黄龍奮迅

 

序、地獄の入り口

 

其処には何もなかった。

広さの程は六畳。くみ取り式のトイレと、時々壁が開いて差し入れられる食物だけ。後は全部壁。床も天井も全部壁。壁壁壁壁壁。

何もかもが自分の外出を阻害する。だから壁。

名前なんかない。変化がないし、必要もない。暇になったら外に出たいと思って歩き回る。書物は壁際にたっぷりある。喋り方は何故か知っていた。字も読む事が出来た。書物は唯一の暇つぶし。だから中身は全部覚えてしまった。

一度だけ、ほんの一瞬だけ外が見えた事があった。食事を差し入れられるときのタイミングを見計らって、ずっと差し入れ口を覗いていたときである。

外の木目が見えた。足が見えた。手が見えた。自分以外のものだった。嬉しくなって、手を伸ばして足を掴んだ。ひいっと悲鳴が上がった。必死に暴れた。それが何処かおかしくて、ぐいぐい引っ張ると、顔も見えない相手は転んだようだった。

そして、目があった。怯えきった目と、自分の視線が交錯したのだ。がちゃんと響く耳障りな音。何かの拍子に手を離してしまったので、誰だか分からない相手は這うようにして逃げていった。しばらく手を外に出して、何があるのかまさぐっていたが、トイレに行って戻ると、もう内側からは開けられなくなってしまった。残念だった。

あの体験は衝撃的だった。もっと体験したかった。だから、時々食事と一緒に差し入れられる筆記用具で、壁に描いた。墨をたっぷり含ませた筆で、壁に描いた。ごりごり硯をすって、どんどん描いた。

最初は一つ。自分の顔は触って形を知っているから、やがて一つではおかしいと気付いた。だからもう一つ。それと目が合うと、とても嬉しくなった。だから増やした。

筆記用具はどうせ幾らでもある。がりがりと音を立てながら、どんどん描いた。描けば描くほど筆記用具はすり減ったが、食事の残りと一緒に壊れた筆記用具を出しておくと、新しいのが幾らでも差し入れされた。

こうして、壁には目が増えていった。どんどん増えていった。隙間無く、大きな目が、小さな目が、開いた目が、閉じた目が、どんどんどんどん増えていった。

嬉しかった。目と目が合うと、不思議と寂しさが紛れた。だから足の下にある壁にもトイレにも描いた。

目の数はいつしか千を超えた。二千を超え、五千を超え、一万を超えた。

唐突に部屋を出されたのは、その時だった。目の数を数え、それが一万を超えて、満足した時だった。

壁が吹っ飛んだ。膨大な光が溢れてきた。まぶしすぎて、顔を手で覆った。本能的に危険を感じた。吹っ飛んだ壁から逃げて、壁の隅っこに蹲った。

光の中、あの時足を掴んだ人よりも、ずっとずっと大きな人が立っていた。

大きな人は、目を見回した。無数にある目を、隅から隅まで見ていった。その人の後ろにも人が居た。その人達は何でかいやだった。目を見て、ひいひい言ったり、怯えて逃げていった。だけど、大きな人は逃げなかった。

大きな人が腰をかがめて手を伸ばす。それが自分に向けての親愛の印だと分かった時、自分の名前を思い出した。遠くへ忘れてきたはずの、自分の名前を。

「名前は?」

「名前? ……なまえ……はなえ……」

「英恵か。 俺は林蔵。 弓張林蔵だ」

大きな人はわずかに間をあけて、言った。

「行こう。 俺がはなえを、外に出してやる」

大きな人は、その姿以上に、英恵には力強く見えた。笑顔のまま、大きな大きな手を取る。大きな人の指は、英恵が握りきれないほどに太かった。

何かが始まったのだと、この時思った。

 

「思い出した」

ずっとにこにこと感じが良い笑みを浮かべていた銀月英恵の表情が一変した。それに気付いた雪村巡査長は腰を浮かしかけた。商売柄質が悪い人間とは何度も会った事がある。主任務はデスクワークとは言え、いざというときに備えて武術だって一通りこなしているし、怖い目には何度もあって来ている。それなのに。雪村巡査長は血の気が引く音を聞いた。

英恵は若いが、心優しいお母さんだった。子供の記憶を失ってはいたが、数え切れない母親を見てきた雪村は知っていた。彼女が母である事を。その母の目に宿った地獄を、雪村は直視してしまった。

地獄のスカーレットが病室を見回す。個室のカーテンが、怯えるようにさわさわと揺れた。日本人らしい黒い瞳なのに、どうしてかそれは赤と錯覚出来た。そして優しい感じの良い笑顔は、何処にも残っていなかった。

「そう、こんな部屋だった。 色は違うけど、こんな感じだった。 光は入ってこなかったけど、こんな感じだった」

「ひっ……!」

思わず零れる悲鳴を必死に飲み込む。雪村は初めて知った。真の狂気というものが持つ、凄まじいまでの圧迫感に。

「あの人、怖がらなかった。 他の人と違った。 あの人、だから好きだった」

「は、英恵さん!」

触らないでっ!

一喝が病室に轟く。まだ三十にもならぬ小娘に、歴戦の自分が気圧されている事に、雪村は怒りを感じる暇もなかった。必死にナースコールを押す。ゆらりとベッドから身を起こすと、英恵はそのまま病室を出る。唖然とする患者や看護士達の事を見えないように、ふらふらと病院廊下を歩いていく。

ナースコールを聞いて駆けつけた看護士が、何人かがかりで英恵を押さえ込みに掛かるが、そのまま振り飛ばされてしまう。息をのんでそれを見ていた雪村だったが、ついに決心し、英恵を取り押さえるべく立ち向かう。合気道はこれでも有段者だ。素人に負けるはずが……。

そこで思考が停止したのには理由がある。英恵が振り返ったからだ。同時に、勝てるはずだという妄想は吹き飛んでしまっていた。拳銃でもない限り勝てそうにない。かちかちと顎がなり始める。鼻を鳴らすと、英恵はなおも取りすがってくる看護士を軽々振り払い、病院の外へと歩いていこうとした。駄目だ。自分が止めなくてはならない。必死に戦っているあの零香ちゃんのためにも。自らに言い聞かせ、雪村は勇気を総動員した。

近くに転がっている看護士達を手早く呼び寄せて、作戦を授ける。二三人がかりで取り押さえられないのなら、もっと大人数でやるだけの事だ。力がなければ智恵を。智恵が足りなければ手数を。戦いの鉄則だ。

チャンスは、英恵が角を曲がった瞬間。向こうから五人がかりで、後ろから三人がかりで、重さ自体を武器にして押さえ込む。鎮静剤をうってしまえばどうにかなる。英恵はアドレナリンの過剰分泌状態、いわゆるバーサーク状態になっているものと推測される。力はあるが、精神面は脆いはず。押さえ込む事さえ出来れば、後は手慣れた看護士達がどうにかしてくれるはず。

英恵が角を曲がる。一斉に八人が躍りかかった。前から襲いかかった五名が瞬間的に動きを止め、後ろから三人が飛びかかる。とっさのコンビネーションにしてはスムーズな進行を見せた一連の動作であったが、そこからが大変だった。英恵は決して吠えたり叫んだりしなかったが、押さえ込まれても甘んじて縄には付かなかったのである。

最初に飛びついた一人目を振り払うと、二人目を突き飛ばし、立ち上がろうとした所に組み付いた雪村の顔を掴んで体ごと壁に叩き付けた。物凄い力だ。次々に飛びつく看護士の一人が、手に鎮静剤が入った注射器を光らせている。五人がかりで体重を使って押さえ込むが、うち一人が呻いて床に転がる。物凄い肘を腹に喰らったのだ。何とか鎮静剤の注射は済んだが、それで気が緩んだ所を遠慮無く英恵はついた。容赦なく四人を次々に投げ飛ばし、埃を払って再び歩き出そうとする。もう止められる者はいない。本当なら即座に大人しくなる即効性の薬だと、作戦実行前に看護士は言っていたのに。驚異的な精神力だ。抑えてしまえばどうにかなるはずと言う判断が甘すぎた事を、雪村は思い知らされていた。

それでも、やはり限界はある。六歩進んだ所ですとんと英恵は膝から崩れた。そのまま前のめりに倒れ込み、動かなくなる。荒く息を付きながら、看護士が三人がかりで病室へ引きずっていく。零香になんと説明したらいいのかと大きく嘆息する雪村。彼女の耳には、英恵が呟き続けた言葉が残っていた。

「あの人の所に帰りたい」

愛情とは何処か違う響きだと、雪村は思った。依存心ともまた違う。雪村は今まで零香の言葉を半分しか理解していなかった事を、改めて悟った。この家には、零香が言う以上に、深い闇が潜んでいる。それを直感的に理解したのである。

そうしてみると、不可解な事が無視出来なくなってくる。例えば、英恵の年齢だ。彼女は零香ほどの子が居るにしては若すぎる。

日本では法制度上、男子は十八歳、女子は十六歳からの結婚が許可されている。しかし、実際に十六歳で結婚する女子など殆ど存在しない。法的には許されているのに、そんな行動を取る者は殆どが後ろ指を指される。旧家のしきたりがどうのこうのと言うだけではない、何か別の裏を雪村は感じる。零香の父は今行動が少しおかしくなっていても、若い頃性生活にだらしがなかった人間ではないようだし、その辺も気になる所であった。もう少し、銀月家の込み入った話に踏み込む必要があるなと、雪村は思考を整理していた。

まだぐらぐらしている頭を抑えながら、英恵の病室に向かう。何故彼女が急に豹変したのか調べなくてはならないからだ。彼女は思いだしたといっていた。即ち、何かのきっかけになるものがあったはずなのだ。自分との会話にそれがあったとは思えない。なぜなら、今日の体調と、何か思いだした事はあるか聞いただけだからだ。そのどちらも、今までも十何回と繰り返した事である。今までとの際だった違いはない。

病室に戻ると、看護士達がどうするか話し合いをしていた。乱れたベッドの上には、英恵が座っていた痕跡があり、それが余計に痛々しい。話せば話すほど、最初に抱いた悪印象と乖離する人だった。優しいし芯はしっかりしているし。零香がこの人を救うべく奔走するのも分かるような気がしていたのだ。

だが、あの闇に沈んだ目は、確かに本物だった。何処かへ帰りたいとも言っていた。それが家なのか、それとも何か妄想の先にあるものなのかは分からない。だが、帰巣本能を喚起した何かと、闇が繋がっているのは間違いなかった。

ベッドを探るが、特に異常はない。ベッドの下にも何があるわけでもない。ただひたすらに、何もない空間だけがある。何もない空間に人が何人か入り込んでしまっている。雪村はぞくりとした。この空間は、何もないのが自然であって、人がいる事が却っておかしいのではないかと思ったのだ。あの英恵さんは、ひょっとして人間の事をそもそも必要としてはいないのではないのか。そんな気分を覚える部屋だった。

生活の痕跡は確かにある。だが、興味を示した跡が殆ど見あたらないのである。寒気がする。あの人は、一体どういう空間に暮らしてきたのだろうか。

ひょっとして、家族以外は人間だと思っていなかったのではないだろうか。

いや、それは流石におかしい。なぜなら雪村をきちんと対等な存在としてみて、話をしたし、感情を返してきた。となると、考えられる事は一つ。

ふと、窓の外を見る。大量の鳥がとまっていた。それらはじっと此方を見ていた。突き刺さる無数の小さな視線。ただそれだけの事なのに、雪村は吐き気を覚えた。英恵の感情が流入したのかも知れない。或いは、その意志を少し理解した結果、シンクロしたのかも知れない。

英恵は家族以外の全てを憎んでいる。純粋さの奥に、溶岩のような憎悪が蠢いている。それが、雪村の出した結論であった。

窓を開けて、鳥を追い払う。杞憂であればよいのだけれどと、雪村は自嘲した。

 

1,狂奔

 

秋が来た。初めて神子相争に参加してから一年が経過した事になる。

零香は神子相争に通算で五十七回参加し、合計で二十九回勝ちを収めた。勝率は激しく変動を続けているが、一対一での戦いにおける勝率の高さと、多人数戦闘での勝率の低さは相変わらずであった。初見の技を破る確率においては、草虎談では神子中随一だという。

戦闘に次ぐ戦闘、殺し合いに次ぐ殺し合いで、随分スキルは向上したし、神衣の影響だけではなく身体能力も激しく高まった。

春頃だったか、父と手合わせしようと最初に考えたのは。それから対父用に技を磨き、牙を研いで、来るべき日に備えた。そして今朝早朝。ついに零香は重い腰を上げた。今まで磨きに磨き抜いた拳をもって、父と語り合う日が来たのである。

いつも修練を行う竹林と、父が籠もりっきりになっている道場は近いようで遠い。父は今寝ているが、その存在的威圧感は睡眠時でも健在であった。微笑ましい例なのだが、父の居る道場には蚊が近寄らない。あまりにも濃密な殺気に、原生生物ほど危険を察知して逃げていくのだ。だがら、夏などは父の道場の側でこっそり涼んだりもした。

夏休みの時間を利用して、基礎固めはもう充分に行った。ナンバースリーが此方についてからというもの、銀月家分家の連中は大人しくなってきており、今は現状維持で充分な状況だ。道場も熱心に行く事が出来たし、母の様態も安定していると報告が来ている。勝負をかけるのは、今をおいてなかった。

零香は呼吸を整え、道着の帯を締め直すと、素足になり、竹林の砂を踏んだ。気持ちが引き締まる。岩塩スティックの先端を食いちぎって袋に納め、口の中であめ玉を転がすようにして、塩の固まりを舐め溶かしていった。それが、決戦前の儀式だった。

「行くよ、草虎」

「私はいつでも見守っている。 全力を尽くしてこい、レイカ」

「うん」

返事は短く、決意は重い。零香は父が立てこもる道場に、満を持して歩き出したのであった。

 

銀月林蔵が顔を上げた。昨晩激しい修練を行い、座ったまま眠ってしまった彼だが、それでも何かが接近すればすぐに目を覚ますほど感覚はさえ渡っている。いや、むしろ激しい修練の結果とも言える。

やせこけた彼の顔には、疲労に似つかわしくない殺気を放つ両目があり、それは道場の戸を見つめていた。彼は悟ったのだ。相当な実力者が、道場へと歩を進めている事を。そして、その正体も。

道場の戸が開く。姿を見せるは小さな人影。逆光を背負ったその人は、以前一応武術の基礎は修得したが、それ以上の事を一切しようとしなかった、彼の娘であった。

「おはよう、父さん」

「何をしに来た」

「口、きいてくれたね。 何ヶ月ぶりだろう」

零香が目を擦る。心の痛みを覚えないでもないが、今はそれに大きな反応を示すわけには行かない。そうならないために、数ヶ月間掛かって心の錆を取ってきたのだ。

「話をするだけではあるまい。 用件を言え」

「……今日は武術家として来たよ、父さん。 修練の相手をさせて貰えないかな」

「命の保証は出来ないぞ」

「覚悟の上だよ」

零香は眼鏡を外し、道着に身を包んでいる。それだけで、林蔵には娘の覚悟がよく分かった。道着はシンプルなデザインで実用性を重視し、逆に言うと殆ど飾りっけが無い。ごわごわした肌触りが緊張感を高めてくれる、懐かしいしろものであった。市販品で、暁寺で使われているものだ。この道着になったのは、丁度林蔵が狼次郎に弟子入りした頃。何もかもがセピア色の彼方に消えた出来事であった。

回顧を振り切る。零香は此処に戦いに来たのだ。そして林蔵も、戦うためだけに此処にいるのである。

一目で分かる。娘は物凄く強くなった。激しい実戦を相当数経験したのは疑いない。師の言葉は嘘ではなかったのだと、自身の両眼ではっきり確認する事が出来た。零香は実戦モードに入っている林蔵を見ても気圧されていない。ただの怖い者知らずではなく、きちんと彼我の実力差を理解した上で、だ。実に好ましい事だと、林蔵は思った。

「まずは軽く打ち込んでこい。 どれだけ腕を上げたのか見てみたい」

「うん」

力無き者は、物事を語る資格無し。何かを語らんとするならば、その言葉に相応しい力を得よ。それが林蔵の人生哲学であった。だからこそに、ものを語る資格を得た今の娘には誇りを感じる。

身長差は六十p以上。体重差は百キロ以上。文字通り子供と巨人の体格差であるが、それでも両者の間には、(戦い)が出来るレベル以上の差は無い。著しく成長する娘に対して、腕を磨き直し錆をとり続ける父。親子という差はある。しかし武術家として、同じラインに並んだ存在だとは確かに言える。

