獣の王

 

序、暴君ツキキズ

 

森の中をのし歩く、小山のような巨体が一つ。焦げ茶色の毛皮と、太い手足を持ち、鋭い爪は黒く光っている。エゾヒグマ、ツキキズ。それが彼の名前である。眼光は鋭く、吐息は荒い。彼の世界に、彼以外の生きた動物は必要ない。それが強大なるエゾヒグマであるツキキズの、唯一のルールであった。彼にとって全ての生命は餌であり、獲物であり、倒すべき敵であった。

ツキキズは暴君であった。体重三百八十キロの豊かな体格にものを言わせ、周囲の縄張りを独占し、君臨し続けてきた暴君であった。人間達にツキキズと呼ばれる自分の存在を、圧倒的な暴力で維持してきたのが、エゾヒグマの王にて、周囲の動物たちの頂点に君臨する彼であった。右目は大きな向かい傷でふさがれており、それが月の形に見える事が、名前の由来である。

基本的に獰猛なエゾヒグマであるが、それでも性格にはさまざまな個体差がある。穏やかで和を尊しとする者もいるし、圧倒的な暴力で周辺の縄張りを維持していく者もいる。ツキキズは後者であり、その少し広すぎる縄張りを熊としては壮年となる十歳の今日まで維持し続けてきた。その間に、様々な摩擦があった。彼は数少ない、人間を殺した熊でもある。ハンターを返り討ちにした経験がある、北海道でも希な存在なのだ。そう言う意味で彼は英雄であるとも言えた。だが純然たる英雄ではない。そう呼ぶには彼は少し粗暴すぎたからである。

ツキキズの縄張りを歩いてみると、木々や岩などに無数の過剰な傷が見て取れる。マーキングというには明らかに異常な数だ。少し見れば誰にでも分かる。衝動的な暴力によって穿たれたものである。そして周囲をよく見れば、無意味に死んでいる獣があまりにも多い事にも気付くだろう。ツキキズは手当たり次第に獣を仕留め、そして食べ残しはそのまま捨ててしまう。支配者として、彼はあまり的確な存在とは言えなかった。それが証拠に、雌さえ彼には寄ってこない。彼に不用意に近づき、殴り殺された雌熊が一頭や二頭では無いからだ。

正に破壊衝動の塊と言えるツキキズであるが、しかし彼は戦士としては非常に優秀だった。同じ体格の熊に対しては殆ど負け知らずで、若い頃には二十キロ以上重い相手に勝った事もある。彼は間違いなく強い。精神面でも強靱で、若い頃には負けても負けても食い下がり、ついに格上の相手を倒した事すらもある。森の王者としては失格だが、戦士としては最強だと言っても良い。

銀月零香がこれから向かう森の王者こそが、彼であった。

 

1、北の大地

 

成田空港より一時間二十分のフライトを経て函館空港にたどり着くと、其処はもう北の大地だ。北海道。日本の中では本州につぐ広大な島であり、その厳しい環境と豊富な自然、豊かな農作物が知られている。地理は得意ではない銀月零香も、ジャガイモの名産地だと言う事は知っている。逆に言うと、その程度の関心しか、今までは持っていなかった。そのまま飛行機で釧路に向かう。それにしても飛行機は速い。車なら丸一日かかる行程がほんの十数分で征服出来てしまう。

初めて飛行機に乗った零香であったが、発進時の圧力も、着陸時の迫力も、楽しむ余裕はなかった。これから行われる修行と、それによって自らを強化する事だけが零香の頭の中にある。遠回りになってしまったとは思っているが、必要な遠回りなのだから仕方がないとも割り切っている自分がいる事を、零香は不思議な気分で受け止めていた。まずは勝てるようにならないといけない。前回の戦いで分かったが、今の零香は初歩の戦闘技術を知っているだけで、まだまだ戦士ではない。あの場で、他の神子とまともに戦える土俵に立っていないのだ。

草虎はずっと姿を現していたが、関心を示す者は誰もいなかった。他の人間には見えないと言う彼の言葉は本当に本当であったのだと、空港のロビーをきびきび歩きながら、零香は一人思った。事前の入念な調査があり、空港内でも迷うことなく、タクシー乗り場にまでたどり着く事が出来た。タクシー乗り場で、待っていてくれた(権蔵)さんとあう。穏やかそうな、農着が似合いそうな素朴な老人である。仮名らしいのだが、最低限の会話だけしか許されていないとかで、タクシーの中でも喋ってはくれなかった。

北海道に向かう前、準備をする零香に、草虎は言った。

「五方角の神子は皆一種の修行場を抱えている。 零香のように周辺に修行出来る場所を持っている者は少ないからな。 神子を終了して財産を築いた者が支援したりして、それぞれに二カ所から三カ所、修行を自由に出来る場所を持っているのが普通だ。 ただし、提供出来るのは寝床になる場所と案内までで、それ以上は食料支援さえしてはいけないというのが不文律になっている。 昔は色々とその辺が不便で、最初の頃は方角神が異界に修行場を時々提供していたりもしたのだが、今は交通機関が発達して問題なく修練が行える。 一部の子は、まだ特例が認められたりもするようだが、その数は確実に減っている」

確かに、そうでないと質が悪いハンデになる。話によると零香のような極端な能力強化型及び特殊能力に特化したタイプは普通の屋外での鍛錬が極めて難しく、修行場を準備しなくてはならないのは暗黙の了解なのだという。ただ、それを利用するのは初期のほんの一時期だけで、後はそれぞれが訓練を工夫しながら行い、創意工夫で強くなっていくのだとか。

分厚い上着にズボン、丸鍔帽子に一番頑丈な眼鏡、靴。登山ルックの零香が背負ってきたリュックの中には、最低限の着替えと生活道具のみ。ただし、生活道具は殆ど使えないだろうと既に割り切っている。父に連れられて今まで山には何度かいった事があるが、あんな所で歯磨きだのシャワーだのができるわけもない。ましてこれから行くのは、エゾヒグマも住んでいる北海道の山だ。準備の段階で調べても見たが、エゾヒグマは体重三百キロを超し、場合によっては四百キロを超える事もある日本最強の猛獣であり、本州に住むツキノワグマの二倍の体格を誇る。修行をしている最中に、これに襲われたらどうするのか。そういえば、草虎は何も言っていなかった。

老人の案内で、山の中に入っていったタクシーは、やがて小さな農村にて止まった。帰っていくタクシーを見送っていた老人は、零香に領収書を渡すと帰っていった。タクシー代は結構な金額に達していたが、帰ったら郵便振り込みしておけば住む程度の料金だ。零香のお年玉は今まで使わずに貯金してきてある。これを降ろせば旅費程度なら充分に何とかなる。少し肌寒いなと思った零香は、肩を抱いてふうと息を吐いた。

「行くぞ、レイカ」

「うん」

「まず、この山の上に小さなログハウスがある。 其処に荷物を置いて、それから修行に入る。 最初の三日はログハウスで寝泊まりするが、それ以降は山の中で寝泊まりすることになる。 迎えが来るのは二週間後だ」

予想以上にハードな行である。道行くお爺さんが挨拶をしてきたので、笑顔を作ってそれに応えながら、零香は歩く。お爺さんが見えなくなってから、草虎に応える零香の歩調に、焦りや緊張はほとんど無い。一度徹底的に負けてから、何か一種の落ち着きと威厳が少女には備わっていた。

「わたし、強くなれるかな」

「きっと強くなれる。 レイカの場合、基本的な戦闘のやり方を体が知っているから、それを更に拡大する必要があるな。 まあ、山での生活をしているうちに、いやでも分かるようになる」

触手を力強く揺らしながら言う。零香には徐々にこの異形の性格が分かってきた。何というか、紳士的な反面とても真面目な奴だ。真面目すぎて、結構酷い事も平気で言う反面、零香の事をきちんと考えて発言を待ってくれたりもする。自己流の道徳律を中心に置いて、それを元に物事を進めている感じだ。零香はそういう性格も嫌いではないが、きっと異性にはもてないのだろうなと、酷い事を考えてみる。まあ、それはあくまで人間の基準だ。神使とやらの世界では、案外伊達男で通っているのかも知れない。

「引き続き、私は口しか出せない。 今後は神衣を纏うにも、白神輪に溜め込んだ自身の力を消費して貰う事になる。 厳しい修行になると思うが……」

「構わないよ、全然」

「そうか。 レイカは強いな」

「ううん、これから強くならないといけないんだよ」

何を今更。零香はただそれだけ思った。今後は必用に応じて人間でも何でも殺せるようになっておかねばならない。強くなると言う事と非理性との同居がほぼイコールだと言う事を、零香は理解し始めていたから、強くなるためにしなければならない事もうっすらと分かり始めていた。

途中からガードレールを乗り越えて、脇道にはいる。最初は道らしきものもあったが、それもすぐになくなった。危なげなくガードレールを乗り越える零香を後ろから見ながら、草虎が言う。

「此処からは熊が出る。 対処するために神衣は使っても構わないが、いざというときまでは使わない方がいいだろう。 熊ぐらい実力で倒せるようでないと、今後の戦いではどのみち勝てない」

「へえ、熊ねえ……」

「北海道のエゾヒグマは本州のものとは比較にならぬほど大きい種類だ。 頑強な毛皮と皮下脂肪に守られていて、ライフル弾すら場合によっては弾き返す」

無言で頷くと、草茂る山道を歩く。険しかった。急勾配であり、藪も深い。積もった落ち葉はまだ青く、形も欠けてはいない。紅葉の山を歩くとさくさくと軽快な音がするものだが、零香の足下から聞こえるのはざくざくと生臭い。使い古したスポーツシューズを履いてきて良かったと零香は思った。新品など持ってきたら、足が豆だらけ、いや豆すら潰れて血だらけになっていただろう。木々の間から漏れ来る光が心地よい。道無き道は凹凸だらけで、少し進むだけでも苦労する。ログハウスが見えてきた頃には、流石に零香もうんざりしかけていた。だが、不思議と目立つ疲労はない。

ログハウスというと聞こえは良いが、其処にあったのは掘っ建て小屋である。広さも四畳半程度しかなく、こじんまりとしている。ドアを開けてみると、一応埃は積もっていないが、その代わり何もない。電気も水道もガスも無い。ただの、木で造った囲いだ。窓は三重の硝子がはまっていて、こつこつと叩く零香に、草虎は寒さ対策だと教えてくれた。屋根は三角形で、雪を落とす作りなのだと教えられなくとも分かる。薄暗いログハウスの隅っこにぽつんと置いてある寝袋が、これからの環境の厳しさを伺わせる。薄暗いログハウスの中を見回すと、寝袋の他に、数冊の本が置いてある。大きさからして図鑑だ。靴を脱ごうか迷っていた零香の上で、草虎が触手を揺らした。

「荷物を置いたら、外を歩いて周辺の地形を把握しておくと良い。 後は、弓矢くらいは自作しておく必要があるだろうな」

「作り方さえ教えてくれれば何とかするよ。 誰か来て、手入れしているの?」

「していなければ、もう影も形もない」

「大変だろうね」

「何、どうと言う事もない。 ……此処を管理しているのは、二十年前ほどの私の教え子だ。 奴の能力なら、その程度造作もない事だ」

少し懐かしそうに草虎はそう言った。草虎の年齢がみてもさっぱり分からない所が、この場合スムーズなコミュニケーションを妨げる。まあ、草虎が嘘を言った事はないし、信用出来るとしても二十年以上は生きているわけだ。外に出ると、さっきより少しだけ暗くなった気がする。風が森を吹き抜け、土と血の臭いを運んできた。

「……」

無言で零香は走り出した。どうしてか、感覚がいつもよりぐっと鋭い。おぼろげだが、音が何か判別出来る。土の臭い、動物の糞の臭い、血の臭い、かぎ分けられる。舌なめずりしながら、ただ森の中を零香は走った。若い瑞々しい肉をフル活動させ、零香は走り回った。何故だろうか。走る事がこんなに楽しいと思ったのは初めてだ。思わず笑みがこぼれてしまう。

神衣を発動させる。どうしてか、そうしたい気分だからだ。元々零香に限らず、子供、特に女の子は気分屋である事が多い。だがそれを通り越えて、何故か零香は、神衣でこの森を走り回ってみたいと思った。

