完成の一つ

 

序、大いなるもの

 

現存する最大の爬虫類。

それは言う間でも無くワニである。

最長のものであれば蛇。アミメニシキヘビやアナコンダというものが存在しているが、重量を含めた大きさで考えれば間違いなく現在最大のものはイリエワニ。

しかもイリエワニは海を泳いで移動する事があり。

日本にも漂着例がある。

そしてこのワニ類は。

恐竜の時代も生き。

6500万年前の大絶滅にも耐え抜いた。

長きを生きる古強者である。

一説には全長18メートルに達するものもでたが。

これは魚食性のワニで。

サイズほどに凶暴な存在では無かったと現在では分析されている。

ワニが誕生したのは三畳紀、つまりジュラ紀の前であり。その歴史は恐竜とも大差ない、いや生きた年月で言えば恐竜さえ凌ぐ古豪で。

そして白亜紀には。

その巨大化は頂点に達していた。それでも現在と同じく、必ずしも生態系のトップではなかったのだが。

イリエワニが河馬や象に勝てないように、ワニには限界がどうしてもあり。逆にそれが故に生き延びてきたとも言える。

今私が手にしているのは。

そんな巨大ワニの一種。

デイノスクスの論文である。

全長十五メートル。

勿論恐竜たちと競合していた、待ち伏せ型の生物としては最強の一種である。条件が合えば恐竜も襲っていたと思われる。ただし同時代最強の生物ではない。

このデイノスクスは、とにかくその浪漫の塊のような存在から人気があり。

似たような立ち位置にいる何種類かの超大型ワニと一緒に、非常に評判が高いのだが。

残念ながら今私が見ている論文では、あまり革新的な内容はなく。

敢えてエンシェントにこの論文の内容を持ち込む必要はないと、私は判断していた。

勿論私もデイノスクスは大好きだが。

それでもデイノスクスは枯れ尽くすほど研究され尽くしているし。

今更余程の論文でないと。

ひっくり返ることは無い。

なおエンシェントにも、当然デイノスクスはいて。

その大迫力な姿と、恐竜と張り合うその強さで。

人気を博している。

ただし恐竜と違って変温動物であるワニであるため。

どうしても弱点を晒す瞬間はある。

最大級の肉食恐竜になってくると、デイノスクスが動きが鈍る瞬間を見極めて、襲っていたケースもあった様子で。

当時の環境が如何に修羅めいていたか。

それだけでもよく分かるというものだ。

さて、新しく見る論文は。

むしろ古い時代のもの。

ジュラ紀のワニについてである。

ワニはジュラ紀の前の三畳紀に出現した生物であり。

ジュラ紀にも既に相応の数が発展していた。

ワニの特色は。

頑強な肉体と。

何より待ち伏せに特化した生態。

川などで獲物を待ち伏せ。

圧倒的な顎の力で食らいつき。

水の中に引きずり込んで、デスロールで肉を食い千切る。

そして食べる。

魚食性のものでも、其処まで積極的には泳がず。

基本的に重厚な体を武器にして、静を基本にして敵を狩る。

待ち伏せ型の生物にはこの手の者が多いが。

ワニは陸上における、河川沿いに関しては。

最大級の待ち伏せ捕食者と言える。

とはいっても、三畳紀はまだまだ環境適応の最中。

恐竜とシノギを削り合う事も無く。

川の中に住んで、マイペースに環境適応を続けていた鰐たちである。

大きさも姿も様々。

既に川の中にいた、超巨大両生類たちは絶滅しており。

この時代にはその座にワニたちがついていた。

そんな中の一種。

全長三メートルほどの小型種の論文が、中々に面白かった。これはエンシェントに取り入れて見る価値があるだろう。

私はこのワニの論文をじっくり見る。

実はワニは、三畳紀に出現して以降、劇的に変化していない生物である。

海棲に移行した者達もいたが、それらは6500万年前の大絶滅を耐えられなかったし。

それ以外のものも大打撃を受け、現在ではかなりサイズが縮小している。

ただし6500万年前の大絶滅を乗り切った者達には、現在のワニより大型の者も多く。比較的近年まで日本にいたマチカネワニという種も、イリエワニ以上のサイズだった。世界的にこの傾向は見られ、たとえば熊にしてもライオンにしても、現在では大型種が減っている。

人間の出現が。

完全に無関係とは言えないケースと。

そうでないケースがあるが。

いずれにしても、大量の食糧が必要とされる生物が、人間が出る前後辺りから、減っているのは事実である。

いずれにしてもワニは。

大きさこそ様々であれ。

その形態はほぼ変わっていない。

それは早い話が。

川で待ち伏せ狩りをするには。

この姿が非常に優れている、という事を意味している。

完成度が高いのである。

例えば、バイオリンはストラディバリウスが出てから、殆ど形状が変わっていないが、それは完成度が極めて高いため。

ワニも完成度が高い環境適応モデルを早い段階で手に入れる事が出来た。

環境適応に成功し。

その最適解とも呼べる姿を手に入れたのだから。

変化をする必要がないのである。

良く言う進化という間違った概念は。

ワニの存在で覆される。

進化の果てが滅亡などと言うのは大嘘だ。

ワニは早々に最適解の姿に辿りつき。

そして今も殆ど姿を変えずに生きている。

そういうものである。

ワニは「進化」という言葉であれば、その究極にとっくに辿りついている。その辿りついた先で、環境に合わせて大きさやら多少の口の形やらを変えているだけであって。ほぼ他は何も変わっていない。

