白虎の咆吼

 

序、全ての始まり

 

銀月宗吾の焦りが、影には手にとるように分かった。O市の市街地から遠く離れた、寂れた洋館の中で、手紙を書く事に余念がない窶れた影は、含み笑いを隠せなかった。

彼はおぞましい星の下で産まれた人間であり、その人生は最初から闇だった。

実の親の名前は知っているが、会った事もないし、話した事もない。まだ若いというのに、弱り切った体は、長く生きる事を決して許してはくれない。当然の話である。彼は今まで生きていた事さえ不思議な存在なのだから。通常ではあり得ない遺伝子の弱体化によって、聞いた事もないような病の数々が彼の体を蝕んでいる。まだ若いというのに髪の毛は半分以上も無くなり、子種もない。

言葉を教えてくれた相手の名前は知らない。人間の顔も殆ど知らない。子供の頃ずっと座敷牢に監禁されていて、周囲には壁しかなかった。積んであった書物は一通り目を通して全て覚えたが、何の役にも立たなかった。暗い部屋の中で無限とも思えるときが過ぎていき、助けられたときにはもう何もかもが手遅れになっていた。

筆を動かして、手紙を書く。飼っている複数の部下の元へ、手紙を送り届けさせる。

こんな孤独な洋館に住んでいる彼だが、コネクションは広い。失踪する前までに作った何人かのペンパルを通じて交友関係を増やし、数年がかりでこのコネクションを作り上げたのだ。巧妙な事に、いずれの部下も、自身が操られている事など知らない。影は天才だった。誰かの心の隙間に入り込み、思うように動かす達人だった。最近では文字を見るだけで相手の性格が手に取るように分かるし、文章の流れを追っていくと精神状態まで読む事が出来た。

影は慎重な男だった。誰かを破滅させようと思ったときには、その人物に直接接触するような、不用意な真似は決してしなかった。銀月栄作を破滅させたときのように、その人間から直接不直接に繋がる複数の人脈の向こうから、遠隔操作するようにして相手を陥れた。噂を操る事もあったし、職場の雰囲気を壊す事もあった。スキャンダルをばらまく事もあった。今までに、実験もかねて破滅させた人数は、軽く十を超す。その中には、実の両親の名前もあった。入念に作り上げた彼の蜘蛛の糸は、今は念入りに銀月宗吾の周囲に張り巡らされている。

銀月宗吾は愚かな男である。まずまずの社会的実績を持ち、まずまずの能力で会社を運営し、まずまずの人当たりの良さで部下達にもそこそこに認められている。不倫をする極めて悪い癖があるが、これはもう家族も諦めており、どうにか家族の細い絆は繋がっている。欠点をどうにかカバーできた、満足な人生だと言える。それなのに、宗吾は欲を出した。二人の子供、息子と娘に楽をさせたいと考えたのである。それらは子供達が決める事だというのに。決める権利があるだけ、影よりもずっとましだというのに。

悪い意味で宗吾の父に世話になった影は、だから宗吾を徹底的に利用した挙げ句、銀月を破滅させる事にしている。

宗吾が馬鹿な事をしたのは、すぐに気付いた。影が網を張っている人間の中には、宗吾の腹心の友人もいたのである。愚行は影に筒抜けであった。それを利用して、二年の時をかけて、影は宗吾を追いつめていった。そして幾つかのつてを辿り、最強の刺客を、満を持して銀月家当主林蔵の元へと送り込んだのである。

結果は上々。この時影はおもわず声を上げて笑ってしまった。銀月本家が崩壊し、後は宗吾をたきつければ全てが終わると思った。だがそこに思わぬジョーカーが現れた。林蔵の娘零香である。零香は異常な成長力で見る間に力を伸ばすと、副家とまともに渡り合い始めたのである。宗吾は瞬く間に五分の段階にまで引っ張り返された。だが、影も此処で引くわけには行かなかった。

まず最初に試したのが、零香への直接攻撃である。さまざまな噂やスキャンダルをばらまき、デリケートな小学生の心を刺激しようとした。だが案外タフなあの小娘は、時々ダメージは受けはしたものの、いずれにおいても立ち直って再び立ち向かって行った。驚異的な回復力である。信じられない光景だったが、零香の力量を影も認めざるを得なかった。

そのうちナンバースリーの嬰児が零香に服従を誓い、活躍を見ている内に中月も三日月も零香派になっていた。キーパーソンの一人である英恵も、何処かの病院に収容された。この時点では、完全敗北を喫した影は一旦方向転換を模索、一月ほどの準備期間を経て次の手を試した。

まず英恵の病院が何処か割り出し、トラウマを刺激してすぐには退院できないようにした。トリックは簡単である。鳥の餌を使ったのだ。要は記憶喪失になっていた英恵に、過去の一番強烈な体験をフラッシュバックさせてやればいい。そこで英恵の病室から見える丁度いい木の下に、毎朝同じ時間に鳥の餌を撒くように、部下の一人に提案したのだ。

鳥が好きな少女であるその部下は何が起こったかも分からなかっただろう。何に利用されたかも分からなかっただろう。餌をまち、木の枝に留まる無数の鳥の目を見た英恵は錯乱、すぐには退院できないほどにショックを受けて病院の奥に収容された。これで、英恵が銀月本家に戻り、事態の収拾を加速する事態は避けられた。

続いて、宗吾を更に追いつめた。スキャンダルをわざと拡散させ、それを宗吾の耳に入れる事によって、焦りを更に煽ったのだ。そして切り札だと宗吾が信じるような情報も、一緒につかませた。恐怖と焦りからまともな判断力を無くしかけている宗吾は、面白いように動いてくれた。あろうことか会社の経営権まで持ち出し、分家の連中に働きかけ始めた。直接恩義を感じているナンバースリーの銀月嬰児以外は、それで徐々に副家に傾いていった。副家企業幹部達の心も、見る間に離れていった。

後は一族会議を起こさせ、宗吾を敗北させればいい。見たところ、零香は多分どうにかして林蔵を正気に引き戻すだろう。あの娘の実力ならそれくらいやるはずだと、影は判断している。そうすれば終わりだ。林蔵の存在感は大きいし、何よりそれで宗吾の持論は崩れてしまう。幾ら経営権をネタにされても、本当の弱みを多数握っている林蔵が当主に復帰してくれば、分家はもう手が出せないのだ。そうすれば、追いつめられ切った宗吾は必ず切り札を使う。宗吾が切り札だと思っているものこそが、銀月を破滅させる最悪のジョーカー。それが発動してしまえば、もう林蔵にも零香にもどうにも出来ない。今から笑いが止まらなかった。

零香の能力ははっきり言って予想の遙か外にあったが、今回はそれを逆利用させて貰う。あの小娘と宗吾では、はっきりいって役者が違う。多分場数の踏み方が違うのだ。宗吾ではもう幾ら背伸びした所で勝ち目はないだろう。例え林蔵が復帰できなくとも、あの小娘が宗吾に勝つ可能性は極めて高い。その時こそ、影の宿願がかなうときだ。

全てを呪い、生まれを憎み、人生を嫌ってきた男の陰謀は、全ての破滅を、今闇の底から引きずり出そうとし始めていた。

 

1,銀月の真実

 

拳を極めた父林蔵について、零香は居間に移った。父に断って、自室に戻り、解読中の巻物と参考資料を合わせて持ってくる。それを見ると、林蔵は一瞬だけ驚いたようだが、ただそれだけだった。

家政婦の山崎女史は、父を伴って零香が歩いているのを見て、驚きに目を見張った。一瞬林蔵を責めようとしたようだが、零香が首を横に振ったので何も言わず、茶を入れてきてくれた。気を利かせてすぐにその場から退出してくれた彼女に、零香は一度頭を深々と下げた。

「それを持っていると言う事は……もうかなりを知っているようだな」

「うん。 銀月の大まかなからくりも、大体分かってる」

「ならば話が簡単に済む。 ……そうさな、まずは土台の部分から話そうか」

林蔵は語り始める。全ての始まりを。

戦乱の時代は、何時の世でも、何時の地域でも、弱者に対して多大な負担を強いる。誇りや尊厳は力の前に踏みにじられ、弱者は数によって身を守るか、強者の影に寄って命をつなぐしかない。完全な意味での自由が如何に残虐で凶暴かを見せつける時代が、戦国の世だ。武蔵の国、現在で言う東京都及びS県の大部分にK県の一部を加えた地域に割拠していた土豪の一つ、銀月家もその時代に翻弄された一族だった。

さまざまな戦国大名の間で揺れ動きながら、ある時は兵役を課せられて多くの一族を失い、ある時は重税を取り立てられて涙をのむ。そんなその他大勢の、非力で小さく弱い土豪。しかしそれでも己の領地と民を守るため、必死に権謀術数の限りを尽くして生きてきた者達。それが銀月家である。最初は農民だったとも何処かの守護大名の家老の諸子が流れてきて定着したのだともいうが、いずれにしてもそう大した家柄ではないのは確かである。家紋も江戸時代寸前に考案したものだ。

銀月は家柄だけではなく、能力も凡庸であった。初代と言われる銀月三郎左右衛門義久より始まって、これといった人物をおよそ百年に渡って輩出できず、激動の関東情勢下、どうにか勝ち組である北条家の傘下に入って命脈を保つ事だけが成し遂げた事であった。塵芥のように飛ばされ滅びていった数多の土豪に比べればまだましだとも言えるが、あくまで保身に徹してこの程度のことしか為し得なかったとも言える。何処の戦国大名も問題にしないような、典型的な弱小土豪であった。

ところが、ある一時を境に、銀月はその性質を大きく変えるのである。

相変わらず保身を中心とし、出ようと言う活気の無い一族ではあった。だが混乱期になるとはかったように有能な主君が出、見事な手際で難局を乗り切るのだ。有能な主君は本家から出るだけではなく、分家から出る事も多く、何度も主家が交代する事はあっても、銀月の家自体は揺るがなかった。

数々の功によって銀月は安定した領地と安定した財産を確保、情勢を見る目にも不意に長けた。北条家の機密を持って一族もろとも上り坂の徳川家の元へ走る英断も見せた。長篠の合戦を始めとする幾つかの戦いでも目立った活躍を見せた銀月は、徳川の直参旗本に、やがては江戸時代に大身旗本へと出世し、明治時代にも上手く立ち回って財産を確保、現在に至る。

あまりにも大きな変化だ。事実銀月の異常な性質は複数の人間に興味を抱かせたが、危険視させるほどでもないため、誰も深入りはしなかった。

「此処までで、何か質問はあるか」

一旦林蔵は言葉を切った。首を横に振る零香に、満足そうに頷くと、話を核心へと進める。

銀月を変えたのは、一巻きの書物であった。名を、狂月師範書、と言う。いわゆる外法の書であり、まっとうな学者であれば破り捨て即座に燃やすような代物だ。学説が正統かどうかの問題ではない。最初から思想構想が狂った本なのだ。

この書物について分かっている事は少ない。名前も伝わっていない作者はどうやら陰陽師崩れらしく、道教思想を中心に実験を重ね、この書物を書き上げたらしい。如何におぞましい犠牲がこの書物完成までに払われたのか、実験は何処で屍を積んで行われたのか、分からない事は数多い。どのようなルートでこの書物が銀月家に潜り込んだのかも分からない。その上現物は残っていない。内容を口伝で伝える事にした銀月の首脳部が、二枚の巻物へと移し換え、原典は焼き捨てたからだ。原典を焼き捨てなければならないほどに、秘密が漏れる事を怖れていたのである。

「二巻の巻物の内、一巻は零香、お前が持っているそれだ。 他にも写しがあったようだが、いずれも現存はしていない。 もう一巻は、道場の床下に仕舞ってある。 一つは内容について触れており、もう一つは暗号解読用の対応表になっている」

「わたしが持っているのは、内容について触れている方だね」

「そうだ。 そしてその内容だが……天才を作り出す方法について、だ」

聞きたくはないが、聞かねばならない。本家か、先代の副家まではおそらく伝えられていた真実に、零香は教えられる前にたどり着いてはいた。だが、ここから先は、推察に過ぎない。確認しておかねばならないのだ。

「覚悟は出来ているよ。 教えて、父さん」

「……方法は主に二つ。 まず一つは混血と言われる作業だ。 これは平たく言えば近親交配で、生贄に選ばれた者を家族皆で犯し、子を孕ませる。 戦国時代では籤(くじ)で決めていたようだが、江戸時代からはもっともらしく(鬼子)と呼ばれる人間を「平等に」選抜し、それを皆で犯す事で「混血」を為した。 選抜の方法は以前話した三子とほくろの場合の他、さまざまにあったようだな。 そしてこれに匿名性を持たせる事で、銀月の先祖達は差別を誘発し、結果本質を隠す事が出来た。 極めていやらしく上手いやりかただが、俺は許せん。 先にお前には、これに起因する表向きの意味しか教えてやる事ができなんでな。 すまなかった。 何やら道教思想的に色々意味があるらしいのだが、そんな事をすれば奇形と歪んだ形で天才が生まれてくるのは自明の理。 更に、もう一つの方法が、狂染(きょうぜん)と呼ばれる作業だ。 これは「混血」の対象になる人間を座敷牢に監禁し、狂気を発せさせる事で、逃走の防止と犯すときの罪悪感を取り除く作業であったようだな。 道教的にも何か意味があるらしいのだが、其方は俺にはわからん」

林蔵の言葉に淀みはない。実際にそれらが行われていたのだと知らねば吐き得ない言葉であった。

やはり、零香の推理は全て的中していた。あの異常な家系図も、それで全て説明が付く。近親交配で子供を大量生産すれば、その殆どが奇形や遺伝病で早死にするのは当然の事だ。天才的な素質の人間が産まれる可能性も低くはないが、それもほぼ確実に先天的な致命的形質を受け継いでいるだろう。近親交配によって出来た子供だという事実を隠すために、家系図には実在しない人物が載せられた。探しても見付からないわけである。あの家系図に乗っていた親兄弟姉妹の誰かが、名前をテキトウに変えて再登場しているのだから。

外様を当主に受け入れて良しとする風潮にも説明が付く。そうやって作った天才的な当主を受け入れるためが一つ。折角天才を作り出しても、それが当主として受け入れられなければ意味がないのだ。鬼子は、分家からも徴収したのだろうから。その場合、秘密は恐らく一代にのみ受け継がせたのだろう。秘密が漏れる可能性があるときは、関係者を消したかも知れない。血生臭い時代である。

更にもう一つが、濃すぎる遺伝子を薄めるための処置だ。濃すぎる遺伝子は後々の子孫にまで悪影響を及ぼす。だから積極的に外部の血を入れて、平安の時には血を薄める事に尽力したのだろう。だが、それによって蓄積された歪みを、零香ははっきりと血の奥に感じる。狂気の行為には、狂気の報いが待っているものなのだ。

余所から近親相姦で出来た子を買い取っていたというのも説明できる。いざというときに、「混血」の濃い子供をストックしておく必要があったのだ。もちろんその者を天才として活用する事も考えていたのだろう。当然、鬼子が足りないときの措置でもあったはずだ。

母が監禁されていたのに使われていた屋敷は、恐らく銀月のトップシークレット。あの屋敷だけが使われていたかどうかは分からないが、あのような所に、銀月は常時多くの「鬼子」をストックし、「狂染」を行って「混血」に備えていたのだろう。

土地を必死に守ったのも、最初と後とでは意味が全く違ったはずだ。最初は文字通り生き残るため。しかし後では、自らの異常な秘密を守り抜くために行っていたのだろう。土地財産を守るのに拘った理由も、それと同等のはずだ。

全てが致命的に狂っていると、零香は思った。苦肉の策だというのは分かる。生き残るために必死だったというのも分かる。しかしこれは、狂っている。狂っているとしか表現できない。人間の狂気の中でも、もっとも奥深い組織的狂気が、零香の目の前に晒されていた。

「狂っているな。 なんという異常な」

側で聞いていた草虎がぼやく。それでほんの少しだけ、零香の気分は楽になった。自分の心の内にだって狂気はある。誰の心の内にだって狂気はある。しかし、これは度を超している。銀月の一族は文字通り悪魔に魂を売ったのだ。

無惨なのは、そうせねば生き残れなかった世の現実。銀月はたまたま生き残る術を手に入れたが、それが悪魔に魂を売る方法だったと言うだけの事。他の土豪だって、狂月師範書を手に入れたとき、それを実行に移さなかったとは思えない。

裏切りや謀反が当たり前に行われた時代、面従腹背は当然の事だった。関ヶ原の合戦の時、情報を持たない全国の弱小大名達は、兄弟がいれば兄弟で、親子がいれば親子でそれぞれ東軍西軍について殺し合った事を零香は知っている。それが生き残りの為の智恵だったからだ。狂っているのは、人類そのものなのだともいえる。殆どの場合、一部の快楽殺人者を除いて、誰も好き嫌いで殺し合いなどしないのである。

