堅牢
序、分解されざるもの
シダ植物。
現在植物と言える存在の中でも、かなり原始的な種である。これより原始的なものとなると苔類、更には細菌や、光合成をする多細胞生物しか存在しない。近年では分類が幾つか増やされており、海草類を植物と見なさない分類法もあるそうだ。
いずれにしても、地上に「植物」として定着したのは苔類からで。
そしてシダ植物は「木」になった最初の植物である。
いわゆる石炭紀。
このシダ植物が、地上では天下を取った。
地上は巨大なシダ植物であるリンボク類に覆い尽くされた。
その背丈は軽く三十メートルを超え。
幹の太さも二メートルを超えていた。
そしてシダ植物たちを上手に分解する仕組みがまだ存在しなかったため。
膨大なシダ植物の死骸が残され。
それが石炭へと変わっていく。
そう。
石炭の素材は。
石炭紀に存在したシダ植物なのである。
リンボクの多くは多年草だったようだが(その巨体から考えれば当たり前の話ではあるのだが)、一部には一年草も存在。
やがてシダ植物の一部から、種子を作る植物が出現して行く事になる。
裸子植物である。
そしてその裸子植物から被子植物が出現し。
現在では被子植物が、植物のスタンダートになっている。
つまるところ。
「木」として最初の存在はシダ植物であった。
そして石炭紀には、巨大な昆虫たちが我が世の春を謳歌していたが。
最大の節足動物であるアースロプレウラも。
この時期に大繁殖していたシダを食んでいた。
そういう事である。
シダは「木」の先祖なのだ。
今でこそ、山に生えている雑草、くらいの認識しかないかもしれないシダ植物であるのだが。
古くには植物の帝王であり。
石炭として後の時代にまで大きな影響を残した。
そういう存在であるのだ。
私は論文を見ている。
初めての木。
そう呼んで良いほどの、古い古いシダ植物の化石が見つかった、という論文だった。
仮に「最初の木」とでも呼ぶべきだろうか。いや、「始まりの木」の方が良いだろうか。ともかく、一番最初の木である。
地上進出した植物は、最初苔類として地上でせっせと光合成し。
そして徐々に背を伸ばしていった。
光合成をするには。
背が高い方が有利だから。
当たり前の理屈である。
現在でも、森の中では如何に背を早く伸ばすかが植物の間では競争として行われており。
寿命で植物が死んだり。
或いは倒れたりした場合は。
開いた隙間から零れこんでくる光を狙い。
苛烈な植物たちの競争が行われる。
森は一見すると静かな世界にも思えるが。
静かなようでいて。
実は植物たちがしのぎを削る、修羅の世界でもあるのだ。
光を浴びるための場所を得る事は。
植物にとっては、土壌の栄養と並ぶ貴重な栄養である、光を得るための重要な行動であり。
もたついていると、あっという間に他の植物に先を越され。
葉で光を奪われ、遮られてしまう。
そうなれば後は。
餓死するだけだ。
そんな苛烈な光の奪い合いは。
昔行われていた、アイドル文化というものをふと思い出させてしまう。
まあともあれ。
最初に「木」となった植物となれば。
エンシェントで取りあげるには、充分過ぎるほどに面白い題材であろう。
しばらく論文を読み込む。
奇をてらった論文では無いか。
客寄せ用のものではないか。
それを見極めるためだ。
論文が発表されたときの学会の様子も確認する。
それほど笑われている様子は無く。
むしろ鋭い質問が飛び交っていた。
これは、学者の人格が余程アレでなければ、大丈夫だろう。そのアレなのに何回か遭遇している私は身構えてしまう。
AIに調べさせるが。
学者自身はそれほど問題を起こしていないし。
調査を念入りにさせるが。
特に変わった嗜好などは持っていない様子だ。
むしろ金に困っているようで。
仕事は比較的良く受けてくれる、ということである。
はて。
今時金に困るとはどういうことだろう。
個人資産が殆ど意味を成さず。
貧困層でさえ生活が保障されている今の時代。
金なんぞに執着してもあんまり意味はないのだけれども。
まあともかく。
法務部にメールを出し。
連絡を取って貰う。
ほどなく、返答が来た。
学者の答えはこうだそうである。
使用は問題ないのだけれども。
出来れば自分の名前が前に出るようにして欲しい、と。
何でもお金がどうしても必要なので。
今後も稼ぐための足がかりにしたい。
そういうことだそうだ。
まあよく分からないが。
学者の名前を宣伝するくらいなら別に良いだろう。
なお社長に会いたいとか言われたらしいが。
断った、という事である。
まあ当たり前だ。
もしその話をされていたら。
断れと、即座に指示をしていただろうから。
それにしても今時金がいる。
どんな学者なのか。
研究には基本的に資金援助が出る時代だ。
個人資産には殆ど意味がなく。
どんなに貧しい人にも専用のロボットが支給され。
サポートのAIがつき。
教育の機会が与えられている。
これは昔のように、スラムに住んでいる人は例外、というような事も無く。
人間なら例外なく全員が権利として受ける事が出来るサービスであり。
資産が昔と違って殆ど意味を成さないため。
無理をして稼ぐ必要がないのである。
発達した催眠教育によって適性に沿った才覚がフルに活用され。
能力を全部発揮できる今の時代。
昔のように、金さえあれば法さえねじ曲げて好き勝手が出来る、というような時代は過去になり。
金そのものに。
あればいい、程度の価値しか存在しなくなっている。
そんな時代なのに。
どうして金が欲しい、などと言うことを口にするのか。
妙な学者である。
ともかく、契約はきっちりしたし。
変なことをしてくるようなら、法務部が対策するだろう。
だから放置。
私は論文を持って会議に出て。
一応の注意喚起をする。
変な学者に酷い目に会わされたことが何度かある私の注意喚起は。社員達にも、切実な問題として伝わっているはずだ。
そういうものである。
矢面に立つのは昔は私だった。
今は法務部が専門家として対処しているが。
私には其方の知識もある。
病院で負荷分散しろと言われたから法務部を強化したが。
そうでなければ、今でも変人学者と遭遇したときには、精神にダメージを受けてのたうち廻っていた可能性が高い。
一通り説明した後。
質問を受ける。
プログラマー達はとくに質問も無い様子だ。
石炭紀はそれほどたくさんアップデートはしていないが。
どの時代も。
植物が登場して以降は。
絶対に植物が生態系にて重要な役割を果たす。
植物は殆ど動くことは無いが。
生態系にて果たす役割は非常に大きい。
だからアップデートはそこそこ頻繁に掛かるし。
その重要性は誰もが。
そう、この場にいる誰もが。
新米でさえ理解している。
故に「最初の木」とも言える今回のシダ植物は。
それなりに注目を受けるのは当然。
だがその一方で。
皆造り慣れているのも事実だ。
まあ質問がないのならそれでいい。
私は会議を切り上げようとしたが。
おそるおそる、挙手した者がいた。
バグ取り担当で雇った新人である。
この間はバグ取り関連で随分助かった。
私も酷い目に会ったが。
この新人には苦労を掛けた。
その労いの言葉もかけたはずなのだが。何だろう。
「社長、あの……」
「何か問題ですの?」
「いえ、問題というほどではないのですが……」
「はっきりおっしゃいまし」
バグ取り専門だからか。
虫、それも原始的な虫であるトンボのアバターを使っているバグ取り専門のプログラマーは。
しばらく悩んだ後に言う。
「問題のある学者の論文の場合、速攻で避けてしまうと言う事はできないのですか?」
「それは出来ませんわ」
「……」
「学者には変人が多く、此方に直接害を為すタイプでなければ、避けていられないというのが実情です」
これは本当だ。
知能が高くなればなるほど、「一般的な」とされる感覚とずれていくケースは非常に多いし目立つ。
私はそれを間近で見て良く知っている。
相手が「まともな」人格を持っている学者である事を前提に論文を選んでいたら。
それこそ何もできなくなる。
そういうものだ。
確かに私に負担が掛かったり。
火の粉が飛んだりするケースはある。
だがそれはそれとして。
諦めて甘受するしかない。
「そういう事であるのなら、仕方がありませんね。 納得しました」
「それでは会議を終えますわ」
ジャッジを掛け。
会議終了。
AIも特に問題はないと判断した。
さて、此処からだ。
エンシェントは古代仮想動物園。
扱うのは動物が主体だが。
勿論植物も扱っている。