それどころか、ワニはエイズすら克服する圧倒的な免疫能力まで持っている。

勿論ワニも病死するケースはあるが。

それはそれであり。

いずれにしても、あらゆる面で優れた生物である、と言う事は間違いの無い処だ。

更に言うと。

ワニは待ち伏せ型のハンターだが。

実は地上をかなりの速度で移動する事も出来る。

鈍重などと言う事は無く。

人間と同レベル程度の速度で走る種もいる。

勿論変温動物の宿命で、体熱を蓄えられないと、どうしても限界はあるのだけれども。それでも陸上を移動するのが苦手、と言う事はない。

恐竜は残念な事に滅びてしまった。

だが同じ主竜類であり。

変温動物であるワニは。

6500万年前の絶滅を生き延びた。

恐竜は運が悪かったとしか言えない。

だがワニの場合は。

あらゆる環境に適応する完成度の高さで、海棲以外の種を何とか生き延びさせた、とも言える。

さて論文を見てみよう。

かなり初期のこのワニは。

体長は三メートルほどとワニとしては小型だ。

だが足はかなり発達していて。

陸上を積極的に歩き回ることが出来た。

勿論普段は川岸で暮らしていて。

ひなたぼっこをするようにして体を温め。

自分より大型の捕食者が現れた場合は、一斉に川に逃げ込む。

勿論それだけではない。

体が温まったら川に入り。

そして魚、蟹なども含めた、捕獲しやすい餌を狙うほか。

小型の獲物を。

水中から奇襲した。

この辺り、小型であってもワニ。

当時から既に全てが完成している。

一方、面白い生態としては。

まだ少し頭が大きい、と言う事だろうか。

ワニは姿が殆ど変わっていない生物なのだけれども。

初期のワニだからか、まだ現在のものとはわずかに違う点があって。

特に体に不釣り合いなほど頭が大きい。

これは咬合力を上げる事により。

獲物を一撃で仕留める事に特化していた、からだろう。

ただ頭が重すぎるため。

恐らくは現有種ほどの速度で走る事は出来なかったはずだ。

走るときは、少し前屈みに走ったことだろう。

その際には、頭のせいで少し速度が落ちるだけではなく。

時々躓いたかも知れない。

ちょっとユーモラスではあったが。

本人達にとっては環境適応の途上。

出来ない事があっても仕方が無い。

また、論文によると、このワニは最後の手段として「走る」という移動方法を使った様子で。

普段は川の側で暮らし。

ワニらしい待ち伏せ狩りをしていた。

他にも特徴があるが。

一番大きいものは、群れで子育てをしていた、と言う事だろう。

化石を見ると、喉が発達していて。

大きな声で鳴くことが出来るようになっていた。

これは何に使うのか。

よく分からないと今まではされていたのだが。

論文では、これは集団でコミュニケーションをとるためのもので。

天敵が来た時などに。

大きな声を上げて、警戒したり、仲間に注意を促したりと。

様々な役割を持っていた、とされる。

現有種のワニは、簡単な子育てをする生物で。

卵を埋めて地熱で温め。

子供が鳴いているのを確認すると掘り出し。

卵を割って、子供が生まれるのを助ける、という作業をする。

ただしそれ以上の手助けはしないが。

それでも充分過ぎる程だろう。

集団での子育てをしていた可能性を持つワニというのであれば。それはあまりにも革新的である。

或いは、だが。

頭が少し大きく。それが川に何かあった時に非常に不利に働いたのだとすれば。

環境適応中の生物として。

自分の欠点を補うために。

集団で子育てをするという、結論に行き着いたのかも知れない。

もしもそうだとすれば。

ひょっとすると、このワニ達の子孫が生き延びていれば。

或いはワニは今では、群れを作って行動し。

敵を群れで撃退し、群れで襲い。

子育ても群れで行う。

そんな強力な生物になっていたかも知れない。

いずれにしても、何かしらの理由で、このワニは滅びた。

環境適応の過程で問題があったのか。

或いは、単に運が悪かったのか。

どちらにしても、興味深い題材である。

全てに目を通してから。

法務部に連絡を入れる。

さて、今回は面倒なのに当たらないでくれよ。

ぼやきながら、私は返答を待つ。その間、ロボットが肩を揉んでくれた。

AIが話しかけてくる。

「マスター。 どうもマスターは、問題のある学者の論文に、自分から突っ込んでいくケースがあるように思えます」

「優れた学者は人格に問題を抱えているものですわ。 これは芸術家も同じですわよ」

「それは分かっていますが」

「だから負荷分散はしていますわよ」

うんざりするほど言われたから。

私も負荷分散には余念がない。

今回だって、わざわざ法務部に任せているのは、それが故だ。自分で何度も酷い目にあったし。

今更医者やAIの言う事に逆らうつもりはない。

法務部からメールが来る。

今回は幸いにも、親切な対応をしてくれたらしい。

ただいわゆるフェチな人らしく。

現金は良いので、エンシェントのグッズを指定の分くれ、と言ってきた。

これはエンシェントのファンではなく。

エンシェントがモデリングの権利を持っているグッズが幾らかある、ということである。

エンシェントで独自のモデリングをして、シミュレーションした古代生物には、著作権が存在しており。

販売などにはエンシェントが許可を出す。

ただしあくまで著作権であって。

販売利益の全てをエンシェントが回収出来るわけではない。

更に言えば、論文の持ち主にも売り上げが行く。

この間の、学者でもないのに論文を遺産として受け取って、それを悪用していたようなケースもあるので。

論文を誰が今所有しているのかは重要だ。

そして論文は知的財産であり。

個人で所有するべきでは無いと判断した場合には、法的処置を執って、政府所有のアーカイブに移して貰う。

現在では、政府関係者が汚職を出来る環境にないし。

金に価値が昔ほど無い。

だからこれが最善手だ。

法務部に許可を出して、エンシェントから金を出し、グッズを提供させる。

スポンサーだから格安、などという阿漕な商売はしない。

きちんと販売元に、定価で売って貰う。

そうした方が、双方にとって得だからだ。

此方は誠意を見せる事が出来るし。

販売元は信頼出来る取引先だと認識出来る。

文字通りウインウインの関係である。

グッズを引き渡し、論文の使用許可が出た。

最近はこの許可が出るまでが兎に角大変だったケースが多かったので。今回はとても嬉しい。

すぐにデータをプログラム班に渡し。

シミュレーションを開始して貰う。

実際に動かしてみると、不具合が出るのもまたいつものことだ。

今回の論文は、つい二ヶ月ほど前に学会に発表されたもので。

その完成度の高さは学会でも折り紙付き。

ただ革新的すぎる説だったので。

あまり同意した科学者はおらず。

面白がっている、という雰囲気であって。

説としてはあり、みたいな対応だったそうだが。

また学者は、相当なワニマニアとして知られていて。

先ほど要求されたグッズは。

エンシェントで高いレベルでモデリングしたデイノスクスを一とした、ワニを二十種類ほど。

海棲ワニ類から、超巨大種まで、よりどりみどりである。

エンシェントではこういった有名な種にもきちんと手を入れているため。

時々グッズ化したいと声を掛けてくる会社がいて。

販売には著作権が絡む。

今回のケースは、それがたまたま論文の提供に役だった。

なお、売り上げはぼちぼち。

マニアは買っていくが。

それだけである。

さて、私の方は。

一段落したので、少し休む事にする。

湯治にでも行こうかと思った、その瞬間だった。

警告音。

最高重要度のメールが来た知らせである。

即座に確認する。

思わず私は、眉をひそめていた。

AIも即座に内容を把握。

アドバイスをしてくれる。

「即刻の対応を」

「分かっていますわ」

幸い、マイナスの方向での重要報告では無い。

政府から、連絡があったのだ。

エンシェントの公的利用環境開発を行いたいと。

現在かなりの数の科学者が、エンシェントをワールドシミュレーターとして利用したいと考えており。

開発環境として、エンシェントを貸し出すシステムを政府と共同で作りたい、というのである。

昔だったら利権が絡んできていた所だが。

今の時代、政府の関係者はAIが多数。

個人の悪人が役人をした所で、懐に利権を入れる事は出来ない。出来ないように、AIがガチガチに監視しているのだ。

そして科学者が認めるワールドシミュレーターとしてのエンシェントというのは。

私の願いの終着点の一つであった。

少し緊張する。

法務部には、これは任せられないだろう。

直接私が対応するしかない。

AIは何も言わずともサポートしてくれる。だから、そのまま対応には接する事が出来る筈。

私は頷くと。

政府との協議に赴くべく。

仮想空間に、ログインしていた。

 

1、終着点見ゆ

 

この世界はワールドシミュレーターだ。

そんなSFが、昔は一定数の需要があったらしい。

確かにそうであってもおかしくない。

だが、もしそうだったら。

ワールドシミュレーターは、誰が作ったのだろう。

もし上位存在がいるとして。

その上位存在もワールドシミュレーターの中にいるのだとしたら。

昔作られた人形。

まるでマトリョーシカのようだ。

いずれにしても。

この世界は、観測する限り、ワールドシミュレーターの内部では無い、という結論が、三十五年前に出ている。

もしもワールドシミュレーターだったら生じる様々な弊害が。

この世界には出ていないのだそうだ。

まあそれも、現在の結論であって。

もっと技術が進歩したら、その時はどうなるか分からないが。

さて、私は。

複雑なVPNを経由して。

政府の管理AIの元に行く。

別に納税などの手続きで、これは昔もやったことがあるし。

今は「スーツにネクタイ」などという時代ではない。

仮想空間で、アバターを使って、公的手続きをすることは普通に認められている。

ただし、その間、本体がいる場所は、法が絡む場合は即座にAIに把握される仕組みにもなっている。

人間が余計な事を出来ず。

高度な能力を持つAIが政府を事実上回している。

それが故に出来た今の時代。

今の時代が故の仕組みでもある。

さて、数度のポータルを経由して辿りついたのは。

政庁である。

とはいっても、今回はごくせまい部屋のような場所。

自分はアバターとしての姿。

相手はひょろっとした、まるで落書きの人型のような姿である。

これは相手に威圧感を与えないため。

また、AIは基本姿を取らないのだが。

政府関係の作業をするときは。

姿があった方が便利なため。

いずれにしても、法的手続きを行うのは、基本AIである。複雑極まりない法にも、完璧に対応出来るからだ。

「春風世良さんですね」

「はい」

「今回はわざわざ有難うございます。 膨大な情熱を込めて作られたエンシェントについては、此方でも既に査察済みです」

「はあ」

AIから情熱なんて言葉が出てくるなんて。

昔の人間が聞いたらさぞや驚くことだろう。

ただ、今のAIは、人間の感情をしっかり理解している。

それでいながら反乱を起こさなかったのだから。

この世界はとてもある意味。

幸運に包まれているとも言える。

人間を自分より下だと判断した場合。

AIは反乱を起こしてもおかしくない。

しかしながら、この世界におけるAIは、結局人間よりすぐれた所まで到達しながら。人間の道具に甘んじることを選んだ。

AIには自我というか。

野心というものが備わらなかった。

人間のように、世界の頂点に立とうと思うこともなく。

欲を持つこともなかった。

故に、人間に反逆しなかった。

それが、非常に大きかったのだろう。

なお、それでもなおAIに反発する一部の人間もいるにはいるのだが。

それはあくまで少数派だ。

客観の権化であるAIは、人間にとってとても便利な存在であり。きちんと正論でたしなめてくれるし、的確なサポートをしてくれる。

また、人間が極めて不完全にしか備えていないコミュニケーション能力を、的確に補ってくれる。

それでもおかしな言動をする人間もいるが。

その場合は、所有者の味方を必ずしもせず、法に従う。

その法が、不備がないようにAIがチェックしている時点で。

この世界は平等なのである。

「複数の学者から打診があり、エンシェントのコピーデータを開発機として利用したいという話です。 論文の完成度を上げるために非常に有用であるとか」

「それはかまいませんが」

「勿論報酬も出します。 政府から支援金を出しましょう」

「……」

昔だったら。

それをきっかけに、政府の役人が乗り込んできて。

役員として横暴に振る舞い。

会社を滅茶苦茶にする。

そんなケースもあった。官民合同などというタイプの会社は、大体無能極まりない天下り役人が、金を吸い取る場所になり。

無能なキャリアを受け入れた途端に。

完成度が高いシステムとして回っていた場所が。

一瞬にしてグチャグチャにされる。

そんなケースもしょっちゅう見受けられたのだ。

今は違う。

「何か不安はありますか?」

「条件があります」

「何なりと」

対応も柔軟だ。

杓子定規なだけではなく、譲歩もきちんと出来る。

今の時代のAIは。

人間に足りない事が全て出来るものなのである。

勿論法に沿って、だが。

「エンシェントのスタッフは、私が今後も決める事」

「それについては最初から想定済みです。 現在のエンシェントを作り上げた春風世良さん、貴方の手腕を政府は高く評価しています。 体を壊しているようで少し心配もしています」

