三色の混戦

 

序、師弟

 

各停の電車を降りると、其処はもう懐かしい街。都心より少し離れた、まだ自然が僅かに残っている長閑な街だ。ただし、其処に住む人間は決して長閑でも呑気でも無い事を零香は良く知っている。ともかく、力を付けて帰ってきた。まだまだ修行は全然足りないが、それでも戦える力は付いた。そして、幸片の導きとも言える出会いの結果が、隣にいる。

零香の右隣を歩く武月狼次郎。この翁は、現在精神の袋小路に陥ってしまった、零香の父の師である。電車の中で少し観察させて貰ったが、確かに草虎の言うとおり相当な使い手だ。のほほんとしているくせに動作にはいちいち隙が無く、その静かさは限界まで力を充填したバネを思わせる。それでいて脳天気な言動を崩さず、素人目には全く武術の達人である素振りを覗かせないのだから凄い。神衣を得た事によって感覚が常人より鋭くなっている零香がやっと気付くほどなのだから、その実力は大変なものだ。また、結構お茶目な所があり、空いている席を見つけては滑り込むようにして座っていた。老人を見かけたらすぐに席を譲ってしまうし、普段もとくに席取りにがつがつしない零香から見ると、要領が良い行動である。後ろから二両目か、前から二両目の電車を必ず選ぶのも、零香には新鮮な行動であった。確かに乗ってみると分かるのだが、先頭や最後尾よりもその辺りの方が、電車は空いているのである。

様々な発見のある電車での行脚を終えて、自宅へと向かう途中。狼次郎は周囲を見回して、不意に呟く。

「この辺りも、開発が進んだな。 無意味に家ばかりが増えた」

「そうですか? 私が幼稚園の頃から、こんな感じですけど」

「ん、零香ちゃんが産まれる前の話、儂の所に林蔵が弟子入りした頃の話じゃて。 あやつは子供の頃から周囲より頭二つおおきゅうて、この田舎にいると、ずっと遠くからでも簡単に見つけられたものだったが……今の様子では無理だな」

少し寂しそうに狼次郎は言った。確かにこの辺りは田舎と言ってもベットタウンで、昔からある集落ではない。昔からの住人も南部に僅かに住み着いているが、後から来た者達とは慢性的に仲が悪い。古参組と新参組と呼ばれる両者の対立は学校でもあって、色々な悪口が飛び交っているのを時々聞く。そういえば、山崎が零香に目を付けたのも、古参組だったからというのが一因らしいと、山ごもりに行く前日に噂で聞いた。

「さて、今は本家に住んでおるのかな?」

「はい。 分家は時々お掃除に行くだけです」

「あの竹藪は儂も好きじゃ。 零香ちゃんの父上は、若い頃あそこで修行したのだぞ」

「! ……そう、ですか」

父の足跡を感じた気がして、零香は少しだけ嬉しかった。どうしてか隣で狼次郎が目を細める。嬉しかったのはほんの一瞬。すぐに表情が暗くなるのは仕方がない事だ。

零香は家族が好きだ。だから、その苦境に何も出来ない自身が不甲斐なく、虚しく、そして苦しい。まだまだこんな事では駄目だ。戦闘時は、相手に自分の力や手を読まれるのは命取りになる。現にあのツキキズには、相手の行動を読み切る事で、アクシデントの数々に見舞われながらも何とか勝つ事が出来た。また、黄龍の神子で高速機動一撃離脱戦法の使い手である輝山には、相手の能力と相性が悪い戦い方を選ぶ事で勝つ事が出来た。この様に、相手の技や行動を読む事が出来れば、戦いでは一気に形勢を此方に引き寄せる事が出来る。その一方で、表情で相手に手を読まれたら、格下が相手でも危ない。少なくとも戦いの時や、不特定多数が見ているときには、表情を消す。それが今後求められてくる事だ。

草虎の話では、神子同士が神子相争以外で戦うのは御法度だという。ただ、一般人同士としての交遊は認められているし、情報のさぐり合いレベルなら許されてもいるという。これはどういう事かというと、癖や好みを下手に周囲に撒くと、神子相争で足下をすくわれる可能性があると言う事だ。むうっと口をつぐんだ零香を見て、狼次郎は少し声のトーンを落として言う。

「……儂と会う少し前くらいに、相当に激しい戦いを経験したか、或いは厳しい修行を乗り越えたようだな」

「分かります……か?」

「おお、おお。 無論分かるとも。 零香ちゃんはまだまだ発展途上の使い手であるし、様々に自らの道を練ると良い。 ただし、どの道を行くにしても、思考を停止させてはいかん。 考え、考え抜いて行動すると良い。 辛くとも、逆に楽しくともだ。 零香ちゃんにはそれができるはずだ」

「的確なアドバイスだ。 私も同意見だな」

狼次郎のすぐ上で、草虎もそう言った。そうこうしているうちに、もう家が見えてきた。人と話しながらであれば、十分程度の距離などすぐに終わってしまう。周囲をもう少しさりげなく警戒できるようにならねばならないなと、笑顔を作りながら、零香は思っていた。

「うちに来るのは、何年ぶりですか?」

「さあてな、何にしても、林蔵がいる場所へ案内してくれるかな?」

無言で零香は指先を道場に向ける。この時間だと、そろそろあの中で準備をしているはずだ。頷くと、狼次郎は道場の中へ歩いていった。男と男の話があると言う事であった。

「いいのか、レイカ」

「……わたしには何も出来なかった。 だから、出来る人を連れてきた。 初勝利の分の幸片をつぎ込んで、ね。 無力に泣くことなんて、飽きるほどした。 ……だから、わたしは泣かないで待つよ。 自分が行えた事の結果を」

眼鏡を外して曇りを拭うと、そのままきびすを返して竹林へと歩き出す。無言のまま、その背中を守るように、草虎が続いた。

 

俯き加減に案山子をセットしていた銀月林蔵は、懐かしい師の気配に振り向いた。ここ数ヶ月、雄叫び以外の声を発していない林蔵は、師との対面においても、やはり無言であった。だが、作業をしていた手は止める。帽子を取り、禿頭を空気にさらしながら、狼次郎は目を細めた。

「久しぶりだな、林蔵」

「師もおかわりなく」

「……今どうなっているかは、無論知っておろうな」

元々無口で木訥な林蔵は、師の言葉にも最低限の反応しか示さない。頷く彼を見て、狼次郎は少しだけ安心した様子で吐息した。

「ならば、何故にそのような奇態を繰り返す。 娘も妻も苦しみぬいているのを知らぬ訳でもあるまい」

「今の自分では、“誓い”を果たせませぬ。 それが故。 妻にも、娘にも辛い思いをさせているのは千万承知。 しかし、これを為さねば、自分は誰にも会わせる顔がありませぬ」

「なるほど、やはりそうであったか……」

二人だけの間で通じる言葉が、事態の重さを告げていた。

林蔵は強くなければならない。誰よりも強くなければならない。最低でも、誰からも自分の力で妻と娘を護れるほどに強くなければならないのだ。その価値観は、単純であるが故に鉄壁。単純であるが故に最難。もし、あの者が、妻と娘の命を狙う事があれば、林蔵は絶対に守る事が出来ない。だからこそに、全てを擲ってまで、戦いの力を高めなければならないのだ。最低でも、体を張ってあの者の攻撃を受け止め、二人を逃がせる程にまでは。

被害妄想でもないし、幼稚な焦燥でもない。今まで林蔵は二回しか誓いをした事がない。誓いは彼にとって神聖な儀式であり、命と同等の価値を持つ行動だ。その一つが、今は既に亡い妻の父である男とかわした、この誓いであった。だから、林蔵はそれを遂行せねばならない。不器用も極まる行動だが、しかし林蔵にとっては最重要選択肢なのである。林蔵は不器用で、古い男だった。だからこそに、その価値を認めてくれる人間の貴重さは知っていた。だからこそに、その誓いは太く強く、林蔵の体を縛り上げたのである。

「それほどまでに、お前を敗った相手は強いのだな」

「はい。 おそらくは、師でもかなわぬでしょう」

「儂はもう半ば引退の身。 しかし、そうまでお前に言わせる相手か……」

腰を下ろした狼次郎に合わせ、林蔵も案山子を降ろすと正座して相対する。顎髭を指で梳いている師を見て、林蔵はわずかな動揺を覚えた。すぐにその揺らぎは消えるが、確認した事実は大きかった。

「実は、儂を此処へ呼んだのは、お前の娘だ」

「零香が。 そうでしたか」

「あの子は強くなる。 恐らく、儂よりも、そしてお前よりも。 ……もし、あの子が一人前にまで育ち上がる日が来たのなら、お前のその苦しみの日々にも、終わりが来るのではないのか?」

少しの間が空いた。林蔵は、今度の師の言葉には賛成できなかった。

「零香はまだ幼い。 天器の片鱗は見せてはいますが、武に全てを捧げておるでもなし、今だ小娘に過ぎませぬ」

「それはどうかな。 お前自身が一番良く知っているはずだ。 男の子よりもずっと早く、女の子は大人になると言う事をな」

「それにしても、零香は……」

「あの子が此処しばし、何処で何をしていたか知っておるか?」

言葉に詰まる。林蔵は師の口癖を知っていた。その口癖は、師の弟子達を競争へ導き、より強くしていった原動力である事も。

「子は親の知らぬ所で知識を得て、技を得て、大人になっていく。 温室で育った者が、親を越えられぬ道理がそれよ。 そして儂の見たところ、あの子はお前が知らぬうちに、恐らく実力で野生の猛獣を仕留めるほどにまでに腕を上げた。 後数年もせぬうちに、きっとお前すらも越えるだろう」

「……」

師はどちらかといえばいい加減な所もある。ギャンブル関係などはその良い例で、競馬など当たった試しがない。しかし、人物鑑定に関しては、話が別だ。師が言う言葉は外れた事がない。だから、それに関しては、絶大な信頼感があった。

「分かりました。 零香が一人前になり、二人でならあの者を撃退できるほどの力が付けば」

「それがよい。 それならば、誓いを破る事にはならぬであろうし、な」

会話はそれで終わった。三十分とかからなかった。そして根本的な解決にはならなかった。しかし袋小路に入り込んでいた事態に、僅かな光明が差したのは事実であった。

 

1,青龍の日常

 

うらぶれたアパートの一室は、今日も静かだった。差し込む明かりも、停滞している空気も。そして暮らしている少女も。ベットの上で、ずっと黙り込んでいる男も。二人は親子であった。

自己破産して、生活保護を受けている現状、あまり贅沢な生活は出来ない。男は日に数度薬を飲み、月に何度か精神科に通って、労働を可能とするべく努力を続けている。そして少女も、学校に通いながら、父の精神的復活を必死に願っていた。しかし、それも難しいのが現状だ。

学校から帰ってきた少女が、父の様子をうかがい見る。またご飯に手を付けていない。以前はふくよかだった体型も、今ではすっかりやせ細り、頬がこけてしまっていた。快活だった人柄も無口になってしまい、時々血を吐いた。深い罪悪感、無力感が、父を苦しめている事を、少女、青山淳子は知っていた。

「お父ちゃん、またご飯、食べてくれへんかったん?」

最近は時間が無くて、あまり料理の腕を磨く時間もないし、料理を作る時間もない。だから殆どはさっと手を入れただけの、質素なものだ。一度で良いからたっぷり時間を掛けて豪華な料理を作ってみたい物だと、淳子は思う。だが、仮にフランス料理のフルコースを出したとしても、父の箸が進まないであろう事は、淳子も良く知っていた。

父の口元が動いている。わずかな声が漏れている。それの正体が何か、聞こえずとも淳子には分かっている。そして、応えても全く無意味な事も。

「ごめんな、ごめんな、ごめんな、ごめんな、ごめんな……」

もう涙など、とっくの昔に枯れ果てた。暖かい笑顔を浮かべる淳子の表情の裏には、憤怒と冷静と冷酷と使命感が鋼鉄のカーテンとなって張り付いていた。父には、今や目の前のものすら見えていない。ご飯がある事など気付いてはいないのだ。ただ自分のふがいなさを呪い、淳子に詫び、亡き母の財産である工場を奪った者達への呪詛を並べ立てるだけの、哀れな人形だった。他の神子も似たような状況だと聞いている。一刻も早くこんな状況を打破するためにも、勝ち続けなければならないのだ。無言で外に出て、物置から道具を取り出す。布に包んだそれは、破産したときに取り上げられなかった、母の形見の大弓。骨董品としての価値もないと見切りを付けられたが、丁寧に修理して、今では立派な武器として使えるようにまでなっている。今日は何処で訓練するかと思いつつ、淳子は裏山へ歩き出した。ちょっとした森がある其処は、淳子がいつも修練をする場所だ。

