黒井社長の受難

 

序、青天の霹靂

 

黒井祟男は呆然としていた。

芸能事務所、961プロの社長。黒井祟男。

961プロは業界でも中堅以上の力を持つ会社であり、何人かのトップクラスアイドルを抱えている。

黒井は元々芸能プロデューサーだった人物だが。

ある事件で徹底的に他人に対して不信感を持つようになり。

以降は業界屈指の問題児として知られている。

傍若無人、唯我独尊。

そんな黒井社長は、呆然としていた。

今は、会議が終わった直後。普段の会議の筈だった。

それが、どうしてこうなってしまったのか。

もはや、困惑することしかできなかった。

最初に異変が起きたのは、会議で決めるべき事がだいたい終わったタイミングだった。

黒井は他人を信じていない。

だから、会社の役員は殆どイエスマンで固めている。

基本的に黒井にとっては、信用できる者などいないので。

役員なんて、人形として動けるだけの駒で良かった。

手元にいるアイドルも同じだ。

インディーズも含めると、二十万からなるアイドルがしのぎを削る今の時代。そんな時代でも、評判が悪い961プロがやっていけるのは。何人かいるエース級がそれだけ稼いでいるから。

そんなエース級の一人。

そもそも、961プロには日本で活動するときだけ籍を置いている。

世界的に見て、現在間違いなく最高のアイドル。

ランク制度が導入されているこの世界にて。

ランク外。オーバーランクとして唯一扱われている961プロの稼ぎ頭。

玲音が、会議室に入ってきたのである。

玲音は世界的なアイドルと言う事もあり、資産からして違っている。

個人用のジェット機を持っている程の金持ちであり。

その気になればいつでも961プロを抜ける事ができるし、抜けたところで玲音には何の痛手にもならない。

961プロにいるのは、好き勝手できるから。

事実上、黒井と玲音だったら。玲音の方が力関係が強い。

961プロから玲音が抜けた場合。

961プロはそれこそ致命的なダメージを受けるが。

玲音は、346プロをはじめとする業界の超大手が、即座に三つ指突いてうちに来ないかと誘いを掛けに来るだろう。

そういう関係性なのだ。

玲音はレオンと海外で呼ばれる事も多く、その容姿は文字通り獅子のようである。美しい女性だが、その一方で圧倒的な覇気を纏いモデルばりの長身に獅子の鬣を思わせる髪をなびかせる。

生態系の頂点にいると、一目で分かる圧倒的な強者であり。

アイドルでなくてもなんでもやっていけるスペックの持ち主だ。

そんな玲音は力関係を把握しているからか。

激高した場合は黒井の事を呼び捨てにしたりもする。

会議室に玲音が突然来たのを見て、黒井は驚いたが。

役員達は静まりかえっていた。

この時点で、何かおかしいと思うべきだったのかも知れない。

更に言えば、961プロ内で玲音は元々役員以上の発言権を持っていることを思い出すべきだった。

「玲音……今は会議中なのだが?」

困惑する黒井に。玲音は静かに周囲を見回して。顎をしゃくるのだった。

そうして、もう一人が入ってきた。

入ってきたのは、詩花。

現在961プロ所属のアイドルとしては(日本限定で)玲音にかろうじて対抗できる稼ぎ頭。少し前まで玲音、更には亜夜というアイドルと共にディアマントというユニットを組んで、スターリットシーズンという大規模プロジェクトに参加していた。

そのプロジェクトで、961プロ渾身として繰り出したこの三人を打ち負かしたユニットが存在したのだが。それはまあいい。

問題なのは、詩花の本名が黒井詩花という事。

音楽の国オーストリアに暮らしていた、黒井の実の娘だと言う事だ。

詩花は文字通り姫を思わせるような透明な美貌の持ち主で、歌唱力から何から、アイドルのランクで言う最高位に当たる「S」に全く遜色ない実力を有している。二十万からアイドルが存在するこの国で、上位五百人だけが持てる最高の称号「S」。

既に虚名だけになっている「古参」アイドルもいる中。

実力で最高位ランクを名乗るに相応しい実力を詩花は持っているのだ。

961プロで玲音と唯一組めるのは詩花くらい。

それはアイドルに五月蠅い黒井ですら客観的に認める事実であり。

更に言えば、最近では昔のように。黒井の言う事だけを聞く事がなくなってきているのだった。

当たり前といえば当たり前の話で。

最低限の人の心を持っている黒井も、それを咎めるつもりはなかった。

いつまでも親の言いなりの子供なんていないし。

そもそもそれでは、発展性もないのだから。

ただ、会議に乱入してきたことは、流石に困惑する。

今まで明確な悪戯や悪さをする子ではなかったのに。

「詩花まで、どうしたというんだ。 今は会議中……」

「それでは、今回の本当の議題を始めます」

「何っ!」

黒井が振り返ると。

今まで自分の従順な犬に過ぎなかった専務が、不意に立ち上がり。

そして、周囲に宣言していた。

「会議の内容は、社長の引退についてです」

「なんだとっ! 貴様、何を言っているのか分かっているのか!」

「黙れ黒井」

凄まじい冷え込んだ声。

玲音である。

玲音の言葉には、満員になった超巨大スタジアムを一瞬で黙らせるレベルの圧倒的な迫力があった。

黒井がどれだけ頑張っても見つけ出せなかった、最高の素質の持ち主。

世界トップの実力を持つアイドルの名は伊達では無い。

この間のプロジェクトでは、最後まで争ったルミナスというユニットに団体戦では敗退を喫したものの。

個としての実力は、まだまだ間違いなく世界最高。

その場を動かす力も、またしかりなのだ。

「今回の件はアタシが提案した。 詩花も賛成している」

「なん……」

「専務、続けてくれるか」

「はい、分かりました」

思わず席になつく黒井。思考が一瞬で爆ぜ飛んでしまった。

そして、専務が。

恐らく玲音と綿密に打ち合わせを続けていた。本来は自分の犬に過ぎない筈だった男が。

淡々と始めた。

そう、それは社内クーデターである。

完全に、黒井は蒼白になっているのを感じていた。

「黒井社長はアイドルを発見してくる力に関しては、非常に優れたものがあります。 今まで何十人ものSランクや、Aランクまで成長したアイドルを発見してきました。 しかしながら、それを育成するとなると全く話が別です。 此処近年でも、プロジェクトフェアリー、ジュピター、それについこの間弊社から引き抜かれた亜夜さん。 いずれもが、黒井社長。 貴方の手によって離脱したも同然です」

その、通りだ。

誰も理想についてこられなかった。

プロジェクトフェアリー。

今では黒井が最も嫌う男の作った会社、765プロにいる三人のSランクアイドル達だ。いずれも最初は好きかってを吹き込んでいたが、いずれもが色々な理由があって見切りをつけて961プロを出ていった。

ジュピター。男性イケメンアイドル三人組のユニットだ。

此方も黒井が手塩に掛けて育て上げた実力者達だったが。

765プロを潰そうとする過程で黒井が好き勝手に暴れていたことがばれ。

更に激高した黒井の言葉に完全に愛想を尽かし。

961プロを出ていった。

いずれもが、芸能界でやって行くには純粋すぎると961には思えていた。

だから汚い事も含めて、勝ち抜いて行くには必要だと判断していたのだ。

故に汚い事のやり方も教えるつもりだった。そうして、孤高の高みに導こうと思っていた。

自分だって、見て来たからだ。

どれだけこの世界の裏側には。

本気で努力して頑張っているアイドルを貶める下郎がいるか。

アイドルは孤高でなければならない。

そういう姿勢でなければ、簡単に誘惑に引きずられて落ちてしまう。

それが黒井の。

人生を経て得た持論だ。

だが、どうしてもそれが誰にも伝わらない。

「そして最大プロジェクトだったスターリットシーズンでは、詩花さんにも匹敵する実力を持つ所まで成長した亜夜さんをつぶし掛けた。 それどころか、彼女が育ちきった所で引き抜かれてしまった」

それは。

亜夜という奴は、本当に努力を徹底的に重ねることで、トップアイドルになれる奴だった。

才覚は偽物かも知れないが。

努力でその偽物を、本物以上に輝かせることができる存在だった。

だからディアマント(偽物のダイヤモンド)というユニット名にしたのである。

他の二人は、元々超一級の実力者。

だから、亜夜を育て上げる事も兼ね。

生半可な状況に胡座を掻いている、他のユニットなんか蹴散らしていけるはずだったというのに。

蒼白になっている顔を上げると。

今まで自分のポチのフリをしていた専務が。

淡々と読み上げている。

「また、黒井社長には、いわゆるパパラッチとの癒着も話題になっています。 ファンの間では、黒井社長がいなければ961プロはもっと良くなるのにと言う声も、多数上がって来ているのが実情です」