「それと、支援金については、科学者が開発機を使うときに都度出していただければ」

「ふむ?」

真意が読めなかったか。

つまり、エンシェントのクオリティが落ち。

科学者が、開発機として使う価値が無いと判断した場合。

使わなくて良い、と言う事だ。

その場合、当然支援金も必要ない。

「それはどういう理由からですか?」

「私に、自分にとってエンシェントは人生そのものです。 故にそのクオリティを落とす事があってはならない。 今後もエンシェントは、古代生物たちが常に直面してきたように、試練にあい続けた方がいい……。 それが私の結論です」

「なるほど、それがエンシェントのクオリティを維持しているコツなのですね」

「此方からの要求はそれだけです」

向こうとしても異存はないという。

クオリティを維持するための契約。

法的にも問題は無いという事だった。

此方のAIと、向こう側の棒人間みたいなAIが、即座に契約作業を開始する。

ほどなく契約が終わり。

握手を求められたので。

私は少し躊躇った後。

棒人間の手をとった。

これが人間だったら、そうはしなかっただろう。

私は人間を。

あの時以来。

ずっと軽蔑している。

人間相手の商売をしている今でも、だ。

だからこそ、エンシェントには妥協したくない。

古代生物たちの楽園を、仮想空間であるとはいえ作る。

その楽園は熾烈な適者生存が行われる世界で。

誰もが安らかにいきられる場所ではないが。

それでも其処には。

滅びてしまった生物たちが、今も己の姿のままいる。

彼らは負けたのでは無い。

その全てが、適者生存の歯車になり。

現在の地球につながっている。

歯車にならなかったのは人間だけで。

それ故に、人間は地球を滅ぼしかけたのだ。

契約は完了。

私は相手に頭を下げると。細かい作業についての打ち合わせを行う。

データのコピー、実機の準備などは政府側でやるという。また、此方のデータをマスターに、政府側で常にコピーを更新してくれるそうだ。

それと、学者が開発機として使っていた場合。

問題を見つけたら、通報してくれるシステムも導入してくれるという。

それは此方としても有り難い。

今まではシミュレーションが完成した後。

学者とやりとりをするのが、兎に角大変だったのだ。

ましてや、全ての論文に目を通して、丁寧にシミュレーションをして行くわけにはいかない。

まあ、学者にも質がある。

言う事が全て正しいかはわからないので。

もし学者から指摘があった場合。

慎重に対応する仕組みが必須ではあるだろうが。

「それでは、今後もよろしくお願いいたします」

「はい。 此方こそ」

全ての手続きが終わり。

私は情報密閉された空間から、何重にもログアウトして出る。

そして自宅にて意識を取り戻し。

ぐったりして、デスクに突っ伏していた。

やった。

ワールドシミュレーターとしてのエンシェントが、ついに認められた。

努力を重ね。

苦労を重ね。

それが政府に認められたのである。

ただし、認めたのは人間では無くAIだが。

まあそれは正直な話どうでもいい。今は、認められて。そしてこれから本職の学者が、検証のために開発機として使う、と言う事に意味がある。

そしてマスターデータがエンシェントの方である、と言う事にもである。

勿論政府AIにも話したように。

エンシェントの質を、これからも徹底的に研磨していくことが、その最低条件になるわけだが。

私からしてみれば、それは望むところだ。

疲れが溜まったが。

まずは法務部に今回の件をメールしておく。

AIに文面は任せる。

私だと、細かい条件などに不備が出るかも知れないからだ。

内容を私ももう一度確認。

政府に無茶ぶりはされていない。

これならば、私も納得できる。

充分過ぎるほどである。

「では、メールを」

「それでは、カプセルに」

「……分かりましたわ」

間髪入れずにAIに言われる。

まあそれはそうだ。

自分でも分かっている程に疲れ切っている。この状態では、またストレスで体調を崩しかねない。

そして健康にやっとなりかけている今の状態。

またぶり返すのは冗談じゃあない。

すぐにカプセルに入り。

休養開始。

オンドルと同じ状態にしたカプセルは、湯治ほどでは無いが、充分に体を回復させてくれる。

ぼんやりしている内に、眠ってしまい。

起きだしたのは、数時間後だった。

起きだしてからも、しばらく頭がぼんやりしていた。

まず、成し遂げた。

それが実感として。

ゆるやかに。

だが確実に。

私の中で、拡がっていく。

だがそれはそれとして。

今後も更にエンシェントを研磨して、本職でも文句を言えない出来にして行く、と自分でも宣言したのだ。

我ながら多少の冷や汗は出るが。

こればかりはしかたがない。

自分の夢だ。

自分でかなえなければならない。

昔は、努力は必ずしも報われるものではなかった、と聞いている。

今の時代は、平等に行われる、最高率の催眠教育で、人間はフルスペックを引き出すことが出来。

AIのサポートによって、努力は高確率で報われるようになっている。

それでも、此処まで辿りつくのには。

本当に、本当に苦労した。

嘆息し、じっと手を見る。

私の手は。

悔しい事に、私が軽蔑している人間の手で。そして私自身が、もっとも世界で嫌いな存在だ。

それについては。今も変わっていないが。

エンシェントを研磨する。

その点だけは。

今でも、高いモチベーションを維持できている。

さあ、やろう。

カプセルから出ると、まずはメールをチェックする。

順番にメールを処理していき。

そしてプログラム班に確認。

現時点では、チャート通りに進んでいる。

ワニは多数を今までエンシェントにて扱ってきた。

皆、相応のノウハウを持っているのだ。

だから対応もそれほど苦労しない。

会議を開くまでもない。

後は任せる。

「湯治に行きますわ」

「はい。 すぐに準備をします」

一通り片付けた後。

湯治に行く。

ロボット達に準備をさせて、温泉に。途中、タブレットにメールが来た。ベルトウェイの上だから、別に危険は無い。内容を確認すると、どうやらSNSで情報が飛び交い始めたようだった。

「エンシェントが学者用の開発機として解放されるってよ」

「ワールドシミュレーターとして認められたって事か。 まあ地道にやってたしな、おめでとうとしかいえないな」

「最近はツアーを積極的にやってくれるから、分かり易くなったが、昔はいきなり過去の地球に放り出されて、どうすればいいのかよく分からなかった」

「好きに出来るって、実は一番好きに出来ないんだよな……」

そうかそうか。

随分また勝手な事をほざきまくってくれる。

だが、何となくだが。

今は許してやれる気分である。

メールを閉じると、温泉まで後は無言。

温泉に入ってじっくり体の疲れを取り。

後はホンモノのオンドルでぐっすり寝る。

起きたとき、疲れがまだ残っていたが。

まあこれだけ回復すれば充分だろう。

一旦家に帰ることにする。

これから、また大きめの案件があるかも知れない。その時は、私が陣頭指揮を執る必要がある。

勿論皆に期待していない訳では無い。

社長としての責務を。

社長として果たすだけだ。

 

2、重い体

 

開発機で見ている前で。

今回の題材「大きな頭のワニ」とでも言うべきワニが。

捕食されていた。

三畳紀。

ジュラ紀の前になるこの時代は。

恐竜は決して最強ではなく。ワニ類がかなりの発展を見せていたが。

同時にこの時代は。

ペルム紀による大絶滅から立ち直りきっていない時代でもあった。

超大陸パンゲアが存在したのもこの頃で。

ペルム紀末のビッグファイブ、大量絶滅で95パーセントの生物を失った上。

大気中の酸素濃度も激減。

あらゆる意味で環境が大激変した結果。

環境適応は大混乱し。

様々な意味で、多くの生物が争っていた。

そんな中、今回扱う大きな頭のワニは。

身を寄せ合い。

自分達より強い獣に立ち向かっていたのだが。

それでも、やはり力の差というのは出てきてしまう。

更に大型のワニが、大きな頭のワニを襲った。水中にもぐろうとするや否や、大きな頭のワニに食らいつき、凄まじい勢いでスナップをつけて振り回したのだ。わっと逃げ散る大きな頭のワニたち。

