静かなる惑い
序、神使達の集い
草虎がミーティングの場に到着した頃には、既に他の神使達は集合していた。宵闇の世界、何もない広がりの世界。物質的な遮りは一切無く、様々な色彩が混じり合い、時には混沌を、時には秩序を形作る世界。それが草虎達の世界だ。場合によっては上下すらなく、時には奥行きすらない。今ミーティングを行うために訪れた場所も、他との隔たりはなく、様々な色彩が弾け混じり合うただの空間であった。自分を見つめる四体、合計で八十を超す瞳に、草虎は素直に頭を下げた。
「すまない。 遅れてしまった」
「いやいや、いつもは最初に来ている事だし、あまり気にせずとも良いぞ」
草虎の向かって右で触覚を揺らしていた八亀(はっき)が言う。彼は全身を屈強な外骨格で覆っており、長い触覚をいつも自慢にしている。全身はダークグレーで、ごつごつした表皮はとても冷たい。扁平な体は狭い隙間にも潜り込む事が出来、特に箪笥の隙間にはいるのが好きなのだという。一見した容姿は三葉虫に似ている。今この場にいる神使の中で最年長の彼は、玄武の神使だ。
「そのような事よりも、大分時間をロスしているし、さっさと始めようよ」
「そうですね、それが最適でしょう」
口々に言うのは朱雀の神使である祭雀(さいざく)と、青龍の神使である蓮龍。祭雀は一見するとカンブリア紀の生物であるピカイアに似ており、木の葉の形にも見える半透明の神使だ。体を波打たせて空中を進む癖があり(その気になればすいすいまっすぐ空中を泳げるのに)、体の左右にある無数の瞳でものを立体的に捉えるのが好きなのだという。陽気な男で、音楽を好み、口調も若い。草虎よりも少し年上だが、精神はずっと幼いかも知れない。ちなみに、ラップに最近ご執心だそうである。ただし、少し人間の楽しみ方とは違う。あくまで客観的な音の重なりを楽しむのであって、それは歴史鑑賞に近いものだ。
青龍の神使である蓮龍は、カンブリア紀の生物で言うハルキゲニアに近い姿をしている。此方は少し不安定な性質を持っていて、口を開けば紳士な騎士、口を閉じれば頑固で偏屈な数式、と言われている。言葉遣いも気遣いも持ち合わせているのだが、いざ口を閉ざすと途端に記号的になる癖があり、そのギャップに戸惑わせられる事が少なくない。これは地もあるのだが、神子に併せて教育方針を変えやすいからだといつか聞いた事がある。
一番最後に発言したのは、黄龍神子の石麟(せきりん)であった。カンブリア紀の生物で言うと筆石に似ている彼女は、紅一点でもあり、性格的にリーダーを務める事が多い存在でもある。大きな球形の下から無数の枝を生やし浮いている彼女は、常に周囲に五色の球体を浮かべ、ゆっくり回転させ続けている。これは単なる付属品ではなく、回転速度にプライドを持っていて、お洒落の一環と考えている節がある。回転速度を褒めると喜ぶし、逆にけなそうものなら烈火の如く怒り狂う。今日は赤青白黒黄の中で、赤い球体を少し早めに回転させている。何がお洒落なのかは、説明を聞いても誰も理解出来なかったほどに難解な哲学に基づいている。
「それでは、全員揃った所で始めましょう。 そうですね、今日はまず遅刻してきた草虎君からね」
「了解した。 私が監督している白虎神子のレイカだが、実に才能に恵まれている。 多少突撃嗜好の所があるが、良くものを考えるし、根本的な所で思いやりもある子だ」
草虎は石龍の言葉に頷くと、自慢の神子の話を始めた。事実今回はそれほど誇張でもないので、気持ちは楽だった。
下級とは言え、神の眷属である神使達は、本来物質世界とは別の精神が支配する世界の住人である。そのため物質世界に顕現するときには、自分の性質と似た生物の姿を採り、それに存在を間借りする形で様々な行動を行う。神使達がカンブリア紀のバージェス動物群の姿を間借りしているのも、それが都合がよいからだ。
神使達は数ヶ月に一度、集合してミーティングを行い、状況の報告を上司に行っている。ミーティングの議題は神子の育成についての他、環境改善策へのアドバイス、神子相争を行う場所に関しての相談などだ。それが、今回の定例ミーティングである。
環境が悪いため、心に傷や闇を抱えている神子は少なくない。それに、神衣を付ける事によって精神に変化をもたらす場合も少なくはないのだ。実のところ、神衣と相性が良ければ良い程その傾向は強い。故に、皆と相談しながらのケアが重要になってくるのである。急激に強くなる分、生じる歪みも小さくはないのである。一通り皆が近況を報告し終えた所で、石麟が若干リラックスした雰囲気を作って言う。
「今回はみんな均等に、少しずつ不足な程度に勝ち負けを経験しているから、天狗になった子はいないみたいね。 良い傾向だわ」
「うちのりっちゃんもこの間勝てたからね。 あの子は参加スパンが長くなるとは思うけど、勝率はかなり高くなりそうだよ」
「確かに良い戦闘スタイルですね。 大味という最大の欠点を上手くカバーする戦い方です。 あの子、戦術面では問題がありますが、戦略面では広域に視点を展開していい戦いが出来そうです」
「うちのキリもなかなかしぶとい戦い方をするようになってきての、見ていて大分安心できるようになってきた。 リツもなかなか腕が良いが、キリには極めて相性が悪かろうて、どう克服するかが見物だのう」
それぞれ雑談レベルの自慢話を始める神使達の中で、一人草虎は黙っていた。やがて、それを敏感に察して、石麟がいった。
「どうしたの、草虎」
「うむ。 うちのレイカなのだが……」
「……過剰同調反応?」
「当たりだ」
「本当ですか? どうせ誰にもいずれは出るものですが、少し早いですね、それは」
心配したように蓮龍がいう。神使達は自分の神子に限らず、神子が全員幸せになれれば良いと常に考えている。神子達は一種の共有財産なのだ。これは遙か昔に、神子相争が始まった頃からの良き風潮であり、伝統だ。自分の鍛えた子達が凄惨な戦いをしているのに、不思議な話ではある。
「いつものように、慣れて貰うしかないけれど……この早い段階で、実力でヒグマを倒すような子だし、才能はともかく精神力は今回の神子の中で随一でしょ?」
「故に反動が恐ろしいのだろう、のう草虎や」
「うむ。 あの子は恐らく、十代の半ばにはまがつ神レベルの相手の戦闘も神衣無しでこなすようになるはずだ。 故に、過剰同調反応は強烈に出る可能性がある」
「三代前の失敗は繰り返したくない、という所ですか?」
蓮龍に、草虎は大きく頷く。三代前の白虎神子アニス=ブリュンヒルドは、非常に豊富な才能を有していたが、過剰同調反応に振り回され、成人した今でも苦労が絶えない子だ。草虎がもう少し気付くのが早ければ、大分悲劇を緩和できたとも今になれば分かる。零香に同じ悲劇を味あわせるわけには行かないし、早めの対策が必要になってくる。以前、同じように苦労した経験がある祭雀が助け船を出す。
「ぼくの方は余裕が少しあるから、準備をしておこうか?」
「助かる。 あれは少し前から多めに用意しておきたい所だからな」
「何々、いいっていいって。 神子達は僕たちみんなの宝だから。 それが苦しむのは、あまり好ましくないからね」
「普段凄惨な戦いをさせている以上、こういった所では優しくしてあげたいですものね」
草虎としては、その石麟の言葉に全面的な同意はしかねる所であったが、静かに頷くのがベストだと判断してそうした。
その後は、様々な情報交換をして、ミーティングは解散となった。思い思いの方向へ散っていく神使達。いずれも今が一番難しい段階であり、今後に向けて努力が欠かせない状況だ。様々な事を考えつつ、草虎は場を後にする。その背には、命という重みが宿っていた。
周囲を出し抜こうという考えはない。そう言う事を考える神使も過去にはいたが、方角神によって排除された。神子相争の目的にはそぐわないからである。
うすくらい世界を進み行くと、やがて遠くに光が見えてくる。物質世界との境界線だ。明日は神子相争だが、今だ母の消息が分からない零香はほぼ確実に参加するだろう。まだ実験段階だった感覚質量キューブを使いこなした事と言い、実験段階の二つの術をどう使うかが興味深い。
やがて、境界を抜ける。零香がそろそろ起きる頃だ。早起きのあの子が心配しないように、急いで帰る必要がある。あの子は強いが、それでもまだまだ子供だ。親が支えられない現状、自分がその代わりを務めなくてはならないのである。
今日はまだ、始まったばかりであった。
1,絶対防御
周囲にはただずっと薄暗い沼地が広がっていた。鳥の声もなく、腐敗した枯れ草があるわけでもなく、油が浮いた水が何処までも遠くに広がっている場所であった。所々にある浮島には、どす黒いタールらしいものがこびりついている。今までの戦場では例外なくあったビルは影も形もなく、相変わらず音はない。今までとは大分違う戦場である。見通しが良すぎるため、身を隠す場所もない。
戦場のただ中で、零香は初めて会う敵と相対していた。プレートメイルとか言う大きな黒いヨロイを身につけた神子で、冠か角か、後方に二本突起を伸ばした意匠的な兜をかぶっていて、周囲には幾つもの大きな盾を浮かべている。盾は一つ一つが人間大もあり、黒っぽい丸盾であり、中央に玄と書かれている。雰囲気、それに展開している術から考えてもそうだし、今までに死合っていない相手だという事も考えると、間違いなく彼女は玄武の神子だ。腕組みをしたまま泰然と構えているのに、表情は柔和で、涼しげな目元に殺意や戦意は浮かんでいない。余裕と言うよりも、極めてマイペースな印象を受ける相手だ。長い黒髪も、艶やかで羨ましい限りである。色素が薄くて銀色が少し入った髪を持つ零香は、黒くて綺麗な髪に憧れる傾向があった。丁度、今相対している子や、母が持っているような。
周囲の足下が悪いので、零香は何処から攻めるか思案し続けていた。此方も動きが取りづらいが、向こうも膝下まで沈み込んでいる位だから、あまり動きは取る事が出来ないはず。そう零香は判断した。さらさらの黒いロングヘアーをたなびかせる相手と、零香は間合いを取る。その右手には、今までにはない、分厚い爪の姿があった。燻し銀のそれは、薄暗い沼から照り返される光を、貼り付けるようにして受け止めている。
新たな武装はグローブのようにはめ込むタイプのもので、手の甲に四本の鋭い爪を生やした金具が、親指にもう一本の鋭い爪を生やした金具が付いていて、第二関節の動きに連動するようになっている。爪の長さは一つ当たり二十pほど、並の包丁よりぐっと分厚い。ツキキズの爪をイメージして、試行錯誤の末に作りあげたものである。そして神衣装着に併せて手自体が肥大化していた今までとは違い、右手は普通の手と同じサイズになり、爪等も人間のものに近い。零香が開発した攻撃補助用の新しい術、神衣形態変化だ。もう一つの術については、今のところ使う必要は無さそうだが、この状況で見せてやる必要はないので、展開しない。
「わたしは銀月零香。 白虎の神子。 貴方の名は?」
「私は黒師院桐。 玄武の神子です。 こんな場所で出会わなければ、神子同士、楽しくお喋りでもしたい所ですけれど」
「残念だけど、そうはいかないよね。 多分無さそうだけれど、外であったときは、仲良くお喋りしたいね」
お互いに笑い合って、ほんの僅かだが流れる和やかな空気。だが、すぐにそれはかき消える。笑いは威嚇の一種だし、第一勝たないと互いに状況を好転できないのだ。零香の母はまだ消息すら掴めない。白炎会は各地に支部を持っていて、其処に監禁されている信者が見付かったというような例も何件か報告されている。時間は、あまりない。情報がなかったとは言え、母の消息に気を配っていなかった自分の愚かさが恨めしい。