父の話は続く。父の言葉にも怒りが多分に含まれているのが、零香にとって唯一の救いだった。

銀月は確かに狂月師範書に魂を売ったが、それだけではない。その内容をより発展させたのである。

近親交配によって生れた子供は、大体特定の才能を奇形的に発達させている事が殆どだったという。それを非常に効率よく伸ばしてやる方法や、一見使い道の無さそうな才能を活用する術、奇形を衆目から隠す術、等を銀月は長年かけて開発した。

実のところ原書はプライマリーな理論のみが展開されている書物であり、実践技術を実用レベルにまで開発したのは銀月なのだ。話によると、一時期幕府に請われて天才を供給していた事もあったようだが、使いこなす事が難しく、すぐに停止したという。幕府も成果のわりにはリスクが大きすぎるために、実用化には二の足を踏んだそうである。

「幕府はすぐに書類上から銀月の闇と関わった事実を抹殺したし、銀月本家と副家はこの秘儀を守り通してきた。 実践者である本家に対して、副家は実働部隊の活用が主な仕事だった。 ノウハウが本家に、手足となって動く人間が副家に、という構図がわかりやすい。 そうして狂気の歴史は続いた。 鬼子は常時五人以上ストックされ、座敷牢からでる事さえ出来ずに一生を終えた者も決して少なくはなかったそうだ。 かような惨い処置を施された者はいずれも長くは生きられなかっただろうし、我らの先祖の罪深さは計り知れぬ」

「……酷い、話だね」

「惨い話だな。 だが、そうしなければ、元々能力がない銀月は生き馬の目を抜く渡世を生き残る事が出来なかったのだ。 後年になってくるとこの悪夢を出来るだけ軽減すべく、銀月の本家ではさまざまな行為を行ってきたらしい。 積極的に才能のある人間を血に混ぜ、鬼子も混乱期以外はストックを大幅に減らした。 誰もが知っていたのだ、これが悪魔に魂を売る、おぞましい行為と言う事は。 だが時期と長年蓄積された呪いが、行動を妨げてきた。 このおぞましき行いによって、銀月と、それに属する者達が生きてこられたのは紛れもない事実であったのだからな。 誰もが逆らえない悪習は、罪悪感と死という二枚の翼を持ち、鬼子に対する差別という鉄の仮面をかぶり、それが故に正に鉄壁だった。 しかし、それに抗う者が、ついに現れた。 零香の祖父、俺の義理の父である、銀月信彦氏だ。 俺はそれに協力して、銀月の闇と戦った」

母を救い出したのが父だと言う事は漠然と知っている。しかし、その下りは漠然としか知らない。多分あの屋敷に乗り込んで、大暴れしたくらいしか分からない。父は正座し直す零香に、少しだけ表情を崩しながら言う。

「俺は大したことをしていない。 本家と副家の人間を信彦氏が集めている内に、英恵を始めとする鬼子達が監禁されていた屋敷に踏み込み、警備を全員伸して皆を助け出しただけだ。 その後、銀月の闇の発覚を上手く盾に本家と副家の人間達を信彦氏がねじ伏せたのと、副家の当主が上手い具合に子孫へ秘密を伝える前に病死したのと、俺が英恵を守り続けたのが良い方向に作用して、表に出すことなく、銀月の闇は大部分が瓦解した。 英恵は俺を愛するようになって、お前が産まれた」

「そう、そういう事情で知り合ったんだね。 好きになったのは母さんから……。 ねえ、聞いても良い? 父さんは、母さんを愛している?」

「愛していた。 最初は保護意欲からだったが、俺に愛を教えてくれたのは間違いなく英恵だ」

それだけ聞く事が出来れば、零香としては肩の荷が下ろせる所であった。何処かおかしな家族関係だったのも、納得がいく。二人は恋愛結婚と言うよりも、守護者と被守護者の結婚だったのだ。愛情をはぐくんだと言うよりも、むしろ保護者への情愛が、恋愛に発展したという要素が強い。愛している、が愛していた、になったのは残念だが、父には他に方法がなかったのだともう知っているから、何も言わない。

「俺が此処を離れるわけに行かなかった理由も、それに起因している。 本来、俺はこの屋敷に常に張り付いていなければならなかったのだ。 この屋敷には、狂月師範書の暗号解読書を始め、銀月の闇の証拠が山積している。 それを、俺は失念していた。 確実に誰からも守り通せるわけでもないのに。 だから仮に誰が攻めてきても、体を張ってなら守り通せる実力が俺には必要だった。 平和な時が、英恵の愛情が、俺からこの危機意識を奪い去っていた。 言葉で言うのは安い。 だが昔のような、実戦の時と同じくする戦気を常に保ち、緊迫感を維持するには、家族の全てを遠ざけてでも、ぬるま湯から体を引き抜く必要があったのだ。 寂しい想いをさせて済まなかった。 修行が済んだら、様子を見ながら、英恵を迎えに行くつもりだった」

「馬鹿だよ、父さん。 そんな不器用なやり方じゃなくても、他に方法なんて、幾らでも、あったじゃないか」

涙がこぼれてくる。呆れるくらい愚直で、呆れるくらい真面目で、呆れるくらい優しい父の生き方に、零香は心を打たれていた。古い。とんでもなく古い。だが、零香はそれを否定できない。

「俺は信彦氏に全てを託された。 何からも銀月と英恵を守り抜くと誓った。 俺にとって誓いとは神聖なものだ。 だから、俺がこれをやらねばならなかったのだ。 結果的に、一時でも英恵を苦しめてしまったのは、悲しい事であったが、な。 俺は地獄に堕ちるだろう。 既に覚悟は出来ている」

父の不可解な行動の謎は、全てとけた。それは、とても不器用な男の、不器用な約束と愛情が産んだ歪み。器用な生き方が出来ない男の、古くさい価値観の結実だったのだ。

そしてこれが分かったのなら、零香にはいわねばならない事があった。

「母さんを、迎えに行こう。 父さん」

「……俺は、此処を離れるわけには行かない」

「なら、わたしが此処に残る。 父さん、母さんを救えるのは父さんだけなんだよ。 だから、迎えに行ってあげて。 病院は分かってる。 もう、DNA鑑定も終わっていて、後は父さんが迎えに行ってあげれば、きっと母さんは助かるよ。 今すぐに助かるかどうか分からないけど、きっと助かるきっかけにはなる! だから、お願い」

「此処を全てから護れると、誓えるか、零香」

本当だったら、零香はこんな家、粉々にぶっ壊して滅ぼしてやりたい。だが、父さんは言う。此処を守る事を誓ったのだと。腐っていようが旧弊だろうが、銀月という家には多くの人間が所属していて、未来に向け必死に歩んでいる。銀月の闇が世間に漏れたとき、滅びるのは本家だけでは済まない。目に浮かぶようである。腐ったマスコミが面白半分に記事を書き立て、銀月の関係者全員が社会的に抹殺される未来が。

闇はいつか表に出す。出さねばならない。だが、それをするべきなのは今ではないのだ。今の人類社会に、銀月の闇と、自身の運命を託すのは危険すぎるのである。だから、闇の歴史を隠蔽するのではなく、再発しないように守っていく。それは情報を考え無しに公開して、責任から逃げるのよりも、遙かに難しい茨の道。それを人生のしるべとした林蔵を、零香は誇りに思う。だからこそ、言う。怒りを押し殺して。

「誓う。 例え軍隊が来たって、好きなようにはさせないよ。 わたしもこの一年ちょっとで、父さんとは違う方向で力を身につけた。 何が来たって、勝手はさせない」

「そうか。 必ず助けられるとは約束できないが、ならば行こう。 英恵の元へ」

「父さん、母さんは守らないと生きてさえ行けなかったんでしょう? そして父さんは、修行の末、守るために人間的な感情の一部を自ら捨てた……。 わたし、その決断を聞いて、誇りに思うし、行動には涙も出る。 父さんが其処までして護る価値があるって、わたし達の事を見ていてくれるんだから。 でも、覚えておいて欲しいんだ」

零香は言葉を切る。そして、神子相争で、激しい殺し合いの末に学んだ言葉を、父に伝えた。

「母さんは、守られるばかりの自分はいやだったんだと、思う。 守られるだけじゃなくて、一緒に戦いたいって、人は思うんだから。 だから母さんが帰ってきたら、皆で戦える方法を考えようよ」

「……。 お前は一体何処でそれだけの経験を積んできた? この一年と数ヶ月で、お前は百年の死闘を潜ったかのようだ。 今では頼もしくさえある。 お前の言葉には、激しい戦いの海を潜った戦士としての重みがある。 今の言葉、しかと胸に留め置こう」

大きな手を伸ばして、林蔵は零香の頭を撫でた。そして、体を清めてから出かけてくると言い残し、洗面所へ消えた。

一度として一緒に零香は父と戦う事はなかった。だが、今になって思う。同じ戦場ではないとしても、零香と林蔵はずっと背中を合わせて戦ってきたのではないかと。結局二人は親子だった。こんなに「親子」な親子が、今の日本にどれくらいいるだろうか。

「どうやら、一段落付けそうだな」

「そうだね。 後は副家をどうにかして黙らせて、母さんを助ければ、後は……」

ずっと裏からちょっかいを出していた奴をあぶり出して、どうにかしておく必要がある。その存在を零香は今や確信していた。

殺す必要があるかどうかは、相手に直接会ってから決める。必要なら殺す。零香は母さんと父さんを守るためなら、どんな事でもする。特に今零香がいる世界の場合、侮られると際限なくつけあがられる可能性がある。容赦なく叩き潰す必要も時にはあるのだ。

副家はそのさじ加減を間違った。もし副家がこの権力闘争に勝利した場合、分家に払う代償があまりにも大きすぎるため、銀月の家は破綻する。そうすれば隠れていた闇が露出し、全ては終わる。それほど愚かでもない副家の当主宗吾だが、焦りが彼を馬鹿にしたのだ。どちらにしても、あらゆる意味で、もう副家には負けられない。

林蔵が出かけていく。夜中だから面会時間は終わっているが、父さんの能力なら苦もなく忍び込めるだろうと、零香は当たりを付けた。ずっと家に張り付いていなければならなかったのだし、これくらいは勘弁してくださいと、零香は心中で病院の人達に詫びた。まだベットに拘束されている母さんだが、きっと父さんが直接会えば病状は好転するはずだ。それは真実ではなく願望だったが、どんな愚かな望みでも、願うだけなら自由だ。

神子相争に参加していなければ、決してこなかった幸せの日が、目に見える形で零香に示されようとしていた。

 

2,決戦前

 

蒼白な顔を床に向けて、銀月宗吾は社長室にいた。最近は胃腸薬を手放せなくなってきており、三種類の小瓶が机の上に投げ出されている。一つは空で、もう一つはまだ封を切っていない。複数の薬を服用するのはまずいのだと分かっているのだが、胃が痛くて痛くてどうにも我慢できないのだ。胃痛の原因は、分かり切っている。心労だ。強迫観念が、まともな判断を許してくれない。事実今では、乱用する胃薬こそが、胃痛の半分の要因となっていた。

目の下には隈もできている。無精髭も処理し切れていない。何もかもが、彼を裏切っているような気がする。足音が近づいてくる。それは分かっていたのに、顔を上げる事がどうしてもできなかった。

「社長。 銀月社長」

若干怯えを湛えた秘書の声に顔を上げると、三人の部下が険しい顔で立っていた。専務と常務、それに傘下企業の社長だ。いずれも宗吾よりも年上で、先代の頃からの重役ばかりである。青白い顔を向ける宗吾に、最年長の専務が最初に言った。

「社長。 幹部会の決定も無しに、勝手に会社の経営権を移動する手続きを為されたそうですな。 弁護士から連絡がありましたよ。 それにしても、これは会社に対する重大な裏切り行為です。 一体どういうおつもりですか?」

「場合によっては、不信任案を幹部会にて提出させていただくことになります。 よろしいですな」

追い討ちをかけるように常務が言う。ばれたという事よりも、のど元に刃を突きつけられた今の状態が、宗吾を際限ない恐怖へと追い込んだ。専務と常務の参謀だという傘下社長が、目に邪悪な喜びを浮かべながら追い討ちをかける。

「銀月社長。 来月末の幹部会までに、満足行く解答を用意していただける事を期待しております。 それでは、我らは業務がありますので、これで」

「しゃ、社長……」

困惑した秘書の声は空に流れた。宗吾は言い返す事もなく、追う事もできなかった。もう終わりだと、それだけ思った。

かくなる上は、一族会議で、何とか本家の保有する土地と秘密を強奪して、子供達に災禍が及ばないようにする事だけだ。崖っぷちに退いた宗吾は、体の内に眠っていた最後の力を呼び起こし、燃え立たせる。あの小娘、零香とか言ったか、絶対に負けるわけには行かない。かならず本家の座を奪い取る。座を奪い取るしかない。

俯き、口から決意を漏らしながら、胃薬を掴んで温い水で流し込む。嘔吐感がこみ上げてくるが必死に我慢し、冷や汗を垂らしながら歯を食いしばる。痛い痛い痛い痛い痛い痛い、痛くて死にそうだ。

たまらず社長室のとなりに常備されている洗面室に駆け込む。水を大量に飲むが、痛くて仕方がない。血走った目で蛇口をひねるが、水はなかなか冷たくならない。吐き戻してしまったのは、直後であった。慌ててタオルを持ってくる秘書を、振り向いた隙に突き飛ばしてしまった。小柄で線の細い秘書は、恰幅がいい宗吾の体当たりに為すすべなく床に転がった。

「きゃあっ!」

「す、すま……」

謝ろうとした宗吾だが、瞬間的に疑惑が持ち上がる。専務達に情報を流したのは此奴ではないのかと。そうだ、そうに違いない。そして此奴は沈みかけた船から、もてるだけ金を持って逃げるつもりなんだ。今のをセクハラか何かで訴えるつもりか、或いはそうされるつもりで、わざと突き飛ばされたのかも知れない。

長い髪を床にばらまいていた秘書の顔に怯えが走った。それを宗吾は、たくらみが露見したものだと勘違いした。自身の顔が、夜叉か羅刹のように厳しくなっているからだとは思わなかった。

「く、くく、く、クビだっ! で、でて、でていけええっ!」

怯えきって床に懐いている秘書に、宗吾がわめき散らす。秘書が怖くて動けなくなっている事にさえ、宗吾は気付かなかった。理性が吹っ飛ぶ。騒ぎに気付いた警備員が駆けつけてきたときには、もう宗吾は無抵抗の秘書を十回以上平手で殴りつけていた。

 

怯えきった秘書はその日の内に辞表を提出した。秘書検定を受けたプロだったというのに、仕事は問題がなかったというのに。何で心が邪に染まったのか、冷静になってみると全く分からない。警察沙汰にならなかっただけでも幸運だったのに、恨みは積もる一方だった。ただ、告訴されても困るから、事務に言ってきちんと退職はさせてやった。今まで有給休暇は一日も使っていなかったから、書類上は後の一ヶ月を有給で潰して、それで退職という形になる。どうせ、乳臭すぎて手を出す気にもならなかった女だと、強弁して自分を納得させる。

胃薬を買ってこいと秘書に命令しようとして、もういないのに気付く。残った胃薬を全部ひっつかむと、量も種類も確かめずに胃へ放り込む。チャイムが鳴り、乱暴に電話機を取ると、一番聞きたくない名前が聞こえた。

「零香様がおいでです」

「……通せ! 早くしろ!」

そういえばアポがあった事を思い出す。警備員に苛立ちをぶつける。殺気だった声に慌てた警備員が、慌てて謝り、電話を切った。もう罪悪感も湧いてこない。

家ですら最近は誰も話しかけてこない。子供達も宗吾を避けるようになっている。愛人達も離れていっている。誰のために宗吾が破滅したと思っているのだ。許せない、許せない、許せない、みんな許せない。殺してやりたい。頭の中で、ネガティブな言葉が滝のように落ちていく。

戸が開けられ、姿を見せた零香は、完璧なつくり笑顔で、もう焦燥を隠せない宗吾に言う。宗吾はつくり笑顔をきちんと出来ているのか、感覚的に確認する癖すらも忘れてしまっていた。零香の口の端に一瞬だけひらめいた冷笑も拾う事が出来なかった。

「宗吾おじ様、久しぶりです」

「久しぶりだね、御令嬢。 今日は一体何のようかね?」

「用件は二つです。 まず秘書の方ですが、うちで雇う事にしました。 いやはや、気の毒に、わたしがこのビルに来る途中に、頬を腫らして途方に暮れて公園のベンチで泣いてましてね。 眼鏡が割れてる事にも気付かないようでしたので、拾ってあげました。 何があったのかは知りませんが、あまり感心しませんね。 まあ、あまり深く追求しない事にはしておきます」