動物園ではあるが。
古代に生きた生物そのものが対象なのだ。
古代植物園はあるにはあるが。
基本的に時代を区切って存在しているのが普通で。
うちのように、地球の歴史に沿って全ての時代の植物も見られる場所はない。
ましてや石炭紀は。
植物を分解する仕組みがまだ上手く働いておらず。
膨大な植物の残骸が、石炭として残っている。
つまり植物にとっては。
極めて。
恐らく光合成をする最近が出現した時代に続いて、特に大事な時代の一つだ。
この時代のシダ植物を扱うのは。
エンシェントとしても当然と言える。
だから扱う事に関しては。
まったく問題は無い。
ましてや最初の「木」となれば。
「光」を争う熾烈な戦いの口火を切った存在として。
生物史でも重要なターニングポイントとして扱える筈だ。
エンシェントで取り扱わない理由がないのである。
黙々とCMについて考えていると。
AIが警告してきた。
「少し疲れが溜まってきています。 早めの休憩を」
「分かりましたわ」
言われた通りに少し休む事にする。
あくびをしながらソファに転がり。
思考活動を停止する。
そういえば、他のプログラマー達は、どんな風に仕事をしているのだろう。
私は、基本的に仮想空間にアクセスし、思考をそのままプログラムに利用するソフトと連動して行っている。また、そうではない場合は、ヘッドギアを用いて、思考をプログラム化する方法を使う。
このため体への負担は小さい。
昔はキーボードを打ちすぎて、キーパンチャー病などと呼ばれる病気になる人もいたらしいのだが。
今はそんな事もない。
AIに聞いてみる。
少し悩んだ後。
統計のデータを出してくれた。
「今時のプログラマーは、殆ど社長と同じように、思考をそのままプログラムに活用しています」
「ふむ、なるほど」
「まれにキーボードを使うケースもあるようですが、その場合は立体映像キーボードを用いて、体への負担を減らしている様子です」
「色々やっているんですのね」
労働状況についても聞くと。
少し悩んだ後、AIは応えてくれた。
やはり今の時代、無理に苛烈な労働をする人は殆どいない。
プログラマーは、昔は三十代定年説などというものもあるほど、人間を苛烈に摩耗していく仕事であったらしいのだが。
今では適度に休憩を挟みつつ。
仮想空間にて、AIのサポートを受けながら。
プログラムを思考によって組んでいくのが本職の普通だそうである。
普通はセット化されたプログラムを組み合わせていくだけだが。
マニアックな場合は、言語を使って、単語単位でプログラムを組む。
その場合も、AIによる手篤いサポートが入る。
これについては私も経験しているが。
これこれこういう風に動かしたいと考えると。
AIが例を出してくれる。
それに対して、実際に自分で幾つか試してみたり。
或いはアレンジをしてみたりして。
AIと相談しながらプログラミングする。
それが今の時代のプログラマーだ。
昔のように、使い捨てられる高ストレス職では無い。
とはいっても、今の時代、使い捨てられる人間など存在していないが。そういう文明に、奇跡的に生まれ変われたのである。本当に、奇跡的に。
「ストレスに関しては大丈夫ですの?」
「殆どのプログラマーは、プログラムしかしませんので。 会議などの負担は最小限ですし、仕事の休みも大体自分が思うとおりに取ることも出来ます。 娯楽関係に関しても、今の時代は飽きるまで出来ますし、娯楽に費やす時間もその気になれば仮想空間で圧縮できます」
「確かにそれはそうですわね……」
「故に、心配は無用です。 むしろマスター。 貴方の負担が大きすぎて、皆心配している様子です」
そうなのだろうか。
そうなのだとAIは断言する。
ならばそうなのだろう。
AIは客観の権化。
人間を知的生命体に押し上げた存在だ。
小さく嘆息すると、休憩を切り上げて、CM作成に移る。
最初の「木」のストーリー。
ストーリー性はそれほど重要ではない。
問題はそれを、どうやって「見せる」かだ。
「木」は今でこそ世界中何処にでも当たり前に存在しているが。
最初に出現したときは、植物の世界に激震が走ったはず。
そして今の時代。
シダ植物で、木にまで成長するものは滅多にいない。
後続の裸子植物と被子植物に殆どその座を奪われてしまったからだ。
だが、最初の木はシダ植物だった。
これは揺るぎない事実。
エンシェントでは。
それを知らしめなければならない。何しろ、ワールドシミュレーターなのだから。可能な限り、正しい古代の生物史を。現在の最新の定説に沿って再現しなければならないのである。
私は頬を叩くと。
気合いを入れ直し。
CMの作成を始めたのだった。
1、光の奪い合い
光合成を行う生物によって。
光の存在は死活問題だ。
文字通り生命活動に関わってくるからである。
植物の世界は動かない世界に見えて。
実は苛烈な競争が行われている。
今回のエンシェントでは。
それを効果的に見せたい。
社員達には既にそれを説明済みである。だから、わざわざ強調する必要はないし。今更また説明する理由も無い。
黙々と彼らは論文に沿って。
最初の木を作ってくれる。
私はそれを、最大限サポートする。
それだけだ。
CMを作っていると。
法務部から連絡があった。
この間の脊索動物の展示にて。
SNSで騒ぎが起きていると言う。
どうやら低年齢層の人間が。
脊索動物なんかが脊椎動物の先祖である筈が無いとか騒いでいて。
それに対して生物に詳しい人間が反論。
争いが飛び火していると言う事だ。
SNS時代は誰でも発言できるのが良い所だが。
今回の場合、何かの原理主義者が馬鹿な事を言っているのでは無く。
教育が不十分な人間が。
感覚に沿って馬鹿な事を言っている。
故に教育をもっと受けるべき、という話なのだが。
こういう騒動に。
いわゆる原理主義者などが首を突っ込むと厄介だ。
法務部には、警察から連絡が来たらしく。
注意するように、という警告があったらしい。
まあ注意するのに越したことは無いだろう。
なお、私宛のメールの内。
変なものは法務部でフィルター処理している。
処理したものはAIでも確認しているので。
重要なメールを人力で誤処理している、という可能性は考えなくて良い。それは、今の時代の利点である。
それにしても。
あんな弱そうなのが、人間の先祖の筈が無い、か。
爬虫類なんかが人間の先祖の筈が無い。
そういって泣きわめいて暴れる奴が。
SNSで、諭されている場面を私は見たことがある。
SNS断ちをする前の事である。
最初そのユーザーは、環境適応と生物の変化の歴史について馬鹿にした発言をしていたのだが。
生物の専門家が出現し。
逐一発現の誤りを指摘していくと逆ギレ。
あげく、本性を現し。
泣きわめきながら。
自分は爬虫類が嫌いだ。
気持ち悪いからだ。
そんなものが、自分の先祖である筈が無い。
そう叫びながら、手当たり次第に辺りを攻撃し。
SNSを管理しているbotから最終的にアカウントをロックされた。
多分警察の手も入っただろう。
あの無差別攻撃ぶりは凄まじかったからだ。
こういう場合は、SNSから自動的に情報が警察に提供される。それは人の手を介さずに、AIに寄って法的処理される。勿論警官の派遣や本人の確保もほぼ全自動だ。
AIによる補助を完全に無視して。
暴走して暴れる人間は今の時代にさえこうして存在している。
愚かしい話だが。
それが現実なのである。
AIは人間にとって最高の道具だが。
都合良く人間のためだけにいるのではない。
この社会を維持するためにも存在し。
人間を補助するのが仕事だ。
犯罪の支援はしないし。
人間が円滑に動けるように。その生命を優先して動く。勿論他の人間を傷つける手伝いもしないし。
そうしようとしていた場合はあらゆる手段をもって止める。
だが、幼児同然の人間が。
下手に偏った知識を持って。
暴れる事もある。
それが現在の現実でもある。
昔は、今の比では無いひどさだったらしい。
こういった連中に、人権屋と呼ばれる者達がくっつき。
利用するだけ利用して捨てる。
そういうケースが、国際規模の事件にまで発展することがあったそうだ。
今はAIの支援もあって、火消しは即座に終わるが。
昔はさぞや大変だっただろう。
私はそんな事を思い出しながら。
チャートを確認。
タスクが動いているかをきっちり見て。
問題ないと判断。
自身の作業を進めた。
AIが告げてくる。
「リードシクティスのファンアートが届いています」
