青龍の雷
序、戦闘準備
和服を着るのは、零香にとって三度目の事となる。一度目は七五三の時で、二度目は親族一同が集まる会議でお披露目されたとき。貯蔵されている何着かの和服の内、本家の跡取りが重要な会で着る物は黒と決まっている。零香が今袖に手を通している和服も、黒を基調としたものである。どうしてか男女関係無しに黒なのだが、それについてはどうでも良い。鏡の前で、一回ターンしてみる。背中の月をかたどった紋が決まっていて、気が引き締まる思いであった。
何度か練習して、もう帯の巻き方も覚えた。着こなすのが大変だというのは、実際に身につけてみるとよく分かる。現代社会で和服が衰退した理由もである。ただし、気分は引き締まる。いわゆる勝負服というものの感覚を、零香は感じ取った。実戦であれば、これを勝負服にするのは自殺行為だが、これから行うのは刃無き実戦である。物言うのは武力ではなく下準備と弁舌だ。だから変更はしない。
父の元には手紙を残してある。目だけ爛々と輝かせながら、全てを擲って修練を続ける父。その理由を周囲は一切話してくれない。完膚無きまでに破れたというのが原因だというのは確かなのだが、もうそれだけでは無い事を、零香は良く感じている。母の出自も、何故外様の父が当主になる事が出来たのかも、分からない事だらけだ。
今はまだ、権力的なアドバンテージは此方にある。本格的に副家の人間が分家を味方に付けて動き出すのは、次の親族会議だと予想出来る。それまでに、零香がやるべき事は幾らでもある。出来る事をやっておく。実戦で勝つために絶対に必要な事だ。
神子相争のペースが上がってから二ヶ月。十四回の神子相争が行われ、そのうちの六回に参加し、三勝三敗の戦績を上げた。うち一回は利津に対する勝利であり、敗北はそれぞれ桐と由紀に喫した。トータルの勝率は五割であり、参加率から行くと立派な数字だと草虎もコメントしていた。
流石に送り迎えをしてくれるような人はいないから、歩くしかない。今日出向くのは、分家の中でも副家よりの、戦いのキーパーソンとなる一族の家。此処での交渉が、今後の戦局を大きく左右する。
二ヶ月の間、零香は修練の合間に一杯勉強をした。今まで見向きもしなかった銀月家の権力関係、血縁関係を始めとして、ゴシップの収拾、それに夜には間諜まがいの事をして、自ら夜中に各分家の屋敷を探りもした。銀月家の財産目録にも一通り目を通したし、それに今まで自主的に向かう事もなかった各分家に一通り足を運んだ。流石に跡取りの来訪だから、副家も含めて全ての家で表向き歓待してくれた。
噂と現実が大違いなのは、それらでよく分かった。切れ者とされている人間が実は盆暗で、参謀が有能なだけの事も少なくなかった。逆に、盆暗とされている人間が、極めて頭が切れる事もあった。直接話してみると、噂よりもずっと信頼性の高い情報が得られる。修練の合間に行い続けた分家に対する工作は、充分な成果を上げていた。零香を邪険にするような家はなかったし、どの家も当主の沈黙と不予を不安視しているだけで、真っ向から引きずり降ろそうと考えている所は少数だった。それが分かっただけでも全く違う。
敵対的な分家でも、零香が出向けば茶と菓子はきちんと出し、居れば当主が出迎えに来た。状況は良くないが、まだ致命的な状況ではないなと零香は思う。
ただ、零香に出来る事には、やはり限界がある。最後には父に出張って貰うしかない。あくまで零香は跡取りに過ぎず、当主ではない。実際に親族会議をリードするのは林蔵だし、そこにまで零香が出張るのはよろしくない。反感を集めるだけである。
それと、もう一つ気になる事がある。やはり、今になって副家が動き出した理由が分からないのだ。副家の長である銀月宗吾(ぎつきしゅうご)には二三度会って来たが、当然其処まで掴むには至らなかった。腹の底が見えない人物で、若い妾を何人も囲っている狒狒爺だという事は分かったのだが、どうしても行動の理由は見えない。それを探り出すためにも、銀月家の将来のためにも、密接なコネクションの確立は急務であった。加えて、もう一つ。どうしてだか、英恵の事が半分タブーになっている印象を受ける場合が多かった。これは分家のみで、それ以外の三日月家などでは一切無い。母に対する何かしらの情報が不足しているのではないかと、零香は切実に感じた。
頬を叩いて外に出る。寒空は晴れ渡り、刺すように冷え込んだ空気が神経を研ぎ澄まさせてくれる。コートを羽織らなければ風邪を引くような柔な鍛え方はしていないが、不信感を煽る可能性もあるので、一枚重ね着してきた。今日は雪になるかも知れない。傘を手にすると、少し急ぎ足で、零香は目的の分家、銀月家の中でもダーティワークを引き受けてきた中月家へと向かった。
銀月家、及び分家に所属する人間は、現在五十人ほど。それらの家で働く使用人などを入れると合計二百名ほどである。ただし、副家で経営している七つの企業には合計で千を越す社員がいるし、そう言った付属的な要素を含めると関係者の数は二千を超す。中月家は、副家ほどではないが、それに継いで多くの関係者を抱える所だ。
田舎の有力者はヤクザと密接な関係にあるか、ヤクザそのものである事が少なくないが、中月家はその前者である。昔から銀月家の荒事を一手に引き受けてきた所で、大手の暴力団ともコネクションを持ち、零香が住んでいるO市の裏を一手に仕切っている(といっても、大した規模ではないが)。由来は古く、幕末の時にまでさかのぼるのだという。人員も手練れが多く、正式な組織構成員だけで四十名、中高生や珍走団などにいる予備軍を入れると六十名ほどになる。一時期は麻薬取引などにも手を出していたらしいが、現在は大人しいもので、O市の南部にある歓楽街の利益吸収や、一部のヤミ金の管理で収益を上げているそうだ。
本家から歩いてそう遠くない所にある中月家は、如何にもヤクザの住処という外観をした所だ。屋敷は高い塀で囲まれ、監視カメラも何カ所かについている。地元の住民との関係は中立を良く保っているが、これは先代からであり、その前は傍若無人な言動で周辺住民との対立が絶えなかったのだという。こういった情報を得ただけでも、零香には大きい。事実、零香自身が電話して、すぐにアポを取り付ける事が出来た。
門の前に立つ。時代がかった大きな門で、頑丈な鉄格子がついている。見張りは無し。少し高い所についているチャイムを背伸びしながら鳴らすと、すぐにドスが利いた男の声がした。昔ならともかく、今の零香には拳銃でも使われない限り別に脅威にならないので、笑顔で話す。
「銀月零香です」
「お、おお。 すまねえな、今開けるからよ」
敬語を使うでもなく、乱暴に話すでもなく。下っ端の、少し困惑気味の声からも、零香に対する視線が微妙な所にある事が伺える。
鉄格子は全自動で、がらがらと音を立てながら真横にスライドしていった。中に踏み込むと、古い時代の日本の武家屋敷が如き様子だ。周囲には松が植えられ、池があり、色とりどりの鯉が泳いでいる。奥にある屋敷のようなものが、中月家であろう。歩を進めようとした零香の耳に、耳障りなうなり声が飛びこんで来た。視線を向けると、態勢を低くして唸っているドーベルマンがいた。良い体格をした、毛並みの良いオスだ。なるほど、そう言う事か。吠え始めるドーベルマン。首輪についている太い鎖ががちゃがちゃ鳴る。気の弱い子ならこれだけで泣いてしまうだろう。ゆっくり零香は歩み寄っていくと、目を細める。異様な殺気が、全身から迸る。
しばしして。ドアが開いて、中月家の現当主、中月安司(なかつきあんじ)が現れた。和服を着こなした、熊のような大男である。彼はにやつきながら、零香を見て、そして固まった。
「お待たせしましたな……っ!?」
「お手数おかけします。 わざわざ時間を作って頂いて」
零香は腹を出して地面に転がったドーベルマンの、腹を撫でていた。腹を出すというのは、動物の世界では全面降伏を意味する。零香の殺気を浴びたドーベルマンは、あまりの恐怖に吠える事も忘れ、近づくだけで腹を出して転がったのである。耳を臥せ、尻尾を伏せて、小刻みに震えながら必死に零香の怒りを回避しようと痴態を続けるドーベルマン。訓練を受けた番犬だからこそに、零香の恐ろしさを察する事が出来たのだ。もし飛びかかっていたら、確実に命がなかっただろうと悟る事が出来た。鎖につながれて、逃げる事が出来ないと計算する事も出来た。だから零香の声なき恫喝に、どうすればいいかすぐに判断出来たのだ。零香としても、ある程度の力がある方が扱いやすい。
「なかなか良いしつけをしていますね、おじさま」
さらりと言う零香。状況から言って、適当に脅かしておいて助けて、精神的な優位に立とうという考えであったのだろう。そうすれば次期当主を操りやすいし、番犬を置いていただけだと言い訳も容易だ。見れば鎖をつないである杭の周囲には、新鮮な土がこびりついている。玄関すぐ側に、ドーベルマンを移したばかりだという良い証拠だ。
どちらにしても、安易な策謀は、零香が力尽くで突破した。困惑しつつも、わずかな感心を湛えつつ、安司は言った。
「いえいえ、とんでもない。 さあ、こんな所で立ち話もなんだ。 奥へどうぞ」
「失礼します」
手を離し、もうひと睨みすると、ドーベルマンは地面にはいつくばって卑屈に尻尾を振った。安司に案内させて中にはいると、辺りは緊迫した空気に包まれていた。ここは曲がりなりにも、この辺りを支配するヤクザの屋敷である。見回すと、監視カメラが彼方此方に設置されている。居間で話し込んでいる男達の一人は、頬に大きな向かい傷を持っていた。
応接間に通されて、茶と菓子を出される。温度も丁度良いし、見るからに高級な金鍔だ。こういう所のお手伝いの方が、案外教育はしっかりしている。壁も天井も厚く、窓硝子は防弾だ。まるで要塞のような家だと、零香は茶を啜りながら思った。
「それで、御令嬢はこんな所に何用ですかな」
「今まで銀月家の関係者の所に顔を出した事もありませんでしたからね。 丁度いい機会ですから、皆の顔と人となりを知っておこうと思ったわけです」
「ほほう、若いのに感心ですなあ。 ……で、今日はどうして一人で?」
「どうしても何も、私は取り巻きを作っていません。 大人を足がわりに使うのも良くありませんし、歩いてきました」
「そ、それはそれは……」
落ち着き払った零香の言葉に、安司は終始感心するばかりであった。何か後ろめたい雰囲気を感じる。そういえば事前の調査で、安司は六人の子持ちだが、そのいずれもがろくでなしだとも聞いていた。零香の毅然とした態度が、微妙な修正を安司の精神に加えたのかも知れない。
瞬間的に有利になった零香だが、ただし、安司はまだまだ腹の内を見せていない。さっきのドーベルマンなど、ほんの路傍の小石に過ぎない。良い方向ではないとしても、多数の荒事をくぐり抜け、鍛え上げてきた男の雰囲気が安司からは漂ってくる。零香としても、相手にとって不足はない。
「当主様は、今はどうしているのですかな?」
「忙しいです」
「ほほう……」
「何かの壁に突き当たったようで、全てを擲って修練しています」
再びさらりというと、零香は茶を啜り、おかわりを要求した。どうせもう皆知っている事だし、取り繕った所で意味がない。
「大変ですなあ、御令嬢も」
「趣味に理解を示すってのは、良い事だと私は思います」
「はっはっは、そりゃあいい。 うちのかみさんも、少しは御令嬢のような事を言ってくれれば嬉しいんですがねえ」
「結局どこで譲歩するかの違いですよ」
口に運んだ金鍔はかなり美味しかった。こしあんの甘みが抑えられていて、舌触りも絶妙だ。良い店のお菓子だろう。塩辛い方が好みの零香だが、これはいいと思う。後で店を教えて欲しいくらいだ。
更に二言三言かわすうちに、どんどん安司は大胆になってきた。零香をやりこめて膝下に組み伏せようと考えていた所を尽く邪魔されて、少しずつ本性が出てきた感がある。激しい実戦を潜ってきた零香にしてみれば見え透いている。強硬手段に出たら返り討ちにしてやるだけだが、相手も百戦錬磨、ドーベルマンの様子から零香が並の使い手ではない事を知っているはずだ。さて、どういう手で来るか。それにしても、この金鍔は妙なる珍味。ついつい二つ目に手が伸びてしまう。
「……で。 そろそろ本題に入りましょうか」
「いいでしょう」
「正装で来たって事は、うちを取り込みたいと言う事ですかな? 御令嬢を派遣して、最近本家が分家を取り込みに掛かってきている事は知っています」
「話が早いですね、その通りです。 副家に何故味方するのか、それを教えて頂ければ、此方としても手が打ちやすいのですが」
「ふむ……」
腕組みして考え込む安司。いきなり本題に入ってきたが、それも零香には心地よい。話しに緩急を付ける事で、零香のペースを崩そうという小技であり、駆け引きのしがいがある。
「ひょっとして……それは御令嬢の独断ですかな?」
「さあ、どうでしょう。 貴方が把握している行動が、小学生の私の独断だと思うなら、好きにしてください。 貴方の考えまで、私は読めないし、強制も出来ませんから」
「……末恐ろしい子だな。 姿は母上に似ているのに、性格は父上似か」
「二人の子ですから」
くすくすくすと零香は笑う。敢えてそう笑う事で、安司へと心理的プレッシャーを与えるためだ。
実のところ、零香は結構ひやひやしていた。あまり脅かしすぎて安司に首を横に振られたら万事休すだし、安司がどういう目的で副家よりの姿勢を取っているのかだって分かっていない状況である。冷や汗をかくほど無様ではないが、それでもかなり心臓は普段より速く脈打っている。突然、安司が笑い出したので、零香も軽く仰け反らざるを得なかった。
「ガハハハハ、あの武神の子は、やはり武神か。 御令嬢。 当主様と俺は同い年でな、若い頃は随分ぶつかり合ったものだ」
「!」
「……俺は元々養子でな、そう言う意味では当主と同じ立場にある。 だがな、今の当主様と心中する気はない。 なぜなら」
今までよりずっと怖い顔になって、安司は零香に顔を近づけた。さっきのサプライズから立ち直った零香は、笑顔を作って、機先を制した。
「部下達の命と生活を預かっているから、ですか?」