「蓮龍(はすりゅう)、おる?」

「先ほどからずっとおそばに」

姿を現すのは、不思議な生き物であった。宙に浮き、淳子を追ってついてくるその姿は、チューブの先に球を付けたような姿であり、チューブの上下には二列に並んだ太く長い棘が連なっている。球は尻尾の先端部で、必ず空に向けて浮いている。頭部は小さく、殆ど体と見分けが付かない。だが頭部である事を示してはいて、小さな目が四つ円周上に並んでいる。浮いて進むときも足を動かすので、まるで空中を歩いているような感じだ。不思議な容姿だが、ナイトと言うに相応しい心の持ち主で、ずっと淳子の支えになってくれた。彼こそは青龍の神使、蓮龍だ。腰は低いが、プライドは高い。またアドバイスは非常に厳しいがためになる。

「色々分かってくると、もっと色々試したくなるから不思議や。 もう少しコスト低い射撃強化術はないもんかな」

「それは工夫次第です。 ジュンコが射撃を根底から理解し、それを知る事によって、新たな道が拓けるでしょう」

「孫子はんの言う、己を知ればいうやつやな」

「そのためにも、基礎から欠かさず修練をしていくべきです」

淳子は頷くと、小走りで裏山へと走り出す。遠くで、打ち落とされたがっているような、無警戒な鳥の声がした。

 

現在兵庫県と大阪府の境近くにある能勢で暮らしている青山淳子は、小さな町工場の娘として生を受けた。

町工場が密集する東大阪の一角で、親から小さな城を受け継いだ母と、小太りで陽気な父の間に産まれた淳子は、幼稚園の頃までは何の不自由もなく過ごしていた。機械油にまみれた両親は優しかった。姉御肌の元気な母智恵と、陽気で暖かい父啓太に守られて、淳子は事実幸せであった。

ただ、幼い淳子から見ても、その頃から既に歪みは存在していた。啓太は度を超したお人好しで、しっかり者の智恵が側について居て、ようやく一人前の感がある人物だったのである。啓太は困った人には必ず手を差し伸べ、従業員の言葉にはどんな下らないものにたいしても必ず理解と聞く姿勢を保った。頭が劣悪だったわけではない。啓太は少し優しすぎる人物だったのだ。殆どの人間は、表面上はともかく関係ない他人がどうなろうと知った事ではないと言った態度を取る。だが啓太は、機会さえなかったが、もし知らない人間が死に瀕していたら、身をもって救助に当たった事疑いない。そんな男であった。人格者と言うよりも、お人好し。そのため、表面的な人望こそあったが、啓太を真に慕っているのは淳子だけ、真に愛しているのは智恵だけというのが実情であった。

生き馬の目を抜く渡世、いい人という言葉は馬鹿の同義語である。幼い淳子も、周囲の人間が啓太ではなく、啓太の人の良さを褒め、その影で嘲笑している事には気付いていた。それでも啓太は幸運であったといえる。なぜなら、理解者とも言える智恵が側に居たのだから。

直接的ではないにしろ、全ての不幸の始まりは、日本経済をどん底に叩き落とした、バブル崩壊であった。大手ゼネコンを手始めに、様々な大手企業が滅びていく中、中小の町工場もその煽りを受け、特に個人経営レベルの工場などはその直撃を受けたとも言える。淳子が生まれた頃はまだまだ大丈夫だったのだが、必死に両親が経営に奔走する中、ついに疲労の限界に達した智恵が倒れ、そしてあっという間に他界した。元々体内で蠢いていたガン細胞が、疲労の助勢を得て一気に力を付け、体を侵略したのである。倒れ、入院、そして僅か一月であった。淳子の前から幸せが消えたのは、その時であった。

悲しむ暇など、周囲は与えてくれなかった。元々お人好しの啓太は、こうなるとファイヤーウォールにもアンチウィルスソフトにも守られていないパソコンも同じであった。しかも悪い事に、スタンドアローンならともかく、啓太はそうではないのである。それを良く知る周囲は、自分の経済状況が悪い事を大義名分にして、寄ってたかって啓太から金をむしり取りにかかったのである。

ある者は涙ながらに自らの困窮を訴え、借金と称してむしり取る事が出来るだけ毟った。啓太は金を返してくれる事を期待し、証文さえ残さなかった。相手を疑う行為だと思ったのである。ある者は在庫が売れないと嘆いて、半ば不良品のポンコツを押しつけた。困ったときはお互い様だと思い、啓太はそれらを文句も言わずに受け取った。そしてある者は、借金を返せないといい、借金の保証人になってくれるように涙を流しながら頼んだのである。啓太は涙に弱かった。特に意味を調べもせずに、保証人になってしまった。

地獄の扉が、その時開いた。

悪夢のような取り立てが始まった。借金を押しつけて逃げた者の代わりに、啓太の工場へやくざまがいの、或いは本職の男達が毎日押し掛けるようになった。彼らは困惑する啓太を締め上げて、命より大事な経営資金や、工場の機械を奪い去るようにして持って行ってしまった。従業員達もすぐに辞めてしまい、暴力的な嫌がらせもエスカレートしていった。

流石に悲鳴を上げた啓太は、今まで助けてきた者達にSOSを送った。そして、彼が周囲にどういう目で見られていたのかを悟る事となった。無償の愛は確かに立派だ。無償の奉仕も確かに素晴らしい。しかしそれは、通常の人間から見れば都合がいい存在であり、無抵抗に金や奉仕を引き出せる、いわば財布と同じ事なのである。誰も啓太を助けてくれる者などはいなかった。金を貸した相手も、証文がない事を盾に誰一人返そうなどとはしなかった。そればかりか、どん底へと落ちていく啓太の財産をむしり取る争いに率先して参加するような輩すらもいた。

淳子にも凶暴な暴力は向いた。学校でも、啓太の有様はすぐに伝わり、淳子に対して暴力を含んだ虐めが開始されたのである。力になってくれる者など一人も居なかった。弱者を見たら痛めつけたくなるのが人間の本性で、そうでない者は例外に過ぎないのである。ただ、普段はそれが道徳の皮に包まれ、外からは見えないだけだ。

淳子自身は耐える事が出来た。しかし、彼女が耐えてもどうにもならない事態が生じた。工場が人手に渡る事にされたのである。智恵の形見であり、ずっと親子で守ってきた工場が、である。

無理矢理書類にサインさせられ、騙された啓太は、半狂乱になった。返してくださいと土下座して叫ぶ啓太は、淳子の目の前でやくざに袋だたきにされた。商売ものの腕をへし折られ、踏みつぶされた右手中指は使い物にならなくなった。それを見て助けようとする者など誰もいなかった。せせら笑う者しかいなかった。馬鹿には何をしても良い。弱者からは搾取しても良い。暴力を振るって良い事になっている相手には、好きなだけ暴力を振るっても良い。そういった唾棄すべき暗黙の了解が、口には出さないだけで社会の暗部には厳然として流れているのである。大人も子供も男も女も国籍も関係ない。淳子は小学生にして、それを見せつけられる事になった。人間の誰もが隠し持っている、最低最悪の本性を嫌と言うほど眼前で、である。啓太を痛めつける男達の、楽しそうな顔が淳子には忘れられない。今まで淳子が見た、どんな笑顔よりも楽しそうなその顔。人間が何を一番喜ぶのか、体に刻みつけられるように、淳子は叩き込まれたのである。

悲劇はまだ続いた。淳子には何も出来なかった。ボロボロになっていく父を目の前にして、何一つ出来はしなかった。弱かったからだ。無力だったからだ。何をしていいかすらも分からなかったからだ。涙が消えたのは、何時の頃だっただろう。やくざどもはボロボロになった啓太から、更に絞り上げるつもりだった。怪我が治らない啓太に無茶な重労働を強制的にやらせたほか、それだけでは飽きたらず、小学生の淳子をアダルトビデオに出そうとまでしていた節がある。今はそう言った需要があるのだそうだ。危なくて学校になど当然通えなくなった。この頃になると虐めをしていた子供達は、危ない事を無意識に悟って淳子に近づかないようになっていた。ついに限界を悟って、父が最後の行動力を振り絞って動いた。放り込まれたアパートを、隙を見て淳子と一緒に抜け出し、河川敷のダンボールで作ったテントの中に潜り込んだのだ。その頃には、もう淳子の心の中には、どす黒い何かと、破壊的な戦闘意欲が芽生えていた。父は心中を図っていた節がある。淳子も、もう人間には、人間社会には何一つ期待していなかったし、それに殉じようとしていた。

そんな時であった、蓮龍が淳子の前に現れたのは。

蓮龍はチャンスをくれた。淳子はチャンスに賭ける事を選んだ。実戦に出る事に対する抵抗は不思議と無かった。やくざによる直接的な暴力や、心ない人間達による精神的な暴力に慣れていたから、かも知れない。

そうして淳子は神子になったのである。

 

神子相争に参加、今までに八回の戦闘を経験し、そのうちの三回で勝利した淳子は、幸片をつぎ込んで事態を多少なりとも改善する事に成功している。逃避先でたまたま知識のある人間に出会えた父は自己破産して、やくざどもに追いかけられる事はなくなった。生活保護を受ける事となり、何とか生活も安定した。しかし力つきた父は、ついに精神的に病んでしまい、通院が始まった。

まだまだ、とてもではないが父は助かったとは言えない。淳子に、自分の幸せを追求しようと言う考えは今のところ無い。幸片はどれだけあっても足りない。勝って、勝って、勝ち続け無くてはならないのである。そのためには、自らの技量を引き上げなければならない。

兵庫県と大阪府の境あたりには、豊富な自然が残っている。その一つの山で、淳子は此処暫く修行に専念していた。彼女が行っているのは、主に三つ。一つは気配の消去。一つは射撃精度の向上。そして最後の一つは、術の開発である。

能力強化型や特殊能力付与特化型の神衣と違い、術に頼る部分が大きい淳子の神衣で戦う場合、豊富なバリエーションの術式を扱えるようになっておく必要がある。そのためには、自分が得意とする術のタイプや、戦略面から見て適した術を知る必要がある。そのためには、様々な状況で実戦訓練を行い、自分の能力を徹底的に把握しておく必要があるのだ。

拠点にしている小さな山小屋に一度装備を置いてから、その日の自己錬磨は始まる。昼なお暗い森の中、淳子は歩く。気配を消しながら。その姿は誰にも見えない。神衣の特殊能力を発動しているためだ。歩きながら、気を使う事は多い。木の枝は屈んでよけ、出来るだけ葉を踏んだ音を小さく済ませる。足下だけでなく、移動ルートも数十メートル先まで慎重に見極めながら、歩を進める。息を殺し、気配も殺し。小さなアサシンは、森の中を、どんな存在にも悟られないように行く。

現在淳子が発動可能な青龍神衣の特殊能力は二つある。一つはオート光学ステルス。発動を決定して後、足下半径五十センチの円内から、三十秒間動かない(出ない)事によって発動できる。待機時間以外のリスクはなく、完全に姿を消す事が出来るが、ステルス機能は光学限定。匂いや音は消せないため、それに関しては自分で工夫しないとならない。現に神子相争に参加したばかりの零香にも居場所を見抜かれたし、能力に頼りすぎるのは危険だ。また、攻撃行動を取ると自動的に解除される。

もう一つの能力は矢の補給と弓の発生。淳子の神衣のベースアタックになる大弓での攻撃に特化した能力で、特定量の力を注ぎ込む事でいつでも弓を発生させる事が出来、矢に関しては三十秒に一本自動補給される。射程は現時点でおよそ一キロ、この後修練次第では十キロを超す事も可能であろうと淳子は踏んでいる。また、微少な風切り音は仕方がないにしても、射撃時に弦が鳴らない優れもので、射撃地点を正確に相手に教えなくとも済む高度な武器である。実のところ武器発生は、武器戦闘を行う神衣では珍しくない能力なのだという。神衣発動時の初期矢ストック数は三で、最大ストック数は六。連射するとすぐに切れてしまうが、その代わり長期戦になれば半永久的な攻撃が可能だ。逆に言えば、常に慎重な攻撃が要求されるわけであり、あまり無駄な攻撃は出来ない。

また、アタック面だけではなく、移動面も色々と危険が大きい。歩くときに気をつけるのは、地面を踏んだときに音を立てないようにすること。そしてもう一つは、息づかいの音だ。衣擦れは今のところ問題ない。足音に関しても、目立った危険はない。問題は息づかいで、これで獲物に設定した相手に気付かれ逃げられた事が一度や二度ではない。そのため、最近はハンカチをくわえる事によってこれを克服している。些細な工夫だが、案外これが効果的で、昨日の神子相争ではこれのお陰で最終的に負けはしたものの、かなり有利に戦いを運ぶ事が出来た。

慎重に足場を選んで、淳子は行く。装甲が薄い淳子の神衣は、兎に角精密で緻密な戦いを要求する。元々緻密な性格の淳子であるが、それでも神経質に成らざるを得ない。そもそも大弓の矢は、神子相争で用いる場合、余程上手く隙を衝くか、傷ついている相手でなければ、一撃で仕留められるような威力を持っていないのだ。付与系の術で威力強化をしても、防御力が高い神衣を纏った相手を仕留めるのはかなり難しい。今後零香は強敵となって淳子の前に立ちはだかるのが明白であった。取り合えず、今はウォーミングアップ。山の中で気配を消して歩き、動物に悟られないように歩ききる。攻撃行動を起こしてもいないのに気付かれるようでは話にならない。まずはこのウォーミングアップから、順番に難しい訓練に切り替えていく。