手加減無用。両者の目に、同じ理解が、同じ瞬間宿った。

道場の床を蹴り、零香がゆらりゆらりと不規則な軌跡で林蔵との間を詰める。林蔵の手前でサイドステップし、そのまま左右に攪乱しつつ、不意に距離をゼロにして正拳を叩き込んできた。体を軸にして衝撃を床板に逃がすが、ばぎりと凄い音がした。なかなか良い正拳だ。この拳なら、もう野性の熊程度なら問題にならないだろう。

拳を受け流した林蔵は、顔を上げた。今の瞬間回避と跳躍を連続して超高速でこなした零香が、林蔵の身長を超えて跳躍、頭目掛けて蹴りを放ってきたからである。軽くバックステップしつつガードし、零香が離れる瞬間踏み込んで正拳を打ち込む。零香は繰り出される拳を下から上に払って威力を斜めに殺しつつ、床にたたきつけられる瞬間綺麗に受け身を取り、数回転がって後、埃を払って起きあがった。ダメージ無し。素晴らしい。林蔵は背筋がぞくぞくする感触を久しぶりに覚えていた。

「パワーを上げろ。 父にはまだ届かぬぞ」

「オス!」

更に速度を上げた零香が、下段から上段から、嵐のようなラッシュを突き込んでくる。それを着実に捌きながら、林蔵は確かな手応えを感じる。零香は成長している。今の段階でこの実力なら、確実に自分を超える事が出来る。膝目掛けて飛んできた後ろ回し蹴りをわざと受けつつ、頭上から剛腕を叩き落とす。一撃は僅かに零香の頬を擦り、床に小規模なクレーターを作り上げた。舞い上がる木片、既に後ろに廻る零香。早い。

「せいあっ!」

「まだ早い!」

軽く態勢をずらし、左腕を振るい、後頭部へ必殺の一撃をけり込んできた零香のくるぶしをガード。そのまま腕力にものを言わせて跳ね返す。零香は道場の壁に時速六十キロ以上で突っこみ、クレーターを穿つ。とんでもなく頑丈に作り上げている道場が鳴動した。

振り向く林蔵。零香は床にへたり込んでいる。

「これで終わりか?」

「まさか。 まだまだだよ」

立ち上がる零香は、態勢を低く落とし、本気で来る姿勢を見せた。まるで虎だ。口の端をつり上げると、林蔵は右手を上へ、左手を下へ、弧を描くように回し、腰を大きく落とした。迎撃の姿勢だ。同時に、零香がライフル弾が如き勢いで床を蹴った。

「せええええええええっ……!」

「ふううううっ!」

紫電一閃。左手で弾丸が如き零香の突撃をいなしつつ、右手を床へ叩き付けるべく零香に振り下ろす。弾かれた瞬間停止した零香は、だがそのまま前進、強引に父のギロチンが如き腕をかいくぐって、胸襟へと猛烈なチャージを仕掛けてきた。筋肉を最大度緊張させ、林蔵が床を踏みしだく。

流石に零香の顔が強張る。今の一撃を筋肉と骨格だけで止められるとは思わなかったのだろう。その瞬間に勝敗は決した。林蔵は娘にベアハッグをかけた。零香は逃れなかった。詰みを悟ったのだ。

娘を離すと、林蔵は首をならし、僅かに距離を取り直した。

「仕切直しだ。 もう一度来い」

「うん……! 行くよ……」

呼吸と構えを取り直す零香。道場にはしばし、生ある者を寄せ付けず全てを圧するが如き殺気と咆吼が響き渡り続けた。

 

父と組み手を終えて、零香は自室に戻り、汗で濡れた体をタオルで軽く拭いていた。登校前だから、シャワーを浴びている時間的余裕はない。岩塩のスティックを囓りながら、登校の準備を始めた零香の斜め上で、草虎は言った。

「予想以上の実力だな」

「うん」

心の底から零香は同意する。失礼な話だが、まさか父の実力があれほどだとは思っていなかったのである。

果てしなく強い。フルパワーでも神衣無しでは多分まだ勝てない。父の戦闘能力は冗談抜きで大型肉食恐竜並みである。アフリカ象でも勝てないだろう。恐怖よりも高揚が体の芯から湧いてくる。これはもう、どうしようもないバトルマニアの性だ。岩塩スティックを噛み折らないように、力加減に気をつけなければならなかった。

高揚の一方、若干の後悔もある。満を持したつもりだったのに、まだ早かったのかと思ったのだ。だがそれはすぐに撤回される。これで充分だと気付いたからだ。後は父と組み手をしながら、力を付けていけばいい。多分春の時点では、父は口さえきいてくれなかっただろう。

だが、逆に言えば、その父ですら全く歯が立たなかったあの存在の事も気になる。もし父が言う壁があの女だとすると、一体どうすれば倒す事が出来るのか。今のままでは、多分ふたりがかりでも勝てないだろう。神衣を付けても果たしてどうだか。父の拳は恐らく相当に向上しているはず。それでも、勝てる気がしないから、まだ修練を続けているのであろう。

「やっぱり父さんが言う壁って、あの人の事なのかな」

「さて、それはどうだろうな」

「? どういう事?」

「それならば、あのようなやり方ではなくても、他にも技を磨く方法があるのではないかと、私は思う」

言われてみれば確かにその通り。拳を直接交えた結果、分かる事は少なくないのである。

戦ってみて分かったが、父の拳は狼次郎と同じ域にまで到達している。具体的に言うと、もう他人に教わる事はなく、自己の努力で何処まで拳を磨く事が出来るか、という段階である。文字通りの達人と言える。こういったレベルの存在は、もう無駄な訓練など必要なく、自身に合った技を鍛えていけばそれで問題ない。理論で知ってはいるが、零香はまだまだ其処へ到達出来ない。

ならば、何故己そのものを磨き直すような修練をしているのだろうか。思い当たる事はある。思い当たる事はあるのだが、あまりそれは考えたくない。

鞄に教科書類を詰め終わったので、居間に出る。朝食をさっと掻き込んで歯を磨き、顔を洗って気持ちを整えると、メモ帳を見て今日のスケジュールを確認。今日も忙しいが、ストレスは修練で発散出来るし、体力はまだまだ保つ。一番重要な問題は、其処ではない。

「ごめん。 結論はもう出ているんだけれど、もう少し待ってくれるかな?」

「……そう、だな」

草虎も零香の苦悩には気付いているはずだ。今の彼らしくもない甘い発言がそれを真実だと告げている。大きな借りが出来たなと、零香は思った。

本当はずっと前から分かっていた。銀月嬰児の一件以来、分かり切った事だった。だから、向き合わなければならなかった。

だが、残忍な現実は、零香にそう多くの時間を与えてはくれなかった。その日の夕方、零香の元に、母が大暴れした事が伝えられたのである。

 

学校帰りの事であった。最小限の人員にしかアドレスを教えていない携帯のメールに着信があった。雪村からであった。病院の住所と、すぐにきてほしいという文面があり、雪村らしくもなく単純な誤字が七カ所にもあった。文面も乱れていて、慌てているのが一目で分かった。普段の雪村は一時間かけて清書したような完璧な文面を例えメールでも送ってくるし、何があっても誤字などしない。これでも半年以上親密に付き合ってきた相手だから、その辺は嫌でも分かる。

嫌な予感を覚えた零香は、すぐに病院に向かった。実は、母の病院の場所を知らされるのは今回が初めてだ。その一例だけでも、如何に大変な事態であったのかが明白であった。二駅乗り継いで病院のある街にたどり着く。待ち合わせ場所に指定してくれたのが、駅前のロータリーだったが、最悪な事に駅の内部構造が格子状であり、そういった地形を苦手としている零香は迷いに迷う事になった。どうにかロータリーにたどり着いた頃には、もう陽が沈みかけていた。

「零香ちゃん、こっちよ! 急いで!」

零香を見つけた雪村が手を振る。その頬に痣があるのを見た零香は眉をひそめた。単純な近接戦闘能力では零香の足下にも及ばないとは言え、雪村は合気道をやっており、多分その辺のちんぴらくらいなら一人でいなせる。武術をこなした経験がない母を取り押さえるなど造作もないはずだ。その雪村があれほど動揺させられたのである。零香としても、ただ事ではなかったという事実を、今更に見せつけられる。

タクシーに乗り、すぐに目的地を告げる。さりげなくメモを取る零香に、雪村は言う。隠しきれない焦燥が、若さを失いつつあるその顔に浮かんでいた。

「本当はそろそろ貴方に場所を教えるつもりだったの。 記憶は戻らないけれど、事情聴取はほぼ終わったし、お医者様達も危険性も少ないと判断していたから。 それなのに、そういう判断が出た矢先に、こんな事になるなんて」

「一体、何があったんですか?」

「英恵さんが大暴れしたの。 八人がかりでやっと抑えて、鎮静剤を打って。 私も一発殴られたけど、首が千切れるかと思ったわ。 本当に、あの人武術の経験ないの? 物凄い殺気と圧迫感を感じたわよ」

零香は瞬間、思考が凍結するのを感じた。凍結を突き破ったのは、マグマのように沸騰したカオスの思考。雪村の言葉の意味が理解出来なかったからである。母が武術?雪村を圧倒した?八人がかりでようやく抑えた?首が千切れるかと思った?

父がどれほど激しく修練していても、母はそれに興味を示さなかった。いつだって見学していて、バックアップとサポートに廻っていた気がする。というよりも、それ以外の事をしていた記憶が一切無い。ただ、最近普通の女子の、格闘技に対する反応が分かってきた。だから、のほほんと、荒行を極める父の修練を見ていた母の態度には何か不思議な違和感も感じたが、それがこんな事態に直結するとは文字通りの予測不能であった。

母が鬼子と言われた理由は知っている。実に下らない事だ。銀月家では、もし三番目に産まれた子が背中に四つ以上のほくろを持っていた場合、鬼子として重大な監視下に置くべしという家訓がある。父の言葉によると、江戸時代にそうやって産まれてきた女子が家の大きな不利益をもたらす事件を起こした事が何度かあったという史実が、鬼子を忌み嫌う風習を産んだのだという。だが、それでは、母の行動は説明出来ない。

父が嘘を付いたとは思えない。となると、父が知らない以上の秘密があるのか?それとも、風習ではない何か別の秘密が母にはあったのか?

「零香ちゃん、それ何?」

「え? あ、これは岩塩です。 最近はこれが精神安定剤の替わりになってます」

無意識のうちに、人前では滅多に出さない岩塩スティックを取りだしてしまっていた。怪訝そうに眉をひそめる雪村に何とか取り繕うと、零香は声を殺して言う。

「草虎、母さんに会うのは確か、初めてだったよね」

「ああ。 レイカの元に初めて訪れたとき、母君は既に失踪していたからな」

「そうだったよね。 なら、見て欲しいんだ。 ……そして、見たままの事を言って欲しい。 わたし、母さんの事が好きだから。 どうしてもひいき目に、いい方に解釈しちゃうかも知れないから。 第三者の草虎が、客観的に見たまま言ってくれれば、決心付くと思うから」

「……そう思い詰めるな。 まだレイカの母君が、何か嫌な存在を身に宿していると決まったわけではないし、むしろその可能性は低い。 私の予想では、きっと後天的に培われた何か特質的な性質なのではないのかな」

零香もそう思いたい。だが、一度疑念を抱くと、それを取り去るのはとても難しい。事実、母の中に鬼の要素があるわけがないと思っていたのに、現実はどうだ。一体母に何が起こったのか。元からこうだったのか。

やっぱり自分はガキなのだと、零香は自嘲する。大学病院の前でタクシーが止まり、零香は雪村に連れられて降りた。母に会えるのはほぼ一年ぶりだというのに、不思議と感慨はない。受付で警察手帳を見せ、看護士に奥へ案内させながら、雪村は言う。

「英恵さんは、今静かに眠っているはずよ。 精密検査はそろそろ終わるはずなのだけれど、大丈夫かしらね」

そんな事はこっちが聞きたいくらいだが、雪村の言葉が此方を気遣っての事だし、暴発するのも大人げない。ただでさえガキな自分に苛立っている所である。八つ当たりだけは絶対に避けたい。

何回か階段を登り、鉄格子付きのドアを潜ってその先。脱走の恐れがある危険な患者が入れられる棟に、英恵は入れられていた。看護士なのかよく分からないごつい警備員が彷徨いていて、時々意味不明のうめき声が聞こえてくる。零香は気が滅入った。辺りの患者達を、気の毒だと思ったのだ。

日本ではどういう訳か肉体的弱者への差別が忌み嫌われる一方で、精神的弱者への差別は正当化されている。或いはより露骨に表に現れる唾棄すべき傾向がある。精神に障害がある人間に対する差別はかなり露骨に現れるし、精神的な弱者は一方的に糾弾される。肉体の欠損は補う事が出来ないが、精神的な欠損は精神力でどうにか出来るというような妙な理屈が社会的に地位を確保している現実もあるし、この辺りは数百年かけて改善して行かねばならぬ社会的課題だ。

「こっちよ。 迷子になると大変だから、気をつけて」

「大丈夫です」

即答する。こういった要塞のような作りは、零香には却って都合が良い。これなら中を彷徨き回っても迷う事はないだろう。牢屋みたいな作りの部屋の前で、詰めていた看護士と一言二言会話する雪村を見ながら、零香は余所を向くふりをして会話を拾っていた。母は眠ったらしいのだが、危険があるのでまだ定期的に鎮静剤を投与して様子を見るのだという。

「母さん、大丈夫かな……」

「それよりも、レイカ」

「うん?」

「……大丈夫だ。 安心しろ、霊的な負の要素は感じない」

率先して病室をのぞき込んでいた草虎の言葉に、零香は心底胸をなで下ろした。となると、精神的な要素か、先天的なのか後天的なのか、何にしても科学的な考察が意味を持ってくる事になる。

「零香ちゃん」

「はい」

「面会は出来ないけれど、顔を見るだけなら良いそうよ」

「有り難うございます」

ぺこりと頭を下げて、病室をのぞき込む。強化ガラスごしに見た母は、一年前と代わっていなかった。一時期はかなり痩せたと言う事だったが、今はそれもかなり回復したようである。髪の長さも変わっていない。何より寝顔はとても安らかだ。

安心した。

胸をなで下ろす。あの母が鬼であるわけがない。絶対に後天的な理由のはずだ。何があったのか、確かめるべきだ。何が母を暴れさせた原因なのか、調べ上げて、人為的な要因なら必ずや償わせる。

そうだ、座敷牢に閉じこめられていたとか言う体験がそれの原因となった可能性は極めて高い。話によると、あの白炎会だとかいう腐れカルトに囚われたときも、似たような状況だったと言うではないか。それでは閉じこめていた記憶だってフラッシュバックする。母さんは悪くない、悪くない、悪いはずが……。

「レイカ」

「! ……ごめん」

「気にするな。 ……雪村巡査長に気付かれる。 声量を落とせ」

非客観的な思考に囚われそうになってしまった自分を戒めると、零香は自然に零れてきた涙を拭う。雪村がハンカチを貸してくれるが、謝絶して自分のを使う。看護士が脇で何やら雪村に言っている。悪いが全て拾わせて貰う。

「精密検査では異常が発見出来ませんでした。 何かしらのトラウマのフラッシュバックと考えられますので、暫く検査して、状況が落ち着いてから催眠療法か薬餌療法か判断する事になります」

「やはり、退院は遅れるの?」

「肉体的に全く問題はないのですが、この状況では……。 この病棟を出るのにも、最低後一ヶ月は検査をして貰う必要があります」

雪村に話は聞いていたが、状況は良くない。看護士が青ざめてひそひそ雪村に話す所に寄ると、先ほども薬が切れた途端に大暴れしたのだという。叫び声を上げるとか大声でわめくとかではないのだが、静かに馬鹿力を振るって外へ出ようとするので、病院のスタッフは気が気ではないようだ。アドレナリンの過剰分泌は確認されたようなのだが、理由がさっぱり分からない。今のままでは危険すぎて催眠療法も使えない。母さんは頭がおかしくなっているわけではない。むしろ頭は極めて冴えており、妙な部分の記憶だけフラッシュバックしているため、危険人物と化しているのだ。そう零香はすぐに分析完了した。

