霧の都の娘

 

序、どうしようもない出来事

 

死体が下水道に浮かんでいた。

ここは英国、ロンドンである。

産業革命といわれるこの時代。

平均寿命は、一気に下がった。

当たり前の事だろう。

炭鉱労働に子供まで駆りだし。炭鉱では三年働けば死ぬと呼ばれる地獄が現出していたのだ。鉱山病、汚染物質による公害、更にはモラルの致命的な低下。

英国料理はまずいと噂だが。

この時代に家庭料理の文化が消滅した結果。

まずい料理しか残らなかったという話がある程なのである。

母親は子供に酒を飲ませて仕事に出かける事があった。

これは事実である。

酒を飲ませておけば泣かなくなる。

そういう理由からだ。

このため、乳幼児がアルコール中毒になるという地獄の悪魔ですら呆然とするような事態がおき。

結果として、弱者から順番に人間は死んで行ったし。

強い者だって多くが倒れていった。

資本家が異常に肥え太り。

その血肉は弱者の命であがなわれていた。

この時代かも知れない。

人間のモラルというものが、決定的に壊れたのは。

以降の時代も、この産業革命時代の地獄絵図は引き継がれていくことになる。

下水道に浮かんでいた死体を拾い上げたのは、細長い男である。

ひょろっとしていて、シルクハットを被っている。髭も細長くて、なんというか枯れ木のようである。

「ベリアル。 来てくれるか」

「おう、どうした」

ひょろっとした男の代わりに。

今度はでぷっとした男が来る。

はち切れそうなタキシード。

そして小柄でも、きちんとシルクハットは被っている。

この時代、一定の社会的地位を持っている人間は必ずシルクハットを被っていたものである。

人間社会に来る時は。

この者達も、その風習にあわせていた。

「ネビロスよ、また随分と悲惨な死体を拾い上げたな」

「見ろ。 骨が折れた形跡がある。 それ以前に、まともに食事すらしていなかったのだろう」

「紡績工場だな」

「……」

英国の産業革命時代。

多くの子供が働かされた。

炭鉱の狭い通路で、トロッコを押すために一日17時間働かされた子供達もいた。

紡績工場でも、機械の下などに潜り込んで作業をするために、小柄な子供は重宝された。

彼らの命は文字通り綿よりも軽かった。

それが産業革命時代の考え方だ。

悪魔ですら、ここまで同胞を軽くは扱わない。

どこまで人間の世界は落ちていくのだろうと。ネビロスと呼ばれた悪魔は頭を振っていた。

勿論古くも人間は決してよい生物などではなかった。

だが、ここまで落ちたのは何が切っ掛けか。

悪魔がそそのかした、などと言うことは断じてない。

人間は勝手に堕落した。悪魔が囁く必要すらなかった。

要するに自分から腐敗の極限に達したのだ。

恐らく、この地獄は世界中に波及していくことだろう。

痩せこけて、蛆に食い荒らされた死骸を抱き上げながら。ネビロスは涙が零れ出るのを感じていた。

「その死体を使うのか」

「ああ……」

「大魔王様に我等が力を示すには丁度良いだろう。 ……そうだろうネビロス」

「そうだな……」

ネビロスとベリアルは、今最も世界で金が動いているというこのロンドンに来たのだけれども。

その実情に絶句していた。

しばらく辺りを歩き回って、地元の悪魔に話を聞いて。このような場所は地獄にすらないと言葉すら失っていた。

はっきりいう。

とっくの昔に。人間は残虐性でも冷酷性でも、悪魔なんか遙かに越えてしまっている。モラルだって悪魔より低い。それも桁外れに。

こんな生物に悪魔と呼ばれる筋合いは無い。

お前達の方こそが悪魔だ。そうネビロスは面罵してやりたかった。

一度、魔界への穴を開ける。

ネビロスとベリアルは悪魔だ。住んでいるのは魔界である。

過酷な実力主義者の世界だが。今の大魔王。ルシファーが統治するようになってから、だいぶ世界は穏やかになった。

勿論荒々しい世界である事にかわりはないが。それでも一定の秩序は作られた。

混沌の中にある秩序というのもおかしな話だが。

それでも、秩序はそこに確かに存在しているのだ。

ベリアルとネビロスはかなり昔から親友同士で、与えられている領土も近い。今ではそれぞれの屋敷に気軽に出向くようになっている。

このままネビロスの屋敷に死骸を運び込む。

元々ネビロスは死霊術などに長けている悪魔である。

死体を運び込むことは、珍しくもなく。下働きの悪魔達も、エサでは無いと理解はしているようだった。

「魂はもう肉体を離れてしまっているのか」

「ああ。 人格は擬似的に再構築する事になるだろう。 脳も完全に壊れてしまっているから、記憶などを戻すのも不可能だ」

「下水には他にもたくさん死体が浮いていたな……」

「あの世界の資本家とやらは、悪魔より邪悪だ。 大魔王様にしっかり報告をしておかなければならないだろうな」

ネビロスは仕事部屋に無惨な腐乱死体を持ち込む。もうそれが、少女のものだった事すら分からない程崩れてしまっている。

異臭も当然酷い。

死体に申し訳程度にこびりついている布きれからも。

この死体が、死んだ時には。

ろくな服も着ていなかったのは明らかだった。

人間は生殖関連に大きな問題を抱えている生物で。古くは産まれてきた子供の多くが死んでいた。

哺乳類と言う生物は、基本的に一体一体の子供を大事に育てるため。

大量に産んでその中からわずかでも生き残れば良いという戦略を採る生物とは根本的に子供に対する考え方が違う。

人間は比較的子供が生まれてしまえば生存率は高い方なのだが。

それでも産むときには母子ともに大きな危険があるし。

何よりも産まれてからも成人するまでに多くが病気などで死んだ。

それがだいぶ改善されてきていたはずなのに。

あのロンドンとかいう魔都では、何もかもが。時代が全て逆行しているかのようだ。

資本家とかいう輩の邪悪さときたらどうだ。

この無惨すぎる死体が。

人間の尊厳を全て投げ捨てたような死体が。

その邪悪さを物語っているでは無いか。

ネビロスは何度も涙を拭った。

大悪魔と呼ばれる地位にあるのだ。あまり派手に動くなとは言われている。

だが、あの下水道にうち捨てられていた大量の死体を全部蘇らせて、ロンドンの人間共や、特に資本家とかいう連中を襲わせてやりたい気分だった。

今、天界とやりあうわけにはいかないから、そういう事は出来ないが。

それが口惜しくてならない。

大きなため息をつく。

既に、ひょろっとした人間の紳士の姿から。

顔色が悪い細長い、少し道化に似た姿をした悪魔の本来の姿へと戻っていた。

ベリアルもそれは同じ。

赤黒い体躯の、巨大な悪魔に戻っている。巨大な槍を手にした、厳つい悪魔らしい悪魔。

愛嬌があった人間の姿とは違って。

今では険しい表情を隠してもいなかった。

「俺は怒りを感じているぞネビロス。 我等がそそのかした訳では断じてないのに、なんだあの人間共の姿は。 あんな連中に悪魔呼ばわりされる筋合いはない」

「……」

「泣くな。 少なくともお前はあの地獄を造り出して享楽にふけっている人間共より遙かにマシだ。 それは俺が保証する」

「ああ、ありがとう。 だがしばらくは、このままにしておいてくれ」

頷くと、ベリアルは部屋を出て行く。

ネビロスはしばらく涙を流していた。

大の大人が云々という言葉は大嫌いだ。

これほどの非道を前にして泣かずして、何のための涙か。

少なくとも、あのような狂気の沙汰と地獄より酷い有様を見て、平然としていられる人間の方が余程狂っている。

そんな連中にどうこう言われる筋合いはない。

しばらくして、ようやく落ち着いたので。

ベリアルの様子を見に行く。

配下によるとベリアルは一度屋敷を出たと言う事だった。

そうかと言うと。茶を淹れさせる。

酷い臭いについては、魔術で払った。

部屋を出てくるときに。

あの遺骸に湧いていた蛆なども処置は終えていた。処置を終えた所で、かろうじて人間と分かる程度の悲惨な死骸である事に変わりはなかったが。

ベリアルが戻ってくる。

落ち着いた様子のネビロスを見て、少しだけ安堵したようだった。

茶を勧め。

テーブルを挟んで向かい合って座る。

しばし茶を啜るが。

ベリアルがやがて切り出した。

「大魔王様は許可をくれた。 無理はしないようにと言ってくださった」

「情けない話だな。 唯一絶対の神とやらはあの地獄の沙汰を見てみぬふり。 天使共も近寄る形跡すらない。 そして人間共の邪悪さ。 一番慈悲深いのは大魔王とは、どれだけ滑稽な悲劇か。 我等を悪魔と罵る輩の残忍さは次元が違っておるわ」