そうか、さては零香とグルだったのか。あの売女め。宗吾は零香の言葉を聞いて、脊髄反射的にそう決めつけていた。かっては論理的な思想展開をした宗吾だが、焦りと怒りと痛みが彼を変えてしまっているのだ。脊髄反射的な思考が、宗吾の全てを今や支配してしまっている。

「わたしも丁度秘書が欲しいなあと思っていた所ですし、格安で雇えたので問題ありません。 ああ、一応かって就職していた企業の企業秘密は喋る必要がないと契約書に明記しておきましたので、ご安心を」

「そ、それ、で。 もう一つ、は何だね」

「では本題に。 一族会議ですが、日時通り問題なく執り行います。 別に逃げたりしないのでご安心を。 議題は本家交代選挙、でよろしいですね?」

「か、まわない、とも」

「それはよかった。 わたしとしても、スケジュールを組む事が出来るので安心です」

綱引きではもう完全に凌駕し、切り札もあるというのに。分かっているというのに。このガキはどうしてこんなに平然としているのだ。宗吾の焦りが、余計な焦りを作っていく。零香がどんなに状況の厳しいときでも、いつも平然としていた事さえ、宗吾は忘れ去ってしまったのだ。

現在分家の内、零香に確実につきそうなのは嬰児だけ。後は過半が宗吾に従う旨を確約しており、残りも会議の流れ次第では確実に宗吾に傾くだろう。更に何かあったとしても、宗吾には事態の打開を図れる切り札がある。本家の秘密がある郊外の屋敷を抑えられなかったのは痛いが、勝てる。もう宗吾にはコレしか残っていない。幹部会議で失脚させられるのはもう目に見えているのだ。今の時代、同族企業とはいえど、あまり無茶苦茶な事は出来ない時勢になってきているのである。

そんな状況に宗吾が陥っているのに、世間話をしながら宗吾の向かいで茶を飲む零香の落ち着きようと来たら。絶対に勝てると確信しているかのようだ。解せない。怖い。いったい何を隠しているのか。どんな恐ろしい手を企んでいるのか。

まさか、知っていると、いうのか。

その可能性に思い当たった瞬間、宗吾の心臓が激しく飛び跳ね、胃が捻れた。胃の中の溶けかけた薬を全てはき出しそうになるが、必死にこらえる。目の前に座る零香の小さな姿が、密林で銃もなく遭遇してしまった巨大な人食い虎に見える。

「あ、そうでした。 おじ様、些細な事ですが」

「な、なに、かね?」

急に話しかけられて声がうわずる。以前は大講堂で新入社員相手に演説をした事もある宗吾なのに、子供一人と話すのにも緊張している。というよりも、怖くて怖くて仕方がない。

「うちに仕掛けられる盗聴器が最近減りましてね。 この間大掃除してみんな捨ててきたのですけれど、それ以来明らかに誰かの息が掛かっている家政婦も悪戯をしようとはしません。 何かおじ様は心当たりがありませんか?」

「さ、さあ、そう、なのかね」

「てっきりわたしは、おじ様に勝って貰いたい人の仕業かとも思っていたのですが……」

「そ、そんな、そんな事、あるわけ、ないよ。 う、うん」

「そうですか。 そうですよねえ。 ふふふふふふふふふふふふ」

零香の笑い声が怖い。鈴を鳴らすような綺麗な発音なのに、雀蜂の羽音のように耳障りだ。何を馬鹿なと笑い飛ばせばいいのに。冷や汗を隠すだけが精一杯。いや、それすらも隠せてはいない。零香は笑顔の奥で、眼鏡の奥で、鋭い目を光らせる。あくまで笑顔を維持したままなのが怖い。

盗聴器は、もう勝ちを確認したから、追加のものを設置しないようにしただけだ。零香が全ての盗聴器を見つけて破棄した事には気付いていたが、そんな事までする小学生がどういう環境下で育ってきたのか、想像力を馳せることも今の宗吾にはできなかった。

早くアポの時間が終わって欲しい。そんなネガティブな事まで宗吾は考え始めている。以前はアポを取って話すときには、一挙一動から相手の癖を読み、一挙一動で相手を追いつめようとしていたのに。今は恐怖に身を蝕まれ、逃げ出そうとする体を椅子に固定するのが唯一出来る事だった。それしかできなかった。精神の余裕と均衡を欠いてしまったとき、銀月宗吾という敏腕社長は過去の存在になってしまったのだ。

いつのまにか零香はいなかった。帰り際の会話は全く記憶にない。そういえばあの後何やら話していった後、頭を下げて帰っていったような気もする。何か余計な事は言わなかっただろうか。とても恐ろしい事を言っていなかっただろうか。恐怖の中で、零香の笑顔が悪魔のそれに思えた。

 

零香は勝負服の紋付き袴で歩いていた。帰り道の事である。

今日は副家との決戦前の下調べと言う事で、この服で出かけたのだ。まだ誰にも父の復帰は話していないし、決戦を行うのに準備をしすぎて困ると言う事はない。だから副家の様子を見にいったのだが。社長室で蒼白になっている宗吾の様子は、零香の予想以上に哀れであった。

秘書は既に家に帰らせてある。働いて貰うのは、今後の事になるし、今日はこれ以上別に用事もない。周囲に他人の気配もないから、零香は肩の力を抜いて、側を浮いている草虎との会話に移る。

「あれは駄目だね。 完璧に参ってる」

「そうだな。 相当に追いつめられているようだったな」

「これ以上追いつめるとまずいね。 副家の事だから、何かまだ切り札がある可能性もあるし、無茶をされると最終的に残る傷が大きい」

神子相争の特に初期だが、追いつめた子が暴発し、滅茶苦茶な行動を取って結果負けてしまった事がある。窮鼠猫を噛むと言うが、精神の均衡を欠いた人間は虎にでもライオンにでも戦車にでも攻撃を仕掛け、それが強者に思わぬ傷を作る事が珍しくない。零香はあらかた副家のカードを把握した自信があるが、それでも妙な動物的な勘が疼いて仕方がない。黒幕の存在もそうなのだが、どうもまだ知らない危険要素があるような気がしてならないのだ。

宗吾はここの所急速に追いつめられている。精神面での荒廃が特に酷い。ひょっとして、後ろにいる奴は、副家を敗北させて暴発させるのが目的なのではないか。

「兎に角、これ以上副家を刺激するのは無しにするよ。 一族会議ならどうにか出来ると思うけど、それ以外で何かやらかされたら困るからね」

「それが賢明だな。 それにしても、それとは別に解せない事もある。 父君の話によると、副家は銀月の裏側に関わる一族だったのだろう?」

「うん。 だけど副家の先代は急死した事もあって、宗吾おじさまはその辺の話を殆ど継いでいないらしいんだ。 それを逆に切り札に出来ると思うんだけど」

宗吾が先代副家当主から継いだのは、血統以外には、運営力を持たせるために本家が配した企業力だ。それを使って、副家が行っていた銀月の影の運営についでは全くと言うほど継いでいない。これは先代当主の信彦が、銀月の裏のシステムを処理してから死んだからだ。

銀月内部でもトップシークレットである闇の内容と運用は一子相伝式に伝えられていたとかで、戦乱の時代には早めに情報を伝える事もあったようだが、現在はそれもなく、結果情報も伝えられなかったのである。銀月の裏のシステムは半壊しているのだが、それが故にこういった形での齟齬も生じてくるのである。

ちなみに。宗吾の、秘密警察長官としての手腕はともかく、経営の才能は明らかに先代を凌いでいる。荒事をする手腕はともかくとして、経営者としてなら、恐らく銀月一の手腕を持つのが彼だ。

事実彼が社長に就任してから、銀月副家の所有する会社はどれも何倍も大きくなった。それだけに、零香には今回の件は残念なのだ。戦後はまた部下として、是非父さんに使って欲しい人材なのだから。

今の状態だと、宗吾は敗戦後廃人になる可能性が高い。そうなると、本家としても替わりの人材を用意しないと行けないわけで、分家とのバランスを考えると多分零香がこの若さで後見人として後ろから宗吾の息子なり娘なりの糸を引かねばならなくなる。そうなると、ゆくゆくは総理大臣にと考えている人生設計に大きな修正が強いられる。

それはまずい。零香はそう思う。どちらにしても、あまり時間はないのだ。

「母さんはまだ元に戻らないみたいだし、早めに決着を付けないと厳しいね」

「次の一族会議で、全てにけりを付けられるといいのだが、な」

ここまで親身になって苦悩を理解してくれる草虎がいるのは、本当に幸せな事なのだと零香は改めて思う。激しい殺し合いで疲れもしたし傷つきもした。だが、それで良かったのだと、零香は今思っている。

「ありがとう、草虎」

「礼はまだいい。 それよりも、家に帰って修練した後は、きちんともう一度、会議での段取りをあらゆる局面に対応できるように決めておこう。 此処で負ければ、全てが水泡に帰すのだからな」

「うん」

草虎の体の横に張り出した鰓にハイタッチすると、零香は軽やかな足取りで歩き出す。そろそろ冬が終わろうとしている。新春の緑の匂いが、風からはした。まだまだ微弱。だが心は躍った。

まだ決戦までしばしの時がある。それまでに、幸片を集めておく事も併せて、出来る事は幾らでもあるのだった。

 

3,神子相争の裏

 

各人の事情関係無しに、いつでも神子相争はある。どんなときでもある。寝ているときでも、歯を磨いているときでも、風呂に入っている時にでもある。

副家との決戦まで三日の今日も、神子相争の日であった。今のところこの間の不戦勝も含めて、零香の持つ幸片は二つ。父が復活してから四度の神子相争に参加しての結果だから、まずまずの戦績だと言える。現在、零香の総合的な勝率は大体五割強。今日も勝っておきたい所だ。

戦場に降り立った零香は、度を過ぎた光量に直面していた。軽く手を挙げて光を抑えながら、辺りを見回す。そして光の原因が分かった。鏡だ。空にある微弱な太陽の光を、地上に点在する無数の鏡が増幅し、辺りを照らしている。鏡と言っても、人間が加工したようなものではなく、金属の鋭い断面がそう見えているのだ。切断面はどれもヤスリで研がれたように鋭い。これはかなり危険である。今までも壊れ掛けの廃ビルなどで散々戦っては来たが、見た目これほど危ないモノに満ちた戦場は初めてだ。戦場中に特大の刃物が散らばっているようなもので、ちょっとはじき飛ばされただけで致命傷になりかねない。

戦場の中央には、小山のように巨大な残骸がある。崩れすぎていて、元の形状は全く判断できないが、全体的に金属光沢が多く、ビルではないのが確実だ。「鏡」はどうもそれから散らばったらしいと、破片の配置を見ると分かる。今回の戦場は露骨であった。

そのナニかを中心に巨大なクレーターが出来ており、それに半ば埋もれるようにして、崩れたり壊れたりしているビルが散らばっている。中には真横に倒れてしまっているものもある。

あの巨大ななにかが落ちてきた結果だと、一目で分かる。形状は原形を残していないし、もう少し調べないと正体も特定できない。だが、今はそれよりもやる事が幾つでもある。

手近にある一番大きなビルの影に潜り込み、気配を消してその中へ。外は鏡だらけで、思わぬ方角から敵に察知される可能性がある。逆に敵を察知できる可能性もあるわけで、此方としても監視を怠れない。

既に、現在戦場にいる神子が誰かは分かっている。零香と逆の戦場のほぼ端に、滞空しつつ準備を整えているのが利津。今日もかなり気合いが入っている。そして巨大な残骸のすぐ側、鏡の原とも言える其処には、桐が陣取っていた。

利津はわざと不規則に旋回行動を取りながら、桐には近づかず様子をうかがっている。対空機雷は怖いだろうし、攻めた所で桐に簡単に勝てるとは思えないからだろう。桐と利津とでは相性が悪すぎるという点も大きい。ただし、利津が何かしらのピンポイント爆撃を可能とする術を身につけている可能性は否定できず、それを考慮すると何かの策だという可能性もある。

それに零香としては、半径数百メートルを塵と帰すあのフェニックスチャクラムという術を利津が使っていない事も少し気になる。現在の戦場はかなりごちゃごちゃした場所だし、利津としては遮蔽物を処理しておいた方が楽だと思うのだが。何か策があるのか、単に此方の消耗を待ってから動くつもりなのか。難しい所だ。

ビルのガラスが残っていない窓から外を覗くと、影が四方八方、滅茶苦茶な方向へ伸び散っている。太陽光を「鏡」が乱反射した結果だ。これは予想以上に動きづらいと、零香は再確認し、首を引っ込めて気配を消す。

まず最初に戦う相手は利津だ。至近まで接近すればカタパルトシューターで仕留める事が出来るし、白虎戦舞を使う選択肢もある。白虎戦舞は一式をほぼコントロールできるようになり、現在は二式を実用段階にまで高めるべく修練している所だ。一式を上手く使えば、余力を残した状態で利津を屠る事が出来るかもしれない。白虎戦舞のポテンシャル解放精度は凄まじく、ただの投擲が必殺の一撃と化すだろう。しかも白虎戦舞と相性が最悪の淳子は今日参戦していないし、上手くいけばそれで一気に状況は有利になる。

だが、今の状態は、三人が三人とも守りの状態に入っている所であり、其処へ無理な攻撃を仕掛けるのは面白くない。もう少し辺りの地形を把握してからでも、接近攻撃は遅くない。

そう思い、一旦ビルを出て二人との距離を測り直そうと、零香が思った瞬間だった。

「!」

足を止め、今身を伏せていた場所に戻り直す。そのまま再び気配を入念に消し、外をうかがい直す。

零香が思わず足を止めたのは、あるものに気付いたからだ。ひょっとすると、他の神子達も既に気付いているかも知れない。神子相争に関係するわけではないし、多分勝敗には何の影響もないだろう。だがそれは、この不思議な世界のルーツに関わるかも知れないものであった。

興味が湧かないと言えば嘘になる。ずっと殺し合いの舞台になってきたこの枯湖の正体に、思いを馳せない神子など誰もいないだろう。事実桐と話すときや、たまに電話をかけてくる由紀とも、これについて話した事がある。だから、興味はある。しかし、それを逆手にとって桐辺りが罠を張っている可能性も否定できない。

しばし葛藤した後、零香はそれを調べるのを諦めた。ため息が出る。利津が戦場にでてきている以上、この戦場は粉々に消し飛ぶだろう。あの不思議なモノも、一緒に消し飛ぶのはほぼ間違いない。だから、見納めになる。遠くから見て覚えておこう。もう一度気配を消して、窓から顔を出して見る。

それは体長二十メートルほどの、百足の死骸であった。背中に大きな傷があり、其処から内部の液らしいものが流れた後がある。死臭はしない。というよりも、多分生物ではなくてロボットだ。それが証拠に、全身は金属でコーティングされていて、太陽光を鈍く反射している。

ビルや何かは散々見てきたが、ああいう露骨な痕跡を見たのは初めてだ。だから興味も湧いたのだが、仕方がない。今は戦いに専念しないと危ない。

吹っ切ると、零香はビルから出て、慎重に辺りの鏡の配置を覚えながら駆け抜け、利津により近いビルに駆け込む。利津の視力と攻撃能力から考えて、デッドラインはまだ遠い。幾つかのビルを経由して、ジグザグに間合いを詰める。対空機雷の直撃を受けたら面白くないから、発見されている可能性を考慮すると、直線的に動くのは危険すぎる。乱立する鋭い鏡の壁の間を、零香はすり抜けながら、周囲の地形を手早く頭に叩き込んでいった。

動きを見せない桐は、時々立つ方向を変え、のんびりと仕掛けるのを待っているようだ。零香から見ても正しい判断である。持久戦になるのは目に見えているし、無駄に精神力を消耗しない方がいい。利津は相変わらず何を考えているのか、フェニックスチャクラムを撃つ事もなく、鏡の谷の上を旋回し続けている。

四つ目のビルに駆け込んだときである。それはかなり大きなビルで、都会の駅ビル並みの規模を誇っていた。問題は地下への入り口があった事で、其処からは風が吹き込んできていた。つまり、奥に大きな空洞があると言う事だ。

利津と桐以外の神子の気配はない。この中を把握しておけば、利津や桐の裏をかける可能性がある。逆に空洞内に攻撃を叩き込まれたら一巻の終わりでもある。かなりリスクの高い選択肢だが、零香は空洞にはいる事を選んだ。

階段などと言う気が利いたものはない。崩れかけたビルの床が、蟻地獄のように穴へと沈み込んでいる。はみ出した無数の鉄筋が、千切れかけた筋繊維を思わせる。感覚拡大キューブを展開、先に穴の底へ降ろすと、案外浅い。しばらく入念に光届かぬ其処を探らせ、ある程度の状況を把握した後、零香は穴へと飛び込んだ。