父さんを連れてくるしかない。零香はそう判断した。話を総合すると、母さんはまず間違いなく父さんの元へと帰ろうとしている。しかし、父さんの、ずっと一人になって修練をしている理由も分かる。零香にはもう分かっている。だから、無理に強制も出来ない。武術家だから分かる。幾ら手を汚しても、家族の幸せを取り戻そうとした時から、本当は分かっている。過去の話を聞いて、とっくに確信に変わっている。ただ、今までは見ないようにしてきただけだ。

父さんを此処に連れてくるのは、現時点では不可能。零香はそう結論した。冷厳な判断には慣れている。神子相争で同様の悲しみを抱える同世代の女の子の胸郭をぶち抜いたり、首を掻き落としてきた零香だ、その判断力は現実のこの世界でも健在である。ならばどうするのか。結論は一つしかない。幸片だ。

現在蓄積している幸片は二つ。量的にはまあまあだが、まだ少し足りない。怖いのは、母の行状が周囲に知られる事だ。雪村は信頼出来るが、他の警察官がどうかは分からない。多分今回のこの一件だって、雪村が独自の判断でやっているだろう事は零香にも容易に判断が付く。雪村をねたむ同僚などが居たら、其処から副家へ話が伝播する可能性がある。極小だが、どうもその極小の可能性を操作している誰かがいるように思えてならない。だから、行動には細心の注意を要する。

「零香ちゃん、ごめんね。 再会が、こんな形になってしまって」

「……帰りましょう。 まだ、全てが終わったわけではないですし」

「ええ……」

いつのまにか、雪村の方が目頭を押さえていた。

病院から出て、駅まで送ってもらう。家まで送ってくれると言ったのだが、それは謝絶した。幾ら何でも軽率すぎる。帰る途中、思惑を纏めていく。そして家について、自室に入ってから、草虎へ振り返った。

「今日から、街で修練しようと思うんだ」

「ふむ」

「肉体能力的に、神衣を付ければ大丈夫なはず。 神衣を付けたまま隠密行の修練をして、敵の先手を取る技術を磨いておきたい」

「そうだな、そろそろ良い頃だろう。 後半年ほど鍛えれば、神衣無しでもいけるだろうと思っていた所だ。 この周辺に術者が居る気配はないが、たまに勘が鋭い人間が居る事がある。 一般人だと思って、油断はしないようにな」

「うん、分かってる」

主に街の中を、人間の気付かれないように隠密行をする。主に利津対策として、前からしようと思っていた修練だが、これを実行に移した理由は神子相争の他にもう一つある。O市の周辺を徹底的に探る事により、あるものを探し出そうと思ったのである。

自宅はもう完全に調べ終わっている。隠し部屋や地下室は存在しないと結論出来る。だから、本家が以前抑えていた建物のうち、零香が知らないものを探るしかない。零香が修練をしながら探すものはただ一つ。

母のルーツである、座敷牢の跡であった。

取り壊されている可能性は少なくない。だが零香には、どうしてかそれが残っているように思えてならない。

零香が金庫を漁って調べた所、本家が公式非公式に所有している建物は三十を超し、書類をチェックした所零香が知らないものもまだ結構ある。そのうちの半分ほどは暇を見て足を運んだのだが、どれも倉庫だったり廃屋だったりで、これといったものは発見出来なかった。具体的な所在が分からなくなっているものも少なくなく、それらは足を使って探していくしかない。そのためには、人間の動線も含めた街の総合的把握が必要不可欠なのだ。

或いはO市以外の場所に座敷牢が存在する可能性もあるが、実のところ銀月家の保有財産はO市、遠くても都内に存在するのが常識となっている。それより遠くにあったら却って目立つはずであり、むしろ探すのは容易である。ともかく、だ。最初はO市の完全把握から始める。そして神子相争に積極的に参加し、幸片を使う。幸片だけに頼るのではなく、自分でも解決の糸口を探る。それ位しなければ、今の状況は打破出来ない。

折角ナンバースリーの銀月嬰児を完全に屈服させ、分家の心が零香に傾いているのだ。今が好機だとも言えるし、今しかチャンスはないのだとも言える。人口十五万のO市を探り付くし、全ての病根をえぐり出す。

いつの間にか、家族の幸せだけではなく、恒久的な幸せのために零香は動いていた。それに気付いて、自分の視野と力が拡大した事に改めて気付く。

視野が拡大する前は、父の行動の理由にも気づけなかった。どうしていいかも分からず泣くばかりであった。一年前とは比較にならないほどに、零香は成長した。だからこそに見えてきた大きな壁。母を救い、父を救い、幸せを取り戻すのに、何故このような巨大な壁が立ち塞がるのかは分からない。しかしやるしかない。

数百年分の膿と、零香は相対していた。父の行動の理由、母の狂気の理由に薄々気付いている零香は、それを肌で実感していた。

 

2,迷走の果てに

 

由紀が走る。どんどん加速し、激しく叩き付けられる風の合間を縫って、敵に迫る。敵は今回一人だが、油断は一切出来ない。相性が悪い上に、個体個の戦における抜群の戦績を誇る零香だからだ。

零香は相手が由紀だと言う事を知っているからか、そのまま動かず、武装して待ちかまえている。戦場は見通しが悪い無人スラム街。最初に由紀が体験した戦場で、出る度に毎度毎度構成が違う。今回は特徴がない作りだが、中央には百階建てはあろうかという超巨大ビルの残骸がうずたかく巨体を見せつけていた。

零香と相対した由紀は、一度足を止め、ゆっくり彼女の周りを歩き始めた。零香は振り向きもせず、右手に付けた巨大なクローをゆっくり揺らし、左手のブレードを鈍く光らせている。空は曇り、いつ雨が降り出してもおかしくない。

以前と違い、零香は建物に籠もらない。キネティックランサーを由紀が修得した現在、それは自殺行為だからだ。そして由紀としても、零香は迂闊に攻撃を仕掛けられる相手ではないのだが、此処は果敢に攻める。それが由紀の戦闘スタイルだから。

地を蹴る。零香は動かない。零コンマ五秒で時速三百キロに達し、刃を振るいつつ零香の側を抜ける。だが彼女は打撃の威力をずらし、毛皮で刃を受け止めた。分厚い毛皮は、タイミングと刃の角度が合わないと切り裂く事が出来ない。昔と違って、その特性を知り尽くした零香相手に、生半可な攻撃は無意味だ。そのまま反転して刃を振るうが、軽く上げたクローで防がれる。そのまま左手の刃を突き込もうとするが、開いている左手で掴まれかけたので、慌てて回避、地面を蹴って壁に柔らかく着地し、重力に逆らわずに地面に降り立った。少し刃を交えただけで分かる。零香は更に強くなっている。

零香は、ごろごろと瓦礫が転がる、かっては広場として使われたであろう場所の真ん中に仁王立ちしている。瓦礫が邪魔で、高速機動戦が仕掛けづらい場所だが、何処から攻めれば問題なく向こうに抜けられるか、どうやって追いつめるべきか、地形を見るだけで即座に判断出来る。だが、それは零香も同じ。何処から由紀が攻めてくるか把握し、着実に攻撃を捌いて、必殺の機会を狙ってくる。今の瞬間の攻防だけで、それが由紀には再確認出来る。零香はと言うと、追い駆けっこをしても無駄だと知っているためか、余裕綽々の体で仁王立ちしていた。

そのまま軽く数度刃を交えると、一旦距離を取る。零香は微動だにしない。不意に再び間合いを詰めて、直前でバックステップ、斜め後ろに回り込むが、刃を振り上げるだけで対応してくる。一戦ごとにやりづらくなる相手だ。飛んできた回し蹴りを潜って避けるが、零香の足はそのまま空中で急停止し、物凄い踵落としに変化した。瓦礫が砕けて吹っ飛ぶ。慌てて避けなければ頭を砕かれていた。

そのまま瓦礫の一つを蹴って再跳躍。斜め上から躍りかかりざまに刃を振り、零香が振るったクローと打ち合う。火花が散り、金属音が瓦礫に乱反射した。尻尾を上手く使って人間離れしたバランス感覚で態勢をなおした零香が、中段の後ろ回し蹴りを叩き込んでくる。避けられず、下がりつつガード。しかしそれでも二十メートル近く飛ばされ、近くのビルに叩き付けられた。

威力は最小限にまで落としたが、一瞬タイミングを間違えたら腕ごとあばらを折られていた。立ち上がり、ノーモーションで零香が投げた瓦礫を紙一重で回避、再び瞬間的に間合いを侵略して刃を振るう。脇を軽く掠り、やっと零香に一撃が入る。そのまま叩き付けられた尻尾を飛び越え、距離を取る。零香は再び構えを取り直し、軽く傷ついた脇腹を肘で擦る余裕を見せていた。

場数なら由紀の方が上だが、才能と戦闘スタイルの相性の悪さで、状況は四分六分と言った所だ。由紀は零香に対して勝率四割を切っており、利津と同じく出来れば戦いたくない苦手な相手である。それにしても零香の体術の向上は凄まじい。最近は尻尾まで攻撃に利用してくる。引けない理由もあるし、出来れば勝ちたいのだが、零香の気迫から言っても引いてくれるわけがない。零香はクローを一嘗めすると、左手人差し指で由紀を招いた。こういう所が、とても大好きだ。猛々しくて実にイカス。悪いが、新しい術の実験台にさせて貰う。

零香のスピードは神衣を付けている状態で時速百キロを軽く超えているが、由紀に比べればまだまだ遅い。一旦四百メートルほど距離を取り、黄神輪に触れて詠唱のロードを開始。零香はそれを見て、無言のまま微妙に立ち位置をずらした。由紀が行おうとしているのがチャージ技の場合、瓦礫にぶつかって突撃を阻害される位置だ。確かにいい判断だが、この術にそれは関係ない。今回初めて実戦で試す事になるこの術だが、まだ由紀としても確実に敵を仕留める自信はないので、あくまで攻撃に関する補助として用いる。その術に併せて発動する可能性があるもう一つの術の準備も済ませ、腰を落としてチャージの態勢を取る。四百メートル先の零香とにらみ合う事数秒。殺気という名のスパークが弾ける。

「はあああああああああああっ!」

はき出したのは戦意と高揚。四百メートルの距離を駆けぬけるべく、全身の筋肉をフルパワーにて躍動させる。半ばにて最高速度まで到達。高速の世界の中、コマ送りのように全てが見える。風の流れすら見える中、零香は慎重に立ち位置をずらしつつ、体を低く落とす。狙い通りだ。確かにマニュアル通りの反応だが、今回はそうさせるのが一番都合がよい。右双剣を構え、此方も態勢を低くしてそのまま疾走。そして目を見開く零香に、真っ正面からチャージを浴びせた。強烈な運動エネルギーの爆発に、瓦礫が吹っ飛び、爆音が轟き、血しぶきが砕け散った。

これぞ、新術である、ベンドランサー。今までのチャージ技は全て直線的にしか放てなかったのだが、高速機動時に任意で質量を調整するこの術により、現在の練度で六度くらいまでの曲線行動なら可能になった。急角度では曲げられないが、回避行動を取った敵に直撃させる事が可能だという点が実に大きい。力の消耗も少なく、破壊力も落ちることなく。不意を付き、勝てるはずだった。

猛烈なチャージを浴びせる事には成功した。吹き飛んだ零香と、ぐらつき、地面に倒れ込む由紀。意識が薄れていく。何が起こったのか、冷静に頭を落ち着かせようとするが、大量に腹から流れる血は、それを許してはくれなかった。足音がする。零香に見下ろされている事に、由紀は気付いた。無理に体を起こす。腹から零れた腸が、ぶらんと揺れた。大量の血を見て、視線が強制的に下へ移動する。

「どうしてって、顔してるね」

貧血になりそうな顔を無理矢理上げて、零香を睨む。彼女は無傷ではない。腹から脇腹にかけて、大きな突撃痕が残っている。それに神衣は真っ赤に染まっていて、びっこを引いていた。頑丈な零香も、今のチャージをまともに喰らってはただでは済まなかったのだ。そしてその手にあるクローは、由紀の血に濡れていた。肩で息を付きながら、零香は言う。

「避けられないのは見て分かったから、避けなかった。 代わりにスピードを半利用して、クローを入れる事に専念した。 威力は避けない事で軽減した。 知ってると思うけど、こういう時って、下手に避けると却って危ないから。 まあ、棒立ちしていたんじゃなくて、衝撃を殺す工夫はしたし、受け身は取ったけどね」

「はは……いい感じで……いかれてる……ね。 あれを避けようと……おも……ない……ゴホゴホっ!」

「貴方もね、由紀ちゃん。 ごめんね、勝たせて貰うよ」

無言のまま、まだ手にしていた双剣を高速で振り上げる。零香の脇腹にそれは深々突き刺さる。鮮血が飛び散り、白い神衣が更に朱に染まった。だが零香は眉をひそめただけだった。痛くないはずはない。鋭い刃が、神衣の弱点である脇腹にもろに突き刺さったのだ。はずはないのだが。何て頑丈な奴だと、由紀は毒づくが、それが精一杯だった。

クローが振り下ろされ、由紀は意識が消えるのを覚えた。多分首をはねられたか頸動脈を完全に切断されたかだと、後で思った。そうでなくとも、放っておいても後五秒で負けていただろうとも。

 

自室で身を起こす。とどめを刺してくれた零香の優しさに感謝する前に、負けた事に対する焦燥が募る。幸片は幾らでも欲しい。新術が通用せず、あっさり負けた事もかなり悔しい。質量を上乗せするのを渋ったという理由もある。だが最大の要因は、やはり術の練度が低い事にあった。

部屋の隅には、お気に入りの瀬戸物が置いてある。ちいさな茶碗である。いわゆる過剰同調の結果、由紀は走るのが大好きになり、更に何故か茶碗が大好きになった。取材先に行くと、いつのまにか気に入った茶碗を物色している有様だ。家の外に月千円で借りている倉庫には、既に百を超すコレクションが収納されている。今はお金がないので安物しか買えないのだが、それでも充分。

瀬戸物に頬ずりする。本来の使い道とは違うが、だがそれが心地よい。しばらくすりすりして気持ちを落ち着かせる。動悸が落ち着いてきた。それを見計らい、石麟が言った。

「由紀、大丈夫?」

「ああ。 それにしても悔しいな、くそっ! 零香の奴、また腕を上げてた。 あのタイミングで、とっさにカウンターを合わせてくるなんて、あり得ない」

「由紀だって伊達に場数を踏んでいないわ。 単純な戦闘経験なら神子の中でも随一なのよ。 以前だったら、きっと零香ちゃんに何をされたかだって分からなかったでしょうよ」

「ありがと、石麟。 それにしても、ベンドランサーが通用しないとなると、あの術も使ってみないと駄目なのか……」

優しい石麟の言葉は、由紀には有り難い。でも、それだけでは精神の安定を完全には取り戻せないから、ぶつぶつ言いながらお茶碗に頬ずり。深刻な顔だけに、他人には絶対に見られたくない光景だ。ちなみにこのお茶碗はファンから貰った物であり、時価にして十万円を超えるかなりの高級品である。それだけに肌触りもダンチである。由紀の宝物だ。

しばらく戦術を練っていた由紀は、不意に顔を上げた。そして窓の外を心底いやそうな目で眺めやる。

「まただよ……」

「手加減をしないと駄目よ」

「わーってるよ。 全く、噂は流れているはずなのに、どうしていっつもいっつも懲りないんだろ、あいつら」

茶碗を置いて立ち上がると、気配を消して外に出る準備をする。服を脱ぎながらカーテンを閉め、ジャージに着替えて木刀を出し、サングラスを装備。ついでにマスクもして、変装完了。あいつらというのは、他でもない。ストーカーどもの事だ。

もはや日本随一とも言われるチャイドルに成長した由紀の、目下の悩みが、ストーカー対策であった。下は中学生から、上は四十七歳の会社重役まで。それはもう色々な男にストーキングされた。たまには女もいた。いずれも物影に引きずり込んでぼこぼこにしてやったのだが、毎月のように新しいストーカーが湧く。殆ど蠅叩きか土竜叩きをしているかのような状況である。大半は優良なファンなのだし、一部とは友達にもなったが、こういう奴が出てくるのは悲しい話だ。話によると、由紀はその性質から、アイドルの中でも特にストーカーを呼び寄せやすいのだという。

ネットの裏情報などでは、由紀には狂信的なファンクラブがあり、それがストーカーをぼこぼこにしているのだという噂が流れているのだが(勿論由紀本人が事務所の目を盗んで流した)、それでもストーカーは毎月のように発生する。そればかりか、その狂信的ファンサイトに入りたいと熱望する信者が多く、それの裏情報とやらが三十万でネットオークションにかけられているのを見てげんなりしたのはつい先月の事だ。

