それぞれの転変

 

序,よどんだ家

 

銀月家。周辺一帯に膨大な土地を所有し、東京にも多くの土地に始まる財産を確保している、いわゆる地元の名士である。多くの分家を持ち、その中で一番力があるのが(副家)と呼ばれる一族だ。膨大な土地と債権が産み出す利潤は、働かずとも生活を可能にする程であり、事実現在の当主である銀月林蔵は働いていない。当主としての仕事や展開している各種事業はナンバーツーである副家に任されていて、今は弁護士が目を通した後、林蔵が採決だけしている状況だ。半分心神喪失状態にある林蔵も、この仕事だけはきちんとするので、今のところ致命的な事態にはなっていない。

膨大な力を確保している銀月家であるが、金のある所に集まる人間は魑魅魍魎以上に質が悪い事も多く、此処もその例に漏れない。血塗られた歴史を持つ銀月家の裏では、さまざまな闇が音もなく蠢いており、膨大な数の人間を飲み込み、静かな繁栄の礎にしてきたのである。巨大な闇は貪欲に生贄を必要とし、思想は沈殿して歪んでいった。多数派の考える事は常識となり、異を唱える事はタブーとされる。どんな社会でも普通に行われる事で、人間が客観性など必要としていない良い証拠である。人間は心地よい主観だけを求める。そしてそれに基づき、他者の思想や生命を否定する事に最高の快楽を感じるのである。

生贄の存在は、何も過去の負の遺産ではない。現在にも残る悪しき風習である。犠牲者になった一人が、銀月零香の母、銀月英恵であった。そして、銀月家の中では、座敷牢から出されたばかりか、結婚して子供まで設けた彼女を決して快く思わない者が複数存在していた。

その一つが今、満を持して動き出そうとしていたのである。

 

銀月家では、無数の土地建物を保有している。その内の三割ほどは本家の手の中にあるが、残りは分家が分割保有していて、本家の目が届かない場所も少なくはない。中でも、最近は半独立状態にある副家、及びその息が掛かった幾つかの家の所有財産には不明確な点が多く、所有者がはっきりしないものも少なくない。そういった間隙をねって動く者はどの時代にも存在する。此処も、本家当主である林蔵が半心神喪失状態になる前から、既に彼の所有物同然になっていた。

彼は暗い情熱の持ち主であった。その情熱を映すように、電気もテレビも、ともかく光を発するものは根本的に好まず、全て自室から排除する事が多かった。今彼がいる場所は、月明かりに照らされる竹林の中にある小さな邸宅。洋館風の作りになっていて、部屋数は七、三階建て。使用人が二人、二日に一度訪れて掃除や家事を行っている。殆ど彼が自活しているので、彼女らの仕事はほぼなく、形だけ掃除して挨拶して帰るのが日常だ。

月明かりだけ差し込む執務室で、彼は机を前にしていた。薄暗い部屋の中でも、彼は良く目が利く。当然の話である。薄暗い部屋で産まれ、そこでずっと生活してきたのだから。机の上に散らばった書類に何度か目を通し、考え込みながら同時に万年筆を動かし、さらさらと文字を連ねていく。既に宛名が書かれた封筒を取りだし、切手を貼って、部屋の外のポストに入れておく。ここのポストに入れた手紙を外で投函するのも使用人の仕事であり、よほど忙しい時を除いて彼は自身で外には出ない。

鬼子。それが彼の呼び名であり、本名は十七になるまで知らなかった。同じ名前を共有していた者が同時期に四人居た事を、彼は知っている。そしてそれを、悪しき事だとは思っていない。

再び書き上げた手紙を封筒に入れる。最近は情勢が目まぐるしく動いていて、調整が面倒くさい。だが、それもまた楽しみの一つ。彼の張った糸の上で踊り狂う人間達を見ていると、不思議と喜びを覚える。銀月家本家は比較的争乱の中静かだが、それは嵐の中心点にいるからに過ぎない。既に副家は動き出しているし、他の家も虎視眈々と状況を狙っている。背中を一押ししてやるだけで、後は前々から望んで止まなかった、血みどろの抗争が再現されるはずだ。

彼の目的は、ただ一つ。銀月家が灰燼と帰す事。それ以外に、彼の幸せは存在しなかったのである。

幸せというものは、基本的に他者の犠牲の上に成り立つ。皆で幸せになる事など絶対に出来ない。食事をして幸せな気分を味わうとき、その材料になった無数の命が消えているのだ。お金をかせいで生活を豊かにした裏では、お金を稼げず寒さに震える人がいるのである。無数の糸が絡み合った現世、幸せを得れば誰かが不幸せになる。一時期、誰かに迷惑を掛けなければ何をしても良い、等という異常な理屈がまかり通ったが、迷惑を掛けずに生きている生物など絶対に存在しない。

コマは着々と動いている。後少しで、彼は此処から動かないまま、銀月家の滅亡を見る事が出来るはずであった。闇の中、静かに影が笑う。張り巡らされた、無数の策謀の中心で。

 

1、ストリーム

 

話をしたいというので、零香は学校帰りに待ち合わせして、黒師院桐を行きつけの喫茶(フォーエヴァー)へ案内した。ベッドタウンと言う事もあり、閑静なわりには良い趣味の喫茶店だ。事実ここに来るのは、感性が磨かれた都会の大人達なのだから。照明の位置はよく考えられているし、椅子の配置も綺麗で、机も清潔である。大きめに取られた窓硝子は、緑豊かな景色を眺めるのに丁度良い。零香に促されて、行儀良くスカートをたたみながら座った桐は、黒くて綺麗な長い髪を持つ、日本人形のように綺麗な子だ。ただ全身を黒っぽい服で統一しているのは、どうなのだろうと零香は思う。上手く着こなしてはいるのだが、肌が白い事もあり、何というか風景の中で墨が浮いているような印象を受ける。対して零香は、銀色が少し入った髪以外は極めて普通の格好だ。長袖のシャツにジーンズにコート。履きやすいスポーツシューズ。色も極大人しい暖色系で統一しているが、こっちが普通で良いんだよねと、桐の格好を見ていると自問自答したくなる。

喫茶店は、此処最近零香にとって、以前よりも遙かに大きな意味を持つ場所となっている。雪村巡査長と話をするのもだいたい此処だし、スピーカーから気が弱いおじさんに格上げした安津畑氏と始めて話をしたのも此処だ。以降、此処を拠点に大人と話す事は非常に多い。今回は子供相手だが、重要度で考えると大人と話す時とあまり変わりない。

アイスティーを頼んだ零香に対して、桐は少し考え込んだ後、ブラックコーヒーを頼んだ。女子小学生としては極めて珍しい注文で、ウェイトレスのお姉さんは少し不思議そうな顔をしていた。ここに来る途中、細かい打ち合わせは既に終えているから、今日は完全な雑談と言う事なのかなと、零香は予想している。

桐の斜め上には、彼女が神子である事を示す証拠が浮遊している。一見ゴキブリのような、平たい体をした黒っぽい神使だ。話によると、あれは八亀と言い、三葉虫という生物に姿を似せた玄武の神使なのだという。趣味は箪笥の隙間にはいる事で、好物は齧歯類なのだとか。また、最年長なのに、人間の女の子が大好きだそうである。向かい合って浮いている草虎は、触手を揺らしながら黙りを決め込んでいる。神子同士が話をする場合、神使が神経を張りつめていないといけないのだ。どうしてか最初は分からなかったが、二三回話しているうちに理解出来た。コートを脱いでランドセルに被せながら、草虎の手間が増えないように言葉を選びながら零香はいう。

「それで、今日は何の用?」

「大丈夫ですよ、そんなに構えなくとも。 例の事や、修行の進捗を話そうとは思っていませんから」

「それは分かっているんだけどね」

構えるのは当然だ。眼前にいるのは、刃を交え、頸動脈をぶったぎった相手なのだ。零香はかなり戦闘慣れしたが、刃を交え、今後も刃を交える相手とのほほんと談笑するほどの度胸は、まだ備えていない。その辺、マイペースの桐が羨ましい。子供離れした上品な笑みを浮かべると、桐は言う。

「零香さんは、誰を救おうとしているのですか?」

「わたし? わたしはね、父さんと母さん」

「そうですか。 私は母だけです。 二人も救おうとしているとなると、大変でしょう」

「そうだね。 状況の把握が難しいし、情報の整理も大変だけど……」

慎重に話題を進めながら、零香は思う。桐は随分と性格がいい娘だ。優しいとか純粋だとかそう言う意味ではない。いわゆる、かなりいい性格だと言う意味だ。

同じ性別の零香にはよく分かる。この微笑みを湛えた少女は、俗に腹黒いと比喩される性格の持ち主だ。笑顔の裏には常に一枚も二枚も裏を隠しているし、頭も悪い意味で切れる。大人になると、特に女性は二枚も三枚も猫の皮をかぶるものだが、桐に関しては小学生でそれに成功していると言える。零香だって普段は猫の皮を何枚かかぶっているが、桐の巧みさと来たら群を抜く。叩けばすぐに埃が出る零香とは違い、実に巧妙に隠し、時には実に巧妙に晒してカードにする。要するに、精神的に(大人)だと言う事だ。

そんな大人の桐が、助けたい女性。桐の母。どんな人なのだろうかと聞くにはまだ早いと思った零香は、少し話題をずらした。

「桐ちゃんは、お金持ちなの?」

「お金持ちと言うよりは、いわゆるブルジョワです。 お金持ちになれたのは先々代からですし。 零香さんこそ、古くからのお金持ちなのではないですか?」

「わたし? わたしの家はね、いわゆる旧家ってやつ。 持ってる資産を貯金とか債権とかに振り分けたりして、その利息で暮らしているの。 だから、本当は自由になるお金はほとんど無いんだよ。 お小遣いだって、弁護士の人に管理して貰ってるんだから。 だから、これから貧乏になる事もないけど、これから生活が楽になる事もきっとないよ」

零香の家と、その分家の幾つかは、川の中の淀みだと、いつか誰かが言っていた。確か父さんだったような気がする。世の流れから隔絶し、ただゆっくりと腐っていくだけの場所。そういえば、母さんは小さいときの話をしたがらない。もし母さんが無事に帰ってきたら、何時か聞ける日が来るかも知れないと、零香は思う。

確か零香の家は、戦国時代頃から続く家だ。上手く立ち回って江戸時代には旗本になり、一方で明治維新の時には政府側として立ち回り、財産を手際よく獲得して後は守りに入ったのだという。最近はそういった意味が分かるようになってきたから、あまり良い印象は持てない。後ろ暗い話など、叩けば幾らでも出てきそうだ。

「大変ですね。 ひょっとして零香さんの問題は、其方関係ですか?」

「ううん、それはあまり関係ない。 父さんが今まで築いてきたものを全部砕かれて、それから何もかもおかしくなったんだ。 桐ちゃんは?」

「私はもろに家関係です。 心を木っ端微塵に砕かれた、という点では、零香さんに似ているかも知れません」

お互い大変だねと、二人は笑いあった。零香は心から笑ったが、桐はまだまだ表情を隠しているように見える。今の時点では、戦いに影響が出るような言葉は会話の中に入ってきておらず、(検閲)も掛かってこない。

神子同士の、神子相争以外での戦いは御法度だ。これは数百年間続いてきた神子相争の大原則であり、もしそれが起ころうとしたら神使が力尽くで止める。会話の場合は、該当する部分の音声を消してしまう。これが検閲と呼ばれる、神使の強制介入だ。

互いに会う事や、互いに話す事は問題がないが、相手を威圧したり、相手の弱点を探り出したりするような行為も勿論御法度。科学技術の進歩に伴って神使のスキルも上がってきており、電話は当然の事、携帯やビデオ、eメールを使った会話でも検閲はかかる。実は既に二三回、悪意無い会話で検閲が掛かり、零香も桐もその存在を知っている。組み手も駄目。だから二人は狼次郎に話して、わざわざ修練に使う日を別々にしてもらっているのだ。

草虎は硬い外骨格で体を覆っているから、表情は存在しない。しかし触覚の動きから、緊張しているのは分かる。どちらかと言えば饒舌だという八亀もずっと無言だから、相当に神経をすり減らしているのはよく分かる。ルールを守るためには、二人がしっかりとしないといけない。そして、会話の検閲を行うのは、神の眷属である彼らでも大変な事なのである。二人には悪いが、折角苦労を共にしている同年代の少女と話す機会なのだ。緊張はしているし警戒もしているが、会話自体はもっと続けたいというのが零香の本音。心の中で草虎に謝りながら、零香は他愛のない日常会話に移り、桐もそれに乗ってきた。話をしていると時間は飛ぶように過ぎていく。ふと気付くと、既に陽は落ちていた。帰る事にして、支度を始めた矢先に、不意に爆弾が飛び出した。

「暫く前でしたか。 大急ぎで帰った事がありましたけれど、あれは何ですか?」

「……良く、覚えてたね」

「それはもう。 戦いの時と、同じ目をしてましたから」

抵触はしないだろうが、上手いやり方だ。油断した隙を衝く狙いもすばらしい。悪気はひょっとすると無いのかも知れないし、零香としても踏ん切りが付いている事だが、全く動揺しないという訳にはいかなかった。

「あれはね、母さんの方。 少し事情があって、ばたばたしていてね」

苦虫を噛みつぶして零香は言った。

桐と直接顔を会わせた翌日の事である。零香は打ち合わせ通り、雪村と喫茶店で話した。その時の事はあまり思い出したくない。覚えて置かねばならないのだが、まだまだ自分の会話レベルでの駆け引きが未熟である事を思い知って、気分が良くないのだ。所詮、幾ら背伸びした所で、まだまだガキだと零香は自嘲している。そしてガキでいるうちは、戦術から甘さも抜けないであろう事もよく分かっている。だから腹も立つ。

