白虎新生

 

序、余剰品

 

大きな壺が其処にはあった。高さは雲に届くがごとく、幅は琵琶の湖と張り合うほども。物質が存在する世界とは別の、精神によって構成される薄暗い世界に、その壺は鎮座していた。薄黄色い壺の表面には、原始的で単純な線模様がどこまでも刻まれ、どの角度から見ても飽きが来ない。足の部分は四本、大昔の(鼎)のように曲線を描いて下に突きだしており、それぞれ赤、蒼、黒、白に塗装され、巨大な何かに鎮座していた。壺の周囲には光の塊が飛び交い、守るように愛でるように周囲を行き交っていた。

壺には、遙か上から何か光るものが、絶え間なく注がれている。液体と言うよりは、砂時計の内容物に近い。音もなく降ってくるそれの太さは一定ではなく、時に太く、時に細く。ほんの一瞬だけ途切れる事もあった。

壺が乗っている何かが、長く大きな首をもたげる。巨大な円盤状のそれには、蛇のような首がついていた。いや、否。首が前後に二つあり、一つは亀のような姿であり、今ひとつは長く蛇のような姿をしていた。全体的に暗緑色で、所々ははっきりと黒い。蛇のような頭と、亀のような頭が、同時に言葉を発する。

「おう、わざわざここに来るとは珍しいではないか。 そういえば、そろそろ神子が交代の時であったかな、白虎よ」

「うぬ。 故に少しだけ、此処に来てみた。 汝の所の神子はまた、今回も晩成型のようだな。 神使がぼやいておったぞ」

「かかか、それはいつものことよ」

二つの首が視線を向ける先に、闇より溶けるようにして、巨大な虎が姿を見せる。(壺)より一回り小さいが、それでも途方もない巨大さだ。白い体毛を持つ、凶暴さよりも高貴さを伺わせる堂々たる歩みは、何もない空間を確かに踏みしめて、一歩一歩「壺」に近づいてくる。やがて虎は歩みを止め、腰を落として休む態勢を取ると、光注ぎ続ける壺を見上げた。壺の遙か上には、銀河のような光の渦があり、砂粒のような光は其処から生じては落ちてきている。

「何時になったら、この壺に充たされる幸片が無くなるのだろうな」

「……それは、人類という種次第だろう」

「玄武よ。 汝はそれでよいのか? 我は最近、少なからず苛立ちを覚えるようになってきた」

「よい、よい。 よいではないか、白虎よ。 生き物の進化には長き時がかかる。 人もその例外であろうか、いやそうではあるまいて」

わざわざ反語を使ってのんびりとした口調で喋る玄武に苦笑すると、猫のような動作で顔を洗い、白虎は再び天を仰ぐ。

幸片と呼ばれた光の粒は、その瞬間にも途切れることなく、延々と降り続けていた。

 

1、奈落の底

 

布団の中で、少女が震えていた。寒いからではない。布団は充分に厚い。怖いからではない。部屋の蛍光灯は切れる様子もない。

悲しいからだ。

再び、あの声が階下から響き来る。地響きのような、爆発音のような、あの音も。声を飲み込み、少女は枕に顔を埋め、必死に頭を押さえる。音を発している人の悲しみを、少女は良く知っている。だから耳を塞ぎたくないのだ。だからこそに、自分自身も辛いのだ。

大きな瞳から涙がこぼれる。少女は他人のために泣く事が出来る人種だった。家族のためにも泣く事が出来る人種だった。だが、優しいと言う事が、常に良い方向に作用するわけではない。冷酷な人間であれば、むしろこの状況は楽になれたかも知れない。

涙に濡れた目を拭うと、少女は眼鏡を掛けて、白と青のストライプのパジャマのまま部屋を出て、階段を下りる。広い階段の照明に照らされるのは、僅かに銀色が入った、五センチほどの長さに切りそろえたショートヘア。生まれつき髪だけ色素が薄くて、こんな妙な色になっているのだ。音もなく少女は階段を下り追え、硝子の入った戸を開けると、外に飛び出した。屋敷の外には、月明かりが煌々と降り注ぎ、辺りを幻想的なダークブルーに照らしていた。

竹林に囲まれたその屋敷は、古典的とも言えるほどに渋く使い込まれた佇まいを、月明かりの中見せつけていた。その中より、殴打音が響く。破砕音が響く。寝ていた鳥が驚いて逃げ出し、人のものとも思えぬ咆吼が竹林に響き渡った。振り返り、その声が響き来るもとである離れにある道場をみやると、少女は俯く。自分は何も出来ない。父のために、何も出来ない。少女、銀月零香(ぎつきれいか)は、涙を振り払うと、竹林の中へと走り出した。

銀月零香にとって、どん底といえる状況が今であった。

 

どうしてこんな事になってしまったのだろう。どうしたらこの状況を改善出来るのだろう。竹林の端にある、小さな池のそばの大きな石の上。平たく冷たい彼女だけの場所で、膝を抱えて零香は考え込んでいた。時々飛んでくる藪蚊を無意識で追い払いながら、零香は何か自分に出来ない事がないかを考える。しかし、小学生の彼女に、出来る事はあまりにも少ない。もし、無軌道に他者を恨んでそれで済ます事が出来る人間なら、もっと楽になったかも知れない。しかし零香は、憎悪を他人に向けても何にもならないと、幼い身で良く知っていた。結果、膨大な怒りは行き場を無くし、悲しみと混じり合って身を苛むばかりであった。零香は不器用な人間だった。人間という生物の下劣な本質に身を任せ、思うままに暴れてしまえば少しは楽になったのに。中途半端に強いが故に、零香は苦しみ続ける事となったのである。もし本当に強ければ、命がけで父を助けただろう。だがそうせず、今耐えきれなくなった零香は逃げだし、今自分の場所でぼんやりとしている。

そもそもの発端は、父の敗北にあった。

父、銀月林蔵は、竹虎流と呼ばれる古武術の達人である。身長百九十六センチ、体重百十七キロという巨体もさることながら、試合相手の裾野が狭い事もあり、無敗を誇っていた。零香の目から見ても、客観的に見ても、確かに父は強かった。古武術家としての誇りも持っており、先祖から譲渡された遺産を堅実に管理して、今の世を確実に生きていた。夢見がちの母もそんな父を愛しており、その間に産まれた零香も特に不自由せず暮らしていた。静かな生活であった。零香も学校に行き、普通の少女として友人を作り、恋愛ごっこをしたり、たまには家族と遊園地などに行って、つつましい生活をしていたのだ。

だが、およそ半年前。道場に現れた、他流試合を申し込んできた人間が、全てを変えてしまった。

その人が訪れた日の事を、零香は今でも良く覚えている。晴れた日で、だが少し肌寒かった。その人の容姿も覚えている。それは感じが良い女性だった。背は平均より少し高い程度で、風にながれる長い髪を綺麗に整えていて、パンツルックがよく似合っていた。涼しそうな切れ長な目で、美人ではなかったが優しそうな姿形であった。今でも、その人の事は恨んでいないし嫌っていない。その人が、父を負かした。試合を見ていた零香も、正直信じられない。体重は明らかに倍、身長にしても五十センチ近い差があるのに。普通だったら絶対にあり得ない戦いだった。しかも、父は決して図体だけの独活の大木ではない。ずっと父やその近辺の人間の稽古を見ていた零香だから分かる。父は総合格闘技などに登場する並の格闘家よりも明らかに強い。その父が、まるで赤子の手でもひねるかのように、わずか五分の戦いで、ころりと倒されてしまったのだ。女性は試合後、殆ど汗もかいておらず、つまらなそうに道場を出ていった。そして、全てが崩壊した。自信を完膚無きまで砕かれた父は夜な夜な酒に手を付けては道場に閉じこもるようになり、母はそんな父の姿を見て絶望、家を飛び出して行ってしまった。実家にも帰っておらず、零香に連絡も取ってこない。質の悪い駆け込み寺に騙されて、何処かの宗教団体にいるらしいと、零香は使用人が話しているのを聞いた事がある。

父をどうしたら慰められるのか。まずは其処から始めなければならないと、零香にも分かる。だが、どうして良いか分からない。父はどんなに狂乱していても、絶対に母にも零香にも暴力を振るわない。大きな体だが、それがどれだけの力を持っているか知っている父は、零香に暴力を振るったらどんな結果が待っているか良く知っている。そしてその強い理性こそが、父を苦しめているのだ。児童相談所にも連絡してみたが、ケースが特殊すぎてお手上げだと言われてしまった。クラスの友達も、誰も何も出来なかった。中には弱っている零香につけ込んで、嫌がらせをしてくる者も居た。まるで外皮が破れていたら仲間でも貪り喰らうオサムシだ。子供というのはそういった、一種昆虫的な部分を持っており、弱者は虐げて良いものだと無意識下で認識している。耐えきれなくなった零香は、最近は学校もさぼりがちだ。平常心なら、普通に古流武術の手ほどきを受けている零香には、虐めなど怖くも何ともない。だが今は、自分の身さえ守りきれる自信がなかった。

所詮惰弱で軟弱な小学生なのだと、零香はこんな時強く思う。非常に冷静に現実を分析出来るのに、結局何が出来るのか分からない。膝に顔を埋めて、零香は静かに泣く。こぼれ落ちる涙は嫌に熱く、頬を伝ってはパジャマを濡らし、或いは地面に落ちた。あの何者だか分からない女性が悪いのではない。父が悪いのでもない。無力な自分が悪い。助けを求められる人間は誰もいない。親戚は財産にしか興味が無く、零香を呼び寄せて手なづけようとしているのが見え見えだった。先生は授業を効率よく進める事しか興味が無く、零香が相談しても何も出来ないのが分かり切っていた。こんな時、先生が助けてくれたり、級友が団結して助けてくれる漫画や古典的な学園ドラマが羨ましいと零香は思う。だが、今零香がいるのは、血肉が通う人の暮らす世界だ。そこで、零香のような、零香の父のような弱者は、周囲から嘲られ食い物にされるだけなのである。人間の社会は弱者を守るために作られるのだが、人間の本能が弱者を思いのままに虐げるものである以上、どうしても現実は非情なものとなる。世を恨んでも仕方がない。そんな現実と戦わなければならない。そうしなければ、生きていく事など出来ない。今時、小学生でもそんな事は知っている。そしてそれに耐えきれない人が、鬱病になったり、現実逃避に走る事になるのだ。

眼鏡を外して、涙を拭う。レンズを拭く。体は冷えてきたが、もうどうでもいい。いっそ雨でも降ってきて、体をこわして死んでしまえばいいと、投げ槍に零香は思う。どうにもならない。戦おうにも、そもそも爪も牙もない。剣も槍もない。戦う術すらない。綺麗事などくそくらえだ。綺麗事が、運命の袋小路に入り込んでしまった父を救えるのか。母を助けられるのか。自信を完膚無きまでに粉砕されてしまった武術家の心を癒す事が出来るというのか。助けて欲しいなどと、零香は思わない。この運命を粉砕したいとだけ思う。

ふらふらと、家路につく。竹の間を縫って、白々しい月明かりが零香のパジャマを照らす。現実と戦わなければならない。戦う力が欲しい。ただ、ぼんやりと、そう思いながら零香は歩く。体が重い。口惜しいほどに重い。小石に蹴躓きそうになり、竹の葉で顔を切りそうになる。そんな自分の無力さが恨めしい。憎いものがあるとしたら、それは自分の現状だ。何も出来ない、無力なガキである、自分の弱々しさだ。静かな日常すら護れない、下らないまでの微弱な存在だ。

影が大きくなっている事に零香が気付いたのは、その直後であった。大きくなっているだけではなく、少し歪に変形している。妙な音もする。

「……?」

空を振り仰ぐ。煌々と輝く丸い月に重なるようにして、それはいた。

「汝が銀月零香か?」

「……?」

零香の視線の先にいた、浮いていたのは、大きな物体だった。大きさはハスキー犬ほどもあろう。図鑑で見たカンブリア紀のバージェス動物群のような、奇怪な形をしていた。全身は甲殻類に似ていて、鋏のある部分からは二本の長い鞭状の触手が伸びていて、その先端には五対のとげが生えている。背には魚のような長く鋭い鰭があり、目はどう見ても複眼で、七つが中央を挟んで等間隔、放射状に並んでいる。尻尾の部分はエビによく似ていて、腹からは三十以上の、節を持った足が出ていて、もぞもぞと動いている。そして背びれと直角に、白い透明な膜が横に伸びていた。