「リードシクティスはうちの私物じゃありませんわよ」
「勿論分かっています。 エンシェントで見たリードシクティスに感銘を受けたと言う事で、ファンアートを送ってきたと言う事です」
「どれどれ」
今の時代。
アートは多様に分岐している。
昔ながらの画材を使って、手を用いて作るものから。
仮想空間で、AIのサポートを受けながら作っていくものまで。
規模も種類も様々だ。
油絵一つにしても。
自分で描く人間と。
自分のイマジネーション通りに、ロボットに描かせる者もいる。
だから体が何かしらの理由で動かなくなっていても。
画家として現役で活動している人間もいる程だ。
だから、どんなファンアートが届くかは、まったく分からない、というのが実情なのだが。
AIが問題ないと判断したと言う事は。
私に対する攻撃を意図したものではないのだろう。
ファンアート自体は、SNSにアップデートされていたが。
どうやら水彩画らしい。
見ると、リードシクティスの「艦隊」が。
巨大な捕食者の多数群れる海の中。
生きていく様子が描かれている。
なるほど。
これは力作だ。
自分の手で描いたのだろうか。
「描いたのはまだ九歳の画家だそうです」
「九歳。 私より更に年下ですわね」
「催眠教育の普及によって、芸術関連はプロの低年齢化が近年ますます進んでいます」
「……」
なるほど。
そうなると、侮れないプロである子供もいるということだ。
この子はプロだと言う事だが。
ファンアートで此処までのものを描くと言うことは。
エンシェントに相応に感銘を受けた、という事になる。
脊索動物をディスって泣きわめく文字通りのクソガキがいると思ったら。
こういうホンモノの芸術を描ける子供もいる。
何というか、不思議な話だ。
勿論脊索動物をディスっているガキも、何かしらのプロをしている可能性はあるのだけれども。
そんなのが仕事をしている所に関わり合いたくは無いものである。
私はしばし水彩画を見ていたが。
コピーを飾るように指示。
勿論著者のハンドルネームも一緒に記載。
コピーして、自分で楽しむ分には、何ら問題は無い。
鈍重の権化と呼ばれ。
蔑ずまれてきたリードシクティスは。
エンシェントでも。
絵画の世界でも。
堂々と生きているでは無いか。
私はそれを見て。
少しだけ、嬉しいと思った。
少しやる気が出てくる。
SNSでは、私に対する反発や嘲笑ばかり見てきたし。
学者と接すれば、問題行動を起こす奴に文字通り精神をゴリゴリ削られていくのが日常だった。
それでも、こんな理解者がいる。
そういう事実を知るだけで。
少しだけ嬉しかった。
作者には、私から礼を言っていたと、伝達するようAIに指示。
私は、少しだけ。
CM作成の、効率が上がったのを認識していた。
エンシェントはワールドシミュレーターだ。
である以上、動物園ではあるが。
実際には動物園以上の存在でもある。
歴史を再現している場所であり。
まだまだ未熟ではあるけれど。
其処には人間が理解している過去が。
可能な限り再現されている。
似たようなワールドシミュレーターは幾つもあるが。
エンシェントに関しては。
その中でも、古代生物特化。
1000万年前以降を除く全時代対応と言う事で。
特異な存在であるのは事実だった。
CMを作成する私も。
気合いが入る。
あのファンアートは嬉しかった。
芸術は残念ながら、技量を才覚が上回る世界だ。
どれだけ教育を受けても、出来る奴は出来るし出来ない奴には出来ない。
似たような分野には将棋やチェスのような一種のゲームや。
戦争などがある。
才覚が努力を常に凌駕する。
そういうジャンルは存在している。
そんな才覚が作り出した絵は。
確かに私に力をくれた。
もりもりとCMを作る。
最近では珍しいほど力が入ったCMになっていく。
まず、苔類しか存在しない世界に。
シダ植物が出現して行く。
それは背の高さで。
苔類を超える事を意味していた。
背が高くなれば。
それだけ光を。
植物にとっての餌を採りやすくなる。
環境適応の基礎である。
勿論目立つ。
だから、当時既に地上進出していた脊椎動物にとっては、格好の餌になった。史上最大の脊椎動物として知られるアースロプレウラに至っては、シダ植物を大好物にしていた事が分かっている。
だが。
食われても食われても。
シダ植物は背を伸ばし続けた。
やがて我々が草と呼んでいるものが。
ついに立派な幹を獲得。
背は低いものの。
明らかに他のシダ植物を圧するものが誕生した。
それは弱々しいながらも。
今の人間なら、誰もが知っている。
実際に家から出ない人間さえいる時代だけれども。
画像。
或いは知識で。
絶対に知っている存在。
すなわち、木である。
かくして頑強な肉体によって体を支えたシダ植物は。
光を独占することに成功。
他のシダ植物たちも、負けじと背を伸ばし始め。
原初の森は、見る間にその背丈を伸ばしていった。
今回エンシェントで扱うのは。
その苛烈で過酷な競争の第一歩。
最初に木になった。
シダ植物だ。
CMでは、その過程を緻密かつ丁寧に書いていく。
私はそれが楽しいが。
見ている人間にとって、それが楽しいかはまた別の話だ。
分かっている。
熱量を抑えなければならない。
それも良く知っている。
情熱は必ずしも他者に伝わるわけでは無いのだから。ストーリー性もあまり必要ない。CMというのはそういうものだ。
まず大まかな形が出来たところで。
チャートを確認。
手間取っていないかを見に行く。
タスクの処理は上手く行っているが。
やはりバグが多少出ている様子だ。
仕方が無い。
ワールドシミュレーターとしてのエンシェントは、複雑化する一方なのである。本当にバグなのか。
エンシェント自体が起こしている「不具合」なのか。
見極めるだけでも大変である。
確認するが。
今回は、それほど危険そうなバグは無い。
一応しばらくは静観し。
問題があるようなら私が介入する。
嘆息して、ロボットに肩を揉ませた後。
AIに言われる前に薬を飲んで。
カプセルに入って休む。
絵の方は見ない。
あれは宝として飾っては置くが。
直接見ると。
やはり自分の中の熱量に、火を入れてしまうからである。
「湯治に行きますか?」
「CMの作成が終わったら……」
「分かりました。 今はストレスも多少は落ち着いています。 ただ疲労がかなりたまっているので、休むようにしてください」
「分かっていますわ……」
何だか最近で。
もっとも働いた気がする。
私はあくびをすると、目を閉じて。しばらく惰眠を貪り続ける。本当に疲れていると、自分でも自覚できていたからだ。
疲れているなら休む。
当然の理屈だが。
それが許されない時代も存在していた。
そしてそんな時代では。
ストレスが原因で、多くの人間が自死を選んでいた。
私も。
かなり危ない所まで行っていたかも知れない。
目を閉じると。
最初に木になったシダ植物を思い浮かべる。
どんな気分だったのだろう。
勿論どんどん「木」は後から出現して行った。
最初に木になった個体はともかく。
その天下は長続きしなかっただろう。
それどころか、木になったところで。目立って食い尽くされてしまったかも知れない。
それでも偉業である事は間違いない。
誰も褒める者がいないなら。
私がそうする。
確かに生物史に残る偉業だ。
ふと気付くと。
木の側に立っていた。
私よりも背が低い。
本当に小さな最初の木。
だが周囲には草しか生えておらず。
その草立ちよりも、明らかに効率的に光を採取できているのは丸わかりだった。それが如何に有利な事かも。
石炭紀の濃すぎる酸素は。
本来なら人間を死に追いやる。
これが夢だと言う事を。
私は理解しているが。
それでも手を伸ばす。
やったね。
貴方は凄いよ。
そう呟いて、最初の木から手を離す。
周囲には、凄まじい大きさの昆虫がたくさんいて。苛烈な生存競争を繰り返している。強いから生きるのでは無い。
適者だから繁栄する。
それだけだ。
空の色も赤黒い。
今の時代に比べると禍々しい空だ。
酸素を嫌う生物にとって、この時代の地球は悪夢以外の何者でも無かった事だろう。嫌気性細菌が発展していたら、地球には全く違う生態系が出現していたかも知れない事を考えると。
あり得た地球を夢想するのも、またそれはそれで面白い。
私は縦ロールの髪を揺らしながら、その場を去る。
私は私で、やらなければならない事がある。
例えどれだけの嘲弄を浴びようとも。
人間という愚かすぎる生物に生まれついたとしても。