「気を落とさずに。 お互い頑張りましょう」

真意が読めない桐の笑顔と、差し出された手。零香としても、それを取らぬ訳にはいかなかった。細い指なのに、随分力が強くて、以前水に叩き落としてやったにもかかわらず力尽くで浮いてきた(プレートメイル型の神衣をつけたまま)のは伊達ではないなと零香は思った。

喫茶の前で別れて、零香は嘆息した。今日は帰ってから修練して、少し早めに寝る予定だ。前々回の神子相争で利津に負け、前回は休んだ。そろそろ日が近い今回は参加し、勝つつもりだから、少し体力的には余裕を作る必要があるのだ。

事態は全く好転していない。だから、まだまだ戦いを辞めるわけには行かない。さっさとスポーツウェアに着替えると、零香は塩のスティックとスポーツドリンクを手に、裏の竹林に急いだのであった。

 

軽く基礎トレーニングをした後、竹林の中を高速で走り回る。最大速度でジグザグに駆けてももう竹にぶつかる事はないほどに地形になれた。後は竹林内で戦闘を行った場合、どんな戦術を採るのが適当なのかを考えていた零香は、ふと草虎を見上げた。気紛れだ。

「草虎、この間の雪村さんの手、覚えてる?」

「警察としては零香を特別扱いしているわけではなく、一参考人と判断している、と言っていたな。 その言葉を鵜呑みにする訳にもいかないが、上手いやり口だったな」

「さっきの桐ちゃんのやり方と、似てると思ってね」

「ふむ……どう似ている?」

草虎は零香が気付いた事を察した上で、自分の口から言うようにし向ける。それを分かった上で、零香も応える。なぜなら、直接口にすると言う事で、随分自分でも理解が深まるからだ。

直感的な理解をしたとき、それを実行するとき。両者の間には、理解の度という大きな溝がある事を、零香は既に知っている。知ったと出来るが全然別である大きな理由は、理屈が分かっているのと、それを体で実行出来る事は違うからだ。そして体で実行出来る状況とは、それくらいに理解を深めている(意識、無意識関係無しに)状況に他ならない。思いついた状態、口に出して纏めた状態、実行出来る状態。その三段階を踏んで、始めて技は生きてくる。理論を知るだけならガキにでも出来る。それを纏めるなら一人前の戦士の誰にでも出来る。零香が求めているのは、それを過不足無く完璧に実行出来る状態だ。

岩塩のスティックをがりがりと囓りながら、零香は考えを纏める。何かにつけて囓るようになったこの白い棒は、一般人にとっての煙草やガムに近い存在だ。

「まず、安心させて、隙を作る。 安心させる過程はさまざまだけど、何かしらの転機か、或いは弱みを見せるか、驚かせる」

数日前、雪村にあったとき。どきどきが抑えられない零香に、雪村はコーヒーを暫く飲みながら話を濁した。あっちこっちに話を振られ、いい加減じれてきた零香は、トイレに行くと言う雪村の言葉に脱力した。ぐったり疲れた零香がジュースを飲み始めると、足を止めて、写真を出したのである。一度脱力していた零香は慌てて写真に飛びつき、それが誰とも分からない人だったので二度がっかりした。そうしてから、雪村はやっと本題に入った。

写真を五枚並べたのである。此処までされて、やっと零香は、自分が参考人として呼ばれている事に気付いたのであった。落ち着きを取り戻した零香は、頭に包帯を巻いた母の写真を、間違えずに選び出した。恐らく、いきなり五枚の写真を呈示されていたら、興奮で判断を誤っていただろう。写真の人物は、どれも雰囲気がよく似ていたからだ。冷静さを取り戻した零香に、雪村は現在の母の様態と、まだ会わせる事は出来ないと伝えたのである。記憶を無くしているという雪村の言葉は、零香にはショックだった。だがクッションがあったために、どうにか耐え抜く事が出来た。全てが考え抜かれていたのだと分かったのは、全部終わって喫茶店を出てから。まだまだだなと自嘲したのは、家に帰ってからであった。

「驚いた隙を逃さず、目的の行動を畳みかける」

「一種の陽動だな。 しかし似たような事はレイカもしているではないか。 むしろ、零香の陽動はかなり見事で、私も感心させられているのだが」

わざわざ試すように言う草虎。これを論破出来ないようでは、新しい技など開発出来るはずもない。草虎は分かった上で、憎まれ口を聞いてくれているのだ。零香にはとても有り難い。

「うん。 それはいつも基本の戦術として使ってる。 でもね、何か、まだわたしには足りない気がする」

「ふむ……」

岩塩のスティックをもう一囓りする。真剣に考え込むとき、これの消耗量は兎に角多い。塩分の過剰摂取は体に良くないと言う話だが、今の零香はこれがないとそもそもまともに体が動いてくれない。

零香はこの間の対利津戦で、かなり高度な陽動戦術を展開した。最終的には敗北したが、かなり緻密でえげつない戦術であったと、客観的に見て判断出来る。その一方、まだ向上の余地は充分にあるとも自分で思う。

「ならば、レイカが凄いと思った行動や判断を、もう一度丁寧に基礎から分析してみてはどうだ?」

「うん。 頑張る」

相手の行動を誘導する、という点までは零香もよく使っているのだ。ツキキズ戦では相手の行動を読み切った上で、必殺の一撃を叩き込む素地を作った。相手が警戒せざるを得ない行動をして、相手の意識を反らすような行動は良く行う。しかし、それらと雪村が使った手には、何か違うものが感じられるのだ。あれほど洗練されてはいないが、桐が採った手も同様。違うとしたら何だ。何が零香の戦術とは違っている。

歩き回って、思索を練る。音のない竹林で、砂を踏む音がしゃくしゃくと響く。大分寒くなってきた竹林にはもう蚊はいないから、あれこれ考えるには都合がいい。

零香の耳に、近くを流れる小川の音が飛び込んできたのは、正に天恵であった。顔を上げ、川の方へ視線を集中させる。一定リズムで流れ続ける水の音が、実に心地よく届いてくる。走り、川岸にまでたどり着く。腰をかがめて、月明かりを反射する川を見やると、少し歪んだ自分の顔が映った。眼鏡を掛けて考え込む、幼い顔が。顔が揺れる。ゆらゆら揺れる。何処からか流れてきた笹の葉が、顔を横切る。第二の天恵が来たのは、その瞬間であった。

「……流れ?」

「ふむ?」

「そうだよ、流れだ。 多分わたしの心の流れを予想して、その先々に手を打ってるんだと思う。 わたしの陽動はあくまでサプライズを起こすもので、その先にある死地に敵を陥れるものじゃない」

そう、サプライズを起こして其処につけ込むのが零香のやり方で、サプライズを起こして敵を死地に落とし込むのとは違う。その差である。例えばこのやり方を用いる場合、ツキキズの注意を逸らして必殺の一撃を叩き込むのではなく、ツキキズが勝手に崖の下にでも飛び込むような策を練る事になる。著しく自らの危険性は減り、勝率も圧倒的に上がる。なるほど、確かに高度な手である。使いこなせたら、相当な力になる事は間違いない。

零香はうんうんと一人頷きながら、暖まった頭をフル回転させて考えを進める。分かればまた分からない事も浮かんでくるのは自明の理。気が付いてみて初めて分かったが、これを自分で立案して使うのは大変な事だ。相手が強くなれば強くなるほど難しくもなる。零香が使おうと思ったら、多分数時間単位で敵と状況から作戦を練り上げねばならないだろう。神子相争で、敵がそんな時間を与えてくれるはずもない。攻撃力の弱い桐でも、多分そんなに時間を掛けていたら盤石の防衛体制を築きあげてしまうだろう。

しかし実際問題、雪村巡査長はそれを成功させている。うろうろと歩き回る内に、もう家の側まで零香は来ていた。父の咆吼が聞こえる。軽く基礎トレーニングしかしていない事を思い出し、嘆息して竹林の奥まで戻って正拳づきを始める。狼次郎には、今は特に新しい事を始める必要はないから、さまざまに考えて経験を積めとだけ言われている。組み手も多くやっているが、実際に使ってみると自らの拳の甘さがよく分かるから、こういった反復練習は欠かせない。十数回中段から蹴りを入れて、ひゅうひゅうと空を斬る。それも一段落してしまうと、時間が来た。再び歩きながら、零香は考え込む。塩のスティックを採りだして囓る。さっきのような、大がかりな天恵はもう必要ない。後はどう気付くか、だ。かりかりかりかり、かりかりかりかり、かりかりかりぱきん。塩の固まりが砕けて、口の中で広がる。分かりかけている、分かりかけているのに、歯にものが詰まっているかのように分からない。

腕組みして考える事五分。人間なら風邪を引いている所だが、零香はそんな柔な鍛え方をしていない。やがて、脳細胞を酷使し、気付くべくして零香は気付いた。

「……そうか、経験だ。 多分私の行動パターンから、取ると思える行動を先読みしたんだ。 でも、幾らベテラン警官の雪村さんにしても、わたしと十回会ったか会ってないかだろうに……」

「相変わらずレイカは鋭いな。 ほぼ正解、と言う所だが、もう今日はこの辺にしておいて、部屋で考えた方がいいだろう。 塩も少し採りすぎているようだし」

「うん。 そうだね。 ……どうやって、雪村さんは、あんな効率よく経験を力に変えているんだろう……」

ぶつぶつと呟きながら、零香は家に戻り、夕食にした。岩塩のスティックを囓るようになってから、塩をふらなくとも普通に味がするようになってきたのは有り難い。布団に潜り込んで、さっきの続きを考える内に、どんどん眠たくなっていく。多分近いと思っていたのだが、その日は結局神子相争にならず、欠伸をしながら起きたときにはもう朝であった。

竹林の方から、鳥の声がする。目を擦りながら、結局結論に半端に達してしまったもどかしさを抱えつつ、零香は朝練の準備に取りかかったのであった。

 

朝と言えば欠伸が付き物だが、それは体が完全に覚醒していないからだ。零香は朝練で夜と殆ど同じメニューをこなしているため、学校に行く頃にはすっかり目が冴えている。だから、級友が欠伸しながら教科書をランドセルから取り出すのを見ながら、自身はノートを広げて宿題が終わっている事を確認しつつ、鉛筆をくるくると回す状況だ。

ほんの数ヶ月前とは全くの別人としか言いようがない有様である。以前輝山由紀がめきめき実力を伸ばしている事をテレビで確認したように、零香も集中力を著しく向上させ、学習効率も以前とは比較にならないレベルにまで高まっている。くぐり抜けてきた豊富な実戦が彼女を鍛え上げたのだ。

ただ、目立つのは良くないから、あまり宿題が終わっている事を自慢はしないし、きゃあきゃあと騒ぎ回るような事もしない。勿論、学校に着いた時点で、携帯は既に電源を切っている。電源を入れるのは昼休みと放課後だ。

今のところ学校でする事は一つ。目立たない事、騒ぎを起こさない事。ただでさえ両親が微妙な事になっていて、危うい状況なのだ。虐めの対象になる可能性は百%ないし、もし零香に虐めを仕掛けようと言うバカがいたら二度とそんな気が起こらないように叩き潰すだけだが、そういった起爆点を最初から作らないようにしておく。それが、現在の零香が学校でするべき事なのである。

昼休みが来た。零香は同級生の動きを観察する。見知った顔ばかりだし、名前も性格も大体分かるが、動きを予想して見ろと言われても、すぐには無理だ。例えば、振り向かせるとか、転ばせるとか、そう言った事は結構簡単に出来る。足でも引っかければ良いだけだ。別に性格を考慮しなくとも、呼び止めるくらいなら確実だ。大声で名前を呼べばいいし、他にも手は幾らでもある。しかし、それと動きを先読みする事は別。例えば此処で、二言三言声を掛けて、狙い通りに動かせと言われて、零香には出来る自信がない。

テレビか何かで見たのだが、上手い先生になると子供達を手足のように引率するとか言う。何とかそれを戦いに行かせないかと、零香は頬杖を付いたまま考える。残念ながら、技術指導にしか興味がない今の担任にそれは期待出来ないから、自分で実例を目にして真似るしかない。岩塩のスティックを無意識で取り出そうとしていて、嘆息して袋に包む。神衣の影響で基礎的な必要摂取量が増しているとは言え、舐めすぎれば体に毒だ。タバコを欲しがる大人の気持ちが少し分かる気がして、零香はふうと息を吐く。隣に座った奈々帆が、零香に言った。

「零香ちゃん、どうしたの?」

「うん。 ちょっとね、あの子達の動きを予想するにはどうしたら良いかな、と思ってね」

「え? 零香ちゃん、先生にでもなるの?」

「どうせなら総理大臣にでもなりたいかなー」

微笑しながら半分くらい本気で返すと、奈々帆は遊んでいる子供達の方を見て、しばし考え込む。零香を驚かせる、奈々帆の発言が飛び出したのは直後だった。

「今遊んでいる山中君と中田君、多分どちらかが泣き出すと思う」

「! 止める方法、ある?」

「そうだね、よく見て」

教壇の側、黒板下にて遊んでいる二人を注視する。山中はひょろっとして背が高い子で、中山はまるまると太ったとろい子だ。どちらもいわゆるオタク予備軍で、流行り以上に遊びに詳しく、いつも色々な玩具の話をしていた。今日、二人はダンボールか何かで作った台の上で、何かの玩具で遊んでいる。何か特別なかけ声を伴う遊びだという事しか零香は知らないが、もうとっくにブームが過ぎた遊びだ。それでも二人は興奮してどんどんヒートアップしている。

零香は指さされて気付く。遊んでいる台が壊れかけているのだ。遊びのルールは分からないが、それが何かのカタストロフに繋がると言う事は分かった。結構重そうな玩具で、激しく動かすから、台が壊れたら致命的な事態になりかねない。奈々帆に頷かれ、立ち上がった零香は、いつもより二トーン落として言う。となりでは、きっちり奈々帆がタイミングを合わせて耳を塞いでいた。

山中! 中田あっ!

