老雄の拳
序、交わらぬ思惑と現実
凝った肩を叩きながら、ベテラン巡査長雪村里香は、様々な資料を整理する仕事に追われていた。周囲で忙しく働き回る同僚達も似たような状況だ。あくまで彼女は下っ端であり、上の刑事に言われるまま被害者会とのパイプ接続に奔走していたのである。重要な発表の際には、キャリア組の人間が出てくる。しかし、常に被害者の会や、個人の被害者と接するのは彼女であった。だから、原書レベルの報告書も書かねばならず、それに併せて上司にも相談せねばならない。何処まで発表して良いのか、タイミングはどうするのか。最重要機密はもっと上の立場の人間が扱っていたが、情報を扱う以上嫌でも彼女の耳に様々な雑事が入ってきて、事件の様相は見えてくる。そんな立場だったから、気苦労も多かった。同じ立場の複数の人間と協力しながら、雪村巡査長は今日も教団周辺を走り回る。仕事が一段落した彼女は立ち上がり、隣にいた同僚に言う。
「今日も何人かと連絡を取った後、身元不明信者の元を回って来ます」
「お疲れさま。 行ってらっしゃい」
自分も疲れ切った様子で同僚が言った。連日終夜の残業が続いていて、他人に構う暇など無いのが現状だ。
車を回して、教団本部の横を通りかかる。今日も積極的に警官達が中へ入り、聴取に余念がない。幾つかの建物は閉鎖されているようであり、右往左往する信者の姿が目立った。
警察の強制捜査が入った事で、抵抗する白炎会信者も少なくなかった。それもすぐに鎮圧され、公務執行妨害で逮捕されていった。監禁部屋と言われた、教団の意志にそぐわぬ信者を軟禁していた部屋やアパートも次々見付かり、それに伴って殺された信者や、教団の敵の死骸も次々見付かった。最終的な死者は十五人ないし十七人に達すると、警察上層部は見切りを付けていた。教団内部からは、麻薬取引の証拠も見付かり始めており、教団のなりふり構わぬ暴走ぶりが浮き彫りになっていた。
誰が元凶なのか、誰にも分からない。それがこの事件の特徴であった。誰もが欲に駆られて暴走し、誰もがそれを憎々しく思っていた。故に他の人間が犯人だと、犯人の全員が主張した。少なくとも七人が教団運営に関わっており、その全員が他の運営メンバーの顔と素性を完全には知らなかった。実際に殺人を犯した者達も、具体的に命令された者はおらず、殆どが強迫観念と使命感から手を血に染めたのである。教団内部で、一人として事件の全貌を掴んでいる者がおらず、複数の意見の中から真実を割り出していかないといけない。まるで推理小説か、もしくは質が悪い都市伝説だと、事件を調べて纏める立場の者達は呟いていた。大きくなりすぎたアメーバーは、脳味噌を持たなかったが故に、体を維持できずに、分裂する事も出来ず、砕けて溶けてしまったのだ。中から溢れ出たのは、腐肉と、それにまみれた大金であったのは、皮肉としか言いようがない。
衰弱したり、精神を摩耗させてしまった信者が、発見された教団支部から次々に運び出されていく。中には警察に搬送される事を拒もうとする者もいたが、彼らが残りたがる環境は極めて閉鎖的かつ不潔で、残して置くわけにもいかない。故に吠えながら暴れる者達は、半ば強制的に連れ出されていった。彼らの凶夢は何時醒めるのだろうか。見ている者は皆、やりきれない思いを味わうのであった。巡査長もそれは同じであり、同僚達に話を聞いてメモを取った後、すぐに場を後にした。そして、その足でそのまま病院に向かった。病院の受付で手帳を見せて、奥へ通して貰う。消毒液の匂いが嫌いな巡査長は、あまり此処を居心地良いとは思わない。此処には彼女が目を付けている信者の一人がいて、それからの事情聴取が今日の目的であった。病室の戸を叩くと、中から少し抑えめの声が帰ってくる。開けると、頭を包帯で巻いた女性が穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「こんにちわ、雪村さん」
「こんにちわ。 何か思い出しましたか?」
悲しそうに首を振るその女性。純粋なその表情が、同情心を強く誘う。
出家名とか言う変なものを使い、しかも社会から隔絶した生活をしていたため、身元不明の信者があまりにも多すぎて、事情聴取も上手く進まない。そんな状況だからこそ、出た身元不明者に対する扱いも軽かった。
ワゴン車から飛び出し、信者に追われてバイクに轢かれた女性がいた。それが今、雪村が相対している人であった。すぐに逮捕した信者達が口を一切割らないため、彼女に聞くしかなかった。だが、何分病院側から釘をさされたため、あまり強行には事情聴取できなかった。理由は簡単で、即座に情報を引き出せる状態ではなかったからである。厳密には信者ではないのではないかとも指摘されているが、それに関してすら分からない有様である。
どういう事かというと、病院に取り合えず収監された彼女は、命に別状こそないものの、記憶を一部失っていたのである。
一部と言っても、それは深刻な一部だ。生活習慣についての知識こそ残っていたが、自分が誰なのか、そもそもここ数ヶ月何をしていたのか、全く覚えていない状況だった。白炎会信者がユニフォーム代わりに着ている白い服を見ると怯える以外、特にこれと言って目立つ行動は見せていない。ただ、何かしなければならないと呟いていて、隙を見せると病院を抜け出そうとするため、念のため病院のスタッフが常に見張りについており、それが故に警察の聴取も難しかった。
仮に信者Aと呼ばれた彼女に巡査長が目を付けた理由は一つ。今関わっている教団被害者の一人、銀月零香。その子の母親ではないかと思ったからである。他にも何人か候補者はいたのだが、どうも彼女らしいと、当たりを付けた理由は幾つかある。女性らしい観察力に基づくものなのだが、造作が似ているのだ。目元はそっくりだし、鼻の形も大人と子供の差こそあれよく似ている。ただし、雰囲気が全然違うので、そこで断定は出来ない。加えて、若すぎる。零香の話によると、彼女の母は旧家の出身で、可能年齢に達するとすぐに結婚したという。だが、それにしても若い。雰囲気もそうだが、平均及び常識から乖離した様子と言い、多分お嬢ちゃんだったのだろうとすぐに判断は出来る。しかし、今の時点で断定するのもまた危険すぎる。カルトに上流階級の人間がのめり込む例など、枚挙に暇がない事だからだ。
とりあえず、仕事の合間に、時々事情聴取するしかないのが現状だ。その過程で、不思議と薄れていったものがある。
自分一人で健気に頑張る零香を見て、雪村巡査長はその母親を見つけたら説教と同時に一発頬を引っぱたいてやろうと考えていた。その怒りが、いつの間にか不思議と薄れていたのである。この女性の穏やかな笑顔には、怒りを中和させる、不思議な要素があるようであった。仕事上色々な人を見てきた雪村だが、故にこの人が善良なのだというのはよく分かる。善良が故に罪を犯す者も世の中には少なくないのだが、それともまた違う人種に見えた。また、様々な情報から、教団には人づてで連れ込まれて強制的に入信させられた者も多いと聞く。どうしても、この人が一時の迷いだとか、家族を捨てただとか、そういった行為に走る事は考えにくいのだ。同時に、優しい笑顔の裏にある痛々しい悔恨も見て取れる。記憶が一部失われているのは確かなのだろうが、やはり相当に苦しんでいなければこんな精神状態にはならないだろう。
「何か思いだしたら、すぐに連絡してください。 どんな些細な事でも構いませんから」
「はい。 ……わたし、こんな所で何をしているんでしょうか。 何かしなくては行けないはずなのに……」
「今は休みなさい。 貴方が救わなくてはならない人は、今きっと自分の力で頑張っていますから」
「……大丈夫でしょうか。 とても泣き虫の気がします」
もし今の言葉が零香の事だとすると、あの子はまるで別物のように強くなったというわけだ。あまり素直には喜べない話である。雪村としても、零香は可愛い。未来を作る子供には愛情を感じるし、健気に頑張るあの子は可愛いとも思う。後は、おかしな方向へ行かないように、大人が導いて行かねばならない。それに関しては、不安が大きい。何というか、虎のような圧迫的気配を感じるのだ。
もう二言三言話してから戻る。帰りに零香に電話する。最近あの子は何処かの道場に通い始めたとかで、それについて軽く話した後、進展がない事を説明する。まだ(彼女)の事は教えない。確報ではないし、もし違ったら明らかに落胆が大きいであろうから。こういう仕事をしている為、雪村はとても慎重な性格になっている。確信がなければ、彼女は動かない。
連絡が終わったら、後はひたすら残業だ。膨大な資料が、雪村を待っていた。
夕方の涼しい空気が、零香の頬を撫でる。見上げる先にあるのは、山を這うようにして伸びる、長い長い石段。段数は三百三十を超え、手すりもついていない無骨な石段だ。階段の左右は林になっていて、山の半ばにある目的地へと繋がっている。途中何カ所か踊り場があるが、年寄りにはかなり危険な作りである。石段の持ち主はこれを毎日弟子達と上り下りしているというのだからたいしたものだ。曲がりくねりながら登り行くそれは、小さな急流を思わせる。
ランドセルを背負ったまま、石段を軽く走りながら登り上がる。学校帰りだが、殆ど疲れはない。むしろ朝の自主トレーニングの方が疲れるくらいだ。丁度真ん中ほどで、上から降りてきた二十人ほどの集団とすれ違う。柔道着に似た衣服を身につけた少年達である。道着という奴だ。少年達の年は小学生くらいから高校生くらいまで。いずれも、地元で札付きのワル達だった連中だ。一人、零香が知っている人間も混じっているが、別に通り過ぎ際に目を合わせる事も声を掛ける事もない。まあ、最初に会ったときには驚いたが。
石段を登り上がると、其処には質素な寺がある。精神修養の一環として格闘技を取り入れる寺は幾つかあるが、その一つ。現在は武月狼次郎が武術師範として住み込んでいる、暁寺であった。住職は狼次郎に格闘技を任せっきりで、自身は坊主としての仕事に余念がない。本人の技量が十人並みというのが最大の要因であり、此処は上手く住み分けていると考えるとわかりやすい。
寺と言っても、生活環境もある。正しく生きる事が重要だとする仏教の根本思想から、戒律の厳しい寺になると、生活から全て修行だという場所もある。だが、此処はそれに関してだいぶ緩い。格闘技による更正に力を注ぎ、それによって着目されている場所だからと言う理由も大きい。生活用の建物として、敷地内には多少古めかしい作りの一軒家があり、其処の縁側では顎髭を伸ばした老人が、湯飲みで茶を啜っていた。傍らには三毛猫が丸くなっていて、なかなか絵になっている光景である。道着に身を包んだ老人の名は、武月狼次郎。父の格闘技の師であり、ついこの間から零香の師にもなった古豪だ。多分石段の途中から分かっていただろうに、狼次郎はお茶目に言った。
「おお、今日も来たな」
「はい。 今日も修練お願いします」
「うむ。 道着はもう用意してあるからな。 すぐに着替えてきなさい」
使った道着の洗濯は最初に指導を受けた際申し出たのだが、少ない仕事を減らさないでくれと断られてしまい、今でも洗って貰っている。ただ、この老人が人が良いだけの存在でない事もよく分かっている。多分その辺の後ろめたさも利用して、零香を上手く動かしているのだ。
女子更衣室等という気が利いたものはないから、水洗になったばかりのトイレでさっさと着替える。ごわごわした道着の帯を締め、裸足で板の間に立つと、気が引き締まるから不思議だ。老次郎がいる縁側へ歩きながら、零香は小声でいった。
「草虎、いる?」
「もちろんだ」
「今日辺りかな、神子相争」
「分からないが、可能性はある。 力を温存するつもりか?」
手を抜くと力を温存するは似て非なるものだ。零香は頷くと、障子を開けて、狼次郎の後ろに出た。古豪は既に茶を飲み終えていて、その隣からむき出しの土が覆った庭へ降りる。今までも山の中で生活した事はあったが、素足で土を踏むのは始めてで、最初は少し戸惑った。ただ、この寺では丁寧に石が除かれているので、最初の二三日を越してしまうとすぐに慣れた。
狼次郎の前で、軽く体を動かして、本格的なトレーニングに備えて筋肉を暖める。男子達が帰ってくるのとほぼ同時期に、本格的な訓練開始だから、まだ少し時間がある。筋を丁寧に伸ばしていく零香に、後ろから狼次郎が言った。
「ここ数日見せて貰ったのだが、基礎に関しては完璧だな。 林蔵にきちんと仕込まれていたものと見える」
「有り難うございます、狼次郎せんせい」
「ならばそろそろ応用と行くか。 時期的にも問題ないだろう。 軽く組み手をして貰うぞ」
「老婆心だが、やりすぎないようにな。 狼次郎師ならともかく、他の子供達は皆常識的な使い手だ。 何人かかなり出来るのもいるようだが、それでも力を入れすぎると壊れるぞ」