じりじりと間合いを詰める零香。相手には決して不快感を覚えないのだが、戦いは避けられない。それにしても、強力な盾を有しながら、全く動こうとしない相手の狙いも気になる。何度か露骨に隙も見せたのだが、つけ込んでくる様子もない。探りに気付いたと言うよりも、攻撃を待っているような感触だ。長期戦を狙っているのは確実であり、できれば短期決戦に持ち込みたいのだが、未知の相手との戦いは、特に慎重にならねばならない。ゆっくり敵から見て時計回りに定距離を保って進みながら、既に零香は周囲四十メートル内の、足場になる浮島の位置を把握していた。
ビル街と違い、此処には投げられるコンクリ片が存在しない。あれは零香にとって結構心強い武器だ。上手くぶち当てる事が出来れば、下手な術よりも効果が大きいのは実証済み。それだけに、手元に見あたらないのは惜しい。出来れば今回も、何か投げつけて様子を見たい所なのだが、そうも行かない。少し慣れない戦い方だが、高速機動戦を仕掛けるほか無い。
そのままの歩調で、二歩進んだ所で、不意に速度を上げ反転、二つの浮島を経由して、桐から僅かに斜めにずれつつ躍りかかる。乾いた音が、後ろから付いてくるように上がり、桐の脇を駆け抜けた零香は、そのまま抉り去るように左手の刃を振るっていた。鈍い金属音。
そのまま水面を蹴って浮島に着地、バクテンして斜め上から躍りかかる。回転中に状況把握、敵はノーダメージ。盾の一つに僅かな亀裂が入っているが、それだけ。そのまま拳を抉り込みにかかるが、眼前に盾がスライドして立ちはだかる。空気を散らして唸る零香の拳を、盾が正面から受け止め、激しい殴打音が響き渡った。いや、そんなものではない。音そのものが衝撃波となって炸裂した。
衝撃波が真横に広がり、びりびりと水面を振るわせる。大きく揺れる盾、盾そのものを蹴って反転、数度バックステップしながら距離を採る零香。二十メートルほどを一秒半で稼ぐと、敵から見て反時計回りに走りつつ、今の攻撃で敵に与えたダメージを確認する。そして心中にて舌打ちしていた。
盾の二つにそれなりに打撃を与えたが、本体はダメージ無し。しかも、盾のダメージは少しずつだが回復し始めている節が見える。桐は涼しい顔で腕組みをしたままだ。
玄武というのは亀と蛇を合わせたような姿をした神である。水を司る神であると同時に、水生生物や鱗がある生き物の長であるともいう。だからその神子も防御力特化型が多いと草虎に聞いた。それにしても、事前知識があっても驚かされる。これはまた、物凄い防御能力だ。何しろ、近接戦闘タイプの零香の猛攻にびくともしないのである。突破には相当な工夫が必要だ。
盾はゆっくり桐の周囲を回転しつつ、零香の攻撃にいつでも対応できるように備えている。数度ジグザグに向きを変え、水面に無数のZの字を残しつつ、零香は再度間合いを詰める。このスピードなら水面の相対硬度はコンクリ同然、全く問題のない芸当だ。そして敵との相対距離がゼロになった瞬間、不意にバックステップし、低い弾道から躍りかかる。浮島を蹴った零香の猛烈な勢いに弾かれ、水がスキーのジャンプ台のように、直角三角形に蹴立てられ上がる。同時に、盾が真上から降るようにして、断頭台の刃が如くに、頭上から襲いかかってくる。是こそが、零香の待っていた瞬間。運動エネルギーを殺さず、そのまま突貫、盾の下部に張り付く。蹴るのでも殴るのでもなく、垂直に降ってきた盾にエネルギーを伝えつつ張り付いたのである。盾も重かったが、零香の突撃の破壊力はそれ以上であり、大きく盾が傾いた。浅い水底を素早く踏みしめ、気合いを入れて盾を押し上げる。真っ正面に、少し驚いた表情の桐が見える。無言のまま、零香は右手のクローを突っ込んだ。
「……っ!?」
思わず零香が声を上げる。何もない空間に、クローが大きな抵抗を感じ、その隙にゆっくりと桐が屈んだのである。当然、クローは空を切る。更に、桐が両手を胸の前で合わせ、危険を感じた零香は慌てて飛びずさった。水面すれすれをフリスビーのように飛んできた盾が、一瞬前まで零香がいた低い地点を挟んでいた。揺り戻した盾と、飛んできた盾達はぶつかり合い、大きな音を立てる。まるで巨大な昆虫が牙をかみ合わせる様だ。零香は流石にぞっとした。すぐに噛み合わさった盾は離れ、元の軌道へと戻る。
今のは危なかった。押さえ込まれていたら、どんな追撃を受けていたか分からない。少し大きめに距離を採ると、零香は今の状況を整理にかかる。
突き込んだクローは確かに何かの影響を受け、速度を落とした。絶対に破れない壁ではないし、今度ぶち込めば当てる自信はある。低下した速度でも、その気になれば当てられるほど相手の動きは遅かったのだ。しかし相手も案山子ではない。零香の動きに併せて何かしてくるだろう。まだ此方も全力で動いていないが、相手もあの涼しい表情からして切り札の二つや三つ持っていても不思議ではない。
相手はまだ動こうとしない。間合いを今の攻撃で見きったと言うよりも、やはり何か意図があってそうしているとしか思えない。そう考えて、ゆっくり敵の周囲を回りつつ距離を測って隙をうかがっていた零香の眉が跳ね上がった。
『なるほど、そういう事か……』
仮説だが、試してみる価値はある。草虎に聞いた所によると、術発動のコスト及びリスクというものは、様々な種類があるのだという。最大級のものには、発動後一定時間内に敵を仕留められなければ即死などと言うものもあるとか。そういったものの一種だとすれば、あの異様な防御能力と、それに妙な防御技にも説明が付きそうである。
ならば、打つ手は一つ。発動の条件となっているものを潰す。そしてそれはほぼ間違いなく、あの位置に立っていて、其処から動かないという事だ。
何か嫌な予感がする。長期戦に持ち込んでいると言う事は、そうすればそうするほど相手に有利だと言う事だからだ。それを承知の上で、今回は勝ちを捨て、ぎりぎりまで粘って相手の能力解析に務めるという手もある。長期的にはそれの方が有利かも知れない。しかし、それは要するに、敗北の正当化に過ぎない。それは勝つべく努力を続けて、その結果でなければならない。
『母さん、助けるからね。 だから、待っていて!』
ゆっくり右へと移動していた零香が、不意に態勢を低くし、直線的に桐への間を詰める。今までのようにフェイントを使わず、全力での直線突進だ。攻撃方法の急転換で、相手の攪乱を狙っての事である。
三秒間の加速で零香は時速百キロに達し、水面をそのまま地面と同じく蹴りつつ一挙に間を詰める。少し驚いたように桐は手を振り、盾の一つが正面に、今ひとつが上へと浮き上がる。盾へ突撃した所を、もう一個で潰しにかかってくる気であろう。更に、重心を低めに盾を配置してくる事は充分に考えられる。……と、零香は思ったが、相手の行動は予想を外した。三枚目の盾をスライドし、そのまま一枚目の裏に重ねたのである。悩んでいる暇はない。見る間に相対距離は縮まっていく。
真横から回り込む事も考えたが、それでは折角の運動エネルギーがパアになる。水面を蹴って中空に躍り出た零香は、盾に正面からのショルダータックルをかけた。世界そのものが振動するような炸裂音、猛烈な手応え。水面すらが泡立ち、瞬間的に風の錐が辺りを突き刺す。瞬間、零香の突撃を受け止めきった盾が、真ん中から割れ砕ける。一枚だけか。想像以上に硬いなと、零香は思った。別の盾の一つが、真上へと回り込む。桐の声が聞こえる。
「起爆!」
何だから分からないうちに、零香の意識が飛んだ。
何秒ほど落ちていたのだろうか。最後の瞬間、とっさに割れた盾を蹴って回避行動を取ろうとした事だけは覚えている。気絶した直接の要因は、恐らくは強烈極まる音による殴打。それに、全身にかかった瞬間的かつ一方的な、暴力的な圧力。
自分の状況を確認する。手を動かす。動かない。指先から順番に動かしていく。小指、中指、薬指、人差し指。わずかずつ、だが血が通うように動いていく。体中が冷たい。目が見えない。全身がひりひりと痛んでくる。関節を一つ一つ、確認するように動かしていく。あまり時間はない。
避けられたのは、勘によるもの、としか応えられない。一応風鳴りも感じ取ったが、それ以上の本能が零香に回避を促したのだ。動かせる関節を総動員して、真横に飛ぶ。同時に、ぐしゃりと容赦のない音がした。水に落ちて、全身に冷たい感触が走る。その時、目がようやく見え始めてきた。
顔を上げて見ると、今まで自分が転がっていたと思われる辺りの浮島に、盾が突き刺さっていた。あれに潰されていたら、最後であっただろう。汚れきった水の中、体を起こしていく。同時に体中を内側から引きさかんばかりにして走る鈍痛。
体の状況を確認していく。全身のダメージ、甚大。骨も何カ所か折れているが、それ以上に辛いのは彼方此方に開いた深い傷口だ。血が流れ落ちている場所も少なくない。水の中に入っている以上、血液の流出はさっき以上に深刻だ。今、何をされた?再び飛んで来ようとしている盾に対応しようと、下がりかけて、足を止める。思い出したからだ。
零香は思う。そうだ、時間そのものがコストになる術もあったはず。そして、防御を攻撃よりも得意とする玄武の神子にもかかわらず、あの威力を再現できたと言う事は、使用する際のリスクとコストがとても大きい術のはず。
まさか。
奴がずっと間合いを計りもせずに止まっていたのは、あの防御技だけでなく、あの攻撃技をも睨んでの事か?攻撃術を、此方の攻撃タイミングを読んで事前に仕掛けていた?零香の自問自答は空に流れる。把握している情報から可能な限り正しく推測せよ、せねば勝ち目はない。ただでさえ全身は傷だらけで、余力はそう無いのである。もう全力を込めたチャージなど仕掛ける体力は残っていない。残された手は、あまりに少ない。
無言のまま、前に飛び込む。盾が迫ってくるが、それを掴み、水面に身を投げ出すようにして斜め前へと転がり出る。殆ど同時に、後方で、爆発が巻き起こった。成る程、間違いない。さっきの瞬間、わざわざ零香の上に盾を持ってきたのは、あの技の威力を反復増幅させるためか。今まで零香は至近で何度も爆発を見てきて、結果知っている。爆発の威力は主に上と横へと広がっていく。それは即ち、上を塞げば行き場のない爆発は全て横へ流れると言う事なのだ。
水の中へ逃れる事で、何とか今の爆発は凌いだ。凌ぎこそすれ、はり倒されるような衝撃が襲ってきたが、それでも確信した事がある。あの爆発の術、発動条件は場所と時間だ。多分最初に指定した場所に、ある程度の時間コストを用いて発動するのであろう。決めた時間に爆発するのか、何秒後以降に爆発操作ができるのか、それは分からないが、それだけ分かれば今は充分。ぐっと水をかき、水面に出て、浮島に上がる。盾が追いすがってくるが、何とか陸に上がってしまえば此方のものだ。追いすがってくる盾はそれほど速くはない。だが、ずっとそれに追われ続ける結果、体力はどんどん削られる事になる。素早く周囲を見回し、桐を見つける。このまま間合いを詰めようかとも思ったが、そこでふと気付く。
今の、盾から逃れた先に敷設されていた地雷と言い、桐の手はいずれも此方の行動を的確に先読みしたものばかりだ。対応策を示していく事により、此方を上手く地雷原に誘導し、体力を削り取り、最終的な勝ちへとつなげていく。しかもそれが的確なのだから、極めて手強い相手だ。気付く事は出来ても、対応はいちいち遅れる事になるし、複雑に張り巡らされた手を読み切る事にも限界はある。そうなってくると、ある程度の犠牲を覚悟の上で強行突破するか、此方も罠を張るか。しかし、もう手札が一枚しかない。こうなったら、紙一重の勝負を挑むほか無い。
追いすがってくる大きな盾。桐の周囲には今だゆっくり旋回中の、四つの盾が健在だ。という事は、新しく盾を作り出したと言う事である。他の神子に比べて珍しい能力ではないし、むしろ当然だ。だが、仮に十秒間落ちていたとしても、全ての盾を入れ替える事は流石に無理だろう。そこに勝機がある。