相手の至近で攻撃するのは、確実に仕留められるときのみ。それ以外は少しずつ相手の体力を削りつつ、必殺の好機と隙を狙う。スナイパーの、それが戦い方であった。必要とされるのは頭脳と忍耐。だから慎重に、ただ歩き、歩き、なおも歩く。

やがて、決して小さくもない森を越える。何とか動物には気付かれずに済み、周囲に人がいない事を確認してから、神衣を木陰で解除する。集中していた神経が一気に弛緩し、大きく嘆息してバックパックから茶を取りだして飲み干す。どうしてか、最近水分の摂取量が以前の数倍に増えている。本当ならスポーツドリンクでも飲みたい所だが、今はそうも言っていられない。近くにある公園のベンチに腰掛け、手で顔を仰ぎながら、淳子は言う。

「今日は何に触ってみるん?」

「そうですね。 来る途中、鹿がいたのに気付きましたか?」

「おったな。 角がごっつう立派な、大きな鹿やったわ」

「あれにしましょう。 鹿はとても警戒心が強く、殺気が漏れたらまず逃げられると思ってください」

「了解や。 ほな、気合い入れていくか」

殺気の遮断は、非常に重要な要素だ。そのため、訓練の第二段階は殺気を消す事を目的としたものとなる。その多くは、触る事。今はまだ神衣を使って行っているが、そのうち生身で出来るように訓練を進めるつもりだ。水筒の茶を飲み干すと、淳子は鷹揚に、だが内心では真剣に頷いていた。

この触るという訓練、案外に難しい。まず第一に、横を通過するのと違い、どうしても相手をより強く意識してしまうために、何かしらのミスを接近中に犯しやすい。そして、感覚が鋭い野生の動物の場合、近距離で気配を晒してしまったらもうアウトだ。即座に逃げられて、恐らくその日は捕まえる事が出来ない。また、運が悪い場合、直接反撃に出てくる場合もある。その場合は仕留めるしかないが、あまり好ましい行動ではない。手を抜く事は無理だ。鹿のように大きな野生動物の場合、殆どの個体が、肉体能力で人間を上回っている。殺さねば此方が殺される。

実のところ、この訓練は攻撃よりもむしろ逃げるために学ぶものだ。相手に至近距離まで迫られた場合、特に神子相争の場合、気配を漏らしてしまっては即座に討ち取られる。スナイパータイプの淳子など、接近戦に持ち込まれたらひとたまりもないのだ。そのため、触り、安全圏まで逃れる事をワンセットとしているこの訓練が行われる。蓮龍の説明は最もだったし、これをやっているうちに明らかに気配の消し方が上手くなっている事を淳子は実感していた。

再び神衣を発動し、森の中へ入り込む。慎重に、慎重にターゲットとの間合いを詰めていく。神衣を発動している者の感覚は、野生の動物以上である。鹿に触って何事もなかったかのように離れるくらい出来ないと、正直言って戦いにならない。

ハンカチを心持ち強く噛む。最初のうちは息の音で、何度も何度も逃げられた。隠れるようにして生きてきた手前、無音には慣れているが、それ以上が要求されるこの訓練はやはり難しい。鹿は餌を食べている間ものんびりしているわけではない。常に群れで動き、危険に対処するため複数の雄が常に周囲を見張っている。通常時ですら近づくのが難しいのに、警戒中の彼らは更に手強い。

枝を踏む。冷や汗が出るが、慎重にそのまま動きを止め、相手の出方をうかがう。まだ距離があったためか、聞き取れなかったか、鹿の群れは動きを見せなかった。近づく過程で、どうしてもミスは出る。問題は、如何にしてそれをクリティカルにしないかだ。ゆっくり嘆息して、息が漏れないように気をつける。以前、一度嘆息して、気付かれて逃げられてしまったため、こういった事にも気配りは忘れない。二度と同じミスはしない。同じミスを見逃してくれるほど、必死に戦っている神子達は甘くないからだ。

三十メートルが二十メートルになり、十メートルになる。雄鹿の真横に立つ。どうしても心臓が高鳴る。側で見ると、立派な角が実に格好良い、堂々たる群れのリーダーだ。何かを守るために、命を賭ける者は強い。徹底的に弱くもなるのだが、強くなる部分ではやはり強い。冷や汗を拭うと、淳子は踏み出した。七メートル、五メートル、二メートル。がさりと音がし、鹿が一斉に其方を向く。草むらに蛇がいて、するすると去っていった。すぐに鹿達が視線を戻す。口を慌てて押さえた淳子は、何とか悲鳴をこらえる事に成功していた。

すぐ側で見ると、やはり鹿は大きかった。小さな頃に奈良公園で見た鹿よりずっと堂々としていて、何より隙がない。だらけきっている公園のものと違い、野生を維持しているのだから当然だ。真横に回って、手を伸ばす。利き手の右では、既に大弓を掴んでいる。場合によっては射撃、しかも速射を仕掛けなければならないのだから当然だ。冷や汗が流れる。最近は応用が付いてきて、汗が落ちないように顔の角度も調整するよう気が回っていた。

鹿の背中に手が届く。触る寸前、もう一度周囲の様子を確認し、反撃された場合の対処と、撤退するときのルートを確認する。判断まで一秒。まだまだ遅いなと、淳子は思う。この程度の判断は、接近中に完璧にしておきたい所だ。他の個体に警戒を任せて、牡鹿が餌を口にしようと頭を下げた瞬間。淳子の小さな手が、その背中を一撫でしていた。

笛を吹き鳴らしたような音を立てて、鹿が竿立ちになる。光学ステルスが解除された淳子は飛び退いて、青龍の大弓を構えるが、幸いにも鹿達は反撃に出ず脱兎の如く逃げだし、危難は免れた。緊張が解けて、大きく嘆息する。側で蓮龍の声がした。

「お見事です」

「ありがとう、蓮龍」

「後は近づく際の速度と、判断をもっと速くすれば完璧でしょう」

「そうやな。 その辺は、も少し精度を上げたい所や」

近くの木に背中を預けながら、再び顔を手で仰ぐ。どうもこれが癖になっているらしい。そのうち、気付いた相手に更に追撃する訓練もしたいが、それはこの修行の精度がもう少し向上してからだ。青龍の神衣を纏うようになってから、精神的タフネスと集中力と気配消去能力の向上は著しいものがある。この分なら、次の段階へ行くのにそう時間は掛からないだろう。

「後は、術の修行やな」

「少し休んでから行いましょう。 汗、拭いた方がよろしいですよ」

「ほんとや。 凄い汗やな」

淳子は汗を拭きながら屈託なく笑う。生活保護を受けている以上、あまり贅沢は出来ない日常だ。お風呂のお湯も節約しないと行けないし、シャワーなんてもってのほか。女の子らしくきれい好きな淳子には、この辺りは少し辛い。水浴びでも出来る場所があればよいのにと、時々思ったりもする。

大事な話、つまらない話、戦いの話、日常の話。様々に話しながら山頂へと移る。途中で山小屋に寄って大弓を回収し、同時に神衣も解除。山頂の辺りには。丁度良い大岩があって、射撃の訓練はそこで行うのだ。距離は四十メートル。辺りには木々を始めとして障害物が山ほどあり、しかも風が強い。その上足場が悪く、まともに立てるような場所は何処にもない。しかも、的は固定されておらず、ゆらゆらと風に吹かれて揺れている有様だ。普通だったら、オリンピック級の使い手でも当てる事は出来ないような場所である。

最初は十五メートルから始めた。そして神衣を身につけて二ヶ月目の現在は、三十メートルなら百発百中の所にまで来ている。様々なシチュエーションで射撃訓練をしてきたが、もう三十メートルなら問題がないと判断できたため、今日からは四十メートルに挑戦という状況に相成ったのである。

矢は自作する。これも鍛錬の一つだ。青龍の神子が使う神輪は、そのまま青神輪という。神衣発動中はこれが矢を発生させる術を代理詠唱してくれるが、そうではない今は自分で詠唱する必要がある。肩に掛けていた矢立を外し、目の前の木の枝に掛ける。そしてそれに左手を翳し、円をかくように回しながら、淳子は呟き始める。

「東の守護者青龍よ、木の力持つ汝の鱗、七色に輝きし光の固まり、そを分け与え、肉を貫く雷の矢たらん……」

額に汗が浮く。神衣がないと、ベースの術ですら消耗するのは避けられない。やがて、掌を上に向けた淳子が、少し大きな声で言った。

「神矢招来!」

矢立の中に、三本の光矢が浮き上がり、ことりと音を立てて筒の縁に当たって止まった。棘を揺らしながらそれを見ていた蓮龍が言う。

「見事です。 (弾かれる事)は当然として、もう(落ちる)事は無くなりましたね」

「ありがとう。 それでも、まだ完璧とはいえんわ。 神衣がなくとも、音が出ないように矢が発生できるくらいにならんとあかん」

「向上心は勝利の根元です。 後は右中指の動きを改良していくと更に良くなるでしょう」

蓮龍は基本的に褒める。褒めた後に、問題点を柔らかく指摘してくる。淳子の性格には、この指導が一番心地が良かった。多分、スパルタが向いている子にはスパルタで接するのだと思う。優しさと同居する厳しさを、淳子は時々蓮龍の中から、敏感に感じ取っていた。

矢立の中から光の矢を引き抜く。この術は、一度発生させると、詠唱者が拒否するまで自動的に矢を発生させ続ける。最初の詠唱時にはある程度力を消費するが、一度術を成功させると、後はもう時間以外のリスクはない。こういったタイプの術を、恒常起動型と称する。起動の最中力を消費するものと、一度起動するともう力を消費しないものの二種類があるという。また、強力なものほど前者に属する事が多いのだとか。これに対し、一度使うと終わるような、攻撃術に代表されるタイプを発生型と称する。発生型は神衣とセットになった極初歩の一部を除いて、起動の度に力を消耗する。

抜いた矢を構える。少し斜めになっている地形で、全身を水平に保つために、左膝をわずかに曲げる。弓道では撃つときの姿勢を兎に角重視するが、それは当たりやすくなる理論面を含む一方で、スポーツだからだ。今淳子が行っているのは実戦訓練。似て非なるものだ。だから基本を押さえた上で、地形に合わせて変えて行かねばならない。しばし弓を構えたまま、淳子はゆれる的を睨み付けていたが、不意に呟く。

「まっすぐじゃ、少し厳しいかな」

「……」

訓練中、実際に手を出そうという段階になると、蓮龍は途端に無口になる。頼んでも絶対に口を利かない。こういった所に、本来のこの存在がかなり厳しい性格の持ち主ではないのだろうかと、淳子が感じる要素がある。淳子は一度構えを解くと、矢に触れながら詠唱を開始する。使える発生術の一つを、矢に付与するために。

「青龍の鱗よ、生けるものを貫く刃よ。 汝の道を、我此処に歪める。 走り行け、曲がりくねる螺旋の先へ。 その先の、汝の獲物へ向けて飛べ」

何度も使っているうちに、術の詠唱は嫌でも覚えた。だから成功する。矢が淡く光る。軌道を途中で任意に変動させる術の効果が追加されたのだ。このタイプのベース矢は、三つまでの効果を付与する事が出来る。今修行している術の中に、五つまで効果を付与できる矢を発生させるものもあるし、修行次第ではもっと付与を増やせそうだが、それは今必要ない。

再び構え、狙う。何故矢の軌道を変える術を加えたのか。答えは簡単だ。風の流れがある上に、軌道上に障害物がある。風の間を抜くためには、少し枝の下を通して、其処から跳ね上げなければならない。矢の撃ち方次第では、僅かに起動を変える事は出来る。しかしそれでも追いつかないほどに、要求される軌道変更は大きい。神子相争を始めてから、ありとあらゆる障害物がある環境での射撃を徹底的にやってきた。この程度の風なら、もう読むのは朝飯前だ。矢をつがえた指に力がこもる。的を視線で射抜く。風の流れが、渦巻くそれが、ゆっくり見えていく。集中力が、周囲の音を消していく。

指を離す。弦が鳴く。矢が飛ぶ。

揺れる枝の下を通った矢は、途中から唸りを上げつつ軌道を変え、そして的の中心から十五pほど下に離れた場所を貫いた。

弓を下げ、大きく嘆息する。まあ、距離が開いた事もあるし、最初はこんなものだ。

「……ひょっとして、風を使えば、上手くいくかな」

「……」

やはり蓮龍は何も言わない。彼が口を開くのは、あくまで修練が一段落したとき。口を開けばナイトなのに、そうでないときは厳しい女学校の寮長だ。修練中、思いつきを呟いてしまうのは淳子の癖で、決して蓮龍に返事を求めているわけではない。そのまま矢をつがえる。今度は術の付与は無し。先ほどと全く同じ、地形に対する完璧な射撃体勢を作り出すと、力を込めて母の形見の大弓を引く。再び、囂々となる風の音が聞こえなくなっていく。唇を噛み、僅かに狙いをずらして、淳子は指を矢から離した。

