奇妙な海老と呼ばれて
序、最初の最強捕食者
アノマロカリス。
カンブリア大爆発と呼ばれた、様々な生物が奔放に出現した古い古い時代。まだ海中にしか生物が存在せず。そしてその大きさも知れていた時代に。
圧倒的巨体を誇り。
海の覇者として君臨した存在である。
体長は最大でも二メートルほど。
現在で考えると、大したサイズの生物ではないが。
カンブリア紀に限定すれば、それこそ巨人とでも言うべき体格で。
圧倒的な捕食者として、他の生物に対する脅威となっていた。
勿論全てが獰猛な肉食性だったわけではないが。
いずれにしてもその圧倒的な巨体は。
当時における最強の中の最強だった。
そして生物としても優れていたからか。
実はカンブリア紀を越えて生き残り。
後の時代にまでその命脈を紡いでいる。
流石に現在までは生き延びてはいないが。
大絶滅が発生したオルビドス紀までは生存していたことが分かっているなど、種としての対応能力も高かった様子だ。
古代生物好きには、一時期アイドルのように扱われたアノマロカリスだが。
分かっていない事も多い。
そもそも名前からして、最初は誤解から生じた。
実は体がバラバラに発見され。
化石としてそれぞれ別の生物として考えられた時期がある。
最終的にそれらの化石を複合し。
アノマロカリスの復元図となったのだが。
それはどうしてかというと。
カンブリア紀の生物としては。
あまりにも非常識に大きすぎたから、である。
もっとぐっと小さな生物ばかりだった時代に。
二メートルにも達する巨体で、海を好き勝手にしていた存在となれば。
しかも、頑強な外殻をもつ三葉虫も平然と捕食していたことが分かれば。
その圧倒的存在感がよく分かるというものだろう。
私は腕組みして。
そのアノマロカリスの論文を見ている。
見つかったらしいのだ。
今までに無い最大種が。
正体不明とされていた化石を幾つか検証したところ。
どうやら三メートルに達するアノマロカリスの新種である事がほぼ間違いないことが判明。
他のアノマロカリス種を捕食するほどの強力な捕食者で。
文字通り当時の海における最強最大の暴君だったと、論文にはまとめられていた。
確かによだれを流して飛びつきたくなる論文だが。
個人的には少し待て、と自制したい。
気持ちは分かる。
だが、大型生物というのは。
化石などが発見されると、巨大な存在として盛られるものなのだ。
メガロドンなどが良い例で。
最初は二十メートル超という説が主流を占めていたが。
現在では十五メートル弱にまで落ち着いている。
それでも充分すぎる程に巨大だが。
シャチの圧倒的な制海能力を脅かすほどでは無い。
多分シャチにとっては良いカモだっただろうというのが現在の定説であり。
決して海の頂点にいたわけではないのだ。
ともかく、ココアを入れながら、論文に丁寧に目を通していく。
一応他の学者も精査しているのだ。
おかしな所は、少なくとも現時点で私の目では見つからない。
AIに確認もして貰うが。
それでも結果は同じだ。
だが、どうも妙だ。
流石に三メートルのアノマロカリスとなると、適切なエサがあまり考えつかないのである。
カンブリア紀に繁殖した生物たちは、小型種が主流。
当時は小型生物くらいしか、棲息できない環境だった、という事である。
アノマロカリスが異色すぎるのだ。
二メートルでも異色すぎる程なのに。
三メートルとなると、流石に違和感を覚える。
まず学者に連絡。
論文について確認する。
相手がエンシェントの社長だと知ってか。
相手の学者。
まだ二十代の若い男性は。
驚いたようだったが。
いずれにしても、丁寧に説明はしてくれた。
話を聞く限り、どうも矛盾点は無い様子だが。
どうにもおかしく感じる。
ただ、本人はいたって真面目。
嘘をついているつもりはないだろう。
一旦持ち帰る事にする。
流石にコレをいきなり採用は出来ない。
学者としても実績が無いし。
まずは調べて見ないと何とも言えない。
会議に掛けて。
まずはシミュレーションして貰う。
現在、エンシェントではカンブリア紀の海を再現した環境を仮想空間に作っている。
この環境下で。
三メートルのアノマロカリスが生存しうるかどうか。
シミュレーションをして貰う事にする。
勿論そのままの条件ではどうか分からない、と思ったが。
意外にも、生存そのものは出来る事が分かった。
だが、今まで我が物顔に泳いでいたアノマロカリスが。
更に巨大な別のアノマロカリスに襲われ食われる様子は、色々ショッキングではあったが。
頂点捕食者交代の瞬間である。
だが、どうにもやはり違和感がぬぐえない。
「アノマロカリスが巨大化し、栄養が豊富になった海であれば、巨大種が出現してもおかしくはないようです。 今の段階でも化石はとても少ないですし、ひょっとしたらもっと大きな種も……」
「それにしては妙ですわ」
「お聞かせください」
「……もう一度、指定の条件でシミュレーションをお願い出来ますの?」
頷くと。
すぐに会議に出席しているプログラマーがシミュレーションをしてくれる。
結果は、否、だった。
やはり生存は無理か。
カンブリア紀の末期。
それならば、かろうじて生存は出来るかもしれない。
だが、アノマロカリスは元々カンブリア紀の頂点捕食者であって。カンブリア紀以降は、頂点捕食者からも転落。
更なる有能な大型捕食者に、その地位を奪われる事になる。
生物的な完成度も決して低かった訳では無い。
だが、この生物の大爆発とも言える変化と環境適応の嵐の中。
アノマロカリスは、生き残り続けられるほど。
生物としての完成度が、決して高くは無かったのだ。
事実かなり後までアノマロカリスは生き延びているが。
それは小型種限定。
かろうじてニッチに潜り込むことが出来た小型種だけが生き延びられたように。
少なくとも頂点捕食者としての座は明け渡さなければならず。
その繁栄はそう長くは無かったはず。
三メートル以上の巨大種となると。
どうにもおかしいと言わざるを得ないのだ。
「あくまで例外的な巨体か、それともいわゆる倍数体か……」
たまに突然変異で、生物は巨大化する事がある。
それを意図的に引き起こすことが出来るのが、倍数体である。
簡単に言うと、卵の状態で、数十秒だけ熱する、というような作業を経由するのだが。
言う間でも無く、湯に死なない程度の時間だけつける、という事がどれだけ難しいかなど。
説明する必要さえないだろう。
湯に入れるのは簡単だが。
その湯からどうでたのか。
それが問題になる。
多分アノマロカリスは卵生だっただろうが。
その卵が、どうやって倍数体になったのか。
そしてなったとした所で、それがどうして化石として残ったのか。
どちらも奇跡的な確率だ。
いずれにしても、皆古代生物好きだ。
浪漫に走りがちな者もいるけれど。
それでも、いい加減な情報をエンシェントで展示する訳にはいかない。
その意見は一致している。
科学者に連絡。
恐らく発見はごく例外的な状況に置ける存在である可能性が極めて高い。
今回新種としてアップデートを行うには少しばかり無理がある。
新種としての何か決定的証拠が見つかり次第、また論文を発表して欲しい。
そう締めくくると。
メールで礼を述べて、一旦この件は打ちきった。
アノマロカリス自体は人気がある。
そもそもバージェス動物群と言われるカンブリア紀の、想像を絶する奇怪極まりない生物たちの中でも。
頂点に君臨していた異形の生命体。
後の時代に、様々な生物へ分岐していった無数の生物たちの先祖達が。それこそ泡沫のように現れた時代の王者。
その泡沫のように現れた生物の中には、現在では否定論も増えているが。脊椎動物の遠い先祖になったと言われるピカイアもいる。
残念ながらアノマロカリスは、現在にその姿を伝えることしか出来なかったが。
多くの生物たちの頂点に君臨し。
彼らが力をつけるまで、生態系の頂点にいた文字通りの覇王。
姿も現在のどの生物にも似ておらず。
発見時に三つの生物だと勘違いされ。
最終的に組み合わせることで、本来の姿が確定したという筋金入りの経歴の持ち主である。
カンブリア紀の展示の中では、現在でも人気が高く。
アノマロカリスの展示を見に来るマニアも多いし。
子供向けの展示としても人気がある。
二本の触手を口から垂らし。
全身は平べったく、体の左右にはひれが。
目は長く左右に伸び。
口は円形で、吸い込むように相手を囓りとる。
そんな生物としての実験を詰め込んだような不思議な存在が。
人気が出ない筈も無い。
エンシェントでもアノマロカリスは人気だし。
多分あの論文にあったアノマロカリスを新しく作ってアップデートすれば、客足は見込めるだろう。
だが、それには。
あの論文は不確か過ぎた。
好きだからこそ。
大事に検証し。
無理が無いか調べ上げ。
そして完成度を上げなければならないのだ。
好きなものだからこそ、なのである。
勿論商売と天秤に掛けなければならない事もあるが。
今の時点でエンシェントは経営に困っているようなこともないし。
むしろ誠実な商売をすることで、客の信頼を得ている。
それが、人気を得られそうな新説に飛びついて。
後から無理が分かった場合は。
正直な話、工数の無駄になってしまう。
工数があるのなら、それをフル活用する、何て前時代的な思考で動いてはいけない。
一番危険な状態でも、対応可能にする。
それが一番大事なのである。