突然起こった重低音迫力満点な叱責に、遊んでいた二人の子供達はひいっとわめいて腰を浮かす。やり玉に挙がった二人だけでなく、教室中がしんとなり、不意に眠りから覚めたティランノサウルス=レックスの動向を見守った。暴君山崎を葬った零香を怖れない生徒などこの学校にいないのである。

零香は真っ青になった二人の側に厳しい表情のまま一定の重々しい歩調で歩いていく。この年頃の子供は、特に異性を親愛の対象として意識せずむしろ反発するものだが、山中も中田も零香に対して逆らおうという気は起こせないようで、がたがたと震えるばかりであった。必死に玩具を抱きしめて動けない様が面白い。もう少し迫力が不足していたら一目散に逃げただろうが、戦闘機の爆音にも似た零香の気迫は小学生などたやすく捉えて離さない。遊びの台の側まで行くと、零香は腰を落とし、蒼白になって黒板下になつく子供達に務めて優しい笑顔を作った。ちょっと気を抜くと目が笑わないので、零香としてもこの辺は気を使っているのだ。

「その台、壊れているよ。 そのまま遊ぶと、玩具壊れちゃうんじゃない?」

何を言われているか分からなかったらしい二人は、零香がダンボールの台を少し強めに叩いた事で事態に気付き、まだ青ざめたまま礼を言って、遊びのフィールドの補修を始めた。ほっとした教室の子供達は再びわいわいと騒ぎ始め、それを後目に零香は自席に戻った

「こんな感じで良いかな?」

「そうだね。 私じゃ二人とも話を聞いてくれなかったと思うし。 でも、ちょっと怖かったかな」

奈々帆はとても大人しい子で、この年頃の男子にとっては侮蔑の対象でしかない。その辺、自分でも認識している奈々帆は、事態がどう動くか分かっていてもどうにも出来なかったのだ。零香はそれをサポートしたわけである。

「何、強さは怖さを伴うものだからね。 わたしの父さんなんて、すっごくつよいけど、普通の人から見るとすっごく怖いみたいだし。 わたしも父さんには大分劣るけど、普通の人よりそれなりに力を付けてきたから、必然的に怖くもなってくるよ」

「えー、そうなのー?」

再びくすくすと笑いあいながら、零香は奈々帆を見直していた。困っているときに本当に何も出来なかったという現実から、大分零香はこの少女を醒めた目で見るようになっていたのである。だが、それも今の瞬間変わった。

「奈々帆こそ、先生を目指してみたら? わたしが大人になった頃には、やりやすいように法律変えてあげるよ」

「うふふ、ありがと」

「で、今の、どうやって分かったの?」

零香の言葉が真剣みを帯びた事を察して、奈々帆は小さく頷いて、考え込んだ後言った。重要な事なのだと、理解してくれたらしい。弱々しかった奈々帆が、今では随分頼りになる子に見えた。ほんの少しの行動で、人の印象は随分と変わるものなのだ。

「外から見たの」

「……外、から?」

「うん。 物事をよく見るには、外から見るのが一番だって、お婆ちゃんに言われた事があって。 ずっとぴんと来なかったんだけど、零香ちゃんが大変な事になってから、自分も少しは何かできなきゃって思って、言われた事をやってみたの。 そうしたら、物事がどう流れるのか、少しずつ分かるようになってきて。 あの時は、山中君と中田君をものとして見て、周囲全部の動きを観察したの。 何もかもをものとしてみて、その動きだけを見て判断して、それでダンボールの動きがおかしい事に気付いたの」

「なるほど……」

客観性と言う事で考えていて、どうしてこんな基礎的な所に視点が行かなかったのか。全てをものレベルで認識する事で、超客観的な視点を自分の中に作る。多分、雪村や桐はこれを無意識レベルでやっているのだろう。

子供を目で追うから、却って子供の動きが分からなくなる。いっそのこと、子供を物体の一つとしてカウントする事が出来れば、それがどう動くのか、ある程度予想が可能になる。大事だと思うから却って護れなくなるのと、逆の意味で同じである。恐ろしくシビアでシャープな考え方であった。少なくとも、零香は目から鱗が出た気分であった。

「零香ちゃん、役に立った?」

「うん。 ありがとう、奈々帆。 物凄く役に立った」

「ううん、私こそごめんね。 零香ちゃんが一番大事なときに、何も出来なくて。 やっと零香ちゃんの役に立てて、私嬉しいな」

もう一つ笑い会うと、午後の授業開始のチャイムが鳴った。戦いの中だけで人間は成長するわけではない。それを零香は知った。勿論例外的な話なのだが、この経験は大きかった。

システムを知ったものの、多分駆け引きそのものでは、桐には一歩劣るだろうと零香は判断している。これは諦めではなく、客観的判断に基づく論理的な事実だ。運動エネルギーを使って陣からたたき出す策も多分もう通用しない。そして、其処まで考えて、ふと気付く。桐のあの「腹黒さ」も、物事を外から見る超客観性から来るのではないのかと。もしそうだとすると、本当の意味での桐は優しい子なのかも知れない。

一つ成長して、一つ心が重くなる。戦いは更に激化していき、そして重くなっていく。幸せを得るには、誰かを押しのけなければならない。

授業が始まる。教科書を開きながら、零香は新たな視点を得て、新たな戦いに向け、新たな戦略を練り始めたのであった。

 

2,黒師院の落日

 

黒師院桐が住むのは、古めかしい洋館である。今時伝奇小説くらいにしか出番がないような、明治期大正期の名残となる、大きな古い家。権威を得るために、旧華族との血縁を得てから入手した家であり、鹿鳴館を建てた明治政府にも似た、哀れなあがきの一端であった。暁寺から帰還した桐は、雨の中静かに濡れるそれを見上げる。何もない空間、止まった時の家。過去の栄光に、しがみつく家。巨大な怪物の足下から逃れられない、がんじがらめに縛り上げられた家。

桐は雨が好きだ。傘を振って雨の滴を落とすと、小さく息を吐いて家に入る。使用人も殆ど残っていないが、源治(げんじ)と呼ばれる老人と、黒師院家に三代に渡って仕えていた家出身のメイド安居島鄙(あいじまひな)が家事を行っている。年も殆ど変わらない彼女に傘を預けて、迎えに出た源治に微笑む。正装に身を固めている源治は、優しい顔の裏に、厳しい父としての顔も持っている。

「源治、ただいま戻りました」

「お帰りなさいませ、桐お嬢様。 今日の鍛錬はどうでしたか」

「なかなかです。 激しく体を動かすのも、また良いものですね」

物腰は幼い頃から徹底的に、プロである源治に仕込まれた。だから何処に出ても恥ずかしくないレベルで身に付いている。自室に戻ると荷物をすぐにおいて、隣室の戸を叩く。返事はない。静かに開けると、執筆机に向かって一心不乱に筆を執る母の姿があった。痛々しい程にわき目もふらず、もう何の価値も無い旧家とのコネクション維持に取り組んでいるのだ。母はおかしくなっている。気付いたのは小学生低学年の時だが、その頃にはもう遅かった。

「母様、仕事ははかどっていますか?」

返事はない。もともと絶大な集中力を持つ母は、仕事中に桐の問いかけに反応した事はないし、無理に話しかければ烈火の如く怒る。桐は大きく肩を落とすと、筆ペンを動かし続ける母に一礼して、自室に戻ったのであった。

世の中では、諦めない心やら、折れない心やら、そういったものを絶対正義とする小説やら漫画やらが大いに出回っている。桐はそれらの全てが大嫌いだった。母がそれに近い思想を至上視し、結果壊れてしまった事を良く知っていたのだから。それらの思想に罪はない事は知っているが、自分だってそうやって必死に戦っている事も分かっているのだが、どうしても聞くとむかっ腹が立つのである。桐は元々そう大した人間ではないと、自分に見切りを付けている。いくら背伸びしても、こういう所でガキである事が露呈しているからだ。

ベットに倒れ込み、天井を見上げる。前は随分声を押し殺して泣いたが、今では涙も枯れ果てている。母の痛々しい有様は、桐の心をいつも刃のように突き刺し、抉り続けた。いつのまにか側の床で、八亀が触覚を揺らしていた。

「桐や、そう気を落とすな」

「……ごめんなさい。 今は泣かせて」

寝返りを打って、枕に顔を埋める。

神子相争で幸片をつぎ込む事によって、少しずつ状況は良くなっている。少なくとも、母が寝食も忘れて手紙を書き続け、顔色が真っ青に、手が血だらけになるような事態はもう終わっている。会社側も少しずつ歩み寄りの姿勢を見せ、洋館に残った二人はいずれも忠誠度の高い腹心達だ。洋館で働いていた会社のスパイ共は皆自主的に辞めてくれたし、しぼる財産がもう無い事に気付いた債権者達も最近は大人しくしている。だが、状況の改善にはほど遠い。まだまだ頑張らなければならないが、時々泣きたくもなる。

声を殺して泣く桐。いつもの腹黒ささえ伺わせる強靱な強さは、其処にない。少女の慟哭は何処にも届きはしないのであった。

 

黒師院家は歴史が浅いブルジョアで、その発展は明治以降の事である。その財力は、一時期総資産百億に迫ったが、今では傘下の会社にも軒並み見放されて事実上孤立化し、自由になる財産は今暮らしている洋館くらいだ。既に総資産も三億を切っていると言われており、家計は文字通り火の車。本家ですらこの有様なのだから、それに付随した人間は借金したり必死に企業運営して上手くいかなかったり、地獄絵図に等しい有様となっている。

そもそも黒師院家が発展したのは、明治の事である。現当主から数えて四代前である黒師院千代が、発展の礎であった。千代は小柄で器量も良くなかったが、一代で田舎農家から紡績工場主となったほどの経営手腕を誇り、彼女一人で巨万の富を築き上げた人物であった。明治時代の状況から考えると、異例の事であり、女傑と呼ぶに相応しい存在であったのだと、事績だけで証明している。

だが、こういった天才肌の人間は、得てしてエキセントリックであったり、或いは偏った視点を持つ事が少なくない。田舎出身で、しかも農家から這い上がった千代は柔軟で合理的な思想の持ち主であった反面、一種反動的な母系主義的思想の持ち主であった。社会全体が儒教道徳及び西洋から持ち込まれた男性優位主義に染まっていく中、実力で財を成した千代はあくまで母系重視の思想を取り続けた。即ち、黒師院家で男はあくまでタネを残すための存在に過ぎず、実際に家を切り盛りしていったのは例外なく直系の女達だったのである。ここまでは別に問題のない事であったのだが、千代が病的だったのは、自身の血統を残すためならどんな手でも使った事にある。彼女は血族の優位を狂信しており、その豊富なコネを使って娘にさまざまな男の相手をさせた。そして充分な才能を持つ子供が出来なければ、すぐに離婚させ、新しい夫を娶らせたのである。当然その中には愛する相手もいたし、それに倍する望まぬ相手もいたと言う事で、孫が産まれた頃には、娘の華は半ば心神喪失状態であったとも言う。これらは千代の故郷では当たり前の風習だったのだが、それも過去の話に過ぎないのに、現在にそれを無理矢理持ち込んだのはやはり無理があった。更に千代のやり方は強硬すぎて、風習を知る故郷の人間が見ても鼻白むほどであった。

その後も千代は孫が生理を迎えると同時に夫を娶らせるなど、さまざまな行為を強行したため、八十七歳で亡くなったときに親族は皆安堵したとも言われている。千代は女傑であり天才であったが、田舎と都会で社会的風習が違い、それは別に良い事でも悪いことでもないことを理解出来ない人種であったのだ。その田舎でも風習が変わりつつある事を、どうしても千代は飲み込めず、その因習を強制的に家族に守らせた。それは社会のシステムと反発しあい、確実な歪みを生じさせていくのである。

千代の亡き後も、黒師院家はその呪縛から逃れる事は出来なかった。本家の執務室に掛かっている怖い千代の肖像画が睨む下で、代々の当主は仕事をしてきた。千代は一代の巨人であり、その存在は計り知れない破壊力を誇った。そしてそれが、結局誰も千代を超えられないという事態も産んだ。

後の時代の黒師院家は結局、千代の政策を継承追従する以上の事は出来なかった。それが足かせとなり、じりじりと業績を伸ばしつつも、内部はどんどん空洞化していった。それは体制の硬化も産み、思想も扁平化させた。経営は硬質化し、柔軟性はどんどん失われていった。桐の母親である双葉の先代には、業績は着実に伸ばしてはいつつも、その性質は発展から停滞へと変化していた。優秀な技術者達が会社を支えてはいたが、それも過去の話へと変わろうとしていた。

そして、双葉の時代が来る。この時代は、最初から波乱含みであった。何しろ、双葉は先代の血を引いておらず、そればかりか養子だったのだから。

本来だったら絶対跡継ぎになれなかった双葉が、黒師院家の跡を継いだのには当然色々な理由がある。千代から三代を経て流石に旧時代的な因習から開放されつつあったが、その一方で母の血を継承する風潮は根強かった。しかし、三代目にはずっと子供が生まれず、関係者はやきもきしていた。そして悪い事に、彼女が三十代前半、子供を産めない体である事が判明したのである。大混乱になった黒師院家は、蜂の巣をつついたような有様となった。更に最悪のタイミングで彼女が子を残さぬまま白血病で逝き、黒師院家の混乱は極致に達する事となった。

