深淵の玄武

 

序、始まりの巻物

 

銀月家の歴史は戦国時代中期に始まった。武蔵の国の土豪、銀月三郎左右衛門義久が家系図に残る最古の人物である。その後、幾つかの家に別れたり統合したり、主君を変えたり忠節を尽くしたりさまざまな変遷を経て、戦国時代末期に北条家の配下から離れ、徳川家の旗本になる。北条家の機密を手みやげにしたとも言われる。この頃から、銀月の家には不思議な噂がつきまとっていた。

曰く、当主の寿命が異様に短い。曰く、普段は消極的な態度を取るのに、戦になると途端に素晴らしい活躍を見せる。情報網をやたらと発達させている。戦の度に、まるで勝者が分かっているかのように立ち回る。それらが噂でないのは、銀月家に関わる人間全てが知る事であった。

関ヶ原の戦いで活躍した事が決定打となり、銀月家は幕府の直参旗本となって、江戸の郊外にある現在のO市一帯に領地を与えられた。いわゆる大身旗本である。保有石高は公式発表で八千五百石、実質は二万石を越えていたとも言われる。並の大名家よりも裕福であったのは、さまざまな資料が伝えている史実だ。これも関ヶ原で活躍し、その後数年で死んでしまった当時の本家当主の活躍と功績によるものであった。ただし官位の取得にはあまり興味がなかったらしく、最高位でも南町奉行を一度だけ輩出したのみだという。

明治時代も銀月は不思議な活躍を見せる。大身旗本でありながらいち早く薩摩藩、長州藩と結託、幕府の情報を裏側から流して、戦後の財産確保を勝ち取った。どんな悪評が流れても知らぬふりであったため、厚顔銀月などと言われたが、妬み以上のものにはなりえなかった。一族で結託した銀月は隙が無く、スキャンダルを表に晒すような醜態を絶対に見せなかったのだ。

銀月は華族になってからも変わらなかった。時代の流れに乗り遅れることなく幾つかの高官職を経て地位を保ち続けたが、決して至尊を狙わず、三番手四番手の地位につき続けた辺り、老獪な保身術を伺わせる。官僚を輩出する一方で、議員は殆ど出しておらず、中央の権力争いにも殆ど荷担せず。地元の土地を守る事だけに全力を注ぎ続けた銀月。太平洋戦争前後になると、銀月家の者達は揃って官職を退き、財産の保存に全力を注いだ。そして戦後の焼け野原になった東京の土地を買いあさり、復興に従って売りさばいて財産を確保し、地位を保った。銀月は戦争が負ける事を冷静に分析していたのである。

異常なまでの時代に対する適応性は何処から来るのか。銀月の当主、それに支え続けた副家の当主は、それを知っている。おぞましい狂気に彩られた、銀月の闇の歴史を。そして、闇の歴史を終わらせようとした人物が居た。銀月信彦。白虎の神子、銀月零香の、今はもう生きていない祖父である。そして、袋小路を打破するために彼が選んだ人間が、地元で静かなる鬼神として知られた男、弓張林蔵であった。

 

「それは、本当の事なのですか?」

重々しい声と共に、仁王像のような恐ろしげな風貌の男が言う。風貌と裏腹に、その感情は静かであり、信彦は直接的な脅威を感じなかった。和服を着た枯れ木のような老人である信彦は、無言のまま頷いて、茶を飲み干す。禿げ上がった頭を軽く下げながら言う彼の目には、翻しがたい決意が宿っていた。

「どうか、現状を打破するために、力を貸して欲しい」

老境に入った銀月信彦は、妻との誓いを守りたかった。もう自分が長くない事は知っている。この闇を片づけて、せめて孫の顔を見てから冥府に向かいたかった。こんな風習は、自分の代で終わりにせねばならなかったのだ。

「頭を上げてくだされ、信彦老」

「林蔵君、返事を聞くまでは、頭を上げるわけには行かぬのだ。 これは儂の最後の心残り。 娘の英恵を始め、他の子達も、君の力があって初めて救う事が出来る。 君と儂が力を合わせて、初めて突破口を開く事が出来るのだ」

「返事など決まり切っております。 お受けいたしましょう」

顔を上げると、夜叉のような大男、弓張林蔵は、相変わらず口を横に引き結んでいた。いつも怖い顔のこの男、笑う所をどうしても想像出来ないが、守護神的な安心感が確かにある。何というか、暴力を内包はしても、それを無闇に弱者に振るう所が想像出来ないのである。ひょっとして子供には物凄く懐かれるのではないかと、信彦は思う。

横一文字に引き結んだ唇を見てしばし黙り込んでいた信彦は、忘れていたように礼を言った。

「すまない。 感謝する」

「いや、かような非人道的所行、許すわけには行きませぬでな。 して、いかがしましょうか。 俺は何をすればいいのですか」

「まず、儂が何とかして副家と本家の連中を監禁屋敷から遠ざける。 その隙に君は力尽くで其方へ押し入り、警備している人間を全員排除して、監禁されている鬼子達を全員助け出して欲しい」

「えらく強行的な策ですな。 屋敷にいる用心棒程度なら俺がすぐにでも片づけますが、警察の介入は心配しなくても良いのですか?」

驚くべき光景だ。夜叉が如き林蔵が穏健に話し、信彦が超が付くほどの強攻策を呈示しているのである。

「最年少の鬼子は十にもならない。 そんな幼子をあんな座敷牢に監禁し続けた事がばれると知れれば、副家はそれ以上手を出せない。 犯罪者は君どころか此方だと言う事になるからな。 それに我らの一族が隠し続けた闇の歴史が表に出れば、全てが終わる事も理解しているだろう。 だから此処は強行的に出る方がいい。 本家や副家は儂がどうにかする。 君は単独行動の機動力を生かして、屋敷を迅速に制圧して欲しい」

「なるほど。 鬼子を外に出した後は、どうするのです?」

「そのために君を呼んだ。 ……儂の娘、英恵は、君が保護して欲しい。 あの子はもう、相当に深い狂気の淵に沈んでしまっているらしい。 強き者が側にいなければ、立ち直る事は……不可能だろう。 それにあの子は社会常識も何も知らない。 誰か強い者が助けてやらねば、自立する事さえ出来ないのだ。 後の子達は、身よりもないし、儂が成人まで守り抜く」

「分かりました。 英恵嬢は俺が全力を持って守り抜きましょう。 師に学んだ、武術家の拳に賭けて」

もう一度すまぬというと、信彦は頭を下げた。

妻の遺言が、娘の救済だった。もう長くない体である事を悟ったとき、今まで遅々としてすすまなかった銀月家の闇の払拭に向けて、かってないほどに意欲が働いていた。それが最後の魂の輝きなのだと、信彦は知っていた。

林蔵と細かい打ち合わせをして、決行の日が来て、英恵が救い出されて。信彦はもう死んでも何の悔いもないと思った。副家は強攻策に反発したものの、もはや本家を揺する術は持たず、沈黙するほか無かった。本家に対してアドバンテージを確保しても仕方がなかったし、それに副家にとっても鬼子の制度はもはや重荷であったのだ。林蔵を熱愛した英恵が、白無垢に身を包むのを見る事が出来たし、孫の顔も見る事が出来た。

全てをやり遂げて、信彦は死んだ。インフルエンザをこじらせた、あっけない死であった。歴史の闇をこじ開けた人間とは思えないほどに、静かな終わりの時であった。

母と同じ鬼子だった娘を救うために、全ての力を擲った老人は、安らかな死に顔で逝った。

 

1,偶然と人災と

 

蛍光灯の明かりが隅々までくまなく照らす自室。調度品だけなら小学生の部屋らしい。だが、岩塩のスティックが常時配備されていたり、文化遺産級の巻物が転がされていたり。普通の小学生の部屋とは何もかもが違っていた。冬の肌寒い空気の中、発する音はほとんど無い。

銀月零香は手元にある巻物を一瞥すると、大学図書館から持ってきた資料に目を通しながら、大学ノートへ複雑な記号を写し取っていく。机上のパソコンにはスクリーンセーバーが点灯し、巨大な芋虫がダイナミックに葉の海の上を歩き回っていた。ショッキングなスクリーンセーバーだが、ぼんやりした頭をはっきりさせるには丁度いいので、コレにしている。集中が切れたらそっちを見て、また仕事を続けるのだ。

足下には、数ヶ月前に実体化まがつ神を倒して回収してきた箱が転がっている。朽ちた箱だが、ビロードが内張されていて、開けるとほんのりいい匂いすらした。入っていたのは、今零香の手元にある巻物である。巻物を閉じて結んでいた紐は劣化していて、触れるだけでぼろぼろと崩れてしまったが、幸い中身は無事だった。今はそれを解読中である。どうやら暗号表がないと何も分からない代物だというのは判明している。暗号表が何処にあるのかも大体分かっている。修練の合間にこつこつ進めてきた研究の成果だった。

草虎は側で見ているだけで、これに関しては一切手伝ってはくれない。最近はますます睡眠時間が減ってきているが、体力自体には問題がないし、何よりこれは自力で解析しておかねば意味がない。

肩を叩く。大体写し終わったからだ。巻物を綴じ込みながら、スクリーンセーバーをぼんやり眺めて意識を現実へと引き戻していく。そしてネットにアクセス、少しだけ追加の調査を行ってから、電源を落とした。毎日三十分ほどしか作業の時間が取れないから、解読には兎に角日数が掛かる。母の病院に見舞いにも行かねばならないし、拳も磨き上げねばならない。父と拳を合わせるようになってから、ますます日々は激しく動いている。動の極地である生活の中、こういう静の極地である行動は、どうしても疲労を蓄積させた。

額をぬれタオルで拭ってから、居間に降りて、巻物を金庫に入れる。重量三百キロの立派な金庫で、企業用の頑丈なつくりになっていて、ダイナマイトでも簡単には壊せない。神衣を付けた状態の零香でも、一撃で壊すのは無理だろう。暗号は一月に一度変えているし、零香と父しか知らない。更に零香と林蔵が二人がかりで見張っているわけだし、この中から金品を盗むのは不可能だ。

巻物を箱に入れて仕舞った後は、家系図を取り出す。三日月を介して大学の教授に頼んで調べて貰ったのだが、幾つかの噂が真実である事が既に分かっている。長い家系図を床に走らせ、今日新たに入った情報と照らし合わせる。インターネットで調べた年表を側に広げて対比し、間違いない事を確認する。

「やっぱり……ね」

「うん? どうした、零香」

「間違いない。 関ヶ原の戦いの二十年前に当主が替わって、戦後すぐに死んでいる事は分かっていたんだけれど、当主の母方の素性が分からないんだ。 教授に調べて貰ったんだけど、この人、正体が掴めない。 少なくとも、近くの名家に名前はない。 寿命が短い当主の親は、必ずどちらかの素性が分からないんだ。 更に半分くらいの確率で、親が当主じゃない。 そしてもう一つ、どういう訳だか知らないけど、どの人も産まれてすぐには家系図に名前を載せていない。 長男ですらね。 ほら、ここ。 この系図の並び方を見て。 殆どの場合は成人してからか、死んでからなんだよ。 そうでないと、この書き方に説明が付かないんだ。 これって、一体どういう事? こんなおかしな家系図、他には多分ないよ。 教授も、首を傾げてたって」

零香が指を走らせる家系図には、不可解な点がまだ幾つもある。零香も巻物を入手してから独学で調べたのだが、浅く囓った知識でも妙な点がごろごろ見付かるのだ。

「そして、この辺見て。 死んでいる子供達の年齢なんだけれど、当時の平均寿命を加味しても、若くして死んでいる人が多すぎるんだ。 早死にした当主の前後、この辺りなんて、特に多い。 生まれた子供が、五歳まで殆ど生き残って無い事だってあるよ」

「……レイカ。 お前はどう考えているんだ?」

「まだ情報が少なすぎて何とも言えないよ。 ただ……霊的な意味ではなくて、もっと別の、現実社会に即した所で、この家には考えられないような闇があるのは間違いないと思う。 旧家だから差別があるとか、旧家だから体制が古いとか、そんな薄っぺらな理由じゃない。 事実銀月家は何かある度に上手く立ち回って、その度にほとんど例外なく当主が若死にしているんだ。 わたしじゃなくても、何かあるって一目で分かるよ。 それが、あの……母さんが入れられていた座敷牢に関係しているって事も、ね」

そう言う意味では、座敷牢の存在と、巻物を入手している時点で、零香は非常に有利な立ち位置にいると言う事になる。

あの座敷牢があった屋敷は、零香が突入した翌日中に、中月に手を回して一旦封鎖した。その後桐と二人がかりで中を丁寧に除霊、めぼしいモノがないか徹底的に家捜しした後、塀を残して全部ぶっ壊した。残っているのはわずかな瓦礫とクレーターだけだ。だから、もうあそこが副家にとっての切り札になる事はない。あの屋敷全体に掛かっていた、歴史的な意味での呪いは死んだのだ。

「草虎。 わたし……母さんを助けたい。 父さんがくっだらない世間から守り抜いてきた母さんを助けたい。 それには、銀月の闇をもっと良く知らないと無理だよ。 だけど、何だろう。 この先には、踏み込んでは行けないものがあるような気がする。 でも、それと戦わないと、何も解決しない気もする……」

「そうだな。 ただ、私にアドバイスする事があるとしたら」

草虎はわざわざ言葉を切る。顔を上げて、複眼を見つめてくる零香に、白虎の神使は敢えてそんな芝居がかった言い方をした。

「レイカはもうメンタル的に子供ではない。 そればかりか、平和呆けしたこの国に暮らす殆どの大人よりももう「大人」だ。 精神的な不安定さは確かにあるが、お前が思っているほど子供ではないぞ。 父が認めた今なら、レイカ、お前は社会的な闇と互角以上に戦えるはずだ」

「……そう、なのかな」

「同学年の子供達を見て見ろ。 お前とまともに勝負出来る者が一人でもいるか? 暁寺で拳を合わせている高校生の男子達を見て見ろ。 大人だと思った事が一度でもあるか?」

答えはノーだ。大人の中でぎりぎりの鍔迫り合いにも似た駆け引きをしてきた零香にとって、中学生など今だままごと遊びに興じているような子供にすぎない。相手は年上だというのに妙な話だが、精神的に幼すぎる。殆ど考えている事が手に取るように分かってしまう。高校生だってそう大差はない。

零香の場合、大人を侮っているのではなく、並の大人以上に厳しい環境で良質の経験を得続け幼い頭を鍛え抜かれた結果、尋常ではない強さに鍛え上げられてしまったというのが正しい。だから、むしろ子供よりも、大人との方が話があう。この年で、精神的に錬磨を通り越して老けてしまっているのだ。身体的にはこれから漸く色気が出て来るという年頃なのに。

これは不幸だといえるのだろうか。ならば神子相争に参加せず、全てを失って精神的に死んだ方が良かったのだろうか。答えは否だ。どんなに辛かろうと、死ぬより生きている方が何十倍もましだ。これは零香が自身で選んだ道。今後自分の精神年齢と肉体年齢のギャップを、努力と実力で埋めて行かねばならない。

複雑な漢字に触れ、草虎に教わり続けた結果、大概の漢字はもう読む事が出来る。圧倒的な集中力が、それを可能にしているのだが、逆に爪を隠すために、一般人の前ではある程度愚鈍なふりをしなければならないのが面倒ではある。

「ありがとう、草虎。 ……副家の狙いは何だろう。 反動的な復古主義とか、そういうのじゃないとは思うんだけれど」

「世の中の凶事は、必ずしも全てが人為的な原因によってもたらされる訳ではない。 裏に常に大きな陰謀が存在しているなどと言うのは、ただの被害妄想だ。 一度、もう少し浅いラインから、副家を洗い直してみるというのはどうだ?」