水平になって飛んでくる盾。踏ん張り、拳を叩き込んで正面から受け止める。ぐらつく大盾。拳を叩き込んだ左腕の傷口から血がしぶく。もう全身はがたがたなのだ。眉をひそめる桐。当然だ。今、わざと不可解かつ非合理的な手を打って見せたのだから。今、ダメージを蓄積させてまで、こんな手を打つ必然性は一切無い。相手に隙ができる。これぞ、零香の狙っていた瞬間。どうせ、左腕はもう捨てて構わない。
敵が注意を逸らした瞬間、その場を飛び離れ、二つの浮島を飛び渡りながら見つける。あった。そのまま水に飛び込み、拾い上げる。さっき拳を叩き込んだ手応えで分かった。あれは全て術で作り上げたモノではない。その辺にある物質、多分泥や土も大いに利用しているものだ。だからこそ、破壊した後も、こうやって残骸が確実に残っている。左腕で、残骸、即ち割り砕いた盾の一片を掴むと、神輪を口に持っていて甘噛む。触れるというのはこういう形でもいい。術発動を開始する。朱雀の神子である利津を叩き落とすために開発した術だが、様々に応用する事は可能。発動は十秒後、丁度いい。
はじき出されたように水面に出、ジグザグに水面を蹴りながら桐へと間合いを詰める。驚いた様子で、桐は盾を二つ重ね、更に神輪に触れる。多分時限式の地雷の術だろう。だが、もう引いている暇はない。殺るか殺られるか、それが神子相争だ。突撃し、零香は咆吼した。
「えええいあああっ!」
「……っ! まだまだあっ!」
立ちはだかる二重の盾。最後の浮島を蹴り、空中に躍り出た零香は、叩き付けるようにして、盾に真っ正面から左腕に掴んだ欠片をぶつける。この瞬間、術が完成する。
左腕が光り、大きく変異する。腕に添って長い棒が加わる。それには中央に溝が掘られており、肘と接着された部分は大きく膨らんでいる。最後尾には大きな分銅が付いており、それが火花を放ちながらレールを走る。そして瞬く間に加速、最前部、つまり手が着いている所で全てのエネルギーをさっきまで左手で零香が掴んでいた破片へと伝達した。押しつぶされるように後ろから叩き付けられた破片は、自らも形を崩しながら、正面にあった盾を粉砕しつつ後ろにあった盾に突き刺さり、勢いを些かも落とさず盾を押しのける。結果、何とかガードポーズを取る事がせいぜいだった桐は、十メートル以上も吹き飛ばされ、水面に叩き付けられていた。同時に零香も反動から後ろに押し出され、水面に背中から叩き付けられる。忘れていたように、多分桐がこれあることを予期して仕掛けていたであろう地雷が炸裂、大きな水柱が上がった。
新しい術であるカタパルトシューターは、本来の用途である高射攻撃ではないゼロ距離射撃にも見事な成果を上げ、この戦いにおける役割を終えた。同時にレールも分銅も消え失せる。水の中に沈んでいきながら、零香は遠くへ行きそうになる意識をつなぎ止める。もう動かない左腕は仕方ないにしても、必死にもがいて、どうにかして水上へ上がる。薄暗かったのに、どうしてか水面が明るい。どうにか水面に到達し、さっきまで桐がいたあたりまで泳ぎ、周囲を見回す。肩で息を付きながら、浮島に這い上がる桐を見つけたのは、直後であった。零香もそれに近づくようにして泳ぎ、なんとか浮島にまでたどり着いて這い上がる。
肩で息を付いていた桐は、右手に十手を具現化させると、辺りに浮かんでいる盾を、左手を振って近くに招き寄せようとする。もう一度防御陣を作られたら終わりだ。奴は水に落ち、必死に這い上がってきた所で、小細工をしている暇など無い。最後の一撃を叩き込むのは、今を置いて他に無かった。プレートメイルを着て水面に上がってきたほどだからパワーはあるようだが、見る限り身のこなしはどうという事もない。勝てる!
最後の力を振り絞り、零香は水に濡れた重い神衣を引きずって走る。幾つかの浮島を経由し、桐へと躍りかかる。桐も慣れない手つきで十手を構えると、致命傷を避けるべく中段に、まっすぐ零香を見据える。致命傷だけを避け、盾を呼び戻せば勝ちなのだから当然の判断だ。だが技量が伴っていない。それに、クローはまだ無事、接近戦なら万に一つも負けはない!言い聞かせ、突撃する。
閃光が交錯する瞬間、零香は十手を斬り払った上、返す刀で桐の頸動脈を首あてごと正確に切断していた。最後の最後でどうにか切り札を投入して勝つ事が出来た駆け引きはともかく、接近戦の力量では、子供と大人のレベル差だ。ぐらりと蹌踉めいた桐が、もんどり打って水へと落ちる。さっきまでと比べて、ぐっと小規模な水しぶきが上がった。
へたり込んだ零香は、そのまま大の字に転がる。全身が痛くて痛くて、もう動けない。出血も酷く、どうにか致命傷だけは避けたが、通常だったら一ヶ月以上は入院と言った有様だ。ギリギリの勝利だった。一瞬でも遅れたら、盾が間に合い、零香に勝ち目は微塵も無くなる所であった。
陽光を手で遮っていた零香は、幸片が降ってくるのを見た。桐の幸せを先送りにして、自分が横取りしたのだ。だから、絶対に母を助けなければならない。
今回は切り札を使って勝てたが、次はそうも行かないだろう。ぐっと唇を噛むと、零香は幸片をつかみ取り、目を閉じて桐に詫びた。
意識が戻ると、其処は自室の机だった。前にはブラウザを閉じ、デスクトップに戻ったパソコンがある。デスクトップの画像は、父と母と一緒に遊園地で撮った写真。誓いと共に、言い聞かせるために、わざわざこれにしたのだ。
思えば、自室で神子相争から帰ってきたのは始めてかも知れない。今回は、修行が一段落し、自室で母の事を調べようと白炎会をインターネットで調べているときに神子相争が始まったのだ。少しぬるくなったオレンジジュースを飲み干す。何処か血の味がするような気がした。側に置いてあるお菓子は、醤油煎餅。昔はそうでもなかったのだが、今ではどうしてかこれが美味しくて仕方がない。
パソコンをシャットダウンすると、ベットに腰掛け、草虎を見上げる。褒めて貰いたかったからではない。聞きたい事があったからだ。
「ねえ、草虎」
「うん? どうしたレイカ。 勝ったというのに浮かない顔だな」
「ううん、勝った事はいいの。 幸せは他人からむしり取るものだって、もう分かっているから。 それよりも、桐ちゃんが使ったあの防御技、一体何?」
「あれは絶対防御だ。 横文字で言うとアブソリュートディフェンスだな」
何やら不穏な響きである。それにしても、きちんと戦況を見ていてくれる草虎は、こういった所でタイムロスを生じさせないので、零香には心強いパートナーだ。膝を揃えて話を聞く態勢になった零香に、頼りになるパートナーは言う。
「絶対防御というのは、あらゆるタイプの攻撃を軽減するものを指す。 高レベルの絶対防御になってくると、下等な攻撃術程度では完全に遮断する。 物理攻撃、術攻撃、その他体調を変動する術や、その他にも有害な攻撃は全て軽減する事が可能だ。 ただし、あくまで軽減及び防御だから、それを超える攻撃を加えればうち破る事は難しくない」
「それって……強力だね。 様子見には最適なんじゃないかな」
「うむ。 その代わり、大体に置いてリスクもコストも半端ではないし、使いどころも難しい」
桐ははじき飛ばした途端に、あの厄介な絶対防御を喪失した。それは要するに、防御に適した玄武の神子ですら、特定位置から動かないと言うリスクを侵してやっと発動できた能力と言う事になる。ただし、対物理攻撃、対術攻撃と言った、単純な攻撃に対応する手段としては、それぞれに特化した防御術に二枚ほど性能は劣るようにも見える。
いつのまにか、戦い中心に頭の中が切り替わっている事に気付いて、零香はじっと暗くなったパソコンのモニタを見た。お洒落だのアイドルだのグッズだのに憧れていた時代が、ほんの二ヶ月前だというのに、遠い昔のようである。
「これで、一通り戦ったんだね」
「うむ。 今のところ、勝率は五割。 参加率から考えると立派な数字だ」
「他のみんなも、少しは状況がましになったのかな」
「状況が改善していない神子は存在しないと報告を受けている。 皆、厳しい情勢に代わりはないようだが」
それを聞いて少しだけ安心する。桐にしてもそうだし、勝ったときに奪った幸片で、皆の幸せを先送りにしている事は間違いないのだから。
明日は白炎会被害者の会の定期連絡だ。以前から時々連絡を取っている雪村巡査長と、それに被害者の会とも密接に連絡を取り合っているが、今のところ母の有力情報はない。一連の捜査で発覚した死者は七名に達しており、母の名はその中にはないため、まだまだ手を休めずにアプローチを続けて行かねばならない。警察は頑張っているし、それを疑う気はないが、此方も必死なのだ。
「明日、母さんの状況が分からなかったら、或いは良くない状況だったら、幸片を使うね」
「それが賢明だな。 後は林蔵殿だが……」
「父さんも、相当に参っているみたいだけど、今は母さんが先だよ。 本当は二人ともすぐ助けたいけど……幸片は今、一つしかないしね」
零香は自嘲的に、瞳の奥に僅かな闇を湛えて呟いた。人生には、どちらかを選び、どちらかを捨てなければならないときが必ず来る。例えば、殆どの日本人は、大人になると仕事のために趣味と決別するか時間を削る。家族のために友人と過ごす時間を捨てる。場合によっては、仕事のために家族との時間を捨てる。そういった行為が社会的に(正しい)と見なされているし、そうしないと生きていけない人間も多いのだ。それとは多少性質が違うが、零香は今の年から既に、厳しい取捨選択の決断を迫られ続け、それに応える事を余儀なくされている。少子化によって、児童は欲しいものを欲しいだけ与えられている場合も一部あるのだが、零香とそういった状況は全く無縁だ。そして突きつけられた厳しい決断の数々が、否応なしに零香を成長させていく。良い意味でも、悪い意味でも。
居間に降りる。父が道場で暴れている音は、今日もここまで響いてくる。テレビを付けると、偶然にと言うかタイミングよくというか、輝山由紀が映っていた。最近めきめきと歌唱力を上げていると、テレビのアナウンサーが何も知らずにほざいている。当然の話だ。極限の戦闘と、それにより集中力と精神力の錬磨を行った結果、学習効率が常人の数倍に高まっただけの事だ。嫌でも観察力や客観性が鍛えられるから、自分の歌の欠点にも良く気が付くのだろう。こんなものは過大評価でも何でもない。神子達を見ていれば自然に気付く程度の事だ。
輝山には、前はたまたま勝つ事が出来たが、次もそうだとは思っていない。感覚拡大キューブを破る技を編み出してくる可能性は極めて高く、それに慢心するのは自殺行為だ。対応力、応用力の高い術やスキル、戦術を、今後も多数用意していく必要がある。
無感動に同年代のチャイドルと一線を画す歌唱力とダンスで客席を湧かせる由紀を見ながら、零香は明日の戦略、それに今後の戦いの方針を練り続けた。
2,表の顔と裏の素顔
テレビ収録が終わった輝山由紀は、肩を叩きながら控え室で大きくため息をついていた。彼女クラスのチャイドルだと、別に寝る間もないほどに仕事をしなければならない訳でもないし、修練をする暇も充分にある。父母は自分の生命線が由紀だと言う事を良く知っているので、決して無理をさせようとはしなかったし、結構我が儘も聞いてくれた(ただし時間と物質面のみ限定)。この辺り、家族経営という珍しいタイプの事務所だから出来る芸当だ。それにしても、この年で肩こりとは。まだ小学四年生なのに。自嘲が避けられない。髪を染めなければならない事もあって、それに伴う髪の荒れ方も酷い。肌が荒れていない事だけが唯一の救いだが、
外では、母が待っていた。無言で車に乗るように促すと、ばたんと大きな音を立ててドアを閉め、すぐにエンジンを掛ける。由紀はすぐにのど飴を取りだして口に入れ、脹ら脛に湿布を貼る。喉を冷やさないように、車のなかでもしっかり暖を取る。こういった細かい体調管理が、チャイドルとしての生命線を強く太くするのだ。これを怠るような子は、この業界では生き残る事が出来ない。