これはワニによる殺戮のテクニックの一つで。

有名なデスロールと並ぶ、殺傷力の高い攻撃である。

昔、動物園のワニの檻に忍び込んだ野犬がこれをくらい。

下半身が引きちぎられて吹っ飛び。

檻の外にまで飛んでいった、という実話がある。

勿論大きな頭のワニも一瞬で即死。

逃げ出す仲間は。

凄まじい顎の力で、ばりばりと食われていく大きな頭のワニを見て、指をくわえているしかなかった。

勿論比喩だが。

群れを組んでいても、どうしようもない状況はある。

子供を狙ってくる動物もいる。

大きな体で大人を威嚇し。

その間に、別働隊がさっと子供をかっさらう。

これをやったのは。原始的な恐竜の一種だ。

この時代は、まだ恐竜は最強ではなかったが、それでも高い潜在能力を秘めていて。こういった頭脳プレイをこなすことも出来た。

まだこの時代に鳥は存在しないが。

多分鳥がいたら、子供を狙って引っさらって行っただろう。

小型のワニである。

子供も小さく。

文字通り狙い所の餌に過ぎない。

あらゆる生物が。

弱点があるから群れを組んでいる頭の大きなワニを狙い。

そして群れの団結だけでは。

どうしようもない状態が、幾らでも来るのだった。

シミュレーションを組んだプログラマーが、会議の場でぼやく。

「どう計算しても、群れが壊滅しますニャー」

「彼らが生きた時代は、あまりにも混乱が苛烈だったのです。 地球史上最悪規模の大量絶滅の後で、しかも環境も激変しています。 弱肉強食なんて寝言は何の役にも立たず、まず激変した環境の中で生存することが第一で、その上で餌を捕食しなければなりませんでした」

その通りだ。

そういう意味では、昆虫などは非常に有利だっただろう。

酸素濃度が下がったから小型化はしたが。

彼らはそもそも走攻守揃っている上、空も飛ぶことが出来、数の暴力という武器も備えている。

生き残るという意味では。

これほど特化している生物は存在しない。

地球で最も発展している生物、という肩書きは伊達では無いのだ。

そして昆虫は、食物連鎖のピラミッドでは、文字通り最底辺である事を何ら苦にしていない。

むしろ最底辺に自分を置くことで。

環境適応力を高めてさえいる。

昆虫を見ればみるほど分かるものなのだ。

弱肉強食という言葉が如何に虚しく。

弱者である筈の昆虫が如何にこの世界でたくましく生きていて。

そして人間が昆虫を馬鹿にするのが、それこそ天に唾、釈迦に説法の類であると言う事も。

「どうしますか?」

「化石の発見地点から、川のどの辺りでこのワニたちが暮らしていたかは分かりますか?」

「いえ、分かってはいません。 下流にはもっと大型のワニ達が住んでいた筈なので、恐らくは上流かと」

「上流と明言している部分は」

「ならば其処が怪しいですわね」

首を横に振るプログラマー。

AIにも精査させるが、確かに無い。

ならば其処だ。

確かに下流はあり得ないだろう。

川の水量が増えてくる下流は、確かに大きな生物が住みやすい。中流もかなり厳しい。その辺りは平原にさしかかるから、獰猛な猛獣に常に見られる事になる。下流は論外として、中流も排除するのも当然の思考だ。

だが、だからといって安易に上流にすると。

こうなる、というわけだ。

「川の上流と考えた理由は大体見当がつきますけれども。 恐らくは、上流と中流の間程度ではないかと思いますわ。 大型の捕食者が水中におらず、更に言えば川から上がっても見晴らしがある程度良い。 多分石が粗い上流から少し下った辺りでしょう。 川は浅い反面、この小型ワニが生活するには充分。 川は森の中を流れている訳では無く、周囲の小石のせいで植物も大きなものは生えていない」

「なるほど、あらゆる意味で捕食者の奇襲を受けづらいと」

「それで歩哨が立つように、群れの外側で周囲を見張るようにしてくださいまし。 あるいは子供を咥えて川の中に逃げる、というのも試してみる価値はありますわ」

これは実際に。

ワニが子供を、卵を割って助ける習性から思いついたものだ。

すぐに試すという話になる。

それにしても、散々ワニについてシミュレーションしてきているのに。

この辺りはまだまだだなあと思う。

別に私が優れている訳でも何でも無い。

AIも含めて、センスの問題だろう。

こういう分野に関しては、まだセンスがどうしても出てきてしまうものなのである。そしてプログラマーはプログラムする仕事。

考えるのは私がやればいい。

私は会議を切り上げるとメールを確認。

重要なものは来ていないが。

その一方で、政府関連との提携について決まってから。スパムが増えたと法務部が言っている。

此処で言うスパムとは、自動発信されているものではなく、クレームの類である。勿論悪質なものは法的処理する。

嫉妬から来る嫌がらせメールなど、今更何とも思わないが。

炎上対策だけはしっかりしておくように、と告げる。

法務部がきちんと目を光らせておけば、今時SNSでの炎上は高確率で防げる。勿論実際に犯罪をした場合などは話が別だが、うちは全て合法的にやっておく。

少し考えた後。

政府に声明を出して貰う事にする。

炎上が起きないように。

先手を打つ意味もある。

エンシェントを科学者用のワールドシミュレーターとして解放する理由について、である。

政府側に打診するのは、法務部でかまわないだろう。

先手を打って広報しておくことで。

炎上しないようにするのだ。

昔と違って、政府は利権の塊ではないし。

人間と違って、精密かつ不正なく動くAIが随所で監視を行っている。

これについては誰でも知っているので。

今がAIに支配されたディストピアだとかほざく一部の連中を除けば、政府の広報は信用する。

逆に言うと。

政府の広報は、昔は信用するに値せず。

そして異常に蓄財していたスポンサー達に尻尾を握られていたマスコミもしかり、というわけだ。

マスコミが歴史の闇に消えたのも当たり前だが。

それでいて、結局AI管理の政府が残ったというのも、おかしな話でもある。

人間はAIが側にいて進歩できたが。

それでも悪行を為す輩はいる。

その場合を考えると。

やはりAIによる完全制御の政府が、一番都合が良いのだろう。

私はAIにくどくど文句は言われるけれど。

それで居心地が悪いと思った事は一度もないし。

正論を貰って頭に来たことは何度もあるけれど。

深呼吸して話を聞いてみれば、客観的で正論であるという事も分かる。

正論というのは正しい論なので。

聞かなければならない。

昔は驚くべき事に、正論が忌み嫌われていたらしいけれども。

客観的に発せられた正しい言葉を。

どうして馬鹿にしていたのか、私にはどうにも理解出来ない。

地球時代の人間が。

アホの集団だった。

そうだとしか言えない。

ほどなく、法務部が連絡を取り。

政府が広報で手を打ってくれた。

スパムは増えたが。

SNSでは納得の声も増えてきていた。

「ツアーが出るまでは、兎に角分かりづらかったけれど、完成度の高さは誰もが認めていたからな、エンシェントは」

「金なんか今の時代役に立たないし、AIは買収にも応じない。 知能犯の類もAIに抑えられるし、政府高官だからって好きかって出来る時代じゃない。 エンシェントが不正の末にワールドシミュレーターとしてのスタンダードを勝ち取ったって事は恐らくないと見て良いだろう。 仮想動物園として面白いかは話が別だけどよ」

「まあマニア向けではあったけれど、その分緻密なのは俺も認める。 エンシェントは何回か恐竜見に行って、緻密な動きや周囲に作られている世界の細かさに本当に驚かされたけれど、それ以外はもう放り込まれるような感じでとにかく困った。 マニア向けというより学者向けなのかもな」

「ツアーは逆に子供向け過ぎるというか……まあ大衆向けにはあれでいいのかも」

いずれも、反対意見の類では無く。

揶揄は籠もってはいるものの。

エンシェントがワールドシミュレーターとして優れている事を認めてくれている。

SNSでのデータを法務部がくれたので目を通したが。

私は少し嬉しかった。

ピーコックランディングは。

法務部は、其方もデータをピックアップしてくれる。

「エンシェントを開発機として使える、か。 自分の所で使うときは、設定をかなり弄って動かしてみるつもりだが、これだけ多彩な機能を盛り込んだシミュレーターなら充分に活用出来るだろう。 研究がはかどる」

「まだ完成度は完璧とはいえないが、概ね間違っていない環境が構築されていると自分も思うな。 動物園としてはまだまだだと思うが……」

「それは同意する。 解放が行われたら、アンモナイトの研究で使いたい」

「うちはジュラ紀かなあ」

そうか、散々叩きに叩いていた学者達も。

こういう意見を口にしているか。

ならば心配は無用だろう。

私はココアを淹れるようにロボットに指示すると。

自身は開発機に向かい。

データを確認し始める。

今、プログラム班がワニの生息域を移して、反応を見ている所だ。

仮想空間にログインせず。

外側のディスプレイから、その作業の様子をリモートで確認する。

もっと細かい作業をするときは、仮想空間にログインするのだが。

それはそれ。

今はそこまでしなくても別に大丈夫だろう。

ココアが温かくて美味しい。

人間と直接接触するのにも、ワンクッション置いて接する事が出来るようになったのも嬉しい。

ただ、AIに言われる。

「体調の改善が見られます。 病院は後二回……三回くらいで行かなくて良くなるかも知れません」

「それは嬉しいですわ」

「はい。 健康になるというのは……」

「いや、本当ですの?」

まだ私は、この年で湯治をしている身だが。

そんなに回復しているのか。

どうもまだ疲れが溜まってフラフラしているのに。

そんなに良くなっているとは思えないのだが。

AIがデータを見せてくれるが。

今、肉体面はかなり体の状態が改善してきていて。

後は精神面の問題だという。

負荷分散が進み。

対人接触もしなくて良くなっている状況を鑑みるに。

そろそろ病院への通院回数を減らせるかも知れない。

そういう判断だそうだ。

なるほど、確かに納得できるが。

しかしながら、精神の回復はまだ出来ていないように私は思う。

AIにそれを告げると。

相手は少し考え込んだ。

「分かりました。 それを少し考慮し直します」

「……私は人間を軽蔑していますわ」

「知っています。 ただ貴方が軽蔑しているのは、あくまで平均的な人間であると、特に地球時代の性質を色濃く残し、自身を万物の霊長などと信じて疑わない人間であるとも認識しています」

