薄明の平穏

 

序、斜陽

 

会議が始まる。そして、あまりにもスムーズに、議決が行われていった。

ヨーツレットが提案する案に対して、人間側の代表達は、全く懸念を見せない。ヨーツレットの案は、基本的にこれ以上魔王側は侵攻しないから、人間側もこっちに攻めてくるな、というものばかりだ。今までの魔王軍の攻撃で、領土を奪われた国も多いというのに。どうしてなのだろう。

会議の様子を、シルンの術式で遠くから見つめながら、イミナはやはりおかしいと感じていた。

ハーレンなどは、譲歩を引き出すためにかなり辛辣な交渉をする可能性が高いと思っていたのだ。だが、むしろ淡々とした様子で交渉を進めている。

しかし、どういうことなのだろう。

テロの危険があるかも知れないと思い、会議を行っている側でプラムが待機しているのだが、露骨に退屈そうである。つまり、殺気を持って近づいている者がいないと言うことだ。

グラント帝国が意見を出す。

「ソド領とあなた方が呼んでいる地域に、民を出入りさせたい。 交易をすれば、そちらも潤うと思うのだが」

「残念ながら、まだ人間を無制限に受け入れるわけにはいかない。 もしもやるとすれば、ソド領の一部に特区を作り、そこで行うことになるだろう」

「それで構わない」

「分かった、検討する」

驚くべき話だ。ヨーツレットも、あっさりと意見を受け入れた。途中小首をかしげている様子が見られたのは、何故だろう。

イミナには、何となく分かる。

ヨーツレットも感じているのだろう。どうもおかしな違和感があることに。だが、多分その違和感がどうして生じているか、分からないのだ。

シルンが術式を展開したまま、冷や汗を掻いている。

「お姉、話を聞いていると、胃が痛くなりそうだよ」

「本当だったら、何度交渉が決裂してもおかしくない状況だ。 無理も無い」

「でも、どうしてなんだろう」

「さあな……」

一定の結論はある。もしもこんな事を行うなら、魔王では無く聖主だろう。だが、聖主にしても、どうしてこんな事をしているのかが分からない。

ガルフは、聖主の目的が世界平和と人類の進歩だと言っていた。

だが、それは恐らく、聖主の野望の足がかりの筈だ。それとも、聖主は野望など持っていないというのか。

それにしてはおかしい点が多々ある。だが、常人の持つ野望と、聖主が持つものが異なる可能性は、確かにある。聖主は人類の歴史上でもまれに見るほどの聖人だったとか聞いている。それならば、常人が持つ小規模な野心など、路傍の芥に等しい可能性も高い。

思考が堂々巡りしているのが分かる。

レオンに、肩を叩かれた。

「少し休んではどうか」

「疲れているように見えるか」

「ああ。 見えるのでは無く疲れているはずだ。 数日は寝ていないのだったら当然のことだ」

「そうか。 ならば仕方が無いな」

少し監視を停止して、休憩にする。気付かれていたのか。

確かに会議が始まってから、シルンともどもずっと寝ずに番をしていた。違和感はせり上がる一方で、シルンにもそれは話してある。シルンの方も、やはり何か妙な引っかかりは感じているようだ。

拍手が上がったのは、難しい案件が解決したからだろうか。

しばらく、夢うつつの中でまどろむ。気がつくと、夕刻になっていた。監視所に戻り、妹の肩を叩く。妹も泥のように疲れているようだ。到達者であっても、睡眠時間が完全に必要では無い、と言うほどに超越的存在では無いということだ。

「シルン、交代だ」

「うん。 お姉も、体をいたわってね」

「分かっている」

再び、監視に戻る。シルンは千鳥足でふらつきながら、休憩所に向かった。レオンも休憩を入れていたらしいが、しっかり状況は把握している。渡された書類に目を通すが、目だった落としは見つからなかった。

難しい案件が、すらすら解決している。

領土問題は、魔王軍がこれ以上侵攻しない、で全て解決。人間側が大きな譲歩を強いられているし、本来であれば絶対に解決しない案件なのに。どうしてか、グラント帝国もキタン王国も、ハイハイとヨーツレットの言うことを聞いているようだ。しかし、どちらも頭がおかしくなっているようには思えない。