弦が跳ね飛び、矢が空を躍り進む。そして、的が大きく揺れた。

初撃よりも大分近い。今度は恐らく十センチほどであろう。中央から右下にずれてはいるが、確かに矢は的を貫いていた。しばし無言の淳子は、口を押さえて考え込む。今のは中心を貫いたと思ったからだ。

頭を振って情報を初期化。もう一度辺りを見回し、情報を整理し直す。スナイプの時に、不意に状況が変わるのはしょっちゅうだし、多くは動く獲物を仕留めないといけない。高速移動する黄龍の神子などは、狙うにほとほと苦労させられる。丁度前回の戦いが黄龍の子との戦いだったのだ。それはともかく、臨機応変な判断には、柔軟な頭脳が必要不可欠だ。だから、淳子はこういった情報の初期化再インストール作業を良く行う。

今までの射撃はきれいに忘れて、もう一度矢を構える。そしてしばし目標との間合いを計っていた淳子は、無言のまま矢を降ろし、詠唱を始めた。

「青龍の鱗よ、生けるものを貫く刃よ。 汝の美しき牙を我は研ぐ。 汝の猛々しき爪を我は磨く。 汝の怒りを、直に肉へと通さんが為に」

今度の術は貫通力強化。枝ごとぶち抜いて、的を直接狙う。これはアリなのかと言われれば、充分にアリだ。これは実戦訓練。極論すれば、山を吹き飛ばしてでも、的に直撃させればそれで良い。勝つための戦いというのは、そういうものだ。手段は選ぶな。敵は容赦なく叩き潰せ。出来るだけ自分に枷は付けるな。やられる前にやれ。それを徹底的に履行したものこそが、戦場で生き残る事が出来る。タブーは敵だ。固定観念など、ドブに捨ててしまえ。利用できるものは、なんだって利用しろ。目的は、ただ勝つ事。勝って、幸せになる事なのだ。そして幸せの意味は、その辺の普通に暮らしている者達と、淳子では意味が全く違うのである。

引き絞った弦が、指を離すと同時に跳ね、空を斬って鳴いた。放たれた矢は、枝を貫通し、速度を落とさず、的を貫いた。

ゆっくり弓を降ろす。ど真ん中とは行かないが、中心から二ミリほどの所に刺さっている。まずは合格点と言う所だ。ただし、三射目で。こんな撃ちやすい所でこれなのだから、まだまだ修練は積まなければならない。

「お見事です」

「ありがとう。 もう少し射撃の精度を上げないとあかんな」

「今日の成果としては充分な所でしょう。 後は風の軌道と、矢そのものの弾性を計算に入れる事がスムーズに出来れば、更なる精度の向上が期待できます」

「なるほど……矢の弾性か。 流石に其処までは考えてへんかったわ」

確かに今の一撃を考慮すると、淳子の想定外の要素が働いていたとしか思えない。矢の弾性。今後は計算に入れる必要がありそうだった。ただでさえ、今後は場合によって十キロ以上の超長距離スナイプを実行する可能性があるのだから。

「今度は走りながらの射撃を試してみましょう。 起点はそこ、終点はそこで」

「分かったで」

さっと指定された場所に目を通してから、起点に移る。まだまだ、射撃訓練は始まったばかりだ。それに、走りながらの射撃など、状況としては初歩に等しい。補充された矢を取ると、構え、息を止める。全神経を集中し、淳子は走り出した。

 

様々なシチュエーションでの射撃を試した後、家に帰る。さっと着替えて、さっと風呂にはいる。シャワーは使えないから、最近は上手に浴槽の水を使う技術ばかりが上がってきている。節約のためにも、浴槽の水を交換するのは三日に一度。捨てるのもそのままではなく、利用できる所には必ず使う。涙ぐましい努力?違う。それが淳子には普通の事なのだ。あのダンボールの寒さに比べれば、今の環境の如何に優しく暖かい事か。今通っている学校だって、似たような境遇の子がいて、仲間はまだいないが、その代わり虐めだってない。だから、淳子には身を守る必要がない分、前の学校よりずっと居心地が良かった。

父はご飯を食べてくれていた。一日に数時間だが、正気が戻るのだ。だがもう布団に入ってしまって、うんともすんとも言わない。寝たのか、陰鬱に沈み込んだ魂の奥底でもがき這いずっているのか。淳子には分からない。正気に戻るタイミングは、まだ淳子にもよく分からないのである。ただ、布団の上から、背中をさすって上げる事しか出来なかった。無力な自分が恨めしい。

1LDKのマンションだから、プライベートのスペースはない。だからユニットバスと玄関の間の、廊下のような狭いスペースでいつも淳子は寝る。それも夕ご飯を食べてからだ。コンビニで買ってくると高く付くので、材料をきちんと料理しないといけない。まともに料理をしていると結構時間を食う。今の淳子には、一分一秒が惜しい。状況は改善し始めていると言っても、まだまだ予断は許さないのだ。

炭水化物は貧しい生活の強い味方だ。安くて沢山食べられてお腹が一杯になって体がぽかぽか温まる。野菜を入れて煮込み饂飩を作りながら、淳子は今日の修行を頭の中で反芻し、明日の術修行について考えていた。

「あまり根を詰めませぬよう。 私は常にジュンコの側にいます」

無言で淳子は頷いた。それは今の彼女が、一番聞きたい言葉であった。用心のため応える事は出来ないが、蓮龍はやっぱり口を開けば頼もしいナイトだ。

ことことと音を立てる鍋。煮えていく饂飩と共に、夜は更けていく。淳子の戦いは、日常のレベルから、止むことなく続いているのである。

ふと、淳子は思った。他の神子は、どんな事を考えて、この夜を送っているのだろうかと。愚問である。同じように、不幸をはね除けて幸せになろうと思っているに決まっているではないか。

だから、遠慮する必要も、容赦する必要もない。だから、少しだけ心が楽だ。少なくとも後四人、淳子の境遇を理解出来る人間がこの世にいるのだから。

明日も早くから修行だ。そして神子相争に備える。ガスの火を止めると、饂飩の煮え具合を確かめながら、淳子はそう思った。

 

2,改善と暗転

 

父も修行した場所だと分かると、この竹林がより愛おしくなってくる。銀月零香は神衣を始めて身につけた竹林で、静かに精神集中していた。修行の時は眼鏡を外す。というよりも、最近はもう眼鏡自体が必要なくなりつつある。

精神集中のやり方は、人によって様々だ。座禅を組んで精神集中する場合もあるし、滝に打たれる事でそれを行う場合もある。零香は自然体のまま立つ事で、それを為していた。ただ立ち、楽にして、目を閉じる。

雑念を追い払わなくてはならない。武月先生に何処か感じる嫉妬を追い出して、精神を練り上げる。そうしないと、次の戦いには勝てない。みんな同じ条件で刃を交えているのだ。雑念は命取りになる。勝つためには、精神の錬磨が必要不可欠だ。静かに拳を固め、呼吸を整える。しかし、なかなか上手くいかない。

「ええい、しっかりしろ、わたしっ!」

雑念を追い払おうと、零香は目を閉じたまま呟く。父を救う直接的なきっかけが自分でない事は、やはりいらだたしいのだ。だが、自分で決めた事ではないか。覚悟を決めろ、覚悟を決めろ。諦めろ。呟きながら、再び精神を練り上げる。また途中で集中が途切れてしまう。目を開いた零香は、徐に近くの小川へ走り出す。そして迷うことなく、冷たい川へと顔を突っ込んだ。

ひんやりと流れる川の水が、頭をさっぱりさせてくれた。顔をハンドタオルで拭きながら、集中していく精神を感じ取る。頬を叩いて、また竹林の中に戻る。少し服が濡れたけれども、構わない。

「レイカ、大丈夫か?」

「うん、大丈夫。 だから、見守っていて」

再び目を閉じ、自然体に立ち、集中を始める。今度は驚くほどそれがスムーズに行く。周囲の音を遮断し、ただ気配だけを徹底的に読む。近くに眠っている鳥が七羽。草陰に命を散らしつつある飛蝗が数匹。石の下には団子虫他小さな虫が多数。藪蚊は大分少なくなってきた。無言のまま片手を上げ、飛んできた蚊を叩き落とす。真っ二つに千切れた蚊が地面に落ち、痙攣していた。今のところ、半径十メートルくらいまでなら、生物の気配を立体的かつ細密に察知できる。神衣を身につければその数倍は軽いか。どちらにしても、通常時もこの集中を維持できれば、今後蚊に喰われる事はなくなりそうだ。蚊が発する羽音も、微細な殺気も、もう充分に位置特定可能なほどに捉えられるのだから。

ゆっくり目を開く。今まで通りの世界が周囲に広がっている。感覚器官を鋭敏にしたとは言え、零香がいきなり人間で無くなったわけではないのだ。ただ、気配を探知する力が飛躍的に高まった結果、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚といった五感に加えて、第六感が明確な形で加えられた様子だ。後は、それを更に鋭敏に研ぎ澄まし、磨き抜いていかないといけない。軽くストレッチを済ませ、体を温める零香に、草虎は言った。

「では、そろそろ術の事について説明しようか」

「了解」

「術を使うには、知っての通り力を消耗する。 気でも魔力でもマナでも好きなように呼ぶと良い。 その力を使って、術を発動するわけだが、此処で注意点が幾つかある。 術はその性質によって、様々な種類に分けられるのだ」

草虎は説明を続けた。術は見る方向によって様々な分類が可能なのだという。例えば戦闘面から考えると、攻撃術、補助術、防御術、回復術などがある。発動時の性質で考えると、発生型、恒常起動型等に別れる。リスクで考えると、詠唱を必要とするタイプ、時間を消費するタイプ、力を発動した瞬間のみ使用するタイプ、発動したら消すまでずっと力を消費し続けるタイプなど、様々だ。

「さらにこれらが、各人の所属する神の性質によっても分類される」

「白虎とか、玄武とかの事?」

「そうだ。 五行相生と、五行相克については覚えているか?」

「うん。 それぞれを発生させる組み合わせと、それぞれを弱める組み合わせでしょう?」

草虎は頷き、空中に触手を滑らす。そうすると、五つの頂点を持つ星が其処に現れた。SFとかで良く出てくるホログラムみたいだ。

「木火土金水の順番が相生。 そして木金火水土の順番が相克になる。 それぞれの属性が何の神かは覚えているか?」

「大丈夫、覚えているよ。 わたしが属する白虎が金。 青龍が木で、朱雀が火、玄武が水で、黄龍が土でしょ?」

「良くできた。 相生の組み合わせは、神子相争が始まった瞬間に+の要素として発生する。 相生の相手が枯湖に現れた場合、神子の保有する力が二割ほど増える。 ただしこれは一時的なもので、出れば元に戻る。 術に使う力が増えるだけで、本人の能力が直接強化されるわけではないから気をつけろ」

「うん。 となると、相克は力が減るの?」

「いや、そうではない。 相克の組み合わせの場合、相手の放った術の威力が、若干軽減される。 ただし、あくまで若干だから、戦い方によっては充分に相性の悪さを克服する事が可能だ」

説明の度に、空に書き出された星に光が走り、実にわかりやすかった。こういった学習マニュアルが、神使の間では整備されているのかも知れない。

話をわかりやすく説明すると、零香が枯湖に入った場合、黄龍の神子が場にいればパワーアップし、玄武の神子をパワーアップさせる。青龍の神子の攻撃は零香には効きづらく、零香の攻撃術は朱雀の神子には効きにくい。

「となると、わたしにとって相性が悪い相手には、特に肉弾戦に持ち込んだ方がいいんだね」

「飲み込みが早いな、その通りだ。 ただし、相手もそう易々とレイカの土俵に乗ってはくれないぞ。 気をつけると良い」

「うん、分かった。 気をつけるよ」

それは分かっている。命がけの戦いの場合、如何に自分に有利な状況に引きずり込むかが、大きく結果を左右する。そのため、刃を交える前に、実戦は始まっているのだとも言える。ツキキズとの戦いなどはその典型例であった。

戦いが分かれば分かるほど、戦略の重要性を理解していくようになる。戦略で完璧に勝っていれば、戦術で多少負けた程度で有利は全く揺るがないのである。幼くして、零香はそれを既に肌で悟っていた。本来はちゃんと勉強した大人でも難しい事なのだが、既に潜った死線と実戦経験が可能にしたのだ。

「それで術を覚えるやり方だが……今、レイカは、こんな術が欲しい、というような要望はあるか?」

「敵を一発で倒せる術、とかは?」

「発想は悪くないが、抽象的過ぎる。 術というのは、先ほど説明したとおり、理論的にくみ上げるものだ。 大きなリスクを背負うほど強力になり、発動条件も難しくなる」

そううまい話はないか、と零香は苦笑した。確かに草虎の言うとおりだ。そんな術があったなら、神子は誰も苦労しないだろう。頬に指を当てて少し考えた後、零香は思いついた。