AIにジャッジさせ。
会議も終えると。
一度仮想空間からログアウト。
私はシャワーを浴びて。
後はココアを飲みながら、SNSでのコメントなどをチェックする。
恐竜関係を見にエンシェントに赴いた客が、コメントを残していた。
「ティラノサウルスに追っかけられてきたぜ。 食われるところまでやってみた」
「物好きだな。 それでどうだった」
「幼体が追い立て、成体が待ち伏せて一撃必殺というやり方は、定説に沿ったものだけれどな……やっぱり成体が車より速く追いかけてきてほしいもんだ」
「化石には成体が走った痕跡が残ってるらしいんだけれどな……」
恐竜の話題か。
恐竜は古代生物の一番人気と言う事もあって、研究も盛ん。今でも新説がバンバン出てくる。
実際の所、恐竜関連の会議は四割近くに達し。
論文を検証し、新説を取り入れても。
わざわざ宣伝はしない。
恐竜に関しては本当にどんどん新しい説が出てくるので。
いちいち宣伝するまでも無い、というのが理由だ。
一方で、恐竜が絶滅した後に繁栄した種族。
恐鳥類や大型ほ乳類は。
いずれも研究が枯れてしまっており。
最近は殆ど新説も出てこない。
特に人類の先祖に関しては。
エンシェントでは扱わないようにしていることもあって(エンシェントでは1000万年前までしか扱わないことにしている。 人類の先祖は500万年前に出現している)、縁がない。
だからこそ、他の生物の新説が出てくると。
動きたくもなる。
私自身恐竜は好きなのだけれど。
どうしてもひねくれているのか。
いちいち恐竜の新説が出ても。
飛びつく気にはなれなかった。
むしろ恐竜よりも。
もっとずっとマイナーな生物の新説が出てくる方が興奮する。
今回アノマロカリスの新説にもあまり興味が湧かなかったのも。
アノマロカリスが、カンブリア紀におけるアイドルであって。
非常に人気が高く。
故に今更調べた所で、これと言った発見も無く。
何より面白くない、というのが理由かも知れない。
勿論論文がきちんと正しいと証明されればアップデートもする。
当たり前の話だ。
だが少なくとも、今回私の勘は当たった。
現時点では、あの論文を鵜呑みにすることは出来ないだろう。
例外的な最大種を敢えて展示して。
それが一般的だったと勘違いされるのは、非常に頭に来る。
私は専門家だ。
勿論学者ではない。
学者が本当のことを言うなら従うが。
それもきちんと検証してから、である。
あくびを一つすると。
アノマロカリスの巨大種については忘れた。
アノマロカリスも、発見されてからしばらくは熱狂が続き。多くの新説が出たが。逆にそれが徒となって。今ではあまり研究も進んでいない。研究され尽くして、むしろ枯れたというのが正しいのだろう。
あの学者も。
自分で嘘をつこうとしたとは思えない。
今回は縁がなかったが。
研究が練り切れていなかった。
それだけだ。
一眠りしてから、起きだす。
疲れは綺麗にとれたので、歯を磨いて、仕事に備えていると。
メールが来た。
何だろうと思ってメールを確認すると。
アノマロカリスに関する論文について、だった。
私が登録している古代生物研究の互助会からのメールである。
どうやらアノマロカリスの化石が大量に発見されたらしい。
時期はカンブリア紀末期。
その内容から確認すると。
どうやらカンブリア紀末期に、アノマロカリスが最大発展していた頃の化石で間違いない様子だ。
これは興味深い。
とはいっても、化石の研究というのは。
掘り出してから、一つずつ丁寧に精査していくため。
即座に掘り出したものを結論出来るかどうかは分からない。
現在でもその辺りは変わっておらず。
化石の分析技術は上がったものの。
化石を分析する速度そのものは、まだまだ上がっておらず。
お蔵入りになっている化石も多数ある、というのが現実だ。
いずれにしても、「発見」されたのはそういったお蔵入りしている化石の群れであって。大事にしまわれていたものが、やっと研究される番が廻って来た、という所である。
まあ研究が開始されれば結論が出るのも速いだろう。
私は速く面白い研究結果が出ないかなあと考えながら。
次の商機について。
考えを巡らせていた。
1、最初の巨大生物
いつの時代にも。
覇者と呼べる巨大生物は存在している。
例えば現在世界では。
海の覇者と言えばなんといってもシロナガスクジラだ。全長34メートル。その体重たるや、歴史上最大という程の存在である。
陸上の覇者は。
まあ人間は既に動物と切り離して考えるのが基本となっているので除外する。
草食獣で言えばアフリカ象。
恐竜時代にいれば、せいぜい中堅所程度の実力しかないだろうが。
それでも現在で考えると、敵無しの生物である。
負傷していたり、幼体でなければ。
人間以外にアフリカ象を殺せる生物は存在していない。
肉食動物で言うと、多分最強はシベリア虎だろう。
サイズで言うといわゆるホッキョクグマが1トン近いと最大なのだが。
猫科の動物は、三倍の体重の犬科に勝つと言われている程戦闘能力が高い。
イエネコがあのサイズなのは、人間を殺傷しない最大のサイズだからで。
あれ以上のサイズの猫科は、子供を容易に殺すし。
もっと大きくなると、当然「猛獣」と呼ぶに相応しい実力を有するようになる。
特に群れで狩りを行うライオンに対し、単独で狩りを行う虎は戦闘力は個体個体で安定して高い。
勿論最大級の雄ライオンも相当な実力者だが。
それでも最大クラスのシベリア虎にはかなわないだろう。
また実際シベリア虎は、熊を補食して栄養源にしており。
頂点捕食者の座に君臨もしている。
まあ、僅差ではあるが。
肉食動物の現在における最強は、シベリア虎の最大個体と判断して良いかと私は思う。
クズリやらラーテルやらは単に名前が先行しているだけでどうということもない。
ともあれ、である。
覇者と呼べる最大生物が出現したカンブリア紀では。
現時点で分かっている範囲内では。
アノマロカリスが、文句なしに最強だったことは、疑う余地が無い。
他の生物たちに対して圧倒的な巨体。
機動性。
装甲。
全てにおいて優れており。
我が物顔に左右のひれを動かして動き回り。
当時は海の中にしかいなかった生物たちを。
文字通り食い荒らして回っていた。
あまりにも有名な三葉虫も。
アノマロカリスの前にはエサに過ぎず。
アノマロカリスが姿を見せると、砂の中に隠れてやり過ごし。それが上手いかなければ、食われてしまうだけだった。
SNSをチェック。
以前会議で話題になった、ピーッコックランディングと言う、マイナーなSNSである。
どうも高度な専門家が密かに集まっているコミュニティらしく。
誰にも知られていないが。
相当な専門的会話が行われている。
さっそくアノマロカリスの化石について、活発な話がされているようだった。
「アノマロカリスについて、この間三メートル近い新種の論文が出ていたが、ひょっとして今回の発見でそれが裏付けられるか」
「いや、流石にあの論文を真実と決めるにはまだ少し情報が足りない」
「確かにそうだが、ひょっとしたらカンブリア紀の海は、想像していたよりも遙かに豊かだった可能性もある」
「土砂崩れか何かで、営巣地が全部埋められた可能性も否定出来ない。 興奮するのも分かるが、まずは調査待ちだ」
速報、と発言が上がる。
どうやら、研究者がSNSに混じっているらしい。
まあ今は、化石研究は基本的にオープンだ。
研究の様子は、リアルタイムで確認できる。
基本的に研究室は密閉状態だが。
不正がないように、自動カメラなどで24時間監視を行っており。
また研究者が第三者視点でチェックして。
おかしな事がされていないか、常に確認。
それは外部にも公開されている。
これは昔、不届きにも発見をねつ造する自称科学者がいたからで。
また、解釈によって化石が頓珍漢な解釈を受けることもあったから、である。
現在ではそれらの愚かしい歴史から学ぶことで。
研究はオープンにされている。
政府も太陽系で統一されているし。
機密にしても、漏れたところで別に問題になるような事も無い。
高度な軍事機密なら兎も角。
化石研究の機密が漏れたところで、誰かを死なせなければならないような事も無い。
故に現在では、化石の研究はオープンにされている。
まあ私も実はリアルタイムで見ているのだが。
流石にやっている事が細かすぎて、ちょっと分からない事も多い。
その度に催眠学習で知識を増やしているのだが。
学者には流石にかなわない。
「今までで最大規模のフィンを発見。 全体像は流石に出ていないが、これは三メートル級の予感」
「フィンだけ大きい品種の可能性は」
「勿論ある。 調査中」
「興味深い」
SNSでの会話の流れを見ている限り、ひょっとするとだが。
あの学者の論文、正しかったかも知れない。
更に新しい発見。
「この形状、アノマロカリスでは無いな。 口の形からして、恐らくプランクトンなどを食べていた品種のようだが、一メートルを超えている」
「プランクトン食のアノマロカリスは既に発見されているはず。 現在でも大型生物にはプランクトン食をするものが珍しくないが、この時代にアノマロカリス以外の大型濾過捕食者がいたか」
「どうやらそのようだ。 名前などは後日発表されるだろうが、この数は……かなりの数がいたと見て良さそうだ」
「そうなると、予想以上に当時のプランクトンが豊富だったという裏付けになると判断して良いのだろうか」