「その通り。 ぶっちゃけた話、俺は当主様を尊敬している。 だがな、こう乱行を続けられて、殆ど表にも出てこられないと、将来を託そうって気にはならねえんだ。 俺が副家のすり寄りにいい顔しているのはそう言う理由だ。 何も、主家に元から反感を持っていたとか、当主が嫌いだとか、そんな理由じゃねえ。 俺も男だ、正装で来た御令嬢に嘘はつけねえから誓って言うが、それに間違いはねえぞ」
「ならば、父さんが親族会議に出てくれば、納得して主家よりに戻りますね?」
「さあな、会議に出てきたって、よろよろのボロボロだったらわかんねえな。 ……ただ」
安司は座り直すと、零香を正面から見据えて言う。
「あんたを将来的に当主にするのには反対しねえ。 あんたの猛々しい所は昔の当主にそっくりだし、頭も悪くねえ。 あんたが当主になるには賛成だが、同時に副家がトップに一時的に立つのにも賛成だ。 そういう、ことだ」
これは零香にとっては全く思いも寄らない返答であった。対応するには、少しカードが足りない。それに、誓いだ何だという言葉は、零香にとって信用出来ないものの上位に入るフレーズだ。
腕組みして目をつぶって考え込む零香の前で、安司は茶を啜った。よく見ると、安司の茶は殆ど減っていなかった。これが、大人と子供の余裕の差であったかも知れない。攻守はこの時、逆転していた。
「……さて、どうするね」
「ん、それはさておき、父さんの若い頃の話、聞かせて貰えませんか? 私、父さんの若い頃の話、殆ど聞いた事がないんです。 若い頃を知っている叔父様なら、色々教えてくれるんじゃあないですか?」
「ん? ん……うむ、そうだな」
不意の伏兵に、安司は驚き、僅かに表情を崩した。零香は、今まで意図的に使わなかった子供という武器を最大限に使う事で、足下をすくう事に成功したのだ。お手伝いさんを呼んで、二人分の茶の代わりを頼んだ。悪い気分がしないらしい安司は、茶の代わりを一口飲むと、話を始めた。
「俺が林蔵の旦那、いや当主様に初めて会ったのは、小学生の頃だった。 その時には、もう俺は手が付けられない不良でな、親怖さに先公や周囲の大人が何も言わないのを良い事に、万引きカツアゲやりたい放題だった。 そんな時に、当主様にあったんだ。 何て言うか、違う世界の扉が、その時開いたな」
1,若き鬼神
安司は語る。若い日の林蔵の姿を。安司は懐かしむ。その雄々しき影の事を。
筋骨隆々たる巨体、刺し殺すような眼光。あくまで口数は少なく、動きは緩慢だが力強い。固く結んだ口は強固な意志力を周囲に示し、誰も側には寄せ付けない。不動明王像が動き出したかのような容姿も、周囲に人を寄せ付けない要因の一つだった。単純に怖かった、いや怖すぎたのである。
小さな両親から産まれたというのに、中学生になったときには既に身長百七十p後半に達していた少年がO市にいた。名は弓張林蔵(ゆはりりんぞう)。あくまで寡黙で、そして圧倒的な強さを誇る彼は、決して心優しくは無かったが、物静かで力強い男であった。だが、その寡黙さが故に誤解も受けやすく、親友は少なかった。ただし、彼の周囲には、人が多かった。
その殆どが、腕試しに挑んでくる不良だった。現在と違い、昔はそういう武力を極めようと考える不良が大勢居たのである。そう言った意味では、社会の脱落者にも脱落者なりの覇気がある時代だったとも言える。ただし、それが良い事なのかは分からない。
林蔵の巨体と強さは、近隣の不良達には有名だった。中学になった頃には、周囲には無数の武勇伝が出来上がっていた。全く周辺に手下を侍らせない一匹狼ぶりも有名で、それが却って不良を集めた。喜怒哀楽が欠落しているのではないかと思えるほど、きゅっと唇を引き絞った鬼瓦のような林蔵の顔は、何があっても変化しなかった。高校になると、県外から挑戦しに来るものさえいた。その全てが返り討ちにされた。安司もその一人であった。
小学生の頃初めて林蔵にあった安司は、その圧倒的威圧感にショックを受け、いつか倒してやろうと目を付けていたのだという。実行したのは、力が欲しくてたまらず、若いエネルギーをもてあましてうずうずしていた高校生の時であった。地元の不良などでは、もう物足りなくなっていた安司は、最強の相手に喧嘩を売る事にしたのである。
「俺は仮にもヤクザの息子で、親父から喧嘩の仕方は散々聞いて習って育ったからよ、幾らつええったって素人に遅れを取るなんて、戦ってみるまではこれっぽっちも思ってなかったさ。 俺自身そのへんの不良程度には一度も負けた事無かったし、ましてこっちは、取り巻き入れて五人。 しかも全員が鉄パイプやバットで武装してたからな。 ……で、俺が滅茶苦茶にぶちのめされて、正気に戻ったのは三日後だったな」
安司は真っ正面から挑んだのではないのだとも付け加えた。林蔵が学校帰りに通る道を調べ上げ、適当な奇襲地点を割り出した。事実、相手が林蔵でなければ成功しただろう。しかし、前後を挟んで袋だたきにしようとした安司達は、相手が悪すぎた事を、喧嘩を挑んだ瞬間に悟っていた。
「投げ飛ばされたんじゃない。 殴られたのに、吹っ飛んだ。 いやはや、あんな経験は生まれて初めてだったな。 当主が鉄パイプをそのまま素手でつかみ取ると、放り投げた部下が三メートルも飛んでいってな。 いやはや、鬼神や、鬼神がおると思ったさ」
ヤクザが負けた時の話を嬉々として語る事などまずあり得ない。零香はさまざまな方面の知識からそれを知っているが、安司は実に楽しそうだった。あまりにも完膚無きまでに負けたので、気分が良かったのであろう。お礼参りは考えなかったそうだ。部下達ももうやる気を無くしていて、林蔵に挑む勇気はなかったそうである。
「それで、後で当主から、当主よりも更に強い奴が居るって聞いて、俺は自分が最強だって思う事をすっぱり諦めたね。 ポン刀持ってったって勝てる気がしねえ。 チャカ(拳銃)があってやっと勝機が見える、そんなレベルの相手が、自分じゃ絶対に勝てない相手がいるって言うんだ。 痺れたよ、俺はな」
多分それは狼次郎せんせいの事だろうと零香は自然に察した。当時、もう狼次郎せんせいは老人だったはずだ。そして、同じように最強を誇っていたわけだ。どうしてか、少し嬉しい話だった。
その後、百人ほどの珍走団が林蔵一人に壊滅させられると、もう彼に近づく不良は居なくなった。林蔵は生ける伝説となったのである。学校の授業はきちんと受けていたし、弱者に暴力を振るうような事もなかった林蔵。だが、彼の周囲にはすきま風が吹くようになった。一般人からは、筋金入りのワルだと思われていたし、不良も怖がって近づいてこない。高校を出ると、林蔵は地元の大工に就職、こつこつと修行をしながら着々と親方の信頼を稼いでいった。無口だが努力家の林蔵はきちんと業績を伸ばしていき、そして三十を目前にした二十七歳の時に、英恵と結婚した。
「いやあ、あの時は驚かされたね。 だけど実はこの辺り、俺は表も裏も事情を良く知らねえんだ。 英恵様もそれまでの話が全然でてこねえ方だったし。 ただ、無口な当主が、その日は凄く嬉しそうだったよ。 俺は当主に憧れてて、時々一緒に飲みに行ったりしたから分かった。 いつもとおんなじように仏頂面だったのに、あの日の旦那は何処か嬉しそうだった」
嬉しそうなのは、むしろ安司の方なのではないかと、零香には見えた。林蔵を旦那などと呼んだ事からも分かる。零香は今までの話で、安司の裸の精神をやっと見る事が出来た気がした。女性の最大の武器は男性に比して優れた観察力だ。勿論個人差があるわけだが、実戦でそれを磨き抜いてきた零香は敏感に悟っていた。おそらく、であるが、安司は林蔵に憧れたのだ。圧倒的な実力を浴びてから、林蔵の影を追い、崇拝する事を日々の糧にしてきたに違いない。最悪の意味で暴力性を甘やかされて育ってきた男が、自分では絶対に勝てない相手にぶち当たり、一回り大きく成長した。成長のきっかけになったのは父。時間を超えて、父の偉大なる背中を零香は見た。
そして、だいたいだが、安司が副家についた理由も分かった。あこがれの相手であった林蔵が、弱い姿をさらしている事が勘弁ならないのだ。子供がテレビのヒーローに絶対の正義足る指針を求めるのと同じ事である。敗北して壁に突き当たってもがく父など見たくはないのである。安司にとって、父は絶対の英雄。神に等しい。
すなわち、人間だと思っていないのだ。
世間一般で言う、マイナスの意味でではないが。零香はそこが、少し悲しかった。安司の事も責められない。幼稚な英雄崇拝だが、だがこういった点で大人になっている人間など、事実世の中にどれほどいようか。いやいまい。大人だって、英雄には心酔するものなのだ。それが人間という生物だ。
「いやあ、楽しいね。 酒が欲しい所だが、御令嬢はまだ子供だしなあ」
「うふふ、そうですね。 ……解答は、後ほど。 すぐに決められる事ではありませんから」
「そうだな、それが一番良い。 なあ、御令嬢。 俺は貴方には、当主のようになってもらいたいと思ってる。 そして、もし副家が一時的に当主になっても、あんたが成人したら絶対に当主になれるように工作を担当させてもらうからな。 そこは神に誓っても良い」
零香は出かけた言葉を飲み込むと、笑顔で頷き、中月家を後にした。ドスが利いた声で安司が部下達に見送りに出るよう言い、帰りはリムジンで送ってもらった。別に歩くのなど何の苦にもならないのだが、ここで好意を受けるのも社交辞令だ。
家に着くと、家政婦が夕食の準備を始めていた。着替えて一風呂浴びると、零香は夜訓練のプランを練り始める。明日は白炎会被害者の会の集会があるし、次の神子相争にも参加する予定である以上、少し早めに切り上げなくてはならない。最近零香は被害者の会でも頼りにされていて、特に安津畑氏は零香を孫のように思っているようだ。
「なあ、レイカ」
「うん?」
「さっき、かなり怒っていたな。 父を崇拝されて、何故怒る?」
「ううん、怒っていた訳じゃ……いや、怒ってたね。 ええとね、崇拝すると言うより、あの人、父さんを神様みたいに見てたんだと思う。 それで、人としてみる事を忘れてたんだよ。 だから、父さんが悩んでるのを、理解してあげられない。 ……正直、腹立たしいよ。 父さんが好きなら、困ってるときに力になればいいのに」
「それが人間という生き物だ。 零香も今後は、そういった人々の視線を受ける事になる」
「いいよ、それは。 覚悟が今日決まったから」
強すぎるのも考え物だねと、零香は苦笑して返した。少し考え込んでいた草虎は、触覚をいつもと違う、微妙な螺旋軌道でくるくる回しながら言った。
「今後、レイカは征服を目指すのか? それとも、協調を目指すのか?」
「そうだね……出来れば協調を目指したいね」
我ながらどうしてそんな言葉が出てきたのか、零香には分からなかった。だが、考えてみれば確かにそれは本音だ。侵略者は容赦なくぶっ潰すつもりだが、その一方で、それ以外の人間に強硬姿勢を取ろうとは思わない。
「王道を目指すか。 ならば、覚えておくといい。 協調は征服よりもずっと難しいし、苦労もする。 協調を目指す上で、一番大変な事はなんだと思う?」
「……なんだろ。 ごめん草虎、分からない」
「答えは、気に入らない奴とも仲良くしないといけない事だ。 子供向けの漫画のように、相性が良い奴とだけ仲良くする等というのは協調ではないし、仲間になる人間がみんな良い奴だ等と言う事はあり得ない。 そして、基本的に協調路線は能力が低い寄り合い所帯に向いている。 突出して能力が高いリーダーが居る場合は、むしろ征服した方がスムーズに行く。 言葉のイメージに惑わされるな。 レイカなら、修練次第では大人を力でねじ伏せる選択肢も作れる」
「ううん、そうじゃない。 わたしはね、銀月家の権力にはあまり興味がない。 ただね、父さんと母さんの持ち物を好き勝手に弄られるのが気にくわないだけ。 だから、父さんに、銀月家の権力を戻してあげたい。 わたし自身が銀月家の権力を握る気は、無いよ」
草虎はそれに対して、しばし触覚を揺らしていたが、短くそうかとだけ応えた。零香が権力そのものに興味がある事、将来的には恐るべき高みを目指している事、その二つに気付いたからかも知れない。
その日、修練で体を激しく動かし疲れたというのに、どういう訳か零香はよく眠れなかった。
翌日、被害者の会に参加し、遅れて暁寺に出向いて修練を終え、家に帰ってくると、坂介が居間にいた。小太りの坂介は正座して猫背で茶を啜っていたが、零香を見て姿勢を正した。
「お帰り、零香ちゃん。 お邪魔させてもらっているよ」
「お構いなく、坂介さん。 それで、今日は何の用事ですか?」
「うむ。 零香ちゃんが彼方此方の分家を廻っていると聞いてね。 副家の方から、主家を探る動きが出ているそうなんだ」
それは想定の内である。零香が自主的にそんな事をしていると思いつく人間はそうそういない。殆どの常識的な人間は、この状況下なら、こう考えるはずだ。林蔵が復帰を睨み、零香を使って分家と副家を探らせている、と。
「大丈夫、手は考えてあります」
「う、うん。 本当に?」
「大丈夫、この紙を渡しておきますから、もし分家や副家からアクセスがあったら、指示に従って動いてください」
坂介は少し話して分かったが、理解力は高いし能力もあるが、指示されて初めて動ける人間だ。記憶力や理解力には恵まれているのだが、行動力と自主性には致命的に劣っているのである。それは別に劣っている事ではない。人間の価値は行動力で決定されるというような意見も世の中にはあるが、行動力がある人間ばかりではないし、他人の命令で的確に動ける人間も世を変える事がある。零香は奈々帆を見ていて、行動力だけが人間の存在価値ではないと気付かされた。
紙を読んでいた坂介は小首を傾げていたが、やがて懐に大事に折り畳んだ紙をしまう。それを見届けてから、零香は言った。
「昨日、中月の家に行って来ました」
「そうか、中月家に……はいいっ!? れ、零香ちゃん、無事だったかい?」
「おかげさまで。 安司のおじさまとは意気投合しましたが、今回は膝下に組み伏せる所までは行きませんでした。 残念ながら」
涼しい顔で言うと、茶を啜る零香。ハンカチを取りだし、禿げ上がった頭に浮かんだ汗をふき取ると、坂介は言う。
「あまり無理はしないでね、零香ちゃん。 僕は心配だよ」
「大丈夫。 今、中月にわたしを害する理由はありませんから。 それよりも、中月で面白い話を聞かされました」
「なんだい」
「父さんの若い頃の話です」