パパラッチ、か。

そうだな。

その通りだ。

何人もパパラッチを飼っている。そいつらを使って、気に入らないアイドルにスキャンダルをでっち上げ。

何人も潰してきた。

それは既に殆ど公然の事実となってもいる。

今の時代は、アイドルの努力が報われる時代だ。

どこも平和で、戦争の気配もない。

有り余った世界の活力が、アイドル文化に注がれている時代。

それが今だ。

70年ほど前には、世界大戦の危機もあったらしいのだが。それは当時の政治家達が努力して回避した。

その結果、世界には活力が溢れ。

努力が報われる、アイドルの輝く時代が訪れたのだ。

だが、それでも後ろ暗いものなんていくらでもある。

黒井自身も、腐りきった芸能事務所や。それで潰されてしまうアイドルは何人も見てきた。

分かっている。

いつの間にか、黒井自身がその腐った存在になり果てていたことも。

だが、孤高であるべきだという考えは真実だとも考えている。

仲良しごっこで。

究極の輝きに何て、たどり着けるものか。

「それでは役員で投票を開始します。 今回は、玲音さん。 詩花さんも役員として投票に参加して貰います」

役員投票。

黒井は。真っ青になって顔を上げた。

どいつも此奴もイエスマンで固めた。

役に立たないから、せめて足を引っ張らないように、である。

だから、どいつもこいつも黒井の言う事だけを聞くはず。

その筈だったのに。

全員が。

どいつもこいつも。

全く迷う事なく、投票を開始していく。

何も迷う事なく書いている事が確実だ。

玲音が、このクーデターを主導したのか。多分それは間違いないだろう。昔から、黒井が「日本でやりたいようにやらせてくれる事には感謝する」とは言っていた。

逆に言えば。

それ以外の事は、全て気にくわなかったと言う事だ。

そして玲音の資金力は、下手をすると961プロそのものを凌ぐ。

筆頭株主になろうと思えば、即座になれるだろう。

そういう存在なのだ。

「賛成22票。 反対0票。 以上にて、黒井社長の……いや黒井祟男の退任を決議します」

ああ。

何もかもが終わった。

しかも、それだけではない。

「続けて、新社長の就任について投票します。 それぞれ相応しいと思う人間を上げて、投票していってください。 ああ、元社長。 貴方も投票して結構ですよ」

専務の名を呼ぶ。

できるだけドスを効かせた声でだ。

「貴様程度にこの会社を廻せると思っているのか……! 貴様のような、ただの犬風情にだ……!」

「……投票を続けます」

専務は何とも思っていないようである。

どいつも此奴も玲音に入れるのか。

玲音はセルフプロデュースをしているレベルのアイドルで、その気になれば遊園地くらい自前の資金で立てられるはず。

961プロなんて中堅上位程度の会社、わざわざ社長になるメリットがない。

そうなると、だ。

誰だ。此奴らは、どうしてこんなに落ち着き払っている。まさか専務か。いや、此奴にそんな器はない。

それを本人も理解している筈だ。

黒井はプロデューサー時代から、それこそ世の中の業を嫌になる程見てきた。

プロデュースを失敗した結果潰れてしまったアイドルもいるし。

見せかけで取り繕った結果。押しつけられたキャラに耐えきれなくなって潰れてしまった者もいた。

いずれも優れた素質の者ばかりだったのに。

手から取りこぼしてきた宝石は計り知れないほどの数だ。

会社内では、黒井は暴君として知られている。

だが、取引先相手では幾らでも卑屈になれるし。

自分の所のアイドルを守るためだったら、頭なんか幾らでも下げて来た。

それを多分此処にいる奴らは。

誰も知らない。

知らないんだ。黒井がどれほど泥を啜って、血の涙を流してきたかなんて。

「投票が終わりました。 それでは開票します」

淡々と、クーデターが続く。

そのまま、開票が開始される。

ホワイトボードが持ってこられる。

そこに書かれた名前を見て、黒井は思わず目を疑っていた。

「黒井詩花。 一票、二票……」

そういう、ことか。

確かに、今の時代元アイドルがプロデューサーに転向することは珍しくも何ともない。会社役員になる事だってある。

黒井自身も数件を知っている。

だが、まさか目の前で。

このような。

確かに詩花は、今の時点でとっくに961プロの役員級の発言力を持っているし、それだけ稼いでもいる。

ディアマントの前に、玲音と汲んでいたユニット。ZWEIGLANZは、今までの961プロのどのユニットよりも稼いだ。

今、961プロが様々な最新技術を取り入れた設備をどんどん導入できているのも。

このユニットが、とんでもなく稼ぎをたたき出したから、である。

そういう意味でも、もはや玲音と詩花の発言力は。

いつの間にか、黒井を越えていた、とも言えた。

「はい、無効票1、残り全票が黒井詩花となります。 以上にて、新社長が決定しました」

拍手が起こる。

誰も、もはや黒井の事を見ていなかった。

更に株主総会での発表についての話に移る。

玲音が目を光らせている様子からして。

余計な事をする役員がいたら、その場で食い殺してやる、という雰囲気だ。

獅子王とも呼ばれる玲音は、その名の通りの気迫を全身から発している。

海外の仕事では散々修羅場もくぐってきているという噂だ。

こんな役員会議なんて、黙らせるのはそれこそ朝飯前だろう。

全てが決まると、皆会議室から出て行く。

詩花が最後まで残っていたが。それも玲音に肩を叩かれると、頷いて出ていった。

黒井は真っ暗になった会議室で、まだ茫然自失としていた。

様々なものに、自分の孤高であるべきだという価値観を押しつけてきた。

それによって、多くの者に去られた。

去られるときは、毎回大きなショックを受けた。

どうして理想が受け入れられない。

孤高であろうとしなければ、いずれ周囲に受けた影響で潰れてしまうのは確定なんだぞ。

何人も潰れてきたアイドルを見て来た。

最初から己を全てとする黒であるくらいが丁度良い。

変なものに染まってそれで持ち崩すくらいなら。

最高の。

頂点の。

孤高の。

机を叩く。すっかり冷え切ったコーヒーが、カップごとダンスしていた。

大きな溜息が漏れた。

何もかもが終わった事を、黒井は悟っていた。

プロデューサーからはじめて、独立してこの会社を作った。

それから、ずっとずっと苦労し続けた。

だが、この結末は。

何処かで間違ってしまったのだろう。

負けたのだ。

そして恐らくだが、今後勝つ事は出来ないだろう。黒井は、もう何もかもが終わった事を悟り。

もう一度、大きな溜息をつくのだった。

 

1、左遷

 