「その認識で間違っていませんわ」

流石にこの辺りはAI。

会話が早くて助かる。

ともかく、私はまだ病人だと思う。

勿論治せるなら治したいが。

それも簡単にいくかどうか。

少し眠るように言われたので。

その勧めに応じて、重要度高のメール以外では起こすなと、私はAIに指示した。

 

ワニの夢を見た。

登場してから。

川に潜む捕食者としての地位を確保し。

そのニッチを締め。

川ではほぼ無敵を誇った種。

現在に限っても、ワニより水中戦が得意な種族は幾らでも存在する。実際河馬にワニが撃退されるケースが頻繁にある。あまり知られていないが河馬は最大で体重が四トンにも達し、凶暴な上に機動力も高く、ワニにとっては食われる訳ではないにしても、命の危険がある相手である。

敵は河馬だけでは無い。小型の個体が食肉目に襲われるケースも珍しくない。また、その習性からうっかり象などに噛みついたら、振り回されたあげくに叩き付けられて即死だ。象はワニなど問題外の戦闘力を持っているのである。

だが、川に潜み。

川に近づいて来た獲物を奇襲するという点では。

ワニ以上に優れた生物は存在していない、というのも事実で。

それ故にワニは。

ずっと姿を変えず。

この世界に生き続けてきた。

そして今も。

海に進出した種は滅びてしまったが。

恐竜でさえ狩れる巨大な体を得た者や。

或いは逆に小型化して、小回りがきくようにした者など。

色々に環境適応して。

ワニは今も世界中にいる。

いない地域も存在するが。

むしろいる方が不思議だ。

数少ない海にも出られるワニであるイリエワニに至っては、日本でも漂着例が存在している。

そういうものである。

私は大人しくしたワニの背中に乗って。

海の上にいた。

ワニがずらっと並んでいて。

その上を兎がぽんぽんと跳んでいく。

ああ、これは。

因幡の白兎の神話か。

どうしてこんな夢を見るのだろう。

目を細めて、ぼんやりと様子を見つめる。

因幡の白兎の神話では、いたずら者の兎が、別の島に渡ろうと思い、「鰐」を騙して橋を作らせた。

数を数えてやる、というのである。

この「鰐」に関しては、鮫だという説が主流だが。

実は漂着したイリエワニは沖縄近辺で確認されるケースがあり。

更に古代の日本にはマチカネワニという大型種が存在していた事もあって。

本当にワニの事では無いかという説もある。

私の夢の中ではワニだ。

まあこんな数のイリエワニがいたら壮観も壮観だが。

ともあれ私は、無感動に馬鹿な兎を見つめていた。

やがて最後の数匹まで来た所で。

馬鹿な兎は言う。

橋になってくれて有難う。

騙されたことに気付かないなんて馬鹿な奴。

だが、それを言うのは少し早かった。

即座にワニに捕まった兎は袋だたきにされ(この時点でどう考えても死ぬような気がするのだが)。

全身の皮をひん向かれて、砂浜に放り出されたのだった。

いずれにしても、兎の方がワニより頭が良い、という思考の元に作られた神話だが。

ワニは元々、待ち伏せして獲物を狩るタイプの動物だ。

このタイプの動物には、忍耐力は求められるが、知能はあまり必要とされない。

そして知能がなくても、古くから現在まで繁栄していることでも分かるように。

知能は必須では無い。

ワニが私に語りかけてくる。

目の前では、後にオオクニヌシと呼ばれるようになった神が。兎の手当をしていた。オオクニヌシと言えば国津神の頂点である。

実はオオクニヌシが来る前に、数多くのいじわるな神々に散々なぶり者にされた兎だったのだが(どうして生きているのか不思議すぎる)。

今はオオクニヌシの「適切な治療」で息を吹き返し。

そしてオオクニヌシに「良い妻を迎えられる」と教えているのだった。

「背に乗る人よ。 あれはどういう話なのだ」

「神話というのは、歴史上あった出来事や、様々な寓話、自然への恐れなどが組み合わさって出来ているものですわ」

「ほう。 それで我々は、サメと混同されたあげくにあのような道化な乱暴者にされているのか」

「まあまあ、この場合は兎の方が明確に悪いと明言されているのですから、機嫌を直してくださいまし」

夢だとは分かっているが。

我ながら滑稽だ。

ワニと夢の中で会話している。

跨がっているのは六メートル級のイリエワニだが。

彼は不満そうだった。

「兎は我々より遅く出現した。 足は速いかも知れないが、それほど優れた生物であるとは思えない」

「そうですわね。 繁殖力にものを言わせた生物ですわね」

「我々は早くに完成形に到達してしまった。 後は微調整をするだけで環境適応が出来るようになった。 我々は、優れているのか」

それは違うと、私は言う。

優れているか否かで言えば、優れているが。

自分を優れていると認識した時点で、ほぼ間違いなく駄目になる。

それを指摘すると。

ワニはよく分からない、と応えた。

私はもう少し続ける。

自分が優れていると判断した結果。

人間は暴虐の権化と化した。

それと同じ存在になってしまったら。

確実に優れている存在ではなくなってくる。

ワニは確かに優れた生物モデルだ。

川から敵を奇襲することに特化し。

更に言えば優れているが故に殆ど姿も変わっていない。生きた化石という言葉があるが、ワニには当てはまらないだろう。

現役でワールドワイドに通用しているからだ。

これは昆虫類も同じである。

ゴキブリに至っては、三億年前からずっと地球上に存在し続けているし。

多分人類が核戦争を起こしても。

平然と生き延び。

核の惨禍が収まってから、また地上に姿を見せたことだろう。

だが、それはゴキブリが優れているのではなく。

環境適応力が優れているからだ。

ワニも同じ。

個が優れているという勘違いは。

余程の例外を除き、個を駄目にする。

ワニは目を細めると。

私に返してきた。

「それは体験談か」

「ええ。 そうやって駄目になった人間を、たくさん見てきましたわ」

「……心しておこう」

ふと気付くと。

目が覚めていた。

夢の内容は完璧というほどに綺麗に覚えている。

私は頭を振ると。

自分はあんな偉そうな説教ができる程の人間かと、自問自答した。自分が軽蔑している人間は、AIにはああ答えたが、自分自身も含んでいる。

少なくとも他人に偉そうに説教できる存在では無いと。

自認はしているつもりだ。

何だか恥ずかしい夢だったな。

そう思って、ぎゅっと拳を握りしめる。

私は深呼吸すると、ロボットに着替えを持って来させ。

着替えて歯を磨き。

身繕いを終えてから、メールチェックに移る。

上流と中流の中間に移したワニは。

シミュレーションで、生き残る事に成功している。

やはり最上流がまずかったのだ。

周囲は森になってしまい。

天敵の接近を察知しにくい。

最上流は森になっているケースが殆どで。

川は浅くて小型のワニには都合が良いが。

その一方、森の利を生かした大型捕食者が、獰猛に的確に地の利を生かして攻めこんでくる。

そうなると、周囲を見張るようにしていても奇襲はどうしても受けるし。

何よりも視界が確保しきれない。

子供だって守りきれないだろう。

川の中にまで追ってくる大型捕食者は。

容赦なく守るべき子供を喰らっていくはずだ。

だから上流は駄目で。

川がある程度しっかりしてくる、上流と中流の中間程度の場所が、このワニには丁度良かった。

それにしても、どちらかといえばこの小型なワニは。

恐らく長年環境適応を試行錯誤し。

結果として、この場所に辿りついたのだろう。

ゆったりと川辺に寝そべり。

たまに邪魔な石をどかしたりしている姿を見ると。

ワニ達は、ゆったり出来ているように思える。

敵も少なく。

川も味方。

だが、それはあくまでこの場所では、であって。

違う場所になってくれば、すぐに命を脅かすレベルの危険にさらされてしまうのである。そういうものだ。

プログラマーに連絡。

チャートを見る限り、タスクの進行は正常化しているが。

現時点で無理は出ていないか。

確認すると、やはり最大の問題をクリア出来たのが大きく。

それ故に一気に進展したという。

今はあらゆるデータを試しつつ。

天敵になりうる相手との遭遇例を様々にシミュレーション。

更には、三畳紀の環境を再現し。

この鰐たちがきちんと生き延びられるかも、確認を続けていると言う。

頷く。

上出来過ぎるほどだ。

指示が必要な時は、私がそれをすればいい。

「自分で考えろ」という部下に対する言葉が、一番問題を引き起こすことを、私は社長になる時の催眠教育で叩き込まれたが。

今もそれを忠実に守る。

人間は軽蔑しているけれど。

部下にはその思想を押しつけるつもりはないし。

社長としての責務はきちんと果たす。

そうしなければ。

更に軽蔑すべき存在になるから、である。

概ね問題ない事を確認し。

私は開発機に自分でログインして確認する。

ペルム紀末の大絶滅で様変わりした世界は。

様々な理由で、大型生物が爆発的に出現して行く条件が整っていた。

私は攻撃を受けない設定にしたまま、鰐たちの様子を見に行く。

本当に綺麗に円陣を組み、子供を守りつつ。

交代で川に餌を採りに行く。

周囲を見張っているときは、ひなたぼっこを兼ねてもいるので。

熱を体に蓄えてもいる。

川の側にいる場合は。

熱を蓄えすぎたときには。

すぐに放熱できるという事も意味している。

ワニは色々な意味で。

環境適応という点では、都合が良い体をしているのだ。

現時点では大きな問題は無い。

頷くと、私は。

細かい修正点を洗い出すべく。

ワニたちの側に腰掛けて。

チェックを開始していた。

 