草虎が分かっていると知った上で釘を差してくる。零香としても、狼次郎相手ならともかく、普通の人間相手に本気を出す気など無い。というよりも、見たい覚えたいのはあくまで戦闘技術だから、ある程度パワーをセーブして戦うつもりだ。神衣の影響で既に零香の身体能力は並の人間を凌いでいるし、スキルだって同じ事だ。此処で修行を始めたばかりの子供など問題にもならない。狼次郎はまだ手を合わせた事がないが、迂闊に戦うなと本能が知らせてくれている。つまり、である。狼次郎には手を抜く必要がないが、子供らにはある程度手加減する必要がある。
この道場に来始めてから、少し気分が楽になった気がする。戦いによって道を切り開くという零香。戦闘技術によって精神修養と更生を図る子供達。彼らを見守る狼次郎。その環境がわずかながらの共通点を持っていたため、今まで草虎しか相談相手がいなかった状況が少しだけ改善した。結果、少しだけなら相談も出来るようになり、それで少しは余裕が持てるようになってきた。会話を共有できるというのはとても大きい。
「母さん、無事かな……」
ぼそりと呟くも、それは誰の耳にも届かない。遠くから、道着の団体が、寺に戻ってきた音が聞こえた。
1,四則演算
暁寺は、零香には心地よい空間であった。
零香が狼次郎に聞いた話によると、現在、暁寺には三十人ほどの子供が通って修練しており、そのうち七名は住み込みだ。零香を除いたいずれもが男子で、年齢は九才から十七歳。家庭内暴力、校内暴力、虐め、珍走団への参加等々、いずれも札付きの問題児だったものばかりだ。特に酷い七名が住み込みであり、その最年少が、一番最近入った山崎だ。そう、零香に叩きのめされて、学校を飛び出していった暴君山崎である。
山崎はとうとう親が手に負えないと判断したらしく、地元では有名な暁寺に連れてこられたのだという。学校からいなくなってから話を聞かなくなったが、なるほどそう言う事情があったわけだ。何回か脱走も計ったそうだが、いずれもすぐに取り押さえられている。狼次郎はプロだ。子供如きに足下をすくわれる存在ではない。今ではすっかり狼次郎に心酔し、拳を磨く楽しさを覚えたようで、零香としても結構な話であった。可能性は少ないが、零香の学校に復帰したとしても、奈々帆が虐められるような事はもうないだろう。復帰後のケアもきちんとしているため、狼次郎に恩を感じる元不良は多く、かなり幅広い年齢層に、相当な影響力があるのだという。何でも、その辺りのコネクションを知り、大量得票を目当てに接近してくる議員も少なくないのだとか。
近辺で更生施設として有名な暁寺だが、きちんと外部の人間に対する武術師範もしている。ほぼ更生した何名かはもう充分に性格的に立ち直っており、彼らやたまに狼次郎自身が出向いて指示をする。流派はそのまま竹虎流。古流としてはスタンダードな、打撃投げ技寝技、それに加えて武器使用を念頭に置いた戦闘のための、相手を倒すために構築された武術だ。そのためスポーツとは違い、門戸を叩いて指導を願う人間はかなりマニアックな嗜好の持ち主に限定される。当然の事ながら、半分ほどはただの冷やかしだが、中には真面目に通う者もいる。現在、子供で武術を学ぶために通っている者は零香だけだが、大人だと三名。いずれも実は道場で師範を勤めている者ばかりである。玄人を更に磨き上げる事を目的とした技術を、狼次郎は教えてくれるのだ。
更生施設としても、此処はかなり男臭い職場である。まずは力をもって狼次郎は子供を制する。子供に鉄パイプでも何でも好きな武器を使わせて、自分に挑ませるのだ。勝てたら下山して良いという条件付きで。元が札付きのワルだから、どいつもこいつも容赦なく殺すつもりで狼次郎に襲いかかる。未成年だから殺しても問題ないと考えている輩も少なくない。そして実力の差を見せつけられ、以降は言う事を聞くようになる。隙があればいつでもかかってきて良いと狼次郎は言っているが、寝込みを襲う事に成功した者が居るとは、零香は聞いていない。さもありなん、道場の隅に転がっている曲がった鉄パイプを見れば、逆らおうなどと言う気を彼らが起こさなくなったのにも納得できる。狼次郎は強い。父が敬服しているだけではないと言う現実を、零香は実績を見る事によって改めて納得した形である。
子供達の中に混じって、零香は軽く正拳、蹴り、その他基礎実習を行う。毎日やっている事なので、随分楽だ。だが手を抜かず、自身を磨き上げる意味も含め、拳を虚空に繰り出す。それぞれ百回ずつのノルマをこなすと、小休止が入る。縁側で茶を啜っている狼次郎が立ち上がり、子供達を見回した。
「うむ。 五田、大分拳が切れるようになってきたな。 山崎、お前はまだ腰が据わっておらぬ。 しばらくは基礎を中心に修練せい。 飯島はもう少し気合いが入らないと、永遠に下山できぬぞ」
「オス!」
「良い返事だ。 お前達は幾らでも伸びる原石だ。 この調子で修練に励め」
「オスッ!」
まるで空手部か何かのような、半時代錯誤的な光景だ。だがどういう訳か、美味しそうな汗の臭いも相まって、零香はこの環境が嫌いではなかった。性格的には落ち着いてはいるが、根本的に零香は体育会系の人間なのかも知れない。そのまま、今度は各自散って、軽く組み手を始める。零香は人数的に余ったので、設置してある案山子に、自主的に蹴りを入れ始めた。時々、最年長の子供が此方を伺っているのを感じる。零香の蹴りのフォームが非常に綺麗だとかで、技を盗もうとしているらしい。覗きは覗きでもそういう行為なら、零香としても大歓迎だ。
しばらく組み手が続いた後、狼次郎が手を叩いた。やめの合図だ。全員が狼次郎に向き直り、一礼する。目元に皺を寄せ、老師は言う。
「さて、少し前から皆と一緒に修練しておる零香だが……」
正式に此処に通う事になってから、狼次郎は零香にちゃんをつけなくなった。一人前として扱って貰っている証拠なので、零香としても嬉しい。
「上位の者はもう気づいておるだろうが、相当な使い手だ。 儂の愛弟子の娘で、格闘家のサラブレットとも言える環境にいたからと言うのもあるが、理由は無論それだけではない。 豊富な実戦を潜る事で力を付けてきた、今時のこの国には珍しい戦士だ。 だが惜しいかな、センスと身体能力は高くとも、まだまだ格闘戦闘術の技をあまり知らぬ。 逆にお前達には、ぎりぎりの戦いを通して得るようなセンスが足りぬ。 そこで、本来は此処で修行するよりも、山ごもりでもした方が手っ取り早い所を、此処に来て貰っている」
「よろしく、お願いします」
「オス!」
何人かとはもう軽く話した事もあるが、それでも正式に紹介して貰ったのは嬉しい。ごっつい汗くさい男達を前にして全く物怖じしない時点で、零香は相当に度胸がついてきている。
「小学生では勝負になるまい。 隼人純助、前に出い」
「オス!」
前に出たのは、確か今年で中学二年生、零香より四歳上になる隼人純助(はやとじゅんすけ)であった。去年までは手当たり次第に喧嘩しては覚醒剤まで吸うような、手が付けられない不良だったらしい。育児放棄してパチンコ通いしていた親と、金目当ての醜い争いを繰り返す愚かな親族の行動が原因だそうである。どちらにしても、今はもうすっかり更生して、熱血格闘技少年に生まれ変わっている。狼次郎の話では、後三年もすれば此処のリーダーを任せたいとかいう、かなりの逸材である。美男子ではないが、彫りの深い精悍な顔立ちで、一年間みっちり鍛えた結果体もかなりしっかりしている。野性的な容貌は、結構異性に人気があるのだとかないのだとか。
「零香、手加減不要。 純助も手加減不要」
「分かりました」
「オス!」
零香よりも十五pほど背が高い純助が、腰だめして構えを取る。手加減不要と言われても、流石に最初は本気を出さないつもりだろう。零香も本気を出すつもりはない。ただし、パワーだけは。両手をぶらんとたらして、零香は腰を落とす。狼次郎が何か言いかけるが、手加減不要と言われた以上、手を抜く気など無い。
「始めい!」
狼次郎の声が、場に響き渡った。
まずは様子を見ようと、じりじりと間合いを計る純助。零香はその場で動かず、相手の動きを観察する。もう充分観察はして大体の身体能力は分かっているが、念のためだ。どうしたものかとしばし考えていた零香だが、やがて考えを決めた。
相手が一歩踏み込んだ瞬間、二歩真横にずれる。ただし、ずれる速度が尋常ではない。視線で追おうとする所を前に出る。低い態勢のまま高速移動し、相手が慌てて向き直る所を跳躍。ガードしようとした所に、真っ正面から全体重を込めた蹴りを叩き込んだ。一回り大きな純助の体がもろにぐらつく。
「うっおっ!?」
気合いを入れる事もない。だから無言のまま蹴りの反動も利用して離れつつ着地し、更に真横へ破裂したような勢いで飛ぶ。二度、更に二度地面を蹴り、斜め後ろにまで回り込む。慌てた様子で純助が肘をうち下ろしてくるが、僅かに斜め後ろに下がる事でインパクト点から体をずらし、肘に触れて一気に地面へ向けてのベクトルを掛ける。同時に踏み込み、体が泳いだ純助に肘からの当て身を叩き込む。
「うあっ!」
接触点で爆発が起こったように、相手が反撃に出る前に離れる。パワーをセーブしているから、一撃で倒す事は最初から考えていない。今までのは、技を見るための予行演習だ。わざわざ追いつめて、挑発しているだけの事。これは死合いではない。だから、スポーツとしての戦い方をする。殺すつもりの戦い方であれば、最初に足を攻撃して機動力を殺した上で、頭か腹に体重を乗せた蹴りを入れている。或いは武器を使って奇襲する。脇腹を押さえて大きく息を付く純助を、零香は静かに見据える。さあ、技を出してきなさい。心中でそう呟きながら。
「さ、流石に強いな。 強いのは、見てて分かってたんだけど、よ」
あまり無駄に喋るのは感心しない。癖を教える事になるし、場合によっては性格も悟らせてしまう。そう零香は思った。零香の蹴りを観察していたのは高校生組の何人かとこの純助だが、零香も逆に観察していた事に気付いていただろうか。ぶらんと両手を垂らしたまま、零香は相手の行動を見守る。
「本当にあんた小学生か? 確かにすげえ身体能力だけど、俺だって此処で一年鍛えてたわけじゃねえ。 そろそろ、本気で行かせて貰うぜ」
「……」
「……おっかねえ子だな。 少しやりづらいぜ」
無言のままの零香に対し、大胆に純助は攻勢に出た。そのまま直線的に間合いを詰めてくる。幾つか手と攻防の際の対処を練っていた零香は、そのままゆっくりと斜め後ろに下がり、相手に方向転換を余儀なくさせようとした。その瞬間。ぞくりと背中に寒気が走った。
相手が低い態勢から、鞭のようにローキックを放ってきた。後ろに下がって避けるのがベストかと考えた零香だったが、辞めた。今の悪寒は馬鹿に出来ない。態勢を変える。地に這うように姿勢を低くし、肘ではね除けるようにしてローキックを迎撃、はじき返す。あまり見られないガード技だが、それも当然、零香の父が編み出したものである。自身にパワーがある場合、低い弾道の攻撃を受け止め、同じく低い態勢からの第二撃を受ける事を前提で使うものだ。受け止めきった後、反撃に出るか、攻撃次第ではそのままがら空きの腹に一撃入れるのが狙いである。ただ、教えて貰ったのではなく、以前見たのを盗んだのだ。がちんと響く激突音。蹴りの威力を殺しつつ、それすら利用して態勢を立て直しつつ、次に来る攻撃に備えて左手を挙げる。
この状況下、恐らく上か左かと思っていたのだが、顔面に真正面から拳が飛んできた。ふっと頭を下げて、打撃威力爆発点の寸前で、額で拳を受け止める。勢いを殺すためにも土を蹴立てて下がる零香は、先ほど感じた寒気を再び感じ、間一髪の所で真横へ飛び退いた。零香が今までいた空間へ、純助が拳を叩き込んだのは次の瞬間だった。今の拳は、踏み込むための布石だったのだ。「ぼっ」と凄い音を立てて、空気が鳴いた。
低い弾道へ拳を放った純助は零香の動きを追いきれず、もろに前のめりに体を崩す。そのまま真後ろに回り込んだ零香は純助に後ろから組み付き、チョークスリーパーホールドの態勢に入った。めりめりと頸動脈を締め上げ、あわてて外そうとする純助の手をはね除ける。狼次郎の手が上がったのはその瞬間であった。
「それまで」
「分かりました」
「……ぐっ! はあ、はあ、はあっ! 細い腕で、なんて力だよ!」
腕を放した零香は、今の悪寒の正体を知りたいと思ったが、寸前に本能に従って逃げたのは自分自身だし、文句は言えない。戦いに慣れすぎるのも考え物だ。よく見えなかったのだが、魔力だとか気だとか、そういうものを利用したわけでは無さそうだ。それに、秘技を教えろと言って、教えてくれる武術家がいるとも思えない。今のは負けてでも喰らうべきだったかと、零香は少し残念に思った。
気道も強烈に圧迫していたため、暫く純助は苦しそうにしていたが、零香としても拳は一応貰っているし、簡単に勝てる相手だと侮るのはもう辞めた。というよりも、さっきの悪寒を感じた拳撃は是非盗みたい。