「この間、黄龍の子と戦ったとき、比較的軽い攻撃でも少し傷を貰っていたんだ。 致命傷にはならないし、特に痛くも無かったけど、あれを軽減できたらラッキーヒットの負けをなくせそうなんだけど」

「ふむ、それなら防御系の術をまず作ってみるか」

「うん」

「それなら、まずどうやったら軽威力の攻撃を防げるのか、考えてみると良い」

先日の戦いを思い出す。黄龍の神子である由紀の攻撃のうち、問題になったのは必殺の気合いと共に放ってきた大威力のチャージ技のみであった。神衣にガードされた部分への軽い剣撃は、零香が気にするほどの効果を示さなかった。だからこれはいい。問題は素肌が空気にさらされている部分で、ここは裂かれるとどうしても傷が出来た。内部強化はされていると言っても、どうしても生身の部分は残っているのだから当然の話である。そして出来た傷で、僅かながら集中力が削がれた事は否定できない。

しかしこの部分を神衣が覆っていないのは、却って柔軟な動きを阻害してしまうからである。此処もガードしてしまうと、多分身動きが取れなくなる。そうすると、瞬発的な反撃が出来なくなる。つまり、肌を硬くするのは論外だ。黄龍の子は、恐らく次に戦うときにはあの技の弱点を克服してくる。軽威力の攻撃を防ぐために張った術のせいで、腹に風穴を開けられてしまうだろう。というわけで、鎧は駄目だ。かといって、盾も性に合わない。あっても良いとは思うのだが、視界が遮られるほど大きなものは出来れば避けたい。気配を察知するには、殺気だけでなく空気の流れや臭いも使っている。それらの邪魔になるものはあまり好ましくない。

となってくると、体に装着するタイプの防御はあまり好ましくないという結論になる。ならば、防ぐのではなく避けるのではどうか。能力の強化に関しては、今行っている最中だから、わざわざ術を開発しなくとも良いと零香は思う。というよりも、自分が管理できる範囲外に大きくはみ出したステイタスを持つと、まともに歩く事も出来ないというのは、以前に身をもって学習した事だ。だから能力を底上げするような術は、じきに状況が変わったら考えるとしても、今は保留したい。

考えがまとまらない。頭をかき回して考えていた零香は、ふと思いついた。

敵の攻撃を阻害するか、それにより早く反応できれば良いのではないのだろうか。能力が無理に上がらなくとも、それであれば、ひょっとしたら随分結果は違うかも知れない。今は敵の気配だけで反応している状態だ。気配というのは、殺気や空気の流れ、音や風の変動なども含んだ総合的なもの。それをより早く感じ取る事が出来れば。糸……いや駄目だ。それでは此方も動きづらくなる。それならば……。

「感覚を飛ばす事って出来ないかな……」

「具体的にはどういうものだ?」

「うん。 ええとね、感覚をわたしと共有したもの、そうだね、動きを阻害しないように自由に動かせる球とかブロックとか。 そういうのを周囲に浮かべる事が出来ないかな」

「なるほど、そうだな、可能だ」

それに質量を持たせる事が出来れば、どうしても直線的に成らざるを得ない黄龍神子の高速機動攻撃に対しても充分な牽制が出来る。物凄い速さで動くと、ちょっとしたダメージが凄まじい拡大を見せるのだ。事実零香が振るった刃は、タイミングが完璧であったとは言え、一撃で由紀の息の根を止めたのである。

「よし、イメージは出来たな。 後はどういう機能を持たせるか、だ」

「うん。 質量は持たせたいな。 上手く配置すれば、それだけで鬱陶しい直線小威力攻撃を排除できるはずだから。 後はスピードが遅くても、少し遠くまで自分の意志でとばせると嬉しい。 立体的に配置するとしたら、数は十個……二十個くらいあればいいかな」

「うむ、それなら修行次第ですぐにでも修得できるだろう。 実際にイメージを持てば、際限なく能力を追加する事の無意味さが分かるだろう。 それに攻撃機能を付けたいとか言い出したらどうしてくれようかと思った所だぞ」

「えへへ、そうだね」

技にしても武器にしても兵器にしても、日常用品にしてもなんでもそうだ。何かしらの用途を持って作り出したものは、それだけ出来ればよいのだ。それだけ他の何にも負けなければ良いのだ。例えば、床を掃ける歯ブラシなど必要ない。歯ブラシは歯だけ磨ければ良いのである。空を飛べる戦車など必要ない。戦車は陸上戦で面を制圧できればそれでよいのである。真逆の意味で、戦車としても活躍できる戦闘機など必要ない。戦闘機は制空権さえ押さえられればそれでよいのだ。今回の術は、あくまで零香の感覚補助。質量を持たせるという事と、動かせると言う事でさえ蛇足なのだ。これ以上の能力追加は不要を通り越して野暮と言える。

草虎の説明に従って呪文をくみ上げていく。随分長い呪文で、覚えるのは大変だった。暫く考え込んだ後、柔らかい砂地に書き込んで、それを見ながら唱える事にする。しばし詠唱を続けていくうちに、体の中の力が吸い出されるような感触が新たに現れてきた。気持ち悪いが、神衣を始めて実体化させたときに比べれば、なんぼかましだ。吐き気くらいは我慢できる。あのツキキズの殺気と、爪による傷の痛みに耐えた零香なのだ。

「金の守護者、西の王白虎よ、汝が爪の堅牢さ、汝が毛皮の高貴さ、そして汝が牙の美しさを我に貸し与えよ。 全てを射抜く瞳の光、そに実体化し、我の力と為せ!」

長い長い詠唱の果てに、零香は冷や汗が全身を伝うのを感じた。零香の周囲に、淡い光の固まりが二つ浮いている。精神集中を解くとすぐに消えてしまいそうなそれは、徐々に光量を落とし、キューブ状の紅い固まりになっていった。

「はあっ、はあっ、はあっ」

呼吸が荒れる。固まりはこぶし大。目を閉じると、それから入り込んでくる感覚が、頭の中に直に再生される。まだ動かす事は出来ないが、これは便利だ。無言のまま手を伸ばし、キューブを掴む。さほど力を入れていないのに、それは崩れてしまった。一つが潰れると同時に、もう一つも消えて無くなる。集中が解けたからだ。

持ってきたスポーツドリンクを呷る。冷や汗をタオルで拭うと、金属的な痛みが頭の中に生じた。

「大丈夫か? 元々零香は術を展開するのに向いた体をしていない。 だから、無理せずゆっくり行こう」

「……うん」

草虎の優しい言葉が、少し心に痛い。やはり壁は、何処にも存在しているものであった。自らに気合いを入れて立ち上がると、再び術の練習に入る。勝つために、必要な事だ。多少の苦労など、零香はものともしなかった。

 

その日は結局詠唱を覚えるだけで、術を身につける事は出来なかった。ただし、詠唱は完璧に覚えた。後は体を動かして、実戦能力の錬磨を行った後、家に戻る事にした。

修行をしているときはどちらにしても楽しいしやり甲斐もある。しかし、家に帰るのは少し苦痛だった。テストが帰ってくるのと同じような感覚であろうか。状況が悪化しているのではないかと、不安が胸の内からこみ上げる。

竹林を抜けて、家が見えてきたとき、零香の足は一度だけ止まった。だが意を決して再び歩き出す。自分で決めた事には、自分で責任を持つ。自分で幸片をつぎ込んだのだから、自分で結果を見届ける。それが当たり前だと言い聞かせて、再び家へと進む。

家に帰り着くと、居間で狼次郎がお手伝いさんの出した茶を啜っていた。父の姿はない。そろそろ時間的に、父が道場に立てこもる頃だ。そわそわする零香に、狼次郎は茶を飲みながら言った。

「零香ちゃん、修練の帰りかな」

「はい。 今日も程々にはかどりました」

座るように視線で促されたので、向かいに腰を下ろして正座する。零香にとって、座るという行為は基本的に正座だ。小学校に上がったときも、椅子に座るのは却って落ち着かなかった記憶がある。背筋をぴんと伸ばした零香を見据えながら、狼次郎は茶碗を卓上へ置いた。

「……先に結論から言うておくか」

「はい」

「まだ林蔵は救われぬ。 奴が囚われている呪いの正体は分かったが、しかしこれは説教や説得でどうにか出来る代物ではない。 ……そうさな。 零香ちゃんも、戦士として譲れぬものは恐らくあろう。 それに抵触するような事だと思うてくれれば間違いない」

そんな事は零香にだって分かっていた。父は母を愛していたし、零香にも不器用な愛情をずっと注いでくれていた。だから分かる。それ以上に重要な何かのため、狂気を発したかのように道場で暴れていたのだと。ただし、言葉にされると、また違う感触だ。涙がこぼれるのを、必死に押さえ込む。

「それで、父さんは」

「結論を急ぐでない。 林蔵は袋小路に入り込んでしまってはいるが、狂気を発しているわけではない。 すぐには死なぬ。 ただし、無制限に時間があるわけではない。 彼奴を救うには……零香ちゃん。 そなたの努力が重要だな」

「わたしの努力、ですか?」

「うむ。 単純に言おう。 そなたが林蔵を超えるほどに強くなる事が出来れば……彼奴は救われるだろう。 残念ながら……容易な道ではないが、な」

神衣を使った単純な戦闘能力であれば、零香はもう父を越えている。しかしそれを抜きで考えると、正直まだよく分からないと言うのが真相だ。ツキキズに勝ったのは、神衣以外のありとあらゆる手段を講じたからであり、単純な格闘戦で熊に勝てると思うほど零香は愚か者ではない。そして父の実力がどれほどか分からない以上、勝てると断言は出来ない。いずれにしても、修行、修行、また修行だ。遊んでいる暇など、無い。

「そうさな、ある程度実力が付いてきたら、儂が修行を付けてやろう。 道場は開放しているから、いつでも来るといい」

「有り難うございます」

席を立った狼次郎は、アドレスを書き残すとそう言った。道場のある場所は案外近い。一歩進展、一歩後退。丁度狼次郎が帰った頃、道場から凄まじい叫び声と、実戦が如き轟音が響き始めていた。

 

数日間は修練に費やした。竹林で自らの能力を高めるべく体を動かす。ある程度戦闘能力が得られてからは、もう此処で充分自己の力を高める手段を講じられるようになった。

神衣を具現化し、疾風が如く竹林を駆ける。ただ速く走るのではなく、出来るだけ砂を蹴散らさぬように、静かにだが戦意を保ったまま走る。竹林を何周も何周も走った後は、神衣を解除し、汗を拭って水分補給。そして次は生身のまま同じ修練をして、同じように脚力と体力を跳ね上げていく。竹にぶつかったり、転んだり、立ち止まったりというのは論外。常に一定速度を保つように、複雑な地形の中を走る。実に難しいが、判断力が見る間に鍛えられていくのがよく分かる。

ランニングが一セット終わった後は、今まで武術で行っていたのと同じ修行を素早く済ませる。ストレッチの後、正拳、蹴り。更に竹林の中程にある大きな岩の近くへ移動し、それに対する攻撃訓練を行う。止まったままでの正拳は、もう狙い通りの場所へ確実に当てられるようになっている。蹴りもそうだ。革手袋をして、左手には棒を持つ。走り抜けざまに、一撃を浴びせる訓練を一セット。蹴り、拳、刃を模した左手の棒、ショルダータックル。相手は止まっているのだから、当たるのは当前だ。最後のショルダータックルを浴びせると、二メートル近い高さの岩がずしんと揺れた。

肉体の鍛錬が終わったら、術の訓練に移る。最初は詠唱を覚えているか確認して、目を閉じる。自然体に立ち、足を心持ち開いて、呼吸を整え、一気に精神を集中する。周囲の音が引いていくような感覚。暗闇の中に一人取り残されるような感覚。何よりも鋭敏に冴える感覚の中、ただ静かに自分一人がいる。ただし、まだまだ範囲は大したことがない。そのまま詠唱を始める。その最後の一節を唱え終わると、全身の力が吸い出されていく。そして目の前に、紅いキューブが浮かんでいた。

どうにか三つまでは固定化できるようになり、任意に動かせるようにもなった。まだ試してはいないが、神衣を使えば更に多くを実体化でき、もう少し気が利いた動きをさせられるはずだ。だが、しかし消費する力が大きすぎる気もする。ゆっくり円周回運動を続けるキューブを見ながら、零香は言った。

「ねえ草虎」

「消費する力を押さえる方法か?」

「うん。 何かいい方法はない?」

「そうだな、術のグレードを落とすのが一番だ。 例えば質量を無くす、動きをオートにする、キューブと共有する感覚を減らす」

草虎の言葉はもっともだ。思えば、いきなり難しすぎる術に挑戦したのかも知れない。もっとこう、傷を治すとか、部分的に体を固くするとか、そういう単純な術を最初に学ぶべきであったのかも知れない。しかし、もう始めた事だ。始めた以上、最後までやり遂げたいと零香は考えている。

