偉大なる者達

 

序、地球の話

 

遙か昔。

50億年以上前に。

この太陽系があった場所には、別の恒星が存在した。

恒星系があったのか。

それとも大きすぎた恒星だったのかはよく分からない。

はっきりしているのは、恒星は大きすぎる場合、寿命が短くなるという事。そして大きすぎる場合は、超新星爆発を起こすと言うことだ。

恒星というのは巨大な核融合爆弾と同じであり。

核融合の結果、最終的には鉄が誕生する。

鉄以上の元素は、バランスが崩れて、恒星が超新星爆発を起こすときに発生する。

つまり、今の太陽系は。

二代目、或いは二代目以降なのである。

恒星が超新星爆発を起こし。

その残骸が集まり。

今度は運良く、最適な大きさの恒星が誕生した。

その名前を太陽という。

そして残骸は太陽の廻りを周回し。

互いに合体し。

星となっていった。

星になる事に失敗し、最終的に粉々に砕けた星もある。

今アステロイドベルトと呼ばれているものがそれである。

また、太陽系が出来て間もない頃は。

星同士が激突する事も珍しくなかった。

古い時代の地球に。

火星くらいの惑星が激突。

千切れ飛んだ欠片が月になった、という事件も起きている。

いわゆるジャイアントインパクト仮説である。

あくまで仮説ではあるが。

現在ではもっとも説として「強い」。

そして46億年前に地球が今の形になり。

諸説あるが、38億年前には最初の生命が誕生した。

最初の生命が誕生した頃には。

木星という非常に強力な重力バリアが作動するようになり。

更に月という第二の重力バリアが存在し。

たまに隕石が落ちてくる、くらいの状況に落ち着き。

生物が未だに存在する事が出来るようになっている。

かくして二酸化炭素が主体の大気と。

酸やアルカリで煮えたぎった海の時代がしばらく続き。

古細菌の時代が長続きした後。

光合成して酸素を放出する生物が誕生。

大気組成が一気に書き換えられ。

オゾン層が出現し。

そして地球全体が氷に覆われる「スノーボール」状態を経て。

地球はカンブリア紀。

生命の大実験場の時代へと突入する。

これまでの流れを、ツアーで説明する。

いずれも仮説が入ってくる部分もあるのだけれども。

大まかな流れとしてはだいたい間違っていない。

私は腕組みして、うんざりした様子で、ツアーの内容を見ていた。

私がこういうツアー形式のものを好まないと知っていても。

現在、私が負荷分散のためにやとったスタッフは勧めてくる。そしてツアー形式の方が、今まで四苦八苦しながら「その生物を楽しめる」設定の単独アクセスよりも客が入りやすい事もあって。

私は不愉快だと思いつつ。

頷くしかなかった。

「エンシェントがワールドシミュレーターとして認められ、科学者達から貴重なフィードバックの意見が寄せられるようになり、またエンシェントをシミュレーターとして科学者が実際に使って論文が出るようになりました。 既にエンシェントは不動の地位を確保しており。 我々は、社長やプログラム班の作ってくださったエンシェントを、最大限魅力的に見せ、アクセスを稼ぐのを目的としています。 ですので、作るものを好きに作ってくださって結構です。 その代わり、どうやって「見せる」かは我々に今後も一任していただきたく」

「分かりましたわ」

「ありがとうございます」

私は、政府と提携し。

エンシェントが軌道に乗ってから。

新たに雇い入れたスタッフ。

広報部の連中に頷き返す。

此奴らには、プログラム班や、私にけちをつける権限は与えていない。

その代わり、客に売る時どうするかは、自由にして良いとしている。

AIの意見を取り入れた結果である。

個人的には色々とうんざりなのだけれども。

負荷分散である。

また体を壊したくなかったら。

負荷分散は徹底的に行うべし。

それがAIの指示だった。

そして、CM作成のためにやとった人員は。

私の注文にいつも文句を言う。

美術的に美しいCMを作りたいと。

だが私は、リアルを重視しろという注文で雇った。

だからそれには従って貰う。

結局の所、相手はぶつぶつ文句を言いながらもCMを作ってくれるため。私の負担は減っているが。

上がって来たCMに駄目出しを出す度に。

此奴分かっていないと思うし。

恐らく相手も同じ事を思っているだろう。

負荷分散のためなのに。

上手く行かないものである。

ため息をつくと。

頭を掻き回し。

今月の売り上げを確認する。

法務部から上がってくるが、これは経理で計算した後、色々税などの処理が入ってくるからで。

昔は経理部と法務部が独立していることが多かったが。

AI制御で動かしている今は。

法務部を一度通した方が都合が良い。

故に何処の会社でも。

法務部を通して、決済をしているそうだ。

これについてはうちも同じ。

売り上げは安定している。

今月も社員達にボーナスを出す事が出来そうだ。

私は社長だが。

独裁者では無い。

社員を導くのが仕事であって。

利益を独占するつもりは無い。

社員達は、自分達の五割増し程度の給金しか、私が貰っていないことを知っているし。

必要な金以外は、ボーナスとしてくれる事も理解している。

故に文句をぶちぶちいう広報もCM作成も。

私に対して、社長としての器がどうのこうのという悪口は言わないそうだ。

この手の会話はAIが会社内で使っている独自SNSのものを見て、たまにそういう傾向があったらそれとなく教えてくれる、くらいである。

こういったプライベートログの類は、私も見ることは出来ない。

公平に動くAIが監視はするが。

人間が見ると碌な事にならないからである。

私もそれでいいと思っているし。

実際に上手く行っているので、文句はなかった。

湯治に行こうかな。

そう思ったが、一旦腰を落ち着ける。

代わりにココアを淹れて貰って。

ツアーの内容だという、さっき一分ほどでプレゼンされたものを、さっともう一度目を通す。

原初の、熱球時代の地球から。

カンブリア紀を経て。

白亜紀の終わりまで。

エンシェントが得意とし、売りとしている部分のコンテンツを。

ツアーで全て見ていく。

古細菌はサイズを縮小し、古細菌と同じ目線で相手を見ることが出来るし。

恐竜は相手を頭上から見る事で、その巨大さを実感する。

石炭紀は森が出来ていく様子をハイスピードカメラで早送りで見たり。

直角貝やダンクルオステウスを、海の中で至近距離から見たりもする。

そんな古代生物と触れあう事のない。

古代生物を見るだけのツアー。

そんなもんの何が楽しいのか私にはさっぱり分からない。

相手に攻撃されない設定にして。

徹底的に、その姿を一から十まで観察し。

そして喜びに浸る。

それが古代生物をシミュレートし。

ワールドシミュレーターにまでなっているこのエンシェントの醍醐味だろうに。

だが、その言葉も虚しく流れるばかり。

実際問題として。

売り上げは安定し。

客の評判も良いのだから。

私もその実績がある以上。

今の広報に文句は言えない。

むすっとしたまま、面白くもないツアーの画像を見るだけだ。

ツアーは基本的に一人でアクセスするが。

ガイド用に、そのアクセスした人向けのアシスタントロボットがつく。

とはいっても仮想空間での話だ。

人間型にしているのが基本の現実のロボットではなく、客が好み通りに姿や声を変えられる。

この辺りも私の趣味にはあわない。

やっぱり一人で、ゆっくりエンシェントを楽しむのが性にあっている。

ココアが来たので。

それを飲む。

体の中が暖かい。

だが、心は冷めていた。

まあいい。

次にまた、古代生物をアップデートする。

現在学者から来ている意見を精査していて。

その中で、アップデートする必要があると思われるものを順番にアップデートしているのだけれども。

それと並行で。

前と同じように。

私が見つけてきた論文から。

新しくアップデートも行っている。

プログラム班は現在三チーム体制。

前は二チーム体制だったが。

これに一チーム追加した。

一チームは恐竜専門。

これは前から同じで。

恐竜に関しては、毎年のように新しいデータが出てくるから、である。専門のスタッフがいた方が良い。

もう一つは、学者が指摘してきた提案内容をアップデートする班。

検証も行う。

この班が一番大きく。

前にサーベルタイガーのアバターを使っていた、語尾がニャーのプログラマーが仕切っている。

そして最後が私が重点的に見ている班。

この班は、私が見つけてきた論文の内容をアップデートするのが主な仕事となる。

勿論シミュレーションも行う。

いずれにしてもエンシェントの人員は、政府から声が掛かる前から見て、五割増しに増えているが。

今の時点でそれが問題を起こすようなことは無い。

学者がシミュレーションで用いる事によってもお金が入るし。

お客も安定して入っている。

一部のヒットを飛ばしたコンテンツ。

リードシクティス艦隊や。

何より鉄板の恐竜などは、相当なアクセスを稼いでいて。

いずれにしても良心的な価格設定を崩していない事もあって。

現在エンシェントは金に困っていない。

金に困ったとしても。

昔と違って、金で簡単に人が死ぬ時代でもないし、金にそれほどの価値は無い。金は人間が生み出した最高の発明だ等という大嘘は、この時代そのものによって否定されているので。