戦いに負けて、あれから何もしていなかったわけではない。何度か神衣を発動させた結果、人間の全力疾走程度の速さでなら、走れるようになってきていた。もう転ぶ事もなくなり、仮に転んでも以前のように地面に突っ込んで吹っ飛ぶような事もなくなってきていた。そのせいか、急速に感覚器官の精度や反応速度が向上している。草をかき分け、岩を飛び越え、零香は走る。走る。走る。何個目かの岩を、二メートル強もある岩を飛び越え、その最中に零香は見た。鋭い爪痕が残る、無惨な木を。尻尾のバランスを上手く使って素早くブレーキを掛ける。二歩、三歩、四歩目で立ち止まる事に成功し、戻ってよく見ると、それは人間の成人男性の背丈ほどもある場所についていた。抉り方は荒々しく、まるで鉈を数本纏めて振るったような有様だ。呆然と、畏敬を込めてそれを見上げている零香に、いつの間にか追いついてきていた草虎が言う。

「ツキキズ、だな」

「ツキキズ?」

「数年前から、この辺りを彷徨くようになった熊だ。 体重は四百キロに達していないそうだが、兎に角荒々しい性格で頭も良く、ハンターを殺した事もあるそうだ。 此処で修行すれば、じきに顔を合わせる事になるだろうな」

何故か、零香はその荒々しい傷に心引かれた。神衣で暫く走り回り、充分に汗をかいた後、零香は一人その傷の所に戻ってきた。神衣を解除し、暗くなり始めた森の中、無言でそれを見上げる。

強くなるための、何かのヒントが其処にはあるかも知れない。零香は立ちつくしたまま、そんな風に思った。

 

2,修練開始

 

ログハウスを中心に、零香は頭の中に地図を作っていった。今日は大体山の南斜面を周り尽くした。それほど大きな山ではない。若々しい脳細胞は貪欲に知識を吸収し、地形を立体的に覚えていく。それでいて方角はよく分からないのだから、妙な話である。これは昔からの、零香の欠点であった。

つまり、零香は(何処に行けば目的地にたどり着けるか)はよく分かる一方で、(最短距離はどちらなのか)とか、(他の地域に行く場合、どの方角をあてにするか)等は全然分からないのである。このため、複雑に入り組んだ街はすらすら目的地へ行けるのに、区画整理された街などは苦手中の苦手で、迷子になった事が二度や三度ではきかない。零香は記憶力にしても集中力にしても相当なものがあったが、一方でこういった妙な欠点を幾つも抱えていて、それが人格的なおもしろみになっていた。ともあれ、この山の中であれば、その欠点も面白おかしく鎌首をもたげない。経験的に自分の欠点を知っている零香は、山の中にいるという点で不安を覚えてはいなかった。

夜はあっという間に来て、そして闇が訪れた。外に出れば星の海を眺める事も可能だが、今はそんな場合ではない。一通り山を回った後は、懐中電灯を光源に草虎と色々に打ち合わせである。弓はさっき、適当な木の枝を折ってきて作った。矢はまだだが、なかなか良い感じに仕上がって、零香も満足している。唯一風呂に入れないのが残念だが、それは仕方がない。

「持ってきた保存食は、あくまで予備扱いだ。 普段用の食料も、明日からは自力で調達して貰う。 それには、まず狩りをしなくてはならない。 山菜は簡単に取れるし美味しいが、それだけでは強い体は作れない」

「弓矢を使うの?」

「魚ならより簡単に仕留められるが、それではあまり意味がない。 弓矢で兎や狐を仕留めて貰う。 仕留める事が出来たら、捌き方を教える」

捌く事自体は抵抗がない。母と料理をした時、魚を何度か三枚に下ろしたし、内臓の取り方も聞いたし実際にやりもした。ふと零香は野生動物保護にはひっかからないかどうか不安になったが、草虎はそれを見透かしたように言う。

「この国の法律では、一応年当たりに間引く動物の数は決まっている。 良く猟友会が猟銃を手に熊やエゾシカを狩っているのを聞くだろう? この山の持ち主もその責務を任されているから、大丈夫だ」

「ええと、どういうこと?」

「要するに、後で帳尻を合わせて置いてくれると言う事だ。 仕留めた数は後で私がその者に連絡しておく。 足りない分は、その者が調整しておいてくれる。 実際にはそれだけではすまない場合もあるが、零香は気にしなくていい」

その後は、弓矢を使っての狩りの説明に入った。普通であれば、余程重点的に鍛錬していかないと、まともに狩りなど出来ない。習熟にも時間がかかるし、気配を消せるようになるまでには何ヶ月もかかる。しかしここの所、感覚も肉体能力もどんどん上がっているのを零香は実感している。ただし、全く使いこなせていないので、狩りによって錬磨して、使えるようにして行かねばならない。走れるようにはなった。確実な進歩だ。だが、残念ながら、それだけでは駄目なのだ。戦えるようにならねばならない。刃を相手の体に突き立て、命を止める技術を得なくてはならない。零香は熱心に、狩りの技術論を聞いていった。

武術を武道と称し、精神鍛錬のみに使う者もいるし、それも一つの考え方だ。だが零香は、武術を実用的なものとして扱わないと、にっちもさっちも行かない所に来てしまっている。多分、今後も生きていく、というだけなら問題なく出来る。資産はあるし、おかしくなってしまったとは言え父だって母だってまだ生きているのだ。幸せになりたいというのはエゴに過ぎない。分かってはいるが、零香は父も母も救いたいのである。自分の手が如何に血に染まったとしても。

流石に十時を過ぎると、眠くなってきたので、寝袋にもそもそと潜り込む。寝袋の中は暖かかったが、少し暖かすぎるような気もした。

 

陽が昇るより早く起き出すと、零香は側に置いておいた、昨日木の枝と蔓で造った弓を手にしてみた。随分頑丈に作ったが、無理に力を入れるとすぐに折れてしまいそうであった。外に出て、朝露に濡れる森の中、目を付けておいた枝を集める。一度戻った頃には、空気が大分暖かくなり始めていた。家から持ち出してきたナイフを使って、まっすぐなものを厳選して削り、即製の矢を作っていく。鏃や尾羽を付けるほど高等なものは作れないが、当座はこれで充分だ。良く尖った矢の先端は、つつくと充分に痛い。

夜行性の動物も多いが、昼間に外を彷徨いている生き物も少なくない。兎は一応夜行性の生き物だが、昼間にも見る事が出来る。狐は普通に昼間に見つける事が出来るし、多くの鳥は日中に空を舞う。それらを反芻しながら、外の音に耳を傾ける。朝日の中で、鳥が鳴いている。何故か美味しそうに聞こえる。

作っておいた矢立てを背負うと、弓矢を持って外に飛び出す。朝の空気が気持ちいい。美味しそうな声の元を探すと、名前も分からない小鳥が数羽、枝の上で戯れていた。心温まる光景だが、それ以上に食欲を何故かそそられる。

「鳥は難易度が高い。 簡単に仕留められるのは昆虫だが、それは少し簡単すぎる。 は虫類や両生類から始めて、魚類、ほ乳類、鳥類と進めていくぞ」

「何で鳥を狙ってるって分かったの?」

「ん、それはな。 じきにレイカにも分かってくる」

いつのまにか側で滞空していた草虎は、触角を揺らして、側の茂みを指した。大きなアオダイショウが、舌を出してこっちを見ていた。

「は虫類の肉は鳥に似ていて、さっぱりしていて美味しい。 捕まえるのも捌くのも比較的簡単で、初心者にはお勧めだ。 ただし、毒蛇を相手にする時は気をつけろ」

「……行くよ」

ゆっくり大地を踏みしめ、上体を安定させる。草虎のアドバイスを受けながら、姿勢を正し、まっすぐに狙いを付ける。距離は一メートル強。最初の一矢を構える、零香の額を汗が伝う。これを放ったら、また一歩踏み込む事になる。だが、もう迷いはない。

放たれた矢は、容赦なくアオダイショウの体を貫いていた。更に第二矢を構え、撃ち放つ。三本目は外れたが、こつは急速に掴めてきている。動きが遅い。遅すぎる。外すわけがない。もがいていたアオダイショウは、七本目の矢を頭に受け、ぐったりして動かなくなった。血の臭いが、やたら濃厚に感じる。かってそれは嫌悪感しか呼ばなかったのに、何処かそれに気を引かれる自分がいる事に、零香は薄々気付いていた。言われるまま捌いて、薪を集めて携帯着火装置で火を付ける。最初はかなり臭かったのだが、皮を剥ぎ、近くの川できれいに洗った後に炙ると美味しそうな匂いがした。

「蛇肉は少し前まで、田舎では蛙と並んで子供達が重要なタンパク源として食していたのだがな。 シマヘビなどは見付かろうものならひとたまりもなかったものだ。 今では蝗などの昆虫食同様に、すっかり見られなくなったが」

「……草虎って、年幾つなの?」

「今年で三百七十歳になる。 これでも今活動中の神使の中では一番若い」

ぱちぱちと爆ぜる炎が、草虎の複雑な形状をした頭部を、下から照らし続けていた。その後は二人で分け合って、貪るようにアオダイショウの野焼きを食べた。グロテスクな頭も、夢中になって食べた。そして腹がこなれる時間が惜しいというように、森の中を薪と矢を集めるついでに走り回った。走れば走るほど、体が強くなっていくのが実感出来て、それがまた楽しい。他の神子もこんな風な時間を送って強くなったのだろうかと思うと、もう一つ楽しい。健康的な汗が口の側に落ちてきたので、舌なめずりして喉へと運ぶ。塩味が、どうしてか素晴らしく愛おしい。

「あは……」

思わず笑みがこぼれる。どんどん加速する。いつの間にか、零香は自分でも気付かないうちに、小学生女子の世界記録に並ぶ速さで、しかも森の中を走っていた。速い速い。何もかもが速く後ろへ吹っ飛んでいく。神経、筋肉、血管、どれもがおぼろげに把握出来る。楽しすぎる。左手を伸ばしながら思い切り跳躍し、木の枝に片手で掴まり、逆上がりで木の枝に飛び乗る。そのまま走る。枝を渡る。そして、そのうちの一つの枝、其処にいた小鳥が怯えて逃げようとする瞬間、右手がひらめき、その体を掴んでいた。そのまま遠心力を殺さず体を宙に躍らせ、何度か地面を蹴りながら減速、着地する。

あはははは、はははははははは、あははははははははは! あははははははは、ははっはははははは、ははははっ、はははははははははは!