右往左往する関係者は、混乱の中さまざまな事をした。遠縁の人間を新しい当主に据えるのか、三代目の夫を新しい当主とするのか。基本的に黒師院家で当主の夫は権力を持っていなかったため、後者は分が悪かった。しかし遠縁を当主に据えるにしても、何分急な事であったし、今までの当主と違って会社や周辺の人間とコネクションを持たないわけであるし、混乱の発生は必至だった。こういう場合後見人の存在が必要不可欠となるのだが、一族の血統を重要視して意識的にワンマン体制を作ってきた黒師院家に、そんな事が出来る重鎮的な人間は存在しなかった。実力で立身した千代は、自身の子孫にもそれを強要し、誰かしらに頼る事を家訓として戒めたのである。これは彼女が都会に出てから、男性優位主義の社会そのものに苦しめられたトラウマが大きく影響しているとも推察されるが、本当はただ(優秀な)自分の血筋を狂信していただけかもしれない。

混乱の中、十人ほどの候補が浮いては沈み、膨大な金が動いた。ナンバーツーに相当する有力者がいなかったため、急の事態には対応しようがなかったのである。そんな中、先々代の妹の孫が、孤児院にいる事が判明した。それが双葉であった。気位ばかり高くて無能な他の候補者と違い、彼女は明晰な頭脳と強靱な耐久力を備えており、能力重視主義の黒師院家ではようやく後継者が現れたと安堵の声が漏れた。幸いな事に千代の血も引いている事だし、(これが最重要であった)孤児院から双葉はすぐさま引っ張り出され、お嬢様学校に放り込まれて礼儀作法を叩き込まれた後、晴れて黒師院家の当主となったのである。

そんな状況で双葉が発憤したのには理由もある。早死にした母と失踪した父を恨んでいた彼女は、自身のアイデンティティを確保出来ずに、混迷した子供時代を送っていた。結果物心着く頃には、孤児院から通っている学校にて格好の虐めのターゲットとなっており、激しい敵意と暴力に晒される毎日を送っていたのである。そんな中、降って湧いたように現れた話は、正に天恵であった。

これこそ、自己のアイデンティティを確保する最後の機会だ。戦って、勝ち抜けば、きっと私は自分を作る事が出来る。そう考えた双葉は、一も二もなく話に飛びついたのである。新天地であるお嬢様学校は陰険な虐めの横行する魔窟であったが、小学校でもっと酷い虐めに晒されていた双葉にはどうと言う事もなかったし、使命感という目標を得た事によって強くもなった双葉は、そんな状況に屈しはしなかった。

学校を出て当主になった双葉は、千代ほどではないにしても卓絶した手腕を発揮してすぐに家内を纏め、千代の再来と湛えられた。今まで複数の人間が四苦八苦して纏めていた家内を、瞬く間にまとめ上げたのである。これは黒師院家にとって(千代)という存在が如何に大きいかも関係しているが、勤勉で有能な双葉の力も否定出来ない。涼やかな瞳を持つ瓜実顔の双葉は落ち着いた美貌の持ち主であったが、容姿は此処ではあまり関係がなかった。双葉は家内を纏めた後も安心せず、異様なほどの勤勉さで各地とのコネクション締結に奔走し、黒師院家の関係者は皆安堵の声を漏らした。だが、この時既に、破滅の足音は間近にまで来ていたのである。

この時代、黒師院家は参加企業の中心的接点、という存在に過ぎず、情報交換のためにあれば便利だという程度の力しかなかった。それを正確に把握出来ていないのは黒師院家の関係者だけであり、企業の者達はむしろ邪魔になってきた黒師院家の傘下からどう脱するかばかりを考えていたのである。双葉の周囲には当然企業関係者は少なく、いたとしても如何に黒師院家を利用するかしか考えていない連中だったから、事実は双葉の耳には入らなかった。

双葉は十九歳で結婚し、二十歳で桐を産んだ。相手は無能な旧家のボンボンで、旧姓綾小路(あやのこうじ)、名は胤嗣(たねつぐ)と言った。家格を上げるためには仕方がないと、自身で模範を示すために政略結婚を組んだのである。自身のアイデンティティを確保するために、双葉は必死だった。結果的に体を安売りする事も厭わなかったわけである。ただ、幸いな事に、馬鹿な夫も自分が無能である事は自覚していたらしく、経営には口を一切だそうとしなかったし、あまり派手な遊びもしなかったため、大した問題にはならなかった。それに、胤嗣は子煩悩であり、桐をとても良く可愛がった。双葉としては、桐を可愛がりすぎないように見張るだけで良かったため、大分負担が少なく、夫としては問題がないと判断するに至ったのである。

桐は双葉に良く似た美貌を持つ淑女として、双葉と胤嗣の愛情をたっぷり受けてすくすく成長した。多少賢すぎるため、淑女のたしなみの影で悪戯を欠かさないというお茶目な点はあったが、それでも聡明な母の影響を強く受けて勤勉に育ち、幼稚園でも小学校でも悪い評判は上がらず、影で下劣な虐めに荷担するような事もなかった。

桐は賢い母も、多少頭が悪いが優しい父も、嫌いではなかった。中興の時に入ったかとも思われる黒師院家は、押し流されるだけの時代から這い上がろうとしており、桐の目には精力的に働く母の背中がまぶしかった。必然的に、母は桐にとっての人生の目標となり、無意識下で越えるべき対象として、大きな地位を心中に確保したのである。

流れるように時間は過ぎていった。桐は大きくなっていき、社交界にも出るようになり、世の道理も分かるようになってきた。そして破滅の目撃者となったのである。

 

破滅の入り口になったのは、胤嗣の不倫であった。不幸な生い立ちが目立つ双葉であるが、それに関しては没落旧家の胤嗣も似たような状況だった。彼は見栄ばかり先行した両親の膝元でろくに好きな事もせずに育ち、美しいが愛してはいないし自分には度が過ぎる妻と結婚させられ、かなりストレスがたまっていた。桐の存在がそれに歯止めを掛けてはいたのだが、桐の賢すぎる様子が、頭が全く上がらない妻とそっくりな有様が、愛情を徐々に醒めさせていった。やがて彼はメイドの一人と密かに逢瀬を重ねるようになり、たちまち双葉に知られた。双葉には絶対に勝てない事を知っている胤嗣はパニックになり、後先考えずに三千万ほどの現金を持ち出して、メイドと駆け落ちしたのである。

それだけなら良かった。双葉も呆れつつすぐに人を手配して二人の行方を追わせたが、二人はすぐに、意外かつ最悪な形で発見された。双葉への恐怖に囚われた胤嗣は薬物に手を出し、無茶な使い方をした結果、たった十日で中毒死したのである。そして手を回す前に警察がその死体と右往左往していたメイドを発見、情報を公開してしまったのである。これは黒師院家にとっての一大スキャンダルとなった。

ここぞとばかりに、傘下の企業はこぞって独立を宣言した。昔は千代が作った巧みなシステムが社長達の首根っこを押さえ、更にはゴシップを複雑に絡み合ったコネクションから入手する事で二重の拘束を掛け、企業を力尽くでねじ伏せていた。だがそれも数十年の内に形骸化して、今はどの企業も千代の呪縛から逃れたいと、虎視眈々と機をうかがっている状態だったのである。ましてや、もう実質的に黒師院家に握られているスキャンダルも古代の遺物と化しており、バラされた所で痛くも痒くもない状態だった。気が利いた企業の中には、マスコミを煽ってスキャンダルを面白おかしくかき立てさせ、火に油を注いだ所もあった。

桐の周辺環境は一変した。暴力を含んだ虐めが始まった。元々桐はそれほど弱い子ではないが、それが却って虐めを煽った。子供に限らず人間は「正義」が大好きだが、それは「悪」に情け容赦なく暴力を振るい、小便にも等しい生理的サディズムを満足出来るからである。子供の場合価値観は更に簡単で、何か「悪」があれば即座に自分が正義となる。「弱い」「親が犯罪者」「言動が少しずれている」「能力が低い」。そういった要素は全て子供にとって悪であり、悪の要素を持つ相手には何をしてもいい。それが子供の単純な価値観がもたらすおぞましい悪意と暴力の連鎖である。

「悪」となった桐は、連日暴力を伴った虐めを加えられた。子供は悪知恵に関して大人並みに発達しているし、道徳観念が未発達のため良心の呵責も極めて少ない。道徳観念がない人間は、基本的に自分にペナルティがない事以外は、どんな卑劣なことでも残虐な事でも平気でする。痣は外から見えないような所を狙って付けられたし、ノートや教科書は見る間にボロボロになった。それらは桐が自分で汚したり壊したりしたのだと、子供達は口を揃えて言い、多数派の意見を教師も採用した。教師側も黒師院家の地位が失墜したのは知っており、自ら虐めに荷担し、なぶられる桐を見てほくそ笑むものさえいた。自分の上に輝いていた星が落下して、喜ばない大人は少ないのだ。ほんの二ヶ月で、桐の精神は半壊した。精神は強かったが、肉体は暴力の嵐に耐えられるほど頑強ではなかったからだ。彼女の心が致命的に歪んだのはこの時であった。

通常の学校よりも虐めが加速したのは、大人の世界顔負けのコネクションと金銭が裏で動いているお嬢様学校であったから、という理由もあった。こういった学校に通う子供は歪んだ環境に生活している事も少なくないし、親が倫理観念をしつける事も少ない。何よりも人間の本性を幼い頃から見せつけられるため、道徳観念も希薄になりやすい。中途半端に大人になった子供は、得てしてもっとも凶暴な加害者になるのだ。

こんな時、桐の支えになるべき双葉であったが、彼女の状況も似たような有様だった。彼女は有能だったが、それはあくまで黒師院家という土俵の上の話であり、千代の掌の上でと言う条件付きだったのである。離れてしまった企業をどうすればいいのか、彼女には全く理解出来なかった。相談出来る人間も周囲にはおらず、話が出来たとしても無能すぎて全く役に立つ答えは引き出せなかった。

それでも、双葉はよく頑張った。彼女は一時の混乱から立ち直ると、出来る事から始めた。平然としつつも深く傷ついている桐の様子を察し、すぐに転校の手続きを取ってくれた。転校先は自分もかって通った学校で、関係者には級友も多く、もっとも親しい友の一人が教師をしている所であった。其処でも虐めは行われそうになったが、双葉は必死に桐を支え、教師達にも手を回して状況の改善に努めた。桐に出来る事は桐に出来る事として頑張らせ、彼女の能力を超える部分ではきちんとフォローを重ねる。なかなか並の人間に出来る事ではない。たった二ヶ月で心を砕かれた桐であったが、その後一年ほどでどうにか心を拾い集め、もう一年ほど経った頃には何とか通常の状態にまで戻る事に成功していた。

いわゆるぬくもり的な優しさではないが、桐は双葉の深い愛情を感じて、どうにか立ち直る事が出来たのだとも言える。しかし、悲劇はまだまだ終わらなかった。ようやく桐の事が一段落付いたと判断した双葉は、今まで放置していたコネクションの再接続に奔走し始め、片っ端から裏切られたのである。

今まで社交界で連結してきたコネクションなど、何の役にも立たなかった。バックに付いていた政治家達も、結局は傘下企業がもたらす利潤が目当てであったわけだし、誰も双葉の味方はしなかった。また黒師院家の天下が再び来る事を怖れた企業の中には、双葉が桐に掛かりっきりになっている間に、政治家達に根回しをしている所もあったのである。弱みを持ってしまったのは、今度は黒師院家であったのだ。以前は立場が逆であったから、相手の先手先手をとって立ち回る事が出来、勢力を伸ばす事が出来たのである。今度は桐や、空洞化した体制という弱みを双葉が持ってしまっていたから、それを突かれては後手後手に回らざるを得なかった。双葉が奔走すればするだけ、骨粗鬆症を思わせる空白が黒師院家の屋台骨には出来ていった。そればかりか、一族や分家の者達まで本家を見捨てて、独自に動き出すものが少なくなかった。

とどめになったのは、引き留めようとする双葉に、分家の者達が放った言葉だった。

「だから、養子なんかとるのには反対したんだ」

「此奴のせいで、黒師院家はもう終わりだ」

「無能者」

「身につけさせてやった礼儀作法も全部無駄だったな。 お前なんか、春でもひさいでいれば良いんだよ」

あまりにも下劣なる罵声。自分の事を棚に上げた責任転嫁。

そしてそれらは、双葉のアイデンティティを崩壊させ、心を木っ端微塵に砕いたのである。

桐にはどうにも出来なかった。うねりを上げる濁流の中もがく母を見て、手を差し伸べる事さえ出来なかった。事態打開に何の効果もない仕事に閉じこもり、人間らしい感情さえ封印してしまった母を助ける事も出来なかった。必死に経営学や経済学を独学してもみたが、何の役にも立たなかった。無骨な執事の源治も、遊び相手であり良き理解者である鄙も、桐を慰める事は出来ても、双葉を救う事は出来なかった。

無力が憎い。無力な自分が憎い。自分が無力でなければ、母は早くから手を打ち、今の致命的な事態は逃れる事が出来たかも知れないのだ。己の弱さが憎い。母の負担になっている自分が呪わしい。死んでしまえ。死んでしまえばいい。