「そうだな……」

「私はあの亡骸を丁寧に繕っておく。 明日また来てくれ。 魔術などの支援を受けたい」

頷くと、ベリアルは屋敷を出る。

気を利かせて、大魔王に進捗を報告してくれたのだろう。

いい友を持ったものだと思う。

溜息がまた零れた。

茶を飲み干すと、仕事部屋に。

とにかく、もはや形を為していない死骸を、少しでも繕っておかなければならないだろう。

無惨な姿でまた命を与えるわけにはいかないからだ。

少しずつ魔術で丁寧に再生していく。

ネビロスの得意分野は死霊術。

人間が良くやっている、霊を呼び出して助言を聞くとか言うあれではない。

死体を操作して、様々な事をするもっと高度なものだ。

だが、死体を操作する事は出来ても、それ以上の事は出来ないのがネビロスだ。

一方でベリアルも似たようなものである。

ベリアルは、古くには戦車(馬が引くチャリオットの事である)に乗った天使の姿をしていた、というが。

今では天使に嫌悪感があるのか、一目で悪魔と分かる威圧的な姿をしている。

いわゆるソロモン王の使役した悪魔のなかでも最強を誇るとされており。

だが、それでも所詮はソロモン王麾下の悪魔にすぎない。

強大な悪魔ではあるが。

結局の所、ネビロスの魔術をさらに増幅するくらいのことしか出来ない。

だから、ネビロスと協力して、死者を蘇生させることが出来れば。

それは大きな魔術的な進捗だと思ったのだが。

地上に出て見れば。久々にみた人間の世界はあのような地獄だった。

ロンドンだけではない。

他の地域でも、人間の心の荒れ果てぶりはどうだ。

しかもロンドンの地獄は、恐らく今後世界中に波及していく事確定である。

人間は一体何処まで堕落するのか。

思わず無言でネビロスは首を横に振る他無かった。

使い魔に手伝って貰って、死体を徹夜で補修する。

そうして分かった。

なんという痩せこけた体か。

実年齢は十二歳。

死体を修復する過程で分かった。

だが、余程栄養状態が悪いのだろう。七歳程度の大きさしかない。

親が虐待していたのではないと判断して良い。

強いていうなら、社会が虐待していたのだ。

そしてこの子だけが不幸だったのではない。

あの下水道の地獄絵図……いや地獄に対して失礼だ。あの悲惨すぎる有様を見る限り。

他の子供も、だいたい同じような目にあっていると判断して良いだろう。

そして、それが今後世界中に波及する訳か。

怒りで拳を握りしめる。

枯れ木のような体だが、それなりに力は出る。

爪が掌に食い込んで、血が流れ出た。

魔術で回復して、大きく嘆息すると。死骸の修復を続ける。

脳は完全に壊れてしまっているが、何とか断片的な情報を拾い出すことは出来た。

どうやら名前はアリスというらしい。

そうか、アリスか。

人の世界であのような死に方をして、さぞや苦しかっただろう。

天使も神も完全に放置。

魂は探し出す事すら不可能だ。

それも擬似的に作るしかない。

体を修復しながら、少しずつ肉などをつけていく。

というのも、この痩せこけた姿はあまりにも可哀想すぎる、と判断したからである。

服なども部下に用意させる。

再生させてみて分かったが。

本当に、最低限の服しか身につけていない。

服とさえいえない。

腐臭を放つ布きれだ。

死んでから布きれが剥がれたのではない。生前から、こんなものを身につけて。工場で働かされていたのだ。

死因も分かった。

殴打などもそうだが。決定的な死因は過労だ。

食事も足りない中、紡績工場で働かされ続けて。睡眠も殆ど取ることも出来ず。そして死んだ。

工場で死ぬ子供は珍しくもないし。

工場で偉い人間が、消耗品である労働者を殴って殺したり。機械に巻き込まれて死んだ人間に対して悪態をつくことは珍しくもないようだった。

そして死体は捨てられる。

この子は工場で過労死し。

死体をあろうことか下水道に捨てられたのである。

親が虐待していたのではない。社会が虐待していたのだ。

こんな年の子が、それこそ過労死するまで働かされていたのがあのロンドンとか言う都市の現実だ。

産業革命だとか人間は抜かしているらしいが。

何が革命か。

文字通り英国を消し飛ばしてやりたい気分だ。

部下が持ってきた上等な布服を、遺骸に大事に着せてやる。

特に酷いのが頭だ。

栄養失調などもあって、殆どはげ上がってしまっている。

子供がこんな状態になるまで働かせ。

生き血を啜って肥え太っているのが資本家とやらだ。

救いようが無い。血の色は本当に赤いのか。悪魔より遙かに邪悪ではないか。

そのような鬼畜外道に天罰を与えないのが神だ。

ますますどうしようもない。

しばらく思案した後。

部下に美しいブロンドを調達させる。

そして、遺骸の頭に植え込んでいった。

一晩がかりで、遺骸を整え終えると。

流石にネビロスも疲れきっていた。

途中で何度も涙が零れた。

悪魔とされているネビロスだが。ここまでの非道を見るのは滅多にないし。これはいくら何でもあんまりだと思う。

少なくとも人間は大嫌いになった。

元々嫌いだったが、それでも呼び出されれば契約に応じたし。死霊術の手ほどきをする事だってあった。

だが、それも今後は控えようと思う。

それくらいに、強烈な嫌悪感を覚えた。

しかも今後、世界中にあの資本家とやらが増えると聞いている。

其奴らはあんな感じで弱者から金を吸い上げ。

自分だけ良ければいいという思想の元、世界を動かして行くのだろう。そしてそれが正当化されるのだ。

人間社会をぶっ壊し。ついでに天界の連中も皆殺しにしたい。

そう、ネビロスは強く思った。

 

1、反復活

 

ベリアルは疲れきっている様子のネビロスを見て、一日休むように言って。

素直にネビロスもそれに従うことにした。

どうもネビロスは自分で思っているよりも余程軟弱だったらしい。

いや、あまりにも地上の人間が邪悪すぎた、というだけか。

悪魔なんかとっくに越えたあの邪悪さ。

もはや言葉などには尽くしがたい。

ともかく貪るように一日ねむって。

そして翌日、ベリアルと話しあう。

居間でベリアルは、咳払いするという。

「今からでも大魔王様に許可をとってこようか。 あの子は単純に葬っても良いのだぞ」

「いや、やろう」

「……いいのだな」

「私は地上の人間ども……正確には社会の主導権を握ろうとしつつある資本家とやらがこの世で一番嫌いになった。 更に言うとそいつらを放置して邪悪の限りを尽くさせている唯一絶対を名乗る神もな」

頷くベリアル。

だいたい気持ちは同じらしい。

長い事一緒にやっている友だ。

この辺りは、気があうのである。

古くはともに戦場で肩を並べて戦った仲で。天使を殺しに殺し。そしてベリアルもネビロスも何度も殺され。その度に魔界で時間を掛けて蘇り。また戦線に復帰した。

今ではすっかり、刎頸の友と言うに相応しい仲である。

「だから、涜神という意味でも「神から魂を奪う」という意味でもこの子を復活させてやりたい。 神の子とやらが復活した事を貶めてやる」

「まあ神の子は兎も角。 何一つ良い事も無く命を落としたあの子供を救うことに関しては、俺は賛成だ。 それが悪魔の手であると言うのが、何とも皮肉な話ではあるがな」

「そうだな。 まずは、遺骸を見て欲しい」

「うむ……」

仕事部屋に移動する。

遺骸を見せると、ベリアルは悲しそうに眉を伏せていた。

「可能な限り繕ったのだな」

「体はほぼ全て完全に壊れてしまっていた。 ごく当たり前にこの子が本来成長したらこうなっていただろう姿にしたが、それでも少し肉体年齢が本来より足りていないかもしれない」

「十歳程度に見えるが、十二歳だったのか……」

「そうだ。 これでもかなり体を繕って、マシにしたのだ」

ベリアルも怒りがまたわき上がってくるようだった。

ため息をつくと、少し魔術的な話をする。

打ち合わせでもしておかないと、はっきりいって不快感で体が焼け焦げてしまいそうだからだ。

ベリアルもそれを理解したらしい。

ともかく仕事をして、不快感を緩和するように二人で努力をした。

涜神行為というレベルが高い悪行をすると言う事で。

ベリアルは一度大魔王に相談に行く。

その間に、ネビロスは準備を整えていく。

まず得意の死霊術を使って、魔界にいる死霊を調べて行く。

ロンドンの死霊を調べて見るが。

使い潰されて死んだ労働者だらけだ。

あまりにも凄まじい有様で、皆が資本家への怒りを訴えていた。

魔界に落ちるほどの怒りを抱えた魂ばかりということだ。

なお、あの子供の魂は見つからなかった。

国によっては、幼い子供は神の一種として扱う事がある。

これはそれだけ死にやすかったからだ。

つまり神として扱う事によって、死んでしまっても国に帰ったと慰める事が出来た、ということである。

逆に言うと、幼い魂はまだしっかり形を為しておらず。

死ぬとそのまま霧散してしまう事が多い。

このアリスという子の遺骸はそれがなおさら顕著だったのだろう。

文字通りの極限環境で心身共にすり潰されてしまった哀れな魂だ。

死ぬと同時に魂が霧散してしまったのは。

むしろ本人にとって、幸運なことだったのかも知れない。

どうせ神に、信仰心の足しにもならないような魂を救う気などさらさらなかっただろうし。

それが幸せだったのだろう。

そんな事が幸せだった、という時点で。

ネビロスにはもはや許せないというのが実情だったが。

いつか資本家共を山と殺し、そのしがいを積み上げて宮殿を作る。

いや、そのしがいを全部生ける屍として。

奴隷としてこき使いながら、蘇らせたアリスとベリアルとともに、静かに暮らす。

その方がまだ、鎮魂になるかも知れない。

しばらく居間で茶を啜っていると。

ベリアルが戻って来た。

「使い走りのような事をさせて済まないな」

「かまわぬわ。 それに涜神という言葉を口にすると、大魔王様も喜んでおられた」

「……あの方の真意は分からないがな。 どうもあのお方は考えている事がよく分からぬ」

「ああ。 それでも許可はでた。 やろう」

頷く。

既に打ち合わせの時点で、魔術の準備は終わっている。

死骸が安置されている仕事場に出向くと。

ベリアルはすっと空中に指を走らせた。

それで、地面に血で書かれた魔法陣が浮かび上がる。

極めて複雑なものだ。

頷くと、ネビロスは己の魔術を練り上げ始める。

恐らく、三日三晩は必要になるだろう。

それでも、一度で上手く行くとは限らない。

それくらい、難しい事だ。

それはネビロスにも、よく分かっていた。

 