数瞬の浮遊感の後、零香は柔らかく着地する。無言のままゆっくり顔を上げて辺りを見回す。星の海に飛び込んだようだった。思わず、綺麗、と呟く。

辺りにはコンクリの残骸に混じって鏡の細かい破片が散らばっていて、それらがきらきらと僅かに差し込む陽光を反射して輝いている。それが星のように見えるのだ。感覚拡大キューブを辺りに展開し、音を出来るだけ立てないように闇の世界を歩き始める。普通の人間だったら一歩も歩けないような照度だが、零香は感覚拡大キューブを利用してただでさえ超人的な域に高まっている勘を強化、普通に歩く事を可能としていた。

天井の高さは十二メートルほど。奥行きは広い。というよりも、どうも地下街か何かの残骸らしい。辺りには店舗があったと思われる小空間が散らばっていて、その辺りには無数の小さな何かの残骸があった。埃と残骸の、街の墓場だ。暮らしていた人間は何処に行ったのだろうか。今更髑髏など見ても驚かないが、少し気になる。死体が一つでもあれば少しは謎が分かるのだが、それらしいものの欠片さえない。霊的な反応さえ感じないのだから、これは念がいっている。

とりあえず、一本道だから迷う事は無さそうだ。時々床をクローで抉って目印を残しつつ、奥へ進む。この地下街、かなり広範囲に展開していて、奥へ行っても奥へ行ってもまだまだ先がある。うろうろして迷う愚は犯したくないので、そのまま突き当たりまでまっすぐ行く事にする。地上にでる穴が開いていればいいのだが、さてどうしたものか。

暫く行くと、ずっと安定していた天井が不安定になってきた。ささくれ立つかのように罅や亀裂が目立ち始め、所々光が差している場所もある。下を歩いている所を利津に発見されたら即アウトなので、更に念入りに気配を消し、慎重に歩く。

前に光が見えた。壁に背中を付け、滑るようにして進む。光量からして出口ではないが、用心に越した事はない。先に飛ばした感覚拡大キューブが、異様な巨大空間の存在を零香へ知らせてくる。今までにない、不思議な場所へ自分が迷い込もうとしていると、零香は気付いた。少し心が躍った。

導かれるようにして、空洞へ。床はタイル状で、埃がうずたかく積もっているが、生活感も何かの気配もない。丸いドーム状の天井からは、所々光が差し込んでいる。入ると同時に、感覚拡大キューブをめい一杯展開して、零香は辺りを把握するべく動いたが、念入りに辺りを探り廻っている内に、妙な事に気付いた。

タイルの溝に妙な間隔がある事は、ホールに入ったとき、既に気付いていた。等間隔でホール中にずっと並んでいるそれは、何かを思わせる。具体的に何かは特定できないのだが、妙な胸騒ぎを感じるのだ。危険なものではないと思うのだが、しかし嫌な予感がずっと消えない。

明かりを付けるのは好ましくない。真上に利津がいないのは感覚拡大キューブを展開した結果分かっているが、それでも近くにいたら気付かれる可能性が決して低くないし、気付かれると面白くないのは桐も同じだ。だから、限定された明かりで調べるしかない。

手の甲で軽くタイルを叩いてみると、少し反応が軽い。下にみっしりコンクリや土が詰まっている反響音ではない。分厚いガラスか何かのような。近くに明かりが差し込んでいる場所があったから、其処へ赴き、埃を丁寧に払っていく。ガラスだ。確かに分厚いガラスで……その下には棺桶くらいの空間と、機械類の残骸と、何か良く分からないものの残骸が見える。黒ずんだそれは、墨の固まりのようだった。バラバラに崩れていて、原型は分からない。きっと相当に古いものなのだろう。これがあっちにもこっちにも、全ての場所に延々とあると言う事は……。

零香には、この場所の正体がだいたい分かった。ため息も出ない。この分だと、ひょっとして原型を保ったものもあるかも知れないが、みたいとも思わない。埃を払うと、出来るだけ音を立てないように立ち上がる。不安を反映してか、神衣の耳はひっきりなしに動いて、音のない空間の音を拾おうとしていた。

色々な状況証拠から、今までにも零香にはうっすらと枯湖の正体が分かっていた。ただしそれは、あくまで仮説の段階に過ぎなかった。だが今日発見したここが、零香の思うとおりの場所だとすると、その仮説は現実だという事になる。もしそうなってくると……零香は巨大な墓所の上で、今までずっと戦い続けてきた事になる。まだ桐や由紀には黙っているべきなのだろうと、零香は思った。戦いが終わってからでも、仮説のお披露目は遅くない。

地下街を戻る。この様子だと、この地下街は一度も使われなかったのかも知れない。あのホールは、コールドスリープセンターであろうから、ひょっとするとそこから目覚めた人達が利用するための無人施設であったのかも知れない。多分供給電力は切れてしまっただろうし、天井があの有様だとシェルターとして役に立ったとも思えない。未来の希望を抱いたまま苦しまずに死ねたのか。或いは自分たちだけ助かろうとして自業自得の死を遂げたのか。それすらも、今となっては分からない。

適当な亀裂を見つけたので、地上に戻る。登るなどと言う無粋な事はしない。穴の縁へと跳躍して飛びつく。顔を出してみると、さっきから随分離れた場所であった。慎重に外をうかがうと、鏡の原の真ん中で、近くに身を隠すものがない。幸い利津は遠くで、桐からは中央の残骸を挟んで死角になる。さっさと全身を持ち上げ、陽光の下へ躍り出ると、身を低くして疾走する。

穴の中で見たものは忘れる。知った事も今は置いておく。

ひょっとすると、まだ旋回を続けている利津は穴の中に見たのかも知れない。さっき零香が見た以上に、知らない方がいいものを。

それはもういい。他の神子を殺す事に、全神経を集中する。一気に研ぎ澄まされていく殺気の中、零香は走る。全身これ一個の武器として。

地下に縦横無尽に張り巡らされたこの通路と、それに利津の火力を逆利用し、更に白虎戦舞をあわせれば、勝機が見えてくる可能性がある。それには、入念な下準備と、工作が必要不可欠であった。

 

旋回を続ける利津は、この地形が想像以上に自分に対して有利な事に気付いていた。

利津の武器は全神子中最強の火力であるが、ついで優れているのが視力である。そしてそれを最大限に生かすのが、無数の鏡散らばるこの戦場だと理解していた。更に、優れた利津の視力は、この戦場の地下に空洞が縦横無尽に走り、数発の火球を叩き込んでやれば大きく崩落する事も見抜いていた。

その有利を確保するためにも、敢えてまだ攻撃はしない。それに、火力を出来るだけ温存し、負けたときに備える智恵を、今の利津は当然のように身につけていた。

体の周囲に展開しているのは、いつものようにフライトサポートとガーディアンバードとベクトルチェンジャー。これらの攻撃ベクトルを反らす術をメインの防御手段として、視力を駆使して敵を探す。厄介な遮蔽物となるビルは近辺にはなく、間合いから考えて零香はもう少し近づいてこないとならないから、俄然有利だ。

だから、挑発には乗らない。後怖いのは桐の対空機雷だが、それに関しては防御手段がないから、ふらふらと左右に不規則に揺れ続ける事で、どうにかかわすしかない。零香を倒したら桐と直接対決しないとならないが、それに関して今回利津には秘策があった。

お姉ちゃんの手術代が、目に見える形で溜まり始めている。生活も豊になってきて、生活状況も改善しつつある。未来と光は近い。だからこそに、一回一回の戦いを大事に勝っていく。桐は正直手強いが、ドラゴンインパクトに対する対抗策として開発して、結果別物として出来上がったあの術を試せば、初回は勝ちをもぎ取れる可能性がある。最近は桐との戦いそのものを迂回する傾向がある利津だが、「初回だけでも勝つ」という事の重要性は良く知っている。参加率が低いのだからなおさらだし、それから攻略法が見付かる事も少なくないのだ。

そのためには、まず零香を仕留める必要がある。桐を倒しても、疲弊した所を零香に仕留められては意味がないからだ。それならば弱い強いではなく、防御力が桐に劣る零香を先に攻撃し、倒しておかないと危なくて仕方がない。

零香は今回も工夫を凝らした戦術を駆使してくるはずで、絶対に気は抜けない。多分零香も、遠距離攻撃火力が希薄な桐を後回しにしようと考えるはずで、そうなると高確率で最初に衝突する事になるだろう。何時仕掛けてくるか分からない、虎を猟銃一丁で探す猟師の緊迫感が、利津の全身を包む。

空高く舞う朱の神子は、緊張に胸を締め付けられながらも、それでも落ち着きを失わなかった。如何にこの精神力薄弱な少女が、一年以上の戦いで成長したかは、これだけでも明らかであった。冷や汗を拭いながら、辺りをひっきりなしに見回しつつ、ワンパターンにならないように慎重に飛ぶ。以前桐が対空機雷を初めて身につけた戦いで、いつのまにかワンパターンに飛んでいた利津は、四キロも先から見事に叩き落とされた。同じ轍は二度と踏まない。零香に喰らった戦術だって、同じ手は二度喰うものか。

自分に言い聞かせながら、慎重に高度を取りつつ、地形を頭に入れる。零香の事だから、地面の下に縦横に走る空洞を多分利用してくる。どう利用してくるかは分からないが、視力を最大限に生かし、少なくとも見える範囲は警戒しておかないと危険すぎる。

来たな、と利津は思った。ビルの一つが煙を上げながら崩れていく。高度を上げながら、作った火球を四つ、其方へ叩き込む。更に念のため、周囲にもう幾つかの火球を連続して叩き込む。三つは手近に残したままである。火球が炸裂し、崩れかけたビルが吹っ飛び、そして同時に、戦場の複数箇所から煙が吹き上がった。地下空間に、火球の爆発が吹き込んだらしい。妙な胸騒ぎを覚えた利津は、もう少し高度を上げようと思ったが、飛行速度が兎に角遅いのがこの神衣の特色だし、あまり急角度には上昇できない。それでも予想される危険を避けるべく上昇を続ける利津の視界の隅で、ガーディアンバードが一斉に動き始めた。

まずい。

慌てて振り向く。

目に狂気を湛え、半笑いを浮かべた零香が、ロケットのように飛んできている。何が起こったか分からないが、全身煤だらけの傷だらけである以上、今の爆発の何らかの影響を受けたのは間違いない。間違いないのだが、しかし一体、どうやってこんな高度まで。慌てて迎撃の火球を放とうとするが、もう遅い。連鎖爆発するガーディアンバードを、まっすぐ突っ切った零香は、手にしていた四メートル近い鉄骨を、槍のように百メートルという空前の至近から利津に投擲してきた。避ける術も、防ぐ術も、逃げる術もない。唸りを上げて、巡航ミサイルのように飛来した鉄骨は、遠から近へとコンマ一秒の間に転変した。

血が盛大に噴き散った。脇腹から背中に鉄骨が抜け、利津の小さな体を殆ど真っ二つにしたのだ。

感覚が断絶し、体が傾く。薄れる意識の中、利津は零香がどうやってこんなに高く飛んだのか分かった。多分一つは狂気でのリミッター解除、それによる能力の爆発的な上昇。もう一つは、圧搾空気を使ったロケット噴出だ。

地面に到達する前に、もう利津は消えていた。次は負けるものか。それが、消える前の、最後の思考だった。

 

地面がめり込み、反作用が巻き起こる。瓦礫が吹き上がり、弾き散らされ、舞い上がってから落ちてくる。

艦砲射撃のような轟音と共に着地した零香は、全身の痛み、特に足の痛みに思わず呻いていた。利津が今際の際にはなった火球が辺りに炸裂、爆音が三カ所から同時に響き、遅れて爆風が届く。零香の着地した辺りはクレーター化しているが、其処へ鏡の破片が無数に吹き込んできた。狂気が急速に醒めていく。視界の広がり、感覚の広がりが収まり、徐々に自分の大きさに相応しい感覚が戻ってきた。

地下通路を走り回って、幾つかの道を瓦礫で封鎖して。そして最初から目を付けて置いた廃ビルの支柱を、コンクリ片の投擲で粉砕。その地点へ火力を集中させる。結果何が起こったかというと、地下に叩き込まれ、逃げ場を無くした爆圧が、地下通路の中を駆けめぐり、最終的に出口のある一点に集中。白虎戦舞一式を使って跳躍した零香の背を、即席のジェット気流となって突き飛ばしたのである。そうして零香は傷だらけになりつつも六百メートル近く跳躍、火の鳥の術の防衛火力に晒されながらも利津の至近へ迫り、一撃を叩き込んだのだ。

利津に勝ったのだから、まだまだ安い代償だと言える。足の骨はかなり様子がおかしいし、全身かなり深い傷の展示場だが、それでも動けるだけマシだ。火傷に突き刺さった鏡の破片を引き抜くと、着地の際に足の裏に突き刺さり、足の甲へ抜けた鏡の破片を引き抜く。痛い。血が垂れ落ちる。眉をひそめながら、最後の大きな破片、脇腹に刺さって小腸を傷付けている一個を一息に引き抜いた。噴水のように血が噴き出すが、筋肉を収縮させてせき止める。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、は、あ……」

呼吸がなかなか戻らない。横隔膜の負担が、はっきりと分かるほど、肺が酸素を必要としている。でもどうにもならない。どうにかして、肺に酸素を送り込むしかない。利津の強烈な火力によって、燃やし尽くされた周囲の空気から、必死に酸素をかき集める。痛みよりも、正直これの方が辛い。酸素の欠乏が、脳をせかす。

どうにか落ち着いてきた零香は、この時ばかりは金の属性を持つ自身を呪う。回復の術も今まで何度か考えたのだが、水の属性を持つ桐や、再生の属性を持つ利津はともかく、金属の属性を持つ零香とは相性が悪すぎて実用には移せなかった。その分身体の再生速度は驚異的なレベルなのだが、しかし神子相争で実用化できるほどではないのもまた事実。

あんまりもたもたしていると、桐がどんな手を打ってくるか分からない。色々と関わってきたから良く分かる。あの子は強い。今はたまたま勝率を高めのラインで維持しているが、新しい術の誕生でいつどう転ぶか知れたものではない。

歩き出す。後には血の足跡が出来た。どうせ桐には気付かれているし、この時点で身を隠しても仕方がない。むしろ小細工を避けるために、まっすぐ桐の元へ。白虎戦舞一式は、もう一回だけならどうにか使える。力自体はまだ余っているのだが、しかし使えば体の方がもうもたないだろう。使うなら、タイミングと呼吸の調整が絶対条件だ。どうした事か、こんな単純な思考しかできない。白虎戦舞一式は、確か二回は使おうと思えば行けたはず。行けた、はずなのに。

右足は腿にも火の鳥の直撃を受けたから、殆ど感覚がない。左足は骨の罅が露骨で、一歩歩くたびに鈍痛が走った。紅い血の糸を引きながら、零香は桐の前に立った。両者の距離、およそ三十メートル。間にあるのは、鏡の破片が散らばる無人の野。どうにか辿り着けた。そのまま直線距離に地雷を置いても多分踏まないだろうと判断したのか、或いは。

利津の火球が作り出した煙が、ほぼ拡散しきり、辺りの視界は良好だ。案の定百足ロボットは粉々に吹っ飛んでおり、跡にはクレーターと大穴が残っていた。

クローの術を唱え直し、左手を前に、クローを顔の横に引きつけるように。腰を落として、尻尾を揺らしながら構える零香。周囲に五つの盾を展開している桐はあくまで笑顔のままだ。至近に火球が炸裂したばかりだというのに、涼しいものである。

眼鏡を外し、真横へ放り捨てる。力を完全解放する、自分に言い聞かせる儀式のようなものだ。辺りは桐が仕掛けた時限式地雷の巣になっているのは間違いない。本当なら周囲を回って攪乱して攻めたい所なのだが、もう体力は殆ど残っていないし、気力も同様。この状況で時限式地雷の直撃を受けたら確実に落ちる。更に言うと、白虎戦舞が切れたら、もう桐に殴り殺されるだけだ。お得意の策を使う暇は与えない。圧倒的な力を駆使して、ぶっ潰す!単純すぎる思考が、頭を支配している。

じりじりと間合いを詰める。痛みを押し殺して、必殺の距離へと進む。白虎戦舞を使うにはまだ少し遠い。あの術は理性が吹っ飛ぶ分論理的な思考も失われるので、至近まで迫るか単純な戦術を駆使して挑める状況でないと、危なくて使えた物ではないのだ。身動き一つしない桐へと、もう一歩踏み込みかけたその時であった。

殺気を感じて飛び退く。地面を突き破って、盾の一つが躍り出てきた。対応しようと更に下がろうとした瞬間、飛びずさった地面が炸裂した。しまった。口の中で呟く。下に空洞がある事を、把握しているのは零香だけではなかったのだ。多分地下通路の天井に時限式地雷を仕掛けたのだろう。爆風自体は大したことがなかったが、吹き上がる無数の破片が零香の体中を更に傷付けた。