今度は盛大に吹き出す坂介を見て、零香はくすくす笑った。零香は知っている、坂介が林蔵と幼なじみの関係にある事を。
安司の話では、林蔵は武神そのもの存在だったようだが、それでは坂介とは接点がない。それに安司の林蔵観は殆ど一種の信仰に近く、それが必ずしも正しいとは限らない。この間草虎に聞き、確認したのだが、物事は観察する方向によって幾らでも姿を変えるのである。見る方向によって変わる絵や、マジックミラー等のように、光学的なレベルでもそれは真実だ。ましてや人の姿など、さながら万華鏡のように変わる事は間違いない。
「話して、くれませんか? 父さんの若い頃の話」
「しかし、零香ちゃんに話して良いと、林蔵さんには言われていないし……」
「全部話せとは言いません。 差し障りのない所だけで結構です」
「ううむ……しかし……林蔵さんがなあ……」
道場からの吠え声に首をすくめて、坂介は言う。言い訳じみた言葉を口の中でもごもごと呟いていたが、やがて言う。
「分かった、そうだね。 どの辺から、どの辺までならいいかなあ……」
「粗茶ですが、どうぞ」
「ああ、すまないね。 うん。 ええとね……僕が最初に林蔵さんに出会ったのは、小学校に上がるか上がらないかって頃だった。 僕は体が弱くて、その上小賢しかったから、格好の虐めのターゲットでね……」
坂介が語る林蔵は、安司のそれとは似て非なるものであった。視点が変われば物事にずれを生じるというのは分かっていたが、それでも零香は驚きを隠せなかった。
「林蔵さんは確かに怖がられていたね。 喋らないし、顔は怖いし、大きいし、滅茶苦茶に強いし。 でもね、林蔵さんのお父さんとお母さんとは、ごく普通に良好な関係を築いていたんだ。 誰も知らないと思うけど、林蔵さん、自分からは絶対に暴力を振るわなかったから。 あの人が拳を振るったのは、何かあったときだけなんだ」
懐かしそうに坂介は言う。
林蔵と坂介が出会ったのは、坂介が七歳の時。その頃から既にいじめられっ子だった坂介は、その日も同級生に殴る蹴るの暴行を受け、ひいひいと泣いていた。弱いなら逃げるという手もあるのだが、足も遅かったし、要領も悪かった。頭脳武装する事で対抗しようとした坂介だが、元々根性もなかったし、何より致命的な事に性根が優しかった。いじめっ子達に怪我をさせるような罠を作る事も出来ず、怖くて抵抗する事も出来ず。頭が良い事はプラスどころか、生意気だといじめっ子達に暴力の口実を与えるだけだった。痣だらけになってもがく坂介の上に覆い被さって拳を振るっていたいじめっ子が、不意に消えたのは、その瞬間だった。
子猫でも摘むようにいじめっ子をつり上げていたその人が、林蔵だった。中学生かと思うほどの巨体で、怯えて暴れるいじめっ子を放り捨てる。蛙のように地面に叩き付けられたいじめっ子は、目を回して動かなくなった。逃げようとするもう一人を突き飛ばして川に落とし、更に腰を抜かした最後の一人を膝に乗せると尻を三回叩いた。ぎゃっと悲鳴を上げて気絶するいじめっ子。本物の圧倒的な力というものを、坂介はこの時初めて見たのである。
「僕の両親は、怪我の手当だけならしてくれたけど、暴力に対しては具体的に何もしてくれなかったからね。 林蔵さんの登場は、実に衝撃的だったよ」
全く逆の意味ではあるが、坂介にとって林蔵は信仰の対象だったのだと、零香にはこの言葉で分かった。
坂介の話は続く。その後は、不思議なつきあいが始まった。林蔵が、同じ事をしたら今度はただでは済まないといじめっ子達に言うと、ぴたりと虐めは止んだ。だが林蔵は坂介を甘やかすような事はせず、というよりも殆ど構う事もなく、話しかけられれば応えるという程度の行動しか返さなかった。静かな林蔵の姿を見て、静かである事の価値を知った坂介は自らもそれを真似、無用な他者とのアクセスを減らした結果、受ける虐めも減っていった。
いつか坂介は林蔵を兄貴分だと言ったが、それは少し違うのだと、零香は話を聞きながら分析していた。安司にとって信仰の対象だったように、坂介にとってもそうだったのだ。信仰の方向が違うと言うだけで。或いは、不良共に目を付けられている現状を考慮し、敢えて近くに誰も寄せ付けなかっただけかも知れない。それは推測に過ぎないから、真相は父に直接聞いてみないと分からない。
思惑を練る零香を余所に、楽しそうに坂介は話を進めた。守護神に等しい林蔵は周り中から怖れられていたが、坂介はその物静かな優しさを知っていた。隠れた何かを一人知っているという状態は優越感を容易に作るが、坂介にとっては林蔵の優しさを知っているという事そのものが心の支えとなっていた。
大人になっても、不思議な関係は続いていた。大工になった林蔵と、司法試験を受けて二年目に合格を果たした坂介。社会的地位は逆転したが、精神的地位はそのままだった。坂介は林蔵に結婚式に呼ばれたとき、驚いたのだという。
「正直な話、嬉しかった。 林蔵さんは、僕の事を親しく思っていてくれたって、その時分かったからね。 零香ちゃんの母さん、英恵さんはとても綺麗だったよ。 結婚したとき十六歳だって話だったけど、とても大人っぽく見えた」
「結婚した経緯は知りませんか?」
「……ごめん、其処は喋って良いとは言われていないんだ。 ただ、二人ともとても互いを愛していたのは間違いないと思うよ」
しばし考え込んでいた零香は、やがて心中にてため息をついた。違う方向から父の事を知る事が出来たが、それでも結局情報量は安司と大差がなかったからである。父に負担を掛けるわけには行かないから、直接聞くのは難しい。母は記憶喪失な上にDNA鑑定の途中で、まだ会う事も昔の話を聞き出す事も出来ない。折角掴んだと思った手がかりが、たぐり寄せる内に切れてしまった。
涙がこぼれるほどではないが、悔しいし悲しい。何とか事態の打開を計りたいが、そうもいかない現状、打つ手は少ない。一つ一つ潰していくしかない。
「分かりました。 それでは、幾つか質問に答えて頂けませんか」
「僕に応えられる事だったら喜んで」
落胆しつつも、零香は冷静に今まで耳に挟んだ事を整理整頓していく事に決めた。心は沈んでいるが、引くわけには行かない。ぴいぴい泣いている余裕などは、無い。
幾つかの固有名詞を聞いていく内に、不意に突破口が開けたのは、僥倖であった。何気なく口にしたその一言に、現状突破の鍵が隠されていたのだ。
「鬼子、ってなんですか?」
「! れ、零香ちゃん、それ、何処で聞いた?」
「……副家に行ったとき、使用人が話しているのを聞きました」
正確には、盗み聞きしたのだ。しかも、招かれたときではない、隠密行を掛けたときに、である。零香は最近調査と修練をかねてこういった隠密行動をしている。忍び込んで屋根裏に入り込んだとき、使用人達が零香の話をしていたので、耳を澄ませた。そうすると、零香を褒める言葉、けなす言葉に混じって、その単語が出てきたのである。
「この間見たとき、凄くしっかりした子に見えたわよ。 うちの狸爺が後継ぐよりも、あの子が継いだ方がいいんじゃないの?」
「どうかしらね。 だってあれ、鬼子の娘ですもの。今は優秀に見えても、将来はどうだか分からないわよ」
「あ、そうだったわねえ。 それもそうか。 でも、そうなると、跡継ぎ候補はどっちもろくでもないって事にならない?」
「そもそも、信彦様が良くないのよ。 ……×××……」
以降は聞こえなかった。
信彦というのが、もう亡くなった母方の祖父だと言う事は分かっている。しかし、鬼子というのはどうしても分からなかった。意味だけなら分かるが、どうも腑に落ちないのである。
最初に零香はポータルサイトの辞書機能で調べた。結果はすぐに出て、異様な姿、主に歯が生えそろった状態で生まれた子をそう言うのだと記されていた。が、それでは意味が通らない。国語辞典や古語辞典でも意味は似たようなもので、小首をひねらざるを得ない状況である。しかも隠密も含めた調査を進めてみると、どうも鬼子は複数居たらしい事、タブーとしても扱われている事、等々が分かってきた。もし今日坂介が訪ねてこなかったら、近くの大学図書館に出かけて調べようかと思っていた所である。それらを説明すると、坂介はそんな事までと呟き、絶句した。畳みかけるように零香は言う。
「母さんの事を調べてみましたが、学校に行っていた形跡がありません。 中学校からは行っていたようですが、小学校時代は何処で何をしていたのか分かりません。 お手伝いさんに聞いても知らないの一点張り、資料を探しても何も出てこない。 一体母さんは、何処の何者なんですか?」
愚問だと思いながらも、聞かざるを得なかった。出自自体は分かっている。間違いなく銀月家の血筋の人間で、先代信彦の娘だ。零香の祖母、即ち英恵の母も分かっている。信彦の妻であった波奈子である。そう、両親も分かっているし、何よりその血が自分に流れている。何人か兄妹が居たが、皆死んでいるという事も分かっている。にもかかわらず、誰もが母の事になると口をつぐむ。
零香の苛立ちは外に漏れだし暴れだす程に募っていた。父の事になると、主観的であっても皆口を割るというのに。母の存在はまるで銀月家のタブーだ。あんなおっとりして優しい女性、そう世の中にいるものじゃない。客観視を身につけて視野を広げた零香だからこそ分かる。母には、鬼と呼ばれるような要素など、あるわけがない。
坂介を睨み付ける零香の眼光は、いつの間にか獲物を狙うそれとなっていた。冷や汗を止め止め無くながしながら、ハンカチで額を拭いながら坂介は言った。零香に恐怖を感じているのは明白であった。
「ごめんよ、零香ちゃん。 僕は、口を開くわけには行かないんだ」
「……ひょっとして、犯罪が絡んで居るんですか? 銀月家が転覆する、最悪のスキャンダルになるような」
「それも言えない。 ごめんよ、僕にも立場と生活があるんだ。 それに……言ったらきっと、林蔵さんに殺される。 それだけは、そんな事になったら、僕は死んでも死にきれない」
零香の口から大きく息が漏れる。坂介を虐める気はないし、これ以上押しても何も出ないのは分かり切っていた。坂介は林蔵を尊敬しているが、それが故に零香に口を割る事はないだろう。人間には意識的無意識的に定めている優先順位がある。坂介にとっての優先順位は、林蔵の方が零香よりも上なのだ。
気まずい空気が流れた。零香は茶をもう一口啜ると、諦めた。
「ごめんなさい。 無理を言ってしまって」
「ううん、僕が悪かった。 林蔵さんが戻ってきたら、僕から……頼んでみるよ」
父は修行を初めてから誰とも口を利かなくなった。零香も何度か会話を試みたが、全く喋ってくれない。母でさえ父の口を開かせる事は出来なかった。口を開かせる事が出来る人がいるとしたら、狼次郎せんせいくらいだろう。だが、一度頼んだとき、あの人は首を横に振った。
自室に戻った零香は、ベットに腰掛け、天井を見上げた。何も音がしない空間は、まるで闇に満ちているかのようであった。何の音も立てないパソコンが、真っ暗なディスプレイに無言の威圧感を湛えている。静かな虎の巣というのに、相応しい場所だった。決心した零香は、側で浮遊し続けている草虎に言った。
「幸片、使うね」
「八方塞がりだし、仕方がない。 三回分の蓄積幸片だ、それなりに効果は大きいだろうが、過剰に期待するな」
「うん。 半分は父さんに、半分は母さんに。 ……二人とも……絶対に助ける」
草虎は何も言わず、零香を包む光が、溶けるように消えていくのを見ていた。
離れにある道場に向かっていた坂介は、ごくりと唾を飲んでいた。林蔵が修練を邪魔されると物凄く怒る事は良く知っている。一度なれなれしく暁山に赴いて、一ヶ月無視された事があって、それ以来林蔵の修練中に話しかける事は坂介のタブーになっていた。崇拝の対象に無視されるというのは、年齢の上下如何に関わらず堪えるのだ。
林蔵の咆吼と、修練の音は遠くからびりびりと響いてくる。さながら音量を限界にしているステレオから漏れるパンクロックだ。愛好家以外には嫌悪と恐怖しか与えない、超重低音の威圧感。しかし、坂介は唾を飲み込むと、道場へと歩く。戦いを知らない、そして出来ない坂介には、獣の巣へ入るが如き勇気を要求する行動であった。
坂介は四年前に結婚したが、一年前に別れた。見合いで知り合った妻は、結婚以来弁護士以外何の価値もない人間だと坂介を罵倒し続けていて、愛人を作って出ていったのである。離婚をきちんとしただけ立派だったとも言える。それ以来結婚はしていない。実際甲斐性がない自分も悪かったのだから、坂介は妻を追わなかった。話によると、元妻は愛人とも別れ、今ではどん底の生活をしているのだそうだ。特に感慨は湧かない。追う気はないし、戻ってきても別に構わないと話はしてある。ただ、プライドばかり高い人だから、その可能性は低いだろう。
そういう状況を味わった坂介だからこそ、思う。林蔵はどうしてあんな優しい綺麗な奥さんを放っておくのだろうか、と。零香から英恵が病院で治療中だとは聞いている。それを放って置いて修練を続けるという感性は、坂介の理解を絶する。世の中には理解出来ない相手を全否定する事で悦にいる人間もいるが、弁護士をしている以上そんな低俗な考え方に囚われるわけには行かない。逆に言えば、それだからこそ、林蔵に聞いておきたいのだ。何故、修練を続けるのかを。それを聞けなくとも、一言は伝えておきたい。零香の努力を。そして林蔵と、母への思いを。
僥倖であったと言うべきなのだろうか。修練の音が止んだ。同時に破壊音もぴたりと消えた。今、修練を休んでいるのは間違いない。話すのは、今しかないのだ。無言のまま、襟をなおしてから、坂介は道場の固く閉ざされた戸を叩いた。
「林蔵さん、林蔵さん。 僕だ、坂介だ」
「……」
「入るよ」
戸に鍵は掛かっていなかった。中にはいると、むっとするような湿気が坂介を包んだ。辺りには藁や木くずが一杯散らばっていて、所々には千切れた縄もある。そして、道場の奥には、目を爛々と光らせる林蔵が居た。
頬がこけて、目だけが光っている。窶れ、髪は乱れ、全身から殺気を放つ林蔵。思わず生唾を飲み込む坂介。地の底から響くような声で、林蔵は言った。
「今、忙しい。 帰れ、坂介」
「う、うん。 あのさ……用事だけ、言ったら帰るよ」
「……なんだ」