一度目は上手く行かなかった。

分かってはいた。

アリスは一度すっと不自然に起き上がると。

全身から腐りきった液体を垂れ流し始め。そして爆ぜ割れてしまった。

ため息をつく。

涜神行為と言う高レベルな復活術だ。

ベリアルとネビロスという、魔界でも屈指の仲良し高位悪魔が揃ってもまず一回では無理だろう。

それは打ち合わせの時に、相談はしていた。

二日掛けて、遺骸を再度繕う。

もとの遺骸に完全に戻すのに随分と手間が掛かった。

ネビロスほどの専門家でも、だ。

他の者だったら、再生など出来なかっただろう。

一日休みを入れてから。

魔法陣などを見直し。

もう一度、儀式に取りかかった。

二度目は、かなり上手く行ったのだが。

途中で目を見開いたアリスは。

そのまま、意味不明の言葉を垂れ流しながら空中に手を伸ばし。

それから凄まじい勢いで腐敗して、文字通り骨だけになってしまった。

二度目も失敗だったわけだが。

それでも何とかすると、既にネビロスは決めていた。

今度は一週間掛けて遺骸を修復する。

一度完全にというレベルで破損してしまったのだ。

それくらいは時間が必要になるのも、仕方が無いとは言える。

修復を終えたときには悟ったのだが。

骨も滅茶苦茶だった。

骨折の跡があることは分かっていたし。それが紡績工場で暴力を受けた結果だという事も理解していた。

だが、それ以前の問題だった。

まともな栄養を取れていないから、骨がいびつ極まりなく。

栄養も全く足りていなかったのだ。

泣きながらそれらを補修して。

肉もまた再構築した。

かなり高レベルな魔術を何度も重ね掛けしたので、ネビロスも疲れ果てるほどだったが。

それでも何とか再構築には成功した。

また一日の休みをおいてから。

三度目の術に入る。

三度目の術には、興味を持ったらしい他の堕天使も何人か見に来た。

いずれもが魔界屈指の強者ばかりであり。

せっかくなので、会議に参加して貰ったが。

あまり有意義な意見は出てこなかった。死霊術に関しては、ネビロスが魔界屈指の専門家なのだ。

それ以上の意見が出て来たら、逆におかしいと言える。

ともかく、儀式を始める。

全身の魔力を全て使い尽くすつもりで儀式を行っていく。

途中までは上手く行った。

今度はいけるか。

そう思ったのだが。しかし、アリスは不意に動き出すと。また、全身が破裂して、壊れてしまった。

思わず膝から崩れ落ちるネビロスに。

ベリアルは肩を叩いていた。

「何度でもやろうぞ」

「何がいけなかったのだ……」

「ともかく、我等が最高レベルの涜神行為を行っているのは事実だ。 それが難しいのは当然だろう。 遺骸を繕ってやれ」

「分かった……」

頷くと、遺骸の修復に入る。

遺骸を修復し終えて、居間にて休んでいると。

意外な来客があった。

大魔王、ルシファーである。

思わず恐縮するネビロスだが。流石に屋敷に入るときは小型化するルシファーは。寡黙そうな人の青年の姿をしていた。

茶を出すと、何の文句も言わず口にしてくれる。

さっきまで遺骸の修復をしていたネビロスだ。臭っても不思議ではないだろうに。

「苦労しているようだな、ネビロス」

「は。 私の技術を持ってしてもなかなか……」

「無理はしないようにな。 そなたは大事な魔界の重鎮で、私の部下だ。 きたる天との戦いでも、そなたには活躍してもらわなければならぬ」

「光栄なお言葉にございまする」

ルシファーは頷くと、今まで行使した魔術を見せて欲しいと言い。

ネビロスはそれに従い、魔術によってログを見せた。

しばしその様子を見ていたルシファーは、頷いていた。

「なるほど、そういう事か」

「何か分かりそうですか」

「恐らくだが、遺骸の方の耐久性が低すぎて、そなた達が作ろうとしている魂の器になりえていないのだ」

「!」

なるほど、そういうことか。

涜神行為というハイレベルな魔術を使っているのだ。

それに肉体が絶えられずに壊れてしまっているのは当然だと言える。

だとしたら、肉体に徹底的な強化を施さなければならないだろう。

少なくとも上級悪魔と同等か、それに近い力を持っている程には。

ネビロスは手を見た。

自分の力の大半を与えてしまってもいい。

それくらい、ネビロスはアリスに入れ込み始めている。

どうせネビロスの力は、時間を掛ければ取り戻す事が出来るのだ。

今の人間世界の悪徳の凄まじさは実際に目にしている。

あの有様では、魔界に流れ込んでくる負の思念の凄まじい事、想像に難くない。

古くは神に悪魔は絶対に勝てなかった。

だが、恐らくだが。

近いうちに、絶対に勝てないという状況は崩れる。

勿論昨今にではない。

百年とか二百年とかは掛かるだろうが。それでも状況が崩れる頃には、ネビロスも力を取り戻している筈だ。

ルシファーはネビロスの様子を見ていたが。

やがて、何か黒い珠を取りだしていた。

凄まじい魔力を感じる。

「使うと良いだろう」

「大魔王様、これは……」

「魔界の秘宝の一つだ。 そなた達の努力を評価して下賜する。 この儀式が終わり次第戻すように」

「は、ありがたき幸せにございまする」

なるほど、これをコアにすれば。アリスの体は。ネビロスの全てをつぎ込むよりも強くなるだろう。

いや、そこまで強くなるかはともかく。

圧倒的な潜在能力を手に入れる事は確定だ。

それだけで充分過ぎる。

深々と、ネビロスは大魔王に頭を下げる。本当に、どれだけ感謝してもしきれなかった。

帰宅する大魔王を見送ると、すぐに仕事場に。

いただいた魔界の秘宝を使って、修復したアリスの死骸を徹底的に強化する。

珠からあふれ出る魔力は凄まじく。

それを流し込んでいくだけで、見るまにアリスの肉体が強化されていくのが分かった。

凄まじい。

本当に上級悪魔なみの力だ。

下手な堕天使なんて一ひねりだろう。

特に溢れてくる呪いの力の凄まじさ。

これはなんだかよく分からない程である。これほどの凶悪な呪いの力。生半可な悪魔に再現は不可能だろう。

思案しつつ、遺骸を可能な限り、極限まで強化する。

そう。

そもそも、人のまま蘇らせようとするのが間違いだったのだ。

いっそのこと、魔界に相応しい姿で蘇らせれば良かったのである。

アリスの肌が青ざめていく。

元々遺骸だったのだ。

血の気なんかなかったが。それでも、不自然なくらいに肌が青ざめていくのが分かる。

それでもいいだろう。

この子は資本家どもにすり潰され、文字通り絞り尽くされた挙げ句に下水道に捨てられたのだ。

人間である事に、どうしてこだわる必要があろうか。

秘宝から溢れる魔力を詰め込んで、極限までアリスの強化が終わる。

そうすると、ベリアルが来た。

どうやら大魔王に話は聞いているらしかった。

「ほう、これは凄まじい力だな」

「ああ。  この子は資本家などという連中にはもはや絶対に殺されないだろう」

「うむ……」

「それでは、少し休んでから復活を開始するぞ」

ベリアルが頷く。

そして、秘宝については、今後の事もある。

まだ返す事は無く、大事にしまっておいた。

少し体力が回復するのを待ってから。

ネビロスは、ベリアルとともに五度目の儀式を開始する。

神の子と呼ばれる人間の復活劇は。人間共には奇蹟とされているらしいが。

実際には単に仮死状態だったものが、蘇っただけという話もある。

それに復活したというのなら。

どうして現在に復活し。

隣人愛と赦しの思想を捨て去った、不肖の弟子共に怒りの鉄槌をくださないのだろうか。

神の子というのなら、それくらいはしてみせろ。

そうネビロスは吐き捨てながら、集中を高めていく。

魔術がどんどん高まっていく中。

アリスに集中していた凄まじい魔力が、脈動しているのが分かる。

決して狭くない部屋に、青白い光が満ちていく。

それは、何度も何度も繕い修復したアリスの遺骸からあふれ出し。部屋中をその力で染め上げようとしているかのようだった。

「おおっ!」

ベリアルが歓喜の声を上げる。

アリスが、目を見開く。

ネビロスは何度も印を組みながら、慎重に魔術を調整していく。

ここからが難しい。

今度失敗した場合。アリスに蓄えた魔力が全て暴発し、何も残らないほどの爆発を引き起こしてもおかしくない。

だがそうはさせない。

ネビロスが今まで蓄えてきた全ての知識を動員してでも。

この儀式は成功させる。

ベリアルが歓喜の声から一転呻く。

ネビロスには理由が分かる。

この儀式、想像以上の危険な代物だ。

だから、恐怖の声が漏れるのも分かる。故に、普段はベリアルが主導権を握るところだけれども。

ネビロスは声を張り上げていた。

「此処が正念場ぞ!」

「お、おおっ!」

青白い光が最高潮に達する。

全身が焼けるように熱い。いや、凍るように冷たい。魔力の奔流があまりにも凄まじすぎる。

故に、感覚が狂い始めている。

最後の印を切る。

その時。

世界は光に漂白されていた。

 

光が収まってくる。

青白い光が。

それは神々しいものでは断じて無く。禍々しいものだったが。

魔界に生きるものにとっては、むしろ福音にさえ思えた。闇の福音である。

仕事部屋の中で、ぼんやりと目を擦りながら。作業台の上で半身を起こしている人間の子供。

いや、違う。

全身から立ち上る凄まじい魔力は、人間とは隔絶している。

文字通り呪いの力の権化。

大悪魔達に混じっても何も不思議はない。

その圧倒的な力は、魔界の重鎮になんら遜色はない。

ただし、まだ経験が足りなくて力を引き出すことが出来ない。

そういう状態だ。

青白い肌の、金髪の子供はネビロスの方を見る。

「私を助けてくれたのは、貴方? 貴方たち?」

「ああ、そうだ。 私はネビロス」

「俺はベリアル」

「うん。 ありがとう、黒いおじさん、赤いおじさん」

黒いおじさん、か。

それもまたいい。

ふっと、力が抜けた気がした。ベリアルも限界が近い様子だ。

アリスはぐっと伸びをする。

一目で分かる。

新しい命がそこには出来ていた。

完成したのだ。

涜神という、究極レベルの魔術が。

そして、それは一神教の神に対する涜神。

生半可な涜神では無い。これほどの事を成し遂げたことは、魔界の歴史に残る快挙となるだろう。

だがそれ以上に。

純粋に、アリスが蘇ったことが嬉しかった。

下水道であまりにも無惨すぎる死体を拾ってきた時。

ロンドンとかいう魔都には、人間の心が既になくなっていることをネビロスは知った。

資本家だか何だか知らないが。

悪魔より遙かに邪悪な連中が好き勝手にしきり。

神はそれを罰するどころか、興味すら無いことも理解した。

だから、これでいい。

この涜神は、文字通り世界のあり方に対するくさび。

アリスこそは、希望。

少なくとも、ネビロスとベリアルにとっては、だ。

疲れ果てているが、いつまでもへたっているわけにはいかないだろう。

人間体になる。

ベリアルも頷くと、そうなった。

「まずは、お茶にでもしようか」

「わあい! でも、私お茶って飲んだことないの」

「英国はお茶の国だと聞いたが……」

「そんなの飲めるの、お金持ちだけだよ」

アリスの言葉に、凄まじい搾取を悟って更に暗鬱たる気持ちになるが。

大人なのだ。

これ以上は、アリスを心配させたり、不安にさせるわけにもいかないだろう。

「分かった、ならばおじさん達と生まれて始めてのお茶会にしよう。 最高のお茶を淹れるからな」

「本当!」

「ああ、本当だ」

ダメージが若干小さいベリアルがすぐに出ていく。

屋敷の者達に指示を出すためだろう。

ネビロスも立ち上がると、なんとか最後の力を振り絞って、アリスがちゃんと動けるか確認しておく。

どうやらアリスは。

もはや完全に、問題なく動けるようだった。

 