「く、ううっ!」

ガードはするが、全身の痛みと、猛烈な疲労が、注意力を削ぐ。神衣を付けた状態にもかかわらず、三半規管が悲鳴を上げて足下がふらつくなど、いったいいつぶりの経験か。緩慢に崩壊していく辺りの地面。左右に飛び退けば多分地雷の餌食。取る手は一つしかない。このまま白虎戦舞で正面強行突破だ。フリスビーのように飛んでくる盾をクローで弾き上げながら、神輪に触れようとした零香は見た。自分に向け、飛んでくる十手と、突撃してくる桐を。陣を出て自ら突撃してきた桐に、意表をつかれ、それが決定的な敗因となった。

心臓に向け飛んでくる十手は、どうにか返す刀ではじき飛ばすが、突撃してくる桐の手にはもう一つの十手があり、更に真上からはもう一つの盾が唸りを上げながら落ちかかってきていた。普段なら必勝の好機だが、残念ながらもう余力がない。

桐の十手が腹に突き刺さり、肝臓を貫通して脊髄を傷付ける。その繰り出された右手を叩き落とすのが、零香に出来た最後の悪あがきだった。悪あがきだと、自分でも分かっていた。桐はそもそも、最初から片腕を捨てる気だったのだ。腕を切り落とされた桐は、無言で下がりながら、盾に潰される零香を見た。残った盾が、零香に一斉に殺到して、重量で押しつぶして身動きを封じる。普段なら屁でもない重量が、絶対の拘束具となって零香を縛り上げた。詰みであった。

「利津さんとの戦いで貴方が見せてくれた戦術を、逆利用させて貰いました。 普段の零香さんならとても引っかからなかったでしょうが……」

「そうだね……疲労も大きかったし、それに。 強力すぎる切り札を下手に手に入れると、却って良くないね。 はは、ヘボ将棋、王より飛車をかわいがり、か……」

「い……った。 でも、それでも片腕持っていくのは流石です。 貴方は、本当に楽には勝たせてくれませんね」

零香が叩き落とした右腕の傷口を押さえ、痛みに柳眉をしかめながらも、微笑んでいる桐の姿がぼやけていく。まあいい。副家との最後の戦いに向けて幸片を余分に確保できなかったのは残念だが、桐だって今は大変な時期だ。

意識が落ちる。負けるときは、いつも悔しい。だけど、零香はこの感覚が嫌いではなかった。

今までに二十回以上負けたが、負けると言う事はまだまだ向上の余地があると言う事だ。全てに置いて、零香はまだ極めて等いない。まだまだ強くなる事が出来るスペースがある。勝率が百%になどなってしまったら、きっと白けてしまうだろう。或いは、その時に来るのは、多分父さんと同じ、人間からの脱却だ。

零香はそうならないと、父の言葉を聞いて決めた。将来、そうなるとしても、まだまだそうなるつもりはない。

目が覚めると、ベットの上だった。

 

草虎は蛍光灯の少し下辺りの高度がお気に入りのようで、暇さえあればいつもそこに浮いている。今日もそこで滞空しながら、零香を待っていたのだろう。零香が半身を起こし、岩塩のスティックを手に取るのを見ながら、アノマロカリスによく似た神使は言う。

「お疲れさま」

「……残念。 白虎戦舞に、あんな欠点があったんだね。 頭が完全に冷えた今なら、良く分かるよ」

「自力で気づけたのだから、良しとすべきだ。 それと、使えるようになってきたからとは言え、まだ多用は禁物だ。 現実世界にまで影響を及ぼしかねんぞ」

「うん、気をつけるよ」

あの時、零香の思考はとんでもなく単純になった。原因は分かりきっている。一つは利津の猛攻によって辺りの酸素が欠乏し、それによって脳細胞が疲弊したためだ。もう一つの要因は、狂気によってリミッターを解放した事による、脳細胞の強烈な消耗だ。脳細胞が減ったのではなく、物凄く疲れたのだ。言葉にすると簡単な事にも思えるが、そうでもない。今まで最長で二時間半の戦いを経験した事があるが、その時でも此処まで消耗しなかった。普通の人間なら、フルマラソンをこなしたか、サッカーの試合にフォワードとして二本連続フル出場したくらいの疲労に相当するだろう。

身体へのダメージを気にしすぎていて、精神へのダメージは失念していた。今まで露見しなかったのは、あくまで切り札として最後に使っていたと言う事が大きい。今回は戦いの中盤で一番手を仕留めるために用いたため、しかも相手があの桐だったため、最低の意味での弱点が露出したのだ。零香は激しい戦いをこなしてきたが、長期戦に関しては経験が少なすぎた。今回は良い経験になった。二度と同じ失敗はしない。

もうあのような使い方をする気はない。使った所で勝ち目はないし、精神の方へ悪影響がでる可能性も決してないわけではない。岩塩のスティックを囓る。いつも以上に、これが美味しい。

しばしして。敗北の分析があらかた済んだ所で、零香は話を不意に切り替えた。

「今回の戦場って、ひょっとして、コールドスリープ施設の上か何か?」

「その通りだ。 良く分かったな」

「うん。 わたしは確認できなかったけど。あの中にはひょっとして、原型が残った死体とか入っていたりもしたの?」

「それはありえない。 ……まあ、理由については、神子相争が終わってから話す。 いずれ分かる事だから、今は詮索するのは止めておけ。 無駄な精神負担を背負っていい状態ではないだろう」

草虎の言葉は正論だ。しかし、知りたいのはまた事実。かまをかけても、きっと草虎は話して等くれないだろう。零香が幾ら戦闘経験を積んでも、草虎のそれは次元が違う。何しろそういった神子を、何十人となく育て上げてきた奴なのだ。

「じゃあ、独り言を言うね。 独り言だから、応えなくても良いよ」

「……」

「わたしたちが戦っているのは、未来か、或いは並行世界。 きっと人類が核戦争で滅んでしまった場所。 わたしたちがどうしてそんな所で殺し合いをしているのかは分からないけど、それはあの世界を元に戻すのに必要な事だから」

草虎を見て、にっと笑う。草虎は何も言わなかった。

岩塩のスティックを囓り折って、口の中で砕いて潰す。舌なめずりして、唇の周りについた塩の結晶を口の中へと運びながら、零香は窓を見た。

外に輝く月は、ただ丸く、そして明るかった。

「ねえ、草虎。 明々後日の副家との戦い、頑張るよ。 会議に負けたら負けたで、それでいい。 それでも、幸せになれる方法を、わたしは探す」

「それでこそレイカだ」

「ふふ、ありがとう」

独り言を聞いてくれた草虎に礼を言うと、零香は電気を消して、布団に潜り込んだ。激しい殺し合いの後だというのに、寝顔は純真で安らいでいた。

決戦はもう、間近にまで迫っていた。母さんはまだ帰って来れないが、帰ってくる事が出来る環境が整うまで、後一歩であった。

 

4,月下の決戦

 

決戦の当日は、朝から忙しかった。家の行事があると言う事で、新学期になったばかりの中学校には、三日月氏から電話を入れて貰って休んだ。そして朝の内に体をきれいに洗い、紋付き袴に着替えると、少し多めに来て貰っているお手伝いさん達の前にでる。正装で勝負服の零香の迫力は、自然と彼女達を圧倒した。

会議は昼過ぎから。この時はどんな仕事がある人間も、それを置いて来るのが一族のしきたりになっており、それをやぶると分家としての権利を剥奪される。

分家の者達が次々に集まってくる。老若男女、さまざまな姿形。太っていて、痩せていて、長身で、短躯で。交通手段もさまざまだ。ある者はタクシーで、ある者は自家用車で。分家の中でも一番財力に劣る銀月冬樹(ぎつきふゆき)氏などは、自転車でやってきた。

零香の忠臣となっている嬰児は、重役二人を伴ってきた。これは零香に顔を売らせようと言うのと同時に、会社の用事が発生したときの予防措置でもある。二人は名刺を恭しく差しだしてきたので、零香も完璧なマナーで受け取った。ビジネスマナーの師匠は、桐だ。

続々と詰めかける分家の人間には、家族を伴って来る者も多く、お手伝いさん達は皆大忙しだった。彼女らを率いて全く滞りなかったのは、零香の手腕の見事さを示しており、それだけで分家の者達は零香に対する視線を改めていた。駐車場や席次の手配もきびきびとしていて、指示という点では年長者の山崎女史でさえ出る幕がなかったほどである。冬樹氏も丁寧に自転車を扱って貰ったばかりか、零香に直接出迎えられて、満足げに居間へ向かった。ただ、どの分家も、この程度で副家よりの姿勢を崩したりはしないだろう。今の時点では。

今日は、中月や三日月は参加する権限を与えられていない。だから彼らには、結果を後で電話で伝える事になる。実は、内輪で既に中月も三日月も、林蔵の復活を知っている。林蔵の復活を聞いた中月安司は涙を流して喜び、電話の向こうで大騒ぎした。そして身一つで駆けつけてきて、林蔵の大きな手を取って何度も良かった良かったと言った。三日月坂介も昨日本家に来て、林蔵の姿を見て涙を流して喜んだ。彼らの嬉しそうな顔を、零香は良く覚えている。それは大きな力になった。

状況が一段落したので、零香は本家本殿の宴会用居間に皆を通し終えると、奥の間で一息ついた。岩塩スティックを囓りながら、奥の間で既に正装に着替えて待機していた父と最終的な打ち合わせを行う。

銀月本家に人が集まるのは、一体何年ぶりになるのであろうか。少なくとも零香が知る限りでは、幼稚園以来である。一族の集まりというものは、大体本家ではなく、市立の体育館や公民館を借り切って行う事が多い。というよりも、本家で行う集まりというのは、一種神聖視されるものであり、それだけで価値を持つものなのだ。

元々銀月の本家というのは、あくまで黒幕に徹した存在であった。だからこそに、本家での集まりと言うだけで、分家の者達は襟を正す。実戦で鍛え抜かれた零香は、最近では虎のような眼光で相手を威圧できるようになっており、その気になれば大人を一喝で黙らせる事も可能になっていた。だが、そう言う事を普段から行うと、却って求心力の低下に繋がる。普段はにこにこしておいた方が良い。いざというときに、鬼神のように荒れ狂えばよいのだ。

料理が既に上がっている事を確認した零香は、もう一度頭の中で作戦をおさらいしておく。どうせ副家も色々と作戦を練ってきているのだろうし、おあいこだ。厨房を覗くと、第二段階の料理はほぼ仕上がり、第三段階の料理に山崎女史が取りかかってくれていた。零香が入ってきた事に気付いた山崎女史は、笑顔で言う。

「御令嬢、料理はもう出しますか?」

「そうですね。 指定しておいた順番通りにお願いします。 軽く食事をしてから、会議という流れに行きますので」

「はい。 かしこまりました」

山崎女史の返答に満足して頷きながら、零香は居間に上座からはいる。あかねという名を持つ山崎女史は最近知ったのだが、あの学園の暴君山崎少年の叔母だそうである。田舎の人間関係は狭い。

一斉に零香の方へ皆の視線が集まった。それを完全に受け止めた零香は、無言のまま本家三席の、左座に座る。中央が父の席、右が母の席だ。

宴会用の居間は縦長のつくりになっていて、上座から下座まで三十人ほどを収容できる。旧家とは言え、かなり広い部屋だ。床は当然のように畳。食器類は倉から出してきて、足りないモノは買ってきた。食材類は何カ所かに分けて大量に注文し、一つ辺りのコストを下げた。総合的なコストは結構掛かったが、この辺りは銀月本家の蓄えから出す事が出来たし、それで揺らぐような柔な家でもない。また、本家での会議を行うときは、分家皆で財産に応じて費用分担を行うルールが昔からあり、本家だけが多大な犠牲を払うわけではない。

ナンバーツーの宗吾と、ナンバースリーの嬰児が向かい合うように座り、後はそれぞれの分家の代表者達。ここまでの順番が厳格に決まっている。自由なのはその後で、代表者達の家族は、その下座にめいめい勝手に座る事が許されている。このため、和服、しかも黒い袴で統一している上座と、服装もスーツが基本とはいえ雑多な下座は露骨な差が出る。この辺りは、昔の人の権威付けの工夫である。

全員が揃っている事を確認した零香は、本家代表代理としての貫禄を余すことなく声に乗せながら、言った。

「本日一族会議司会を務めさせて頂きます、本家代表代理の零香です。 皆様には日々多大な世話を受けている若輩者ですが、この様な日の司会を務める事が出来感謝の言葉もございません。 大事な話は後にして、まずは皆様、馳走に舌鼓をお打ち下さい」

合図通りにお手伝いさん達が入ってきて、食事を配膳する。最初の料理は軽い前菜ばかりで、子供用には菓子も用意されている。これは会議の後の宴会に、酒が入るためである。

零香の膳には白菜の漬け物と胡麻豆腐、それにほうれん草の胡麻和えが乗っていた。他の人の膳も似たようなものである。人は食事を行うと大なり小なりリラックスする。今日は重要な会議だから、子供はあまり多くないし、実際に会議が始まると席次の低い人間は別室で宴会を行う事になる。つまりこれは、開始を告げるデモンストレーションに過ぎない。

零香が箸を割り、白菜の漬け物を口にする。本家の代表者が食べ始めるのが、食事をして良い合図になる。早速皆食事に手を付ける。全員まだ正座だが、これはこの前菜自体が儀式であるためだ。後半の酒が入る宴会になってくれば、足を崩して楽座にしても良い事になっている。

さまざまなしきたりが、こういった宴会にも存在している。ただし、銀月ではその裏に秘めた性質が性質であるために、実用的なしきたりばかりである。ただ、零香の好みの味に比べると、何とも塩分が少ない。まあ、こればかりは、今日は我慢するしかない。

やがて前菜が終わると、零香が箸を置く。これが合図で、下座の人々は皆退出し、頭を下げて別室に移る。彼らが戻ってくるのは、会議が終わった後だ。一気に静かになった居間には、零香を含めて八人の人間が残った。いずれも本家決定権を持つ、「銀月」の名を持つ事を許された分家の者達だ。中月や三日月は分家でも、この中には入っていないので、今日は参加していないのである。

邪魔者がいなくなった所で、零香が口を開く。右手に座っている副家の目にはどす黒い隈があり、呼吸も心なしか荒い。前菜も、殆ど手を付けていなかった。ひょっとすると、食べたくとも食べられないのかも知れない。さっきも、始まる少し前に、胃薬を服用しているのを見た。

「さて、今日の議題ですが……」

わざと零香は途中で区切る。苛立ちはないし、憎しみもない。これは単なる演出だ。

「副家を本家の任に付けるべきだというものです。 この件については、わが父の不予が長く続いた事で、皆様にも不安を抱かせてしまった事が原因かと思われますし、本家としても慚愧にたえません」

我ながら白々しいと、自分で言いながら零香は言う。どうやら嬰児辺りは演技臭い事に早くも気付いているらしく、時々零香の顔からむっつり黙り込んだ宗吾へと視線を移していた。

「分家の皆様方も、副家の宗吾さんがわが父林蔵よりも当主に相応しいと思われている事でしょう」

此処で一度言葉を切る。表情を一切変えずに零香が見回し、思い当たる節のある人間や、宗吾に買収されている者は、みな視線を逸らした。心配そうに嬰児が見る中、零香は大逆転劇の幕を開けた。

「さて、面白い情報をわたしはこのたび入手しました。 此方をご覧下さい。 これはさるルートから、わたしが入手した文書です」

演出たっぷりに指を鳴らし、指示通りに襖を開けた山崎女史から、コピーして置いた書類を受け取る。そして分家の者達に配り終えた。小首を傾げながら文書を見ていた、分家の者達が震え始める。蒼白になり、顔を最初に上げたのは宗吾だった。

「こ、こ、こ、これはっ!」

「宗吾さん。 貴方ここ数年ほど、給料の殆どを何かにつぎ込んでいましたね。 それは其処にある借金の返済でしょう。 しかもそれでも返しきれずに、最近は利子の督促に追われていた。 その借金、一体どうして作ってしまったのですか」

さるルートも何も、これは零香が自分で忍び込んで見つけだした書類の写しだ。宗吾はここ数年、ずっと借金を返し続けているのである。個人としては少し金額が大きすぎる、不可思議な借金を。自身の貯金も切り崩して、殆ど残っていない。何人かいた愛人も皆離れていっているが、それは宗吾の豹変もさることながら、金回りが露骨に悪くなったからだ。この手の水系の女は、金の無い男には興味を見せない。

「そ、そ、それは、そ、その」

「嘘だと言えばいいのに。 自分自身の態度で、それが本当だと証明してしまっていますよ」

零香の容赦ない追い討ちが、この事態を想定していなかったであろう宗吾を打ち据える。多分宗吾は、誰が裏切ったのかとか、今はどうでも良いはずの事を必死に考えながら、文字を追っているのだろう。分家の者達は蒼白な顔を交わしあい、宗吾から僅かに身じろぎしつつ離れようとしている。

