら世捨て人になるのも良いし、これをフルに使って世間に殴り込みするのも良い。道など幾らでもある。事実、淳子はそう言う生き方を選んでいるらしいし、桐にだってできるだろう。

携帯が鳴った。零香からのメールだった。開いてみると、長文であった。目を通していくと、思わず唸らされる。神子相争の真相には確かに興味があったが、こんな内容だとは思ってもいなかったからである。

天井を見上げる。人間とはとことんに業が深い生物だと思う。ため息をつくと、桐は携帯をベットに放り出し、再びぼんやりと今後の事を考え始めたのであった。

 

5,白虎の幸せ、そして……。

 

零香は病院を見上げた。初秋だが、灰色のショートパンツに半袖のスポーツシャツ、スポーズシューズというルックで、背にはサバイバルリュック。二次性徴が出ている体は、そろそろその格好に極めて健康的な色気を醸し出させていた。

母の病室は、外からでも把握できている。父の行動方針から、零香と父のどちらかは必ず家に残らなければならないから、二人で病院を訪問できないのが辛い。花束を抱え直すと、受付へ。何しろ隔離病棟の病人だから、すぐには許可が下りないのが難しい所だ。一時間たっぷり待たされた頃、良く知る声がした。

「あら、零香ちゃん」

「あ、雪村さん。 ご無沙汰しています」

雪村巡査長だった。果物の詰め合わせを手にしている。零香も同じような物を持ってきたが、それほど分量はないし、冷蔵庫には空きがあるから大丈夫だ。有能な彼女は、そろそろ巡査部長になるのではないかという話もある。白炎会事件はもうあらかた解決しているが、まだまだ情報は必要だというので、更には母を心配して足を運んでくれているので、零香には有り難い。二人で軽く話しながら、手続きの終了を待つ。大病院とは言え、煩わしい事である。

近況の情報交換をしていくが、それほど目新しいものはない。その話題が出るのは、当然の事であった。

「お母さんの様子はどう?」

「どうにか。 大分発作も減ってきました」

「そう。 それは良かったわね」

「はい」

記憶の混乱に苦しみ続けた零香の母英恵が、どうにか暴れなくなってきたのは、ここ三ヶ月ほどの事である。母の事情を知れば知るほど、辛い星の元に産まれた同情が湧くのと同時に、どうにかして立ち直って欲しいとの願いが強くなる。

ただ、最近学校で他の女子生徒と話して思い知らされる。普通の家庭では、こんなに親子の仲は良くないのだと言う事を。学校で子供がする事と言えば、教師の悪口、親の悪口ばかりだ。今が動物で言う親離れの時期だという理由も大きいと言う事が原因の一つだとは分かってはいるが、それにしても少し零香の家の状況が特殊なのは否定できない。この時期を越えると、完全に心が離れるか、或いは仲良くなるのかの瀬戸際なのだという。どうも実感が湧かない。両親の仲も、普通この時期ではそんなに良くないのだという。それも良く分からない。

零香の家は状況が特殊だ。父とはずっと背中を併せて戦ってきたに等しいし、現在も外敵に対して共同で備えている。母は生まれが生まれで、それを知った今は支えなければならないと言う思いが強い。父もそのためにあんな事になったのだ。かといって、零香自身が幸せを追求できていないと言うわけでもない。零香は戦いが好きだし、自らを鍛え上げるのも好きだ。今の環境は、零香にとって心地よい物だ。

これが強いと言う事なのかと言われると、零香には良く分からない。通常の物理戦闘能力で、今の零香に勝てる存在はそうそういないが、かといって強さの定義はそれだけではない。

そうこうしているうちに、呼び出しが来た。零香が母に面会できるようになったのは、半年前からの事。ただし、最初の内は姿を見る事しか許されなかった。病院の方でも対応に慎重に成らざるを得ない事は良く分かる。隔離病棟に移り、白い壁が続く廊下を進む。どうもこの構造は苦手だ。何度も迷子になったが、今日は幸い雪村さんがいる。まっすぐ病室にたどり着く事が出来て、零香は安心した。

ドアをノックすると、明るい母の返事が返ってきた。鎮静剤入りの注射を常に携帯した看護士の付き添いを外せないのが煩わしいが、仕方がない。いざとなったら零香が取り押さえると行っても、聞いては貰えないだろうし、黙っている。雪村さんが先頭に立ってドアを開けると、消毒液の匂いがした。

「零香!」

母の声がした。雪村さんの影から顔を出す。最初は会うのが何処か怖かったけど、今はへっちゃらだ。少し窶れたが、相変わらず若く美しい母。若い頃の写真も見たが、殆ど変わっていない。

「もっと側に来て。 顔を見せて」

「はいはい。 わたしは逃げないよ」

「うふふ、外していましょうか?」

「いえ、大丈夫です」

雪村さんの有り難い申し出をやんわりと断ると、零香は母のベットの隣に、三脚椅子を置いて座った。母の大きな目が、零香を確認するように全身を上から下まで通してみて、にんまりと微笑む。少し若くなったかなと、零香は思った。

トラウマが爆発して記憶が混乱する状態で戻り初めてから、母はずっと苦しんでいる。人格は記憶によって構成されている以上、中途半端な記憶の復活は人格に大きな歪みをもたらすからだ。事実、座敷牢に監禁され、無数の目を書き殴っていた頃の記憶がベースになりでもしたら、怪物が誕生するのは避けられない。リンゴを剥き、切り分ける零香の隣で、看護士さんがベットを起こしていた。料理はへたっぴのまま(というよりも、ほぼ出来ない)だが、零香は随分リンゴを剥くのが上手になった。