不思議と、奇怪な生き物を見たというのに、零香は怖くも何ともなかった。自分の命すら投げ槍に思っている現在の精神状態がそうさせているのか。奴が日本語で喋っているというのに、特に恐怖や怯えは感じない。腫れた目を擦って、もう一度見る。やはり、その変な生き物はそこにいた。

「驚いたな。 ここまで私を驚かなかった候補者ははじめてだ」

「……だれ? 何を言っているの?」

「私は神使、草虎。 汝が望むなら、牙と爪を与えるために来た」

流石に不信を覚えた零香が、半歩下がる。じっと草虎とやらを見つめたまま。虎と言うよりも、アノマロカリスとエビと蜘蛛を足したような姿形をした草虎は微動だにせず、エラをゆっくり着実に動かしながら、言う。

「詳しい話はゆっくりくつろげる所でしたい。 もし話を聞く気があるなら、案内して貰いたいのだが、構わないだろうか」

確かに此処は、立ち話をするには寒かった。しばしの躊躇の後、零香は着いてくるように促し、歩き出す。

少女が日常から足を踏み出す、これが最初の第一歩となった。

 

2、日常からの乖離

 

器用に浮き続ける草虎は、壁にも天井にもぶつからず、嘘くさいまでの安定度で零香に着いてきた。ヘリやホバリングが巧妙な雀蛾でもこうはいかないだろう。少し意地悪になっている零香は、壁だとかにぶつかればいいのにとか少し思っていたが、反面何にもぶつからず自分の部屋に草虎が入った時には安心した。それから、人間とは気分次第で考えが変わる嫌な動物だなと思って、零香は少し自己嫌悪に陥った。ベットに腰掛けた零香を見ながら、蛍光灯の少し下に滞空しつつ、草虎は言う。

「まず、自己紹介をしよう。 私は草虎。 白虎と呼ばれる神の使いをしている者だ」

「わたしは銀月零香。 一応古流武術が出来る以外は、特にたいした取り柄もない無力な子供だよ。 それで、白虎って?」

「方角の神だ。 西の守護神であり、白い虎の姿をしており、獣の王でもある。 金属や、風を司る神でもある」

神の使いと来た。だがこんな得体の知れないクリーチャーが宙に浮き、しかも日本語を喋っている時点で、既に常識など何処か余所に蹴飛ばされている。そういえば、零香も何処かで聞いた事があった。玄武、青龍、朱雀、白虎といえば、ゲームか何かで、良くセットで登場する存在だ。その配下だと言われても、いまいちぴんと来ないのだが、続きを言うように膝を抱えたまま零香は言う。喜んでいるのか、少し早めに鰭を揺らしながら、草虎は続けた。

「私たち神使は白虎を始めとする五方角神の指示を受けて、神子相争に参加する者を探している。 君はその候補者に選ばれた。 勿論君には拒否権がある」

「それがどういうものか次第かな。 続けて」

「うむ。 要は、それぞれ神の支援を受けた存在同士が戦い、勝者が幸片と呼ばれるものを獲得する事が出来る。 これを簡単に説明すると、自分で自由に使える幸運のようなものだ。 幸片を得た者は、持っているだけ、好きな時に好きなだけ、好きな相手に幸運をもたらす事が出来る」

思わず零香は顔を上げていた。もしそれが本当だとすれば、非常に魅力的な提案だ。

究極的な所、父がおかしくなったのは、本当に運が悪かったからだと結論出来る。あの敗北も、ほとんど事故のようなものだった。あんな人外に等しい(今ならそうだとよく分かる)存在にいきなり戦いを挑まれて、完膚無きまでに敗北するなど、そうそうあることではないのだ。

集中力が高まっていき、思わず唇を舐めていた。草虎は零香が考えを纏めるまで、きちんと待っていてくれる。紳士な行動に感謝する前に、零香は体を乗り出していた。

「それ、父さんを救えるほどの効果を発揮するの?」

「父さんというと、来る途中に聞こえた咆吼か」

「うん……」

「奇怪な話だ。 狂気を発しているように私には感じられなかったが、一体何をしているのだ?」

「……父さんはね、戦いに負けたんだ。 負けたなんてもんじゃない。 徹底的に、今までの自信を、価値観を、全部粉々に砕かれるぐらい酷い負け方をしたの。 それから、毎晩お酒を飲んでは道場に閉じこもって、サンドバックとか案山子とかを相手に、戦いをしてる。 ううん、違うね。 父さんは不甲斐ない自分が許せなくて、自分自身を拷問しているんだ。 強い武術家だったから、だからこそに自分が許せないんだ」

「母親はどうしている? 何故父を止めない」

「母さんはショックで家を飛び出しちゃってね。 今は得体の知れない宗教団体にいるって聞いてる。 母さんは優しいけど心が弱い人だから、大好きな父さんのおかしくなっちゃった姿を見て、心が軋んじゃったんだ」

それを聞いて、草虎は押し黙った。零香は思わずこぼれてきた涙を拭うと、頭を振る。必死に頭を切り換える。これはチャンスだ。この胡散臭い変な奴は、ひょっとすると人生を挽回出来る救世の種を持ってきた幸運の花屋かも知れないのだ。七つの目を、まっすぐ見ながら零香は言う。殆ど食ってかかるような勢いだ。

「戦いって、何をすれば良いの? 聞かせて。 わたし、父さんも母さんも助けたい!」

「う、うむ。 そうだな、幸片を上手く使えば、恐らく三年以内にどん底にある人間を二人や三人くらい救う事は出来る。 (枯湖)と我々が呼ぶ、此処とは別の空間で、同じように方角神の加護を受けた人間と交戦し、それを殲滅すれば勝利となる。 戦いは基本的に相手が交戦意欲を失うか、死んだら勝ちだ。 なおその空間には、魂を使って我らがコピーした擬似肉体を使って行く事になるから、例え死んでも此方にある肉体が傷つき滅ぶ事はない」

流石に零香の顔は蒼白になる。今の情報から判断する限り、その戦いに参加すれば、延々と人を殺し、殺される事となるのだ。相手がどんな奴になるかは分からないが、しかし、あまりいい気持ちではなかった。無言のまま黙り込む零香に、草虎は更に続けた。

「戦いの期間は最長で三年。 その間、数日から一週間ほどの期間をおいて、戦闘可能時期の連絡が私達を通じて宣告される。 それ以上の細かいルールは、君が参戦の意志を決めたら通告させて貰う。 ……時間が、必要だろう?」

悔しいが、その通りだ。戦いは一度では終わらず、三年も続くというのだから、なおさらだ。

「明日、同じ時間に来る。 それまでに、考えを纏めておいてほしい」

そのまま、最初から其処に存在しなかったかのように、草虎は消え失せた。痕跡も残らない。零香は相手を呼び止めようとして伸ばした手を、空で停止させ、そのまま俯いてしまう。

焦っては行けない。それはよく分かる。確かによく分かる。でも、一日判断が遅れれば、一日父が救われるのが遅れる。母が救われるのも遅れる。大人がお酒を飲むのは、心の中にたまった毒をはき出すためだって、零香は何処かで聞いた事がある。今までタバコも吸わず、酒も飲まなかった父が、どれほど苦しんでいるのか。あの咆吼は、零香には悲鳴にしか聞こえない。判断が遅れた事が悔しい。

何を悩むか銀月零香。自分を叱咤し、零香は頬を叩いた。弱気な自分を叱咤し、頭を振る。泣いて何かが解決するというのか。悲しむだけなら犬にでも猿にでも出来る。心を切り替えろ。強い言葉で、自らを励ます。

生きると言う事は戦いだ。そして現実的な古流武術の考え方を、零香は知っている。戦いとは、どう言いつくろっても、どう美化しても、殺し合いであり潰し合いだ。程度の差はあるが、戦いはそれ以上でも以下でもない、血みどろの世界だ。古流武術の各技は、それを効率的に実行するための戦闘技能だ。戦いでは、想いも願いも関係ない。経験とステイタスに始まり、運や頭脳や精神状態も含めた総合的な実力が勝負を左右し、どんな強者も場合によってはあっけなく死ぬ。爪が欲しいと願ったはずだ。牙を得たいと願ったはずだ。今更何を躊躇する。躊躇は死に繋がる。そして、こんな提案に乗る奴が、まともな環境下にいるわけがない。情けや躊躇はそれこそ命取りだ。迷いを捨てろ。零香は涙を流す、自分の弱さを叱咤した。

下の階からは、父の咆吼が響いてくる。現実は、刻一刻と悪化し続けている。明日の同じ時間というと、夜の九時だ。今できる事は、もう少ない。

心の牙を研げ。心の爪を磨け。何度も自身に言い聞かせる。もう、父を、母を助けられるのは、自分しかいないんだから。綺麗事など、風に吹かれて消えてしまえ。綺麗事で父母を助けられるのなら、もう彼らはとっくに幸せに戻っている。願いや想いで何かが改善するものか。願いなら、想いなら、今まで嫌と言うほど注ぎ込んだ。結果は、何も変わりなどしなかった。

ゆっくり目を閉じた。大きく深呼吸した。目を開くと、もう涙の残滓はない。さえ渡った頭で立ち上がり、電気を消す。そして、布団に潜り込む。

草虎とか言う彼奴が一夜の幻であったとしても関係ない。そうだ、泥をかぶろうが血反吐をぶちまけようが戦うという選択肢があったのだ。もう決めた。戦う事を。もう決めた。運命を組み伏せる事を。爪と牙が与えられなくても、何かの方法で戦ってやる。零香の中で、何かが大きく変わり、うねり始めていた。

 

翌朝、道場を覗くと、普段内側からカギを掛けられている戸は開いていた。使用人達は怖がってもう道場には近づかない。元々巨人のような容姿を誇る父である。昔の穏やかな言動をしていた頃は、使用人達も普通に怖れなかったが、今となってはそれも違う。人間である以上、怖がるのは仕方がない。道場へ歩く自分を見て、遠巻きにひそひそ話すおばさん達を見て、零香は特に何も感じなかった。

「父さん、起きた?」

半開きの戸の向こうへ掛けた言葉に、返事はない。戸を全部開けると、道場の中は戦場のような有様だった。藁や、木片が彼方此方に散らばっている。木片は力任せに引きちぎったようになり、所々に露骨な拳の跡が残っていた。踏まないように気をつけながら、奥へ歩く。道場の最奥、そこに父はいた。正座して、詫びるような格好のまま、静かに眠っている。毛布を取ってきて、零香は父に掛ける。父は起きない。側には、ワインや日本酒の空き瓶が、山と転がっていた。

「父さん、大丈夫だから。 助けてあげるから。 私が、絶対に」

父の逞しい疲弊しきった肩にすがりつき、耳元に囁く。ヒーローなんて、この世にはいない。だから、私が何とかする。零香はもう決めた。決めると、嫌に心はクリアになった。静かになった。狂乱の末眠る父を見ても、涙がこぼれないようになった。早めに起きてきたから、時間はたっぷりある。鍛えるわけではないが、胴着に着替えて、顔を洗って気持ちを引き締める。鳥たちが鳴く気持ちよい朝のひとこまの中、道場を掃除する。細かい所までは無理だが、無惨な姿になった案山子を、一つずつ丁寧に片づけていく。ゴミ捨て場にみんな持っていった後、箒で板の間を掃いて、雑巾を掛ける。昔は冷たくて寒くていやだった雑巾がけだが、幼い時分より継続してきたため、今ではどうという事もない。不満は使用人達が道場に入ってこないため、作業が少し手間なことだが、別にそんなのはどうでも良い事だ。

掃除が終わった頃には、朝食の時間が来ていた。母も料理が得意な方ではなかったが、今居る使用人達も皆上手な方ではない。普通の日本食を並べ、礼をして出ていこうとする使用人に、零香は背中から声を掛けた。