呪いをはき続ける桐は、もう母の負担にはなりたくなかった。遺書をしたためると、窓の外にロープを掛け、わっかを作った。外ではしとしとと雨が降っていて、冷たい風が吹き込んでいた。手首を切る事も考えたのだが、この方が無様で無惨に死ぬと知っていたから、桐はわざわざ首を吊る事を選んだのである。

ロープの強度は充分。首をくくれば確実に死ねる。目を閉じて、窓枠から身を乗り出そうとした桐を引き留めた。足を掴む感触。振り返ると、其処には巨大な三葉虫の如き異形の生き物がいた。

神使、八亀であった。

 

ぼんやり天井を眺める桐。激しい虐めを受け、立ち直ってから、このぼんやりする時間が必須の存在となった。どうしてかは分からない。心が半壊して、その埋め合わせに、心が何かしらの余裕を求めているのかも知れない。違うかも知れない。手を伸ばすも、天井は届かない。未来のようだ。

小さく欠伸。神子相争を開始して大分立つが、どういう訳か睡眠時間が足りない。ぼんやりする時間が、いつの間にか昼寝タイムになってしまっている事も少なくない。伸ばした手をベッドに投げ出し、ぼんやりと今までに戦った相手と、それと戦う場合の策を考える。これでもきちんと形になってしまうのだから、桐の頭脳はたいしたものだ。標準を遙かに越えた計算速度を持っていると言える。もそもそと起きだし、小さく欠伸をしながら訓練用の外出着に着替え、コートを羽織って勝手口から外に出る。洋館の裏手は山になっていて、訓練にはもってこいだ。

裏庭を通り抜けて、壊れている柵を潜り、林の中へ。少ししてから振り返ると、もう随分洋館が小さくなっていた。新しい発見は心の栄養であり、修練を楽しくしてくれる。

「今日はいつもよりもう少し奥まで行ってみようかの」

「そうですね。 何か面白いものが見付かると良いのですけど」

「これこれ、遊びに行くのではないのじゃぞ」

八亀はからからと笑う。彼の時代がかった喋り方は、むしろ桐にとっては身近である。出来るだけ音を立てないようにして、茂みの中を行く。

この洋館、ずっとくらしていた家とは別の場所である。ずっと住んでいた家は財産を処分する際に手放してしまい、高価な財産も殆ど売ってしまった。双葉の先代が政略結婚で手に入れた家の一つである此処に越してきてから、桐の生活も目に見えて変わった。一緒について来てくれた使用人達も殆ど辞め、残ったのは本当に忠誠心の篤い二人だけ。だが、そうなってみると、却って心地よいので驚く。多人数に囲まれてちやほやされるよりも、確実に信頼出来る人間数名と一緒にいる方が落ち着くのだと、桐は知った。無論全部の人間がそうではないのであろうが、桐に関してはそうであった。

いつの間にか、上り坂にかかり、それもどんどん急になっていく。得体の知れない鳥の声がする。もう夕方だから、本当は自殺行為なのだが、桐は平気だ。この間も百キロ以上あるニホンイノシシを十手で殴り倒したばかりである。神衣を身につけるようになってから単純な腕力がどんどん上がっていて、気をつけないとカップや筆入れを握りつぶしてしまう。ただしスピードは出ないので、山の中をしずしずと行くしかない。ましらのように木々を伝っていくには、まだまだ修練が必要になるだろう。また、体がとても頑丈になってきていて、多少体を打ったくらいではびくともしない。転んでぴいぴい泣く同級生を見て、小首を傾げる事が多いこのごろである。傷の治りも早く、多少の傷は二日と待たずに塞がってしまう。

「おお、そうだ。 此方に行ってみようかの」

「? ……。 ええ、分かりました」

「おうおう、すまぬな」

八亀が何処かに案内したいと言う事を敏感に悟った桐は、触覚を交互に揺らしながら先に行く神使に、文句も言わずについていく。藪は更に深くなっていった。

山の深奥に出る。この辺りに来ると、却って何の鳴き声も聞こえず、不気味だ。しんとした空間の中、響き渡るは滝の音。森の中に浮かび上がったかのようにある、滝と、滝壺と、その周りの僅かな空白。滝が星明かりを反射して煌々と輝いている。滝壺に流れ込む水はあくまで透明に澄んでいて、激しい音と正対称だ。口うるさい桐も、思わず息をのみ、そしてにんまりと笑みを浮かべた。滅多に、少なくとも学校では絶対に他者に見せない、幼い笑顔が闇に浮かぶ。

「これは良いですね」

「じゃろ? じゃろ? 綺麗なおねいちゃんでもいないかなーと思っての、山歩きしているときに見つけたんじゃが、昨日までの洞窟よりずっといいと思っての。 ここなら広いし、より複雑な修練も可能じゃし」

「こんな山の中に、綺麗な女の人、ですか?」

「おう。 美人は何処に潜んでいるか分からないしのう。 以前鍛えた神子などは、引退してから飛騨の山奥に籠もってのう。 遊びに行くとき、探すのにえらい苦労したものじゃ。 得てして、美しき者は何処にいるかわからんでな」

くすくすと笑いながら、桐は頷いた。ちなみに八亀の女性の好みは、顔に左右されない。人間が好きらしいのだが、立体的に平べったい子が好きだとかいう話で、人間と根本的に感性が違っている。ようはやせ形が好みらしいのだが、造作も全て小さい方がいいらしく、美醜の感覚は全く現代日本人とは一致しない。

一定のリズムで囂々となりつづける滝の前で、桐は小さく息をのみ、精神集中を始める。特定の音が流れる空間。其処が桐の修練場だ。極論すれば、ずっとエンドレスでモーツアルトが流れているコンサートホールででも構わない。人さえいなければ、だが。別に桐が音楽を好きなわけではない。こうやって集中力を高めて、効率を上げるのだ。以前使っていた洞窟は、此処から少し洋館に近い斜面にあり、鍾乳石から垂れ落ちる水滴の音がリズムとなっていた。

印を組み、術を唱える。術を唱える力に関して、桐は利津に次いで神子たちの中でもナンバーツーである。そして術を繊細に扱う事に関しては、誰よりも上だ。ただし、一方で攻撃能力の低さに関しても、抜きんでてしまっている。

「水底の王玄武よ、北より出でし亀の神よ。 今我が声に耳を傾け、汝が甲羅のひとかけら、無敵の盾として一時貸し与えたまへ」

淀みなく唱えながら、再び印を切り、人差し指と中指を揃えて立て、薬指と小指を心持ち柔らかく曲げ、親指を自由にして、手を横に振る。術が完成したのはその瞬間。直径一メートル五十、重量八十キロを越す丸盾が、桐の眼前に浮かんでいた。玄武神衣の基礎術の一つでもある、守護円盾だ。玄武神衣を発動すると同時に四つ出現し、回転しながらオートで術者を守るほか、ある程度の力を投入する事で二百メートルほど先まで飛ばす事が出来る。ただし飛行速度は極めて遅く、せいぜい時速四十キロほどだ。ただし防御能力は折り紙付きで、自動修復機能まで備えている。しかしながら壊れてしまうと再生は無理で、落ちた防御力を補うために新しく術を唱えて呼び出さないとならない。逆に言えば、神衣がないときも、こんな風に呪文を唱えて呼び出す事が出来る。

使い方によっては非常に強力な勝利の味方となる術だ。応用力も高い。スピードは遅いが重量が重量なので、時限式地雷と組み合わせてさまざまな使い方が出来る。爆発の威力を一カ所に集めたり、ダメージを受けた相手を押しつぶしたり。事実、それで相手を倒した事もある。更に詠唱を続けて、二つ目、三つ目、四つ目の盾を呼び出す。神衣を使うとコストがかさむので、黒神輪に蓄えられるのと別の力を使って、こうやって術を使っているのだ。現在同じ事が出来るのは朱雀神子の利津だけ。生来持っている力が強いからこそ、出来る芸当だ。単純な戦闘能力があまり高くない桐だが、だからこそこういう技を使って少しでも勝ち残る努力をする必要があるのだ。

桐の修練は既に第二段階に入っている。基礎修練はもう朝のみに止め、今は術を使っての実戦的な形式である。白虎や黄龍のように自身の戦闘能力を武器に戦うタイプでは、神子相争の終盤まで基礎鍛錬が最も重要で、スキル修練がそれに続くのだと、桐は八亀にこの間聞いた。一方で青龍や朱雀、それに桐の玄武は比率が逆転し、後半になれば成る程如何に上手く術を使いこなせるかが勝負の鍵となってくる。事実、まともに肉弾戦をやっては、どうあがいても近距離型中距離型にはかなわないのである。今暁寺で学んでいる格闘技は、精神修養と近距離防衛用のテクニックに過ぎない。同じ格闘技でも、相手を仕留めるためのそれとは思想が別なのである。

手をゆっくり動かし、盾を操る。オートで自分の周りを浮遊回転していた盾の一つを持ち上げ、滝に添って上下させた後、自分の頭上を旋回させ、更には不意に二つの盾をセットで動かし、最初の盾の少し後ろにセットする。自分の斜め上から飛んでくる攻撃に備えてのものだ。神衣無しだと、同時に使える術はこの程度である。神衣を付けてなら、盾を動かしアブソリュートディフェンスを発動しつつ、更にもう一つくらい術を発動する事も可能だ。一度桐は利津と戦って圧勝したが、火力はまだまだ増してくると考えて間違いない。相性から言っても防ぐ事は難しくないし、大味な利津にとって緻密な桐は殆ど天敵だが、相性が悪い相手を何度も敗り続けた神子もいるというし、油断するのは望ましくない。更に強力な攻撃術を考えてくる事も考慮して、修練は欠かさないようにしている。

しばし対利津用の訓練をした後は、十手を持って自然体に。更に盾を一つ減らし、術を組み替える。これは対淳子用のフォーメーションだ。対零香及び対由紀用のフォーメーションは共通している上に共通の課題があるため、後回し。盾をゆっくり回しつつ、周囲の音に気を配る。ピンポイントで攻撃してくる事を想定し、素早く動かす事が出来るようにした軽量型の盾に変更。それに加えて、アブソリュートディフェンスを使いつつ矢に対応するため、自然体に構えて相手の様子を見る。どちらにしても時間が経てば此方に有利だし、対淳子戦の場合は相手の位置を掴んでからが勝負になる。それに淳子が相手の場合、以前辛酸をなめた対質量攻撃は想定しなくても良いのが嬉しい。最初戦ったときは手も足も出なかった。二度目は三つどもえ戦でどちらも生き残れなかった。だからこそに、次は勝ちたい所である。

既に対淳子用の術は幾つか用意してある。いつ実戦になったとしても、勝つ準備は出来ている。淳子が相手の場合、とにかくあの自分以上に精密で緻密な攻撃を凌ぎつつ、長期戦に持ち込む事。そのためには、タフな精神が必要不可欠となる。

淳子が矢にさまざまな術を付与して使用してくる事は既に分かっている。軌道変更の術が中でも厄介で、明後日の方向から攻撃が不意に飛んでくるため、対応しづらい。それについては、今のところ直接的に有効な対策がない。まあ、あくまで直接的ではないのなら、打つ手は幾つか考えてある。問題は、三つどもえ戦、四つどもえ戦で、自分が集中的に狙われた場合だ。特に接近戦闘タイプの零香と交戦中に、矢が飛んできたらあまり面白くない。

三十分ほどさまざまな攻撃を想定して盾を動かし、小休止。丁度いいサイズの岩があったので、それに腰掛けてスポーツドリンクを一口。満天に瞬く星を見上げて、精神をリラックスさせる。体の方は警戒を保ったままである。仮にも山奥だし、熊だの野犬だのが出る可能性もある。猪も何度か見かけた。もう一口、良く冷やしておいたスポーツドリンクをあおる桐に、八亀が言う。

「そろそろ、伝えておく事がある」

「うん? 何でしょうか」

「神子相争の間隔が、そろそろ短くなる。 今までは大体一週間周期であったが、今後は短い場合三日で次が来る」

そういえば、それに関してはおかしいと桐も思っていた。最初受けた説明では、最短で三日ほどの間隔で神子相争が回って来るという話だったのに、いつでも一週間ほどで安定していたからだ。

「どういう事ですか?」

「何、ルーキーに対する救済措置じゃい。 ルーキーになれば成る程、見た技術に対する対策を練るのに時間も掛かるし、精神的にも脆い。 だから、最初の内は少し長めに間隔を取っているでな」

「それが今後は短くなる、という事ですか?」

「それもあるし、得られる幸片のばらつきも大きくなるのう。 今まで、何度か得た幸片が、いずれも安定して大きな効果が出たじゃろ? 今後はそんな事もなくなる。 物凄く大きな効果が出る事もあるだろうが、逆に殆ど効果が得られない可能性もあるからな、気をつける事じゃ」

頷くと、桐は今日の締めくくりに入る事にした。新しい術の実験である。

基本的に術は神使と相談しながら呪文をくみ上げ、実戦なり訓練なりで自分なりに練り上げていく事になる。原理はずっと前に組んだのだが、最初の内は使う事もなく、後回しにしていた。この間の対零香戦で術の必要性を思い知らされ、使う事を決意したのだが、調整に手間取っていて、今もまだ細かい練習を繰り返している状態だ。

この術は、陣を維持するのに、今後必須になってくる術だ。万能の盾などと言う術は存在しないから、必要なカードの一枚という扱いになるが、これがあると無いとでは話が全く違ってくる。その分、調整は念入りにしなければならない。