「分かった。 ただ、ね。 どうも何かわたしに対する悪意を漠然と感じるんだ。 それが副家と別だとすると……いったいなんだろう」

「どちらにしても、激しい修練の後だ。 今日はもう眠った方がいいだろう。 少し甘いものが不足しているようだから、山崎女史に言っておくといいだろう」

山崎というのは、春から来ている新しい家政婦だ。誠実な仕事をするおばさんで、零香に対して結構世話を焼く。ただ、零香としては、どちらかと言えば母にそうしてほしいので、複雑である。母はまだ病院から出る目処が立っていない。暴れる回数は減ってきているそうなのだが、一度刺激されたトラウマは精神に重大な影響を与えているらしく、病院側も手を焼いているという。零香が自分の顔を見せる事を提案したが、拒絶された。精神が極めて不安定になっている今、そんな事をすればどんな影響があるか分からないから、というのが解答であった。

最近、夢を殆ど見なくなった。短時間で一気に深い眠りに落ちて、体力を回復する技術を身につけてからだ。レム睡眠を見なくなったからと言うのは理論的に分かるのだが、全てがおかしくなる前の夢を見なくなったので、無駄になる体力が減って少しだけ心地よい。同時に、少しだけ寂しい。草虎は少し高度を上げて、触手を揺らしながら言った。寝る前の標準動作だ。

「おやすみ、レイカ」

「うん、おやすみ」

部屋の電気を消すと、布団の中で丸くなる。思考を閉じて、脳を強制的に眠らせる。現金なものだった。疲れからか、休眠を欲していた脳は、見る間に睡眠へと移行していったのであった。

 

睡眠が足りないときは昼休みにでも補給する。午後には激しい修練を経て、夜には人に見せられない訓練を行う。

夜のビル街を零香が駆ける。何度か通った道だから、人間の動線は把握している。この辺りは治安が良いが、時々ちんぴらの類が暴れていたりするので、場合によっては匿名で警察に通報したりもするが、それはそれ、これはこれ。ビルの屋上を蹴り、隣のビルに飛び移り、すぐに次へ。目指すのは、O市としては郊外にある(といっても、東京に近いため中心部よりも遙かに都会だが)大きな会社ビルだ。規模的には嬰児の本社ビルに劣るが、務めている人員の数は二倍強。夜も不夜城の如く明かりが灯り、明かりが消えているからといって油断は出来ない。

目的のビルにつく。隣のビルの屋上、その物陰に隠れて様子をうかがう零香は、既に進入路の選定に入っていた。今日はビル内に宗吾が居るそうだが、警備の数は多少多い程度である。気にする事はない。

副家の長銀月宗吾は幾つかの会社の会長を務める銀月家のナンバーツーだ。彼によるクーデター計画はナンバースリーの銀月嬰児が完全に零香の膝下に入ってから足踏みを続けているが、諦めたわけではない。むしろ焦りを覚えた彼は、完全に本家に傾きつつある分家に対して、かなり無理な引き寄せ工作を始めていた。

零香も何度か副家に忍び込んで状況の洗い出しをしているのだが、家政婦のうわさ話や、金庫外に放置された書類程度では真相は全く見えてこない。宗吾の電話なども盗み聞きしたが、これと言って素晴らしい情報は入らなかった。そればかりか、宗吾も最近零香に情報が漏れている事を察知してか、用心深くなってきている。

一体どんな複雑な事情があって、こんな空き巣まがいのクーデターを企んだのか。零香はそう考えて、さまざまなラインから相手の目的を探ってきた。だが、今の時点でも、どうしても分からないのである。

愛人関係では無いようだし、彼の子供は兄妹ともにごく平凡な高校生として生を送っている。愛人が居るわりに夫婦生活は普通のようであり、奥さんは愛人がいるのを知った上で黙認しているらしい。一種の病気だと諦めているのかも知れない。まあ、多少腐ってはいるが、普通の会社重役の生活であり、特にわざわざ本家に喧嘩を売る理由が見あたらないのだ。怨恨という線も考えたのだが、父さんと宗吾は関係が薄く、それも殆どまずあり得ない。

数ヶ月前の、座敷牢屋敷に派遣されてきたプロも、マスコミには公開されない程度の機密性を保った組織だというのは分かっているが、それを雇った経緯はまだ分からない。どうも副家も鬼子の情報を得たいらしいのだが、その理由が分からないのだ。あの屋敷の様子からして、母さんの他にも何人かを監禁して非人道的な扱いをしていたのは間違いない。そんなのが世間に知れたら正に銀月家は終わりだが、それをネタにして本家を揺するとはどうしても思えないのである。副家も確実に共倒れになるからだ。一体副家は何がしたいのだろうか。銀月家の闇の歴史同様、分からない事だらけであった。

そこで、零香は今まで副家の家屋中心だった探索を、副家所有の会社中心の探索へと切り替える事にした。

副家の所有する会社物件は東京、大阪にまで支店を構えているが、まず狙うのはO市内にある、副家の主力社である。これはどういう事かというと、他の県や市で展開している会社は、殆どが副家もそれほど財力を注いでおらず、本家に喧嘩を売るほどの重要性があるとは考えにくいからだ。

理由はもう一つ。数ヶ月間の修練の結果、そろそろ神衣無しで町中での修行が可能になってきたからである。まだ流石に誰の視線にもとまらず人混みを抜けると行った大技は無理だが、それでももうニアミスはほぼしない。神衣を付けないと身体能力が数分の一になるため、気をつけなければならない事は多々あるが、それでもほぼ大丈夫になってきた。その自信を元に、企業ビルの内偵を開始したのである。

流石に、企業ビルの内偵は一般家屋のそれとは難度の桁が違った。物騒な現代、警報システムは何処の企業でも標準的に採用しているし、ガードマンの夜間巡回も珍しくない。これは案外厄介である。短時間ビルを制圧するというのなら簡単だが、零香の目的は痕跡を一切残さず、情報だけを浚い上げる事だ。つまり人間より遙かに精度が高い感覚器官の巣を通り抜けて、なおかつ痕跡を残さず獲物を奪わなければならない。言うまでもなく、難易度は高い。忍者も実際に城などに忍び込むのは最終手段にしていたという話を草虎に聞いたが、頷ける話であった。まして現在の技術は、戦国の世とは比較にならないのである。

最初は神衣を用いて、感覚を掴んだ。監視カメラの前でわざとタイミング良くその辺で拾った適当な物体を放り投げて、どれくらいなら気付かれないのか、感覚的な実験もした。赤外線探知装置の実物も見た。ガードマンを見つけては、どんな経路で巡回するのか、丁寧に調べ上げていった。

最初に実験の対象に選んだ建物を、完全に洗い上げるまでほぼ半月掛かった。次の建物は神衣無しで挑戦、これも同じくらいの時間が掛かった。だが、後は倍々ゲームで時間が短縮していき、今は、三日ほどもあれば七階建てくらいのビルを綺麗に洗い上げる事が出来るようになった。

血で血を洗う実戦で鍛え抜いた圧倒的な集中力が、常識外の学習効率を可能にしている。それでも当然限界はある。本当だったら真っ先に副家の本社ビルを調べたい所だったのだが、小さな企業ビルで一度見付かりかけてから慎重になっている零香は、きちんと経験を積んでから手強い相手に挑む老獪さを身につけていた。人間の強みはその文明と発展性にある。相手が盆暗でも機械のサポートがある場合は侮れない。そして零香に関しても、それは例外ではない。

まずは一目を気にしながら、裏通りに面したビルのカベに飛び移る。音を立てないようにカベに張り付いた後は、そのまま窓枠などのとっかかりを利用して、一気に屋上にまで登り上がる。神衣が無くとも、コレくらいは今やたやすい。もっと厳しい状況のカベを、神子相争で何十編も這い上がったからだ。

音を立てないように、ハンカチをくわえる癖は、淳子のやり方を見て学習した。これだとブレッシング音を消せる上に、口にものを当てる事が出来て精神的な落ち着きも保ちやすい。タバコにしても飴にしてもガムにしても、殆ど全てが口に入れる事で精神の安定を保つ材料にしている。ハンカチの場合は金もかからないし、何より清潔で良い。

屋上まで這い上がって柵を越えると、事前に確認しておいた監視カメラの位置を再確認し、動きに合わせてさっと死角に潜り込む。そして屋上の扉ではなく、換気口から潜り込んだ。換気口を外して身を潜らせ、内側から閉じ直すまで約七秒。体が小さいという事を最大限に利用し、とりあえず廊下の天井に張り付いて一息。そのままヤモリのように埃が薄く積もる天井を這い、外側から確認した動線を目で見て補強しながら、階下へと進む。天井の真ん中を使うのではなく、角の分を上手く使って、体重を支えるのだ。隅は影にもなっているので、内部にいる人間に見付かりづらいという事情もある。

今日は顔見せの予定だ。進入路も毎回変えるつもりである。流石に警備会社もバカではない。何度も同じ所から侵入したら気付かれる。

ざっと見たところ、四カ所くらい侵入出来そうな所があった。六階建てのこのビルだが、四階より下にしか、夜間は普通の社員は詰めていないようである。しばらく五階六階をはい回った零香は、何カ所か、喫煙所と休憩所の目立たない所に盗聴器を仕掛けると、ビルを後にするべく、さっき目を付けた出入り口の一つに向かった。犯罪だが、盗聴器は副家のスパイになった家政婦が月に二回くらい仕掛けてくるから、これでおあいこである。むしろ今まで見逃してやったのを感謝して欲しいほどだ。

出るべく、零香は出入り口に定めた場所を見上げた。六階の給湯室で、丁度いい具合の場所に小さな窓があり、しかも鍵が開けっぱなしになっている。調べてみた所、鍵が壊れている上に、触りにくい場所にあるので、放置されているようだった。排気筒があるので火傷しないように気をつけなければならないが、それさえ注意すれば大丈夫。さっき外側から確認したときも、特に危険なものは見あたらなかった事だし。

窓を開けて外に這い出す。痕跡は一つも残していないし、盗聴器にも素人にはそう判断出来ないレベルの代物だ。プロの手に掛かっても、証拠にならぬように、直に触ってもいないし、他にもさまざまな配慮はしてある。

カベを這い降りた零香は、素早く路地裏に潜り込み、別のビルを素早く這い登る。廃ビルになっている其処の陰に隠れて、ひとまず一息つく。岩塩のスティックを取りだして囓りながら、隣に浮いている草虎に言った。

「明日はもう少し奥まで行ってみたい所だね」

「そうだな。 最近は安心してみていられるほど、レイカは慎重になってきた」

「ありがとう。 それにしても、今日も結局何も分からなかった。 少し苛立たしいよ、もう」

「そういうな。 このビルを張っていれば、じきに進展があるはずだ」

実はわざとわかりやすい場所に盗聴器を配置して、本家のスパイが居るように見せかけ、宗吾に対して心理的圧迫を行うという手もあった。だが、それだとただでさえ追いつめられている副家が暴発する可能性がある。多少の暴発など怖くもないが、母さんの事がもし連中に伝われば面白くない。

「……草虎は、どう思う?」

「さてな。 今はまだ情報が少なすぎる」

「それもそうだけど、副家は一体何処まで銀月の闇を知っているのかな」

「それもまた、父君に聞くしかないだろう。 或いは今得ている情報で、推理する事も可能と言えば可能か」

謎は少しずつ解きほぐされて来てはいるが、新たな謎がまた新たな謎を次々に呼んでいる。草虎は零香よりも明らかに思考を進めているが、具体的な所には触れてくれない。大事なことは最終的に自分で考えろ。それが無言の、ずっと変わらない彼の主張である。

岩塩のスティックを噛み折って、今日は引き上げようとした矢先であった。零香の携帯が鳴った。

 

どれくらい前から、零香が銀月の闇を調べていると狼次郎が知っていたのか。零香に心当たりはないが、思えば狼次郎に弟子入りした頃には、もう知られていたのかも知れない。

巻物の調査には狼次郎のつても使っているし、今知られているのは分かり切っている。知っている上で、危険な事はするなと釘を差す以外、放任してくれた恩師である。尊敬出来る大人だと、零香は素直に思っている。

その狼次郎が、覚悟するようにと前置きして、零香を東京にある大学に連れて行った。電車の中ではいつものようにスポーツ新聞を熱心に読みながら馬の名前の横に色鉛筆でよく分からない文字を書き込んでいた狼次郎であるが、知り合いの教授が居るという国立大学の門を潜ったときには、もう顔つきが代わっていた。

休日ではあるが、零香はお洒落をせず、動きやすい服装に身を固めてきた。足下はお気にいりのスポーツシューズに固め、指先が出るタイプの手袋は革製。肩に片掛けした浅黄色のリュックには地図と弁当の他に、タオルや岩塩スティック、それにいざというときに備えて色々とサバイバル系のグッズを持ってきている。サバイバルも可能だし、いざというときはそのまま戦えるほどの装備である。これは紋付き袴とならぶ、零香の勝負服であった。

和服の狼次郎は学生達の間をすいすいと通り、零香を連れて研究棟の一つの前に立った。すぐ側には四階建ての箱形をした図書館が白磁の巨体を晒しており、若くて煌びやかな衣服に身を包んだ学生達が、戦いなどとは100万光年は離れた心理のまま、笑顔で行き交っていた。平和な光景であり、別に苛立たしいとも思わない。

零香が三日月のつてで使っている教授と此方は違う線であり、どういう人なのかもよく分からない。エレベーターで研究棟の三階まで上がる。大学はもう少し綺麗な所かと思っていた零香であったが、小汚いので少し驚いた。カベは汚れているし、窓枠にはガムやら虫の死骸やらが詰まっていて、電球にも切れかかっているものが幾つもある。狼次郎に連れられて、L字型になっている棟の最奥まで進むと、小汚い研究室があった。山南民俗学研究室、と表札にある。皺だらけの、だが内部に尋常ならざる力を内包した拳で、狼次郎が戸を叩くと、返事はすぐに帰ってきた。

「山南。 儂だ。 戸を開けてくれぬかな」

「はいはい、開いていますよ。 勝手に入ってください」

引き戸を開けると、古紙の匂いが埃の匂いと混じって、むわっと覆い被さってきた、無言のまま顔の前で匂いを払う零香。研究室は人の背ほど迄もさまざまな文献が積み重なっており、部屋の一番奥にはカーテンの付いた窓、その手前に全く整理されていない机に腰掛け、白衣の男が背を向けて座っていた。声からして中年の男性だろう。

振り返った男は、猪のように丸く潰れた顔をしていた。鼻は大きく、顔中脂ぎっている。口調は丁寧で紳士的だが、強烈なインパクトを相対者に与える容姿である。

「零香、紹介しておこう。 これは山南一郎。 儂の教え子の一人だ」

「山南です。 君が銀月零香君ですね? 話は聞いています。 林蔵さんと同じか、それ以上の素質の持ち主だとか」

「光栄です。 それで、わたしに用って何ですか?」

「お、躾もしっかりしていますね。 野獣のような子だったらどうしようかと、少し心配していたのですよ」

ある意味それは間違っていない。隣で草虎がくっくっくと声を殺して笑っていた。流石に少し頭に来たが、コレくらいで腹を立てていては始まらない。

「銀月家の闇について調べていると言う事なのですが、私の方で興味深い資料を見つけましてね。 興味があるのではないかと思ってお呼びしました」

「どういう資料ですか?」

「儂は外していよう。 用が終わったら、研究室から出てきなさい」

狼次郎が話し半ばで外に出ていった。気を利かせてくれたのが半分、スポーツ新聞を読んで競馬の予想を立てておこうとしたのが半分だろう。あまり大金をかけないから良いのだが、時々冷や冷やさせられる。

元々この手のギャンブルは客が勝てないようになっているものだが、狼次郎の負けっぷりは清々しいほどなのだ。競馬だけではなく、麻雀も賭け碁も、狼次郎は死ぬほど弱い。一度などは、時々寺に遊びに来るひ孫だという幼稚園児くらいの女の子に、ババ抜きでコテンパンにされているのを見た事がある。競輪もパチンコも全く駄目だそうで、この辺り日本でも五指にはいるだろう武術家の微笑ましい一面がのぞけて面白い。