エンシェントという私の生き甲斐だけは。
誰にも破壊させない。
私に取ってエンシェントは全て。
エンシェントは私では無いが。
私の夢はエンシェントだ。
目が覚める。
全身にぐっしょり汗を掻いていた。
疲れていたんだな。
それがよく分かる。
しかし、その疲れが今はむしろ心地が良いほどで。活力が、少しずつ。体の奥底からわき上がってくるのが分かる。
そう。
エンシェントは私では無いが。
私の夢はエンシェントなのだ。
これについては、誰にも否定はさせない。
エンシェントは仮想動物園で。
客を呼ばなければやっていけないのも事実ではある。
だがそれはそれとして。
私が集めた、客観的にもこの時代でもっとも正しい生物たちが暮らすもう一つの世界こそ。
ワールドシミュレーター、エンシェントなのだ。
自分の中の迷いが晴れて行く気はする。
勿論ストレスがそれで霧散するほど簡単な話ではない。
今後も病院に行って。
診察は受け続けなければならないだろう。
だが、今まで迷いに苦しめられていたモチベーションが。
今までより遙かに濃密に。
わき上がってくる気がした。
2、伸びよ木
会議を行うとき。
タスクの幾つかに問題が生じていた。
別にそれほど深刻な問題では無い。
先送りで片付いている分のマンパワーを回すだけだ。
数分で会議は終わり。
私は仮想空間からログアウトする。
しばらくしてから。
AIに言われた。
「活力が満ちていますね」
「とはいっても、ストレスが消えたわけではありませんわ」
「その通りです。 活力がある分、無理をしてしまう可能性があります。 気を付けなければなりません」
「分かっていますわよ」
ロボットが買ってきたミルクを飲むと。
CMの微調整を続ける。
シダ植物最初の木は。
石炭紀でどのような姿をして。
どのように成長したか。
シミュレーションを実際に動かしてみると。
CMとは少し違う部分がどうしても出てくる。それは分かっているから、微調整が必要になる。
当たり前の事だ。
自分が行う事は全て正しい。
そう考える人間は決して珍しくない。
むしろ大多数派に分類される。
脊索動物を見た時の人間の反応を思い出せ。
アレが普通の人間だ。
教育を受けたはずの人間でさえ、ああいった脊椎反射での行動をする。あんな弱そうな生物が人間の先祖である筈が無い。見るからに弱そうだから、説の方が間違っている。人間の先祖なのだから格好良いに違いない。教育を受けた人間でさえ、そう考えるのを、私はしっかり見た。
それが現実なのである。
だからこそ、AIによって、始めて人間は知的生物になる事が出来た。
その真実を噛みしめながら。
自分が間違っているかも知れない。
そう考えつつ。
AIの補助も受けながら。
調整を繰り返す。
ああなりたくないからだ。
自分を常に正しいと信じて疑わず。
自分と違っている相手は糾弾しても殺しても良いと考えている。
そんな平均的な人間が、AIの補助でやっと知的生命体になっているのは事実であり。むしろそれがなければただの肉の塊以下だ。
私はそうはならない。
ほどなく、タスクについて問題があると。
メールが飛んできた。
さっと確認する。
問題発生が私の所まで飛んできていると言う事は。
現場では解決できなかった、と言う事だ。
今回はバグ関連ではない。
シミュレーションでの問題発生である。
さっそく開発機に最新のデータがあるのを確認してから、ログインして、再現性をチェック。
ふむ、と唸っていた。
石炭紀は。
植物をうまく分解する機能がまだ備わっていなかった。
特に「木」を分解することが上手く行かなかった。
最初の木にしてもそれは同じ。
だから物珍しいのか。
木は、出来るなり。
片っ端から、大型のヤスデ類に食い荒らされていた。
何しろ目立つからである。
大量にあるシダは、そこら中にあるので目立たない。
だが背が高いとなると。
どうしても目立ってしまうことは避けられない。
当たり前の話である。
そして如何に幹が頑強であろうが。
まだ生まれたばかりの木なんて、この時代に存在した巨大で屈強なヤスデの仲間にとっては。
押し倒すも食い千切るも自由自在。
幹をそのまま囓り倒して。
葉を食べるくらいのことはしただろう。
勿論環境適応の過程で。
「木未満」から「木」へ変わっていった事はあるだろうが。
それでもやはり、初めての「木」は目立つ。
案の定、育つ過程で目をつけられ。
片っ端から食害にあっている。
なるほど、そういう事か。
頷くと、開発機からログアウトした。
シミュレーションに問題がある可能性を、論文を見ながらチェック。
現在の森では、日陰に追いやられているシダ植物だが。
石炭紀では、むしろ最先端の植物だった。
それもあって。
「始まりの木」は、何処にでも存在していた事が想像される。むしろ周囲にあるシダの草原の中、目立っていただろう。その存在感を発揮して。
少し腕組みして考え込んだ後。
会議を開く。
この手の会議は、即時で開催でき。
すぐに終わるのが有り難い。
そして昔存在したくだらない「ビジネスマナー」と称する邪悪な儀式はもはや存在していない。
一部の自分ルールを振りかざす阿呆がいるが。
それは度が過ぎると摘発される。
だから私は本題から入り。
さっさと話を進めて行く。
「状況は見ましたわ。 試してみたことのリストも」
「はい。 如何なさいますかニャー、社長」
「このままでは、初めての木は、そもそも定着できないですのだ」
「周囲のシダ植物をより美味しくしてみるのは」
小首をかしげる社員達。
この手は使えないか。
そもそも、木が出来るという時点で、光を独占するという事を意味している。
光を独占すると言う事は、他の植物を追いやると言う事も意味している。
それが、木。
森の中で圧倒的な力を振るう存在。
必ずしも植物は優しくなどはない。
穏やかでもない。
森の中で、動きこそ遅いが。
苛烈な生存競争を繰り返している。
それは弱肉強食とは違う。
単なる光を巡っての適者生存だ。
巨木になるものもいるし。
大きな森になってくると、そもそも地面に根を下ろすことを諦め。
他の木に貼り付いたり。
或いは樹冠に己を定着させる植物まで出現して行く。
光を得るためには手段を選ばない。
それが植物という存在で。
勿論種類によっても違うが。
水と土壌の栄養さえあえば。
何処にでも棲息しうる。
そういうものだ。
「発育速度については」
「論文通りにすると、やはりどうしても目立ってあっという間に食い荒らされていきます」
「困りましたわね」
そうなってくると、打つ手は幾つか限られてくる。
まず第一に、何かしらの自衛手段があるか。
これは考えにくい。
勿論植物には、敵を遠ざけるための物質を放っているものも珍しくは無いが。
草食動物にはバリバリ食べられてしまっている。
毒草でさえ。
それを無効化して、食糧にするものが存在するほどなのである。
残念ながら、シダ植物は、この当時ようやく出現した植物であり。
環境適応しきれていない。
例えば魚竜や首長竜、海棲ワニ類などは、現在の海でも通じるほどの高い戦闘力と適応力を持っていた。
これに関しては疑う余地がない。
しかしながら、それは海で環境適応を試行錯誤したからであって。
現在の森で、最初のシダ植物が通じるかというと。
厳しい、と言う言葉しか出ない。
環境適応の果てに。
多機能化した植物が存在し。
様々な環境に己を併せて生きている。
それに対し、この時代のシダ植物は。
まだ陸上で覇権を確保できていない。
だから上がって来たばかりの節足動物に為す術無く食われる。
節足動物は逆に完成度が極めて高い生物で。
文字通り動けない植物にとっては。
兎に角増えて己の生存率を上げるしか、手がない。
そうなってくると。
木という仕組みが邪魔になってくる。
しっかり形が出来るまで時間が掛かる。
目立つ。
ある程度の数が揃えば、確かに圧倒的になれる。
ちょっとやそっと囓られたくらいではどうにもならない頑強な幹にだって己を作り替えられるだろう。
だがそれは、あくまで数が揃ったら、だ。
「色々試してみたのですが、とにかく悪目立ちがまずいのですニャー」
「分かりましたわ。 持ち帰って検討します」
「お願いしますニャー」
頷くと、一旦会議を締める。
私はAIと軽く相談しながら。
この件の問題点を、少しずつ整理していく。
「さて、どうしたものですかね。 何か案はありますの?」
「まず第一に、草原であっても木では無くても植物は熾烈な競争をしている事に代わりはありません。 文字通りアスファルトを割って生えてくるほどですし、植物は動物と同様の苛烈な適者生存の世界にいます」