わいわいと話し合いが為されている。
なるほど。
カンブリア紀の海中そのもののデータが書き換わるかも知れない、というわけだ。
これは興味深い。
ログは残しながら、研究の進展を確認する。
現時点で見ている限り、作業をしている科学者達自身は、黙々淡々と動いているが。
その間にロボットアームが、様々な方向から、化石を分析している。
かなり巨大な三葉虫が出てきた様子で。
喚声も上がっていた。
それも、囓られた形跡がある。
囓った相手がいる、と言う事だ。
死んだ後に時間を掛けて囓られた可能性も、勿論否定は出来ないが。
この様子だと、どうも違うらしい。
囓られた結果即死した、と判断して良さそうだ。
そうなると、この巨大な三葉虫を補食した相手がいるという事で。
それは恐らく、天敵であるアノマロカリスだろう。
口のサイズから考えて、三メートル級であってもおかしくはない。
公開されているデータから、此方でも分析してみるが。
確かに三メートル級になる。
これは、あの論文。
俄然真実味を帯びてくるかも知れない。
更に複数の発見。
奇妙な形の生物たちに混じって。
原始的な頭足類なども出てくる。
化石に残りにくい頭足類だが。
もう生まれていた、と言う事だ。
化石そのものがねつ造されたものではないか、という可能性については。
徹底的に調べられている。
勿論その可能性はない。
今の時代。
AIは人間の詐欺師を上回る性能を持つ。
何より化石発掘そのものでは金にならない。
論文もしかり。
勿論知識欲目当てで、論文をねつ造するものや。我田引水な論文を書く者もいるけれど。学者としての信用を失うだけだ。
さて、他のSNSではどうか。
一応盛り上がってはいるが。
古代生物好きは其処まで多いわけではない。
一応トレンドに上がっているケースもあるが、それだけ。
さほど古代生物に興味を持っている人間は多く無い、ということである。
また、カルト団体が過激な声明を発表。
神の作った世界に偽りの歴史を持ち込むことは許さないなどと口にして。即座に逮捕されていた。
まあ信念に従って逮捕されるのだから本望だろう。
どうでもいい。
昔はテロなどを起こして猛威を振るったカルトだが。
今ではテロなんて起こしようが無い時代が来ているため。
その存在感は小さくなる一方だ。
話によると、カルトにはまった結果、刑務所からの出入りを繰り返す者もいるらしいが。
基本的に重犯罪は犯すことが絶対に出来ないため。
結局テロ未遂で何度も捕まっては。
警察に目をつけられ。
またテロ未遂で捕まる。
そういう悪循環で、人生を台無しにするのだとか。
ため息をつくと、私は会議を招集。
備えるように指示した
「カンブリア紀の大規模な論文ラッシュが起きる可能性がありますわ。 見たところアノマロカリスの大型種についても、現実味が出てきておりますの」
「此方でも確認しておりますニャー」
「論文の精度が上がり次第、動くと言う事でよろしいですのだ?」
「そうなりますわ」
まあ、話をするだけなので。
今回はジャッジもいらない。
即座に会議を終え。
次の展開を待つ。
私はその間。
今まで自分で作ったCMをチェックし。
細かい部分などの修正を行っていた。
動きがあったのは三日後である。
以前三メートルアノマロカリスの論文を書いた学者が、連絡を入れてきたのだ。
まあ入れてくるだろうなあとは思っていたので。
驚くことは無かった。
学者は相当に興奮していて。
この間の発見で、すべての仮説が裏付けられたと喜んでいた。
それによると、やはり三メートル級のアノマロカリスは存在しており。カンブリア紀後期の海にて、大型化を始めた頭足類を一とする他の生物と、海のニッチを争っていたという。
しかしながら、カンブリア紀後期には既に現在でも生存している完成度が高い生物である頭足類が出現しており。
やがて海の覇王ともいえる直角貝が登場までする。
アノマロカリスが争うにはあまりにも分が悪い相手だ。
三メートル級にまで巨大化したアノマロカリスも。
その生物としての寿命は決して長くは無かっただろう。
ニッチを奪い取られれば。
その生物は滅びるのだ。
人間が現れたときのように、数年で、とはいかないが。それでも万年単位でゆっくり滅びていく。
最後の瞬き。
それが、この最大サイズのアノマロカリスの真実なのだろう。
論文については確認した。
複数のAIに調べさせるが。
この間の研究結果と比べても問題は無い。
契約を締結した後。
論文を改めて会議に掛ける。
タイミングがあまりにも良すぎる気もするけれど。
まあいい。
少なくとも現在、発掘関連で不正をできる程、世の中は甘くない。
ましてや論文の根拠になっているのは、あの大量の化石の分析結果だ。
それならば、特に気にすることもあるまい。
会議に掛けると。
この間の分析を皆見ていたからか。
うってかわって、肯定的な意見が目立った。
そも私が意見を変えているのである。
全体的な空気も変わる。
何より、論文に証拠というもので、肉付けがされたのだ。これならば、誰もが納得するだろう。
アノマロカリスはアイドルである。
故に今回は商機になる。
そして、今回の商機を逃すと。
文字通りの機会損失となるだろう。
ジャッジにも掛けるが。
当然のようにOKが出た。
ならば決まりだ。
「この三メートルクラスのアノマロカリスをアップデートで実装しますわ」
「分かりましたニャー。 まず論文の通りに作って見て、それがきちんと動くか確認するですニャー」
「それと同時に、海の密度も上げますのだ」
頷く。
話を聞く限り、カンブリア紀後期の海は、想像以上に豊かであったらしい。勿論場所にもよるのだろうが。
そもそも深海に住んでいただろう直角貝が、あれほど巨大化したのである。
それならば、巨大に成長する生物が出ても。
不思議では無かったはずだ。
カンブリア紀後期に出現した頭足類が海を乗っ取るまでわずかな時間だが。
それでもアノマロカリスは王者でありつづけた。
その後はニッチを奪われ。
更に巨大な体を得た頭足類のエジキになっていったのだろうが。
その辺りも描写すると。
完成度が増すだろう。
いずれにしても、アノマロカリスの最後の光。
そして滅亡への転落。
古代生物のアイドルが。
絶世期から転落し。
影に消えていく様子を描けるとすれば。
エンシェントとしても、更に世界の完成度を上げられる良い機会だ。
今回は、まずCMを作る。
アノマロカリスに関する大規模アップデートを行う、という告知は先にはしない。
実際シミュレートしてみないと、どんなトラブルが起きるか分からないからだ。見切り発車はしない。
黙々とCMを作る。
海の覇者たるアノマロカリスが、悠々と海を泳ぐ。
速度。装甲。攻撃能力。
いずれも最初は勝てる者がいなかった。
だがカオスの中。
生物たちは爆発的に体を変化させ。
ニッチを奪うための激しい争いを続けていった。
そして、後の時代。
海の覇者となる頭足類が登場した事で。
アノマロカリスの運命は決定的になった。
生態系の頂点になると言う事は。
環境に最適応するという事も意味している。
小型種はまだニッチを柔軟に変えられる強みがある。
だが最大種に一度なると。
ニッチを柔軟に切り替えることは難しくなる。
巨大化する頭足類に対応出来なくなる。
頭足類は現在まで生き延びている優秀な種族。
知恵もあり、可変性も高い。
アノマロカリスが勝てる相手では無かった。
今まで我が物顔で海を泳ぎ回っていたアノマロカリスに。
頭上から襲い来る頭足類。
直角貝の大型種だ。
速度も。
火力も。
とても勝てる相手ではない。
甲殻を喰い破られ、アノマロカリスは始めて知る。
自分より強い生物が出現したことを。
そして、もはや自分の命運が尽きたことも。
だがアノマロカリスは吠えた。
覚えておけ。
お前は確かに今新しい覇者となった。
だが覇者という存在は、環境が変われば真っ先に淘汰される存在でもあるのだと。
だからお前もいずれ淘汰される。
今の自分のように。
覚えておけ。
お前達は優れているかも知れない。
だが覇者に一度なれば。
その座から転落するのも容易いぞ。
やがてその声は小さくなり。
消えた。
どうだろう、このCMは。
アノマロカリスを打ち破る直角貝。
そしてアノマロカリスの滅びの瞬間。
個人的には、何回かアノマロカリスのCMを作ってはいるのだが。この最大サイズのアノマロカリスをCMに出し。
そして敗れ去る姿を描写するのは。
野心的に思える。
生態系のニッチを奪われると悲惨だ。
どれほど強大な生物でも。環境が変わると。強ければ強いほど対応が難しくなる。
何回か調整。
アノマロカリスを上から直角貝が襲うシーンは。
念入りに調整を加えた。
ほどなく、第一弾のCMが出来上がる。
会議に掛けると。
おおと喚声が上がった。
「アノマロカリスが滅びに向かうCM……いいですね」
「もう少し前半部分を長くしてはどうですニャー」
「他に意見は」
聞いてみるが。
いずれにしても、CMに対する細かい調整についての意見は出たが。致命的な否定意見はなかった。
それならばそれでいい。
頷くと、最後の仕上げに掛かる。
古代生物のアイドル、アノマロカリス。
勿論熱心なファンもたくさんいる。
私自身がそもそもそうだ。
だからこそ。
このCMには。
気合いを入れて、臨まなければならないのである。
持ち帰ると、出た意見をCMに反映。