「最近調子はどう? 母さん」

「父さんが時々来てくれるから、凄く調子がいいわ。 あの人が側で見ていてくれるだけで、随分気持ちが楽になるの」

「そう。 家の事は心配しなくて良いからね。 わたしと父さんが、何が来たって絶対に守りきるから」

「頼りにしてるわ、零香」

母さんの微笑みがまぶしい。リンゴがむき終わったので、切り分けて皿に載せる。一つずつ母が口に運ぶのを見ながら、残りを冷蔵庫に入れる。最近はリハビリもしていて、どうにか今年中には退院できそうであった。

銀月家は安定した状況だが、まだちょっかいを出してくる人間がいる以上、安心は出来ない。ただ、昨日、思いもかけない所からその手がかりが掴めた。再編成されている副家の企業幹部の娘と最近懇意にさせて貰っているのだが、彼女が正体不明の父のペンパルの話をしてくれたのである。彼女の父はそのペンパルの助言で出世しているらしいと言う話を聞いた零香は、何度か忍び込み、数日前に焼き捨てられる前の手紙を一通発見した。送り先は書いていなかったのだが、詳細な分析を一ヶ月がかりでして、場所を割り出す事に成功。今夜は、奴の所に直接乗り込む予定だ。だから、今日はここに来た。

雪村さんが話したいというので、看護士を連れて退室。防音仕様の部屋の外で、看護士に話を聞く。記憶の再生は順調だそうで、もう間もなく完全な形で戻るという。随分な量の幸片をつぎ込んだから、ここまでスムーズにいったのだ。本来だったら、死ぬまでこの病室から出られなかった可能性もある。トイレに行くふりをして、個室に閉じこもると、零香は草虎に言う。

「いよいよ、だね」

「そうだな。 今夜が岐路になるだろう」

これが人生のターニングポイントだ。銀月の家にとっても、零香にとっても。一つの決着が綺麗に付く。ただし、逃がさなければ、だが。

「それで、やはり必要なら殺すか?」

「うん。 場合によっては、ね」

「分かっているとは思うが、殺るならばれないように殺らねば意味がないぞ」

「大丈夫。 いざとなったら、骨の一片だって発見させはしないよ」

死体を何も残さず分解する方法なんて幾らでもある。肥だめを使う方法などは一般的だし、食べかすを肥料に変える装置であるコンポーザーを使う手もある。埋めて証拠隠滅などと言うのは下の下だ。折角誰も来ないような広大な土地を所有しているのだし、いざとなったら其処へ死体を持ち込んで消す。こういう事をさらりと考えられる零香は、既に精神の面から言っても一般人とは確実に違っている。だが、一般人ではないと言う事を何とも思っていないから、別に何の問題もない。普通でいたいなどというのが子供の寝言であり戯言だと言うことを、嫌と言うほど知っているためだ。

岩塩のスティックを取りだして囓る。既に草虎から、流通ルートは譲り受けている。それと、自分で誓いも立てた。今後、ヒトガタの食物は絶対に口にはしない。岩塩のスティックという逃げ場があるとしても、本能的に分かる。猛獣が人肉の味を覚えるという言葉があるが、その言葉通りの意味になるのは目に見えているからだ。絶対に歯止めが利かなくなるし、体が人肉を要求するになったら流石に人間社会で生きていけなくなる。

「それだけ覚悟が出来ていれば充分だ」

「うん……。 ただ、ね」

「情けを持つのは別に悪い事ではない。 苛烈な中にきちんと情けを持っているのが、レイカの良い所だと、私は思うぞ。 嬰児がお前の部下になったのも、安司や坂介がお前に入れ込んでいるのも、その辺が理由だろう」

「ありがとう、草虎」

悩みを的確に把握してくれる草虎の存在は、本当にありがたい。自分の甘さを知っている零香にとって、今の言葉は本当に嬉しいものであった。トイレの個室を出て、病室に戻る。丁度雪村さんが出てきた所だった。

「ごめんね、時間を取らせたわ」

「いいえ。 そうだ、今日は母さんにもう一つおみやげがあるんですよ。 看護士さん、これ、母さんに渡しても良いですか?」

看護士は零香が黒いリュックから取りだした本を念入りに見て、色々と矢継ぎ早に質問をしてきた。まだ母に対する不安定さに、彼女が不安を持っているのは零香にも良く分かる。曰く、これは過去の持ち物か、過去の記憶を下手に呼び出すような効果はないか、それを連想させる物ではないのか。それぞれに効果的な反論をすると、持ち込みを認めてくれた。

「零香ちゃん、その本は?」

「ん、これはですね」

ページを開いてタイトルを雪村にも見せる。大人が読める事でも有名な、世界的に人気がある児童書である。主人公が両親の愛情を確信する下りが好きで、今日持ってきたのだ。続き物だし、もし母が要求するなら、零香は続きを買ってくるつもりである。

続き物をわざわざ買ってきた理由は幾つかあるが、最大のものは、必ず此処に戻って来るという意思表示だ。今夜の戦いがどうなるかは分からないが、絶対に勝ちで締めくくり、次の神子にバトンを渡す。淳子に貰った幸片は、もう使った。

「……必ず、またここに来るという意思表示です」

零香の複雑な事情を知る雪村は、それ以上何も言わなかった。零香が何か大きな岐路に立っている事に、気付いたのかも知れない。

 

夜闇を、音もなく、気配もなく、零香が行く。今日は本気モードであるし、神衣を付けていないとは言え、その速度は尋常ではない。最初の頃の零香が、神衣を付けて向かってきても、今の身体能力なら充分に撃退できる。それほどに、零香の成長は著しい。もう神子相争をほぼ卒業した零香だが、今後も実戦を行える環境に身を置き、たゆまぬ修練で実力を伸ばすつもりだ。淳子と同じく、政府の組織に属してみるという選択肢もある。政府の裏側の人間にコネが確保できそうだし、面白そうではあった。