普通こういうのは事務所の仕事なのだが、由紀の場合事務所が半個人経営という事情があり、ファンレターのフィルタリングも出来ないし、スケジュールの安全対策も甘い。由紀が知るだけでも、七回以上も忍び込まれて、スケジュールをのぞき見されているほどだ。このため、狂信的なファンによって何度か危ない目に遭った事がある。当然いずれも返り討ちにしてやったのだが、それによって防御本能に磨きが掛かったのだ。場数も無意味に踏む事が出来た。一度ワイドショーもこれについて取り上げたが、既に逮捕されたストーカーの一人が犯人だと触れて、由紀を激怒させた。

今はストーカーなどに心を裂いている暇はない。だから路傍の小石と同じ扱いである。むしろ修練の一環に過ぎない。外に出て、百メートル先のビルへと気配を消して忍び寄る。今は夜。毎朝やっている事だし、全く造作もない事だ。ビルの影に潜り込み、相手の気配を完全な形で確認。木刀を一嘗めすると、小首を傾げながら望遠鏡をのぞき込んでいた男に背後から忍び寄り、木刀で軽く肩を叩きながら言う。出来るだけ声をドス低くして。

「オイ」

「ひっ! な、なんだ君は!」

商業ビルの屋上に陣取り、由紀の家をのぞき込んでいたのは、一見好青年にも見える、サラリーマンであった。変装なのかジャージを着て、サングラスをかけているが、雰囲気で分かる。社会人だ。このビルに入っているテナントの社員かも知れない。それにしても、サングラスにマスクでジャージの由紀と、ジャージを着た怪しい男が向き合っている様は、異様な空間を作るには充分であった。

「華山マキの部屋を覗くとは、良い度胸だね。 遺言と戒名は? 遺族には届けておいてあげるよ」

「ま、待ってくれ! わ、私は、そ、その! そうだ、マキちゃんがストーカーに狙われているって聞いて、守ってあげようと思って、それで、その」

「着替えを覗いたってか」

「で、出来心だ! 着替えを覗こうとなんてしていない! き、君は例のファンクラブの人間か? 丁度いい、僕を仲間に入れてくれないか? や、やめてくれ! は、話せば分かる! ファンならマキちゃんを思う気持ちは一緒のはずだ! あ、いや、た、助けてえええっ! うぎゃああああああああああ!」

見事に鎌をかけたら引っかかったので、内心うんざりしながら由紀はサラリーマンを後遺症が残らず死なない程度にぼこぼこにして、縛り上げて望遠鏡と所持していた写真ごと警察署の前に放り出してきた。いつもの事だが、逆に言うと四回や五回ではないので、街の警察署は最近、華山マキストーカー対策警察署とか影で噂されているそうである。大型匿名掲示板では、謎の覆面警察官がやっているのだとかいう、妙な都市伝説が真実のように語られていて、由紀はますますげんなりした。

自分の虚像が一人歩きするのが、有名人の苦悩の一つだ。学校のアイドルとか、地区レベルでの有名人でもそうなのだから、由紀のような超有名人になってくるとその苦労は想像を絶する。さっきの勘違いサラリーマンもそうだが、善意が暴走して狂気になる事も珍しくはないのである。ただでさえ両親が大変な事になっているのに、こんな下らない事に時間を裂かねばならないのは苦痛であった。

家に帰って、すぐに寝なくてはならない。歩きながら欠伸が出る。寝ようと決めたら寝られるように修練した結果だ。零香に負けたさっきの戦いを反復しながら、由紀は寝ぼけ眼を擦りつつ、夜半にかかろうとする街道を歩いていた。

 

朝になった。寝ぼけ眼を擦りながら起きだして、朝練の準備にはいる。まずは街を高速で人に見られないように爆走してから、軽く剣の修行だ。パジャマを着替え終わったら、カーテンを開ける。周囲数百メートルに監視者無し。歯を磨いて顔を洗い、外に出る。残念ながら快晴とはいかず、外はどんよりと曇っていた。少し寒い空気の中、ジョギングを始める。ジョギングしながら素早く経済新聞に目を通す。それを読み終えてから、一気に加速。天かける燕と同じくらいの速さにまで加速しつつ新聞をしまい、徐に木刀を取りだした。

神子相争に参加してから、既に一年以上が経つ。輝山由紀を取り巻く状況は、思春期だからと言う理由を遙かに超越した速度と勢いで変わりつつある。さながら、本人のスピードをそのまま反映しているかのように。

ぐらつきながらも何とか経営を続けている彼女の両親の会社は、どちらも超低空飛行を続けている。実質上はもう倒産していると陰口が叩かれているのも無理がない話で、最近は残務整理と財産管理が主な仕事になっているほどだ。赤字店舗を綺麗に捌く事が出来ているのは、由紀が幸片をつぎ込んでいるからなのだが、両親は当然気付いていないだろう。両者の仲は相変わらず冷え切っていて、由紀が居る前で喧嘩を始める事すらない。もう心が離れてしまっているのだと、幼いながらも女である由紀は自然に理解していた。

悲しい話だが、両親と元の幸せな生活を取り戻すのは無理ではないのかと、由紀は時々自問自答する。そんな彼女をずっと支えてくれたのが石麟だ。もし両親が上手くいかなかったとしても、神子相争だけはやり抜くと決める事が出来たのも、ずっと側で支え続けてくれた石麟のお陰だ。由紀は石麟を尊敬している。

「集中して。 今、少し危なかったわ」

「分かってる」

側を併走、いや併飛する石麟に返しながら、由紀は更に速度を上げる。肉体的能力はますますの向上を見せていて、その気になれば直線限定で、全速力で走るフェラーリに追いつける。ただし神衣を使わないと、防御力や持久力に難がありすぎるのでやらないが。

チャイドルとしての由紀、つまり華山マキは、豊富な勉強量と集中力のたまものか、もはや同世代にライバルはいない存在にまでのし上がっている。事務所の営業があまりよろしくないのが却って幸いし、仕事量が決して過剰ではないため、由紀としてもとてもやりやすい。そしてそれがロイヤリティさえ産んで、今では一回の仕事で信じられないような給料が転がり込んでくる。一度の出演で給料が三百万に達した事さえあり、長者番付に登録すればトップ百に食い込むのではないかとさえ噂されている。だが皮肉な話、給料は沢山貰っているが、その殆どを父母の負債整理に当てているのはあまり知られていない。自由に出来るお小遣いなど、普通の中学生並だと言う事も。事実、消耗が激しい木刀を買う金だけで、毎月バカにならないのだ。

歌唱力を武器にしている由紀だけあり、アルバムの売上は並の歌手では歯が立たないほどで、口うるさい批評家も手放しで絶賛するレベルの仕上がりである。当然の話で、激しい実戦で鍛え上げた由紀のスキルに、凄みが籠もらないわけがないのだ。

最近ではアニメの声優にも挑戦した。この手のアイドル声優もしくは俳優声優というのはほぼ例外なく、あまりにもお粗末な棒読み演技でアニメファンを脱力させるのだが、由紀に関しては数少ない例外となった。彼女が出演した作品は口うるさいアニメファンからも絶賛を受け、特にヒロインが死んでそれを悲しむシーンの演技は多方面から拍手された。短期間で大きな実績を残した由紀は、声優としても充分にやっていけるのではないかと囁かれている。

時の人となった由紀だが、それ故に上からも下からも睨まれる。上下関係の厳しい芸能界では、由紀のように目立つ人間は余計に叩かれやすく、陰湿な虐めにも遭いやすい。虐め自体は問題にもならなかったが、いやだったのが持ち物を頻繁に荒らされる事である。最も、荒らされて黙って引き下がった事は一度もない。確実に視聴率を稼げる由紀をテレビ局も重視していたし、由紀自身も自らの価値醸成に力を注いでいたから、今ではテレビ局よりも力のある状況だ。

社会的には、個人的に成功を収めている由紀。だが神子相争での勝率は参加率の高さに反比例して低めであり、他の神子と総合的な幸片獲得率では横並びである。ますます口数少なく、疲弊しきっていく両親を見る由紀は、もっと多くの幸片を必要としていた。だが焦る由紀を横目で見ながら、他の神子達も皆力を付けている。他の子も皆焦っているのは知っているが、それでも若干脆い由紀には少し辛い事であった。

今まで自分と向き合う事の無かった由紀だが、激しい戦闘とそれに伴う向上で、嫌と言うほど自分を鏡で見る事になった。性格的な欠点、身体的な欠点、詰めの甘さ、短絡的な思考。いずれも勝率を落とすのに充分であり、日々整備に余念がない。整備しても簡単には直ってくれない。それが悔しい。

悔しくて、日々の修練は更に激しさを増す。木刀で岩を砕いている間は、何も考えずにいられるから。歌にも凄みが籠もる。唄っている間は、何もかも忘れて暴れる事が出来るから。ダンスにも情熱が更に籠もる。踊っている間は、何もかも忘却の彼方に追いやる事が出来るのだから。

最近では、アイドルとしてのキャラクターと、歌とダンスが全く別物だというファンの評論がちらほら見られるようになった。余所では憂いを見せるほど油断はしていないのだが、流石に見ている奴はきちんと見ている。そういったファンこそ大事にしたいと思うのだが、なかなか上手くいかないのが現状だ。下手にファンに対するアプローチを行うと、ストーカーを更に量産しかねない。

木刀を傷付けないように当てる修練に続いて、細い枝を走りざまに切断する修練も無事に終え、そのまま一気に山にある自然公園まで駆け抜ける。公園内にあるめぼしい大岩はもうあらかた砕いてしまったから、今度は別の修練だ。岩を砕くのはロケ地や何かで幾らでも出来る。此処でしか出来ない修練を毎回考え、体力のギリギリまで行うのが由紀流のやり方だ。

今日の修練は、公園の真ん中にある大きな池で行う。水が濁った池であり、大量の水草が水面を緑に染めている。夏には異臭が立ち上る事もあり、噂によると死体が上がった事もあるとかないとか。ただし由紀自身は幽霊を見た事がないし、石麟もあまりそれには触れないから、いたとしてももうとっくに成仏しているか、大したことのない自縛霊なのだろう。

修練の目的は、先日零香に使って失敗したベンドランサーの練度上昇である。フルスピードでのチャージ時に、威力を落とさず軌道を大きく変更するこの術は、極めればきっと大きな戦力になる。零香にはこの間通じなかったが、それはそれ、これはこれ。もう一つの新術と組み合わせればきっと最強のコンビネーション技になるはずで、きっと零香にも通じるはずだ。そう信じる事で自分を奮い立たせる。もし零香に通じなければ、それはそれ。次にでも対策を考える。

修練自体は極めて簡単。水の上を走り抜けばいい。高速で走れば、水の表面張力との関係で、水面下に落ちることなく渡りきる事が出来る。バジリスクと呼ばれる蜥蜴の一種などはコレを利用して水を渡る事がある(ただし、通常時は泳いで渡る)。今回由紀はベンドランサーの術をかけながら水面を渡るわけだが、力の掛かり方がまずいと池にドボンである。念のために下にスクール水着を着てきてはいるが、出来れば落ちたくはない物だ。

さっきまで高速で走り回っていたわけだから、体は十二分に温まっている。クラウチングスタートの体制を取りながら、覚えたベンドランサーの呪文を唱え上げていく。由紀の保有する力は神子の中ではごく平凡なレベルだが、酷使のせいか最近どんどん増していて、神衣を一日に一回具現化させるくらいならもう何でもない。ベンドランサーの一度や二度なら全然平気だ。

腰を上げて、池の向こうを見据える。周囲に人の気配がない事をもう一度確認すると、由紀は地面を蹴りつけ、体を浮かせ、数歩の加速で一気に最高速度に入った。調子に乗ると池を突き抜けてしまうから、気は一瞬でも抜けない。池の向こうで見守っている石麟が見る間に近づいてくる。息を小さくのむと、方向転換に入る。ステップが短く早くなり、蹴り上げ跳ね上がる水がその丈を増した。途中あった岩を飛び越えると、三歩の距離を走り抜き、対岸に達する。三百メートルほど、速度を落としながら走り抜き、呼吸を整えながら振り返る。曲げるのに成功したのは、大体七度ほど。以前より遙かに柔軟に曲げる事に成功している。まだまだ足りないとは思うが、修練一回目としては充分だ。

「良い感じよ、由紀」

「ありがとな。 やっぱり、最終的には十五度くらいは曲げたいかなあ……」

「そうね。 それくらい曲げる事が出来れば、攻撃だけではなく防御にも使えそうだわ」

由紀にとって、トップスピードに入ってからの回避行動は絶対の課題だ。特に質量を大きく上乗せしている場合の回避行動は極めて難しい。さっきの大岩も、もし蹴躓いていたら大けがしていただろう。レーサー程度ではかなわないくらいに、動体視力と反射神経は鍛え上げてある。しかしそれでもまだ甘い。鍛え方が甘かったから、零香のカウンターを避けきれなかったのだ。

「ふーっ」

数度の動作で、高緊張度にまで強化していた筋肉を落ち着かせていく。自力で編み出した一種の舞だが、似たような事を少林寺の達人がやっているのを見た事がある。細身の体の中にみっしり筋肉が詰まっているとファンが知ったらどんな反応するだろうか。それがおかしくて、時々由紀は寝る前に笑う事がある。通常状態に戻りつつある筋肉をほぐしながら、由紀は石麟を見る。

「もう三本行ってみて、それからエアブロックに移る」

「エアブロックは夜でも大丈夫だと思うわよ」

「いや、一刻も早くリベンジしたいんだ。 早く極めて、今度は逆にあたしがとどめを刺してやる」

腕を回しながら由紀が言うと、石麟はやれやれと言った風情で、体の周囲を回っている青い玉の軌道を少しずらした。玉の回転速度を変えるとお洒落なのだが、軌道をずらすと感情表現なのだという。それぞれ変化がとても微少なので、いつも側にいる由紀でも見分けるのには熟練の技を要する。

時間は容赦なく過ぎていく。三本のベンドランサーを終え、新術であるエアブロックの仮修練を終えた頃には、もう陽が昇り始めていた。早く帰らないと流石に今日は帰ってきている母が不審に思う。もう家事などいっさいしない母だが、流石に自分の子供の変貌には敏感なのだ。

汗を拭き、由紀は自宅のある方を見やる。いつまでこの生活は続くのだろうかと、寂寥が胸を通り過ぎていった。

 

家にさっさと帰った由紀は、学校に行くまでの時間をテレビを見る事にしている。朝食は専らシリアルで、たまに目玉焼きが作って貰える。牛乳だけは豊富に冷蔵庫に用意してあるので、どのシリアルを食べるか気分次第である程度選ぶ事が出来るのだが、味気ない事に代わりはない。

ニュースは空虚で、特に芸能ニュースは殆ど由紀にとって既知の情報の焼き直しなので、退屈な事この上ない。新聞もである。勉強のためにも見なければならないのだが、この間病院の待合室で見た海外新聞の雑誌版を見てからは、日本の新聞がつまらなくて仕方がない。だから今日も全く期待しないでぼんやりとテレビを眺めていたのだが、不意に顔を上げる事となった。気になるニュースが飛び込んできたからだ。

テレビの画面に映り込んでいるのは、由紀も良く知っているニュースキャスターだ。父の七光りでニュースキャスターになった盆暗で、ニュース番組に出たとき、カメラの下に張ってある紙にフリガナが振ってある事を確認している。一応そつのない優等生的な喋り方をするのだが、番組の合間に話してみるとバカだというのが一目瞭然で、由紀は軽蔑しきっていた。

そのバカキャスターが、深刻ぶった顔で話している。今朝地下鉄で大規模な事故が発生、死者は幸い出なかったのだが、半ば脱線した地下鉄は悲惨な姿をさらしていた。乗客の救出にも時間が掛かっており、本日中の運行復旧はほぼ絶望。バスとタクシーが全力で通勤の足となってはいるが、捌くのはほぼ不可能だとも。当然の話で、事故った地下鉄は日に百万人以上が利用する交通の大動脈だ。

そして、由紀にとっても、この事件は他人事ではない。父が確か、今日その地下鉄を使って商談に向かうのだ。手早くタクシーを使う事が出来ればいいのだが、上手くいかなければ正に万事休すである。死者はいないと言うし、重軽傷者のリストに父の名はなかったが、問題は其処ではない。口を手で押さえていた由紀に、母は無感動に言った。