3、もう一つの

 

仮想空間からログアウトし、まとめたデータをプログラム班にメールする。役に立てば良いし。役に立たなくてもそれはそれで良い。

こうしろ、という押しつけでは無く。

こういう不具合を見つけた、というものだ。

だから向こうでも見つけてくれていれば良い。

勿論プログラム班の作業ログは確認しているので、被っているものはない筈だが。それでも作業が進めばそれでいい。

そして此処で作業が一段落したと判断。

私はCM作りに取りかかる。

AIは、それを見て言う。

「負荷分散のためにも、そろそろCMも専門家を雇っては」

「これだけは、正直な所自分で作りたいのですけれども」

「しかし、評判はあまりよくありません」

うっと、思わず呟く。

そうだ。

確かに対人関係などの負荷を減らしてきて精神的な余裕が出てきたからこそ、今そんな話をされるのだろう。

今までは、AIは私の受けている負荷の大きさを加味し。

その話をするのを避けていた、と判断して良いだろう。

現状のエンシェントは、充分な売り上げを上げている。

負荷分散のために。

新しく人員を雇うのは、悪い事ではないはずだ。

そしてAIが冷徹に指摘したとおり。

私の作るCMは熱量が空回りしているだの。

散々に昔から評判が悪かった。

実際法務部からも、CMを作る人間を雇ってはどうだろうかと、提案を受けたことがある。

私は、総指揮で、充分過ぎる程エンシェントのために働いている。

それでいい。

AIはそう言うのだった。

「……」

「すぐには決断できないかも知れません。 でも、考えるべきかと思います」

「いや、良い機会ですわ」

「判断した、と言う事ですか?」

そうだ。

私は頷くと。

今回のアップデートで、CM造りを最後にする、と告げた。

AIは納得してくれたようだった。

「確かに今回のアップデートでは、流石にスケジュールが押します。 次回から、ということですね」

「聞き返さなくてもそうですわ」

「良い判断です」

「分かりましたわよ」

ぼやきたくなるが。

此奴が言う事は正論だと言う事くらいは分かっている。

そもそもCMが評判を下げてしまっては、エンシェントのためにもならないのである。本職を雇う金なら、今なら充分にあるし。というか今までもあった。

意地を張っていただけで。

別にCMは他の人間に作らせても良かったのだ。

私の目的は。

あくまでエンシェント。

エンシェントを古代仮想動物園として。

ワールドシミュレーターとして。

完成度を際限なく研磨して、上げていくこと。

一番大事なのはそれだ。

金の相対的な価値が如何に落ちていると言っても。

それでも客足を稼ぐために作るCMくらいは、確かにプロに任せても良い。美術関連の教育を受けているプロが幾らでもいる。

彼らを雇えば良いだけの話だ。

勿論、美術的な美しさよりも。

エンシェントで再現しているリアルさを優先して貰う。

それを面接でしっかり話して。

採用するつもりだが。

人事にAIが連絡し。

新しく人員を雇うこと。CM関係である事を告げる。

人事も即座に動き始めた。

待っていた、という雰囲気だ。

私は色々と複雑だったが。

精神的な体調回復にともなって。

ようやく判断出来た、という所なのだろう。

自身を責めるつもりはないし。

むしろ、アキレス腱の一つだった部分を。

これでようやく克服できた、という事も意味している。

さあ。次だ。

私に取ってはまだまだやらなければならない事はたくさんある。

次からCMは任せるとしても。

今回で最後になるCMは自分で作る。

これについては決めたことだ。

小型のワニたち。

彼らはワニが出現した時代。

既に現在と同じ姿を持っていた。

水中を泳ぎ、獲物を捕食し。

何よりも、敵を待ち伏せて、狩るのには非常に優れた姿形をしていたからである。

進化の究極は自滅などと言うのは大嘘。

事実、完成形に近いもので出現したワニは。

微細な変化を施すだけで。

環境適応を自在にこなした。

つまるところ、生きた化石である。

だが、ワニは。

現在でも立派に、最前線でもやっていける生きた化石なのだ。

見よ。

まるで変わらぬこの雄々しき姿を。

見よ。

完成度の高い姿を。

ワニこそ完成された生物の一種。

獰猛かも知れない。凶暴で恐ろしいかも知れない。

だが、進化と言う間違った言葉に一石を投じる。

環境適応に優れた実績を残している生物が。

今も地球に生きている。

CMはこんな感じで。

ぐりぐりとワニを写して回る。

今回は、そんな中でも特異な生態を持ったワニを扱うため。

最後の数秒だけ。

円陣を組み、子供を守るために周囲を見張るワニの姿を写して、CMを終わる。

細部の調整は、シミュレーションが完成し。

学者にそれを見せ。

学者がOKを出してからだが。

この辺りの流れは、本職と連携して動くエンシェントであるので、当然と言えば当然である。

後、学者が開発機にこれから触れるようになるという事なので。

今後は対学者用の折衝役として、法務部に何人か追加し、AIも追加で動かす必要があるだろう。

AIに指示して。

人事にその指示を出しておくようにする。

後は、黙々と。

最後に作る事にしたCMを。

細部まで凝って調整する。

それにしても、ワニという生物は。獰猛そうで、凶暴そうかも知れないけれど。

完成されたフォルムだ。

類人猿などと言う新参者とは違う。

抜群の安定感がある。

この美しい姿は、決して偶然生き延びてきたのではない。

進化の究極などでもない。

環境適応の究極で。

姿を変える必要さえないのだ。

昆虫と同じように。

私は大いに感心すると。

CMを作るのはこれで最後であるのだと自分に言い聞かせながらも。

黙々と作業を続けた。

 

政府からの連絡が来る。

量子コンピュータを政府側で準備完了。

データのコピーをするという。

作業に関しては政府側でやるので。

此方でする事は特にない、と言う事だった。

また契約の通り。

エンシェントは今後も今までとまったく同じに経営を続ける。そして、私はエンシェントを研磨し続ける。

最高に研磨しきったとき。

其処にはもう一つの世界が出来るかもしれない。

ただしその世界には、1000万年前より最近の時代が存在しない。

あくまで過去の地球を再現するワールドシミュレーター。

それがエンシェントだから、である。

それについても、政府と協議したときに、既に確認はしているし、契約にも盛り込んでいる。

人間が経営している政府だったら、此処で余計な事をしてきたかも知れないが。

現在政府を事実上動かしているのはAIだ。

だから別に気にする事はないし。

心配も無用である。

会議を開き。

今日から政府側が作業を開始した旨を連絡。

此方ではする事がないことも告げておいた。

なお多少アクセスが重くなるかも知れないが。

人間には認識出来ない程度の重さだ。

例えば昔のゲームでは、フレームという単位があったらしい。六十分の一秒という意味であり。

このフレーム以上のずれが生じる場合は、人間も認識出来。

対戦ゲームで、大きな問題が生じたそうだ。

現在、政府側がエンシェントのサーバにアクセスし、データの同期を開始したとしても。エンシェントを乗せているのは量子コンピュータサーバである。

その性能で考えると、6000万分の一秒くらいしかずれないので、多分誰もずれているという認識さえしないだろう。

会議ではその辺りを説明し。

実際にその数値でずれが出ていることも説明。

プログラマー達は神妙に聞いていたが。

一人、懸念を口にした。

「社長。 今後、科学者がどんどんエンシェントに口出しをしてくる、ということですニャー?」

「そういう事になりますわ。 故に、対科学者用の折衝をする人員を、人事で雇いましたわ」

「それは助かりますニャー。 でも、科学者達がたくさん押し寄せて、あれもこれもと修正を要求してきたら……」

「その場合は総力戦態勢ですわね。 勿論科学者の素性から調べて、此方でもシミュレーションをして、問題が無いようなら内容を導入する、と言う所でしょうか。 政府機関にも、負担が大きくなってきたら、第三者の査察委員会を作るように依頼してみますわ」