僅かに笑顔を湛えて零香は狼次郎を見送ったが、その表情が無意味に大人っぽかったらしい。そうとしか考えられない質問を、山南はぶつけてきた。

「……ふむ。 君は今何歳になりますか?」

「十二歳です。 今年の春に中学生になります」

「ならば少し刺激が強いと思うのですが……ううむ……」

「子供の使いでもあるまいし、呼び出したのだから教えて下さい。 これでもわたしは、血で血を洗う一族内での権力闘争にずっと身を置いてきました。 大概の事には免疫が出来ています」

さらりという零香の言葉に、誇張は一切ない。分家の連中は、少しでも油断すれば尻の毛一本まで引き抜いていくような奴らだし、零香が生半可な相手などものともしない事が知られているから手は出してこないが、そうでなければチンピラでも雇って極めて非道徳的な犯罪行為をさせかねない。事実分家の誰かが雇ったと思われるチンピラを三回、合計十四人半殺しにして病院送りにしている。連中は後で中月の者達によって制裁を受けたらしいが、安司が勝手にやった事など、零香の知った事ではない。大体小学生を五人がかりで襲おうとするちんぴらなど、八つ裂きにされても文句は言えないのだから、同情する理由も必要もない。

戦いをこなして、そういった鋭利な考えを身につけている零香の言葉には、大人である山南を納得させる重みがある。重みは言葉の落ち着きに宿り、山南は口ごもりながら、油だらけの髪の毛をかき回した。

「うむ……そうか……ならば……ふうむ……」

「もったい付けないで、早くして頂けますか?」

「あ、うん。 分かりましたが……しかし後悔しないで欲しいのです」

言いにくそうに呟くと、山南は零香の目から視線を逸らした。多分人付き合いが苦手なタイプなのだろうと、その反応から零香は推察した。

「実は、大学書庫の奥から、興味深い研究資料を発掘しました。 その中に、銀月の興味深い噂が綴られていたのです」

「何でしょうか」

「銀月は人為的に、天才を作り出せるというのです。 戦乱の時代や混乱の時代を乗り切る事が出来たのは、その秘密があったからだとか。 しかも戦乱が済んだらさっさと死んでくれるような、家にとって極めて都合が良い天才を作り出せるのだといいます。 あくまで噂ですが、ね」

「なっ……!」

絶句した零香に、山南は参考資料の概略を説明し始める。

参考資料は江戸時代中期の旗本が残した日記である。銀月同様の大身旗本である彼は、老中を出した事もある家系であり、さまざまな江戸の裏情報を握っていた。ただし文章が下手くそな上に異常なくせ字で、しかも無闇に長いため、研究が進んでおらず、書庫の奥底に眠っていたのだという。そういった研究しづらい資料を丹念に調べるのが、山南の得意とするドブ浚いと呼ばれる仕事だ。この名称はこの大学だけのローカルルールだが、山南はそれをいやがりもせず続ける変わり者としても知られている。

この資料によると、旗本の元には銀月のさまざまな噂が流れ込んでいたのだという。地位はあるが金はない旗本にとって、地位に興味を見せないが金持ちである銀月は何かと気になる相手だったらしい。そんな事情から、銀月を無闇にライバル視していた旗本は、それにいちいちコメントを残し、整理していたのである。

曰く当主が無闇に有能なのに、不自然に早死にする。そういった当主の両親のうち、どちらかの素性が知れない。それらは零香が独自の研究と発注研究で探り当てたものであった。江戸の昔にも、情報力が桁違いだとは言え、同じ結論を割り出した人が居たのだ。山南は更に、頭を掻きながら続けた。

「更によく分からない噂を、この旗本は耳にしていたようです。 戦乱が起こる少し前、銀月はそれを嗅ぎつけると言う。 どうも独自の情報網を展開しているらしいのだが、問題はその次です。 銀月が時々、子供を買い取るのだそうです」

「子供を?」

人身売買は、昔では当たり前の事であった。この日本でも、戦争が始まる前までは、農地などでごく普通に行われていたのである。無論商売になるから、人さらいも普通に存在していた。買われた子供は性奴隷などとして精神がすり切れるまで使われたり、工場などで安月給の中壊れるまで酷使された。忌むべき歴史だが、それがあったことを事実として認め、再発がならぬように手を打つのが建設的なやりかただ。

「そして、買い取る子供は、殆どの場合不義の子供だとか……」

「……要するに、浮気や、犯罪行為で出来てしまった子、という事ですか?」

「それもあります。 それもあるのですが……近親交配で出来た子供の話を聞き取ると、確実に買い取りに銀月の手のものが向かったのだそうです。 大名家などから買い取った例もあったようです。 旗本はそれらに対していぶかしんではいますが、ある種の尻ぬぐい的なサービスだろうと結論して、それ以上の疑問は抱かなかったようです。 ただ、銀月は天才を人為的に作り出せるのではないかと思い当たり、しかしそんな事は妄想だと自戒して、以降はそれを日記に記述していません」

零香の背中に悪寒が走り、それは紙に落ちた水滴のように、見る間に自らの領域を拡大させていった。何か、知らない方がよい事に、足を突っ込んでしまった。それを零香の本能が悟っていた。零香の頭の中で、バチンと音がして、入っては行けないスイッチが入ってしまったのだ。一度スイッチが入ってしまうと、工場のベルトコンベヤーのように、或いは滝の水のように、思考は止まらない。

止めようとしても、もう無理だ。なぜなら、理解してしまったから。零香の頭の中で、無数の言葉が、洪水のように流れゆく。

本当は、もう見当が付いていたのではないのか?本当はもう、分かっていたのではないのか?本当はもう、状況証拠が揃っていたのではないのか?不自然な家系図、都合良く現れ、短命に果てる天才。大量に出る早死にの子供。狂気の座敷牢。狂気、狂気、狂気、狂気、狂気、狂気。まがつ神を引き寄せるほどの、濃厚な、異常なまでの狂気!

 

ぎゃははははははははははははははははははははははは!

 

誰かの嬌笑が、頭の中で炸裂した。それが自分のものだと気付くまで半瞬。零香の頭の中で、スパークが炸裂した。

膝が笑う。滝のように汗が首筋を伝う。山南は零香の不調にも気付かず、むしろ淡々と、その次を言った。

「あくまでこれは仮説ですが……」

「いや、もう止めて。 お願い」

「え? し、しかし」

もう分かってる! 止めろって言ってるんだっ!

爆発した零香の怒気が、山南を直撃した。絶句した彼は机に懐いてしまい、それで零香はようやく我に返る。実戦経験もない人間が、とんでもない濃密な殺気を浴びたのだから当然だ。浴びた山南もただでは済まなかったが、浴びせた零香も同じであった。物凄い悪寒が沸き上がってくる。呼吸が乱れ、さまよっていた目の焦点が合ってくる。膝を折るような無様はしない。脊髄に文句を言って、無理矢理体を立たせながら、素直に謝った。額には玉のような汗が、冬の暖房も利いていない部屋だというのに浮いていた。

「ごめんなさい、山南先生。 ただ、其処から先は、父さんに確かめます」

「そうですか。 いや、私こそすみませんでした。 銀月の家に生まれた貴方の事を考慮せずに、ついつい研究の発表を楽しんでしまって……」

「……ひょっとして、自殺願望でも持ってるんですか?」

「ひっ! い、いえ、そんなつもりでは……ごめんなさい」

「いや、すみません。 まだ、気が高ぶったままのようです。 今日は、有り難うございました」

丁寧に頭を下げて、研究室を出る零香。まだ足下は覚束なかった。幾ら配慮が足りない発言だったとは言え、殺すと言うほどでもなかったのに。研究者のコミュニケーション能力が低いのは標準的な事だし、少し大人げなかったと思う。

殺気を抑える事が出来ないほどにまで動揺していたと、今更ながら悟った。今の瞬間、漏れ出た殺気は、多分研究棟全体を天から駆け下りる雷が如くに貫いただろう。勘が鋭い人間は、多分思わず顔を上げて辺りを見回したはずだ。

「まだまだ、修行がたりぬな」

研究室の前で待っていた狼次郎は、ただそれだけを言い、零香の頭を撫でた。零香は泣かなかった。師父にすがる事もなかった。狼次郎の節くれ立った優しい手が、頭を撫でるのに、ただ任せていた。

帰り道、零香は一言も発しなかった。草虎も狼次郎も、深く傷ついた零香を気遣ってか、無言のまま見守ってくれていた。

 

夜闇が冷たい。ビル街の頂点を走り抜く零香は、頭上に輝く月を見る。まんまるい、まるで銀の皿のような月であった。どうしてか心が騒ぐ。無意識のまま、岩塩のスティックに手を伸ばしてしまう。

「ねえ、草虎」

「なんだ?」

「あの時、狂気が、内側からせり上がってきたんだ。 その時感じたんだよ、津波みたいな、吹き上がるような、弾け散るような物凄い力を、ね。 冷や汗が流れたけど、同時に胸が興奮に高鳴った。 理性も全部何もかも取っ払って、全部狂気のまま体を動かしたら、どうなるんだろうね」

「死ぬぞ。 もしそれをやるつもりなら、明日から修練だ。 リミッターの外し方から、私が丁寧に教え込んでいく。 さっきのまま戦うような事は、断じてあってはならぬ」

副家のビルがもう間近に見えている。零香は舌なめずりすると、狼次郎ではないもう一人の師に返した。

「上等。 よろしくおねがい」

「いや、構わぬ。 いずれは教え込まねばならなかった術だ。 それに、白虎の神子である以上、狂気との共存は避けられない。 狂気は白虎の特性の一つで、殆どの白虎神子は、最後の切り札としてきた最強の力だし、な。 ……激しい実戦を潜ってきた以上分かっていると思うが、強さと理性は全然別の話だ。 聖人君主が強いというわけではないし、むしろ最強なのはリミッターを欲望のままに外した狂人である事が多い。 北欧のバイキングにおける職業戦士バーサーカーというのも、幻覚作用のあるキノコや薬物で人為的に精神的なリミッターを全て外した連中であるし、な。 人為的にコントロールするのは、著しい精神力を必要とする。 難しいぞ」

「うん。 頑張ってみる」

ビルに張り付くと、這い登る。これも修練の一つ。昨日確保しておいた、六階キッチンの小窓は、まだ開いていた。警備の手が入っていない事も入念に確認すると、ビル内部に潜り込む。

零香には、更なる強さが必要だった。そのためには、こんな所で足踏みしているわけには行かなかった。

眉をひそめた。気になる会話を耳が拾ったのだ。そのままヤモリのように壁のとっかかりを利用して天井を這い進み、階下へと進む。修練に、まだまだ終わりは見えない。

 

2、黒き婚約

 

すっかりやせ細った黒師院桐の母黒師院双葉は、隈を作った目で娘を見た。睨んだのではないのに、物凄い圧迫感を感じる。神子と戦っているときほどではないが、桐は母が何かを決意したのを悟った。

屋敷の、母の部屋での事である。母は黒電話をデスクに載せており、書類をろくに電子化もせずに並べ、処理するときもいちいち鋏で裁断して処理している。彼女の時は夫が死んだときに止まってしまったのだと、こういう光景でいちいち思い知らされる。厳しかったが優しかった。警戒心は強かったが美しかった。桐を会社よりも優先して動いてくれた、そんな母は、既に死んだのだ。だが、母自身はまだ生きている。今はただ、幸せになってくれる事だけが、桐の望み。

「桐、大事な話があります」

もう一度、双葉の目が動いた。落ちくぼんで、眼光だけ鋭くて。長くて美しい髪は、今や乱れを隠しきれない。メイドの鄙もそれを見て、いつも悲しそうにしている。桐だって悲しい。

「母様、なんでしょうか」

「貴方に、婚約の話が来ています」

意味が理解出来なかった桐は、笑顔のまま小首を傾げてしまった。しかしその恐ろしい意味にすぐ気付く。

上流階級の間では、幼い間に婚約者を決めてしまうのは良くある事だ。現在の日本でも、それは時々あるのである。高級官僚や政治家の中には結婚相手の能力よりも血筋を重視するような旧態依然の輩は決して少なくなく、そういう輩が主な婚約者設定の担い手だ。つまり、である。

「貴方に強制するつもりはありません。 貴方の意志で、どうするかは決めなさい」

「母様……」

「私にも、一件同様の話が来ています。 悔しい……ですが」

双葉は頭を下げる。悲しいから頭を下げたというのではない。恐らくは、精神的な疲労が極限まで来てしまっているのだ。乱れた髪が机に掛かる。

事情は話して貰わなくても、嫌と言うほど分かった。黒師院が落ちる所まで堕ちるのを見計らった何処かのバカが、母の弱みにつけ込んだのだ。首を引きちぎってドブに放り捨てて蛆虫の餌にしてやりたい所だ。今までにないほどに濃厚な殺意が、桐の心の中でのたうち回った。物凄い殺気をまき散らして攻撃してくる零香と、同じくらいの勢いで暴れられそうであった。

母はまだ、黒師院家を切り盛りできるようになれば、粉々に千切れ飛ばされたアイデンティティを取り戻せると思っているのだろうか。思っているのだ。だからこそに、屈辱に体を掴まれながらも、必死に希望だと思っているそれに手を伸ばす。伸ばしても絶対届かないそれに、必死にすがりつこうとする。世間の嘲笑が、どれだけ疲れ切った心を打っても、体を切り裂いても。見ていられない。鄙が時々泣いているのを、桐は知っている。源治もそうだ。そして、桐だって同じである。

「考える時間はあまりありません。 早めに決断しなさい」

「母様。 もし私がその話を受けたら、喜んでくれますか?」

疲れ切った母の顔に、慚愧の念が浮かんだ。母だって知っているのだ。これが単に、最後に残った黒師院という名をも貪り食おうという、クズ共の下卑た考えの結実であると。そんな奴らに媚びを売って見せた所で、黒師院の栄光は戻ってこないと言う事だって。認める事が出来ない、ただそれだけなのだ。心が弱くなったため、こんな事も決断出来ない。

砕かれたアイデンティティを拾い集めようともがく、羽が彼方此方欠けた蝶。かっては月夜に美しい鱗粉を撒き飛び、オスの蝶をこぞって虜に、いや組み伏せ従えていた彼女は、もういつ蜘蛛の巣に掛かってもおかしくないほどに弱っていた。

見合い写真を受け取ると、考えてみますと言い捨てて、桐は自室に戻った。同時に涙腺が決壊し、写真を放り捨てて、床に崩れてしまう。声を殺して、必死に感情を落ち着けようとするが、上手くいかない。母の弱体化を徹底的に見せつけられた今ほど悲しい思いをしたのは、自殺を決意した夜以降初めてだった。

零香の前ではいつもしゃあしゃあとしている彼女も、自室では泣くし弱音も漏らす。百戦錬磨の神子達の中でも、飛び抜けて悪知恵が利く彼女だって、心は一応持っているのだ。

数分間泣き腫らした桐は、それだけでどうにか心を落ち着かせる事が出来た。一分以内に立ち直りたい所だが、まだまだ精神鍛錬が足りない。目を擦って涙を拭うと、ハンカチで綺麗に泣いた痕跡を消していく。

クリーム色の紙に縁取られた見合い写真を広げてみる。髪を七三分けにした、やせ形の青年が写っていた。一目でオーダーメイドと分かるスーツを着ていて、眼鏡は黒縁だ。長四角の顔は写真を撮り慣れているのか写真家の腕が良いのか、表情らしいものが感じられない。光源も嫌みなほどに完璧だ。

写真の裏側には経歴が書かれていた。東大在学だという、見かけだけ立派な青年の写真が収まっていた。学部は当然のように法学部。少し頭の中の検索機能を使ってみると、一分弱でヒットした。昨年任期を満了したK県知事の息子だ。そういえばあの家は新興勢力だとかで、名声のある旧家との縁を欲していたはず。となると、黒師院との婚約は、本来の目的が狙いではあるまい。

「おお、なんじゃの。 恐らくは、黒師院の名が持つ特殊なネームバリューを吸収したがっているだけじゃろうのう」

「八亀もそう思いますか?」

桐はずっとさっきから側にいてくれた八亀に、笑顔で応える。三葉虫の姿をして齧歯類が好物の、好色な神使八亀は大きく頷いた。

「おう、おう。 どうせ婚約した所で、骨の髄までしゃぶり尽くされるだけじゃて。 双葉ちゃんも、そんな事も分からないほど疲れ果ててしもうたのだのう。 悲しい話じゃのう。 ただ痛めつけられるだけの戦いでは、いつかあれほどのおなごでも消耗し尽くして、壊れてしまうのだのう」