2、涜神の子

 

疲れが溜まっていたこともある。

ベリアルとネビロスは、しばらくアリスと茶会しか出来なかった。

それだけ強力な魔術を駆使した儀式だったのだ。

ベリアルも、古くから存在する悪魔だが。

それでも、これほどの大魔術を使ったのは初めてだった。

だが、それでも大悪魔だ。

ソロモン王麾下最強と言われた存在である。

回復が済んできたので、まずはネビロスに相談する事にする。

ベリアルはネビロスほど性格が湿っぽくは無い。ただ、アリスの事は愛くるしいと思い始めていたし。

ネビロスの影響も受けたのだろう。

アリスのような犠牲者を大量に出しながら、へらへら嗤っている資本家とかいう連中を心の底から嫌いになっていた。

まずは、アリスを大魔王の所に連れて行く事にする。

アリスは数日かけてマナーだの何だのを教えてある。

魔界の仕組みについても、である。

あと、体が壊れないようにも色々教えなければならない。

アリスは体術についてはそれほど出来る方では無いが、魔力は魔界でも上位に入るほどの存在だ。

既に新しい魔人アリスという悪魔であると言っても良い。

存在が固定されているから、仮に完全破壊されても時間を掛けても蘇る。

つまり悪魔として、新しい存在になったのである。

だから、大魔王に謁見は必要だ。

そうベリアルはネビロスと話し。

同意を得ていた。

アリスを教育し、魔術を幾つか覚えて貰う。アリスはやはり呪いの魔術にとんでもない適性があって、素でベリアルもネビロスも及ばない領域の魔術を使う事が出来た。教育係として呼んだ悪魔が、皆驚いていた程である。

もとのアリスがこうだったわけではないのだろう。

涜神の儀式の結果、これだけの力を手に入れた、と言う事だ。

それには才覚も含むという訳なのだろう。

更に四大元素などの属性魔術も使う事が出来る様子で。

魔族から見てさえ、魔術の申し子と言えた。

いずれ魔界を背負う人材の一人になってくれる筈だ。

今はまだ、経験とかが足りない。

だから上位悪魔にはどうしても総合力で及ばない。

だがこれが時間が経てば。

きっと結果は変わってくるだろう。

ひょっとして、大魔王はこれを見越して涜神の儀式に力を貸してくれたのかもしれない。ただ、大魔王は若干ルーズなところがある。或いは単なる偶然なのかも知れない。

いずれにしても、謁見の申し込みをし。

すぐに許可はされた。

アリスは飛行の魔術をすぐに覚えた。魔術に対する適性は多分どんな人間でも及びもつかないだろう。

それくらいに凄い。

ただ今回は、まだアリスも習得出来ていない空間転移で大魔王の居城に出向く。

コキュートスという魔界最深部にある大魔王の城は、それだけ遠い所だからである。

空間転移で、大魔王の城に出向く。

入り口には偏屈な扉がある。

なんと人格を与えられている扉で、顔がついており、左右で仲が悪い。しかも相応に力があるので、時々こいつらのせいで渋滞が起きる。

ベリアルとネビロスがアリスを連れて姿を見せても、案の定ぶちぶち文句を言い始めるので閉口する。

「この者達は混沌の属性にある。 故に通してよい」

「貴様はそういって誰でも通しているでは無いか」

「大魔王様は混沌の属性の者なら通して良いと言われている」

「大魔王様のお言葉であればどうしようもない」

扉が開く。

口論を無駄に聞かされて、ベリアルも少し疲れた。

大魔王の居城は、要塞と言うよりも宮殿だ。

ただし宮殿ではあるが、内部にはいわゆる死地が設けられていたりと、戦闘を意識した作りになっている。

ただここまで敵が攻めこんできたらその時点で魔界の大半は陥落しているだろうし。

大魔王もあまりにも本格的に作る必要はないと思ったのだろう。

何より政務に不便だ。

というわけで、抜け穴がある。

実は幹部級の大悪魔には知らされているエレベーターがあって。

そこからなんと謁見の間に直行できるようになっている。

何もかもが物珍しいようで、アリスは目を輝かせてアレは何コレは何と聞いてくる。

ベリアルも、少し頬が緩む。

地上の邪悪な人間どもよりも。

邪悪な魔界の秘宝を使って作り出した涜神の権化の方が、余程天真爛漫というのは色々末期的だ。

謁見の間に到着。

実はベリアルの職場だ。

普段はここで大魔王の謁見の際に護衛を務めたりもする。

大魔王に護衛が必要かと言えばだいたいの場合ノーなのだが。

それでも、体裁として護衛がいることは示した方が良いのである。

謁見の間に入る前に、アリスにマナーなどを言い含める。

頷くアリス。

ベリアルとネビロスの事はきちんと慕ってくれている。

それは嬉しい。

謁見の間に入ると、巨大な玉座に大魔王が腰掛けていた。

禍々しい姿に、六対の翼。

威厳ある邪悪なる姿である。

大魔王が幾つも持っている姿の中で、魔界で謁見などをするために使うものだ。

別に他の姿でも戦闘力が落ちるとかそういう事はないらしく。

なんだかベリアルにもよく分からない理屈で色々な姿を使っては、人間の世界に潜り込んでいる。

遊んでいる訳ではないらしいが。

放浪癖があるとして、魔界の幹部級の悪魔には。あれさえなければと、時々ぼやきが出る。

ベリアルも、実の所。

大魔王の放浪癖はあまり良く想っていなかった。

「ベリアル、ネビロス。 涜神の儀式によって新しい生を受けた存在、アリスを伴って参上いたしました」

「うむ。 面を上げよ」

威厳のある声。

メイド姿で地上をフラフラしている大魔王と同一人物とは思えないが。

まあアレは趣味なのだろう。

その気になれば、幾らでもこう言う姿はとれるということだし。

こういう言動もとれるということだ。

「この度は涜神を極めて見せてご苦労であった。 余の秘宝は」

「はっ。 お持ちいたしました」

「うむ、受け取った。 次はこれなくとも、涜神の儀式を完成させてみせよ」

「ははーっ」

ネビロスとともにひれ伏す。

アリスはじっと大魔王を見つめているようで。

大魔王も、それに視線をあわせていた。

「アリスよ。 魔界は居心地が良いか」

「はい、大魔王さま」

「うむ。 魔界でもそなたを脅かすものは滅多にいないだろう。 だが、地上に出るとそなたを脅かす者が多い。 地上に出たいと思った時には、ベリアルとネビロスに必ず相談をするように。 地上に出ること自体は悪くは無いから、二人と一緒に行くようにな」

「はい」

素直な受け答えでほっとする。

大魔王はそこまで多忙では無いが、わざわざ謁見の時間を作ってくれたのは本当に有り難い。

そのまま礼をして退出する。

代わりにすれ違ったのは、アスラ王である。

魔界の幹部格の筆頭の一人。

六本の腕と三つの頭を持つ巨人だ。

アスラ系統と呼ばれる神々の中でも、特に悪魔としての傾向が強い存在で。

同じアスラ系統でも、光側の重鎮となる存在がいたりもする。

兎に角血の気が多い奴なので、あまり関わらない方が良いだろう。

一礼だけして通り過ぎる。

アリスはじっと見ていたので、しっと声を掛けて。関わらないようにするように促した。

アスラ王はじろりとアリスを見たようだが。

魔界で涜神の儀式が成功した事は知っているのだろう。

だから、別に因縁をつけてくることも無かった。

エレベーターを使って一階に下りる。

このエレベーターは霊的なもので、乗る悪魔にあわせて大きさを変えてくれる。

ベリアルとネビロスは悪魔としての姿になっているので、かなり大きなエレベーターである。

だが、流石に盗聴機能とかはないので。

エレベーターが降りはじめると、ベリアルはほっとしていた。

「ねえ赤おじさん」

「うん、どうした」

「大魔王さまって優しそうな人だね」

「……そうだな」

人間が思っているよりも大魔王はずっと「優しい」と言って良い。

少なくとも、あの魔都ロンドンにいた人間達よりは遙かにまともな精神性の持ち主であるし。

一神教の開祖が広めようとした隣人愛と赦しの思想を滅茶苦茶にした弟子どもよりも遙かに人間性も優れているだろう。

元が報告書か何かの勘違いで出現した存在らしいし。

実はベリアルよりも歴史が浅い悪魔なのだが。

今では別に対抗意識とかもないし。

あの方ならと、大魔王が魔界を統べることを受け入れてもいる。

ネビロスも同じだ。

大魔王に対する不満は聞いた事がない。

まあ放浪癖以外は、だが。

「だが、大魔王様も威厳を保たなければならない。 我等二人以外の前で、それを言ってはいかんぞ」

「はーい。 なんだか魔界も窮屈なんだね」

「それは仕方が無いさ。 ある程度の規則が無いと、本当に誰彼好きかってやり始めて、あっと言う間に天界の奴らにやっつけられてしまうだろう」

「……」

アリスは何か言いたげにしたが。

エレベーターが到着。

大魔王の城を出る。

コキュートスから、そのまま転移の魔術でネビロスの家に。

最近では、アリスはネビロスの家とベリアルの家を行ったり来たりしている。

愛くるしいので、どちらの屋敷でも既に悪く思っている悪魔はいないようだった。

一神教徒は悪魔を邪悪な存在として必死に描写しようとしているが。

実際には地上にいる人間の方が遙かに邪悪で残忍だ。

結果として悪魔の方が余程人間よりもまともになってしまっているのは。

皮肉という他無いだろう。

今日はベリアルの屋敷にて引き取る。

適当にネビロスと別れるが。

アリスは満面の笑みで手を振って。

それでネビロスも。ずっと憂いばかり顔に浮かべていたのに。笑顔を不器用に作って、細長い体で手を振って返していた。

「大魔王さまの所にはまた遊びに行くの?」

「いや、大魔王様にはアリスがもう一度命を得るためにとてもお世話になったので、今回謁見したのだ。 次に大魔王様に会うのは、アリスが大魔王様の力になれるほどに、強くなってからだな」