ハーレンは積極的に発言して相手の反応を見ている。グラント帝国のカルカレオスは丁寧な質疑を繰り返して、ヨーツレットと確実な折衝を積み重ねている。どちらも、あまりにも論理的で、なおかつスムーズだ。

どうしてなのだろう。

今までがおかしかったような気さえしてくる。ハーレンは非常に理知的に会議を進めているように思えるし、それを受けてヨーツレットは生真面目に対応をしている。少し前までだったら、まず会議などあり得なかったし、あったとしてもだまし討ちが良いところだっただろう。勿論、人間側がだまし討ちをする、のだが。

一方で、魔王軍も態度が妙に柔らかい。

特に海上での巡回地域を減らすようにと言う要求について、殆ど全て受け入れているようだった。エンドレンの人間達が提案したそれによると、魔王軍の偵察部隊は場合によってはエンドレンの北岸にまで姿を見せているそうだ。それは確かにまずいかも知れない。しかし、エンドレンの砂糖菓子に集る蟻も同然の軍勢を思えば、魔王軍の懸念も、理解できない話ではない。

だが、それにしても、魔王軍にとって制海権は非常に重要なはずだ。話に聞いたところ、一昨年の戦いでは、海を埋め尽くすエンドレンの大軍団に、魔王軍は壊滅寸前にまで追い込まれたのだという。

フォルドワードまで攻めこまれたという話もある。早期警戒を行うのは魔王軍にとって、大前提となる戦略というわけだ。

だが、それに対する譲歩をした。

関係改善のために、である。

「驚いた。 これが、人間のすることか。 悪い意味では無くて、良い意味で、だが」

「ああ。 物わかりが良すぎて気味が悪い。 確かにイミナ殿が言うとおり、意識の奥で違和感があるな」

「私の知る人間は、もっと自己中心的で凶暴で身勝手な筈だ。 見ろ、あの兵士達を」

少し前まで、どこの国の兵士も、戦争を大歓迎していた。ビジネスチャンスになるからだ。手柄を立てれば出世できるし、魔王軍の物資も土地も奪い放題。女の魔物など捕まえたら、売り飛ばして一攫千金。

だから、欲望に誰もが目をぎらつかせていたのだが。

しかし今では、警備の兵士達は皆真面目に職務を遂行していて、欲望を抑え込んでいるのがよく分かる。

あれでは、アニーアルスの精鋭並みだ。しっかり訓練をした兵士はできるものだが。しかしながら、寄せ集めの軍勢が、あれほどの士気を保っているのはどういうことなのか。状況を説明できない。

そういえば。

ガルフが、福音システムの目的は、一種の洗脳にあるというようなことを言っていた。

これが、そうなのか。

だが、この状態は悪いものではない。それだけは、確実に言える。

フォルドワードでは、魔王軍は侵略者だった。師匠を殺した仇でもある。だが、魔王軍が次々に和平の提案に応じて、侵攻をしないと明言してきている姿を、疑う理由が今は無いのである。

更に、近年は明らかに人間側が戦争の原因になっていた。それが、今はどういうわけか、綺麗さっぱり消え去っている。

洗脳、だとすると。これほど大規模な洗脳は、類を見ないだろう。

だが、それが悪いことなのかと聞かれれば、どうなのだろうと言わざるを得ない。実際に戦争は収まりつつある。しかも各国の首脳が、此処まで良心的に行動しているのを見ると、人間同士の戦争も、このまま解決していくのでは無いかと思えてしまう。

それは、間違いなく良いことだ。

もしも、聖主がこの件を主導していると仮定する。奴の目的が世界平和だとして、それは恐らくこれで達成できる。

ただ、その先に何があるのか。

また、拍手が上がった。難しい案件が解決したらしい。兵士達まで、嬉しそうに会議の様子を見ている。

プラムを見ると、完全に居眠りしていた。殺気など、みじんも感じないのだろう。テロの恐れなど、無い。

洗脳というと、拒否反応を示す者も多いかも知れない。

だが、今此処で起こっていること自体は、悪いことでは無い。イミナは合理主義者だが、それはどうしても他に理由が無いから、という事情もある。

今、起こっている現実を見ると。たとえば、ありのままの人間こそが美しいというような理屈が、世界中に戦争と虐殺と悲劇をまき散らし、泥濘に血反吐をぶちまけて、殺意と悪意を拡散させていたことがよく分かる。