「私、あいつら全員許しません」

「そう……だの。 双葉ちゃんをコケにし続けた連中は、いずれ後悔する事になるじゃろうのう。 だが、今はやめておけ。 まだまだ桐の実力では、連中を出し抜いて叩き潰すような真似は出来やせん。 短絡的な行動は、双葉ちゃんも巻き込んだ破滅を呼ぶだけじゃての。 我慢じゃ、我慢じゃ」

頷くが、若干の苛立ちが瞳に揺れる。分かっているから腹立たしいのである。桐だって、自分の現在の実力は客観的に把握している。

最悪に近い状況だが、これでもまだ改善して居るとも言える。桐の幸片つぎ込みと、双葉の必死の努力の結果、黒師院とのコネクションを戻そうと考えている会社も少数出始めているのだ。それらは主に双葉自身が世話をした連中であり、黒師院家よりもむしろ黒師院双葉に恩義を感じている者達であった。それによって、母の精神状態は致命的な崩壊を免れてはいるし、経済的にもわずかな付け届けが随分助かっている。

しかし、それらも所詮日和見の姿勢に過ぎず、黒師院を中核としてグループを形成しようなどという者は今だ出ていない。企業側の論理として、そんな事をしても何のメリットもないと言うのが、最大の要因である。大企業サイドは未だに黒師院家に良いようにされてきた事を根に持っているし、双葉に恩を感じている小企業としてもそんな考えを持つ大企業を敵に回したら、ひとたまりもなく叩き潰されてしまうと言う事情もある。

今までずっと自問自答してきたが、一度凋落した黒師院家を建て直す方法は二つしかないと結論出来る。

一つは、いうならば原点回帰型。一から全てやり直すのである。残った財産を集めて、最初っから何かしらの事業を始めるのだ。母の能力は実戦を重ねて能力を跳ね上げてきた桐から見ても決して低くない。着眼点さえ間違わなければ、大概の産業で絶対に成功出来るはずである。……最盛期の能力を、取り戻す事が出来れば。

ただ、問題が一つある。勢力がある程度以上になったら、黒師院の復活を怖れる大企業がこぞって潰しに掛かってくるだろう事だ。だがしかし、考えてみれば、黒師院家の者達を亡霊として呪縛してきた黒師院千代だって、最初は裸一貫から事業を始めたのだ。その亡霊にもっとも強く囚われている双葉だって、その気になれば出来るのではないかと、桐は分析している。

もう一つは、今母がやろうとしている、コネクションの再締結型。政略結婚などを利用して、コネクションを再接続する方法だ。そして黒師院家がその中央に居座る事によって、情報的ネットワークそのものを価値ある存在とし、再び権威を取り戻す。しかしこれには問題が多い。結婚自体は別にどうでも良いのだが、コネクションの接続など上手くいくはずもなく、それで食い物にされるのが目に見えているのだ。政略結婚などと言うのは、それを行ってうまみがあるからするのである。そんな事は桐にだって分かる。だから幾ら双葉が屈辱に耐えて好きでもない男の妻になった所で、何も状況は改善しない。

桐としては、口にはしていないが別の考えがある。もう拘りを捨てて、静かに生きようとして欲しい。別にべたべた仲良くなどしてくれなくても良いから、静かに側で微笑んでいて欲しいのだ。それが桐の、母に対する本音であった。母は身を粉にして働いてきたし、一族のために操を捨てて、尊厳だって放棄して尽くしてきた。隠遁生活に入って何が悪い。普通の人間が一生の間にする程度の肉体的精神的労働はとっくにこなしたのだ。だから、世を捨てても良いのだ。掛け値なしに、桐はそう思う。

まだ残った財産を整理すれば、死ぬまで慎ましく生活出来るくらいの資金はある。マンション暮らしかアパート暮らしになるかも知れないが、別に桐は1LDKの生活でも内職メインの生活でもいい。鄙と源治は雇えなくなってしまうが、二人は能力的にも問題ないし、別に黒師院家でなくともやっていけるはず。源治に至っては年金でやっていけるだろうし、その気になったら旧友である狼次郎の所で働く手もある。かっては斜眼と言われた武術の達人である源治は、充分に暁寺で子供達を指導出来るはずだ。桐は少し寂しいけれど、我慢は出来る。

だが、それらは、母の心が大きく軋んでいる今、例え口にしても届きはしない言葉であった。事実何度か訴えた事はある。しかし聞いては貰えなかった。

改めて、元K県知事のボンボンの写真を見やる。こんな婚約、母が胃を痛めながら持ってきたのでなければ、相手の家に乗り込んで関係者一同をガードマンごと殴り倒してきたい所だ。非建設的な妄想をしばし繰り返した後、前向きに動くべくそれらを振り払い、桐は大きく嘆息した。

「一度、相手の人物を確かめてみます。 全てはそれからです」

「そうさな。 もしも好人物なら、救援を頼むという手もある。 だが、わしの勘じゃと……それは難しいと思うぞ。 まあ、実際に調べてみるのが一番良いじゃろう」

触覚を揺らしていた八亀は、好物の気配を確認したらしく、断るとかさかさ部屋を出ていった。洋館の劣化は激しく、八亀は好物の補食に事欠かないようだった。桐はお気に入りの枕に頬ずりしながら、昼寝をする事に決め、K県に出かけるプランを立てながら、すぐに眠りへと落ちていった。

 

Y県の東京よりの端に住んでいる桐は、学校帰りに東京に出る事も多いし、隣のK県にも良く出向く。暁寺自体が東京にあるので、そうしないと始まらないのだ。電車代は結構かさむが、何とか今の時点では小遣いで切り盛り出来ている。

そう言うわけで、今回は折角なので、婚約者に庭へ出向いて貰う事にした。指定したのは、いつも零香や桐が使うO市の喫茶店である。そして指定先には、事前にある人物を待機させていた。冬だというのに元気に半袖な彼女は、銀月零香。今ではすっかり仲良くなった、最強最悪の敵である。仲良くなっても、戦場では互いに一切容赦ないのが、二人の不思議な関係を端的に現していた。戦場の外では友達だが、戦場の中では見かけ次第殺し合う仲なのだ。喫茶店の外で、カベに背中を預けていた零香は携帯を弄っていたが、桐が来るとそれを閉じ込み、少し俯き加減に言った。冬の弱い日差しが、上品な煉瓦カベに、薄く零香の影を映す。

「桐ちゃん、久方ぶり。 今日はどうしたの? 見合いなんて」

「母様にまとわりつくダニの一匹がよこした見合い話です。 小学生相手に婚約を申し込むロリコンがどんな性格をしているのかは、一応確認しておこうと思いましたので、客観的な観察を可能とするために、零香さんをお呼びしました」

さらりと爆弾発言を纏めて発射、跡形も残らないほど辺りに精神的な破壊をもたらした後、桐はさらりと言う。

「すみません、零香さん。 そう言う事ですので、お手数をおかけします」

「気にしないで。 ただ、桐ちゃんが気に入っても、わたしが気に入らなかったら容赦なくこき下ろすから、そのつもりで居てね」

「はい。 その時は遠慮無くお願いします。 ……まず、間違いなく気にいる事はないと思いますが」

不幸な生贄、もとい元K県知事の息子を待つべく、二人は喫茶店に入る。妙な話なのだが、二人とも相手が好人物であれば別に意地悪をする気がないという点で一致していた。別の方向にそれぞれ捻くれている二人だが、それは必ずしも無闇に意地悪な事には繋がらないのだ。

喫茶に入ってから、適当に注文を取る。桐はブラックコーヒーを頼み、零香はフレンチトーストを頼んだ。最近発見したのだが、この店のフレンチトーストは実に美味しいのだ。零香にとっては少し塩味が足りないらしいのだが、そんなものはいつも持ち歩いている岩塩スティックを、いつも持ち歩いている木のヤスリで削り降ろしてやればいい。

一般客に隠れて岩塩をふりながら、零香は顔を上げた。桐もそれに釣られて顔を上げると、客が入ってきた音がした。どうやら来たらしい。指定の時間丁度なので、その点だけでは取り合えず評価出来る。小さく上品に手を振る桐。零香は少し奥に詰め、見合い相手とやらが隣に座るのを見守った。

見合い写真の中には、明らかに被写体が違う者もいるのだが、目の前の青年はそうでもないようだった。ストレートで東大に入ったと言うからどんなモヤシかと思っていたのだが、それなりに体力もありそうだ。互いに自己紹介をする。軽く名乗った桐と零香に対し、青年は淀み無く言った。スピーチ慣れが伺える。新興の家であるからこそ、帝王教育には力を入れているのだろうか。

「佐藤勝雄です。 よろしく」

「堅苦しくしないで、楽にしてください。 今日は見合いというわけではなく、ただの顔見せですから」

「流石は黒師院のお嬢さんだ。 堂々としていて、落ち着いていますね。 それでは少し楽にさせて貰います」

嫌みなく微笑むと、佐藤は精神的な姿勢を崩した。零香は頬杖をついたまま、佐藤の横顔を観察していた。佐藤くらいの人間なら、O市の名士である銀月家の存在は良く知っているはずだ。選挙の時には票田になったとも聞いているし、零香の顔も知っている可能性は決して低くない。

やせ形で決して美形ではないのだが、嫌みのない印象だ。軽く雑談した後、佐藤はまず零香に趣味を尋ねる。将を討たんと欲すればまず馬を射よと言う奴だ。最低限の知性が伺えて、桐としても観察のしがいがある。

「零香さんは、何を趣味にしておられるのですか?」

「武術です」

「武術? 格闘技ではなくて?」

「わたしが好きなのは、ショーではなく実用に耐える武術です。 だから、格闘技ではありません」

上手いやり方だ。コーヒーを啜りながら桐は思った。

わざと疑問を呈して相手に趣味の事を喋らせる事によって、好感度を自然に引き上げる。このにやけ男、相当に喋り慣れている。女性関係はしっかりしているという話であったが、この様子だと手を出して問題になるような女にはそもそも興味がないのかも知れない。零香としてもその辺は敏感に悟ったらしく、さらりと受け流すと、フレンチトーストにフォークを突き刺して徐に食べ始めた。トーストの上で、さっき落とした結晶状の岩塩が光っている。

「桐さんは琴や華道を得意としている、と聞きました。 話によると、どちらもかなりの腕前だとか」

「はい。 師匠がよいもので」

むっつりした顔の源治は、人付き合いが兎に角下手だが、武術だけではなく各種芸術にも通じた傑物だ。教養としての琴、華道、それにピアノなどは、源治の手ほどきで鄙と一緒に覚えた。苦労を共有出来るというだけで、こんなに学習効率が上がるのかと、桐は驚いた記憶がある。無骨で厳しいが源治は優しく、その辺り母と似た空気があって、桐が習い事を嫌いにならなかった要因でもあった。

「久沼源治(ひさぬまげんじ)さん、でしたね。 話によると、その界隈ではかなり有名な方だとか」

「はい。 黒師院で働いて頂けて、本当に幸せです」

「それだけ黒師院の家が素晴らしいという事ですよ。 私などはこれといった師匠に巡り会えませんでしたから、殆ど独学で腕を磨かざるを得なくて、さまざまに苦労しました」

「そういう勝雄さんは、何を趣味になさっているのですか?」

サイクリングですと応えられたので、桐は少し驚いた。まあ、相手のサプライズを引きだして興味を誘う手法だというのは分かり切っているが、それでもサイクリングとは。今度一緒にツーリングでもと言われたので、考えておきますと流しつつ、桐は自分もフレンチトーストを頼んだ。同時に勝雄もブラックコーヒーを頼む。

「貴方と話していると、小学生と話しているとは思えませんね。 ストレスが無くて助かります」

「有り難うございます。 そういう貴方も、大学生にしては随分落ち着いている、と思いますよ」

「光栄です」

どちらも普通の生き方をしてきたのではないと、会話の端々からも分かる。分かり切っているのは、既に内部でのさぐり合いは、小学生や大学生に出来るレベルではない、という点だ。この場にいる三人は、いずれも老獪すぎた。

腹のさぐり合いが続くが、どちらも容易に尻尾を出さない。桐はさまざまに鎌をかけたり引いて見せたりするのだが、青年はいずれにも淀みなく応えてくる。完璧すぎるかというとそうでもなく、時々とんでもない間違いをしたりする。ひょっとするとこれも計算の内かなと最初桐は勘ぐったが、どうもそうでもないらしい。

フレンチトーストを切り分けて口に運ぶ零香は、きちんとマナーを保っている。桐は言うまでもなく完璧なテーブルマナーを維持しているし、青年だってそうだ。しばしは他愛ない雑談が続くが、青年の知識は多岐に渡り、軍事関連から植物の名前まで幅広いボキャブラリーを維持していた。細かい所を突っ込んでみても、淀みなく応えてくるし、目立つ形で襤褸も出さない。しかし、時々素晴らしいボケをかましてくれる。この分だと、相当にもてるだろう。浮いた噂がないと言うのは、この青年の相当な身辺管理能力とプライベートにおける徹底した管理がそうさせているのだろう。

母を連れてくるとか、そういう程度の低い奴なら簡単に尻尾を出させる事が出来るのだろうが、この青年はなかなかそうもいかない。頭もかなり回る事が、雑談中にも分かる。これだったら、将来的に政略結婚をしても、それなりに楽しめそうだなと、最初の目的を忘れて桐は思った。まあ、今回はそうもいかない。黒師院の家が落ち着いて、もしも次の機会があったら、話だけは受けても良いかなと思う。

ただ一つはっきりしているのは、簡単に籠絡出来る相手ではないし、悪い意味で誠実でもないと言う事だ。恩を売ろうと支援をする事はあっても、無償の奉仕などは絶対にしないだろう。シャープと言うよりも鋭利な思考が会話の節々からは伺えるし、将来的には総理大臣を目指せる器かも知れない。男としては充分にねらい目なのだが、今此処でそういう気を起こすわけには行かないのが残念だ。悪い意味でも良い意味でも手強い。当然の話だが、桐の考えの中に、恋愛相手というものはない。まだ興味もないし、恋愛で道を誤るほど純粋でもないからだ。

青年の携帯が鳴り、零香が目を光らせる。断って席を立つ青年。桐も相当に感覚を鍛えられているが、零香ほどではない。桐の頷きに、零香も静かに頷く。神衣無しでも半径一キロの会話を全て把握していると言われる淳子ほどではないが、零香も半径数十メートルの会話くらいならどんなに小声のものでも全部拾っている形跡がある。フレンチトーストを切り分け口に運びながら、桐は言う。

「どうですか?」

「そう、だね。 どうやらお父さんらしいよ。 へえ」

「何か面白い会話でも?」

「桐ちゃん、褒められてるよ。 簡単には手に負えないってさ。 まあ、桐ちゃんの予想通りって所だね」

此処で手に負えると侮ってくれれば楽なのだが、ますます扱うのが難しいと分かって、桐は若干憂鬱になった。恐らく、この様子だと、青年のあらゆる素質は父親のK県元知事よりも上だろう。父親には以前一度あった事があるが、それほど知性は感じられなかったからである。

事実今までの会話からも、青年は将来的につきあいがあって損がないと素直に理解出来る。勿論裏切るか裏切られるかの駆け引きを前提としての話だが、それでもこのレベルの能力なら戦うにしても手を組むにしても退屈はしないだろう。退屈は、しないのだが。

「桐ちゃん、何かひっかかる事でもあるの?」

「そうですね。 悪人ではないと思いますし、善人でもないし。 どちらかと言えば私と同じ人種だと思うのですが、まだ判断は保留します」

「……ひょっとして、会話拾ってる事に気付いているかも知れない。 能力者でも実戦経験者でもないけど、はっきり言って頭切れるよあのお兄さん。 どっちにしても、気をつけてね、桐ちゃん」