「零香ちゃんが、今どれだけ頑張っているか知ってる? 君の代わりに分家を廻って、情報収集と、コネクションの接続に必死になってる。 それに、警察や白炎会被害者の会ともパイプをつないで、英恵さんの居場所も突き止めたんだ。 ……その零香ちゃんが、ずっと心配しているよ」
「……すまぬとは思っている。 英恵を見つけてくれた事には感謝もしている。 だが、今俺は、拳を休めるわけには行かないのだ」
予想通りの答えが返ってきたが、まだ引くわけには行かなかった。坂介は吹き出す汗を拭いながら言った。
「……零香ちゃんが、鬼子について少しだけ知ったみたいなんだ」
「そうか。 いつかは知る事だと思っていたが、随分早いな」
「うん。 それでね、もし良かったら……良かったらだけど。 僕から英恵さんと、鬼子について話しておくよ」
「駄目だ。 それはゆるさん」
会話を断ち割られた坂介は、がっくり肩を落とした。この口調で林蔵が喋るとき、絶対に意志を曲げないと知っているからだ。坂介と林蔵の力関係は昔も今も変わっていない。精神的には、絶対に、一生勝てないのだろうと、坂介は思う。
打つ手は全てふさがれてしまった。どうしようか、零香にどう説明しようかと悩む坂介に、林蔵は言う。
「……零香も成長したな。 腕の程はどうだ?」
「う、うん。 高校生を相手に、暁寺で修練しているって聞くよ」
「分かった。 坂介、心配を掛けたな」
林蔵は目をつぶり、沈黙が訪れた。道場の外は、あまりの殺気を怖れてか、鳥も居ないし虫も鳴かない。じゃあ、帰るよと言い、きびすを返した坂介の背中から、思いがけない言葉が飛んできた。
「零香には、俺が話す。 ……これは俺の仕事だ」
翌朝、けだるい目覚めの中、零香はベットの上で身を起こし、大きく欠伸した。居間に降りると、今日も誰もいない。昔はどんなに早く起きても、父が鬼瓦のような顔で経済新聞を読んでいたのだが。坂介の言葉に嘘は感じられなかったが、元から期待はしなくて正解だったなと、零香は心中で呟いていた。精神的体調に変動はなく、自分が冷静冷酷になっているのが分かる。半年前だったら、がっかりして熱を出していたかも知れない。
ここ半年以上、零香は父と会話していない。廊下ですれ違った事はあるし、顔は何度も見ているが、言葉は交わしていない。最初の頃は何度も話しかけたが、巨大な仏像のように沈黙を湛えた父は応えてくれなかった。
この間から、副家に対して働きかけている事を、書斎に手紙で残してはいる。手紙は開封されていたから、読んでくれているのは分かってはいたが、意志が伝わっているか確信はなかった。
事実、零香は後々大人になってから国家権力を得る事自体には興味があったが、父の権益を侵害しようとか思った事は一度もない。父の幸せのためには、権益の保存が必要だと考えたから動いているのであって、もし幸せに不要なら分家の動きなどには見向きもしなかっただろう。
戦いを通じて視野を広げる事を覚えた零香は、物事を俯瞰する事の重要性を覚えた。父の生活のためにも、母の人生のためにも、この家を乗っ取らせる訳にはいかない。くだらん事を考える輩にはそれなりの制裁を。それが今零香が考え進めている事であった。
洗面所へ行き、さっさと着替える。朝の修練をするべく動きやすい服に着替えるのだが、真冬である今、肉体への負担を減らす必要がある。それ故多少厚着をする事に決めているので、少し手間も時間も掛かる。厚着をしすぎると訓練後に汗を掻いてしまい、それが内にこもって却って風邪を引いてしまうので、加減が難しいのだ。少し考えた後、コートを一枚訓練着の上から羽織って、零香はスポーツシューズを履いて外に出た。いつから起きているのか分からない草虎が、すぐ後ろについてきている。二言三言かわしながら、朝露に濡れた竹林に足を踏み入れた零香は、僅かに残る父の気配に驚いた。
「……!」
「昨晩、父君が此処へ足を踏み入れたようだな」
「う、うん!」
もう居ないようだが、修練に全てを注いでいる父が何をしにここへ来たのか。何か妙な期待が胸をよぎる。興奮を静めながら、零香は竹林の奥へ足を踏み入れ、それを見た。
目立つ竹に、無骨な茶色の封筒が貼り付けられている。厳重に貼り付けられたそれは、更に針金で頑強に固定されており、外すときに少なからず音がした。良い工夫である。これだけの音がすれば、零香も林蔵も気付く。場所から言っても、部外者が見る可能性はない。零香の力を信用して施してくれた工夫だ。剥がして音を立てながら、零香は嬉しかった。
茶色の封筒を開けると、折り畳まれた紙束が入っており、表紙には大きく墨で零香へと書かれていた。無骨な字で、下手だが大きく迫力満点である。間違いなく書斎で見かける父の字だ。
紙をめくる。内容は簡潔を極めていた。
「迷惑を掛けて済まない。 俺にはやる事がある。 やる事を終えたら、必ず英恵とお前の所に戻る」
此処までが一枚目。大きな文字で訂正もなく書かれているので、一枚一枚の紙に少量の文字しか入らないのだ。二枚目。
「鬼子については、銀月家の恥部だ。 知ればお前にも英恵にも危険が及ぶ可能性があるから、まだ秘密にしていたかったのだが、お前は大きく成長したようだ。 だが、今難しい問題を抱え込むわけには行かないだろう。 だから、読むかどうかは判断に任せる」
「読まないわけには行かないんだよ、父さん。 非合法攻撃、何でも来いっての。 受けてたってあげようじゃないの」
既に金庫の番号は変えてあるし、他にもさまざまな手は打ってある。副家を始めとする分家に母の居場所は教えていないし、自身の安全管理も大丈夫。非合法攻撃に出てきたら、こっちにも考えがあるだけだ。
子供じみた強がりではない。零香は既に実戦を経験し、シビアな考え方を出来るようになったプロの戦士だ。プロの戦士に戦いを挑む事がどういう事か知らぬ平和呆けした連中に、有事には目にもの見せるだけの事である。
「具体的に、鬼子というのは……」
父の文章は続いていた。零香は眉をひそめてそれを読み続け、そして読み終わってから歯を噛んだ。こんな下らない事が、本当に十数年前まで行われていたというのか。こんな馬鹿な事が正統性を持ち、多くの人間の嗜好を充たしていたというのか。何より腹立たしいのは、母が受けていた虐待だ。零香より上の年まで、座敷牢に監禁されていたとは。
零香だってそろそろ二次性徴が出始める年だから、今くらいの年代が子供の精神形成に最も重要な時期だと知っている。その大事な年頃を座敷牢に放り込まれて育てられる事がどれほどの苦しみを伴うか、嫌と言うほど分かる。許せない。牙を噛む。吠えたくなる。暴れたくなる。
零香は母の子であるのと同時に父の子であるのだと、はっきり自覚した。顔を上げた零香は、拳を振り上げて罪のない竹に八つ当たりする気になったが、寸前で止めた。腹の中から、怒りが沸き上がってくる。実戦に響く可能性があるから、早めに発散するか鎮めておかねばならない。理性こそが駆け引きを可能にする。怒りは瞬発的な攻撃能力を上げるが、冷静を失わせる。そんな状況では、神子相手には、誰にも勝てない。零香のライバル達は、怒ったくらいで勝てるような、生白い柔な連中ではないのだ。
「今日、ちょっとハードなトレーニングするわ。 飛ばしすぎないように、草虎、サポートしてね」
「そうだな。 それで腹の中のもやもやを吹き飛ばすと良い」
「うん。 ……はあああああああああああっ!」
全てのもやもやと怒りを吹き飛ばすように。腹の底から声を絞り上げると、零香は竹林の中で乱舞した。嵐のように殺気が吹き荒れ、朝のまどろみの中にいた鳥や虫が怯えて逃げ去っていった。
それは、虎の、戦の舞いであった。
2,子供の悩み
青龍の大弓を手に取った青山淳子は、弦の張りを確認して、大きく頷いた。側には蓮龍がいて、ただ静かに淳子の挙動を見守っている。
今、淳子が立っているのは、いつも修練に使っている山に生えた、大きな杉の木の枝である。淳子は勝手に百年杉と呼んでいるが、それは様々な意味で正確性を欠く行動だ。この杉が百年生きているか淳子には分からないし、そもそも他に呼び名がある可能性もある。この辺り、淳子はけっこういい加減な性格である。緻密なスナイプ戦を得意とする一方で、こういう妙な雑さをこの少女は持ち合わせていた。
高さは地上十八メートル。不安定な足場であり、神衣を付けていない現在、足を滑らせれば命に関わる。念のため、危ないときは神衣をいつでも発動出来るようにはしてあるし、隠し弾もあるのだが、それでも緊張は隠せない。小さく息を吐くと、淳子は矢をつがえる。勿論、術で作り出した光の矢だ。
狙うは、二百メートル先にある、直径十五センチの的。木々を縫うようにして飛ばさないと、かする事さえ出来ない難易度の高い的であり、複雑に絡み合った木々の間を流れる風の動きも計算しないと行けない。今までは術の助けを借りてヒットさせてきたが、今日は純粋なスナイプだけで狙う。神子相争を初めておよそ半年。今日こそ出来ると、自分に言い聞かせながら、淳子は集中する。十二秒経過。研ぎ澄ました感覚が的を貫くと同時に、計算し尽くした矢の一撃が放たれる。それは風すら読み切った一撃。
ストンと音がして、的が揺れた。真ん中に直撃したのだ。
「お見事です、ジュンコ」
「ありがとう」
「次は七秒で同じ行動を出来るようにしましょう」
厳しい言葉だが、もっともである。淳子は二本目の矢をつがえると、次の目標に向けて、弓を引き絞った。
何回かの狙撃が終わると、淳子は木を降り、杉に背を預けてスポーツドリンクを呷った。命中率は八十%。なかなかの成績である。一息つくのと同時に、今の修練を頭に叩き込み、今後の戦いに生かすのである。背中に触れる、百年杉の木肌。感触が心地よくて、思わず背中をすりつけてしまう。人によっては悪魔の木となる杉だが、淳子には何でもない、むしろ愛しい存在だ。
淳子の戦いは基本的に頭を使う。その点は桐と同じである。身体能力は大したことがないのだから、感覚や戦術でカバーして行かねばならないのだ。そのためには、頭脳と経験の研磨が重要になってくる。そのためには、土台となってくる、自己の能力錬成が更に重要なのは言うまでもない。のばせる能力は徹底的に伸ばし、使える技は極限まで研磨して行かねばならない。自分の力がそれにほど遠い事を、淳子は良く知っている。戦いの世界には、幾らでも上の存在が居る。極めれば極めるほど、先に見えてくる道は果てしなく遠い。ただ、他の神子達も同じ苦労をしていると思うと、不思議な連帯感を感じる。優しい気持ちになれる。
触って離れる訓練はもうほぼ完璧にこなせるし、視力、聴力は問題がない。今のところ、敵に先に発見された事はない。一つ課題があるとすると、間合いの問題だ。それで考えると、今のところ、一番厄介なのは由紀である。光学ステルスを強制発動する術で対抗しているが、攻撃の度にコストが高い術を使わないと一方的に袋だたきにされるだけだし、大体一撃ごとに大体の居場所を割り出されて、至近にまで迫られるのはどうにかしたい。相性が悪いと言っても、今のままでは勝率が少し低すぎる。四回戦って一度しか勝てていないので、もう少し由紀用の戦略と戦術を練る必要がある。
もう一人厄介なのは零香で、此方は対戦回数が少ないが、防御力も高く勘も鋭いので、由紀と同じくらい潜在的に危険な相手だ。スピードから言って、大体一キロくらいが間合いだと以前は思っていたのだが、今はもう違う。射撃精度が上がってきた事で、三キロ先から命中させる自信がついてきたから、既に其方に切り替えている。ただし、それでも絶対に勝てる自信はない。生半可な矢はあのクローの術でガードされてしまうし、何より感覚拡大キューブは極めて厄介だ。ただでさえ感覚が鋭い近接戦闘強化型の零香が、あれで奇襲に対する備えを更に盤石にしている。それなりに使う力は多いはずだが、零香は元々あまり術で攻撃を行わないし、上手い使い方だ。悔しいが認めざるを得ない。
他の二人ほどに脅威は感じないが、利津も桐も手強い。そろそろより強力な攻撃パターンを用意して行かねばならない。
光の矢を矢筒から一本引き抜き、眺める。この間から五つの術を付与出来る矢を使い始めたが、必殺の威力を持たせるにはまだそれでも足りない。最終的には十を目指して、今は七の調整を進めている所だ。七つ付与した場合、攻撃時の射撃角度をかなり自在に変えられる上に、破壊力強化や貫通力強化をかなり贅沢に付与する事が出来る。元々極めてストイックで地味な戦闘スタイルの淳子だ、せめて絶好のチャンスが来た場合は、必殺の気合いで敵を撃たねばならない。
顕著になってきている問題はもう一つある。矢の軌道を読まれるようになってきた、という事だ。淳子が打ち出す矢は時速数百キロに達するが(対由紀戦闘時は更に加速の術をつけ、音速を超えさせる)、それでも神子相手だと軌道を見られてしまう事が少なくない。
これをどう克服するか、考えた手はあるにはある。まずは矢を見えなくする方法。これだと確かに軌道を読まれる事はなくなるのだが、コストが大きすぎる。コレを付与しただけで、普通の術の十倍くらいの力を消費してしまうのだ。光学限定、音限定、衝撃波限定など色々なパターンを試しては見たのだが、今一番有効そうなのは光学ステルス付きの矢である。
続いて、神子の目にも捉えられない超高速の矢を使うパターンも考えた。しかしこの場合、発生する衝撃波と爆音が大きすぎるため、他にもさまざまな術を付与しないと行けない。それに此方もコストが大きすぎて使いがたい。時間や敵との位置など色々とリスク面から調整しては見たのだが、決定的な決め手に欠ける状況だ。
最後に考えたのが、空間を渡る矢だ。これは術としては確かに作る事が出来た。出来はしたのだが、通常の矢を作る百倍ほどのコストがかかり、一発で神輪に溜め込んだ力の大半を消耗してしまう事が分かり、断念した。もし実用化出来れば文字通り最強の矢となったのだが、惜しい話である。それに、今のライバル達の能力を考えると、それでも致命傷を与えられるかどうか確信はない。これを必殺術としてカウントするのは危険すぎる。
結局の所、慎重な組み立てを必要とする淳子の戦いに、コストが大きすぎる術は不適当だ。頭をかき回して唸ってみても、良い案は浮かばない。丁寧な口調であっても、蓮龍はこういうときに自立自活を要求する。
「少し気分転換をしましょうか」
「そうやな。 気ぃ回してくれて、ありがとう、蓮龍」
「私はジュンコの勝利と未来のみを願っています。 これくらいは当然です」
「いっつもそんくらいやさしゅうしてくれればな……」