私としては、ある程度気楽だった。

幾つかまで絞っていた論文を。

順番に読み直す。

そして一番良さそうな論文をピックアップ。

AIと一緒に最終精査をして。

そして法務部に回す。

後は法務部が処置を終えたら。

プログラム班と広報に廻し。

私も進捗を確認しながら。

作業をしていくだけである。

私の仕事量は増えていない。何しろ、CM作成を他の者に任せるようになったから、である。

これでぶつかり合う事も増えたが。

しかしながら流石に美術の資格を持っているプロ。

確かに良いものを作って来る。

ぶつかり合うと言う事は。

まだ話し合いが不十分だと言う事で。AIのアドバイスを受けながら緻密に打ち合わせを行い。

相手に私が納得いくものを、最初から作って貰えるようにする。

まだそれは完全には上手く行っていないが。

いずれ上手く行くようにさせるつもりだ。

自分の肩を叩くと。

作業を進める。

法務部が取引を済ませるまで、少し時間があるだろう。取引が完了しても、即座に動く必要はない。

今は昔と違う。

経済がサーキットバーストを起こしていて。

秒の差で機会損失が起きる。

そんな時代はもう終わっている。

金が絶対的な価値を持たなくなってから。

この時代がきてくれた。

非人道的に、人間の、それ以上に地球の命を刈り取っていく時代は終わった。

私は一生コロニーから出ないだろう。

だが、それは当然として。

この時代に生まれた事だけは。

感謝している。

地球と人間は既に切り離された。

散々無茶苦茶をしておいて。

人類も地球の環境の一部だなどという寝言がまかり通っていた時代は終わったのである。私としてもその方が気が楽だ。

ただでさえ人間とかいう欠陥生物に産まれたのである。

万物の霊長だとか、進化の頂点だとかほざく阿呆どもに囲まれる。

そんな時代に生まれていたら。

私は多分確実に迫害されていたし。

時代によっては魔女狩りにでもあっていたかも知れない。

時間が出来たので、少し悩んだ後。

クレープを食べに行く。

ただしAIに釘を刺された。

カロリーの計算をするので。

それ以上のものは食べないように、と。

此方も分かっているので。

鷹揚に頷く。

家を出ると。

AIはまだ話しかけてくる。

「マスター。 ストレスの方は、やはり減る様子がありませんね」

「負荷分散はしているものの、結局なんだかんだで人間と接触していますもの、当然ですわよ」

「エンシェントが政府公認のワールドシミュレーターになってから少し経ちますが、それでもまだ通院は続いています。 何かしらの工夫が、やはり必要かと思います」

「そうですわねえ」

確かにその通り。

私にもそれはよく分かっている。

まず第一に。

広報との折衝を、もっと簡略化したい。

AIに任せるわけにはいかないのが厳しい。

CM作成の際も。

相手にもっとスムーズに動いて欲しい。

ただ、相手に「空気を読んで貰う」だの、「忠実なのが社員」だのといった、とっくの昔に過去にブラックホールに蹴り込まれた思考を私は持つつもりはない。

社員達は自己主張してくれて良い。

AIのサポートを受けつつ。

それをきちんとまとめていくのが私の、社長の仕事。

エンシェント社長、春風世良の仕事だ。

クレープ屋に到着。

メニューを選ぶが、AIに二回駄目出しをされて。三回目でやっとOKを貰った。

今までに食べた事がないクレープだったが。

案外悪くない。

むしろストレスがたまっているときに食べる、クリームまみれの奴よりおいしいくらいである。

意外だと思いながら。私は食事を済ませて、家に戻る。

さあ、私が作り上げたもう一つの世界。

エンシェントの面倒を見なくてはならない。

だいぶ負荷は減ったけれど、それでもまだまだ負荷は大きい。

それでも私は。

やらなければならないのだ。エンシェントこそ、我が人生。エンシェントこそ、我が理想なのだから。

 

1、別の時代の地球

 

今の時代の人間は、遺伝子を無作為に組み合わせて作り出される。これは例外がない。

遺伝病が発生したら治し。

そして催眠教育でフルスペックを発揮できる。

得意分野を確定する頃には。

家と、サポート用のロボットが与えられ。

専属のAIがつく。

早ければ五歳くらいから仕事を始めるが。

それも家から出ることはなく。

リモートで行うのが当たり前の時代である。仮想空間を経由して、ロボットなどを操作したり。

或いは機械類を操作する。

そうすることで、人間は。

今の時代、誰もが人道的に、公平に生きる事が出来ている。

金の価値は既に過去ほどではなく。

金を蓄えても、無茶暴虐の類は出来ない。

昔はわずかな金のために人が簡単に死んだという事だが。

今ではそんな事もない。

また人間は基本的に集まらず。

仮想的に集まるSNSでも、監視のbotが働いているため。

炎上が拡大しすぎることは無い。

それでもSNSで炎上が起きる事はある。

そして何より高いのが犯罪の検挙率。

AIはサポートをしてくれてはいるが、人間は閲覧できない部分で常にログを蓄えている。

もしも主人が犯罪に手を染めようとした場合は止めるし。

止められなかった場合は警察にデータも提出する。

そしてその警察も人間よりAIが主体で動く。

結果、昔たくさん存在していた不平等だったり無能だったりした捜査、裁判は姿を消し。

知能犯の類も、活動はできないようになっている。

私はユカリという名前で。

ネットでブログを開き、ネットメディアをやっている。

本業は実のところプログラマーなのだが。

このネットメディアはほとんどおまけのようなものだ。

ネットメディアにはスポンサーがつくものもあるが。

それらは昔の悪名高いマスコミのように。

スポンサーの意向のままに事実をねじ曲げ、嘘八百を書き散らす。

故に逮捕される事も多い。

マスコミが死んだのは当たり前で。

「事実」では無く、「スポンサーに都合が良い情報」を垂れ流すようになったからである。それも、人命もなにも関係無くだ。儲かれば嘘をばらまいてもいい。人だって殺して良い。マスコミの思考はまさにそれで。そんな風に考え始めた時点で、マスコミは駄目だったのである。

私は個人でネットメディアをやっていて。

ブログに記事を載せるときは徹底的に調査をしてから行っている。

ずっと前から、私はエンシェントという古代仮想動物園が好きだった。

其処の社長とも個人的に、仮想空間でつきあいがあった。

多分本人は気付いていないだろうが。

私はエンシェントの社員の一人だ。

ちなみに最初期からのメンバーで。

法務部に属している。

社長には嘘をついたことがある。

法の勉強をした、というのがそれだ。

私は法に関する適性を見いだされており、現在では学者との交渉も大体私がやっているのである。

だから、社長が私の書いたブログを見てへそを曲げたときには悲しかったし。

今後も社長と意見が絶対に一致しない事も分かっている事は、あまり嬉しくはないのも事実だ。

だが、本人同士があわないからこそ。

こういう事もある。

なお、どうして相手が社長だと分かったかは。

色々理由があるのだが。

その全てが偶然なので。

敢えて誰にも口にするつもりはない。

私はずっと前から。

エンシェントのあり方には心を痛めていた。

作る古代動物園、ワールドシミュレーターとしての出来は申し分がない。本当に愛情が籠もっていて。何よりも素晴らしい。

だが見せ方が分かっていない。

素人と専門家。

興味を持つ者と持たない者。

好きな者と漠然と興味を持った者。

全てが嗜好が違う。

今はそういう意味で、多様性が許容されている。昔はそれこそ、何が好きだったら異常、みたいな話が平然と為されていて。それによって差別さえ行われていたと聞いている。今は催眠教育が徹底されることで人間がフルスペックを発揮できるようになったし、いわゆる虐めもなくなった。SNS上での虐めが起きた場合は、それは犯罪として処理される。会社内でもそう。AIが監視を常にしているからだ。