「今日はこれで最後にします」

「うむ、それが良いじゃろ」

岩から腰を上げると、微妙に調整を続けている詠唱を開始する。印を切り、二度虚空に字を刻み込み、発動。全身の力を吸い取られるような感触の中、今までとは、微妙に異なる種類の盾が出現していた。桐の斜め上に浮かんでいるそれは、他の盾と違って暗緑色である。その上形状も微妙に異なり、円型をしている通常の盾と違い、菱形をしている。通常の盾と露骨に違う形にする、というのが、術のコストを下げるリスクになっているのだ。

「ほほう、これはまた、思い切って形を変えてみたな」

「今後、色々なバリエーションを作ってみるつもりです。 これだけ菱形だと術の正体も知られやすいですが、質量攻撃の抑止力となれば充分ですから」

実のところ、桐はこの術を使って一回分の勝利を得ようとは考えていない。今後の戦いのために、連続して使え、カードとしても申し分のない術を得たいと考えているために、この術を作り出したのだ。

本来の用途の他に、若干の物理耐久力と、ほんのわずかな耐魔能力も付与したこの盾だが、最初は使用コストが大きすぎて使い物にならなかった。さまざまな調整をし、形というリスクによって何とか通常の盾の二倍にまで使用コストを軽減した。自動浮遊と、任意に操作出来る能力などは、通常の守護円盾とほぼ同じ性能。ただし、より速く動かす事が出来、反面遠くにはとばせない。

守護円盾の補助目的にも利用出来るようにと考えた結果、コストが上がりすぎて実用化出来なかった術だが、今使った感触だと、どうにかなりそうな印象である。元々自身の至近に引きつけて使う術だ。後は一緒に通常の盾を問題なく動かす事が出来れば合格。後、最初に出た不具合である、仕掛けておいた時限式地雷が消えてしまう欠点も、もう既に解消した。

無言のまま、手を動かす。ろくろを回すように、虚空に絵を描くように、オーケストラの指揮をするように。ゆっくり桐の周りを回転していた通常の盾にまじって、菱形の盾が動き出す。他よりも動きが若干速い。この盾だけは、確実に目標の動きを阻害する位置に誘導出来ないといけない。だから、少しだけ速さを他より上げてある。調整通りに動く事を確認して、桐は満足げに微笑む。

「基礎的な動きは問題が無いようじゃの」

「そうですね。 後は、本来の目的ですが、盾で試してみますか」

「ふむ、そうじゃな」

盾の一つを操って、少し離れた位置へと動かす。そして地面と水平にし、桐自身へ向けて最大速度で飛ばす。仮にも重量八十キロに達する盾だ。幾ら神衣の影響でタフになっているとは言え、直撃すれば命に関わる。操作は細心の注意を要する作業だ。自身へ向けて盾を高速で引き寄せながら、菱形の盾を割って入らせる。唸りを上げて飛んでくる丸盾は、菱形に真っ正面から激突した。自動車事故にも似た凶音が上下左右に飛び散り、眠っていた鳥たちが驚いて飛び立っていった。

「もう一度」

呟きながら、また盾を動かし、助走距離を取らせる。桐の額に汗が浮かぶ。元々桐はそんなにタフな性格ではなかったし、気が強い反面臆病な部分も確実にあった。母を救う事を決意するまで、一人で孤独に泣いていたのだ。今でも、戦いは怖い。今の修練だって、必要だと感じている自分がいる反面、怖いと思う自分も確かに存在している。だが、もう躊躇はしない。敵は全員叩き潰す。そして幸片を手に入れて、幸せを取り戻す。邪魔する奴は、例え誰だろうが容赦しない。

盾を飛ばす。さっきよりも助走距離は長いから、さらに速度は上がり、激しく菱形にぶつかる。菱形に、縦横無尽に罅が入り、触れてもいないのに周囲の砂利が飛び散った。狙い通りの結果だ。冷や汗を拭いながら、もう一度。最後は、性能実験の肝だ。

「最後、行きます」

「気をつけよ、桐。 理論上は問題ないが、桐が怪我をしたら、わしは悲しいぞ」

「ありがとう、八亀」

さっきよりも更に離れた位置に盾を飛ばす。最大威力で菱形にぶつけるためだ。どのみち、それで壊れるような耐久力なら、また作り直し。怪我をするなら、その程度の体術だと言う事だ。怪我を治してからもっと修練をするだけだ。死ぬようなら、そこまでの運命である。そんな程度で死ぬようなら、母など救えようもないし、自身に幸せも来やしないだろう。

暁寺で修練してから、武術の基礎は身に付き始めている。きちんと受け身を取るだけで体が受けるダメージは全然違ってくる。それによって自信も付いた。

盾を呼び寄せる。唸りを上げて、桐へと襲いかかってくる盾を、菱形が無言のまま待ち受けた。右手で盾を操作しながら、左手で十手を構える。無限とも思える空白の先で、再び壮絶なクラッシュ音が響き渡った。

 

家に戻ると、母の部屋を除いて、もう明かりが消えていた。足音と気配を消して自室に戻り、ベットに倒れ込んで一息。今回の訓練で、やっと菱形の実戦投入のめどが付いた。ほくそ笑みながら、天井を見つめる。後は以前から考えていた時限式機雷を早く実戦投入可能な状態にする事と、暁寺での修練をきちんとこなして、接近戦に持ち込まれた場合瞬殺されないようにすることが大事だ。後は順次細かく術を整備していけば、駆け引き次第でどうにでもなる。

僅かとはいえ疲れがたまっているのも事実だし、神子相争が多分近いから、これ以上疲労するのは望ましくない。どちらにしても、次の神子相争は出るつもりだ。ルーキー卒業、大いに結構。今後更に手強くなる神子達と戦う事で、自身が更に強くなれるのならもっと大いに結構。戦いが嫌いな反面、現状打開のための戦いには積極的な自分を見つけて、桐は少しだけ楽しい。

電気を消して、星明かりを見つめながら、布団に潜る。遠くで、八亀のお休みの挨拶が聞こえた気がした。

 

3,思惑交錯

 

その日の朝早くの事であった、神子相争が開始されたのは。今までは大体夜か夕方か、参加しやすい時間帯だったから、零香としても心の準備が出来ていた。しかし今回は早朝、しかもトレーニングが終わった直後だ。腕時計を見ると、時間にはある程度余裕がある。学校を遅刻する事になるかも知れないが、そんなのは風邪をひいたでごまかすだけだ。物事には優先順位というものがある。もっとハードな局面でそれを思い知らされ続けてきた零香は、それを頭ではなく体で知っていた。

説明は受けていたが、開始時間まで変動があるとは意外であった。どうするか聞く草虎に、参加する事を告げる。どっちにしても、今回は最初から参加するつもりであった。

竹林の端に、小休止に使う小川がある。側には丁度いい岩もあって、其処に背中を預けて休む事は時々あった。岩に背中を預け座り込み、草虎に参加の意志を告げると、次の瞬間には、もう意識が落ちていた。

 

すっかり慣れた、反転の感覚。枯湖についたときには、すぐに周囲を探り、最適な地形に移動する癖がついている。今回の戦場は、不思議な場所であった。金属で出来た森とでも言うのだろうか、黒い得体が知れない突起物が無数に立ち並ぶ戦場であり、足下は土ではなく錆びすぎて異様な色に変色した鉄板だ。突起物は木のように、幹を中心に枝状のものがせり出しており、それぞれで絡み合っているものも少なくない。触ってみると、やはり金属だ。多分鉄だろう。近距離だと見通しが良い反面、特に遠距離では全く見通しが利かない、独特の戦場だ。

歩いたときの音で分かったが、鉄板の下には地面があるらしい。何だか分からないが、すぐに感覚拡大キューブの術を唱え、展開する。黄龍の神子である由紀の気配を感じたからだ。現れた赤い掌大のキューブは合計十五個。周囲に浮いて、感覚を零香と共有、散らばって敵襲に備える。舌なめずりして、気配を消し、辺りを慎重に探っていく。今のところ、何処か遠くに玄武の神子桐と、それとの中間距離ほどに黄龍がいる事が分かっている。苦手な三つどもえ戦だが、今回こそ初白星を挙げたい所だ。

さて、どう動くか。そう思ったときには、もう敵が動いていた。黄龍が高速で移動を開始したのである。釣られて動きそうになるが、こらえて様子をうかがう。気配は此方に近づくのではなく、どんどん遠ざかっている。音からして、玄武を此方と挟み込む形に移動しているらしい。まあ、当然の判断である。背後に安全圏を作るのは当然の行動だ。

それにしても、この戦場のもう一つの恐ろしさが、これで浮き彫りになってくる。急いで移動すればするほど、音が隠せない。如何に上手い事気配を消しても、これではまるで意味がないではないか。ともかく、此処では遠すぎる。神輪に触れて術を発動、右腕に戦闘用の爪を出現させ、戦闘準備を終えると、零香は走り出した。

後手に回った気がして苛立ちが募る。もうどうせ居場所はばれているだろうし、隠れても仕方がない。キューブを従え、奇怪な鉄の木が無数に生える戦場を行く。玄武は全く動こうとしないのに対し、既に零香と逆側に回り込んだ黄龍は、積極的に攻撃を仕掛けているらしい。鈍い金属音が、零香の所にまで響く。前から思っていたが、やはり由紀は本来かなりポジティブで果敢な性格だ。テレビを見て騙されているお兄さん達は、かなり気の毒だなと、零香は間合いを詰めながら思った。

背中近くで立てていた尻尾が揺れる。本能が何をすればいいか伝えてくれる。張り出している枝を蹴って跳躍、わざと高い所に出ると、そのまま見晴らしがいい樹上を進む。遠くで、激しく飛び交う閃光と、悠々とそれを受け止める桐の姿があった。高速機動戦をしかける由紀と、盾を展開して攻撃を凌ぎつつ、相手の疲労を待つ桐。その構図が遠くから見て取れる。さてどうするかと思った零香は、念のため少し広めにキューブを展開、ジグザグに飛びつつ戦場に近づいていく。まっすぐ行ったのでは、桐が仕掛けた地雷に引っかかる可能性があるからだ。何もあの術が地面の中のみにしか仕掛けられないとは限らない。というよりも、こんな戦場で戦いを受けて立っている時点で、それは無いとも断言出来る。

どちらにしても、漁夫の利を得る体制に入れたのは大きい。桐はほぼ間違いなくあの位置での戦いを続けるだろうし、この戦場、遠距離にいる相手に仕掛けるには高速機動戦を得意とする由紀では不利だ。ヒットアンドアウェイが極めてやりづらいというのがその理由で、事実桐に対して攻撃を仕掛けてはいるが、いちいちワンパターンになってしまってイライラしているのが見て取れる。

しばし戦況を観察していた零香は、木から降りると、直線的に距離を詰める。もう少し近くで戦況を伺った方がいい。この状況で引こうとしない以上、由紀にも何か手があるのは明白。つぶし合いをしてもらうにしても、もう少し距離が近い方が好ましい。近い方が、絶好の好機に介入しやすいからだ。しかし近すぎると由紀が警戒して攻撃をためらったり、或いはターゲットを切り替えてくる可能性もあるから、普段とは違う意味での間合いの計り合いが此処に生じてくる。また、これ以上接近する場合、足場が悪い樹上は不利だ。足を止めたときには、既に二人の姿がよく見える場所にまで来ていた。木の枝の一つに取り付くようにして動きを止め、様子をうかがう由紀。複数の盾を傷付けられながらも、余裕の体で構えている桐。じわじわ再生している盾、ぎりぎりと歯を噛む由紀。どうも由紀は戦闘時に感情がどうしても表に出るようだ。これは今後、戦いに役立つかも知れない。本来戦闘時に感情を見せたり無駄口を叩くのは極めてよろしくないのだが、神使に教わっていないのか、或いはその方が力が出るから意図的にやっているのか。しばし観察させて貰う事にした零香は、腰を落として油断無く構えつつ、状況を伺い続けた。

 

零香の存在に、最初から由紀は気付いていた。だからこそ、勝負を急いでいたとも言える。重量級の桐は足を止めてぶつかり合うには相性が悪いし、あの時限式地雷はまともに喰らうと防御力の低い由紀には致命傷になりうる。更に零香はというと、一撃一撃の威力が大きく、こういった場所では安易に仕掛けられない。あれから充分に実戦を積み、修練を重ね、以前とは比較にならないほど近接戦闘での力を増した自信はあるが、それでも安易に仕掛けたくはないと言うのが本音だ。それに、近くにまで来た零香を見ると、妙ちくりんな術を展開している。手の内が知れている桐を先に仕留めた方がいいと、由紀は判断したのだ。それに由紀には自慢の快速がある。いざとなればすぐに距離を置いて、相手を振り回す自信があったのだ。

桐はゆっくり四つの盾を周囲に回転させながら、泰然と構えている。盾のいずれにも激しい攻撃を浴びせたから、かなり傷ついているが、それでも壊れた盾は一つもない。いや、それは否。わざと壊していないのだ。狙うは一つ。あのくそ忌々しいアブソリュートディフェンスを展開する陣から桐をたたき出す事。そうすれば、後は瞬殺してやれる。

零香は上手い位置に自身を置いていて、あの距離なら桐を倒す体制を作ってから、零香に攻撃されても避けきれる。そう由紀は判断した。あの妙なキューブも、恐らく攻撃術ではないはずだ。それが証拠に、いいタイミングで近くに来たというのに、それを使う素振りがない。

どちらにしても、仕掛けるのは今だ。由紀はバックステップして、三十メートル強の距離を置く。邪魔っけな変な木が一杯生えているが、その気になれば二三十メートルの直線くらい簡単に見付かる。そのまま神輪に触れ、術を発動。桐も神輪に触れるが、関係ない。多少の盾で、この攻撃を防げるものか。態勢を低くする。桐が菱形の妙な形の盾を呼び出す。関係ない。ぶっ潰す!