「礼」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
頭を下げて、相手の健闘を称える。それに嘘偽りはない。事実、あまり零香としても油断の出来る戦いではなかった。結構、いやかなり強い相手である。狼次郎が数年後にはリーダーに、と考えるのも、零香には分かる気がした。
下がった純助に続いて、仲間の間から一歩出た少年がいる。高校生組の中畑武雄(なかはたたけお)である。身長百九十センチ強の巨漢であり、六年前から此処にいる古株だ。現在少年達のリーダーを務めている。
彼は少年院に入った経験もある筋金入りの不良であったが、狼次郎の手で立派に更生し、今では国立大合格を視野に入れているという。将来の夢は弁護士だそうだ。
四角い顎に太い唇の彼は、男という存在をそのまま圧縮したような人間だ。髪も豪快に散切りで、濃すぎて受け付けない人も多いだろう。しかも生真面目で無口なのだから余計に誤解を生みやすく質が悪い。それ以上に強烈に濃い父と一緒に生きてきた零香には、全然平気な人種だが。
「師匠。 次は俺が」
「武雄、お前では零香と体格差がありすぎて戦いづらかろう。 実力的には申し分ないのだがな。 そうだな。 幸康、お前が戦って見ろ」
「え? 俺っスか? 困ったなあ」
面々の中では、少し軽そうな男がへらへらと前に出た。高校生組の一人、長野幸康(ながのゆきやす)だ。生真面目な中畑と違い、師の言う事を守りながらも独自のファッションを貫くという変わり者である。狼次郎もファッションではあまり多くは言わず、修行の時に装飾具を付けたり髪を染めたりしなければ何も言わない。
幸康は高校二年生。今でこそ陽気な少年だが、数年前はやくざとまで関係を持っていた筋金入りのワルであった。当時はまるで抜き身の刃のような少年だったそうである。その関係をきちんと断ち切れたというのだから、改めて零香は狼次郎を凄いと思う。
「じゃあ、オス! よろしくーっす」
「よろしくお願いします」
連戦になるが、別に全然構わない。疲労もダメージも怪我もたいしてない。今度はひょっとして油断しなくとも上手く奥義を当てるくらいの事はしてくれるかも知れない。実戦ではない以上、別に零香は勝ちに拘っていないから、使える奥義を見て負けるのなら大歓迎だ。
幸康は純助よりも更に十センチ背が高い。普通に戦うのなら、何とかギリギリと言って良い体格差である。それに加えて、純助よりもずっと古株であるこの少年は、体つきも出来が全く違っている。一時期やくざの鉄砲玉に近い事をしていたらしく、力量が拮抗した相手と豊富に喧嘩をしていたため、総合力はともかく実戦経験という意味ではこの暁寺に通う少年達の中でもトップクラスだと狼次郎は言っていた。
互いに礼をして構えを取ってみると、確かに純助より強いと感じる。再び両手をぶらりと垂らして腰を落とす零香に対して、首をならしながらゆっくり幸康は構えを取る。武月流は幾つかの構えを実戦に応じて使い分けるよう推奨しているとかで、攻撃重視や防御重視など様々な構えがあるのだという。さっきの様子見をかねていた純助の構えと違い、幸康は左足を前に出して、最初から攻勢に出る気まんまんの構えを取っている。
最初に動いたのは、零香だった。あまり手が抜ける相手でもないので、積極的に攻勢に出て見ようと思ったのだ。ジグザグに間合いを詰め、下段からローを狙うと見せかけて、間に体を屈ませ、タイミングを計って顎を狙って高速でのジャブを打ち込む。下がりつつ体を反らしてかわす幸康に、今度は中段からの拳を間髪入れずに入れつつ、受け止められた所で間を詰めつつ跳躍、顔面にヘッドバットを叩き込む。拳を受け止めた事が却って徒となり、もろに鼻に頭突きを喰らった幸康は呻いて二歩下がる。そこで零香も密着状態のまま追撃に出ようとしたが、悪寒をまた感じて飛び退いた。そこで気付いたが、ダメージを受けたと見せつつ、左手は腰近くに溜めている。そのまま攻撃していれば、あれをもろに喰らっていただろう。何かしらのダメージに注意させて本命の攻撃をするというのは、例えばスリなどによく見られる技である。零香もそれに近い事をしたわけだが、まさかそれを逆用されるとは思わなかった。想像以上に手だれている。いや、別の何かを感じる。
鼻を押さえていた幸康は、痛そうにしつつも、零香を見直す。感嘆と、若干の苛立ち、それに僅かの殺気を込めながら。
「おいおい、今のをかわすか!? 頭突きもらい損っすよ」
「……」
これは機転とは違うと、零香はすでに気付いていた。マニュアルに基づくものだ。この行動の時はこう対処しろ。そういった指針がある事で、人間は本来の反応速度を超えて動く事が出来るのである。マニュアルの出来次第では却って足を引っ張られる事もあるが、数百年に渡って練られた力は恐るべきもののはず。死合いを含む実戦で錬磨した零香の直感を凌駕するか。
面白い。
周囲がざわめく。零香の気配が変わった事を察知したか。いや、これはむしろ喜ばしい。態勢が全く変わっていないのに、それを察知できる力はあると言う事だ。へらへらしていた幸康の顔からも、既に笑みは消えている。真剣に構えを取り直す幸康。ゆっくり相手の右へ、回り込んでいく零香。緊迫した空気が、弾ける。
「えおうっ!」
吠えると同時に、間合いを詰めた幸康が、鋭い拳を打ち込んでくる。囮だと瞬時に見抜いた零香は寸前で腕を跳ね上げるようにして弾き、第二撃を誘う。連続して繰り出されてくる拳を、ゆらゆらと揺れて避けながら、小刻みなステップも駆使して蹴り技を誘う。案の定隙を作って見せた瞬間、幸康が非常に綺麗な中段蹴りを左から放って来た。ガードをするが、体重が乗った蹴りを防ぎきる事は出来ず、零香はもろに真横へ吹っ飛んだ。だが、背中を打たせるような真似はしない。そのまま受け身を取りつつ跳ね起き、今度は低い弾道から襲いかかる。一連の動作が高速であったため、蹴りを出した幸康は態勢を立て直しきって折らず、そのまま足へのタックルを貰って倒れる。此方も綺麗に受け身を取って跳ね起きようとするが、その動きを読んでいた零香は寝技に移行せず一歩下がって跳躍、斜め上から肝臓へ向けて蹴りを見舞う。同時に、幸康は頭をガードしつつ、苦し紛れのようでいながら良く計算された反撃の拳を叩き付けてくる。
肝臓へ強烈に入る蹴り。普通に踏むだけならともかく、跳躍して加速度を付け全体重を一点に集中しての一撃だ。鍛えた幸康の腹筋を、零香の踵が強烈に踏み貫く。その間を縫って、零香の腹に入る幸康の拳。弾かれた両者。零香は地面を擦りつつ後退し、埃を払いながら立ち上がる。何て事もない様子で、幸康もガードに使った左腕をふりながら立ち上がった。膠着状態は一瞬。再び両者の間に火花が散る。
現時点でダメージは互角。天性の勘と身体能力を武器に攻める零香に対し、幸康のマニュアル化された対応は的確で素早い。腰を落とし構えた幸康から、また例の悪寒が漂い始める。使える技を見て負けるのなら大歓迎だ。さて、どう攻めるか。ゆっくり相手との間合いを計りながら、零香が考え始めた、その時。
「そこまで」
狼次郎のタオルが場に飛び込んだ。少し不満が残ったが、零香は礼をして戦いを終える。これは、暫定トップの中畑辺りには、パワーをセーブしたままでは勝てないかも知れない。顎髭を扱きながら、狼次郎は言う。
「ふむ、何か感想がある者は?」
「師。 俺としては、もう少し戦いを見たかった所です」
「血が騒いだか?」
「それもありますが、あの子の本気をもう少し見たかった、というのが本音です」
生真面目に言う中畑。何人かが彼に同意した。年少の組には、どうも零香の実力がぴんと来ない者もいたようだが、先輩が手を抜くわけもないと言う事で落ち着いたらしい。彼らを苦しめてきた贔屓や特別扱いは此処に存在しない。零香だって、皆と同じノルマを全く問題なくこなしているのだ。
「では、儂から幾つか言うておこうか。 零香、やはりお前はスキルが足りない。 今は実戦で磨いた直感でそれを補えてはいるが、力量が接近しなおかつそれに相応しいスキルを持った相手が現れたときに対応するのは難しいだろう。 お前の幼さで父が技を教えてくれなかったというのは仕方のない事だし、自身の鍛錬では限界がある。 良ければ、暫く此処で技を磨いていくが良い」
「はい。 有り難うございます」
「うむ。 良い返事だ。 次に純助。 お前は、儂が教えているこの武月流が、精神修養の手段であると同時に、最終的には殺しの技だと言う事を忘れておるな。 零香と幸康にあってお前にないものは、戦闘スキル以上に必殺の気合いだ。 倒した相手の事を背負える戦士となれ」
「オス!」
狼次郎の言葉は極めて現実的であり、それが零香には心地よい。ここで綺麗事をいうようなら帰る所だ。零香は嫌と言うほど知っている。戦いはしょせんつぶし合いであり殺し合いであると言う事を。零香が勝ち、幸片を手に入れれば、他の子がそれだけ幸せを先送りにしているのだ。
そして此処で修行すれば、それを更に加速する事となるのは明白だ。どうせ他の神子も、同じように工夫を凝らしてくるのだからおあいこではあるが、どちらにしても血塗られた道だ。綺麗事では片づかない世界に、幼くして零香は足を踏み入れている。
組み手が終わった後は、再び基礎演習に入る。零香は皆に交じって同一のメニューを問題なくこなし、終了時間が来た。泊まり込み組が夕食の準備を始めるのを横目で見ながら、零香はいう。
「狼次郎せんせい」
「何かな?」
「うん。 さっき感じた悪寒だけど、あれって何かの技?」
凄い音を立てながら空を抉った純助の拳。単に物理的に強力だから、あんな芸当が出来たとは思えない。幸康にしても、同じ技か、或いはそれ以上の技か、繰り出そうとしていたのは疑いがない。
「ふむ。 流石に気付いておったか」
「伊達に死線を潜っていませんから」
「……今の零香の戦闘スタイルは、よく考えて作られたものだと儂も評価できる。 戦略レベルでは問題がない。 しかし具体的な戦闘時のスキルになってくると、途端に直線的になってくる。 合理的であっても、直線的すぎて時々応用が利かない。 違うかな?」
「違いません。 その通りです」
狼次郎の言葉はもっともである。零香もそれが分かっているから、反論せずに話を聞いている。スキルが足りない。正確には、スキルに対する知識が足りない。その結果によって生じる欠点。どうすればそれを克服できるのか。全身を耳にして聞く零香に、茶を啜り終えた狼次郎は言う。
「今の零香の技は、良くできてはいるが、四則演算だな」
「しそくえんざん?」
「加減乗除とも言って、足し算、引き算、かけ算、わり算の事だ。 計算としては絶対に必要な四要素なのだし、計算式も非常に複雑だが、それ以上でも以下でもない。 更に上を目指すのであれば、もっともっと複雑な計算をしていく必要があるだろう」
ぴんと来ない零香は小首を傾げていたが、狼次郎は徐に立ち上がると、寺の隅に置いてある苔むした大岩の前に歩いていった。人間以上もある大きな岩である。重量は軽く数トンに達するであろう。訓練をしていた子供達が手を休め、一斉に視線を狼次郎に移す。何をするのか、零香にも分かったが、本当に出来るのかとも不安がよぎる。狼次郎は首を傾け鳴らしながら、言った。
「儂は年の割には力があるが、それもあくまで人間の中での話。 ライオンやら象やらに勝てる筋力ではないし、単純な物理的パワーでこの岩を砕く事など絶対に出来ぬ。 しかしながら、儂はこの岩を砕く事が出来る」
狼次郎がゆっくり腰を落とす。構えを取る。攻撃重視の、左手を僅かに前に出した構えだ。同時に、さっき感じたものとは比較にもならぬ、最大級の悪寒が零香を襲ってきた。生唾を飲み込んだのはいつぶりだろうか。神子が扱う強烈な術を見、体で味わってきてから、とんと忘れていた感覚であった。息をのむ零香の前で、構えを完成させた狼次郎が、疾風の如く突きを繰り出す。
「ふうんっ!」
繰り出された掌底が、岩を直撃した。全ての力を、筋肉を伝達する事で岩に流し込んだ事だけ、零香には見て取れた。
インパクトの瞬間、発生した音は小さかった。だが、発生した現象は強烈であった。岩の表面を、波が伝っていく。そう、零香には見えた。その波は岩を全て覆い尽くし、そして。
岩が真ん中から、木っ端微塵に砕け飛んだ。
ばらばらと瓦礫が落ちてくる。岩は根元から粉砕され、小石が辺りに散らばる。いずれも非常に綺麗な切断面で、切った後に磨いたかのようであった。
「……!」
「ふむ、あり得ない、か?」
「は、はい。 失礼ですけれど、そう思ってしまいました」
神衣を使うか、或いは術を使えば、こういった事が出来る可能性はある。神衣で強化された肉体でも、それは同じであろう。今の零香には無理だが、後一年くらい修練を重ねた後ならば可能かも知れない。ただ、これは幾ら何でも常軌を逸している。今起きた現象は、生身の人間が、しかも老人がやった事なのだ。