社長は多様性を理解しているが。

そういった意味での多様性、つまり嗜好の多様性をどこかで理解出来ていない所があった。

社長は優秀だ。

プログラマーとしてもデバッガーとしても。

何より古代生物に関する豊富な知識も発想力も群を抜いているし。

社長としても圧倒的に有能だ。

だがこれだけはどうにもならない。

当たり前の話で、何でも出来る人間なんていないのだから。

社長の場合は、人の機微が分からなかった。

AIが補助してくれる今、それは別に致命的な事では無い。

昔だったらそれこそ人格ごと否定されたかも知れない。

だが今では、AIの補助によって、「コミュ障」と昔呼ばれたような人でも、普通にやっていけるようになっている。

だが社長の立場で。

社長の行動はあまり好ましいとは言えなかった。

専門家を雇うべきだ。

何度もそう思って。意見もしたが。

社長は筋金入りの古代生物好きで。

古代生物の魅力を、全力で客に味わって貰いたいと、本気で考えていた。

残念な話だが。

人間は古代生物をそんなに好んでいない。

例えば昆虫を「地球外生物」呼ばわりする連中がいるように。

自分と姿が違う生物に対しては、それこそ「気持ち悪いから殺しても良い」呼ばわりするのが人間という生物だ。

だから社長のように、古代生物をこよなく愛し。

満遍なく愛するがゆえの行動など、誰にも出来ないのである。

それを社長は。

どうしても理解出来なかった。

社長の実年齢は知らないが。

多分十代前半だろうと思っている。

時々言動がやたら子供っぽいので、そうではないかと思っていたのだが。幾つかの傍証から現在では確信している。

私もエンシェントは愛しているが。

社長ほどの徹底した愛し方では無い。

他の人が、安全に触れられるように敷居を下げるべき。

そういう意味での言葉は。

長い間届かなかった。

今も、不満を社長は抱えている様子だが。

それでも容認はした。

それが大きな進歩である事は分かっている。それに、私だって欠点だらけの人間である。だから偉そうなことを他人に言うつもりはない。

社長は苦虫を噛み潰しながらも。

本来なら受け入れがたい言葉を受け入れた。

昔は正論を口にする人間は馬鹿にされたと聞いている。

正論というのは正しいから正論なのに。

愚かな話である。

少なくとも社長は。

正論を口にされれば。

きちんとそれを受け入れる器を持っている。

それだけでも、正論を馬鹿にしていた昔の人間よりも、遙かに器が大きいし。人間だって出来ている。

さて、今日も仕事だ。

今回は、社長が見つけてきた論文を書いた学者と。

私が交渉する。

昔と違ってエンシェントは完成度が高いワールドシミュレーターという事で、学者達の間で評判になっていて。

話を進めるのが極めて簡単である。

仮想空間で会いに行くと、カエルのアバターをした相手は。

諸手を挙げて歓迎してくれた。

此方はアノマロカリスのアバターを使っている。

「いやはや、エンシェントで私の論文を採用してくれるとは、とても有り難い話です」

「はい。 今回はお願いいたします」

「実はエンシェントには前々から足を運んでいるんですよ。 矛盾がないように生態系が成立するように、注意深くシミュレートして生物を配置している。 本当に素晴らしいと思います」

「大変嬉しい言葉です」

褒め殺しか。

本音からの言葉なら嬉しいが。

この手の言葉から。

自分に有利な交渉を引き出そうとする相手は珍しくない。

AIが控えているから、そういうのは見破ってくれるが。

あまり交渉を長引かせるのは得策ではないだろう。

早々に切り出す。

まず契約について。

それからシミュレーションの確認について。

幾つかの決まったテンプレートに沿って。

相手と交渉を進めていく。

学者と言っても、研究分野を離れるとさっぱり、というケースは実のところ珍しくもない。

昔カルトが抱き込む科学班には。

オカルトの思想にあっさり洗脳されたホンモノの「エリート」が多数含まれていた。

つまるところ、エリートは「スペックが高く」「頭が良い」などという考えは、夢想なのである。

むしろ詐欺師にとってはカモといっても良いし。

上手く意思を相手に伝達できる訳でも無い。

例えば、現在にも知られる思想家である韓非子などは、どもりの上に、相手に意思疎通が上手に出来なかったという史実がある。

学者はスペックが高いから何でも出来るというのは嘘。

むしろそんな嘘を信じると、痛い目にあうものなのだ。

丁寧に話を進めて行くと。

相手は笑顔のまま、契約を見ていく。

時々説明を求められるので。

AIに代行させる。

契約内容についての説明は、全て記録しているし。何より発言にミスをしないAIが行うのが鉄則で。

相手のAIも、それを補助する。

物わかりが悪い相手の場合、これで苦戦したりするのだが。

今回は、幸いそういうこともないようだった。

事実ろくでもない学者に当たって。

社長は散々苦しんでいた様子だ。

医者に負荷分散をしろと言われたようだが、まあそうだろう。

私だって、社長をしながら、こんな仕事をしていたら、精神を病む。今でさえ、時々メンタルケアを受けているのだから。

「それでは、契約成立と言う事で」

「了解だよ。 良い条件で助かる」

「ありがとうございます」

「実は此方でも、論文を書くときにエンシェントを何回か利用させて貰ったんだ。 格安であんな高性能ワールドシミュレーターを使えるから、本当に助かったよ。 今度は此方がエンシェントに役立てると思うと、嬉しいね」

終始友好的だったが。

契約が絡むと、豹変したりするのが人間だ。

最後まで油断は出来なかった。

仮想空間からログアウト。

ため息をつくと、ゆっくり水を飲み干す。

社長は若いが。

私も年老いているとは言えない。

しかしながら、この仕事は負担が大きいのだ。

AIに言われ、カプセルで休む。

確か社長が前に何処かで呟いていたが、最近は湯治を楽しんでいて。それで随分楽になったと言う。

湯治か。

私も試してみるのも良いかも知れない。

 

ブログを更新する。

エンシェントに関してのものだ。

社長とは最近メールをやりとりしていないが。

エンシェントに関するブログが更新されているのを社長は知っているらしく。時々見に来ているらしい。

私もエンシェントの社員ではあるが。

ブログを書くときは、可能な限り客観的に書くようにしている。

というか、そもそも法務部なので。

エンシェントで扱っている生物を、どうシミュレーションして、どう仮想空間で再構築しているかは分からない。

ある意味部外者のようなもので。

内容をおまけして書くことはできない。

更に実は内部関係者だとばれると面倒くさいので。

むしろ厳しく書くようにしている。

ツアー形式についてはとにかく褒めるようにしている。これが古代生物に興味を持たない相手には、一番良いやり方だというのは、私にも分かっているからだ。

まずは丁寧な説明で。

実際にどういう生物が生きていたのかを説明する。

その生物は生態系でどういう位置にいて。

どんな役割を果たしていたか。

どんな特徴を持っていたか。

完璧と言って良いほどリアルに再現されたエンシェントの世界で、様々な情報を一気に流し込むのではなく。

まずその時代の特色を見られるように、ツアーのコースを確認しつつ。

目当てとなる生物が出てくるころには。

その時代がどのような状態だったのかを知って貰う。

そういう仕組みにする。

ゲームで言うところのチュートリアルである。

このツアーも、社長はむくれて丸投げしていたので。

皆で相当にブラッシュアップして、丁寧に分かり易いように工夫していった、という話がある。

社長が筋金入りの古代生物好きで。

教育が浸透している今は、古代生物についての知識はあって当たり前、と考えている人なので。

会社の中でも、この話題はデリケートだった。

今は社長の顔色を窺わなければならない時代ではないけれども。

社長に負担を掛けるからだ。

社員の殆どが、社長が年少にもかかわらず、無茶で体を痛めている事は知っている。湯治をしている事まで知っている者はあまり多く無いだろうが。それでも、通院している事はほぼ全員が知っていると聞いている。

そういう状況で、丸投げされたツアー。

社長にとっての最大の妥協だと言う事も皆分かっているし。

あまり多くの事は口にしない。

故に客が満足してくれるようになると、みんな喜んだし。

社長が何も言わないのをみて、安心した。

いやなんだろうな。

それは分かる。

だけれども、受け入れて貰わないと困るのだ。

ブログを書き終える。

今回もかなり辛口の記事になったが。

不平等な内容にはしていないはずだ。

内部の人間だとばれないように。

AIにわざわざ精査までして貰っている。

ブログのアクセス数はそれなりに多い。

エンシェントの噂を聞いて。

どんな場所か知りたい。

そう思う客は少なくなく。

スポンサーがいないこともあって、公平性を確保しているうちのブログには、相応のアクセスがある。

なおスポンサーを申し出る企業が幾つかあったが。

全て断った。

スポンサーと癒着したマスコミがどうなったか。

知っているからである。

過去の悪しき歴史を。

今私が繰り返すことは無い。

ブログにはかなり鋭い意見も飛んでくる。

「客観的な記事だが、愛憎入り交じっているなあ。 全体的に非常に厳しい意見のように思う」

「でもこのブログを見た後エンシェントに行ったら、色々納得出来たわ。 ツアー形式のを見た後、カスタマイズを試してみたんだが、本当に放り出されるって感じで、何をして良いのかさっぱり分からん。 本当に何でも出来るって、何にも出来ないんだなって実感したよ」

「確かにな。 昔ゲームでも、何でも出来る何処でも行けるを売りにしていたジャンルがあったらしいけれど、そういうのに限って余程出来が良い一部を除くと、何をして良いか分からない、てなったらしいし」

「結局の所、余程の古代生物好きでないと、エンシェントを本当には楽しめないのかもしれないな。 だけれど、このブログに書いてあるように、向こうが敷居を下げてくれているから、こっちも楽しめるのは事実だ」