暗い夜道、走る車の中では、殆ど会話もない。由紀の隣には、いつも一緒にいてくれる石麟が、いつもより少し遅めに青い球体を回していた。球体の回転速度が石麟にとってのお洒落である事を由紀は知っているので、家に着いたらそれについて何か言おうと考えていた。多分疲労で忘れる事はない。何しろここの所、ぐんぐん体力が付いてきて、睡眠時間を削っても全然問題が無くなってきているからだ。問題があるとすれば修行場所だが、それは最近確保できた。後は少しずつ、山積した問題を片づけていけばよい。
金は人を変えると良く言う。芸能界という日本でも有数のパンデモニウムに足を踏み入れた由紀はそれを仕事場でも目にするし、何より家庭でもよく見る。無言のまま車を運転する母は、由紀の方を見ようともしない。多分父は、今日中には会社から帰ってくる事さえ出来ないだろう。今日は何処の会社だったか。あまり興味のない話ではあったが、そろそろ把握しておかねばならないだろう。今後、効率よく事態の改善を図るには、それが必要だからだ。
利子さえ払えば、サラ金の取り立て人共はぎゃあぎゃあ言わない。だから、あまり歌が好きではない由紀も唄う。頑張って歌って、好きでもない連中に媚びを売って、視聴率をかせいでギャラを集める。笑顔の作り方ばかり上手くなった。歌い方も分不相応に上手くなった。ダンスだって誰にも負けない。由紀は、自分がどういった層のファンを確保しているか良く知っている。彼女のファンは、殆どがいい年の男性ばかりだ。同世代のファンは僅かで、そのかわいらしさは少女好きの大人の男性を引きつけて止まない。だから、そう言った人間に媚びを売る事を要求される。可愛い衣装と合わせて、大人向けに子供の色気と女の武器をさりげない程度に使う事が要求されるのだ。腿を見せるような衣装だって着せられるし、大きく背中が開いている服だって珍しくない。あまり褒められた行為ではないはずなのだが、稼げれば容認される。由紀がいるのは、そういう世界だった。
車の中で、母は口を利かない。夕食の話などしない。自分が疲れきっているからと言う理由で、全部コンビニ弁当で済ませろと要求する母は、罪悪感からか、或いは子供に命綱を握られている事が腹立たしいのか、夕食の話をすると激高する。父も似たようなものだ。父と母は喧嘩すらしない。絶対零度の空気の中、かって仲が良かった夫婦は生活していた。
家に着くと、母はそそくさと二階に行ってしまう。由紀は居間の電気を点けると、帰り際に買ってきたコンビニ弁当を、レンジで温め始めた。レンジの中で、ゆっくり弁当が回り始める。機械音が、絶大な存在感を放ち続ける。
最初は変わってしまった家族に、失われてしまった平穏に、随分泣いた。もう涙は流れなくなったが、仕事場以外では笑わなくもなった。
「由紀、大丈夫?」
「大丈夫。 これでもあたし、社会人だから。 この位は平気さ」
「そう。 ……今日のお弁当は、ハンバーグ弁当?」
「ああ。 お肉は嫌いだけど、食べないと力が付かないからな」
くすくすと笑いながら、由紀は暖まった弁当を取り出す。割り箸はとっておいて、朝洗っておいた箸を使う。前は殆ど喉を通らなかったコンビニ弁当も、慣れれば随分美味しく感じるのだから不思議である。レンジで弁当を温めながら、由紀は青いボールの事を褒めた。まるで子供のように石麟は喜ぶ。少しだけ、由紀はそれを見て心安らぐ。
地の由紀は、少し不良っぽい喋り方をする。小学生としては異例と言っても良いほどに荒んだ口調が、彼女の元々の性格だ。天然系の癒しキャラをテレビで作っている事から考えると、表と裏で性格は正反対である。ファンの者達が見たら驚倒するだろう。実は神子達にも素の自分は見せていない。気が強い反面、とても人見知りする性格なのだ。黙々とご飯を食べながら、由紀は新聞に手を伸ばし、数頁をめくって、小さくため息をついた。
父の主力会社の株価は、また下がっていた。母のも同じだった。
真面目で働き者の父と、少し嫉妬深いが穏やかで優しかった母、それに元気で踊る事が好きだった由紀。幸せだったかというと、そうとも言えるし、そうでは無いとも言える。平凡で、特に波乱もない家族。休日には家族でたまに遊園地に行ったり、夫婦げんかが時々起こったり。由紀は勉強するように言われて、渋々テレビを見るのを辞める。そんな、何の変哲もない一家だった、輝山家。
それが一変してしまったきっかけを、由紀は良く覚えている。最初のきっかけは、恐らく由紀がダンスのオーディションでテレビディレクターの目にとまり、チャイドルとしてデビューした頃かと思われる。まずまずのルックスと、ある程度の歌唱力、それに度胸とダンスの力を兼ね備えた由紀は、そこそこの人気を得て、父の年収を瞬く間に超えた。その時既に、何かが壊れ始めていたと、由紀は今頃になって気付いている。そして最後の、決定的なきっかけになったのは、宝くじだった。父が時々買っていた宝くじ。一等前後賞併せて三億円という、テレビでコマーシャルを良く流しているそれに、一等前後賞揃って、父が当たってしまったのである。
人間は分不相応の力を手に入れたり、能力に余る役職を与えられると、殆どの場合暴走の挙げ句に自滅する。質が悪かったのは、父には経営者の才能がある程度あった事、母にもある程度経営の才能があった事。そして中途半端な成功が、それを過剰なものとして錯覚させてしまった、という事である。
宝くじによる多大な資金という強大な光が、二人の目をくらませてしまった。慎ましい生活は終わりを告げ、二人の野心は燃え上がった。元々一国一城の主になりたいと、由紀の父は常に口にしていた。女性の社会進出に、由紀の母は並々ならぬ関心を持っていた。元々心の中に炭火はあったのである。それに、三億という元手資本は、ガソリンを注いでしまったのだ。二人で分けても各自一億五千万。能力が伴っていれば、マネーゲームも企業経営も大いに結構。だが、中途半端な能力の人間に、それは最悪の破滅をもたらす地獄の幕開けであった。
幸先は過剰なほどに良かった。二人はそれぞれ別個に事業を始め、瞬く間に成功した。興味があるだけあって、二人とも知識は趣味の域を超えていたし、様々な幸運も重なったからだ。父の企業が東証一部に上がるまで二年。母の企業もそれに一年遅れて東証一部に上がった。急速に成長していく二人の企業。もうこの時、何処かがおかしかった。
二人は元々企業経営に関して意見が合わず、それで夫婦げんかになる事が少なくなかった。人気が出始め、由紀が忙しくなり、夫婦が珍しく力を合わせて開設した事務所に移ったころ、もう由紀の力ではどうにもならない所まで事態は動いていた。ライバルと言えば聞こえは良いが、二人は企業の経営方針の違いからか、殆ど口もきかなくなっていたのである。下手な成功が、二人の自信を妙な形で肥大化させてしまったのだ。由紀の口数が少なくなり始めたのは、この頃であった。二人の仲が一線を越えるほどに冷え切って、始めて今までの環境が暖かかったか悟ったのだ。馬鹿だったと、由紀は悔いた。自分の愚かさを呪った。昔由紀は、父母を尊敬などしていなかったし、一部でウザイとすら思っていたのだ。それが余裕がもたらす愚劣な感情だったのだと、愛情が欠片も来なくなってから、始めて気付いたのである。
地獄はまだまだ入り口であった。様々な事象が重なり、由紀の父の企業経営ががたがたと崩れ始めたのである。人使いのまずさ、自身への過剰な権力集中、様々なスキャンダルの露出、要因が一片に重なったのが傷口を更に大きくした。由紀の父は経営者としてはそこそこの手腕を持っていたが、マスコミの自伝を書かせるような無責任な煽りが、周囲の状況に対して盲目にさせてしまっていた。気の緩みも確実にあったはずだし、母に支えられて生きていた事を忘れていた点も大きい。役員の粉飾決算の発覚を手始めに、七つの企業がドミノ倒しのように倒産し、父は三十億に達する借金を背負う事になった。残った企業の経営も悪化し、栄光は終わり、自転車操業の時がやってきた。
更に、母の企業も殆ど同じような経緯で崩れた。併せて五十億の借金を背負った二人は、サラ金から激しい取り立てを受けるようになり、純利益の殆ど全てがそれに吸い取られる事になった。両親の関係が冷え切る以上に、凍結してしまったのを、由紀は感じた。
後は正に悪夢のスパイラルであった。一度付いてしまった自信のせいで、二人はむきになって事態の打開を計ろうとし、傷口をどんどん大きくし、あまつさえ塩を塗り込んでしまった。虎の子の貯金はどんどん消えていき、社員も危険を悟って次々に会社を辞めていった。父母共に、性格的に荒んでいき、鰻登りに酒量が増えていった。浮気だけはしなかったが、それはそんな事をする暇がなかったからだと由紀は推測している。
また、伏魔殿に等しい芸能界に足を踏み入れた由紀は、その恐ろしさを目の当たりにして右往左往するばかりであった。周りは基本的に全て敵、真実など何処にも存在しない。ゴシップすらをも売り物にして行かねばならず、飽きられれば使い終わった割り箸の如くに捨てられる。誰も頼りになる者などおらず、苦境を知るとむしろ潰しにかかってくる者も少なくない。その中で繰り広げられる、魑魅魍魎の闘争。自分が生き残るために何でもする人間は幾らでもいた。世間一般で常識とされる道徳など、そこには存在しなかった。生き残った者こそが正義なのだ。ドロップアウトすれば、落伍者としての人生が待っている。元売れっ子が、麻薬中毒に落ちる事など珍しくもないのである。
視聴率のためなら、犯罪すれすれの事すらプロデューサーは容認し、それを誰もが黙認する。口に出すものさえ少ないが、芸人はネジと同じく取替が幾らでも利く消耗品として扱われる。そんな世界こそが、由紀の踏み込んだ場所だった。ある意味其処は戦場に近かった。人気という移りげな戦力を武器に、如何に媚びを売るか考えつつ、周囲全てと戦う戦場。それが由紀が目の当たりにした芸能界の現実であった。
多少気が強かっただけの由紀は、いやだからこそ、そんな大人の世界の精神暴力には抗する術もなく、また愛していた(とようやく分かった)両親を救う術など知らず、人知れず真っ暗な家の中で泣くばかりであった。涙はやがて枯れ果てた。教師や友人に、相談した事もあるが、全く力になどならなかった。当然の話である。そればかりか、母に忠告してくれた正義漢の強い教師などは、教育委員会に圧力を掛けられ、学校を異動させられてしまった。誰も相談できる者がいない中、由紀はカミソリを使い、自殺を試みた。
洗面器にお湯をため、カミソリを見つめる。湯気を立てる水面は嫌みなほどに静寂を保ち、暗い家の中で死の井戸となって由紀を呼んでいた。そして、決心しようとしていた由紀の元に、石麟が現れたのである。
夕ご飯を食べて多少リラックスすると、もう真夜中。そろそろ、修行の時間だ。
神子相争に参加した由紀は、幾つかの勝利で幸片を使い、状況の改善に成功しつつある。借金にじわじわ圧殺されつつあった両親の企業は、由紀の稼ぎが上がってきた事により、少しずつ利子の返済額が上がり、資金が削られていく悪夢からは解放されつつあるのだ。幾つかの映画の出演や、由紀自身の実力向上による所が大きいが、まだまだ事態は予断を許さない。せめて両親が協力する態勢でも整えてくれれば話は別なのだが、そうも行かないのが現状だ。また、企業努力と赤字企業の整理の結果、借金はどうにか三十億までは減ったが、それで安定してしまっている。このバランスが悪い方に崩れれば、金融機関は躊躇無く最も大きな粗利を稼いでいる由紀に圧力をかけ始めるだろう。それは父母の究極的な破滅をも意味する。
一度妙な形で自信を付けてしまった父母にとって、破滅は精神の究極的な死をも意味する。それほどまでに、宝くじの当選に始まる成功の味は、夢の達成は、二人にとって甘美だったのだ。二人の傷口に塩を塗り込むばかりのあがきは、一度奇怪な形で作り上げられてしまった自信によって生じているとも言える。そしてそれはいつの間にか、本来のアイデンティティとすり替わってしまったのだ。今の由紀の両親達は、もう元々とは根本的に精神が変容してしまっているのだ。二人は静かに真剣に夢を思い描いていた。だからこそに、それによる精神の変動も大きかったのだ。