笑いが爆発した。怯えた鳥たちが、一斉に飛び立ち、逃げていく。

何か体の中から、今まで知らなかった無尽蔵の楽しさが沸き上がってくる。手の中にある小鳥を、そのまま無造作に矢へ貫き通す。ぴいっと断末魔を挙げて、すぐに鳥は動かなくなった。

零香はそこで分かった。別に筋力が飛躍的に上がったわけではない。上がったには上がったが、別の理由で零香は強くなりつつある。反応速度が上がったのだ。今まで無駄にしていた体の動き。その無駄が、完璧にはほど遠いが、それでも相当なレベルにまで改善されている。感覚が鋭くなってきたという、そのおぼろげな理解に、これで理論が付与された。反応速度が、神経の性能が上がってきたから、動きもそれに併せて速くなってきたのだ。

ログハウスの側、焚き火の所まで戻る。零香は満面に笑顔を浮かべ、血だらけの鳥の片翼を掴んでぶら下げながら、自分を見上げる草虎に言った。眼鏡に飛んだ血など、殆ど気にならない。後でふき取ればいい。

「ねえ、これはどう捌くの?」

「ほう? これは凄い。 相手にも当然油断があったのだろうが、鳥を手づかみで捕まえたか。 飲み込みが早いぞ」

「うん。 運が良かったんだってのは、分かるよ。 それよりも、ねえ。 早く教えてってば」

「分かった。 それにはだな、まず羽を毟って腹を割いて……」

草虎の説明に習って、どうにかこうにか鳥を捌いて、火に掛ける。さっきのアオダイショウと違って細かくて大変な作業であったが、何とか怪我せずに終わらせる事が出来た。殺したての鳥はとても美味しくて、洗ったとは言え足や消化器系以外の内臓まで全部貪り食べた。小さな骨などそのままかみ砕いた。丸ごと食べた後は、どうしてか獲物を捕ろうという意欲が急に失せた。しばらく走り回った後、生活用の様々な物質を集め、その後は弓矢の練習に終始した。

 

三日目も、同じような修練が続いた。零香には分かった。食べれば食べるほど、強くなっていく自分の体が。貪欲に新しい命のしずくを求める、若さと紙一重の残酷な獰猛さが。五日目には神子相争への戸が開いたが、零香はキャンセルして修練に没頭した。今出ても他の子には勝てないし、それよりも体を強くしていった方が後のためになると、自然に悟っていたからである。一瞬だけ、不戦勝の可能性も考えた。だが今はそれよりも鍛えた方がよいと思ったので後回しにした。どうしてか、暗闇の中で伏せているのが心地よい。寒さなど、あまり感じない。登山ルックだから暖かいというのもあるが、それよりも、闇の中で待ち伏せる楽しさの方が今は勝っている。瞬く間に時間は過ぎる。飛ぶように流れていく時間だが、どうしてかとても密度は濃い。今までの空虚な時間の数十倍の経験をしながら、零香は森の中を走る。速く、速く、より速く。

 

一週間が過ぎた。闇の中、静かに進む。息を殺して進む。星明かりのみを頼りに、零香は茂みに臥せる。彼女の視線の先には、一匹の兎がいた。茶色い毛皮の、長い耳をした兎だ。兎を狩るには猟犬などを使ったりする方法が一般的だし、鉄砲を使っても逃げられる事がある。それは、相手との距離があるからだ。兎との相対距離は、見る間に縮まっていく。体をくねらせるようにして地面を這い進みながら、零香は息を殺し、弓矢を構える。ねらうは兎の胴体だ。頭を狙えば即死させられるが、外す可能性が大きい。仕留めて食べるのだから、確実に倒さなければならない。そういえば淳子も零香にとどめを刺す時、頭ではなく胸に一撃を打ち込んだ。あれも、もしも零香に余力が残っていた場合、とどめを刺し損ねないようにと考えての事なのであろう。

兎が気付く。零香の殺気が漏れたのだ。舌打ちして跳ね起きる。飛び退こうとする兎、上体を一気に安定させ、引き絞った弦を離し、矢を撃ち放つ。ふっと空気を切り裂く音と、断末魔の悲鳴と、兎が横転する音は殆ど間をおかずに飛んできた。胴を貫かれ、ひくひくと痙攣している兎の首をへし折って楽にしてやると、零香はログハウスの側に戻る。三日目から、もうこれは倉庫以上のものとしては使っていない。勿論寝袋を使って、外の適当な木の上で寝泊まりしているのだ。火を起こし、兎を捌く。三匹目だから簡単だ。草虎は黙って見ていた。

弓矢の技術が上がったと言うよりも、経験によってどんどん神経が錬磨されている。零香は戦い方を着実に学んでいるのだ。ありとあらゆるものが、今までにない学習効率を伴って零香の中に流れ込んできている。兎や鳥を捌けば、何故体がそう言う形になり、そう言う風に動くのかがよく分かる。じゅうじゅうと炙った肉を貪り食えば、それが体内でどう力になっていくのかがよく分かる。弓を引き絞れば、矢を放てば、拳を木に叩き付ければ、足で地面を蹴り舞えば、何もかもが今までとは違う、確固たる情報として流れ込んでくる。これに比べて、学校の効率優先の授業がなんとつまらない事か。都会での生活の、なんと密度の低い事か。三匹目の兎を綺麗に食べ終えて、お腹が一杯になったら、また走り回る。ひとしきり走り回ったら、神衣を発動させて、動作の練習に入る。走る速さはどんどん上がっている。もう確実に短距離で百メートル十秒を切る事が出来る。走り方も、無意識のうちにフォームを改善して、速さよりも戦闘を意識した、低い態勢での走りへと変わりつつあった。

神衣を解除した零香は、流石に汗くさくなってきたかと思った。汗は乾くと臭くなるのが難点だ。このままだと、衛生面もそうだが、風下の獲物を簡単に逃がしてしまう。

「一度、川で体を洗ってくると良い。 昼頃なら水温も丁度良かろう」

「……不思議な気分」

「うん?」

「前はお風呂が大好きだったのに、今は体を洗う事なんかよりも、強くなる方に興味が向いてる。 早く強くなって、父さんも母さんも助けないといけない。 それに、私自身、確実に強くなる事を楽しんでる。 それが良い事なのか悪い事なのかは分からないけど……」

自分が変わった事を零香は強く感じる。今までとは確実に違う存在へとなりつつある事を、頭ではなく体の方から認識しているのだ。鰭を少しいつもより少し草虎が激しく揺らす。何かを言い出す時の彼の癖だと、もう零香は知っている。

「体を洗ったら、そろそろ格上の相手と戦ってみるか? 抵抗能力を持つ相手と戦って貰うぞ」

「うん。 最初は野犬?」

「いや、まずは蝮だな。 蝮、野犬、鹿と続いて、熊と戦ってみるか」

どくんと零香の心臓が高鳴った。普通の女の子が熊と戦うなどと言うのは、文字通りの自殺行為だ。だが零香はもう普通の女の子ではないし、命を奪い、自らの糧にする事を体で覚えた。一人前とはまだ行かないが、既に一般人の領域を戦士の領域に向けて大きく踏み抜いている。

「熊を神衣無しで倒せたら、まずは合格だ。 もう他の神子と戦える。 後は術を自分で開発しながら、戦略を練っていく事になる」

無言で零香は矢を研いだ。最近は弓の威力が物足りなくなりつつある。矢を大きくしているのだが、そろそろこの手製の弓も、大きく強化する必要性があるなと、零香は考えていた。

 

3,暴君への挑戦

 

朝の川に肩まで入り、水浴びする。石に腰掛けて、手足を伸ばしてリラックス。足や腹を小さな魚がつつくのが気持ちいい。手で擦って汗を落とし、垢を落とし、血を落とす。一通り終わると、全身がさっぱりした。水で体を洗うのは始めての経験であったが、何日か過ぎると充分に順応出来た。この辺りが危険な大型動物の縄張りになっていないし、大型の肉食魚もいないことも知っての行動だ。素早く、だが確実に体を綺麗にし、水から手早く上がる。体裁よりも実用性を重視して素早く洗濯する。干すのはログハウスの中だ。着替えは一着しかないから、二日おきに交互に着ていく事になる。洗濯機が如何に便利なものか、始めて水洗いしてから、零香は知った。

抵抗能力を持つ相手との戦いは、今までとは全く別物と言って良いほど難しかった。相手には反撃する力があり、それは致命傷を誘発するのだ。蝮は噛まれてもまず死なないと言う事だが、それでも処置を間違えば指の一本くらいは失いかねない。確実に仕留められる位置まできちんと動き、確実に仕留められるようにアタックを加える。それでようやく、彼らを倒せるのだ。

最初の相手は蝮であったが、蝮は臆病で気配に敏感であり、すぐには仕留めさせてはくれなかった。八日目になった頃には、零香は近辺の山と森の何処に何が住んでいるか位は把握していた。今のところツキキズもこの辺りを彷徨いていない。安心して狩りに精を出せる。しかし、蝮のような臆病な動物を仕留めるのはことのほか難しい。他の動物も刺激しないように近づかなければならない上に、仕留めるにもある程度の距離が必要になってくる。ただし、時には大胆に近づかなければならない。

蝮を始めとする蛇は、朝から昼にかけて岩の上などでひなたぼっこをする。草虎に聞いた話だと、変温動物である彼らはそうやって体を温めておかないと、いざというとき動けないのだとか。大型の変温動物になればなるほど、体を温めれば長時間動けるのだともいう。その動きが鈍くなったタイミングがねらい目だという事だが、しかしその一方で、そう言う時間帯は蝮も警戒心が強くなっており、簡単には発見出来ない。いっそ手で捕まえる事も出来るが、それだと噛まれる可能性を否定出来ない。五匹を目標としていた零香であったが、八日目は三匹に留まった。捌くのにも、蝮は細心の注意を必要とした。今までは手をナイフで傷付けないようにするだけで良かったが、殺傷力を持つ毒牙を持っているため、頭を最初はまるまる捨てた。零香は自然の中で暮らす内に、必要な分だけ殺して食べるという事の意味を学んでいたから、これは心苦しかった。蝮の頭を埋めながら、零香は手を合わせてごめんなさいと呟いていた。何の神に祈ったのかは、零香自身にも分からなかった。

九日目になってくると、蛇の行動パターンが分かるようになってきて、着実に仕留められるようになった。相手の戦闘力が比較的低いとは言え、これは充分に一種の戦闘訓練だった。昼に仕留めた蝮を食べ終えると、これはもう充分と判断、続いて野犬の処理にかかる。今の学習効率なら、その判断は充分に実践的であった。もぐもぐと蝮を食べている草虎に断って、零香は山へ走り出す。次の獲物を仕留めるべく、既に頭脳はフル稼働を開始していた。

 

敵を倒すにはまず知る事だ。零香は走りながら、順に情報を整理していく。

近辺の山に住み着いている野犬は小型犬から中型犬ばかりであり、北の山の方に十三匹の群れが住み着いている。ボスは大きな黒犬で、かなり賢く用心深い。此奴との直接対決は避けた方がいいと、零香は思った。他の犬はどれも大したことがない者達で、経験も肉体能力も物足りない。ボスが死んだらこの群れは確実に瓦解するだろう。しばらく零香はその群れを風下から追い、はぐれる個体が出るのを待った。これは案外な難作業であった。群れに気付かれると攻撃されて面倒だし(いざというときは木の上にでも逃げるが)、はぐれた犬を上手く仕留められないと悲鳴が仲間を呼び寄せる。ひょっとして、古代、人類がサバンナで暮らしていた頃、ライオンは原人をこんな風に狙ったのだろうかと、犬の群を追いながら零香は考える。そう考えると、何か零香は複雑だった。それに嫌悪感を覚えなかったのだから。

ここ一週間ほどの山歩きの結果、もう足跡や痕跡の読み方は下手くそながらも覚えた。それによると、彼らは夕刻、少し複雑なルートを通って人里におり、ゴミ箱を漁る。その複雑なルートを通る時こそが、チャンスであった。

距離を一定に保ちながら、音を立てずに零香はしのぶ。零香が今用いている弓は、最初に自作したものに更に若木の枝を追加し、しなりを強くしたものである。思い切り引いて弦を放すと、ぶんと凄い音がするため、全力ではなかなか使えないのが欠点だ。今音を消す工夫を考えている所だが、音を小さくすると威力が減ってしまうので、なかなかに難しい。

群れを追う過程で、犬がどれくらいの距離からの音なら聞き分けるか零香は覚えたので、安全距離はもう分かる。問題なのは、犬が吠え声を使って匠にコミュニケーションを取る生物だと言う事だ。連中ははぐれると、確実に仲間に声で呼びかける。それが不意に途切れたら不審に思って群れが戻ってくるのは確実。つまり、である。犬が迷子になった事に気付かない内に、声を上げられないように仕留めなければならない。神衣を使うべきかと零香は考えた。ここ数日の神衣発動により、爪や左腕の刃の使い方は大分覚えてきた。これを使えば簡単に逃げる兎を切り伏せられるし、まだ実践はしていないが猪だって熊だって確実に仕留められる。これまで漠然と覚えてきた古流武術の様々な構えが、実際に殺し合いを経験した今なら、その戦略的な設計構想からよく分かる。だからこそに、生身の状態では少し荷が勝つかと考えたのだ。だが、零香は頭を振り、その考えを追い払った。此処で神衣を使っては修練の意味がない。しかし、弓を使うのもリスクが小さくない。