「父さん、多分十時くらいには起きてくるから。 その頃になったら、ご飯用意してあげて。 冷めていても良いから」

「え? はあ、分かりました」

「お願い。 父さんも辛いんだから」

そそくさと出ていく使用人。その顔には、どうしてか困惑が浮かんでいた。零香は出汁がさっぱり出ていないみそ汁を飲み干すと、手提げ鞄を持って外に出た。形式的に見送りをしてくれる三人の使用人達は、他人である。というよりも、父が狂乱に落ち母が宗教団体に走ってからというもの、彼女らすら露骨に陰口を叩くようになりつつある。中には世間体を怖れて、辞める事を検討している者さえ居ると聞いている。だから、零香としては父のご飯だけしっかり出してくれればよい。それ以上の事は望まない。長年決して安くない給料を払ってきたのだが、人間なんてそんな程度の存在だし、怒った所で仕方がない。そう零香は割り切っていた。かってはそう割り切ると悲しくなったのだが、今日は全然何とも感じない。

学校への道のりは、バスもなく電車もなく、歩いていける短いものだ。零香が通っている学校は生徒数二百三十名ほどの小さなもので、各学年の人数は平均して四十名を割り込んでいる。そんな状況だから集団登校は行えず、保護者が自主的に要所に立って生徒の登校をサポートしている。時々遭遇する大人に適当に挨拶を返しながら、零香は学校へ向かう。学校はそこそこに大きなものだが、近年の児童減少の煽りをもろに受け、半分ほどの教室が使われない状況になっている。それでも、下駄箱が並ぶ昇降口では、きゃいきゃいと子供の声がする。

「零香ちゃん、おはよう」

「おはよう」

後ろから声がしたので、特に振り返る事もなく応える。上履きに履き替えて、少し困惑した様子の声を背中から受けながら歩く。

「どうしたの? 何かあったの?」

「特に何も」

「そう、それならいいけど……」

すっと振り返る。着いてきていた級友、水池奈々帆(みずいけななほ)が、ひっと声を漏らした。零香は僅かに眉をひそめたが、意味が分からなかったので、そのまま教室にはいる。鞄を机の脇に引っかけて、教科書を机に放り込み、頬杖をつく。奈々帆が何か話そうとする前に、うるさい男子生徒の声がした。

「よー、銀月」

「……」

「応えろよ、根暗女! おら、無視してんじゃねえぞブスッ!」

体重を掛けた拳が飛んできたので、無言のまま拳で迎撃、そのまま腕を絡めて肩を取り捻りながら机に叩き付ける。情けない悲鳴を上げたこいつは山崎浩二。今までも奈々帆を始め、何人もの生徒を虐めてきた、いわゆるガキ大将である。体格も優れているが、兎に角他人に容赦がないのが要因となり、喧嘩が強く、同級生下級生に何人も手下を連れていた。PTAの独走により教師の権限が失われている事を良く知っており、半ば公然と暴力的な虐めを行っていて、心に傷を負って転校を余儀なくされた生徒もいる。暴力が心の底から好きな此奴は、他者が泣くのに悦楽を覚えるサディストで、勿論他人が傷つく事を何とも思っていない。そんな奴に容赦する必要はない。椅子を蹴って立ち上がった零香は、押さえたままの腕に更に力を込めながら、肩を圧迫しつつ、出来るだけ声を低くして言う。此奴は、最近零香が落ち込んでいるのにつけ込んで、今度は零香を虐めようと狙っていた。今までは黙って放っておいたが、今日は最初から黙っているつもりなど無かった。

「うざい」

「は、離せよ! い、いてえよ! こんなことして、ただで済むとおもってんのか!」

「それはコッチの台詞。 ちょっと今日は好戦的な気分になっててね。 今までと違って手加減しない。 潰す」

「い、いたいいたいいたいいたい! ぎゃああああああああああっ!」

「れ、零香ちゃん!」

困惑した奈々帆の声がするが、零香は辞めない。どの程度力を込めたら痛いか、折れるか、筋がおかしくなるか良く知っている零香は、静かに言う。

「ごめんなさいは?」

「ひいっ! いたい、いたいっ! はなせよブス!」

ご、め、ん、な、さ、いは?

「ぎいいいいいぎゃああああっ! ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ゆるしてゆるして! いてえ、いてええええっ!」

「……とりあえず、わたしにこれ以上近づいてきたら、次は容赦なく骨を折る。 それも三本くらいね。 もちろん親に言いつけても良いよ? 場合によっちゃあ、こっちも顧問弁護士投入するだけだから。 ああ、それとマスコミ関係に、それも思いっきり下品な週刊誌に、君がやってた虐め全部公開するから。 そうしたら、愛しのPTA様も、君を庇いきれないだろうね」

その気になれば零香がそれくらい出来る事を、クラスの生徒は皆知っている。何しろ腐っても資産家の娘だ。浩二は零香を痛めつけて、カツアゲまがいの事をしようと計画していたらしいと聞いている。こんな奴に遠慮してやる必要など無い。

浩二の部下達は怖がって近づいてこない。浩二が泣き出すまで筋を痛めつけると、放り出すようにして離してやる。ひいひいと泣きながら浩二は教室を出ていった。いじめっ子は小さな独裁者として此処に君臨していたのだが、その権力は此処に失墜した。今の暴君の情けない有様は、瞬く間に学校中に広がるだろう。

埃を払って、席に着き直す。浩二の手下共は所在なげに互いを見ていたが、零香が冷めた視線を向けると慌てて席に着き、視線を逸らした。

改めて、小柄な奈々帆に視線を向け直す。一種小動物的なかわいらしさを持つ奈々帆は、ロングヘアを兎の模様が着いたリボンで纏めている少女趣味な子で、零香の友人の一人である。確かに心優しいが行動力にも乏しい無力な子で、相談しても何にもならないのは分かり切っている。今だって、零香を心配はしていたが、おろおろするばかりで、結局何も出来なかった。別にそれが不快な事はない。奈々帆がそう言う子である事は良く知っていて、友の価値とそれは関係がない。

「奈々帆ちゃん。 席に着いたら?」

「う、うん」

席に着いた後も、奈々帆は零香をちらちら見ていた。小首を傾げると、彼女は言った。

「零香ちゃん、変わった?」

「たった一日で? 何が?」

「う、うん。 よく分からないんだけど……少し怖く……なった」

そういえば、零香は無意識に戦闘モードになっていたのやもしれない。それなら怖くて当然だ。試合の時の父と来たら、まるで動物園で見たライオンか虎のような迫力である。苦笑すると、笑顔を作り直し、零香は級友の肩を叩いた。

 

浩二はクラスに戻ってこなかったが、それを気にする者は誰もいなかった。授業は淡々と進み、無味乾燥のまま終わった。現在の小学校など、こんなものである。児童への暴力に対するペナルティが過剰になった結果、教師もはれ物としてしか児童を扱えなくなったのだ。勿論児童への暴力は言語道断だが、それにも限度がある。また、塾教育の蔓延により、生徒にとって教師は(自分より知識がある人間)ではなくなった。子供は基本的に自分より優れた人間しか尊敬しない。弱みを見せた相手には徹底的につけ込むし、痛めつけても殆ど罪悪感を覚えない。つまり、そんな状況で生徒は教師を尊敬などしないし、結果学校というシステムは瓦解する。それを後押しするのが、核家族化によって子供の教育のやり方が分からなくなった保護者と、利益獲得のために学校の劣化を宣伝し、真夜中まで子供を勉強させるような仕組みを作らせた塾だ。教師だけが悪いのではなく、子供を取り巻く環境全てに原因がある。勿論、教育方針で迷走を続ける国家政策にも問題の一端がある。零香はそう何処かで聞いた事があった。難しすぎて全部は理解出来なかったが、おぼろげながら分かった事は一つ。悪があるとしても、何もかもの悪を押しつけられるような存在なんて、この世にはいないという事だ。あの浩二だって、ひょっとするとその一人かも知れない。

どちらにしても、もうこれで日頃の不安要素は全て排除した。戦う準備は整ったのだ。家に着いた頃には、陽が傾き、紅い光が辺りを染め上げていた。それもすぐに消え、夜の帳が辺りを覆い、静かな寒さを伴った闇が訪れる。

時間が来た。そして一秒の遅れもなく、草虎は部屋の中に出現した。蛍光灯の少し下に滞空しながら、異形の神使は言う。

「決めたか?」

道場で咆吼が響き始めた。零香は立ち上がると、頷く。

「戦う」

「そうか」

草虎は短く応えた。様々な感情が交じっているように、零香は感じた。

 

3、神子相争へ

 

使用人は、みな夕方には帰宅する。そのため、零香は最近ずっと夕食を一人で食べている。父はここの所、夕方から酒を自室で静かに飲み始め、七時前後から道場で暴れ始めるのだ。話によると昼には案山子を作って道場に運び込んでいるとかで、以前よりも摂取する食料は明らかに減っているという。戸締まりを確認すると、零香は外に出る。少し周囲を警戒した零香だが、それを見越したように草虎は言う。

「大丈夫だ。 私は普通の人間には見えない」

「そう。 それは良かった」

「音が漏れない広い場所がいいな。 そこで細かい説明に移る」

零香は無言で着いてくるよう草虎に促し、月明かりが注ぐ中を歩き出す。この竹林は、幼い頃からの零香の城だ。隅から隅まで知っている。この中でかくれんぼをしたら、零香に勝てる者なんて存在しない。住んでいる動物まで把握しているぐらいだ。

やがて出たのは、不意に開けた場所であった。地盤の関係か、竹が全く生えておらず、また砂が多い地面も柔らかい。砂を少し掘ってみると、ごつごつした岩にぶつかる此処は、古流武術を教わり始めた頃からよく利用している場所だ。砂が月の光を反射してきらきら光るその真ん中に立つと、零香はストレッチを始めた。今日の格好はスポーツシューズに、動きやすい半袖半ズボンだ。リュックに入れてスポーツドリンクも少し持ってきている。眼鏡もスポーツ用に、特別落ちにくいものを選んできた。少し肌寒いが、これから嫌と言うほど動く事を想定しての格好である。若い瑞々しい筋肉をひとしきりほぐし、動かし、徐々に使う態勢に持っていく。大きく伸びをして、腕の筋を伸ばしながら、零香は言った。

「いいよ、準備オッケー」

「レイカ、見たところ、何か武術をやっているのか? 細い見かけと裏腹に内在される筋肉の作り方が随分しっかりしているが」

「ん、まねごとだけね。 たいして強くはないよ。 総合格闘技の大会とかに出てもきっと良い結果は出せないと思う。 足もそんなに速くはないよ」

零香はやせ形だが、そこそこ鍛えられた高品質の筋肉が肌の下に内蔵されている。無論人形遊びやままごとなどの女の子らしい遊びも好きだが、それ以上に父への思慕が勝ったのだ。父は決して、武術をする事を零香に強要しなかった。それに今父が師範を勤めている道場は、一子相伝型ではないし、今まで父の座を子が次いだ事もほとんど無いと聞く。

ただ、零香の言葉は、彼女がやっている武術がスポーツ向きではないと言う事も意味している。彼女が学んでいる武術は、あくまで相手を無力化するためのもの。敵を効率よく叩き潰すための戦の技だ。ゆえに、スポーツとは相性が悪い。

「では、まずはこれをつけてもらおう。 白神輪という」

草虎の僅か下に、光が集まってゆく。徐々に形を為していったそれは、腕輪になる。ゆっくり降下していくそれを、零香は無言でキャッチした。見ると、唐草模様が刻まれたシンプルなデザインだ。唐草模様には白が入れられていて、シンプルながら見れば見るほど飽きない模様になっている。円筒状のそれをしばし上から下から見ていた零香だが、手を入れてみても腕に入る様子は無く、四苦八苦の後困惑して草虎を見上げた。

「どうやって手入れるの? 孔が小さすぎるよ」

「ん、案外観察力はないな」

「ほっといてよ、もう」

「ははは、可愛いものだな。 年相応の表情だ。 ほら、其処の部分が外せるようになっているだろう。 ロックを外すと、伸びる部分が露わになるから、そのまま手を入れて、ロックをかけ直す。 慣れればすぐに出来るようになる」