二人はそう言う意味で、大した人間ではなかったのだと言える。だが、そんな状況で正気を保てる存在が一体世の中にどれだけいるというのか。由紀の両親は普通の人間だ。貧しい生活に普通に不満を持ち、普通に夢を持ち、だから普通に正気を失った。
由紀はただ二人を何とかして助けたいとは思っている。別に貧乏でも良いし、アイドルなんか辞めたって良い。由紀自身は何があったって我慢する。ただ、両親を正気に戻す、その方法が全く思いつかない。こういう風に、何かしらの特徴的な重みが出来てしまった大人は、外部からの刺激では基本的に反省などしない。それを、ここ数ヶ月で思い知らされた。ぶん殴れば正気に戻る相手も世の中にはいる。しかし、一緒に生きてきた親だからこそ分かる。あの二人にそれは通じないし、きっと逆効果だろう。事実、それで反省して立ち直る人間はとても潜在的に強くて立派な人間なのだ。そういった個性を、由紀は心底から羨ましいと何度も思った。
現状で、由紀に出来る事はあまりにも少ない。だから戦い続けて、どうにかして事態を打開しようとあがき続ける。唯一両親と違う点は、側にそういった状況を何度も見て何度も打開してきたパートナーがいる事だけだ。
「石麟、そろそろ修行に出たいんだけど、いい?」
「ええ。 こういうときは、悩む前にまず体を動かしましょう」
「そうだね。 あたしもうじうじ悩むよりも、何かぶった斬ってすかっとしたいしね」
言葉は乱暴だが、声そのものはとても柔らかい。この声質そのものが、年上の男性を引きつけていると由紀はマネージャーから聞いた事がある。心が荒んでいるわけではないのだ。一時期は疲れ果てはしたが。いずれ由紀は、この言葉遣いを直したいと思っている。他人にあまり良い印象を与えないし、何より自分に合っていないと思うからだ。
親は最近帰ってくるとすぐに寝てしまう。自室に鍵があるのは幸いで、寝たのを見計らって窓から外に出る。最初は大変だったが、今ではもう何ともない。部屋の中には既に修行用の着替えと靴を常備していて、その気になれば昼間からだって修行に赴ける。事実、最近両親に休日というものは存在せず、その状況は由紀も大差がないため、昼と夜をあまり区別していられないのが現状だ。それでも、夜中に修行をする神子は珍しいのだと、石麟は言っていた。
最初のうちは買ってきたロープを使っていたが、最近はそのまま屋根づたいに降りられる。窓から屋根に降りて、そのまま地面にダイブ。砂利を柔らかく踏んで着地だ。由紀が最近住んでいるのは、彼女の他の芸能人も住んでいる高級住宅街だ。だから車も人通りも少なく、治安もある程度良い。数度印を切って、術を発動させる。これで修練の準備完了。
二メートルくらいの高さでも人間は足を折るが、もう由紀にとってそんな高さは存在しないも同然だ。神衣になれてきた現在、彼女の身体能力はもう人間を凌駕している。由紀のスピードには身体能力と併せてもう一つの理由もあるが、それはこういった場合では関係していない。風切り音も立てないように、スムーズに降りるには、スカートは邪魔だ。修行の時はパンツルックだともう経験から決めている。むしろ、帰るときに部屋に入る方が難しいほどだ。因みに此方は、家の周囲にあるブロック塀から飛び移るのだが、その時出る音をごまかすため、時々あまったパンくずを鳩に与えてアリバイ作りをしている。今のところはこれでいい。もう少し人気が出て、パパラッチに追いかけられるようになってきたら、違う方法を採る必要が出てくるだろう。
家の裏には、ブロック塀に挟まれて、人の目が届かない物陰がある。そこで軽くストレッチをしながら、頭の少し上を浮いている石麟に言う。
「今日の基礎、三百本行ってみるよ」
「うん。 頑張って」
壁に立てかけてある木刀の一つを手に取る。六十センチほどの長さで、重さは一キロ。かなり頑丈に作ったいい素材のものだ。
コンクリの地面に指先をつけ、尻を高く上げて、クラウチングスタートのポーズを取る。サムライのように腰に木刀を差したまま。そのため、木刀は天に向けて1の字を綺麗に形作る。遠くで救急車のサイレン音がした。
「GO!」
石麟のかけ声と共に、由紀は狭い路地を飛び出した。無言のまま、一気に時速百キロにまで達し、木刀を腰から抜く。高速移動の最大の欠点は、兎に角直線的な動きしか取れない事。また、慣れないうちは周囲の状況が見えず、この辺りに都市伝説を作るにも至った。今はそんなヘマをしない。気配は消したまま、神衣無しの最大速度で疾走する。ヘマをしない事自体が訓練だ。
走り際に周囲の状況を、音、光学情報、臭い等から総合的に把握。同時に地形も把握し、人間の目にとまらない場所を直線的に移動しつつ、木刀で電柱を叩いていく。かつん、かつん、かつんと響く軽快な音。最初の頃は無理な力を掛けて何本も折ってしまったが、今では木琴のような心地よい音を響かせながら風に乗れる。斜めに、ジグザグに、直線に、走る由紀は足を止めない。最初の頃は何度も足を止めて、人や車が行くのを息を殺して待ったものだ。何度も負けて、何度も勝って、戦いのノウハウを掴むうちに、自然と戦場が読めるようになった。
神衣の影響で、簡単な術を使えば速力がチーター並だとは言え、決してパワーがあるわけではない。そのまますぐ後ろを付いてくる石麟は、由紀が気付かないとき限定で、時々小声でアドバイスを飛ばしてくる。一度二度危ないときもあって、そう言うときはかなり大声で事前に危ない事を知らせてくれたが、此処最近はもうそんな事もない。だが、油断はしない。まだまだ自分が未熟な事を、由紀は良く知っているのだ。
低い態勢で風を斬って走りながら、由紀は叩いた電柱をカウントしていく。夜中だから、人が起きてこない程度に音量も抑えなければならず、その辺りの加減も面倒くさい。というよりも、由紀の場合この力加減も修行の一つとなっている。高速で動き回る事が出来ても、パワーはそう大したことがない由紀には、走りながら無理矢理斬ろうとすると言う事そのものが自殺行為となるのだ。特に装甲が厚い零香や桐を相手にした場合、無理に斬ろうとすると剣が折れ、破片が自分に飛んでくる可能性がある。ただでさえ装甲そのものが薄い由紀に、それが当たる事は大ダメージを意味する。
市街地を抜けそうになった所で、何度かの踏み込みを利して方向転換、四つ角で三つの電柱を叩きながらカーブ。此処が一番危ない所だ。車のエンジン音やライト、人の話し声や臭い、そう言ったものを最大限察知して慎重に動かなければならない。実際先の曲がり角では、人の気配を察知したため、上手い具合に死角を通ってやり過ごし、曲がる事を避けた。折角のチャンスは無駄にしない。そのまま加速して更に速度を上げ、電柱を走りながら叩き続ける。再びカーブ、そしてもう一度。
かつん、かつん、かつかつかつん。音がどんどんリズミカルになっていき、不意に止まる。カウントが三百に達したのだ。そのまま速度を落とした由紀は、三十メートルほど小走りで進んで、自宅の前を通り過ぎ、路地裏に入り込む。フルマラソンをすると、体重が数キロ落ちると言われる。由紀の場合、使用しているのは筋力だけでなく魔力もだが、消耗は決して少なくない。
由紀の本来の能力は、速さと、それ以上に速さへの適応。その分猛烈な集中力を必要とするため、体力、魔力、双方がスパイラルの消耗を起こす。このため、最初の頃は一度高速移動をすると、次のトレーニングにはいるまで一休みする事が必要となった。今では数分呼吸を整えるだけで、次に移行できる。額の汗を手の甲で拭いながら、由紀は全く問題なく付いてきた石麟を見上げた。若々しい肌は、拭った汗を玉と弾く。
「そろそろ、いいよ」
「りょうかい。 それじゃあ場所を移して、今度は素振り行ってみましょうか」
「ああ、分かった。 今日は右? 左? それとも両方?」
「そろそろ両方を普通に使いこなせるでしょう? 愚問だわ」
「それもそうだな」
立てかけてある木刀を両方手にすると、二つとも腰に差す。これから少し離れた森林公園に行って、其方で修練する。その辺りは変質者が出る事があるので、あまり油断は出来ない。ただし、油断さえしなければ、もう変質者などものの数ではない。事実一度などはぼこぼこにぶちのめした挙げ句、スズランテープで本縄に縛り上げて警察署の前に放り出しておいた。翌朝其奴が逮捕されているのを新聞で見て、変質者行為の常連だと言う事が分かったが、だからどうしたとしか思わなかった。それに加え、そもそも今では修行している気配を人になど晒さないので、危険はより少なくなったとも言える。
再び気配を消して、さっさと走り出す。今度は術を使っているとは言え、見付からない事を重視して、体力を温存し速度を落とし、マイペースで行く。十分ほど走って森林公園にたどり着く。毎朝のジョギングコースだから、もう目をつぶっても辿り着けるが、それでも油断はしない。一応、普通の人間くらいなら気配を悟られないかなと思えるほどに力は付いてきているが、それでもやっぱり見られるとあまりよろしくない。気配は消せても、光学的な情報は消せないからだ。だから、ただ移動するだけでもそれなりに疲れる。
夜闇の森の中にたどり着いた。街の明かりは遠く、月が煌々と光を地上に投下していた。木刀を二本とも握ると、石麟が言うまま、由紀は舞い始める。
双剣を使って戦う場合、動きには回転と円が多く入る。それには軽妙なステップと身体能力が必要になるため、ダンスをやっていた由紀にはもってこいの武器だとも言える。誰もいない森の中、由紀は双剣を振るい、舞う。
右に回りながら双剣で切り上げ、態勢を低くしながら中段を払う。周囲に立ち並ぶ木には当てない。今度の修練は、自分の把握した空間内で如何にして剣を振るうかを磨くものだ。そのため、木には絶対に剣を当てない。風も切らない。風の動きに乗せる。風の間を通して、剣を舞わせる。足下にも油断は出来ない。草は出来るだけ踏まないように、枝を踏むなどもってのほか。地面が出ている場所を見極めながら、ステップし、周り、由紀は剣を振るい続ける。
やがて、両手とも剣を降ろし、由紀は一息ついた。第一段階はこれで終わりだ。続けて、第二段階を開始する。石麟が少し離れて、指示を止める。
トレーニング用のシャツには、うっすらと汗が染みこみ始めている。先ほどの訓練は空間把握がメインとなっているため、動き以上に体力を消費する。そう言う意味では、二つ前の住宅街疾走と目的は近い。次の訓練は、根本的に目的が違ってくる。
森の端へ移動。其処にある、人間大の土を纏った岩と相対する。丁度森の中程にあり、コレを多少叩いても外に音は響かない。
無言で立ちすくむ大岩は、強烈な威圧感を持っている。木刀でこれを破壊する事。手段は問わない。これが続いての訓練だ。剣をぶらりと垂らしたまま、ゆっくり岩の周りを巡る。一回だけ。足を止める。準備期間は、これで終わりだ。
目の前で、右手の剣を横に寝かせ、左手の剣を縦に起こし、十字に合わせる。これが由紀の精神統一の時のポーズだ。先ほどが静の舞だとすると、次は動の舞。目を見開く。巨大な集中力の中、周囲の空間、その全てが立体的に把握される。同じく体で戦うタイプだけあり、白虎神子の零香と似ている。生物の存在を把握するのなら多分零香の方が上だろう。しかし空間を立体的に頭の中に再構築する能力に関しては、由紀の方が上だ。
「はああああああっ!」
息を吐き出すと、由紀は跳躍した。
嵐のように岩の横を通り抜けつつ、一発、二発、無理矢理足を止めて振り返りつつ更に一撃、急旋回、急加速、急な一撃。連続して繰り出す剣が、木刀にもかかわらず、火花を岩の上に連続して散らせる。
砂利が飛び散り、巨岩が一秒ごとに小さくなっていく。ステップ、急加速、急反転、ステップ。岩の横を通りざまに一撃を浴びせ続け、削り取り続ける。