地を蹴り、一気に加速。轟と風が鳴いた。巻き上がる大量の錆び、吹き散らされるさび付いた鉄片。二十メートルで既に時速四百キロを超え、右手双剣を突きだした状態で吠える。

いっけえええええええええええっ!

超高速に加速された双剣を離す。否、自身の運動エネルギーを全て双剣に回す。超高速から、一気にスピードがゼロへ。対し、体重神衣併せて四十キロ超の、時速四百キロの運動エネルギーを上乗せされた剣が、直線の死となって桐へと飛ぶ。この剣の恐ろしさは、切れ味よりもその運動エネルギーだ。これを喰らえばトラックだって一発でぶっとぶ。しかも運動エネルギーは全部剣に行くから、自身が突撃する事もなく、危険性は著しく低い。名付けて、キネティックランサー。風を纏った双剣が、立ちはだかる菱形の盾に直撃して。

自分が砕け散った。

凄い音がした。どうしてか鉄錆だらけの床が大きく鳴り、木々がひしゃげる。吹っ飛んだ枝もあった。菱形の盾に、縦横に罅が入る。全エネルギーを剣に譲渡した由紀は、呆然と着地し、慌てて飛び離れようとしたが、相手の反応は更に早い。離れるより早く、地面に叩き付けられる。上から盾が降ってきたのだ。八十キロもの盾に潰されては、パワーのない由紀ではもはや逃れる事かなわず。悲鳴を上げるだけでも、上出来であったかも知れない。

「うああっ!」

「私を陣からはじき出して、その後に仕留める。 確かに強烈な質量攻撃であれば、如何に硬い盾でも関係なく、中の人間を押し出せる。 考えましたね、と言いたい所ですが……ごめんなさい、由紀さん。 その戦術、受けるの初めてじゃないんですよ。 聞いた話では、神子相争では良くある事だそうです」

「ぐっ! こ、このっ! こんちきしょーっ!」

「また会いましょう。 それでは」

ひっしにもがく由紀を見下ろしていた桐が、盾で視界を塞いだ。意味を知った由紀は、無駄だと分かっていたのに目をつぶった。今回、痛みはほとんど無かった。

 

由紀が時限式地雷で木っ端微塵にされるのと同時に、零香も動いていた。今の盾の術、どういう事だろうか。あの剣、どう見ても時速五百キロ以上は出ていた。まさか、とは思うが。試してみる価値はある。

無言のまま、零香は跳躍。後ろを見せている桐に突撃する。盾の一つが立ちはだかるが、それも予想済みだ。勢いを殺さず、そのまま拳を直撃させる。ダメージを受けていた盾は、ものの見事に砕け、吹っ飛んだ。無防備な桐が見えるが、振り返りざまに十手を振るってくる。クローと十手が弾きあい、瞬間、空白が産まれる。以前よりずっと素早い動きだ。暁寺で学んでいるのだから当然だが、しかし悔しい。間を全くおかず、無事だった盾が二つ、上から降ってくる。短期間で決着を付けられないと判断した零香はバックステップ、盾は自身を砕きながら、零香が立っていた場所に突き刺さった。

桐が神輪に触れ、新しい盾を呼び出す。零香はそのままサイドステップし、新しく出来た盾の反対側に回り込むと、再び突撃を掛ける。すると、予想通り菱形が高速で零香の前に回り込んできた。走りざまに、さっきへし折れた枝を拾い、自身は横っ飛びに逃れながら枝を投げつける。盾に枝が突き刺さる。これで、大体ネタは割れた。瞬間、零香寸前まで居た地点が炸裂、爆圧に逆らわないように体を泳がせ、木に身を叩き付ける事で止まる。元々さっきの由紀の攻撃で大きく傷ついていた木は、断末魔の軋りを上げながら、立ち上がる零香の横で倒れていった。

今ので分かったが、あの菱形、恐らく運動エネルギーを防ぐためだけに作られた術だ。その証拠に防御能力は全然大したことが無く、とっさに投げつけた枝程度があっさり突き刺さった。多分運動エネルギーを防ぐのではなく、周囲に散らすのであろう。辺りの破壊が、その推測が正しい事を物語っている。

正体が分かっても厄介な術だ。存在だけで質量攻撃への抑止力となる。さて、どう攻めるか。もたもたしている暇はない。こうしている間にも桐はまた新しい盾を作り、防御を固めている。更に以前は見る事がなかったが、桐には長期戦を必殺とする何かしらの切り札があるとしか思えない。ダメージを受けた盾がまだ残っている今を逃すわけには行かない。

そこで零香は飛び退き、無事だった木の一つに登った。枝から桐を見下ろす。怪訝そうに見上げてくる桐に、にこりと笑みを返した。外側から見ろ。先入観を捨てろ。桐にだけ着目するな。何か良い攻め手はないか。駆け引きで上回ろうと思うな、むしろ足下をすくう事を考えろ。

成る程、そういう手も確かにある。使えそうだ。周囲を客観的に見る事で、零香はそれをごく自然に見つけた。

丁度いい手が浮かんだが、問題は実行するプロセスだ。成功すれば駆け引きも何もなく勝てるが、しかしそう上手くいくとは思えない。必勝へつながる手だけに、どうしても気付かせてはならない。多分愚直な正面攻撃を囮にするくらいでは気付かれるだろう。そして気付かれたら、多分あの菱形の盾で邪魔される。質量攻撃を無力化するあの術、要は空間に打ち込んだ釘も同じだ。さて、どうするか。そう思った零香は、桐が五つ目の盾を召喚し、木の根本に叩き付けてきたのに気付いた。隣の木に飛び移るが、再び盾が木の根本を強打する。激しい激突音が響き、木が揺れに揺れた。何だかツキキズと戦った時みたいだと思いながら、隣の木に移ろうと跳躍し、気付いた。

「しまった!」

慌ててガードポーズを取るが、それが精一杯。零香は真っ正面から桐が仕掛けていた地雷の爆発に突っ込んでいた。

 

ものを考えているときは、とても単純な失敗をしやすくなる。零香は手強い相手だが、それもあくまで戦闘中の事。多分どうやって桐の足下をすくうか考えていたのだろうが、そう言うときこそ自分が足下をすくわれやすいのだ。木の枝の上に地雷を仕掛け、其処に見事に零香を誘導した桐は、如何にして次の手につなげるか考えていた。

時限式地雷は、相手から半径十メートル以上離れた地点でないと設置出来ないと言うリスクがあるが、コスト自体は小さく、引っかからなかった場合は任意で即座に撤去も出来る。設置出来る位置は、自分から半径百メートル以内で、何かに接していればオッケー。だからさっきは木の上に配置出来た。配置するまで十秒掛かり、発動時間が遠いほど火力は大きくなる。

無言のまま、盾も手元に戻す。すぐ側には、バラバラになりかけるほど傷ついた、菱形の盾が頼りなく浮いていた。キネティックシールドと名付けた、運動エネルギーを拡散させる性質を持つこの盾は、修練中に確認したとおり、術を組んだときに分かっていたとおり、防御能力に課題があり、他の盾とセットで運用する事が基本となる。事実、もう防御力は本来の三十%ほどに低下しているから、零香が質量攻撃を掛けてくるつもりなら、更に一枚は出さないと行けない。

盾を油断無く周囲に展開させながら、桐は様子をうかがう。濛々たる煙の中から、零香が出てくる様子はない。千切れた枝が、金属音を立てて床と激突した。元の素材が何か知らないが、物凄い劣化を経ていると一目で分かる。この地にいったい何があったのだろうか。そもそもこの地は、何なのだろうか。

右手を振り、盾の一つを心持ち持ち上げる。飛んできた零香が、それに拳を叩き付けてきた。ますますパワーも破壊力も上がっている零香の拳は、一撃で丸盾にひびを入れた。桐は盾を裏側から見る事が出来る。自身の盾で視界を遮られない事、それが盾の使用コストを上げているが、戦闘時の柔軟さを上げているトリックの一つだ。桐だけが向こうを見る事が出来るマジックミラーのようなものである。反則だと言う連中は、利津を見るが良い。飛行能力と常軌を逸したあの火力の方が反則だと桐には思えるのである。

飛びずさった零香は、相当な傷を受けていた。あの爆圧に正面から突っ込んだのだから無理もないが、それでもまだまだ平気で走り回るのは流石だ。多分爆発を受けたときにガードポーズを取り、なお圧力に逆らわなかったのだろう。桐の視界から逃れたのは、多分爆発に飛ばされたのを上手く利用して死角に潜り込んだのだ。半減したキューブを引き連れ、零香は反時計回りに回り込みながら、脆くなっている木の一つを桐に向けて蹴り倒してきた。眉をひそめた桐は、手を振って盾の一つを動かし、真横から倒れ来る木に直撃させて押しのける。その隙に零香は桐の背後に回り込み、再び拳を叩き付けてくる。殆ど同時に、更に一本木が倒れ込んできた。同じように盾で押しのけるが、今度の奴は回り込む過程で、クローでぶった斬ったのだろう。以前頸動脈を切断されている桐は、あのクローの破壊力を良く知っている。使いこなせば、コンクリートを紙のように切り裂くかも知れない。警戒しつつ、更に回り込みながら攻撃してくる零香と、倒れ込んでくる木を盾で払いのける。何だ、何を狙っている。疑惑が浮かび上がってきて、桐は不安を押し殺すように口中でのみ呟く。何にしても、このままやらせておくのはあまり好ましくない。陽動にしてもだ。恐らく、単純な戦術的駆け引きでは勝てないと零香は知っているはず。それなら、考えると思われる手は。

ぞくりと、背筋に悪寒が走った。同時に、零香が倒れた木の一つを抱え込み、ジャイアントスイングで叩き付けてきた。あれは流石に耐えられない。キネティックシールドを飛ばし、途中で受け止める。激しい爆発音が響き、盾も木一緒に、木っ端微塵に砕ける。新しいキネティックシールドを呼び出すべく神輪に触れる桐。ここぞとばかりに、零香は強烈に踏み込み、正拳突きを放ってきた。受け止めた盾の一つが砕ける。舌打ちした桐は、二つの盾を前面に出し、嵐が如くに繰り出される零香の拳の盾にする。具現化する菱形の二つ目、飛びずさる零香。かなり息が上がってきているが、まだまだ動ける様子だ。勝負に出るしかない。キネティックシールドを新しいのに変えた今、負けるとは思えないが、それでも念には念を入れる。周囲の盾も、連戦の疲労で傷ついている。新しい盾も作るたびにダメージを受けているし、このまま愚直な攻撃が続くのではないとすれば、かなり状況は厳しい。

零香が飛び退く。後ろに飛び退くのではなく、真横に。そして走り抜けざまにクローを振って、盾の一つを抉り去り、倒れている木の一つを脇に抱える。同じパターンの攻撃などしてくるわけがない。ところが零香は、今度は遠心力を最大限に利用し、木を真上から叩き付けてきた。ズズン、と地鳴りのような音が響く。零香の踏み込みと、桐がキネティックシールドで防いだものが重なった結果だ。抱えた木を放り出し、零香がカタパルトの術を発動させる。防ぐ自信はあるが、嫌な予感が加速する。盾をもう一つ呼び出し、動いた零香に併せて、真横から叩き付けた。

 

「ぐっ……あっ!」

蹌踉めいた零香。八十キロの盾に、真横から不意に体当たりされたのだから当然だ。まさか此処で攻撃に出てくるとは思わなかった。さっきの爆発に巻き込まれて肋骨が二本折れ、裂傷擦過傷は数限りない。それでも感覚拡大キューブのお陰で反応が早くなり、ダメージを最小限に出来たのだ。しかし、それでも、ダメージは着実に蓄積している。今の一撃も反応を若干早くする事が出来たのだが、それでも肋骨が更に二本砕け、そのうちの一つが、傷を内側から圧迫。傷口が大きく開いて、鮮血がしぶいた。エルボーを叩き込み、盾をはじき飛ばすが、脇腹の辺りはもう感覚がない。口から伝う血をそのままに、零香は床を踏みしめ、キューブを消して集中力を高め、詰めに入った。

そのまま、床に拳を叩き込む。桐が零香の目的に気付いたときにはもう遅い。わざわざジャイアントスイングで木を叩き付け、運動エネルギーを散らしたのも、わざわざ大げさに踏み込んで真っ正面から拳を叩き込んだのも。

全ては、適当に床を傷付けるため。しまったと桐が叫ぶが、もう遅い。

はああああああっ! りゃああああああああっ!