空に輝く満月を背に、零香は跳ぶ。ビルの屋上を蹴り、人家の屋根を蹴り、空を走るようにしてゆく。感覚を最大限に研ぎ澄まし、人々の視界の隅を縫うようにして行く。やがて彼女は、古い洋館の側、大きな杉の木の枝に飛び移った。

この洋館だ。此処に奴はいる。銀月を恨む奴が。どのような理由でかは分からないが、取り合えず会ってみてから、処置は決める。屋敷の中に気配は三つ。一つは殆ど動かず、残りの二つは非戦闘員だ。しばしすると、非戦闘員のうち一人が洋館を出ていった。どうやらお手伝いさんらしい。それにしても、今ひとつの気配の微弱な事。まるで、もう命が絶えるような。

「草虎、これって……」

「零香、急げ。 気付いていると思うが、急がないと真相を聞くことさえ出来なくなるぞ」

「そう、だね」

何となく、事情が分かった気がする。そのまま洋館の屋根に飛び移り、ヤモリのように壁を這って奴と思われる人物、つまり瀕死の人物がいる部屋のすぐ外に張り付く。

気配が妙だ。若者のはずなのだが、雰囲気が老人のようである。いや、これは違う。これは、ひょっとして……。口笛を吹く。なるほど、これは銀月を恨むのも無理がないかも知れない。気配の矛盾から、零香は相手の身体状態と、その身の上を悟ったのだ。どっちにしても、これはもう逃げられる恐れはないだろう。

玄関に降り立つと、手の埃を払い、零香は玄関のベルを鳴らした。堂々と正面からはいる気になったのは、敵に敬意を払って接しようと思ったからだ。しばし時間をおいて、ランプを持ったお手伝いさんが出てきた。陰気な少女で、長い髪がだらんと顔の左右でぶら下がっている。物静かな雰囲気だが、それ以上に生気がない。彼女は零香の顔を見ると、小首を傾げ、それから言う。

「銀月家の零香様ですか?」

「良く知っていますね」

「此処、非公式ですけど、銀月の管理物件ですから」

それは知っている。しかし、副家の管理下にあるとはいえ、今では主権はこの家の持ち主に移っているはずだ。攻める家のことぐらいは、当然事前に調べてある。となると、この少女は、ひょっとして。

「貴方は、この家の持ち主ですか?」

「表向きは、そうなります。 副家の遠縁に当たる、新月目白(しんげつめじろ)です」

副家の当主の女癖の悪さは、先代から引き継がれた物である。引退した宗吾は時々本家におみやげを持ってきて必死に(息子と娘のため)ご機嫌伺いをしてくるが、その時に聞いた。先代副家当主が囲っていた愛人には妾腹の子もいて、持っている家のうち資産価値が低い幾つかはその子らにあげたのだとも。となると、年齢的に、その妾腹の子か、更にその子であろう。宗吾にとって、この子は異父妹か姪になるわけだ。

「用は、分かっていますね?」

「条件があります。 あの人に酷いことはしないで下さい。 どうせ、もう長くは生きられないのです」

本来は、その言葉は筋違いな物だ。この娘は知っていて、銀月の家を滅ぼすたくらみを黙認していたことになる。だが、零香には分かっていた。この娘は、例の輩を愛しているのだと。恐らく、恋人としてではあるまい。保護対象としてだろう。

「分かりました。 それに、貴方からこの家を取り上げる気もありません。 もし良ければ、仕事も斡旋してあげましょう」

「……此方です」

陰気な声で、ランプを持った手のまま、目白は零香を差し招いた。メイドとしての手腕は正直いまいちである。礼儀の教育がなっていない。

洋館の中はこざっぱりしていて、甲冑やら絵画やらが並んでいる所を想像していた零香は少し拍子抜けした。照明も電気で、ただ幾つかの電球は切れかけていて、ときどき明滅している。階段を指し示されて、零香は無言でそれを登った。周囲には罠もなく、殺気の類もない。階段の上には、ポストと、小さな扉があった。ポストの中には、手紙は一通も入っていない。

「入ります」

「……勝手に入れ」

「そうしますよ」

場合によっては戸を蹴り破ろうかとも思っていたが、その気も失せた。「奴」の声は、精気に欠け、零香がデコピンしただけで心臓が止まりそうなほどであった。

部屋にはいる。生活感どころか、生き物の気配がしない。この妙な匂いは、死の匂いか。膿や腐敗臭もする。部屋の主は、窓の側にある執筆机に向かい、零香に背を向けて座っていた。

「何て、呼べばいいですか?」

「中元寺太郎」

「……中元寺さん、ですか。 銀月を潰そうとして、私にちょっかいを出し続けた理由を、此処で話して貰えますか?」

零香には確信があった。この中元寺という人物は、多分人生の引継をしようと思っているはずだと。この人物の命がもう長くはないこと、それに零香とは結局互角の敵手であったこと、等がその根拠である。

「何から、話そうかな」

男が咳き込む。疲弊していると言うよりも、殆ど声帯を使っていないと言うのが要因であろう。ずっと孤独な戦いを、この男はしてきたのだ。零香には分かる。しばらく思考を楽しんでいたらしい男は、月明かり差し込む部屋で、零香に振り返りながら言った。

「俺は十五年前の総理が、実の娘に手を付けて生まれた子供だ。 生まれが生まれだったからな、親父もお袋も慌てて事実の隠蔽を計った。 だから、銀月に捨て子されたのさ」

「……」

振り返った男は、今生命が燃え尽きようとしていることが、すぐに分かる姿だった。

まだ若いだろうに、髪はほとんど無い。顔には深刻な皺が刻まれ、大きな染みが幾つも顔を染め、歯は半分くらいしか残っていない。頭は歪に大きく、目には憎悪ばかりが宿っている。間違いない。近親交配による、遺伝子弱体化の結果だ。