黒井祟男、社長を退任。

今後961プロの社長は、詩花が継ぐことに。

すぐに多数のテレビ局、ネット放送も交えて、会見が行われた。

新社長である詩花は、今までの高圧的な姿勢でアイドルに当たる会社の方針を全て改めることを宣言。

勿論努力については各自が最大限行う事は当然として。

その努力について、科学的見地からの理論的なレッスンを導入し。

なおかつアイドルへのメンタルケアも重視。

そして何よりも。

今までの体勢が間違っていて。

それで苦しめた多くの人々にという形で、詩花は謝罪していた。

それらは、すっかり窶れ果てた黒井祟男も見ていた。

首にはなっていない。

その後、辞令が交付されたのである。

人事に出向、と。

ただし、これは独自部署だ。

黒井祟男という人間は、クーデターの時にも言われたが。アイドルを見つけてくることだけには長けている。

育成は致命的。

だからアイドルを探してこい。

特別人事権を与えた、独自部所。

人事課にある、「発掘局長」という今まで聞いたことがない役職が与えられ。アイドルをスカウトするところまでは好きにして良い、と言う風に言われていた。

社長の仕事の引き継ぎに関しては、一切合切何も言われなかった。

どうやらかなり前から準備が為されていたらしい。

恐らくだが、玲音の所のスタッフが力を貸しているのだろう。

海外ではそもそもセルフプロデュースをしている玲音だ。

この程度の会社を動かすノウハウくらいは持っているし。

それに手慣れた部下も幾らでもいるのだろう。

ぼんやりと、個室でスマホを使って会見を見る黒井元社長。

全ての継承が終わった事を悟り。

後は、もはや何もする事がなかった。

ぼんやりとしながら、そのまま過ごす。

流石に呆然とだってする。

よかれと思ってしてきた事だった。だが、あの後娘にはっきり言われたのだ。

パパは歪んでしまった、と。

ママがどうしてパパに会いたくないっていうようになったか知っているか、と。

困惑した。

黒井は大恋愛の末に、詩花の母と結ばれた。

その時の事については、今でも覚えている。

だが、いつごろからか。妻はとても黒井に冷たくなった。

拒否すると言うよりも、哀しみの目で黒井を見るようになったのだ。

それだけじゃあない。

詩花も、同じだった。

オーストリアから961プロに来てくれたときは、本当に嬉しかったし。

アイドルとして頂点に近い才能を見せてくれたときは、更に嬉しかった。

まさか、最高の原石がこんな所に眠っていた何てと、誰も見ていない所で小躍りしたほどである。

だが、おかしくなったのは。

少し前にあった、ステラステージと呼ばれる大規模プロジェクトの時。

その時に、はっきり言われたのだ。

パパはやっぱりおかしいと。

その頃だろうか。

娘が、黒井の言う事を聞かなくなってきたのは。

以降も961プロに所属はしてくれたが。

父と娘という関係は一切取らず。

あくまで社長と役員クラスの影響力と実力を持つアイドル、という関係をずっと通した。

もう実力も影響力も役員クラスで。

なおかつずっと961プロの収入を支えてくれていた玲音と大親友であった事もある。

もしも娘の。詩花の機嫌を損ねたら、それこそ一巻の終わり。

それを悟っている黒井は、もう何も言うことができなくなった。

そして来るべき時が来てしまった、ということだ。

娘は。詩花は。

ずっと不満を抱え続けていたのだろう。

この間のスターリットシーズンプロジェクトの時だって、黒井の対応を良く想っていなかったのはほぼ間違いない。

そしてユニット、ディアマント解散を機に。

今までの不満を爆発させた、ということなのだろう。

部屋から出る。

誰も黒井と目をあわせようとはしない。

社内では、これ以上無い程高圧的に社員やアイドルに接し。暴君として知られていた黒井だが。

それを、誰も良くは想っていなかったのだろう。

もはや誰も、落ちぶれた黒井に興味を持つことはなかった。

明らかに無視されていた。

街に出る。

日差しがまぶしすぎる。

私は、今まで何をしていたのだろう。

自問自答。

勿論答えなど、帰ってくるわけが無い。

とうとう完全に娘に愛想を尽かされ。会社員全員にも愛想を尽かされ。そして恐らくだが。抱えていたアイドル全員にも愛想を尽かされた。

歩いていると、繁華街の大画面モニタに、この間出ていった亜夜が、アイドル活動をしている様子が映し出されていた。

以前あいつは、売れないアイドルだったのを拾ってきた。

そこで、ある超大物女優から推薦を受け。更には自身も此奴は凄いと思った奥空心白というアイドルとユニットを組ませた。

それが色々あって解散。

その後、ぎらついた目をして。亜夜は凄まじいトレーニングで自分を痛めつけるようになった。

その飢えた目を見て。

黒井は、こいつは使えると思ったのだ。

だからディアマントの一人に抜擢するという、考えられない人事を許可した。

表向きは詩花と玲音の推薦があったから、だが。

もしも亜夜のあのぎらついた目がなければ、絶対にそれでも許可しなかっただろう。

だが、どうだ。

目が澄んでしまっている。

今の亜夜は、奥空心白と一緒に新しいアイドル事務所で活動をしている。

引き抜かれたときには、既に心から鬼は消えていたようだった。

具体的に何があったのかは、黒井は良くは分からない。

ただスターリットシーズンプロジェクトの中盤で、完全に憑き物が落ちたのは事実らしい。

これで終わりだなと、その時は思ったのだ。

どうせ詩花と玲音だけで充分だろうとも。

だが、その後驚くほどに亜夜は動きが良くなり。

今まで以上のスペックを発揮するようになって。最終的にルミナスというユニットに敗れたものの。

何の悔いもない様子で、笑っていた。

澄んだ目と、屈託のない笑顔。

あんな亜夜の笑顔、黒井はそれまで見た事がなかった。

スターリットシーズンプロジェクトの最終決戦は、世界最高ランクのアイドルである玲音が参加していると言う事もあって、世界中から注目されていた。

行われたライブは、文字通り業界経験が長い黒井でも、見た事がないほどの超一流のパフォーマンスによるものだった。

絶対にディアマントが勝つ。

そう信じていたが。

ルミナスのライブを見た後には、呆然とした虚脱感だけが残っていた。

上をいかれた。

更に上を行けば良い。

そう自分に言い聞かせても、虚しいだけだった。

その後に起きた色々なことは、正直今は思い出したくない。

いずれにしても、961プロを抜けた亜夜は、ああして笑っている。

本当に、憑き物が落ちて。

それが、どうしても気にくわなかった。

無言で、街を歩く。

アイドルが二十万からいる今。

いくらでも、アイドルになりたいと思っている奴はいる。

インディーズのアイドルから始めて、Sランクまで上がってきた奴だっているし。

超大物の子息でありながら、全く話にもならずに消えていった奴もいる。

今だって、黒井がしっかり見回せば。

そこそこに使えそうな奴はいるはず。

その筈なのに。

誰も、見つけられる気がしなかった。

もう、自由にできる金だって少ない。

会社の金を横領するような真似はしていないが。それでも社長の時とは給金が全く違うのである。

勿論生活に不自由しない程度の金はあるが。

社用車をはじめとする会社資産は、あらかた取りあげられてしまった。

もう、ぼんやりと安タバコを、喫煙所で吸うしかない。

惨めだった。

一プロデューサーだった時代に戻って来てしまったようだ。

その頃はまだ若かった。

だが、もう若さは体にはない。

無理をして強い酒を飲むこともあるが。

それも無理をして、だ。

昔のようには飲めない。

もう肝臓が、昔ほど強くはないからである。

何もかもリセットされてしまった今は。もはや、残っているのは、理想全てを失ったがらくただけ。

でも、自分も。

ひょっとしたら、今まで手塩に掛けてきたアイドル達を。

こういう目にあわせていたのではあるまいか。

ひそひそ声が聞こえる。

「あれ、まさか黒井祟男じゃないのか……?」

「い、いやまさかな。 会社が娘に乗っ取られたって話は聞いたが……」

「そうだよな。 流石になあ……」

立ち上がると、話をしていた奴らは露骨に視線をそらす。

そうだ、私が黒井祟男だ。

そう宣言してやっても良かったが。

ばかばかしいので止めた。

その場を離れる。

もう、人目につくところは。

あらゆる場所が、黒井を拒絶しているのかも知れなかった。

 

夜になるまで、随分と。

随分と、時間が掛かるように思った。

財布の中身が軽くなっている。

カードなども、以前は相当な高級カードだったのが。全て取りあげられてしまった。

しばらくは資産の動きは全て監視させて貰います。

そう詩花に言われたときは、頭が真っ白になっていて。何も言い返すことができなかった。

仮にカードをくすねていても。

全て停止されてしまっていただろう。

だから、何の意味もない。

黒井祟男の資産は、今や安月給のヒラサラリーマン程度しかない。

これでも、まだ許して貰って言えるというべきなのだろうか。

いつも行っていた高級バーは入れそうにない。

しばらく考えてから。

ずっと昔。

プロデューサー時代。

今はもはや怨敵と考えている高木。765プロの社長である高木順二朗と、関係が破綻する前。

通っていた、居酒屋に足を運んでいた。

ここに来るのも久しぶりだな。そう思う。

あの頃は、若かった。

一緒にプロデュースしたアイドルもいた。だが、そのアイドルの関係でのごたごたが。周囲に揃って「歪んでいる」と言われる考え方を造ってしまったのかも知れない。

以降、高木に対しては徹底的に攻撃的になり。

奴が社長をしている765プロには徹底的に攻撃を繰り返したが。

それらの全てが上手く行かず。

やがていつの間にか、どんなことをして見せても高木は寂しそうに笑うだけになったのだった。

あれも良く考えて見れば。

黒井の事を哀れんでいたのかも知れない。

適当に注文を見ていると。

すっかり老人になった居酒屋の主人が。声を掛けていた。

「あんた、久しぶりだね。 もう二十年くらいかい?」

「……そうだな。 そうかも知れない」

「随分と何というか、疲れているようだね」

「……ああ」

この人は、本当に困っているときに、ツケで飲ませてくれたり。

色々と世話になった人だ。

だから、高圧的に他人に接することが癖になってしまった今の黒井でも、暴言を吐く気にはなれなかった。

そういえばこの店主は妻と一緒に仕事をしていたような気がするのだが。

その姿が見えない。

「もうこの店は俺一人だけだよ。 娘は独立してるし、俺が死んだらこの店も終わりかもしれないな」

「そうか、すまないな」

「前に、いつも飲んでいた奴でいいかい?」

「ありがとう。 覚えていてくれたのなら、それにしてくれ」

頷くと、居酒屋の主人は奧に引っ込む。

此処で昔は、高木と熱燗をよく飲んだ。

勿論高い酒では無かったけれど、とにかく夢を語り合うには良かった。

主人も声を掛けて来ることは滅多になかったのだけれども。

それでも、相応に世話を焼いてくれたし。

つまみなどをサービスしてくれることもあった。

会社を興して、しばらくして収入が安定した後。

ツケなども全てまとめて払いにいった。

その時に、頑張るんだよと主人は応援してくれた。既に心が歪み始めていたのだろう黒井だったけれども。

素直にその時は、頭を下げて。

本当にお世話になりましたと、礼を言う事が出来ていた。

まさか戻ってくるとはな。

悲しいな。

そう思いながら、熱燗を口にする。

色々な事があったけれど。

結局の所、何もかもが間違っていたのだろうか。

しばらく無心に飲むが。

いつも大好きだったホッケを食べていて。以前の半分も、酒も食べ物も胃が受けつけなくなっていることに気付いてしまった。

しかも居酒屋の主人は、それを見越して酒もつまみも出してくれていた。

嗚呼。

嘆きの声が漏れる。

無言で眼鏡を外すと、黒井は何度か目を拭っていた。

玲音が別に冷酷だったわけじゃあない。

詩花だってそうだ。

恐ろしい程時間がありあまるようになったので、社長就任会見の全文を見た。

その時に、詩花がこういうことを言っていた。

今までは、961プロは孤高を目指す精神の強要をしていました。多くのアイドルが実力を開花させる前に潰されていました。

事実、他の事務所で今Sランクにまで成長しているようなアイドルが、961プロ時代は全く芽が出なかったことなんて幾らでも例があります。

今後はそれを全て変えるつもりでいます。

私はアイドルと言う文化を愛しています。

それは悪魔が喜ぶようなものではあってはいけないとも思います。

才能と努力が噛み合って、実力のあるアイドルが更に高みを目指すには。

今までの、孤高を強要するやり方は、絶対に間違っています。

そう、詩花は。

今まで黒井が積み重ねてきた人生観を一蹴したのだった。

玲音も、時々不満を口にすることがあった。

黒井、と凄まじい気迫のこもった声で。そういうときは黒井の事を呼んだ。

獅子どころか、獅子王の威厳を持つ玲音だ。

そういうときは、修羅場を見て来た黒井ですら背筋に寒いものが通ったものだ。

玲音も、アイドルと言う文化を愛しているのは一緒。

彼奴の場合は、更なる強敵を求めて君臨する獅子王という雰囲気だったが。

空気が真逆の詩花と気があうのも、実力がある程度あったから、なのだろう。

そして孤高の極限にいるような玲音ですら。

黒井のやり方は間違っていると判断した。

恐らく利害が詩花と一致したのだ。

仲間とも思えるアイドルを潰すやり方を止めさせようと思ったのが詩花。

最強の、自分すら脅かすアイドルが出現するのを見たがっているのが玲音。

二人の考えが一致し。

下手な役員よりも影響力があり、社内での発言権も強い二人が結託した結果。

961プロは乗っ取られたのである。

酒はもう入らない。

つまみもこれ以上食べられないだろう。

呆然と席に着いている黒井に。

主人は言うのだった。

「そろそろ店を閉めるよ。 金は払えるかい?」

「ああ、それは問題ない……」

「何があったかは聞かない。 だが、いつでもまたおいで。 俺が生きている間は、相手をするよ」

「すまない」

この人には、素直に頭を下げることができる。

黒井が年老いたように。

この主人も、すっかりはげ上がってしまっている。

だが、料理と酒に関する妥協のない姿勢については、まったく変わっていない様子だった。

じっさいさっきのホッケは、値段の割りには信じられないような味だった。

勿論原材料が知れているから、味はどうしても上限がある。

それでも、舌が肥えている黒井にとっても、充分過ぎる程においしいものだった。

店を出ると、ふらふらと最寄り駅に。

そのまま、電車で家に帰る。

今まで住んでいた高級社宅は追い出され。

今は新しく契約されたアパートに住む事になっている。

なお高級社宅はそのまま潰される予定だそうだ。

金の無駄、と玲音が連れてきたスタッフが判断したらしい。潰すと言っても家を壊すわけでは無く、単に売り払うつもりのようだが。

アパートは。恐ろしい程、プロデューサー時代に住んでいたものに似ていた。

貧しくて。

わびしい。すきま風が吹き込みそうな雰囲気だ。

恐らくだが、これでも詩花は妥協してくれた方なのだろう。

大きな溜息がもれた。

途中で、会社に連絡を入れていく。

この時間でも、普通に仕事をしている社員がいるのが芸能事務所だが。

詩花はそれすら改革するつもりらしく。

AIによる自動応答システムなどを使って、社員の負担を減らすつもりらしい。

そういう話は、既に聞かされていた。

なお、対応に当たった受付の声は冷え切っていた。

そう、どうぞご勝手に。

そんな雰囲気だった。

今まで散々高圧的に、理不尽な言葉を浴びせてきた相手である。そういう風に返されるのも当たり前なのかも知れない。

布団を自分で敷く。

これもまた、随分と労力が掛かった。

妻はオーストリアに今もいる。

結婚して詩花が産まれて以降、妻以外の女には触った事もない。

妻もそれは同じで、浮気なんて絶対に考えないだろう。

それについては絶対の確信があるのに。

同時に、夫婦の仲がもう戻る事がない事についても。

絶対の確信があるのだった。

私は、多くの人を不幸にしてきたのだろうか。

そう布団に潜り込むと、黒井は思う。

961プロを抜けていったアイドル達は、それぞれみんな立派に成長している。プロジェクトフェアリーは、あまり考えたくないが。765プロに移ってからは。水を得た魚のように努力を続け、今では全員がSランクの上位くらいにいる。