結局土壇場で零香は弓を諦め、実家から持ってきた長大なサバイバルナイフを得物として用いる事とした。腰から抜いたナイフの刃を一嘗めすると、弓を枝に引っかけ、そのまま素早く木に登る。熊に襲われた場合、木に登れないと死ぬのだから、これは必須科目だ。そして太い枝を選んで伝い、出来るだけ音を立てないようにしながら木を渡っていく。足跡を解析した結果、零香は知っている。この時間、はぐれる犬が決して少なくない事を。後で合流したりしているのが常なのは、たまに訪れるツキキズ以外彼らの脅威が存在しないからだ。それも、今日で終わりだ。いつもはぐれる斑の犬が、所在なげにふらふらと山の中を歩き始める。しきりに左右を見回して、仲間を捜している。草虎に聞いた話だと、犬は匂いの新旧を区別出来ない。だから、匂いを追って仲間を捜すのは、縄張りであるほど困難になる。しめたと零香は思う。しかし、チャンスはそう長時間続いてくれない。汗が頬を伝うに任せながら、零香はゆっくりベストポジションへ移動する。途中木の実を踏みつぶしかける。心臓が飛び上がるほど驚くが、何とか声を出すのを避ける。抜いたナイフが光を反射し、慌てて角度を変える。今までに一度ミスをし、一度ミスをしかけているが、まだ致命傷にはなっていない。ミスが出た場合、如何にリカバリーできるかが、プロの条件だと草虎は言っていた。零香は唾を飲み息を殺し、枝の上を這い伝う。しばし、犬がぼんやりとし、吠え声を上げようと上をむきかけた瞬間。

枝からフクロウのように音もなく飛び降りた零香が、犬の延髄にナイフを叩き込んでいた。ナイフの刃は延髄を貫通し、喉を突き抜いて、顎の下から顔を出した。更に犬の口を押さえて無理矢理閉じさせる。これはとどめを刺しきれなかった時の処置だ。しばし口を押さえられた野犬は、首の後ろから血を流しつつもがいていたが、やがて動かなくなった。ナイフを引っこ抜く際、兎や蛇を捌いた時よりもずっと重厚な感触があった。

血だらけの手で額の汗を拭った零香は、犬の死体が案外重いのに気付き、嘆息していた。これも元は飼い犬だったのかも知れない。放っておけば保健所に処分されていたのかも知れない。犬はペットとして、人間の最も近くにある存在だ。やはりそれを狩りで仕留めたと言う事は、零香の心を痛めさせた。必要に応じて躊躇無く相手を殺せる、戦士として一人前の境地には、まだまだ零香は遠かった。

皮を剥いで丸焼きにした犬は、あまり美味しくなかった。美味しい時は素直にそういう草虎も、触手で肉を摘んで食べるだけで、何もコメントを残さなかった。だがその一方、零香はとても力が付く気がした。

 

十日目。食後の片づけをした零香は、焚き火の傍らに座って思索を進めた。

次の獲物候補の鹿だが、これは手強い。また、一頭しか仕留められない。というのも、一頭で数日分の食料がまかなえてしまうからである。無駄に殺しをするのは好ましく無いという点で、零香と草虎の意見は一致していた。

北海道にはかなりの数のエゾシカが生息しており、過剰な保護の結果自然破壊の原因となってしまったため(その前は数が減りすぎて困っていた)、今では猟友会による駆除が行われている。一時期は利用策の一環として、ハンバーガーの材料として売り出した事もあった。限定生産品だが、そこそこに評判はよいらしく、ひょっとすると固定のファンがそのうち付くかも知れない。

零香は近辺の山で、四頭の鹿を確認している。連中は野犬の縄張りと重ならないように毎日群れで山を移動しており、しかも用心深い。零香が縄張りに侵入すると敏感に察知し、当分はその辺りには近寄らない。餌を食べるときも必ず一頭以上が見張りに立ち、近づかせてはくれない。目も鼻も敏感で、風上に立とうものなら即座に逃げられる。零香の手製の弓矢で仕留められる近距離に到達するには、相当な工夫が必要だ。その上足が速く、一度逃げられたら再捕捉はまず無理だといって良い。

もう一つ問題があるとしたら、鹿は決して弱い動物ではないと言う事だ。エゾシカにしても同じ事である。角は鋭く強力な武器であるし、足が速いと言うことはその脚力は絶大だと言う事でもある。人間程度が本気で怒った鹿と直面したら、角で串刺しにされるか、足で蹴り砕かれてすぐに死ぬ。草食だからと言って、鹿を侮る事は決して出来ない。仮に近づく事が出来たとしても、反撃にあってあっさり蹴り殺される可能性は決して少なくないのである。人間の肉体能力は、せいぜい二周り小さな狒狒と同等程度でしかない。同じくらいの大きさの動物の中では、最弱と考えて間違いない。零香の肉体能力は此処しばらくの間に著しく向上しているが、それでも絶対的不利を補えるほどではないのである。

ところで、名前が似たエゾカモシカは天然記念物で保護動物だと言う事なので、間違わないように草虎に確認したが、この山に生息しているのは間違いなくエゾシカであるという。保護動物でなければ仕留めていいと言う事にはならないが、それでも安全を期したかった。流石に道内に数少ないエゾカモシカを仕留めてしまったら、自然に対する罪は大きい。狩りは自然を知らないと出来ない。戦いはその場所を知らないと出来ない。二つはよく似ていて、似ているが故に、零香は自然に敬意を払う事を覚えていた。

弓矢は草虎に言われずとも寝る前に自力で改良を重ね、更にバネを強力にした。油断すると引く時にぎりぎりと凄い音がし、引き絞った矢を放つと木の幹に深々と突き刺さる。引くにも細心の注意が必要だ。こうして弓を慎重に扱っていくと、あの淳子が如何に凄い事をしていたのかよく分かる。別に腕が太くなったようには見えないのだが、扱える力は確実に上昇している。当たり所が良ければ、猪だって仕留められるはずだと零香は思った。まあ、北海道に猪は生息しないのだが。どちらにしても、それにはまず絶好のポジションまで接近し、なおかつ此方に気付かれないようにしなくてはならない。鹿が相手の場合は、捕まえてしまえば有効である可能性があるが、勘が鋭い野生の動物がそこまで接近を許してはくれまい。投げつける方法もある。運良くいい場所に当たれば倒せる可能性も高いが、しかしナイフの投擲距離まで近づかせてくれるか。それに腹部か目にでも当たらなければまず倒せまい。弓矢の整備をしながら、零香は狩るべき相手の縄張りや周辺地形を思い浮かべながら、色々と策を練る。しかし、それにも限界がある。狩るべき策が思い当たらずに、ついに頭をかきむしる。

「あー、もー!」

「ははは、レイカは今まで順調に修練を進めているのだし、少し休んでも良いのではないかな?」

「駄目、そんな暇無い。 休むにしても、それは父さんか母さんの状況を少しでも良い方向に動かせてからだよ」

今日はもう十日目だ。出来れば今日中に鹿を倒して、修練の中締めにしておきたい。熊との戦いは現時点では考えていない。確実に力は増してきているが、桁違いのパワーを誇る熊に神衣無しで勝てる自信はまだ無い。鹿を確実に仕留める事が出来てからそれは考える。

忙しいときこそ、順番に一つずつ仕事をこなしていけ。これは父に教わった、数少ない言葉だ。いつも無言で側にいてくれた父が、一片に沢山宿題が出て、困惑しておろおろしている零香に言ってくれた事である。その後零香はいわれたとおり一つずつ宿題を片づけていき、何とか終わらせる事が出来た。終わったときに、父は無言で、その大きな手で零香の頭を撫でてくれた。子供心にも、その手がとても温かくて、力強くて。とても嬉しかった。側で微笑んでくれている母の眼差しも優しかった。

ぎりと唇を噛む。今は感傷に浸っている場合ではないのだ。弓の改良はもう終わっている。体力も精神力も準備万端である。今するのは、悩む事ではない。山を見回って、機会を探す事だ。プランを立てる。まずは鹿のテリトリーを探し、その後は夜闇に閉ざされた山を探索だ。ひょっとすると睡眠中の鹿を奇襲出来るかも知れない。途中、余裕があったら野犬をもう二三頭仕留めて置いてもいい。犬の狩りについては自信がついた。一頭目を倒してから警戒している群れを出し抜いて、昨日二頭目を仕留めたばかりだ。やはり犬の肉は美味しくなかったが、草虎の話によるとアジアの広域で犬食文化は存在していると言うし、調理法によっては美味しく頂けるのかも知れない。どちらにしても、しばらく犬はいい。鹿を仕留める事に、全力を傾ける。ぱんと音を立てて頬を叩くと、零香は立ち上がった。

「わたし、行って来るね」

「うむ。 頑張って来い」

「うん。 仕留められるかは分からないけど、頑張る」

多くの獣の血を啜り、少し硬くなった手で弓をひっつかむと、零香は山へと飛び出す、走り、加速しつつ、最初に目指すは鹿の縄張り。この間確認した所、この時間は、奴らは水飲みをしている可能性がある。木の枝の上から痕跡を見ての判断だから正確かは分からないが、もしいなかったら別を当たるだけの事だ。

見る間に加速し、最大戦速に達する。手にしている、大がかりになってきた木の弓が風切音を立てないように注意しながら、低い態勢で疾走する。やがて、目的地の近くで、木に張り付き、素早く枝へと登り上がる。呼吸を整え、態勢を立て直し、様子を把握せんとした瞬間、リコーダーに息を思いっきり吹き込んだような音、無数の鳥が飛び立つ音が聞こえてきた。瞬間的に悟る。何かあったのだ。この山は私有地である事を皆知っているし、密猟する価値がある動物もいないから、ハンターが入り込んだ可能性は極めて低い。となると、人間ではない可能性が高い。更に近づき、山間に浮き出たような泉に近づく零香の鼓膜を、凶暴な咆吼が殴打した。足を踏み外し、思わず枝から落ちそうになるが、慌てて幹を掴んで態勢を立て直す。嘆息した零香が枝を移動し、泉を見下ろす。其処は、鮮血で真っ赤に染まっていた。

ゴアアアアアアアアアアアアアッ!

轟き渡る熊の咆吼。彼は血みどろの鹿を前足で踏みつけながら、口を血だらけにして勝ち誇っていた。顔の前面には三日月にも見える大きな向かい傷があり、その巨体は血に染まっている。間違いない、こいつが噂のツキキズだ。

倒れている鹿の首はあらぬ方向へねじ曲がり、顔の半分は潰れて肉塊と化している。首に噛みつき、振り回して、更に岩へと叩き付けるツキキズ。足がへし折れ、内臓が飛び出し、頭が千切れ飛び、見る間に鹿の形が失われていく。異常な、過剰な暴力性だ。声も出ない零香の前で、姿を見せた暴君ツキキズは二本足で立ち上がり、勝利の雄叫びを上げた。爪には鹿の内臓の一部が引っかかり、生々しい鮮血が垂れ落ちていた。

ガオアアアアアアアアアアッ!

「……っ!」

あの学校の暴君山崎浩二の、半分意味を為していない罵り声とは違う。どちらかと言えば、これは父のあの咆吼に近い。耳を押さえたのは、それが理由だ。ツキキズの声は乾いていた。体の底から、戦慄が浮かび上がってくる。同時に苛立ちも浮かび上がってくる。此奴の声に動揺した意味が分かったからだ。同時に、無性に腹立たしくなってきた。父を冒涜されているような気がしたのだ。

バリバリと豪快に音を立てて、ツキキズがエゾシカを食べ始める。骨ごとかみ砕いて、肉を引きちぎり、夢中になって少し前まで生きていたものを腹へと納めていく。苛立ちは収まらない。補食活動以上に、此奴の行動は何かいらだたしいのだ。だが同時に、腹の底から何かウズウズしたものが沸き上がってくる。無意識のまま舌なめずりをしている事に、唇が唾に濡れて違和感を覚えるまで零香は気付かない。狐が素早くツキキズの視界の外から歩み寄り、内臓の一部をかっさらって逃げようとした。しかし、あまりにも命知らずな行動であった。瞬間後、彼は巨大な前足に一撃され、岩に叩き付けられてぺちゃんこの肉片になっていた。鋭い。異常なほどの鋭さだ。テレビで見たサバンナの狩りなどでは、大型肉食獣が隙を見せたとき、小型の肉食獣がおこぼれを預かるような光景は良くあった気がする。しかし、大型肉食獣が怒る事はあっても、此処まで過剰な反撃をするのだろうか。零香は全く経験した事がない世界を目の当たりにしている事を知った。ツキキズは悲鳴を上げる暇もなく死んだキタキツネを、無造作に足で押さえて噛みちぎり、二口で飲み込んでしまった。鹿もすぐに形を無くし、跡には血と皮の一部だけが残っていた。

食事を終えてから、徐にツキキズが首を曲げ、木の上にいる零香を見る。そう、零香を見つめた。気付いていたのだ。零香は驚いたが、しかし動揺は不思議と無かった。二つの視線は交錯しあい、火花が散る。無言のまま弓を構える零香。鼻を鳴らしながら、ゆっくり歩み寄ってくるツキキズ。戦うつもりだ。素早く周囲の地形を思い出し、どう戦うかを考え始めた零香に先制するように、ツキキズが突進してきた。

ゴオオオオオオオオ、ガアアアアアアアアアアアアアアアッ!