中元寺と言えば、確かに十五年前の総理の名だ。官僚を歴任してきた、政治家の中でもエリート中のエリートである。名家の出身で、資産も相当なものだったはずだが、確かスキャンダルで潰されて、今では牢屋の中のはずである。この男の年齢からして、まだ官僚だった時分の出来事だろう。まさかこんな悲劇を引き起こし、それを隠蔽していたとは。

零香は、中元寺を怖いとは思わなかった。可哀想だとだけ思った。そして目白の気持ちが、より良く分かった。零香の思考を知ってか知らずか、中元寺は笑い声さえ混ぜながら続ける。月明かりが、狂気の独白を毒々しく照らし続ける。

「物心着いた頃には、俺はもうあのいけ好かない座敷牢で暮らしてた。 後で聞いたんだが、俺はあくまでストックだったんだって? ハハハハハ、おもしれえな。 真っ暗で何もない空間ですげえ時間がたって、何が何だか分からないうちに、それが終わった。 何だか良く分からなかったけど、貴様の親父が爺と一緒になってやったんだってな」

「そうです」

「くくくくっ、良いことを教えてやるよ。 貴様の親父は鬼子を全員助け出すことには失敗したのさ。 というよりも、俺の存在自体知らなかったんだろうな」

中元寺は言う。実は本家による逆クーデターは、発生当時の副家当主に掴まれていたのだという。ただし、あれほど強硬な手を取るとは思っていなかったので、反攻作戦はとれなかったのだという。しかしながら、ストックに準備していた鬼子の一人は、自分の部下に確保させることに成功した。

そう、中元寺は、副家が密かに、かつ独自に囲っていた鬼子だったのだ。それに本家が気付いたときには、手遅れになっていたのだ。

「俺は副家の先代当主に、ありとあらゆる陰謀術を叩き込まれた。 奴は恐らく、俺を自分のブレインとして使うつもりだったんだろうな。 俺の才能がどういう形で出たのかは、奴も知っていたのだからな。 だが、奴にとって想定外だったのは、奴が重い癌を知らないうちに患ってたことだ。 奴は俺のことを宗吾に告げる前に死んだ。 あっという間だったぜ、ひひひひひひ」

「そうして貴方は、自由になったんですか」

「その通り! 俺は自由になった!」

中元寺は身を乗り出すようにして笑った。零香は笑わない。これが、生命力の最後を燃やし尽くす、この男なりのけじめだと気付いていたからだ。

「ハハハハハハハ、そうして俺は何年かがかりで、自分が何者か、銀月が何者か調べ上げていった。 その過程で知ったよ。 俺の寿命が、二十五まで持たず、生命を後の世代に継ぐことも出来ないってな。 俺には陰謀を行える頭脳と、普通の人間の半分以下の時間しかなかった。 俺に出来るのは、復讐だけだったよ」

「……」

「まずは俺の実の両親だった! 面白かったぜ。 正確には、色々実験して、何人か潰した後だったけどな。 親父は公安のペンパルをたきつけて、奴のスキャンダルを暴いて、刑務所に放り込んでやったあ! お袋は淫売だって事をバラして、社会的に死んで貰ったぜ。 こっちは少し簡単すぎて、少し拍子抜けだったがよ」

何て悲しい人生なのだろうか。零香はそう思う。中元寺はそれから、自らの罪をどんどんはき出していった。復讐するたびに、虚しくなっていく中元寺の悲しみが、零香に伝わっていく。報復だけが人生だった彼の最後の仕事が、怪物へ自分を育て上げた銀月への復讐だったのだ。

「銀月の家は、はっきりいっていけすかねえ。 許せなかったんだよ、俺みたいな人間を道具にして、使って、命脈を保ってきた銀月の全てがな。 それに、俺の命はもう長くなかった。 銀月を滅ぼすことが、俺の最後の仕事だった」

「……」

「だから、いちいち邪魔した貴様は許せない! 俺の最後の仕事を尽く邪魔し、副家を使った計画も潰してくれた。 だがな、どうしてか……知らねえけど。 ……く、くく、くくくくっ。 今は、どうしてか、晴れやかな気分なんだ。 貴様に計画を全て潰されて、寂しく逝かねばならねえって時にな、不思議だぜ」

零香は男に全てをはき出させてやりたかった。この男の言うことにも一理ある。銀月の旧習には今でも腹が立つし、父が救いきれなかったこの男にも同情は湧く。一方で、父が悪いのではないと言うのも良く分かる。そして、今でも負けてやる気はさらさら無い。過去の銀月は父と祖父が滅ぼしたのだし、今の父の行動には全面的に協力できるからだ。

この男の手には、陰謀しかなかった。両親の都合で、普通の人間の半分以下の寿命しか与えられず、地獄へ送り込まれた。そこで手にした、唯一の力が陰謀だった。陰謀を使って、初めて彼は普通の人間と互角に戦うことが出来たのだ。

激しく男が咳き込んだ。そろそろ限界だろう。目白はこの男を愛しているし、多分この男もそれに気付いている。だから、最後は一緒に過ごさせてあげたい。遺伝病である以上、治療の余地はないだろう。病院に行っても、無駄だ。身を翻しかけた零香に、中元寺は言う。

「なあ、銀月零香」

「何ですか?」

「貴様は、甘いんだな」

「甘いですよ。 貴方の事を知ったと言うだけで、この場でぶっ殺そうって気が失せましたし、ね。 まあ、もっとも、貴方が甘ったれた考えの元行動していたのだったら、今頃バラして肥料にしていましたけど」

自分の甘さには、零香は苛立ちを隠せない。でも、今回ばかりはこれで良かった。それに、草虎が言った甘さの良さを、少し分かった気もする。条件付きの甘さであっても、零香のそれは、決して悲しみだけを産まないのだ。