「質量を無くすのは避けたいかな。 動きをオートにするのも、いざというときに困る気がする。 そうなると、感覚を減らすしかないね」

「どちらにしても、決めるのは零香だ。 実戦を経てから決めるのも良いのではないか?」

その言葉に、はっと零香は顔を上げた。草虎は触手を揺らしながらその続きに入った。

「神子相争だ。 少し疲れているようだが、どうする?」

「勿論、参加する。 ……ぉおおおおおあああああああああああっ!」

タオルで額の汗を拭い、キューブを消すと、零香は胸の前で拳を打ち合わせた。そして、空に向けて一つ咆吼。ツキキズと戦ったときの事を思い出すかのように、自身の野性を絞り出すかのように。寝ていた鳥たちが、突然爆発した殺気に驚き、逃げ散っていく。

戦いは、刃を交える前から始まっている。それを自らに言い聞かせるように。

 

3,三つどもえ

 

神子相争に参加するのは、これで零香にとって三回目になる。ルーキーのうちに保留を行っているので、戦闘実行のペース的にはかなり遅い方だと草虎は言っていた。事実、由紀と戦った次の神子相争も、疲労が原因で見送っている。

枯湖に実体化し、すぐに周囲の気配を察知する。素早く辺りを見回して、地形を頭に入れていく。周囲に敵影無し。隠れるのに最適な地形あり。廃ビル。無言のまま廃ビルに飛び込みつつ白神輪に手を当て、詠唱を代行、蓄積している力を消費して術を発生させた。

「出でよ、我が耳目たる白虎の瞳よ」

神衣の周囲に、十数の紅いキューブが具現化し、同時に感覚が広がる。溜め込んでいた力の幾らかが、吸い取られるように失われるのを感じる。一度発動したら永続的に使えるように術を組んだ分、発動時の消耗は少なくない。今回の戦場も、スラム街のような、朽ちたビルが立ち並ぶ寂しい場所だった。それにしても、これは一体何なのだろうと、零香は思う。文字らしきものは残っていないので何とも言えないが、いったい何がこの場所に起こったのか、興味は尽きない。

爆発音が轟いた。倒壊音もである。それほど近くない場所で、ビルが吹っ飛び、崩れ去っている。ビルごと崩落させるほどの威力とすると、朱雀の神子か。キューブを周囲に展開しつつ、零香は壁に背を付け、まんべんなく周囲を探る。以前見たように、青龍の神子が相手の場合、姿を見せずに接近してくる可能性がある。黄龍の神子の場合、対応速度を超えて至近まで近づいてくる可能性がある。周囲に敵影がないからと言って、油断など微塵も出来ない。爆発音がした方を探る。そして見つけた。

中空に影一つあり。かなりの高度を飛んでおり、ゆっくりと旋回している。背には翼。いや、鳥が持っているような翼と言うよりも、どちらかと言えばハンググライダーのそれに近い。事実浮く事は出来ても、羽ばたく事は出来ないようだ。すぐに顔とキューブの幾つかを引っ込める。先ほどの音からして、あんな破壊力の攻撃をアウトレンジで叩き込まれたら勝負にならない。気付かれる前に接近し、どうにかして撃墜しなければならない。どうやって近づくかを考えて壁に背を預け、一瞬気を抜いた瞬間であった。

激しい衝撃と共に、零香は前方に吹っ飛ばされていた。

 

散弾式の矢を放った淳子は、慎重に気配を消し、ステルス機能作動を待っていた。通常の矢に、破壊力、軌道変更、それにスプレッド(散弾)を追加した一撃は、壁に張り付いて作戦を練っていた零香を直撃した。相性の悪さから言っても、多分一撃で倒す事は出来ないが、体力は充分以上に削る事が出来たはず。まずは上々。

黄龍や白虎といった、動きが速くて狙い難い相手対策として作り上げたのが、このスプレッド弾であった。威力は小さくなるが、その代わり敵の十五メートルほど手前で自動分裂、着弾点にて、半径六メートルほどの圏内に弾の嵐を降らせる。一点を貫通するよりも破壊力はぐっと落ちるが、命中率を飛躍的に高める事が出来る所が最大の売りだ。事実今の一撃も、ものの見事に零香へ直撃せしめた。零香の気配を察知する力はたいしたものだが、それも逆手に取ってやればこんなものである。心の隙を衝くと、小さな技でも大きな打撃を与える事が出来る。

ステルスが発動し、淳子の姿が見えなくなる。それを確認してから、ハンカチをくわえて、距離を取る。ほむらの後輩に当たる朱雀神子、赤尾利津が獲物を探して中空を旋回している。広域爆撃殲滅型、すなわち爆撃機に等しい奴の真下に入るのは自殺行為だ。元々攻撃を避ける事を想定していないため、奴の防御能力はそれなりにあり、淳子の攻撃能力では一発で落とせない。それは以前の戦いで証明されている。というよりも、前回の神子相争で、利津と由紀と同時に戦う事にならなければ、淳子にだって勝機はあったのだ。

以前は不覚を取ったが、今度は負けない。淳子はステルスに守られながら、気配を消し、さっさと路地を走った。

 

中空にて旋回する朱雀の神子、赤尾利津は、新しく神子になった者の中では一番の新参である。まだ一度も勝った事はなく、そのために経験の取得も速かった。

健康的な小麦色の肌を持つ利津は、手足が太く、非常に背が低い。少し前までは屈託無く笑う子で、白い八重歯が魅力的な、生傷絶えない絵に描いたような健康優良児だ。南アルプスのログハウスで暮らしている彼女は、地元の小さな学校に通っているが、同級生より背が高くなった事は一度もない。だが、アスリートのサラブレットである彼女は、運動で同級生どころか、二歳までなら年上の子にも負けた事はない。また、視力も良い。彼女の視力は日本人離れしていて、2.5を超えている。そしてそれが朱雀の神衣を纏ったとき、強化された彼女の視界は十キロ四方の小石すら見分けるほどだ。朱雀は鳥の属性を持ち、故に視力強化とは非常に相性がよいのである。ただし、闇に弱いなど、デリケートな部分もしっかり受け継いでしまっている。

散切りの赤みがかかった髪を、頭の後ろで束ねている利津。ポニーテールなどと言う可愛いものではなく、殆どたわしか箒のような感じだ。非常に髪質が硬いため、櫛を通すとがりがり音がするほどである。今まで櫛を何個も駄目にしてしまった彼女は、性質も大雑把で細かい事には拘らない。そんな彼女が選んだ戦い方が、これであった。

中空に留まり、最初の敵の攻撃を受ける事は大前提。装甲が薄いと言っても、回復の術もあり、連続で喰らわなければ多分耐えられる。攻撃を受けた後は、大威力の火力にものを言わせて辺り一帯ごと吹き飛ばす。敵がいる場所を探すために、わざわざ中空で攻撃を誘っているのだ。そろそろその戦い方が確立してきたため、勝った事はなくとも、神子を倒した事は何度もある。そして、今日こそ神子相争に勝つ。

太陽のような利津の笑顔が消えてから、既に三ヶ月が経つ。学校の同級生達は心配こそしてくれたが、何一つ現実的な事は出来なかった。周囲の大人達も同じだ。誰もねえちゃんを助ける事が出来ない。ならば自分が助けるしかない。年が離れたねえちゃんは、利津にとって親と同じだ。両親がいない利津には、母以上の存在がねえちゃんだ。だから助ける。他に助けてくれる人がいないのだから、絶対に自分が助けるのだ。これ以上姪の佐智を泣かせるわけにも行かない。他の神子同様の切迫した使命感が、利津の胸を充たしていた。

先ほど起こった爆発を、利津は感知していた。恐らくは淳子の攻撃である事も。三つどもえの戦いになる場合、一番危険なのが、一人を攻撃しているときに他の神子に攻撃される事だ。三つどもえの難しさは此処にある。ともかく、集中攻撃を受けるのだけは避けねばならない。逆に、一人が集中攻撃されているときは好機だ。攻撃している者の背中を撃つも良し、まずは弱った者を仕留めるも良し。つまり、情報を誰よりも正確に得て、速くそれに対応した者が勝つのだ。

若干高度を高く取る。飛行能力ではなく、わざわざ浮遊能力にしているから、決して飛ぶのは速くない。その代わり安定した位置から敵をねらえる。一旦距離を取った利津は、豊富な力にものを言わせ、持久戦に入る事を決めた。

 

背中から激しい射撃を受けた零香であったが、すぐに飛び起き、入念に周囲を探る。迂闊であった。背中だけでなく、二の腕や腿からも出血している。ひりひりと来る痛みは、どうしても集中力を減退させる。何にしても、すぐに此処は離れるべきである。それにしても、奇しくは今の組み合わせ。人は違うが、零香が最初に神子相争に参加したときと同じものではないか。だが、同じ結末にはさせない。

建物を飛び出し、すぐに別のに移り、また別のに移る。危険は覚悟の上だ。キューブのうち三つは潰されたが、まだまだ大半は健在。態勢を低くして、走る。気配を消して、走る。入念に朱雀の神子の位置を探り、大威力の攻撃を受けないように距離を取りつつ、出来れば姿も見られないように。北海道の山で学んだが、鷲や鷹は恐ろしく目がよい。朱雀の神子も、高空に留まっている以上その可能性が高い。ああも堂々と飛んでいる以上、単純な防御力なり耐久力なりにも、相当な自信があるのだろう。どっちにしても未知の相手、手を出すにしても、入念に準備してからだ。

背中の痛みは、収まりそうもない。致命傷にはならないにしても、かなり腹立たしい攻撃を貰ったものだと、唇を噛む。キューブを従えて走りながら、零香はふと思いついた。神衣を纏った状態なら、ひょっとして可能なのではないか。理論的には考えていた技だ。練習無しに実戦投入するのは少し気が引けるが、しかし試してみる価値はある。無言のまま零香はわざと小石を蹴り、すぐに近くの建物に飛び込んだ。

今度は壁を背にするような真似はしない。片膝を付き、傷の状態を確認すると、周囲にキューブを散らせる。目を閉じ、出来るだけ痛みを我慢しながら、呼吸を整えていく。さあ、何処からでも来い。零香は口の中で呟きながら、網を張った。

淳子の能力から言っても、今の小石には多分気付く。死角になっていたはずだから、多分朱雀の神子には気付かれていない。どっちにしても、建物の外に浮かせているキューブは、朱雀神子の接近を感知していない。集中しろ、集中しろ、集中しろ。冷や汗が流れ、それが鼻の頭に集まって、ぽとりと零れた。一瞬だけ、気が緩む。その瞬間であった。

飛来した矢が、壁を貫き、零香へと躍りかかった。キューブによって接近は察知したが、しかしその鋭さ、速さ、なかなかに尋常なものではない。跳ね飛ばされるようにして、何とか避ける。避けるが、出来たのは致命傷の回避のみ。左腕を貫通され、骨も砕かれた。地面に叩き付けられ、思わず悲鳴が漏れる。

「うっああっ!」

間髪入れずに二射が来る。横に転がって避けるが、今度は背中を削られる。肩胛骨の辺りに鋭い痛みが走り、うめき声が出るのを押さえられない。更に第三射。跳ね起きた零香は、恐ろしい勢いで飛んでくる矢を正面から見据える。巧妙にごまかしているが、もう分かった。鋭い爪が生えた右手を、渾身の力と共に一振りした。

弾け散った矢。だが此方も無事では済まない。爪の二本は失われ、掌には鋭い裂傷が走っている。動悸がどうしても荒くなる。ぽたぽたと零れる血の音は消しようがない。勝負は一瞬。一気に決める。

顔を上げた零香は、咆吼と共に走り出した。キューブの幾つかを最大限遠くに飛ばし外に配置して、感覚を広域に展開した結果、淳子がどういう風に矢を放ち、どういう軌道で曲げたかはよく分かった。それを逆に辿れば、彼女のいる場所は居ながらにして分かる。最大速度で、一気に距離を詰めていく。光学ステルスが起動していない状態で間合いを詰める事が出来れば、確実に勝てる。朱雀の神子は気付いたようだが、何にしても遅い。必ず勝つ!

相当慌てたか、前方からスプレッド弾が飛んでくる。位置を微妙に変えているが、そんなもの微修正の範囲内だ。如何に散弾といえども、軌道さえ分かっていれば問題ない。横滑りするようにして瓦礫を盾に威力を殺し、右腕でガードして致命傷を避ける。痛い、痛いがまだ戦える。砕けてしまった眼鏡を捨てると、再び零香は走り出す。どうせ神衣を身につければ飾りに等しいのだ。

周囲はビルが建ち並んでいるが、今までとは少し違う。地面がぬかるんでいて、向こうには焼けこげた林のようなものが見える。更に遠くには、山のような陰も見える。いずれ、ああいう地形で戦うときが来るかも知れない。だが、今は関係がない。気配察知。見つけた、敵は正面十一時方向のビル、距離二百メートル、その三階にあり。

ジグザグに跳躍、瓦礫を踏み越え、鮮血をばらまきながら、近くのビルへ窓から飛び込む。立体ショートカットだ。ちんたら階段など登っていられない。そのまま何も残っていないビルの中を走り抜け、窓硝子の残骸を蹴散らしながら飛び出し、淳子がいるビルへと飛び込む。いた。この状態になっても、諦めず矢をつがえる姿勢は立派だ。淳子はライバルであっても敵ではない。ましてや悪では絶対にない。前に利用された事など恨んではいない。零香はそう思った。血だらけの全身を、それ即ち戦意の固まりとし、零香は突撃した。同時に、淳子が最後の一矢を放つ。至近だが、それ故に指の動きまで丸見えだ。

おぉおおおおおおああああああああああああっ!