「そんな事は分かりきっていますわ」
「はい。 其処で考えられる事としては、捕食者達の餌が足りているなら攻撃を受けない、のではないでしょうか」
ふむ。
わざわざ目立つ餌に群がらなくても。
餌が有り余っているなら。
確かにヤスデを一とする、当時の節足動物……要するにシダ植物にとっての天敵達にとっては。別に積極的な攻撃対象にはならない、か。
まあ納得できる説ではある。ヤスデにしても目立つものがあったら食べるだろうが。
別に好みの餌が他にあったら、敢えてわざわざ食べに行こうとも思わないだろう。
開発機に入る。
石炭紀の環境は、やはりまだまだ森の密度も薄く。
草原もしかり。
棲息している巨大な昆虫たちは。
濃い酸素の中で。
巨大に成長し。
我が物顔に辺りを闊歩している。
まあ彼らが生き延びられず。
以降は小型種主体で行ったのも当然だろう。
生態系の頂点捕食者などというものは。
環境が変われば真っ先に滅びるのだ。
今、節足動物たちはおごっている。
開発機の中を歩き回りながら、様子を見る。
シダの密度は確かに薄い。
これだと、目立つ木は一斉に集られる。
木になると言う事は。
それだけ背は高いし。
それ以上に、大量の葉が茂る、と言うことだからである。
餌として目立つし。
魅力的にも映るはずだ。
私はさっきのアドバイスを元に。
周囲のシダを増やしてみる。
だがそうすると。
今度は別の問題が持ち上がってきた。
なるほど、そういうことか。
土壌の栄養が足りなくなってくる。
現時点で、かつかつになるまで、栄養を活用しているシダたちだ。
木が出来る前は。
流石に植物の分解も上手くは行っていた。
植物の分解が上手く行かなくなりはじめたのは、強固な木の幹というものが出来はじめてからであって。
まだシダが「草」であった時期には。
それもなかったのだ。
数を増やすと、大喜びで昆虫たちが群がっていく。
それはそれで見ていて和む光景なのだが。
土地が一気に痩せていく。
腕組みして考え込む。
これは駄目だ。
安易に数を増やすだけでは多分駄目だと判断して良いだろう。
ならばどうする。
ふと、考えた事がある。
短時間で育ったのでは無く。
じっくりそだったのならどうだろうか。
開発機から一旦ログアウトして。
考えをまとめ上げる。
AIもそれならばと、太鼓判を押してくれる。
ふむ。
それなら多分大丈夫だろう。
しばらくレポートを書いていたが。
やがてプログラム班にメールで送る。
多分だが。
固定観念に、皆縛られてしまっていた、と言う事だ。
現在と同じ速度でシダが育つと考えているから。
色々と問題が起きてしまう。
そもそも目立つのも。
背が高いから。
だったら、目立たないように、たくさん背が高いものが、ぽこぽこ生えてきたのであれば。
そう。
草原が、その種の繁栄により。
一気にシダの森へと変わっていくのだ。
最初は低木の森から。
やがては三十メートル、四十メートルに達する巨大木の。
石炭の元になった森へ。
なんとダイナミックな光景か。
勿論一年や二年で起きた事ではないが。
シミュレーションが出来上がってくるのが、楽しみで仕方が無い。
メールを送った後。
タスクが動き出すのを確認。
私は満足して。
AIに言われたまま、湯治に出る。
こういう境目のタイミングを見極めて、休憩を取っていく。疲れがたまりすぎる前に。ストレスが体を蝕む前に。
それがどうも効率という点では最高であるらしい。
少なくとも私に取っては。
AIは私の膨大なデータを集めている。
更に言うと我欲もなく。
その客観性こそがAIたる所以だ。
温泉についても。
何が効果があるのか、全てデータを取ってくれている。
ベルトウェイに乗ると。
ふと、メールが届いた。
タブレット宛てに。
会社のメールではないなと思ったら。
久々に。
ユカリさんからだった。
温泉から上がったあと、ユカリさんからのメールを確認する。
何だろうと思って。
その後気付く。
精神に多少の余裕が出来ている。
前だったら、即座にメールを消していたかも知れない。
湯治をするようになってから。
明らかに精神の余裕が出来はじめている。
私の体が回復に向かっているのは。
AIが指摘するまでもなく。
明らかだ。
とはいっても、湯治だけによる結果ではなく。
負荷分散を行って、法務部やバグ取りの部署を新しく作ったり強化したりして。私が人間と接する機会を減らしたことが兎に角大きい。
古い時代には、弱い方が悪いという考えが蔓延していたようだが。
残念ながら、高度な専門技能を持った人間の中には、その「弱い」人間がわんさか存在している。
それが実情であり。
古い時代の人間がただのアホだった事の証明にしかならない。
ユカリさんは、今更何を言いたいのか。
メールを確認した後。
嘆息する。
どうやら、またエンシェントに関するブログを書いてきたらしかった。
少し前のリードシクティス艦隊辺りから。
幾つかの記事を書いている。
内容もごく当たり障りがなく。
マスコミの遺伝子を受け継いだ、反吐が出る内容のネットメディアに比べると、幾分か客観的でマシな内容だ。
だがそれだけである。
今更私に何をしたいのだこの人は。
私は例えば、リードシクティス艦隊のファンアートで元気を貰った。
この人の記事は。
客観的かも知れないが。
エンシェントの何処に問題があるかを常に書く方向で行っている。
私とて、エンシェントが完璧だなどとは思っていない。
そう思っていたら昔のバカ社長どもと同じだからである。
だが、いっつもいっつも何処がだめかを書かれていたら。
頭にも来る。
メールにはそう返信した。
別にエンシェントの太鼓持ち記事を書けとは言わない。
だが、どうしてこう何が駄目これが駄目という話ばかりするのか。
相手を否定して叩けば伸びるとでも思っているのか。
雑草は叩けば叩くほど強くなると言うのは俗説だ。
叩かれた雑草は、当然ダメージを回復するために負担を受けている。
その負担の隙を突かれて。
他の個体に場を奪われるケースもある。
現実のお花が、温室で栽培でもされていない場合は、極めて苛烈な環境適応の試練に晒されている事を考えると。
雑草は踏めば踏むほど良いなどという考えは。
ただの愚かな戯れ言だ。
迷惑だから踏むな。
雑草でさえそう言うだろう。
ユカリさん。
貴方は一体私に何をさせたい。
ユーザーフレンドリーなUIは分かった。此方でも努力は最大限する。言われたところは直す。
だが、それによってエンシェントは良くなるのか。
私は叩かれて疲れて病院に今通っている。
エンシェントだけは守るためにだ。
それとも、良くいる相手の弱みを握って叩き落とすのを楽しみにしている輩のように。
もう止めればとでも言うつもりか。
メールを書き終えると返信。
ユカリさんは。
メールを返しては来なかった。
温泉に到着すると。
私はしばらく湯に入り。
上がってからはオンドルで寝る。
ぼんやりして。
その間は、さっきのメールの事を忘れる。
脊索動物を見て脊椎動物の先祖がこんな弱そうな生物の筈が無いと、癇癪を起こしていた子供のユーザーのことを思い出す。
アレが普通の人間である事は明白。
アレにあわせなければならないのだとしたら。
私はあわせなくても良い。
ぼんやりと。
オンドルで暖かい床と布団に包まれて休みながら。
私はそう考えていた。
3、木は伸びる
私の提案したシミュレーションを適応した結果。
どうやら上手く行ったようだった。
家に帰って、一休みして。
メールなどを確認し。
そして最新のデータをシミュレーションする。
頷く。
良く出来ている、と感じたからだ。
まずこの「最初の木」は。
最初は他のシダと同じように育つ。
そしてある程度育った後。
周囲の同種と連携して。
じっくりと、「木」になる。
その結果、周辺は「木」によって光が独占され。
その植物によって、制圧されるのだ。
恐らくは、木になったシダ植物は他にも存在はしたのだろう。だが、上手くは行かなかった。環境適応出来なかった。
どうして最初の木が環境適応出来たのか。
それは、面制圧を行ったからだ。
他のシダと同じようにしてじっくり居場所を確保しつつ。
中心となるシダを囲むようにして徐々に領土を増やし。
その過程で少しずつ背を伸ばしていく。
節足動物たちの歓心を買わないように。
そして歓心を買った頃には。
其処には森が出来ている。