調整を重ねる。
最初の覇者としての姿を、より強大に、圧倒的に描いていくと同時に。
周囲から少しずつ遅れていく姿も描写する。
一度頂点に立つと言うことは。
そういう事である。
私も古代生物を散々研究してきているから分かっている。
頂点捕食者ほど、挽回が利かないのだ。
実際節足動物も。
何回かの大絶滅の後。
巨大化して、生態系のニッチを奪うと言う事は、ついに出来ていない。
体をどれだけ速く変化させる事が出来ても。
ついに外骨格が持つ根本的な不具合は、現在まで克服できずにいた。
そういうものだ。
進化の頂点は自滅とか言う言葉があるが。
違う。
環境適応を極限までこなすと。
それ以上の適応が必要なくなる。
故に次の変化が起きたときに、対応出来なくなる。
それが正しいのだろう。
結局の所、世界は弱肉強食などではない。適者生存である。
その適者の前提条件が崩れたときこそ。適者は適者ではなくなり。そして脆くも転落していく事になる。
強ければ良い、などという理屈は。
このことからも成立しない事がよく分かる。
結局の所。
強い人間は何をしても良いなどと口にする輩は。
ミジンコでもこなしている適者生存を理解していない、という事になるだろう。
嘆息すると。
アノマロカリスを更に調整。
上がって来ている研究結果を複数参考にしながら、最大種のモデリングを更に調整していく。
思い入れのある生物なのだ。
私も、あまり酷い扱いはしたくなかった。
2、短かった史上最強
完成したCMをSNSに流す。
古代生物でもアノマロカリスは人気がある。だから、エンシェントのCMでアノマロカリスのアップデートを行うと言う話が口コミで広がり始めると。一気にそれが拡大していった。
まあ予測はしていた者もいたようだ。
この間の大規模発見で。
エンシェントでアップデートを行うのではないかと、書き込んでいたSNSのユーザも確認していた。
まあエンシェントはフットワークが軽いのが売りだ。
反応してもおかしくはないだろう。
私が流したCMについても。
相応の評判が上がっていた。
この辺りは作り手としても嬉しい話だ。
「アノマロカリスの最大種が更新されたのに、それが食われるのがメインに持って来られるのか。 困惑するな」
「とはいっても、確かにカンブリア紀末期にはもう頭足類が元気に勢力を伸ばしていたし、仕方が無いのかもしれないな」
「確かにそうだが、カンブリア紀の王者というとアノマロカリスだしなあ……」
「直角貝のガタイはしってるだろ」
賛否両論はいつものこと。
だから使えそうなコメントだけ拾っていく。
アノマロカリスが可哀想とかいうトンチキなコメントは無視。
食物連鎖が残酷なのは当たり前で。
生態系の覇者から転落するのが可哀想なのもまた当たり前の事だ。
そんな事をいちいち気にしていたら、仮想動物園なんて作れない。
仮想だからこそ。
食物連鎖まで実現できる。
例えば古い時代には、毒蛇とマングースを殺し合わせていたような場所もあったらしいが。
それはそれで問題だ。
ただ、仮想空間だからこそ。
其処には命を伴わないやりとりが出来。
そして命を奪わない殺し合いが再現出来る。
サファリパークじゃない。
だからこそ出来るのだ。
そもそも仮想空間で、動物の生態を再現しているのだ。それは捕食被捕食の関係くらい出る。
そしてそれを再現しなければ。
むしろおかしくなるだろう。
圧倒的なニッチの独占をしていたアノマロカリスが敗れていくシーンは、それでもやはり衝撃的だったようで。
強烈な戦闘力を持つ大型頭足類に食われるシーンは、衝撃的だという声も上がっていた。
生物のニッチの奪い合いになる場合。
新しく出現してきた生物が台頭してきたケースや。
環境の大規模変化によるケース。
様々な要因があるが。
今回は前者の話だ。
カンブリア紀は、それこそ生命の実験場などと呼ばれたほど、意味不明な生物が多数出現した。
アノマロカリスもその特徴的な姿から知られているが。
それら「実験的生物」の一つに過ぎない。
小型種に限って、かなり後の時代まで生き延びていたらしいが。
それでもやはり、カオスの中にいた生物。
環境にしっかり適応し。
優れた長所を伸ばした生物にはかなわなかった。
そういう事だ。
自分でも腕組みして、少し考えてしまう。
アノマロカリスを現在に出現させても。
恐らく生き延びる事は出来ないだろう。
現在では環境への最適化が進んでいる。
まだまだ実験段階に等しかったカンブリア紀の生物では、流石に現在の生物には太刀打ちできない。
現在生きている生物は。
苛烈な環境でのニッチ争いに生き延びてきた強者達。
ニッチの底辺にいたとしても。
それは底辺で生きる事に特化した生物と言う事であって。
けっして弱い生物ではない。
鑑賞用の生物という言葉が浮かびかけたが。
それはそれで問題だ。
人間の玩具動物という事だから、である。
人間側が愛情を持って接したところで。
それは結局人間の自己満足でしか無い。
勿論エンシェントも娯楽施設だから、そういう意味では同じかも知れないが。
しかしそれが故に。
やるべき事は、しっかりやりたいのである。
しばらく考え込んでいたが。
ふと、SNSで気になる書き込みを見つけた。
「アノマロカリスがもし際限なく巨大化していたら、どうなっていたんだろう」
「体の構造的に節足動物に近いし、多分今回の三メートルが限界だろ。 ウミサソリも二メートル程度にまでしかなれなかったらしいし」
「確かにそれもそうか。 だが海の中なら、もっと大きな節足動物も生存できるんじゃないのかな」
「どうだろうな。 今最大の節足動物というと多分タカアシガニだが、あれもかなり無理している生物だしなあ」
タカアシガニか。
確かに巨大な節足動物と言えば、あれを思い浮かべる。
名前の通り足が長いだけとは言え。
その巨体は、確かに節足動物の中では群を抜いている。
ただし深海でないと生活出来ない。
深海という環境でこそ、巨体を実現できたとも言える。
同じ事が。
アノマロカリスにも起きていたら、どうなっていたのか。
確かに興味はある。
ただ、頭足類は深海にも進出している生物だ。
残念ながら、ニッチの奪い合いになったら、勝ち目は無かっただろう。
「仮に、だよ。 十メートルクラスのアノマロカリスが出現していたとして、直角貝とやりあえたと思うか?」
「どうだろうな。 直角貝も、最大級のものになると、そもそも動きが鈍重になって、海底に潜んで獲物を待っていたのではないか、なんて話もあるしな……」
「うーむ、頭足類でそうなると、節足動物に近いアノマロカリスだと、満足に泳げないか……」
「いずれにしても魚類には勝てない。 特にダンクルオステウス辺りは完全に天敵になっただろうな」
それもそうだ。
そもそも分厚い装甲を噛み裂くことに特化したような最強の顎を持った魚類だ。
その上動きもかなり速かった可能性が高い。
どれだけ装甲が分厚くとも。
鈍重なアノマロカリスでは、対応出来なかった可能性が高いだろう。
しばし議論を見ていて、ふと気付く。
三メートルまでに巨大化したアノマロカリスが。
自分より小さな獲物を襲い喰らっていたとして。
それ以上に巨大化した頭足類は。
もっと弱い生物を意図的に狙わなかったのだろうか。
ハブを駆除するためにマングースを導入した場合の失敗談などもある。
敢えて強い相手を襲う必要などない。
三メートルとなると、襲う頭足類も相応の反撃を覚悟しなければならなかったはず。体格に圧倒的な差があったのなら兎も角、だ。
しかし頭足類の烏鳶(嘴状の口)は、頑強な甲殻類の殻をも砕く。
事実蟹は蛸の好物だ。
確かに三メートルのアノマロカリスは食いでがあっただろうし、頭足類に分があっただろう。
だがそれでも。
敢えて襲っただろうか。
考え込む。
CMはもう出したし。
何よりも、事実としてアノマロカリスは滅んだ。
最大種は特に容赦なく滅ぼされた。
だが、それには。
何か裏が他にもあったのではないのだろうか。
ちょっと検証してみる価値があるかも知れない。
他に理由があったのだとしたら。
私も、少しばかり。
今回のアップデートには、手を入れる必要があるかも知れない。
会議を招集するほどでも無いので。
AIを使って検証させ。
更には、自分用の開発機を使って、シミュレーションをする。
宣伝は終わっているし。
作業も一段落しているので。
私としても、こういう検証作業を自分で行ったりはするのだ。
その結果だが。
やはり巨大化した頭足類は、アノマロカリスを襲う。
それは事実だ。
それはそれとして。
もっと簡単に捕らえられるエサが幾らでもいる状況で。
アノマロカリスを襲うかというと。
そうでもない、という結論がやはり出てくる。
流石に直角貝の最大サイズになると、アノマロカリスなんかでは到底歯が立たないし。動きが遅い以上カモにしかならない。
勿論その場合は、エサとして食われてしまうだけだ。
だがそうでは無い場合は。
カンブリア紀の末期には。
アノマロカリスほどでは無いにしても、それなりに大型化した生物が出てきていた事も分かっている。
優位性を確保した頭足類や魚類の先祖が、それらを食い荒らしていって。
ニッチを強奪したというのが事実というのは分かるのだが。
何かもっと根本的な。
欠陥のようなものは無かったのだろうか。
少し気になったので。
話を持ち込んできた学者に振ってみる。