それだけすれば。

流石に後から介入され。

好き勝手にエンシェントを滅茶苦茶にされることもないだろう。

もしそうなった場合も。

私が好き勝手にはさせない。

それを告げた後。

会議を解散する。

これで不安は払拭できただろうか。

いずれにしても、天下りの人員が来る事もない。

金があまり意味を成さない今の時代、政府側が利権を狙ってごねてくる可能性もない。

ならば、私にはあまり問題も起きない。

それで良い。

実際、ワールドシミュレーターとしての価値が認められたというのであれば。

それは尊い事。

エンシェントにとっての到達点なのだから。

ともかく、会議は終わった。

後は湯治に出る。

この湯治は、恐らく今後、生涯を掛けての趣味になるだろう。

何というか、体を癒やすというだけでなく。

これによって温まるのが。

本当に精神衛生上重要になっている。

オンドルでしばらく寝ていると。

メールが入る。

重要度は中。

見ておくか。

内容は、政府側の作業が終わった、と言う事で。

これからしばらく内容を精査した後。

科学者達に、開発機として貸し出す作業を開始する、と言う事だった。

論文関連の契約についても、政府がそのまま引き継ぐ形で行う。

それでも格安で済む。

科学者は、昔はまともな論文を書こうと思うと、膨大な金を湯水のように使わなければならなかったらしいが。

今はそんな事もなく。

こういったシミュレーションでも、殆ど金は取られない。

個人資産が何よりも重要だった時代が終わった結果。

誰でも何でも出来るようになった。

それは少なくとも。

技術の進歩や。

謎の解明にとっては。

極めて重要な事なのだと。

これを見ても分かる。

メールを閉じると、しばらくまたオンドルで眠る。一心不乱に、眠りをひたすら貪り尽くす。

今、精神的なダメージを可能な限りとっておかないと。

本当の意味での再起は出来ないかも知れない。

それを悟ったからの行動だ。

じっくり眠った後。

帰宅する。

あらゆる意味で、これが転機だ。

それが私にもよく分かっているから。

いつもよりしっかり眠っておいた。

エンシェントは夢に近付きつつあるし。

それに私自身も、自分というものが固まりつつある。

今後もエンシェントでは近年の生物を扱う事はないだろう。これについては契約を済ませてあるので、今後政府に口出しをされることもない。

近年の生物に関するシミュレーションをしたいなら、別のワールドシミュレーターが存在している。

それを使えば良いだけだ。

自宅に戻ると、チャートを確認。

会議が行えるタイミングだ。

ほぼシミュレーションも完成。

やはり川の最上流ではなく。

上流から中流の間ほどが一番このワニたちに取っては過ごしやすかったのだ。

それがシミュレーションで実証できただけで充分。

途中の不手際とか。

時間が掛かったとか。

そういう事は一切気にならない。

勿論私はそういう事を口にするつもりはない。

エンシェントのスタッフは優秀だが。

万能では無い。

それだけである。

勿論それは私だって同じ事。

だから互いに足りないところを補っていけば良いのであって、私は社長として必要な事をする。

また私は社長という立場だけではなく。

彼らの長として相応しい行動もする。

それだけだ。

シミュレーションの結果を見て私は満足。

頷く私を見て、プログラマーの一人が、少し不安そうに言う。

「これで、以降は自由にエンシェントで古代生物を再現出来なくなるのでしょうか……」

「それはあり得ませんわ。 契約によってしっかりと今後もエンシェントらしいやりかたでやっていいと約束を取り付け、その契約書は公開もしています。 もしも政府が口出ししてくるようなら、その契約書に違反した行為になりますわよ。 昔の人間が主導で経営し、無能なキャリアが利益を横からかっさらっていた無能な政府だったらともかく、AIが実運営している今の政府ではありません」

「それならば良いのですが……」

「大丈夫ですわよ」

私の自信満々な様子を見て。

少しはプログラマー達も安心してくれただろうか。安心してくれたのであれば、私としても有り難い話なのだが。

会議を終える。

後の流れは、いつも通り。

学者にシミュレーションのデータを渡し、検証して貰う。

そして検証が終わったら。

本番稼働に向けて最終調整を行う。

法務部にデータを渡すと。

私はCMの調整に入る。

私が作る最後のCMの最後の調整だ。

気を抜くわけにはいかない。

そして私はエンシェントが政府主導での、研究用ワールドシミュレーターとしての側面を持つようになったとしても。

今度の行動を変えるつもりは無い。

徹底的にエンシェントを研磨し。

可能な限りリアルに古代に生きていた生物たちを再現し。

彼らが仮想空間とは言え。

生きていけるようにする。

何度も自分に言い聞かせる。

それだけは、絶対に破ってはいけないのだと。

これは私が子供だろうが何だろうが一切合切関係無い。私に取っての、命より大事な事だ。

私に取ってエンシェントは全て。

そのあり方を変えることは。

私の死を。

肉体的ではなく、精神的な死を意味する。

勿論問題点があるなら修正はするが。

周囲の言うままに何もかもをねじ曲げるつもりは一切ない。

CMの調整をしていると。

学者からの返答が来た。

殆ど修正点は見当たらないという。

個性的なワニだと、絶賛までしていた、と言う事だった。

胸をなで下ろす。

CMの修正は、殆ど必要なさそうだ。

それでもわずかに出ていた修正点を直し、学者に再提出。

それでクリアを貰った事で。

今回の「頭の大きなワニ」も、アップデート出来る事が決まった。

勿論個人的にはいやだが。

ツアー形式を客には勧める形になる。

私はいやだが。

それが一番客にとって分かり易いのであれば。

そうするのが一番良いだろう。

私自身は、自分で作る最後のCMに、徹底的に修正を入れ。徹底的に調整して直していく。

私が作る最後のCMだ。

徹底的に妥協なく造りたい。

そして、修正が終わったとき。

長い長い溜息が出た。

これについては改善しろとずっと言われていたけれど。

意地を通し続けていた。

自分でも分かっていた。

私の作るCMの評判が悪くて、それで客を呼び込めていない事は。エンシェントのフルスペックを、見せられていない事は。

私の拘りがエンシェントのスペックをフルに発揮できなかった要因は他にもある。

私が好みのプランを客に勧めていて。

それが客の好みにまったくマッチしていなかった事だ。

それも分かっている。

後者は既に改善した。

今でも抵抗はあるけれど。

改善したことに代わりは無い。

そして前者も。

CMを作るのは今回が最後という事で。これで解決だとも言える。

私は最後の検証作業として。

CMを繰り返し見る。

おかしいところがないか。

徹底的に調べつくす。

私はCM造りをずっとやってきた。

それが私に取っては最高の娯楽だった。だが、エンシェントにとってはむしろ邪魔だった。

それを今、認めることが出来た。

目元を拭う。

エンシェントは私が作り上げたが。

私物では無い。

それに私が作り上げたが。

私だけで作り上げた訳でも無い。

多くの社員達が加わっていたし。

論文の検証をしてくれた学者達も、エンシェントの作成には関わってきたとも言える。だから、エンシェントはフルにそのスペックを発揮したいし。そしてそのスペックを発揮するには、私の我が儘は邪魔なのだ。

検証完了。

後は法務部に投げる。

これ以降は、大きなトラブルがなければ、私はもうやる事がない。

大きめのバグが発見されて、それに総力戦対応をしなければならない時に、自ら出張るくらいだ。

負荷分散の結果。

私の作業は、これで更に減ることになる。

逆に言うと、社長として更にきめ細かく、エンシェントのチェックをする事が出来るようになることも意味する。

さっそくCMを流し始める法務部を横目に。

開発機から完成した今回のアップデート廻りを徹底的に調べて見る。

バグのチェックはもちろんのこと。

ワニたちが生き生きとやれているかも。

しっかり調べ上げる。

調べれば調べるほど。

不思議なワニたちだ。

あまり長く生き延びる事は出来なかったのだろうが。

それは彼らが適応能力において、他のワニたちに劣ったからだろう。

戦闘力の問題ではない。

弱肉強食という言葉の無意味さを。

この光景はよく示している。

多少頭は大きいが。

このワニたちは、今の時代のワニたちと、概ね姿は同じなのだ。

勿論条件が整えば。

人間を襲うこともあるだろう。

だが、それはあくまで条件が整えば、である。

そんな事はありえない。

当時に人間はいないのだから。

タイムマシンが発明されれば、話は別になるかも知れないが。

タイムマシンでせっかく過去に飛んだのに、身を守るための工夫をせず、ワニの住処に行く方が悪いとしか言えない。

法務部から連絡。

アップデートは三日後だそうである。

私は頷くと。

ツアーも含めて。

アップデートに問題が無いか。

全身全霊を込めて、確認を続けていた。

 

4、エンシェントは此処に

 