こっち、か。

まあ確かに、社長の古代生物好きは、尋常なものではない。

時々プログラマー達も引くという。

ただ、開発機で古代生物と触れあうとき、社長が生物を虐待しているとはとても私には思えない。

昔のいわゆる動物愛誤でもあるまいし。

仮想空間でしか出来ない事を。

相手に愛情を持ってやっているだろう。

それを誰が責められようか。

私はしばし伸びをすると。

メールを確認。

法務部の仕事だ。

SNSを見に行き。

炎上が起きている事。

既に監視botが動いている事を確認。

どうやらまた、エンシェントに行った客が。こんな醜い生物が、人間の先祖だとかあり得ないとか喚いているらしい。

定期的に出てくるのだが。

今の時代にも、宗教はまだわずかに生き延びていて。

生物は神が作ったと大まじめに信じている者はいる。

そういった者は偏見まみれでエンシェントにログインし。

その中で、「人間の先祖とされるもの」の醜さに驚くという。

そして「気持ち悪い」という理由で叩く。

そういえば、SNSに監視AIが存在せず、或いは機能せず。

まだまだ無法地帯に近かった頃は。

この手の人間がある程度の影響力を持っていて。

反ワクチンなどの非常に危険なカルト思想を、さも正しいかのように無責任に拡散していたとも聞く。

AIと一緒にチェックして。

既に炎上が収まりつつあるのを確認。

炎上の起点も。

監視botが既に発見し。

厳重注意の上、更に炎上関連のコメントを全て削除。

対応はほぼ完了していた。

私としては、これ以上する事もない。

法務部としてSNSと接触。

ログの提示を求め。

許可を受ける。

そしてエンシェントのHPにて、こういう炎上事件がありましたと、情報を公開した上で。

特定思想に沿ってエンシェントに威力業務妨害をする場合は。

法的措置を執ることを明言もする。

法務部は色々難儀な仕事で。

こういった厳しい告知もしなければならない。

相手が如何にカルト思想に染まっているとは言え。この手のカルトは病気と同じで、放置するとあっという間に感染していく。

手はしっかり打たなければならないし。

弱腰になったら終わりなのだと、示さなければならないのである。

人間はAIの補助でやっと知的生命体になれた。

技術の進歩で、バグ同然の存在だったのが。

生態系と切り離されることも出来た。

昔は人間は世界の癌そのもので。

あらゆる意味で存在そのものが有害だったが。

それも今は変わったのが有り難い。

それでも、法務部は。

法に沿って、厳しい処置を執らなければならない。

いつか、法務部の仕事を、AIに全投げ出来る日が来たら良いのだが。

AIの方でも、それは良くないと判断しているようで。

結局の所は、我々である程度は何とかしなければならない。

処置が終わったので。

メールを投げておく。

まあこの程度の炎上なら。

実際に法的対応を此方で取らなくても、SNSの方で勝手にやってくれる。

自分の肩を叩くと。

次のブログを書こうと決めた。

社長との道は交わらない。

それは分かっている。

だが、私は私なりに。

エンシェントを愛している。

それが故に、このブログは今後も続けていく。

それに、終わりは無い。

 

2、外側から見た仮想の過去

 