メールをして見ると。
すぐに返事が来た。
「アノマロカリスの滅亡に、生物的な欠陥が関わっている可能性、ですか」
「はい。 此方としても絶滅の原因については、徹底的に調べておきたいのですわ」
「現時点で、アノマロカリスは相応の運動性と、視力を兼ね備えていたことが分かっています。 更に大型だった事も考えると、ニッチを独占している間は良かったでしょうが、その代わりニッチを奪われると為す術が無くなっただろう事は容易に想像ができます」
「やはりそうなりますわね……」
私だって同じ事を考える。
学者も当然同じ意見、と言う訳か。
だが学者の方は。
更に踏み込んできた。
「例えばですが、酸素濃度の上昇によって、今まで死の土地だった陸上に植物が進出したように。 深海にも少しずつ生物が侵攻したとします」
「ふむ」
「事実地下には、巨大な微生物の生態系が存在している事が分かっています。 我々とは何から何まで違う感覚で生きている生物たちです。 その巨大な生態系は、地上のものともそう劣りません」
「それについては、聞いた事がありますわ」
実は、何度かの大量絶滅。
例えば隕石が落ちたり、或いは強烈な火山活動によったりで。
地上が文字通り更地になるレベルでのダメージを受けたことが、地球の歴史では何度かあった。
これらの災害時に。
地下から這い上がってきた生物が。
新しくニッチに入り込み。
生態系の復旧に一役買ったという説がある。
隕石が落ちた地点では、一万年近く何も生物が生存できなかった、などという話もあるので。
地球が受けたダメージや。
環境が壊滅した事を考えると。
復旧時に、そういった事が起きていても不思議では無い。
「同じように、深海も地上とは全く違うルールで動いている世界です。 其処にアノマロカリスが追いやられていったとしたら」
「……巨大化した可能性もあると」
「はい。 タカアシガニやオンデンザメの例を出すまでも無く、深海の生物は巨大化する傾向が強いです。 ニッチの奪い合いに敗れたアノマロカリスが深海に移動し、そして巨大化した可能性は否定出来ないかと」
「なるほど。 参考になりましたわ」
メールでのやりとりを打ち切る。
なるほど、確かに例としては考えやすい。
前に直角貝の最後の子孫達が陸上に活路を見いだす話に触れたが。
今回はその逆パターン。
アノマロカリスが深海に活路を見いだしたのだとすれば。
巨大化の前提が変わってくる。
進化していく頭足類に対抗して、体を大きくしたのでは無く。
頭足類に追われ、深海で大型化した可能性もある、というわけだ。
そして酸素が行き渡り始めた世界では。
深海でも生きていく事が出来た。
だがそうなると。
目がどうして存在したかなどの不審点も出てくる。
例の三メートルアノマロカリスは。
普通に進歩した目を持っていたはず。
何か理由があったのだろうか。
考え込んでいる内に。
会社のプログラム班から連絡が来た。
「何かありましたの?」
「それが、実際に見ていただけると早いかと思います」
「分かりましたわ」
すぐに送られてきたデータを確認。
どうやら三メートルアノマロカリスのシミュレーションデータらしい。
まずは浅い海。
カンブリア紀の浅い海は、まだまだ生物の楽園とは言えない。
酸素が不十分だったため。
強烈な放射線が降り注いでいたためだ。
いわゆるオゾン層が不十分だったのである。
陸上進出の枷となったのもコレが一つ。
この時代。
まだ浅い海は地獄だったのだ。
続けて少し深い海。
この辺りは、既に酸素が満ちていて。更に放射線もある程度緩和されている事もあって、生物には暮らしやすい環境だ。
無数の生物がいる。
だが、其処に三メートルアノマロカリスの姿はない。
一メートル級はいるが。
もっと大きい奴は見かけない。
頭足類は我が物顔で泳いでいるが。
これはどういうことか。
続けて深海。
寂しい暗闇の世界だが。
既に酸素は満ち始めていて、ぽつぽつと大きな影が見える。
この時代でも、深海生物が巨大化するのは同じか。
そして巨大化したもののなかに。
いた。
三メートルアノマロカリスである。
やはり、あの学者の説はシミュレーションして見ると正しかった、と言う事か。
しかしながら、これは少しばかり困ったことになったかも知れない。
CMでは基本的に浅い海での出来事として、あの頭足類とアノマロカリスの戦いを描写するつもりだった。
前回のCMではまだ前提がはっきりしていなかったからぼかしたが。
今回からははっきりそう描写するつもりだった。
それに手を入れる必要が生じてくる。
少し考え込んだ後。
私は会議を招集する。
学者にも、会議に出て貰った。
「あのシミュレーション結果を確認しましたけれど、そうも早くアノマロカリスの大型種は、深海に追いやられましたの?」
「恐らくは。 頭足類の環境適応速度が、想像以上に早かったのかと思います」
「流石は現在まで海で一定のニッチを独占している優秀な生物ですニャー」
シミュレーションは相当細かい所までいつもやっている。
量子コンピュータの出力は、地球時代のスパコンなんて比べものにもならない。それが現在では、企業向けサーバでも、古い時代の小型デスクトップPC程度のサイズでまかなえてしまう。
本当の意味で。
仮想空間に作った海で。
アノマロカリスを泳がせてみた結果なのだ。
この後更に海は豊かになり。
その結果、海に暮らす生物は、豊富な栄養を得て巨大化していく。
そんな巨大化していく生物に。
アノマロカリスはついて行けず。
深海に追いやられた。
つまりあの化石は。
深海に追いやられたアノマロカリスが。
獲物を逃さないようにするため。
深海生物特有の大型化をした結果、というのが正しそうだ。
学者もそれに同意。
更に、論文から幾つかのデータを引いてくれる。
「此方を見てください。 全体が見つかっているわけではないですが、アノマロカリスの体の一部です。 これを見る限り、触手にかなり柔軟性が加わり、また毛のようなものも生えているのが確認されます」
「獲物を逃がさない工夫ですのだ?」
「恐らくは」
「涙ぐましいですわね……」
勿論、そんな工夫は上手く行かなかった。
歴史が証明している。
或いは、化石に残らなかっただけで、もっと後の時代まで、深海の一部でひっそりとアノマロカリスが生き延びていた可能性は、ある。
だが既に、少し後には頭足類が十メートル級を達成した時代が到来している。
アノマロカリスの肩身はさぞや狭かったことだろう。
更に魚類が本格的に出現するともはやお手上げ。
アノマロカリスが勝負できる相手では無い。
「分かりましたわ。 第二弾のCMは此方で行きましょう」
「お願いします。 それにしても、深海に逃げ込んだ結果巨大化したという仮説をもっと早く提示できなかったのは此方のミスです。 申し訳ありません」
「いえいえ、いいんですのよ。 人にはミスがつきものです。 ホンモノのプロというのは、ミスをリカバリ出来る人間の事です」
オホホホホと私が笑うと。
どうしてか周囲が引く。
まあそれはそれとしてだ。
ともかくジャッジに掛ける。
あらゆるデータを照合する限り。
どうやら、深海に逃げ込んだ結果、巨大化し。
そしてそのまま、滅亡していったというのは間違いなさそうだ。
皮肉すぎる。
直角貝も、大型種は絶滅し。
小型種が陸上に最後の可能性を掛けて進出を図った化石がこの間発見されたが。
アノマロカリスも環境変化に適応できず。
ニッチを強奪され。
此方は深海に新天地を求めるか。
或いは覇権を手放して、小型種として海で生きる道を選ぶか。
どちらかしかなかった。
覇権から押し出された生物の末路は無惨なものだ。
まるで、権力を独占してふんぞり返っていたはいいものの。
状況が変わって、権力から追われ。
その先には、今まで迫害してきた者達が、手ぐすね引いて棒を持って待ち構えていた。
そんな人間のような有様だ。
人間世界では、要するに長期スパンで行われていたニッチの奪い合いが、短期間で再現されているのかも知れない。
どちらにしても、他を巻き込みまくるので。
迷惑極まりないが。
ともあれだ。
CMの作成に取りかかる。
前回のCMについても、取り下げる訳にはいくまい。
実際問題、深海に追いやられたのは、頭足類を一とする優秀な生物の台頭が原因なのだから。
その圧倒的な力に屈し。
海の底へと追いやられていった。
それは学者も認める事実なのである。
ならばどうすればいいか。
考え込みながら、CMの再作成を始める。
まず必要とするのは、敗走である。
アノマロカリスは覇者の座を追われた。
カオスの世界で覇者を気取っていたアノマロカリスは。
より効率よく海を泳ぎ。
強烈な環境適応能力を有していた新しい世代の生物たちに、徹底的な攻撃を受けて、衰退していった。
これを描写する点では前と同じだ。
その次からが違う。
食われ追われたアノマロカリスは。
深海に逃げ込み。
体を大型化させ。
同じく深海に逃げ込んでいた旧世代の生物たちを捕食しながら、新しいニッチの構築を図った。
だが、其処にも。
新しい時代の生物たちの足音が聞こえてきていた。
深海に酸素が満ち。
生物が進出したと言う事は。
新しい時代の生物たちも。
当然追ってくると言う事を意味しているのだ。
まず、アノマロカリスの大繁栄を描き。
その体が巨大化していく様子も描く。
これは当然だ。
海が栄養に満ちていくにつれ。