「ユキちゃん、学校に行く時間でしょう」

「ちょっと待って。 それどころじゃない」

「何言ってるの。 貴方にとって一番大事なのは学業なのよ。 さあ、早く準備して」

唖然とした由紀が母を見上げると、その瞳には絶対零度の凍土が映っていた。ぞくりとした。母は事態の意味を悟っている。それでいながら、父を一切心配し無いどころか、ざまあみろとすら思っているのだ。

無言で立ち上がった由紀は、そのまま出かける準備をし始める。石麟もどう声をかけて良いのか迷っているようで、黙りこくって由紀の様子を見守るばかりである。タレント業の合間で行っているから、学校の成績は中の中と言った所であり、行くのはそれほど苦痛ではない。問題はそんな所ではない。そんな事ではないのだ。

「もう……無理なのかな」

「諦めないで。 取り戻そうとしている幸せだって、夢のような世界や時間ではなかったでしょ? 状況は確かに悪いけど、すぐに諦めるのは時期尚早だわ」

漏れだした悲しみに、石麟は優しいフォローを入れてくれた。しかしどうした物か、由紀は具体的な対策案を思いつかなかった。

その夜、神子相争があった。タイミング的には問題なかったのに、珍しく由紀はパスした。

案の定というか何というか、ついに崩壊が始まった。父の会社は取引に失敗したために、自転車操業にも限界が来たのである。もう由紀が稼ぐ給料くらいでは、どうにもならなかった。

地下鉄事故の半月後、父の会社はついに倒産したのである。

 

ベッドに潜り込んだ由紀は、ぼんやりしていた。風邪と言うよりも、頭がまともに働かなかったのである。二度の神子相争参加でどちらも幸片を強奪した(一つは不戦勝で、もう一つは相性がいい淳子だったのだが)由紀は必死に幸片をつぎ込んだが、どうにもならなかった。

幸い事前に権利書等の整理は終わっていたので、サラ金の取り立て屋共が押し寄せる事態は避けられた。すぐに自己破産が行われ、父が築いた帝国は五年を待たずに崩壊した。宝くじから始まったバブルドリームは、その最後も泡と同じであった。財産の配分などは既に母の会社とは別に切り分けられていたから、母の会社がドミノ倒しに倒産する事はなかったが、敗北感を顔中に塗りたくった父が帰宅したのを見て、由紀は自分の無力感を強く味わう事になった。

何がいけなかったのか。何が悪かったのか。何が足りなかったのか。自問自答は空に流れる。

「由紀、しっかりして」

「ごめん……今はそっとしておいて」

ショックで寝込んだ由紀は、石麟の慰めも耳には届かなかった。深い挫折の泥沼に足を踏み込んでしまった黄龍の神子は、泥のような倦怠感の中で漂い続けていた。

全部が無駄であったとは思えない。事実幸片をつぎ込んでおいたからこそ、権利の移譲だの借金の整理だのがスムーズに進んだわけだし、母の会社がドミノ倒しに巻き込まれる事もなかったのである。それくらいは幸片をつぎ込んだ本人である由紀が一番良く知っている。

母はもう何もしてくれなかった。どうやら失意の底にある父をあざ笑うので有頂天になってしまっているようだった。確かに思想的に対立した相手がどん底に落ちたのだから、それもまた当然の事だろう。有頂天になるあまり、学校に体調不良で欠席する事も伝えてはくれず、三日目には先生が来た。事務所には連絡を入れて仕事を減らしては貰ったが、いつまでもこんな事が続くわけがない。長期休養にはいるか、体に鞭を入れて仕事に戻るか、どちらかを選択しなければならない瀬戸際に来ていた。

イライラが体の中で荒れ狂って、気力を根こそぎ奪っていた。石麟に責任などあるわけもないし、自分の戦歴だって悪くなかった。獲得した幸片は決して他の神子に劣っていなかったし、使い方だって間違っていなかった。ならばどうしてこんな事になった。自問自答に応えてくれる人などいない。

体の方はきちんと動く。惰性で学校に出て、そのまま事務所にも復帰した。作り笑顔にはなれているし、演技もしかり。実戦も知らないその辺の盆暗に見抜かれるほど、仮面を作る技術は未熟ではない。しかし、どうしても隠しきれない部分はある。

修練に荒々しさが増す。歌にも踊りにも、更に迫力が出た。籠もるのは、情熱よりもむしろ憎悪と怒り。迫力満点のシャウトには、客席から退く者まで出始めるようになっていた。いつのまにか週刊誌には、こんな記事が踊るようになった。つまり、見る目のない素人にも分かるようになったのである。

「華山マキは癒し系チャイドルだが、その歌とダンスはロックンローラーの魂を孕んでいる」

週刊誌を現出させた双剣で八つ裂きにしてトイレに流したのは、自分への苛立ちからか、或いは。由紀は限界に来ていた。刃についた週刊誌の残骸を一つ一つ取ってトイレに流しながら、由紀は呟いた。

「死ね。 馬鹿野郎」

 

呪いは届かない。死ねと言った所で、由紀の人生の障害になっている物が無くなるわけもないのである。

それから一週間が過ぎたが、何も変化はなかった。認めなければならない時期が来ているのだと、由紀は悟っていた。会社を維持する事が両親のためになると、いつからか誤認していたのではないか。幸せは会社と同義ではないと、いつしか忘れていたのではないか。

スポットライトが降り注ぐステージでどれだけ曲に怒りをぶつけても、どれだけ激しく舞い狂っても、結論は出なかった。激しい感情をむき出しにすればするほど、芸術は完成度を増す。その結果、皮肉な事に、両親がどんどん没落していくのに、自身の社会的地位はどんどん盤石になっていく。事実、父の会社に注ぎ込んでいた分の負担が無くなった途端、使い切れないほどの小遣いが転がり込んできた。それをそのまま母の会社に注ぎ込む気には、どうしてもなれなかった。母にだけ肩入れする気などさらさら無かったし、つぎ込んだ所で自転車操業がどうにかなるとも思えなかったからだ。

事務所帰りに給与明細を見る。信じられないような桁が並んでいる。ため息も出ない。個人で使うには多すぎる額だ。そして大会社を運営するには、或いは傾いた会社を建て直すには少なすぎる。自然と歩調が早くなる。誰かに狙われている事を危惧しているのではない。苛立ちからだ。家に着くと、むっとした湿気が由紀を包んだ。異臭もする。家の中は、異界へと化しつつあった。

靴を脱いで玄関に上がる。稼ぎの一割を生活費に入れるだけで、暮らすには充分だった。唸るような額の貯金が毎日増えていった。そういえば年収は確か十億を軽く超えていたと思い出す。テレビの出演料だけではなく、CDの売上やキャラクターグッズだけでもあり得ないような収入があるのだ。そしてそれは、両親の嫉妬をも産んでいる事に、由紀は気付いていた。母は口を利いてくれないし、父はずっと居間でパジャマのまま膝を抱えて独り言を言っている。時々それには、由紀への恨み言までもが含まれていた。テーブルの上には腐った食べ物が放置されていて、皿の上には大きな蠅が飛んでいた。悲しいと言うより、もはや虚しい。そのまま自室に入り、ベッドに倒れ込む。

もう家庭は事実上崩壊している事を、由紀は認めなければならないのかも知れない。ワイドショーでも人気チャイドル華山マキの父親の会社が倒産したと報じ、それに対するコメントをテレビ番組の収録直後に笑顔で求められた。レポーターを八つ裂きにして大阪湾にばらまいてやろうかと一瞬考えた由紀だが、すぐに笑顔を作ってノーコメントと言うにすませた。悪い部分で大人になっていくのに、根本的な所ではガキなままの自分にも苛立ちが隠せない。

ただ一つだけ、由紀は幸運だった。というのも、身近に全ての事情を知る大人が居たのだから。その大人である石麟は、もう限界に達している由紀を見て、優しく言う。カーテンが風をはらんで、さらさら揺れる中、選択肢は突きつけられた。

「限界だわ。 戦略を、切り替えましょう、由紀」

「……」

「会社はもう潰してしまった方がいいような気がするわ。 由紀、貴方は一度両親から距離を置いた方がいいわ。 それで様子を見ましょう」

「……あたしが居なくなったら、父さんも母さんも死んじゃうよ。 見たでしょ、居間のあの有様。 もう二人ともおかしくなりかけてる。 あたしが支えてあげなきゃ、どうかなっちゃうよ」

由紀の熱病に浮かされたような声に、石麟は何も応えてはくれなかった。言う事は言ったから、後は自分で動けと告げられたのだと、由紀は悟った。

もう甘えるのは終わりだ。支えるという口実で、由紀はずっと甘えようとし続けてきたのだと、もうとっくに分かっていた。だから、そんな自分からはもうおさらばする。引っぱたいて正気に戻るような状況ではない。だったらもっと大きなショックを与えるしかない。そのためには、思い切った事をしなければならない。両親の目が覚めるほどに、強烈な決断をだ。そして何をすればいいのかは、もう分かっている。ただ認めたくなかっただけだ。

由紀は強くなった。地獄のパンデモニウムである芸能界に足を踏み入れ、泥沼の中でもがいていた頃よりも百倍も千倍も強くなった。だから、決断する事が出来た。

「うらああああああああっ!」

ベッドから身を起こした由紀は、吠えながら自分の頬を音が出るほど強く叩いた。それで気分がすっきりする。そして、すっきりすると、由紀の行動は黄龍の神子らしく早かった。チーターが目を剥くほどの速さでスタートダッシュをかけ、一気に事態そのものを引き離しに掛かる。

目が冴えた所で、携帯に電話。呼び出すのはマネージャーだ。ちなみに、事務所の人間はもう他人なので、チャイドルモードの声である。

「飯島さん、おはようございますぅ〜」

「おはよう、マキちゃん。 こんな時間にどうしたのよ」

ちなみにマネージャーは男だ。いわゆるオカマである。一口にオカマと言ってもさまざまな種類があるが、由紀のマネージャーである飯島は、見かけはビジュアル系の好青年で、中身はオカマというタイプだ。どうしてか彼はオカマと分かっていても女性にもてる。更に何故か、ほとんど男にはもてない。

「大事な話があるのでぇ、今日少し早めに出てきて頂けませんか〜?」

「大事な話?」

「まず、一軒家を買いますぅ〜。 予算は五千万。 新築でなくても結構です〜」

地の由紀を知ったら背筋に寒気が走るような喋り方だが、これがチャイドルとしての由紀の姿だ。基本的に女性はよそ行きの場合二オクターブは声質が代わるし、由紀だけが猫をかぶり倒しているわけでもない。そして男性ファン達を魅了しているのも、この猫かぶり超甘ボイスなのだ。これは間違いなく由紀のもう一つの姿であり、人格でもある。

それはともあれ、言葉の意味の重大さは飯島マネージャーも分かっているようで、彼は一瞬の沈黙の後、遠慮無く噴きだした。

「ちょ、ちょっと、マキちゃん本気?」

「本気じゃなければ、こんな時間にお電話なんてしないですよぉ〜。 出来れば一ヶ月以内に買う目処をたてたいんですけどぉ〜」

「わ、分かったわ。 明日から少し多めに仕事入れてあげる。 なーに、マキちゃんの実力なら、五千万なんてすぐよ。 後、権利関係とかがあるけど」

「それは事務所の私物扱いと言う事で、お願いしますですぅ〜」

華山マキとしての売上収入は、月平均で軽く八千万を超えている。税金を考慮して半分にしても事務所の手取り四千万。そのうち粗利とも言える、自由に使える分が更に三分の一ほどで、現在貯金は二千万ほど。すなわちこのままのペースだとあと三ヶ月はかかる。更に一軒家を買う場合、さまざまな手続きや家具などの購入も考えなければならないから、さらに多めに予算を考えて置かねばならない。

マネージャーと一言二言仕事の確認をしてから携帯をきり、すぐにタウンページを引っ張り出してきて次に電話する先を確認する。今の時代、子供でも簡単にこういった情報が入手出来るのは、果たして良い事なのか悪い事なのか。まず第一に不動産屋。家賃十万ほどで、そこそこに使える借家が良い。家賃十万など、今の由紀にはアイス代と区別が付かない。両親の負担の一方が無くなった事で、今日本でも一二を争うお金持ち小学生になった由紀には、大した負担ではない。散々凄まじい殺し合いをして、何度も二度と嫌だと思うような死に方をして、殺しの技を磨き抜いての結果だ。誰にも文句を言われる筋合いはない。

次に用があるのは家政婦派遣業。流石にまだ自分一人で暮らすのは無理だから、家政婦を使う必要がある。これはスキルの問題よりも、仕事上での時間の問題である。生活家事をきちんとこなしながら、神子相争とチャイドル業を同時に行えると思うほど、由紀は愚かではない。

素早く電話先の候補と電話の時話す内容を頭の中で反復し、メモ帳に書き留めていく。電話するのは明日の学校だ。昼休みに、屋上か何かで電話して、一気に決めておく必要がある。両親には伝えなくても良い。ただ、先に事務所の方から連絡を入れさせておく必要があるから、その分の伝達時間も考えておく必要がある。少し遠回りになったが、もう一度事務所に電話、マネージャーに今の事項を伝えて快諾させる。この辺、まだまだ行動に無駄が多い。経験を積まねばと思う。

その気になれば、由紀がいつでも両親を見限る事が出来る。それを見せつけるのが目的の一つなのだから。もう一つは、両親と距離を置いた方が明らかに良いと言う事。母の会社への資金提供も別居と同時に切る。幾ら必死に支えたって気付かないのだから、巨大な蠅叩きではり倒して強引に気付かせるしかない。

その日のうちに、由紀は住み慣れた家を離れた。瀬戸物コレクションと着替えだけ持って、恐るべき行動力で速攻決めた借家に移ったのである。両親との連絡回線は全て切断した。事務所はもう由紀の半私物であるし、これでもう何も思い残す事はなくなった。由紀は吹っ切れたのだ。

 

生まれ変わったようないい気分であった。朝の清々しい空気を浴びながら、新しい借家に足を踏み入れる。実家より田舎の、より修行がしやすい場所だ。辺りは緑が一杯で、小鳥が鳴き、虫が飛んでいる。都会育ちの子は嫌がるかも知れないが、由紀にこの環境は天国である。

借家は4LDKの二階建て、物置庭付き。これで月十二万は安い。ちなみにマネージャーが交渉している新居は三軒隣だ。交渉というのは、即金と言ったら値引き出来そうだったので、それで相手と話し合っているのである。こちらも中を覗きに行ったら、かなり良い感じだった。こっちもそのうち買い取ってしまおうかなと思いながら、地図を持ったまま二階に上がる。ベランダはうっすら埃と落ち葉が積もっていたが、全体的に清潔だ。埃っぽい事は埃っぽいのだが、健康的な埃っぽさである。

居間に降りてみると、貸倉庫から出してきた瀬戸物コレクションが並べてある。どれも安物ばかりだが、愛おしい由紀の大好物たちだ。頬ずりして触感を確かめ、添い寝して幸せを満喫。自分しかいない家がこんなに素晴らしい物だとは思っても見なかった。由紀は幸せであった。ストレスから解放された由紀は、幸せを満喫していた。

しばらく転がり廻って楽しんだ後は、しかし現実の対処を考える。そうするために別居という思い切った手に出たのだから。

既に送金を切った両親だが、完全に放っておく訳にもいかない。後は事務所の若いのに命令して、時々両親の様子を見に行かせる。後は資金に余裕が出来てきてから、法律関係に知識があるブレインが欲しい所だ。良心的な専属の弁護士が欲しい。此方が隙を見せなければいい事なのだが、大人を膝下に組み伏せるのはなかなか難しいから、注意が必要だ。父の会社から流出した人材に、いいのがいないか探してみよう。そう思った由紀は、つてを当たってその作戦を実行に移すべく、プランを練り初めて気付く。

そういえば、零香は確か同じ年で年上の海千山千の大人達を相手に立ち回っているとか聞く。あっちも金持ちだろうし、一度あって話をしてみたい。一回勝利を譲る代わりに住所を聞き出すという手もある。お金持ちというのであれば、桐の話も参考になりそうだ。そういえば桐と零香は親友だそうではないか。何か接触するチャンスが欲しい。ただ、関東に住んでいるとか言う話だから、直接話すのは難しい。検閲が入るのを覚悟して、メールをやりとりするしか無さそうである。

「うふふふふ」

「どうしたのさ、石麟」

「少し立ち位置を変えただけで、もう手が思いついて思いついて仕方ないでしょう?」

「ああ……そうだね。 本当にあたし、どうかしてたみたいだ。 助けよう助けようって言って、結局依存するために助けようとしてたんだから。 勇気を出して離れてみれば、何だか随分世界が違うんだね」