やはり、違和感が残るが。しかし、今世界は確実に、平和に向けて前進している。

シルンの所に戻る。妹はすっかり寝入っていて、静かに寝息を立てていた。起こすのも悪いので、側に座り込んで、思う。

一体、今までの戦いは、何だったのだろうと。

 

会議開始からわずか三日後。会議は終了した。

出た議題の全てが解決という、驚異的結果の末である。折衝が長引いた議題も幾つか存在したが、それでも全てが双方納得の末に調印された。西ケルテルが絡む議題も幾つかあったのだが、それらも全てユキナが満足行く形で解決したのである。

ユキナは西ケルテルの王城に引き上げるように指示を出す。会議を行った野戦陣の片付けを部下に任せ、馬車に乗り込んだ後は、ひたすら腕組みをして考え込んだ。

解せない。

魔王軍が、物わかりが良いのは、何となく理解が出来る。

今まで会議の間に少しだけ接してみて分かったのだが、基本的に連中は純朴で、人間に比べると精神的な意味でえぐみがない。人間とあまり姿が変わらない魔物はそれは特に顕著だったし、話していて疲れると謂うことが無かった。何となく、それについて違和感は無い。何度も刃を交えてきたから、なのだろう。

今まで魔王軍とは何度も戦ったが、どうしても戦術では人間側に一日の長があった。それは、彼らの性格が人間に比べて非常に単純で、善良だったからだと推察できる。実際、戦闘を想定しない状態で話をしていた感じでは、魔物に嫌悪感を覚えたことはない。護衛の騎士達はやきもきしていたようだが、ユキナはむしろ、魔王軍から何名かスカウトしたいとさえ思ったほどだ。

だが、人間側が、此処まで物わかりが良いのは、一体何故だ。ハーレンなどは、今まで外交をしてきて、海千山千の怪物的な印象ばかり受ける相手だった。だが、この会議では、物わかりが良い名君のようだったのである。

馬車は、まもなく王城に着く。

自室に入ると、寝台に転がる。ガルフが言っていた、洗脳のようなもの、の結果なのだろうかと思ったが。それにしては、結果があまりにもプラスになっているように感じるのである。

聖主の目的は何だろう。

本当に世界平和を実現して、自分は身を引くとでもいうつもりなのか。

だが、この大陸を根こそぎ犠牲にするような計画を立てていた奴である。はいそうですかと、その計画を容認するわけにはいかない。

よほど疲れが溜まっていたのか、横になるとすぐ眠ってしまった。起き出したときは、既に深夜。顔を洗って着替え、外に出る。溜まっていた書類を決裁して、一通り済んだ頃には、夜明けになっていた。

侍女に肩をもませながら、一つずつ現在の状況を確認していく。

偵察隊からの報告があるが、魔王軍は大まじめに後退し、国境線の内側に全軍が戻ったという。キタン軍も帰還を開始し、グラント帝国の軍勢も少しずつ本国へ戻りはじめたようだ。

護衛の騎士の一人が、渋面を作る。

「納得できません」

「和平が成立したことが、か」

「そうです。 奴らが今までどれだけ鬼畜の所行を繰り返してきたか、皆は忘れてしまったというのですか」

純真な若い騎士は、そんなことを言う。

大まじめに反論するのも馬鹿馬鹿しい。しばらく黙った後、ユキナはふと気付いた。

「そなたはアニーアルスの出身だったな」

「はい、陛下」

「魔王軍が、アニーアルスを返還すると言い出したら、どうする」

「え……?」

困惑した様子で、騎士は視線をさまよわせた。まるで、目の前に蠅か何かが飛んでいるかのような露骨さだった。

そして、意気消沈する。

「国を再興できるのであれば、文句はありません」

「……仲間の仇を討とうとは思わないのか」

「死んでしまった仲間は、もう帰ってきません。 それに、戦いでの結果です。 今更恨んでも詮無きことです」

騎士を下がらせる。

一つ、合点がいった。どうやらおかしいと思っている事の、結論が一つ出た。

多分人間全体が、良い意味で合理的になっているのではないのか。普通だったら、戦いの結果だといって、割り切れる者など滅多にいない。よほど戦場で心を練り上げてきたような男だったらともかく、今憤慨していたのはまだ若い騎士だ。