ただ闇雲に削っているのではない。攻撃を浴びせながら、相手の弱点を探り続けているのだ。やがて、ある一点に斬撃が集中し始める。無差別に加えられていた攻撃が、一つの筋を、即ち岩の構造的脆弱点を目掛けて繰り出され始める。攻撃の転換までに要した時間は十三秒。まだまだ遅いと言える。
不意に飛び離れた由紀が、数度印を切り、詠唱を開始する。ある程度の打撃によって、岩を粉砕する下準備が出来たと判断したためである。詠唱そのものは数秒ほどで終わったが、それによって十秒後に生じた変化は激烈であった。黄色い燐光に包まれた由紀は、右手の木刀を岩に向けると、息を吐き出し突貫した。速度はともかく、小石を蹴散らし走る重量感は明らかに別物であった。
岩の直前で大きく踏み込む。柔らかいとは言え、土の地面に大きく足跡が残る。そのまま由紀は、岩へチャージを掛けた。
「せええええええええいっ!」
雷光の如き突き。岩に半ばまで埋まる木刀。
眉をひそめた由紀の眼前で、木刀が半ばからへし折れる。同時に岩に蜘蛛の巣のような罅が入り、折れた木刀を中心に半ば砕ける。全てが砕けたわけではない。半分ほどは、大きな罅だらけになりつつも、壊れなかった。崩れ落ちる砂利と共に、折れた木刀の前半分がぽろりと落ちる。痺れた手を振りながら、由紀は言った。
「まだまだだな、我ながら」
「今のはまだ少し踏み込みが足りなかったのよ。 敵との距離を保つ事が由紀にとってもっとも重要な事なのだけれど、いざというとき、必殺のチャンスでは突っ込まないと駄目な場合もあるの」
「分かってるよ。 ……いや、分かってないから失敗したんだよな。 ごめんね石麟、生意気言って」
「ううん、自分でそれに気づける由紀は立派よ。 さて、今日はこのあたりで切り上げましょうか。 帰ってからゆっくり寝て、能力の底上げをしておきましょう」
良く動いた後は、良く食べて寝る。これが石麟の基本方針で、それによって由紀も確かに強くなってきた。それほどスパルタだとは感じない。柔らかい言葉遣いで、自信をつけさせつつ、少しずつ内面の力を引っ張り出していく。それが石麟のやり方なのだと、由紀は認識している。それが由紀には心地よい。多分、由紀にはそれがあっている事を自覚した上で、合わせてくれているのだろうとも思う。
まだまだ月は高い。どんなに激しいトレーニングをしても、夜半までには必ず切り上げるように石麟は上手く調整してくれている。後は、由紀が自発的に行う朝練だが、これにも文句一つ言わず付いてきてくれている。実は凄く心が広く献身的なパートナーなのではないかと、由紀は時々思うのであった。朝練は基本的に考案した術の実戦投入訓練なので、石麟が文句一つ言わないのは本当に助かるのである。
帰りは一番危険なのだと、時々石麟は言う。確かに気が緩むので、人に見付かる可能性が高い。そのため、砕いた岩に腰掛けて、少し休む事は許してくれる。ただ休むのも何なので、由紀は言った。
「攻撃の精度を上げるには、この間開発したあの術の他に、どんな手があるかな」
「由紀はどう思うの?」
「そうだね。 あの術は正直切り札に使いたい所だし、いずればれるとしても、もう少し他の子達をだませる術がいいな」
由紀の神衣の能力は、速さに関係している。また、元々軽い攻撃を、必殺の一撃に化けさせる可能性も秘めている。それは即ち、質量操作。
神衣によって、由紀は十秒の時間とある程度の力を支払う事により、瞬間的に質量を操作する事が出来る。操作できる対象は、神衣、自身、及び、自らの双剣のみ。以前零香を頭上から強襲したときはこの能力を使った。自身と剣を不意に重くする事により、一撃に必殺の破壊力を持たせたのだ。力と時間をつぎ込めばつぎ込むほど、変動の幅は大きくなる。その気になれば、トン単位まで操作ができそうだ。
この能力はかなり便利だが、使いどころも難しい。チャージ技の時には、自身と双剣をかなり重くしている。これも破壊力を上げるためだ。その一方で慣れない重さのために回避率はがくんと落ち込む事になり、以前零香に真っ二つにされる事となった。事実、体を重くすると急激に動きにくくなる。速さは問題がないのだが、旋回や回避に問題がありすぎる。最大級の質量にした場合など、考えるのも恐ろしい。最大速度はマッハに達するだろうが、その代わり曲がる事さえ出来ないはずだ。
今のところ、必殺のチャージは他の神子に単なる技程度にしか認識されておらず、それだけが救いだ。必死に隠し通さないと勝ち目が無くなるような能力ではないし、手の内を知られた所で幾らでも対応策はあるが、騙せる間はもう少し騙しておきたいというのが由紀の本音だ。
「そろそろ行きましょう、由紀。 冷えると体に良くないわ」
「馬鹿にすんな、そんな柔な鍛え方してないっての。 ん……いや、それも油断の一つとも言えるか。 分かったよ。 後は家で考える」
自分で砕いた岩から降りた由紀は、石麟を促して自宅へ歩き出した。考えておきたい技も、補強しておきたい弱点も、まだまだ幾らでもある。今は体に響いて等来ないが、本格的に考えたら、きっとカゼを引いてしまうだろう。そうなれば、貴重な数日間を不意にしてしまう事になる。
家にはすぐ着く。ブロック塀に登ると印を切って呪文を唱え、質量を軽くし、柔らかく屋根へと移る。音など立てない。そのまま人が見ていない事を確認して部屋に入り、靴を脱ぐ。靴は両親がいない時を見計らい、時々外に持っていって洗う。チャンスは決して少なくない。チャンスを掴む事を訓練の中に盛り込んでいる由紀には、難しい作業ではない。それよりも、問題は靴のすり減りがとても速い事だ。多分、後一月もこの靴は持たないだろう。靴下も、修行用のものがどんどんすり減っていく。穴あきの靴下をどう再活用するかが、今の由紀の悩みの一つだ。
風呂にはいる。シャワーだけではなく、湯船にゆっくり浸かって、汗を丁寧に落として、体を温める。パジャマに着替えるのは、体をリラックスさせるため。徹底的にリラックスして、短時間で超回復させる。これは一種の技術だ。時計を見て、大体の睡眠時間を計算すると、由紀は頼りになるパートナーへ言った。
「今日はもう寝るな。 お休み、石麟」
「明日は何時から?」
「五時半に起きて、六時まで術の考案、七時まで実戦訓練だな」
「分かったわ。 お休みなさい、由紀」
部屋の電気を消す。窓の外では、星が綺麗に瞬いていた。
翌朝。修練から帰宅すると、下でテレビの音がした。珍しい事である。最近は電車の中や車の中で新聞を読んだり、ラジオや携帯の情報でニュースを見ている事が多い両親が、家でテレビを見るとは。伺うようにして下に降りて居間を覗いてみると、テレビを見ながら父が携帯片手に何か指示を出していた。
テレビに映っているのは、最近巷を騒がしている新興宗教の顧問弁護士で、警察の捜査は不当なもので、犯罪の証拠はねつ造されたものだ、等と熱っぽく述べていた。遁走した弁護士の代わりに矢表に立たされた人間だそうだが、熱意ばかり先だって不慣れな様子が目立ち、無能さが際だっている。警察の捜査の際に抵抗して殺されたのが発見された死者だ等という説明が、小学生も騙せない陳腐さで、必死さは却って哀れさを誘った。
父が携帯を切ったので、思い切って話しかけてみる。返答は、結果は冷酷だった。
「父さん、何してるの?」
「お前には関係ない」
言い捨てて、僅かな罪悪感を覚えたらしく、父は視線を逸らしてしまった。普通だったら泣くかぐれるかしている所だぞと心中で呟きつつ、由紀は無理に笑顔を作る。
「テレビ見てるなんて久しぶりだね。 ね、ニュースでもなんでも良いから、一緒に見ようよ」
「そんな暇はない。 ……また、後で時間があるときにな」
冷淡な反応には、もう慣れた。慣れはしたが、いいものではない。父も罪悪感を覚えているようだし、由紀も辛い。一応、由紀にも携帯は渡されている。渡されてはいるが、現在は単なる送り迎えの催促ツールと化している。行ってらっしゃいという言葉に、曖昧に応えながら、父は出ていった。ばたんと閉まる戸の音にまで、悪意を感じられる。
「由紀、元気出して」
「大丈夫、元気だよ。 それにしても……父さんてば」
「うん?」
「今会話を聞いたんだけれど、何でもあの白炎会の大口支援者が、ライバル会社の専務だとかで、それが近々ニュースに流れるのを利用して巻き返しを計るとか何だとか。 もう、何処までやったら気が済むんだろう。 火遊びやってるあたしがいうのも何だけど、父さんは母さんと一緒で、そういうのに向いてないってのに……」
神衣の影響で、感覚が鋭くなり、余計な事まで聞こえてしまった。事態が悪化してしまったように感じた由紀は、思わず涙をこぼしそうになった。それを止めてくれたのは、石麟だった。
「……大丈夫。 悪くばかり取らないで、良い方向にも考えましょう。 由紀、貴方幸片使ったでしょう? この間、淳子ちゃんに勝ったときの」
「うん」
「他の人にどう働くかは分からないけど、きっとお父さんには良い事が起こるわ。 だから笑顔でいましょう。 今日は収録無いんだし、ゆっくり休んで、力を付けましょうね」
「まるでお姉ちゃんだよ、石麟って」
アイドルとは別の幼い笑顔で、由紀は涙を拭いながら言った。
数日後判明するのだが、結局父の指示は遅すぎて間に合わず、不得手な火遊びに手を出す前に横から他者に利益をかっさらわれたのだという。残念だったと父は呟いていたが、その代わり損失もなかった。これで良かったのだと、由紀は思った。そして更なる戦いに邁進する決意も、新たにしたのであった。破滅は一時的に避けられたが、根本的な解決にはなっていないのだから。
「幸片、もっといるね」
「ええ。 そして由紀、貴方ならきっと大丈夫よ」
激励の言葉が、由紀には何よりも心強かった。石麟の球体とハイタッチすると、由紀はいつもより更に気合いを入れて、新しい戦いの技を考え始めたのであった。
3,白炎会
銀月林蔵の妻銀月英恵は、薄暗い部屋の中にいた。四畳間の其処は、周囲が全て壁で、殆ど音すら聞こえない。入り口は一つだけ襖があるが、下の戸を覗いて固定されていてびくともしない。トイレは携帯式で、食物と一緒に時々交換する。まだ二十代の彼女は、とても若々しい人なのだが、今は焦燥して年相応の外見に見えた。
此処が何県なのかも今は分からない。どうしてこうなってしまったのかも、である。時々差し入れられる食物以外、情報はない。万年床を時々ずらしたりもしてみるが、気分は変わらない。壁により掛かり、何も出来ない自身を呪う。間違えた選択を悔やむ。しかし、何も事態は変わらない。
夫が狂乱したかと思った。誰かに頼ろうにも、頼れる人などいなかった。悩んだ末に、家を飛び出し、幼い頃に境内で遊ばせて貰った寺に駆け込んで、相談を聞いて貰おうと思った。子供の時、話を聞いてくれた数少ない相手だった和尚さんはもう他界していて、変わりに応対に出てきたのはとても若い和尚さんだった。
仏様に仕える人なら、きっと話を真摯に聞いてくれる。追いつめられていた英恵は、状況をかいつまんで話した。最も、頼ってはいけない相手に。
他人に頼る。そんな事を考えた英恵が馬鹿だったのだと一蹴する事も出来る。だが巨山のように不動で、幼い頃から自分のヒーローだった人が致命的な崩壊をして、そして自分には何も出来なかったとき。一体どれだけの人間が、正気を保っていられるというのか。
最悪の判断は、最悪の結果を生んだ。和尚に自分よりも頼りになる人がいると、連れて行かれた先が、白炎会の本部だった。其処は正に異世界だった。延々と唱えられるお経、無数に陳列された異様な仏像。虚ろな目で読経を続ける禿頭の男女達。一定のリズムは催眠状態を誘発するのだと誰にでも分かる。本能的に危険を感じた英恵は帰ろうとしたが、既に時遅し。其処にいたのは洗脳とマインドコントロールのプロフェッショナルだったからだ。マフィアややくざなどとは違う、新手の犯罪集団だったからだ。獲物を返してくれるはず等無かった。そして此処はそもそも外界とは隔絶された空間で、誰も道徳に基づいて助けてなどくれないのである。