「そうなんだ。 でも、大魔王さま優しそうだったし、会いたいなあ」

「だからそれは我等の前でしか言ってはいかんぞ」

釘を刺してから、屋敷で茶にする。

この子は生前ティーパーティどころか、茶会にも縁がなかっただろう。

しかも英国のメシはまずくなる一方だと聞いている。

だから、茶にしても菓子にしても。

英国以外から取り寄せたり。

それらを魔界で再現したりしていた。

それでも茶会をすると英国っぽいのだから。

なんだか変な話である。

「疲れは溜まっていないか」

「うん、大丈夫だよ赤おじさん」

「そうか。 では茶を楽しんだ後、少し魔術の勉強をしよう」

「はあい」

幸い、アリスは勉強には前向きだ。

魔術はどんどんできる事が増えるから、とても楽しいようだし。

それ以外の教養関係の勉強も、積極的に覚えたがる。

まっさらな状態で新しい命を得たアリスだけれども。

時々ベリアルがはっとするほどの聡明さを見せる事もある。

特に記憶力はとても優れていて。

教師が前教えた事をもう一度教えなければならないことはほぼない、とベリアルに言っていたし。

何より悪魔の事も。

一度見れば忘れる事は無かった。

ベリアルにとってはたくさんいる子孫の一人で、血だってつながっていない存在なのに。こうも愛着が湧くのは何故だろう。

いずれにしても、賢いからとか、出来が良いから、ではないだろう。

あの悲惨な魔都で。

泣き濡れるネビロスを見たからだろうか。

悲惨な遺骸を見たからだろうか。

一通り勉強が終わったので、教師役に呼んだ悪魔に給金を渡し、帰らせる。

ひとかどの悪魔だったのだが。

魔術に関しては、既にアリスが越えてしまっていた。

大したものだと感心する。

眠そうにしているので、先にアリスを寝かせる。

ベリアルはため息をつく。

配下の悪魔に聞かれた。

「随分とあの子に入れ込んでいますね」

「ああ、そうだな。 実子はみんな独立した後だし、久しぶりに出来た子だから可愛いのかもしれないな」

「我々から見てもあの子は愛らしいと思います。 しかしながら今後は魔界の厳しい面や恐ろしい面も知って貰う必要があるのでは」

「……そうだな、分かっている」

魔界は実力社会だ。

古い時代には絶対最強を誇ったバアルは、幾多に分割されて今では魔界の彼方此方に領地を持っている状態であり。結果として大魔王の配下となっている。

アリスだっていずれベリアルとネビロスの所から独立し。

武勲を立てれば、大魔王から領地を貰う事になるだろう。

「だがその前に、地上に一度連れて行きたい」

「地上に。 どうしてですか」

「復讐を遂げさせてやりたい」

ベリアルは。

自分でも、ぞっとするほど声が冷えるのを感じていた。

ロンドンの資本家とやらどもは絶対に許せない。

悪魔ですらも慟哭するほどの残虐さで、世界を滅茶苦茶にしているし。連中の理論で今後は世界が動く事になるだろう。

その結果地上は魔界以上の地獄になる。

アリスのような犠牲者は、今後数え切れない程出てくる筈だ。

少なくとも、アリスには復讐をする資格がある。

ただ。復讐を強要するつもりはない。

資本家どもの醜い姿を見せておいて。

彼奴らに対して、好きにして良いとけしかけるだけだ。

天使共が出て来たら、ベリアルとネビロスで相手をすればいい。

いずれにしても、最初のうちにやらせておきたかった。

「子供はいずれ成長する。 アリスは今後も子供の姿のままだろうが、それでも色々学んでいかなければならない。 その第一歩は、人間世界を自分なりに判断する事だと俺はかんがえている」

「……良くない結果になる気がします」

「いずれにしてもあの子は呪いの申し子だ。 どんなに愛くるしくてもそれは代わらない事だ」

どんな風に繕っても、もはやそれに変化は無い。

だから、させることはさせるべき。

それに天使が人間を誅さないというのなら。

悪魔がやらなければならなかった。

 

一通りの勉強が終わり。

大魔王に許可を得てから、ロンドンに出る。

ロンドンは相変わらず産業革命とやらの狂騒の最中にあり。

まさに地獄そのものだった。

既に配下に、主な資本家についてリストアップさせてある。

まずは一番金を蓄えている輩だ。

産業革命とやらが発生した経緯は、ベリアルもネビロスとともに調べた。

英国という国は、貴族がまだまだ大きな力を持っていて。

連中が新しく出来た法に従って、土地を農民から奪い取ったのが最初のきっかけであったらしい。

これによって農民がどっと都会。

特にロンドンなどに流れ込み。

労働力が恐ろしい程に安くなった。

それを利用して、資本家どもが暗躍を始め。

余った人間を文字通りすり潰し、殺し始めたと言うわけである。

ならば、アリスが望むなら全部殺させてあげたい所だ。

資本家の家に出向く。

労働者の死骸が下水に放り捨てられているのに。

炭鉱やら紡績業やらで稼いだ此奴らの屋敷には、唸るほどの金が満ちている。

人間には認識されない結界を展開して、ベリアルとネビロスはアリスを伴って見て回ったが。

思わず頭がくらくらした。

「下水に遺骸をあれほど放り込んで平然として、今も大量の人間を殺戮していながら、なんだこの生活は……!」

「ベリアル、あまり大きな声を出すな」

「分かっている! こんな事を、どうして天界の阿呆どもは許している! 唯一絶対を名乗る神は何をやっている! まさかこれを運命だとかほざくつもりか! 何が光の国だ!」

流石にベリアル自身が手を下してやろうかと思ったが。

此処は抑えなければならない。

手を下す権利があるのはアリスだ。

アリスに、好きにして良いと言う。

アリスは、じっと屋敷を見て回って。そして、ぼそりと言った。

「つまんないこの屋敷」

「つまらない、か」

「うん。 好きにしちゃっていいんだね」

「ああ。 焼き尽くすなり凍らせ尽くすなり、好きにするといい」

天使共が駆けつけてきたら、大立ち回りしてやる。

ロンドンを丸焼きにしてもかまわない。

この街の邪悪さ。

ソドムやらゴモラやらとは比較にもならない。

背徳の街だかなんだか知らないが。

此処に比べれば天国だ。

頷くと、アリスは詠唱を始める。

その内容を聞いて、ベリアルはすっと冷静になった。

ぱんと手を合わせると、アリスは顔を上げる。

ベリアルでもぞくりとするほどの、凄まじい呪いが周囲に溢れ始めていた。

「死んじゃえ」

どんと、凄まじい魔力が迸った。

資本家の一族。

本人達よりも、「血統そのもの」に呪いが掛かるのが分かった。

アリスは思ったよりも遙かに冷静だ。

働かされている使用人達には何の興味も湧かなかったらしい。そして、資本家どものせいで、ロンドンがこうなったと理解しているようだった。

だから、血統そのものに呪いを掛けた。

あまりにも強力な呪いだ。

一族の全員が苦しみ抜いて死に。

その後は地獄に落ちる事になる。

だが、それで良いと思う。

ベリアルは頷くと、他の資本家の所にもアリスを案内する。此処にいる資本家どもは、どいつもこいつも地上に地獄を出現させた悪意の権化だ。

だから、地獄に落ちるように本来は誰かがしなければならなかったのである。

アリスはどの資本家どもにも呪いを掛けていった。

これで子々孫々、全員が地獄に落ちる事になる。

永劫に。

七代先まで、等という生やさしいものではない。永遠に、だ。

だが、それも当然だろう。

こんな地獄を造り出したのだから。

「ロンドンそのものも呪いに包んでしまうか?」

「んーん、いい」

「そうか。 なら、魔界に帰ろう」

「ねえ赤おじさん、黒おじさん」

アリスは、冷たい目でロンドンを見ていた。

何となく分かるのだろう。

自分がどのような目に此処であわされて。

そして遺骸をうち捨てられたかを。

アリスには復讐の権利がある。

英国全てを消し飛ばしても良いだろうと思う。だが、それはアリスが選択する事である。ベリアルやネビロスがどうこう言う事では無い。

「こんな腐った国じゃ無くて、楽しい国に次は行きたいな」

「分かった。 便宜を図ろう」

「うん!」

アリスの笑顔が戻って来た。恐らく、アリスの中でしっかりと過去と決別が出来たのだろう。

それならばベリアルとしても充分に嬉しい。

ネビロスも何度か涙を拭っていた。

それにしても天界の怠慢よ。

尋常ならざる呪いがロンドンを覆ったというのに、天使の一匹も姿を見せない。

四大とか七大とかの幹部級との戦闘すら覚悟していたのに、いささか拍子抜けである。

まあ、天界が真面目に仕事をしていれば、こんな事にはならなかったのだと思うと。天使が出てこないのも納得とは言えた。

どうせ資本家共は、神のことなど信じてもいないだろうし。

これでいいのだろうとも思う。

アリスを伴って、魔界に戻る。

アリスはすっきりした顔をしていて。

それを見るだけで、ベリアルも随分と気分が楽になった。

ネビロスも、随分と気が楽になったようである。

何もかもに良い結末が来たと言える。

そしてそれは神がもたらしたものではなく。悪魔が復讐の結果、もたらした事なのである。

これほどの涜神があるだろうか。

やはりアリスは涜神の権化だなと、ベリアルは思い。

そして満足した。

 

3、独立

 