ジュピターは現在男性アイドルユニットとして中堅所の事務所にいて、若干Sランクには届かないものの、もう少しという所だ。

亜夜は奧空心白と一緒に組んでいるユニットが非常に好調である。

まあそれもそうだろう。

あのスターリットシーズンプロジェクトのサプライズで、トリを飾ったのだ。

それは知名度だって爆上がりになる。

多分Sランクに近いうちに食い込んでくるだろう。

昔の知名度でぬくぬくとしていただけのアイドルが転落して。実力でのし上がってきたアイドルが代わりにSランクの至上の座につく。

それだけは、ごく健全な事だと思う。

黒井は思う。自分についても、そうだったのかも知れない、と。

いずれにしても、もう眠ろう。今日は、これ以上考えてもどうしようもない。

何をするにしても、もう何もできそうになかった。

 

2、へし折られたものは

 

規定通りの時間に出社する。

つい癖で、気にくわない動きをしている社員を怒鳴りつけそうになったり。アイドルのレッスンを見に行こうとしかけたが。

もう自分はそんな立場では無い、という事を思い出し。

自室に戻るのだった。

自室にいてもやる事はない。

アイドルを探すには、足を使って彼方此方を回るに限る。

そう判断するも。やはり体が重い。

すっかり腐っていると、ドアがノックされる。

声を荒げそうになったが、咳払い。

すっかり心が折られてしまっている。昔だったら、大暴れしたり。少なくとも罵声を浴びせかけていただろう。

「誰でも好きに入ってくるといい」

「そうか、それでは失礼させていただく」

「貴様は……!」

ドアを開けて入ってきたのは、765プロのトッププロデューサーだ。

この間のスターリットシーズンプロジェクトでは、ルミナスという29人ものユニットを見事にまとめ上げた。それ以前にも、765プロの所属アイドル13人を不動のSランクに押し上げている。

流石にルミナスは5人ほどのプロデューサーで面倒を見ていたようだが、それにしても恐らく現時点で業界一の傑物プロデューサーだろう。

世代が上になってくると更に伝説的な人物もいるのだが。此奴の実力は、悔しいが黒井も認めていた。

女性プロデューサーであり、アイドルとしての才能だけがないと公言している。他はそれこそ何でもできるそうだ。

なお東大を主席卒業している。黒井だってこの業界に入るのに、そこそこ良い大学は通ったし。プロデューサーの中には、トップクラスの大学出も他にいる。アイドルにさえいる。

中にはとてもそうとは思えない力量の者も。要するに裏口入学でもしたのでは無いかと思わせる者もいるが。

しかしながら此奴は実家が太いわけでもないらしいので。

恐らく搦め手の類は一切使っていないだろう。

小柄な女だ。

確かに本人が言う通り、アイドルとしての才覚はないと黒井も断言できる。

なんというか、オーラがないのである。

ダンスや歌唱、知識など。

アイドル業界に長くいる黒井でも、いずれも瞠目させられる技術を持っていることは、以前子飼いのパパラッチに偵察させて知った。

いずれにしても、前だったら皮肉を言ったり悪口を言ったりしただろうが。

今は全て萎えてしまっていて。

それどころではなかった。

「私を笑いに来たのか」

「そんな悪趣味なことはしない」

「ならば……!」

「貴方が理解されにくいなりに、アイドルについて真剣に向き合っていることは以前の話で分かっていた」

以前の話。

そういえば、確かスターリットシーズンプロジェクトの途中。ディアマントとルミナスがそれぞれ温泉宿でかちあった事があったっけ。

その時に高木と久しぶりに此奴を交えて飲んで。持論を語ったような気がする。

「それだけをいいに来たのか……」

「いや、今日は様子を見に来たのもあるが、引率もある」

「引率だと……」

「貴方が原因でこの事務所を出て行ったが、状況が変わって戻りたいと思った者。 詩花や玲音が声を掛けて復帰を呼びかけた者達だ。 数人が困り果てた末に、私に連絡をしにきた」

うめき声が漏れる。

他の事務所にも、此奴が業界随一の豪腕である事は知られていると聞いていた。

それに詩花や玲音も、此奴に対して信頼と興味を持っていることも。

だから協力を仰いだのだろう。

本当に、もはやどうしようもないところまで、事態は黒井の手を離れてしまっている。それはよく分かった。

「後は精神論や根性論でレッスンをしないように、私が引率してきたアイドル達のリハビリと初期の訓練を見たら帰る。 流石に貴方が見つけてきたアイドル達だな。 素質は非常に高くて驚いている」

「皮肉のつもりか!」

「皮肉を言う理由がない」

「……」

そうだ。

此奴はそういう奴だった。

酒の席で四流プロデューサーと呼んでも顔色一つ変えなかったし。

話をふると、生真面目に持論を口にした。

流石に手の内まで明かすことは無かったが。

それでも、根性論や精神論を廃止し、丁寧にアイドル達の面倒を見ていることは話してきたし。

その合理的でなおかつ長所を伸ばすやり方には、酒の席では鼻で笑っているように見せたが。

実際にはそんな方法で彼処まで短期間で誰も担当アイドルを取りこぼさずSランクまで育て上げたのかという驚きもあった。勿論表には出さなかったが。

一人も脱落させない。それが如何に超人的な手腕かは、黒井自身も分かっていた。

「いずれにしても貴方は人材発掘に徹する方が良いと思う。 貴方が発見したアイドル達は、皆原石と言って良い者達ばかりだ」

「それは……私も分かっている」

「以降はもう貴方の手を離れた娘と、その盟友に任せるんだな。 子はいつか親の下を離れるものだ。 貴方は意図的に厳しい場に自らを置いてきた。 それならば、こう言う形で親離れされるのも、仕方が無い事だろう」

ぐうの音も出ない。

やがて、失礼するといって、765プロのプロデューサー。いや現在はトッププロデューサーか。

奴は黒井の部屋を出て行った。

黒井の与えられた部屋には何も無い。実務は何もできないように、だ。

現金を含め、何もかもを取りあげられてしまった。パソコンはあるが、社内用のイントラネットにしかつながらない仕様だ。

だから、余計に虚無を感じた。

しばらく呆然とする。

本当にあいつ、嫌みは何も言わなかった。

思えば、顔を合わせる度に痛烈な嫌みを浴びせてやったが、それに対して何も思うところはないようだった。

だとすると、とんでもない怪物なのかも知れない。

正論を聞く事が出来ない奴はいる。

特に最近は、正論そのものを悪として処理したがる奴も珍しく無い。

モラハラとかいうのだったか。

正論は正しいから正論なのだ。

それは黒井だって分かっている事である。

だが、それを聞けなくなってきたのは、いつ頃からだろうか。

彼奴は。765プロの筆頭プロデューサーは、聞く事が出来る。今後も恐らくはずっと聞く事が出来るだろう。

そういう奴だ。

大きな溜息が漏れた。

しばし躊躇った後。

新社長の。詩花の所に通話を入れる。

秘書が出た。

「詩花は今何をしている」

「社長は今、アイドル達のレッスンを見ています」

「私も見学したい」

「……しばしお待ちを」

秘書は比較的黒井に態度が柔らかいな。

そういえば、詩花の秘書になった人間は。黒井が業務をできるように仕込んだ人物で。他の役員と違って、イエスマンに育てたわけではなかったな。

側で厳しい言葉ばかり掛けて、暴君として振る舞う黒井だけではなく。

プロデューサー時代に培った技術を仕込んだ人物だった。

だから、或いは黒井の事を。

他の社員ほどは、嫌っていないのかも知れない。

やがて返事が来る。

全て録画しているので、後でそれを見て欲しい、ということだった。

しばらく黙り込んでから、分かったと返す。

まあ、それもそうなのかも知れない。

今レッスンしているのは、黒井のせいで961プロを出て行く事になったようなアイドル達ばかりである。

中には数年間、業界から離れていた者だっているだろう。

そんな者達が、黒井の顔を見たらどうなるか。

それは誰でも想像ができる。

だから其処に黒井は立ち会ってはいけないのだ。

しばらく、無為の時間を過ごす。

やがて、詩花からメールが来た。

「パパ。 みんな生き生きとレッスンしていました。 見てあげてください」

それだけだ。

パソコンを通じて、動画を見る。

玲音はいない。

恐らく仕事に出ているのだろう。

詩花もレッスンに参加したのは最初だけだった。

何人か見学している961プロのプロデューサー達も、かなり一線級として使っていた者と顔ぶれが変わっている。

今まで冷遇していた考えが甘い奴らを抜擢し直し。

黒井のイエスマンだったプロデューサーは、根こそぎ再教育に回したらしい。

この辺りは詩花の、黒井譲りの容赦なさを感じさせる。

昔は黒井が自分でアイドル全員の面倒を見てきたのだが。最近は年齢による衰えもあって、妥協するようになりはじめていた。その結果、結局プロデューサーを使うようになったのだが。そいつらもイエスマンとして育て。反発する奴は冷遇した。

それらも間違っていると、詩花は判断したのだろう。

更に、面倒を見ているのは765プロのトッププロデューサーだ。

これには、流石に集められた連中にも困惑顔が出ていたが。

すぐにそれもなくなった。

まずは体力の測定から開始する。

鈍っている奴もいるから、かなり数値はばらつくが。手元にあるメモ帳を使いつつ、丁寧に何かのデータを取っている。

最近では961プロでもAIによる測定システムを利用しているのだが、そんなものを使うのはまどろっこしいというのだろう。

そのままさくさくと復帰レッスンを進めていく。

驚いたのは、全員のことを、名前も経歴も含めて765プロのトッププロデューサーが把握している事だ。

噂に聞いたところによると、IQ200くらいあるとかもっとあるとかだとかで。頭の中に擬似的に大型のホワイトボードを作って、それに書き込んだ事をいつでも好きなように思い出せるとか。