床に突っ込んだ手で掴み、全身の力を込めて、床を引っぺがす。めりめりと音を立てて盛り上がった床、桐が慌てて盾を操ろうとするが、遅い。真上に菱形を持って行かせたのもコレに対する備え。バランスを崩し、滑り落ちる桐。そのまま持ち上げた床を蹴り上げ、最後の反撃とばかりに突っ込んできた丸盾を掴んで抱えると、持ち上げた床の裏に蹴りつけ、カタパルトシューターをそれに向けた。

火力解放。

めくり上がった床を裏側からぶち抜いて自らの主に飛んだ盾は、アブソリュートディフェンスを失った桐を、致命的な勢いではじき飛ばした。桐は残っていた木に背中を強打、木ごと後ろに倒れ込んだ。ひくひくと痙攣しているが、枝が一本背中から腹に貫通しており、頭を半ば砕いていたようだから、もう助かるまい。事実、すぐに光り始め、消えた。

どうと後ろに倒れたのは、零香も同じ。二度の盾による直撃で、脇からは折れた肋骨と、内臓が見えている。今回は地形による奇襲で勝利を掴む事が出来たが、次はこういくまい。多分桐の事だから、次は必ず対策を練ってくるはずだ。今のだって、もう少し桐の反応が早かったら、どうなっていたか分からない。幸片が降ってくる。三つどもえ戦で初めての勝利を掴んだ零香は、無言のままそれを掴み、意識を失った。

 

がんがんする頭を押さえながら、どうにか間に合った学校へ駆け込む。頭をフル稼働させるため、激闘の後は精神への負担が大きく、肉体面の疲弊はないにもかかわらず疲れ切ってしまう事が少なくない。時間が押していたため慌てふためき、危うく岩塩のスティックを忘れる所であった。岩塩のスティックを忘れたら一大事だ、人肉を喰いたくなってしまったとき、押さえが利かなくなりかねない。下駄箱に靴を放り込んで、急いで上履きに履き替え、教室に無言で滑り込む。ギリギリセーフで、ほっと嘆息した。どうしてか、あまり問題でもないはずなのに、遅刻しないで良かったと思う辺り、まだ一般人の感覚が残っているのである。この辺り、神子相争でハードな殺し合いを経験している身としては、一種不思議ではある。

幸片は得たが、気分は重い。戦場を客観的に見たからこそ、あの奇策が思いついた。だが、桐はきちんと勝てているのだろうか。由紀はどうなのだろうか。相手に同情する事は不要だと分かってはいるが、何度も戦ううちに、どうしても親近感は湧いてくる。

「大丈夫だ、レイカ」

振り仰ぐと、草虎が触覚を揺らしていた。

「誰にも相性がいい相手と悪い相手はいる。 聞いた話によると、今の時点でだいたい由紀は三割半、桐は四割半ばの勝率を確保しているそうだ。 参加率から考えると、レイカと得ている幸片は大差ない。 レイカが気に病む事はない、遠慮無く次からも勝ちに行け」

ましてや、次からは神子相争の回数自体がぐっと多くなるのだ。遠慮する必要は、確かに感じられない。遠慮なんかしていたら、誰も助けられない。

最近の父は、すっかりやせこけて、顔色も良くない。恐らく、修練が上手くいっていないのだろう。以前見たあの女性は、確かに強かった。だが父が、其処までして勝ちに行かねばならない相手だとは、どうしても零香にはまだ思えない。きっと、まだ何かある。教えてくれないのは、零香がまだ子供だからだ。こういった甘さも早く克服して、父に大人になったのだと認めさせたい。そして、負担を少しでも減らして上げたい。

そう思いながら、零香は授業開始のチャイムを聞いた。学業の成績が落ちすぎると、また余計な負担を父に掛ける事になる。記憶喪失で苦しんでいる母だって、帰ってきて零香の成績がガタガタに落ちていたら悲しいだろう。そうはさせるものか。頭を切り換えると、零香は真面目に授業に臨む。戦いは、神子相争以外でも続いているのだ。

となりで、奈々帆が心配げに零香の横顔を見つめていた。

 

4,銀月家の泥流

 

暁寺での修練は、今日も学ぶ所が多かった。基礎トレーニングに関しても、竹林内部での戦闘訓練をかねたランニングと違い、純粋に足腰を鍛える目的の石段ランニングは、基礎能力そのものを高めるのに違うベクトルから役に立つ。年上の男子達との組み手は毎回色々な発見があるし、事実楽しい。丁度いい力の押さえ方も分かるし、さまざまな特性の相手と戦うのは面白い。

同年代の男子とはまだ組み手をしない。狼次郎に何故か聞いた所、零香はまだ格下の相手に技を教える実力ではないからだと、もっともな返答が帰ってきた。同時に、中学生高校生の修行者達と戦うのは、彼らに実戦経験者との組み手で、激しい実戦の息吹を感じさせるためだという。また、零香自身も、今後に備えて適当な手加減を学び、なおかつ強さをより錬磨するためなのだという。確かにがんじがらめに制約がついている今の修行は、零香としても学ぶ所が多いし、実戦でもかなり役立つ。今までさまざまな地形で戦ってきたが、特性がある戦場ほど、さまざまな制約がつくのである。

細かい技は、狼次郎ではなく、中畑を始めとする上位の連中に教わっている。拳の捻りや、蹴りの入れ方、さまざまな状況下における戦術など。零香は基本的に我流で強くなってきたタイプなので、どうしても細かい部分では数百年に渡って工夫を凝らされた武月流にかなわない。だから素直にむさ苦しい中畑と顔を合わせながら、細かい技の講義を熱心に受けた。中畑は技に対する疑問を幾らでも受付、それに対する議論をする事を好んだから、疑問があるときの応対相手には丁度良かった。

ただ、細かい技は教えて貰っても、奥義級の技に関しては、まだまだ早いと言う事で、教えてはくれない。これに関しては、零香も仕方がないと思っている。事実零香は若造だし、入ってすぐに新人がそんなものを学んだら、古参の人間は気分が悪いだろう。

寺での修練は、実に心地よい時間を与えてくれる。バトルマニアの零香は、与えられる知識を貪欲に吸収し、それを我流に再編しながら、自らの力にどんどん組み入れた。しかし、心地よい時間だけで、人生は構築されない。

いよいよ満を持して、銀月家の闇が動き出した事を、零香は気付いていない。

 

家に帰ると、珍しい人が来ていた。銀月家の顧問弁護士である、三日月坂介(みかづきはんすけ)である。スーツを内側から弾きそうなほどにぱんぱんに太った、如何にも人が良さそうな叔父さんである。

零香がいつも世話になっている人物だが、この手のインテリにありがちな高慢さとは無縁の、腰が低い男だ。実際は三十半ばで父より年下なのだが、髪の毛が大分薄くなっている事、元々太り気味だった事もあり、どう見てもそうは感じられない。実際には父の幼なじみで、子供の頃からの弟分だ。

三日月は分家の中でも特に地位が低い、(銀月)を名乗る事も許されない一族の出身だが、そういう意味では父だって外様だ。今では極めて有能な弁護士としての手腕を買われて、銀月家の法律関係、財産管理を任されている。一度ならず父に助けられた事があり、銀月本家に忠誠を誓っていて、その誠実さは外様の父を快く思わない分家の連中からも高く評価されている逸材だ。

その三日月が、居間で茶を飲んでいた。彼は零香の顔を見ると、人当たりの良い笑顔を浮かべた。零香もそれに表面上はにこやかに返すが、この人が家に来たと言う事は、ろくでもない事が起こった時だけだと決まっている。以前家に来たときは、母が失踪した時であった。その時は、半ば狂乱に陥っている父の咆吼を聞きながら、今後の財産管理と銀月本家の状況について聞かされたのである。

ランドセルを自室に置いてくると、零香はお手伝いさんに言って、茶と茶菓子を持ってきて貰った。このおじさん、見かけ通りの甘党で、特に今川焼きには目がない。今はストックしていないので、栗ようかんを持ってきて貰った。そろそろ外は暗い。父が修行を始める時間帯だ。

「どうぞ。 粗茶ですが」

「いやいや、すまないね、零香ちゃん。 いつもながら、本当に申し訳ない」

「社交辞令は結構です。 今日は何用ですか?」

電話の時はフレンドリーに話すが、今日は違う。というよりも、余裕がない、というのが正しい。これ以上ロクでもない事が起こったら、零香としては手の打ちようが無くなる可能性が高いのだ。

「うむ。 父さんは、まだあんな状況かな?」

「残念ながら。 壁を越えられないようです」

「そうか……。 林蔵さんがああも死にものぐるいに、周囲を見ずに動くって言うのは、本当に久しぶりだ」

「前にもあったのですか?」

「ごめんね、零香ちゃん。 それを言って良いと、お父さんに言われていないんだ。 いずれお父さんに聞いてくれると、僕は助かるよ」

額の汗をハンカチで拭いながら、あくまで腰低く、だが解答を拒絶する坂介。なかなかに大人の対応だ。零香も最初から解答を引き出せるとは思っていないので、笑みで返して、続きを促す。

こんな環境で暮らしているから、零香はきちんと敬語を使える。幼い頃から、母に教わっていたのだ。最近は実戦で度胸も付けたから、大人とこうして面と向かって話すのも怖くない。

「父が必死に取り組み、母が入院中である現状、わたしが用件を承ります。 話して頂けますか?」

「うむ、しかし……そうだね。 分かった」

実際問題、零香が次の銀月家当主である事は間違いがない。しかし、こう渋ると言う事は、余程大変な問題なのだろう。

坂介は、零香がどれくらい強くなったのか、多分知らない。いつも力になってくれてはいるが、逆にそれが頼りっきりになっているかのような印象を与えてしまうのかも知れない。父が大変な今、零香が頑張らないと行けないのだ。顔を上げる零香に、坂介は言った。

「少し難しい話になるが……分家の有力者達が、動き始めているんだ」

「分家の方々が、ですか?」

「特に副家の動きが激しい。 分家の連中に根回しをして、近く家督乗っ取りを掛けるつもりらしい」

家督乗っ取り。聞いた事のない言葉である。零香が続きと解説をねだると、少し悩んだ末に、坂介は言った。

「銀月家の本家は、ずっと同じ血族が継いで来た訳じゃあないんだ。 銀月家が、乱世の度に要領よく立ち回り、力を付けてきたのを知っているね」

「はい。 色々、良くない話は聞いています」

「うむ。 それで、銀月家がいちいちそういった行動を成功させてきたのには、訳があるんだ。 それは、本家を有能な人間が継ぐという仕組みなんだ」

考え込む零香の前で、坂介は続ける。必要以上に、額の汗を拭い続ける様が気になる。

「旧家には、主流の血統を重視する傾向が強い。 ところが銀月家に限っては、その時代その時代でもっとも大きな功績を挙げた一族が、新しく主流になれるという仕組みがあって、それが乱世には皆を奮起させてきたんだ。 事実今まで本家は、六回にわたって変わっているし、中には全く血縁のない家が主家になった例もある」

「ひょっとして、父さんが、いえ父が本家を継ぐ事が出来たのも」

「いや、それは……それについては、僕は話しては行けない事になっているんだ、すまない。 ともかく、今まで静かだった分家達が、団結して林蔵さんを陥れに掛かってきたのは確かなんだ。 此処はどうにかして、林蔵さんに動いて貰わないと……僕だけでは、もう歯止めにならない状況なんだよ」

「……」

大体状況は分かった。しかし気になるのは、何故今、と言う事だ。

考えてみれば、零香の家には不審な点が幾つもある。例えば、林蔵が本家の血筋ではなく、外様だというのは零香も知っているのに、何故分家達が当主になるのを認めたのか。母さんは本家の血筋の人間だと言うが、それにしては分家の連中が尻尾を振りに来る様子が一切なかったのも気になる。それに、時期だ。何故、今なのだ。乗っ取りを掛けにくるなら、母さんが失踪した時期が一番丁度良いはず。どうして今、機を逸したかとも思える今になって、こんな攻勢を掛けてきたのだろうか。

大体、今は銀月家の主要収入は副家が握って居るとも聞いている。本家は確かに土地や家を相当数押さえているが、副家を始めとする経営陣が必死になるほどに手に入れたいような地位でもないはず。確かに売り払えば相当な金になるだろうが、そんなものは一時凌ぎだ。

腕組みをして考え込む零香。副家の考えが分からない。分家達の動きの意味が理解出来ない。零香の後ろに浮いていた草虎が、呟いた。

「何やら、ややこしい話だな。 私にも不可解な話だと理解出来る。 どうして今の時期になって、そんな事を仕掛けてくるのだ?」

「坂介さん、分家の人達は、具体的にどんな事をして、父を貶めようとしているのですか?」

「うむ、一族の集まる会議があるのだけれど、いや、今は殆ど形骸化していて、出席しない人も多いんだ。 それにて、林蔵さんの不手際を指摘して、分家の人達に権力が副家に移動した事を見せつけ、その上で林蔵さんに退陣を要求するつもりらしい」

会社で似たような事が行われる事があると零香は聞いた事がある。以前ニュースで見たのだが、重役が結託して社長をクーデーターで引きずり降ろす事があるのだという。それをしようとしているのだと、零香は気付いた。父は重役会議とも言える一族の会議に出られる状態ではない。ならば、仕方がない。

本家の地位などどうでもいい。だけど、父さんの弱みにつけ込んで、下らない事を仕掛けてこようと言う根性が気に入らない。子供だからって、好きに出来ると思うてくれるな。零香は心中で決意を固めた。

「分かりました。 わたしが会議に出ます」

「そう、林蔵さんに言っておいてくれると……はいいっ!?」

「わたしが、会議に、出ます。 これでも銀月家の次代当主です。 ……それに伴って、坂介さんには色々と頼みたい事があります」

唖然としていた坂介は、零香の(頼み)を聞いて、うんうんと頷き、メモを取り始めた。零香はそう無理な事を言っているつもりはない。メモを取り終え、唖然としていた坂介は、聞き返すように言った。

「その、零香ちゃん。 本当に大丈夫かい?」

「坂介さんは、父さんが好きですか? 母さんは?」

「え? そうだね、僕をいつも助けてくれたし、尊敬しているよ。 今だって、あの人は僕の兄貴分だ。 英恵さんも優しいし、尊敬しているよ」

「ならば、一緒に、父さんと母さんのために戦いましょう。 分家の人達が何がしたいか分かりませんが、火事場泥棒なんてさせてたまるものですか。 本家とか関係無しに、此処はわたしの家です。 泥棒に入って、生きて帰れると思われては困ります」

立ち上がった零香は握手を求めて手を指しだした。力強いその様子に、触発された坂介は、しばしの沈黙の後、力強く手を取ったのであった。

 

(続)