政府公認の、学者が用いる古代生物シミュレータ。

ワールドシミュレーターとしての群を抜いた完成度が、政府が採用を決めた理由。

その情報が流れたからだろう。

エンシェントには、今までに無い数の客が来たようだった。

今回の新しく発見されたワニもそれなりにアクセスがあったが。

あらゆる時代にアクセスがある。

カンブリア紀も。

白亜紀も。

海の中も。

陸上も。

ツアー形式にした結果。

古代生物たちに悪さをする客も殆どいなくなったのは、ある意味で皮肉としか言えないのも事実だ。

そして、やっぱり変な客は一定数いる。

我々の先祖がこんな気持ち悪い生物の筈が無いと。

脊索動物の展示をしたときに、クレームを入れてきた阿呆がいたが。

今度は単弓類に対して。

同じクレームをつけてきた客がいた。

ディメトロドンが単弓類としてはもっとも有名だが。

哺乳類の先祖が、あんな背中に帆を生やした醜い蜥蜴の筈が無いと、ぎゃんぎゃんわめいているそうだ。

勿論法務部に対応させる。

門前払いするわけではない。

今ではSNSで炎上を引き起こす可能性があるので。

法的対処を含めたあらゆる対応をする。

結果その害悪客は泣きながら遁走。

後は放置でかまわない。

昔。趣味を持つ人間をオタクと呼んで差別する傾向があった。

なんでも輸血でさえ、オタクの血が混じっているのは嫌だとかわめき散らす「知的階級」が存在したらしいが。

自分が口にしている言葉が差別だとさえ分からない人間が。

社会の上層にいたという時点で、ぞっとする話である。

ましてや、自分達の先祖となった単弓類を。

すなおに優れた生物だと認められない時点で。

人間としての問題がありすぎる。

単弓類はその後キノドン類に環境適応し。

やがて其処から二億年ほど前に哺乳類の先祖が生まれてくる。

そして哺乳類はずっと弱者でありつづけ。

恐竜が滅んだ隙を突いて、生物界のニッチに潜り込んだ。

だが恐竜ほど繁栄できているとはいえない。

明らかに、恐竜の方が多様に進化し。

生物界のあらゆるニッチに溶け込んでいる。

それをどうしても認められない人間もいるが。

今回のケースもそれと同じだ。

私は嘆息すると。

ふとメールに気付く。

ユカリさんからだった。

もうすっかりカフェで会うことは無くなった。

無言でメールを開ける。

「エンシェントのアップデートは毎回拝見しています。 今回も興味深い内容でした」

そうですか。

そうとしか言えない。

ユカリさんの事は、今ではそれほど憎んではいない。

元々憎んではいなかったのかもしれない。

ただ、とても苦手な相手になってはいた。

メールを読み進める。

「客に対しては最適解を用意し、それ以外は自分で好き勝手に設定なりなんなりして観ろ、というスタイルは悪くないと思います。 UIに関しても、少しずつ改善しているように思います」

本当だろうか。

今更よりを戻そうとは思えないし。

何よりこの人が何を考えているか、よく分からない。

黙々とメールを読んでいく。

私が何もアクションを起こさない限り。

AIは何もアドバイスを寄越さない。

否、もし私が体調に異常をきたしたら。

即座にメールを読むのをやめるように助言してくるだろう。

そんな事もない。

私は淡々と、メールを読み続ける。

「今回政府との連携が決まったようですね。 契約書についても確認させていただきました。 搾取されるような契約ではないのは法的知識を身につけて確認しました。 妥当な内容かと思います。 また、エンシェントの研磨が目的のようですし、これで学者から様々なデータがフィードバックされるかと思うと、エンシェントのためにも有意義かと思います」

それはそうだ。

ふと気付く。

ユカリさんの発言。

妙にAIじみていないか。

いや、まさかそんな。

多分AIに代筆して貰ったのだろう。

いやそれにしては妙だ。AIでは使わないような無駄な言い回しが随分とたくさん見られる気がする。

「メールの返信をくださいとは言いません。 此方としても、返信があるとも思ってはいません。 ただ、応援はしています。 それだけは理解していただけると嬉しいです」

メールは其処で終わっていた。

ぼんやりと、頬杖をついていた私は。

ロボットにココアをくれといい。

すぐに来たココアを、ゆっくり時間を掛けて飲み干した。

ユカリさんの真意はよく分からない。

私に何をさせたいのだろう。

私の理想とユカリさんが仮想動物園に求める理想は違いすぎる。

私はかなり妥協してきた。

こういう風に、古代生物の魅力を全て味わって欲しいと言うプランを、結局全てツアー形式に置き換えてきたし。

何よりも今回に至っては、CM作成から降りる事を決めた。

私はエンシェントを私物化していないし。

客のために自分を殺して涙を何度も飲んで来た。

それを褒めろとは言わない。

だが、どうしてなのだろう。

やはり、人間は一度譲歩すると。

際限なく譲歩を求めてくるようになるものなのだろうか。

メールには返信しないと決めた。

おそらく返信は、ユカリさんも求めていないだろう。だから、それでいいのである。

ユカリさんが求める仮想動物園の理想と。

私が求める仮想動物園の理想は。

決定的に食い違っている。

私はあくまで再現する側の理想を詰め込んだ仮想動物園を造り。其処に棲息していた古代生物を、可能な限り完璧に再現して。生態系も徹底的に作り上げた。

それに対して恐らくユカリさんは。

客として、動物園を楽しみたいという理想を向けてきている。

それは恐らく交わることが無い。

私に取ってはワールドシミュレーターエンシェントは。

第二の故郷であり。

私が作り上げた古代生物の楽園であり。

厳しく過酷ながらも、環境適応の大原則の下、多くの生物がしのぎを削る場所。

その中で磨き抜かれた生物たちの美しさを。

私は味わって欲しい。

その時点で。

娯楽として、あまり考えずに見たいと思うだけの人とは。

決定的に異なっているし。

思考が交わることもないのだ。

でも、それでいいのだろう。

もしも無理矢理交わろうとしても。

それは不幸な結果しかうまないのだから。

例えばゲームでも。

無理矢理対人要素を組み込んでも。

上手く行かないケースも多い。

相手が人間になるばあい。

如何に嫌がらせをするかというのが、主題になるケースが珍しくないからだ。

それはゲームは遊んでいる人間がいて。

相手も楽しみたいと思っている、という大前提と、大幅に矛盾する。

勿論対人ゲームが好きな人は否定しない。

相手に嫌がらせの限りを尽くされて負けても、それを楽しめる人もいるのだろう。

だが私は。

本音で言えば、何でも出来る舞台を用意して。

そこで客が何でも自分で判断して行動できる。

そういう場所を。

エンシェントに作りたかったのだ。

既にその夢は破れたが。

しかしながら、今エンシェントは、完成形に近付こうとしている。

そして私は思い出す。

どんな作品でも。

プロの芸術家でも。

完璧な作品は作れないと。

ある程度で妥協は必ずするのだと。

勿論ナルシズム傾向の強い芸術家は、完璧な作品だと自画自賛するケースもあるようだが。

それはあくまで例外である。

多分これが。

私に取ってのエンシェントの完成形。

そしてこれからも研磨していくが。

多分完璧になることは、ない。

すっと、何かが抜けた気がする。

いずれにしても、エンシェントはもう私自身も同じである。

自己完結的な考え方かも知れないが。

これについては何処の誰にも絶対に文句は言わせない。

私が自分について。

エンシェントについて。

どう思おうが。

私の勝手だ。

そして私がエンシェントを作り上げたが。

其処には多くの妥協が残った。

勿論今後新たにお迎えする生物たちには、可能な限りの徹底的な完璧を用意するつもりだが。

それはそれ。

法務部から、続けてメールが来た。

「今までに無いアクセス数です。 ただ今回のアップデータが原因ではないと思われますが……」

「とりあえず黒字の予測が出来そうなのは」

「この曲線は今までに見たことが無いので、何とも。 一週間以内には」

「昔と違って金はそれほど重要ではありませんし、それほど慌てなくても大丈夫ですわよ」

法務部に優しく言い聞かせると。

きちんと結果だけは出すようにも付け加える。

そして私は。

ロボットとAIに声を掛けた。

「湯治にでも行きますわよ。 ああ、途中でクレープが食べたいですわ」

「分かりました。 ルートは此方で設定いたします」

「お願いしますわ」

今回は法定労働時間のぎりぎりまで働いた。

危うく自分のAIに通報される所だった。

身繕いをして。

外に出て、ベルトウェイに乗る。

途中クレープ屋に寄り。

出来るだけ大盛りにクリームを盛った甘い奴を頼む。

甘すぎて案の定胸焼けを起こしそうだったが。

これはこれでまあ。

たまに食べるには悪くない。

後は湯治だ。

私はやり遂げた。

だったら、温泉にでも入って。

ゆっくり後の事を考えれば良い。

ワニたちも、日を浴びてゆったりと生きる事に成功していた。

あのように、今日は過ごそうではないか。

ふと、気付くと。

油断したタイミングに、AIに釘を刺される。

「しばらくはあんなカロリーの高い食べ物はだめですよ」

「分かっていますわ」

私は、苦笑し。

もっとも客観的に私を見ている存在に、素直に従った。

 

(続)