そして、その騎士のこだわりになっている、アニーアルスの土地を心から外してみたら。あっという間に、敵意が霧散した。

それだけではない。

会議の場にいた兵士達も、どうも様子がおかしいと思ったら、戦意そのものがすり減らされているようなのだ。今までは、魔王軍から略奪することを楽しみにしているだけでは無い。「暴力を自由に振るってよい相手」を叩き潰す快感を楽しみに、戦場に出てきている兵士がかなりの数いた。

地獄の戦場では、そうでもしないと平常心が保てない、というのもあるのだろう。だが、人間が持っている嗜虐性は、確かに兵士達の心に根付き、それが戦意の支えの一つになっていたのだ。

ところが、会議が進めば進むほど、兵士達が目に見えて理性的になっていくのが分かった。イミナがおかしいと言いに来なかったら、気付くことは無かっただろう。イミナとシルンは比較的正気を保っていたようだが、それでもおかしな事を何度か言っているのを目にした。

もしも聖主が、この状態で何か取り返しがつかないことをもくろんでいるとしたら。

「ジェイムズを呼べ」

「あの狂科学者をですか」

「そうだ。 奴に確認したいことがある。 イミナとシルンには知らせるな」

「分かりました。 直ちに」

流石にジェイムズのことは、未だに好いていない者がかなり多いらしい。奴はユキナだって気に入らないが、多分人間の中では最高峰の知恵の持ち主である事は疑いない。

今は、何か食い止めるべきものがあるのなら。

奴の意見を聞くべきだった。

 

1、平穏の形

 

魔王が報告を受けている間、ヨーツレットはずっとじっとしていた。報告を行ったのは、公平を期するように、連れて行った秘書官の一名である。人間型としては多弁な奴なのだが、どちらかと言えばさほど頭は良くない。その代わり、記憶力そのものは悪くないので、こういう仕事にはうってつけだ。

魔王は機嫌が悪そうと言う事もなく、笑顔を浮かべているというでもない。無表情に、話を玉座で聞き続けていた。いつも優しそうな笑顔を浮かべている魔王の無表情に、側にいる護衛部隊長のヴラドも、不安そうだった。

「ふむ、だいたい状況は分かった」

「当分我が軍への侵攻はないと見て良いかと思われます。 ただし、油断せぬよう、備えは欠かせませんが」

「ヨーツレット元帥」

「はい」

魔王が、ミカンを手にする。

いつもの魔王に戻ってくれたかと、ヨーツレットは安心しかけたが。どうも妙な違和感がある。

「それで、次の再侵攻は、いつ頃出来そうじゃ」

「そうですな。 まずはソド領の人口を五千万まで増やすことからはじめたいと思っています。 そうすれば、定期的に死体が入手できるようになり、補充兵の生産が安定しますので」

「随分先になりそうじゃのう」

「申し訳ありません。 ですが、しばしお待ちください、陛下。 必ずや、陛下の願いは叶えられるように尽力いたします」

そうは言うが、ヨーツレット自身は、人間を滅ぼすこと自体は諦めている。ただ、人間を管理することは不可能ではないとも思っている。

今後やるとすれば、武力による侵略では無く、もっと効率的な攻撃だ。だが、そういった陰謀自体には、むしろ人間の方に一日の長がある。だから、じっくり知識を蓄積して、確実に計画を進めていかなければならないだろう。

「儂は、何だか疲れた。 しばらくはゆるりと過ごしたい」

「お任せを。 陛下はずっと最前線で戦ってこられました。 丁度良い機会でありますし、しばらく休暇を過ごすも良いと思います」

「ならば、その言葉に甘えさせて貰おうかのう。 すまぬな、元帥」

魔王は、温泉に行くという。護衛兵達を伴って、魔王がひょこひょこ歩いて行くのを見送ると、ヨーツレットはどうも妙な違和感が拡大していくのを感じた。ヴラドが歩み寄ってくる。バジリスクである彼は、足の裏に吸盤を有しており、歩くときに音が殆どしない。足音よりも、尻尾が床に擦れる音の方が大きいくらいである。石化能力を有している目を半開きにしている事もあって、独特の移動する気配が面白い。