其処まで思考を進めて、足下から震えが来た。手合わせした連中、本当に手加減していなかったのだ。半分は武者震いだが、半分は恐怖。もしこれの直撃を貰っていたら、内臓破裂程度ですむわけがない。神衣の上からでも危ない。
狼次郎は何処までも上手であった。零香の思考を読んだかのように、埃まみれになった道着を払いつつ口元を軽くつり上げた。
「案ずるな。 零香の体を再起不能にするほどの一撃は、あの子らの技にはない。 これは、そうさな。 儂の他には、そなたの父や、他に数少ない直弟子達しか出来ぬよ。 ただし、仮にあの子達の同一技でも、喰らって無事ですむと思うなよ?」
「思いません」
「うむ、いい返事だ。 現時点では、さっき逃げた際に見せた本能と直感、あれを更に磨き上げていくと良い。 それに此処で学ぶ戦技を合わせていけば、じきにそなたの父を超える事も、そしてこの儂を超える事も容易じゃろうてよ」
ぎゅっと拳を固めた零香は、自身の直感が告げていた危険の大きさに、改めて戦慄していた。
その日は、後二三言師とかわしただけで帰宅した。帰る途中、零香は呟くようにして草虎に問う。辺りは既に暗くなり始めていた。
「ねえ、草虎」
「うん?」
「他の子は、どんな苦労しているのかな」
「そうだな。 大体皆そろそろだろう。 我流では飽き足らなくなって、気分転換か方針転向をはかるのは、珍しくも何ともない。 神子は皆行う事だ。 それに、過剰同調は遅かれ早かれ誰にでも出る。 神使も全力でサポートに当たるが、苦労するのは皆同じだからな」
今のところ、人肉を食いたくなった、というショックに関してだけは、落ち着いている。ただし、今日も汗を美味しそうに感じたし、いつどんなきっかけでそれが暴発するか分からない。草虎は手を打つと言ってくれたが、自分でも心を磨かないとと、零香は思った。ここ数日での修行は、充分な気分転換にはなった。そう言う意味で、大きな成果は上げる事が出来た。余談は許さないが、一息ついた形だ。
その後も二三話をしながら帰宅していたが、人目の付かない所で、不意に草虎は移動を止めた。
「レイカ」
「はい?」
「これを渡しておく。 どうしても食欲が押さえきれなくなったら、舐めるか囓るかするといい」
触手をするすると伸ばして、何処からともなく、草虎は巾着袋を取りだした。リコーダーが入りそうなほどに長細い袋だ。二本の触手を上手く使って器用にそれを剥く。中から出てきたのは、うす紅色の長細い袋だった。袋の中から更に袋。零香が手にとって開けてみると、中から白いスティック状のものが出てきた。指先で弾いてみるとかなり硬い。無臭で、手触りは少しざらざらした。
「何、これ。 食べ物?」
「岩塩だ。 食べやすく持ち歩きやすいように加工した品で、以前色々あってつてを回して調達できるようにした」
「……ひょっとして、先輩に酷い目にあった子がいたの?」
「ああ。 その通りだ。 レイカは鋭いな」
こんな予想が当たっても嬉しくはない。どっちにしても、過去の先輩も苦しい思いをしながら戦っていたと分かっただけである。その産物が、これ。少し触り回してみたが、ほぼ間違いなく量産品だろう。先端部分を口に入れて、軽く噛んでみる。少し苦いような、独特の絡みが口中に広がっていった。物凄く塩っ辛いが、同時に強烈に美味しい。中毒性すら感じる。そして、今まで感じていた塩への渇望が収まっていく。消えはしないが、随分と小さくなっていく。
岩塩のスティックから口を離す。随分と長い間噛んでいた気がする。また、口を離すのが随分と大変でもあった。接着剤で吸い付いたかのように、岩塩の魔的な味は、零香の舌と唇を束縛していた。
「一時凌ぎにしかならない場合もあるが、理性が飛びそうになったら迷わず口に入れると良い。 きっと、致命的な事態だけは避けられるはずだ」
「うん。 ありがとう、草虎」
「製品を定期的に得るための手続きに手間取ってな。 これからは定量を定期的に補給できるから、安心してくれ。 すまないな。 苦しい思いをさせた」
「ううん、いいよ。 大丈夫、まだ我慢できたから」
今朝、奈々帆を始めとする友達を八つ裂きにして内臓を貪り食う夢を見た。そしてそれは実現しかねない夢だった。だから、今日は学校が終わったら、いの一番で道場へと足を運んだ。何とかしばらくは耐えられるはず。あの技を何としてでも修得し、神子相争に勝ち残り、母さんを、父さんを助ける。その間に、どうにかして精神を鍛え上げたい。
今後、自分は狂気と戦い続ける事になるのだろう。それを敏感に零香は感じていた。岩塩のスティックをもうひと囓りしながら、彼女は呟く。
「次も、絶対に勝つ」
「その意気だ」
草虎の言葉が、零香には心強かった。
2,炎の神子
南アルプスの中腹にあるこのログハウスは、姉妹が一族から捨て扶持として与えられたものだ。暮らしやすい場所だが、一族が塵処理場と嘲笑混じりに呼んでいる事を、利津は知っている。
赤尾家の朝は早い。まず最初に起きるのが、三姉妹の真ん中に位置する利津だ。目覚まし時計などもう必要ない。体内時計は異様なまでな精度で澄み渡っていて、前後五分の誤差で問題なく起きられる。大きく伸びをして、頭をくしゃくしゃと掻く。いつものように髪が爆発している事に気付く。外れているパジャマのボタンを付けなおしながら、小さな体の利津は布団を抜け出し、ぱたぱた走って洗面所に向かった。隣では妹の佐智が、まだ静かに寝息を立てている。
手足の短い利津は、すらっとした姉とは対照的な姿である。小学校高学年にもなって、ようやく洗面器に届くのがせいぜいという小柄な彼女だが、今はもう気にしてはいない。姉があんな事になる前は、随分励まして貰ったし、その励ましを追い風にして同年代の子供程度にはどうやったって真似できない身体能力だって身につけたのだ。コンプレックスに押しつぶされず、生きてこられたのは、姉のお陰だ。そう利津は考えている。だから、絶対に助けなければならない。
歯を磨いて、頭にお湯をぶっかけてさっとセッティングする。タオルで剛毛を拭きながら、急いで髪ゴムを取りだし、ポニーテールに結ぶ。そうでもしないと、髪の毛が全くまとまらないのだ。ポニーテールに結んで綺麗に髪が垂れる子が羨ましい。利津の後頭部はまるで箒のような有様で、とてもではないがポニーテールとは呼べない。だが、今はファッションの事などどうでも良い。一時期、髪をショートにする事まで考えた。
姉の部屋は見ない。もし起きていたら、ものが飛んでくる程度では済まないからだ。二度の挫折ですっかり心をくじいてしまった姉は、疑心暗鬼と自己嫌悪と環境憎悪の虜になってしまい、すっかり快活さを無くしてしまった。姉を元に戻し、幸せを得るためにも、今は共にいる事が出来ない。分厚い靴下を穿いて、登山にも使える頑丈な衣服をしっかり着込むと、玄関に出る。恐竜のキーホルダーを手にとって、カギを掛けて外に出ると、其処には幻想的な光景が広がっていた。
まるで水墨画のような、二色の世界。何処までも広がる霧の原野の中、ぽつりぽつりと浮かび上がる巨木の影は黒い。朝露をたっぷり浴びて撓る草の影では、正体も知らない虫が鳴いている。最初見たときは感激のあまり涙が流れたものだが、今では山菜が取りづらくなるので、鬱陶しいだけの光景だ。もう流石に迷子になる事はないが、それでも霧が出ていると寒いし濡れるし道は分かりにくいしで、色々と面倒くさい。佐智が霧の中で迷って死にかけてからも、霧はあまり好きでなくなっている。他にも、何か勘に障るというか、霧そのものに嫌悪を覚えていた。
「おはよう、りっちゃん」
「おはよー、祭雀、ですわー」
大あくびしながら、利津は外に置いてある大きな鋏を取った。山菜を収穫するためのものだ。殆どの山菜は手で千切って持って帰る事が出来るのだが、幾つかはそうも行かないので、こういった補助用の道具が必要になってくる。他にもズタ袋を肩に掛け、山菜取りと修練の準備は完了した。
妙な「ですわ言葉」と、ゆっくりした喋り方は、実家で叩き込まれたものの名残だ。野性的な生活を始めても、体に染みついたこれはどうしても抜けなかった。野性児そのものの容姿を持つ利津の口から、丁寧なようで間延びした妙な語尾が出てくるのは、絶大な違和感を周囲に生じさせる。もごもごと口を動かして、眠気をかみ殺そうとするも、あまり上手くいかない。涙が出てきたので、手袋を外してハンカチを出して拭う。顎があまり強くない利津は、硬い肉もナイフとフォークでばらばらに分解しないと食べられない。「口」は、利津にとっての鬼門だった。せり上がってくる不安を押し殺すように、ひらひらと体を波打たせながら祭雀が言う。
「じゃあ、始めようか、りっちゃん」
「わかりましたわー。 で、今日は、通常メニューだけー?」
「そうだね。 攻撃術はまだ難しいから、浮遊、観察、そして収穫。 霧が出ているけど、問題ない?」
「大丈夫ー」
鋏を左手に持ち替えると、右手人差し指を立て、空に印を切っていく。四つの印を切り終え、口の中で七つの呪文を唱える。そして、僅かに下り坂になっている霧の坂を走り始める。術を発動させる、最後のフレーズはまだ言わない。図抜けた身体能力にものを言わせ、一気に加速し、それが一定速度に達した時点で、利津は跳んだ。
「開けよ、翼っ!」
背中に、紅い翼が広がる。それはグライダーのように、風を受けて浮き上がるためのものであり、羽ばたき飛ぶには心許ない。そのまま風に対して体を寝かせ、上昇気流を利用してどんどん高度を上げていく。水墨画のような白と黒の世界の中、浮き上がる紅い翼一つ。
今日も、一日が始まった。
背中、いや背中の少し上の空間に具現化した翼。鳥の翼と違い、ただ風を受けて体を運ぶだけの、板に近い存在。両手を横に広げて、朝霧の中で飛ぶ利津は、ずば抜けて良い視力を駆使して、辺りを見回す。
山菜の幾らかは、とっくの昔に見つけている。今祭雀に行わされている訓練は、それを如何に効率よく採取するかというものである。大味な利津の性格を少しでも補うため、戦術面の鍛錬をするのが目的だと、祭雀は言っていた。戦力を整備して、有無を言わずに叩き潰す。それが利津の戦い方だが、それも今後は絶対に通じなくなってくるから、今のうちに鍛えておく。それが祭雀の言い分だった。
「どう? 上手く集められそう?」
「うん。 やってみますわー」
印を切り、徐々に翼を小さくして滑空を開始。この辺の森は、もう利津の庭に等しい。何処に何があるか完璧に分かるし、山菜が何処でどれくらい生えているかも理解している。それでも、空からそれを眺めると、毎日新しい発見がある。新しい発見で情報を上書き修正し、更に集めやすいルートで山菜を集めていくのだ。
速度を落としつつ、どんどん地面に近づき、地上二メートルほどの所で術を解除。地面に飛び降り、走りながら勢いを殺していく。茂る草を蹴り立て、利津は走る。小さいが、利津は動きがすばしっこく、体も頑丈でこの程度は全く苦にならない。最後はブレーキを掛ける。跳躍して、スライディングするようにして草の上を滑り、止まる。ズタ袋を小脇に抱え直すと、周囲を見直して、利津は走り出した。さっき決めたルートを再確認し、木々の間を走り抜ける。最初に手に取ったのは秋の七草の一つにもなるクズである。芽を食べられるが、取りすぎると来年取れなくなってしまうため、採集量には結構気を使う。幾らか採集した後は、すぐに次へ向かう。朝露に濡れた葉で足や手を切りやすいので、走るときには気をつける必要があるが、慣れている利津には問題ない。ふっと足を止めて、空から確認した水菜を確認、どれくらいの採集が適当かしばし考えた後、何株か採る。時間のロスは出来るだけ押さえたい。更に、サルナシの実が丁度良かったので、そのまま何粒かむしり取る。後はメインディッシュが欲しい所だが、これは山芋を掘る予定である。そろそろ丁度いいのが三株あるのだ。今向かっているのはその中の一つ。細かい野草を幾つか採取しつつ、利津は走り、やがてメインの山芋の前にたどり着いた。
呼吸を整える。朱雀の神衣によって、あまり身体能力は向上していない。向上したのは直感と魔力、それに視力。山芋の側で腰を落とし、膝を抱えてしばし観察する。これは山芋の構造と言うよりも、周囲の土の様子や、茎の強度から、どう引っ張ればいいのかを見るためだ。考え込んだのは十三秒ほど。すぐに周りの土を掻きだし、掘る準備を開始する。手慣れた動作から、すぐに側に土の山が出来ていく。汗を手の甲で拭いながら掘る利津に、後ろから祭雀が言った。
「いけそう?」
「うん、問題ないですわ。 せええ、のっ!」
茎を掴んで踏みしめ、ぎゅっと引っ張る。最初の頃は軍手を使っていたが、今はもう素手で大丈夫。短い手足を最大限に使い、全身をてこにしバネにして、ゆっくり、だが力を入れて引っ張る。引っこ抜くと言うよりも、引きずり出していく。摩擦と、芋の強度を考えながら、微調整を加えつつ引っ張る。長い山芋は、力の入れ方を間違えると、すぐにへし折れる。土の中から、山芋が抜けていく感触を感じながら、気合いを入れて最後の一踏ん張りだ。