日本でSランクに一度でも上がったアイドルは全員把握しているとか。

現役でBランク以上のアイドルは全員経歴と名前を把握しているとか。

そういうのがあるが。

あながち嘘ではないらしい。

それぞれに、細かく話を聞いて。丁寧にレッスンの指導をしている。

更に自分で手本を見せているが、それこそトンボを切るのも余裕、という身体能力だ。あらゆるダンスをプロ以上の技量でこなし、七カ国語以上を操るとか。

体力でもフルマラソンを涼しい顔でこなすと聞いていたが。噂以上の化け物である。

歌唱力も文字通り完璧。

声質に致命的な問題があるが、それ以外の歌唱力は文字通り完璧であり。テクニックという点では伝説になっているようなアイドル達でも及ぶかどうか。

すぐにその実力を理解したのだろう。

復帰したものや。他の零細事務所で辛酸を舐めていた元961プロのアイドル達は、それで即座に一念発起。

こんな高品質のレッスンなんて滅多に受けられないだろうと判断したのだろう。

すぐに、心を掴まれ。

レッスンを真剣にやり始めていた。

更にトレーニングのメニューについて、全員分をその場で書き起こし、手渡している。

凄まじい。

どうすれば伸びるか、一瞬で見抜いたと言う事だ。

此奴があっと言う間に13人のアイドルを高みであるランクSに導いたのも頷ける話だ。

確かにこれだけの事が出来るのなら。

玲音と同じ。

生態系の頂点たる圧倒的余裕が生じる事だろう。

そうすれば、これだけ丁寧なレッスンを、余裕を持って出来るというわけだ。

ここまで、と声を掛ける。

レッスンもう終わりかと、汗だくになっている者も、皆がっつくように見ている中。

咳払いすると、一人ずつに丁寧に今後の指針を話していく765プロのトッププロデューサー。

いずれもが、それぞれの強みをどう伸ばしていくか。

弱みをどう補強するか。

嘘偽りない、本当に素晴らしいアドバイスばかりだった。

黒井は思わず、無言になっていた。

これは、負けたのも仕方が無いかも知れない。

ぐっと、思わず声を飲み込んでいた。

机を叩きたくなった。

こんな怪物を侮っていたのか。

文字通り火薬庫の側で花火で遊んでいたようなものではないか。

最後に、皆の真剣な視線の先で、765プロのトッププロデューサーは言うのだった。

「私はこの余裕のある時代に産まれたアイドルと言う文化を心の底から愛している。 それは、この文化が美しいからだ。 もしも70年前だかに、各国の努力が上手く行かずに世界大戦が起きたりしたら。 これほどの美しく花咲くアイドル文化が産まれなかったのは確定だろう。 仮に産まれていても、醜い利権と著しく非人道的な労働が絡むろくでもない代物になっていた筈だ」

そうだな。

私が見て来たろくでもない連中が、のさばるような場所になっていただろう。

黒井は憮然と話を聞くしかない。

今は頭が冷静になっていて。

正論を聞けるようになっていた。

「だからこそ、この光り輝く場所を私は守りたいし、育てていきたい。 それには一人だけが輝くのでは駄目で、常にライバルが必要だ。 961プロに研修指導に来たのも、それが理由だ。 君達は是非我が765プロの精鋭達を越える勢いで。 そして君臨するオーバーランクの玲音と、社長を兼ねて現在最もホットなアイドルとなっている詩花を越えるつもりで頑張ってほしい。 そうすることで、業界そのものの熱量が上がる。 不正で熱量は上がらない。 正々堂々勝負してこそ業界の熱量が上がる。 それは皆、覚えておいてほしい」

「はいっ!」

最初は嫌疑の視線さえ向けていたアイドル達が。

961プロを出ていくときは、死んだ魚のような目になっていたアイドル達が。

一斉に765プロのトッププロデューサーに答えていた。

くつくつと、笑い声が漏れてきた。

そうか、これほどのレベルだったのか。

だったら現在世界最高の実力を誇る玲音が面白がる。

詩花だって信頼する。

明らかに、プロデューサー時代の黒井を越えている。

高木ですら、あらゆる点で全盛期の自身を越えていると認めているだろう。なるほど、全権をぽんと渡すわけだ。

それも納得いった。

しばらくして、詩花からメールが来る。

「パパ。 動画はみてくれた? もしも見て何か思うところがあるのだったら、明日からは真面目に新人発掘をしてほしいの。 パパは正直な話、今は歪んでしまっているだけで、ちゃんと人を見る目はあると思っています。 だから、アイドルを今も愛しているのであれば。 自分にできる一番得意なことをしてください」

溜息が漏れる。

そうか、そうだな。

黒井も、人を見る目だけは自信があったつもりだ。

事実多くのアイドルを発掘するのに成功した。

だが、その殆どを潰してしまったし、逃げられてしまった。

今回戻って来てくれたのは、多分潰して逃がした人間のごく一部だろう。

多くは断られたに違いない。

それでも、あいつの。765プロのトッププロデューサーの言葉は事実だったし。心にも響いた。

業界そのものを盛り上げるには。

熱量を上げるしかない。

確かに、不正をしていては、熱量を上げることはできないだろう。

それに、無理を押しつけていたら潰れてしまうのは。

黒井がこうなる前から、知っていたことではなかったのか。

何人かの、無能なプロデューサーに潰されてしまったアイドルの事が脳裏によぎる。

黒井と高木の夢を潰してしまったアイドルもいた。

後から事情は聞いたが、それでもずっともやもやは消えなかった。

今、現実を見せつけられて。

何もかもが、どうでも良くなった気がする。

大きくため息をつくと、頭を振る。

そして、詩花にメールを入れていた。

「明日からは、外回りを中心とする。 今まで以上の才覚の持ち主を見つけてみせるから、覚悟しておけ」

そうメールで送ってから。

何を覚悟するのかと思って、苦笑してしまったが。

これでいいと思う。

黒井は黒井だ。

確かに歪んでしまったかも知れないが。それでも、自分なりのやりかたは、この数十年で確立した。

今から変わるのは無理だろう。

それでも、このままやられっぱなしでなるものか。

思えば、黒井が育てたアイドルが。

そのままSランクの高みに上がった事はあったか。

運良く玲音が日本にいる間は961プロにいる事を認めてくれた事。

地力でSランク相当の実力になった詩花が、来てくれた事。

この二つのラッキーがなければ、せいぜい中堅の悪徳事務所として、今も苦労を続けていただろう。

この会社が大きくなったのは。

黒井の手腕のおかげでは無いのだ。

ならば、そこから立ち返り。

少しずつ、自分の心を取り戻していくべきだろう。

黒井だって、この間のスターリットシーズンプロジェクトの結末には、思うところがあったのだ。

この業界を愛していなければ。

あんな感情は出てくる事はなかっただろう。

そして幸いにも。

どちらかというと、アイドル業界は健全に回っている。

悪辣な連中が何かに排除されたかのようであるほどに。

そんな悪辣な輩に、黒井はもう少しで、何もかも染まるところだったのかも知れない。

とにかくだ。

今、零細事務所にいるアイドルの様子を確認する。

引き抜けそうならば、提案書を作る。

それなりに使えそうな奴を、街に出て探す。

今の時代、アイドル志望の人間など幾らでもいる。

別に容姿が抜群に優れていなくても、幾らでもどうにでもなる。

正直個性の方が重要だ。

このままやられっぱなしでいるのは、性にあわない。

一矢でも報いてやる。

その報い方は、社長に返り咲くとか。

そういうやり方では無い。

元プロデューサーとして。

歪んでいるとは言えこの業界を愛している人間として。

別の方法がある筈だった。

定時で会社を上がる。

いつぶりだろう。いつも夜中まで仕事をしていたからな。そう思いながら、居酒屋に出向く。

当面はまともな金を動かせないし、手元にもない。

飲むつもりなら、ここくらいしかない。

頭がすっかりはげ上がっている主人は、また無言で料理やらを出してくれた。

今日はホタテのホイル焼きか。

これは美味しそうだ。

熱燗も出してくれる。

バーで浴びるように飲んでいた高級酒なんかよりも。こっちの方が、遙かに美味しいのは明らかだった。

「ずっと顔色が良くなっているね。 何かあったのかい」

「……そうだな。 まだ全てでは無いが、冷や水を被ったのかも知れない」

「そうかい。 それは良かったね。 悪い方向に戻らずに、そのまま良い方向に行こうと考えな」

「貴方には何度も世話になった。 だが、多分当分はこないと思う。 だから言わせてくれ。 ありがとう」

主人は頷くと、店の奥に引っ込む。

この様子だと、あと10年、この店が続いているかは分からないだろう。

詩花と一緒に飲みに来たかったが。

それも難しいかも知れない。

適当に酒も飯も切り上げると。

そのままアパートに戻る事にする。

なんとわびしい場所だとこの間は思ったのだけれど。

今は考えが違っていた。

一からやり直すために。

此処が準備されたのだ。

だから、此処でもういい。

此処から、何もかも一からやり直そう。

思い上がっていた自分は、詩花や玲音に叩き直された。

勿論すぐに人間なんて変わることが出来るはずがない。そんな事は嫌になる程よく分かっている。

例えば黒井が今すぐ社長に復帰したら。

どうせまた、悪事に手を染めるだろう。

それはもう、どうしようもないことであり。

自分でも分かりきってしまっているのだ。

だから、そうしないためにも。

黒井はこのわびしいアパートから、再起の一歩を踏み出さなければならないのである。

詩花が玲音が提案しただろう荒療治に乗ったのも。

黒井と大恋愛した母から。昔の黒井の事を聞いていたからかも知れないのだから。

驚くほど、ぐっすり眠れた。

最近は不眠気味で、睡眠障害用の薬を処方して貰っていたほどなのだが。

そして、朝は随分とすっきり目が覚めた。

何か、悪い夢をずっと見ていたようだ。

勿論、すぐに元になど戻れない。

黒井の中に染みついた黒は、もう黒井そのものとなってしまっている。

だから、このやり方で。間違っていた所は改めつつ。

勝つ方法を、考えて行かなければならない。

良い刺激を貰った。

だが、そんな刺激を私に与えた事を後悔させてやる。

そう黒井は考えていた。

 

3、復帰への長い道

 