「ヨーツレット元帥、どうしましたか」

「うむ……。 陛下の様子がおかしくは無いか」

「今までさんざん気を張っておられたのです。 特に聖主が復活してからは、一日足りとて気を抜けない日が続いておりましたし、少しくらい休んでもばちは当たらないことでしょう」

「そうだな」

不安そうな表情を、さっきヴラドが浮かべていたことを、ヨーツレットは忘れていない。元々、ヨーツレットは複数の脳での並列思考が可能な存在である。客観的な思考能力も、複数の脳を稼働させることで得ている。

だが。

どういうわけか、違和感が浮かんでは消え、また浮かぶ。

拡大しては縮小し、また現れる。

陛下は、あんな存在だったか。それが、疑問だ。何というか魔王には、以前は不可思議なエネルギッシュさがあった。アニアの事に関する人間への憎悪が原動力になっていたからだろうか。

アニアが、マリアの中に意識としてよみがえってからも、その憎悪は消えなかった。恐らくアニアが説得しても、消えることは無かっただろう。

しかし、今の魔王は、明らかに何か心の奥の芯が折れてしまっているように思える。魔王には、皆が休んで欲しいと思っていた。ゆったりした動きや、優しい言動の裏に、いつも強烈なまでの憎悪を隠していた陛下。魔王のことは誰もが好きだったから、その心がすさんでいることを感じ取って、皆が心を痛めていた。

だが、今の魔王は、何処かおかしくは無いか。

憎悪が、消えてしまったとでもいうのか。

分からない。ヨーツレットは、魔王では無いからだ。

グリルアーノから通信があった。何だかおっくうだなと思いながら、部下が持ってきた情報通信球の前に出る。

「ヨーツレット元帥。 話したいことがある」

「今回の和平についてかな」

「そうだ。 いや、そうでは無いとも言える」

「具体的に話して貰えるだろうか」

グリルアーノは、若い暴竜は、以前はこんな回りくどい話し方をする奴だっただろうか。また、泡沫の違和感が浮かんで消えた。

もっと直球でものごとを話す奴だったような気がするのだが。

「何だか、部下達の様子がおかしい。 仕事は真面目にやっているのだが、人間共への憎悪が薄れているように思えてならない」

「そちらもか」

「元帥の方でも、似たような事が」

「部下共どころか、今回の和平の提案を受け入れたのは、魔王陛下なのだ。 そもそも、もはや戦線の維持はかなり難しい状態になってきていたから、合理的な判断だとは言えるのだが」

グリルアーノが身じろぎした。

体からぶら下げている改良型オーバーサンが、床にぶつかって大きな金属音を立てた。

暴竜は、明らかに怒っている。

「何だそれは。 陛下は確かにちょっと人間の事を私事で憎みすぎかなと俺は思っていたが、何処かおかしくないか」

「憎む原因も無くなってしまったからな。 だが、それにしても確かにグリルアーノ軍団長が言うとおりだと、私も思う」

いや、グリルアーノ自身もおかしい。

奴は以前、こんなに分析が出来る奴だっただろうか。魔王が私事で人間を憎んでいるなどと、思っていても口に出来たか。

グリルアーノは若い竜らしく頭が悪かったが、その分魔王への忠誠心は尋常では無く高かった。特にオーバーサン改良型を戦果として受け取ってからは、それこそ魔王のためなら海の中にでも飛び込みかねない雰囲気が合ったのに。

今のは、魔王に対する公然とした批判では無いか。だが、それを納得して受け入れてしまっているヨーツレット自身もおかしくないだろうか。それに気付いて、愕然としてしまう。