「えええい、たあああっ!」
小さく叫びながら、一気に引っこ抜く。同時に力そのものが宙に浮く感触で、体が流れ、思いっきり尻餅をつく。汚れても良い格好で来ているとは言え、結構もろに朝露を浴びた土を浴びて、かっこわるい。
「えへへへー、かっこ悪いですわ」
「何を言うんだ、りっちゃん。 ほら、頑張ったから、こんな立派で美味しそうな山芋が取れたよ。 朝ご飯は絶対楽しいよ。 だから、今日も頑張ろう」
「うん。 ありがとうございます、祭雀」
今日、今まで利津は一度も笑っていない。多分、今日も利津は笑わない。笑顔に近い、沈痛な表情を浮かべる事は出来るが、それだけだ。
元々、この孤独な少女にとって、笑顔は最近身につけた表情なのだ。それをくれた人が、笑わなくなってしまったから、また消えてしまったのだ。
山芋を抱えなおし、家路に就く。隣をゆらゆら進みながら、祭雀が言う。
「どう? 魔力は充分?」
「うん。 そっちは絶好調ですわ」
「そう。 それなら大丈夫だね」
それだけの会話であったが、利津は敏感に、次の神子相争が近い事を感じていた。勿論参加するつもりだ。まだまだ幸片は全然足りない。
次も、絶対に勝つ。そう誓い直すと、利津は少し小走りに、家へと帰るのだった。
赤尾家は此処最近のし上がってきた一種の「名門」である。昔は貴族だの華族だの、先祖の功績はあっても何の実績もない血筋のみの人間が「名門」と呼ばれたものだが、最近は違う。最近、名門の条件は、むしろ保有する実力と金銭に依存するようになっている。そんな中、赤尾家は一風変わったやり方で、社会の上層に自らを押し上げてきた一族であった。
赤尾家はスポーツにおいて、傑出した集団であったのだ。
初代の赤尾一成(あかおいっせい)はフルマラソンのオリンピック銀メダリストであり、彼の一族には運動能力に優れた者が少なくなかった。一成は一族の中心として、スポーツに優れた者との交配的結婚を順次執り行い、血の強化に奔走した。そして彼がスポーツを辞めた頃には、国内最大のスポーツ一族という、類を見ない不思議な名門が誕生していたのである。一成の最初の動機はよく分かっていない。国から援助金を引き出すためだったとも、単にスポーツが好きだったからとも言われているが、一成が亡くなった今としては分からない。何にしても、血統強化は絶大な効果を示し、超一流のアスリート達が次々に産まれ、膨大な成果が上がった。国からの援助もあったし、その名声が産み出す宣伝効果もあった。最初に近づいてきたのは、むしろ上流階級の方であった。だが、何が最初だったかなど、あまり意味がない事である。単純なスポーツ好きが、朱に交わって紅くなるのに、時間は掛からなかった。赤尾家が、古い体質の家制度に囚われた集団だったというのも、悪い要因の一つであった。更に、日本のスポーツ界が最近メダルから遠のいており、職業技術集団の誕生が待ち望まれていた事も、悪い要因となった。それらが重なり合った結果、膨大な実績を上げた赤尾家は、スポーツ界において治外法権的な地位を得たのである。押さえるものが無くなった彼らは、するべくして暴走を開始した。
現代社会において、権威は実績に付随する。これは昔よりずっと公平で結構な話なのであるが、いつしか赤尾家では権威を求めるために実績を追求するようになってしまっていた。上流階級と接した事で、唸るような金が流れ込んできた事が、その一因である事は間違いなかった。赤尾家は、金に目がくらんでしまったのだ。以降は品種改良のための教育と血統整備にますます血道を上げるようになり、膨大な実績を上げていったが、その課程でさまざまな犠牲者も産まれるようになった。その一人が、利津であった。
赤尾家では、頑健な肉体を持っている事がそのまま家内での地位であった。背が高い事もその一つに含まれ、容姿などは二の次である。利津を見た両親は、ことあるごとに彼女をなじった。背が低い事は、即ちスポーツで実績を上げられない事だと、利津の両親には映ったからである。何を食べさせても、何をさせても、利津の背が伸びないと悟ると、苛立ちは虐待に代わった。
赤尾家内部では、「出来の悪い」子供に対する虐待が公然と認められており、一族内での結束を図るための潤滑剤とされていた。そんな環境だから、利津は正に格好のターゲットであった。更に、(利津を産んだせいで一族内での地位が貶められた)と考えた両親によって、陰湿な、それに加えて暴力を伴った虐待が、容赦なく利津に加えられるようになった。利津には姉が一人居たが、彼女は虐待を黙認こそすれ庇ってくれるような事は一度もなかった。
遠足のお弁当には焦げた卵焼きが乱暴に詰め込まれるようになり、買い物に行きたいと言うと露骨に嫌な顔をされた。笑顔など向けられた事はなく、日常的にお前は一族の恥だと罵られ、何か失敗をしたり勘に障ってしまったりすると、(しつけのために)容赦なく暴力が振るわれ、夕食を抜かれた。三日連続で夕食を抜かれ、栄養失調で倒れかけた時、親は事もあろうに好き嫌いが激しくて殆ど何も食べないのだと開き直った。親の名声がものを言い、教師はそれを鵜呑みにした。給食を利津が残した事などないというのに。名門学校の教師であると言う事も、その悲劇を後押ししていた。そういった学校の関係者は、スポンサーともなっている金持ちの親には逆らえないのだ。下手に逆らえば、簡単に社会的に抹殺されてしまうからである。
利津は悪意と無縁な子だった。悪戯など全くしなかった。それでも、親には愛されなかった。そればかりか、子供の哀れな本能から、必死に親に気にいられようとして、さまざまな事をした。だが、そうすればそうするほど、両親は利津を役立たず扱いした。喋り方を矯正されたのもこの頃だ。早く喋ると威厳が付かないからと、無理矢理ゆっくり喋るようにさせられ、馬鹿丁寧な語尾を使うように仕込まれたのである。しまいには、髪質や肌の色まで暴力的な言動の標的になった。肌が排泄物のような色だと、実の親が娘に吐き捨てたのだ。背が伸びない利津を、両親は恥知らずだと恒常的に罵っていた。恥知らずが自分達だと言う事に、最後まで両親は気付かなかった。
小学校の低学年の頃、利津はもう泣かなくなっていた。いや、違う。泣けなくなってしまっていたのだ。体どころか感情にまで異常をきたし始めていたのに、必死に、それでも親に気にいられようとしていた。子供の考える事には限界があり、それがとんでもなく短絡的な方法へ走るのも仕方がない事であった。学校の理科室で、授業が終わった後の事。有毒な漂白剤を体に掛けて肌の色を落とそうとして、大やけどをおった利津が病院に担ぎ込まれて、やっと虐待が発覚した。
赤尾家内部で家族会議が開かれた。利津の両親は精神病院に入れられる事となったが、事態は決して改善には向かわなかった。事件そのものは金にものを言わせてもみ消された。問題はその後だった。両親のように直接的な虐待を加えるわけでなくとも、赤尾家の内部で、利津が役立たずだという認識では一致を見ていたのだ。スポーツで自らの立身を行っている赤尾家にとって、役立たずの存在は死活問題だった。スポーツを愛した初代の意志は歪んで伝わっていたのである。優秀でない赤尾の一族は、存在を許されないのだ。そして、優秀な血統同士を自分たちで掛け合わせて作った以上、役立たずをどうするかは赤尾家が勝手に決めて良いのだ。呆れた話だが、外部の空気が入らぬ閉鎖空間で、それは事実として認識されていた。赤尾家の思想は、一種カルト的な所にまで堕ちていたといっても良い。誰が役立たずを引き取って(飼う)のかで、会議はもめにもめた。そして最終的に、役立たずは役立たずに押しつけると言う事で、決着がついた。
いたのである。丁度いい役立たずが。
こうして、利津は傷心を抱えたまま、血の繋がらない(ねえちゃん)と一緒に、捨て扶持として与えられた南アルプスのログハウスで暮らすようになったのである。
オリンピックでの銅を始めとして、国内外でさまざまな賞を取った女子フルマラソンの雄赤尾蘭子は、一族の中でも有望株とされていた。人柄も良く心優しい彼女は、一族内でも人望厚く、テレビなどでも人気があった。確かにすらりと伸びた長身と、屈託のない笑顔は、スポーツを抜きにしても魅力的であった。
ところが、さまざまな不幸が彼女の人生を狂わせた。最終的に、彼女が(役立たず)と断定されるまで、そう時間は掛からなかった。
まず最初の不幸が、マラソンにおける技術開発であった。彼女がランナーとして乗りに乗っていた丁度その頃、革命的な走法が開発されたのである。水泳でも、背泳ぎにおける(バサロ泳法)の開発によって競技そのものが一変したが、マラソンでも似た事態が発生したわけである。主に踏み込みを重視したこの新しい走法は、スピードの向上、体力消耗の斬減に絶大な効果を示し、開発者の名を取って(アンディ走法)と言われた。この走法が開発された結果、男子女子共に、フルマラソンのタイムは平均で五分縮まるようになった。正に革命であり、大変結構な話であったが、蘭子に対してはそうではなかった。蘭子は生まれてからずっと従来式の走法を体に叩き込まれており、今更それを変更する事など出来なかった。スポーツ界のサラブレットとして産まれ、幼い頃から徹底的に扱かれた事の悪影響であった。走法を変える事が出来なかった蘭子は、スポーツ界の変動に取り残され、記録が残せないようになってしまった。更に最悪のタイミングで交通事故に遭い、二度と走る事が出来ない体になってしまったのである。
従来式の走法しか出来ず、しかも体をこわしてしまった蘭子には、今後は子孫を作りそれを育てる事だけが要求された。三十も年上の人間と、無茶な政略結婚を強要されそうになった蘭子は、混乱していた事もあり、傷心の人間に無理難題を押しつける一族に失望していた事もあり、結婚を拒否した。その結果は惨いものであった。(一族の恥さらしだから)という理由でテレビ局に圧力が掛けられ、あっという間に蘭子はテレビから姿を消した。一族の決定に逆らった蘭子は、ヒーローから(恥さらし)へ降格されたのである。そうして、更に一族の(役立たず)である利津を押しつけられ、南アルプスに向かった。風光明媚で自然豊かな土地であったが、スポーツの世界からは遠く、事実上の島流しであった。両親ですら、彼女を庇おうとはしなかった。友人達には片っ端から圧力が掛けられ、最後まで蘭子を庇おうとした中学時代の同級生などは、変質者に襲われて病院送りにされてしまった。
蘭子は全てを失った。人生も、夢も、希望も、家族も、友達も。人形のように無口な利津を連れて、彼女は南アルプスのログハウスに越した。ゴミ箱へ放り込まれるように。二人の奇妙な同居生活が、こうして始まった。だが、それは新たな始まりでもあった。
心を木っ端微塵に砕かれた利津にとって、不思議と蘭子は怖い相手ではなかった。というよりも、もう利津は死ですら怖くなかった。極論すれば、蘭子が利津を八つ裂きにしたいと欲すれば、逃げる事もなく、そのまま殺された。さまざまな事が一片に起こりすぎて、利津は泣く事に続いて笑う事も怒る事も悲しむ事も、勿論喜ぶ事も、全部失ってしまったのだ。
現地の学校で、火傷の痕を包帯で巻いて挨拶したとき、利津には全く表情がなかった。身長も手足の短さも、髪の硬さも肌の色も顔の造作さえも、利津には深刻なコンプレックスだった。わたしが小さいから、パパもママも意地悪したんだ。そう思うと、自分を好きになどなれなかった。
そんな利津を見て、沈鬱に沈んでいた蘭子は、徐々に変わっていった。
最初は、無理をしながらだったのだろう。利津の中でも、最初の頃の蘭子の笑顔は、苦しみと憂いを湛えていたという記憶がある。だが、やがてそれは、自然な母性を湛えたものへと変化していった。
蘭子に抱きしめられて、始めて利津は人のぬくもりを知った。はじめて可愛いよと言って貰った。始めて心のこもった食べ物を口にする事が出来た。失敗しても、夕食を抜かれる事はなくなった。
心のこもった暖かい卵焼きを作ってもらって、給食のない学校でそれを食べたとき。利津には涙が戻ってきた。髪を整えて貰って、おめかしして貰って。でもやっぱり綺麗には見えなくて。可愛くはなっても綺麗にはならない自分が少しおかしくて。利津は笑ってしまった。笑顔が戻ってきた。それに伴って、徐々に他の感情も戻ってきた。怒れるようになった。悲しめるようになった。やがて、太陽かひまわりのように笑えるようになった。
蘭子と一緒に寝て、隣に人のぬくもりを感じて、利津は自分が人間なのだと、始めて実感する事が出来た。利津はそんな大した幸せを求めていたのではないのである。ただ、静かで優しい、普通に人間として認めて貰うだけで良かったのだ。それを得られて、利津は幸せだった。欲しいものが、全部側にあったからだ。(ねえちゃん)は、利津にとって、血統上での親ではなかったが、事実上の親だった。