やはり何かあると、零香は直感した。戦い始めた頃の宗吾は、もっと冷静で、もっと手応えのある人間だった。この書類がどうかしたのかね、と冷静に言う事も零香は想定していた。これと議題に何の関係があるのかねと、すっとぼけられる可能性も想定していた。しかし、宗吾はもっともわかりやすい形で自滅への坂を転がっている。

長い戦いの間で、駆け引きを学んだ零香にとって、少し物足りないが、別に構わない。零香は指を鳴らして、次の書類を持ってこさせた。

「そして、これもさるルートから入手した資料です。 是非お目をお通し下さい」

「こ、これは陰謀だ! こ、この資料が本物だという証拠など、何一つ無い!」

「何一つ無いなら、見ても何一つ問題ないでしょう。 御令嬢、私は興味があります、是非拝見させて頂きたい」

「勿論、見る見ないは各人の自由とします。 どうぞご閲覧を」

ようやく蒼白な顔で効果が見込めない反撃を始めた宗吾に、嬰児がぴしゃりと言う。それに被せるように零香が言うと、皆がおいおい書類へ手を伸ばした。それを見て、慌てながら宗吾も書類を取った。

零香は知っていた。いざ会議に持ち込まれてしまえば、どうあっても勝ち目がない事を。だから会議に持ち込まれる前に、分家の人間が揃った所で、宗吾の動機を表に晒し、その野望を木っ端微塵に砕く必要があったのだ。それはいうならば、スタートラインで対抗走者の足を引っかけていきなり転ばせるようなものであった。コースをどう走るか一生懸命考えていた走者は、為す術もなく狼狽えるしかない。本当だったらそんな事で即座に勝てるような相手ではないのだが、しかし。ともかく、今は宗吾の後ろで糸を引いている奴の思惑に乗ってやるだけの事だ。一族会議で、容赦なく宗吾を叩き潰しておき、自身の膝下に組み伏せておく。

書類の中身は、宗吾の呆れた行動の証拠であった。いかがわしい会社との取引の結果と、それによって生じた莫大な損失が克明に書かれている。

「よりにもよって、会社の金をつぎ込んでの先物取引ですか。 しかも大幅な赤字を出して、回収が不可能になっている。 無様な……宗吾さん、慎重な貴方らしくもない。 どうしてこんな暴挙を?」

「う、うそ、嘘だ! こんな、こんな書類はうそっぱちだ! あ、あり得ない、あり得ない! 大体、何処から入手したんだ!」

「見苦しいだけですよ、宗吾さん。 さっきからの貴方の態度が、全て真実だと証明しています」

よりにもよって、親副家派分家の最長老である銀月典侍(ぎつきてんじ)氏がいい、他の者達もうんうんと頷く。少しさめかけた茶を啜ると、禿頭の典侍氏は言う。目元には計算高げな皺がガラスの罅のように浮かんでいた。

「こうなると、宗吾さんがどうして本家を乗っ取る事に執念を燃やしていたか分かりますな。 なるほど、本家の保有する土地を売り払って、この借金をもみ消すつもりだったのですか」

「状況証拠から、そうなるでしょうね」

実は自分が言うつもりだったのだが、この位の第三者のアドリブはありだろう。それに、一見好々爺にも見える典侍は、実は絵に描いたような古狸だ。計算がなければこんな事はしない。零香は典侍氏に軽く一礼すると、宗吾に向き直った。

「副家当主宗吾さん。 貴方の主張の一つはこれで崩れました。 貴方が銀月当主に相応しくないのは、この様なスキャンダルが中学生のわたしに、簡単に露呈してしまう事からも明かです」

「い、陰謀だ、陰謀だ、これは、陰謀だ」

「部下の失態を上司に報告するのは、陰謀でも密告でも何でもありませんよ。 貴方は最初から、本家に失態を報告すべきだったのです。 例え、息子さんと娘さんのために、将来の資金を作ろうとしたのだって、ね」

「ほう、それはそれは……」

零香の言葉に、冷や汗をかいたままの宗吾は、かっと目を見開いて、会議に座した者達をねめつけた。今の反応から、典侍がこれを知らなかった事も分かる。直に忍び込むというのは危険も大きいが、この様に得られるものも大きい。零香は宗吾の様子を見て、とどめを刺しに掛かった。

「信頼していた重役の甘言に乗ってしまい、気付いたら重役は有り金を持って逃走、自身は借金を抱えていた。 確かに恥ずかしい事ですが、それをきちんと上役に報告して処分を待ってこそ、組織内での人間です。 旧家と言えど、それに替わりはありません。 社長として企業を切り盛りする間に、それを忘れてしまっていませんでしたか」

「し、しらん。 そ、そんなこと、そんな陰謀、それに、それに! それに本家の当主は何をしている! 林蔵殿は何をしている! まだ中学生の娘に全てを任せて、自身は何をしているというのだ! わ、私が当主にならなければ、本家はこの、中学生の女の子が仕切る事になり、我らも全員……」

「私は構いませんが、ね。 零香さんの器量と力量はここ一年少しで、皆さんいやと言うほど見てきていると思いますよ」

「そうだな。 これだけ見事に会議を纏めている所から言っても、私は不足がないような気もするが」

「分不相応のお言葉、若輩者として汗顔の至りです。 しかし、皆様は一つだけ勘違いをしております」

零香の思わぬ言葉に、場がしんとなる。半分は期待に、半分は興味に。一人は恐怖に満ちていた。宗吾の正論が、完全に吹っ飛んでしまうほどに、零香の言葉はこの場における支配権を確保していた。

「銀月当主は、現在不予になど落ちてはおりません。 当主、どうぞ座に」

「うむ」

「ひいっ!」

林蔵の野太い声がしただけで、宗吾は悲鳴を上げていた。襖を開けて、二メートルを超える林蔵の巨体が場に入り込んできただけで、宗吾は逃げ腰になっていた。逃げ腰になった老いた栗鼠などには興味もないと言った風情で、人中のティランノサウルス=レックスは、堂々たる大音声で皆に言う。

「皆の者、迷惑をかけたな。 ここ一年としばしの間、どうしても外す事が出来ない事情により、当主としての仕事を滞らせてしまった。 我が娘たる零香にも多大な迷惑をかけた。 しかし、今後はそのような事がないと約束しよう。 これからも銀月本家をもり立てて頂きたい」

「あ、頭をお上げ下さい、御当主」

恐縮しきって頭を下げる典侍。零香は心中で一息ついていた。これで勝負はついたからだ。

策を立てたのは確かに零香だ。しかし林蔵の圧倒的な威圧感は、まだまだ零香の及ぶ所ではない。上座には恐竜が座ったに等しく、幾ら百戦錬磨といえども人間に過ぎない者どもは萎縮するばかりであった。ましてや、不予などという言葉を並べ立て、恐竜を侮辱しに掛かっていたものはなおさらである。

場の雰囲気に、とどめを刺したのが、林蔵の一言であった。

「さて、会議の題材はなんであったかな?」

誰も、本家の交代選挙だ等とは言えなかった。いわゆる大人の対応にて、その場では皆が言葉を濁し、会議は始まる前に流れてしまった。

さて、問題は此処からだ。幾ら何でも簡単すぎると、零香にも分かる。今まで裏側から散々下らない嫌がらせをしてきた奴が、こんな位で黙るわけがない。会議が終わった事になり、流れでそのまま宴会に移る居間を後にすると、零香は自室に戻って勝負着から普段着に着替えた。ここから先は肉体年齢的に大人の時間だ。零香は零香で、別にやる事がある。

そのまま窓から外にでて、屋根に這い登る。そして屋上に張り付いて気配を消し、皆の会話を拾いに掛かる。不審者がいないか調べるためだ。淳子ほどではないが、零香の聴力も相当なレベルである。知っている人間限定なら、この屋敷の中で動き回る限り殆ど一挙一動を拾う事が出来る。

ただ、妙なのだ。宗吾は自席で呆然としており、固まっている。もし零香が宗吾を使って何か企んでいるのなら、必ずこの時点で動かす。屋敷の外なりなんなりで、携帯を使って連絡を取らせて……。

天啓がひらめく。屋根裏を出て外へ。ひょっとすると、宗吾の側に誰かしら使える人間を張り付かせている可能性がある。そうならば、会議の結果を見た其奴が、何かしらのアクションを起こすはず。不審な動き、不審な会話、不審なバイタルサイン。何でも良い。どっちにしても、ここに来ている人間が、外にいる人間へ何かしらのアクションを起こさないと、次の手は進まないのだ。その初動さえ拾えれば、まだ敵の正体も狙いも掴めていない零香にも、反撃のチャンスはある。

誰かが外にでた。酔いが回ったと言うには早すぎるし、トイレは屋内にある。ヤモリのように屋根を張って其方に廻ると、そいつは宗吾が連れてきた課長だか部長だかであった。目つきの鋭い小男で、耳の先が何やら尖っている。髪の毛は薄く、頭頂部は完全に禿げ上がっているが、それを補って余りあるほど目つきが鋭い。其奴は駐車場まででると、周囲を見回して携帯を広げ、短縮で何処かにかけた。チャンスだ。

「私だ。 社長が負けた。 例のものの調査は進んでいるか? ああ、ああ。 ならば良い。 早めに資産価値を割り出してくれ。 急いでくれ……ふぐうっ!」

「もしもし、もしもしっ!」

音もなく忍び寄った零香が、延髄に一撃を叩き込むと、部長の目がぐるんと廻って前のめりに崩れた。頭からコンクリの地面に倒すのは可哀想だから抱き留めてやり、素早く携帯の状態を確認する。相手は何かあったと気付いてすぐに切ったようだが、残念ながら携帯は凡庸な市販品で、電話番号はすぐに割り出す事が出来た。

男を茂みに突っ込んでおくと、すぐに自室にダッシュで戻り、その途中で電話帳をひっつかむ。まずい、とんでもなく嫌な予感がする。

宗吾がこんな事を企んだのは、息子と娘の為に資産を作ろうとして、却ってこさえてしまった借金を返すため。銀月の秘密をおぼろげながらに知っていた彼だが、どうもそれは特別な教育法か何かだと思いこんでいた節がある(まあ、完全に間違っている訳ではないのだが)。だから本家の建物を家捜しさせようとしたのだろう。おおかた、自身の借金を、天才に成長させた後にでも返させるつもりだったのだ。

つまり、である。借金を返すというのが、宗吾の狙いになる。素早く電話帳を探すが、企業の番号ではない。ならば、副家がなりふり構わない状態で、作れる金の母胎となりうるものと言えば。

副家には土地建物の財産がほとんど無い。企業関連からの略取はもう無理なはず。ならば、副家保有の土地に何かあるはず。素早くリストを引っ張り出してめくる。焦るな、焦るな、焦るな。言い聞かせながら洗い直すが、目立ったものはない。零香は思わず、リストを床にたたきつけていた。

「くそっ!」

「焦るな、焦ったら負けだぞ」

「うん! 分かってる。 ええと、こういうときはっ!」

岩塩スティックにかじりつくと、豪快に噛み折る。塩だけで口の中を充たした零香は、もちゃもちゃと美味しい塩を溶かして胃に送り込みながら、思考を冷やし、纏めていった。落ち着いてくると、今まで見えていなかったものも見えてくる。こういうときは、最初に戻り直すのが一番だ。

ぶんどった携帯を調べ直す。最近はさっきかけていた所にばかりかけている。その最古のものは、半年前に及んだ。と、言う事は。

秘書に電話する。今日は自宅待機だし、傷心だから多分外出していないだろうと言うのは、希望的観測に過ぎない。コール音が虚しく通り過ぎる。二回、三回、四回。五回目で繋がった。寝ぼけ眼を擦るような声。

「はひ、しゃしょう。 なんれひょうか」

さっさと起きんかボケえッ! 仕事舐めとんのかあっ!

「ひっ! お、起きます起きます! 今起きました!」

「いえ、目を覚ましてくれれば充分です。 今日は聞きたい事があるのですが」

別に普段からこんな高圧的なわけではない。秘書の彼女を起こすのには、一番効果的だから用いているだけだ。それにしても、記憶力は大した物なのに、とろくていつもエンジンをかけるのに一苦労する。携帯に残っていた電話番号を告げると、秘書は案の定の反応を示す。この人は決して無能ではないのだ。

「この電話番号、聞き覚えはありませんか?」

「あ、はい。 確かT大学の調査チームの方の電話番号です」

「T大学?」

「はい。 副家の古い倉があるそうで、この間調べたら古文書とか絵とか壺とかが山ほど見付かったそうです。 いざというときの資金源にするからって、宗吾社長は其処に知り合いの教授を送って、調べさせているんだとか。 あ、ごめんなさい。 秘密の漏洩になるので、宝の品目とか、教授の個人名とかははいえません」

まずい。極めてまずい。非常にまずい。異常にまずい。

やけになった宗吾は、なりふり構わず、古文書を根こそぎ売りに出しかねない。いや、さっきの電話内容からして、もう売りに出す指令が動き出している可能性が極めて高い。そうすれば後の事態は火を見るよりも明らかだ。銀月の闇は世間に晒され、この家は面白半分にまとわりついてきた腐れマスコミによって、骨の髄までしゃぶり尽くされるだろう。差別する対象を得た一般人共は嬉々として「悪」に暴力を振るいに来るだろうし、取引先は纏めてそっぽを向く事疑いない。

インターネットが隆盛な今の時代、情報は一度拡散してしまったら、まずもみ消せない。「科学の振興のため」とか「歴史の探究のため」とかほざいて、その教授が世間に巻物の内容を公開でもしたら完全に破滅だ。顔から血の気が引くのを零香は感じ、珍しくパニックを起こした。

「そ、草虎っ! ま、ま、まずいよっ!」

「落ち着け、電話中だろう」

「倉庫? ええと、具体的な場所は分かりません。 私は同行させて貰えませんでしたから。 それに秘密の漏洩になりますし。 でも、大体の場所は、分かりますし、言えますよ」

「! っ、どこっ!?」

拾い物程度にしか考えていなかった秘書の三嶋翔子さん。慌てて聴き直す零香はこの時、彼女を救いの天使と感じていた。

 

5,チェイス

 

零香は走る。走りながら携帯でさまざまな手を打つ。幸片はまだ使わない。使うのは本当に最後の手段だ。今後の事を考えると、幸片に頼る癖は出来るだけ付けない方がいい。

まず父には、茂みに宗吾の部下を隠して置いた事を告げた。宗吾から監視を外さない事は既にうち合わせ済みなので、それだけで分かって貰えた。気をつけろという言葉に感謝の礼を返すと、今度は中月家に。安司は勝利を喜ぶと同時に、素早く人を手配して、副家倉の周囲に人をやってくれた。林蔵を崇拝する安司は、最近は極めて従順に動いてくれる。将来は自粛しなければならないが、今は兎に角手段を選んでいられない。本当なら三日月にも電話しておきたい所だが、今はそんな暇がない。坂介氏には後でコーヒーでも奢って勘弁して貰うつもりだ。

零香はと言うと、地図を頼りに、もしトラックが進発したときに先回りすべく、ビル街の屋根を高速で飛び移っていた。日中だから夜間以上に慎重にならなければならないのが痛い。それでも直線的に、最悪の予想をトラックが進んだ場合の道を塞ぐべく走る。

携帯が鳴る。安司からだった。ちなみに指定している着メロはゴッドファーザーのテーマだ。

「はい、零香です」

「まずいな御令嬢。 予想通り、トラックはでた後だ。 倉庫の中も、金目の物はあらかた持ち出されてる」

「トラックの車種とナンバーは?」

「ああ、ちょっと待ってくれ。 ええと、だな……」

急ぐ。トラックの車種は携帯で調べて、写真を頭に入れた。国道までまだ少しある。見付かりかけて慌てて身を臥せ、視線の主が消えた事を確認して大きく安堵。こういうときこそ、視線とのニアミスに気をつけねばならない。焦っているからとは言え、ビルの屋上を飛び移っている所をもろに見られたらお終いだ。

ようやく国道にたどり着く。交通量は多いが、行き交うのは乗用車ばかりで、そのトラックはない。たまに通るトラックも別の車種だ。舌打ちした零香は、安司に監視の網を張るように言った後、自身は秘書に電話し直す。T大学の研究チームの責任者の名前を特定するためだ。具体的な名前は聞けないにしても、特徴だけでも分かれば割り出せる自信が零香にはあった。秘書と話して、それを確認。すぐに電話を切って、大学のホームページにアクセス。結果、教授の名前はすぐに分かったが、定住しない人物だと言う事も分かる。走りながら大学にかけてみると、大学でも居場所は分からないのだという。まずい。O市から逃がしたら負けだ。