「む……。 グリルアーノ軍団長、藪をつついて毒蛇を出したようだ。 この話題は、此処までにしよう」

「分かった。 失言はお互い忘れよう」

「そうだな。 今の会話については、他言無用とする」

通信を切る。大きなため息が漏れた。

心配そうに、バーレット師団長が見上げている。巨大要塞での死闘を生き延びた、数少ない師団長部隊の一名だ。

「ヨーツレット元帥」

「どうかしたのかな」

「まだ、何か怖いことが起こるのですか? 私は、戦いはもう嫌です」

「……!」

確か、戦闘などで心に傷を受けることをPTSDとか言うと、ヨーツレットは聞いたことがある。軍団長などでそれを受けた者はいなかったが、戦場に出てきている純正の魔物は、かなりの数が患者になっていたはずである。師団長の中にも、今までPTSDに掛かったものは相当数が出ていた。

だが、バーレットはそもそも、戦闘目的で設計された、最精鋭の一翼を担う師団長だ。魔王軍の中でも、精鋭中の精鋭と言っても良い。戦闘タイプ師団長の中でも最新鋭の能力を有しており、軍団長でも戦闘向きでは無いミズガルアやバラムンクに比べれば、その能力はそれほど劣るものではないのだ。

だが、そんな彼女が、PTSDを煩ったというのか。

責めるわけには行かない。それに、短い時間だったとは言え、多くの戦闘経験も蓄積した。決して無駄にはならない。後続の師団長達に、その知識を受け継がせれば、更に進化させることも出来る。

「分かった、まず軍医に診て貰え」

「分かりました。 しかし、ヨーツレット元帥も、無理をしないでください」

「私はこの程度の傷は慣れっこだ。 戦場ではもっと恐ろしい目にも、散々あって来たのだし、気にするな」

去って行くバーレットを見送ると、ヨーツレットは決める。

せっかくの機会だ。今度、軍医を巡回させて、PTSDに掛かっているものがいないか、洗い出した方が良いだろうと。

 

前線からの報告は、平和きわまりなかった。

キタン軍もグラント帝国軍も撤退を開始して、兵力は四半減している。特にキタン軍の騎馬兵団は、既に前線からは影も形も無くなっているという。

侵攻の好機だと思う者もいるかも知れないので、釘を刺しておく。

少なくとも、約束は此方から破ることがあってはならない。破れば、攻撃の大義名分を与えることになる。

魔王軍の兵力は、人間に比べるとだいぶ少ない。これは数の問題では無く、総合的なパワーを比較しての話だ。

ヨーツレットは、軍の再編成を進めるように、軍団長達に指示を出しながら、自身も見回りをはじめる。前線以外はやはりおろそかになっている箇所が多く、二線級の砦や防衛施設には、老朽化が目立つものさえもあった。

今まで、本当に綱渡りの戦いを続けていたのだと、これらを見ると思ってしまう。前線を破られていたら、本当にひとたまりも無かっただろう。

前線に関しては、今までの状態で良い。

二線級の部隊を回すだけだったこういった後方の整備を、今後は進めていかなければならない。此方も前線の兵力を削減する必要が生じてくるし、もしも奇襲を受けた場合、敵の進撃を食い止める工夫をしなければならないからだ。

幾つかの砦を見回った後、前線に戻る。

指揮官達を集めて、話を聞く。誰もが、何の問題も生じていないと、口を揃えた。少し前まで、会議を行った場合、数刻は時間が吹っ飛ぶことを覚悟しなければならなかったのだが。今はその十分の一以下の時間で済んでしまう。

これでは、皆弛んでしまうかもしれない。

一通り報告が済んだところで、ヨーツレットは部下達を見回した。

「これは左遷では無いが、今後前線から兵力を削減する。 というのも、後方の拠点を確認すると、著しく劣化や老朽化、未整備部分が目立つからだ」

「前線の精鋭を、そういった箇所に当てるのですか」

「そうだ。 今後は前線でのぶつかり合いよりも、敵の奇襲による浸透を如何に防ぐかが重要になってくる。 急激に拡大した我が軍の内情は、どうも隙が多いように思えるのだ」