草虎の触手が示すままに腕輪を弄っていた零香は、やがて何とかロックを外し、腕輪に手を入れる事に成功した。手を通ってしまえば後は簡単で、ロックを付けるのも難しくはなかった。小さく嘆息した零香は、腕輪がはまった白い手を月明かりに翳しながら言う。

「それで、これがどうしたの?」

「それは一種の充電池だ。 レイカの体から漏れる、気や魔力などと呼ばれる力を蓄えていく。 そして戦闘時には、蓄積した力を解放して様々な術を行使する」

「へえ。 魔法みたいなもの?」

「お前達がそう認識しているものに近いが、あれほど万能ではない。 様々な制約があるのだが、それはおいおい説明していこう。 それが吸収する力には時間限定があって、一日にたまる力は皆同じになるように調整されている。 才能レベルでの格差を調整するための工夫だな。 それと、蓄えられる力にも上限があるから、極端な物量作戦は出来ないようになっている」

まねごととは言え武術をやっていると、殺気などの存在は身近なものとして実感出来る。である以上、魔法があってもおかしくないだろうと零香は思う。

「ふーん。 それで、魔法、今すぐ使えるの?」

「それはまだだ。 まずは、神衣を使えるようになって貰う」

「しんい?」

「レイカはそこそこ鍛えているようだが、所詮は人間。 そのままだと、術を交えた戦闘を行うには脆弱すぎる。 故に体を守り、自らの力を増幅するために術で作った衣を纏う」

話が一つ一つ進展していく中、零香は小首を傾げる。

「ん、それってこの上からで大丈夫? いちいち着替えないと行けないの? 戻るのは少し骨だし、なんか気が削がれるよ」

「その上からで何の問題もない。 神衣を発動出来る程度の力は、サービスで白神輪に入れておいた。 発動には、腕輪に触れて、神衣発動と頭の中で唱えるだけで良い。 それに衣と言うよりは……いや、何でもない。 発動してみれば分かる」

「分かった、まずは発動してみるよ」

目を閉じ、腕輪に触れながら、言われたとおりの言葉を思い浮かべる。途端に、全身の力が背中から引き抜かれるような感触があった。体がぐらりと揺れ、感覚が大きく左右にぶれ、思わず膝を突く。膝を突いた時の感触がいつもと違う。同時に、内臓を内側から引っ張り出されるような違和感が、全身を虚脱感と共に駆けめぐった。内側から体がめくりあげられていくような異物感に、零香は思わず地面に手を着いていた。

「ぐ、ううう、う、わあああああああああああっ! げほっ! げほげほおっ!」

「ん、思ったより拒絶反応が大きいな」

「は、はあ、はあっ! ……?」

地面に着いた手の感触もおかしい。何かに包まれていくと言うより、内側から何かがせり上がってくるような感じだ。それに伴って、感覚が広がっていく。体がふくれあがる。

全身が痛い。痛い痛い。物凄く痛い。引きちぎられるような痛みだ。道場で投げられ叩き付けられた時と同じか、いやそれとは異質な痛みだ。ねじられ、ひねられ、内側から何かが盛り上がり、沸き上がり、裂かれる。そんな感触だ。

声を殺す。この程度の痛みが何だ。甘えを捨てろ。痛みなんか我慢しろ。必死に言い聞かせる。昔、ほんの半年ほど前の事を思い出す。

夢見がちだけど優しい母さんは、セーターを作るのが趣味であった。毛糸をちくちく縫って零香に色んなセーターを作ってくれた。時に丈が合っていなくて、時にごわごわして。でもとても柔らかくて暖かかった。不器用な父さんは、いつも零香の幸せの事を考えてくれた。遊園地に連れて行ってくれたことも会ったし、何処かに行きたいと思うとその気分を無言のまま汲んで彼方此方へ連れて行ってくれた。戦争博物館とか、武術展覧会とか、決して子供が喜ぶような場所ばかりではなかったが、それでも大きな手を掴んで一緒に歩く事がどれだけ楽しかったか。

取り戻す。こんな腐れた運命なぞねじ伏せてくれる!

地面を一打ちした。激しい音がした。牙を噛む。ぎりぎりと凄い音がした。目を開ける。視界が暫く安定しない。砂が見えているはずなのだが、どうしてか最初は真っ赤だった。徐々に、それが深い闇色へと変わっていく。大きく肩でする呼吸によって、激しく揺動していた視界も、徐々に安定していった。全身の痛みが引いていく。

「神衣は、体外に纏うだけではなく、体内にも根を張っている。 外側だけ強くしてもあまり意味がないからな。 そのために、最初に発動する時は非常に強烈な拒絶反応が出る事がある。 何度か回数をこなしていく内に、水を飲み空気を吸うのと同じになっていくがな」

「はあ、はあ、はあっ……! 先に、いって、くれたら、嬉しかった、かな。 ぐ、あぐうううっ!」

「無理はするな。 それに慣れるだけで、一週間かかった子もいる。 勿論、その子はきちんと戦い抜いた。 レイカの拒絶反応は、それに比べればまだまだ大分マシだ」

視界に入った手の周りを、何かが覆っている。手袋をしたわけではない。右手の質量がそのまま増えた感じだ。砂を掴むように、握り、開いてみる。手が大きく、指が長く太くなっている。痛みをこらえながら、右手を持ち上げてみる。砂を零しながら、白くなった右手は、ゆっくりと持ち上がった。白いのは、密生した毛によるのだと、その時分かる。灰銀色の毛が白い毛とストライプを為しており、図鑑で見たシベリアタイガーみたいだと、零香は思った。指の先からは、爪が生えている。先は尖っているが、金属製の刃物とは少し違う感じである。あんなものとは比較にならないほどに肉厚で、頑強な爪だ。切り裂くとか、引っかけるとか、そういう用途の爪じゃないと、すぐに零香は悟る。押さえ、更には引きちぎるためのものだ。しかも、相手が猛獣でもその用途を為す。これは戦いの武器と言うよりも、むしろ殺し合いの道具である。

左手はどうなっているのか見る。左手は右に比べると若干スマートであったが、やはり肘の先辺りから白い毛と灰銀の毛に覆われている。そして肘と手首の中頃の辺りから、手首とは逆の方向に、白い刀が付きだしていた。腕に密着したその刀は、外側に鋭い刃が付いていて、触れたら指くらい簡単に飛びそうであった。

腰にも違和感があるが、何しろ尻の方にあるので、其方は見えない。見れば体の全てが毛に覆われているわけではない。股の辺りや二の腕は肌が露出したままであるし、肘や膝はプロテクターのようなもので保護されている。四つんばいになっていた零香は、しばし神衣とやらを観察した後、大きく嘆息して腰を下ろした。そして感じた事のない痛みを覚えて、慌てて四つんばいに戻る。嫌な予感がして、尻に触れてみると、尾てい骨の辺りに太い毛の塊がある事に気付く。しかもそれは背中に向けて伸びていて、ゆっくり揺れているではないか。

「尻尾……!?」

「尻尾だな」

「何が神衣だよ。 ファンシーグッズじゃないんだから!」

「何を言うか。 「歩けるようになった」ら、すぐにそんなものではないと気付く。 尻尾はそもそもバランサーの役割を果たし、時には武器にもなる便利なものだぞ」

言われてみれば、確かにその通りだ。大蜥蜴や大蛇は尻尾を強力な武器として使用すると聞いた事があるし、犬猫に代表される食肉目も尻尾を方向転換やバランス取りに活用している。だが、これは少し恥ずかしい。血が通ってきたのか、手の感触が鋭敏になってきたので、顔に触れてみる。顔の前面は普通だが、耳の辺りはそのまま毛に覆われている。それなのにどうしてか良く聞こえる。嫌な予感がして、頭に手をやる。硬直したのはその瞬間であった。

いわゆる猫耳であった。毛に覆われた三角形の耳が、頭頂部と側頭部の中間点についている。これは外では見せられないなと、零香は突っ伏しながら思った。確かに良く聞こえるが、どちらかと言えば硬派嗜好の零香には、かなりこの格好は恥ずかしい。しかも非常に感覚が良く通っていて、耳に触れるときちんと分かる。背中よりもずっと触覚が良く働いているはずだ。

「大体今の自分の状況が把握出来たか?」

「死ぬほど恥ずかしい格好をしているってのは、よく分かったよ」

「じきに慣れる。 それにしても、そのタイプだと言う事は、能力強化がメインで特殊能力の付与は無しか……」

「うん? どういう事」

頭を抱えたまま身を起こす零香に、草虎は触角を微妙に揺らしながら、応えようとはしない。迷っているのか躊躇しているのか。しばしの逡巡の後、異形は応えた。

「体系的に能力を説明しようと思ったのだが、まあいい。 神衣の中には、装甲や能力強化を犠牲にして特殊能力が付与されているものがある。 飛行能力だったり強力なものになると空間制御能力だったりする。 レイカのはそれが無いようだから、能力強化に関しては他に冠絶していると見て良いだろう」

「ん……分かった。 それで、歩くことからって、どういう事?」

「言葉通りだ。 やってみればすぐに分かる」

まだまだ体中痛いのだが、我慢して立ち上がろうとする。その瞬間、異様な感覚を零香は覚えた。体の彼方此方が不自然に重い上に、膝や肘にかかる力が明らかにおかしい。ものの二秒もしない内に、零香は思いっきり尻からすっころんでいた。その上、受け身すら取れなかったのに、全然痛くない。目を白黒させるのは十秒ほど。怒りを覚えて決然と再び立ち上がる事に挑戦し始めるまでもう十秒。そして、またしてもすっころぶまでほんの二秒。今度は尻からではなく、顔面から砂地に突っ込んだ。何が起こったのか、何が原因でこうなったのかさえ分からない。砂を掴む手に力がこもり、ボシュッと異様な音がした。眼鏡は幸い割れておらず、体を起こしながら変な力がこもった右手を見る。握りしめた拳の間から、砂がさらさらとこぼれ落ちていた。多分見慣れている現象なのであろう。草虎は淡々と事象を説明してくれる。

「体の構造が変わったのだから、立ち上がれないのは当然だ。 立ち上がるというのが、如何に高度な肉体制御を必要とする行動なのか、すぐに思い知るだろう。 それと、今のは力任せに握った結果、砂の間の空気が強引にはじき出された音だ。 人間の握力では絶対に無理な現象だな」

「なんの、まだまだっ! 時間は殆どないんだから!」

慎重に、慎重に、体を起こしていく。肉体を制御する術を真似っこであっても知っていた零香は、今自分の体がどんな事になっているのか、少しずつ分かり始めていた。大きさだけ同じまま、力がいきなり虎になったようなものだ。ちょっと力のかけ方を間違えるだけで、大きく振りかぶってしまったり、振り抜いてしまう。体も異常に頑丈になっているから死なずに済んでいるが、そうでなければ顔面から地面に突っ込んだ時点で頭蓋骨を木っ端微塵に粉砕している。

六回試みて、いずれも失敗に終わる。草虎は尻尾を使えとか、色々アドバイスはしてくれるが、どうもぴんと来ない。眼鏡を外そうと思ったが、不要だと草虎は言う。思えば、顔面から突っ込んだ時も、それほど顔には圧迫感がなかった。尻からすっころんだ時も前に飛んでいかなかったし、体全体を見えない壁のようなものが守っているのかも知れないと零香は思った。

失敗が十回目を越えた時に気付く。結構激しく運動しているのに、汗一つかいていないし、寒くもない。疲れたとも思わない。体中は痛いが、まだまだやれる。零香は地面に手を着いて、ゆっくり体を起こしていく。滑って転んで、嫌と言うほど尻餅をついても気にしない。そのうち、尻尾を無意識で動かせる事に気付く。尻尾は背中に添うように高く天へ向き、ゆらゆらと首の後ろ辺りで先端を揺らしている。体を起こし、何とか立ち上がったかと思った瞬間、跳ねるように膝を伸ばしてしまい、そのまま背中から地面に激突する。今の瞬間、二メートルくらい飛んだのではないかと零香は思ったが、どうもそれは間違いではないらしい。ぼんやりと見上げた竹の節は、飛んでしまった時に水平に見たそれは、どう見ても草虎よりも高い位置に浮いていたからである。