「最後の時間、愛する人と過ごしてあげてください。 子を残せなくったって、貴方の価値が無くなる訳じゃあ、ありませんよ」

「ふん、中学生の言葉じゃネエよ」

「色々ありましたから。 では、失礼します」

戸を閉じた。激しく咳き込む音が、部屋からする。

階段を下りると、目白がいた。彼女は零香の顔を見て、全てを悟ったようだった。

「分かってると思うけど」

「ええ。 あの人は、もう今晩を越せないでしょう」

無言。沈黙。ため息。

「困ったら、何でも言ってください」

「……ならば、あの人のお葬式を、あげるのを手伝って頂けますか?」

「いいでしょう。 密葬になりますが」

「ありがとう、ございます」

目白はスカートを摘んで礼をした。零香も軽く頷くと、洋館を後にした。もう、振り返ることはなかった。

目白から連絡があったのは翌日の昼。零香は約束をきちんと守り、葬式の手伝いをした。本家で行った葬式には、目白、零香と林蔵、それに事情の一部を知る狼次郎だけが参席した。

この時、銀月の闇の歴史に、一旦の終止符が打たれた。最後の最後まで、悲劇は決して無くならなかった。だからこそに、これを絶対に再現してはならないと、零香は誓った。

火葬場で上がる煙が、空に流れる。それを見送った零香は、自身の戦いもが、これで一度終わったことを強く感じた。

 

6、神子相争

 

視線の先にいるのは、淳子の跡を継いだ青龍の神子。中距離型の戦闘タイプで、純粋な戦闘能力はそこそこなのだが、トラップを活用して実力を上乗せしているタイプだ。零香はそう見た。

廃墟だらけの、スタンダードな戦場。朽ちたビル街を、いつの間にか平凡な戦場だと思っている自分がいる。入ったばかりの青龍神子のお嬢ちゃんは、戦場の違和感に振り回されていて、トラップを仕掛けて敵を待つどころではない。気配も消せてはおらず、右往左往するばかりだ。

戦闘開始からわずか十二秒で、敵の背後に回り込むことに成功した零香は、大きくため息をついた。ため息をついたというのに相手はまだ気付かない。ビルの一つに登り上がると、敵の出方を待つ。後三十秒以内に零香を見つけられたら、負けてあげても良い。そうでなかったら説教してから瞬殺だ。

こんなお遊び的な思考が出来るのには、当然理由がある。今回で、零香の神子相争は終わりだからだ。とりあえず、それは戦闘開始前に、草虎に告げられていた。対ルーキー戦の勝率十割を除くと、最終的な勝率は五割九分七厘。参加率に比する勝率は例外的に高かったのだが、本人の状況が極めて難しかったこともあり、長引いた。結局五人の中で最後まで残ってしまった。話によると、あの強豪ほむら先輩も、零香と似たような理由で最後まで残ったのだとか。カウントダウンを頭の中で始める零香。おろおろしながら辺りを見回していた青龍神子は、三十秒ジャストで零香の方を見て硬直した。何だか、懐かしい光景だ。最初はまともに歩くことも出来なかった。走ることが出来るようになってから、一度死んでこいと神子相争に放り込まれ、戦えるようになってからは悪鬼羅刹の如く殺戮の刃を振るってきた。全てが懐かしい。これからも続くというのに、どうしてか懐かしい。

二十メートル以上も高さがあるビルから飛び降り、怪我一つしない零香を見て、青龍神子は目を見張った。まあ、確かに常識外の運動性能だし、無理もない。近づいてみると、淳子とは随分違う神衣だ。拳法着のような、動きやすさを重視したスケイルメイルで、肩当てはないし、頭はサークレットで守っているだけだ。腰から下もかなり動きやすいつくりになっていて、甲は最小限、腿が露出していて、膝当てに刻まれた龍の字が面白い。顔立ちは結構整っていて、頭の後ろで揺れているポニーテールが愛らしい。色からして、天然の金髪碧眼だろう。多分ロシア系だ。動作からして、ひょっとすると、拳法家か何かなのかも知れない。少し親近感が湧く。

一歩、二歩下がる青龍神子。そのままずかずか間合いを詰める零香。下がるふりをしてトラップの一つも仕掛ければよい物を。生唾を飲み込むと、青龍神子は言う。神衣には通訳機能があるのだと、零香は少し前から聞いていた。

「あ、あなたは」

「名乗るのなら、自分からが礼儀じゃないかな?」

「! ……そ、その。 私はヒュー、バーレル、です」

「銀月零香。 見ての通り、白虎の神子だよ」

瞬き一つの間に間合いを侵略。懐にはいると、驚きのあまり身動きできないヒューに蹴りを叩き込んだ。今までの反応から見ていた対応速度ギリギリに調整していたのだが、脆くも吹っ飛ぶ。まあ、初戦はこんなものだ。時速三百キロでビルに叩き付けられたヒューは、崩れた瓦礫に埋もれながらも、三十秒ほどでどうにか意識を取り戻し、顔を上げて零香を睨んでくる。零香はそれを確認してから側のビルに手をかけると、片手で脆くなっているコンクリ片を引きはがして、即席の投擲武器を作った。わざわざ隙を作っているのだ。上手くそれをつくことが出来たら、負けてあげようと零香は思っている。だが、彼女は、立ち上がるだけで精一杯だった。立ち上がれただけでも立派か。

わざわざ大きなモーションで足を振り上げると、マサカリ投法でコンクリ片を投げつける。もう一度のチャンスであったが、ヒューはそれを行かすことが出来なかった。コンクリ片は、立ち上がるだけで精一杯だった彼女を殆ど真っ二つに引きちぎった。