その後、電話から戻ってきた青年に断り、今回はお流れになった。青年は近くに止めていたカローラで家まで送ってくれると言ったが、謝絶して電車に乗る事にして、手を振って別れる。零香は駅まで一緒に来てくれると言う事なので、閑静な住宅街を歩きながら少し話し込んだ。

桐同様、零香も今難しい所である。口には出さないが、どうも新しい術、しかもかなり強力な奴を開発しているらしく、暁寺で不可思議な修練をしていると聞いている。ま、それに関しては桐も同じ事。今度ぶつかるときが楽しみであった。

 

零香とも別れると、桐は八亀と二人きりになった。電車の中で人間を器用に避けてもそもそ動き回る八亀は、壁とか窓とかをはい回って、時々少し鬱陶しい。見かけ巨大なゴキブリに近いのだから、無理もない話である。話によると、人間の物理干渉は受けないらしいのだが、それでも踏まれるのはいやなのだとか。

K県を出ると、電車の中は閑散としてきた。各車両に三人から四人しかいない状況だ。いつもY県に入るとこうなのだが、少し寂しいのは事実である。人に聞かれないのを見計らい、八亀は言う。

「あのあんちゃんは、思うたより良い相手であったのう。 どうじゃ、桐。 今回は見送るとしても、後々はムコに考えてみては」

「そうですね、確かにそれも面白そうです。 ただその時は、向こうから断られそうですが。 黒師院家の存在価値が今後も維持される見込みは少ないでしょうし、利益をなくして政略婚姻を考えるほど、あの佐藤さんは極楽とんぼでも無いでしょう」

「……ワシはそうとは思わないのじゃがのう。 まあ、桐くらい頭の切れる子だと、バカだと物足りないじゃろうしの。 アレくらいが丁度いいと思うのじゃがの」

「ふふふ、まるで孫の結婚相手を品定めするお爺ちゃんですね。 私にはお爺ちゃんがいませんから、そう言うのって憧れます」

少しの間だけ沈黙が舞い降り、這いずって去っていった。網棚に逆さに張り付きながら、長い触覚を揺らしながら、八亀は言う。

「ワシは今まで育ててきた神子達の顔をみんな覚えとる。 みんな苦労しながら戦い抜いて、大人になっていった。 桐も大人にまできちんと育て上げてやりたい」

「どうしました、急に」

「桐。 今回は正念場じゃ。 幸片を使うにしても、使わないにしても、決断は早いほうがええ。 今回の決断次第で、双葉ちゃんがどうなるか決まるじゃろう。 例え幸片を使うにしても、決断を誤れば、間違いなく悲劇が訪れるじゃろうの」

「……」

今まで命を賭けた決断は何十編としてきたが、それは神子相争を行う、枯湖での話だ。現実世界では、結局桐はそれから逃げてきたのではないのか。無論命が関わる事以外では、積極的に動いてきた。接近戦が必要だと思ったときには、源治に頼んで狼次郎に紹介状を書いて貰った。零香と友達になるのには抵抗もなかったし、向こうも分かり切っていると承知の上で互いを利用し合うギブアンドテイクの関係も作り上げた。

他人に対しては、幾らでも桐は腹黒く立ち回る事が出来る。どす黒い考えだって持っている。しかし、母に対してだけは、そうはなれない。

「……帰るまでに、決めておきます」

「それがええの。 どう決めるかは、桐が判断すると良い。 ただし、絶対に後悔だけはしないように、良く考えておくんじゃぞ」

言われるまでもない。もう後悔の味は嫌と言うほど知っている。これ以上あんな悪夢を上塗りするわけには行かない。

考えを必死に練り上げる。理性的な計算を続けて、何が一番良いのかを考える。電車の中はますます閑散としていき、やがて車両には桐一人だけになった。天井をかさかさ八亀がはい回っている。飛ぶ事だって出来るのに、はい回るのが好きなのは、なぜだかよく分からない。

八亀とはもう一年半にも達するつきあいだが、どうしても考えは理解出来ない所も多い。底も知れないし、感覚の違いによる感性の差はやはり大きい。でも、桐は八亀が好きだ。自分を認めてくれるし、心底から心配して助言もしてくれる。

「八亀、一つだけ、いいですか?」

「何じゃの」

「神子相争が終わる前に、命を落とした神子はいるのですか?」

「おるぞ。 ただし、限定的な状況で、だがの。 流行病にかかったり、戦争に巻き込まれたり。 いずれも事故死に近い形じゃったの。 儂の教え子にはいなかったが、石麟は一度教え子を事故で死なせてしまって、一年くらい泣き暮らしていたのう。 あれは見ていて辛かった」

長く生きてきているだろう神使達も、悲しむのだと分かると、少し親近感も湧く。少し頭を切り換えて、八亀と無駄話をする。今日の零香の格好や、佐藤青年の眼鏡のフレームの事や、明日の天気の事。八亀の切り返しはどれも桐の予想を超えていて、随分ストレスが軽減された。

桐が考えをまとめ上げた頃には、外は真っ暗だった。電車のドアが開く。駅にも誰もいない。手前から奥まで誰もいない空間は、墓石の無い墓場のような寂しさだった。改札口にはやる気のなさげな駅員がいたが、それでも随分安心する事が出来た。

街灯が点滅し、肌寒い微風が街を覆う中、桐は自宅へと歩き出したのだった。

 

双葉は外出中だった。珍しい事もあるものである。多分桐と同様見合いの下調べに出かけたのではないかと、桐のコートを脱がせながら鄙は言う。

ささやかな夕食を済ませると、電気が消えたのを見計らってこっそり外出。いつも修練に使う裏山へ。零香ほどの速さではないが、それでも無言で夜闇の森を駆け抜ける。もうこの山は桐の庭も同じ。此処で戦えば、誰が相手でも負けはしないだろう。だが、山は季節によって全く違う顔を見せるし、隅から隅まで見回すといつも新しい発見がある。

今夜も、新しい発見があった。

修練の場にしている滝壺で、桐は見つけたのだ。滝の裏に、洞窟がある事を。流れ落ちる滝の水量が今年は少なく、冬になってから更に減った。そして今日、満月の下で、桐は見た。滝の裏側から姿を現した、獣の口のような洞窟を。これから修練しようと神衣を具現化させた桐は、思わず足を止めてしまった。

「……凄い」

桐が呟くのも無理はない。月光を反射した滝の水が、岩に跳ねながら滝壺へ落ち行く中で、口を開いている洞穴はあまりにも神秘的であった。滝の水に乱反射する月光が断続的に中を照らしており、苔むした内部がうっすら見えるのが実に素晴らしい。絵になる光景であった。

「中を探検するのは……止めておきましょう」

「そうじゃの。 まともに探検していたら、明日になってしまうじゃろうからの」

むしろ、これは戦いが終わった後の、自身へのご褒美にしよう。頷きながらそう決めると、術の調整に入る。胸の前で印を切り、組み替え、詠唱を始める。

「深淵の王玄武よ、水を統べる鱗の王よ。 汝の甲を、今借り受ける。 あらゆる爪を、あらゆる牙を、あらゆる剣を防ぎきり、あらゆる勝利を目前にす最強の盾を。 具現化したまえ、盾の王!」

詠唱が終わると同時に、光が桐の眼前に凝縮していき、六秒ほどで形を為した。高さ二メートル、幅二メートルほどの、方形の盾だ。中央から四隅へと筋が走り、紅い縁取りが上品。一方で桐から見える裏側からは、無骨な鱗状の結晶構造が見えている。

額の汗を拭う。実際に戦闘で使うのは、これの六倍ほどのサイズとなる。今回具現化させた分は、あくまで調整中の術であるが、それでも一つ呼び出すだけで神衣を具現化させる以上の力を消費する。だが、これを完成させないといけない。完成させないと、今後はスタンダードに勝てなくなってくる。

数ヶ月前、由紀がドラゴンインパクトとか言う強烈な術を開発した事が、変革のきっかけであった。現在では、桐を含む神子全員が、強烈な切り札の開発に余念がない。

今までは戦略面と戦術面から考慮して、あまりにも力を消費しすぎる術はよろしくないとして、皆避けていた。しかし由紀のドラゴンインパクトはその固定観念を粉砕した。利津を瞬間的に粉砕した術の破壊力はすぐに他の神子達にも広まり、一撃必殺死を避けるためにも、何かしらの対抗策を皆が必要としたのである。ドラゴンインパクト二発目の犠牲者である桐もその一人であった。キネティックシールドも通用しなかったため、何かしらの新しい防御術が必要なのである。無論由紀も、今後はドラゴンインパクトの弱点を改良克服してくる事は疑いない。だからこそに、より急いで研究を進めなくてはならない。

今までは最大の攻撃力を持つ利津の相性の問題から、これ以上強力な防御術は必要なかったというのも、桐が開発に二の足を踏んでいた理由の一つである。単純な熱を防止するためのアクアシールド、斬撃、打撃を防御するイージスシールドなどを開発したのは、術のバリエーションが重要であったからだ。攻撃術である対空機雷の開発も、その余技に過ぎず、さまざまな盾を相手の戦術に対して使い分けていく事で、桐は安定した強さを発揮し、多くの勝利を掴んできた。

しかし、今後は事情が変わる。神子達は皆実力的に充実してきているし、戦術が苦手だと公言している利津だって老獪な知恵を付け始めてきている。その上、一撃必殺を可能とする術が今後は多出する事は疑いなく、何も出来ないまま負ける事を避けるためにも、対抗出来る術の開発は必至なのだ。

その上、皆が必死に努力している状況下で、出遅れるのは致命的。だから桐も、可能な限りどんな攻撃でも防ぎきる、最強の盾を必要としていた。

今、桐が具現化した術は、アブソリュートシールド。読んで字の如く、あらゆる攻撃を絶対に防ぐ事を想定した術である。ただし、文字通りのモノを作ろうとしても、力が掛かりすぎて上手くいくわけがない。

例えば、キネティックシールドの特性を持たせる事で、殆どの攻撃は軽減出来る。出来るのだが、それでもドラゴンインパクトレベルの衝撃力が、回転を伴って盾にぶつかって来た場合、防ぎきる事は難しい。キネティックシールドは運動エネルギーを拡散して防ぐ事は出来ても、防御力自体はほとんど無いからだ。あれほど鋭い回転攻撃の前には、運動エネルギーをある程度削ぐ事は出来ても、それしか出来ないため、最終的には豆腐のように突き破られてお終いだ。

そう言う意味では、耐物理攻撃用の盾や、術攻撃用の盾でも同じ事である。そこで桐はさまざまに考えた後、くみ上げたアブソリュートシールドに対して、ある工夫を凝らしている。

アブソリュートシールドの周りを回りながら、こつこつと軽く叩いて、出来を確認。アブソリュートシールドが調整通りの出来である事を確認した後、もう一つ普通の盾を召喚する。盾に対してさまざまな攻撃を行い、性能実験を行うのは当然の事だ。ただ、今日やろうと思っていたのは、少し違う。

盾を水平にすると、桐はそれに飛び乗った。そのまま盾を安定させ、アブソリュートシールド劣化版の前に立つ。そして徐に肩を回すと、目を閉じ、呼吸を整え、腰を落とす。

「はああああああああっ!」

正拳突きを叩き込む。最近八十キロ以上ある熊の首をへし折った、強烈無比な一撃だ。ばぎりと音がしたのは、桐が乗っている普通の盾の表面が砕けた音。猛烈な踏み込みが、頑強な盾を踏み砕いたのだ。

無言のまま桐は、十手を出現させ、矢継ぎ早に斬撃を叩き付ける。火花が散り、見る見る劣化していく十手。大上段、袈裟切り、逆胴、突きの連打。七度目の斬撃で十手が折れる。すぐに新しい十手を具現化させ、容赦なくアブソリュートシールドを削る。抉る、叩き潰す。

踏み込むと、足を鞭のように撓らせ、回し蹴りを叩き込んだ。同時に、アブソリュートシールドの中央部に、巨大な亀裂が入り、中から光が漏れた。まあ、これで零香の攻撃の半分くらいの破壊力は再現出来ただろう。

「スピードは無いが、パワーは見事じゃ。 暁寺で鍛えただけはあるのう」

「まずは、成功という所です。 さて、続いて第二段階、行きます」

十手を消滅させると、通常の盾から飛び降り、端を掴む。そのままジャイアントスイングで振り回し、充分に遠心力を付けてから、アブソリュートシールドに叩き込む。六十キロ以上重量がある盾は、凄まじい勢いでアブソリュートシールドに突っこみ、激しくぶつかり合って弾かれた。ふらつきながら平衡を取り戻す、大きくひび割れた通常の盾。アブソリュートシールドも中央の亀裂が拡大し、中の光が零れながら、全体に拡大していった。

アブソリュートシールドが、内部から爆ぜるように弾けた。光が溢れ、辺りに浸透していく。目を細めた桐が、思わず指を鳴らす。

「やりました。 実験は、成功です」

「おお、ようやった、ようやった」

「ええ! やっと、やっと成功しましたっ! ありがとう、八亀!」

「おほう、役得じゃのう! もう五年後なら、もっと嬉しかったのじゃがの」

思わず八亀を抱きしめてくるくると小躍りする桐。しばらく踊り狂った後は、バカみたいに大笑いして、砂利だらけの河原に転がり、足をばたばたさせて歓喜を爆発させた。

やがて、現実に戻り、立ち上がって砂を払った彼女の前には、光収まり、元の形に戻ったアブソリュートシールドの姿があった。否、全く同じ姿ではない。亀裂は綺麗に消え去っているのだが、大きさが僅かに違う。ほんの少しだけ、小さくなっている。また、盾の縁にある紅色も、少し光を失っていた。

「後は大きささえ調整すれば、あのドラゴンインパクトだって、正面からなら破れませんね」

「そうじゃのー。 ふむふむ、もう少し早く動かせるようにした方が、実戦的なのではないのかのう?」

「その辺りは頭で補います」

「ほう。 流石じゃの」

さらりと言い放つ桐の顔には、傲慢も不遜もない。実戦で培われた自信が、その発言を彼女にさせるのだ。

アブソリュートシールドはこれで完成したが、時速二キロほどでしか動かせない上、移動させている間は他の盾をオート稼働以外で移動出来ないと言う致命的な欠点がある。ただ、これは体の周囲にしか展開しないと言うつもりだから、ある程度は補える。零香や由紀と闘う場合は、切り札を向こうが出してくるまで使えないが、それに関しては大丈夫。二人との戦いは散々こなしてきたし、結果戦術展開能力は嫌と言うほど鍛え上げられている。欠点くらいなら自力で補える。最悪の場合は、腕力で動かしても良い。どっちにしても、これは切り札中の切り札だ。通常戦闘で運用する事は、最初から桐も考えていない。

「後は、対空機雷の精度じゃが……儂が見た所、あれもかなり負担を桐の脳細胞にかけとるじゃろ。 何とか軽減する工夫をした方がよいのではないのかのう」

「大丈夫。 どうにかなります」

「幾ら頭が切れるとは言っても、限界はある。 零香と淳子を同時に相手にして、攻撃を防ぎきれなかった事もあったではないか。 桐は淳子と同じか、それ以上に計算を必要とするのだし、ある程度の攻撃はオートで行うようにしないと厳しいぞ」

八亀の台詞は少し事実と違っている。零香と交戦中に淳子の時間差攻撃矢を貰って、対応しきれなかった、というのが正しい。だが本質は正鵠を捕らえているし、桐としても頷かざるを得ない。しかし、機雷を計算し尽くして敵に当てたときは、本当に楽しいというのも事実。楽しさがもたらす高揚は、桐にとって戦いの中のオアシスなのだ。一種のサディズムだが、この程度は堪忍して欲しいとも思う。