接近しながら首をねじ曲げて回避行動を取った零香の頬に鋭い痛みが走る。矢は後方に抜ける。バネを生かして躍りかかる。最後の全力を込めて付きだした右手が、残った爪の全てが、神衣を貫通して淳子の体に潜り込み、背中へ抜けていた。

鮮血を吐きだし、淳子が体を折る。その瞳から光が失われていく。零香が右手を引き抜くと、跳ねるようにして地面に倒れ、光に包まれて消えていった。その時、零香は鏡の存在と、自身の無惨な姿に気付いた。

淳子の最後の一撃に、右頬を抉られていた。しかし深刻なのは頬の打撃ではなかった。神衣によってガードされた本来の耳朶が、根こそぎ持って行かれていたのである。見てしまったのがいけなかった。激しい痛みが右耳のあった辺りに生じ、鋭利な傷口から鮮血が断続的に吹き出す。思わず右手で耳を押さえたが、この時零香は二つもミスを犯していた。集中を切ってしまった事、そしてすぐにその場を離れなかった事。二つのミスは、相乗効果を生じ、クリティカルなミスとなった。元々今の渾身の一撃のせいで、体力は殆ど残っていなかったのだ。すぐに隠れて機会を待つべきだったのである。

零香の体が空中に投げ出された。激しい熱と爆音に晒されながら、零香は見た。実に三十を超す火球を体の周囲に浮かべた朱雀の神子が、それを容赦なく此方へ飛ばしてきている様を。精度は高くないようだが、しかし数が違う。多分勝機と見て、全力を投じてきたのだろう。ビルが吹っ飛んだ事に、今更ながら気付く。さっさと逃げておけば良かったのだ。事実、計算上は間に合っていたのである。しかしもう遅い。

数十メートルも飛ばされ、地面に叩き付けられる。骨が沢山折れる。どの骨が折れたのかも分からない。感覚の幾つかがショートする。炎に包まれたビルが、複数倒壊していく。空に見えるは、まだ火球を残している朱雀の神子。それでもまだ零香は、最後の勝機を賭けて、近くの瓦礫に手を伸ばす。だが、届かない。力も入らない。意識が、薄れていく。

巨大な、今までにない大きさの火球が飛んでくる。大味だし、容赦はないが見事な攻撃だ。零香は尖った瓦礫を掴んだ。それだけで奇跡に等しいがんばりだった。

火球が、ビル数戸を吹き飛ばす熱の固まりが、零香を直撃した。

 

無言で体を起こした零香は、憮然として頬に手を当てた。耳はきちんとある。神子相争が終われば、体は元に戻る。というよりも、元々意識を飛ばして戦っているだけなのだから当然か。

拳を固める。砂が零れる拳を、地面に叩き付けていた。そんな言葉で言い含めたって、負けは負けだ。結局自分の弱さが招いた結果なのだから、誰にも文句は言えない。しかし、単純に悔しかった。

本格的に力を得てからは初の三つどもえの戦いだから、慣れなかったという状況もある。それに初対戦の相手だから、どうにもならなかったという事情もある。プラスの点で言えば、キューブを自分が思っていた以上に使いこなせた事。後はこれを洗練していけば、敵のより早い発見につなげる事が出来そうだった。また、淳子に対するリベンジマッチを果たす事も出来た。

長所を伸ばし、短所を改め、次の勝利へとつなげる。きっとあの朱雀の神子も、それをした結果勝つ事が出来たのだ。零香だって、次は負けない。負けてたまるものか。朱雀の神子は、得た幸片で身辺の状況を改善できるだろう。それに関しては、素直に良かったねと言ってあげたい。だが零香だって、まだ母の状況が全くの未知数な他、父の状態だって改善しきっているとは言えない。勝たなければならない。勝ち続けなくてはならないのだ。

「残念だったな、レイカ」

「うん……大丈夫。 一回目じゃないし、もう泣かない」

「朱雀の新しい神子は、今回が初勝利だそうだ。 名前は赤尾利津。 今後あの子は、きっとデストロイヤー(破壊者)とでも呼ばれるだろうな。 大味だが、兎に角攻撃能力の高い子だ。 手強いぞ」

「そうだね。 ……キューブの術は、何とか実用化できそう。 次はあの子を叩き落とす術を考えないとね。 術じゃなくて、戦術でも良いけれど」

それだけ言って、体を起こした零香は、まん丸な月を見た。黄色くて、兎の模様があって、何処か興奮を誘う。

「……ねえ、草虎」

「うん? どうした、零香」

「朱雀の神子と言っても、本当にほむらさんとは何もかも違うんだね」

「うむ。 朱雀の神子は、飛翔能力と攻撃力と機動力のバランスをどの辺で加減するかで皆苦労すると聞く。 飛翔能力はコストが高いし、攻撃力を上げれば機動力がおろそかになるし、機動力を上げれば攻撃能力が低くなる。 ほむらは機動力重視型で、攻撃力も悪くはなかったが、飛行能力は諦めていた」

それならば零香にも裏の事情が分かる。あの攻撃からも、利津の性格は伺えた。大味な性格の彼女は、いっそ機動力を諦めたのである。そして攻撃力と、一撃になら耐えられる防御力を得たのだ。その結果、ゆっくり浮く事は出来ても鋭く飛ぶ事は出来なくなった、というわけなのだろう。空飛ぶ要塞と言われた爆撃機が昔あったと零香は聞いた事がある。なるほど、それに近い存在というわけだ。

「今回は負けたけど……次は負けない」

「ああ。 その意気で、勝利に向かおう」

零香は砂を払って立ち上がると、家へ向けて歩き始める。一歩おいて付いてきてくれる草虎の存在が心強い。

負ける事で強くなる。全ての人間がそうではないが、零香はそういう存在だった。次は負けない。次は叩きのめしてやる。そういった豊富な戦意が、彼女の成長と、強さを支えていたのである。

 

家に戻った零香は、風呂に入って汗を流し、テレビを何気なく付けて固まった。驚くべきニュースが流されていたからである。飛び交うヘリ、ヒステリックにたかれるフラッシュ。奇妙な建物に入り込んでいく警官達。

「三百人体制の捜査員が、白炎会教団本部に突入していきます! 信者は抵抗している模様ですが、捜査員に排除されている模様! ああっ、今、紫衣の男が捜査員に両手を取られて、引きずり出されています! 教祖、雪宮王城が、引っ張り出されています! 信者が悲鳴に近い叫び声を上げています!」

思わず零香は立ち上がっていた。机に膝をぶつけてしまうが、そんな事はどうでも良い。机の上でタップダンスを踊る煎餅を放って置いて、テレビも付けたままで、電話に走る。受話器を乱暴に取ると、急いで110番を押す。すぐにお巡りさんが出たので、零香は必死に動悸を押さえつけながら言った。

「すみません、わたし銀月零香と言います! 母が、あの、今捜査に入られてる宗教団体にいるんです! あ、はい。 わたしも父も信者じゃありません。 母だけ入信させられていて、消息が掴めなくて! はい、はい! 安否は分かりませんか!?」

警官は事情を察してくれたようで、すぐに話が分かる相手に電話を回してくれた。イライラと床を足先でつついているうちに、電話が代わる。今度電話に出たのは、落ち着いた声の婦警さんであった。彼女は零香の言葉を聞いて頷きながらも、少し不審を覚えたようで、言った。

「ええと、零香ちゃん。 貴方については分かったのだけど、お父様はどうしたの? 何故娘の貴方が電話口に最初に出たのかしら?」

「父は……その……。 今、大変な事になっていて」

「そう。 複雑な事情がおありのようね。 分かったわ、今教えるわけには行かないけれど、会う機会を設けましょう」

父を責める気にはならないが、迂遠だと零香は思った。全く相手にされないよりはマシだが、電話の向こうの婦警の口調はやはり腹立たしい。同情など余計だ。相手に悪気がないのは分かっているが、理想的な対応である事も分かっているが、それにしてもいらだたしい話である。

明日学校の後で会うと言う事になった。他にも、被害者団体の電話番号も教えて貰った。数年前にテロを起こしたカルト教団の事件以来、こういった被害者救済のシステムは確立されつつあるのだという。零香だってあの悲惨なテロ事件は知っている。失敗しないと先に進めないと言う人間の性質を悟り、零香は少し複雑だった。自分と同じでも、こうも違和感を感じるものなのかと思ったからである。

少し進展したと思ったのに。少しはましになったかと思ったのに。一回勝ったくらいでは、全く状況は改善しそうにない。零香は被害者団体の受付に事情を話しながら、容易ならざる事態の展開を思って憂鬱な気分に沈み込んでいた。

 

4,切実なる希望

 

零香は事件の夜、眠れない時間を過ごすくらいならと、徹夜した。それによって資料を集め、翌朝の学校で休みの合間に目を必死に通していた。体力が付いてきたので、一日や二日の徹夜など何でもないが、苛立ちと焦りから、殺気が零れるのは避けられない。まだまだ未熟だ。結果、心配そうに見守る級友は水池だけで、後は遠巻きに難しい顔の零香を伺っている。最近虎狼が如き雰囲気を纏うようになってきた零香は、ただでさえあの山崎を叩きのめした存在でもあるし、迂闊に近づけない相手に見えるのだろう。どっちにしても、追い払うのが面倒くさい。故に、そもそも近づいてこないのは、零香には都合がよい事だ。

零香も母が騙されて入信させられた宗教団体の名前は知っている。ずっと以前に使用人に問いつめて聞き出し、自分で調べて確認したのだ。白炎会という団体で、人数は全体で千百三十人ほど。関東を中心に勢力を持つカルト教団であり、仏教系の教義を持つらしい。詳しい教義などはどうでも良い。どちらにしても、強制捜査が入るのも当然な、かなり悪辣な行為を繰り返していた事は間違いないようだ。母に会わせろと一度電話したが、門前払いをかけられたため、個人的にも印象は極めて悪い。

零香が集めた資料の数々にも、そのろくでもない実体がこれでもかこれでもかと綴られていた。今朝の情報によると、強制捜査が入った建物からは、信者に対する虐待、信者家族に対する脅迫の証拠が山と見付かり、庇いきれないと悟った顧問弁護士は遁走してしまったのだという。事実、衰弱しきった信者が何人も教団施設から救い出されていた。彼らを乗せた救急車が、テレビの向こうでひっきりなしに行き交っていた。

忌々しい狂信者共、何度か奴らの姿はテレビで見た。あくまでテレビごしだが、それでもあの狂信的な目は忘れられない。自分を正しいと信じ、相手を悪だと信じる人間が如何に狂人に近い存在か、零香は幼くして目の当たりにしたのである。

どちらにしても、入信してから母は零香の前にも父の前にも一度も姿を見せていない。それが不安を誘う。話によると極めて外部に対する敵意と隠蔽性の強いカルト教団だとかで、何をされているか分からないのが不安を煽る。既に死体が幾つか教団本部から見付かり始めているとかで、教祖の死刑は免れないという。死刑など待たずに零香自身の手で八つ裂きにしてやりたい所だが、此処は我慢の子だ。死体の名前は分かった順に公開されている。どれも母の名では無かったが、まだ安心は出来ない。

カルト教団に入ってしまったというのに、(入信させられ)と考えている時点で、母を信頼しているのだと、零香は悟る。母子の絆は絶対ではない。血のつながりなど脆いものだと、旧家に暮らす零香は身内の権力闘争を嫌と言うほど見せられて良く知っている。だが、そんな環境では珍しく愛情で結ばれたという両親と、自身に注いでくれた裏のない笑顔を、零香は今でも信じている。あんな連中の同類となってしまったとは、思いたくない。事実その姿を目の前で見たのならともかく、風聞などはあてにしない。父と違って、母は夢見がちで少女趣味な人だ。零香にやたら可愛い服ばかり着せたがったし、ピクニックやら遊園地やらに行きたがった。父も無言でそれらに付いてきたが、花畑の中に魔王がいるような違和感があった事を良く覚えている。くすりと笑いが漏れた。