最後の戦いは勝利で終わった。小さく嘆息した零香は、天から降り来る幸片を無言で受け取る。負けてあげたかったが、ルーキーは一度ならず負けておいた方が本人のためにもいい。零香自身の経験がそう告げている。それにしても、後味の悪い勝ちだった。

「ただいま、草虎」

「おかえり」

戦場から帰還すると、そこは自室。少し暗めに調整した蛍光灯の下で、草虎がいつものように浮遊していた。アノマロカリスによく似たこの神子とも、もうお別れだ。零香は英恵に最後に手に入れた分も含めて幸片を全て使い終えると、改めてベットに座り、草虎に向き直る。

「いつ、発つの?」

「明後日になる」

「次の神子、もう見付かってるんだ」

「ああ。 今度の子は、多分風を使って戦う遠距離戦型になるだろう。 まあ、私としても育て慣れているタイプだ。 すぐに戦いに慣らせてみせる」

仕事熱心な様子で、草虎は言う。この存在を独占は出来ないと、零香は分かっている。世の中にいる不幸な子を助ける仕事をしているわけなのだし、草虎は零香の所有物ではない。恩人だ。他の神子も、神使を送るときは悲しかったのだろうなと、零香は思った。

「レイカ、何か、聞きたいことはあるか?」

「ん……最後の時に、神子相争について聞かせてくれる?」

「辛い話になるぞ」

「構わないよ」

 

翌々日、零香は学校から帰る途中にケーキを買っていった。勿論、草虎を送るのに使うのだ。苺の平凡なケーキであるが、わざわざ銀座まで行って高級店のを買ってきた。ただ、熊の肉をがつがつ平らげた草虎に、それはあまりに少なかったとも言える。自室の机の上に置いたケーキを、ぺろりと平らげてしまった草虎に、零香は少しだけ腹が立った。

それから、思い出話を色々とした。山での修行の時のこと。ツキキズと戦う零香を見て、草虎はずっとはらはらしていたのだという。勝ちは確信していたのだが、まだ零香の動きは危なっかしくて、見ていて戦慄を隠せなかったそうだ。力をある程度手に入れてからは、副家や分家の連中との戦いのこと。一度戦士として立派な力量を手に入れてからの零香の行動には、歴戦の草虎も舌を巻くことがあったのだという。銀月の闇を知ってから、草虎が憤っていたことを、零香は知っている。今まで悲惨な事情の元生まれた子は幾らでも見てきたそうだが、あれほど狂った一族の血に産まれた人間は初めてだったのだそうだ。

失敗の話、良くできた話、話は弾んだ。ふと時計を見ると、八時を過ぎていた。不意に雰囲気が変わったことを感じて、零香はベットの上で正座する。

「さて、最後だな。 話しておこう、神子相争について」

「うん」

「遙か昔のことだ。 次元の壁を隔てて、此処とは同じにして、同じではない世界があった。 人間の言葉で言うと、パラレルワールドという奴だ」

SF何かで良く出てくる言葉であると、零香は知っている。可能性によって世界は幾らでも枝分かれするのだが、それによって生じた物だとも言う。

「監視していた並行世界では、それぞれ同じように人類が暮らし、同じように文明が築かれていた。 そして同じように人類は驕り高ぶり、同じようにして開発した超兵器で自ら滅び去った」

「そう、だったんだ」

「そうだ。 それが何度か繰り返された頃、生じていたわれわれの長が、対策を練るべく精神世界に集まった。 西洋の神も東洋の神も、それまでの世界では人類に対する干渉を御法度としてきたのだが、どの並行世界でも世界を滅茶苦茶にした挙げ句に滅びる人類を見て、干渉が必要だと判断したためだ」

そうして、神子相争が始まったのだという。最初はシステムも大幅に違って、発生年数もぐっと幅があり、戦い自体も今のように血みどろの物ではなかったそうである。それでも鍛え上げられた神子達は世界に+方向の変革をもたらし、しかし、それでもやっぱり世界は滅びた。神が積極的に干渉した世界もあったが、それでもダメだった。今のシステムは、第十七期システムと言い、これによって誕生した神子は、それぞれ歴史の+方向の大幅な改変に大いに役立っているという。

「神子相争には、掃除の役目もある。 人類が滅ぼした世界を一度綺麗に更地にして、他の生物が発生しやすい環境にするのと同時に、停滞しているエネルギーを戦いによって攪拌して、それを助ける意味もある」

「そうか、未来じゃなかったんだね。 いや、ある意味では未来とも言えるか」

「そうだ、ある意味ではな。 神子相争によって、今まで三つの世界で作業が終わり、四つの世界で作業が進行している。 枯湖はけっして一つだけの世界のことではないのだ」

「わたし達って、他の世界の人間の尻ぬぐいをしていたんだね」

いやというほど人間の愚かさを、戦いを通じてみてきた零香だが、それを直接こういう形で再び思い知らされると、やはりいい気持ちはしない。

更に草虎は、奥へ突っ込んだ話を始める。

「今までお前達に渡していた幸片は、お前達の世界で入手した物だ。 正確には、幸片とは使われなかった幸運なのだ」

「! ま、さか……」

「人間はその一生で、使う幸運をほぼ同じくしている。 これは輪廻の渦とか色々なことが関連しているから詳しく説明しても分からないだろうが、一人の人間が一生の中で遭遇する幸運は皆同じくらいだと考えればわかりやすい」

つまり、だ。零香は思わず口を押さえていた。つまり、幸片の大きさが戦いの度に変わっていたのも、日にちが不定期だったのも、それで分かる気がする。つまり、つまり、つまり、だ。