天井を見やる。そういえばこの借家には幽霊が出るそうだが、神子の前に幽霊など霧か霞か。そんなことで値段が下がっているのだから大いに素晴らしい話である。

「さあ、肩の荷も降りたし、頑張って仕事も神子相争もするよ。 一度や二度なら負けたって構うもんか。 ……ドラゴンインパクトも、本格的に試してみよう。 次の実戦じゃ、エアブロックも投入してみるよ。 アレとベンドランサーを使えば、今までにないほど、利津に対して有利に戦えるはずだからね」

由紀の瞳に生気がみなぎる。暴力的な苛立ちは何処かに消え失せ、澄み渡った頭は以前より遙かに効率的な稼働を続けていた。

零香が静かなる猛々しさだとすれば、由紀のそれは燃え上がる猛々しさ。台風のようであるが、実は違う。大火事がもたらす強烈な上昇気流による熱竜巻だ。今まで迷走し、荒れ狂っていたそれは、今正しい思索を取り戻した結果、本来の力を目覚めさせつつあった。

 

3,呪いの死

 

零香を驚かせるその電話は、家に帰ってきてから掛かってきた。丁度暁寺で高校の先輩達と軽く組み手をして、良い感じで修練が出来た後だったから、少し油断はしていた事は確かにある。驚く事などもうないだろうと思えるほど、色々な目にあったというのに。

家政婦の呼ぶ声がする。今度雇ったおばさんは、結構誠実に仕事をする人で、他の分家のスパイになってるような今までの家政婦とは全く違う。

「零香さん、電話ですよ」

「なんだろ。 はいはい、今出ます」

だから、テレビでおなじみであり、戦場でも良く聞く甘い声を聞いたときには、驚いた。桐と暁寺で初めて出くわしたときにも驚いたが、やっぱり幾ら精神が錬磨されてきても、驚きは新鮮である。

「ええと、初めまして、ですぅ」

「……誰? て、まさか……」

「そのまさかですよぉ〜。 えへへへへへ、輝山由紀、芸名華山マキです」

ぶうと噴きだした零香。鈴を転がすような笑い声が、電話の向こうから響いてくる。そういえば、輝山とは随分戦ったが、この声は聞き慣れない。多分由紀もそのギャップを武器にしているのだろう。

「どうやってって……愚問だね。 電話帳で調べたの?」

「はい〜。 特徴的な名字だったので、すぐに分かりましたよお〜。 今日は幾つか用事があってお電話差し上げましたぁ〜。 少しお時間よろしいですかぁ〜?」

「これ、長距離電話でしょ? そっちこそ大丈夫?」

「全然問題なしですよぉ〜。 マキちゃんの月収が幾らくらいか、知ってますか〜?」

確かにあの稼ぎぶりであれば、多少の使い込みなどへでもないだろう。月収百万程度ではないのは零香も分かる。安心して続きを促した零香に対して、由紀は甘ったるい声で提案を開始した。

零香は小首を傾げながら由紀の提案を聞いていた。由紀から電話が掛かってきたと言うだけでも驚きだが、相談に乗って欲しいというのにもまた驚きであった。確かに零香は山ほど大人との駆け引きをこなしてきて、政治的な駆け引きは相当なレベルで身につけている。これだけ政治的な駆け引きが出来る子供など、複雑な貴族社会に育った天才児くらいだろう。零香の場合は天才ではないが、環境と師匠に恵まれたのである。ともあれ、由紀の話を聞くうちに、零香は悪い話ではないなと判断した。

由紀の提案は大まかに二つ。まず第一に、両親から自立して会社を作るために良い弁護士を選びたいのだが、何かコツはないのかというもの。この辺はよく分かっている。弁護士については、三日月という実例が近所にいるからだ。あれは弁護士としては少し特殊な例になるが、しかし大事な事はよく分かる。

もう一つの提案とは、ずばり友人になりたいというものであった。此方に関しては大歓迎である。ただし、出来ればタヌキの皮を脱いで欲しいというのが零香の本音だ。どうせなら胸襟を開いて語り合う仲という奴の方が望ましいではないか。随分男臭い例えではあるが。

「弁護士に関しては、有能な人間よりも誠実な人間を選んだ方がいいよ。 元々この仕事、手を汚してお金を毟ろうと考えれば幾らでも出来る、極めて質が悪い代物だからね。 面接とかを入念にして、信用出来ない奴はみんな排除しないと駄目だよ。 年はお爺ちゃんお婆ちゃんか若造がいいね。 もう欲が枯れてるお年寄りか、頭の悪い若造の方が使いやすいから。 雇った後は信用しすぎないように、監視を怠らないようにね。 最初は信用出来る奴でも、環境次第で人って変わるから」

「なるほどぉ〜。 流石は零香さん、参考になりますぅ〜」

「後、その甘ったるいよそ行き言葉を止めてくれれば助かる」

「それは無理です〜。 だってぇ〜、何処で人が見ているか〜、全く分からないんですから〜」

なるほど、そう言う意味での用心だったか。確かにそれならば仕方がない。

由紀の対外価値が、そのキャラクターに依存している事は零香も分かる。現在の芸能界は、実力のある人間がのし上がれる場所ではない。大事なのはキャラクターと話題性で、実力はその次だ。由紀は門外漢である零香が見ても相当に実力のあるチャイドルだが、実力があってもキャラクターが代わってしまったら客は来なくなるだろう。由紀レベルだと、盗聴している奴が居る可能性も否定出来ない。用心はしすぎるに越した事はないのだ。

メールアドレスを交換して、以降は其方とチャットで話す事に決めた後、最後に忘れていた事を付け加える。

「あ、そうだ。 最後に一つ忘れてたよ」

「なんでしょうか〜」

「貸し借りは基本的に無しね。 手加減も必要ないし、こっちも手加減しないから」

「うふふふふ、その男らしさに感服です〜。 此方こそ、容赦も手加減も一切しないですよぉ〜」

「私は女の子だよ」

口調こそ甘ったるくて柔らかいが、中身は一緒だった。安心した零香は、おやすみと一言付け加えて、電話を切った。

「これで五人の神子のうち三人が繋がったか……」

「うん? 珍しい事なの? 検閲とか発達しているから、良くある事だと思っていたんだけど」

「良くある事だが、終盤になってから、というケースの方が多いな。 実力的に円熟してきた中盤で関係が繋がるというのは珍しい。 分かっていると思うが、下手に仲良くなると戦うのが辛くなるからだ」

草虎はそう言うが、零香は別に同じようには思わない。そう思うのが自然だというのは知っているが、そんなものは馬にでも蹴飛ばされて消えてしまえとも思っている。自然である事が、父母を救ってくれたというのか。自然である事が、銀月家の内紛を収めてくれたとでも言うのか。自然である事を絶対視する前に、この目の前にある状況を解決して欲しいものだ。だから、零香は自然である事など、それこそどうでもいい。

「零香は修羅になりたいか?」

「いや、大人になりたい」

「そうだな」

即答した零香に、草虎は応える。塩が欲しくなったので、零香はスティックを取りだして、がりがりと囓った。

 

夕食が終わり、家政婦達が帰宅して、零香の時間がやってくる。道場で吠え猛る父の声を背中に、一通りの修練を終えた後、零香は自室で普段着に着替えながら言う。窓の外にある小さなベランダには、少し前に買ってきたスポーツシューズが揃えておいてある。

「今晩は少し遠くまで出てみるよ」

「昨晩は二回ニアミスがあったな。 今晩は気をつけた方がよいだろう」

「うん、分かってる。 同じタイプのミスは、二度としないよ。 本当に危なくなるまで、声はかけないでね」

素早く着替え終えた零香は、靴ひもを結びながら言った。ニアミスとは目撃未遂の事だ。修行場を街に移してからまだ日がないから、慣れていない事もあり、人間の動線と視線をまだまだ把握しきっていないため、目撃されかけたのである。勿論顔を見られるような無様はしていないが、危ない所であった。

軽く肩を回しながら、もう何百回となくした詠唱を行い、神衣を具現化。零香は、ようやく毎日神衣を二回具現化して術を幾つか使っても神輪にたまる力が減らないほどにまで、生来的な力が上昇した。体を白い神の衣が覆っていく。全身を力の衣が覆った事を確認すると、クローの術を唱えて基礎的な武装を済ませ、徐に屋根に這い上がり、跳躍した。屋根から塀へ、塀から隣の家の屋根へ、音もなく零香は跳ぶ。

まだ神衣を付けないと、街での修行は危ない。そして街での修行を完璧にこなせるようになれば、今まで以上に攻撃回避が上手になってくるはず。何しろ瞬間的に判断しなければならない情報量の桁が違う。嫌でも頭がゴリゴリ鍛えられる。

夕食が終わった後、神衣に変えて、すぐに町に出る。夜の街は、ベッドタウンと言う事もあって、静かでひんやりしている。だが商店街の方は不夜城の如く明かりが灯り、エネルギーを発散しきれない若者達が駅前にたむろして暴れ回っている事もしばしばだ。最終的にはあの若者達の間を、認識されないように通り抜けたい所である。

素早く家々の屋根を渡り、人虎は走る。体重を屋根に落とすと大きな音を立ててしまうが、神衣の靴裏に生えた柔らかい毛が、余程無様をしない限りそれをさせない。ハンカチをくわえてスナイプする淳子の気持ちが、今ならよく分かる。呼吸音が、これ以上の精度を期待するならはっきり言って邪魔だ。

最後に奈々帆の家の屋根を踏み越えて、大きく跳躍。商店街の隅にある雑居ビルの屋上へと飛び乗り、更に高いビルへ、もっと高いビルへ、蛙のように飛び移って行く。音を立てないように跳ぶと、どうしても少し体勢が無様になるが、それを直すよりも今はまず実力だ。

商店街を抜ける。今日はニアミス無し。人里近くに住んでいる猛虎の気分だ。冷や汗を拭いながら、人気のない住宅街を跳ぶ。線路を越えて人里離れた山へと踏み込む。木々の間をすり抜け、昼間はカッコウが鳴いている畑の多い場所へと進む。実はこの辺り、結構曲者で、昨日のニアミスもこの田園地帯でしてしまった。夜中の農村に人がいないと思ったら大間違いなのだ。

実は一昨日の調査で、この辺りに銀月家所有の目録にない屋敷を見つけている。中を丁寧に調べた結果、副家が単に寝かせているだけの土地物件だという事が分かったが、それでもやはり知らない物件があったという事実は大きい。母の狂気のルーツとなる建物は必ずこういった未認知物件のどれかにある。そう信じて、零香は夜の農村を一気に走り抜ける。

農村を過ぎると、もう其処は人の土地ではない。その辺り一帯が銀月家の所有地なのだが、管理するにも広すぎて、殆ど未開の地だ。都会のすぐ側にもこういう場所があるのである。夜目を利かせながら、零香は更に闇の奥へ奥へと踏み込んでいく。熊や猪もいるが、どちらも零香の脅威にはならない。最終的には、人間より遙かに勘が鋭い動物の目もごまかせるほどになりたいものである。

大きな杉の木にとまって、辺りをうかがう。警告が飛んできたのはその時であった。

「レイカ」

「! サンキュ」

遠くの気配に気付いた零香は、慌てて杉の木の幹に体をよせ、気配を消した。零香が寸前まで居た地点を、ビーム光が通過する。今日初めてのニアミスだ。

遠くからビーム光源が近づいてくる。人数は四人から五人。こんな夜中に、こんな危ない場所で何用だ。スポーツハンティングとは時期が少し違う。かといって、密猟するような動物などこの辺にはいない。ムササビは厳重に保護されていて、密猟者も手が出せない事だし。

「誰だろ」

「直接見ないと、結論は出せまい」

「そうだね。 ……少し危ないけど、近づいてみるかな」

音もなく杉の木の幹を滑り降り、腐葉土積もる山に足を降ろす。山での行動はお手の物だ。状況が落ち着いたら、ツキキズと戦ったあの山にもう一度行きたい。ツキキズの墓参りもしたいことだし。

音と気配を消しつつ、集団に近づく。普段からも分家の所有物件に忍び込んでいる零香からすれば軽いのだが、相手がプロの場合もあるし、油断は危険だ。草虎の話によると、各国の軍に雇われるような本物のプロの能力者の場合、一キロ先からでも気配を消した相手の接近を余裕で察知するという。そんな実力者は日本にも十人といないらしいのだが、用心して悪い事はない。身を低くして、集団の斜め後ろへ回り込む。木々を利用しながら、間合いを詰めていく。そして、百メートルでストップ。距離を保つ。

人数は丁度五人。足運びと言い、無言での行動と言い、間違いなくプロだ。しかし能力者ではないし、窃盗団とかそういう感じはなく、行動に後ろめたさや警戒も感じられない。警棒や猟銃を持っているが、あれは多分熊対策だろう。となると、警察関係者であろうか。しばし尾行してみて、その線も捨てる。それだったら堂々と捜査するし、武装もおかしい。連中が持っている警棒は、どれも市販品だ。それにこの辺りで事件は起こっていないし、分家の誰かが不祥事をしたという情報もない。零香の情報網に引っかからないのだから、その線は捨てて構わないだろう。

ぶちのめして縛り上げる事も考えたが、すぐに却下。別にそんな事をするメリットはないし、如何に人の土地を夜中に歩き回っているといっても、そこまでしたら可哀想だ。連中の目的次第では容赦なく首を引っこ抜く所だが、まだその判断は速い。連中は殆ど口を利かないので、目的もまだ判断出来ない。

零香が強行的手段に出ない理由はもう一つある。連中は、尾行を警戒していないのだ。こういった隠密行動を取る場合、一人能力が高い奴が、尾行を警戒して単独行動を取るのがセオリーなのだが、それもない。零香の実力で判断出来ないレベルの相手という可能性もあるが、それだったらわざわざ身を隠すメリットがない。こんな場所なのだから、容赦なく零香を捕らえてしまうか殺してしまえば済む事だ。無言のまま身を伏せた零香は、しばし様子をうかがう事に決めて、定位置での尾行を続けた。

一時間ほどの尾行が続いた後、連中に動きがあった。何かを指さして、しきりに小声で何か話している。話の断片は拾えるが、判断には距離が遠い。間を詰めようとした零香だが、すぐに木の陰に臥せる。

連中の動きが変わった。不意に後ろを警戒しだし、ビーム光が何度も側を掠めた。零香に気付いている様子はないが、近づくのはリスクが高い。何かを発見した可能性は更に高い。判断のしどころであった。岩塩のスティックを取り出す。出来るだけ音を立てないように甘噛みして、蠱惑的な塩の味を舌の上に載せる。

「さあて、どうしよう、かな……」

草虎は何も言わない。こういうときは零香が判断するべきで、零香自身もそれをわきまえている。あくまで草虎はサポート役だ。尾行している連中は話を続けており、このままだと主導権を向こうに握られる可能性もある。何かを証拠隠滅でもされたら面白くない。だが、焦るともっと面白くない。

此処は待ちだと零香は決めた。そうすると、大分余裕が出る。話し込む連中とは距離を保ったまま、今のうちに出来る事を全てする事にした零香は、自分の判断が正しかった事に気付いた。

「!」

ヤブに覆われて気付かなかったが、踏み込んでみてすぐに分かった。道の跡だ。舗装はされていないが、かなり長い間使われた形跡がある。そして跡は、連中がいる辺りに通じている。これは思わぬ当たりくじを引いたと、零香は悟った。この辺りには何かがある事、連中がそれを探している事、それは明確であった。こんな夜中に探している理由は分からない。ただ、この辺りは広大な私有地であり、なおかつ銀月本家の物だから、十中八九分家、恐らくは副家が雇った連中であろう。

これも幸片の導きかも知れない。母に残っていた幸片の全てをつぎ込んだ直後の事だからだ。

ああだこうだと話し合っている連中の声は、徐々に大きくなってきている。そういえば尾行を初めてからかなり時間が経つ。連中もプロなのだろうが、山中で行動しているという油断が、疲労によってせり出してきたのだろう。人間、見られないと男女関係無しに、際限なく堕落する。それに近い情況が、零香の感覚器官の先で、行われていた。

「どうする?」

「どうするも何も、とりあえず今日はこれでいいだろう。 正直な話、噂通りの場所だとすると、こんな時間に踏み込むのは危なくて仕方がねえ。 装備が足りねえよ。 明日、本腰入れて、日中に来ようぜ」

「だな。 そうするか。 一応対霊装備は持ってきてはいるが、危ない事に代わりはねえしな」

対霊装備。連中が口にした言葉を聞いて、零香は小首を傾げる。ニュアンスからして幽霊や何かを撃退するために必要な装備と言う事なのだろうが、何でそんなものが必要になる?