「確かに、ヨーツレット元帥の言うとおりではあります」

誰も、反論しない。

前線から離れることになる者が出たら、さぞや落胆するだろうにと思ったのだが。此処でも、やはり異常が出始めているという事なのだろうか。

人間ほど手柄に貪欲では無いにしても、やはり軍にいる以上、どうしても前線にいたがる者は多い。上昇傾向を持つ者ほど、その傾向は顕著になるものなのだ。良い例がクライネスである。

ともかく、今後は戦略のモデルを入れ替える必要がある。第一撃を受け止めた後、充分な余力を持って反撃できるように、軍の配置を考え直さなければならないだろう。部下達がそれを受け入れるのに対して、相当な抵抗を予想していたヨーツレットとしては、あまりにも拍子抜けではあったが。

魔王に報告を入れる。魔王は、やはり少し様子がおかしかった。

「なるほど、流石にヨーツレット元帥はよく考えておるのう」

「恐縮です」

「儂は少しフォルドワードに戻ろうと思う。 アニアは会ってくれぬし、少し気分転換をしたいしのう。 何より、魔王城を作ってくれているドワーフたちに、礼をいわなければならぬ」

「此方についてはお任せください。 何が奇襲してこようと、必ず押し返してご覧に入れます」

通信を切る。

魔王はやはり、何処かで戦意を抜かれてしまっている。聖主との死闘を制したのだから、後遺症が残るのは当然だ。

だが、このままではまずい。

老いはまず心から来ると聞いたことがある。何百年も生きている老齢の魔物は、まず頭を使うように心がけているという。そうしないと、体より先に、頭が働かなくなってしまうからだ。

少し考えた後、ヨーツレットは部下に命じた。

「カルローネ軍団長、いやアリアンロッド副軍団長につないでくれ」

「分かりました。 直ちに」

「……やはり、何処かがおかしいな」

自分に言い聞かせるようにして、ヨーツレットは呟いた。

 

随分しばらくぶりに地上に出たミズガルアと、アリアンロッドは対面していた。

引きこもり軍団長などと揶揄する声もあるが、アリアンロッドはミズガルアがどれだけ魔王軍に貢献してきたか、よく知っている。強力な新型補充兵の事ばかりが着目されがちだが、この万能の発明家の手腕は、魔王軍のあらゆる場所に及んでいる。

「ふいー。 外の明かりは、まぶしいですねー」

「たまには外に出ないと、体に毒ですよ」

「分かってますよー」

ミズガルアは、巨大ななまこに似た体を、大量の触手とその尖端についた手に似た部分で引きずりながらぼやく。

どうしてこんな移動しにくい姿にしたのか、アリアンロッドには魔王の真意がよく分からない。なまこの上にちょこんと乗っている人間に似た頭部も、よく見ると人間型師団長と酷似している。歪んだ愛情の表れの一つなのか、或いは。

少し前に、ヨーツレットに相談を受けた。多分、ミズガルアに相談するのが一番早いと思った。だから今ここにいるのだが、失敗だったかも知れないと思う。ミズガルアは直接接してみてはっきり分かったが、魔王軍のゆがみをそのまま形にしたような存在だ。

ミズガルアが管理している巣穴は、生産力こそグラの第六巣穴に抜かれたが、研究施設としては今でも魔王軍随一だ。魔王軍で鹵獲し改良したガルガンチュア級戦艦も、基本は此処から出航する。

だが、便利すぎるからか。ミズガルアは、基本的に巣穴の最深部から出てこない。

まぶしそうにしているミズガルアを見かねてか、護衛に連れてきたマーモセット師団長が、日傘を差しだした。マーモセットは最近アリアンロッドの軍団に参加した師団長で、見かけはアンモナイトに似ている。巻き貝から出ている頭足類の部分の触手はとても器用に動き、今も傘を上手に掴んでいた。

「マーモセット師団長、わざわざありがとうございますー」

「それでは、あちらで話しましょうか」

よいしょ、よいしょと一生懸命歩くミズガルア。ちょっと気の毒になったが、そもそも外で話すと言い出したのはミズガルアだ。

入り江の上にある崖地を歩き、やがて日当たりの良い小高い丘に出た。

この辺りは緑化が既に完璧で、エルフ型補充兵達が丁寧に植林を終えた結果、辺りは低木林になっている。それ以外の場所も、緑が生い茂り、とても目に優しい光景が広がっていた。