今見張っている国道は、O市から都心方面へ抜け出る最短のルートだ。他のルートは渋滞が多かったり入り組んでいたりで、あまり通行に向いていない。さっきの慌てようからいい、最短ルートを取るはず。しかし来ないと言う事は、当てが外れたか。携帯で交通情報を弄って見るも、渋滞等の情報はでていない。倉から消えた物資の量から言っても、トラック以外で運搬している事はあり得ない。焦るな、焦るな、焦るな。言い聞かせ、策を練り直す。

そうこうしている内に、安司から追加の電話が来た。当然の事ながら、良くない情報である。

「御令嬢。 多分追ってるトラックはダミーだ」

「! どういう事ですか?」

「指定された家に俺、いや儂自ら行ってみたんだが、手伝いの話では一月も前に荷物は移していたらしい。 まずいな、相手の方が一枚上手だ」

「他の副家の家で、学者が出入りしていた場所を洗ってください。 わたしは他のつてを探ってみます」

携帯を乱暴に閉じると、持ってきたO市の地図を広げ直す。倉の規模から予想される物資を移し、広げて研究できる副家の施設を探す。普通の家屋では多分ダメだろう。となってくると、洋館などの大型家屋か、或いは使われていない倉庫や工場か。該当は三つ。そのうち二つは、中月の手のものがすぐに向かえるし、この国道を通るはず。問題は最後の一つだ。

最後の一つは、山中にある工場跡。一時期副家が手を出そうとしていた、紡績業だか織機産業だがの名残である。業績悪化で長続きしなかったと聞いている。副家の初期の事業はどれも上手くいかず、小さな工場の跡などは他にも幾つかあるのだ。

この工場は規模が大きく、閉鎖した後は整備して体育館代わりに使っていると聞いたが、可能性があるとしたら此処だろう。もし其処からトラックを出すとしたら、通るルートは国道ではない。零香の指が大きく地図上を滑り、O市の別の端にたどり着く。かなり狭い道だが、ぎりぎりトラックを通す事は出来る。此処で張り続けるか、其方に回り込むか。どっちにしても、もう殆ど時間はない。ならば、採る手は一つだ。

「草虎、神衣で行く」

「そうだな、恐らくそれしかあるまい。 だが、気をつけろ、いつも以上にな」

「うん」

神衣を呼び出し、身に纏う。圧倒的なパワー感が宿るが、同時に見られたら破滅も意味する。これで加速度級に危険が増したが、同時に身体能力も桁違いに上がる。虎のように臥せると、零香は跳躍した。

そのまま人外の速度でビルの屋上を飛び移り、駆け抜けていく。踏んづけたコンクリに激しい摩擦で火花が散る。出来るだけ音を立てないように、視線とニアミスしないように。実戦の時と同じくらい神経をすり減らしながら、零香は走った。いや、それは走るというのも生ぬるい。地面と水平に跳び続けた。

やがて市街地を抜け、森林地帯にはいる。O市の半分はこういう場所だ。未開発だが、自然が残っていて、さまざまな動植物がいて、零香は好きだ。そして昼なお暗いこんな所こそ、零香の独壇場。今まで隠れながら進んでいたのを、警戒度を多少落として速度を代わりに上げられる。何事かと驚く鴉を蹴散らし、悲鳴を上げて逃げまどう雉を追い散らし、零香は樹上を駆け抜けた。ごめんと謝る。本来ならあまり良くない行動だが、今は仕方がない。携帯を開くと、時間が押している。かなりまずい。空には、既に星が見え、月が出始めていた。

道にでる。両脇を森に囲まれた、狭い舗装道路だ。トラックの姿はない。目を閉じて、聴覚を全開にする。エンジン音を拾う。一瞬遅かった。既に通り過ぎた後だが、これなら追いつける。安堵が胸を充たすが、まだ勝ったわけではない。

森の中に戻ると、枯葉つもる地面へ降り、クラウチングスタートの態勢に入る。そして、全身の筋肉を一気に緊張させ、その破壊力を爆発させた。

轟音、爆煙。山の軟らかい土が一瞬だけ吹き上がるが、それはスタートだけの事。後は音もなく、零香はただ凶悪なまでに加速していく。一気に時速百二十キロに達した零香は、その速度のまま森の中を爆走し、木々を驚くべき手腕で避けながらトラックを追う。この先には確か鉄橋があるはずで、それを抜けられると国道に入られてしまう。そうなってしまうと、知らない街と言う事もあるし、もう零香には追い切れない。知らない、人間の動線も街の構造も理解していない場所で、こんな風に追う事は出来ない。O市限定の知識と権力しかない所が、こんな時は憎い。距離を縮める。五百メートル、三百メートル、二百メートル。中月から彼らが向かった二カ所はハズレだったという報告が入ってくるが、却って好都合だ。今追っているトラックが本命だという証拠になる。

トラックの尻が見えてきた。残り百メートル。五十メートル。素早く左右を確認し、走りざまに小石を拾う。トラックは運送会社の物ではなく、会社のロゴなどは見あたらない。遠慮はいらない。間違っていたのなら謝るだけだ。

三十メートルまで接近した所で、森から飛び出て、道路に飛び移る。ミラーの死角に入ってそのまま更に五メートルほど距離を詰めると、振りかぶって、小石を投擲。マサカリ投法はモーションによる隙が大きいので、今はサイドスローで投げるようにしている。唸りを上げて飛んだ小石は、トラックの後輪を見事に粉砕した。更にもう一撃。急ブレーキをかけたトラックが止まる。素早く零香は神衣を解除し、その尻に張り付いた。

警察を呼ばれると厄介だ。さっさと勝負を付ける。トラックのドアが開いて、前から運転手らしい屈強な男がでてきた。トラックの尻から登って屋根に張り付いた零香は、気配を消して様子をうかがう。

「どうした、パンクか?」

「ああ、そのようだな」

「なおりそうか?」

「今調べて……」

音もなく男の背後に降り立った零香は、延髄を一打ちして眠らせた。運転席から、どうしたあと声がする。気配を消して其方に回り込むと、視線を外した瞬間に入り込み、振り向く暇もなく延髄に一撃手刀。声もなく崩れ落ちる男を見て、零香は安堵のため息を漏らした。

「まだ気を抜くのは早い。 トラックの荷を確認しろ」

「うん、分かってる。 ええと、何処を操作すればいいのかな? 何だろこれ」

パソコンはそれなりに分かるが、幾ら何でもトラックの操作までは分からない。まず外で気絶させた男を助手席に引っ張り込むと、運転席を暫く探るが、記号がついているわけでもなく何処を操作した物かさっぱり分からなかった。

仕方がないので強硬手段だ。鍵を外して確保すると、クローの術を唱えて、具現化させる。そして右手に出現した、ツキキズの爪を模した破壊兵器で、トラックの荷台の錠を一撃、切断。殆ど強盗だが、仕方がない。間違いだったのなら後で謝るしかない。まあ、捕まるような証拠など残さないが。

戸を開くと、かびくさい匂いがした。人の気配もある。ビンゴと、零香は口の中で呟いていた。中にいる人影に猛然と突進、鳩尾を一撃。眠らせる。その上で、改めて周囲を見回すと、間違いない。副家の倉の中身だろう。巻物や宝物類や、磁器や絵画もある。確かにかなりの価値がありそうだ。

一旦戸を締めると、暗闇の中で床に座り込んで脱力。疲れた。思わずぼやきが口から漏れる。

「どうにか、終わったかな……」

「どうだろうな」

「うん? どうして?」

「その男、副家宅に出入りしていた教授か? 確認した方がいいぞ」

草虎の言葉に、零香は呆けているほど平和慣れもしていなかったし、疲れ果ててもいなかった。すぐに携帯を広げて、照明を男の顔に当てる。目を回している男は、確かに白衣を着ていたが……違う。

これは、副家の家に出入りしていた教授ではない。

一杯食わされた。それを知った零香は思わず立ち上がり、落ちつきなくうろうろと左右に歩き回った。

慌てて調べてみるが、副家倉には自家用車で何人かが出入りしていたのだという。もし教授が重要な物品だけそれで運び出したのだとしたら。まずい、極めてまずい。

零香の携帯が鳴る。父からだった。万事休すと零香は思い、トラックの荷台から降りながら、悄然と電話にでた。電話の向こうからは、陽気な宴会の騒ぎが聞こえてくる。

「と、父さん……」

「零香か。 どうした、トラックに逃げられたのか?」

「ううん、トラックは捕まえたよ。 すぐに回収する人員を回して。 でも、ね。 どうやら副家の倉庫に出入りしていた教授は別行動だったみたいで、見あたらないんだ」

「そうか。 諦めるな。 まだ策はある」

父と零香は常に背を合わせて戦ってきたのだ。それにふっと気付かされる零香に、父は言う。

「俺はこれから宗吾を別室に連れて行き、銀月の闇について説明しておく。 宗吾は副家の長だし、知る権利があるだろう。 それで、考えを変えさせる」

「! そうか、その手があったね!」

「だが、それだけでは難しいだろう。 多分お前にはもう二三働いて貰う事になる。 その教授のデータを出来るだけ頭に入れておけ」

「うん! 分かったよ、父さん!」

トラックの荷台の戸を片手で閉めると、零香は懐から岩塩スティックをとりだし、ひとなめした。そのまま、思惑を巡らせる。

父さんが宗吾を説き伏せるまで恐らく最低でも一時間は掛かるだろう。宗吾はさまざまな事象に振り回されていただけで、根は普通の人間だ。善人でも悪人でもなく、普通の人間。だからこそに、利益に飛びつくし、リスクに対しては尻込みする。だから、多分戦う大義名分が消滅した今、説得は出来るはず。ただ精神に甚大なダメージを受けているのが明らかだから、まともに父さんの話が通るかどうか。

零香の方でも、休んでいるわけには行かない。やる事が幾らでもある。まず中月家に電話して、展開している人員を纏め直さなくてはならない。今後はトラックよりも、教授の私有車を割り出さねばならず、そのためにはさまざまな手を使う必要がある。それに、法律関係のアドバイスも欲しい。もし最悪の状況として、情報が拡散した場合には、顧問弁護士によって何かしらの断固たる手を打たねばならないのだろうから。

「あー、もう! もう! もうっ!」

やる事が多すぎて、無性に腹が立つ。三日月への電話が終わった時点で、零香は叫んで頭をかきむしっていた。トラックを捕まえたときは、これで勝ったと思ったのに。零香と同様、宗吾の後ろにいる誰かさんもずっと手を練ってきたのだろうからおあいこだとも言えるが、それにしても陰険な。

拳をぶつけ合う戦いや、会話主体の利益獲得戦と勝手が違うのも、零香の精神を不安定にさせている要因だった。戦いの性質が違うと、やはりさまざまな要素が違ってくる。焦りと怒りを上手く制御できない。

「そう怒るな。 零香が頑張っていなければ、もう今頃滅亡は始まっていただろう」

「でも、腹立つ!」

「……それに、一つ分かった事もあるだろう」

「! そう、だね。 ……そうか、そうだったんだ」

草虎に言われて気付くのが、自分のガキである所以だと、零香は自嘲した。そして頭を切り換えると、やるべき事を整理しながら、電話攻撃に戻る。

そう、一つ確かになった事もあった。それは実にわかりやすい事だった。何で今まで分からなかったのか、理解してしまえば馬鹿馬鹿しくさえある。

宗吾の後ろにいる奴は、銀月の破滅をもくろんでいたのだ。

 

情報がひっきりなしに入ってくる。それを整理していく。色々な事が分かってきた。

まず教授は青のセダンに乗っている。副家倉庫の管理人をしている人の証言だから間違いない。一見にこやかなのだそうだが、時々眼鏡の奥に物凄く冷徹な光が宿るそうだ。さっきトラックの荷台にいたのはその助手だそうである。

ネットで名前から人格が分からないかと、少し調べてみる。携帯での調査では限界があるが、それでも良い噂は殆ど拾えない。

一度副家の倉庫がある家に戻り、そこで中月の若い衆と、管理人に話を聞く。携帯で聞いた以上の情報は入らない。途中から安司も来ていたが、零香が完璧に場を仕切っているのを見て安心したように表情を緩めていた。

携帯が鳴る。父からの電話だ。

「零香、今良いか?」

「うん。 進展?」

「うむ。 今宗吾に話し終わった所だ。 宗吾に代わる」

この反応から言って、上手くいった事は間違いない。条件がさまざまに関わっては来るが、対話というのは重要だ。さっと若い衆が辺りに散り、側に安司が座り込む。何というか、やくざの大物に掛かってきた取引の電話みたいだと、零香は思った。

「え、ええと、御令嬢、ですか?」

「はい。 宗吾さん、話は聞いた……ようですね」

「申し訳……ありません。 本当に……申し訳……ない」

宗吾が銀月が抱えている闇を理解しているはずはないと零香は思っていたが、案の定であった。宗吾は言う。銀月が知っているのは、特殊な教育法だったと思っていたと。この辺りは零香の予想が大当たりだった訳だ。

更に宗吾は言う。もし本家を乗っ取れなかったときのために、絶対に先代から余所に売るなと言われていた古物に手を出してしまったのだと。自分が本家を乗っ取れなかったときは、すぐに売りに出すよう部下に指示を出してしまっていたのだと。今は宗吾もうっすら悟っている。古物が世に出れば、本家とか副家とか関係無しに、銀月そのものが終わる事を。自分がしでかしてしまった愚行の、たどり着くであろう結末を。

「ごめんなさい……申し訳……ない……」

「今は謝るよりも、先にやる事があるでしょう? 教授と連絡を取り、古物を売る契約を撤回して貰ってください。 いいですか、相手が民俗学の教授で、野心的な人物だと言う事はもう分かっています。 もし銀月の暗部を発表され、それにマスコミが食いつきでもしたら銀月の家は崩壊します!」

「ひっ……そ……それは……その……」

零香に怖れていた事を改めて指摘された宗吾は、萎縮した。今まで千を越す部下の上に立ってきた男の、惨めな姿である。しかし敗北はこういう結果を強者にももたらすものなのだ。零香は叱咤した。

「一度のミスは一度の成功で償ってください。 撤回できなくとも、何とか居場所は突き止めてください。 居場所さえ分かれば、わたしが直接教授をぶちのめしてでも売りに出した物を取り返してきます!」

「は、はいっ!」

「急いで! 成果があったらすぐにわたしの携帯に!」

教授には悪いが、今は手段を選んでいられない。電話を荒々しく切る。向こうは父さんがついているから、多分大丈夫だろうと零香は当たりを付ける。腕組みして策を練り始めた零香を、頼もしそうに、荒事の専門家のはずの中月の部下達が見守っていた。

「御令嬢、どうしやす? 足なら儂が用意しやすぜ」

「それはわたしが自分でやるからいい! そんな事よりも、安司さん達は事件のもみ消しに移って! いい、今回の事件、下手すると銀月の一族そのものが路頭に迷うよ。 さあ、さっさと走る走る!」

「へ、へいっ!」

荒々しく何台かの車に分乗して走り出す安司の部下達を見送ると、零香は自身も外に飛び出した。どっちにしても、教授は多分都心だ。まずT大学への経路を確認し、その周辺の路線を調べる。走りながらだから忙しい。それにしても、都心の路線の入り組んでいる事。目が回りそうな色の交わりだ。

外に飛び出してからも、ひっきりなしに情報が入ってくる。教授とは連絡が取れたが、どうも返したくないとごねているらしいと言う事。それにかなり強行に宗吾が返せと要求し、押し問答が続いている事。教授も持ち出した幾らかの資料の価値を知っているらしく、他のはいらないからこれだけよこせとごねているらしい事。状況はかなり厄介だ。

「今、話を引き延ばさせて、状況を探っている。 宗吾は大分調子が戻ってきて、色々と誘導尋問をかけているが、それでもなかなか尻尾を出さないな」

「分かっている事だけでも、お願い」

「まず奴は今車に乗っている。 渋滞に巻き込まれているらしく、殆どハンドル操作に気を逸らしている様子がないな。 後、ラジオの音が少し聞こえるらしい」

「番組名分からない? 放送局が分かれば地域が特定できるかも」

「それらしき音は拾えていないな。 ……まて。 華山マキの曲が流れている。 山崎さん、この曲名は? ふむ、ふむふむ。 そうか。 零香、分かったぞ」

流石は父さん、と心中で思いながら、帰ってきた曲名を頭に入れる。途中のネットカフェに飛び込んで、コーヒーを注文。ソニーのバイオの新型が置いてある席に座り、ブラウザを立ち上げる。これ以上の細かい調査は携帯では無理だからだ。携帯を液晶画面の隣に置いたまま、零香は素早くキーを叩いて、望む情報をネットから引っ張り出していく。

首都圏内で調べてみると、該当するラジオ番組は三つ。いずれも地域がバラバラだ。特定できない。この時間帯に渋滞している道も調べたが、どれも重複していて決定打が無い。

次の情報が来る前に、他の副次的な情報も拾っておく。家のパソコンならもっと早いのだが、文句は言ってられない。コーヒーが来る。砂糖とミルクを乱暴に全部ぶち込んで、混ぜないで一気に飲み干し、咳き込む。