魔界の者と主に戦っているのは、人間が組織した対魔組織である。

人間の中には、魔界がある混沌の勢力に所属している者もいるのだが。

一方で神やその土地に根付いた対魔組織も勢力を保っていて。

主に悪魔が地上で交戦するのは、天使よりもこれら対魔組織だった。

ソロモン王がそうだったように、古くから人間は主に自分より力が劣る悪魔を行使することで、魔界の悪魔に対抗する事が多く。

近年ではそれもどんどん洗練されてきており。

魔王級の悪魔が遅れを取る事も増えてきていた。

そんな戦いの中、アリスは何度か人間の対魔組織相手に武勲を立てた。

まあ教育をしっかりしているし。

実力も申し分ないのだから当然とは言える。

まだまだ伸びる。

地上で何か作戦があるたびに、ネビロスかベリアルのどちらかがアリスに同行していたが。

そろそろそれも必要なくなるかなと思う程である。

ともかくアリスは呪いの申し子。

そして人間というのは、呪いに対しては抵抗できるように出来ていない。

悪魔などの精神生命体も、破魔という呪いの逆となるような技術にはとても弱かったりするのだが。

人間や天使も、呪いにはとても脆いのだ。

というわけで、アリスは戦闘に出るたびに大暴れし。

小競り合いでアリスが出る事になった土地を呪いで汚染し。

そしてそれが何度か重なった結果。

大魔王に呼び出されることになった。

今回はアリスだけで来させるようにと大魔王からわざわざ連絡が来たので、ネビロスは慌てた。

ベリアルの所に相談に行く。

アリスが寝るのを見計らってから、である。

話はベリアルの所にも来ていたらしい。

ベリアルはネビロスを出迎えると、少し呆れ気味に言う。

「我等にとっては娘以上の存在の晴れ舞台だ。 可とするべきだろう」

「だ、だがもしもアリスが大魔王様の御前で何か不始末をしたら」

「そなたは親ばかが加速しておるな」

「アリスに何かあったらと思うと、私は……」

大きなため息をつくベリアル。

ネビロスは、すっかり親ばかになっているのかも知れない。まあ、それもそうだろうか。

いずれにしても、人間の対魔組織の間では。アリスという魔人がいると既に認知されているようだし。

この間の戦いでは、天使数百体を広域の呪いの術式一発で全て消し飛ばした。

天使の中には上級もいたことを確認済みで。

それだけアリスが次元違いに強くなっていることを意味している。

もうそろそろ独立の時期だ。

それはネビロスも分かっている。

分かっているのだが、少し心配だった。

「アリスは今後も俺たちの茶会に出たいとは言っているだろう。 娘に過干渉する親が一番嫌われるのだぞ」

「……」

「それにアリスは既に魔界に魂が根付き、人間共に恐怖される対象となっている。 仮に戦いに敗れても、魔界で再生するから心配するな」

そう諭されて。

やっと納得する。

それに大魔王は時々手紙を送ってきて、涜神の子はどうだと話を聞いてくれる。

その度にどれだけアリスが才覚を秘めているか、どれだけ活躍をしたかを、ネビロスは懇切丁寧に手紙にしたためる。

しかし、その手紙を書いている様子を見て、アリスが時々生暖かい目でネビロスを見る。

それは気づいていたから、確かに潮時かも知れない。

翌朝、アリスが起きだしてから。

二人でアリスを送る。

アリスは姿こそ変わらないものの、力も知識も前とは比べものにならない。

それでいいではないかと、ベリアルは言う。

ネビロスも何とか納得した。

転移の魔法でアリスが行ってしまう。

牢に入れられた熊のように屋敷の中でネビロスは右往左往するので、ベリアルが茶でもしばこうという。

言われたまま茶を口にするが。

殆ど味がしなかった。

「こんなにまずかったかこの茶葉は……」

「俺もあまり美味しく感じないな」

「ええっ……」

困惑する使用人の悪魔。

ネビロスとベリアルに見つめられて、泣きそうになっているが。

この悪魔が、茶を淹れることに関しては超一流である事をネビロスは知っている。

咳払い。

「いや、そなたに責任は無い。 この茶はいつもと同じ味の筈だ」

「そうだな。 俺たちがちょっと緊張しすぎているだけだ」

「アリス様は、きっとちゃんと受勲を受けて、領地を貰って戻ってくると思います」

「……そうだな」

大魔王が理不尽で、気分次第で人事をするような存在だったら、こうも魔界でカリスマにはなっていない。

アリスにはきちんと武勲に沿ったものを下賜するはずだ。

夕方近くになって、やっとアリスが帰ってくる。

思わず二人で飛び出しそうになったが。

咳払いして、席に着き直す。

なんかちょっと気まずい。

「赤おじさん、黒おじさん。 受勲式、終わったよ」

「おお。 それでアリス。 どうだった」

「ええとね、領地もらった。 お屋敷は、赤おじさんと黒おじさんに頼んで建てて貰うように、だって」

「そうかそうか」

良かった。

さっそく領地の詳細を見せてもらう。

流石に古株悪魔であるベリアルとネビロスの領地の近所では無いが、転移魔術を使えば一瞬だ。

魔界の結構辺境のほう。

周囲を見ると、呪いの術に長けた悪魔の領土がたくさんある。

なるほど、大魔王らしい采配だ。

基本的に魔界では私闘禁止とされている。

このため、どんどん人間の思念に沿って拡がっていく世界にあわせて、大魔王は時々領地を転封し。

仲が悪い悪魔同士が領土争いをしないように工夫しているのだが。

ここしばらくでもそれは同じで。

炎が得意な悪魔同士で領地を隣にしたり。

古くからの友人同士で領地を隣にしたり。

色々と工夫はしているようだ。

「何だか大魔王様、私には呪いという分野を極めてほしいって言っていたよ。 周囲の悪魔の見本になるように、だって」

「そうかそうか」

「まずは屋敷の手配をしなければな」

「むー。 おじさんたち、聞いてる?」

浮ついているのをアリスに怒られて、ちょっとネビロスもベリアルもしょげる。

ともかく、屋敷を準備する必要があるか。

まずは領地を見に行く。

広大な魔界の大半は、荒れ果てた土地ばかりである。

中にはこういう土地を根気よく耕して、見るも美しい花畑に変えた悪魔もいるのだが。

そこに植わっているのは殆どがトリカブトだったりするので、まあ魔界らしいと言えばらしい。

また、豊かな土地に変えた悪魔でも。

そこが悪魔をも襲う凶暴な肉食植物の森だったりして。

まあどこまでいっても魔界なのである。

いずれにしても、豊かな土地にするか、それとも荒野のままでいいのかは。

領主となったアリスの判断次第。

ロンドンでアリスが望むままに手伝ったように。

ネビロスは振る舞うつもりだ。

「それでアリス。 ここをどうしたい?」

「こんな荒れ地やだー。 そうだなあ。 お屋敷はちっちゃくて可愛くていいから、庭園にしたい!」

「庭園か」

「うん! うさぎさんとかくまさんとかいるの!」

熊が彷徨いていたら危険極まりない気がするが。

まあアリスにとっては、それこそ指パッチンで蒸発させられる程度の相手だ。

数百の天使を瞬殺した実力にまで成長しているアリスである。

周辺の領土を持っている悪魔の誰よりも強いし。

ネビロスとベリアルがバックにいることは、どの悪魔も知っている。

悪さをしてくる奴はいないだろう。

アリスが出してきたのは、絵本。

この間、人間世界で戦った。

そこは内乱がずっと続いている国で、地獄のような殺し合いがおきている場所だった。

そんな中、内乱を起こしている勢力の一つが混沌勢力の悪魔を呼び出し。

逆に別の勢力が秩序勢力、つまり天界の軍勢を呼び出したことで。

戦いが魔界にまで波及したのだ。

結果として、紛争の勝者は混沌勢力だったが。

別にだからといってその土地を魔界の植民地に変えることが出来たわけでもなんでもなく。

天使をより多く殺した、というだけで。

満足して魔界に戻るしかなかった。

世界を破壊するとか、世界を魔界にするとか。そんな大げさな紛争ではなかったと言える。

そんな小規模衝突の中。

アリスが死んでいた子供の持っていた絵本を見つけてきたのだ。

子供の魂は既に体から離れてしまっていて。

ネビロスにはどうすることも出来なかった。

あまり豊かそうなみなりの子供ではなかったが。それでも絵本を持てるくらいに、社会は豊かにはなったのだとその時ネビロスは知ったのだ。

その絵本の中には。

美しい庭園が拡がっていて。アリスはコレ良いなあと、何度も読み返していた。

「こんな感じにして!」

「分かった、俺が手配しよう。 お茶会が出来るように広い場所も作ろう」

「うん! お願いね!」

「では私が庭園をデザインできそうな悪魔に声を掛けて来る。 ベリアル、資材を頼めるか」

頷くベリアル。

屋敷についても、小さいので良いという事だった。

内装などについては、後で持ち込めば良い。

アリスの私物はネビロスの屋敷にもベリアルの屋敷にもある。

それらはこれから、順次アリスの屋敷に移していくことになるだろう。

アリスは呪いから産まれた存在だが。

しかしながら、趣味そのものは特に悪くはない。

地上の子供が喜びそうなものは普通に喜ぶ。事実アリスの私室には、かなり可愛いぬいぐるみなどがある。

いずれも地上に出たときに。

死者の持ち物を貰ったものだが。

破損している場合は、どれもネビロスが直した。

アリスには一度ネビロスの屋敷に戻って貰う。そのまま、配下の悪魔に声を掛けて、引っ越しの準備を始める。

なに、資材さえあれば屋敷を建てるのなんて簡単だ。

問題は年相応に気まぐれになって来ているアリスが、屋敷を気に入るかどうか、なのだが。

屋敷にアリスを残すと、ネビロスはすぐに転移魔術で知り合いの悪魔の所に出向く。

建築を得意とする悪魔は結構いる。

そういった悪魔は、人間に呼び出されたとき舐められないように。人間の最先端建築をしっかり勉強していたりする。

神が信仰心で強くなるように。

悪魔は恐れで強くなる。

舐められるのが一番致命的なのだ。

だから、悪魔は舐められないように。場合によっては姿まで変える。

勿論、超がつくほど高位の悪魔になると、あえて相手の油断を誘う姿をしても平気な場合があるが。

それはまたそれである。

ともかく。建築を得意とする悪魔何体かに声を掛けて、すぐに図面を描いて貰う。

アリスが気に入った図面を言い値で買うというと、どの悪魔も大喜びして作業に取りかかってくれた。

まあ数日はかかる。

一度屋敷に戻ると。

ベリアルが、何体かの商売を主体にしている悪魔を呼んで、資材の買い付けを行っていた。

領土の広さ。

庭園を造りたい。

そういう話をすると。

かなりふっかけられそうになっていた。

ベリアルは力は強いのだが、若干性格が雑だ。そのため、どうも商売を得意とする悪魔からはカモと思われているらしい。

ネビロスが間に合って良かった。

ネビロスを見た悪魔達は、途端に強気に出ていたのを切り替え。

ベリアルに対して、物資の良心的な価格を提案しだした。

ネビロスはベリアルほどの力は無いが、こういう作業についてはむしろ得意な方であるので。

商売を得意とする悪魔には、むしろ怖れられている。

いずれにしても商売は全て片がついた。

後は、図面の到着を待つ必要があるが。

その前にやっておく事もある。

「図面はとりあえず三日ほどもあれば出来るだろう」

「うむ。 資材もすぐに届くそうだ」

「後は土地を豊かにする必要があるな。 あの荒れ果てた土地、呪いには丁度良いのだろうが……」

「他の領土から流れてくる呪いについても防ぐ必要がある。 アリスには注意喚起が必要だな」

幾つかまとめておく。

こうやって話をまとめていると、やはり「親」になっているのだとネビロスは苦笑してしまう。

ベリアルだってそれは同じだろう。

同じ事を考えたようで、苦笑していた。

「今後アリスは一軍を任されて、地上に派遣させられたりするのだろうか」

「私が見た所、アリスは遊撃に向いている。 特定の任務をこなすような事は、むしろ他の魔王などが指揮を執る方が良いだろう。 大魔王様はその辺りはしっかり把握しておられるお方だ」