自身が出来るのと同時に、利津には自信がつき始めてきた。周囲の子供達と遊ぶ過程で、自分の身体能力の高さに気付き始めたのだ。
愚かにも実の両親は、手足が短く背が低いという理由だけで利津を虐待したが、何の事はない。いざスポーツをやらせてみれば、利津の身体能力は常人などとは比較にもならないほどに高かったのである。身長というハンデを跳ね返すほどにだ。
逆上がりなど何のその、短距離走も持久走もサッカーも、二年以上年長の男子を除いて誰も利津には勝てなかった。五十メートル走はセンスだけで七秒前半をたたき出し、サッカーではシュートを百発百中させた。年上の子でも、利津のシュートを止められなどしなかった。手を使う球技は若干苦手だったが、スポーツに関して、利津は無敵を誇った。戦績の数値は、国体に出る選手に比べても、決して恥ずかしいものではなかったのである。ただし、勉強は全然出来なかった。こればかりは、仕方のない事であった。
やがて(役立たず)の家に、もう一人送られてきた。利津の姪に当たる佐智であった。佐智は体が弱い上に喘息持ちで、最初からスポーツに向かないと言われていた。佐智を産んだため、利津の姉である佐智の母は離婚し、(役立たず)の佐智はログハウスに送られてきたのである。あまりに非人道的な行為であり、それを利津は素直に怒れるようになっていた。利津は蘭子と一緒に、心を深く傷付けられた佐智を包み込んだ。三人のささやかな幸せは、蝋燭の炎のように、儚く続き、そして散った。
体が回復してきた蘭子は、以前のようにスポーツを始めようとした。結局血が騒いだというか、彼女はスポーツ好きであったのだ。しかしスポーツ界からは半ば追放の身であるし、それにマラソンでは事実最盛期であったとしても上位はねらえない。そこで、新たなスポーツを趣味レベルで楽しもうとし、ハンググライダーに手を出した。それが致命的な失敗となった。ラックの無さが、この女子アスリートの致命的な欠点であったとも言える。決してハンググライダーが危険性の高いスポーツというわけではないのだが、数少ない事故の実例となってしまった。
風の少し強い日だった。風が強いと言っても、それほどでもなく、事実蘭子の師匠はフライトに危険はないと断言した。彼でなくとも、誰もがそう言った事は間違いない。
南アルプスの一角、何処までも続くなだらかな坂で、蘭子はハンググライダーの楽しさに目覚め、暇を見ては飛んでいた。学校が終わった利津は、いつも佐智を連れて、大好きなねえちゃんの飛ぶ姿を見に来ていた。だから、事故も眼前で見た。
何が起こったのか、最初すぐには分からなかった。空を悠然と飛んでいた、オレンジ色のねえちゃんのグライダーが、真ん中でぼきりとへし折れたのだ。安定を失ったグライダーはきりきり舞いしながら落下し、べきゃりとかぐしゃりとか嫌な音を立てて地面に激突した。蒼白になって立ちつくす利津と、わんわん泣き出す佐智。走り出したのは師匠が最初。遅れて走り出した利津は、あり得ない方向にへし折れ曲がった、無惨な蘭子の姿を目の当たりにしてしまった。
背骨が折れていた。二度と立ち上がる事はかなわないという診断が出た。二度目の絶望。車椅子での生活を始めた蘭子は、荒みきってしまった。そして、酒を飲んでは利津や佐智に暴言を吐き、時には暴力も振るうようになった。
利津にはねえちゃんの悲しみがよく分かった。だから無言で佐智を庇って、必死に事態の打開を計ろうとした。だが、子供の力では、どうあがいた所でどうにもならなかった。笑顔が再び消えるまで、そう時間は掛からなかった。周囲の大人達も、誰も手助けになどならなかった。自分の力で何かしようにも、何をして良いのかさえ分からなかった。悔しくて、利津は泣いた。改めて思い知らされる自身の非力さに、歯がみして慟哭した。
そして、神使が目の前に現れたのである。
山菜を持ち帰った利津は、朝ご飯の準備を始める。山芋の皮を剥いて、刻んで下ごしらえ。最初は手を切ったりもしたが、今はなれたから大丈夫だ。お湯を沸かしながら、冷たい井戸水で手を洗う。電気はどうにか通じているが、水は井戸水を湧かして使う。そのまま特性のドレッシングで他の山菜とも混ぜてあえて、サラダにする。勿論採ってきたばかりの山菜だから、湯に通すのは基本だ。ご飯はまだ昨日のが残っているから問題ない。後は買いだめしてある冷凍食品を幾つか暖めて、咳をしながら佐智が起きてくる事には朝食の準備が出来ていた。
「佐智、大丈夫ですのー?」
「コホンコホン。 うん。 大丈夫。 蘭子お姉ちゃんは?」
「大丈夫ー。 まだ、起きてはいませんわ」
蘭子お姉ちゃん、という所で恐怖が籠もるので、利津には少し悲しい。佐智は此処に来てからの時間が短い。優しく利津を包んでくれた、暖かい蘭子を殆ど知らない。事故でおかしくなってから、暴力を振るうようになった蘭子の事が印象深く、怖がるばかりで少し辛い。
蘭子は起きてこない。どうせ、今日もお酒を飲んで自室に籠もっているはずで、部屋を抜けだしてくるのは多分昼過ぎだ。だから、蘭子の分は朝ご飯ではなくてお昼ご飯。用意したお昼ご飯をラップでくるんで、となりに特製のドレッシングを置いておく。市販品ではなく、複数の素材を念入りに煮込んで作り上げた特別製だ。あまり料理が得意ではない利津は、だがしかしここの所野菜の食べ方に物凄く凝るようになってきていて、ドレッシングも全部手作りである。肉が嫌いなのもあるが、何故か野菜が美味しくて仕方がないのだ。
向かい合って佐智と利津は座る。そして朝食を始めた。
「頂きますー」
「コホン、いただきます、コホンコホン」
静かな朝食であった。結局、蘭子は起きてこなかった。
佐智の手を引いて学校に行く。学校へ行く前に、喘息のお薬があるかどうか確認するのはもう日課だ。二十分ほど歩いて到着した学校は、学年混合の小さな校舎が一つだけの、寂しい所だ。生徒同士の虐めがないのが、幸いと言うべきか。席に着くと、すぐに今日の朝訓練の反省と、次の戦いのプランを練る。相談に乗るとか言う友達もいるが、役に立たないのは今までの事例で分かり切っている。友情ごっこは大いに結構だが、それでねえちゃんをどうやって救うというのだ。(頑張った)という自己満足を、ねえちゃんは必要としているのではない。足を失い、背骨を折られ、スポーツに対する希望を全て喪失した絶望を癒すものを必要としているのだ。最近、利津が笑わなくなった事を、先生は心配してくれる。それに関しては嬉しい。だが無力な自分と先生が重なって、利津は余計にいらだたしい。
家に帰ると、玄関の前にビール缶が山ほど積んであった。通信販売で蘭子が買っているのだ。赤尾家から渡されている仕送りを殆どこういう形で使ってしまっているのが、今のねえちゃんの現状。ビールを玄関の中へ運びながら、利津は悲しいと思う。早く改善しないといけないと、強く強く思う。
額の汗を拭い、大きくため息。今まで二度神子相争に勝ち(一度は不戦勝)、いずれも幸片を姉に使った。状況は少しずつ改善しつつある。少なくとも佐智に暴力は向かないようになったし、酒の量も少しずつ減りつつある。
利津は戦いが決して好きではなかった。他の神子と比べて、最も戦いが嫌いな一人だったのだ。妙な話ではある。利津は祭雀に聞かされて、自分が最も攻撃的で破壊的な神子だと知っている。それなのに、利津自身は、出来れば戦いたくないと常に思っている。丸焼きになって、光になって消えていく他の子を見て、気分がよいはずもないのだ。だが、利津は戦う。自分に感情をくれた、蘭子を救うためにも。
夕ご飯が終わって、自室に戻る。ねえちゃんは、夕ご飯にも出てこなかった。ただ、部屋の前に置いたビールは減っていたから、少しだけ安心はした。勉強机について、考え事を始めた利津に、祭雀が言う。
「りっちゃん」
「……神子相争ですのー?」
祭雀がぴかぴかと体を光らせた。波打つ体の上を、しましまになった光が走っていく。まるで生きたLEDだ。この不思議な存在が、正解と言う事を示すときに用いるボディランゲージである。
「分かりましたー、参加しますわ」
「無理はしないようにね。 大丈夫、りっちゃん。 お姉ちゃんは、少しずつ良くなっているから」
祭雀の気休めが、こういうときは却って辛い。だが、やるしかない。今日は参加して、そして勝つつもりだ。すぐに、利津の、悲しい朱雀の神子の意識は、枯湖へと飛んでいたのであった。
3,火力の網
爆音と共に、浮き上がる影一つ。零香は崩れかけたビルの影に身を潜ませながら、それを確認していた。間違いなく朱雀の神子だ。他に神子の気配はない。理想的な一騎打ちの状況である。今まで複数戦では勝てた試しがないが、一騎打ちでは勝率十割を誇る。今回もその記録を継続させたい所だ。
今日の戦場は、無数の廃ビルが立ち並ぶ、スラム街のようなものだ。スタンダードな戦場だが、今日は少しいつもと違っている。戦場の真ん中にコールタールのような黒い粘性が強い液体がたまった広い池があり、その辺縁にあるビルは沈み込んでおり、崩れているものもある。半径二キロほどある池を円周上に取り巻く戦場。それが今回の死合いの場だ。ドーナツ状の戦場の外へ視線を凝らすと、何もない砂漠状の地形がずっと広がっていて、利津と戦うには極めて分が悪い。遮蔽物が無く、身を隠せない戦場で、強力な対空兵器も持たない存在が爆撃機と戦うなど自殺行為も良い所だ。つまり、ドーナツ状の戦場を上手く活用して、利津に肉薄しなければならない。
無言のまま、左腕に手をやる。対利津用に開発したカタパルトシューターは、連射が効かないという最大の欠点を持っている。命中精度から考えても、直撃を浴びせるにはそれなりに限定された条件下での射撃が必須だ。それに関しては既に手があるが、今回は折角の一対一である。以前三つどもえの戦いをしたときには、淳子に気をつけなければならず、利津への観察がおざなりになってしまっていた。その分も、次の戦いの事も考慮して、利津を観察させて貰うだけの話であった。
以前は気付かなかったが、さっきの観察で、利津は最初の爆音で浮き上がった事が分かった。つまり、あの翼には高々度まで身を運ぶ力はなく、爆圧で一気に上空へ飛び、それから風を捕まえて滑空するという手法を採っているのだ。これは上手くすると、神子相争の開始時点で利津の側にいれば、瞬間的に勝負を決める事が出来る可能性もある。
利津はゆっくり中央部分、つまり黒い池の上空へ行くと、そこで旋回を始めた。動きは遅いが、悪くない判断である。池の上空を旋回していれば何処から攻撃が飛んできているのか丸見えだし、その上攻撃開始地点からある程度の距離があるので、回避行動も取りやすい。もっとも後者に関しては、想定しているのかは微妙な所だ。あの速度を考える限り、相手の攻撃を避ける事を想定しているとは考えにくい。ただし、防ぐ事を想定している可能性はあるし、迂闊に攻撃するのはあまり得策ではない。
悪い条件が重なっているが、その一方でコンクリの欠片は豊富に落ちており、打ち出す弾に関しては事欠きそうになかった。最終的な形に持っていくまで、念入りに作戦を練る。今回は戦略面で圧倒的不利な状況にあり、余程上手くそれを崩さないと、勝つどころか一方的なアウトレンジ攻撃で灰にされる事となる。また、出来れば先手を取らせる事も避けたい。後手に回って、勝てる相手だとは思えない。相手を捕捉している有利は今のところ此方にあるわけだから、これを最大限に生かさねばならない。ビルの間を移動しながら、丁度一片六十pほどのコンクリ片を見つけて、手に取る。鉄筋が彼方此方から飛び出したこれは、重さと言い形状と言い、投げつけるのに最適だ。さて、次は狙撃位置だと考えて移動しようとした瞬間、慌てて零香は隠れていた場所へ引っ込んだ。
利津が不意に後ろを向いたのだ。グライダーでは絶対に無理な動きだが、そのままの移動速度とベクトルを保ったまま、180°旋回したのである。後ろに流されるように飛びながら、利津はじっと零香がいたあたりを見ている。だがやがて、再び180°旋回し、池の上の旋回行動に戻った。危うく見付かる所だった。あれは恐らく簡単な術だが、それにしてもグライダーの常識を越えた動きである。今の行動だけで、背後から迂闊に攻撃できなくなった。焦るな。焦ったら負けだ。零香は言い聞かせながら、そろりそろりと、相手の死角になる位置へ移動していく。今ので真後ろが死角にならないかも知れないと言う事が分かっただけでも、大きな収穫だ。まずは、(仕掛け)を作らなければならない。コンクリ片を抱えもったまま、零香は朽ちたビル街の間を走った。
深紅の神衣は、ヨロイと言うよりもローブに近い。ゆったりとした作りで、少しひらひらしていて足が涼しい。そして背中には、常時発生型の術である翼が淡い輝きを放っている。翼と言っても、朝の訓練で使っているものと同様、羽ばたくのではなく浮くためのものだ。