「そろそろ休憩だ。 一旦休め」

「まだ行ける!」

「そういった肉体強化型の神衣は慣れるまで時間がかかるし、早くに慣らしても良い事はあまりない。 三日か四日かけて、歩く事からするのが一般的だし、効率的だからそれが一般的になっている。 大丈夫。 レイカの両親は大人だ。 二日や三日で死ぬような事はないし、逆に言えば戦いを始めたってすぐに助けられるわけでもない」

口をつぐむ零香に、草虎は更に付け加えた。

「一旦休憩して、暫くは体を休めながら説明を聞くと良い。 どちらにしても、あまり急ぐと体がぶっ壊れて、入院する羽目になるぞ。 そうすれば、戦いの開始が一月なり二月なり遅れて、却って遠回りする事になる」

 

神衣を解除し、場所を変えて、いつも黄昏れていた池の畔の平たい石の上に移動する。スポーツドリンクのキャップを開けて、零香は草虎に差し出す。草虎はしばしそれを見ていたが、無言で池に接近、其処の水をがぶがぶ飲み始めた。零香は無言で草虎が飲まなかったスポーツドリンクを飲み始める。神衣を解除した途端、痛みは確かになくなったが、代わりに激しい疲労が全身を襲ってきて、いやにスポーツドリンクが美味しい。藪蚊を追い払いながら、零香は草虎が水を飲み終え、触手で口の周りを拭うのを、薄らぼんやりと見上げた。

「まずレイカが戦う相手だが、四人。 君も含めて五人が相争う戦いを、神子相争という」

「方角神は五人いるってこと?」

「五柱だ。 神は柱という単位で呼ぶ。 白虎、玄武、青龍、朱雀、それに黄龍が、五柱の方角神だ。 白虎は以前説明したとおり、白い虎で西の神。 玄武は亀と蛇を足したような姿をしていて、北の神。 朱雀は文字通り紅い鳥で、南の神。 青龍は東の神で、蒼い雄々しい龍の姿をしている。 そして黄龍は中央を示す神で、これは黄色い龍の姿をしている。 麒麟に置き換えられる事もある存在だ。 黄龍は龍族の中でも長とされる極めて強力な存在だが、今回の戦いでは力を意図的にセーブしているから、黄龍の神子が特別強力なわけではない。 そして、この神々の加護を受けている人間の子が、神子だ。 神子は大体レイカと同じくらいの年頃の子供、特に女の子が選ばれる事が多いな。  また、それぞれの神子は、守護者である神によって能力面での特性が違ってくる。 白虎は金属の神、玄武は水の神、青龍は木や有機物の神、朱雀は炎や熱量の神、黄龍は土の神でもある。 神子はそれらの特性による影響を、少なからず受ける」

石の上で足をぶらぶらさせながら、零香は話を静かに聞いていた。中央を守護する神がいうというのは知らなかったが、特別強力な存在ではないと言うし、多少は安心出来る。

「この儀式が何故行われるようになったのか、幸片が何かという事については、私は応える権限を与えられていない。 戦いは数日から十数日に一回行われるが、常に参加しなければいけないわけではない」

「うん? それはどういう事?」

「神輪に蓄えられる力は、時間に比例し上限があると説明しただろう。 要するに、その戦いは見送って、次に備えて力を蓄えるという選択肢もある。 事実、何回かに一回は、誰も参加せずに幸片が取得されない神子相争もある。 そう言った場合、幸片は蓄積されて、次の配給分に加算上乗せされる」

思わず夢中になって聞いていた零香は、いつの間にかスポーツドリンクを飲み干してしまっていた。草虎に断って、次のドリンクを取り出す。トイレに行きたくはなっていないし、まだまだ肉体は水分を貪欲に求めている。

「戦いが始まると、枯湖の様子は外からでは絶対に分からない。 我々にだって分からない。 故に戦いが進行してから入って漁夫の利を狙おうとか、そういった手は最初から意味を為さない。 適当に時間をおいて入ったら、もう幸片は誰かの手の中という可能性が極めて高い。 一人しか参戦しなかった場合、入ってから数分でランダムにカウントが終了し、唯一はいった神子に幸片が授けられる。 つまり、戦いをするつもりなら、枯湖への戸が開いたらすぐに入らなければならない」

「難しいね。 わたしに出来るのかな」

「今まで、途中でリタイアした者は一人も居ない。 なぜなら、参加者は皆レイカと同じか、それ以上に悲惨な境遇にある者ばかりだからだ」

それを聞いて、思わず零香は蒸せ込んでいた。

「みんな必死だ。 参加者の中で、レイカだけが必死な訳ではない。 だから、みんな強いし、貪欲だ」

「……」

「特別な存在なんて、この戦いには存在しない。 皆背負うものがあり、皆必死に幼い体を酷使して戦っている。 だから血みどろの戦いに皆積極的だし、容赦もないし、相手を負かそうと智恵や技を搾り、己の成長を促す。 それが故に神子は皆相争が終わる頃には強くなっていて、幸せを取り戻している事が殆どだ」

生きるというのは戦うと言う事だ。だが、これから望もうとしている戦いの現状を聞いて、流石に零香も心安らかにはいられなかった。ぎゅっと、缶が変形するほどスポーツドリンクを握りしめる。唇を噛む。甘えを捨てろ。こんな事は分かり切っていたではないか。戦う相手が悪の組織だとか、怪獣だったりしたら楽だったか。首を振る。それは否だからだ。そういった者が仮に存在していたとしても、それらが何かを背負って戦っているのは当たり前の事なのだから。零香が生きているのは、児童向きの漫画の世界ではない。児童である零香だって、そういった世界が現実とは全く違う事を良く知っている。分かり切っていた事だ。分かっていた事なのだ。だから、容赦なく敵を切り裂く爪を磨き牙を研ぎ、戦って幸せを毟り千切らなければならない。自分と似たような境遇の相手を踏みにじってでも。それが戦うと言う事の現実なのだから。

草虎は零香が気持ちを纏めるまで、きちんと待っていてくれる。紳士的な存在である。更に、零香のペースを考えて、話を進めてくれる。こんなにきちんと授業をしてくれる教師が今まで居ただろうか。草虎の姿は人間からは遙かにかけ離れているが、普通の人間よりもずっと人間的で紳士的な行動であった。

「術については、いちど実戦を経験して貰ってから説明する。 今晩はもう少し神衣で立ち上がる訓練をしてから上がろう」

「実戦は、いつ頃に始めるの?」

「歩けるようになったら、まず一度行って貰う。 如何に厳しい世界かをそこで把握して貰って、それから術や能力の戦略的な構築に入る。 ただ、これはアドバイス以上の事は出来ない。 結局レイカに一番合っている戦略や戦術が分かるのは、世界でもレイカ一人だからな」

心の奥底から沸き上がってくる焦りと、悲しみが混じり合い、はち切れそうであった。泣くものか。泣いて何かが解決するものか。頭を振ってまた出てきそうな弱い自分を追い払う。戦うと決めた時に心の中から追い払ったのに、ぴーぴー泣くばかりの無能で弱い自分は、油断するとすぐに心理の表層に顔を出そうとする。

変形した缶を傾けて、一息に残ったスポーツドリンクを呷る。そして再びストレッチを始め、零香は言った。

「続き、始めよう。 歩くのは無理そうだけど、立つくらいは今晩中にやってみせるよ」

「うむ。 まあそれくらいが妥当だろう。 頑張って見ようか」

「うん。 よろしくね、先生」

結局零香は気付かなかった。無理をしながらも、今晩始めて笑った事に。

また神衣を具現化させ、激しい痛みに耐えながら、体を起こす。すっ転び、つんのめる。今の力では、木や竹では支えになどならないと、本能的なレベルで分かる。体の重さも普段と違うし、何より握力の桁が二つ違っている。ふとした弾みで簡単に握りつぶしてしまうだろう。幼いが故に、より体は動物的で、本能の原初的部分をより多く残している。地面に体を叩き付けてしまう。おきようとして飛び上がってしまい、背中から砂地に激突する。そんな中、着実に零香はこつを掴んでいく。尻尾の揺らしかたも、全く違う重心の安定方法も。そして、暴れ馬同然の、関節部や各所筋肉の扱い方も。全身が強力なバネで出来ているようなものだが、そろそろ少しずつ扱えるようになってきた。無様な悪戦苦闘は、幸いにも確実な成果に繋がってくれていた。

三十六回目の転倒。神衣を着ていても、体が熱くなり始めている。だが、少しずつ転ばずにいる時間は長くなりつつある。草虎は何も言わない。零香がこつを掴む様子を、ただじっと見守っていてくれる。それが零香には、百万の雑言よりも心強い。正気の父にそっくりだからだ。右膝を付いたまま、上体を起こす事に成功。此処までは今までにも何度と無く成功してきた。後は、この先だ。プロテクターに守られた膝を怒らせないようにして、ゆっくり、慎重に、尻尾を揺らしながら膝を伸ばしていく。何故尻尾が股下に垂れずに背骨に添って天に向けているか、零香は何となく分かる。重心の所在が其方になるからだ。膝を伸ばしていく。ゆっくり、確実に。重心が移動する瞬間が、最大の問題点だ。ここでバネが弾けるようにして、何度背中からすっ転んだか。神経を集中し、ついに最後の問題点をクリアする。ぶるぶると震える膝を、腿を押さえながらゆっくり伸ばす。そして、零香は成し遂げた。ついに立つ事に成功したのである。

少し開き気味の足で、しっかり砂地を踏みしめて、零香は月明かり降り注ぐ中立っていた。生まれて初めて立ち上がった時こんな気分だったのかと、零香は思った。

「立った……!」

「良くやったな。 おめでとう」

「うん!」

「よし、今日はここまでにしよう。 明日からは、まず確実に立ち上がれるように、そして歩けるようになっていこう」

 

翌日は、朝から全身が痛かった。布団の中で目覚めた零香は、ただ立ち上がると言うだけの事に費やした労力と、その結果を知って大きく嘆息した。ストライプのパジャマは、冷や汗に濡れている。

じっと手を見る。一日一日、彼女は戦いに近づいている。そして、もう引き返す事は出来ない。そう自分で決めたのだから。今日も夢を見た。父さんがよく分からない博物館に連れて行ってくれる夢だった。不器用であまり温かい笑顔を浮かべる事の出来ない父だが、いちいち零香を守り、その意志を立ててくれる心優しい人だ。だが強い大人だからこそ、深い深い奈落の底へ落ちてしまったのだとも言える。父さんが自力で抜け出せない闇の孔に入ってしまった以上、子である零香が助け出す。それだけの事だ。母さんと一緒に、また写真を撮りたい。一緒に朝食を取りたい。そのためだったら、零香は何でもするつもりであった。

階下に降りる。朝食が用意される前に、する事は幾らでもある。ここの所は形だけだった修練も、今まで以上にきちんとやっておかねばならない。何しろ今後行うのは、人が死なない殺し合いだ。同年代の女の子でも、場合によっては友達でも、容赦なくねじ伏せる気迫で望まなければならない。焦る事などいつでも出来る。まずは心身共に、戦いに望む態勢を作り上げねばならない。

胴衣に着替えた後、竹林の中で精神統一をし、正拳突きを始める。自主的とは言え、手は抜かないつもりだ。今日はまず百本。ここの所さぼっていたから、一から鍛え直す。そうでなくては、折角訪れた好機をドブに捨てるようなものだ。真剣のように心を研ぎ澄まし、朝の空気の中、拳を繰り出す。一つ、一つ、また一つ。筋肉を研ぎ、体の中の闘争本能を磨く。繰り出した拳が、涼しい竹林の中、殺意を含んだ刃となる。

正拳突きを終えた頃には、空気が暖かくなり始めていた。お手伝いさんに、肉を今日から多めにしてくれるように頼むかと考えながら、零香は額に浮かんだ汗を拭った。

 

4、最初の殺し合い

 

神衣を纏う。痛みは大分慣れてきて、むしろ加速度的に楽になってきている。何とか筋肉を制御して、立ち上がる。立ち上がった後、姿勢を安定させる。夜の闇の中、静かに呼吸を整え、背筋を伸ばしていく。曲がっていた膝をゆっくり伸ばす。直立不動というのは、戦闘態勢としてはあまり褒められたものではないのだが、それよりもまず最初は立つ事だ。そして歩く事を成功させたら、武術で得た戦闘態勢を取れるようにして。順番にこなしていかなければならない。そのためには、基礎から築いていく必要がある。