住む生物が大型化する。
当たり前の話である。
そして様々な生物が、少しずつ絞られていく。
アノマロカリスは気付く。
いつのまにか、今までのカオスに、秩序が生まれている事に。
我が物顔に振る舞えた世界が、そうではなくなっている事に。
襲われる。
何だ。
こんな奴は知らない。
気付かないうちに食い殺される同胞。驚いて逃げ出すも、知らない奴が、周囲にはたくさんいた。
いつのまにか食べ慣れているごちそうが。
殆どいなくなっていた。
食い尽くされたのだ。
困惑しながら、それでも小さい知らない奴を食べて凌ぐアノマロカリスは。
また同胞が襲われ、食われる様子を見て悟る。
まずい。
このままでは、全滅する。
逃げるしか無い。
他の生物と同じように、酸素が行き渡り始めた、暗い海へと逃げる。
寒く、暗く。
そして生物も少ない。
酸素が行き渡り始めているとは言っても。
それでも、メインストリートではないのだ。
其処には懐かしい生物たちがいたが。
それも、既に侵略を受け始めていた。
新しく現れた奴らは。
当たり前のように、此処にも現れ始めていたのだ。
とにかく体を大きくするのだ。
そうして、獲物を逃がさない工夫をより凝らせ。
万年単位で体を変化させながら。
アノマロカリスは必死に生き残りを模索する。
そして限界まで巨大化して。
獲物を逃がさないための工夫を、徹底的に行った。
だが。それよりも、更に相手の方が上手だった。
奴らが。
頭足類が来る。
巨大化したアノマロカリスよりも、更に巨大になったその姿は、もはやバケモノとしか思えなかった。
逃げるしか無いアノマロカリスよりも。
遙かに早く泳いで追いすがって来るそれが、がっと覆い被さり。
強烈な顎で、外皮を噛み裂く。
意識が薄れていく。
そして、深海から、泡が一つ。海面へ浮き上がっていった。
うむ、イメージとしてはこれだろう。
私は矢継ぎ早にイメージを組み込みながら。
新しいCMを作り上げていく。
これもまた、賛否を産みそうだと思ったが。
それはそれでかまわない。
学者と相談した上で、描写をしているのだ。
決していい加減な代物ではない。
それだけは事実なのだから。
プロットを仕上げた後、肉付けに入る。
私はココアを口にすると、一つずつ、映像を形にし始める。
この瞬間が一番楽しく。
そして神経を使う。
私に取っての会社経営の最も楽しく。
そして気を遣う時間だ。
これが上手く行くかどうかが。
商機にそのままつながりもする。社長として、私がしなければならない全てのことの一つが。
此処にあった。
3、深海での死闘
何度かの微調整の末に。
三メートルアノマロカリスの第二弾CMをオンエア。
提携しているSNSに流す。
実は密かに、この間から例のピーコックランディングとも提携を果たしている。
悪用されることを防ぐため。
現在では、どのようなSNSでも、オープン化することが法令化されており。
会員制という言葉は死語になっている。
私としても。
洒落臭い事を発言している相手には。
挑戦状を叩き付けたいのである。
早速だが。
予想通り、反響は相応に大きかった。
「アノマロカリスが深海に追いやられて、その結果巨大化した、か。 論文の内容とは矛盾していないが、また面白い発想をして来たな」
「確かにカンブリア紀の末期には頭足類が発生しているし、短時間で巨大化しているからなあ。 あまりにも生物としての完成度が違いすぎて、アノマロカリスが追われたのは理解出来る。 だが深海に追われてから、その結果巨大化したというのは面白い」
「今回も見に行くか」
「そうだな……ちょっと展示をどうしているかは気になる」
エンシェントでは、様々な方法で展示を閲覧できる。
潜水艦に乗る。
或いは深海と言う事を無視して泳ぐ。
泡に包まれて深海を行く。
こういったプランもあるし。
ただ深海を視点だけで観察するだけの、古き時代の「FPS」に近いシステムも搭載している。
ただ触れる、相手が生きている仮想空間がメインになるエンシェントだ。
主観視点だけのシステムは、あるにはあるが推奨はしていない。
今回の場合は、潜水艦を借りて、自分で動かしながら深海の巨大アノマロカリスを見に行く、というのがお勧めのプランの一つだ。
深海だとどうしても光などの問題から、雰囲気が出しづらい。
深海探査艇を用いた方が。
やはり雰囲気が出る。
三メートル級の迫力を味わうためにも。
小型の深海探査艇を使うのが一番だ。
なお、深海探査艇にアノマロカリスが襲いかかってくるモードも搭載できる。
恐怖体験をしたい人向けで。
実は相応に需要がある。
まあこういうのが好きな人もいる、と言う事だ。
他にも素潜りモードも搭載する。
仮想空間の動物園なので、深海だろうが平気で素潜りできる。これはより身近にアノマロカリスと接することが出来る。此方に関しては、更にお勧めだ。
まあ、実際に試してみて、デフォルトでのお勧め設定に両方組み込むことにはなるだろう。
なお当たり前ながら、大型化を続ける頭足類も展示には登場するが。
此方は前々から存在している。
今回はその頭足類に追われて深海に逃げ込んだアノマロカリスが主役なので。
頭足類はあくまで脇役なのだ。
頭足類が主役の展示は別の時代で見られるので。
それはそれで我慢してもらうしかない。
三度の飯よりも頭足類が好きという人もいるかも知れないが。
まあ、味方によっては、カンブリア紀末期の頭足類を楽しむ事も出来るし。
そういう人の、此方の想定外の楽しみ方は邪魔しない。
個人レベルでアクセスするのだから。
チートコードでも持ち込まない限りは。
他の人の迷惑にはならない。
そういうものだ。
さて、ピーコックランディングの様子はどうか。
見に行ってみると。
早速活発な議論が行われていた。
「予想通りの展開になったな。 大型化するなら深海行きの結果だろうとは思っていたが、その通りになった」
「そういえば前にそう発言していたな」
「ああ。 シミュレーションを何度してもそうなったからな」
「自宅の量子コンピュータで再現してるのか。 まあ俺もそうだけれどな」
あまり驚いている様子は無いが。
面白がっているようだ。
「フットワークが軽いな。 この様子だと、今後幾つか投下されるだろう爆弾にも、柔軟に対応してくれそうだ」
「ああ、幾つかまだ表沙汰になってないのがあるが、どうするんだろうな」
「くっく。 まあ十三の子供だって話だし、此処にCMを出してくるくらいだ。 自信家で、更に柔軟に考えられるつもりでもあるんだろう。 お手並み拝見と行こうではないか」
「他の仮想動物園も最近は色々工夫しているが、どうなるかは楽しみだな。 個人的にはエンシェントはまだ一工夫足りないと思っているが、今後のアップデート次第では、もっとも充実した仮想動物園になるかも知れないとも考えている」
いつも辛口なのに。
意外に褒めているので気味が悪い。
まあこれは良いとして。
他の意見も見てみるか。
やはり、アノマロカリスが一方的に狩られ、追い立てられる映像には、相当な拒否感を示す者も多い様子だ。
それはそうだろう。
実際問題、古代生物のアイドルなのだから。
それが一方的に「虐められる」ように見えれば。
反発するものだって出る。
とはいっても。
その古代生物のアイドルも。
人間がどう見ようが知った事かと考えているだろう。
もしも今の海にアノマロカリスがいたとしても。
人間が来たら、鬱陶しいと思って逃げるか。
食えるかどうか判断するために寄ってくるか。
そのどちらかであって。
人間と遊ぼうとか。
そう人なつっこくは接してこないはずだ。
そもそも人間が勝手に友人だと思っている海豚や鯨の仲間でも、向こうは人間を鬱陶しいハエくらいにしか思っていないケースも多い。
水族館などで海豚を飼育していると。
人間をある程度見極めた後は。
完全におちょくる行動に出ることも珍しくは無い。
要するにそういう事だ。
人間が勝手にどう思おうが。
動物の方では関係無い。
アノマロカリスも同じ事。
自分が虐められているとも思っていないだろうし。
人間に同情されたところで、だからなんだとしか感じないだろう。
まあそもそも既に滅んだ生物であるし。
今更、という話でもあるが。
さて、CMの反響はそれなりに上々だ。
長文のメッセージを送ってくるユーザーもいる。
中には熱心なアノマロカリスファンもいた。
「論文に対して忠実なアノマロカリスの造形にはいつも感心しています。 今回は深海に追われて巨大化したアノマロカリスについてのようですが、見せ方としては中々に難しい所ですね。 期待しております」
「有難うございます。 誠心誠意展示のクオリティを上げるべく務めていきます」
返事を書き終えると。
小さくあくび。
マーケティングは私の仕事だ。
昔は営業とか言う連中が、反社顔負けの手口で様々な悪行を行い。挙げ句の果てに現場で働いている人間より給料をむしっていたらしいが。
現在ではそんな仕事は無くなり。
主に社長などが営業を直に行うようになっている。
AIによるサポート体制が充実したことや。
負担を減らせるようになったことが大きい。
また会社規模についても法で制限されたこともある。
昔はそれこそ、国を簡単にひっくり返すような大企業が幅を利かせた時代もあったのだけれども。
独占禁止法の厳格化により。
ある程度の規模以上の企業は作れないようになった。
その結果、異常な富の蓄積は不可能になり。