森になってしまえば、後は多少葉を食われた程度では何のことも無いし、大したダメージも受けることはない。
頑強な幹は簡単には食い破れないし。
喰い破られたとしても。同種が周囲を固めている。
こうして、草原から、じっくり体を持ち上げるようにして。
木を。
そして森を作り上げていった。
それが森が出来た経緯。
勿論最初は、背丈にして一メートルという貧弱な森だったわけだが。
その優位性はすぐに自然界で示され。
あっという間にスタンダードは、「草原」から「森」へと切り替わっていった。
人間が想像する意味での。
石炭紀の到来である。
幹はまだまだ自然界では分解できず。
この発明によって、シダ植物は膨大な死骸を大地にさらすこととなった。
その結果、その死骸は堆積し。
やがて石炭へと変わっていったのだ。
それが素晴らしい事かはさておき。
いずれにしてもはっきりしている事は。
森はこうして出来たかは分からないにしても。
恐らく草原から森へスタンダードが切り替わるときには。
その変化は極めてダイナミックであっただろう、という事である。
タスクが進んでいくのを確認。
私には後で報告するつもりなのであろう。
別にそれでかまわない。
私は今回のデータを元に、CMを更に調整する。
その結果、中々に満足がいくものが出来た。
ただ、自信作ほど見向きもされないというのも事実。法務部に完成品を渡した後は、その反応については気にしないことにもする。
その方が。
精神衛生上よろしいからだ。
作業を一通り終え。
メールのチェックも完了させたタイミングで。
会議の招集依頼が来た。
どうやら。
問題解決と判断して。
私の最終判断を頼みたいとプログラム班も考えているようだった。
シミュレーションで既に私が結果を確認済みなのか知ってかどうか。
プログラム班が、淡々と「最初の木」と、それによって作られた「森」もついてプレゼンをする。
まあプレゼンと言っても、昔のように下手すると何時間も掛かるものではなく。
さっと終わる程度のものだが。
すぐにプレゼンは完了したので。
シミュレーションでそもそも結果を知っている私は、頷いた。
「これでかまいませんわ」
「良かった。 すみません、またお手数お掛けしましたニャー」
「いいんですの。 それが社長の仕事ですのよ」
勿論嫌みでは無い。
本気での発言である。
古い時代は。
ノブリスオブリージュはただの戯れ言とされていたかも知れない。事実、ノブリスオブリージュを口にする存在を、徹底的に否定する者も見たことがある。映像で、だが。曰く現実的ではないそうだ。
だが今は違う。
むしろ現実的になっている。
それだけの事だ。
それにしても、AIに補助を受けなければ、因果応報も、ノブリスオブリージュも、まともに守れず。それどころか、バカの戯れ言と嘲弄するような精神性を持った生物である人間が。
よくもまあ万物の霊長などを名乗り。
人間賛歌などと言うクソくだらないナルシズム全開の寝言を垂れ流していたものだ。
私としては吐き気がするが。
この会議の場でそれを口にするつもりはない。
「後の問題点は」
「既にまとめてあります」
「では法務部より、学者に精査の依頼を」
「分かりました」
それで会議が終了。
さて、此処からだ。
法務部は残して、軽く聞く。
学者は何故か金に固執していた。
理由は分かったか。
その理由次第では。
面倒な事をふっかけてくる可能性がある。その場合には、此方も相応の対応をしなければならない。
それを説明すると、法務部の人間は少し考えた後、調査結果を公開してくれた。
「あまりこれは公開するべきでは無いのかとも思ったのですが……」
「かまいませんわ。 何が理由でも、貴方を責める事はありません」
「はい、社長がそういう方だと言う事は分かっています。 ……ただ、此方を見ると、色々複雑になるかと思いまして」
データを見る。
しばし目を通した後。
ああなるほどと呟いていた。
絶滅動物復活プロジェクト。
人間が面白がって殺戮した生物と環境を。
それぞれ復活させるプロジェクトだ。
米国ではアメリカリョコウバトがその例になるし。
日本ではバスやギルを放流された結果、滅茶苦茶にされた野山の生態系がそれに該当する。
他にもニホンオオカミやカワウソなどを復活させる事もしているそうだ。
現在人類と他の生物は基本的に接することがない。
特に都市部については、地上に存在する都市部が激減しており。
コロニーや、空中都市に殆どの人間は移り住んでいるのが現実だ。
昔は陸続きの先に熊や虎が住んでいたから。
バカが餌をやったりした場合。
猛獣が猛獣としての牙を剥き。
被害が出て。
双方に不幸な結末をもたらす、と言う事があった。
現在では野生動物法が厳格に決められており。
人間は基本的に他の動物と接触しない。
少なくとも、都市部と他環境は隔絶しており。
資源採取などもドローンやロボットが行っている。それも動物の生存環境を脅かさないように、丁寧かつ慎重に、である。
これらの作業を行いながら。
人間が滅茶苦茶にした環境。
特に面白がって滅ぼした生物の復活などが行われている。
そのプロジェクトの一部に。
贖罪として。
私財を投入している人間がいる、という話は聞いたことがある。
実のところ、これらのプロジェクトは政府が主導で行っていて。誰も金を出さずとも、問題なく進んでいる。
プロジェクトに関わっているのも専門の人間やAIであり。
資源というものを心配しなくても良くなった現在の人類は。
わざわざそれについて考えなくても良い。
はっきり言うと。
人間は動物に関わらなくて良くなったため。
面白がって殺戮する事も無くなった。
それだけの話である。
逆に言うと、AIによって支援されている今でも。
人間は機会さえあれば。
面白半分に大量虐殺を行うだろう。動物が相手であればなおさらだ。
だからこそ。
贖罪を、というのだろう。
しかしながら、政府主導のプロジェクトで、予算も足りていて。
専門の人員もいる。
今回の論文の学者は、恐らく適性で弾かれたのだろうけれど。
それでも何らかの理由で、贖罪をしたかった。
そういう事なのだろうか。
正直、気持ちは分からないでもないが。
別にそれは個人資産の範囲内で、趣味でやればいいだけの事の気がする。私は荷担しようとは思わない。
邪魔になるだけだ。
金というものが、昔に比べて著しく価値を失っている現在。
わざわざ其処までする理由は無い。
昔はちょっとの金で簡単に人間が死んだそうだが。
今ではどんな貧乏人でも家を持ち、サポートAIとロボットを与えられ、生活する事が出来ている。
金など。
その程度の価値しか無い社会だ。
其処で金を貯めて。
贖罪のために貢ぐというのは。
何とも矛盾している考えに思える。
まあ個人的には止めないが。
うちを巻き込むな、という気持ちも同時にある。それはそれで、何だか違う気がするからである。
「ともかく、此方としては貴方の思想に関与もしないし、契約通り話を進めるとだけ、面倒な事態になったら告げるように」
「分かりました」
「まったく、面倒ですわね」
私も当然、贖罪については分かる。
だが、専門家が潤沢な支援を元に環境の復元をやっている以上。
其処に素人が横から口を出すのは、悪い結果しか生まない。
環境の復元には高度な専門知識が必要で。
素人が手を出すべきではない。
ましてや人間も環境の一部だとかいう寝言を垂れ流すような連中は、絶対に関わってはいけない。
そういう存在は。
この世界そのものにとっての害悪だ。
正義感は。
時には問題を逆に引き起こしてしまうし。
人間賛歌は、世界に対する悪そのものへと変わる。
世界とは。
残念ながらそういうものなのである。
仮想空間からログアウト。
少し疲れたので、ロボットに肩もみをさせる。
私の予感では。
多分学者はごねる。
だが、法務部が何とか出来ると、此処は信じる。
もしも何とも出来なかった場合には。
その時には、私が出て。
対応を行うしかない。
そして私が予想した通り。
学者はごねたそうだ。
ただし、学者側のAIも、契約について説明し、学者を説得した。AIというのは客観的にものを見る事が出来る人間の支援道具。
人間が知的生命体になるために必要だった存在。
流石に仕事をしてくれる。
とりあえず今回は法務部で抑えられた。
学者は涙を流していたそうだが。
残念ながら知らない。
予定通りの金を渡す。
此方としては、それで社会的な契約を果たす。
思想については立派だが。
人員も物資も金も足りているプロジェクトに。