立ったまま、姿勢は安定する。それを見て、誰よりも安堵の息を付いたのは草虎だった。

「立ち上がるのは、問題なくなったな。 歴代の白虎神子の中でも、最速とは行かないがかなり早いほうだ」

「ありがとう」

「では歩いてみようか。 立つ以上に慎重にな」

「うん。 頑張ってみる」

零香も自分なりに、様々な工夫を修練の中で試してみた。重りを背負って歩いてみた事もあったし、体の不自然な位置に重りを取り付けて歩いてみた事もあった。何しろ父が父なので、リストバンドや重しの類には不自由していなかったのだ。案の定、それだけで随分歩きづらくなったし、重心のかけ方が難しくなった。

一歩目を踏み出す。ロボットみたいにぎこちない動きだが、まず確実に第一歩を踏む。焦らず、慎重に。ぎゅっと、足の裏に砂の感触が残る。

スポーツシューズは、柔らかい毛に覆われている。靴下ごと、膝下まで柔らかい毛のガードに包まれている感触だ。足と一体化した印象はなく、あくまで頑丈な靴に履き替えた雰囲気である。そして踏み出してみて分かったのだが、消音性能が抜群だ。一瞬だけ気を抜いた、それが命取りになった。力のかかり方に過負荷がかかった結果、零香は顔面から突っ込むような形で地面に激突、三回バウンドして三十メートルほど跳ね飛ばされた挙げ句、呆然と星空を見ている自分に気付いていた。うねうねと触手を動かしながら、草虎が真上に来てぼやく。

「だから言っただろう」

「? ?」

「分からないか? 二歩目を踏み出す際に力が不用意にかかりすぎて、なおかつ重心がずれた。 それだけの事だ。 神衣の防御力がなければ、ミンチになって飛び散っている所だぞ」

「ごめん……」

流石にずれ込んだ眼鏡をなおしながら、零香は身を起こした。二足歩行について少し調べてみたのだが、非常にデリケートな調整が必要な難事なのだと分かった。今までとは異質な力でちょっと歩いてみて、それが実感出来る。ついた砂埃を払いながら立ち上がり、再び一歩、また一歩と歩いてみる。細心の注意を払いながらであれば、ロボットのようにぎこちなくなら歩ける。それを確認すると、草虎と話しながら、更にステップを進める。どうも神衣が馴染んできているらしく、勘の掴み方もそれに応じて速くなってきている。方向転換をやってみる。石を手元に転がして、それを避けて歩くだけの事だが、これが存外に難しい。ちょっと気を抜いたら、今度は横倒しに吹っ飛んでいた。ただ、バウンドの回数はさっきより少ない。感覚の掴みが一瞬ごとに良くなってきている。身を起こす零香は、だがまだまだだと思う。同じ条件で戦うわけだし、敵はこの力を使いこなしている事を想定すれば、自分はまだ超が付くど素人に過ぎないのだ。

「慣れはじめてきたな。 この分だと、明日中には普通に歩けるようになるだろう」

「うん。 体もそうだけど、遠くの音も聞こえるようになってきてる。 遠くのにおいも、どうしてか分かる」

「うむ、いい傾向だ。 そのうち、無意識で動き回れるようになる。 ……私の見立てでは、おそらく明後日くらいに枯湖への戸が開く。 最初に実戦を行って貰うのは、その日になるな」

昨日聞いた話だと、初戦で勝った神子は、不戦勝だったものをのぞいて過去の歴史に存在しないと言う。一方で、天才と呼ばれた者はいたが、それでも最終的な勝率は他の面子に比べて決定的に高かったわけではないのだとか。クレーターのようになっているその場に腰を下ろした零香に、草虎は体を少し傾けながら言う。

「少し休んでから、もう少し歩いてみよう。 走れるようになったら、第一段階は合格だ」

走れるようになったら、殺し合いの始まりだ。そう告げられた零香は、無意識でぎゅっと拳を握りしめていた。

 

神衣を身につけている時間が長くなるほど、体が良く動く。従ってくれるようになってきたと言っても良い。まだまだ振り回されているのに代わりはないのだが、訳も分からなかった最初に比べると、随分周囲が見えるようになってきた。

ゆっくり、体を低くして歩く。歩けるようになってきたのだ。何だか茂みの中を歩く虎みたいだと、態勢を低くして歩きながら零香は思う。ゆっくりなら、何とか自在に歩けるようになった。少し駆け足になってみると、途端に地面にすっころぶことになったが、それでもバウンドの回数や激突の衝撃は大分揺らいできている。訓練開始三日目にはいると、全然状況は改善してきていた。ただ、神衣の筋力から考えて、まだまだ力の1割も発揮出来ていないだろうと、零香は分かっていた。尻尾は何だか無意識で動いてくれて、体のミスをある程度補正してくれる。ただ、やはり気を抜くと、尻尾が幾ら頑張っても派手にすっころぶ。

訓練の時間が長くなってくる。草虎が何も言わない所からして、体への負担が減ってきているという判断なのだろう。受け身が間に合うようになってきた。小走りで走れるようになってきた。全速力ではまだ無理だが、スキップくらいの速さで動き回る事は出来るようになってきた。転ぶ事も減ってきた。この分なら、一週間もすれば転ぶ事はなくなりそうであった。二度目の小休止を入れ、神衣を解除してストレッチをする零香に、草虎は言った。

「体の痛みは、大分軽減されてきたようだな」

「うん。 もう最初みたいな、体中針で刺すみたいな引きちぎるみたいな痛みは無くなったよ」

「能力強化限定型の神衣だと、これを乗り切ってしまえば後は楽だ。 同調率を上げていって、なおかつ自分も強くなっていけばいい。 単純な話だ」

「他の子は、どんな風に苦労するの?」

「特殊能力型の神衣は、最初の同調が楽で、殆ど痛みもない。 その代わり、授かった特殊能力の制御には後々まで苦労する事になる。 特に毎度毎度、朱雀の神子は苦労するという話を同僚から聞いた事がある」

零香も自分なりに、時間の空いた時に草虎が言った神々の事を調べてみた。朱雀は破壊と再生を司る神でもあり、炎を司る分性質も激しいのだという。有名な鳳凰とも同一視されるそうで、となると上空からの攻撃を得意とするのだろうかと、零香はかるく分析していた。しかし、今の状態では、空から襲われたら文字通り手も足も出ない。まあ、もっとも、実戦で触ってみなければどう転ぶかは分からない。

零香が何か言おうとした瞬間、草虎が月を見上げた。

「思ったより早かったな」

「……扉が、開いたの?」

「ああ。 少し早いが、丁度いい機会だ。 行ってみるか?」

「うん。 最初から、覚悟は出来ているよ」

大きく体を草虎が揺らす。了承の意味らしい。聞き取れない複雑な言葉が草虎の口から漏れ、不意に周囲の雰囲気が変わった。世界の色彩が反転し、同時に動きが停止する。風に揺れていた笹も、さらさらと流れていた草の葉も、皆動きを止める。ふっと意識が抜けたのが、嫌にクリアに分かる。体が横倒しに倒れる。何も音がしない。砂も舞い上がらず、肌に冷たさも伝わってこなかった。

 

気付くと、零香は訓練用の半袖にショートパンツのまま、見た事もない場所に立ちつくしていた。空を見上げているのに気付いた零香は、ぼんやりと周囲を見回す。どうした訳か、既に神衣を纏っていた。

「枯湖では最初で最後のアドバイスになる。 基本的に私たちは戦闘中の神子には一切干渉出来ない。 故に、最小限度の事だけ伝えておく。 もし勝ち目が無く、無駄に消耗するだけだと思ったら、ギブアップと念じれば離脱出来る。 同時に、戦闘時に一分以上意識を失っても強制離脱させられるから覚えておくようにな。 ただ、一分以上も意識を失ったまま、生きていられるような生ぬるい世界ではないが」

無言のまま零香は頷いて、取り合えず周囲から丸見えのこの場所から離れるべく歩き出す。辺りはまるでテレビで見たスラム街のような有様で、どうやら朽ち果てたビルらしき廃墟が周囲に立ち並び、埃混じりの風が冷たく体を撫でていく。瓦礫が散らばり、人の気配どころか、生き物の姿さえ見あたらない。見あたらないと言うよりも、生物の存在自体が感じ取られない。そして空は鉛色に曇り、遠くでは雷もなっていた。どう考えても、少女が一人彷徨く場所ではない。零香は本能的に身の震えを感じたが、それが場所に対するものではないと、瞬間後に悟っていた。

すぐ脇の足下が炸裂した。今まで零香は爆発をテレビの中くらいでした見た事がなかったが、それを至近で見、しかも炸裂の威力を身で味わう事になったのである。他愛もなく吹き飛ばされた零香が、廃ビルの外壁に叩き付けられる。剥落した外壁が、立ち上がる前に落ちてきて、地面を激しく乱打し、砕けて飛び散る。慌てて顔をガードした零香は、腿に鋭い痛みが走っているのに気付いた。単純に死なないだけで、本当に痛いし苦しいのだと、体で学習する。

「はあっ、はあっ、はあっ……!」

何が起こったのか判別出来ないが、このままでは負けることはすぐに分かった。慌てて跳ね飛ばされないように気をつけて立ち上がり、もがくようにして廃ビルの中に逃げ込む。胸郭の中ではね回る心臓を必死に押さえ、呼吸を整えていく。しけった廃ビルの中は暗く、天井から時々落ちてくる水滴の音が、まるで死刑執行のカウントダウンのように感じられた。しばし時が経ち、どうにか心を落ち着けなおした零香は、水滴の音しか無い事を確認し、再度外をうかがう。零香が最初に立っていた辺りは、クレーター状に吹っ飛んでえぐれていた。ミサイルでも飛んできたかのような有様である。神衣がなければ本当に話にならないのだと零香は思い、体に何気なく触って生唾を飲み込んだ。長さ十五センチほどもある鉄筋の破片が、神衣に突き刺さっていた。しかも首の辺りである。慌てて引っこ抜いて放り捨てる。肌が少しちくっとしたが、感触からして一ミリも刺さっていない。だが、神衣がなければ、どんな有様だったかはすぐに分かる。再び心臓が跳ね飛び、暴れ狂った。一歩間違えれば即死していたのだ。

胸を押さえて、もう一度外を見る。戦うどころではない。初戦に勝つ事が出来た神子はいないという話が分かった気がする。更に、敵はこれ以上もたもたする事も許してはくれなかった。

廃ビルの上の方、恐らくコンクリ一枚隔てたすぐ上で、さっきと同じ炸裂音がした。外したのではなく、ビルの倒壊を狙ったのだと、零香はすぐに気付く事が出来た。ビル全体が揺れ始め、激しく埃が舞い、壁が崩落し始める。見れば、最初から湿っている上に罅だらけで、いつ壊れてもおかしくないような代物だ。こんな所にどうして隠れようと思ったのか、分からない。慌てて飛び出す。飛び出す時に力が上手く制御出来ず、つんのめって態勢を立て直しきれず、地面に突っ込んではじき飛ばされ、転がるようにしてビルを逃げ出す。必死に体を起こし、ビルに振り返ると、真ん中に巨大な穴を開けた廃ビルが死の痙攣をしていた。生唾を飲み込む。激しい音と共に、死した灰色の巨体が崩れ落ちていく。零香に出来たのは、入った時とは別の出口から逃げ出す事くらいだった。周囲を見回すと、この世界に入った時と似たような道路で、発見されるのは時間の問題だ。必死に立ち上がる。落ち着け。落ち着け。落ち着け。必死に言い聞かせて、小走りで近くのビルに逃げ込む。六階建てのそこはまたろくでもない罅だらけのビルであり、生活の跡は周囲に見あたらなかった。天井から漏れ落ちた水滴が、コンクリの床の彼方此方に水たまりを作っており、腐敗臭が漂っていた。水たまりがいっぱいあるのに、蚊もボウフラもいないのは異様な違和感を覚えさせる。