ぼそりと呟く。この方がいいと分かってはいるのだが、時々蓮龍の容赦ない厳しさが辛い。だが、これくらいの試練など、あの河川敷のダンボールの寒さに比べれば何でもない。周囲の連中の、父に向けた嘲りと暴力に比べればへでもない。どうでも良いけども、聞こえているのに露骨に黙っている蓮龍には、いつか何らかの形でヤキを入れてやらねばならないと淳子は心の隅で決めていた。
蓮龍に続いて、山を歩く。気分転換だから、いつものように此処で零香と闘ったらどうすれば勝てるかとか、何処が狙撃に適当だとか、桐があっちに陣取ったらどう攻めればいいかとか、そういう事は考えない。ただ無心に木々を見て、或いは登って、或いは滑り降りて、或いは観察する。山に生えた無数の木々は、冬の空気の中でも逞しく生き抜き、春には緑の葉をつけ、生き物を潤す。
「ジュンコにも、もうすぐ春が来ます」
「……そうやな。 そう信じて、戦わないとあかんな」
枯れ葉を踏みながら、淳子はうねうねと上下に生えたとげを揺らして進む蓮龍についていく。茶色の山は、見通しよく、迷う心配はない。こんな所で他の神子に攻撃されたらひとたまりもないなと思って、頭を振る。既に通常時から、思考回路がバトルモードに半分セットされているから、普通にこんな事を考えてしまう。確かにそれは力を付けるには最適なのだが、気を抜くときにはスイッチを切らないと行けない。でもそれが、今では難しくなりつつある。
枯れ葉が一つ、枝先で揺れている。蓮龍が歩みを止めた。
「どうしましたか? ジュンコ」
「ん? ああ、ちょっと見てみい」
「ただの枯葉、ですね」
「ああ。 でも……」
風が吹いた。
葉が千切れて、落ちた。
ひらひらと舞って、淳子の前を落ちた。まるで風に乗ってスキーをしているように、滑らかに。艶やかでさえあった。その瞬間、淳子の中を、熱い何かが走り抜けた。
心臓が跳ね、高揚に脳が踊る。
思わず淳子は、舌なめずりしていた。印を切って呪文を唱え、青龍の大弓を出現させる。辺りに人がいないのは確認済み。矢を取ると、弓につがえる。構えは完璧。狙う先は、百年杉の幹。三百メートル先にある、小さな的。距離はあるが、遮蔽物もなく、風も素直だ。当てる事は容易だが、現在の目的はそれではない。ひらめいたのだ。
「天啓を得ましたか?」
「おお。 これなら、今までの欠点、全部解消出来る! 使い方は難しいけど、うちにとって新しい力になるはずや!」
きりきりと鳴きながら大弓の弦が力を充填していく。淳子が術の性質を言うと、頷いた蓮龍が呪文を構築してくれた。調整には時間が掛かるだろうが、次の戦いには間に合うはずだ。早速、第一撃を放つべく、狙いを定める淳子。
ほどなく、音高く、的に光の矢が突き刺さった。
家に戻ると、別の意味での戦いをしなければならない。
安アパートの戸を開けると、腐臭がした。トイレからだ。見れば糞便が流れていないままになっていて、蠅が集まっていた。父は精神に異常をきたしてから、生活習慣にこういった歪みを生じている。淳子は臭いとか汚いとか思う前に、悲しみを覚えながら、トイレのバルブをひねった。
父は四畳半間の奥で座り込み、虚ろな目で下を見てずっとぶつぶつ呟いている。正気に戻るまでには、まだ大分時間が掛かるだろう。派手な音を立てながら、汚物が流れていく。散らばった着替えを拾い集めて籠に入れながら、淳子は状況を整理しつつ、今晩の献立を考えていた。金がかかるコンビニ食などまだまだ出来ないが、それでもたまには贅沢出来るようになっては来た。
幸片をつぎ込んだ結果、状況は改善し始めてはいる。父から金を搾り上げていた闇金の幾つかは既に警察に摘発された。彼らの財産は没収され、父にも非合法に強奪された幾らかが帰ってきた。それで借金をある程度返済し、自己破産状態の返上まで大分距離は縮まってきている。また、蓮龍のアドバイスを受けて勉強した結果、返ってきた金をきちんと管理出来るようになってきた。故に生活は少しずつ楽になってきて、医療費の返済も始められるようになってきた。一時凌ぎではあるが、極貧生活から脱する事も、どうやらできそうだった。ただし、収入源が今はないのだから、結局根本的な解決にはなっていない。
極めて都合のいいタイミングでの摘発だが、それも当然だ。幸片の効果なのだから。当然、闇金業者にとっては(不幸)が降りかかったわけで、幸せというものが相対的な存在なのだと、淳子は改めて思う。まあ、あのような連中、地獄の業火に永遠に焼かれ続けるのが相応しいわけだから、不幸も何もあったものではないとも、同時に思うが。それに、まだ工場は取り返せていない。
淳子が調べた所、産まれ育った工場は、今知らない事業家の手に渡っている。一応稼働はしているようだが、機械類はまた別の所に売られてしまっているようだ。思案のしどころである。機械類を取るか、工場を取るか。どちらが欠けても、あの日の幸せは帰ってこない。良い機械だったしまだ町工場では最前線で働ける型式だったから、スクラップにはされないはずだが、それでも悠長に構えている暇など無い。
問題は父の手と指だ。父がまだ精神的に立ち直れていない理由は其処にあるのではないかと、淳子は睨んでいる。やくざどもに暴行されて潰された商売ものの腕と指。近隣随一などと言うたわけた事は言わないが、それでも相当な腕前だった父の誇りだった、体の部品。まだ直すめどは立っていない。潰された指は複雑骨折していてまともに動かない。折られた腕はどうにか治ったが、まだまだ動きがぎこちない。
人間は精神的な部分だけでは救われない。まず、物理的なものがあって、救われる土台が出来るのだ。キリスト教の開祖が磔にされた理由の一つが、其処にあったと淳子は蓮龍から聞いている。初期キリスト教は、復讐を基礎におくユダヤ教から脱却した、愛による許しを大本に据えた宗教だった。高潔な理想と愛の世界を説くキリストの元へ人々は集まったが、そこで齟齬が生じた。飢えた彼らが求めていたのは物質的な、現実的な救いだったのである。愛よりもパンを。死後の天国よりも現世の快楽を。その求めに、精神の楽園を求めたキリストは応える事が出来なかった。だから殺されたのである。
彼らを浅ましいと言えるだろうか、いや言えない。少なくとも淳子は言わない。父が愛だけで救われるというのか。救われなどしなかった。愛が意味を為さないとは言わない。だが、物質的な困窮を無視して愛だけを持ち上げるのは間違いだとも思う。
なぜなら。父の状況を少しでも改善したのは、暴力と殺戮によって得られた幸片だけだったのだから。
幸片にはまだ幾らかのあまりがある。とんとんと包丁でリズミカルに野菜を刻みながら、淳子は今後のプランを練る。神子相争のスパンが縮まってから、大分やりやすくなってきた。一度は本当に小さな幸片を引いてしまってがっかりした事もあったが、勝率そのものは決して他の神子に劣らないのだ。もう少したまったら、再び父に使おうと決めて、淳子はガスの栓をひねった。青白い炎が灯る。ガスが使えるありがたみを知ったのは去年からだが、それ以来大事に大事に使う癖がついている。
おみそ汁と焼き魚が出来たのは、もうすっかり日が暮れた頃であった。父はまだ正気を取り戻さない。正気を取り戻すのはいつもほんの僅かな時間だけだし、淳子の居る所で正気に戻った事は一度もない。父の前に夕食を並べて、ご飯を盛る。麦を混ぜた、少し白米よりは味が劣るご飯だが、充分に有り難い。
「いただきます」
声色は一つだけ。粛々と続くご飯の時間。量が少ないから、すぐ無くなる。
「ごちそうさま」
終わりの声色もまた、一つだけであった。
翌日は早めに修練を切り上げた。基礎を一通りやった後は、新しく開発した矢の調整を行い、それが一通り済んだ所で止めたのだ。なかなか良い感触だ。一種のブービートラップとしても、必殺の攻撃の補助にも使える。消耗も通常の矢の倍程度に抑える事が出来た。充分に実戦で活用出来る。そしてなにより、切り上げを早めたのは、神子相争に備えての事だ。
出来た時間は有効に使うべく、昔の家に向かう。東大阪の雑多な町並みの中、少し背が高い企業ビルに登り、非常階段から誰も見ていないのを確認して屋上へ。この位はたやすいものだ。少し風が強いビルの屋上で、金網の向こうから、裸眼で工場の方を確認する。まだある。安堵の声が漏れる。金網を掴んで、もう少し細かく状況を確認しようとするが、冷静に視線を運んでいた淳子の動きが固まった。
一目で分かる、悪趣味な外車。工場の間を走り回り、排気ガスをばらまき、我が物顔に行く大きな姿。普段は穏やかで理知的な淳子の目に、烈火が宿った。彼奴らは、淳子の父をだまくらかして、財産をむしり取っていった闇金の一つに所属する連中だ。父を破滅させ、血肉を貪り食った事など何とも思っていないだろう、クズ共。歯を噛み、手元に青龍の大弓を出現させる。
「蓮龍、ちょっとええか?」
「勿論」
「どのくらいまでなら、仕返ししてもええ?」
「そうですね。 別にあのような連中など殺してしまっても構いませんが、厄介な事になりますよ。 連中の目は節穴じゃない。 世界の何処にでもいるあの手の犯罪組織は、弱い者虐めをして血肉を啜るプロフェッショナルです。 淳子はもう充分にあのレベルの相手からなら自力で自分を守る事が出来ますが、父君に迷惑が掛かる可能性があります」
話を聞きながら、術を唱え、矢を一本作る。
「要はばれなきゃええんやろ?」
「今の淳子には、完全にばれずに相手を仕留め、報復を防ぐのは無理でしょう。 あの手の連中は極小の確率で術者を用心棒にしている事もあるらしいですし、なめてかかってはなりませんよ」
「……くやしいわ、力がないって事は」
「大丈夫。 淳子なら、いずれ思うまま報復が出来るほどに、力を付ける事が出来ます」
大弓を納め、矢も消す。唇を噛みながら、淳子は憎々しげに言った。その目には妄執を通り越し、修羅となった光が宿っていた。
「いずれ後ろにいる暴力団ごと皆殺しにしてやるわ。 後一年か二年、首あろうてせいぜい楽しんどき」
淳子の耳には、弱者から奪い取った金で、思うままに現世を楽しむ連中の、車の中であげる笑い声が確かに届いていた。弱者からの搾取。それが相対的なものだという事は分かっている。だが、物事には反作用というものが必ずある。暴力を振るえば、いずれ何かの形で報いが帰ってくる。それを淳子が実行するだけの事だ。
逮捕された連中だって、どうせ数年で出てくるはず。そいつらだって、生かしておくつもりはない。淳子の能力は暗殺にこれ以上もないほど適している。今だって、その気になれば大阪界隈のヤクザも闇金業者も、百人単位でこの世から消せるだろう。流石に其処までしたら、父の側にはいられなくなるだろうが。
「ジュンコ」
「うん? なんや?」
「復讐は際限なく拡大します。 あの手の害虫を退治する事に異論は一切ありませんし、ジュンコなら数年来に実行出来るでしょう。 が、その後どうするつもりですか?」
「そうやな。 父ちゃんを裏切った連中には、それなりに落とし前付けてもらわんとな」
かって、誰よりも心優しかった少女の目に宿る地獄の炎。それはとても冷たいのに、深々と雪が降るような音と共に燃えさかる。
「ふむ。 今はそれでよろしいでしょう」
「……そう、やな」
「帰りましょう。 父君が起きていたら、きっと心配しますから」
どうしてか、その言葉を聞くと、淳子の心が少し痛んだ。
報いはくれてやらねばならない。その決意に関しては、今後も揺らぐ事あり得ない。蓮龍の優しい口調で突きつけられた厳しい言葉も、重々理解出来る。
「若いうちは悩むのが一番です。 悩まず自己信念を押し通しすぎると、絶対に思考が硬直化します。 折れない心、等というのも場合によりけりですよ」
「ありがとうな、蓮龍」
「さあ、冷えますよ」
背中を押される形で、淳子は帰路に就いた。
帰路の過程、誰にも気配を悟らせずに影のように行く。これも修練の一つだ。というよりも、これでもまだ足りないほどである。淳子の求める最終形態は、「見えているのに見えていない」状況である。達人になると、相手に光学的な情報を与えながらも、存在を知覚させないのだと蓮龍は言った。人間はぼんやりしていると車が迫ったりしても反応して逃げなかったりする事があるが、それに近い状態を意図的に発生させるわけだ。淳子は気配こそ薄くとも、他人が反応しているのを良く感じ取っている。だから、まだまだ未熟だと自制している。
自宅から明かりが漏れていた。また来たか、あのお節介がと、心中で毒づく淳子。
淳子の父啓太は自己破産した身であり、なおかつ病院で時々検査を受けている人間である。力つきてからは正気に戻る時間はほとんど無く、交流などもてる暇も余裕もなかった。だから淳子が一人で世話をしてきたのだが、最近家に異物が混じり込んだのである。毎日現れるわけではないのだが、どうも淳子は気に入らなかった。
ドアを開けると、少し濃いめの味噌の匂いがした。みそ汁の匂いだが、淳子が作る物とは臭いも味も違う。此処で争いごとは起こしたくないから、出来るだけ他人を騙せるように苦心して笑顔を作る。
「こんにちわ、淳子ちゃん。 あがらせてもらっとるよ」
「こんちわ、遥香おばさん」
「すぐ夕食にするからね。 その辺でまっとってや」
清白遥香(さしろはるか)。母の友人だったとか言うおばさんである。三十代前半だが、まだ未婚だ。決して綺麗な人ではないのだが、周囲に威圧感や圧迫感を与える事はないタイプの容姿だ。大阪のおばちゃんと言うには穏やかすぎる人で、何処か線が細い。だが決して痩せているわけではなく、かといって太ってもいない。エプロンをして台所に向かっている後ろ姿は妙に決まっている。
笑顔は向けているが、それは家で争いごとを起こして父に余計な負担を掛けないため。淳子はこの人が嫌いだ。確かに遥香が来てから仕事は減った。だがこの人は、父が本当に困っているときに何もしてくれなかった人なのだ。すぐ側に住んでいたというのに、である。やくざ共に父が袋だたきにされているときにも、通報一つしてくれなかった。
あの時警察に知らせてくれさえすれば、少しは事態も変わったかも知れないのだ。そう考えると、恨むなと言われても無理だと応えざるを得ない。
更に腹立たしいのが、包丁捌きも掃除の手際も、ずっと淳子を凌いでいると言う事だ。余計な事を蓮龍が耳元で囁くので、苛立ちは更に募る。