よくもまあ、ここまで愛情を込められたものだ。

エンシェントに降り立った私は、周囲を見回して感心する。

徹底的に作り込まれている。

妥協がない。

あるにしても、無視出来るレベル。

最新の学説に沿った古代生物たちが、文字通り生きている。仮想空間でだが。

私は今、白亜紀末の大絶滅についての研究をしている。

白亜紀末の大絶滅、いわゆるビッグファイブの一つは、避けようが無かった。

南半球を壊滅させた火山活動。

そして何よりも直径十キロに達する隕石の直撃。

この隕石の火力はTNT火薬換算で1億メガトンとも言われ、ツァーリボンバなど問題にもならない。

文字通り人類の作り出した核兵器など、この隕石の前には塵芥に等しい。

凄まじい大津波と。

巻き上げられた粉塵による長い冬の到来。

あらゆる生態系のニッチをみたしていた恐竜は。

これで滅ぶこととなった。

頂点であったが故に。

だが、その後哺乳類が台頭したのは、偶然に過ぎない。

哺乳類もまた、単弓類、キノドン類を経て、爬虫類から派生した生物であり。二億年も前から存在している。

だが哺乳類は、決して環境適応力に優れた生物ではなく。

事実恐竜が存在している間は。

手も足も出ず。

環境のニッチの最底辺で。

細々と怯えるように暮らしていた。

というか、白亜紀末まで哺乳類が絶滅しなかったのが不思議なほどで。

間違っても「進化の頂点」などではない。

学者である私は、それを知っていた。

だから、此処まで精度の高いワールドシミュレーターの存在はとても有り難いのである。

しかも設定などの機能は極めて充実していて。

学者用に貸し出されているこの開発機に至っては。

時間を進めたり戻したり。

更に細かく設定をする事が出来る。

一応現段階では、「事実としてどうなったか」がトレースされるようになっているのだけれども。

其処にプログラマーを雇って組ませたパッチを流し込む。

勿論研究の後はパッチを外して白紙化する。

エンシェントは、あくまで仮想動物園として運営されている方が「最新版」であり。

学者はそれを研究用に間借りしているにすぎない。

此方のデータは、本体から常時同期していて。

学者が開発機として用いるときには。

基本的にその同期を一旦切る。

政府は、基本的に学者の資格を取ると、ある程度の援助をしてくれる。

「どんな研究が役に立つか分からない」からである。

金の価値が殆ど無くなった現在。

来るべき別星系への進出に備えて。

人類は入念に準備している。

他の知的生命体に接触した場合、どうやっていくのかも、AIがあらゆるパターンを模索している。

相手がSF映画に出てくるような醜悪な侵略者の可能性もある。

いずれにしても、学者の資格は、今は催眠学習でフルスペックを引きだした人間が、適性を持っていないと取る事が出来ない。

またAIが補助して研究を行うため。

どんなトンチキに見える研究でも。

どんな成果を上げるか分からないのである。

そして私の研究は。

白亜紀末の大絶滅後。

何が台頭するか、である。

哺乳類が必ず台頭する、と応える学者は少数だろう。

パッチが流されたことが確認されたので。

私は周囲で生き生きと動き回っている恐竜たちに胸を痛めつつ。

破滅を開始させた。

時間を超高速で動かす。

入れたパッチは。

設定を、「史実をなぞる」から、「好き勝手にさせる」に変更するもの。

つまり哺乳類が環境のニッチに食い込まない可能性が出てくる。

見ていると、南半球で壊滅的な大噴火が開始される。

インド亜大陸が、ユーラシア大陸に激突を開始したためだ。

地球最大の山脈ができる程の大激変だった大陸衝突である。

その過程で活性化した火山の大噴火は、南半球を壊滅させていくのに充分だった。

それから五万年ほどおいて。

北半球を壊滅させる隕石が落ちる。

直径十キロから十五キロと言われているが。

いずれにしても、これにより地球の環境は激変。

環境適応能力に優れていても。

これはどうしようもない。

例えば、ペルム紀の大絶滅の後は。

同じように地球の環境が激変した。

30%代もあった酸素濃度が、10%代まで激減し。

結果として生物の95%が死に絶えた。

白亜紀の大絶滅にしても。

史上最強の戦闘力を誇った恐竜が絶滅した。

一時期人類は、無法を正当化するために「弱肉強食」という言葉を好んで使っていたと聞いている。

しかしながら現実はこれだ。

戦闘力など、何ら環境適応に関係しない。

圧倒的最強戦闘力が。

見る間に滅び去っていく。

環境に適応していたが故に。

そして冬の時代が訪れた。

さて、ここからがパッチの出来の見所だ。

何が起きるか分からないが。いずれにしても、その場で見る。

巨大な地震も大火事も津波も。

白亜紀末の大異変では全て起きた。

特に大火事は、全ての森が一気に燃え上がったほどの規模、とまで言われており。当時の地層に痕跡が露骨に残っている程だ。

この辺りは早廻しの速度を遅らせて確認する。

学者だから客観的に。

そう言われるが。

この辺りの光景は、古代生物好きにはつらいだろう。

海における圧倒的スタンダードだったアンモナイトさえ滅んだ異変だ。

これほどの壊滅的状況。

誰が耐え抜けよう。

冬の時代は長く続き。

そしてそれが収まったとき。

驚くべき光景が目の前に広がっていた。

恐竜が、滅びなかったのである。

恐竜には小型種も多数存在していた。

その小型種を中心に、再び爆発的な環境適応を開始。世界中に拡散を始めたのである。

激変の時代は。

小型種が有利だ。

それは分かっている。

恐竜の場合、小型種が壊滅してしまった、というのが大きかった。

そのifが、目の前で拡がっている。

指を鳴らす。

ちょっときざったらしく。

私自身はもう三十路で。

昔の基準で言うと言動からして「残念な美人」らしいのだが。

まあそんな事はどうでもいい。

海の中に移動。

此方も驚きだ。

わずかに生き延びた首長竜の小型種が。

爆発的に環境適応を開始していたのである。

ライバルとも言えたモササウルス類も、大型種の首長竜も絶滅してしまったが。小型種だけは生き延びたのである。

おお、と思わず声が漏れる。

こんな未来の可能性もあったのか。

恐竜の滅亡は確約されていなかった。

今回は完全にランダムに動くように設定していた。

だからこの結果は。

決して恐竜を依怙贔屓した結果では無い。

首長竜は恐竜ではないが。

ともかく、この結果は興味深いにも程がある。

一旦地上に戻る。

南半球では、頭足類が地上進出を開始していた。アンモナイトが絶滅しなかったのが大きかったのだ。

流石に火山活動と隕石による冬の時代のダブルパンチを食らった南半球では、恐竜は生き残れなかったのだが。

代わりにアンモナイトが生き延び。

そして今。

頭足類の悲願だった、地上進出を開始している。

また感嘆の声が漏れる。

此処まで精度が高いワールドシミュレーターだと。

こうも面白い光景が見られるのか。

私は映画の類で感動したことは一度もないが。

この精緻な世界に手を加え。

そして時代を進める事が出来たことは嬉しいし。

その結果、こんな素晴らしいものが見られると分かったら。

あらゆる年代の私が。

小躍りしていただろう。

更に時代を進める。

首長竜は環境適応を進め、南下。状況が落ち着いた海の天下を再び取った。

一方、海の中では驚くべき事が起きていた。

サメの絶滅である。

サメは最古参の魚類の一種だが。

深海棲の小型種を除き。

今回の異変で絶滅してしまった。

あれほど完成した生物が。

思わず驚きの声を上げてしまうが。

ある意味納得も出来る。

なにしろ現実ではあのアンモナイトが滅びたほどである。

各時代で示準化石とされるアンモナイトが、である。

サメが白亜紀末の異変で滅びていても、なんら不思議は無かったのだろう。

そのニッチを埋めたのは硬骨魚類たちで。

これは別に不思議でも何でも無かった。

サメのように巨大で、獰猛な種類も出現していた。

だが環境に再適応した首長竜の圧倒的な戦闘力の前には、彼らはただの餌に過ぎなかった。

とはいっても、大型の首長竜が絶滅した結果。

生き延びたのは、基本的に生態系の底辺にいた小型種ばかりだったので。

首長竜といっても。

先祖とは何から何までが違っていたが。

やがて、更なる変化が訪れる。

地上では、以前と全く違う形状に進化した小型種の恐竜たちが、南半球に進出を開始。先に進出していた鳥類と共に。一気に生態系のニッチを掌握していった。

其処には、昔地球で天下を取った獣脚類の姿はなく。

形こからして全く違う恐竜が、新たな王者としてのし歩いていた。

彼らは地上に上がったばかりの頭足類を容赦なく貪り喰い。

地域によっては絶滅させたが。

頭足類は環境適応力の高さを発揮し。

種によっては大型化を成功。

恐竜と互角の争いを開始する。

かくして地球は。

新しく出現した新種の恐竜と。

地上進出を成功させた頭足類。

そして弱者に甘んじていた最下層の首長竜が再度生態系のニッチを占めていき。

今の地球とは、全く違う姿になっていた。

哺乳類は相変わらず生態系の最底辺。

一応生き延びていたが。

頭足類にも生き延びた恐竜にも勝てず。

また、最底辺に戻ったのだった。

さて、一旦は此処までだ。

3000万年前ほどまで進めてみたが。

これだけのデータを取ることが出来れば充分過ぎるほどである。

データを記録させた後。

6500万年前まで戻す。

データの記録には、現在の記憶媒体でも少し時間が掛かった。

エンシェントでどれだけ膨大なデータが処理されているのか、という良い証左である。AIが警告してくる。

「一旦ログアウトして、データだけを見てはどうでしょうか」

「どうせ十万回はやるんだ。 最初の数回くらいは見せろよ」

「はあ、止めはしませんが……」

「……この世界、愛に満ちていると思わないか?」

AIは少し悩んだ後。

返答してきた。

「それは作り手のこだわり、という意味ですか」

「その通りだ。 私も幾つも仮想動物園を見てきたが、此処まで古代生物が好きで、再現する事に人生を掛けた場所を見たのは初めてだ。 エンシェントの噂は聞いていたが、なるほどこれなら政府公認のワールドシミュレーターとして採用されるのも納得出来る」

「左様で」

「そうだ。 私も心地が良い。 此処まで愛情に満ちた空間はそうない。 ……まあ細部には気に入らない部分もあるにはあるが、それは後でエンシェントの製作会社に報告してやるさ」

再び大絶滅から開始。

また、結果が変わった。

今度は恐竜は絶滅。

そして哺乳類も絶滅した。

まあ哺乳類に関しては、この大絶滅を生き延びられたのが不思議な位なのだから、仕方が無いか。

代わりに天下を取ったのは鳥類で。

爆発的に、あらゆる生態系のニッチを埋めていった。

なんと海中にまで進出していく。

まあこれにはペンギンという例が現在にもあるが。

あの比では無い。

超大型の、海棲専門の鳥類が出現していた。

もうこれは、元鳥類とでも言うべきだろうか。

海の中を悠々と泳ぐその巨体には、翼から変化したひれがついていて。姿も海を支配した首長竜やモササウルスにそっくりである。

かくして地球は。

鳥の時代になった。

面白い。

陸も海も鳥が席巻するとは。

なおこのケースでは、アンモナイトは絶滅を免れはしたものの。

残念ながら悲願である陸上進出は果たせなかった。

まあそういう事もある。

仕方が無いと、諦めるほかあるまい。

続けて次である。

今度は鳥類が絶滅し。

生き延びた小型恐竜が大発展したが。

一方で驚くべき変化があった。

南半球で、頭足類の環境適応が。

恐竜の大型化を上回ったのである。

コレは恐らく、鳥類が絶滅したことによって、環境のニッチが激変したからであろう。鳥類が早々に進出してくる前に。頭足類が陸上進出し、そしてどんどん安定した環境で巨大化していったのだ。

見境なく哺乳類が巨大化したのと同じように。

やがて南半球に再進出してきた恐竜と。

頭足類は激烈な死闘を開始した。

アフリカ象と同じサイズにまで成長した頭足類の戦闘能力は凄まじく。

まさに陸上要塞と言う趣だった。

だが、激烈な死闘は長続きしない。

元々恐竜は、更に巨大になる事が出来る潜在能力を持っていたのである。

このケースでも、獣脚類は滅びてしまっていたが。

元とは似ても似つかない姿になった小型恐竜たちは。

やがて頭足類を圧倒し始めた。

そして頭足類から頂点捕食者の座を奪い取り。

最強に返り咲いたのである。

とはいっても、元々最強だった種が返り咲いたのではなく。

恐竜の中でもマイナーだった種が、大絶滅を生き残り、環境適応をした、というだけの話であって。

それは決して恐竜がまた天下を取った、という安易な話ではなかったが。

さて、次だ。

何度も何度も見て。

そして飽きてから、仮想空間よりログアウトする。

後は自動でのプログラム実行に任せる。

オートで十万回。

同じ事を繰り返させ。

最終的な結果を集計し、統計を取る。

今回の実験の結果は、私にはまったく予想できない。

何しろ、白亜紀末の絶滅では、生物の傑作モデルだった恐竜やアンモナイトが絶滅しているのである。恐竜に至っては、生態系のあらゆるニッチに食い込んでいたわけで。最強の種が滅ぶのは当然として、全てが滅んだというのはあまりにも異常な事態だったのである。