英恵は有無を言わさず軟禁された。
何とか自分の素性を喋るのだけは避けた。必死に設定を考えて、問われたときはそれを言ったからだ。出来るだけ細部に渡るまで設定を考えたので、疑われる事はなかった。元々記憶力には自信があったのだ。人生、何が身を助けてくれるか分からないものである。それだけでも大健闘だったといえる。貧乏な家だと言ったら、素性に対する興味を失ったようだった。あの和尚に自分の事を喋らなくて良かったと、英恵は思った。それに、身一つで出てきて良かったとも。判子や免許書があったら、絶対に上手くいかなかっただろう。
そのまま英恵は大部屋に入れられ、他の女性信者との生活を余儀なくされた。部屋では変なお経の出るヘッドホンをほぼ強制的につけさせられ、一日中一定リズムのお経を聞くという、拷問に近い目に遭わされた。更に一定のリズムで体を動かす(修行)とやらを延々とやらされ、神経はどんどん摩滅していった。
頭がおかしくなるのも無理はない。こうして判断力が無くなっていき、異様な独特の道徳律を頭にすり込まれていくのだ。教団のためなら人殺しも犯罪も辞さない、狂信者がこうして生成されていく。此処は人間の再構築工場だった。人間の再インストールが行われる、奇怪な場所だった。その異様さを、狂気を、そしておぞましさを目の当たりにして、英恵は平静ではいられなかった。
本家で人間の業は嫌と言うほど見てきた。権力欲に取り付かれた者達の、醜く浅ましい骨肉の争いだって見せつけられ続けてきた。だが、此処にあるのはそれとまた少し違う。林蔵の顔が脳裏に浮かぶ。助けを求めに独走した事も思い出す。情けなさに、涙が止まらなかった。
そのうち、車に乗せられて、何処かへ移された。そして、四畳半の間に監禁された。これは完全に誘拐だが、犯罪はばれねば犯罪にはならないのである。あの和尚は多分この宗教団体と結託しているはずだし、信者達も口を割らないだろう。薄暗い部屋の中、英恵は何も出来ず、ただ何かに祈るだけであった。それが神や仏でないのだけは確かであっただろう。
祈り続ける英恵の部屋の前で、話し声と、足音がした。食事の時間と違う。身を起こした英恵は、残った全ての感覚と集中力を駆使して、事態の解析を始めた。このままでいるものか。あの人を助けるのだ。英恵はきりきりと痛む胃を押さえて、そう自分に言い聞かせた。弱くて情けない自分を、奮い立たせるように。
白炎会の被害者団体の会合に参加するのは、零香にとってこれで三度目だ。会は大体三日おきに開かれ、一度に二十人から三十人ほどが集まる。零香の街の近くの公民館が会合場所に選ばれて、三十畳ほどの部屋で、長机をコの字に並べて会を行うのが普通だ。周囲はおじさんおばさんばかりで、小学生の零香は明らかに浮いていたが、その鋭い発言と観察力で、既に周囲の耳目を集める存在になっていた。この地区の被害者の会では、雪村巡査長に紹介された安津畑氏が会長をしていて、あまり慣れない様子ながら、頑張って毎回司会をしていた。
三度の会出席、それに配られた資料に目を通した結果、零香にも色々な背後の事情が分かってきた。元々白炎会は檀家の寄り合い所帯から始まった団体であり、当初はごく普通の団体であった。日蓮宗の熱心な信者が集まっていた事は確かだが、それ以上でも以下でもなかった。不幸な事に、この頃の古株で、今は被害者団体に所属している人もいる。白炎会は堅実な経営の結果着々と会員(当時はそう呼んでいた)を増やし、やがてそれが一定人数を超えたとき、変化が起こった。会員の質の変化が始まったのである。
人数が増えれば、信仰心の薄い人間も出てくる。熱心な信者にとっては、それが許せなかった。仏道を馬鹿にしていると思ったのである。世代の差による対立意識も無論働いていた。こうして、最初は任意でセミナーが行われた。最初のセミナーは日蓮宗のなんたるかを問うだけのものであり、しかしいかんせん出席率が悪かった。会費を滞納する会員も増えてきており、徐々に方法は先鋭化していった。セミナーへの出席は義務づけられ、それによって今まで白炎会の会員達が見た事もないような金が入ってくるようになった。禁欲を旨とする者達の中には、当然良くない傾向だと思った者も居た。しかし、その中の何人かが、これを制度化したら儲かると気付いてしまったのである。
後は雪崩を打つかのようであった。セミナーは徐々に洗脳とマインドコントロールを促すものになり、利益を嗅ぎつけた詐欺師ややくざ、政治家の手先なども介入してきた。彼らが入り、様々な悪巧みを組み立てるうちに、どんどん檀家の集団は宗教団体になっていった。
元の構成員の中には、教義がいつの間にか出来ていたと証言する者も多い。そうして、いつしか雪宮王城という旗頭を中心にして動く、カルト教団が誕生していたのであった。それは暴走を続け、いつしか金儲けに入り込んだ者すら飲み込んでいた。
教祖すらコントロールできなくなったそれは、ガン細胞に近い存在になっていた。見境無しに食らいつくし、奪い尽くし、焼き尽くす。そうして、被害は拡大した。悲劇は誰にもとめられなかった。利権目当てで入り込んだ者達すら、自分の作ったシステムに飲み込まれ、右往左往していた状況である。悲劇の到来は、むしろ当然の結果であったとも言える。
脱出した信者の一人が警察に駆け込んだ事で、リンチや殺人も含んだ犯罪が発覚、警察は以前からの情報も合わせ、強制捜査に乗り出した。そうして、ようやく事実が白日の下に晒されたのである。
それらの事情を知って、零香もやりきれないなと思う。不満が思考のベクトルを産み、どんどんおかしな方向へ事態が誘導されてしまう。船頭多くして船山に登るとは良く言ったものだ。多分、関係者全員が悪いのだろう。最終的な死者が何人に上るのか、彼らの全員が死ぬまで背負う事になるのだ。だが、その重荷に母の命を上乗せさせはしない。絶対に助け出す。そうとも零香は思う。
未だ零香は幸片を使っていない。母の状況が全く分からないからだ。全く分からない以上、打破も何もない。冷静に動く事の大切さを、零香は戦いを通じて知っていた。逆に、だからこそに、座してはいない。雪村巡査長とも、被害者の会とも、密接に連絡を取り合っているのだ。ただ、それにも限界はある。草虎にも言ったように、今日何も分からないようであれば、零香は幸片を用いて状況を打開しにかかるつもりだ。
被害者の会に入ってから、様々な人間模様を見てきた。信者になっていた家族が見付かったが、洗脳が強力で、全くコミュニケーションが取れず嘆く人。或いは既に死んでいて、泣きながら脱退した人。後者にも前者にもなりたくない。会が始まると、すぐに神経を集中する。何事も、聞き漏らさないように。草虎もすぐ上で、零香をサポートするべくスタンバイしてくれている。臨戦態勢の零香、それに他の被害者達。彼らを驚かせる言葉が、今日はのっけから、会長の口から飛び出した。
「ええと、警察から良くない知らせが来ました。 監禁部屋、と言うものが発見されたそうです。 それに伴い、死者の数が鰻登りに増える事が予想されるとの事です」
「監禁部屋!?」
思わず身を乗り出した零香。他にも激烈な反応を示した者は何人か居て、被害者団体の会長に説明を求める。
「具体的に、それはどういうものなのですか?」
「ええと、信者の何人か、白炎会に見切りを付けた連中が、罪を軽くするために自白を始めたようです。 ええとですね、地方都市にマンションやアパートを借りて、何かしらの原因がある場合、そこに信者を監禁していたようです。 既に何カ所かは見付かっていて、衰弱死した人も見付かっているとか」
「げ、原因って、何ですか!」
「なかなか洗脳が通じなかったり、素性を隠していたり、そういった場合は、監禁部屋に閉じこめて精神を削り取って、それから再洗脳を掛けていたようです。 それでも駄目なら、最終的には口封じに殺して、埋めてしまう事もあったとか」
思わず泣き出す者も居た。零香も血の気が引くのを感じていた。母が其処に入れられていた可能性は、今までの状況から考えて、極めて高い。露骨に突きつけられた、母の死の臭い。ぎゅっと握り拳を固める零香に、草虎の声が降りかかる。
「落ち着け。 まだ、最悪の事態を想定するには速すぎる」
「う、うん。 分かってる、分かってる。 分かって、わか……」
「いいから、大丈夫だ。 話を聞こう」
全勢力を使い果たしたように、背中から椅子に落ちる零香。似たような反応を示している者は周囲に少なからず居る。自身も辛そうに、被害者の会会長は続ける。
「ええと、警察も順次踏み込んでいる所です。 想定される場所は全部で十カ所ほどですが、もう五カ所が場所特定もしくは踏み込みに至っています。 遺骸も発見されていますが、監禁された人は皆が皆死んでいるわけではなく、健康が回復し次第警察が聴取に当たるそうです」
「そんな事は分かってんだよ! 誰が助かったのか、俺達はそれが知りたいんだ!」
「ぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃねえ! みんな不安なんだよ!」
困惑と怒声が飛び交う中、零香は無言で立ち上がった。そして小さく息を吸い込むと、徐に拳を振り下ろし、長机を強打した。ぐわっしゃんと、車が電柱に追突するかのような音が響き渡る。思わず、皆が黙り込む中で、完全に据わった目で零香はいう。机を壊さないように加減はしたが、まだ長机は振動し続けていた。
「黙れ」
「……」
その眼光を正面から受け止められる者などいなかった。この場の全員が、小学生の零香に圧倒されていたのである。咳払いをすると、零香は固まっている会長に向き直った。
「会長、続きをお願いします。 議論なんて、情報が全部出てからでも遅くないですもんね。 それに会長を責めても仕方がないです」
「お、おお、そうだな。 ええと、それでだな。 警察の知らせによると、やはり今回も名前が分かるには少し時間がかかるらしい。 それで……」
大人な零香の発言に救われた形の会長は、それからスムーズに情報を流す事が出来た。零香もイライラを少しだけ払拭する事が出来たので、わずかに救われた形となった。
情報が全部流れきると、後は流れ解散となった。零香も帰ろうとしたが、その途中で会長に呼び止められる。
「零香ちゃん、今日はありがとう。 私も助かったよ」
「はあ、まあ」
「小学生の零香ちゃんが大人の発言をしてくれた、それが大きかった。 小学生が凄く大人の行動をしているのに、自分が幼稚な事をするのが恥ずかしいと、みんな気付いてくれたからね」
「有り難うございます、でも、わたしも利己的な理由で会長を助けたんだし、礼を言われると恥ずかしいです」
零香も少し恥ずかしかった。そして安津畑氏を少しだけ見直して、スピーカーから気弱なおじさんに密かに心中でランクアップさせていた。草虎も頷くと、そっと付け加える。
「殆どの人間は環境が悪化するほど利己的になる。 それを知っているから、言えた台詞だな」
「うん。 ……わたしはそれが悪いとは思わないけれど、ね」
「今はそれで良い。 父の師が言っていたように、考えて、行動を選択していこう」
「……実はな、これはまだ未公開の情報なのだが、内緒だよ」
考え込んでいた会長が、余所へ音が漏れないように会話していた二人に割り込んだ。彼は周囲を見て誰もいない事を確認すると、言った。
「どうも、英恵さんを見かけた人がいるらしい」
「!」
「これが、まだ確報じゃないんだ。 それに、良い情報とも限らないが、いいかい?」
どうしてか、ツキキズと最初に戦ったときと同じくらい、零香は怖かった。本格的に戦うようになってから忘れていた感覚だ。さっき感じた濃厚な死の匂いが、再びし始めた。