「分かりました。 ならば負荷軽減用の術と、従来通りの術を、両方とも用意しておきましょう」

「それがええ。 特に多人数戦闘の場合、そうしておかないと立ちゆかなくなるでの」

「まだ、少し余力があります。 もう少し術の調整をしていきましょうか」

「……いや、今日は帰った方がええ。 大体そろそろじゃて、の」

思わぬ八亀の言葉に、興をそがれた桐だったが、その意味をすぐに悟る。母が帰ってくる可能性が高いのだ。まさか分別ある大人の母が、様子見の相手にホテルに連れ込まれて朝帰り、等というような事はないだろうが、そうではないとすると幾ら何でも帰りが遅すぎる。さらりとこういう思考がでてくる時点で、もう桐は自分が子供ではないと自覚しているが、それでも心配なのに替わりはない。

今日はアブソリュートシールドの実用化にこぎ着けたわけだし、自分ご褒美も発見出来た。これで充分とするべきだ。母が帰ってきて、自室を探られると面倒だし、確かに潮時だった。

 

家に戻ると同時に、母の車が戻ってきた。どうしてか運転が安定しておらず、もう暗いというのにアクセルを踏み込んでの乱暴な運転だった。駐車場に叩き込むように入れられる車を横目で見ながら、桐はさっさと壁を登って自室にダイレクトに引き上げる。靴を脱いで隠すのとほぼ同時に、戸がノックされた。

「桐、話があります」

「……何かあったようじゃな」

言われるまでもない。桐にしてみても、母がそんな事をするのは初めてだと知っているから、思わず身構えるのを避けられなかった。

「何でしょうか、母様」

「執務室に来なさい」

足音が遠ざかる。パジャマを着替えていたかのように見せる時間的なアリバイが必要だから、少し時間をおいて母の部屋に向かう途上で、居間に掛かっている千代の写真が目に入った。

黒師院の家を造った巨人。今の桐から見ても、怖そうなお婆さんだ。夫を変える事七度、いずれも尻に敷きっぱなしであったという。中には種馬代わりに「飼われて」いた夫もいたそうだ。極端な母系社会信仰者の彼女は、最高に有能であると同時に、最高に偏屈で狂信的な存在だったのだ。天才というのは、常識外の才能を持つ人間を指す。常識外の才能を持つ人間は内包する歪みも大きいし、何より思考的にも捻れている場合が少なくない。桐が調べた所では、彼女の故郷の人間ですら、その極端で先鋭的なやり方には同調しなかったという。

千代は母を救い、そして地獄に叩き落とした張本人である。天才であったこの怖いお婆さんは、死後百年近く経った今でも、生者に巨大すぎる影響を及ぼし続けている。桐は決して嫌いではない。遺伝がどうのこうのというのはあまり好きではないが、桐の容赦ない戦術展開能力は、多分千代の影響を少なからず受けているのだろうから。そう言う意味では感謝はしている。

「始祖様、貴方はどうしたら、黒師院の家を開放してくれるのですか? どこまで子孫を縛り続けるのですか?」

死した巨人は応えない。あの世で巨人はせせら笑っているのか、悲しんでいるのか。死人だから分からない。幽霊でも良いから、出てきてくれないかと、桐は思う。出てきてくれたら、母様をどうにかしてもらうのに。助けて何てくれなくとも良い。ただ、放してくれるだけでいいのに。

母の執務室をノックする。この言い方も考えてみれば変だ。千代からの伝統なのだが、それを考えてみると、かの人の呪縛はこんな所にまで及んでいるとも言える。

「母様、よろしいですか?」

返事はない。嫌な予感がした。もう一度ノックするも返事はない。後はもう、平静が吹き飛んでいた。

「母様っ!」

戸を跳ね開けて、部屋に飛び込む。執務机に母の姿はない。母の姿は、その奥にあった。座ろうとして倒れたのだろう。視界が真っ暗になった。

「げ、源治! 鄙! 母様が、母様がっ!」

悲鳴を上げないだけが、精一杯だった。

 

3,絶対攻撃VS絶対防御

 

運命の悪戯というのは残忍だと、桐は知った。母が倒れて、病院に搬送されてから、すぐに神子相争の時が来たからだ。

母の様態は何とか安定している。ストレスによる過労だろうと、医師は言っていた。まだ意識を取り戻さないが、さっきの車の様子からして、大体見当はつく。余程無礼な事を、見合い相手に言われたのだろう。普段なら屁でもなかっただろう。黒師院の長としてグループを切り盛りしていた頃の母なら、鼻で笑い飛ばしていただろう。例え、アイディンティティに抵触するような内容でも、だ。

良種のストレスは人を強くするが、悪性のストレスは人を際限なく弱くする。子供の時の影響は特に大きい。母は幼少時、凄まじい虐めに晒されていたと桐は知っている。アイディンティティの確保によってそれは抑えられてきたのだが、今はそれが無い事を良い事に、トラウマはやりたい放題だ。許せない。

取り合えず、母を冒涜したバカには後で相応の報いをくれてやるにしても、今は状況の改善に全力を尽くさないと行けない。

修行場で神子相争に参加した事はある。しかし、病院の控え室で参加するのは初めてだった。家には留守番として鄙を残してきてある。側には源治が、ずっと付き添っていてくれた。家にいる鄙は辛いだろう。母の側にいる桐も源治も、こんなに辛いのだから。

「源治」

「はい、お嬢様」

「今のうちに……寝ておきます。 側にいてくれますか?」

「源治めは常にお嬢様の側におります」

忠実な源治に嘘を付くのが辛い。これから殺し合いに行ってきて、母を助けるために同じように不幸な境遇の子から幸片をむしり取るなどと、事実を言えないのが悔しい。

簡易ベットに横になって目をつぶる。次の瞬間には、もう意識が落ちていた。

 

それは、今までにない戦場であった。

真っ黒い湖から、無数のビルが生えている。ほぼ正円形の湖の中からは、四十を超すビルが生えており、強い風が吹き荒んでいた。全てがまっすぐきちんと立っているのではなく、途中で折れてしまっているものや、何処かの斜塔のように傾いているものも目立つ。一番背が高いビルは多分五十階建て以上あるだろう。

ビルの間はそれぞれ五十メートルほどずつ開いているが、水面にはさまざまな浮遊物があり、それを利用すれば別のビルへ移るのも難しくはない。

戦場に立った零香は、驚きに思わず顔を上げていた。同時に四人の神子が参加している。利津以外の全員がこの場にいるのだ。これでは、折角実戦投入可能になったかの奥義も使い道がない。せめて一対一の状況に持ち込まないと行けないが、かなり難しそうである。撤退も一つの手か。

頭を振って、消極論を追い払う。

強引に分家を味方に付けに掛かっている副家は、あろう事か会社の経営権を餌に、他の分家を抱き込みに掛かっている事が分かっている。今のところ七つのうち、二つの分家が協力を確約してしまい、もう二つが日和見の姿勢を崩しつつある。副家の狙いはもう分かった事には分かったのだが、それを崩すためにも、父の一刻も早い復帰が必要である。それにしても、腹立たしい。幽霊の正体見たり枯れ尾花と言うが、副家は単なる小物だ。追いつめられて無茶な下策を採る辺り、その性質が端的に現れている。

さっさと気配を消し、周囲の状況把握に取りかかる。この戦場では、由紀は噂のドラゴンインパクトを使えまい。ただし、あの子は秋くらいから一皮剥けた印象がある。今まで通り戦えば速攻で決着が付くのだが、駆け引きに関しては何倍も粘り強くなった。此方も負けてはいられない。

感覚拡大キューブを呼び出して辺りを探るも、敵影はなし。これは持久戦だ。戦場は半径六キロほどだから、もう居場所を淳子に気付かれている可能性は極めて高い。隙を見せないように、零香はまず桐の居場所だけでも確認しておこうと、出来るだけ足音を消しながら、最高速度でビルを駆け登った。

屋上に出る。桐は湖の端あたりのビル、屋上で腕組みして立っていた。盾は既に周囲を回転しており、今のところ誰とも交戦していない。見付かる前に、さっさと顔を引っ込める。対空機雷の術を桐が身につけてから、迂闊に居場所を知られるのはかなりまずい。

壊れた金網、歪んだ床。激しい熱でも浴びたのか、ビルの片面は磨いたように平らになっていた。これはひょっとすると核兵器でも使われたのだろうかと零香は思う。周囲の地形、ビルの状態、いずれもがそれを暗示しているようにしか思えない。考えてみれば、今までの戦場にも、それを暗示している場所が少なくなかったような気もする。雑念を追い払うと、再び辺りの調査に掛かる。核戦争がこの地で行われて人類が死滅したのだとしても、今は零香に関係ない。零香が必要としてるのは、他の神子を殲滅撃破するための情報だ。

感覚拡大キューブはあまり自分の体から離して飛ばす事が出来ない。偵察用に改良しようと一時期考えたのだが、コストが凄まじい勢いで跳ね上がったので断念した。だから結局、優れた感覚で敵の居場所を察知するしかない。先制攻撃を仕掛ければまず勝てる相手は少なくないのだが、そういう相手に先制攻撃を仕掛ける事に成功した試しはない。考えてみれば、スナイパーの淳子などは、先制攻撃を受けたらそもそも戦闘自体が成立しない。防ぐのに全力を傾けるのは、無理もない話であろう。

取り合えずビルの配置を確認、ついでに浮遊物の大体の位置も確認するが、使えそうなのは案外少ない。波も高いし、水も黒く濁ってあまり触りたくないが、そんな事は言っていられない。

今度は素早くビルを駆け下りる。水面の辺りまで降りると、ビルの中は見事に水没していた。此処で生活雑貨の名残とかが浮いていれば面白いのに、既に腐って溶けきってしまったか、痕跡すら見あたらない。核戦争があったとしても、この有様では、百年や二百年は軽く経過しているだろう。状況は確認した。ひょっとすると他のビルの中には、水面下の部屋が水没していないものもあるかも知れないが、当面の拠点である此処に、その可能性はなくなった。

一階の少し広めの部屋に移ると、両手を左右に広げ、感覚拡大キューブを部屋一杯に展開する。そして目を閉じ、精神を一気に集中する。こういった状況下で、焦って動くと却ってまずい。まずは情報収集、情報把握。研ぎ澄まされていく精神の中、零香は他の神子の動きを待った。

 

キネティックシールドを含む五つの盾を周囲に展開した桐は、ゆっくり辺りを見回し、他の神子の接触を待った。足元もきちんと固めている。足下から攻められて負けたあの戦い以来、一種のキネティックシールドとも言えるアンバーグラウンドの術を神子相争開始と同時に使うようになっていて、それ以来下から攻められて負けた事はない。

どちらかと言えば零香も相手が仕掛けてくるのを待つタイプだが、桐ほど極端ではない。玄武の神子だけあり、桐はまず待つ事で戦いが始まる。周囲に罠を十重二十重に張り巡らせながら、桐は敵の来襲を待つ。

三つ巴戦、四つ巴戦の場合、桐は後回しにされる事が多い。理由は簡単で、兎に角攻めるのに苦労するし、膨大な力を確実に消耗するからだ。仮に勝っても、桐に手を出したばかりに力を使い果たした挙げ句、他の神子に袋だたきにされる可能性もある。だから、戦いの最初は、桐に手を出してくる者は少ない。少ないのだが。

無言のまま桐が片手を振り、四時方向を廻っていた盾を心持ち上げる。矢が突き刺さり、炸裂するのはほぼ同時。淳子だ。いきなり桐に戦いを挑んでくるとは、どういうつもりなのだろうか。どちらにしても、挑戦を受けたのなら戦うだけである。激しい爆発に揺動する盾を立て直すと、桐は神輪に触れ、次の術の準備を始めた。

 

これは驚いた、と顔を上げた零香は口中にて呟いていた。まさか桐がいきなり攻撃を受けるとは。しかも仕掛けたのは理論の鬼にて地獄のスナイパー淳子である。驚きを消しきれない零香は、念入りに状況把握を務める。虎の耳はひっきりなしに動いて、辺りからの音声情報を拾い続ける。

淳子と桐を含んだ複数戦は今までにも何回か経験したが、いずれも桐は後回しにされるのが常で、高みの見物を決め込む桐の前で、零香は淳子や由紀と死闘を演じていたものである。桐にいきなり手を出したのは、一年くらい前の由紀以来見ていない。神子はもう全員が戦略のなんたるかを理解しているから、その行動の無意味さをきちんと把握しているのだ。

だとすると、考えられる理由は幾つかある。桐を瞬間的に倒せる自信があるのか、或いは様子を見に行った他の神子を釣るつもりなのか。桐を不可解に攻撃したと言う事だけで、動揺した神子の隙をつくという可能性もあるが、それにしては小手先過ぎるような気もする。後、何かしらのトラブルでパニックになったという可能性も考えられるが、すぐに可能性から除外した。

話によると、神子相争外での実戦を経験していない神子はもういないそうで、淳子に至っては三つのやくざ組織とそれに連なる闇金を七つ葬り去ったという。更に彼らの資金を根こそぎ奪い去ったとかで、しかも誰にも尻尾を掴ませていないらしい。オート光学ステルスを加味しても、恐ろしい手際だ。更に言えば、プロの犯罪組織を壊滅させるような度胸を得ている神子が、そんな情けないミスをする可能性は低い。

兎に角、すぐに動くのはどの可能性が真実であったとしても、あまりよろしくない行動だ。淳子にしても、桐にしても、罠を張る腕は確実に零香以上。彼らの誘いに乗るのは危険すぎる。

無言のまま零香は、淳子の居場所を探る事だけに、全神経を集中し始めた。

 

「おんやあ? ひっかかって来なへんなあ」

水上の廃ビルではなく、波間に漂う瓦礫の一つに光学ステルスを発動したまま伏せている淳子は、そう心の中で呟いた。時間差攻撃矢を使っての小手先のトラップだったのだが、由紀も零香も引っかかってこない。攻撃発射地点を調べにも来ないし、桐に至っては、時間差攻撃矢である事に確実に気付いているらしく、盾を二つ増やした以外は身じろぎもしない。

「まあええわ。 ひっかかってくれるとは、うちも最初から思うておらへんかったしな」

どっちにしても関係ない。プランはそのまま実行する。

ここの所、淳子は極めて大人しくしている。だが、本当の意味での実戦経験は、恐ろしいほどに跳ね上がった。

やくざ共から金品を強奪し、怨恨のある相手は再起不能にする。証拠は当然残さない。対立組織の仕業だと勘違いしたやくざどもが殺し合うのをほくそ笑みながら見て、双方消耗した所をまとめてズドン。取り合えず自分の手では一人も殺していないが、死ぬまで意識が戻らないだろうのが五人、もう二度と箸も持てず自力で歩けないだろうのが十七人、発狂させたのが四人。四肢のどれかをうしなったのも何人か。いずれも自業自得だと淳子は考えている。やくざは勿論警察にも、顔どころか、尻尾の毛一つ掴ませてはいない。というか、狙撃地点どころか、なにで狙撃されたのかすら、誰も分かっていないだろう。使ったのは使用後すぐに揮発するタイプに改良した術で作った矢なのだから。

そんな事を二月ほど前まで繰り返していた。理由など言うまでもなく、父をおかしくした連中への報復及び、財産の収拾であった。収集ではなく収拾だ。不当に奪われたものを取り返しているだけというのが淳子の言い分で、事実証文やさまざまな方向から調べて、父が騙されて取られた分だけ回収して、残りはマネーロンダリングした後スイス銀行に放り込んである。手を付ける気はない。ばれないほどにまで技量が高まったので、相手を殺さない事を限定に、蓮龍が許可してくれたのである。

そんな毎日を過ごしていた二ヶ月前、政府から直接能力者を介して話が来た。将来的に就職しないか、と。一瞬ばれたかと焦った淳子だったが、単に能力者を探索する能力だったらしく、淳子の能力が何かも分かっていなかった。政府としても能力者はいつも探していて、実戦経験のある能力者ならなお大歓迎なのだとか。給料が良いので、中学から学業と兼任でやるつもりである。

由紀や零香が成長しているのとは多少ベクトルが違うが、淳子も著しい成長を見せているのだ。

今の攻撃で、発射地点の近辺に由紀も零香もいない事ははっきりした。幾ら陽動だと気付いていると言っても、時間差攻撃矢が間合いの中で発射されれば、付近に淳子がいる可能性を考慮して必ず動く。その時はその時で対処法があったのだが、今回は使わなくて済む。それにしても、前だったら由紀は彼方此方を落ち尽きなく彷徨き回って、すぐにニアミスしただろうに。今では腰を据えて、闇の中から獲物を狙っている。淳子も負けてはいられない。