文字通り何が滅んでもおかしくない。

哺乳類が滅んでもだ。

私が見た数回では、哺乳類は今のように発展できなかった。

だが、十万回繰り返せばどうなるか。

今の時代の量子コンピュータの能力なら。

ワールドシミュレーターを使っての高度な処理を、十万回繰り返すこともさほど苦労せず出来る。

コーヒーをロボットに要求し。

残念な美人と言われる私は。

ジャージのまま、髪の毛を洗濯ばさみで止め。

だらしなく椅子にヘタレ掛かったまま。

超高速で繰り返される生物の絶滅と再生を見ていた。

む、と呻く。

何回か、エンプティという結果が出ている。

確認すると。

その結果が出た回は。

目立った種が揃って完全に絶滅してしまい。

注目もされていなかった超小型種から、時間を掛けてまた熾烈な生態系のニッチ争奪戦が開始されている。

なるほど。

こういう結果になる可能性もあったのか。

まあ確かにあってもおかしくない。

南半球では大噴火。

更に隕石の激突である。

コーヒーが来たので、砂糖をドバドバ入れた後、飲み干す。

AIが呆れた声を上げる。

「そんなに砂糖を入れると体に毒ですよ」

「わーってる。 だから時々砂糖なしで飲んでるだろ」

「コーヒーもあまり体に良いものではありません」

「わーってる」

しつこいが。

AIは客観的に人間のためになる道具だ。

その忠告は真摯に聞かなければならないだろう。

グレープフルーツジュースでも作らせて。

それでも飲むとする。

これは健康に良いと知られているので。

AIも文句は言わなかった。

だが酸っぱいので。

飲んだ後、普通の水を飲みたくなるのが欠点だ。

いずれにしても、あんまり良い気分じゃない。

そろそろ食事をと言われたので、ロボットに適当に作らせ、適当に食べる事にする。開発機は勝手に動いている。しかも超高速で、だ。

わざわざ全部に目を通す必要もあるまい。

丸一日ほどで作業が終わり。

データが出てきた。

統計には充分なデータだ。

後はこれを、自宅の量子コンピューターで解析する。

エンシェントは、また別の機会に見に行くことにしよう。

あれは個人的には素晴らしいと思う。

今度は純粋な娯楽で行きたいものだ。

ほどなく、結果が出た。

白亜紀の大絶滅の後。

哺乳類が天下を取る可能性、2%。

これは中々に驚きの結果だ。

鳥類が29%。

小型種から再発展した恐竜が天下を取るケースが66%。

残りは今までに無い生物が出現するケースだった。

それにしても、2%か。実際には2.3%くらいだが、此処まで低いとは思わなかった。少しデータを更に掘り下げて調べてみるが、納得である。

恐竜が生き延びた場合。

まあ生き延びるのはまず小型種だが。

その時点で哺乳類の出番はなくなるのだ。

したり顔で言われていた、恐竜は進化の袋小路に入っていたとか言う説。

あれが大嘘だと、この実験結果が示している。

もしもタイムマシンが出来たり。

更に精緻なワールドシミュレーターが出来たら。

結果は違ってくるのかも知れないが。

現時点での結論はこうなった。

頷くと、私は論文に仕上げ始める。

世界を調整するために使ったパッチ。

そして結果のデータも。

全て論文に付与する。

論文を学会に提出後。

複数のAI、更に学者から精査を受け。

そして学会で発表する。

今の時代だから出来る、理想的な統計データによる結果の提出。

どよめきを誘うには充分な論文だった。

多分私に取っての最高傑作だっただろう。

実のところ、白亜紀末の絶滅の後どうなるかは、今まで散々論文が提出されてきている。

だが、エンシェントほど精度が高いワールドシミュレーターが出現したことによって。その全てが覆りつつある。

発表を終えると。

拍手をしてくれる学者もいた。

私はよれよれの白衣を着たまま、頭を下げる。

私自身は残念な美人のままだ。

だが、この論文は。

今後の生物研究に一石を投じる。

それは間違いの無い所だった。

 

3、驚きの経験

 

エンシェントという動物園が凄いらしい。

そうAIが教えてくれた。

まだ六歳になったばかりのわたし、あかりは。

なんだかいつも寂しくて。

ロボットに常に甘えていた。

何だか怖いのだ。

AIは教えてくれる。

それは本能というものだと。

催眠教育で色々な事を教わる。わたしは数学の適性があるらしく、このまま行けば数学者になれるらしいけれど。

それはそれとして、とてもいつも怖い思いをしていて。

夜中に怖くて目が覚めてしまうこともしょっちょうだった。

AIはそんなわたしに。

色々な気晴らしを提案してくれる。

ロボットが一緒にいてくれるから怖くは無いけれど。でも、ロボットが側にいてくれないと、何もできなかった。

昔の地球のデータを見て。

わたしは怖くなった。

人間が過密すぎる状態で住んでいた。社会というものが、今とは全く違う形で形成されていた。そんな中では、精神的に弱い者は真っ先に狙われ。そして迫害された。いじめと呼ばれるそれは。

される方が悪いとまで言われていた。

信じられない事に。

犯罪が正当化されていたのである。

わたしも今の時代に生きているから、もう六歳で、高度な催眠教育を受けて、色々知識を持っている。

でも、だからこそ。

昔の地球が如何に恐ろしい場所だったのかはわかる。

わたしがそんな場所にいたら、きっと周囲の同年代の人間や。親にまで徹底的に迫害されて、殺されてしまっただろう。

怖くて仕方が無くて。

そんな夢を何度も見た。

そのたびにさめざめと泣くわたしを見て。

AIは毎度、色々な気晴らしを提供してくれるのだった。

優しいけれど。

或いは私は。

親が欲しいのかも知れない。

矛盾した考えだ。

だってわたしが昔の、親子が一緒に暮らしていた時代に行ったら。同級生に殺されるか、或いは親に殺された可能性が高い。

多分わたしの中の。

人間としての本能が。

そうさせているのだろう。

人間は高度な客観性と、人間に反逆しない優れたサポートツールであるAIが登場して、やっと知的生命体になる事が出来た。

何度も言われてきた事だ。

それが事実である事は、わたしも分かっている。人間がフルスペックを発揮できる時代なのである。

昔だったら、わたしの年頃は無力極まりない何にも出来ない存在だっただろうけれど。

今はいっぱしの人間として人権も持っているし。

子によってはもう仕事だってしている。

大人と同じと判断されているのだ。

わたしはまだ少し早いとAIが判断して。

どんどん色々な経験をつませようとしている。

今回はそれが。

エンシェントだった。

古い時代の動物。

興味は少しあるけれど。

ちょっと怖い。

でも、最近政府がワールドシミュレーターとして採用して。多くの優れた研究成果も出しているらしい。

言われるまま、私は仮想空間にログイン。

AIにサポートされながら。

エンシェントに辿りついた。

色々な時代に行ける。

なんと地球が出来てからすぐの、細菌しかいないような時代にも行けるという。

高度なシミュレーターで。

1000万年前以降の最近の世界は見られないそうだけれども。

それ以外は文字通り何処にでも行ける、というわけだ。

凄いとも思うけれど。

何をすればいいのかよく分からない。

「マスター、如何いたしますか」

「その、何処へ行けば良いのか、分からなくて……」

「お勧めのコースを見てみましょう」

「うん……」

お勧め、というボタンを押すと。

それでもずらっと出てくる。

おっきな魚。

恐竜。

よく分からないイカみたいな生物。

みんな怖そうだ。

特に恐竜は凄く怖そうだった。仮想空間だから安全だと言う事は分かっているのだけれども、それでも見るだけで怖い。わたしなんてすぐに食べられてしまうだろう。そんな怖い生き物の側には、行きたくなかった。

「怖くないのがいいな。 可愛いのはないの?」

「マスターの嗜好からして、可愛いと言うのは哺乳類ですか? そうなるとごく最近の時代のものになります。 ううむ、お勧めのコースにはありませんね」

「小さな生物は?」

「ああ、それならば幾つかあります。 これはどうでしょう」

言われたのは、小さな蛸みたいな生物だった。

地上進出をしようとした直角貝、とある。

これなら怖く無さそうだ。

見に行こうとして、ボタンを押すと。

ツアーと、カスタムと別れる。

何だろう。

AIがすぐに分析してくれた。

「ツアーは透明な車の中から、当時の状況などを全て解説してくれるものです。 カスタムは設定を変更して、好きなように楽しむマニア向け、とのことですね」

「くるまの中から見るの?」

「そうなります」

「……」

くるまは。

嫌いだ。

昔の映像を見ると、車がひしめいていた。そして車による事故の映像も見た。酷い光景で、涙がでた。

あんなものにはのりたくない。

カスタムで。

AIが警告してくる。

「設定に注意してください。 マニアの中には、その時代の動物に襲われるのを楽しむ者もいるそうです。 勿論仮想空間内ですから、死んだとしても影響はありませんが、それでも怖い思いをしますよ」