横やりを入れても何の意味もない。
それが私の結論である。
そしてその結論は残念ながら、どれだけ客観視しても間違いないし。
正義感の強い事は結構だが。
素人が専門職のやる事に横やりを入れても。
それは悲劇しか生まない。
そういう現実がある。
私は生物史と共に育ったようなものだから、それを良く良く知っている。というか、学者だって分かっている筈だ。
正義感が強いのだろう。
それも私としては共感できる。
だからこそに。
専門職を信じる。
今の時代は、専門職を信じられる。
昔だったら、専門職を語る山師が政府関係者にまで入り込んでいるケースが珍しくもなかったが。
今は違う。
だから私は。
正義感より技術を優先する。
そして、あまり考えたくは無いが。
科学者がカルトにはまるケースはある。
実際、古くに宗教団体の大規模テロを起こした連中は。
多くの科学者を抱き込んでいた。
科学者こそ。
案外カルトに、最も簡単に騙されてしまう職業なのかも知れない。
今回の学者はカルトにまでは落ちていなかったが。
その思想は完全に無意味。
だから、私は協力しない。
それだけである。
とりあえず、ごねはされたが。
学者との交渉も終わり。
シミュレーションの検証も完了した。
後は、CMに手を入れる。
そして、その後は。
いつも通りの流れで。
アップデート開始だ。
私の作り上げたエンシェントには、誰にも余計な口を挟ませない。必要な意見なら受け入れるが。
それが正義感からくる的外れなものだったり。
単なる自分の好みの押しつけだったりしたら。
絶対に受け入れない。
それだけだ。
法務部にCMのデータを流す。
そして、其処からは、待つ。
私のストレスを減らすためにも、昔のようにSNSを直接見る事はしない。後でまとめて結果だけは確認する。
自分の目をふさぐようで多少気分は良くないけれども。
昔なら兎も角。
今はAIが客観的情報をもたらしてくれる。
それこそ昔だったら、どれだけストレスを感じるとしても、直接自分で確認しなければ。情報なんて危なくて見る事など出来なかっただろう。
今だから出来る事だ。
今回は、シミュレーション中に見せてはいたが。
空中からの確認ツアーとする。
いつものような透明車両は使わない。
石炭紀には巨大な節足動物がたくさんいるため。
客が絶対に苦情を入れてくるからだ。
上空から、石炭紀における植物の移り変わりについて、軽く映像で説明をした後に。最初の木に戻ってくる。
そういう時代超え観察ツアーを行う。
今回の目玉は始まりの木だが。
いきなり木がぽんと生えて。
その周囲に、聖人を崇めるがごとく無数の後続がしたがったわけでは無いことは、シミュレーションでよく分かった。
だから客にもそれを説明し。
十倍速以上で、始まりの木が育っていく様子を見せる。
そして最初の木が皮切りになって。
木というものが。
地上を席巻していく様子も。
じっくり楽しんで貰う。
楽しんで貰う、か。
本当に楽しんで貰えているのだろうか。
それは私も不安だが。
ともかく、AIがはじき出したこれが一番良いツアーであり。そしてプログラム班も良いと口を揃えている。
そろそろ専属のモニターを雇いたい所だが。
それも難しい。
太鼓持ちはいらないし。
かといって言うこと為す事否定するような輩もいらない。
正論をいうならばそれはいい。
だが否定は正論ではない。
正論というのは正しい事を述べることであって。
一時期はこれを言う人間を馬鹿にする風潮があったらしいが。それは要するに、人間という生物がカスであると言う証明に他ならない。
私は、開発機のデスクの前に座ると。
ぼんやりとアクセス数について確認していく。
伸びは緩やかだが。
確実だ。
最初の木。
やはり、その言葉には興味を持った客も多かったのだろう。
それなりの人数が。
見には来ている様子だ。
どんな話をしているかは。
後で法務部にまとめて確認をすれば良い。
私はただ此処で。
ぼんやりと結果を待つだけだ。
勿論大規模トラブルがあった場合は対応の指揮を執らなければならないので。湯治に今すぐ行く訳にもいかない。
しばらくは、此処で様子見である。
程なくだが。
アクセス数がぐっと伸び始めた。
何かSNSで事件があったのかも知れない。
一種の炎上ではないだろうな。
不安になった私だが。
炎上だったら、法務部がすぐに連絡を入れてくるはずだ。うちは法務部に力を入れている。
だから信じる。
それでいい。
椅子から立ち上がりかけた自分を、戒め、座り直す。
そして、しばらく様子を見続けた。
法務部から連絡がある。
重要度は中。
つまり、炎上の類では無いし。
私が対応しなければならない事でも無い、と言う事だ。
内容はこうだった。
「SNSで今回の石炭紀初めての木ツアーについて、かなり評判になっています。 一種の生物に的を絞るのではなく、時代を移しながら木の移り変わりについて説明し、最初の木についての解説に戻る。 これがとても分かり易いという事です」
「分かり易いも何も、確か催眠教育で生物史として習っている筈ですわ。 昔のいい加減な教育と違って、忘れる事もないはずですし」
「しかし事実として、脊索動物の際の客の問題行動ログは、社長も見ている筈です」
「……」
痛いところを突いてくる。
だがそれは正論だ。
だから私も受け入れなければならない。
大きく息をつくと。
続けるようにと、メールで促す。
「結局の所、教育としてすり込むのと映像で見るのとは、だいぶ違ってくる要素もあるのだと思います。 今回は映像という分かり易い媒体を用いた結果、大いに成果が上がっている、と言う事ではないでしょうか」
「古い時代の効率が悪い教育のようですわね」
「……否定は出来ません」
「まあいいですわ。 ともあれ売り上げはどのくらいになりそうですの?」
アクセス数の伸びを見せられる。
意外に高い水準でまだまだ伸びている。
これがある程度落ち着いてからが、大体の売り上げの計算が出来るタイミングで。
まだ計算はしない方が良いだろう。
いわゆる皮算用になりやすいからである。
「とりあえず三日は様子を見るべきかと思います」
「分かりましたわ。 その間に致命的問題などが発生した場合は、私に連絡を入れるように」
「はい」
メールを閉じる。
大いに嘆息すると。
私は湯治に行こうかと思ったが。
流石にまだだめだ。
新規のアップデートが終わったばかり。
バグが発生したら、即時対応の必要がある。
バグ取り班を雇った結果。
今までずっと判明していなかったようなバグが見つかったり。早期対処が出来るようになってきている事がありがたい一方。
指示そのものは私がしなければならないので。
私は休んでいるにしても、ソファで寝っ転がるか。ベットで横になるか。それとも開発機に貼り付いて、自分でエンシェントを楽しむか。
それくらいしかすることがない。
あくびをするくらいは良いだろう。
そういえば。
昔の会社では。つかれた人間があくびをすると。
頑張っている人間に非礼だとか、暴言を吐かれるケースがあったとか。
疲れているからあくびをしているのであって。
より疲れている人間に合わせて、己の疲れを隠さなければならない、というのは単なる不毛である。
そんな意味不明のマナーを蔓延させていたから。
誰も身動きが出来なくなった。
今は、私は会議であくびをしている人間がいても怒るつもりはない。
まあもし怒ってしまったら。
後でわびのメールをいれるつもりである。
AIにはその辺りを告げてあるので。
正論を私がいれられないときには。
AIがしっかり指摘してくる。
それでいい。
私は知的生命体である事を、放棄するつもりはないのだから。
カプセルで休むようにAIに言われたので。
頷いて、緩慢に動いてカプセルに移る。
しばらくぼんやりと健康検査を受けていたが。
ストレスによって受けたダメージは、かなり改善している様子だ。このまま上手く行くと、通院もしなくて良くなるかも知れない。
もしそうなったら、とても嬉しいが。
其処まで都合良く物事は働かないだろう。
そんな事は私も分かっているので。
其処までの期待はしない。
数値を見せられる。
食生活などは問題なし。
体内に病巣も無し。
目立つような病巣がある場合は。
カプセルですぐに検知して知らせてくるから、これは信用して良いだろう。
ただ、しばらく寝やすい条件を作るので。
眠るようにとアドバイスを受ける。
メールが来たら起こすようにとも指示し。
眠る事にする。
しばし、眠るのも悪くは無い。