「うむ。 俺はその遊撃の際に、強力な使い手に当たってしまわないか心配でな」

「あの子が負けるような戦いなら、さっさと撤退を決め込むべき場所だろう。 それに任務で戦うのであれば……それは仕方が無い事だ」

それに肉体が消滅しても、魔界でそれほど時間を掛けずに再生する。

もしも悪魔使いに従えられた場合でも。

そいつの寿命が尽きたらおしまいだ。

封印とかされた場合は、流石にネビロスとベリアルで助けに行かなければならないだろうが。

まあその時はその時。

どうせ修羅の世界で生きているのだから。

色々覚悟は出来ている。

一通りまとめが終わった後、アリスを見に行く。

もうアリスは私物をベリアルの屋敷からもネビロスの屋敷からも回収していた。ベッドなどは業者が取りに来るという。

こういった業者は魔界にもいる。

力が弱くて戦えない悪魔は、そうやって生きているのだ。そしてそういった悪魔も労働力として貴重だから、大魔王はしっかりと保護している。

この辺りは、はっきりいって人間の世界より余程上手く出来ている程である。

下準備は終わった事になる。

ならば。後は屋敷を建てるだけだ。

「私のお屋敷が出来たら、おじさん達を最初にお茶会に呼ばないとね」

「そうかそうか」

「うむ……」

「なんだかなあ。 誰かのお嫁に行く訳でもないんだから」

それは分かっているが。

娘が独り立ちするというのは、こんなに寂しいことだったのかと、ネビロスは思った。

ネビロスだって別に子供がいない訳では無い。

今までだって、自分の元を旅だった子供はいた。

人間と同じように子供を作るわけではないが。

それでも、子供はいたのに。

今回は、何が違ったのだろう。

ベリアルも同じようにかなり神経に来ているようだった。とりあえず、業者が来るのを見送った後。

後の事を話す。

最低限の生活物資だけ残したアリスは、別に動揺する事も無く。

静かにしていた。

むしろ、ネビロスとベリアルの方が、不安が大きかったのかも知れない。

 