利津は飛行を開始すると、すぐに幾つかの術を自らに掛ける。一つは防御の術で、これは存外にコストが高い上に装甲も薄い。何故そんなものを使うかというと、簡単である。神衣の防御力は一応それなりにあるのだが、何しろ飛んでいる高度が高度なので、敵も相当な威力の長距離攻撃を撃ち込んでくる事が多く、それだけでは心許ないために使うのだ。二度の負けでそれを知った利津は、コストの悪さを我慢しながら必ず防御術を使うようにしている。具体的には斥力を発生させる術であり、名前はベクトルチェンジャー。攻撃そのものを防ぐのではなく、攻撃のベクトルをランダムに微妙にずらす術だ。これが案外に効果的で、相手の狙いが正確であればあるほど良く効く。一方で、どうしても反らせる軌道が大したこと無いため、本体への直撃を避けても翼や腕を持って行かれる可能性も低くない。今、何とか効果範囲を拡大する上級の術を開発中だが、それもなかなか進んではいない。
もう一つ使っている術は、任意で方向を転換する術である。術の名前はフライトサポート。これは一度使うと、地面に付くまでずっと効果が持続する。移動時のベクトルは変わらないが、これは翼に干渉せず、単に体をぐるんと回しているためだ。その際の移動ベクトル微調整も術の仕事となっている。これのお陰で、うりになっている視力を大幅にカバーする事が出来る。
この二つに対する思い入れは深い。自分が大味な性格だと言う事はよく分かっているので、祭雀のサポートを受けながら一生懸命長い時間を掛けて考えて作り上げた術たちだ。破壊と創造を司る朱雀の神子であるという事もあり、術そのものを作るのは得意なのだが、調整が苦手中の苦手なので、夜みんなが寝た後にこつこつ頑張って、二週間も掛けて練り上げたのである。
ゆっくり旋回し、時々思いつきのまま方向を変えながら、利津は敵を探す。見つけてしまえば勝ったも同然(玄武除く)だが、相手の攻撃を完璧に成功させてしまえば確実に負ける。だから、派手に勝つか派手に負けるか。それしか利津には無い。最近では忍耐心や知恵も付いてきたが、まだまだ勝率を上げるには心許ない。
不安要素を多く抱えたまま、利津は焦らないよう自らに言い聞かせ、コールタールのような黒い池の上を飛ぶ。獲物を探して。
視界の隅に、何か動くものが飛び込んできたのは、直後の事であった。同時に、ビル街の一角で煙も上がる。何か大型の物体でも発射したのかと、すぐに回避行動に移ろうとする利津。回避と言っても、動いて避けるのは無理なので、攻撃術で叩き落とすか、もしくはベクトルチェンジャーで動きを反らすのに併せて速度を変え、当たる確率を落とすのだ。今回は攻撃術で叩き落とそうと決め、神輪に触れた瞬間、後ろから物凄い音が迫ってきた。
「! ひあっ!」
振り返ろうとし、後ろをむきかけた利津の耳元を、轟音と共にコンクリの破片が掠めた。同時に爆圧のような風が利津の体をもてあそび、地面へと叩き落とそうとする。巨大なコンクリ片が掠めた瞬間、それに翼の一部を傷付けられた利津は、ふらつきながらも必死に態勢を立て直そうとし、手に汗握りながら姿勢制御を行った。利津の苦労を知ってか知らずか、削り取られた翼は、すぐに密度を薄くし、回復行動に入る。朱雀神衣の付属術である翼は、常時展開しているほか、自動回復機能も持っている。ダメージを受けると一旦密度を薄くして最低限の浮遊力をリカバーし、それから全体を徐々に回復していくのだ。このため回復活動中は高度が徐々に落ちていく事になり、一分後の回復終了までは機動力も(元々低いが)落ちる事になる。高度を落としながらも、利津は必死に周囲に視線を凝らし、混乱した頭を纏めていく。
今の攻撃が、さっきの陽動に合わせてのものだというのは分かる。しかし、攻撃術が飛んできたのではなく、コンクリ片が飛んできたのは腑に落ちない。相手は多分白虎の神子銀月零香だが、近接戦闘強化型だとしても、あのサイズのコンクリ片をまさか此処まで投げる(もしくは蹴る)とは考えにくい。多分攻撃術によるものだが、ならば何故コンクリ片などが飛んでくるのか。解せない。
混乱する利津をあざ笑うように、既に敵は気配を消している。親指の爪を噛みながら、利津は何とか態勢を立て直し、ゆっくり、慎重に焦らないように、落ちた分の高度を取り戻していった。
朽ちた墓石を思わせるビル群の合間を走り抜けながら、零香は思惑を練っていた。
今、彼女が使ったのは、極簡単な陽動戦法である。自分がいる位置とは円環の反対側に時限式の投石機をセットし、逆側に回り込む。セットする投石機はあり合わせの材料を使い、別に精度はどうでも良い。コンクリ片が動いて、大きな音がすればそれで良いのだ。時限式の仕掛けも、古いロープに切れ目を入れておく、程度で問題ない。零香は今回、古い鉄筋をそれに用いた。投石機が作動し、相手の注意が向いたら、カタパルトシューターで狙撃、すぐに逃げる。それで、上手くすれば敵をたたき落とせるし、上手くしなくとも観察できる。この間考えた、対利津用の戦術が一つだ。
完璧なタイミングだと思った攻撃は、結局失敗した。それはいらだたしいが、しかし充分に成果はあった。
まず第一に、相手の使った防御技だ。相手の戦闘スタイルからして、低威力の防御技を使う事は予想していたが、それについて大体今の攻撃で見当が付いた。最初はアブソリュートディフェンスかとも思ったが、よく見れば確実に違う。攻撃の軌道をわずかに反らすものだ。それも、そうたいした出力ではない。もっと強力な一撃を叩き込むか、相手がそれに近づかず射撃点にタイミング良く近づきでもしてくれれば、直撃も不可能ではない。まあ、あくまで不可能ではない、であって、確実に当てる自信は零香にはない。
そして第二に、相手の性格も少し分かった。攻撃の際の反応からして、かなり慎重、或いは臆病な性格だ。大味でパワフルな反面、案外忍耐心は強い。そうでなければ、攻撃射出点あたりに、やたらめったらと火球の雨を降らせていただろう。確実に捉えるまで、きちんと攻撃を忍耐できる。なかなかに優れた精神である。だが、高度が落ちる際に慌てているのも観察させて貰った。丈夫な精神も、鉄壁ではないと言う事だ。
場所を移動しながら、零香は戦術を練る。相手の動きを良く見ながら、視界に入らぬよう丁寧に足を運ぶ。だが、戦いは零香に有利なようにだけは進まなかった。
「!」
慌てて下がり、ビルの影に隠れ込んだ零香は、地面が激しく揺れを刻むのに気付く。下がったのは他でもない、黒い池の真ん中に巨大な気泡が多量に浮き上がったためである。そして、今感じているこの揺れは、間違いなく地震だ。それも、相当に大きい。震度は四、いや五か。地鳴りのような音と共に、大地は揺らめく。今まで、この土地で生を感じた事は一度もなかったが、それも過去形となった。揺れる大地が、黒い池を波打たせ、更にはビルを崩していく。崩落するビルが、山津波のような音を立てながら、寿命を終え、潰れるようにして地面に倒れていった。以前テレビで見た、ダイナマイトを使ったビルの解体シーンのようであった。零香が隠れていたビルは幸い無事であったが、細かい揺れは断続的に続いている。状況は予断を許さない。
遮蔽物の影から顔を出して様子をうかがい、零香は思わず頭を抱えていた。事態は更に悪い方へと動いていたのだ。
戦場の様子が大きく変わっていた。今の地震で倒壊した、若しくは倒壊しつつあるビルは相当数に達し、視界が開けて移動が非常に困難となった。倒壊したビルを使って移動するにも、さっきよりも移動力が大幅に制限される。その上、何カ所かには大きな地割れも出来ており、其処を越えているときに攻撃でもされたら文字通りの終わりだ。恐らくこの地震はただの自然現象であって術ではないが、それにしても酷いラッキーパンチもあったものである。思わず天を仰いだ零香は、利津が次の手に出た事を見せつけられた。利津が手に火球群を発生させ、無事だったビル群の一角に叩き込んだのである。零香の対岸での事であったが、爆音は此処まで届いてくる。茸雲が上がり、倒壊していくビル。無事だった遮蔽物を、目立つ所から潰していくつもりであろう。良い判断である。
零香は手を伸ばし、丁度いいサイズのコンクリ片を確保した。そして、利津の攻撃を、目を皿にする感覚で凝視する。カタパルトシューターの間合いに対して、利津の攻撃間合いがどれほどか計らないとならない。多分利津は、有効射程距離ぎりぎりに攻撃して、此方の攻撃に対する備えをしながら動いているはずだ。それを上手く見極めながら、最終的に間合いを克服し、叩き落とす。
激しい攻撃が続く。利津は次々に残っているビルを爆破し、破壊音は徐々に近づいてくる。見たところ、丁度一キロを超えた辺りから、火球が分散して狙いから大きくはずれるらしい。火球が炸裂し、炎の剣となって崩れたビルをなぎ払う。既に十以上のビルが原形を残さず吹っ飛んでいるが、流石火力最強の神子、まだまだ力には余裕がある様子であり、息を乱している気配もない。再び利津の手から火球が飛び、ビルが崩れ吹っ飛ぶ。紅蓮の炎が大地を舐め、焦りがじりじりとせり上がってくる。仕掛けるなら、早くしないとならない。
焦るな。
短絡的になるな。
考えろ。
動こうとする体を、必死に押しとどめる。狼次郎せんせいにも言われたではないか。今の零香の戦術は良くできてはいても四則演算レベルだと。ただでさえ戦略上の格差が大きいのだ。その戦術では、勝てる戦いも勝てなくなる。普通の相手なら大丈夫だとしても、今戦っているのは必死に家族を救おうとし、なおかつ自身の欠点もきちんと承知している朱雀の神子。簡単には勝てない。一手のミスが命取りになる。
相手も必死なのだ。此方と同じく、負けたら助けられないのだ。
更に近づいてくる爆音。もう残ったビルは半分もない。少し調べてみたが、高等数学というのは、四則演算を高度に組み合わせたものだという。基本は四則演算なのだが、それを非常に広範囲かつ高密度に混ぜ合わせて、結果出来るものがそうなのだとか。ならば、もっと多くの要因を短時間で組み合わせて、戦術に盛り込んでいくしかない。おそらく、時間はもう殆ど残っていない。
今までの全ての情報を計算に入れろ。それを組み合わせて、最良の戦術を考えよ。ぎゅっとコンクリ片を掴む零香のすぐ側にまで、既に爆音は迫ってきていた。
まだまだ、力は存分に残っている。いきなり敵が飛び出してきても、対応出来る。既に敵が効果的に臥せる事が出来る場所は殆ど潰した。それらの場所から攻撃が来たら、すぐに消し炭にしてやれる。利津は王手を掛けた事を実感しながら、次の攻撃術の準備に入る。
攻撃術の大家である朱雀の神子にもかかわらず、利津が使える攻撃術はかなりパターンが限定されている。ずっと使っているのは、圧縮した熱量を炸裂させる術であるが、基本はこれしかない。ホーミング機能を付けたり、ある程度の自動操作機能を付けたものも開発したにはしたが、現状では全く必要ないので、火力の調節だけを行っているのが現状だ。必要ないから、覚えなくていい。今はそれで構わないと、祭雀は言っていた。事実今までは問題なく対応出来てきている。圧倒的な火力と、空にいるというアドバンテージを生かして、戦略的優位だけで敵を叩き潰す。事実戦略的な優位の前に、多少の戦術などどうという事もないから、それでよかった。戦略面での穴を補修していけば、勝てると思った。事実、この間は完全勝利したし、隙を衝かれなければ落とされる事も今まで無かった。それは希望的観測ではなく、自己への信頼。それを力に変える事が、今の利津の課題だ。
距離を慎重に保ったまま、利津は十四個目のビルを潰しにかかる。密集した地形のため、攻撃術を叩き込めば、その周辺のビル三戸も多分巻き込んで木っ端微塵に出来る。手を広げた利津の周囲に七つの火球が具現化した。いずれもビルを一個まるごと吹き飛ばす程の火力を内包した、球の形をした破壊の権化だ。念のため、辺りを慎重にうかがいながら、術を発射。火球は唸りを上げて、ビルに襲いかかった。違和感を覚えたのは、その瞬間であった。
何かが飛んでくる。唸りを上げ、凶悪に回転しながら飛来したそれは火球の一つと中途で激突、炸裂させた。予定距離の半分ほど、半ば至近と言っていい場所で炸裂した火球は、膨大な熱と煙を発生させ、利津の視界を完全に塞いだ。轟音が耳を打つ。攻撃だというのはすぐに分かった。以前淳子と戦ったときにも似たような事があったからだ。爆発の威力を利用して、後方へ体を流しながら、次の術の準備に入る。ほとんど時間をおかず、炸裂した一個を除く全てがターゲットの近辺で炸裂、ビルの倒壊音が響き渡る。ほぼ同数の火球を準備した利津は、間髪入れずに第二次攻撃に移った。命中精度は低いが、火球の速さは相当なものだ。再び迎撃があり、ほぼ同じ地点で火球が迎撃される。再び巻き起こる爆発。舌なめずりしたのは、唇が乾いたからだ。そのまま、第三次攻撃に備え、神輪に触れる。そして、術を発動しようとして、しまったと呟いた。