「焦るな。 まだ大丈夫だ」

「ゴホゴホゴホッ! わ、分かってる! 広域地図、広域地図!」

渋滞に相手が掴まっている今がチャンスだ。父さんが作ってくれたこのチャンス、逃すわけには行かない。多分教授は生半可な事では屈服させられないだろう。零香には分かる。なぜなら、同じだから。同じ匂いがするから。

チャンスに貪欲なのは、零香も同じなのだ。そして教授からは、濃厚に同類の匂いがするのだ。

林蔵からの電話だ。流石に情報収集が速い。

「零香、教授の車のラジオから事故情報が流れている。 ……K県とS県の交通情報だ」

「ていうことは、東名高速!? しまった、T大学の本キャンパスとは別方向っ!」

T大学には三カ所のキャンパスがあり、零香が想像していたのとは別のキャンパスに教授は向かっていたのだ。普通に走っても間に合いそうにない。此処からだと二山越えて、更に何個か街を越える必要がある。神衣を使うしかない。人目にさらされる危険が極めて大きいが、やるしかない。これ以上遅れると、白虎戦舞を使う必要がでてくる。それは最終手段だ。

「大体の場所は特定できた。 ……二時間以内に、捕まえてみる」

「無理はするな。 場所はどの辺りだ? 中月の連中にも支援させようか」

「ううん、わたしだけでいい。 わたしだけで行く」

料金を払って外にでて、太陽を見て方角を確認。一旦山の方へ入ってから、フルスピードで森林地帯を突っ切れば、市街地にはいるまで多分三十分ほど。本気での疾走なら時速百五十キロは出せる。そうすれば、先回りが可能だ。

教授の顔、車の形状、色、全てを頭に入れ直す。東名の上を走るわけには行かないから、側の山から車を探す事になる。見つけだしてからが大変だが、ドライブスルーに何とか入れさせるか、高速を降ろさせるしかない。問題はどうやってそうさせるかだが、これは案外簡単かも知れない。

ともかく、一度捕捉さえ出来れば、東名高速の脇は森林地帯が多いし、もう夜だから楽だ。知らない場所でも、森林地帯なら月や星を目当てに、方角を特定できる。

「父さん、話を長引かせて。 喉を渇かせて、ドライブスルーに入れさせるんだ。 ジュースが車に完備されていても、それを飲めばトイレに行きたくなるからね。 そうすれば、わたしが捕まえる。 一旦捕まえれば、わたし達の勝ちだよ!」

「良し、任せろ」

簡潔な父の言葉が頼もしい。零香は携帯を切ると、森に駆け込み、神衣を纏うと、以降は全速力で走った。

もう逃がさない。この時のために、零香は戦い続けてきたのだ。これが解決すれば、少なくとも父さんは救われるのだ。

零香は走る。一匹の猛虎と化して、森を疾駆する。必勝の決意と共に。

 

6、一つの救いと……

 

T大学教授、飯島慎太郎は、野心的な男である。今年四十七歳になる彼は民俗学の教授として各地を廻って情報を集め、自分の足で今の地位を築いた。国内では四番手と言った位置にいる教授であり、民俗学の世界では歴史的スキャンダルの仕掛け人としてかなりの有名人である。

卓絶した調査能力でも知られる一方、彼は権威と金に汚い事でも知られていた。ゴシップ記事を洗い出すように集めた情報を著書に盛り込み、取材先から顰蹙を買った事が一度や二度ではない。彼は取材先など塵だと思っていた。単に立身が出来るからこの業界に入っただけで、民俗学という学問自体に敬意など感じた事はない。金への執着の強さは著書にも現れている。売れる事を背景に印税率を高めにむしり取るので、出版社からも必要とされはしつつも、若干嫌われる人物であった。

どうして、この様な金の亡者が出来上がってしまったのか。多分、海洋学者の最高峰だった彼の父が頓死したときから、全ては始まっていたのだろう。国内でもトップだった学者だったのに、彼の父は誰にも敬意を払われなかった。一種のタレント扱いされ、必死の取材の結果は殆ど見向きもされず、利益は大学に殆ど吸い取られた。金に執着しない性格を逆手に取られ、極貧生活が続き、結果寿命を縮めた。死んだときは乞食のように惨めな格好だった。

呆れた事に、遺産がないとか言う理由で、殆ど葬式にも誰も来なかった。大学の関係者でさえ、である。貧しい家で、母と二人で上げた質素な葬式の事を、今でも慎太郎は覚えている。その悔しさを、今でも肌にしみつけている。更には著作権の問題などで、死後もその屍を踏みつけ続けた社会を、慎太郎は軽蔑しきっていた。だから、社会から金をむしり取る事は、彼にとっての復讐であったのかも知れない。勿論、口に出すような事はなかったが。

父が、功績に相応しい多額の謝礼を貰っていれば、慎太郎の歪んだ人格が少しでも変わっただろうか。多分違う。多分、功績と努力に相応しい待遇、いや尊敬だけでも結果は違ったはずだ。海洋学者というあまり売り物にならないし話題性もない学問分野と言うだけで黙殺した者達も、金がないと言うだけで無視し嘲弄した者達も。皆が慎太郎の人格を作ったのだ。

世間一般では、異常殺人者は元から狂っていたのだという考えが根強い。だが実際には、人間は他者の鏡という側面を大きく持っている。猟奇殺人鬼の人格は、彼なり彼女なりが受け続けた環境的ストレスの顕現だとも言えるのだ。つまり、そういった殺人が起こった場合、最大の要因は下手人だが、その次の悪いのは猟奇殺人者を育てた者達になる。これは必ずしも、生みの親がそうだとは限らない。虐めを繰り返した学校の同級生達や、学校の教師達、悪口をばらまいた近隣の住人、犯人をあざ笑って虐待を繰り返した連中などが当たる事が多い。一人の猟奇殺人鬼の背後には、何十人もの犯罪幇助者がいるのだ。それでいながら、こういった連中はいざ悲劇が起こっても、誰一人法によって裁かれないのである。

そんな人類社会の致命的な矛盾こそが、慎太郎の精神を歪めていた。彼は自分が恨みを買っているのを知っていたから、何か大きな仕事をする際には、大学にも教えていない隠れ家に籠もって執筆を行い、大学の発表会に風のように出た後、つての編集者に電撃的に原稿を売りさばいた。その慎重さが、この恨みを買いやすい男を今まで存続させてきたのだ。

慎太郎は数年前から銀月が巨大な闇を抱えている事に気付いていた。大体の内容もである。後は検証作業と、証拠になる物資だけが必要だった。それが副家とコンタクトをとり、価値を気付いていないサラリーマンの副家当主から得られそうだと分かったときには小躍りした。

慎太郎は勇躍してマスコミ関係者の知人に電話し、巨大な歴史的スキャンダルを掴めそうだと吹いて出版の約束を取り付けると、数ヶ月間かけて倉を探り、めぼしい物を漁り尽くして、マイカーに積み込んだ。勿論本家と副家のごたごたは知っている。だが、慎太郎には関係がない話であった。副家が勝てば問題なし。負けてもどうせ売りに出すのだから問題ない。どっちに転んでも、慎太郎は勝てる。

副家当主が宝物を売るのを取りやめ、すぐに返すようにと言ってきたときも、慎太郎は慌てなかった。のらりくらりと逃げながら、今研究中で、それが終わったら返すと吹いた。それで通じなくなると、さまざまな手を出し入れしつつ、手続きに時間が掛かるからその間だけでも研究させて欲しい等とも吹いた。鑑定費は出すと副家の当主はわめいていたが、そんなはした金など知った事ではない。死ぬときに、貯め込んだ金に小便を引っかけ、全部焼き捨てる事が慎太郎の密かな楽しみだった。それを邪魔させるつもりはない。

助手の乗ったトラックはただの囮。だいたいあんなものは所詮路傍の小石程度の価値しかない。政府とも裏で関わり続けた銀月のスキャンダルが、どれほどの利益を慎太郎にもたらしてくれるのか、今から背筋がぞくぞくした。

居場所を突き止められるはずがないというのも、慎太郎の気分を高めていた。高速に網を張っている警察ならともかく、法に触れているわけでもないし、慎太郎の居場所を田舎の旧家風情がどうやって突き止めるというのだ。警察と関係を持たない中月家の情報収集能力程度では、東名を走る慎太郎の居場所など突き止められるわけがないのだ。大学を張った所で無駄だ。論文の発表には代理を立てるし、いざデータを作ったらそれを何十にもコピーして、何かあったときにはばらまく手はずも採る。だから、慎太郎は油断していた。

副家当主の宗吾と話して喉が渇いてきた。渋滞にも飽きてきた頃だったし、慎太郎はS県の片隅にあるドライブスルーに留まった。駐車場にセダンを滑り込ませ、ジュースを買おうとドアを開ける。その瞬間だった。

ガツンと凄い音がして、ドアが外から固定された。何事かと思う間もなく、ドアを一気に跳ね開けられる。慎太郎の目に映ったのは、小学校高学年から中学校に入ったばかりといった年頃の少女だった。銀色のかかった髪はショートに纏めていて、肩で大きく息をつき、眼鏡の奥の瞳を光らせている。やっと二次性徴が出始めた体だが、手足はすらりとして、体型には無駄がない。顔もそれなりに端正に整っていた。表情が険しすぎるのが難と言えば難か。写真で見覚えがある。銀月家本家の跡継ぎである、銀月零香だ。確か武術の相当な使い手だとか聞いているが、どうやって此処に来たのか。困惑する慎太郎に、零香は言う。写真を突きつけながら。

「T大学教授、飯島慎太郎さんですね」

「き、君は誰かね。 失礼だとは思わないのか?」

「分かっているだろうに。 銀月の本家跡継ぎ、零香です。 それに失礼なのは貴方でしょう。 取引は中止になったから物品を返してくださいとうちの部下が要求しているのに、それを無視してこんな所まで」

「何やら誤解があるようだな。 私は逃げるつもりなど無いよ。 まず自宅に戻ってから、契約書を持ってだね……」

今まで危ない目には何度もあった事がある。だから慎太郎の肝は据わっていて、この目から研ぎ澄まされた刃物のような光を放つ少女とも、まともに相対する事が出来た。少女は慎太郎の反論に、更に言う。

「自宅は東京でしょう? 貴方が向かっているのは、S県に持っている執筆工房でしょう」

「同じ事だよ。 ニュアンスの違い程度だ」

「契約書はもう目を通していますが、貴方に譲渡されるまで中身の解析は許されていないはずです」

「そんな事はしないよ」

表だってはしない。したと気付いたときには、もう銀月は終わりだ。手を離したまえと慎太郎は言ったが、零香は手をぴくりとも動かさない。慎太郎は何度かさっきから隙を見てドアを閉じようとしているが、まるでボルトで固定でもされたかのように、全く動く気配がなかった。武術の達人という言葉が誇張ではないと、今更ながらに悟る。

民俗学研究の世界で生きてきたから、慎太郎は能力者が極少数ながら実在する事を知っている。もしこの娘が戦闘タイプの能力者となると厄介だ。切り札は使いたくないから、何とか言葉でごまかすしかない。荒事に長けた中月の連中が零香に追いついてきたら更に厄介だ。

「いい加減にしないと、警察を呼ぶよ」

「どうぞ。 却って好都合です」

なかなか弁が立つ。確かに警察が来て、零香が全ての事情を話したら、厄介な事になるのは慎太郎だ。この場は逃げられるかも知れないが、確実に執筆工房は抑えられる。慎太郎は攻撃の方向性を変える事にした。かなりしっかりしているようだが、所詮ガキ。百戦錬磨の力を見せてくれる。

「そんなに自分の家の秘密を守りたいかね?」

「秘密を守りたいのではありません。 わたしは自分の家を守りたい」

「同じ事だよ。 いいかい、人には知る権利という物があるのだ。 銀月の闇の中沈殿してきた狂気と殺戮を隠蔽しておく事は悪だとは思わないのかね? 人々は銀月の秘密を知りたがっているのだ。 それを世に出さないのは、むしろ罪悪だろう?」

「詭弁です。 そんなものを公開したって、銀月が滅んでしばらくすれば、皆忘れてしまいますよ。 所詮ゴシップを喜ぶ人々は、知る権利を振り回して痛めつける相手とその理由が欲しいだけだ! わたしは、わたしの家を、暇つぶしのネタにする気なんてない!」

「それは被害妄想だ。 いいかね、歴史の闇に沈殿したものを取り出し、日に当てる事で、世は進歩する事が出来る。 君達の家は一時期不幸な目に遭うかも知れないが、それは必要な犠牲というものだ」

両者の議論は一向に歩み寄りを見せない。慎太郎はイライラし始めていた。この子供、本当に中学生になったばかりなのかと呟きたくなる。議論の質の高さが、まるで大学院生か何かと話しているかのようだ。

零香は慎太郎の反論に一瞬目を細めたが、方向を変えてきた。強烈な殺気が漂ったのを慎太郎は感じたが、すぐに消えた。

「犠牲が欲しいなら、まず自分がなったらどうですか? 必要な犠牲を声高に唱えるなら、まず自分がそれをその身で示すべきでしょう」

「無茶な事をいうな。 それに、私はもう充分に犠牲を……」

「それが全ての動機ですか。 T大のスッポンさん」

しまったと思ったときにはもう遅い。この子供、想像以上に自分の事を知っていると慎太郎が思うより早く、零香は畳みかけてきた。

「貴方は確かに大きな犠牲を払ってきたのかも知れない。 しかし、みな常に何かしらの犠牲を払いながら生きているんです。 自分だけが被害者だとでも思っているんですか?」

「だ、だまりたまえ! 君のような子供に何が分かる!」

「分かりますよ。 だって、わたしも、嫌って言うほど世の中の闇を見て生きてきたんですから。 でも、自分の家は守りたいと思う。 だから貴方に負けるわけには行かない!」

零香の言葉には重みがあった。ずしりと響くような重みがあった。その重みが、実体験に基づく物だと、同類の慎太郎は自然と気付いていた。

「貴方の発言に理がある事も分かります。 でも、相手に理があるからと言って、わたしに理がないわけではない! 正義は一つではないし、それは絶対でもない! 貴方が全てを返してくれないのなら、わたしは如何なる手を使ってでも、それを奪い返します。 わたしの正義のためなんかじゃない! わたしの、守るべきものを守るために!」

「……」

「さあ、返してください。 わたしは、貴方の事を知った以上、貴方を手にかけたくない」

零香は手を伸ばす。慎太郎は怯えと同時に、何かが心の中で晴れていくような感触を覚えていた。

同類に会えたという喜びだろうか。師に叱咤されたような喜びだろうか。何処か違うような気もした。

「……分かった。 私の負けだ。 持って行きなさい」

慎太郎はトランクを助手席から持ち上げ、安全装置を外して零香に渡す。この安全装置は、慎太郎が手元にあるスイッチを押すと発火し、中身を丸焼きにする物騒な物だ。これを外した事は、慎太郎の、零香の言葉に対する全ての意志を示していた。

零香は一礼すると、夜の闇に消えていった。慎太郎は車のドアを閉め直すと、携帯を採りだし、出版社の友人に電話した。今回の特ダネを逃したという、敗北報告だった。だが敗北報告だというのに、何処か慎太郎の言葉はさわやかであり、晴れやかでさえあった。

 

自宅に戻った零香は、父に事例報告を済ませると、自室に戻ってベットに倒れ込んでいた。父の言葉も覚えていない。一生分走ったような気がする。ぼんやりする零香を、草虎が見下ろしていた。

「良くやったな。 これで半分は片づいた」

「……うん。 後は、母さんだけだね」

天井を見ながら、零香は言う。後半分弱、神子相争は残っている。父さんが何度か病院に行ったが、母さんの改善はまだ見込めていない。それに今回の一件、裏で糸を引いていた奴もまだ分かっていない。

副家の事は、父さんが何とかしてくれるそうだ。本家の財産の一部を貸与する事で、借金を返済してくれるという。宗吾は今回の一件の責任を取り辞任、代わりに長女が副家当主になる事で話は決まりそうだという。社長には長男が就任する事で、権力の分散を計り、独占と独裁を防ぐのだそうだ。宗吾は限界に近かったようだし、それが一番だろうと、零香は思った。

まだ、全てが終わったわけではない。でも、今は少しだけ休みたい。頭も、体も、全てフル回転させた。脳細胞がストライキを起こしかけていた。

「草虎、電気消せる?」

「……おやすい御用だ」

「ごめん……ね」

気が抜けた瞬間。もう零香の意識は睡眠に落ちていた。布団をかけ直してやると、草虎は静かに空にかき消える。

後には柔らかい弱照明を受けた部屋で、決戦を生き残った人中の猛虎が、無邪気に眠っているばかりであった。

 

(続)