とりあえず、連中が能力者ではないにしろ、その存在を知っている事は分かった。やはり近づかなくて正解であった。神子以外の能力者と交戦した事はないし、相手の人数は五人。奇襲をするにしても少々分が悪い。連中が帰り支度を始めるが、放っておく。

「気をつけろ、レイカ」

「うん?」

「一部の特殊な霊場を除いて、この国で対霊装備が必要なほどの危険地帯は殆ど存在していない。 連中はかなり危険な場所を探していたと言う事になる。 もし何かあったらと言う事もある。 慎重に行け」

行くつもりだという事を見抜かれていたのはいい。まあ、少し考えれば、タイムリミットが今晩中だというのはすぐに分かるし、別にそれは良いのだ。問題は、仮にも神子である零香が、それほど危険な目に遭う可能性が高いのか、という事だ。

最近力が増すに連れて、幽霊が見えるようになりはじめた。術を使えば追い払う事は容易なので、それほど危険だとは思っていなかったのだ。スプラッタな物には耐性があるし。

「幽霊って、そんなに危険なの? 実感はないんだけど」

「普段レイカが見ているような相手なら全く危険はない。 ただ、千年を越えるものや、相当な恨みを数代に渡って蓄積した連中になってくると、かなり危ない。 連中の攻撃は主に精神に働きかける物だ。 対抗装備はしておくに越した事はないぞ」

「対精神攻撃、ねえ……」

遠ざかるビームライトを見ながら、零香は腕組みを余儀なくされた。自然に耳が臥せる。神衣によってそれが相当に強化されているのは分かるが、これ以上の防御術は考えていない。元々攻撃重視の零香の戦闘スタイルに加え、白虎神衣の防御性能が優秀だからなのだが、これは盲点であったやも知れない。

草虎がそう言ったと言う事は、自分で考えろと言う意味だ。神衣の防御性能で、ある程度は防げるにしても、それから先は平常心と言う事であろうか。分家や副家とのやりとりを思い出す。ああいう連中との取引は、精神的に優位に立つかどうかが重要だ。あんな感じで、常に強く気を持つ必要がありそうであった。

「分かった、頑張ってみる」

「兎に角、油断はするな。 神子を相手にすると思って、手加減は絶対にするなよ」

クローの術は霊にも効果がある事は、既に証明されている。頷くと、零香は道の跡をたどり、山奥へと疾走した。

 

物凄い威圧感であった。多分霊感のある人間だったら、絶対に近寄ろうとはしないだろう。思わず舌なめずりしながら、零香は霊気の渦が巻く屋敷を杉の木の枝から見下ろしていた。

山奥にその廃屋はあった。廃屋と言ってもまだ真新しく、形は綺麗に残っている。瓦葺きの日本家屋であり、三棟が並んでいる。周囲は苔むした塀に囲まれており、驚く事に堀の跡があった。ひょっとすると、戦国時代の砦を改装した物なのかも知れない。時計を見ると、そろそろ夜半になりつつある。話によると、霊の類が一番力を増すのはいわゆる丑三つ時(午前二時半)だそうだから、少し急ぐ必要がある。現に、さっきからどんどん感じる力が強くなっている。

屋敷自体は背が低い建物が並んでおり、遠くから見えないのも納得がいく。玄関は閉じられていたが、塀を飛び越えて中にはいる。同時に物凄い殺気が零香を包んだ。侵入者に敵意を示している奴が居るのは明らかだ。

「ねえ、対霊装備って、そんなに優秀なの?」

「人類の技術進歩は、なにも科学だけではない。 最近の対霊装備は、まがつ神レベルの相手でもなければ、一般人でも相手に出来るように整備されている。 ただし、値はそれなりに張るようだがな。 しかしコレは尋常ではないな……あの連中が入っていたら、多分生きては帰れなかっただろう」

零香の側で浮いている草虎が、触覚をいつもより落ち着き無く揺らしている。零香もかなり強烈な殺気に、さっきから発汗を抑えられない。これは用心して心構えをしておかなければ危なかったかも知れない。

屋敷の中に踏み込むと、頭の中に直接声が響き始めた。帰れ、帰れ、帰れ。殺すぞ、殺すぞ、殺すぞ。誰もいないのに、木々が不自然に揺れ、足音やうめき声がし始める。視線は複数。最低でも十体以上は何かがいる。一番殺気が強い母屋は後にして、他の所から調べ始める。

物置を開けると、中に膝を抱えて蹲った奴が居た。顔面が半分潰れていて、零香を見て歯を向いて威嚇してくる。にらみ返すと、素直に力の差を悟ったか、奇声を上げながら外へ逃げていった。背中に取り付こうとする奴がいたので、振り返りざまにクローで首をはねてやる。うめき声を上げながら消えていくが、屋敷に満ちている霊気はちっとも減らない。敵意は強くなる一方である。物置に入った零香は、何か手がかりがないか物色していたが、奥へ入ろうとした途端、尖った角材ごと天井が落ちてきた。かなり大きな物置だから、衝撃は物凄かった。

地響きが轟く。

「ぐ、くっ……! この……!」

慌ててガードポーズを取ったものの、生き埋めになったのは事実。仰向けになった零香は、力任せに落ちてきた角材をのけようとするが、上から何かが押さえつけているようで、びくともしない。とりあえず骨が折れるのは避けた。全身の力を充填して、息を吸い込み、一気に爆発させる。腕の力と足の力をフル活用して、廃材の山を一気に跳ね上げた。

「せああっ!」

吹っ飛んだ廃材の山が、零香を中心にぼとぼとと落ちてくる。肩で息を付きながら、立ち上がった。神衣は傷だらけで、此処にいる相手の実力がよく分かる。普通に押しつぶされた程度では、こうはならないからだ。今回は採算度外視で戦う事に決めた零香は、苛立ち紛れに神衣を再起動して、傷を復旧した。クローを一振りして、辺りをうろうろする霊共をねめつける。

「さあーて、こういう事をするからには、覚悟は出来てるんだろうね」

返事はない。というよりも、正気がないようにも思える。徐に近くでうろうろしている霊に飛びかかった零香は、問答無用で、クローで相手の首を跳ね飛ばした。そのまま飛びついてきた霊を蹴り飛ばし、更に一体を上段から真っ二つに切り下げる。屋敷の中から霊がつぎつぎに湧いて出てくるが、知った事か。雑兵など物の数ではない。強制成仏させられた霊が、どんどん消滅していくが、屋敷の霊気は全く衰えない。問題は、さっき物置を崩した奴だ。其奴を潰さない限り、此奴らはどんどん湧いてくるだろう。

数体がかりで覆い被さってきた奴らをはね除けて、膾切りに切り伏せる。舌なめずりする零香。雑魚は怯える様子を見せず、ゾンビ映画のように、うめき声を上げながら次々群がってきた。

「シャアッ!」

威嚇の意味も込めて吠えながら、手近な連中を蹴散らして、母家の中に突入する。最後まで放っておくつもりだったが、これでは面倒で仕方がない。掴みかかられると神衣が消耗するのも感じるし、なにより気分が悪い。一体一体だったら絶対に触らせすらしないレベルの相手だが、やはり多角的な攻撃に耐性がない事を再確認させられる。数が多すぎると言う事や、物理法則を無視した動きで迫ってくる事は言い訳にはならない。やっぱり修行不足なのだ。普通だったら絶対掴まれないような攻撃に、何度か当たりかけた。命がけと言う事もあり、学習効率は高い。丁度いい対多人数戦の訓練であった。相手が雑魚ばかりとは言え、決してこれは無駄にならないはずだ。後でこの経験を元に、対多数戦の修練を練り直す必要がある。

釘で打ち付けられた玄関を蹴破って中にはいると、ぶわりと埃が舞い上がった。壁にはお札が貼られているが、どれも千切られている。家具は殆ど見あたらない。値打ち物は、引き払うときに殆ど撤去したのか。

力を感じる方へ突入する。廊下を駆け抜け、這い寄ってくる霊を蹴散らし、居間らしい所を強行突破。肘から先だけで這いずってくる奴、足首から下しかない奴、正にリアル版ホラー映画だ。ただ、どれもこれも狂気を湛えている様子なのが気になる。一体此処はどういう場所なのか。

朽ちかけた障子を蹴り破ると、母屋を飛び出してしまった。縁側を踏み抜きそうになり、慌てて躊躇した所に、十体以上の怨霊が覆い被さってきた。こういう非常に狭い空間での戦いはあまり経験がないし、勝手が違うから不覚を取りやすいとは言え、実にいらだたしい。クローで突き刺して一体ずつひん剥いて行くが、次々新手が飛びついてくる。人海戦術である。一体この屋敷には、どれだけの数の悪霊が住み着いているというのか。頭の中に、声が響き続ける。死ね、帰れ、死ね、帰れ、死ね、帰れ。神衣を通して、冷たい墓場の匂いが染みこんでくる。顔が崩れた怨霊をクローで串刺しにして剥がしつつ横転、無言のまま神輪に手をやってスパイラルクラッシャーを装填。容赦なく、密集した敵のど真ん中に、拳を叩き込んだ。

屋敷の一角が爆裂する。古くなった木材が、畳が、壁が、舞い狂いながら辺りへ散らばっていった。

まさか攻撃術まで使う事になるとは思っていなかったが、もうこれは仕方がない。大きくえぐれた屋敷。粉々に吹っ飛んだ天井床壁。立ち上がりながら、零香はスパイラルクラッシャーを引っ込める。

「撤退も視野に入れた方がいいぞ。 奥に巣くっている奴は、正直危険だ」

「いや、行く。 対霊装備ってのをさっきの奴らが持ってきたら先を越されるだろうし、……それに此処で死ぬようなら、私もそれまでと言う事だよ」

冷や汗を拭いながら、零香は辺りをねめつけた。母屋にいた連中は、どうにか今ので片づいたらしい。神衣は溶けるように何カ所か消えていて、でももう再起動する余力はない。体力の消耗も少なくない。明日辺り次の神子相争がありそうだが、どうやら休む必要がありそうだ。神輪も使わざるを得ない。目を閉じて、覚悟を決めると、神輪の中の大事な貯金を使って神衣を再起動した。

頬を叩いて気合いを入れる。母さんを助けるために此処に来たのだ。思ったより早く辿り着けたのだし、危険が何だ。何が巣くっていようと知った事か。本来だったら、一度撤退して作戦を練り直したい。だが、この好機を、折角作ったチャンスを前にして引く事が出来るほど、零香には余裕がなかった。母の不調を副家にでも知られたら、どうしようもないのである。鬼子という言葉は信憑性を増し、零香に寄りつつある分家はこぞって反旗を翻すだろう。そうすれば、父は、母は、破滅だ。

気配は母屋の外、小さな分棟から発せられている。辺りに霊はもういない。覚悟を決めると、零香は根元らしき其処へ、静かに歩み始めた。

 

自然に耳が臥せる。舞い上がる埃の中、破れた天井から月光が差し込み、異様な部屋の中の気配を明らかにしていた。

壁をぶち抜いて入ったその部屋は、正に異境であった。壁にも床にも天井にも、いような何かがびっしり書き込まれている。それが目だと分かったとき、零香はここに閉じこめられた存在の狂気を知った。恐怖よりも、同情が湧いてくる。

分棟は蟻の巣状の構造になっていて、長い廊下の両脇に、小さな部屋が幾つも設置されていた。どれも扉は外から頑丈なかんぬきでふさがれていて、半ば釘で打ち付けられ固定されていた。此処がアタリなのだと、零香にも一目で分かる。そして此処に閉じこめられた者の苦しみと悲しみも。

月光の中、巣くった何かが動き出す。それはこの部屋に納められた狂気に引き寄せられたのだと、すぐに分かった。そして同時に腹も少し立った。母さんの苦悩の残り香を喰らって、好きなように此処に住み着いたのだと分かったから。多分母さんが此処にずっと閉じこめられていたら、母さんの中に巣くったのだろうか。零香はそれはないと思う。此奴は、ヤドカリと同じだ。

「実体化まがつ神か……手強いぞ。 気をつけろ」

「以前聞いた事があるけど、古代の神の性質の一部が暴走したものだったっけ?」

「うむ。 そういった連中の中でも、此処まで強固に実体化した奴を実体化まがつ神という。 しかしまずいな……政府が特殊対策チームを派遣するほどのレベルだぞこれは」

草虎の言葉には現実味がある。いつも戦っている神子達と同じか、それ以上の威圧感を感じるからだ。腰を低く落として構える。ずるずると闇の中から這い出してくる其奴は、決まった形を持っていないように見えた。ゆらゆらと揺れる無数の触手。全体のフォルムは丸く、亀に似ている。触手は甲羅の裾の部分から、四カ所ずつ纏めて生えていた。甲羅の部分から突きだした無数の突起は鋭く、良く切れそうである。甲羅から突きだした顔は人間のものであり、鋭い乱杭歯が上下に覗いていた。足は途中まで太い亀のものなのに、先端部分には人間の指が十本以上も生えていて、蠢くそれがおぞましく気色悪い。

まがつ神が口を開く。人間の口だったのに、耳まで裂けて、ずらりとならんだ乱杭歯がその姿を余すことなく見せた。喉の奥にはびっしりと目が連なっており、きょろきょろと辺りを伺い続けている。物凄い殺気だ。びりびりと肌に感じる。そしてとんでもない邪気である。これでは怨霊が大量に引き寄せられるのも無理はない。見れば、壁の一部に補修した跡がある。一度其処から出た方がいいと思った瞬間、まがつ神が動いた。ぐるんと、異様な速さで首を上へ向けて伸ばし、天井へ向け絶叫したのだ。

「きぃああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

「……っ!」

「ひいいいぃいいいいいいいいいいあああああおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

何かのスイッチが入ったのを、零香は感じた。おぞましい金切り声に、思わず耳を塞ぐ。それがまずかった。反応が一瞬遅れた。気が付いたときには、残像を残しながら動いた亀の首が、巨大な口を見開いて、零香の寸前にまで迫っていた。

爆音。クローで防ぐも、運動エネルギーは殺しきれず、床を踏み破りながら数メートル押される。バギバギバギバギと派手に音を立てながら床材が砕け、体が沈む。

完全に物理法則を無視して伸び続ける首。それは蜷局を巻きながらクローを噛む頭をサポートするように伸び続け、そして零香を天井へ跳ね上げようとする。跳ね上げられてしまえばお終いだ。しかし今度は零香の反応が早い。素早く詠唱してクローを消し、力が僅かに浮いた隙をついて床に手を着き、体を無理矢理腐った床穴から引っこ抜いて横転。間髪入れずに真上から襲いかかってきた首を避け、床にめり込んでも伸び続けるそれに戦慄を覚えながら即座に前転。床を突き破って飛び出してきた首を後ろに見ながらクローを再び具現化させて、首を容赦なく斬り抜いた。腰の入った良い斬撃だったが、クローは首をすり抜けた。ブレードで間髪入れずにもう一撃入れるが、それも駄目。手応え無し。

「!?っ」

まるで掃除機のコードのように、あり得ない速さで首が引っ込み、今度は体ごと体当たりしてくる。首だけで零香を押し込むほどのパワーである、はっきりいって冗談ではない。歯を剥いて突撃してきたまがつ神は、かろうじて避けた零香の真横を轟音と共に抜け、壁を突き破って母屋にまで突っ込んでいた。そのまま四本ある足をせわしなく動かし、バックして突撃してくる。床材など存在しないような勢いだ。そのまま分棟を砕きながら突撃してくるまがつ神に、零香は壁を突き破って外に出、猛烈な突進を回避しようとするが、あり得ない反応速度で神は動く。そのまま触手を一閃、零香の足を掴んだのである。そして零香がガードするより早く、首を横殴りに叩き付けてきた。

鈍器と言うよりも、鉛の固まりで殴られたような衝撃であった。触手を一瞬早くクローで切っていなければ、多分足が千切れていただろう。吹っ飛ばされた零香は地面で二度バウンドし、塀を貫通して屋敷の外にまで放り出された。息が止まる。そのまま真横に回避したのは、また物理法則を無視して飛んできた首が、かぶりついてきたからである。髪を振り乱して飛んできた首は、零香が刹那の寸前までいた空間を正確に噛み破る。腹の痛みを抑えて、今度は頭を掴み、クローで首から背に剃って素早く刃を走らせる。しかしまた手応えがない。