「家事の実力はジュンコよりも上ですね」
「……そりゃあ、年の功や」
「ふふ。 美味しい料理を食べられるのだから、素直に喜ぶべきですよ」
「喜べるかい。 あほ」
唇を噛んで、蓮龍に吐き捨てる。勿論向こうには聞こえないように、だが。
何も知らない遥香おばさんは、鼻歌すら交えながら、野菜を刻んでいる。野菜は実家より持ち込んでいるとかで、これも家計レベルでは随分助かっている。
そして、自分自身、このヒトの料理が嫌いではない事も、苛立ちを募らせる要因の一つだった。
何処かで思っている。このヒトを恨むのは筋違いなのだと。この人に責任があるのは当然の事だが、しかし淳子は怒りを適当な人物に押しつけているのではないのだろうかとも、時々自問自答する。
この人が現れたとき、とても申し訳なさそうな顔をしているのを、淳子は見た。変わり果てた父啓太を見て、泣いているのも見た。罪悪感を感じているのは分かる。それが困っているときに何も出来なかった事に起因する事もである。
でも、今はまだ、淳子はこの人が嫌いだった。幸片を使った結果、この人がここに来る事が出来た可能性は極めて高い。父の復活に関与する可能性も高い。だが、どうしても淳子は、素直に現実を受け入れる事が出来なかった。
既に超一流のスナイプ技術を身につけている淳子も、少女らしい多感な部分を確かに持っていたのである。
1LDKの、風呂も無い狭い家の中に、美味しそうな匂いが充満する。とても美味しそうだと思うのに、面白くない。淳子の迷いはまだ晴れない。
3,一点集中、一点爆発
暁寺での修練は、今日も厳しかった。狼次郎は零香の身体能力に併せて重りを持たせたりするので、ただのランニングが相当な体力を消耗する荒事となる。師のアドバイスや先輩のフォローを受けながら一通り修練のメニューをこなした後、思い思いに組み手を始める皆を横目に、零香は以前師が砕いた大岩の前に来ていた。
周囲の音を部分的に遮断して、余計な要素を全て排除、集中して解析に掛かる。激しい実戦をこなし続けた零香にはたやすい事だ。木っ端微塵にされた大岩は、まだそのままだ。一つ破片を拾ってみる。尖っている、そのまま握り込めば充分凶器に出来る代物だ。
父さんはこれが出来るのに破れた。それを思うと、戦慄が隠せない。神衣を付けてフルパワーでぶん殴れば零香にも壊せるが、林蔵も狼次郎も人間の力でこれを行うのだ。それはどういう事かというと、スキルに絶対的な差がある事を意味する。更にそれが意味する先は、父を破った奴には、神衣を付けた状態でも勝てない可能性があると言う事だ。
草虎には頼らない。これは自分で解析しないと意味がないからだ。側を浮いている草虎に一瞬だけちらりと視線を送るが、ただそれだけ。これは一体どうやったのだ。二ヶ月以上の時間を掛けて、零香はまだ解析し切れていない。
実のところ、大まかなトリックは分かっている。物質の構造的弱点をついたのだ。どんな物体にも構造的に脆い箇所はあり、それを叩かれると脆い。しかしそれを見切るのは相当な達人でないと無理だし、ついた所でこうはいかない。この木っ端微塵ぶりは尋常ではない。仮にクローの術を使うとして、一撃を完璧に急所に叩き込むとする。そうしたら、大岩は必ず壊れる。それはいい。それはいいのだが、多分割れるか崩れるかで、こんな風にはならない。
何か、もう一ひねりがあるはずなのだ。
色々仮説を立ててみるが、どうも上手くいかない。零香に関しては、自力で技を編み出すようにと皆に話が回っているから、誰かに聞くわけにも行かない。中学生組の上位の連中は知っているはずだが、それは自力で覚えたのではなく、狼次郎せんせいや先輩に教わったのだろうと零香は踏んでいる。
不意に後ろから声はした。零香の警戒半径外からの呼びかけである。
「零香。 組み手をせい」
「オス! 今日は誰とですか?」
「うむ、純助とやってみるといい。 そろそろ互いの手の内も分かってきただろうし、良い修練になる」
純助は零香から見てもかなり才能がある。最初は零香が振り回したが、最近はスピードについてくるようになったし、殺気に飲まれる事もない。一本を与えた事はまだ無いが、パワーを抑えた状態なら、油断すれば負ける。同じ中学生の一人と激しい組み手をしていた純助は、狼次郎に言われてそれを止め、零香の前に歩いてきた。かなり汗を掻いてはいるが、疲弊している様子はなく、零香としても心中舌なめずりを隠せない。塩味は零香にとってごちそうだ。
「今日もよろしくな。 手加減無用で頼むぜ」
「よろしくお願いします」
「うむ。 それでは双方構え!」
狼次郎の声が凛と響くと、周囲に一気に緊張が走った。高校生組との戦いほどではないが、零香と純助の戦いは相当な勉強になるらしく(零香にはぴんとこないのだが)中学生や小学生は目を皿のようにして見る。あまりにも皆が視線をよこすので、狼次郎が物凄い怖い顔で一喝する事もしばしばだ。
相変わらず腰を落として低い態勢で構える零香に対し、純助は高さを生かして上から迎撃する姿勢を取る。下段から攻めるのは体格的に劣る零香の必須事項だし、それを上から押さえ込むのはリーチに勝る純助としては当然の手。零香としても、低い態勢の方が溜め込んだ力を爆発させやすく、戦いやすい。
そこで、ふと狼次郎から横やりが入った。
「双方待て」
「? 狼次郎師、なんでしょうか」
「零香、今日は高い態勢で戦ってみよ。 逆に純助は腰を落としてみよ」
「えっ? あ、はい」
少し困惑気味に声を上げた純助が、小首を傾げつつ、腰をぐっと落として地に擦るような低い態勢に移行した。純助がこういう態勢で戦うのを、零香は見た事がないわけでもない。例えば中畑のような長身の相手と戦う場合は使っている。零香自身も体格が似たような相手とは、高めの態勢で戦う事があるが、リーチに勝る相手にそれをやった事はない。零香も多少困惑しているが、純助からも混乱が伝わってくる。
双方小首を傾げながら構えを取り直す。念のためを考慮した零香は眼鏡を外し、荷物の所へ置いてきて構えなおした。誰もそれを笑う者はいない。
零香はハンディキャップマッチを結構な数経験したが、それが故に今の状況は危ないと分かる。プロになれば成る程素人との戦いに注意を払うと言うが、その気持ちがよく分かるのだ。素人はどんな動きをするか分からず、マニュアルに添って戦うプロは対応しきれない事がある。今回はどちらも明らかに間違った戦い方を強要されるわけで、いつもとは完全に勝手が違い、そのためどうなるのか展開がさっぱり読めないのである。眼鏡を外したのもそのためだ。
「始め!」
狼次郎の声と同時に、零香と純助の間で殺気が爆発した。だがしかし、両者の距離は縮まらない。中心点を軸に、双方時計回りに足を運びながら様子をうかがっている状況が続く。力のある者同士、勝手が違う状況で仕掛けるのに慎重になっているのだ。摺り足で間合いを計っていた零香が、不意にステップに変える。ボクサーのようにリズミカルにステップしながら左右に揺れる零香に対し、純助は虎が臥せるような態勢を保ち続け、激突の瞬間に備えた。
仕掛けたのは、純助の方だった。そのままアマレスのように、低い態勢から突貫、間合いを一気に侵略する。対し零香は引くことなく前に出て、首を掴みに掛かった。そのまま膝蹴りを顔面に叩き込むつもりだったのだが、零香の株を奪うように純助が右にステップ、タックルに転じる。すんでの所で零香も態勢を立て直し、前回り受け身を取るように飛び込んで跳ね起き、振り返りざまに回し蹴りを一発。空気を抉る零香の蹴りに、純助は慌てて下がるが、踵が彼の一の腕を軽く掠っていた。
蹴り上げた足を下げると、零香はゆっくり間合いを取り直す。それに対して純助も少し下がる。今ので分かったが、やはり勝手が違う。それぞれ立場が逆なら、確実に当てていた一撃を外しているのである。
「参ったな、こんなにやりづらいとは思わなかった」
純助がぼやいた。零香もかなりやりづらい。頭に一撃を叩きこみやすくなってはいるが、下段からの攻撃のリーチがかなり広いため、迂闊に近づけない。体格的に劣るため、組まれるとあまり面白くないと言う事情もある。態勢を低くしたいが、師の命令である以上それは出来ない。再び軽快なステップを踏み始める零香。じりじりと間合いを計る純助。二人の間で、再び殺気が炸裂した。
今度は零香から間合いを詰めた。相手の態勢が低い以上、狙うは体ではなく頭だ。ゆらりゆらりと曲線で間合いを詰めながら、不意に右足を上げる零香。軸足となっている左足首へ蹴りを見舞おうとする純助。軸足の外側から打ち込まれる蹴りに対抗する術はないはずと、瞬間的に判断しての行動だ。周囲からどよめきが上がった。零香はそれを全く避けずに、躊躇いがちに放たれた蹴りを軸足足首に貰いながら、渾身の力を込めたハイキックを純助の側頭部に叩き込んでいたのである。
訓練で此処まで激烈な反応が来ると予想していなかった純助は、もろに蹴りを貰って蹌踉めく。脳をシェイクされたのだから当然だ。零香はそのまま純助の頭を掴むと、腕力と脚力をフルに使って顔面に飛び膝蹴りを叩き込んだ。こうなると一方的な戦いになる。組み手であるという事で、わずかながらに油断していた純助。こうも一方的な戦いになるとは予想してなかった事が、彼の敗因であった。抵抗能力を無くした純助に、更に肘をうち下ろそうとした零香に、狼次郎の制止が飛んだ。
「それまで」
周囲はしんとしている。道着には鼻血が飛んでいて、零香は蹴りをもろに貰った左足を引きずりながら距離を取る。純助は零香が手を離すと同時に、地面に前のめりに倒れ込んだ。そして起きあがれず、駆け寄った高校生に運ばれていった。一応傷や障害が残らないように加減はしたが、今日は立ち上がれないかも知れない。
小学生達は引いているようだが、悪い事をしたとは思わない。組み手で怪我をするのは日常茶飯事だ。今だって左足に痛みが残っているし、以前の組み手で痛烈な一発を貰った事は珍しくない。正座すると、足がしくしく痛んだ。今夜は痛みが残らないように、入念なマッサージが必要だ。皆を輪にして座らせると、狼次郎は見回しつつ言う。
「今の純助の敗因、誰か分かる者は?」
「……」
蒼白になっている小学生達は応えない。中学生の何人かは分かっているようだが、後進に答えを譲ろうとしているらしくて、遠慮している。高校生達は純助を連れて行った者達を除いて、皆目を閉じたまま、後進の返答を待っているらしい。
やがて、ぽつぽつと手が上がる。零香より後に入ってきた子が、おずおずと言った。
「上段蹴りがもろに入った事では無いでしょうか……」
「うむ。 そうだな」
「あ、ありがとうございます」
「それは確かに正しいが、もう少し裏を読むようにな。 他には?」
単に否定するよりもずっと上手いやり方だと零香は思った。これならあの子の顔も立つし、他の子も発言しやすい。次に指名されたのは山崎だった。
「純助先輩が油断したからだと思います」
「うむ。 それはどのように?」
「え、ええと。 零香が組み手であそこまでやるとは思っていなかったからだと……」
「大体当たりだ。 だが、一つ誤解しているようだからはっきり言っておく」
狼次郎は立ち上がると、その名の通りの鋭い眼光で皆を見回しながら言った。
「戦いにおいて、固定観念は危険だ。 今回儂が零香と純助をあんな妙な形で戦わせたのも、それを皆に示すためじゃ。 純助は零香があそこまで思い切った攻勢に出てくるとは予想していなかったが、それは組み手だからと高をくくっていた事が悪い。 何々だから何々だという論理的思考は大いに結構だが、それの外にある物事だって決して少なくはない。 特に実戦では、それが露骨に表に出る。 気をつけるようにな」
「オス!」
「良い返事だ。 それでは皆、組み手に戻れ。 零香は一休みしてから、何人かと組み手をするようにな」
それだけ言うと、狼次郎は純助の様子を見に、寺の離れへと歩いていった。零香は正座を崩すと足のマッサージを始める。マッサージを行うのに、早いに越した事はない。入念に筋肉をほぐしていると、幸康が上から声を掛けてきた。
「いやー、さっきのは容赦なかったな、零香ちゃん」
「隙ができましたから」
「違いねえ。 どうだ、今度は俺とやってみない?」
「遠慮しておきます」
事実、今日はもう軽く仕上げたい所だ。先日のイライラが収まっていないから集中力も落ちているし、神子相争に備えて体力も温存したい。精神力が有限である事を零香は良く知っている。此処で幸康のような強敵と戦えば、かなり本気で行かねばならず、本番の戦いの時には体がまともに動かなくなりかねない。幸康もそれを察しているらしく、屈託無く笑った。
「アハハハハ、つれないな。 ところで……」
「何でしょうか」
「師匠の砕いた岩見てたけど、掴めそう?」
「まだまだです」
別に零香は幸康が嫌いではないのだが、どこか潔癖な所のある零香は、今のうちに唾つけとこうと露骨に企んでいる幸康とは無意識的に距離を置きたがっている。そのために少し答えが素っ気なくなってしまう。幸康は零香のそんな反応に気付いてか気付かないでか、へらへらという。
「ヒントはだすなって師匠に言われてるから、あまり多くは言えないんだけどさ。 やっぱり順番をきちんと経て、丁寧に見切っていくしかないと思うぜ」
「焦っても仕方がない、という事ですか?」
「ま、そんな所だ。 じゃ、俺は戻るから、足丁寧にほぐしときなよ」
心遣いに礼を言うと、零香は小さく嘆息した。まだまだやっぱりガキだ。下心付きだとわかっているのに、優しくされれば悪い気はしないのだから。
トイレに行って、用を足した後岩塩のスティックを囓る。やはりあの技、何段階も踏んで漸く完成するものなのだと、さっきの幸康の言葉で分かった。構造弱点をつく。それは多分第二段階なのだ。最初は構造弱点を見極める。その次は構造弱点をつく。これに関しては、多分他の神子にも使える子が居るはず。由紀辺りなどは修練に取り入れていてもおかしくなさそうだ。問題は第三段階。どうにも良い考えが浮かばない。みかねたか、草虎がトイレの外から声を掛けてきた。
「レイカ」
「なーに? トイレに入っている女の子に声かけるなんて、マナー違反だよ」
「それはすまない。 ……案ずるよりも産むが易しという言葉もある。 何も考えず、一度試してみてはどうだ?」
「そう……だね」