「多分、英恵さんは監禁部屋だ。 そして、それは次に捜査が入る所、かもしれないらしいんだ。 信者の一人が、どうもそれを臭わせる証言をしているらしい。 それで、ここからが問題なのだが……今、白炎会の指揮系統は大きく混乱している。 トップを始め、幹部が皆拘束されているのだから無理もないのだが、そうなってくると一部の信者が暴走しかねない。 最悪の事態に備えて、覚悟はしておいた方が良いかも知れない」
「……」
此処で安津畑氏を責めても仕方がない事は、自分が一番よく分かっている。まだ無事な可能性はあるし、それは決して小さくないとも安津畑氏は言ったが、殆ど聞こえていなかった。
帰り道の事を、零香は殆ど覚えていない。最近はこういった時間も修練の一つに使っていたのに、無意識のまま帰ってしまった。靴を放り散らかして、自室でベットに倒れ込む。呆ける事三十分。無言のまま精神的な復活を待ってくれていた草虎に、零香は視線を動かさないまま言った。
「使うよ、幸片」
「良く決心したな。 強い子だ、レイカは」
「強い子だったら、あの話の後、すぐに幸片使ってる。 駄目だ、わたし。 まだまだ、もっともっと、強くならなくちゃ」
体を起こした零香は、目に尋常ならざる怒りをたぎらせながらいう。もしも母が死んだりしたら、彼女は躊躇無く白炎会信者の皆殺しを開始しただろう。母が家族を裏切って、新興宗教に入ったのではない事が、ほぼはっきりしたのだから。詳しい経緯は後から聞くつもりだが、全ての状況証拠が、母は素性を開かさず、結果監禁部屋に入れられたのだと告げている。小学生の零香にもそれくらいは分かる。だからこそに、もし母が傷付けられたのなら許さない。ぶち殺す。全部纏めて生きたまま八つ裂きにして、内臓を引きちぎってやる。どんな事情を抱えていようが関係ない。知った事か。
零香は何処かで死を舐めていたのかも知れない。ツキキズを始め、多くの存在の死を目の当たりにしてきたというのに。模擬的とはいえ、自分の手で神子を殺す事により幸片を確保してきたというのに。
母を助けて。そう願いながら幸片を使う。自らの中にある、人為的に幸運を引き起こす力が、溶けるように消えて無くなっていった。
三人がかりで連れ出された後、白いライトバンに乗るように促された英恵は、残った精神力を振り絞り、衰弱しきったふりをして頷いた。信者達は小声でひそひそ話し合いながら車のドアを閉め、英恵の左隣に一人が、運転席と助手席に一人ずつが座った。すぐにエンジンが掛かり、ライトバンが走り出す。英恵は焦燥しきった振りをしたまま、走り出したライトバンの窓の外をちらちらと伺った。チャンスはもう無い。多分これを逃したら殺される。そんな予感がひしひしとした。
体力もないし夢見がちな英恵だったが、だが動くときには動く事が出来た。意図的にシートベルトをしなかったのに、信者達は気付かない。何やら殺気立っており、それが故に、逆に隙が多い。狙うなら、都会の交番の側。田舎の道を走っていたライトバンだが、一時間もしないうちに、都会に出る。交通標識から福岡だと分かる。幸運が巡ってきたのだと、英恵は分かった。ぐったりしたふりを続けて、じっと他の連中の様子をうかがう。そして、信号が赤になって、ライトバンが止まった瞬間だった。条件、全て合致。交番まで、およそ五十メートル。隣の男が目をそらした瞬間、英恵は動いた。
ドアをそのまま開けると、残った力を全て振り絞って外へ飛び出す。一直線に交番へと走る。薄汚れた着衣のままの英恵が、必死の形相で走る後ろから、血相を変えた信者共が迫る。助けて、と叫ぶが、通行人は奇異の目で見るばかりだ。だが、英恵も最初からそれには期待していなかった。交番まで二十メートル、パトカーに乗り込もうとする警官が見えた。もう一度、助けてと叫ぶ。事態を悟ったらしく、振り向いた警官が此方へ走り出す。信者の気配が遠のく。火事場の馬鹿力の反動、一気に気が抜けて、周囲への注意が消える。その瞬間だった。
脇道から、バイクが飛び出してきて、英恵を跳ね飛ばしたのである。
受け身など取れるわけがない。小型のバイクであり、ブレーキはかかっていたが、それでも元々軽い英恵などひとたまりもなかった。薄れ掛けていた英恵の意識は、綺麗に吹っ飛び、後は無限に続くかとも思われる闇が訪れた。
4,獣の訪れ
幸片を使った翌朝、神子相争の時期が来たが、零香はキャンセルした。この間の戦いで相当に力を消耗したし、まだ思考がはっきりしておらず、頭の切り替えが上手くいかない。修行もはかどらず、どうしても結果をのばせなかった。こんな時に戦いに行っても、良いように遊ばれるだけだ。
イメージトレーニングをしようとも思ったが、上手くいかない。カタパルトシューターで一撃目を利津に叩き込む所までは大丈夫なのだが、反撃を貰った際の対処法が思いつかない。桐に質量攻撃を封じられた場合の対処策も、淳子の居場所をどうしても捉えられない場合の対処策もだ。由紀が回避能力のある以前以上の威力のチャージ技を使ってきた場合の対処もだ。こんな事では、確実に次の戦いに負ける。竹林の砂地に正座して、苛立ち紛れに拳を地面に何度も抉り込むが、埒が明かない。吠えても見たが、全く気は晴れない。
それでも一応のメニューはこなして、何とか利津に対する戦術と、新しい術の案だけは考え出したが、いつもの活力はどうしても戻ってこなかった。優れぬ気分のまま道場を覗いて、ぐったりと正座したまま眠り込んでいる父に毛布を掛ける。零香がぐったりしたいほどだが、父の苦悩も分かるし、母の事も心配でいつもより睡眠が浅く、あまり眠る事が出来なかった。
家政婦の作った弁当に、こっそり塩をふりかけてから学校に出る。今までも少し傾向はあったのだが、どうしてか味が薄くて薄くて仕方がないのである。塩分の過剰摂取は体に良くないと分かっているのだが、舌は正直で、今までの弁当では味気なくて食べられないのだ。美味しい食事は心の健康にも一役買っていると零香は良く知っている。最初は塩気が多い食べ物を多くリクエストしてそれで我慢していたのだが、もうここの所はそれでも足りなくなりつつあり、弁当に塩をふる事になってしまったのである。不思議な事に、塩を体に入れると健康で仕方がない。草虎にそれを話すと、そうか、と一言だけ呟いた。
塩をふった弁当は美味しかった。下らない授業を適当に受け、テストで適当な点を取り、体育の時間がやってくる。美味しい弁当で気合いが入った零香は、人外の身体能力を晒さないように注意深く力をセーブしながらドッヂボールに参加、楽しくボールをぶつけ合った。力をセーブしているから、自身の汗は殆ど流れなかった。逆に体操服の周囲の子供達は汗まみれで、きゃあきゃあ言いながら私服に着替えていた。零香もそれに習っていたが、その時感じた確かな感触に、嘔吐を覚えた。
放課後、屋上に出る。風に吹かれ、コンクリの壁に背中を預けながら、零香は眼鏡を軽く押し上げた。
「草虎。 説明、してくれる?」
「そうだな、そろそろ聞いてくる頃だとは思っていたが……」
「わたしの事を気遣ってくれているってのは分かるよ。 でも、これは、黙っていられると、わたしとしても少し困るかな」
無言の間があった。それを押しのけて、零香はいった。
「ドッヂボールが終わって、みんなが汗掻いているのを見て、確かに感じたんだ」
「食欲、だな」
「うん。 何というか、瑞々しくて、柔らかそうで、それで美味しそうだった。 気付いて、吐き気が来たけど。 これも、神衣の……影響?」
「そうだ。 以前にも説明したとおり、神衣を付けるとプラスにもマイナスにも影響が出る。 プラスの場合、大体身体能力が上昇し、感覚が鋭くなる。 マイナスの場合は、大体同調している神の、本能的な欲求が現れてくる。 これを、過剰同調という」
そのまま、草虎は説明を続けた。過剰同調には大まかに二パターンあって、嫌いになるのと好きになるのがあるのだという。例えば朱雀の神子の場合、高確率で泳げなくなる。水克火と言い、火と五行相克の関係にある水は朱雀の大敵なのだ。五行相克に基づかない関係もある。零香に現れたのはそれに当たる。
「零香の場合、肉を好きになったのではない。 汗が好きなのでもない」
「塩、だね」
「そうだ。 獅子や虎などの猫科の動物は、他の動物以上に塩が大好きだ。 そして結果、彼らは人肉を大好物とするに至った。 家猫なども手を出すと喜んで舐めるが、あれは塩味が付いていて美味しいからだ。 まあ、他の動物よりも段違いに危険な人間には、余程条件が揃わない限り手を出す事はないがな。 零香は汗の出る塩味と山で覚えた血の味に反応して、子供達の肉に食欲を覚えたのだ」
「……そう。 今後も、ずっと出るの?」
「出る。 ただし、対応策はあるし、もう準備してある。 後は訓練次第で、全く問題なく克服できるようになる」
少しだけ安心した零香だが、同時にぐっと疲れた。今日は被害者の会もないし、雪村巡査長と軽く連絡を取ってから帰ろうと思っていた。無論帰ってからは思う存分修行をしようとも思っていたのだが、これではそんな気分にもなれない。そんな事を言っている余裕など無いのだが、しかしモチベーションを上げずに修練しても、効果は臨めない。
これは、今日は駄目だ。しかし、寝ている暇などはない。ぐったりと座り込む零香に、草虎は言う。
「気分を変えてみよう、レイカ」
「うん……そうだね」
「全く違う発想に触れて、他者の知識を取り込むと、全く状況が変わる事は少なくない」
「……だめもとで、やってみようかな」
乗り気ではない様子で、零香は空を見上げて呟いた。失礼な言葉が出てしまったが、本人には聞こえていないのだから、良しとするべきかなどとも思う。
「何か妙案か?」
「うん。 駄目元なんか言ったら失礼な、とても頼れそうな人が身近にいたのをすっかり忘れてた」
「うん?」
「武月せんせい。 ……母さんもどうなったか分からないし、きっとこのままじゃ、わたし判断を誤っちゃうよ。 だから、せんせいの所で技を教えて貰って、そうでなくても話を聞いて、少し気分転換してみようと思うんだ」
充分な実力が付いたら来いと言われた。だが、数度の実戦を行い、その度に知恵比べをした結果、もう人に対してそう恥ずかしくない力は身に付いた、そう零香は思った。基礎は出来たと、確かに最近は感じる。後は経験と知識の蓄積。勘の研磨と、技の錬磨。そして作った基礎の上に、実戦を想定した能力を上乗せしていけばよい。
その上乗せの仕方に、まだ壁が出来たわけではない。だが、心の揺れ動きによって、大幅に修練に差が出るようでは、はっきり言って今後困る。何かのアドバイスを、彼女が知る限り父と並んで頼れる戦士に請いたい。それが零香の本音であった。頼る気などは無い。誰かに頼る事によって、誰も救われないと、今の零香は思っている。あくまでアドバイスを受けるため。あくまでヒントを得るためだ。自身を強く、更に強く、さらなる高みへと押し上げ行くために。
そのためには、人肉を食べたくなったという感触に気付いたくらいで、ぐらつく心では困るのだ。以前から分かっていたはずなのだから。強力な力には、それに相応しい凄絶な副作用が付いて回るのが当たり前なのだと。分かっていてどうにか出来ないようでは駄目だ。むしろ、こんな程度で済んだ事を感謝すべきなのだ。押さえる事は出来るのだと言うし、弱気になる事など無い。
学校の中へ戻り、電話を使って、雪村巡査長に話を聞く。進展無し。礼を言うと、零香は急いで家に戻り、ランドセルを置いて渡されているアドレスを頼りに武月狼次郎の元へ向かった。寄りかかるためではない。あくまで支え木を探すために。
孤高の虎の子は、既に何処かで、自身のありようのベクトルを定め始めていた。それは幼い子供が普通出来る事ではないのだと、ずっと後で気付く事になるが、それはまた別の話である。
(続)
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