「くるまはもっとやだ」

「うーむ、それならば……」

AIに補助して貰いながら。

設定を幾つかして、その世界に出向く。

そして、世界に出ると。

そこは、何も無い場所だった。

いや、砂浜というのか。

がらんとした海。

空の色も赤い。

此処は、とても精密なワールドシミュレーターだと聞いている。

昔の地球は、こんなに怖いところだったのか。

ぴやっと、思わず声が出た。

側をもの凄く大きな百足が歩いて行ったのだ。

そういう生物がいるという事は知っていたけれど。

何あの大きさ。

わたしよりおっきい。

襲われたら、きっと殺されてしまう。

膝ががくがく笑い始める。

それだけじゃない。

海に、とんでもなくおっきな魚がいるのが見えた。映画に出てくるサメより大きくて、なにより凄く怖そうだ。

涙目になるわたしに、AIがサポートをしてくれる。

「ガイドによると、此方だそうです」

「な、なんであんなに百足がおっきいの!?」

「この時代の節足動物は歴史上もっとも巨大化していました。 あれより大きなものもいたようです」

「もう帰りたい」

ぶるぶる震えているわたしに。

AIは諭してくれる。

「もう少し頑張ってみましょう。 此処では誰もマスターを傷つけないように設定してあります。 大きな百足も大きな魚も、マスターを襲いませんよ」

「うん……」

怖い。

だけれども、自分が言い出した事だ。

だから、見るだけはみてみたい。

砂浜という所を歩いて行く。

なんでこんなに歩きにくいのだろう。

時々大きな虫みたいなのが通り過ぎて、その度に怖くて跳び上がりそうになるけれど、必死に我慢する。

向こうは此方が見えていないようだし。

というか興味も無いようだった。

その方が此方としては嬉しいけれど。

みるだけでこんなに怖いとは思わなかった。この時代でこれだ。他の時代は、きっともっと怖いのだろう。

一番怖いのは、人間が一杯いて。

その中で暮らさなければならない時代だけれども。

それに比べればきっとマシだ。

言い聞かせて、歩く。

ほどなく、岩が海から出ている場所に出た。

磯、というらしい。

勿論仮想空間だから、傷を受けたりすることはないけれど。

AIに言われて、慎重に磯に歩く。

見ると、磯の中に大きな水たまりが出来ていて。

お魚や、何だかよく分からないイカだかタコだか分からないような生き物が、たくさんいた。

磯にも虫みたいなのはたくさんいて。

辺りをかさかさしている。

動きは噂に聞くごきぶりとか程早くはないのだけれども。

いちいち怖い。

「設定によって、向こうからは近付いてこないようにしてあります。 慎重に進みましょう」

「うん……」

「マスター、頑張ってみましょう。 外に出るのと違って、此処では人間と会うことはありませんよ」

「わかってる……」

おどおどしているわたしは。

きっと昔の地球では生きていけなかった。

殺された。

だから。

この怖い生物が一杯いる仮想空間の方が、きっとマシの筈なのだ。

ゆっくり呼吸して。

磯の生き物を見る。

マーカーによると。

そこだ、ということだった。

殻を背負った可愛いイカみたいなのが、身を寄せ合うようにしている。

時々顔を出すけれど。

すぐに殻に閉じこもってしまう。

岩の影に隠れて。

周囲から姿を隠しているようだった。

なんだろう。とてもシンパシィというか、そういうものを感じる。

イカはとにかく神経質に周囲を見回しながら。

磯からあがったり。

水にもぐったりして。

小さな獲物を捕らえている様子だ。

その一方で、大きな百足は磯にも容赦なく入ってきて。イカを見つけると食べてしまう。見つからないように、イカは必死。

何となく分かる。

百足の方も、生きるためには必死なのだ。

「これは直角貝という生物の末裔の様子です。 一度は海の天下を取った生物なのだそうです」

「こんなにちっちゃくて可愛いのに?」

「最盛期のものは十メートルを超えたようです」

立体映像と説明が出される。

AIの言葉通り。

卒倒しそうなバケモノがそこにいた。

形は確かに似ているけれども。

あまりにも大きすぎる。

何というか、本当に怪獣映画とかに出てきそうな生き物だ。こんなのが、海の中に本当にいたのか。

「直角貝は一度は最強となりましたが、最強の生物は環境が変動するとまっさきにその影響を最も強く受けます。 直角貝も壊滅し、そのわずかな生き残りが、こうして陸上進出を目論んだようです」

「陸上?」

「此処は磯です。 陸と海が交わる場所ですよ。 直角貝は頭足類で、頭足類は今までの歴史上陸上進出を果たせなかったのが不思議なくらいの生物です。 海から追われて陸に活路を見いだした。 そう考えると、この小さな直角貝の末裔達は、歴史の中にいるとも言えます」

よく分からない。

でも、それはとても悲しい事に思える。

だが、AIは悲しい事ではない、という。

「魚類の一部も、同じように追われました」

「お魚さんも?」

「はい。 海では頭足類と魚類が激しい主導権争いをしていて、環境適応の熾烈な競争が行われていました。 一部の魚類は新天地を求めて「川」に進出したのです」

「川……」

AIはなおも言う。

川と海ではまったく環境が違う。

現在では、川と海を行き来する生物もいるが。

汽水域という、川と海が混じり合った環境で体を慣らさないと。体を壊して死んでしまうという。

そんな状況にまで追い込まれたのだとすれば。

それはとても悲しいと思うのだけれど。

AIはなおも言う。

「浅い川で生きていくために、魚は環境適応しました。 その結果、やがて両生類という生物が誕生する事になります」

「両生類ってカエルさん?」

「はい。 両生類は陸上に進出を開始。 その中から爬虫類が出現。 爬虫類の中から、恐竜や哺乳類の先祖が出現して行く事になります。 つまり、マスターは魚が川に挑まなければ、存在しなかったのです」

よく分からない。

でも、一つ分かったのは。

この磯にいる可愛いイカ達は。

そんな可能性を求めてここに来ている、と言う事なのか。

だとすれば、可哀想なんて思うのは。

むしろ失礼で。

彼らの勇気に、敬意を払うべきではないのだろうか。

そう思えてきた。

わたしの目の前にいるイカ達はとても弱い。

中途半端な生き物だからだ。

わたしは何にも分からないけれど。それでも分かる。磯という境界線で、海の生き物にも陸の生き物にも追われながら、必死に命をつないでいる。

もしもこのイカ達が環境に適応出来ていれば。

陸上進出出来たのだろうか。

「本来お勧めされていたツアーだとこれで終わりです。 しかし、マスターは設定をカスタムしてここに来ています。 もっとこの時代を見ていきますか?」

「……少しイカさん達を見ていっていい?」

「たくさん死ぬのを見て行くことになりますよ」

「……それでもいい」

わたしは見届けたいと思った。

たくさんのイカさんが襲われて、食べられていく。

お魚さんにも。

百足にも。

何だかよく分からない生き物にも。

とにかく弱い生き物なのだと分かった。

でも滅びていない。

うまく隙間になる場所に入り込んで。

其処で暮らしているからだ。

もう少しで、陸上に進出出来るかも知れない。陸に上がった貝類はいると、AIは教えてくれた。

すぐにはぴんと来なかったが。

あっと思い当たる。

蝸牛やナメクジのことだ。

彼らは考えてみれば貝類だ。

陸上に上がる事に成功した生物は、いるのだ。

イカさんに出来ない事はない筈だ。

出来なかったのは。

運が悪かったから、というのが理由ではないだろうか。だって、此処まで、惜しい所まで来ているのだから。

大きな溜息が漏れた。

確かにこれは、本当にあとちょっとだったのだと分かる。

イカさん達は何も悪くない。

必死に生きられる場所を探し当てた。

考え方も悪くなかった。

勿論人間のように、AIのように考えてここに来たのではないだろう。さっきAIが言っていたように。川に追われたお魚さん達のように、きっと追われて此処まで逃げてきたのだろう。

あんなに大きかった体も此処まで縮んで。

食べる側だっただろうに、すっかり食べられる側になっている。

イカさんは今でも海に生きていると言う事は。

このイカさん達は、厳密には「イカ」ではないことは、さっき直角貝と言われていた事からも分かる。

私は見ていて感じる。

彼らは挑戦者であって。

決して負けたものではないのだと。

こういう挑戦者の中に。

自分達の先祖である、川に進出したお魚さんもいたのだと。

いつのまにか。

怖くて恐ろしくて仕方が無い大きな虫みたいな生物も、百足も、怖くはなくなっていた。なんでだろうか分からないけれども。

それはきっと。

みんなこのイカさんのような挑戦の果てに。

こうなったのだと、理解出来たのだから。

其処には強いも弱いもない。

強いも弱いもすぐに代わる。

だって、あんなに大きくて強そうだったイカさんが。こんなにちっちゃくて可愛くなっているのだ。

その逆だって、あり得るはずだ。

ぼんやりと、空を見る。

あかね色の空。

夕方でもないのに。

わたしは、帰ることに決めた。

 

仮想空間からログアウトすると。

少し調べて見る。

SNSで、エンシェントの感想を見てみると。

やっぱりツアー以外でエンシェントに行った人は。

何をして良いのか分からなくて、困り果ててしまう事が多いようだった。

わたしはくるまが苦手だから。

それをエンシェントに送ってみる。

「くるまが苦手です。 ツアーはくるま以外でも見られるようにしてください」

これで良しと。

いや、まった。

AIにサポートを受けながら。

エンシェントが良かったことを、きちんとメールに書く。

最初は怖かったけれど。

イカさん……直角貝の末裔が、磯で必死に生き抜こうとしている姿は、わたしの心を強く揺さぶった。

同じようにして、多くの生き物が環境に適応しようとして。

今の世界が出来てきた事も良く分かった。

暴力が強くてもどうにもならない事も。

だってあんなに強そうだった直角貝が。

あんなに小さくなってしまったのだ。

凄く強かっただろう。

無敵だっただろう。

でも駄目だった。

その事が、全て事実を物語っている。

AIが言ったように、最強だという事は、決して良い事ばかりでは無いという事実は。わたしにもエンシェントを見に行ってよく分かった。

メールを送ると。

これからどうしようか、ちょっと考えてみる。

何から何まで怖くて仕方が無かったけれど。

少しずつ勇気を出して。

色々なものを見ていきたい。

まずはエンシェントに行って。

怖そうだったものを、さっきのように一つずつ見に行くとしたい。

恐竜はまだちょっと怖すぎてだめだから。

少しずつ大きいのに変えていって。

そしてとっても大きいのは最後に見るようにすれば、きっとわたしでも大丈夫の筈だ。

「少し休憩を入れたら、またエンシェントに行きたいの」

「分かりました。 次はツアーをしてみますか?」

「くるま嫌……」

「承知しました。 カスタムについては此方でサポートします。 それで、次は何を見に行きますか?」

AIの補助を受けながら。

調べて見る。

エンシェントのブログを幾つか見つけたので、お勧めの動物を見繕ってみる。

あんまり大きいのは怖いから後回し。

小さいのから、順番に見ていきたい。

そうすると、アノマロカリスというのが人気だと分かった。

海の中の生物だけれども。

古い時代の海で、最初に王様になった生き物だという。

最初に王様になったというだけあって、本当に大きいものでも、わたしより二回り大きいくらいだとか。人気があるものは、私の腰くらいまでしかないそうである。それなら、きっと大丈夫だ。