「自殺者の、使い残した幸運?」

「そういう事だ」

吐き気がした。蒼白になり、ティッシュに手を伸ばす零香に、草虎は容赦なく続けた。知りたいと言ったのは零香なのだから、手を抜く気はさらさら無いのであろう。

「もともと、幸片というのは、精神世界で勝手に拡散し、消えていく余剰エネルギーだったのだ。 だがいつ頃か黄龍神が、これを有効活用できないかと考えたらしい。 そこで方角神達が色々と方策を話し合った末に、神子相争でわたす褒美をこれにしようと思い当たったわけだ。 結局、使ってみれば今まで無駄になっていたエネルギーを還元できるし、神が自らの力を裂くこともないし、神子達の戦闘意欲を効率的に引き出すことが出来るしで、一石二鳥三鳥四鳥だった。 だから現在まで、神子相争では幸片が褒美として使われている」

「……酷い、話だね」

短い零香のコメントに、草虎は何も返さなかった。精神の安定には、如何に零香でも、しばしの時間が必要だった。

「それで、どうして神様達は、こんな人類を助けようと思ったの?」

「ん? これには気付いていないのか? 簡単なことだ。 今までに状況証拠は幾らでもあっただろう」

「……う、うん。 時間をかければ分かりそうだけど、今は草虎の口から直接聞きたいな」

「仕方がないな。 本当は甘えを許すのは良くないのだが、最後だし、構わないか」

少し寂しそうに、草虎は天井を見た。波打っている体の左右の鰭が、零香にはよく見えた。

「滅びたパラレルワールドの一つに、不完全な形で世界を作り、其処へ精神だけの存在を発生させる事に成功した所があったのだ。 それが精神世界。 彼らは観察者を作ることで、人類に対する客観的なアドバイスと干渉を期待していたらしい。 だが精神世界の生命体達が成熟する頃には、彼らは滅んでしまった。 精神世界の住人達は、与えられたプログラムを、今でも実行し続けている。 ただそれだけのことだ」

確かにこれは、聞かない方がいいことではあった。神は人類が自分の尻ぬぐいをさせるために作り出した存在で、発生から一体何年経ったのか知らないが、計り知れない時が流れても、干渉を続けなくてはならないのだというのだから。

「ただ、私は別にそのプログラムが嫌いではない」

「……」

「私はレイカに会えたことを嬉しく思う。 神使の中に、この仕事が嫌いな者は一人だっていない」

「わたしも、草虎が好きだよ。 ……ごめんね、最後にこんな話をさせて」

「構いやしない。 レイカ、社会を+の方向へ導け。 人類を今度こそ滅ぼさせるな」

「うん。 力が及ぶ限りのことはするよ。 だから、安心して、次の子へ幸せを届けてあげて」

神輪が光って消えていく。草虎の体が輝き続ける。およそ三年間、ずっとパートナーだった彼は、大きく零香に頷くと、かき消えた。

枕を抱きしめる。強く強く抱きしめる。

知ることは決して幸せなことではない。だが、知らなければならないと、零香はこの数年の経験で思い知った。潰されはしない。潰されるものか。

泣かない。もう泣かない。決意と共に天井を振り仰いだ零香の顔に、もう涙は光っていなかった。

見ていて、草虎。心の中で、零香は決意を口にしていた。

 

エピローグ、その後

 

零香の朝は早い。陽が出る頃には起きだして、外でまずランニング。竹林の中を高速で走り回った後は、正拳、蹴り、それぞれ二百回ほど。どちらもまだまだ幾らでも向上が見込まれるから、やっていて楽しい。

道場に行くのは、いつも大体六時。その頃父も起きだしてくる。中学三年になった零香は、身長百五十五pを越え、もう少しで大人の体になる。容姿自体には今後もまだまだ変化が訪れるが、骨格が完成することの方が、零香には意味がある。関節を暖める父を見ながら、零香は笑顔を浮かべる。

「おはよう、父さん」

「うむ」

「今日も軽く手合わせしようか」

「それがよいだろう」

ぐっと腰を落とす零香に対して、林蔵は左手を降ろして右手を挙げ、じりじりと間合いを積極的に詰めてくる。

それが一線を越えた瞬間、電光が走るような戦気の激突が起こり、両者は同時に床を蹴った。

最初に仕掛けたのは零香。床から伸び上がるようにして掌底を放ち、それをかわされると軽く体をひねってハイキック。林蔵はそれを腕でガードしつつ跳ね飛ばしに掛かるが、素早いステップで離れた零香は摺り足を使って斜めに下がりつつ、父の左側へと回り込もうとする。だが、今度は父が早い。縮地法でも使ったかのような動きを見せて零香との間合いを侵略、頭上から容赦ない踵落としを叩き込んできた。避けきれないと悟った零香は全身をバネに、床に片膝を着き、両腕をクロスして踵を受け止める。道場全体の床が激しい炸裂音と共に軋み、離れた林蔵と零香はすぐに再び拳を交える。懐に飛び込んできた零香のラッシュを軽くいなしながら下がる林蔵。間を詰めようとして、間一髪でカウンターの前蹴りをかわす零香。

「はああああっ!」

「せああっ!」

咆吼が交錯する。

普通の人間なら百回は死んでいる組み手を、ほぼ一時間で終えると、何事もなかったように朝食に。今日は三勝四敗で、父に負け越した。まあ、拳に鍛える先があるのは良いことだ。

七時には山崎さんも来ているし、母も起きだしている。台所で、野菜を刻む音が、ダイニングまで聞こえてくる。机に頬杖をついて、それを楽しみに待つ零香に対して、林蔵はむっつりと黙り込んだまま新聞を広げていた。

父は個人的な母への愛情を捨て、包むような愛情へと変えている。というよりも、もう愛情自体特定の人間にはもてないだろう。父がしたのはそういう精神的変革による冷厳な身体強化だ。母はそれを悟った上で、父を愛しているのが零香には良く分かる。母のお腹の中には零香の妹か弟かがいる。今三ヶ月である。どっちにしても、楽しみだ。