黒井は早速コネを使って、翌日から足を使っての仕事を始めた。

今まで作ってきたコネは幾つもあるが。

ただ、関係があったパパラッチは、会いに来た黒井を見て心配そうにした。

こじゃれた喫茶店で顔を合わせたパパラッチは。困惑していた。

「大丈夫なんですか黒井の旦那。 あんた、娘さんにやりたい放題を責められて……」

「ああ、それは事実だ。 だが人脈は人脈だ。 誰かを貶めるためではなく、お前の人脈を活用したい。 その代わり、見返りもきちんと出そう」

「見返りって……貴方社長でもなくなったんだろう」

「うちのアイドルの取材をさせてやる。 勿論くだらん記事なんか書いたら、一発で出禁だがな」

そういって、詩花が出してきた契約書を見せてやる。

それをパパラッチは食い入るように見やる。

この、報道という業界の最底辺にいた男にとっては。

それこそ文字通り、チャンスだったろうから。

「お前も元々は、この業界で輝くようなアイドルの軌跡を追いたかった一人だろう。 この好機に食いつかなくていいのか?」

「……話を、聞かせていただきやしょう」

「ああ」

黒井は順番に話を聞く。

前から目をつけていた、零細事務所のアイドル。

素質はある、と判断していた者はいるが。

ここ最近、玲音や詩花。それに亜夜といった大物を立て続けに発見し、とにかく稼げていたので。

後回しにしていたのだ。

流石にパパラッチをしているだけあって。

腐れ記者でも、非常に情報には精通していた。

「この子は今、事務所と揉めていやすね。 仕事がとにかくあわないとか」

「ふむ、此方は?」

「最近プロデューサーと大げんかしたとかで、今は事務所に出て来ていないとか。 とにかく評判が悪いプロデューサーで、まあ仕方が無いでしょうな」

「ふむ……」

零細事務所は、多くの場合なるべくして零細になっている事が多い。

二十万からなるアイドルがしのぎを削る時代だ。日本だけで、である。

その産み出す利益は凄まじい。

特にSランクの中でもトップクラスのアイドル。

一世代前だと、国内の売り上げだけなら玲音をも超えるかも知れない存在だった日高舞などがいるが。

この日高舞などは、新曲を出す度に大きなビルが建ったという伝説があり。

文字通りの時代だった。

流石に今は現役を離れてしまっているが。

玲音の現役時代と被っていたら、それはもう凄まじい熱量の戦いが繰り広げられていただろう。

逆に言うと、零細事務所は稼げないアイドルを抱えているか。

問題を起こしている場合が殆どだ。

しかしながら、稼げないからといって、素質がないわけでは必ずしもないのである。

それは、黒井がプロデューサー時代。

嫌と言うほど、色々な現実を見て、思い知らされた事だった。

「よし、把握した。 詩花から連絡が行くはずだ。 記事にはチェックが入る。 このチャンス、無駄にするなよ」

「わかっていやすよ。 俺だってなあ、まともな記事は書きたかったんだ。 もしも渾身の記事を書いたら、こんな生活からは足を洗いたいんでね」

「それは詩花の判断次第だな。 私にはもうその辺りの権限がない」

「……お互い頑張りやしょう」

頷きあうと、喫茶店を出て別れる。

さて、後は別の人脈を使って、目をつけたアイドルに会いに行く。

一人ずつ、順番に口説いていく必要があるだろう。

現状、961プロは何もかもが変わってきている。

内部でのレッスンなども、全てやり方を変えているようだし。

プロデューサーへの教育も、玲音が連れてきたスタッフが徹底しているらしい。

それならば、任せてしまって大丈夫だろう。

無心のまま、歩く。

そして、最初の一人目が良く見かけられるという商店街に出向いた。

運良く見つける。

相手は、黒井の事を知っているようだった。

気が弱そうな娘だ。

アイドルも、一皮剥けばただの人。

ちょっと油断すれば、タチが悪い男に引っ掛かったりもする。

この子は危ういな。

零細事務所の評判はお世辞にもよいものではない。

中には如何に現役でいる間に金を稼がせるかとか、そういう事しか考えていないプロデューサーもいるらしい。

黒井からしても。反吐が出る話である。

そういう状況をどうにかしたくて、会社を立ち上げた筈だったのに。

名刺を出して、軽く話をしたいと告げる。

相手はあからさまに、悪名高い黒井祟男にびびっているようだったが。

それでも丁寧に対応する。

こう言うときに、自分がやってきた事が全て跳ね返ってくる。

だが、それは仕方が無い事だ。

ほどなくして、アポを取り付ける事に成功。ただし、次の話は詩花が連れてきたプロデューサーと行う。

更にそれが上手く行ったら、詩花自身が零細事務所に交渉に行く。

そういう段階を踏んで、事を進めるつもりだ。

一人目は何とか上手く行ったか。

次だ次。

今の時点で、目をつけている子全てにあってくる。

中には、余程の酷い扱いを受けたのか。露骨に荒れている子もいた。

こう言う子を見ると。

昔プロデューサー時代に見た、反吐が出る寄生虫どもの事を思い出す。

かなりまともである今のアイドル業界だが。それでもクズはいる。そういう奴に心身共に滅茶苦茶にされた原石だって。

そうなる前に、出来る事なら。

手をさしのべたい。

かろうじて、最初目をつけていた全員とは渡りをつける事が出来た。

頭を下げることは、元から全く苦にならない。

前から取引先相手には、幾らでも卑屈になる事が出来たし。

頭だって下げることができていたのだ。

そして分かっている。

黒井自身は、今もそこまで変われてはいない。

社長に復帰でもしたら、多分また高圧的にアイドルに接し、持論で相手を潰してしまうだろう。

それでは駄目だ。

頼むぞ詩花。私に隙を見せないでくれよ。

そう、黒井はつぶやきさえした。

実際問題、人なんて変わることが簡単にできないし。

もしも変われるようならば、何の苦労もない。

それを一番よく分かっているからこそ、口から出る愚痴だったのかも知れなかった。

 

詩花と打ち合わせをして、数人のスカウトに成功。

玲音が連れてきたプロデューサーを介しての面接はどれも上手く行った。961プロと言うだけで警戒する相手もいたけれど。詩花が社長になってからは評判が信じられないくらい良くなっている。

後は、詩花自身の交渉次第だったが。

これも玲音がスタッフを貸してくれたのか。それとも教育を短時間で済ませたのか。

いずれにしても、うまくいったのは間違いなかった。

元々961プロにいた復帰組は、基礎は叩き込んである。それに悔しいが、あの765プロのトッププロデューサーの指導は見事だった。

リハビリが終われば、それぞれユニットなりソロなりで再デビューさせる事がすぐに出来るだろう。

今回新しくスカウトして来たアイドル達も、スクールと言われる育成学校で自主的に訓練をしているケースが多く。

そこまで何もかも基礎から叩き込まなければならない、という事はなかなかない。

この業界が、今どれだけの熱量を持っているかという話である。

いずれにしても。

人材発掘以外は、もう黒井は関わる事は出来ない。

詩花の手腕は文句の言いようが無いし。

役員達も、黒井が復帰するよりは遙かにマシと考えているのだろう。

それに玲音が目を光らせている。

彼奴を怒らせたら、この業界ではやっていけなくなる。

それくらいは、みんな分かっているのだろう。

詩花の周囲に、不穏な影はなかった。

後はアイドルの教育関係だ。

今問題を起こされるのが一番困る。

それに関しても、徹底的に教育をしている様子で。

黒井も画像関連を見せてもらったが。

文句のつけようがない、というのが実情だった。

これなら、大丈夫だろう。

そう思って、街に出る事にする。

逸材を見つけるかも知れない。

プロデューサー時代も、街を歩いているときには、逸材を見つけることが多かった。

社長になってからはどうだったか。

面接に来る相手を待つだけだったような気がする。

それも評判が悪い961プロだ。

面接に来る中に、これはという逸材は殆ど見かけなかった。

だから、いつも苛立っていた。

何ださっきのは。

そう、部下に怒鳴り散らかすことも多かったっけ。

外に出ることを秘書に告げて、そのまま会社を出る。

どんどん日差しが強くなっている。

ただ、今までの人生で足腰は鍛えて来ている。

プロデューサー業は相応に大変なのだ。テレビ局などでは、ずっと立ちっぱなしなんて珍しくもない。

ふと、街頭のテレビを観る。

「スターリットシーズンプロジェクトを勝ち抜いたルミナスの凱旋ライブが行われています! 下馬評では圧倒的かと思われたディアマントを破っただけあって、今回も見応えがありそうです!」