冷たい壁に背を預ける。外をうかがうが、敵影どころか気配もない。これでは戦うどころではない。胸にぎゅっと手を当て、必死に冷静さを取り戻そうとする。神衣のパワーは零香も実感しているが、この有様では殴るにしても体当たりをするにしても、そもそも近づけない。草虎の話を思い出す。零香の神衣は能力強化型であるし、実力が付いてきても神衣の性能自体は変わらないと言う。カスタマイズは可能と言う事だが、神衣の性能そのものが代わらないのだとすれば、まだまだ勝機はある。思い出せ、何故この戦いに参加したのかを。唇を噛むと、零香は再び外をうかがう。その時、(それ)に気付く事が出来たのは偶然であった。

水たまりの一つが、不自然な音を立てた。殆ど本能的に反応した零香は、跳ね飛ぶように其方に向き直る。耳に明かな異常音が飛び込んできていた。

「誰!」

「……」

「応えないなら……!」

零香は腰を落とし、手元にあるコンクリ片を拾い上げた。普段だったら絶対に持ち上げられないようなサイズだったが、綿のように軽い。自身のパワーがいかほどのものなのか、実感したのはこの瞬間であった。(敵)は移動していないと、全身の感覚が告げており、当てる自信はあった。何もない空間から、声が響く。冷静で、落ち着いた声であった。

「まった、まった。 タンマや」

「!?」

「今姿見せるさかいな。 そう興奮せえな」

ふっと、虚空に今まで無かった像が出現する。それは零香と同じくらいの年の少女であった。右手に体ほども大きさがある、龍の装飾付きの美しい弓を手にしており、全身はパステルダークブルーの神衣で包んでいる。猫耳に猫尻尾というファンシーな姿の零香に比べて、鎧という雰囲気が似合う落ち着いた姿だ。鱗状のプレートで体の要所を守った彼女は、おかっぱ頭の、優しそうな目をした子であった。丸顔で、子供らしい可愛い顔立ちをしている。

だが、今まで攻撃をしてきた相手である可能性も否定出来ない。ぎゅっとコンクリ片に込める力が強くなる。コンクリ片が鈍い音を立て、罅が入った。唇を尖らせると、彼女は言う。きちんと距離を取ったままで。

「その様子やと、入るのはじめてやろ。 今攻撃する気はないさかい、心配せえへんでもええで。 というよりなあ、うちはともかくほむら先輩がその気なら、もう十回以上は死んどるで自分」

「わたし、名前を聞いたんだけど?」

「ああ、そうやったな、すまへん。 うちは青山淳子(あおやまじゅんこ)。 青龍の神子や。 まだ入って一ヶ月くらいしかたってへんから、あんたのちょっとだけ先輩と言う事になるわ」

「わたしは銀月零香。 白虎の神子で、貴方の読み通り今日始めて参戦したの。 よろしく」

「こんな事いうのも変やけど、よろしくな」

取り合えず、攻撃してくる様子はないようで、零香は小さく嘆息していた。同時に気がゆるみ、手にしていたコンクリ片を思わず握りつぶしてしまう。びくっとする零香に、ひゅうと淳子が口笛を吹いた。

「初めてにしては、良う神衣を制御しとるな。 大したパワーや。 うちなんて最初に入った時、なんも分からず消し炭にされたんやで」

「わたしだってそうなる所だったよ。 さっきの攻撃は、淳子ちゃんがやったの?」

「あれはほむら先輩やな。 朱雀の神子で、勝ち負けに関係無しい今日引退するらしいで」

淳子はすたすたと歩いてビルの入り口壁に張り付くと、後ろ手で一点を指す。零香は視線を凝らすと、そこに紅い死神を見つける事が出来た。

紅い神衣を纏った少女が、ビルの屋上に佇んでいる。少し零香より年上に見える彼女は、背丈ほどもある巨大な筒状のなにかを手にしており、背中には羽のようなものがついていた。羽の大きさはそれほどでもなく、ぱっと見では飛べそうもない。のこのこ出てきたというような雰囲気はなく、いつでも出てこいと、不敵に挑戦を待っている様子だ。多分、此方の位置も把握しているだろうと、零香は自然に悟った。グローブを填めたままの手を顎に当てると、淳子は零香に言う。

「どや。 今ここであんたと戦ってもええけど、どうせなら一緒にあの先輩と戦ってみんか?」

「どういう事?」

「癪やねん。 先輩もう不幸も解消して、今日は勝っても負けても同じなんやで。 それならうちらに幸せ分けてくれてもいいやんか。 しかしな、始めて一ヶ月目のうちや、入ったばかりの零香ちゃんじゃ、それこそ逆立ちしても勝てる相手やない。 だから協力して先輩潰して、うちらでその後決着付けたほうが面白そうや」

確かに一理ある。こんな状況である以上、淳子は多分信用出来る相手ではないが、それでもこのまま何もしないで負けるより、騙されたとしても戦いになる方がずっとましだ。ただ、零香としては、どうしても慎重に成らざるを得ない。余裕の無さがそうさせているのは、自分でも分かっている。

「でも、わたし何も術使えないよ」

「うちだって、そう大した術は使えへんで。 何とか神衣の能力と下等な術を使えるようになった、そんな程度のレベルや」

淳子には余裕がある。今の零香にはない、静かな余裕が。それが何かは分からないが、零香より先に行っているのだけはよく分かる。元々受け身になりがちな零香は、それを見て、強く押し切る事は出来なかった。だいたい考えてみれば、ここで淳子と戦って勝てたとしても、無傷のほむらが残っているのだ。まだほむらを倒してから淳子と戦った方が勝率が高い。何か釈然としないものを感じるが、零香は頷いた。

「分かった、いいよ」

「そうこなあかん。 じゃあ、うちが援護するわ。 その隙に飛び出して、気を引いてくれれば、何とかうちが仕留めてみせる」

ふっと淳子の姿がかき消える。気配はそのままあるのだが、綺麗に姿自体はかき消えた。いわゆる光学迷彩という奴なのかと零香は思った。ひた、ひたと足音だけが遠のいていく。もう一度外を覗くと、朱雀の神子はまだいた。ずっと筒状の武器を担ぐようにして抱えたまま、ビルの屋上に佇み続けている。生唾を零香が飲み込むのと、ほむらと呼ばれた彼女が動くのは同時だった。ふわりとビルから飛び降りる。落下速度が明らかに遅い。彼女は近くにあったビルに飛び移ると、突然零香に筒を向ける。そして殆ど間をおかず、撃ち放ってきた。

 

光の球が、物凄い速さで迫ってくる。無言のまま、零香は飛び出す。後ろで、ビルが炎を噴き、強烈な圧力が背中を押した。つんのめりながらも、零香は必死に走る。少し力の加減を間違えれば、こんな足場の悪い所では間違いなくすっころぶ。だが、なりふり構っていられない。背中にじりじりした焦燥感を覚えながら、別のビルに飛び込む。勢いあまって地面に突っこみ、転がって跳ね起きる。痛くないのが不幸中の幸いだ。埃が大量に舞うが、気にしていられない。

「いたたた……」

急いで周囲を見回す。比較的大きなビルだが、嫌な予感がする。振り返って今までいたビルを見ると、跡形もなく崩落していた。凄まじい火力だ。テレビで見た巡航ミサイルだって、こんな凄まじい火力なのか分からない。これでは、この大きなビルでも多分結果は同じだ。立ち上がろうとして、壁に触れると、ぼろぼろと崩れてしまい唖然とする。嫌な予感が的中し、零香は大きく嘆息した。いつ倒れてもおかしくないような代物だ。早く出なければならないが、外を見て青くなる。ほむらという人は、既にさっきの位置にいなかった。まあ、当然の事である。零香がほむらであったとしても、同じ判断をした事は間違いない。下手に出ると、文字通りの的になる。

だが、もたもたはしていられない。入ったのとは別の出口から外をうかがう。ビルの上も念入りに探すが、彼女の姿はない。援護をしてくれると淳子は言っていたが、それも信用しきれない。幾つかある出入り口を見て回っているうちに、多めに瓦礫がある通りを見つける。此処なら身を隠しながら、余所へ移れそうであった。安堵して、慎重に外に出る。そして、五歩目で背中から声がかかった。知らない声だ。

「判断が甘いわねえ。 まあ、その様子じゃ初戦だろうし、仕方がないけれど」

「ひっ……!」

ぎこちない動作で振り向くと、今まで居たビルの三階の、硝子がない空洞の窓に足をかけ、筒状の武器を構えてほむらが立っていた。筒の先端に、光が集まっていく。ほむらの声は低く、まるで刃のように研ぎ澄まされていた。そういえば、父を叩きのめした女の人の声にも、こんな要素があった気がする。

「先輩として教えてあげるわ。 覚えておきなさい。 とっさに思いつく程度の事は、誰でも普通に気付く。 逃げられそうな場所には、大体罠が張ってある。 そう言った場所から逃げる時は、敵の先手を取るか、細心の注意を払う。 でないと、今後一勝も出来ないわよ」

筒の光が増大していく。身動き出来ない。生唾も飲み込めない。殺される。死ぬ、死ぬ、死ぬ。膝が笑う。ほむらはふっと笑うと、筒を僅かに上に傾け、そして炸裂した。

激しい爆発と、横転し転がる音。ほむらが爆発に巻き込まれたのだ。淳子の仕業か。慌てて周囲を見回す零香。瓦礫の方へ逃げようとした瞬間、足下が炸裂した。

「っ……! ああああああっ!」

地雷か、それに近い術か何かが仕掛けられていたのだ。言われていたのに、罠に気づけなかった。右足に走る鈍痛。間をおかず、瓦礫に叩き付けられ、最初に神衣を纏った時のような鈍痛が全身を掴む。みれば、右足の先端部分の神衣が吹っ飛んでいて、焦げた足が露出していた。火傷などと言うレベルではない。右足の一部が炭化してしまっている。感覚がない。むしろ痛いのは、足首より上の、無事に見える部分ばかりだ。

地面に転がり、必死に足を押さえながら、いままでほむらがいた所をみやる。涙にかすんでよく見えないが、ビル壁の一部が吹っ飛んでいて、うすぼんやりと分かる。ほむらは倒れていない。左腕を挙げ、舌打ちしながら態勢を立て直す。

「やってくれるわね。 まあ隠密タイプだし、一月もすれば奇襲くらいできるようになって当然か……」

筒がない。少なくとも先端部は見あたらない。その残りカスらしきものを放り捨て、ほむらは右腕に光を集中させる。その光が、鳥のような姿へ変わっていく。ちらりと零香を見たようだが、あまり此方には注意を払っていない。荒い呼吸を整え、足を必死に押さえながら、零香は考える。どうする、どうすればいい。そうこうするうちに、鴉くらいに成長した光の鳥を、ほむらはたかだかと掲げていた。

「いけっ!」

二度羽ばたき、高度を上げると、光の鳥は零香から見て右へ飛んでいく。痛みはまだ引かない。何だか言う病気の時も全身酷くいたかったが、その比ではない。震える手で眼鏡を外して、何とか涙を拭う。まだまだ溢れてくるが、頭を振って、ぎゅっと目をつぶり、頬を叩く。このまま終わってたまるか。まだ体は殆ど動く。痛いけど、我慢しろ。父さんや、母さんが味わっている痛みは、こんなものではない!