貧富の格差は改善された。
財閥など現在は完全に過去の遺物となっている。
資本主義の美名の下、弱肉強食の地獄絵図が繰り広げられていた過去の時代とは違って。
今は基本的に、人間が極限までこき使われなくても社会が回るようになっているのである。
過去の悲惨な事例を見る限り。
それはとても良い事なのだと私は思う。
マーケティングについても手間暇がかなり減っているし。
法的手続きも誤魔化しようが無い。
昔は法の専門家、国家資格を持った人間でも不正を働くケースが幾らでもあったそうだが。
今ではそれもAIが完璧に目を通すようになり。
不正どころではなくなっている。
そもそも催眠教育で、法の知識導入が誰にでも行えるようになっている今の時代。
社長の適性持ちを、AIの監視もかいくぐって騙すのはまず不可能に近いし。
逆に社長もAIで複数方面から監視されている。
犯罪やりたい放題だった大企業も過去には存在していた様子だが。
今はもう存在しないのだ。
これだけやらなければ人類は宇宙に出て、まともな文明を構築できなかった。
どれだけ人類が駄目な生物だったのかは。
正直過去の歴史を見れば明らかだ。
いずれにしても。
今は私も暮らしやすい。
SNSでの反応を一通り見た後。
軽く進捗を確認。
現時点では、細かい部分のバグ取りを行いつつ。
シミュレーションを徹底的に重ね。
アノマロカリスを細部にまでこだわって動かし。
問題なく動くかを確認している様子だ。
これでいい。
後は、仕上がるのを待つだけ。
仕上がった後は。
トラブルに私が矢面に立って対応するだけだ。
責任を部下に押しつけるような社長は。
現在は存在しない。私も例外では無い。
基本的に社会に問題が起きたとき。
古い時代は、末端の人間の責任にしていたと聞いている。
社会システムが上手く行かなくなったとき。
完全に身動きが取れなくなった人間を「無敵の人」などと呼び。
その「無敵の人」が悪いという風潮まで作ったとか。
アホらしい。
その人を「無敵の人」にしてしまった、悪辣な企業や、社会そのものが問題だろうに。当時の人類は、その程度の事も分からない無能だったと言う事か。
いや、無能は今も同じ。
戒めなければならないだろう。
いつ自分だって、そうなってしまうのか分からないのだから。
一度会議が招集される。
アノマロカリスはとても人気がある古代生物なので、念入りに調整をしたいという事で。私に試運転を頼んできたのだ。
頷くと私は。
早速エンシェントに入って。
開発領域に管理者コードで特別入室。
アノマロカリスを見に行く。
深海で多少暗いが。
私は素潜りモードで入って、アノマロカリスの様子を見に行った。
アノマロカリスは、かなり警戒しながら、海底近くを泳いでいる。三メートル近い巨体なのに。
探しやすいように、すぐにログインすれば現れるように設定はしているのだが。
それにしても、この怯えぶり。
脅威が近くにいる、という事を意味しているのだろう。
案の定私が素潜りのまま足フィンで水を掻いて近付くと。
アノマロカリスは察知し。
二本の触手を振りかざすようにして威嚇してきた。
そして私が近くでふよふよ漂っていると。
距離を露骨にとって、威嚇を続け。
それでも去らないと、向こうから距離を取り、逃げていった。
なるほど。
頭足類がそれほどの脅威になっている、と言う事か。
深海に逃げ延びて大型化したとなると。
まあそれもそうだろう。
当然頭足類も深海に進出してきているはずで。
三メートル程度のサイズにしかなれないアノマロカリスにとっては、桁外れの脅威になるのは間違いない。
しばし周囲を泳いでいると。
アノマロカリスが海底を掘り返して。
三葉虫を補食していた。
種類によってはプランクトン食をしていた品種もいる事が分かっているが。
三葉虫の化石に、アノマロカリスに囓られたものが残っているので。
アノマロカリスが三葉虫を補食していたことは間違いない。
勿論三葉虫は強固な外殻を持っていた訳で。
それを囓り破っていた、という事である。
ばりばりと、海中なのに音がする程の迫力だ。
かなり大きな三葉虫なのに。
深海は獲物が少ないから、だろう。
大喜びして口に運んでいる。
触手も扱いづらそうなのに。
上手に使って、三葉虫を綺麗に囓り、食べていた。
残った残骸には、小さな生物が寄り集まって、宴を始める。
深海とはそういう場所だ。
現在も、鯨などの死骸が沈むと、百年ほどその死骸を中心とした生態系が出来ると言う話だが。
深海には栄養が少なく。
共食いも起きるし。
弱った生物は即座に襲われる。
栄養そのものの総量が少ないから。
どの生物も、獲物を逃がさないように。
何でも食べられるように。
必死なのである。
アノマロカリスが海底近くを泳いでいるのは、強力な捕食者に備えるのと同時に。
エサである三葉虫を発見し。
捕食するためもあるのだろう。
アノマロカリスの警戒モードを切って、近づいて見る。
設定を弄るのは、タッチパネルですぐに出来るのだが。
このUIについては、散々議論を重ね。
練り上げた結果、作り上げたもので。
会社独自のものである。
ツリー化すると分かりづらいので、非常に簡略化しており。
何パターンか用意してある。
はいいいえで応えると設定してくれるもの。
思考すると反応してくれるもの。
そもそも入る前に、お勧めのプランで設定するものなど。
色々とあるが。
細かくすぐに設定するためには、タッチパネルが便利だ。
またログインした後に設定を変更することも容易にできる。
私は管理者権限で入っているし。
何より使い方は知り尽くしているので。
仮想空間に浮かび上がるタッチパネルを利用する。
設定を変更した後。
アノマロカリスに近付いて、観察。
目は常に周囲をせわしなく見張り。
一方で触手は砂近くを彷徨うようにして動かして、エサを探っている。
深海だから目は利かないだろうかと思ったのだが。
この時代の深海は、現在の深海よりもかなり定義的に浅いらしい。
酸素が行き渡っていないのだろう。
もっと深い海に生物が進出するのは、更に後の時代という訳か。
それにしてもこの警戒ぶり。
余程なのだろう。
警告音がした。
一応、いきなり見ている人間が襲われる設定にはしていない。
そういう設定にも出来るが、物好き用である。
痛みなども細かく設定可能だが。
最初は基本的に襲われない設定にしてある。
上から躍りかかってきた直角貝が。
アノマロカリスに食いつくと、一気に背中を喰い破った。
アノマロカリスの体の左右にて器用に動いているひれも。
上をしっかり監視している目も。
どちらも何の役にも立たなかった。
後は、ばりばりと貪り喰われるだけだ。無数の触手がアノマロカリスの体に絡みつき、獲物を絶対に逃がさない。
運動性能にしても、生物としての性能にしても。
まるで歯が立たない。
周囲の大型生物は逃げ散ってしまい。
小型の生物は、捕食の宴からこぼれ落ちる細かい肉片を目当てに集まって来ている。
ばぎりと音がして。
喰い破られたアノマロカリスがへし砕けた。
もう生きていないアノマロカリスを。
直角貝が容赦なく喰い破りながら、腹の中に収めていく。
五メートルほどの直角貝だが。
これでは、確かに慎重に海底近くを泳ぐのも納得だ。
ダイオウイカなどはそれほど速く泳げないのだが。
此奴は今、魚雷のような勢いでアノマロカリスに襲いかかった。
これではとてもではないが、勝負にならなかっただろう。
機能を利用して、巻き戻して見てみる。
そうすると、どうやらこの直角貝は、かなり上の方を泳いでいて。
海底近くのアノマロカリスを何かしらの方法で捕捉。
多分臭いで存在を察知したのだろう。
アノマロカリスの臭いと言うよりも。
三葉虫の血の臭いと見て良い。
そして存在を察知してからは。
周囲を探し廻り。
先にアノマロカリスを発見。
斜め上につけると。
視覚の死角から、一気に躍りかかった、と言うわけだ。
後は触手で絡め取って、抵抗さえ許さず、殻の中に詰まった柔らかくて美味しい肉を貪り喰う。
それだけ、である。
やがて、殻の一部をぺっと吐き出すと。
満腹したらしい直角貝は、泳ぎ去って行った。
墨を吐きはしなかったが。
もしも私を脅威として認識していたら。
墨を吐いて行ったかも知れない。
アノマロカリスの残骸には。
小さな生物たちが群がっている。
その中には、三葉虫もいた。
深海は恐ろしい所だなと、私は呟くと。
設定を弄って、別のアノマロカリスの場所に行く。
座標が表示されたので。
素潜りで泳いで行く。
本来は当然出来る事では無いのだが。
此処は仮想空間なので。
素潜りでも大丈夫。
息も気にしなくて良い。
勿論フィンなど全て無しで、そのまま呼吸もしながら泳ぐことも出来る。人魚というか半魚人というか。
鰓呼吸できる生物になった気分で、海中遊泳が出来ると言う訳だ。
別個体のアノマロカリスを発見。
今度は逆に、警戒モードを高にして見る。
私を直角貝などの巨大頭足類と同様の脅威として認識させるのだ。
さて、どう動く。
アノマロカリスは私を視認すると、即座にひれを動かし、一目散に逃げ出す。しかし、動きは遅い。
私は自身の設定を弄って、速く泳げるようにし。
平泳ぎでついていく。
それに気付いたアノマロカリスは、海底の岩の間に逃げ込む。
そして、そこから此方をこわごわと覗き込んでいた。
可愛いものだが。
しかし、相手が頭足類となると。