ふんと、鼻を鳴らしてそのまま歩く。

確かにあれが相手だったら、負けたのも仕方が無い。

だが、見ていろ。

961プロは一度死んだかも知れないが。

私が築き上げたもの全てが死んだわけじゃ無い。

歪んでいた私が駄目にしてしまったものを全て脱ぎ捨てて。

最高の逸材が後を継いでくれた。

後は詩花がまた最高の座を取り返してくれる。

それを信じている。

街の中を歩く。

無言で歩いていると、雑踏ですれ違ったものに、何とも言えない気配を感じた。

振り返ると、相手も此方に気付いたようだったが。

残念ながら、既に現役で活躍しているアイドルだった。

流石にあの765プロの怪物ほどではないにしても、有名どころのアイドルはだいたい頭に入れている。

向こうは一時期961プロと合同プロジェクトをやったことがあるアイドルで。

その時に顔を合わせたことがあった。

やはり、簡単に原石なんて転がっていないか。

一礼して向こうが去って行く。追う事はない。相手は順風満帆にアイドルをやっている。引き抜ける隙など無い。

苦笑いしながら、そのまま歩く。

元々、簡単に原石を拾えるようだったら、誰も苦労なんてしていない。

そんな事は分かっているから。

今も、文句一ついわずに歩くのだ。

公園に出た。

現在の日本の人口は一億五千万。

あらゆる全てが上手く行っていて、人口は健全かつ緩やかに増えている。

ざっと見て回るが、これといって優秀そうなのは見かけない。

子役に使えそうなのもいない。

アイドルを真似して歌っている子なんて珍しくもないが。

才能の欠片も感じられない。

そういう子をスカウトするのは却って可哀想な結末を招く。

無言で公園を抜けて、商店街に出る。

また、気配を感じたが。

あれは違う。

アレは本職だ。しかも気配からして、もう何処かの事務所に所属しているだろう。ならば使えない。

中々、原石には出会えないな。

それは分かってはいるが、それでも歩く。そうすることで、いつかは原石に出会えるかも知れない。

そういう、砂漠で小石を探すような作業だが。

それが実を結ぶこともあるのは間違いない。

それにだ。

黒井自身分かってきたが、勘が鈍っている。

昔だったら、それこそすいよせられるように原石のある場所に足を運んでいたし。そういうところで、逸材を見つけていたのだ。

それが近くに来るまで分からなくなっている。

これもまた、ふんぞり返って。

身勝手な持論を振りかざしていたツケなのだろう。

だが、それでも諦めない。

ぬるま湯で鈍ってしまったのなら。

鍛え直せば良いだけなのだから。

夕方くらいまで歩いて、収穫はなし。だけれども、それで徒労感を感じることは一切無かった。

むしろ、どれだけ自分が鈍っているのか。

これから鍛え直さなければならないのか。

それがよく分かった事で、黒井は満足していた。

都心を漁るのが一番良いのだが。

都心に限らず、大都市なんていくらでもある。ただ、今くらい鈍っていると、正直足を彼方此方に運ばなければならないし、効率が悪い。

やはり、鍛え直しつつ、都心を歩いて回るか。

それが良いだろう。

自宅に戻る。

小さなテレビがあるので、軽く見る事にする。

このテレビ業界も、戦争があったらまるで別物だったのだろうか。

そう思いながら、ぼんやりしていると。

詩花がテレビに出る。

前の収録かと思ったが、そんな話は聞いていない。そうなると、社長業の合間にアイドルも続けているのか。

我が娘ながらタフだな。

そう思って、黒井は目を細めていた。

「グリュースゴット。 今日は私達961プロの新人紹介も兼ねて歌わせていただきます」

詩花は雰囲気も変わっていないし、疲れも見えない。

むしろ以前より楽しそうだし、自然体な程である。

何人か連れてきたアイドルは、仕上がりに応じて歌わせるか後ろで踊らせるか決めているようだが。

悔しいほど良く仕上がっている。

ダンスはきっちり切れが出ているし。

歌の方ものびのびそれぞれのパートを歌えている。

今回は紹介も兼ねて、と言う事でセンターを詩花がやっているが。

今後はそれぞれがユニットを組んだりソロで活動したりと、やっていける実力の片鱗が見えている。

皆、黒井が連れてきて。

黒井が潰してしまった者達だ。

それは、本来は皆これくらいの活躍が出来たのだろう。

今だから、黙って見ていられる。

前だったら、孤高を目指すハングリーさがたりないだとか。

もっと目をぎらつかせろとか。

ぼやいていたかも知れなかった。

スタジオでも万雷の拍手があがり。

詩花がいつも使っているオーストリア風の挨拶でしめる。

「みなさま、ありがとうございました! ダンケシェー!」

礼の角度など、完璧である。

詩花はオーストリアで暮らしていたから、本来日本のマナーなんか後から学んだ方なのだけれども。

それでも短期間でものにした、という事になる。

勿論オーストリア風のマナーもばっちりこなせる。

黒井の自慢の娘だ。

だからこそに、今はその判断を受け入れて。大人しくしていなければならない。

テレビ局側でも、黒井が必死に根回ししてアイドルをねじ込んでいた時とは違い。

ごく当たり前に。

実力派のアイドルと、新人を扱う対応で、皆に接していた。

わびしいアパートだが。

一瞬だけ美しい花々が咲こうと待つ温室になったかと思った。

そうだな。

これが昔は、見たかった光景だったな。

やがてしっかり花が開いて。

それぞれの高みに登る。

黒井のやり方では。それはどうしてもできなかった。

あの765プロのトッププロデューサーが。あの合理の権化みたいな人物でさえ、黒井のやり方を否定しただろう。

それが、どうしてなのか。

何もかも失ってみて、今更分かってきていて口惜しい。

歪んでいたか。

いや、この歪みはもうどうにもならない。

開き直るのでは無い。

この年になって、今更生き方なんて変えられないのだ。これに関しては、どうしようもない事だ。

だから、黒井なりのやり方で。

娘と妥協していくことを考えなければならない。

大きなため息をついた。

冷静に分析する。

恐らくだが、近い未来には。

あの765プロのトッププロデューサーが育て上げた13人が、玲音のライバルに相応しい実力になるだろう。

確か765プロのトップである天海春香は、既に海外進出の話が出て来ているとかで。

そのための下見に、二ヶ月ほどあのトッププロデューサーは海外に研修に出ていたという話である。

その間も全く業務が滞らなかったのは。

既に自分の穴を埋められるプロデューサー達の育成も終わっていたからだ。

そして今、765プロはトップ13人以外のアイドルも何人も受け入れて育成を開始している。

まだ346プロのような業界最大手ほどの力は無いが。

それに迫るのも、もうそう遠くない未来だろう。

だが、今の詩花が961プロを盛り上げれば。

近いうちに、業界では幾つもの強豪が火花を散らす状態が出来るかもしれない。

765プロのトッププロデューサーが熱量を上げる、といっていたアレだ。

確かに、そうやって頂点に近い所まで育ったアイドルが火花を散らしてぶつかり合う時代は。

黒井も見てみたいと、思わず思わせるものだった。

テレビを消す。

そして膝を抱えて、ため息をついた。

或いは、もっと早くに気付くことが出来ていたら。

歪む前に、この事態を。

自分で、誘発することが出来たのかも知れない。

だがもはやそれは過ぎた事だ。

過ぎた事だから。

これからは、黒井に出来る事をやっていくだけである。

若いうちはいい。

あのぎらついていた目の亜夜が。スターリットシーズンプロジェクトの途中でつきものが落ちて。完全に澄んだ目になったのをよく覚えている。

変われる人間は多く無い。

だが、若いうちは変わるのが比較的容易だ。

亜夜は変わる事が出来た。

羨ましい話だ。

黒井にはもう変わることは出来ない。だからこそ、自分なりのやり方で。

思考がまとまらないな。

苦笑する。

安い酒をコンビニで買ってくると、適当に口にする。

熱燗にでもしないととても飲めないようなまずい酒だ。

あの居酒屋には行きたくはない。

なんとかなってから、礼を言いにいきたい。

前に、そうしたように。

あの店主は、もうそう長くはないと見た。

あまり時間はないかも知れないが。

どうにかして、一段落は早めにつけておきたい。

そう、黒井は考えていた。

 

黒井が子飼いにしていたパパラッチが書いた特集記事は、今までの醜聞だけを専門にしていた記者のものとは思えない程のできに仕上がっていた。

最初は実の所黒井も心配していたほどだったのだが。

超正統派の、それぞれのアイドルの特徴と今後の展望について客観的な視点から分析した記事で。

これを本当にあの三下パパラッチが書いたのかと。

黒井自身が驚いたほどだった。

勿論記事には詩花が目を通し、その結果出版された。

最初は961プロ恒例の持ち上げ記事かと笑い飛ばしていたファン達も、内容を見て騒然となったらしく。

どうやら本当に社長が替わって会社の体制が本格的に変動したのだと、理解したらしかった。

短期間で、961プロはどんどん変わってきている。

黒井自身は、相変わらず個室に缶詰だが。

それも毎日朝出勤してくるときに使うだけだ。

基本的に、毎日外回りに出て。

それで一日を潰すようになりはじめていた。

変わることは出来ないにしても。

せめて詩花のやり方で、自分の会社が変わっていく様子は見てみたいのである。

少しだけでも残っている黒井の人間性。親としての心が。

何よりも、目の前でどんどん変わっていくあらゆる全てが。

黒井の心を変えることは出来ないにしても。

或いは揺さぶっているのかも知れない。

外に出ると、ネクタイを締め直す。

これは、詩花にもらったものだ。

本当に嬉しかった事を覚えている。

だけれども、多分だが。

詩花にとっては、このネクタイは最後通牒だったのだと思う。

詩花は父親である黒井の事を嫌ってはいなかったとは思うが。やり方についてはずっと反対していた。

子としての愛情を見せれば、少しは変わるかも知れないと期待したのだろう。

だが黒井は変わらなかった。

だから、クーデターを起こした。

そう思うと、黒井は色々と思うところがある。

そのまま、街に出て周囲を歩く。

さて、使える奴はいるだろうか。

ふと気付くと。

見覚えのある奴が、前にいた。

雑踏ではないから、立ち止まっても別に迷惑にはならないだろう。

立ち止まる。

昔だったら、あらん限りの嫌みと罵声を浴びせていただろう相手。

765プロの社長。

高木順二朗である。

今でこそ温厚で手品が好きな愉快なおじさんという雰囲気の高木だが。

古い時代は、黒井と肩を並べて、ある会社でアイドルプロデューサーをしていた。二枚看板などとまで言われる辣腕で。

今の温厚さが嘘のような厳しさを持ち。

黒井とは、胸ぐらをつかみ合って怒鳴り合うような、激しいやりとりをした事だってあるし。

一方で、この間足を運んだ居酒屋で。

アイドルの理想について夢を語り合って。

互いに認め合った仲だった事もあった。

あるアイドルのプロデュースに失敗してから、すっかり仲は決裂してしまい。お互いに独立。

最近までは、顔を見るのも嫌な相手だったが。

高木の方は年を経ると共にすっかり丸くなり。

黒井の事を哀れんでいた節まである。

恐らく、もう黒井が墜ちに墜ちてしまったことを、哀れんでいたのだろう。

事実、高木が黒井の悪口を言っているところは見た事がないし。

どんな嫌がらせをしたとしても、寂しく笑っているだけだという話を聞いたことがあった。

「久しぶりだね。 温泉宿以来かな」

「……そうだな」

「今日は自らアイドルを探しに出向くのかい?」

「そういうお前は……もうプロデュースはしていないようだな」

うちは、凄い子がいるからね。

そういうと、高木は少し老け込んだ笑みを浮かべた。

変わっていない。

根の部分は恐らく変わっていないのだ此奴も。

アイドルに対する熱意は全く昔と変わっていないし。

本当だったら、黒井の嫌がらせにも、ハラワタが煮えくりかえっていたのかも知れない。それを抑えられるようになったと言うことだ。

「少し一緒に歩かないか」

「貴様とか? 馬鹿馬鹿しい……と言いたいところだが。 今日はあてもなく歩こうと思っていた所だ。 どうせ貴様も、アイドルの原石を探しに来たのだろう」

「ははは、よく分かっているじゃないか。 そうだよ」

「昔とまったく変わらないな」

昔だったら、その場で回れ右をしていただろうが。

今日はどうしてか、そういう気分にはなれなかった。

765プロは現在主力の13人の他に、30人を越えるアイドルを抱えている。この間のスターリットシーズンでも、その内の精鋭五人がユニットであるルミナスに加わり、見事に成長した。