自らに言い聞かせ、唇を噛んで、きっと上を向く。同時に、右から爆発音がした。ビルがまた一つ、崩落していく。そしてほむらの手には、筒が戻っていた。完全な形で。ただ、神衣は彼方此方焦げていて、何カ所かは剥落して出血していた。攻撃を貰えば、ベテランでもただではすまないと分かって、少しだけ零香は安心した。

光の矢が、右から音もなく飛来する。筒を振るって、ほむらが迎撃する。はじき返した瞬間、再び爆発が起こるが、不敵に笑ったままほむらは煙の中から姿を見せ、壊れた筒を放り捨てる。見れば爆発痕も、零香から見て右の損傷が少ない。この様子からして、零香がこの入り口から逃げるのを予想していたのはほむらだけではないと言う事だ。

「その様子だと、私のレールキャノンと同じく、射撃までに時間制限があるわね。 ふふっ、面白い」

ほむらが数度跳躍、壊れた外壁や、ぽっかりと開いた空洞状の窓を伝いながら、信じがたい跳躍力でビルの上に移る。その過程で光の矢が飛んでくるが、ほむらはさらりと避けて上へ上へと飛ぶ。殆ど時間を掛けずに屋上に飛び移ると、指先を組み合わせて、何度か複雑な形を描く。何故あんな的になるような場所に移るのか、すぐには分からなかったが、ほどなく悟る。理由は二つ。一つは、その位置だと矢が届かないのだ。今まで残っている矢の跡を見ると、結構低い位置から撃っている事が分かる。そして、もう一つの理由。

印を組むほむらの頭上に、さっきとは比較にならない大きさの鳥が具現化していて、しかも更に大きくなりつつある。まるで小さな太陽のような光が、足を押さえたままの零香の所まで届いてくる。あんな小さな鳥でも、廃ビルを一つ吹き飛ばしたのだ。あのサイズだと、どんな破壊力があるのか、想像するだに恐ろしい。足を恐る恐る動かそうとしてみる。途端に、ひりつくような痛みが、引きちぎるような痛みにランクアップした。

「……! ああああっ、く……っ!」

精神力では抗しきれない痛みだ。足を動かし、逃げるのは無理だ。足から血がにじんでくる。決意した零香は、腕を思いっきり噛み、痛みを其方に無理矢理反らす。口から血を流しながら、顔を上げると、鳥はもう人間大にまで成長していた。瓦礫の中をまさぐり、こぶし大の破片を拾い上げる。鉄骨がはみ出した、凶悪な形をした破片だ。幸い相手は此方を全く見ていない。そして、今の筋力なら、投げて届くはずだ。零香はかなりコントロールがいい方で、キャッチボールでも父のミットに百発百中させる事が出来た。恐らく、精神を最大限集中すれば何とか今だって当てられる。問題は、攻撃のタイミングだ。今までのほむらの行動からして、投石ぐらいなら確実に避けるかガードするかしてくる。どうやったら避けられずに済む。

その時。零香は驚くべきものをみた。目の前。ほむらが屋上に立っているビルの入り口に、淳子が出現したのだ。最初から立っていた、という事は恐らく無い。光学迷彩を使って身を隠したまま歩いてきたのか。彼女は天に向けたかだかと矢を向けていて、足を揃えたその構えはなかなか堂に入っている。見て、零香はすぐに分かった。当てるつもりだ。どうやってかは分からないが、当てるつもりで放つ気だ。龍をかたどったらしい弓の先端部に、光の円が具現化している。淳子の額に汗が浮かんでいて、その眼差しは真剣そのものだ。零香も何とか体を起こすと、手の甲で頬に付いた煤を拭い、目を閉じる。そして神経を集中し、唱える。父さんを助ける。母さんを助ける。そのためなら、何だってする!

「威力増大、軌道変更、貫通力強化! 三種付与!」

淳子が呟く。彼女の身を覆う淡い光が、見る間に弱くなっていくのが分かる。その分の力が、矢の先端に集まっていく。そして、ほむらが弾かれたように下を見た。気付いたのだ。しかし、気付かれてもなお、淳子は放たない。放てないのだと、零香は悟る。見ていると、術には様々な制約がある。手を動かして形を作ったり、呟いたり、時間をおいたり。多分それに背いて術を放つ事は出来ないのだ。

「へえ……」

「せいっ!」

わずかな間の後、矢が放たれた。鳥を残したまま、ほむらが飛び退く。矢はまっすぐ天に飛び、不意に途中で軌道を変え、巨大化した鳥を見事に直撃貫通した。鳥が原型を失いながら、悲鳴を上げる。そして、今までにないほどの巨大な爆発が、天を焦がす。鼓膜を叩きやぶらんばかりに、物凄い轟音が響きまくる。

零香は見た。炎を纏ったほむらが、横っ飛びにビルの影から飛び出し、大技を放って硬直中の淳子に筒を向ける。かなり神衣は痛んでいるようだし、左腕はないように見えたが、戦意は衰えているように見えない。奴は淳子しか見ていない。好機だ。

今の爆発で吹っ飛んだ人間大の瓦礫が次々落ちてくる。淳子も、零香もそれに全く顔色を変えない。ゆっくり落ちるほむらの持つ筒に、光が集まっていく。零香は力を振り絞り、息を止め、尖ったコンクリ片をほむらに向け投げつけていた。筒が光を放つのと、零香が投げつけた破片が腹に突き刺さるのは同時だった。

「ぐうあっ!」

ほむらがのけぞり、身をかがめて悲鳴を漏らす。そして、零香の至近の地面に、筒から放たれた光の球が直撃していた。

 

意識が飛んでいた事に、零香は気付いた。辺りは暗い。……いや、違う。潰されているのだ。無言のまま体を動かす。何とか動く。右足は痛いままだ。だが両腕は感覚があるし、左足もしかり。ただし、どうやら脇腹に何か刺さっているらしい。それにしても、この状況が続いていると言う事は。意識は一分以上飛ばなかったと結論出来る。

無言のまま、上に乗っているコンクリを、全身の力を使って押しのける。右足は力を掛けられないので、左足と肩、それに右腕を支えに使って押す。案外あっさり瓦礫は持ち上がり、左の裏拳で跳ね上げてやると嘘のように吹っ飛んで、どんよりとした曇り空が見えた。曇り空なのに、妙に明るい。ぼんやりしながら、脇腹に触れて、慄然となる。三十センチはあろうかという巨大なコンクリの破片が二つ突き刺さっていて、血がぽとぽとと垂れ落ちていたのだ。内臓らしきものさえ見える。それに伴い、胸を横一文字に裂いている大きな傷も目に入った。半袖のシャツと、白銀の毛皮を深紅に染め、鮮血が零れ続けている。他にも、小さな傷は数え始めたらきりがない。瞬間的に気を失いそうになるが、必死に意識を立て直す。そして、辺りを見回し始めた零香の視線が、硬直停止した。

弓矢を構えた淳子が、まっすぐ此方に狙いを向けていた。しかも至近。逃げられる間合いではない。そうだ、たまたま共同戦線を張っただけで、それが終わったら戦うと言っていたではないか。

「先輩、ものごっつう手加減してくれていたみたいやけど、それでも勝てたわ。 ありがとさん」

「淳子……ちゃん」

「あんた、根性あるわ。 きっとごっつう強なるで。 でもな、うちも負けるわけにはいかん。 優しいお父ちゃんが、不幸のどん底で苦しんでるんや。 あんたと同じで、うちは勝つためなら何でもするで。 今日みたいに、漁夫の利狙う汚いことでもな」

死ぬと、零香は分かった。そうでなくとも、意識は遠のきかけている。負けが決定したのは、この瞬間であったやもしれない。ふと、淳子の姿に気付いた。ぼろぼろだ。神衣は彼方此方焦げていて、綺麗に揃ったおかっぱも所々ちりぢりになっている。頬には煤が付いているし、手袋も焦げて煙が上がっていた。零香の視線に気付いたらしく、淳子はくすりと笑った。

「ああ、これな。 零香ちゃんが先輩をコンクリで叩き落とした後も、二三駆け引きがあったんよ。 先輩まだ余力がある様子やったけど、引いてくれてな、うちに勝ちをくれたんや。 今回は下等な術や、隙が大きい術ばかり使っておったようやし、前に見た本来の戦闘スタイルとも違っとった。 きっとはなから勝ちをくれるつもりやったんやな。 多分やけど、うちの陽動攻撃にも、最初から気付いてたわ」

「いい人だね」

「ほんまや。 いい人やな」

淳子が、矢を放った。至近から放たれた矢が、零香の体に潜り込んだ。胸の中に異物が入り込む感触を、始めて零香は味わった。体が跳ね、肺が焼けるように痛んだのは一瞬。すぐに意識が薄れていく。闇が迫ってくる。それは暗く冷たく、お墓の匂いがした。淳子の声が、遠くから聞こえた。

「これが此処のルールやさかい、ごめんな」

零香は生まれて初めて、死を味わった。

 

5、敗北の先に

 

意識が戻った時、零香は草虎に見下ろされていた。傷は残っていない。月明かりが煌々と降り注ぎ、竹の間からこぼれて零香の体を照らす。神衣は解除されていて、体はとても軽かった。

「惜しかったな」

「ううん、全然。 歴代の中に、初戦で勝てた子がいないって言うのが、よく分かったよ」

「……だが、レイカは健闘した方だ。 私としても、今後の成長に期待が持てる」

その後は、訓練を少しして、早めに切り上げた。早めに切り上げる事を、草虎は何も言わなかった。自室に戻り、電気を消す。同時に、涙が大量にこぼれてきた。怖かったからではない。悲しかったからではない。悔しかったからでもない。その全てが複合要因であった。

枕に顔を埋めて泣く。涙を止めようにも、無理だった。拳を固めて、何度もベットを叩く。怖かったし、悔しかったし、悲しかったし、不甲斐なかった。

「負けない……次はきっと負けない……! 負けるものか……!」

闇の中での呟きは、誰にも届かなかった。零香自身にも。嘆く事などいつでも誰にでも出来る。しかし嘆かない事には、ため込んだストレスを放出出来ない。それが人という存在であった。ただその夜、零香はずっと一人で泣き続けたのであった。

 

翌朝から、さっぱりした顔で零香はトレーニングに戻っていた。涙腺をコントロールして、泣きたい時に泣けるのは女子の特権だ。これは武器にもなるし、効率よくストレスを発散するにも便利だ。

朝はジョギングから始めて、ストレッチに、軽く正拳突きを百本ほど。余裕があるのでもう百本こなして、縄跳びを追加し、道場に向かう。いつも通りの惨状に包まれた其処を綺麗に掃除し、詫びるように座ったまま落ちている父に毛布を掛けてから出る。今度、父ともきちんと話しておこうと思いながら、零香は自室へ歩く。草虎が現れたのは、その瞬間だった。零香の斜め後ろについて歩きながら言う。

「体調は問題ないようだな」

「うん。 昨晩思いっきり泣いたから、もう大丈夫」

「強い子だな、レイカは。 ところで、一つ提案がある」

「なに?」

「実力を付けるために、私が毎回神子に対して行っている事がある。 それをレイカにも実施したい。 レイカがそれをこなせば、おそらく実力は飛躍的に跳ね上がると思う」

足を止めた零香が振り向く。何故か、草虎が僅かに下がった。零香にその理由は分からなかったが、躊躇する必要はない。時間は限られているのだから。決断すべき時には即座に決断する。最初の失敗で、零香はその重要性を学んでいた。うじうじ悩んだりしている暇など今はない。

「是非やって」

「う、うむ」

「で、具体的には何?」

「山ごもりだ。 北海道に少しの間行く事になるが、構わないだろうか」

無言で零香は携帯電話を取りだし、銀月家の顧問弁護士に電話を掛ける。家の管理を依頼するためだ。勿論金庫の番号は教えていないし、家政婦や他の人間が近づける場所に重要なものを置いてはいないが、念には念だ。いざというときのために幾つか軽い打ち合わせをしておいて、零香は電話を切った。

「分かった。 明日から行こう。 今日中に準備はしておくね」

「……多分、半月ほどは籠もる事になる。 構わないか?」

「全然問題ない」

ハンドタオルを取りだして汗を拭くと、零香は躊躇い無くそう言った。彼女の中で、何かが変わったのは、間違いない事実であった。

「朝、時間もあるし、神衣の訓練少し入れてみたいな。 お願い出来る?」

「うむ、そうだな。 ……後、一応言っておくと、今後は神子相争に参加した場合、半日分ほどの蓄積気を神衣発動に必要とする。 術を使いこなせるようになってくると、結構バカにならない量だから、留意しておいてくれ」

「そうだね。 淳子ちゃんは、参加して一月で結構術を使いこなして戦ってた。 私も一月であそこまで行けるかな」

「いける。 レイカなら確実にな」

「そう。 ありがとう」

零香は促すと、竹林に向け歩き出す。何処か小学生離れした、異質で誇り高いオーラの片鱗が、その時既に見え始めていた。

 

(続)