さて、次の手は簡単。桐を屠る。

二発時間差攻撃矢を発射すると、音を立てずに、浮遊物を蹴って移動。そのままビルに潜り込み、飛び出し、隣のビルへ。さっきの攻撃によって、零香と由紀の攻撃間合いは大体分かったから、安全地帯へと潜り込む。元々淳子の戦闘タイプは、そういう事を要求されるものだ。別に苦ではないし、今ではむしろ楽しい。

そして、音無きまま、桐のいるビルへとたどり着く。今の時点では、零香も由紀も動きを見せていない。つまり、間に合わない。

更に一発時間差攻撃矢を放っておく。これで残りの矢はストック三本。無言で階段を上がり、屋上へ。ドアは壊れていると言うよりも影も形ももう無く、何の障害もなく屋上へと淳子は足を踏み入れた。桐は心持ち顔を上げて、空を凝視していた。淳子はそれには全く構わず、腰を落として、大弓を引いた。相対距離、十二メートル。

桐は頭が良い。しかし、基本的にどんな時も必ずと言っていいほど受け身に出る。其処を利用させて貰う。今回、最初に桐を狙ったのは、他の神子の動揺を煽るのと同時に、本格的な駆け引きで一度桐を負かしてみたいという欲があったのだ。淳子は単純な駆け引きで桐が自分以上だと認めている。だから強くなったから挑戦したい、等という慢心に満ちた愚行ではなく、自分を鍛え抜くための試金石として桐を見ているのだ。

ハンカチが揺れる。呼吸を整え直すと、淳子は(合図)を待った。

 

桐はずっと不可解な攻撃の事を考え続けていた。受け身に戦いをするのは慣れているし、多少の攻撃ではびくともしない自分の(陣)の強固さも承知している。だが、それは絶対ではない。今まで負けた事のない相手はいないし、いつも戦うたびに反省がある。

恐らく、あれは二つの意味を持っている攻撃だったのだ。一つは零香と由紀の間合い測定。もう一つは、どっちかが引っかかった場合の狙撃。後者は無かったので、淳子は前者を選んだはず。発射地点から考えて、桐を攻撃する下準備だったのはほぼ間違いない。問題は、どう桐を倒すか、なのだが。

母が入院し、意識を取り戻さないというのに、桐の頭は異様に冴えている。普通の人間なら焦って困惑して絶対にミスをする戦局なのに、冷え切った頭脳で冷静に敵の思考を追っている。

桐の盾は基本的に自動で体の周囲を旋回しているが、必用に応じて桐自身でも動かす事が可能である。なおかつアブソリュートディフェンスで守られ、その上神衣の防御力も高い。だから、敵の攻撃を受けても、瞬間的に倒される可能性は低い。ドラゴンインパクト級の攻撃ならともかく、通常の術式で、桐を一撃死させる事は不可能だ。ならば考えられるのは、何かしらの特性を利用するか、或いは多量の正確な攻撃を超短時間の間に集中させるか。零香以上のラッシュが要求されるが……。

空を見上げて考えを整理し終えた桐は、小さく嘆息した。大体淳子の考えが読めたのである。今回は、桐の勝ちだった。ただ、こっちも無事では済まないだろう。時限式地雷は、術の特性からもう発動出来ない。手元に、十手を具現化させる。それと同時であった。

飛来音。盾がオートで二枚、同時に動く。重なり合ったそれを、凄まじい勢いで爆圧が強打し、一枚を砕くまで一秒半。一本ではない。破壊力強化式の矢が二本同時か。世界の色彩が消え、回復するよりも早く、第二射が飛来。動きはそのまま任せる。盾の一枚が、横に僅かにずれ、二射目を迎撃。続いての刹那。

振り上げた十手を、そのまま投げつける。同時に飛来した矢が、十手と弾きあい、桐の至近を掠めすぎ、神衣の肩当てを抉り肌を切り裂きながら盾の一つに裏側から突き刺さった。多分貫通力強化を二重か三重かけた矢だろう。刺さった盾が、大きな亀裂から、左右に裂けた。

続いての動きはどちらも早い。もうオートステルスを解除されている淳子は、策を読まれたにもかかわらず、それでも焦ることなく素早く後退しつつ次の一矢をもうつがえている。素晴らしい精神的タフネスだ。桐はというと、わざとゆっくりのモーションで十手を具現化させる。放つのは淳子のが早い。速射だから、多分貫通力強化の一つだけ。アブソリュートディフェンスで威力を中和されるも、それでも桐の脇腹に突き刺さって鏃が背中側へ抜けた。刺さる寸前、桐も十手を投げつける。放った瞬間の淳子の肩に、鋭い刃が突き刺さり、大きく体勢を崩す。淳子もそこで負けを悟ったようだった。

十手を具現化した瞬間、淳子の視界の最外縁に配置していた盾を、もう後ろに回り込ませていたのだ。それは脆くなったコンクリを砕きつつ、淳子の背中から猛烈な破砕音と共に襲いかかった。円盤状の鈍器に強打された淳子は、為す術なく吹っ飛び、屋上の床にたたきつけられる。それでも最後の一矢を放ってきたのは流石だ。遠矢ではないから盾が間に合わない。左腕に矢が突き刺さる感触と、容赦なく振り落とした盾の一つが、倒れていた淳子の頭を砕くのは同時だった。

ぴくぴく痙攣していた淳子が、光になって消えていく。可哀想に、即死させてあげられなかった。さぞ苦しかっただろう。肩で息をつきながら、桐は左腕に刺さった矢を引き抜き、血まみれの手を矢を捨てるより先に右に振った。飛ばしていた二つの盾が手元に戻りつつ、キネティックシールドが急いで動く。轟音、爆風。キネティックシールドに大きな亀裂が走った。間一髪であった。

脇腹に刺さった矢を抜きながら、呼吸を整えていく。ぼたぼたと嫌な擬音と一緒に血が落ちるが、元々黒い鎧だから目立たない。床のコンクリだって真っ黒に変色してしまっているから、血が零れたって殆ど何が何やら分からない。痛みは引かないが、やるしかない。後二人。そして負傷した以上、優先的に狙われるのは、自分だ。

「随分老獪になりましたね……由紀さん」

嫌みの一つも言いたくなる。多分由紀は分かっていて近くに潜んでいた。おそらく淳子が割り出した間合いのギリギリだろう。そして交戦開始と同時に間合いを詰め、キネティックランサーを準備してこの瞬間を狙っていたのだ。

そして、無理に追撃を掛けてこないのも、由紀が大きく成長した事を示している。由紀の戦闘スタイルでは、アブソリュートディフェンスを持つ桐を簡単には倒せない。仮に大きなダメージを受けていても、である。

多分、このまま零香と桐をぶつけ、漁夫の利でも狙うつもりなのだろうが、そうはいかない。今度は此方から先手を取らせて貰う番だ。

由紀は性格上もそうだがそれ以上に術の性質上、直線に強く曲げる事に弱い。少し前に楕円軌道でチャージをする術を開発したようだが、それも自分自身の身体機能に働きかけるものであり、飛び道具を淳子のように自在に曲げる訳ではない。

目を細めて、辺りをうかがう。辺りの地形関係はもう頭に入れているし、計算は得意だ。五分ほどで、大体居場所の特定は完了した。今のキネティックランサーの発射地点及び、それから由紀の移動速度で移動しうるビル、更につかずはなれずの位置。それらを全て考慮した結果、該当のビルは一つしかない。桐から見て二時方向にある、途中から二またに分かれたビルだ。

其処から動きを予想して、対空機雷を仕掛ける。ただし、動きを予想するのは簡単でも、餌がなければ食いついてこない。例えば、零香にまとわりつかれ、激しく攻撃される、といったような。

釘をコンクリに打つような物凄い音がした。振り向くと、手にクローを装備し、感覚拡大キューブを複数体の周囲に浮かべた零香が、ビルの端に手を掛け、体を持ち上げている所だった。呆れた話である。多分間合いを直線的に詰め、なおかつビルの壁をそのままクライミングしてきたのだ。しかも、桐が少し考えている短時間の隙に。腕を回しながら、零香は言う。はてさて、この子の猛攻に、今の不完全な陣でどれだけ耐えられるか。しかももう淳子がいないのだから、緻密なスナイプを警戒せずに本気で潰しに来られるのだ。

「どうやら、淳子ちゃんの上を行ったみたいだね。 大したもんだ。 いつもながら、凄いと思うよ」

「ありがとうございます。 今日は多少の犠牲を払いつつも、何とか勝てました」

「何とか、ね。 ……さあて、どうしようかな。 桐ちゃん得意の時限式地雷も、ここじゃあ使いづらいでしょ。 それにわたしだって、もう少し桐ちゃんを消耗させてから叩きたい。 このまま此処で戦うのは、どっちにとってもあまり面白くないねえ」

といいつつも、体制を低くした零香は、次の瞬間には立ち塞がった盾に拳を叩き込んでいた。スパイラルクラッシャーとかいう術を零香が開発してからというもの、その破壊力は数割増になっているが、実のところ普通の拳だけでもとんでもなく破壊力はでかい。盾に罅が入り、無言のまま新しい盾を作り出す。同時に、神輪をセットし、術を準備。零香はそれを横目で見ながら、猛烈なラッシュを叩き込んでくる。桐が何かを企んでいるのは分かった上で様子見、ただし隙が見えるようならいつでも喉を食いちぎるつもりだろう。そして、桐は負傷していて、隙を見せる可能性はかなり高いのだ。

古いとは言え、コンクリの床を踏み抜きかねない凄まじい踏み込みと共に、零香がクローを抉り上げてくる。水平にして受けた盾は、ダメージ拡散を効率よく行ったが、続いての返す刃を受けて半壊、更に鞭のように叩き付けられた蹴りを貰い、別の盾にぶち当たりながら砕けた。二つの盾を同時に傷付ける猛攻だ。そのまま零香は左右にぶれながら迫ろうとしたが、慌てて飛びずさりつつ、クローを振るい上げた。閃光一閃、クローの爪が二三本吹っ飛ぶ。はじけ飛んだクローの爪の一本が、回転しながら桐の脇腹に突き刺さる。さっきの傷に刺さったクローは、激しい鈍痛を桐に加え、思わず玄武の神子は呻いて片膝を突いていた。

「ん、むっ……!」

「あんな遠距離から……!?」

何とか直撃は回避したものの、十メートル以上横滑りを余儀なくされた零香が驚く。滑った後は煙が上がっていて、一部はコンクリが砕けて穴が開いていた。桐は冷や汗の中ほくそ笑むと、敵が一人に減った事を確信し、心中で密かにため息をついた。今ので零香も倒れてくれれば言う事がなかったのだが、流石だ。単純な身体能力では神子中最強を誇るだけはある。素晴らしい反射神経で、直撃を避けた。

零香が驚いている間に、刺さったクローの爪を引き抜く。意識が一瞬飛ぶほどに痛い。これはどちらにしても、早く勝負を付けないと危ない。

零香の驚きは、恐らく二つ。由紀のキネティックランサーが、この強風の中、およそ二キロ先から正確に飛んできた事が一つ。由紀の力量はどんどん増しているが、二キロ先から攻撃中の零香を狙ってキネティックランサーを直撃コースに乗せてくるなどと言うのは、完全に今までのイメージを崩す技だ。淳子ほどの神業ではないが、それでももう充分以上に人間業を超越している。更にもう一つは、攻撃直後に移動しようとした由紀が、爆発に巻き込まれて吹っ飛んだ事である。桐の対空機雷による置き石攻撃であった。

桐が利津を効率よく叩き落とすために作った唯一の攻撃術にて、傑作術。それが対空機雷である。特性は幾つかある。まず時限式地雷と同じく、制限が極めて厳しい攻撃であると言う事。時間式の時限式地雷と違うのは、目に見えないそれが目に見えないレール上を等速直線移動し、それにぶつかったときのみ爆発する、と言う事だ。速度は時速二十キロ固定。それ以上にも以下にもならない。その上、止まっている相手や、等速直線運動をしている相手には向けては発射出来ない。地上にいる相手にも撃てない。相手が百メートル以内の近距離にいても撃てない。

一度に三発しか撃てないこの術は、破壊力は時限式地雷程度であり、その上相手の動きの変化を読んで放たねばならないと言う非常に難しい術だ。特に零香や由紀に対しては、ジャンプするタイミングを見計らい。事前に準備して置かねば当てる事が出来ない。しかも弾自体が小さく、本当に些細な読み違いで全く当たらない。それら難しい条件はあるのだが、三発同時に直撃させる事が出来れば、今のように由紀や利津には必殺である。また、距離が全く関係ないので、対空攻撃としては確かに優れている。ただ、オート式にしろと八亀が言うのも無理がない。本当に激しく脳細胞を酷使するのだ、この術は。

零香はクローの術を再起動すると、感覚拡大キューブを切った。何かしかけてくるつもりだ。

ひょっとすると、零香は、この状況を作るために由紀が倒されるようなシチュエーションを自分から演出したのかも知れない。そんな錯覚を、桐は抱いた。所詮錯覚だとは分かっているのだが、落ち着きはなった零香の様子を見ていると、否定しきれなくて怖い。

「どうしました? 負傷している私を見て、攻撃してこないとは、貴方らしくもありませんね」

「……いや、ね。 質が悪い運命の悪戯って、確かにあるものなんだね」

「そうですね……それは時々感じます」

「ちなみにね、全部意図してやった事じゃないよ。 そうなればいいなとは、思っていたけど、ある程度のお膳立てはしたけど、ね。 ……行くよ」

桐の返答を待たず、足を大きく開いて、地面に両手がつくほど低い構えを零香が取る。暁寺で教えている、超攻撃型の構えだ。桐の聞いた所に寄ると、零香は寺に来る前から、これをスタンダードな戦闘スタイルにしていたらしい。零香が神輪に触れる。何か背筋に冷たいものを感じた桐は、慌てて新しい盾を呼び出し、来るべき最終攻撃に備えた。

心臓が跳ね上がった。ヤバイ。本格的にヤバイ。体中が、警告を発している。慌ててもっと盾を呼び出すべく神輪に手をやった瞬間、零香の気配がふくれあがった。

 

零香の心の中で、靄がふくれあがっていく。元々点のような小さな靄は、ずっと昔から心の中にあったのだと、修練をこなした後の今は結論出来る。その小さな靄が、アメーバーが成長するように、術の力で、見る間にふくれあがっていく。

人間の自然な生体機能として、その靄は通常時心が押さえつけている。それがリミッターとなり、拡大する事はあっても、爆発する事は少ない。少ないのだが、何かしらのきっかけで炸裂する事はある。結果、炸裂させた誰もが巨大な力を発揮するのだが、それは台風と同じで制御が利かない。際限なく巨大化して、最終的には心を破壊し尽くし、肉体も破壊し尽くし、周囲も破壊し尽くして、全てを強制的に終わらせる。

靄の名は、狂気。

はあ、はあ、はあ、はあ、はあっ! あああああああああああ、ああああああああああああああああ、AAAAAAAAああああああAAAAAAWEAGAAAAAAAAAAAAAA!