50人近いSランクアイドルを抱える業界最大手、346プロには流石に及ばないものの。

それに近い人員がいる、恐らく現在最有望の事務所だ。

そんなところの社長が、一人でふらついている。

おかしな話でもあった。

この間のスターリットシーズンプロジェクトでも、346プロからは恐らく偵察目的で五人のアイドルがルミナスに派遣され。事務所の垣根を越えた合同プロジェクトとして動いていたのだが。

その五人も、内部で悪さをするでもなく不平をこぼすでもなく。ルミナスに完全に馴染んでいたと聞いている。

そういう場所なのだろう。

社長が単身フラフラ出てくるような事務所なのに。

それなのに全くという程隙が無い。

どれだけ黒井が悪戯を仕掛けても、小揺るぎもしなかった。

不思議な会社だ。

「ふーむ、どうもティンと来る子がいないなあ」

「そんなに簡単に見つかるものじゃあない。 昔はお互い、一日歩き回って収穫ゼロなんて当たり前だっただろう」

「そうだね。 それで居酒屋で合流して、あの主人のホッケをつまみに飲んだっけなあ」

「あの居酒屋はこの間足を運んだ。 主人が一人で回していた」

そうか、と高木は言う。

何があって黒井が足を運んだのか。

すぐに悟ったのだろう。

そして、それについてどうこう言う事もなかった。

前だったら見透かされて勘に障っていたかも知れないけれども。

今だったら、別に素直に受け入れる事が出来る。

しばらく歩くと、いわゆるセンター街に出る。

野心に目をぎらつかせている子。

単に家庭なり学校なりからはじき出されて、分不相応な格好をしている子。

アイドルになりたくて、周囲を必死に観察している子。

色々いるが。

高木は無言で一瞥だけして、そのまま行く。

黒井も、正直今日は収穫がないなと思って、通り過ぎる。

アイドルは残酷な世界だ。

亜夜のように、才覚が足りていなくても努力でカバーする例外はいるにはいるのだけれども。

それでも最低限の才覚がいる。

才覚はオーラのようなもので。

いるだけで伝わってくるものなのだ。

それが此処にいる者達にはない。

あの、アイドル以外なら何でもできるという765プロのトッププロデューサーが。逆に言えばアイドルは絶対にどうにもならないように。

アイドルになれないものはなれない。

最初の素質が絶対に必要で。

そのオーラを持たないものは、努力をさせるだけ時間の無駄になってしまう。

黒井はそれを、良く知っていた。

恐らくは高木もだ。

その最低限のオーラがあった上で、努力で自分を研磨しきった奴が高みへと登る。

そこまでは、高木と黒井の考えは変わらないだろう。

今も昔も。

そこからが違ったが。

「どうやら目は衰えていないようだな」

「ああ。 どうもティンと来る子はいなかった。 だが、アイドルそのものにならないとしても、それ以外で出来る事は幾らでもあるだろう。 もしもアイドルになりたいと言ってきたら、雇ってあげるつもりだよ。 ただし、大成するのは厳しいと伝えた上で、だけれどね」

「相変わらず甘い……」

「そうだね。 私も昔は自分にも他人にも厳しかったのだけれども、いつの間にか随分と丸くなってしまったようだよ」

ふんと鼻で笑う。

何駅分か歩いて、かなりの数の人間を見たが。

それでも、収穫はなかった。

何駅か歩いたところで、高木がここで電車に乗ると言う。

そうか。

何か用事がある、ということか。

「それでは黒井。 また会った時には、何か話そう。 そちらの状況を伝えてくれると嬉しいよ」

「もう俺……私は961プロの経営に関われる立場じゃあない。 だから、貴様の思うような話は出来ないと思うがな」

「ふふ、それでもだよ」

「物好きな奴だ」

地下鉄の駅に消える高木を見送る。

スーツを整えると、また歩き出す黒井。

もうお互い年だ。

プロデューサーとして脂が乗っていて。

互いに腕を競い合っていた時代が、文字通り夢霞の向こうに思える程である。

大きくため息をつくと。

黒井はまた歩き出す。

一人でも、原石を探し出したい。

業界大手の346プロは、にわかに活気づいた961プロに対して警戒しているだろうし。

他の大手も、中小も。

961プロのクーデターについては、大きな関心を寄せていると見て良いだろう。

それならば、今できる事はただ一つ。

まずは会社内での発言力を取り戻す。

それ以上に、会社の規模を更に大きくしていく。

詩花よ、隙を見せないでくれよ。

そう黒井は呟く。

この性格と生き方は、もう変わらない。変えることは出来ないだろう。

だけれども、アイドルを愛していると言う事は。

たとえ歪みきってしまった今でも、変わらない。これだけは変わることがない事実なのだから。

 

4、憑き物は落ちない

 

四半期の961プロの決算が出た。

しばらく平行線だったのが、一気に上がっている。詩花と玲音が稼いでいた時よりも、四割増しというところか。

新しく育って来たアイドル達が、それぞれAランクからBランク相当まで育ち。それぞれが活動を本格的に始めた事。

幾つかのユニットが始動したことで、961プロの株なども市場で極めて好調のようである。

勿論この辺りは、ノウハウがある玲音のスタッフが色々手を貸しているのだろう。

詩花が有望な新人を育てれば。

それだけ玲音は楽しく戦える相手が増える。

利害が一致しているのだ。

更に言えば、あの765プロのトッププロデューサーと玲音は懇意にしているらしい。

恐らくだが、765プロのトッププロデューサーの口にする、業界の熱量を上げるという言葉。

それに対して、玲音が面白がっているのは間違いない。

本当に自分と戦える相手を求めているような奴だ玲音は。

だからこそ、もっと熱量が上がって。自分に対抗できるアイドルが出てくる事は、好ましいのだろう。

あらゆる利害が一致して。

このクーデターは起きたのだ。

もう、それについてはどうでもいい。

ただ、静かに様子見をするだけ、である。

メールが来る。

詩花からだった。

「パパ。 新しくユニットを組む三人のPVができました。 色々な方面から意見を募っていて、パパにも意見を聞きたいの。 聞かせてほしいな」

無言で、PVを見る。

意外と悪くないユニットだ。

かなり個性的な三人組だが、個性的過ぎる面子を集めると良くない場合もある。

いわゆる交通渋滞などと呼ばれる状況で。

個性が互いの良さをつぶし合ってしまうのだ。

だが、これはよく考えられて、個性を組み合わせている。

765プロのトッププロデューサーの入れ知恵でないのだとしたら。詩花もよくやっているじゃあないか。

メールで、かなり良いユニットだがと始めた上で。

だめな所を全部指摘しておく。

黒井と同じ意見を出す人間は少ないかも知れないが。

駄目出しをするくらいで良いだろうと、黒井は思っていた。

メールで返事がすぐに来る。

「765プロのトッププロデューサーさんと意見が殆ど同じね。 パパも勘が戻ってきているのではないかしら」

流石に無言になるが。

そうか。

見抜いている奴は他にいたか。

だが、あの怪物が相手だったらどうしようもない。全盛期の自分でもかなわないと素直に認められる程の辣腕だ。

苦笑すると、黒井は相変わらず与えられている個室から出る。

いずれにしても、もうアイドルの育成に関わる事はない。

テレビ番組などの関係者に対するコネはあるが、それを求められることもない。

今日も原石探しだ。

飼っていたパパラッチの一人から。零細事務所のあるアイドルが問題を起こしたらしいと言う話が来ている。

問題の内容にもよるのだが。

事務所の名前だけでぴんと来る。

ろくでもない事務所の一つで、アイドルが全く定着しないところで有名な場所だ。

プロデューサーもチンピラ上がりのクズで。

昔の黒井だったら、その場で面罵していたかも知れない。

よし。

丁度良い機会だ。

いっそのこと今日はそのまま乗り込んで、良さそうなのがいたら根こそぎ引っさらって行くか。

先に詩花に連絡を入れておく。

詩花もその事務所のことは知っていたらしく、必要な場合はスタッフを寄越すと言ってくれた。

GOサインが出たなら動くだけだ。

すぐに電車に乗って現地に出向く。

高級社用車を乗り回してイキリ散らしていた最近の事が、ずっと昔に思える。

こうやって自分の足で何もかも稼いで。そして人材発掘にいそしむのが、なんと楽しい事か。

なんだか悪夢を見ていたようである。

だけれども、不祥事を起こした事務所から。根こそぎ有望なアイドルを引っさらおうなどと考えている事からも。

黒井の本性は変わっていないとも言える。

だが、もうそれでいい。

事務所に着く。

小さなビルの三階を借りているが。一目で分かるほどに駄目だ。

アポを入れて、事務所に行く。

社長は明らかにスジ者。プロデューサーも、この様子だと関係者だろう。

だが、そんなのは幾らでも相手にしてきた。

事務所で応対をしてくる社長。昔の黒井よりも、更に醜悪な笑顔を浮かべていた。

「これはこれは。 この間首になったという黒井元社長ではありませんか」

「はっはっは。 人事に降格されましてな。 確かに社長ではなくなりましたが、テレビ局関係者などのコネはそのままです。 報道関係もね」

「……」

この業界関係者なら、今の黒井の言葉が何を意味するか何て一発で分かる。

露骨に鼻白む零細企業の社長に。

黒井は身を乗り出した。

事務所に入る前に、目をつけていたのが何人かいる。どれも磨けば光るアイドルばかり。こんな肥だめに放置はしておけない。

もうじき、詩花がスタッフを回してくる。

此処からは大人の時間だ。

どうせ相手も汚い事をしているのだ。徹底的に叩き伏せて、有望な原石は此方で確保させて貰う。

痛い所くらい、業界通な黒井は全て知っている。

話をすると、見る間に零細企業社長は青ざめていった。

詩花にはまだこういうことはやらせられない。

だからこそ。

今まで培った技術で、黒井がやっていく。

腐った事務所にいても、原石は磨けば輝くものだ。

ここにある原石は根こそぎもらう。

そして、やがては黒井ももとの地位に戻る隙をうかがう。

その隙は出来れば見せないで欲しいが。

だが、ずっと隙を狙い続ける。そういう人生なのだから。

 

(終)