以前草虎に話して貰った事があるのだが、セロハンテープが最初に開発されたとき、制作者はどうしても巻かれたテープを剥がす事が理論的に無理だという結論に囚われたのだという。テープの強度からして、くるくる巻いているのを剥がすうちにち切れてしまうのだと判断していたのだそうだ。そして、何年も悩んだ彼は実際にテープを剥がしてみて一発で成功してしまったので驚いたのだという。ぶっつけ本番が常に上手くいくわけではないが、確かにやってみる価値はある。
倫理的思考や、超客観的視点による読み等、さまざまな事を零香は戦いを通じて覚えた。考える事の重要性も知った。事実考える事によって戦いに勝ってきた。だが、考えずに動く事もたまには重要だとも思う。
トイレを出ると、以前から目を付けていた岩の所へ向かう。よく観察して、構造的な弱点は大体見極めている。現在でも神衣を付ければ魔力の流れはよく見えるし観察力も増すから、数分も見れば問題なく分析は終了出来る。今はさまざまな物体の構造的弱点を見つける事を修練しているから、将来的にはもっと速く出来るようになる。
少し足は痛いが、関係ない。腰だめして構えを取る。後ろから何人かの視線を感じるが、放っておく。気合いを集中し、精神を絞り込み、そして掌底を繰り出した。
「はあっ!」
全体重を乗せた一撃が、岩を揺らす。おお、というため息が群衆から漏れた。岩の大きさは人間大、重量は千五百キロはあろう。三十キロ超の零香が全体重を込めた一撃を加えたくらいでは、本来びくともしない。だが零香はこの岩の中枢を確かに掌底で突いた。岩は揺れた。蜘蛛の巣状に罅が入った。
少し離れて再び様子をうかがう。手応えはあった。大体はあっているのだが、何処かがまだ違う。そう、普通に突きをくれてやれば、ある程度は合うのである。セロテープではないが、天啓に近いものが零香の体を駆けめぐった。もう一度師の突きを思い出す。
捻りを加えると良く言うが、これは文字通りの言葉である。コークスクリューパンチという技がボクシングにある。これはパンチに螺旋状の捻りを加える事で、通常以上の破壊力を拳に持たせる業だ。コレに限らず、達人は突きを単なる直線の攻撃にはしておらず、大なり小なり文字通りの捻りを加えている。ところが、である。零香の記憶にある狼次郎のあの技は、放つとき、到達したときも、特に捻りを加えた形跡がなかった。零香は今、掌底を叩き込むとき捻りを加えた。其処が違う可能性がある。
もう一度構えを取る。単に直線的な一撃を浴びせるのであれば、それは論外だ。何処かで何かの工夫が凝らされているはずだ。今の一撃で分かったが、螺旋は問題ない。ずっと試行錯誤した此処はクリア出来た。問題はどこで螺旋を加えるかだ。可能性的に、あるとしたら一つしかない。
インパクトの瞬間である。それしかあり得ない。完全な直線で一点に集中させたエネルギーを、ぶつけた瞬間螺旋を加える事で爆裂させる。それによって、人の拳によって岩をも砕くのだ。
理論は理解出来た。問題は、理解と実行出来るというのは全然別物だと言う事。特に零香は、攻撃の途中で螺旋を作る事には習熟しているが、攻撃の瞬間螺旋を加えるなどと言う事には全く慣れていない。多分、狼次郎並みの破壊力を出せるようには、後何年も掛かるだろう。神衣を使わなければ。
もう一度踏み込み、拳を繰り込む。直線から螺旋へ、収束から爆裂へ。砕けた岩に、更に大きな罅が入る。だが、完成にはほど遠かった。
「後、少しだな」
「アドバイス、有り難うございます」
「なあに、後で何か驕ってくれな」
幸康が彼らしい事を言って、ひらひらと手を振りながら仲間の中に戻っていった。零香は新しい術が思いついた事、今度の戦いに間に合わせるには今日徹夜する必要が恐らくある事に気付いて、感慨と憂鬱を同時に味わっていた。
4,宿命の激突
神子相争は未明に始まった。まだ陽が上がっていないどころか、虫も鳴いていないような時間帯である。丑三つ時を少し過ぎたくらいで、何しろ寒い。自室で寝ている所をたたき起こされる形になった零香は、枕元に置いてあった岩塩のスティックを囓りながら、据わった目で草虎を見た。機嫌は当然の事ながら、激烈に悪い。
「こんな時間になんて……酷いよ」
「そう言うな。 本来何時起こってもおかしくないのが神子相争だし、今のレイカならどうにでもなるだろう? それに我々も時間を決める権利はないんだ」
「確かにどうにでもなるけど、はあ。 お肌荒れちゃうよ、もう」
大あくびしながら、少し大きな塊にスティックを喰い折る。ばりばりむしゃむしゃと塩っ辛い岩塩を貪り食いながら、洗面所へ。顔を洗って髪の毛を整え、戦闘準備。顔を洗うと大分さっぱりして、戦闘参加への意欲が整った。塩は素晴らしい精神安定剤だ。
「今日は出るのだな?」
「うん。 あんなものを見た以上、幸片は幾らでも欲しい。 多分わたしが幾ら暴れたって、あんな背景がある以上、都合良く幸運が訪れなければどうにもならないからね」
零香の幸せは、父母と共にある。分家の連中を皆殺しにするという手もあるが、そうなったら流石にもう表を歩けなくなる。証拠を残さずそれを為す自信は、今の零香にはない。頼る先は、幸片しかないのだ。
「あの術、使えるといいんだけどね」
「……分かっているだろうが、一夜漬けは一夜漬けだ。 過信は禁物だぞ」
零香の意識が飛ぶ。次に戻ったときには、もう枯湖に零香は居た。
意識が戻ると同時に、すぐに零香は飛び退く。敵手の判別まで二秒、すぐに遮蔽物の影に飛び込み、感覚拡大キューブを発動。
敵は淳子一人。実は、初めての状況である。淳子と戦うときはいつもいつも混戦乱戦ばかりだったから、一対一の状況は却って新鮮である。
戦場を見回す。今零香が隠れている瓦礫からキューブだけを出して辺りを確認。此処数回連続している戦場であり、初期のものに似ている。廃ビルが無数に立ち並んだスラム街のような戦場だが、一つ違うのは、地面の性質だ。ずっと雨が降っているため、良い感じでぬかるんでいるのだ。
水はけ自体は良く、洪水になる恐れは無さそうだが、持久戦を此処でするのは辛い。足跡も露骨に残るから隠れにくいし、雨音も敵の存在を隠す。ビルの中もこの有様では、何時崩れるか分からない恐怖も相まって、長居は出来ぬであろう。
さて、どう攻めるか。零香は岩塩のスティックを口に運ぼうとして、無いので舌打ちした。何というか、神子相争に関わらぬまま大人になったら、ヘビースモーカーになっていたのかも知れないと、零香は思った。
それにしても、前々から疑問に思っていた。淳子のスナイプ技術は脅威だが、どうやって気配を消して隠れている零香を見つけだしているのか。気配消去の技術が、淳子の方が上である事は零香も認める。だが、あのスナイプの技術は、もっと遙かに高い精度からもたらされている。何となく居場所が分かる、程度では駄目だ。
殺気を感じた。飛び来た矢が炸裂し、破壊の雨となって降り注ぐ。以前の戦いでも見たスプレッド弾だ。瓦礫から飛び出した零香は、雨降りしきる中、足跡を残しながら廃ビルに駆け込む。キューブは数個潰されたが、殆どが健在だ。ビルに逃げ込むと、出来るだけ音を立てないようにして、すぐに隣のビルへ飛び込む。地面は踏まない。コンクリの床が、軽くこつんと音を立てた。周囲では雨漏りの水滴音が、ずっと連続して鳴り響いている。
第二射が来た。クローの術を作り出し、多分貫通型と思われる矢を真っ正面から迎撃する。腰だめして前を見据え、時速数百キロで飛んでくる矢へと全ての神経を集中。一刀の元、矢を叩き落とした。クローが凹み、かなりの衝撃が右腕に走るが、以前のように指を数本持って行かれるよりはずっとましだ。
「精密な狙撃の正体、分かったよ、淳子ちゃん。 音、だね」
呟くのではなく、語りかける。聞こえているのが分かり切っていたから。
そう、淳子の超精密狙撃を誘導しているものの正体は音だ。淳子は滅茶苦茶に聴力が高いのだと結論出来る。しかも単に耳がいいとかそう言うものではなく、心音や呼吸音すら聞き分け、大きな音は遮断すると言ったレベルの代物であるはずだ。今の攻撃で、それがよく分かった。
白虎の神衣は、足音を消すように出来ているが、心音や呼吸音まではどうにも出来ない。後は如何に相手の居場所を突き止め、心臓にクローをぶち込むかの勝負になる。身を沈めると、零香はさっきの二発で大体特定した、淳子のいると思われる方向へと走り出した。
「流石は零香ちゃん。 たいしたものやて。 大当たりや」
淳子が口から漏れぬように呟く。たった四度の戦いで見破られるとは、淳子も驚きを隠せなかった。起動した光学ステルスを纏い、すぐにビルの窓から身を躍らせ、隣のビルへと移る。今回の環境は身体能力でそれほどの強化を見ない淳子にはかなり厄介だが、それは零香も同じ事。
零香の看破した通りだ。視力が利津の武器なら、スピードが由紀の武器なら、堅牢な知性と耐久力が桐の武器なら、卓絶した格闘戦闘能力が零香の武器なら、淳子のそれは聴力。大きな音を立てれば麻痺させる事が出来るとか、そんないい加減な代物ではない。子供にはあまり聞かせられないような音まで拾ってしまうこの聴力で、神衣を身につけた当初は結構ストレスがたまった。
この能力は便利で、心音の様子で相手の感情がある程度分かるし、その気になれば神衣を付けた状態で半径数キロの人間の居場所を把握出来る。だからこそに、スナイプ出来るのだ。今までもこれをフル活用して、戦いでは大体敵を先制発見し、先手を取る事が出来てきたのだ。
零香は泥水を巻き上げながら、全力で此方に走ってくる。ダメージはほとんど無いが、消耗はこっちもほとんど無いから状況は五分。さっさと離れて、罠の準備に掛かる。今度修得したあの術は、精密な時間を攻撃の際に計る必要がある。ベースになる矢は通常の矢の倍程度(神衣の補給能力を無視して強制的に作った場合)の消耗ですむが、上乗せする術もそれぞれ倍に消耗が水増しされているため、湯水のように投入するわけには行かない。ただでさえ神輪にたまっている力は満タンではないのだ。
さっきまでいたあたりに零香が到着し、感覚拡大キューブを周囲に飛ばして探索に掛かる。あれに感づかれると厄介だ。さっさと淳子はその場を離れ、先に決めて置いた罠の中心へと向かった。
廃ビルの中に潜り込み、キューブを飛ばした零香は舌打ちした。逃げられたからだ。イライラしても仕方がない。相手の能力が分かった以上、下手に隠れていても埒が明かないし、無駄玉も打てない。クローの修復とキューブの補給を済ませると、中の朽ちかけた階段を素早く登ってビルの屋上に出る。途中滝のように雨水が流れている箇所があり、老婆心ながら心配になった。
ビルの上から見ると、また壮観な眺めであった。しとしとと雨が降る中、無数の廃ビルが立ち並んでいる。雨煙の中朽ちかけたビルが乱立する様は、戦いの最中だというのに心を溶かすものがあった。
どうせ先制攻撃を受けるのならと取った行動だが、よく見ると此処はまずい。ビルの影を軌道にして、下から突き上げるようにして矢が飛んでくればまず避けられない。地面近くの方が望ましいが、それだと今度は見通しが利かない。失策に苛立つが、転んでもただでは転ばない。ざっと辺りの地形を把握し、素早く頭に叩き込む。そして再びビルの中へと舞い戻り、別のビルへと飛び移った。そのままビルの中を駆け抜け、さっき目を付けた大きめのビルへと駆け込む。その二階へ移る。用途は分からないが、デパートか何かのような作りになっている大きなビルで、戦場のほぼ中央に位置し、見晴らしがいい。
如何なる手を用いてでも、淳子に肉薄する。それが零香の当面の方針である。肉薄してしまえば勝ちも同然なのだから当然だ。周囲に展開した感覚拡大キューブが、びりびりと漂い来る戦気を感じ取る。淳子の第二次攻撃に備え、零香は感覚を刃と研いで待った。
その時は以外に早く来た。二時方向から、貫通タイプの矢が超高速で飛来、零香は床に臥せるほどに体を低くし、肩を僅かに削られつつもそれを避けた。
途中一回軌道を変えていたが、淳子らしくもない避けられる事を前提としたような一撃であった。どうも罠の匂いがする。案の定続いて二撃目、間髪入れずに天井が吹っ飛び、スプレッド弾が降り注ぐ。横っ飛びに飛び退く零香は、キューブを幾つか潰され、左腕に小さな穴を幾つか開けられつつもどうにか一撃をかわしきる。更に立ち上がりざまに咆吼、真正面から飛んできた爆発式の矢をはね除け、飛び退いて爆発の威力を殺す。殺しはしたが破壊の爆風は大きく、思いっきり吹き飛ばされ、三十メートル近く転がった。
キューブは幾つか減ってきているが、まだまだ体力には余裕がある。ちりちりと痛む皮膚を押さえながら立ち上がる零香は、更にもう一本、今度はスプレッド弾が正面から飛んでくるのを見た。
床近くにあるコンクリ片を畳返しの要領で跳ね上げ、バックステップ。コンクリを貫き半減したスプレッド弾はアスベストの煙を上げながら零香に襲いかかるが、致命傷を与えるような数ではない。訝しみながらクローで残弾を全てはじき返して迎撃した零香は、背中に灼熱が走るのを感じた。
「……っ!」
爆音が鼓膜をシェイクし、脳を激しくビートした。コンクリに体を強打しつつ転がった零香は、唖然として丸焼けになった背中の痛みを感じた。声が出ない。今のタイミング、油断したのは確かだが、しかしおかしい。タイミング的に、淳子が超速射式の攻撃でも編み出したとしか思えない。しかも、二キロ近く瞬間的に移動した上で、である。何が起こった、何をされた。頭の中がぐるぐると周り、思考がまとまらない。血が喉を逆流し、口から零れた。何本か骨が折れたか。ぼろぼろになった全身を叱咤し、どうにか立ち上がった零香は、きっと三時方向を見た。残ったキューブの一つが、飛来する矢を検知したのである。
「おおおおおお、おおおっ!」
零香は吠え、鈍く燃えさかる炎を映えて光るクローを振るい、五本目の矢を迎撃した。同時に零香の喉から息が漏れる。九時方向から飛来した矢が、零香の脇腹を貫いていたのである。突き刺さった矢は零香の脇深く潜り込み、肝臓の手前で止まった。とっさに反応しなければ、串刺しになっている所だった。たまらず、零香は前のめりに倒れた。血管が破れ、コンクリの床に血だまりが広がっていく。
立て続けに四本の矢、計算通りねらい澄ましたそれを放ち終えた淳子は、額の汗を拭っていた。既に放っておいた二本は、最高の陽動を果たしてくれた。