地鳴りのような声を上げながら突撃してきたツキキズは、そのまま零香がいる木に体当たりする。まるで車が体当たりしたかのような衝撃が、零香の元まで届く。思わず幹にしがみつく零香。それが精一杯で、弓矢を繰って反撃するどころではない。

「っ! 何て力!」

ガルアアアッ!

間髪入れずに、更にツキキズが幹に前足で一撃を入れる。再び激しく揺れる木、木の葉が大量に舞い落ち、零香も危うく足を踏み外しそうになった。神衣を使うかと思った瞬間に、第三撃が来る。木が確実に傾く。殆ど本能的に、零香は相手が第四撃を入れる瞬間を見計らい、枝を蹴って隣の木に飛び移っていた。ツキキズの一撃が、まともに木をへし折ったのは次の瞬間。軋み声を上げながら倒れていく一抱えもある木。反撃に零香が矢を撃ち放つ。鋭い一撃は、見事にツキキズの頬に突き刺さるが、遠目からも分かる。浅い。吠え猛るツキキズは、それをものともせずに、倒れる木を押しのけ、零香のいる木へ突撃した。二本目の木が軋み、唇を噛みながら零香は幹にしがみつく。このままだと、この木もそう長くは持たない。とんでもない凶暴さだ。しかし、やられてばかりではない。速射して、今度は耳の後ろに矢が突き刺さる。近い事、角度が深い事もあり、今度はかなり深く入った。同時にツキキズの突撃が入り、バランスを崩した零香は片足を踏み外し、枝に掴まったものの宙ぶらりんの状態になった。慌てて逆上がりの要領で枝の上に体を持ち上げようとするが、足を上げる瞬間に、ツキキズの太すぎる腕が空を抉っていた。太股に灼熱が走る。

「つっ!」

夢中で太股で枝を挟み込み、体を起こして這い上がる。何とか零香を振り下ろそうと、ツキキズはまた木に突撃を掛けようとした。零香は太股で木の枝を挟んだまま矢立から矢を引っこ抜き、速射して第三撃を浴びせかける。それが瞼の上に見事に突き刺さった。大熊は竿立ちになり、咆吼を上げた。その隙に、零香は木の枝の上で立ち上がり、飛び退いて木を二つ渡り距離を取る。ツキキズは流石に痛いらしく、首を振り振り、矢を必死に抜こうとしていた。押さえていた動悸が爆発する。足も炸裂するように痛みが走った。

「はあっ、はあっ、はあっ!」

押さえようにも、興奮と呼吸の乱れが止まらない。足を見ると、腿をざっくり抉られていた。流れ落ちる血が靴にまで達している。傷の深さは三ミリほどもあるだろう。掠っただけでこの有様だ。こんな深い傷を見たのは、この間の神子相争以来である。足は何とか動くが、だらだらと血は流れ続けている。このままだと、ツキキズに行き先を教えるようなものだ。無言で服の裾を引き裂いて、足を縛る。見る間に茶色の布地が黒くなっていった。強く押さえ、血が零れなくなったのを確認した後、撤退に入る。素早く木の上を渡り、ジグザグに移動しながら草虎のいるログハウスへと戻る。分かってはいたことだが、作戦を立てない限り、神衣を使わなければ確実に勝てない。今の軽い交戦で、それが明らかになった。ダメージもあまり期待出来ない。今の瞼への一撃が眼球へ届いているかも分からないし、他の一撃も致命傷にはほど遠い。暴君の太い腕が、苛立ち紛れに木を殴りつけている。激しい音が、背後から響き続けていた。

 

遠くからツキキズの咆吼が木霊する。木の上で傷をさすりながら、零香は腕組みしていた。下からはまず見えない位置だし、臭いも残していないはずだ。ツキキズは相当に頭が良い熊だが、それでも奇襲を受ける恐れはない。しかし、此方からも打つ手が見あたらない。

今まで零香が弓矢で敵を仕留められたのは、中距離及び近距離の射撃だったからだ。本来の弓の持ち味である遠距離の射撃を行って、見事命中させるほどに零香はまだ弓を使いこなせない。それに、弓矢ではツキキズには勝てない。今の戦いを奴は覚えているはずだ。確実に急所を守りながら、零香を木から叩き落とそうとするだろうし、間合いも見きっているだろう。草虎の話では、当たり所によってはライフル弾だって効かないそうではないか。弓では駄目だ。零香は結論していた。仮に両目を潰す事が出来たとしても、致命傷を与えるまで一体何本の矢を打ち込めばよいと言うのか。十本や二十本で、ツキキズが倒れてくれるとはとても思えない。

「痛っ……」

足を動かしたとき、再び襲ってきた激痛に、零香は眉をひそめた。何とか血は止まったが、まだまだ腿の激痛は引かない。あの後川できれいに洗い、清潔な布でまき直し消毒したから、多分化膿の恐れはない。落とし穴を使う手もある。傷の手当てをしているとき草虎が話してくれた中に、縄文人が猟犬と協力して熊を落とし穴に誘い込んで倒したという説があるとの事であった。落とし穴は確かに手の一つだ。しかし、零香が強くなるために、それでは意味を為さない気もする。あの巨体を落とし込む穴を掘るまでの間、ツキキズが待っていてくれるかも分からない。穴を掘っているときに襲われたら一巻の終わりだ。木の上で膝を抱えて考え込む零香の隣に、いつのまにか草虎が浮かんでいた。

「一つ、面白い事を教えてやろうか、レイカ」

「うん?」

「多分、ツキキズにあの距離まで近づいて生き残ったのは、君が初めてだ」

「見てたの?」

「仮にも少女一人の命を預かっているのだし、水浴びの時以外は無言で監視させて貰っていた。 気分を害したのなら謝る。 すまない」

言い訳がましい一語を付け加える草虎に、ふっと苦笑して零香は軽く小突いた。立ち上がり、場所を変えて考えようとした零香は、何気なく振り返って、あるものに気付いた。それは木の瘤であった。たまたまそう言う形になったのか、或いは何かの人為的な要素が働いたのか。三角錐の形状をしたそれは、妙に零香の心を引きつけた。

「ねえ、草虎」

「うん?」

「ツキキズって、命を賭けて戦っているんだよね」

「そう言う意味なら、レイカも同じだ。 あんな距離まで接近されて、反撃する事が出来たのは、君にもその心構えがあるからだ」

零香が思いついた作戦は、決死の覚悟がないととても出来ないものであった。工夫次第で成功率は幾分か上げられるはずだ。しかし、どちらにしても失敗したら、まず間違いなく死ぬ。上手いタイミングで神衣を発動出来れば助かるかも知れないが、かも知れないの域を超えない。遅れれば死ぬ。

「準備が必要だね。 何とか、時間を稼げると良いんだけど」

「作戦が思いついたのか」

「危険な作戦だけどね。 ……神衣無しで、なおかつ今の戦力で彼奴を倒すには、多分これしかない」

零香は此処最近、獲物を倒しては体の構造を見る事が癖になっていた。ツキキズを倒す事は出来なかったが、しかし体の構造をおぼろげながら把握する事は出来た。やはり奴の弱点は頭だ。それも前ではなく、後頭部。耳の後ろに入った矢が、奴の一番動揺させたのを、零香は見逃さなかった。零香に顔をずっと向け、後ろを見せなかったのにも気付いていた。

「先に、まず野犬を一匹仕留めておく必要があると思う。 後で傷の痛みが一段落したら、行って来るね」

「ほう……?」

「後は、適当な木を探さないと。 ……なに?」

周囲を見回す零香は、自分をじっと見ている草虎に気付いて、小首を傾げた。

「私はアドバイス以上の事は出来ない。 だから、頑張れとしか言えない」

「うん。 それで充分だよ」

掛け値なしに、心底から感謝しながら、零香はそう言った。

 

4,力と知恵と

 

やまびこが、それ即ちツキキズの怒りと化していた。びりびりと響きながら届き来るのは、奴の咆吼ばかりであった。

ツキキズは吠え猛りながら、近くの山を徘徊しているようであった。圧倒的な強さを持つ自信がそうさせるのか、腹がいっぱいだからかは分からない。奴は居場所を隠そうともしていない。どうしてこれであの敏感な鹿を仕留められたのかよく分からないが、ひょっとすると何か意図しての行動という可能性もある。あの遭遇戦で、いちいち最善手を打ってきたツキキズの頭脳を、零香は侮っていない。時々断続的に来る腿の痛みを我慢しながら、零香は森の木々の枝上を駆ける。まず最初に行うのは、囮の獲物を仕留める事だ。

感覚器官をフル回転させて、野犬の群を探す。必ず近くにいるはずだ。普段のルートより微妙にずれた所を探しているのは、仲間を二体失っている上、ツキキズが現れた事を彼らが悟っているからだ。必ずいつもより安全なルートを取るはずと零香は当たりを付けており、時間の無駄を避けるために微妙にずれた場所を探していたのである。その読みは図に当たった。野犬の群は、比較的固まりながら、麓に降りようとしていた。ツキキズがいなくなるまで避難するつもりだろう。犬たちは一様に怯えている。怯えた相手と戦うのは、少しばかり厄介だ。少なくとも、驕った相手と戦うよりはぐっと難しい。しかし、それにはそれに相応しい戦い方がある。狙うは、群れの一番弱い個体だ。ゆっくり樹上から忍び寄っていく。今回は弓矢を武器として使う。少し群れの前に先回りして、気配を消して木の瘤と化し、弓を引き絞る。呼吸を出来るだけ静かにし、神経を研ぎ澄ます。武術で習い覚えた事と、この森で鍛えた感覚とが、完璧とは言わないにしてもかなりの精度で融合している。そしてボスが通り過ぎ、その後ろに従っていた何頭かが通り過ぎた瞬間、零香は矢を放っていた。矢は見事に一頭の脳天を貫き、鋭い悲鳴が上がった。

ギャン! キャンキャンッ!

オオン! アオオオオオオン!

ボスの一鳴きと同時に、くるくると回って苦しむ仲間を置いて、犬たちは一斉に逃げ出す。そう、それで良い。今の彼らは、交戦をするのが好ましくないと考えるはずだ。何しろ戦いになれば、必ずあのツキキズが此方に来る。そうすれば仮に零香に勝てたとしても、その肉を得る事は出来ないし、自分たちがあっさり全滅させられる可能性もある。零香にしても時間はない。何時ツキキズが此処に到達するか分からないし、まだ犬にとどめを刺してはいないのだ。もがいている犬は、真っ白な毛並みの雑種であった。サバイバルナイフを引き抜き、枝から飛び降りざまに首を突き刺す。これは予行演習でもあった。泡を吹いていた犬は大きく痙攣すると、零香の足の下で動かなくなる。中型犬とは言え、十五キロ以上ある、比較的大きな犬だ。そのまま零香は犬を木の上に引っ張り上げ、一息ついた。何とか第一段階は成功だ。急いでこの場を撤退し、次の作戦に移る。第二段階、そして決戦となるその時間は、今日の夜中であった。

 

ツキキズは乾いていた。ツキキズは飢えていた。ツキキズは欲していた。

最強の戦士である彼は、常に敵手を求めていた。最近では悪名が知れ渡り、命知らずの若い熊ですら彼には挑んで来なくなってしまった。人間のハンターに狙われる事も最近は少なくなった。戦える相手が、彼の周囲には殆どいなかったのだ。戦いを骨の髄から愛しているツキキズにとって、それは慢性的な空腹と同じ状況を意味した。