それで逃げ切れるかどうか。
直角貝だったら有効かも知れないが。
他の頭足類だったら、どうなったか分からない。
この辺りも、生き残る事が出来た生物と。
そうでない生物の差なのかも知れない。
本能的にどう逃げれば良いのかが、未発達なのだろう。
元々生態系の覇者だった生物だ。
海底に来て巨大化したといっても。
すぐにその環境に適応しきれるとは限らない。
こういった過渡期の生物も、カンブリア紀には生き残れたのだろうが。
しかしながら、時代が降ると。
どんどん生物によるニッチの奪い合いは加速していく。
その結果。
淘汰も苛烈になっていくのだ。
程なく、岩陰に隠れていたアノマロカリスが、更に奥へと引っ込む。
理由は明白。
直角貝が泳いでいるのが見えるからだ。
深海だから本来は見えないのだが。
アノマロカリスには何かしらの方法で見えているのだろう。
大きく発達した目で、わずかな光から察知しているのかも知れない。
なお私だけれど。
明度を変えて、見えるようにしている。
本来なら、この深度だと周囲は真っ暗なのだが。
動物園で真っ暗にしても仕方が無いので。
デフォルトで明るくしてある。
動物たちは暗い中生活している状態なので。
遊びに来ている人間だけ、明るい中動いている状況だ。
こういう意味不明な状態を実現できるのも。
仮想空間ならではである。
続けて、別のアノマロカリスを見つける。
今度は警戒をせず。
他の生物にもおそわれないようにして、じっくり近くから楽しむ。
近くから見ていると、ゆったりと体の左右のひれを動かして、気持ちよさそうに海底近くを泳いでいて。
何というか愛嬌がある。
古代生物屈指のアイドルとして扱われているのも、何となく分かる気がする。
かなりの巨大さだが。
食性からいっても人間を襲うことは無いだろうし。
襲われたとしても仮想空間での話だ。
別に気にすることもない。
細かい所を見ていると。
やはり旋回性能や。
警戒時の動きなど。
まだまだ生物としての完成度が低いと思えるところが幾つもある。
そういえば、ダンクルオステウスもまだ顎が未完成で、パワーは充分だったが獲物を取りこぼすことがかなりあったようだ。
完成形の生物がニッチを独占するのは。
もう少し後の時代になるだろう。
この辺りで良いか。
他のも少し試して、バグが無いかを確認した後、ログアウト。
会議で軽くレポートをAIに作らせて提出。
私の動きを見ていた社員達も。
幾つかの意見を出してきた。
「潜水艦での見学よりも、素潜りを推奨した方が良いかも知れないですニャー」
「近くでアノマロカリスを見られるのは大きいですのだ。 しかし、あの様子ですと……ちょっとショッキングかもしれないですのだ」
「襲われないモードをデフォルトにしておくのは」
「頻度を減らせば良いですわ」
私が提案。
或いは、アノマロカリスを見ていると、アラームが鳴り。
襲われる可能性がある場合は、その様子を見るかどうかを、ユーザーが選択できるようにすればいい。
アノマロカリスを見に来たユーザーは。
多分悠々と泳ぐ海のアイドルを見に来たのであって。
情け容赦なく直角貝に食い尽くされる様子を見たくはないだろう。
頷くと、デフォルトの設定を変えはじめるスタッフ。
他にも幾つかの調整をし終えた後。
また少し時間をおいて会議。
今回はかなり大きい商機なので。
徹底的に検証する。
アップデート公開日まで後数日。
最後まで、徹底的に。
バグをとり。
楽しい仮想動物園になるように。
私達は、法定範囲で働きながら。
努力を最大限にするのだ。
4、最古のアイドル
アップデート日になると。
アクセス数が爆増した。
流石はアノマロカリス。
古代生物のアイドルである。
余波というべきか。アノマロカリスのぬいぐるみ類も、たくさん売れているそうである。
まあアップデートで更に大型の種類が投入されたとなれば。
それも頷ける話ではある。
早速SNSでの様子を確認する。
「素潜り推奨の理由が分かったわ。 確かに近くで見た方が、アノマロカリスの魅力がよく分かるな」
「それにしても直角貝こえー。 あんなん襲われたらひとたまりも無いわ」
「触手ばっかり長いダイオウイカと違って、ガタイからして違うからな。 そりゃあ海の覇者にもなる」
「アノマロカリスがああも簡単に食われるのを見ると、思わずうってなっちまったよ」
やはり衝撃が大きかったか。
実はあの後、デフォルト設定でお勧めの一つに、アノマロカリスが襲われない、というのを敢えて入れたのだ。
それを選択せず。
アノマロカリスの斜陽を見たいと選んだ人は。
直角貝がアノマロカリスをバリバリ喰らう姿を、目にする事になったのだろう。
私が、先に開発領域で見たように。
「一緒にアノマロカリスと泳げて良かった。 二メートルサイズの奴も良いんだが、ちょっと周囲が騒がしすぎるんだよな。 憶病なところも可愛くていい」
「まあ憶病なのは、仕方が無いよな。 あんなんが我が物顔で泳いでいると思うと、とてもじゃないが堂々と出歩けない」
「しかも直角貝、全盛期はあの倍はデカイのがいたんだろ。 洒落にならないぜ」
「アノマロカリスも大型種が滅びるわけだな……」
小型種は、わずかに命脈を保ち。
かなり後の時代まで生き延びた。
だがそれも、ニッチに潜り込めただけで。
やはり生物としての完成度の問題もあったのだろう。
大型種ほど、環境への適応は難しい。
ましてや過渡期の生物だ。
アノマロカリスには、適応はできなかった。
進化という言葉を使うのは簡単だが。
実際には変化して、環境に最適化するのが正しい。
生物はそうして。
様々な環境に適応し。
ニッチをそれぞれで埋めてきた。
役に立ちそうも無い器官が発達する例もあったが。
それを補ってあまりある強さがあったからこそ、生物は今も生きている。
環境に如何に適応するか。
それが戦闘力がどう高いかよりも。
実際には重要だったのだ。
「エンシェントはまた評判が上がってるな。 深海素潜りアノマロカリスと泳ごうコースはアクセスが殺到しているみたいだぜ」
「昔だったら鯖が落ちてたかもな」
「鯖? ああ、サーバをそういうスラングで呼んだんだったっけ」
「フヒヒ」
とりあえず、売り上げが上がっているのは事実だ。
SNSでも評判が増えてくると。
ネットブログなどでも取りあげられていた。
まあこれらも、質はあまり高いとは言い難いのだが。
実際にアノマロカリスと泳いだ感想などを書いたブログなどは、相応にアクセスが集まっているようで。
誰でも見に来られるエンシェントの価格設定もあって。
アクセス数は、更に増えている。
これは、社員達に。
今までに無い額のボーナスを支給できるかも知れない。
ボーナスをしっかり支給すれば、その分士気も上がる。
勿論士気だけではやっていけないが。
利益を社員に還元しないような会社は今時人材を保てない。
当たり前の話である。
さて、例の彼処は。
ピーコックランディングはどうか。
この間CMを流してやったし。
さぞや否定的なコメントをムキになって流しているだろうか。
そう思ったのだが。
意外に評判が悪くない。
「アノマロカリスの完成度は高いな。 流石に実績がある仮想動物園だ。 良いスタッフが、良い仕事をしている」
「深海での生活についてはまだちょっと疑問が多数残る描写が目立ったが、直角貝にとっては単なるカモだった、という点については同意だ」
「ちなみに素潜りしてみたが、このモードは面白いが、一方でいらないかも知れないと感じたな。 リアリティを著しく損ねる。 仮想動物園とはいえ、流石に人間が深海を素潜りして窒息せず、周囲を平然と見渡せるというのは雰囲気を削ぐ」
「まあその辺りは面白さと天秤に掛けなければならないな。 娯楽は昔から、リアリティとのバランス取りが大前提だ」
総出でこき下ろしていると思ったら。
むしろ素潜りモードへの批判が主体か。
ただ、潜水艇モードを使ってみたのだが。
それだと、近くで見られないという哀しみがあったので。
個人的には素潜りモードがお勧めである事には違いない。
まあ深海探索をしているプロも此処にはいるかも知れない。
そういう人にとっては。
深海を直接泳ぐ、というのは。
あり得ないと思えてしまって。
楽しめないのかも知れない。
まあリアリティは人それぞれだ。
それで楽しみを削いでしまうのも、人によってかなり違ってくる。
此処の人達には楽しみを削いでも。
他はそうでは無い。
少なくとも今回は売り上げに直結している。
そういう意味では。
適切なレベルでのリアリティが保たれていた、とも言える。
「ちなみにアノマロカリス食ってみた。 海老みたいな味がした」
「また大胆だな」
「無抵抗モードに設定して、切り分けて海上に持ち出して、火を通して食べて見たが、悪くなかったぞ」
「分かった、今度試してみよう」
いきなりこれか。
ちょっと真顔になってしまったが。
まあ楽しみ方は人それぞれだ。
私はそれに介入するつもりは無い。
いずれにしても、今回は興行的に成功。
かなりの黒字を上げる事が出来た。
今後も、細かいアップデートを繰り返し。
フットワークが軽い仮想動物園として運営を続けていきたい。
エンシェントは。
あくまで動物園。
そして仮想動物園だからこそ。
出来る強みも多いのだから。
(続)
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