体がふくれあがる。徐々に、言葉が意味を失っていく。思考が整合性を失っていく。否、感覚が内側から表皮を突き破ろうとしているのだ。全てのリミッターが弾けるように外される。

草虎は言った。何段階に分けて、術を練習して行けと。最終的に、元に戻れる可能性があるのは九十%程までの狂気浸食だという。それも零香の成長率なら大学生くらいまでは絶対に使うなと釘を差されていた。最初は三十%程から初めて、実戦で使えるのは五十%ほどだろうとも言っていた。それ以上は、零香よりも、むしろ周囲が危ないのだと。

零香のスパイラルクラッシャーに次ぐ切り札、それがこの白虎戦舞一式。狂気を術の力で制御し、心身のリミッターを外す。最終的には三式まで作る予定だが、しかし、これは。一式でも、強烈過ぎる。目の前の桐が、動揺する玄武の神子が、ぶれて見えるほどに、感覚が吹っ飛び始めている。

最初に神衣を付けたときと、似た感触であった、かもしれない。

桐が何か叫んでいるのが聞こえる。周囲に盾を必死で追加し、慌てて防備を固めている。吹き荒ぶビル風。ごうごう、びゅうびゅう。何か楽しい。確か術の継続時間は三分。それを過ぎると限界を超えて酷使した肉体へ、絶望的なダメージが行く。そんなの、知った事か。今はただ、目の前のこのライバルを、肉塊にするだけだ。

本能と狂気に、戦いを任せる。スキルで後ろから、サポートしてやる。

視界がぶれる。自身が動いたのだと、後から気付く。眼前に盾が迫っていたので、押しのける。罅が入る。思ったよりも頑丈だが、それでも脆い。クローを振り回して、十字に切り裂いて、木っ端微塵に砕き散らす。拳圧が、破壊力を更に上乗せする。笑いが口から漏れる、口の端がつり上がる。必至に防ぎに掛かる桐の有様が、何処かおかしい。

サイドステップしたつもりが、二十メートルも飛んでしまい、屋上の隅っこにぽつんと残っていた金網を止まったついでにはじき飛ばしてしまう。まあいい、助走距離が出来たのだし。そのまま再びダッシュをかけ、じぐざぐに突っ込む。いつもよりムラの多い動きだが、しかしパワーもスピードも全然違う。

体を暴れさせるのが、楽しくて楽しくて仕方がない。歓喜が爆発しそうだ。

砕けた盾の変わりに、次の盾をどんどん桐が呼び出す。真っ正面に迫る盾に正拳を叩き込み、生じた亀裂に手をつっこんで左右に引きちぎると、今度は菱形のキネティックシールドが迫り出てくる。パワーを抑えられないと危ないが、知るか。大上段に振り上げたクローで、二度、三度、切り裂く。力任せすぎるのと、キネティックシールドの特性もあって、クローが再び折れ砕ける。別に関係ない。

砕けたキネティックシールドを抜けて、三枚目、四枚目の盾を文字通り引きちぎると、慌てて次の盾を呼び出そうとする桐の必死な顔が見えた。あは。何だ、間近で見るとやっぱり随分と綺麗な顔だ。将来は涼しげな美人になるだろう。この枯湖では、間もなくザクロのようにはじけ飛ぶわけだが。あはははははは、ひひひゃははははははははははははははははははははは!きひゃははははははははははははははははは!

「……!」

何か桐が叫んでいるが、ぶっ飛んだ感覚と、ビル風の前に、耳には届いていても内容は解析できない。桐が見た事のないシールドを召喚して、零香の前に叩き落としてきた。今までで一番小さな盾だ。軽く下がったつもりが、今度は屋上の縁、淳子との戦いで桐の盾が砕いた辺りまで戻ってしまう。そのままそれを助走にして、間合いを侵略する。盾を避けても良いが、叩くのも楽しそうだ。残ったクローで一撃、二撃、吹っ飛ぶ爪を見ながら、左腕のブレードを横一文字に叩き込む。火花散り、盾が砕ける。同時に光って、罅も亀裂も消え去る。僅かに小さくなって、盾は元に戻る。

あは、おもしろ!

拳を叩き込む叩き込む叩き込む叩き込む、壊れるぶっ壊す叩き込む蹴りを入れる、ビルの屋上の床が砕け飛ぶ。零香の前に緩慢に移動する盾に、蹴りを入れ、拳を入れ、ヘッドバッドを叩き込み、回し蹴りをぶち込み、咆吼と共に踵落とし。十回、いや十二回、或いは三十回!?盾は砕けても砕けても再生する。ひひひひひひ、ははははははははははははははは!壊れろ壊れろ壊れろ壊れろ!

ついに盾は直径三十センチほどにまで小型化したが、それを砕くのに楽しくなりすぎて、零香は更に拳を叩き込んだ。そして砕けた盾は、とうとう元に戻らなかった。破片を踏みにじると、負荷に絶えきれなくなったコンクリが砕けて、下の階に落下する。同時に屋上で激しく暴れられたビル全体にガタが来たらしく、端から崩落を始める。運動エネルギーを固定しているとかで、桐の立っている辺りだけは無事。というか、足場の辺りだけ宙に浮いてる。このままだと面倒くさい。揺れるビル、吹き荒ぶ風の中、零香が人間大のコンクリ片を抱え上げると、桐に向けて跳躍しながら投げつけた。慌てて残った盾を全て集めて防ぎにかかる桐だが、完全に防げるわけがない。

頭が少しずつ冴えてくる。靄が術の制限に負けて引き始め、同時に無茶苦茶に酷使した体が崩壊し始める。全身の筋肉がぶちぶちと音を立てながら切れていく。制限時間が終われば、負ける。ビル全体が激しい攻撃の余波で崩れていく中、零香は見た。盾を全て失い、まともに唯一動く右手に十手を持ち、零香を迎え撃つ態勢の桐を。周囲確認。揺れと足場を確認。最後に残った力を全部集めて、崩れ行くビルの間を飛び、桐の元へ。

自身を弾丸として、最後の壁である、アブソリュートディフェンスの中へ飛び込んだ。

 

「はあ、はあ、はあ、はあ、ぐ、うっ……!」

「ふう、ふう、ふう、ふう、ふう……く、くっ……!」

眼下で、黒い湖の中へ、崩壊したビルが沈んでいく。海に落とされた砂糖細工の城のようだ。空中に残った足場の上で、力を使い果たした桐と零香は、クロスレンジで組み合っていた。

零香のクローは半ば折れていたが、それでも抜き手に近い形になって桐の神衣を砕き、腹に突き刺さっている。内臓を抉り込み、致命傷だ。桐の十手は零香の脇腹に突き刺さっていたが、浅い。負けを悟った桐は、血の塊を吐きだした。

「実験、だんか、い、ですか? 今の、術」

「そっち、こそ、ぐっ……! あの盾、衝撃を吸収して、自分で崩壊しつつ再構築を自動でこなして、相手の攻撃を散らすものなん、でしょ?」

「そちらは、狂気を制御、して……は、あぐっ……。 全身の、りみ、った……を」

負けたが、別に良い。零香の切り札は見る事が出来たし、それ自体は破る事が出来た。次こそは勝つ。

桐の体が光に包まれていく。幸片はまだ三つ残っている。母さんを救うには少し心細いけど、どうにかできるはず。

「……ごめん……ね?」

「……」

謝る零香に、微笑みかけると、桐の意識は消えた。

 

いつものように、闇へ反転する感覚。実験段階ではなく、完全体のアブソリュートシールドなら、零香が如何に身体強化しようとも防ぎきれる。それが分かっただけで、今回は充分だった。それに今月はもう不戦勝一度を含めて、二勝をあげている。だからもう、充分ではないか。自身を慰めるうちに、いつのまにか桐は病室のベットにいた。

「お嬢様、お目覚めになられましたか?」

「ごめんなさい、源治。 無理を聞いて貰って」

「お気になさいますな。 奥様は先ほど、目をおさましになりました」

「すぐ行きます」

虚脱感が残る体を無理矢理ベットから起こそうとしたが、バランスを崩しかけ、立ちくらみを覚える。源治は手を貸してくれようとしたが、謝絶して、自力で立ち上がる。一刻も早く大人になりたいというのは、神子全員に共通した願いであろう。それについては、桐も例外ではない。

病室の前にいた看護士に断って部屋にはいると、白衣を着せられた双葉は、ベットに腰掛けて俯いていた。看護士の説明を受ける源治の会話を盗み聞きする。今日一日安静にして、明日はもう帰って良いのだという。精密検査の結果、内臓に負担はかかっているものの、悪性腫瘍や、その他難しい病気の可能性はないそうだ。

「母様」

「桐……ごめんなさい。 見苦しい所を見せました」

「ううん、そんなこと……。 何があったのですか、母様」

「妾になれと言われました。 そうすれば、会社の一つくらいくれてやると」

瞬間的に切れそうになったが、足を八亀が引っ張ってくれた所で、どうにか精神を落ち着かせる事が出来た。見合いの相手は確かY県の重役だったはずだが、これは許せない。いずれ社会的に抹殺する事を真剣に考えておこう。そう思う桐に対して、双葉は疲れ切った顔で言った。

「勿論断りました。 その後の事は、思い出したくもありません」

「母様、そんなゲスの言う事なんて」

「誰とも分け隔て無く付き合わなければならないのが、私のような立場の人間です。 そうもいってはいられません」

正論だ。確かに上に立つ人間は、そうでなければならない。桐だって良く知っている事だ。だが母は、その結果こんなにもすり切れてしまったのではないか。もう守るべき国も臣民もないのに、王族の責務を忘れない、寂しい人物。そんな形容が今の母にはぴったりなのではないかと、桐は思う。

「しばらく……休みたいと思います。 今回の事で、如何に疲れているか分かりました」

「そうして下さい、母様」

「ごめんなさい、桐。 貴方にはまだ暫く苦しい思いをさせます。 しかし今命を落とすわけにはいきません。 ですから……」

それ以上の言葉は必要ではなかった。桐は母に抱きつくと、静かに泣き始めた。あるだけの幸片をつぎ込む。この休養が、良い方向へと事態を動かすようにと。

部屋の外で、看護士が声をかけるのをためらっているようだった。源治が制止していてくれているのかもしれない。

桐はただ静かに、幸片が幸運をもたらしてくれる事を祈り、泣き続けた。

 

4,薄明の銀月

 

電話を置いた零香は、ノートを広げ、三つ目の名前にペケマークを付けた。ついに副家が三つ目の分家に確約を取り付けたのだ。三日月からの情報だから信頼できる。今までの綱引きが、一気に崩れかけている事を、零香は知った。

副家は無茶苦茶な条件を、他の分家にも呈示しているという。春にでも一族会議を開くべく、ラストスパートをかけているようだ。こうなってくると、物量に乏しい零香は厳しい。相手がなりふり構わず物資を投入してくると、打つ手が少ないのだ。

最後の手はある。父の出を願う事だ。だが父は、多分まだ自らの拳に究極の到達点を見ていない。それは強さを得たと自覚していない事を示し、零香に全てを話す気にはならないという事も意味している。だからこそ、零香は自室に戻る。そして神輪に手を触れた。

「草虎、全部使うよ」

「それしか、ないだろうな」

修行とは偶然と必然の組み合わせによって成り立つ。新しい技は殆どが偶然の発見によって作り出されるし、それを磨くのは修練という必然だ。だからこそ、父に足りないのは幸運だといえる。

先ほどの桐に対する勝利で、幸片は四つ溜まった。その全てを投入する。父さんを助けて。父さんを助けて。父さんを助けて。呟きながら、幸片の力を全解放。一息に、状況の突破を願う。

父の拳は遙かに向上している。零香との激しい修練によってそれが加速しているのはよく分かる。だからこそに、今なら突破がなるはず。何か、何かのきっかけがあれば、父は壁を越える事が出来る。零香に出来る手伝いは、こんな事しかない。

光が弾ける。全ての幸片を使い切った零香は、肩で息をつきながら、ベットに倒れ込んだ。さっきの神子相争による精神疲労も大きいし、少し休んでから様子を見たいというのが本音である。蛍光灯を見上げながら、今後の事を、副家の暴挙をどうくい止めるかを考え始めていた零香の耳に、異音が聞こえ来た。

「……!」

「どうした、レイカ」

「うん。 父さんのいる道場の方から、変な音が聞こえた。 修行の音じゃない。 何かあったんだ!」

部屋を駆け出す。乱暴に靴を履くと外に飛び出し、草虎がついてきている事を確認しながら、道場へとダッシュする。道場に近づくに連れて、人間の限界速度を保たねばならないのがもどかしい。父の修練音は聞こえていないが、まだ寝てはいないはず。戸を開けようとして、零香は気付く。戸にある、不思議な円形の穴を。だが、いぶかしんでいる暇はない。

戸を跳ね開ける。そして零香は見た。

拳を構えたまま、立ちつくす父林蔵の姿を。父は普段着のまま道場に入ってきた零香を咎める事もなく、ただ顔だけを向けた。立ち上るオーラが見えるような、威風堂々たる立ち姿であった。

「零香か」

「父さん、それは……?」

「見て欲しい。 自問自答ではない事を確認したい」

「う、うん」

「……行くぞ。 せいっ!」

短く息を吐き出すと、父は動く。それは、ただの拳撃に見えた。軽いモーションで、父は正拳に見える拳技を繰り出したのである。だが、零香は本質を捕らえていた。拳を突き出した先の壁、空気を隔てて十メートル以上も離れている壁に、小さな穴が開く。型を当てて抜いたクッキーの生地のように、すっぽりと壁が抜けたのだ。しかも、正円形に。思わず本音が漏れていた。

「……凄い!」

零香は今の一撃の正体を悟った。極限まで打撃点を圧縮、なおかつ衝撃点をレーザーのような直線に搾ったのだ。これは正拳突きの比ではない。零香が知る限り最強最高の、究極の突き技だ。十メートル離れてこれである。直撃すれば、戦車でも穴が開くだろう。事実、道場の外の木にも、同じ大きさの穴が開いている。正に、拳の極みであった。零香の反応を見て、自身の技が完成した事を確認した林蔵は、やり遂げた表情で語る。

「以前から、思いついてはいた。 しかし、技量が足りないので放棄していた。 そんな技だ。 零香、お前との取り組みで色々と知る事が出来て、その知識を元に完成させる事が出来た技だ。 ……今の俺は、お前と二人がかりなら、奴にだって勝てる。 済まなかった……長い間、俺の力が足りないばかりに、苦労をかけたな」

無言のまま零香は、父に抱きついていた。ついに父を縛り続けていた妄執は、此処に滅び去ったのだ。しかし、それが全て良い方向へ行くわけではなかった。それは分かっていたのだが、この時を、零香はずっと待っていた時を、こらえる事など出来なかった。

今まで抑えていた感情が爆発した。

「父さん、父さん、父さん! あああああ、うあああああああああああああっ!」

 

しばし時を置いて。零香が収まるのを見計らい、林蔵は言った。どこか悲しそうであり、突き放すようでもあった。

「……お前は、俺のようになってはならない」

不思議な事をいう父を、泣き濡れた顔で零香は見た。笑顔もなければ、涙もない父を。そして全てを悟る。考えてみれば、この究極の突き技はおかしい。この様な技、人間としての精神で出来るわけがないというのは、確かに道理。あの道場破りの女のように、父は越えてしまったのだ。人間としての、最後の一線を。

多分父は、守護者となったのだ。母と、零香の。感情はまだ多分あるだろう。しかし、人間としての決定的な愛情が、父の中で完全に客観的なものへと変動したのだ。

零香は気付いていた。父はぬくもりに触れた結果、拳を、戦いに対する取り組みの精神を鈍らせてしまったのだと。だからこそに、母も零香も遠ざけ、拳を極めるべく修練を重ねていたのだ。ぬくもりとしての家族を遠ざけていたのだ。ぬくもりを守るために。自身がぬくもりの中にいては、それが為せないのだと、父は結論していたのだろう。究極の冷気の中にいる相手と対戦した、あの日から。

それでも、零香は父を愛している。家族のために人である事を超越したのは、家族に対する愛があったからなのだと、分かったから。

零香の使った幸片が、この事例を引き起こしたのは確実だった。しかし、人の幸せが人の数だけあると言う事は、もう身をもって知っている事だ。悲しいが、それが父さんの幸せというのなら、零香はそれで良かった。

「父さん、わたし、それでも良いよ。 父さんは、わたしの、たった一人の父さんだよ」

「ありがとう、そしてすまない。 零香、お前には感謝している。 俺は死すまで、お前と英恵を守り抜こう。 そして、今こそ明かそう。 銀月の闇と、全ての真実を」

涙を拭う零香に、座るように促すと、林蔵は話し始める。

始まりと、銀月の闇と、自分が守ろうとしたものの全てを。

 

(続)