夜闇の山を歩きながら、ツキキズはあの人間の子供を捜す。まだ瞼と耳の後ろがひりひりと痛む。これほどの深手を彼に与えた存在は久しぶりだ。しばらく右目は使い物にならないだろうし、痛みは腹立たしいが、それでも奴と戦いたい。血が騒ぐ。血が踊る。引きちぎってバラバラにして貪り食いたい。暴力を叩き付けて、叩き潰して、肉塊にしてやりたい。原初的な暴力衝動が、ツキキズの中で踊り狂っている。わざわざ吠えて自分をアピールしていたのも、あの子供を呼び寄せるためだった。リベンジを求めているのだろう、俺は此処にいるぞ。さあ出てこい、俺と戦おうではないか。そんな意味が声には籠もっていた。だが、残念ながら、あの子供は現れなかった。何処かツキキズと同じ匂いがしていたのに。悔しくて悲しくて、ツキキズは無意味に木を三本へし折り倒していた。

彼は人間で言えば間違いなく人格破綻者であった。己の暴力衝動を殺す事もなく、ただ暴力にのみ生き、暴力にのみ死す。だがその一方で、何も抱えないその純粋な強さは圧倒的であり、ある意味では美しくさえあった。彼は即ち暴力そのものといって構わない存在であり、その醜さも美しさも全てを内的宇宙に抱え込んでいた。暴力こそが彼の存在であり、それを良しとしていた。人間の価値観で言うなら、何処かとても純粋で、何処までもまっすぐな存在こそ、ツキキズであった。それが血の雨を降らせるという意味では、嫌にシビアで冷酷な現実の存在をも示唆していたが。

陽が落ちて、夜闇が山を覆っていった。諦めきれないツキキズは、まだあの人間の子供を捜して山を彷徨いていた。彼の敏感な鼻に、血の臭いがし始めたのは、その頃であった。木に鼻をこすりつけ、匂いを嗅ぐ。間違いない、爪に残ったかぐわしい香りと同じもの。あの子供の血の臭いだ。思わず興奮に声が漏れるが、しかしすぐに気付く。罠だ。無言で数歩後ずさったツキキズは、慎重に周囲の状況を確認する。匂いは、森の奥へと点々と続いていた。面白い。気配を消したツキキズは、一歩一歩慎重に歩み始める。奴は恐らく、何処かの木の上で待ち伏せている。その高度も大体見当が付く。奴の間合いはもう把握した。恐らく目を狙ってくる事も。だが、それに此方が気付いている事を悟らせてはならない。あくまで隙があるように振る舞いながら、罠に入っているように見せかけながら、逆に狩り出さねばならない。そして、最後には前足の一撃でぺしゃんこにしてやる。骨も潰して、内臓を引きずり出して喰らってやる。その想像にツキキズは、歓喜の声が漏れるのを押さえるのに苦労した。こんなに楽しい戦いは久しぶりだ。

徐々に大胆になってきたツキキズは、それでも油断することなく、奥へ奥へと踏み行っていく。やがて、彼は肉片を見つけた。匂いを嗅ぐと、犬の肉だ。毒も盛られていない。周囲を見回し、奴が待ち伏せ出来る場所が無い事を確認すると、ぺろりと一のみにする。血の臭いには、奴の血の臭いが混じっていた。それがツキキズを更に興奮させた。多分奴は怪我を押して、罠を作るために犬を仕留めたのだ。その分弱っているはずで、木から叩き落とせば即座に殺せる。実に面白い。実に楽しみだ。更に奥へ行くと、また犬の肉が落ちていた。今度は後ろ左足ごと切り落とされた、大きな肉だ。これにも子供の血の臭いが混じっている。慎重に周囲を確認した後、再び一のみにする。まだまだ、乾きは癒されない。メインディッシュはまだか。血に飢えた興奮を感じながら、ツキキズは更に敵地へと踏み込んでいく。

程なく、彼はまた肉片を見つけた。今度は後ろ右足と胴体の半分ほどが大胆に切り取られた肉であり、奴の血の臭いも相変わらず混じっていた。そろそろ仕掛けてくる可能性があると思ったツキキズは、無造作に肉に顔を突っ込むふりをしながら、今まで以上に慎重に辺りの気配を探り、その結果まだ奴はいないと判断した。とっくに何処か遠くへ逃げたのではないかという考えは、ツキキズの頭の中にはない。奴からは、自分と同じ匂いがしたし、怪我を押してまで、わざわざこんな罠を用意しているのだ。奴はいる。必ずいる。そして勝つのはこの俺だ。肉を食いちぎり、骨ごとかみ砕きながら、ツキキズはそう思った。

ゆっくりと進む。闇の中を進む。押し殺した殺気の固まりが練り歩く。気配がないので、巨体にもかかわらず、鳥もリスも気付かない。早く出てこい。早く出てこい。そう念じながら、ツキキズは自身が罠の最深部に到達した事に気付いた。周囲には数本の太い木が立ち並び、その中央に、残った犬の肉が全部纏めて無造作に置かれている。無数の落葉の中、こんもりと肉の塊が置かれている様は、最大限の警戒を呼び起こすに充分だった。無造作に、大胆に肉に歩み寄りながら、ツキキズはさりげなく周囲に視線を配る。そして見つけた。

左斜め前、予想通りの高さに、不自然な瘤がある。血の臭いも、ほんの僅かだが其処から漏れている。なるほど、確かに良い位置だと、ツキキズは感心した。ねらい澄ましたような、完璧な場所だ。最初の一撃はくれてやる。そう言わんばかりに、大胆にツキキズは踏みだし、上半身が無造作に置かれた犬肉に到達した。やはりこれからも、奴の匂いがする。舌なめずりしたツキキズは、あんぐりと肉にかぶりついた。犬の頭部を、ほんの一秒の抵抗もなくかみ砕く。美味なる脳味噌を味わう。そして肉をどかして気付く。その下に、奇妙なものがある事を。それは、人間が身に纏っている布という奴であった。そして、それからは、濃厚な血の臭いがした。

しまった、填められた。上をいかれた。そう気付いたときには、もう遅かった。あれは、木の瘤に偽装したものは、フェイクだ。

そう悟った瞬間、ツキキズの延髄に、今までに感じた事がない、絶望的な激痛が走った。

 

やった。木の頂上付近から、一抱えもある杭を抱えて飛び降り、見事頭を下げていたツキキズの延髄をそれで貫き通した零香は、そう思っていた。

ばらまいた犬の肉には、全て包帯代わりに最初巻いた布をこすりつけ、自身の血の臭いを刷り込んだ。そして奴が把握した間合いに相当する高さの木の瘤に、半分に切ったその一方を巻き付け、予備の着替えを着せておく。そして最後に残った犬の肉片の下に、残り半分を忍ばせておく。自身は一旦水浴びして匂いを消し、明らかに奴が把握している間合いの外、木の高みへと登り上がり、そこで待ち伏せる。

得物に選んだのは、わざわざ太い枝から切り出した杭。それを抱えて、自分の体重を付け加え、奴の延髄を一撃の下貫き通す。危険な行動だが、ツキキズだって紙一重の危険な駆け引きをしながら戦っているのだ。自分だけ安全な場所で戦おうなどと言うのは無粋極まるし、何より確実ではない。普段は出来るだけ避けるべき事なのだが、格上の相手を倒すには、一か八かの賭けも必要になってくる。ただし、賭けと言っても、事前の準備は徹底的に行った。何度も急降下爆撃の練習は重ねたし、イメージトレーニングも散々行った。ツキキズが罠に踏み込んできたときの角度や、その際の爆撃角度も練り込んだ。積もった多量の落ち葉と、強くなった自分の肉体が、作戦を可能にしてくれた。しかし、アクシデントが無かったわけではない。長さ一メートル近い大杭は、確かに奴の延髄に突き刺さった。しかし、まだ浅い。力のかかり方がまずかったか、僅かに骨に当たってずれたか、延髄を傷付けるも貫通完全破壊するには至らなかった。

ご、が、グギャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!

白目を剥きながら、ツキキズが激しく体を振り、走り出す。死のロデオの始まりだ。腿を奴の首筋に絡みつかせ、刺さらなかった分を揺れすらも利用しながら、更に奥へ奥へと押し込んでいく。熊がこんなに走るのが速いとは、零香は知らなかった。凄まじい勢いで、木々が後ろへとかっ飛んでいく。激しい揺れに、手が滑りそうだ。零香は思わず悪態を付く。

「こ……のっ!」

ギャアアアオオオオオオオオオオオオッ!

猛烈な勢いで、ツキキズが木に突進した。激しい衝撃に、思わず前に飛ばされそうになるが、杭を支えに何とか凌ぐ。凌ぐ際に、更に杭で延髄を傷付けたのはもはや余技だ。今度は竿立ちになったツキキズが、激しく首を振る。体を立てて耐えようとするが、舌打ちして飛び降りたのは他でもない、そのままツキキズが後ろに倒れ込んだからだ。何とか飛び退こうとして、降ってきた右前足に弾かれ、数メートル飛ばされる。葉の海を転がりながら、弓矢を掴むのが精一杯。激しく木に背中から叩き付けられる。鋭敏になった聴覚は、杭が奴の首から抜けていない事を零香に教えてくれる。

右二の腕に、焼け付くような痛みが走っている。今の一撃で、ツキキズの巨大な爪が掠ったのだ。腿の痛みに比べればどうという事もないが、しかし強烈にいたい。何とか目を開けた零香は、暴れ狂うツキキズの狂態を見つけた。白目を剥いたツキキズは、涎をまき散らし、鮮血を振りこぼしながら、辺りをめったやたらに殴打している。あれに少しでも巻き込まれたら終わりだ。荒い呼吸を整えながら、弓に矢をつがえ、痛む背中と腕と腿を叱咤しながら立ち上がる。膝が笑っている。しっかりしろ銀月零香。自身に言い聞かせながら、ツキキズが振り向いた瞬間、奴の開いている左目を貫いていた。

ゴギャアアアアアアアアアアアッ! ギギャアアアアアアアアアアッ!

今までになく深く突き刺さった矢に、ツキキズの声に悲鳴が混じる。奴はそのまま、零香へと最大速度で突撃してきた。しかし、目が見えない狂獣だ。さっと木の後ろ側に回り込んだ零香に気づけず、傷ついている頭をしこたま木に叩き付けてしまう。だが、零香も木から離れるほどの余裕はなく、木を伝って襲いかかった衝撃にはじき飛ばされ、枯れ葉の中へと投げ出されていた。きゃあっとか、そういう可愛い悲鳴は出てこない。

「くあっ!」

オオオオオオオオオッ!

再び、ツキキズが腕を振り、何度もそれが空を切る。後一撃、後一撃何か致命傷を与えないと、此奴は死なない、止まらない。痛む体中。立ち上がれない。腿の傷は開いてしまっている。後少し、後少し力が足りない。

側にあった小さな木まで這っていき、何とかそれを杖に立ち上がる。父さん、母さん、そう念じる。助けるのだ。そのために強くなるのだ。もう弱いが故に、何も出来ない状況はうんざりだ。殺してやる、殺してやる、殺してやる!何もかも、ぶっ殺してやる!今までにない凶暴な思念が、脳裏を支配する。それは言葉すら無くしていき、破壊の形だけをとっていき、やがて零香の目に今までにない濃厚な殺気が灯った。矢をつがえる。弓を構える。足の震えを必死に殺す。ツキキズが、此方に振り向く。首から顔から目からだらだらと血を流しながら、吠え猛る。どちらももう、殆ど余力は残していない。手を誤った方が死ぬ。大きく息を吸い込むと、零香は構える。余裕を与えぬとばかりに、ツキキズが突撃してきた。前足が振り上げられる。振り下ろされたそれが、木っ端微塵に零香の背後にあった細木を砕く。その後ろ首筋に、矢が突き刺さった。

その瞬間、前周り受け身の要領で、前に出た零香が、奴の前足をかいくぐったのだ。そのまま零香は、無防備に晒された奴の首筋に、容赦なき一撃を叩き込む。思わず動きを止めるツキキズ。零香は奴の体に飛びつくと、最後の力を振り絞り、全身の筋肉を総動員して、杭を引き抜いていた。

断末魔は上がらなかった。噴水のように血が吹き上がる中、真っ赤に染まった零香は、立ち上がったまま動きを止めたツキキズの背中を見ていた。最期の一瞬、此奴は零香を立ち上がる事で振り落とした。万秒にも思える空白の時間の後、奴はそのまま後ろに倒れ込む。だが、零香が投げ出された場所に、僅かに腕も頭も届かなかった。投げ出した勢いが強すぎたのだ。舌をだらりと投げ出し、奴の心臓は止まった。