一撃目と二撃目、微妙に迎撃の弾道が違ったのだ。爆発の形がよく見れば随分違う。勿論、それに意味がないわけはない。多分煙幕を使って位置を変えたのだ。それも、二回にわたって。わざわざ同じ位置で火球を撃墜したのは、それを隠蔽するためだ。更に利津は第一次攻撃の際に、大事を取って後退している。そのため、池の上ではなく、今は円環状の陸の上に浮いている状態だ。零香は恐らく、もうあのビルの周辺にはいない。いるとしたら。
「せあああああああっ!」
火球を、真下へと叩き付ける。七つの火球は唸りを上げて、一つは利津の真下へ、残りはそれを取り囲むように地面に着弾。黒い池が派手に吹き上がり、爆圧が地面をなぎ払い、ビルの破片や鉄骨の残骸が舞い上がった。黒い雨が辺りに降り注ぐ。無言のまま、更に第四次攻撃を用意しようと辺りを見回した利津は、至近へと迫る唸りを聞いた。
斜めに飛来したコンクリ片が、ベクトルチェンジャーをものともせずに、利津の体に突き刺さる。脇腹に突き刺さったコンクリ片は、利津の体を抉り千切りながら、上方へと抜けた。鮮血が、虚空にぶちまけられる。深紅の神衣をも、更なる朱に染めながら。
「……っ! あああああああああっ!」
大きく弾かれた利津は、体を駆けめぐる絶痛に悲鳴を上げていた。意識が瞬間的に飛びそうになるが、それどころではない。翼も大きく千切られたし、高度はぐんぐん下がっていく。負けてたまるか。こんな所で、負けてたまるか。一ヶ月力を溜めたんだ。血が上へと零れ飛んでいく。腹からはみ出した小腸が、空に向けてひらひらと襞を揺らしていた。それほど速く落ちている状況下、利津は術を完成させ、そして見た。攻撃発生点を。
其処には、即ち二度目の爆発の直下には、コンクリ片を拾いながら、此方へと走り来る零香の姿があった。成る程、一度目は確かに移動したが、二度目は純粋に位置を隠すための隠れ蓑として爆発を利用したわけだ。利津に対する至近地点である真下に潜り込むのではなく、そこで利津が隙を見せるのを待つ。複雑な判断を組み合わせた、高度な戦い方だ。真下に回り込むような、直線的な行動をしてくれれば、利津にも読む事が出来たかも知れない。が、今の状況では、正直厳しい。それでもやるしかない。負けてたまるか。利津は心中で呟きながら、遠くなりそうな意識を引き留め、何とか完成させた術を放つ。
激しい痛みの中で作ったものだから、火球はどうにか三つだけ。うちの一つ。走り来る零香は左足を高々と上げると、体全体を振り子のようにして、コンクリ片を投げ放ってきた。攻撃術とコンクリ片が相殺し合う。爆発を抜けて、更に零香が迫ってくる。遮蔽物が亡くなったこの状況、今まで有利だった状況が途端に不利へと変貌している。何とか翼が回復を始めたが、落下は止められないし、それに意識ももう持たない。どうにか残り二発のどちらかを、零香にぶち当てなければ負けだ。迫ってきて分かったが、走る零香もかなり傷ついている。爆発の下で様子をうかがっていたときだって、多分至近で二度起こった爆発の影響をある程度受けたはずだ。今の攻撃だって、相殺したとは言え無傷で抜けられたはずがない。まだ希望はある。
零香が走りながら、次のコンクリ片を拾い上げる。再び足を高々と上げ、轟音と一緒に投げつけてくる。何処かで見た投法だ。確か、近鉄だか何処かだかの球団にいたピッチャーが使ったとか使わないとか。まずい、意識が混濁してきた。何とか迎撃しなくてはならない。本当に至近、三十メートルほどの所で、どうにか火球が間に合う。だが、もろに爆発に巻き込まれる。再生し掛けていた貧弱な翼が粉々に吹き飛ばされ、自身も大きくはじき飛ばされる。今度こそ真っ逆様に落ちていく利津は、物凄い速さで迫ってくる地面を感じながら、とどめの一撃を投げつけようとする零香に気付く。負けた。そう感じた瞬間であった。
地震が再び起こる。投げようとしていた零香が、もろに体勢を崩す。
好機。もう、こうなったら残った力全部つぎ込んでやる。
「威力増大!」
最大級までは増やせないが、それでも一緒に落ちていた火球が、一気にかさを増す。零香が態勢を立て直し、慌てて投げようとするが、今度は利津の方が僅かに速かった。
地面に叩き付けられた利津は、もう体を動かせない事に気付いた。自分で壊したビルの欠片上で、コンクリのまな板の上で、内臓をぶちまけて、大の字になって伸びている自分。情けない姿だ。足の下の方では、本当にラッキーパンチに等しい一撃を浴びて、消し炭というか粉々になった零香がいるのだと思われる。文字通り、首の皮一枚の勝利だった。致命傷をこっちも受けているから、今光ながら落ちてきた幸片を手に取ったら、多分意識が途切れる。
何とか翼の回復が間に合って、地面に落ちて即死するのだけは避けられた。今回はラッキーに等しい勝利だった。戦術面では完全に負けていた。最初のはともかく、二つ目の地震。あれが無ければ、確実に今頃真っ二つにされるか、首を叩き落とされていただろう。勝ちは勝ちだと強弁する事も出来る。だが、これは幸運で手に入れた勝利だ。そう利津は自嘲的に呟いていた。
もう動かせない手に、勝手に幸片が収まった。意識はぶつんと途切れて、気が付いたときは、翌朝だった。
自分に抱きついて眠っている佐智。布団に入っている自分。体中が痛い。ずっと起きて見ていてくれたらしい祭雀が言った。
「さっちゃんがね。 そのまま気絶したりっちゃんを、必死にお布団まで運んでくれたんだよ」
「……ごめんなさい、佐智。 ごめんなさい、祭雀」
「気にしないで。 それに勝てたじゃないか」
「負けていましたわ。 あそこで地震がなければ」
佐智の頭を撫でながら、利津は呟く。もっと強くならなければ。今回はたまたま勝てたのであって、今のままでは、次は確実に負ける気がする。
零香は強い。淳子だって、由紀だって。そして桐に至っては殆ど天敵に等しい。戦略面の優位に胡座をかいているだけでは駄目だ。天井を見上げながら、利津は呟き、また戦いへの意気を高めたのであった。
神子相争に破れた零香は、憮然と机の上で頬杖を付いていた。今回の戦いは悔しかった。まさかあんなタイミングで地震が起きるなんて、流石に想定出来なかった。しかし、それは言い訳に過ぎない。あれだけ大きな地震が起こった直後だ。余震が起こる事も想定しておくべきだったのである。
次は勝つ。次こそ勝つ。
一対一の戦いでは、始めての敗北となったが、良い機会だ。戦術面では敵を完全に凌駕したし、暁寺での修行を重ねて、更に強くなってやる。そして、絶対に母さんと父さんを救うのだ。
四則演算ではない戦術にまで高まっていただろうか。零香はそう自問自答する。外はもう暗くなっていて、肌寒くなり始めていた。道場の方からは、父の叫び声も聞こえる。
ふと、零香は思った。利津は、もう夕食を食べたのだろうかと。どんな夕食だったのだろうかと。無言のまま、岩塩のスティックを取りだして口に入れる。かりかりと囓る零香に、草虎は言う。
「今日は、惜しかったな」
「ううん、狼次郎先生にも言われたけど、あらゆる状況を想定して、対応しきらなかったわたしが悪いんだよ。 だから、今日はきっと良い機会。 もっと腕を磨いて、次は勝つんだから」
「そうか。 それならば、もう何も言う事はない。 頑張ろう、レイカ。 では、私はそろそろ寝る。 体を冷やさないようにな」
草虎がかき消え、気配も消滅する。零香はしばし考え込む。あの場合、どうやったら勝てたのだろうか。どうするべきだったのだろうか。幾つもの選択肢を浮かべては、イメージトレーニングしてみる。勝率はどれも五分五分。相手と力量が接近しているため仕方がないが、もっと楽に勝てる方法を編み出したいものだと、零香は思った。
布団に潜り込んで消灯する。部屋が暗くなってからも、零香はずっと考え込んでいた。前のように、泣かないと発散出来ない悔しさではない。どうしたら良かったのか、どうすれば次はもっとスムーズに行くのか。思索的な実験を練りたくて、零香は布団の中で時々もぞもぞしながら、思索を進め続けた。
どうしてか、この時だけは、今自分が置かれている状況を忘れる事が出来た。真性のバトルマニアである事を零香が実感したのは、この時であったかも知れない。
いつの間にか眠りに落ちた零香は、静かに寝息を立てつつも、夢の中でまで模擬戦を繰り広げていた。
4,進展、変転、接点
学校が終わって、ランドセルを抱えたまま、零香は暁寺に向かう。あそこは居心地が良いし、何より良い師匠がいる。本当は父さんに色々教えて貰いたいのだが、そうも行かない現在、師匠に教えて貰うしかない。石段を駆け上がり、さっさと着替えて庭へ。そしてまずは正拳突き二百本を始めた所で、師匠が声を掛けてきた。
「零香」
「はい」
「電話じゃ。 雪村さんとか言うておったな」
「有り難うございます。 電話、出てきます」
雪村巡査長には、此処の電話番号を知らせてある。だが、向こうからこの時間に電話とは珍しい。進展ありかと、廊下の隅に設置してある今時化石に等しい黒電話の受話器を取ると、すぐに雪村巡査長の落ち着いた声がした。
「零香ちゃん、進展があったわ」
「本当ですか?」
「ええ。 明日、ある人物の写真を見せるから、それが貴方のお母さんか確認して欲しいの」
零香は思わず生唾を飲み込んでいた。どうして写真を見て、それが母かどうかを確認せねばならないのか。どうして明日なのか。どうして直接合わせてくれないのか。さまざまな言葉が胸の中で混じり合い、混乱する。必死に事態を整理しようとする零香に、雪村は続ける。
「大丈夫、少なくとも写真の人は生きているし、命に別状も無いわ」
「そう……でしたか」
「ただ、ね。 記憶喪失になっているの。 保護されたときに事故にあって、頭を強く打ったみたいなのよ。 それで、殆どの事を忘れてしまっていて、精神にも不安定な部分があるかも知れないの。 それで、お医者様の話を聞きながら、リハビリをしていこう、という話になっているのよ」
零香は受話器を取り落としそうになりつつも、どうにか崖っぷちで踏みとどまった。勿論、写真を見ないわけがない。その返答を聞くと、頷きながら、巡査長は更に言った。
「デリケートな問題だから、守秘義務は守って貰うわよ」
二つ返事で頷くと、零香は受話器を切った。そして廊下の壁になついてしまい、額の汗を手の甲で拭う。
「進展があったな。 心の準備は大丈夫か?」
「ううん、まだ」
「だろうな。 なら今日は休むか、むしろ思い切り修行をするか、どちらかが好ましい」
「後者を選ぶよ。 大丈夫、心配してくれて、ありがとう」
草虎に応えながら、零香は師匠の所に戻る。そして、一心不乱に修行に打ち込んだ。
ほぼ同時刻。暁寺に通じる石段の麓に、日傘をさした影が一つあった。影は小柄な少女だが、穏やかな視線は落ち着いていて、目鼻立ちも良く整っている。全体的に黒っぽい衣服に身を包んだその少女は、ふんわり膨らんだフレアスカート(黒)がよく似合っている。少女は階段と地図を見比べていたが、やがて徐に石段を登り始めた。途中、道着姿の一団とすれ違う。暁寺の者達だ。少女の整った容姿は彼らの視線を引きつけたが、釘付けにするほどではなかった。
随分長い石段であったが、特に苦労する事もなく、マイペースに歩いて登り上がる。頂上に着いた少女は、辺りを見回していたが、やがて丸坊主の少年を見つけて声を掛けた。
「あの、すみません。 少しよろしいですか?」
「何? 今、修行中だからみんな忙しいよ」
「……武月狼次郎師は、いらっしゃいますか?」
最初に断っているんだから、二度言わせるんじゃない。そう笑顔の奥で語っている少女の瞳を見て、少年はすぐに奥へ走り込んでいった。やがて少年は戻ってきて、狼次郎の元へ案内すると言った。
それほど広い境内ではないが、良く掃除されている。様式だの芸術だのに気を取られていた少女は、自分を見て驚いた道着姿の少女の存在に気付いた。そして、神使にもである。
「あ……お久しぶりです」
「! これは、以前の願いが、意外な所でかなったかな?」
「そうですね。 ふふ」
少女二人は笑い合う。程なく、道着姿の少女に案内される形で、黒い服の日傘少女は武月狼次郎との面会を果たしていた。手紙を見せられた狼次郎は、ふむと呻く。
「斜眼の源治のつてで、武術を学びに人が来るとは珍しいな。 ……黒師院家の桐ちゃん、といったか。 本当に此処で鍛えたいのかな?」
「はい。 どうも私にはこういったたしなみが足りないと気付きまして、執事の者に紹介して貰いました」
流ちょうで、無駄が無く、スムーズな敬語だ。しばし狼次郎は桐を見ていたが、頷いた。
「石段を何の苦もなく上がってきた、位ではつとまらぬぞ」
「大丈夫です。 私、とろいですが、根性だけはそれなりにありますから」
「うむ、その意気や良し。 ならば、しばし此処で技を磨いてみると良いだろう。 ただし、特別扱いはせぬから、そのつもりでな」
不思議な接点が、此処に誕生した。桐は狼次郎に礼をすると、零香に対しても、丁寧に一礼したのだった。
(続)
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