海の中でも呼吸できるように設定を変えて。

更に海の中でも周囲を見られるように。

自由に動けるように。

攻撃もされないように。

そういった設定もしてから。

アノマロカリスを見に行く。

直角貝には元気を貰った。

あんな風に、可能性を探して、陸上に上がろうと考える生き物もいるのだと、わたしは知った。

それはとても尊い事だと思うし。

その挑戦が失敗してしまっただろう事は分かるけれど。

その全てが無駄ではなかったことだって分かる。

他に挑戦して成功した生き物はたくさんいるし。

それらがいなければ。

今の地球なんてないんだから。

昔は、努力や挑戦はバカがやる事、なんて事をいう人達もいたらしいけれども。そういう人達は、事実を見ていないだけ。

それがよく分かった。

最後まで諦めず、そして上手く行けば陸上に進出出来たかも知れない直角貝に謝れ。そうとも思った。

AIが設定を終えてくれたので。

アノマロカリスに会いに行くとする。

エンシェントのアクセス料金はとてもお安いので。

お菓子を買うのと同じような感覚で。

さっきのような、凄い体験をする事が出来る。

お金はまだ政府から出して貰っているし。

遊興費の中からでも。

エンシェントのアクセス料金くらいは、簡単に見繕うことが出来る。

わたしは、エンシェントが。

一回のアクセスで、すっかり好きになっていた。

 

エピローグ、全ての時代を経て

 

幼い子供らしい相手からの感想メールを見て、私はふむと唸っていた。車が苦手、か。あまり考えてはいなかった。

だが、一生懸命考えて書いたことが分かるメールだし。

なにより直角貝が必死に生きる姿に触れてくれた。

そう。

私が古代生物を見て。

感じ取って欲しいものを。

その子供は感じ取ってくれた、と言う事だ。

それだけで私には充分。

エンシェントを作った甲斐がある、というものだ。

殆どのユーザーは、ツアーで説明を受けながら流し見をして。

気持ち悪いだの可愛いだの言いながら。

暇つぶしくらいの感覚で、エンシェントに来て。そして去って行く。

お客様だから、相応の対応はしなければならない。

そしてツアーは必要だと言う事は、散々色々な例を経て分かっている。気にくわないが、それは事実で。

私が受け入れなければならない事でもある。

今回のメールをくれた子供は。

車が嫌い、という理由からツアーを避けたようだけれども。

それは後ろ向きな行動と言えるだろうか。

確かに苦手なものを避けた。

だが、それが故に新しいものに接する事が出来た。

その子供は、今ではすっかりエンシェントのファンとなって。ツアーを一切使わず、色々なお勧め生物を、順番に見に行っているという。

大きいのは怖いから、小さいのから順番に。

でも、いずれ勇気を出して、大きいのも見に行きたい。

そう何通か送られてきているメールには書かれていた。

社長に素通しして良いだろう。

そう法務部は判断したらしく。

私の所にまでこのメールは来た。

私としては、そうか、という言葉しか無く。

目尻を拭うしかなかった。

エンシェントが政府に認められ。

学者が使うようになりはじめてから数年が経ち。

既に私は、昔「成人」と呼ばれていた年齢に達した。

今の時代、肉体年齢の操作をやる人間は珍しくも無く。

全盛期の十代後半で加齢を止めてしまう者もいると言う。勿論その場合、相応のお金が必要になるが。

私は少なくとも、三十路になるまでは加齢してみて。

もしも体が動きづらいとか感じるようだったら。

その時は考えるつもりだ。

太陽系外への進出に向けて、人類は数百年単位での計画を進めている。

人間は増えもせず減りもせず。

同じ数を維持したまま。

老いて死んでいく人もいるけれど。それを考慮して、新しい命が作り出されている。

AIと上手くやり。

環境とは距離を取り。

そして資源を浪費することもなくなった。

そんな時代だから。

私はゆったり生きられる。

湯治に行く。

そう呟くと、AIは苦言を呈してくる。

「もう体は治ったではありませんか。 趣味としては頻度が多すぎるような気もしますが」

「確かに多いけれども、お気に入りなのだから仕方ないですわ」

「はあ、確かに甘いものを食べて過剰カロリーを摂取するよりは健康的ではありますが」

「そうそう、健康のためですわよ」

護衛用のロボットに身繕いさせると。

すぐに外に。

ベルトウェイに乗ると。

メールが来ていた。

どうやら、エンシェントを使った学者が、また何かの賞を取ったらしい。ワールドシミュレーターとしてのエンシェントはもはやすっかりその立場を確立しており。学者の利用は相当に目立っている。

料金が非常に格安だという事も手伝い。

エンシェントのクローンである開発機を上手に使って。

様々なシミュレーションを行い。

それで論文の裏付けにする。

その例も増えてきていた。

最初は年に十数件程度だったが。

今では年に千件近くが、エンシェントを活用した論文となっている。それくらい、エンシェントは利用されているのだ。

一般客と学者の利用者とでは、温度差が徹底的に違うが。

それもまた、私には良いと思う。

専門知識を持つ学者と。

そうで無いものは。

当たり前のように、ものへの接し方が違う。

ある爬虫類両生類の専門学者が。

ブラックマンバという危険な毒蛇を見せられたとき。

絶対に触りたくないと発言したという事だが。

これはブラックマンバが非常に危険な毒蛇で。

強烈な毒に加えて性格も凶暴極まりなく。

何よりも藪の中では最速で動くと呼ばれるほど、瞬発力の高い強烈な蛇である事に起因している。

素人だったら漠然と近寄りたくない、と思う程度だろうが。

本職だったら絶対に近寄りたくない、近寄ったら死ぬと思う事はある。

本職だからこそ。

そう感じるのだ。

逆もまたしかり。

本職だから、対応方法を知っていれば恐るるに足りない事を知っている場合は、勿論対応方法も変わってくる。

私はエンシェントをずっと造り続け。

エンシェントとともにあって。

多様性について。

あらゆる意味で学んできた気がする。

人間の多様性など、多様性の一端も一端。

生物は知れば知るほど。

あらゆる者がいて面白い。

人間が安易に接して良い存在ではないが。

だがそれを出来るようにしたのが。

仮想空間。

ワールドシミュレーターであるエンシェントだ。

ここでなら、人間は動物と自由に接する事が出来る。動物が嫌がる事だって、押しつけてもいい。

目に余る行為をしたとしても。

相手は電子データだ。

それ以上に、即座に復元することも出来る。

客が帰ったら元通り。

だからこそのエンシェントである。

命を軽視しているのでは無い。

そこにはない命だからこそだ。

私はエンシェントを愛している。

其処に住んでいる生き物たちは、私とスタッフが、愛情を込めて作り上げ、育て上げてきた存在達だ。

電子データではあるが。

それに変わりは無い。

だからこそ。

その良さを、普通の動物には出来ない接し方で接して欲しい。

あのメールをくれた子供のように。

実は、エンシェントでも、1000万年前より後の、最近の時代を扱ってくれないかという声も来ているのだが。

それについては断っている。

別のワールドシミュレーターを使って欲しい。

それは超えるつもりのない一線だ。

そう言って、断っているのだ。

政府は仕方が無く、エンシェント以外で候補を探しているようだが。中々完成度が高いワールドシミュレーターが見つからないらしい。

まあ、私以外にも。

仮想動物園に愛情を注ぐ者はいるだろう。

いつかきっと見つかるはずだ。

温泉に着いた。

すっかり常連になっている私だが。

気むずかしいと思われているらしく、店主も声を掛けてくることはない。

温泉を堪能した後。

オンドルで寝る。

メールは後で見る。

オンドルでゆっくり寝た後は。

エンシェントについての戦略について。色々と考えて行くとしよう。

古代生物たちは、歴史を作ってきた。

単に搾取し破壊し陵辱してきた人間とは違い。この地球で歴史というものを作ってきたのだ。

残念ながら知的生命体はでなかった。人間も含めて。

一時期持ち上げられた鯨類や象に関しても、それは同じだ。彼らも知性はあるが、業に支配されている事に代わりは無い。

人間はAIが存在して初めて知的生命体になれたが。

それまではただの地球の破壊者だった。

私は、一人の人間として。

人間のいない世界で。

環境適応にしのぎを削る生物たちの、出来るだけ真実に近い姿を描き出して行きたい。

それが、私のただ一つの望み。

ただ一つの願いだ。

この時代でなければ迫害され、命を落としていた可能性も高いだろう私の。

小さくて。

そして野心的な願いこそ。

エンシェントの、これからも変わりない発展なのだった。

 

(古代仮想動物園小説、不思議動物園・完)