文字通りの熊殺しとなった零香は、大の字に枯れ葉に寝そべりながら、痛みに蝕まれた全身に思いを寄せていた。痛い。しかしこれは、死闘の証明であり、強くなった証明でもある。思わず笑いが喉の奥から零れてくる。やっと、やっと追いついた。これで戦える。この感覚だ。殺し合いを行い、それを制するためには、この感覚が必要だったのだ。言葉ですら表現出来ない、圧倒的な心の中の暴力性を、否定するのではなく受け入れる。そしてそれと共存する事によって、最大限の力を発揮する。頭の中で分かっていた事が、やっと体でも分かった。

「ありがとう……ツキキズ」

一時間以上も横たわっていた零香は、立ち上がり、サバイバルナイフを抜く。そして、ツキキズの胸を開き、大きな心臓を摘出した。血管が絡みついているそれを力任せに引っ張り出し、まだ熱い筋肉の固まりをしばし空に翳した後、口に運んだ。

熱い肉が、これほど旨いとは思わなかった。夢中になって零香は、生の心臓を貪った。構う事はない、全身もう血まみれだ。眼鏡も、手足も、顔も血だらけだ。力が体の中に入ってくる。暴君ツキキズの強さが、強さだけだった存在の圧倒的な暴力が、自分のものになっていく。それが実感出来る。思わず我を忘れ、弓もナイフも放り出して、零香は大人の拳よりも大きな肉塊を噛み、千切り、喉に押し込み、胃へと放り込んだ。ぶしゅりぶしゅりと血が零れる。呼吸困難になりそうだが、気にしない。美味しい、美味しい美味しい美味しい美味しい!今まで食べた何よりも!素晴らしい!見る間に心臓は、全て無くなってしまった。

胸をこじ開けたツキキズの前に立つと、零香は一礼した。そして、天に向け、咆吼した。森の王の力を受け継いだ事を示すように。

この瞬間、北海道の森にて、戦士が一人前になったのである。エゾヒグマ最強の戦士を破ったその者の名は、銀月零香と言った。

 

零香は静かな気分だった。一日がかりでツキキズの体を解体して、肉をばらし、少しずつ草虎とわけながら食べる。分厚い皮下脂肪と皮、それに消化器系の内臓が随分多くあったとは言え、それでも肉は百キロ以上もあり、すぐに食べきれる量ではなかった。食べられない分は、墓にして綺麗に埋め、上に苗木を植えた。どちらにしても、これでミッションは終わった。後は綺麗に後かたづけをして帰るだけである。傷の治りは速くなっている。腕の傷も足の傷も、翌朝には再び止血していた。

川できれいに血を洗い落とす。傷を庇いながら、丁寧に体中を綺麗にしていく。滑らかに、しなやかに強くなった体の上で指を走らせると、溝にぶつかる。ツキキズに付けられた傷だ。もう血は止まっているとは言え、深い。跡が残るかも知れない。しかしそれは、零香にとっては勲章だった。綺麗な方の服に着替えて戻ると、器用に触手を使って肉を炙りながら草虎が食べていた。この存在、食べると決めたら結構底なしに食べる。ツキキズの肉も、一日でもう十キロ以上は平らげているはずである。排泄はどうしているのだろうかと、ふと零香は気になった。零香は今までにないほど肉を食べたが、それでも三キロも減らせてはいない。

「さっぱりしたか?」

「うん。 何だか傷の治りがとても速くて、全然染みなかったよ」

「神衣を使っている影響だ。 今後は悪い影響も出てくるだろうな」

「構わないよ。 良い事だけで済むわけがないって、知っているから」

さっぱりした服で、ストレッチを始める。当分の食料は必要ない。あまった肉は腐る前にどうにかしたい所だが、流石に百キロ近い肉を平らげるのは無理だ。思案している零香に、草虎は尻尾を僅かに反らしながら、逆立ちするような態勢で言う。

「肉が無駄になるのがもったいないか?」

「うん。 ツキキズは、正面から全力で戦った相手だし、ね。 腐らせてしまうのは可哀想だよ。 でも、幾ら何でも、こんなに沢山は食べられないし」

「ふむ、ならば私が何とかしよう。 神使達と分ければ、多分腐らせる前に片づける事が出来るだろう。 レイカの分だけ残して、此方で空間転送しておく」

「くうかんてんそう?」

聞き慣れない言葉に問い返すと、草虎はきちんと応えてくれる。こういう所、草虎はとても律儀で紳士的だ。

「別の場所に移動させると言う事だ。 元々神子相争の際に魂を転送しているように、我々はこれを得意としているのだ。 さあ、気にせず、君は外で体を鍛えてくるといい」

「うん、ありがとう。 そうしてくるよ」

まだ少し帰還の予定日まで時間はある。寝ていても良いが、そんな気はさらさら無い。ぐんぐん上がりつつある肉体能力を制御出来るように、可能な限り山を走り回るつもりであった。

体が軽い。落ち葉を蹴立てて走る零香の体は、羽か綿か、冗談かと思えるほどに軽い。そして、臭いも音も、今までよりずっとよく分かる。神衣を付けているときほどではないが、確実に実力が上がっているのが実感出来る。山を走り回る。枝を蹴って、樹上を駆け回る。山の中であるというのに、もう零香の足は、中学生女子の短距離世界記録と並ぶほどの速度をたたき出していた。

 

最終日前日。零香は帰るための準備をしていた。名残惜しいこの山は、零香のもう一つのふるさととなった。もし許されるのなら、またいつか此処で修行をしたいものだ。木々の配置、岩の配置、動物の生息域、全てを覚えた。此処は零香の庭だ。その気になれば、もう此処で暮らしていく事も出来る。しかし、それは出来ない。苦しみ続けている父を放ってはおけない。

顧問弁護士に頼んで、学校での旅行だとごまかして貰ってはある。しかし、それだとしても、父をあまり長期間放っておく訳にもいかない。

そういえば、パジャマなど半月以上着ていないにもかかわらず、全然疲労がない。寝袋の心地が良かったのではない。零香はこの地に順応しきっていたのである。傷の治り具合を確かめている零香に、咳払いの声を草虎が掛けた。

「すまない、こんな時間だが」

「神子相争?」

「ああ、そうだ。 今回はどうする?」

零香の顔に、不敵な笑みが灯る。今までとはもう違う。まだ術は使えないが、しかしもう同じ土俵には立った。答えなど、とうに決まっている。

「勿論、参加するよ」

 

5,初勝利、そして……

 

枯湖に降り立った零香は、自身が神衣に包まれている事を確認すると、すぐにその場を飛び退いた。もう実戦で神衣を付けて走るのも全く問題がない。まだまだ神衣の力の二割も引き出せていないのはよく分かるが、取り合えず今の実力に充分な力は引き出せる。

周囲の光景は以前、最初に神子相争に挑んだときのものとよく似ている。精気のない地面に立ち並ぶ、廃ビルらしき無数の建物。どんよりと曇り果てた空に、凍てつくような空気。素早く側のビルに走り寄ると、壁を背に目を閉じ、周囲の気配を伺う。目を閉じ、呼吸を落ち着けて。ツキキズとの死闘を制した自信は、確実に零香の成長に寄与していた。

「……。 !」

目を見開いた零香が再度飛び退くのと、激しい切断音が響くのは同時であった。態勢を低くして、摺り足で後退する零香の眼前で、ビルの壁に鋭い傷が横一文字に走っていた。違う、これは隠密狙撃型の青山淳子の技ではない。草虎の話に寄ると、玄武の神子は防御重視カウンター型、ほむらの次の朱雀の神子は広域爆撃殲滅型という話だから、どちらも恐らくは違うだろう。となると残るは一人。黄龍の神子だ。

遠くでステップ音がするのと、殺気が至近に出現するのはほぼ同時。速い。殆ど無意識下で腕を上げ、左腕についている刃で、突き出された何かを防御する。激しい火花が散るが、振り向くともう其処に相手はいない。今の感触から言って、突き出されたのは短めの刃物だ。強度は左腕についているものよりもぐっと劣るが、しかし速い。摺り足でじりじりと下がりつつ、零香はビルの中へ逃げ込む。辺りには雑然とコンクリの破片や何かの残骸が散らばっていて、零香の読み通りなら、此処の方が遙かに戦いやすい。態勢を低くして感覚を研ぎ澄ます零香。正確な距離は分からないが、敵が遠くで停止した。そう、やはり間違いない。奴は視認不可能なほどの速さで、一撃離脱攻撃を仕掛けてきていたのだ。武器はナイフより大きく、刀よりは小さな刃物だろう。さっき壁に残っていた亀裂から言っても、このビルを一撃粉砕するほどの攻撃能力はないみたいだから、やはりこういう狭い所で戦うに限る。

構えたままの零香、動かない敵。膠着状態が続く。この様子から言って、今回は零香とこの子だけのようだし、じっくり勝負出来る。別のビルに少しずつ移って奇襲する事も一瞬考えたが、このビルから出る事はあまり好ましくない。狩りで学んだのは、忍耐の大切さだ。零香は忍耐する。我慢する。やがて、とうとう相手の子が根負けした。素早く動き始めたのだ。速すぎて気配が追えない。目を閉じた零香は、ゆっくり呼吸を整えた。此処に入ってきたら、後は如何にして逃がさないかだ。別の空間に出る方法は、硝子がはまっていない窓や空洞になっているドア、それに階段などがある。其方へ向かった際の対応をいちいち吟味していく零香の神衣の耳が、ぴくりと動いた。

黄色い影が、窓の一つから飛び込んでくる。速い、速いが追い切れる。この狭い空間で最大速度を出すのがどれほどの愚行か、良く知っているのだろう。間を詰める零香と、素早くサイドステップしながら円周移動をして後ろに回り込もうとする黄龍の神子。動きそのものは、やはり向こうが速い。真後ろから、殺気が飛んでくる。振り向きざまに、左腕の刃を一閃、一撃目を弾く。そして、振り下ろされた二撃目を、右手で掴んで受け止めた。鋭い刃と、肉厚の爪がきりきりと摩擦音を立てる。至近から顔を合わせて、零香は初撃と二撃が殆ど間を置かなかった理由を理解した。

黄龍の神子は、ツインテールの女の子だった。見た目胸の上部と足下を重点的に、黄色い鱗状の鎧で覆い、頭の上半分と後頭部を龍をかたどったらしい兜で守っている。左右に張り出している小さな角が特徴的だ。靴にも羽のような意匠が凝らしてある。彼女は両手に剣を持っていて、鋭く鈍い光を放っていた。見た事がある武器だ。そう、父に武器博物館に連れて行かれたときに見た。確か、双剣という奴だ。引く所を詰める。詰めてきたら流す。力は此方が遙かに上だが、動作速度は向こうが速い。掴まれていない右の双剣で何度と無くアタックを掛けてくるが、大振りに成らざるを得ないため、比較的余裕に左手の刀でガード出来る。膠着状態から逃れようと、双方あの手この手を尽くす中、至近から神子に顔を合わせている零香はいう。

「わたし、白虎神子の銀月零香。 貴方は?」

「あたしは、輝山由紀。 多分、華山マキって名前でなら、分かるんじゃない?」

「ああ、なるほど! 何処かで見たことあると、思ったっ!」

華山マキと言えば、今売り出し中のチャイドルの名前だ。歌唱力とルックスが売りの急成長株で、人気は中の上。確かに歌が上手いだけあり、鈴を転がすような声だ。勿論零香もテレビで見た事がある。しかし、実際に見るマキ、いや由紀はテレビの印象とは随分違う。テレビの由紀は、頭が少し弱い可愛い子という印象だが、眼前にいる本人はかなりしっかりした雰囲気を持っている。やはりアレは虚構なのだなと思いつつ、壁に押しつけるべく、力任せに零香が一歩踏み出す。そのまま右手を刃の上で滑らせ、柄へと一気に走らせる。鍔ごと手を掴むつもりなのだ。押さえ込んでしまえば零香の勝ちだ。体の一部でも掴んでしまえば、もうパワーの差から言っても確実に勝てる。対し由紀は左双剣を諦め、バックステップして間合いから逃れようとし、零香が今のタイミングでけり込んだコンクリの破片に頬を掠られて体勢を崩す。流石に速い。顔面を潰すつもりでけり込んだのだが。むしり取った双剣を掴んだまま、零香は上から被せ込むようにして踵落としを見舞う。はじけ飛ぶように飛びずさった由紀が、壁に強か背中を叩き付けるのと、踵落としが床を強打し、ビルを揺らすのはほぼ同時。そのままとどめを刺そうと突撃する零香、その肩に苦し紛れに由紀が投げつけた右双剣が突き刺さる。眉をひそめながらも、全力で零香はチャージを掛け、轟音と共にビルが揺れ、壁が抜けた。