「あ、零香ちゃん」

「うん?」

「今、笑ってくれたね」

隣の席に座っている水池が、屈託のない笑顔を浮かべた。こんな純真な笑顔を浮かべる事が出来るなんて羨ましいなと、零香は思う。

「学校で零香ちゃんが笑ってくれたの、久しぶりに見たよ」

「そう……そうなんだ。 ごめんね。 あまりそう言う事に気づけなくて」

「ううん、大変なんでしょ。 うちの叔父さんも、凄く大変なとき、今の零香ちゃんみたいにずっと難しい顔してたから」

案外理解力がある友人の言動は、零香には新鮮だった。自身の感情を押しつけるしか能がないのが子供というものだ。そうしなかった奈々帆の言葉は、零香には嬉しかった。ありがとうと一言応えると、また資料漁りに戻る。敵と戦うにはまず敵を知る事だ。

……母があんな連中の良いなりになるはずがない。心は確かに弱いが、父を愛していたし、零香も愛してくれていたはずだ。兎に角、今日帰り際に婦警さんと会って、被害者の会とも相談して、絶対に母を助ける。無理となれば幸片をつぎ込んででも助ける。そのためには、勝たなければならない。何はともあれ、ともかく幸片だ。

待っていて、母さん。必ずわたしが助け出すから。零香の無言の呟きは、空に流れて消える。奇跡なんて起こらない。願いなんて届かないのはよく分かっている。今のは神だの誰かも分からない存在にだのへの祈りではない。自身に言い聞かせるための言葉だ。狼次郎先生の話によると、父は自分の戦いをしているのだという。ならば零香も自分の戦いをして、奇跡を実力で起こして、母を救うまでの事だ。

無意味な授業を終えて、昼休みも終わって、放課後が来る。零香は奈々帆にもう一つ礼を言うと、荷物をひっ抱えて学校を飛び出した。婦警さんが指定してきたのは、零香の帰り道の途中にある喫茶店だ。この辺り、大人の良識が伺えて嬉しい。そんな良識を実際に持っている人間がとても少ないのを、零香は良く知っているから、余計に嬉しい。

待っていた婦警さんは、落ち着いた雰囲気のおばさんだった。痩せぎすで、年は四十前半くらいだろう。細いのに何処か威厳があり、化粧は少なく、目の奥には鋭い光がある。合い言葉を言うときちんと通じたので、零香は少し安心した。

喫茶にはいると、おばさんは開口一番に言う。

「先に聞いておくけど、味の好みは?」

「そうですね、どちらかと言えばしょっぱい方が好きです」

「ふふ、そう。 それなら私はコーヒーで、貴方はチーズケーキで良いかしら」

「待ってください。 自分の分は自分で払います」

「いいのよ、こういう所では素直に大人に甘えておきなさい。 しっかりしているのも度が過ぎると、相手に警戒されるわよ」

この喫茶は近所で美味しいと評判の場所だ。事実インスタントとは違う、香ばしい良い薫りがおばさんのコーヒーカップから漂ってくる。匂いがよく分かるようになった零香には、インスタントの合成化学物質とは違う、濃厚で複雑な香りの良さがよく分かった。好みとは違うが、きっと美味しいのだろうなと思う。

おばさんはコーヒーを啜りながら、まずは名乗った。

「私は雪村里香巡査長。 貴方は銀月零香ちゃん、でいいわね」

「はい」

「良い答えね。 調べさせて頂いたけど、地元の名士の出身ね。 そうなると、例の連中からの勧誘がうるさかったのじゃないの?」

「いえ。 目立った嫌がらせは殆どありませんでした」

実はこれに関して、零香は違和感を覚えていた。テレビの報道を見ると、他の信者の家族はしつこい勧誘や財産の強奪を行われていたと聞く。それなら地元の名家である零香の家に、信者共があの狂信的な目で押し掛けなかったのは不思議だ。ひょっとすると、母は家族の事を教団に漏らしていなかったのかも知れない。しかし、楽観的にだけは考えていられない。信者の中には、衰弱死したり、暴行で殺されたりしたものもいたそうである。ああいった特異な閉鎖社会では何が行われてもおかしくない。ざっと零香が調べてみただけでも、カルト教団信者の集団自殺事件など珍しくもないのだ。

少し考えていた雪村巡査長は、零香の目を正面から見据えた。不意に相手が戦闘態勢に入ったので、反射的に零香も構えてしまった。殺気だけは押さえたが。

「何でしょうか?」

「これはとてもデリケートな問題なの。 貴方のお母さんが帰ってくる事が出来たとしても、必ず社会から迫害を受けるわ。 覚悟はしておいて」

「はい。 でも、例えこの街の人間が全部母さんの敵に回っても、わたしは母さんの味方です」

「貴方みたいな小さな子に、そんな言葉を吐かせるなんて、周囲はいったい何をしていたのかしら。 貴方、本当は助けを求めて泣いていいのよ。 それが子供の権利なんだから」

「涙なんて、もう枯れました。 枯れていなくとも、そんなものには頼りません」

弱者である事を放擲してから、涙を流して同情を誘うという戦術は零香の中から消えた。それは自己解決を放棄する事を意味しているし、何より零香の性に合わない。そう言う意味では、零香はもう(か弱い女の子)ではなく、むしろ(戦士)に精神面から近くなっていると言えるわけだ。涙は今でもその気になればすぐに流す事が出来るが、それは戦術としてではなく、ストレス解消の一手段としてだ。

「立派だけど、無理をしては駄目よ。 それで、これから被害者団体の人が来るのだけど、幾つか断っておかないといけない事があるの」

「はい。 何でしょうか」

「まず第一に、零香ちゃんのお母さんの居場所が警察に分かったとしても、すぐに知らせるわけには行かないわ」

「はい。 わたしの方でも少し調べたので、そうではないかと思って、心の準備はしておきました」

これに関してはよく分かる。腹立たしい話だが、現在混乱した状況下で、警察は少しでも情報が欲しい所なのだ。それに、思想的な錯乱者は扱いが難しい。衰弱していた信者とは言え、すぐに家族に居場所を公開する訳にはいかないのだ。ましてや、解放するわけにも行かない。何しろ今のところ、重要参考人、なのだから。それと、考えたくはないが、何かしらの犯罪に荷担している可能性もあると、警察は考えるだろう。

それに、環境的な問題もある。白炎会の信者と言うだけで、社会的な悪と見なされる状況だ。安易な解放は、信者にも家族にも大きな負担を掛ける。どっちにしても、ほいほいと解放するわけには行かないし、居場所を知らせるわけにも行かない。専門のケアを行い、心身両面から少しずつ社会復帰をしていかねばならないのである。社会復帰をした後も、周囲の理解を何年もかかって取り付けて行かねばならない。

零香も昨晩徹夜してそれらを調べて知っている。難しい漢字と単語の意味は草虎に教えて貰いながらだったから、時間は余計に掛かったが、その分事態の根深さもよりよく分かった。

「第二に、零香ちゃんのお母さんの他にも被害者の人は沢山いて、相互補助していかないといけない状況なの。 家族が脅迫を受けていた人もいれば、命の次に大事な財産をむしり取られていた人もいるのよ。 自分だけ特別だとは思わないで、出来るだけ冷静に情報を聞く勇気を持って」

「はい。 覚悟は出来ています」

「いい返事ね。 貴方は小学生とは思えないほどしっかりしているけど、いざというときも取り乱しては駄目よ。 それと第三。 カルト教団に入る、もしくは入れられる人って、周辺の環境にも問題がある人が少なくないの。 だからこそに、余計に周囲の人とのコミュニケーションには気を使って。 知っている情報は積極的に仲間に提供する、位の気持ちでいてくれると助かるわ」

望む所である。非常に誠意のある人だと分かって、零香は安心していた。此方の反応を見て、大人の対応で接してくれる所も嬉しい。

弱者である事を放棄した零香に、それを悟って大人としての対応をしてくれるのだから、立派な相手だとも言える。こんな人が周囲に少しでもいたら状況はマシになったのだろうと思うと、少しいらだたしい。父も母も優しい人だし、父に恩があるらしい顧問弁護士も親身になって相談に乗ってくれるが、こういう厳しい人の存在も必要不可欠なのだと零香は思う。

それから二言三言話しているうちに、被害者団体の人とやらが来た。こちらは五十前後のおじさんで、娘が入信させられて大変な目にあったのだという。くたびれている感じの人で、雪村巡査長に比べるとずっと緩い感触を受ける。自己紹介を互いにする。おじさんは安津畑堅(やつはたかたし)と名乗ると、零香が本当に子供で、保護者が見あたらない事に難色を示しつつも、結局は説明を始めてくれた。少し腹が立ったが、別にクリティカルという訳でもないし、平均的な人間はこんなものだと分かっている。メモ帳を取りだした零香は、このおじさんをただのスピーカーだと思う事に決めた。強くなった分、零香は確実に冷酷になっていた。

 

夕刻。丁度陽が沈み始めた頃。話が終わり、零香は帰途に就いていた。すぐ後ろには草虎が付いてきてくれている。彼は難しい言葉を隣でかみ砕いて訳してくれた。余計なアドバイスはせず、零香が助けを求めたときだけ手伝ってくれたので、随分助かった。

今のところ、保護された信者の名前を確認している状態で、母の消息は分からず。保護された人間の中にいればよいのだが、そうでないとなると手の施しようがない。それが呈示された説明であった。とりあえず、それだけ分かれば充分だ。警察も全速力で仕事をしているだろうし、被害者団体も確認に全力を挙げている。取り合えず母の名前を告げた所、現在判明している中にはまだ無いという答えが返ってきた。落胆は隠せなかった。ただし、今日怒ったりイライラしたのは、零香だけではなかった。

「それにしても……だ」

「うん?」

「神という存在は、人間が作り上げたものだ。 古代の人間は、異界から流れ来る力に、姿と名前を与える力を持っていた。 社会の基盤を作り上げるのに強固な不文律は必要不可欠であり、それには神が最適だった。 アーキタイプとなったのは、多くは人知及ばぬ力を持つ自然現象だった。 それに様々な形と神話を与える事により、原始的な精霊神が誕生した。 平均的な人間は神による罰を怖れ、少なくとも短絡的には悪事を行わないようになった。 神に供物を捧げる事によって、幸福を祈るようになった。 未熟な不文律と、それに基づく歪ながら形を持った社会の誕生だ」

草虎の言っている事は難しく、半分も零香には分からなかった。相当にイライラしているらしく、草虎は更に吐き捨て続ける。普段は零香の言葉を待って、それの補助をするようにしてくれている草虎が、珍しく熱っぽい。

「科学技術が進歩し、人の生息領域が広がり、社会が複雑化するに連れて必要とされる不文律も複雑化し、神の役割も変化していった。 結局は神は人間の都合で変化してきた、だから文句は我らには言えないのかも知れない。 科学技術の進歩により、人が神に頼らずとも社会生活を営めるようになった時点で、神が奇形化するのも仕方がなかったのかも知れない。 しかし、だ。 これは我らに対する冒涜だ。 今更原始的な、信仰によって単純で原始的な不文律を作り出し、それによって多数を精神的に奴隷化、一部の人間が利益を貪り喰う。 そんな事は神だって望んでいない。 必要が無くなったら塵のように捨て、或いは残骸をゴミ捨て場から拾い上げて腐臭漂う旗印にする。 かって、自分たちの繁栄の礎になった存在へ、どうしてそんな恩知らずな事が出来るのだ」

草虎は怒りに震えていた。零香だってあまり気分は良くないが、それ以上に憤懣押さえきれない様子であった。

「草虎、一緒に戦おう」

「ん……うむ」

「草虎はわたしの為に色々してくれた。 だからわたしも、草虎のために色々してあげたい。 まだ、自分のためだけで精一杯だけど、母さんと父さんの事で区切りがついたら、草虎の戦い、手伝うよ」

「そうか、ありがとう。 ……すまない、心配を掛けてしまったようだな。 あくまで私事なのに、零香に負担を掛けては神使の名折れだ。 気にしなくとも良い。 私の戦いは、ずっとずっと後回しで良いから、今は自分の事だけを考えるんだ」

無言のまま頷くと、零香は力強く歩き出す。まずはあの朱雀の子を叩き落とす術を考える事。それと今回の戦いで分かったが、高速で打ち出される指向性の攻撃に対する何かしらの防御手段が欲しい。神衣は相当に防御力が高いが、淳子のスナイプを受けるにはまだ少し足りない。今回は勝てたが、三つどもえ、四つどもえの戦いになる事も今後はありうるし、何かしらの対策をする必要がある。此方だけではなく、相手も必死で、次には弱点を克服してくるのだ。何しろ同じように神使の助けを得て、同じように自分の力だけではどうにもならない環境にいて、同じように必死に幸せになろうとしている子供達なのだから。

夕日が山の向こうへ沈み、長く伸びきった影が闇に溶けていく。戦うべき時は、神子相争だけではない。社会的な戦いという、今までとは性質の違う大きな壁が零香の前に立ちはだかろうとしていた。神子相争で得られる幸片をつぎ込み、母を救うために、どれほどの労力が必要なのか。一体今後何勝しなければならないのか。今から零香は慄然たる思いであった。

ふと空を見上げると、薄闇の中星が瞬き始めていた。それをつかみ取る動作をしようとして、零香は思いとどまり、再び歩き始めたのであった。

 

(続)