母の優しい味がする朝ご飯にこっそり岩塩を付け足して、お腹にかっ込む。お弁当も手にすると、零香は準備しておいた鞄をひっつかみ、玄関に出る。

「いってきまーす!」

「うむ」

「いってらっしゃい」

記憶が完全に戻った母の優しい声と、父の冷厳だが包み込むような愛情を受けて、零香は外へ出る。本当ならこの時間も修練に使いたい所なのだが、流石に登校している所を誰にも見られないと言うのはまずいから、少し小走りで学校へ行く。途中、奈々帆にあったので、隣に並んで喋りながら学校へ。

学校に着くと、授業が始まるまでに、辺りを見回る。零香がこれをやるようになってから、不良は目立って減った。というよりも、学校周辺で悪事を働く人間自体いない。見回りながら軽く修練し、ホームルームまで体を鍛える。今日は時間があったので、術の修練も少し。神輪はなくなったが、術の作り方のノウハウと展開方法はばっちり抑えているから、問題はない。ツキキズクローで軽く素振りをした頃、ホームルームの時間が来る。急いで教室に駆け込むと、先生も同時に教室に入ってきた。髪の長い男の先生で、独特な喋り方をする人だ。

「銀月ー。 体を鍛えるのもいいがー、もう少し早くHRにこいよー」

「はい」

「いい返事だ。 じゃあ始めるぞー。 ちょうれーい」

「きりーつ」

生徒会長になっている奈々帆が声をかけると、皆が一斉に従った。なかなかの指導力である。これなら将来先生になっても問題なくやっていけるだろう。

授業が終わると、屋上で昼ご飯。時々一緒に奈々帆とも食べる。屋上で食べるのには、当然理由がある。

ハンカチを布いてへりに座って、お弁当を開ける。栄養をとてもよく考えた、良い配置のお弁当だ。懐から取りだしたのは、岩塩スティック。木製のヤスリでそぎ落として、弁当を自分好みの味に調整するのだ。

ウインナーを口に運ぶと、零香にとって丁度いい塩味がして、至福の時。午後は体育だが、今のうちにきちんと岩塩を補給しておけば、人肉に涎が湧くこともないだろう。満面の笑顔で、零香はお弁当を頬張る。弁当を食べ終わった頃に、携帯へメールが。由紀からの定期報告だった。問題ない旨を返信すると、電源を切り、寝転がって昼寝に入る。桐ほどではないが、やっぱりこの時間の昼寝は気持ちがいい。

時間は飛ぶようにして過ぎていき、放課後が訪れた。部活に所属していない(運動部に、さんっざんモーションはかけられたが、全てふった)零香は、すぐに暁寺へ。石段を登ると、すぐにトイレで道着に着替えて、修練に加わる。今日もスポーツ新聞を読んでいた狼次郎だが、皆の予備訓練が終わると、別人のように鋭い顔になる。それぞれ、組み手を始める時間がやってきたのだ。

「はじめい!」

狼次郎の声と共に、激しい修練がピークを迎える。零香は最近、十キロの重りを両手に付けることを義務づけられているが、それでも少し物足りない。

夕日が落ちる頃に、暁寺での今日の修練は終了。同級生や先輩達に挨拶すると、零香はまっすぐ家に。その途中で携帯の電源を入れると、雪村さんからのメールが入っていた。近況の報告と安全の確認を求めるメールで、定時連絡に近い。零香は少し首をひねってから、少しスパイスが効いた答えを返した。

「勿論、わたしは幸せです」

 

日が暮れる。夜もまた、修練の時間。しかもこれが本番だ。夕方までのはあくまで準備運動。獣としての強さと、人間としての強さを融合させ、さらなる高みを目指すこれからの時間こそが、零香の本領だ。

神衣を纏い、夜闇をかける。街の中を、人の目に触れぬように走り抜ける。速く、速く、更に速く。更に大胆に。風を抜き、森の中へ突入。木を避けながら却って速度を上げ、音を立てないまま駆け抜ける。鳥も虫も気付かない中、若き獣王はかって銀月の闇の歴史が凝縮されていた屋敷の、自らと父の二代で壊し去った屋敷のあった場所へ来ていた。

まだまだ、改善の余地は山ほどある。まだまだ、強くならねばならない。

もう瓦礫の一つも残っていない更地には、雑草が生い茂り、一部は木になり始めていた。屋敷があった頃から生えていた松は健在で、そのごつごつした幹に手を掛け、登る。そして、月を背に、太い枝の上に立った。

獣性がたぎる。本能が疼く。舌なめずりする。零香は抑えていた殺気を、完全に解放した。

「ガアアアアアアアアアアアアアアッ! ギアアアアアアアアアアアアオオオオオオオオオオオオオオオオッ!

突如炸裂した、火山の爆発が如き殺気と咆吼に、眠っていた獣たちは飛び起き、逃げ散る。鳥たちは慌てて飛び立ち、我先に逃げ出していく。零香は喉の奥から、たまりたまった殺戮への欲求を吐き出し続ける。

「オオオオオオオオオオッ! ルガアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

霧が晴れていく心の内。今までの全ての戦いの記憶が、零香の筋繊維の一本一本までを熱くさせている。三回目の咆吼は、言葉を伴っていた。

「わ、た、し、は! 今! しあわせだあああああああああああああっ!」

辺りにはもう、何もいなかった。誰に聞かせるわけでもない咆吼だった。

完全に心の泥を吐き出し、すっきりした零香は、神衣を解く。そのまま松の木を飛び降り、月を見上げた。

狂気の血がたぎる、まんまるの、美しい月であった。

 

(白虎戦舞第一部、神子相争編  完)