由紀をサンドイッチにする形で、脆くなっている壁を体当たりでぶち抜いた零香。砕けた壁に混じり激しくもんどり打ち転がるが、ビルの外で何とか自力で体を起こす。ひしゃげた双剣を肩から引き抜き捨てる。鮮血が吹き出す。だが、まだまだ耐えられる。黄龍の神子はと言うと、いない。今ので相当なダメージを与えたはずだが。肩を押さえながら辺りを見回す零香の、影が少し大きくなる。振り仰ぐような愚行はしない。横っ飛びに跳ね飛ぶが、脇を斬られて少し血がしぶく。今までからは考えられないほどの重い一撃だ。何か術を使ったか。上空から飛び降りざまに一撃を見舞ってきた由紀は、まるで体重が数トンもあるように地面に小さなへこみを作っていて、反動で一瞬からだが動かせなくなるようであった。跳ね起きる零香。剣を放棄して飛び退き、印を切り、新しい剣を作り出す由紀。零香の傷は決して浅くないが、由紀の鎧は露骨にひしゃげ、口からは血の糸が引いている。ダメージは向こうが大きい。しかし、戦場地形的には向こうが有利になった。何しろ此処は、広いお外だ。

「はあ、はあっ、はあっ!」

「ふう、ふう……。 行くよ。 悪いけど、わたしが勝たせて貰うからね」

「そうは、いかないんだから! 負けない、あたし負けないっ!」

零香に剣先を向けると、由紀は叫ぶ。向こうも背負うものがあるのは当然の事だ。零香はそれを踏みにじって先に進まなければならない。本来なら、断腸の思いでの決断が必要になる事だ。しかし、悩む時間はもう終わった。まだ掴んでいた双剣を捨てると、零香は低く腰だめする。由紀がかき消える。また外に出た以上(零香としても、チャージがあれほど威力を発揮するとは思わなかったのだ)、相手にとっては有利な戦場になる。しかし、走り回ればあの怪我である以上、有利とは言えない。体力をドブに捨てる事になる。速さを売りに、短期決戦に持ち込むしかないはずだ。今の超重量攻撃を仕掛けてくるか、或いは急所を狙ってくるか。何にしても、零香が取る策は一つだけだ。

一撃、一撃、一撃。絶え間なく一撃が飛んでくる。腕が切り裂かれ、腿が斬られ、肩の傷をもう一撃抉られる。零香は刻まれながらも、腕を上げて急所をガードしながら、目を閉じ、全神経を集中する。牽制の攻撃は全て無視する。狙うは、必殺の一撃を掛けてきた瞬間だ。この間ツキキズに上空からの爆撃を仕掛けてよく分かったが、ああいう一撃こそが最大限の隙を産む。ただでさえ薄い装甲の上から大ダメージを喰った由紀がとる手は、牽制の末に本命の攻撃を仕掛け、短期決戦で零香を仕留める以外にない。それにしても、神子の攻撃を受けてみてよく分かるが、白虎神衣の装甲は思いの外優秀だ。この分なら、実戦を重ねていけば、銃弾くらいならものともしないレベルには達しそうである。由紀の動きが、徐々に鈍くなってくる。だが、それが攻撃を誘ってのブラフだと、零香は看破した。ガードは崩さない。業を煮やした輝山は、零香の後ろで崩れかけたビル壁を蹴ってたかだかと跳躍、斜め上からチャージを掛けてきた。

「はあああああああああああああーっ!」

速い。避けきれない。振り向きざまに零香は悟る。だから、もう回避行動は取らない。体の中心点から、奴の攻撃を逸らすだけに止める。双剣の一撃が、零香の脇腹に突き刺さり、肋骨の一本を削り取りながら体を貫通し、零香自身を地面に縫い止める。凄まじいまでに重い一撃だった。瞬間的な攻撃力だけなら、零香の素のパワーを凌いでいる。だが、勝負は、零香の勝ちだった。

零香を貫き、着地して数歩たたらを踏んだ由紀が、前のめりに倒れ込む。血だまりが見る間に広がっていく。今の交錯の瞬間、脇腹に一撃をくれてやった代わりに、左腕の刃で脇から胸にかけて深々切り裂いたのだ。相手が速かった分、威力は累乗的に増した。感触からして、肋骨を砕きながら動脈と肺を傷付けている。昆虫採集状態から脱出すべく、深く突き刺さっている双剣を引き抜く。刃を抜くたびに、体を千切られるような痛みが走る。

「ぐっ、うっ、くうっ!」

冷や汗を流しながら、どうにか呪わしい虫ピンもとい剣を引き抜き放り捨て立ち上がると、ツキキズとの戦いで見たような大量の血がこぼれ落ちた。意識が飛びそうなほどに痛い。零香もふらつき、折角立ち上がったのに片膝を付いていた。神衣が見る間に朱に染まっていく。まずい。勝ったには勝ったが、こちらも致命傷だ。多分今の一撃は、肋骨の一部が、動脈を傷付けている。力任せの処置が傷を更に拡大してしまったらしい。次はもっと上手くやらねばならない。

虚ろな目で、地面に仰向けに倒れた由紀は空を見上げていた。もうとどめを刺す必要も無さそうだった。意識が薄れていくのは此方も同じだが、向こうはもうそう言うレベルではない。やがて、光に包まれ、由紀が消えていった。零香も淳子に倒されたとき、こんな風に消えていったのかと、うすぼんやりと考えた。

空から、紅色の、六角形の固まりがゆっくり降りてきた。輝きながら紅の光を放つそれは、零香の胸元で止まる。これが幸片か。勝利の、血みどろの勝利の証を確かに掴むと、零香は前のめりに倒れた。そして意識を失った。

 

意識が戻ると、其処は山だった。起きあがる零香の手には何も残っていない。だが、草虎の台詞が、彼女の勝利を確信させてくれた。

「初勝利おめでとう。 初戦から半月で勝利というのは、平均より若干速い。 誇って構わないぞ」

「うん……」

「早速だが、幸片について説明しておこう」

複雑な零香の気持ちを察してか、敢えて草虎は技術的な話を淡々と行った。下手に慰められるよりも、零香にはその方が有り難かった。

「幸片は以前も説明したが、自分で意識的に使える幸運だ。 使う方法は簡単で、誰々を幸福にしたいと思ってから、分量を指定するだけでいい。 術式に必要な呪文はもう白神輪に仕込んであるから、念じるだけで使える。 また、特色として、取得した幸片は蓄積されていく。 大量に使えば使うほど、念じた相手に大きく確実な幸運をもたらす事が可能だ。 ただ、一つ注意点がある」

「? それはなに?」

「うむ。 短期的に見て、短絡的に幸運とは思えぬ結果が出ると言う事もある。 あくまで最終長期的に、客観的に幸運な結果が訪れるようになっているためだ。 場合によっては、不幸としか思えぬ事が起こる可能性もあるが、長期的に見れば良い事しか起こらないから、安心していい。 また、幸せが客観的なものである以上、他の人間に対する不幸に変ずる場合もある」

零香が小首を傾げたので、草虎はかみ砕いて簡単に説明し直してくれた。要は、長い目で見た場合の幸せが来ると言う事だ。草虎は信頼出来る。しかし、今の説明を聞く限り、幸片は安易な代物ではない。零香は最初に誰に使うかは決めていた。しかしいざ使うとなると、尻込みに近い感情も産まれる。頭を振り、頬を叩いて弱気な自分を追い出す。覚悟しろ、覚悟を決めろ。零香は白神輪に触れ、念じる。弱さをねじ伏せるように。

(助けて。 助けて。 父さんを助けて……!)

白神輪が輝き始める。零香は得た力が吸われている事を感じ、冷や汗を流す。

(父さんを、不幸から救って!)

山に白い輝きが満ち、すぐに消えていった。膝から地面に崩れ臥した零香は、大きく肩で息を付きながら思う。手応えはあった。何かの契機は起こってくれると思う。だけど、不安だった。服の胸元をぎゅっと掴む零香の肩を、草虎が優しく叩いた。

「大丈夫。 君の努力と、父の強さを信じろ」

残ったツキキズの肉が焼ける匂いが、零香の鼻に届いた。気を利かせて、草虎が焼いて置いてくれたものであった。

 

6,遭遇者

 

時間通りに迎えに来たお爺さんと待ち合わせして、タクシーに乗って、空港について。飛行機で飛んで、電車を乗り継いで。行きよりは気分が楽になったが、それでも草虎と一緒に帰りながら、零香はまだまだ余裕があるとは言えない状態だった。

まず第一に、始めて人に手を掛けた。殺しの感触は(本当に殺していないとしても)、後になれば成る程手の中で大きくなっている。それは血だらけで、いい匂いがして、吐き気を伴って、実に心地よかった。今までに味わった事のない巨大すぎる感覚に、幼い零香は安易に平静ではいられなかった。背筋がぞくぞくする。やはり人間を殺した感触は、動物を殺した感触とは違った。狩りの過程で様々な命を奪ったのがクッションにはなっていたが、それがなければ確実に吐き戻していただろう。

何個目かの駅を乗り継ぐ。後一個電車を乗り継げば、家がある街までたどり着く。長い旅であったが、明日からはまた新しい日常が始まる。それは新しい戦いの始まりをも意味する。それにしても、このターミナルは広くて、骨が折れる。幾つか目の曲がり角を通り過ぎ、時刻表を見つけた零香の耳に、年老いた声が届いたのはその時であった。

「おや? お嬢ちゃんは」

「え?」

振り向いた零香は、枯れ木のような老人を見つけた。和装の翁で、節くれた杖をついていて、白く長い髭を顎下に蓄えている。何処かで見たような気がする。ぼそりと草虎が呟いた。

「かなりの使い手だな。 老いながら衰えず、むしろ錬磨を成功させている」

「あ……ひょっとして、武月せんせい!?」

「おお、そうじゃそうじゃ。 儂の名を知っていると言う事は、どうやら間違いないようだの。 安心したぞ、零香ちゃん。 それにしても大きく、それに強うなったな。 山ごもりでもしたのか? 狼か熊がいるのかと思うたぞ」

にこにこと笑うお爺さんは、零香の父の師匠で、名は武月狼次郎(たけつきろうじろう)という。苦笑しながら、零香は別に外観は出発前とそう変わっていないのに、と思った。少し思考してみると、武月なりの、子供に対する褒め言葉かとも取れる。

話によると武月はその道では半ば伝説になっているとか言う、凄腕の武術家だ。もっと零香が小さな時には、父の道場によく遊びに来ていた人だ。父の修行の合間に、零香もよく遊んで貰った。好色だという噂で、六十過ぎの時に二十そこそこの女性と関係したとかしないとか。でも、母にも父にも節度ある態度で接していたし、零香の知る限りきちんと理性を持った大人の武術家である。今は何処かの山に、自分の道場を持ち、後進の育成に務めているという。懐かしい顔に、思わず零香にも笑顔が戻る。

「武月せんせい、どうしてこんな所に?」

「なに、久しぶりに道場が暇になったのでな、ぶらりと若者の街とやらを見て回って、その帰りだ。 零香ちゃん、お父さんは元気にしておるかな? まあ、あの林蔵の事だ、殺されても死ぬような事は……」

零香の笑顔が凍り付く。当然の話だ。敏感に事態を悟った狼次郎は、すっと目を細めた。老武術家の、錬磨されきった気配が周囲に満ちた。

「すまぬ。 何か、あったのじゃな?」

「はい……実は……」

これも、幸片の導きかも知れないと、沸き上がる感情の中思った。僅かに零れた涙を拭うと、零香は父の恩師に、父が被った不幸と、その後の事態を、神子相争の事を上手くごまかしながら話し始めたのであった。

 

(続)