「ぐあっ! この……!」

僅かながらに焦った零香は、その隙をつかれ、ついに脇腹に食らいつかれてしまった。物凄い圧力に、思わず悲鳴が漏れる。力が緩んだ隙を逃さず、まがつ神は零香を振り回し、地面に叩き付けてきた。クレーターが出来るほどの一撃であった。大量の土砂が空中に舞い上がった。

「く……ぐ……っ!」

背骨が軋む。体を起こし、揺れる意識を何とかしっかりさせる。側では悲鳴を上げ続ける、まがつ神の首。零香も伊達に相当数の戦闘を潜ってきていないし、ただではやられない。かぶりつかれて振り回された零香は、叩き付けられる瞬間に、相手の首を叩き落としたのだ。

神衣には鮮血がにじんでいる。その量は増え続けている。帰ったら治療が必要になるだろうが、感触からしてどうやら毒はないらしい。今の零香なら、一週間で直せるだろう。ひいひいとわめく首を容赦なく踏みつぶすと、零香は大穴が開いた塀を見やる。首が無くなったのに、全く平気な様子で、まがつ神が巨体を現す。外に出ると、その大きさがよく分かる。体高一メートルほど、体の奥行きは四メートルほど。古代の大亀、アルケロンに匹敵するほどのサイズだ。体重は軽く一トンを超すだろう。

まがつ神の長い首は千切れた状態のまま、ぶらぶらと揺れている。鮮血が断続的に噴きだしてはいるが、さて次はどう出てくるか。分かったのは、奴は体を自由に実体化霊体化出来ると言う事。相手の攻撃にタイミングを合わせないと、多分ダメージ一つ与えられない。更に言うと、コアになる何かを叩かないと、滅ぼす事もできないだろう。

無言のまま、呼吸を整えつつ、スパイラルクラッシャーを用意する。クローでは致命傷を与えきれないと判断しての事だ。まがつ神はゆっくりと体を回転させ、尻尾を零香に向ける。否、それは尻尾ではなかった。亀なら尻尾のある所には、またしても人間の顔がひっついていた。性別不肖なさっきの頭と違い、今度のは端正な女の顔がついている。ただし、その目は正気を保っておらず、涎を垂れ流しながら、視線はあらぬ方向をさまよっていた。長い髪も乱れ放題で、痛々しいと言うよりも見ていて悲しくなる。

「あああああ、あああええええええええええ、ああああああ」

「今、楽にしてあげるよ」

クローを前に突きだし、左手に装着したスパイラルクラッシャーを軽く開くようにして構える。何の予備動作もなく、まがつ神が跳躍した。斜め上から圧殺に掛かったのである。感情が読めないから、兎に角動きが予測出来ない。

軽くサイドステップして回避に掛かった零香は、さっき斬った首が手を離した噴水ホースみたいに滅茶苦茶な動きで、しかし物凄い速さで迫ってくるのを見た。左手でガードしつつ下がり、反撃の体勢を取るが、しかし敵の狙いは違っていた。千切れた首はそのまま地面に突き刺さる。しまったと思うよりも早く、敵が動く。首を地面に突き刺して固定、体そのものを振り回して、零香に叩き付けてきたのである。

ガードは無理、そう悟った零香は地面を踏みしめ、いや踏み込んでスパイラルクラッシャーを叩き込む。危険は高いが、他に手がない。インパクトの瞬間、両者の一撃は交錯した。一トンを軽く超える巨体の一撃に、流石の零香もひるまざるを得ないが、だが負ければ母さんを救えない。自分が死ぬと言うよりも、母さんの狂気と悲しみの意味を悟った零香は、負けるわけには行かなかった。

焦るな。こんなもの、利津の攻撃に比べればどうと言う事もないではないか。言い聞かせながら、左手を突き込む。相手の体の構造的弱点は、神衣を付けている状態ならよく見える。繰り出される渾身の一撃。

「はああああああああっ!」

「いええええええあああああああああ!」

閃光が炸裂する。一瞬の攻防の後、砕けたのは甲羅であった。木っ端微塵に甲羅を砕いた零香は、自分がぶち抜いた穴を抜けて跳躍、敵と交差して着地した。流石に物凄い衝撃に、左腕が痺れる。更に、大技を打ち込んでの硬直の一瞬、背中に激しい衝撃が叩き付けられる。

再び零香は、塀を貫通して、屋敷の中に叩き込まれていた。意識が一瞬飛ぶ。母屋は既に半壊していたが、今ので完全にとどめを刺された。屋敷の一角に突っ込んだ零香が、大黒柱をへし折ったのだ。

地面に溝を作りながら止まった零香は、薄れる意識を必死に止めるが、はっきりいって状況は良くない。何で今の攻撃が飛んできたのかも、まだ解析出来ていない。追撃が何時あるかも分からない。受け身は取れたが、左腕は激しく打ち付けている。骨折は何とかしていないが、もうスパイラルクラッシャーは打てそうにない。大量に掛かった土を避けながら、零香が顔を上げると、ずるずると嫌な音を立てながらまがつ神が近寄ってきていた。甲羅を失ったのに、動いているわけが分かった。甲羅は服のようなもので、中身は違う生物だったのだ。

ずるずると這い寄ってくるそれは、もう足を有してはいなかった。蛇だった。頭だけ人間で、既に尻尾も失った蛇であった。相変わらず狂気を宿した頭は、大きく口を開けて、零香に迫ってくる。どうにか半身を起こした零香だが、残った武器はクローだけである。みれば、胴体は半分ほど千切れているようで、体の後半部分からは鮮血がだだ漏れになっている。片膝を突き、どうにか立とうとする零香に、まがつ神はかぶりついてきた。零香は避けなかった。否、避ける必要がなかったのだ。

普通に斬っても、斬る事が出来ないのは分かり切っていた。そして、敵も相当なダメージを受け、もうまともに動けない事も。そして、そもそも正気を保っていない事も。零香を襲うのも、食欲からと言う事も。

下手に避けた方が、こういうときはまずいのだ。丸飲みにするほど巨大な口を開けて、躍りかかってくるまがつ神。零香は小さくごめんねと呟きながら、大きく振りかぶったクローを、一気に振り下ろしていた。

月光の中、巨大な蛇体が真っ二つに斬り下ろされ、そして霧のように消えていった。

 

びっこを引きながら、まがつ神が潜んでいた部屋に戻る。半壊した其処は、相変わらずびっしりと目が書き込まれた壁床に覆われ、普通の人間なら発狂しそうな異空間であった。もう辺りに邪気は感じないが、放っておけばすぐに元に戻るだろう。此処は帰る前に、徹底的にぶっ壊す。母さんの狂気のルーツは分かったのだから。

恐らく、母さんは此処に閉じこめられて、狂気を宿したのだろう。その結果、この目はかき続けられたのだ。初めて見た人間は、みんな恐怖のあまり逃げ出すだろう。自分たちがこれをさせたというのに。鬼子がタブーになっているのが、分かる気がした。許し難いのは、自分で狂気を発する環境を作って置いて、いざ相手が狂気に陥ったら迫害するというその根性だ。

母さんはきっと、父さんにささえられて、必死に心を優しく作り替えていったのだ。不器用だが優しい父さんは、母さんが狂気を発した原因を知って、自らの人生をかけて守る事を誓ったのだろう。それに何かしらの他意が介在して、父さんに何かしらの制約をかしたのだ。それがあの異常なまでの修行にあるのは間違いない。

零香の中に、どんどん状況に対する理解が出来ていく。多分、此処を出た母は、幼児並の一般常識しか無かったのだろう。父に守られながら社会の事を学ぶ母に、理解者は殆ど居なかった事は間違いない。あの寺の、故住職はその一人だったのだろう。そう零香は結論した。これは仮説ではあるが、真実に限りなく近いはずだ。

そして、狂気と共に発せられたという怒りについても、ある程度の仮説が立てられる。外の世界と迫害の意味を知った母さんは、それに怒りを覚えたのだ。多分表には出ないが、心の奥底でくすぶり続けるには充分の。無理もない話だ。関係者を皆殺しにしたくなる気分だって分かる。それが何かしらの形で、病院で爆発してしまったのである。

結論から言うと、母さんは無実ではないが、犠牲者でもある。心に核爆弾を抱えてしまってはいるが、鬼ではない。だから家族みんなで守って行かねばならない。ただ、突然発揮したという凄まじい力に関しては、まだ説明が付かない。だから探す。

辺りを見回す。そしてまがつ神がいたあたりに歩み寄り、床を突き破って手を突っ込んだ。何か隠されていたのは分かっていた。引っ張り上げてみると、桐の箱であった。

「これが、まがつ神のコア?」

「いや、コアはもう零香が切り伏せた。 これはまがつ神を呼び寄せた、この家の闇そのものだ。 さっきのまがつ神は、一種の玄武神だろう。 神は土地によって姿や性質、それに信仰すらをも変えるから、場所によっては我らの主の一部が変質してまがつ神になってしまうことは珍しくないのだ。 何処かの水神が玄武神と混じり合った結果産まれた存在の可能性が高いだろうな。 となると……恐らくはそれは水に関係した何かなのだろう」

「鬼子は、それに関連して作られたのかな」

「多分、決まった要因はないのだろう。 都市伝説にしても妖怪にしても、複数の要因が重なり合ううちに形を為していく存在だ。 これという決定的な要因を人間は求めたがるが、実際に調べてみるとそういうものはほとんど無いのが現実だ。 呪術的な意味と、歴史的な意味が双方共に意味を持っている、というのが多分正解だろう」

どちらにしても、此処は副家に見せるわけには行かない。更に言えば、まだ調査が必要になる。

後で草虎に結界の張り方とかは聞くとしても、人手が居る。暁寺のみんなに手伝って貰うか、場合によっては桐に協力して貰おう。桐の生体的な力の量は利津に次ぐとか言う話だから、結界を作るのには充分以上に役だってくれるだろう。協力してくれれば、の話だが。

母が監禁されていたこの部屋が、全ての元凶だとは言い切れない。どちらにしても、もうこの部屋に存在する意味も価値もない。クローを消し、零香は草虎に頷いた。草虎も頷き返してくれた。

部屋の外に出る。ハコをその辺に放り出し、拳を振り回すと、腰を落とす。全身痛いが、疲労で帰ったら即座に倒れそうだが、力は殆ど残っていないが、まだこの位ならどうにでもなる。

「せえいあっ!」

零香の劣化自力スパイラルクラッシャーは、数度繰り込まれ、母が閉じこめられていた座敷牢を、分棟を、粉々に砕き散らしていった。屋敷の中から、邪気が溶けるように消えていく。

「はああっ! しゃあっ!」

次々に繰り込む拳は、柱を、屋根を、床を、木っ端微塵に砕き散らす。散らばった廃材が、悲鳴を上げて軋んでいく。纏めて一カ所にけり込むと、血の混じった汗を拭いながら、跳躍。そして天から下界に向けて、最後の一撃を叩き込んだ。拳が廃材の残骸を纏めて砕き、地面をも爆裂させて吹き上げる。呪いの断末魔の悲鳴が、上がったような気がした。

この屋敷にかけられた数百年分の呪いが、死んでいった瞬間であった。派手に全ての呪いを、力尽くで壊し尽くした零香は、自らが作り上げたクレーターの上で、月に向けて咆吼したのであった。

 

4,ドラゴンインパクト

 

由紀の戦闘スタイルは速攻である。勝つときは速攻で勝つし、負けるときは速攻で死ぬ。今まではそれに準じた戦いを行い、例外はなかった。根本的な意味では、今回の戦いでもそれは同じだったのだが、一つ違った事がある。

由紀は零香の次に消費する力が少ない神子であった、という事である。それは過去形として、語られるようになった。

 

由紀の大胆極まる行動に、両親がショックを受けて、状況は悪化したか。答えは否だ。神子相争に半月ぶりに参加した由紀はそれを良く知っている。両親は最初取り乱し、罵り合ったようだが、反省を始めてくれている。父は由紀に対する罵言を止め、母は自力での会社再生を目指して独自の努力を開始したのだ。少しずつ両親の目には生気が戻り始めている。自分でも確認したし、訪問させているマネージャーも言っている。

半月。由紀にしては神子相争の間隔が開いたが、別に構わない。実験段階だった新術をお披露目出来るのだから。

負けても別に良いと、由紀は割り切っている。まだ若干の貯金はあるし、何がまずかったか試金石にも出来る。心の余裕が生じ、それが由紀の特性を良い方へと向けていた。離れる事により、由紀は視野を確実に広げたのだ。

戦場は広い広い荒野であった。そして、相対する神子は利津一人。遮蔽物は殆ど何もなく、当初の相対距離は四キロほど。もう少し相対距離がなければ、エアブロックとベンドランサーのコンボを使おうと思ったのだが、気が変わった。ドラゴンインパクトの、初弾をぶち込む時が来た。

利津の防御術の特性は、攻撃を逸らすという点にある。桐の防御術の特性は、攻撃を防ぎきると言う事にある。そのどちらかも確実に貫ける術を作れないか。そう考えて、由紀が作り出したのが、ドラゴンインパクトであった。空に舞い上がる利津。すぐにその周囲を炎の鳥たちが舞い始める。由紀は一旦彼女に背を向けて走り出し、更に二キロほどの距離を取った。この術を使うには、双方の相対距離が五キロほど開く必要がある。更に、神輪一杯に溜めた力を、神衣発動の分以外根こそぎ消耗する。更に直線距離状に邪魔ものがあっては使えず、一分以上のためが必要になる。恐らく、全神子の持つ術の中で、もっともコストとリスクがでかい術だ。その代わり、完成した代物は、正に必殺の存在であった。

六キロの距離を直線的に詰めてくる利津。由紀はクラウチングスタートの体勢を取り、必殺の間合いを待つ。利津は基本的に罠を力尽くで破りに来る傾向があり、その辺り由紀としてもかなり好感度が高い。

相対距離、目測五キロ。時は来た。

神輪に触れる。全身の力が抜かれていくような虚脱感の中、尻を上げる。そして、利き足の右に全神経を集中し、地を蹴った。

走りつつ、最大速度に加速。術の力も借りて、剣を一本だけ出現させ、正面に構えたまま一気に最高速へ、更にその先へ。音速を超え、マッハ二に到達した時点で、剣の質量を最大最高にまで高め上げ、全運動エネルギーを移譲する。

いっけえええええええええええええええええええっ!

僅かに斜め上に向けた剣が、質量五トンにまで重量を増す。同時に手を離れ、0.5秒でマッハ五に到達、錐もみ回転しながら唖然とする利津との距離を瞬く間に詰めた。炎の鳥たちがガードに入るが、何の役にも立たない。ベクトルチェンジャーも同じ事。慌てて放った火球も、である。多少ずれた所で、速力マッハ五の物体が産み出すソニックブームの破壊力は、人知を絶する。

閃光が空に奔る。紅の神子は、多分痛みを感じる暇もなかっただろう。彼女の敵が、彼女の術を喰らったときのように。

炸裂的な破壊風が、由紀の元まで届く。全身の筋肉がずたずたに切れた由紀は、後ろ向きに倒れ、爆発するように伸縮をする肺に、必死に酸素を送り込んだ。痛いというか、気絶していない自分の精神力に、少しだけ呆れた。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあっ!」

そして、由紀の手には、幸片が落ちてきた。苦しみの中、僅かに笑顔を作る事が出来た由紀は、幸片を得られなかった利津に対して言った。

「……ふふ……ごめん……な」

どうして謝るのか、由紀には分からなかった。どちらかと言えば相性が悪く、何度も負けて、何度も殺された相手だ。如何に蓄積した力を全部つぎ込むような、滅多に使えない最強最大の術を初っぱなからぶちまけるような無茶苦茶な戦法で勝ったとは言え、何も後ろめたい事はないはずなのに。

帰ったらどうしようか。雇った家政婦に、何か作ってもらおう。料理は下手だが何だか物凄く人なつこい、可愛い人が来たのだ。見ているだけで楽しいような。まずいけど、彼女の料理は楽しみだ。そして、母さんと父さんが幸せになれるように、作戦を練ろう。薄れる意識の中、由紀はそんな事を考えていた。

 

神子達の戦いは中盤にさしかかり、それぞれが転機を迎えていた。良い方向へ事態が変化した者ばかりではないが、誰もが皆強くなっている。

戦いはまだ半ば。皆の幸せはまだ遠いが、諦めた者は誰もいない。それが故に、戦いはますます激しさと老獪さを増していくのである。

今回の神子相争も、まだ終わる気配を見せない。

 

(続)