今回の戦いの少し前、彼女が開発した術は上手く稼働している。零香はかなり頭が良いが、淳子の矢が放ったらすぐに飛んでいくと勘違いしてしまったから、今の攻撃を一方的に貰う事になったのである。消耗はかなり大きいが、充分な成果はあった。今後の活用が期待出来る。額の汗を拭い、淳子は空になった矢筒に新しく出現した一本を掴み、照準を定めた。零香は手強いが、今回は淳子に分があった。
淳子が枯葉を見て開発した術は、時間差攻撃矢であった。このタイプの矢は放つと、指定した時間後まで飛んでいかないのである。文字通り空中にそのまま制止し続け、指定時間がくると忘れていたかのように他の矢と同じ速度で飛んでいく。最低指定時間は三十秒で、最長は二十七分。一度指定した時間は後で変える事が出来ず、矢を解除して消す事も出来ない。術の付与は通常の矢と同じく可能だが、その代わり消耗は倍となる。
この矢を上手く使うと、一人時間差攻撃、一人多角攻撃など、さまざまな技が工夫次第で使える事となる。今も零香が反応出来なかったのは、淳子の攻撃速度を把握していたためで、そのため却って同時二方向からの攻撃には反応出来なかったのである。零香は相当な戦闘慣れをしているから、却って淳子の術中にはまりこんだのだ。
だが、油断は出来ない。零香は連射さえ出来ないものの遠距離型の攻撃を既に身につけているし、今も何やらもがいている。さっさととどめを刺さないと危険だ。大弓を引き絞る淳子は、危険信号が鼓膜に宿るのを悟った。
「! まずっ!」
矢を放つのを中止して、慌てて横っ飛びに退く。同時に彼女が構えていた廃ビルの一角が、飛来したコンクリの巨大な破片により、木っ端微塵に吹っ飛んでいた。
零香の左腕に具現化したカタパルトシューターが消えていく。元の刃へと戻っていく。荒く息をつきながら零香は体を起こし、脇腹に突き刺さった矢を引き抜いた。噴きだした鮮血を、筋肉を緊張させる事によって止める。貧血を感じた零香は前のめりに転びかけるが、踏みとどまり、歯を食いしばってコンクリ片を命中させた辺りを見た。やはりこの術、命中精度にまだまだ課題がある。
今までの狙撃のうち、二つがいやに離れた位置から放たれている事に、零香は気付いていた。わざわざ的になるような場所にきて無収穫ではなかったのだ。残りの四つは、巧妙に偽装されてはいたが、同一の曲線上、ごく近くに存在していた。即ち曲線の先端、其処に淳子はいると踏み、零香は逆スナイプをかけたのだ。しかしながら、やはり命中精度は本職に及ばない。ただし、いると目される場所には命中させ、ビルごと崩す事が出来たし、本人の動揺しきった気配も確認した。
新しい術を淳子が開発したのは間違いない。離れた場所から矢を放つ術なのか、同時に複数の矢を放つ術なのかは分からないが、今はやっと訪れたチャンスを最大限に生かすまでだ。
這うようにして低い態勢から跳躍、ビルから飛び出し、地面に張り付く。すぐ後ろで、今まで居たビルの階が吹っ飛ぶ音がした。そのまま零香は走る。走りながら神輪に触れ、残り少ない力をつぎ込んでキューブを復活させながら走る。背中から、脇腹から、命が流れ落ちていく感覚がある。いやというほど明瞭に分かる。雨粒が痛い。降り注ぐそれが、針を刺すかのような痛みをもたらし、傷を抉る。歯を食いしばり、零香は驟雨の中突撃する。
十数個のキューブが出現する。キューブを四方に飛ばし、すぐに次の、開発したばかりの術の準備に入る。恐らく、淳子の細かい位置を特定している暇はない。残り少ない余力を振り絞って走りながら、零香は淳子を捜し、吠えた。
淳子の気配がする。わざとらしすぎる。確実に誘われている。だが、今の零香には、手段を選んでいる余裕はなかった。
零香が近づいてくる。流石に鋭い勘で、確実に淳子の方へ走ってくる。舌なめずりするのは、唇が乾いたから。他の神子もそうだが、誰も楽には勝たせてくれない。ビルを移るが、その度に零香は確実に方向を修正してくる。恐るべき感度だが、それでいい。
桐の質量攻撃無効化の盾を、淳子は見た事がある。存在するだけで抑止力となる便利な術だ。が、淳子も時間差攻撃矢に関しては同等の完成度を誇る代物だという自信がある。正体がばれた所で活用が可能だし、居場所がばれてもある程度の時間を稼ぐ事が出来る。陽動用の術としても優秀だし、今後は更に技を磨いて切り札として育てていきたい所だ。特に利津に対しては切り札になる。
大弓を引き絞る。装填した矢はスプレッド弾。零香は確実に距離を詰めてきてはいるが、スピードは大分衰えているし、これを完全にかわす力はない。狙うは体力をそぎ取り、僅かながらでも足を止める事。
零香が足を止めたら、時間差攻撃矢と併せて二撃目を放つ。破壊力強化の術を三つ上乗せした矢を浴びせてダメージを重ねる。時間差攻撃矢も同じ仕様だから、二つの爆発が重なる事となり、相乗効果で破壊力はかなりのものだ。この時点でほぼ倒せると思うが、念のため最後にもう一本の矢を準備しておく。最後はとどめを刺すわけだから、精密狙撃を目的とした貫通力重視の矢だ。ダメージが少なかったらスプレッド弾を浴びせて、とどめは更に次に持ち越しても良い。
零香が迫る。もう肉眼で目視できるところまで来ている。淳子が眉をひそめたのは、左腕に知らない術を付与している事だ。ドリル……ではない。先端部は丸まっていて、むしろ芯を引っ込めたシャープペンシルのようだ。砲身には螺旋状の溝を掘っているが、どうも用途は掴めない。しかし、この状況で出す術だ。一撃必殺、逆転必中を狙っての事は間違いない。
素早く淳子は思惑を練る。迎撃案は完璧だが、不安がよぎる。あの術が、利津の攻撃術並の破壊力を持っていたら、あまり面白くない事になる。しかし遠距離型の大威力攻撃術は持っていないはず。となると恐らくは近距離型。ならば迎撃案に変更はいらない。
半ば崩れたビルの四階から、淳子は大弓を構えて零香を見下ろす。すぐ側を、ますます激しくなる雨がもたらす雨漏りが流れ去っていく。何の生命もないビルの中、静かに冷え切った空気の中、淳子は引き絞った矢を放った。
来た。零香は飛び来る矢、それに正面に姿を見せた淳子を見て思った。淳子がわざわざ姿を見せたと言う事は、至近からの攻撃で必殺できる自信を持っていると言う事だ。恐らく最初はスプレッド弾だろう。小さなモーションで近くのコンクリ片を走りながら拾い上げると、ハンマー投げの要領で叩き付ける。鮮血が遠心力で振りまかれ、意識が遠のく中、飛んでいったコンクリ片がスプレッド弾に真っ正面から打ち合い、爆裂するのが見えた。
コンクリ片を突破したスプレッド弾の破片が、周囲に降り注ぐ。ガードポーズを取りたい所だが、そんな暇はない。すぐに第二次攻撃が来る事が目に見えていたからだ。容赦なく雀蜂のような飛翔音を立てて襲い来る散弾を避けずに走る。伏せては居たのに、神衣の右耳が吹き飛ばされた。肩に、脇腹にも、数発の弾が炸裂した。もう痛みがない。かなりやばい。
淳子が第二の矢を引き絞る。次は貫通型か威力強化型か。足下がぐらつく。後三十メートル無いのだ、此処で負けるなと自身に叱咤し、零香は左腕の術を発動させつつ、もう感覚がない足を無理矢理進めた。
ビルの構造弱点は見えている。むしろ極めて素直だ。後はぶち込めば高確率で勝てるが、簡単にそうさせてくれるわけがない。淳子が矢を放つ。同時にま左から接近する殺気。さっきとおなじ一人多角攻撃か。それにしても、えぐい角度で撃ってくる。此処で詰めるつもりだろうが、そうはいかない。
ガードするのでもない。避けるのでもない。態勢を低くしたまま、前に出る。血だらけの肩を、矢が削り取っていった。ボン、と口の中で呟く。同時に、後ろからはり倒すような圧力と熱が襲いかかってきた。爆発を重ねる事によって相乗効果を生みだしたのだ。神衣が相当なダメージを受けている背中に、背中の肉に、無数の礫が突き刺さるのが分かる。一瞬飛ぶ意識。殺気が上から迫る。次の矢を構えているのは間違いない。薄れる視界。元気なく揺れる心臓。乱れる呼吸。
まだ気力はある。負けるか、負けるか、負けるか。まだ体は動く。見える。淳子が居るビルの、構造的弱点が。
「はああああああああああああああーっ!」
左拳を叩き込む。叩き込むと同時に、術が発動。超高速で螺旋回転し、ぶつけたエネルギーを物体全体に拡散、貫き通す。狼次郎が使った技は、まだスキルが足りなくて使えないから、それを編み出すために作り出した新しい術、スパイラルクラッシャー。理解した原理を強制的に実行する荒技だ。
凶悪に回転するそれは、零香が拳を叩き込んだ壁だけでは飽きたらず、ビル全体に振動を伝えきった。ビルの向こうの壁が吹っ飛び、支柱に致命的なダメージが行った事が分かった。ビルが崩れ、瓦礫が降ってくる。雨のように。よろめき、背中から倒れる。感覚がないから、泥水の中に傷だらけの背中から突っ込んだというのに、痛くなかった。
至近で滝のような音がする。自動車事故のような音がする。水が派手に跳ねる音がする。淳子が逃げる暇はなかったから、思いっきり巻き込まれたはずだ。右手は僅かに動く。石を掴む。遠のく意識を、必死につなぎ止める。体がどんどん冷えていくのが分かる。もう、無駄な事を考えている余裕はない。
何か動く。最後の力を込めて、それへ掴んだ小石を叩き込んだ。それからの事は薄ぼんやりとしか分からない。どんどん薄れていく意識。ズタズタになっていく神経。泥水に沈んでいき、冷え切っていく体。
最後に、光が見えた。
意識が戻る。枯湖から戻ってくると、零香は全身に冷や汗をかいている事に気付いた。草虎が心配してのぞき込んでいる。パジャマの袖で額を拭いながら、零香は興味本位で聞いてみた。
「わたし、勝った?」
「僅差でな」
「そっか……」
ベットの上で伸びをする。まだ死にかけている気分である。何度死んでも、慣れないものは慣れない。
勝てはしたが、苦しい戦いだった。どうも淳子には宿命的なものを感じる。実力的にも拮抗しているし、戦うたびに何か通じるものを感じるのだ。戦績もそれに拍車を掛けている。前の戦いは負けたが、今回は勝った。ただ、前の戦いは珍しい四つ巴戦であったが。
確認すると、入手したのは普通サイズの幸片だった。零香は目をつぶると、すぐに父へと使った。母に一刻も早く合いたいという気持ちも確かにある。だが、ひょっとして母は記憶を無くして、少しずつ心を整理する必要があるのかも知れない。生意気だと分かっているが、父の手紙で母の断片的な過去を知った以上、そう思わざるを得ない。今は、父さんに壁を越えて貰うだけだと、零香は自分に言い聞かせる。副家がいつ一族会議を行うか分からない以上、父の復帰は早いほうが良いのだ。
淳子はどうしているのだろうかと零香は思った。結局非情になりきれないが、反面際限なく凶暴で冷酷な自分も確かにいる。
幼くして狂気と背中合わせに立つ少女は、ぼんやりと部屋の蛍光灯を見上げているうちに、再び眠りに落ちていた。
5,一時のまどろみ
零香が目を覚ますと、きちんと毛布と布団が掛けられていた。草虎がやってくれたのは間違いない。恋愛感情とは別だが、少し心が熱くなる。草虎には本当に世話になる。
さっさと着替えて朝の修練を始める。外の寒さは全然気にならない。疲れは綺麗に取れていて、岩塩が朝から実に美味しい。
戦闘訓練をしているというのに、平和な時間だった。大地を踏みしめ拳を繰り出し、素早く砂を蹴って竹の間を走り抜ける。朝露に濡れた竹林を走り、辺りを把握しながら素早く此処で交戦する際の戦術を練り上げる。それが済んだら新しい術の実験。威力を抑えて竹林の隅にある岩に叩き込み、使い勝手を確認する。結構大きな音がするが、大丈夫、人家にまでは漏れない。
何だか幸せだ。今の時間だけはこの幸せを感じていたい。子供らしい優しい笑顔が浮かぶ。何もかも忘れて、零香は戦いの舞を続けた。
朝食が始まり、着替えた頃には、もうそれも忘れ、戦闘モードに入っていた零香。だが、朝の幸せは、力を確かに与えてくれた。ご飯を素早く掻き込み、外へ出る。スポーツシューズを新しくしようと考えながら門を潜り、抜けがけに言う。
「行ってきます」
今は聞こえていない父と、今は此処にいない母に向けて。
どんな辛い戦いが待っていようと、負けるわけには行かない。小走りで零香は決意を確認するように、学校へと向かった。
淳子が目を覚ましたのは朝だった。昨晩の神子相争で負けて、気絶同然に眠ってしまった事に気付いて、慌てて腹を出したまま寝てしまっていないか確認する。だが、パジャマが乱れるどころか、きちんと布団が掛かっており、思わず安堵の声が漏れていた。
安堵が漏れると、悔しさも募る。最後の攻撃に耐えきったと思った瞬間、零香が投げたコンクリ片が胸の中央に突き刺さっていた。気付いたときには、もう戻ってきていた。布団を掴んで唇を噛む。次は負けない。負けてたまるものか。
それにしても、この優しい心遣いは誰の手によるものなのか。一瞬父かと思ったが、違った。ナイトな口調の朴念仁が行為の正体だった。布団についている、棘で押したり引いたりしたような妙ちくりんなくぼみが全てを物語っていた。四苦八苦してパジャマのボタンも留めてくれたのだろう。ケガしていないのが幸いである。
洗面所に行って着替え、すぐに外に出る。外では蓮龍が既に待っており、上下共に棘だらけの体を縦に蛇行させながら言った。
「おはようございます、ジュンコ」
「おはよう、蓮龍。 今日は……ありがとな」
「何の事でしょうか。 私は知りません」
「全く、難儀なやっちゃな。 でもうちは嫌いじゃないで、そういうの」
節くれ立った体を一つ叩くと、淳子は朝靄漂う山へと走り出した。今朝は負けたが、次は勝つ。
父さんはきっと良くなる。お金をこの調子で取り返していって、体を治して、そして働けるようになればきっと良くなる。幸片を使えば、いずれそれが絶対に出来る。言い聞かせるまでもなく、今日はどうしてか楽観的にそれを信じる事が出来た。
向こうから遥香おばさんが歩いてくる。朝の手伝いに来てくれたのだろう。今日は何故か素直に、淳子は手を振って彼女を迎える事が出来た。傍らを通り過ぎ、山へと走る。無言で蓮龍はついてくる。
気紛れや、気紛れにきまっとる。山を登りながら、淳子はそう呟く。やっぱり今日も、淳子は素直にはなりきれなかった。
(続)
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