図面が届いて、アリスが気に入ったものを選ぶ。

何というか、魔界にありそうなちょっと邪悪だけれど可愛い屋敷だ。この辺りは、建築家も分かっていると言うことだろう。

庭園もある。

庭園に植える木々は禍々しいものから、普通に地上にありそうなものまで色々。

動物もいた方が良いと言う事で、下級の悪魔を下働きとして雇うことにした。

現在魔界で流通している金はマッカという。

昔は金で作っていたらしいのだが。

資源が枯渇したこともあって、今はエネルギーそのものを貨幣にしている状態だ。

アリスくらいの魔力を持つ悪魔になると、仕事をする度に大魔王から相当量のマッカが支給される。

それを使って、使用人を雇えば良いだけの事だ。

庭園の管理が得意な悪魔なども探してきて、紹介を済ませておく。

アリスは結構人見知りするタイプだが。

それでも、初見でついと嫌われてしまうような悪魔はいなかった。

それとも、或いは。

アリスの方でも、気を遣ってくれているのかも知れない。

屋敷はすぐに建つ。

人間の世界だと重機だの何だのがいるけれども、此処は魔界だ。魔術で色々と代用出来る。

ましてやアリスは今回新しく領土を貰った、魔界の未来の幹部候補だ。

それなりに仕事が出来る業者が来る。

アリスに、屋敷を建てるお金は此方から立て替えた事は伝える。

今後独立する、最後の祝いだと。

アリスも受け取ってくれた。

最初は服の着方も分からなかった。分かっていたとしても、全て脳が壊れて分からなくなってしまっていた。

それがどんどん成長して。

今では魔界の未来の幹部候補だ。

これほど嬉しい事はあるだろうか。

アリスに下賜された領土へ様子を見に行く。

庭園は七割。屋敷はもう出来ている。

屋敷の中を見て回る。

ちょっと素の姿だと大きすぎるので、「おじさん」の姿で見て回ったが。アリスはご機嫌な様子で。

手を拡げてぱたぱたと走り回って、部屋の中を確認していた。

「此処寝室にする!」

「好きにしなさい。 此処はアリスの家だからな」

「いや、おじさん達が遊びに来たときに使って」

「そうか、ありがとう。 その時は此処を使わせて貰うよ」

屋敷は小さいが、それでも寝室を複数確保するくらいの規模はある。

それにアリスは今後どんどん伸びる悪魔だ。

今後領土が更に増えて、屋敷や庭園を増築することはあるかも知れないが。

ネビロスやベリアルの屋敷に出戻り、と言う事はありえまい。

嬉しそうなアリスが厨房を覗く。

料理が得意な悪魔が複数雇われていて、既に顔見せも済んでいる。

もうアリスは。

魔界における貴族と言える。

地上では貴族とは血統で相続するものらしいが、魔界ではそれはない。

一代だけが基本。

武勲を立てるなりなんなりで、功績を挙げて成り上がるのが基本だ。

地上では貴族制が社会の癌になっているようだが。

魔界では実力による抜擢制が今の時点では上手く行っていて。

アリスは実力でこの座についた。

だから、誰もそれについて文句を言うものはいない。

大魔王にも浮いた噂は一切無いが。

不公正さを避ける為なのかも知れない。

アリスは一通り屋敷を見終わったあと、まだ開いている空き地を見て、うーんとうなる。

まだ増築とかするかも知れないから、空き地は作って置いた方が良いとアドバイスしたのだが。

何か気に入らないのだろうか。

「ねえねえ赤おじさん。 あの辺の土地、ちょっと寂しいね」

「そうだな。 引っ越しで少し出費が嵩んでいるだろうから、武勲を立ててから好きなように改装しなさい。 此処はもうお前の土地で、お前が好きにして良いのだよ」

「うん。 黒おじさんも同じ意見?」

「ああ。 自分で何でも好きにするのが一番だよ」

後は、まだ作っている最中の庭園に出向く。

動物型の悪魔ばかりだが。

アリスは戦闘はかなり荒っぽくやる事が知られているから。まさか主人を侮る事は無いだろう。

アリスはおおとかわあとか声を上げながら、庭園が出来ていく様子を見守っている。

なんだか此処は、魔界に作られた童話の世界のようだ。

だが、似たような傾向の悪魔は他にもいる。

今度、紹介してやっても良いかも知れない。

「まだ埃っぽくてお茶会はできなさそうだね」

「庭園の維持にはそれなりに金も掛かるから、それも気を付けるようにな」

「はーい。 でもお金なら、大魔王様からお給金出てるよ」

「お金は気を付けないと、あっというまに出て行ってしまうから、今はあるというのは安心して良い条件ではないんだよ」

うんうんとアリスは頷く。素直な子である。

ただ、アリスについては報告も受けている。

今でも引率で戦闘に出るのだが。とにかく苛烈な戦闘が目立つという。

だがそれについては、元々呪いの権化。

涜神の化身だ。

だから、仕方が無いのだろうとネビロスは割切っている。

それに荒々しく戦うくらいがなんだ。

今の世界の人間共は、悪魔なんかとっくの昔に邪悪さで上回っている。連中よりはマシだ。

もう屋敷は完成したので、荷物は運び込みを開始する。

更に、ネビロスとベリアルがここに滞在するために、家具も用意してくれるそうだ。

嬉しすぎて涙が出る。

だが、これでアリスは独立したのである。

これ以上構い過ぎると、人間で言う毒親になってしまうだろう。

ベリアルと視線をかわす。

そして、頷いていた。

「では、私とベリアルはそろそろ一度戻るよ」

「あ……うん」

「大丈夫、茶会には来るから。 それと、何かあったら何時でも呼びなさい。 そこが例え天界でも、我等は駆けつけるよ」

「分かった。 信じてるからね」

アリスは、どう思っているのだろうか。

過干渉な親がいなくなったと思ってせいせいしているのだろうか。

それとも、少し寂しいのだろうか。

いずれにしても、もう悪魔として完成しているアリスは。姿はともかくもはや立派に独り立ちしたのだ。

いつまでも甘やかす訳にはいかないだろう。

見送りに来てくれたので、そのまま手を振って、笑顔でアリスの屋敷を後にする。

ネビロスの屋敷に戻ってきて。

大きな溜息が何度も出ていた。

ベリアルもそうだった。

「今日は久々に酒にするか。 アリスがいる間は、出来るだけ興味を持たないように控えていたからな」

「そうだな。 私が秘蔵のを出してこよう」

「なら、俺も秘蔵の干し肉をつまみに出してくるとする」

それぞれ、完璧な連携で動く。

以前も親友として一緒にいたネビロスとベリアルだが。

アリスの世話をして見守る内に、更に連携は深まっていた。

いずれにしても、二人の気持ちは決まっている。

生きている間のあの子に、神は見向きもしなかった。

どれだけ悲惨にすり潰されながら殺されても、何もするどころか。魂を救済しようとすらしなかった。

ネビロスにはそれが分かる。

だから絶対に許さない。

元々悪魔として魔界にあり。大悪魔という立場上天界の者との対立は避けられない存在だが。

それでも絶対に許すわけにはいかない。

ベリアルなどは堕天使扱いされていて最初から恨みがあっただろうが。

ネビロスに関してはそれすらもない。

後付で堕天使にはされたがそれだけ。

昔はただ無能さに苛立ち。

レッテル貼りをしてくる有様に不快感を感じていたが。

今は違う。

天界の連中は明確に敵だ。

今後、天界の連中の味方をする人間も含め。

敵になった場合は徹底的に容赦なく情けを掛けず蹂躙してやる。

酒を出してくると、もうベリアルがつまみを炙り始めていた。

秘蔵の肉がなんのものかと聞いてみたら、なんとマンモスだという。

とはいっても本物ではなく。人間が想像した多数のマンモスの復元図の一つであり。

それゆえに、魔界に細々と生活しているただの空想動物だが。

なお魔界では勿論強い生物には当たらない事もあり。

大魔王が数を管理し。

ごく一部だけ、肉が出回っているそうだ。

そういう意味では美味より珍味が近いのだけれども。

ただベリアルの話だと、かなり味も良いのだとか。

ワインを開けて、飲む。

極上の白だが。

どうしてだろう、あまり味がしないように思えた。

前に飲んだときは、とても美味しかったのに。

ベリアルも、あまり味がしないといった。

「俺たちにはそれぞれ娘もいたのにな。 独立するとき、こんなに悲しかったか?」

「いや、そんな記憶は私にはない。 恐らく悪魔の娘という奴は、最初から完全体で産まれてくるからだろうか」

「いや、アリスもあの姿のまま成長していないぞ」

「姿はそうだが……」

だが最初は何もできなかったアリスは、どんどん成長して行った。

魔術を覚えたし。

魔界の仕組みや、儀礼作法などをどんどん覚えていった。

最初は何も無かった器だったかも知れないが。

今では呪いに関する魔界有数の大家だ。

今後人間世界で天界との紛争があれば、その度に出て行く事になるだろうし。

どんどん力も増していくことだろう。

つまりは、成長する悪魔、ということだ。

勿論成長する悪魔は他にもいるが。

それは人間世界での信仰や恐れによって変化するものであって。自身の努力が実った結果ではない。

都市伝説などの怪異が、とにかく儚いのは。

ブームが過ぎてしまえば、一気に怖がられなくなるからである。

その結果、すぐに弱体化してしまうし。

酷い場合はそのまま忘れ去られて、魔界における最下級の存在。もう名前すら忘れられた、失われた存在と化してしまう。

アリスは違う。

だから、作りあげた事は誇りだし。

今後も強く魔界で生きてほしいとネビロスは願っていた。

それが独立したのだ。

嬉しいはずなのに。

全然嬉しくないのは、なんでなのだろう。

「アリスの領地が落ち着いたら、茶会に呼んでくれるだろう。 その時を待つとしよう、俺の盟友よ」

「ああ、分かっているとも私の盟友」

ワイングラスをあわせて鳴らす。

だけれども、その音は虚しく響くばかり。

ただ、分かっている事はある。

アリスとともに心はある。

今後も何かがあった時には。戦場でともに戦うし。

滅びるときもアリスと一緒だという事だ。

人間よ。

未来を担う存在を最大限まで貶め。

すり潰した挙げ句に下水に捨てた事を後悔するが良い。

あの子は人の災いになる。

混沌の尖兵にして。

最強の涜神の者になるだろう。

その呪いを引き寄せたのは、人間ども。お前達自身だ。悪魔が作り出した存在ではあるが。

そもそも呪いを引き寄せたのは貴様らなのだ。

何が産業革命だか資本主義だか知らないが。その結果お前達は、悪魔よりも低劣な存在になり果てた。

それをいずれ思い知るが良い。

ネビロスはそう思いながら、酒をどんどん出してきて、浴びるように飲んだ。

勿論ベリアルもそれにつきあった。

不思議な事に、どれだけ飲んでも気は大きくならなかったし。

楽しくも無かった。

ただただむなしさと。

悲しさだけが、其処に残っていた。

 

4、不死の子は遊ぶ

 

天界と魔界の紛争地となった東京とかいう街の一角。

人間が既に殆どいなくなった、その不気味な蟻の巣みたいな街。

とにかく大きな街なので、そのほんの一部だけが異変に巻き込まれたらしいけれど。アリスが呼ばれるくらいだから、相応の事件なのだろう。

肩に猫を乗せた悪魔使いと呼ばれる人間が歩いている。

多数の悪魔を連れて歩いているそれは。まだ年若い青年なのに、かなりの手練れに見えた。

だからアリスは、面白そうだと興味を持った。

アリスは人を可能性で見ている。

持っている可能性が面白い場合は、気まぐれで手を貸す事もある。

悪魔使いは基本的に自分より弱い相手しか従えられないから。どいつもこいつも相当に強者である事が多いが。

地上に出るようになった此処百年で、アリスが自分より強い悪魔使いに出会った事はたった七回。

そのうち四回は勝ったが戦って面白かったから、相手を殺さずそのまま引き上げた。自分より強い相手を大物食いするのはアリスの得意分野なのだ。

三回はもっと面白そうだったから声を掛け、一緒に暴れた。

一方的に負けた事は一度もない。

今度のはどうだろう。

なかなかの力を持っているようだが。

従えている悪魔の面子には、アリスと面識があるものも少なくない。

だから、第一印象は悪くない。

ひょいと、路地裏から姿を見せる。

既に足で歩くことは滅多になくなり。

浮遊の魔術を常時使って、浮いている事が多くなった。

気が向いたら、熊のぬいぐるみを抱えている事もあるが。

そのぬいぐるみ自体が、人間を無差別に襲う悪魔だ。

「女の子……何者だ」

「気を付けろライドウ。 尋常では無い呪いの力を感じるぞ」

「……」

猫が喋った。面白いなあとアリスは興味を持つ。観察してみると、どうやら猫にされているようで、正体は人間のようだ。それもまた面白い。この悪魔使いが面白くなかったら、捕まえてペットにしたい。

ライドウと呼ばれた悪魔使いは、学生服を着込んだ青年に見えるが。

腰に帯びている刀は、相当使い込んでいるようだ。

はてライドウ。

どこかで聞いたような。

青年は油断なく構えながら、アリスに応じて来る。

「俺は第十四代目葛葉ライドウ。 この帝都を守る悪魔使いだ。 君は?」

「私はねえ。 貴方たち風にいうと魔人アリスという所かな」

名乗ってくるか。それなら返さなければなるまい。

スカートをつまんで挨拶をするアリスを見て、ライドウは無言で刀に手を掛けていた。

殆どの悪魔使いは、アリスを見るなり銃で撃ってきたり、怯えた顔を浮かべて悪魔をけしかけてきたりする。

はっきりいって弱いのに当たっても面白くないので。

つまらないと思った場合は。

周囲もろとも、呪いの魔術で消し飛ばしてしまう事も多かった。

「聞き覚えがある。 確か報告に何度かある極めて強力な魔人だ。 何人もの手練れが手も足も出ずにやられていると聞いている。 油断するなよライドウ。 魔王級の悪魔と思って対せよ」

「ああ、分かっている」

「アッハ。 お兄さん、私を楽しませてくれる? もしも面白かったら、気が向いたぶんだけ仲間になってあげる。 ああ、仲魔っていうんだっけ」

答えは無言からの抜き打ちだ。

アリスが空間転移して逃れると、即座に拳銃を発砲。連射連射。全て魔術で防ぐが、その時にはかなり高位の僕らしい悪魔が側に迫っていた。

面白い。

これだけの高位の悪魔を手足のように従える悪魔使いだ。

こっちも全力で応じないと失礼に当たるだろう。

アリスは呪いの力を全解放すると。

きゃっきゃっと笑いながら、戦闘に応じていた。

 

地べたに這いつくばったのはいつぶりだろう。少なくとも地上では初めての経験である。魔界では訓練中に何度もあったけれど。

人間相手に負けたのは初めてだ。ボロボロである。

ただ。ライドウという悪魔使いも肩で息をついている。

面白い。実に。

これほど出来る相手だとは思わなかった。

何とか立ち上がると、回復の魔術でおじさん達に貰った服を修復する。次に体。

アリスの体は元々死体だったと聞いている。

だからか、修復はとても簡単。

そんなのよりも、服を修復する方が大事だ。

この服は、アリスが大好きなおじさん達が用意してくれたものなのだから。

普段屋敷で、いつもこの服でいる訳では無いのだけれども。

戦場に出向くときは必ずこの服。

いわば、アリスにとっての戦闘服とも言える。

「報告通りに強いな。 確かに多くの悪魔使いを返り討ちにしたというのも納得がいく」

「ライドウ、とどめは刺せそうか」

「……いや、仲魔にする」

「そうか」

あの喋る猫さんはゴウトというらしい。

まあそれについてはいい。

手をさしのべてくるライドウ。

手袋をしているが、若い見た目の割りに。その手袋は、相当使い込まれている事が分かる。

まだ若いが、歴戦の猛者と言う事だ。

「交渉をしたい。 応じてくれるだろうか」

「ふふーん。 私、高いよ?」

「分かっている。 マグネタイトだったら可能な限り用意しよう」

「おお、太っ腹」

地上でのエネルギーとなる「マグネタイト」は、マッカと並んで悪魔との交渉に用いられる基本的なものだ。

人間にとってかなり貴重な品だと聞くが。

それを可能な限り用意するとは。

この人、なかなか面白い。

さっきから、黒おじさんの視線を感じている。

アリスになんかしたらブッ殺すと、ライドウという面白いお兄さんに殺気を向けているようだけれども。

軽く手を振って、手出し無用と伝える。

それだけで、黒おじさんはすっと引いた。

過干渉してこないのが嬉しい。

他の子供の悪魔と話をする機会が最近は増えたのだが。過干渉してくる親は鬱陶しいだけだという。

そういえばおじさん達は、アリスに対して過干渉をしないように、いつも気を付けていたっけ。

そういう所が大好きだ。

「マグネタイトはあんまりいらないかなあ。 ただお兄さんと一緒に戦って面白ければそれでいいよー」

「変わった条件だな」

「ただ、私が気が向くまで……それだとちょっとあれか。 じゃあ、今のこの紛争が終わるまで手を貸してあげる」

「分かった、それでいい」

なんでもこの事件、魔界でもそれなりに重鎮であるベルゼバブが起こしたものであるらしく。

それをこれからしばき倒しにいくらしい。

帝都東京でベルゼバブと今やりあえそうなのはライドウだけという事で。

丁度動員されたのだそうだ。

一緒に歩きながら、周囲に満ちている呪いをどんどん取り込んで、体を回復させる。

魔界の悪魔の不文律だが。

悪魔使いに使われた場合。元同僚や上司が相手でも、戦うときは恨みっこなしというものがある。

ベルゼバブは何度か顔をあわせたことがあるが、大魔王さまの直属の配下で。フラフラ遊んでいる大魔王さまの行動にいつもおなかを痛くしている苦労人だ。

今回の紛争がどういう理由でおきたのかは分からないけれども。

大魔王さまがけしかけたのか、それとも何かしらの理由でベルゼバブが仕掛けたのか。

どっちにしても、戦うのは楽しみ。

勿論負けたらその時はその時。

恨みっこ無しである。まあ、やられても魔界に戻るだけだから、それでいい。

ベルゼバブのおじさんに、このライドウなら勝てるかも知れないし。

一緒に戦えばとても面白そうだ。

さて、苦労人のおじさんと遊ぶとしよう。

そう、アリスは好戦的な笑みを浮かべていた。

 

(終)