確かに、疲れは溜まっているのだから。
夢を見る。
森というのは、修羅の世界だ。
私は其処を歩いていた。
人間が夢想する森は、優しい植物の世界だが。
それは大嘘である。
光を奪い合う地獄絵図。
それが森の実態だ。
森でなくて、これが草原などでも同じ事。
背が高い植物は強い。
単純な理屈だ。
地盤が特に弱い場所などでは木は育たない。条件が悪い場合は、背が高い植物が育てない。
そういう場合もあるが。
そういった例外であっても。
やはり植物は。
光を求めて貪欲に背を伸ばし、葉を張る。
そして他の植物から光と栄養を奪い。
自分が生きるために。
他を殺す。
その苛烈さは、動物となんら変わる事はない。
生物史の常識の筈だが。
どうしてか、これを口にすると、驚く者も珍しくない様子だ。
むしろ環境が安定した島などに住んでいる固有種の動物の方が。
安楽な生活をしているケースさえある。
植物はどこでも基本的に強烈な闘争の中に身を置いている存在であって。ただ動かないだけで、修羅である事に代わりは無いのだ。
此処は石炭紀か。
巨大なトンボが飛び交い。
便座ほどもあるゴキブリが歩き回り。
そしてアースロプレウラが、私を一瞥すると、側を歩き去って行った。
私は普段着だが。
本来はこの時代、酸素が濃すぎて倒れてしまう。
だから夢だと分かったが。
敢えて、夢を楽しむ事とする。
別にそれで誰かが困るわけでもないのだ。私も石炭紀を好き勝手に、エンシェントと同じように歩き回れる。
それで何が悪い。
始まりの木の前に。
いつの間にか立っていた。
木が一本だけ、というわけではない。
正確には始まるの森、というべきか。
夢ならではの展開だ。
さっきは森の中にいたのに。
いつの間にか、自分より背が低い森の前にいるのだから。
時間も空間も滅茶苦茶だ。
夢ならではである。
苦笑しながら。
これはひょっとして、私が結局承認したツアーと同じものではないのか、と言う事に思い当たる。
自分ではツアーを楽しむことはなかったが。
他の客は、透明なツアー用車両の中から。
説明を受けつつ。
こんな映像を楽しんでいるのかも知れない。
自分では、これを敢えて楽しもうとは思わない。石炭紀の歴史を、自分で頭の中に構築可能なほど、エンシェントに入っているからだ。
石炭紀の、シダ植物全盛期の森。
苔しかない大地。
どちらも見てきている。
空の色は酸素が濃すぎてあかね色で。
今の青い空とは根本的に違う。
そこで暮らしている生物も。
だがそれが何だというのか。
私に取っては。
今、目の前に拡がっている始まりの木による小さな小さな森は。
人間が作り出した「愛」だのなんだのという寝言よりも。
遙かに美しく。
価値のある存在に思えてならなかった。
目が覚める。
少しカプセルの酸素濃度を濃くしていたらしい。
AIに説明された。
それであんな夢を見たのか。
夢の内容を説明すると。
AIは関連する可能性は充分にあると、客観的見地から、面白くもない事を言った。だが正しいので受け入れる。
少し疲れも取れたか。
デスクにつくと、メールを確認。
三日後くらいにはアクセス数の上昇曲線は落ち着くという話だが。
今の時点ではその予告通り。
アクセス数は伸び続けている。
法務部のAIは優秀だ。
勿論有料で使っているのだから、優秀でなければ困るのだが。
それでもきちんと成果を出している。
優先度の高いメールも来ていない。
もう少し休むのも。
悪くないかも知れなかった。
4、木の話
進化ではない。
環境適応だ。
最初にこの言葉から始まる論文を読んだのは、いつだったか。
私は大きな影響を論文に受けた。
事実その通りだと思ったし。
進化とかいうものが、実態などなにもなく。
環境適応の結果を、都合良く人間が進化と呼んでもてはやしている事も、すぐに分かった。
人間は異常なナルシズムに満ちた生物だ。
だからその異常行動についても。
私はすぐに理解したし。
呆れもした。
この生物とは理解し合えない。
そうとも思った。
結局の所、人間と直接接触しなくてもやっていける今の時代でなければ、私は生きていけなかっただろう。
私だけでは無い。
虐待死で殺されたり。
魔女狩りにあったり。
或いは村八分にされたり。
そういった目にあった人間は大勢いたはずだ。
そして悲しいかな。
多数派に、人材は存在しない。
多数派を動かす輩は、老獪であっても多数派ではない。多数派を理解している存在であって。
彼らの脳内は多数派とは違っている。
それは強いわけでは決してない。
実際戦闘力が高いケースはあるが。戦闘力が高く頭も良く、何もかもできるなんて人間はまずいないし。
例外がいるとしても、間違いなく頭のねじが飛んでいる。
少なくとも多数派が恋い焦がれるような。
仕事が出来て。
誰とも高い「コミュニケーション能力」で接することが出来て。
人格も優れている。
そんな人間は存在しない。
そんな事にも、人間は。
宇宙に進出し。
すぐれたAIが偶然開発され。
そして今の社会が構築されるまで。
気付くことさえ出来なかった。
私は嘆息する。
目が覚めたからだ。
起きると疲れる。
現実と向き合わなければならないからだ。
デスクにつくと。
メールをチェック。
優先度が高いものは一つだけ。どうやら予想通りの売り上げになるらしく、今回も社員達にボーナスを出せる。
色々な意見が出ていた。
「今回のツアーは今までで一番分かり易かった。 生物の歴史を辿ってくれると、以降もツアーでは非常に助かる」
「普通に映画を見ているようだった。 デカイ虫は勘弁だったけど」
「あのゴキブリな。 マジでトイレくらいありやがる」
「でも森というものが出現して、大きくなっていく歴史については感動したな。 森の生存競争の苛烈さについても驚かされた。 植物って、もっと温和な生物だと思っていたよ……」
そうか。
今回はこんな評判なのか。
リードシクティスの時は、その艦隊ぶりが話題になったが。
今回は歴史が分かり易いという評判か。
あまり良い気分はしない。
こういった、他の生物とヒモ付けしてツアーをするのは。
知識がない人間に対してのものだ。
今の時代、人間は催眠学習で知識を身につけているはず。それなのに、どうしてそんな事をする必要がある。
教育の意味は。
私の機嫌が悪くなってきたのを見越してか。
AIが続きを見るように促してくる。
ピーコックランディングのログだった。
「科学者として非常にドキュメンタリーとして優れているとは感じたね。 ちょっと説明がくどすぎるとも感じたが」
「あれくらいで丁度良いんじゃないのかな。 因果関係も分かり易い。 素人には丁度良いはずだよあれで」
「今の時代素人なんていないはず何だがなあ」
「事実いるのだから仕方あるまい」
そう。
どうしてかいる筈が無い素人がいる。
私は教育を受けた人間が、どうして素人に戻るのか。
それを知りたい程だ。
AIに確認したが。
人間は、興味が無い事に関しては、基本的に知っていてもどうしてもそれを現実と結びつけて認識出来ないと言う。
更に言うと気に入らない相手の言う事は。
基本的に否定しないと気が済まないという。
そういうクソ生物なのだから。
教育が意味を成さないケースがあるのも仕方が無いのだろうか。
だとしたら呆れ果てる話だが。
「今回は収益的にも成功です。 喜ぶべきだと思いますが」
「……そうですわね」
「そして次回以降も、今回の成功経験を生かすべきです」
「分かっていますわ」
頬杖をついて。
ため息をつく。
そうか、此処まで膳立てしないと駄目なのか。
それについてはよく分かった。
もう一つ分かった事がある。
人間は自分が知らない事を言っている相手を、バカだと認識するケースがあると聞いているし知っている。
知らない事を知っているなら尊敬するべきだと思うが。
大半の人間は逆の態度を取る。
何故か。
理由がよく分かった。
自分の興味が無い事に関しては。
どうでもいいのが平均的人間だからだ。
つまるところ今回の件でよく分かった。要するに興味が無ければ、殺戮だろうが虐殺だろうが関係無いし。
下手をすると人類が絶滅するような状況にさえ興味を見せず。
警告する相手を嘲笑う。
それが人間というカス生物という事だ。
鼻を鳴らす。
よく分かった。
以降はこの成功体験を元にツアーを組む。
だがそれは侮蔑からだ。
私は以降。
今まで以上に人間を軽蔑すると、決めていた。
(続)
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