其処にござを引き、お弁当を広げる。

食事が殆ど必要ない補充兵も、嗜好や気分で食事をする事がある。アリアンロッドも流石に地位から言って、お手製の料理を振る舞うわけにはいかない。毒味役を兼ねている料理人や副官が作ったものを並べた。サンドイッチが多いのだが、スペアリブも少し入っている。

弁当箱は、大きめの葉をそのまま乾燥させ、折りたたんで使っている。この葉はなかなかに香りが良く、しかも取れ落ちた後のものを使っているため、植物への負担も小さく済んでいる。

「わあ、健康的な食事ですねー。 いつも栄養効率最優先だから、ちょっと目移りしちゃいます」

「どうぞ、おつまみください」

「遠慮無くいただきますよぉ」

嬉しそうな顔で、ミズガルアが触手を伸ばし、サンドイッチをぱくつきはじめる。やはり食べるのは、なまこの上に乗っている人間の顔からだ。消化器官とかがどうなっているのか、ちょっとアリアンロッドは気になった。

「それで、相談の件ですが」

「ちょっと此方でも分析を進めてみました」

触手の一つが、レポートを差し出してくる。

どこにしまっていたのだろうと思いながら、アリアンロッドは目を通す。まあ、この方に常識とかを期待しても無駄だし、何が起きても不思議では無いが。

レポートには、奇怪なことが書かれていた。

「空気の性質が、少し前から変わっている?」

「ええ。 どうもキタルレアから流れ込んできた空気が、フォルドワード全体をおかしくしているみたいですー」

「……それは、もう手遅れと言う事ですか」

「まあ、そうなりますね」

ただ、手遅れと言っても、必ずしも悪いことばかりでは無いと言う。

気性が荒い魔物が露骨におとなしくなっているし、何より各地で燻っていた主戦論者が、妙に静かになっているらしい。

つまり、世界が確実に合理的な方向へ進んでいる、というわけだ。

今の状況で、魔王軍が人間と全面戦争しても勝ち目は無かった。エンドレン一つを相手にしても、競り負けていただろう。そこへ感情論からの主戦を主張しても、滑稽でしか無かったのだ。

アリアンロッドにしても、願っているのは一族の平穏である。人間が攻めてこなければ、それでいい。それは人間に対して憎悪はある。だが、それ以上に、静かに暮らしていたいという願いの方が強いのだ。

「人間の側は」

「今、バラムンク軍団長が調べてますよ−。 ただ、こっちより更に効果が激烈みたいですねえ」

「ということは、人間が好戦性を放棄しているという事なのか」

「それどころか、今まで何で戦争ばっかりしていたのだろうって、小首をかしげているような雰囲気さえあるらしいです」

信じられんと、アリアンロッドは呟いた。

彼女が見てきた人間は、いずれもが好戦性の塊のような存在ばかりだった。弱者からは奪い、強者にはこびへつらい、己の利権を他者の命に尊重し、暴虐の限りを尽くしてきた生物では無かったか。

エルフ族は人間共によって陵辱の限りを尽くされた。場合によっては剥製にされ、長寿と言う事で肉を食われることさえあった。

人間が、そのような罪業を反省したことが、ただの一度だってあったか。

それどころか、ありのままの人間が美しいとかいうくだらない理論を振りかざし、己の罪を正当化する事にばかりかまけていたではないか。人間賛歌などと言う非現実的な自己弁護を目にして、アリアンロッドは何度人間を軽蔑したことか。

人間の病根は、異常な好戦性と自己肯定にあると、アリアンロッドは分析していた。

それが、不意に好戦性を失ったというのか。

「まあ、信じられない気持ちは分かります」

「一体何が起こったのか、分かりませんか」

「仮説になりますが、世界のルール自体が書き換わったのかも知れませんね。 以前魔王陛下が話していたように、この世界には寄生型ナノマシンって言う極小の要素が充ち満ちていて、それがあらゆるものに影響を及ぼしています。 もしもそれが書き換わったのだとすると、この激烈な変化にも説明がつきます」

「それでは、魔王陛下が骨抜きになったというのも」

魔王も、おそらくはその法則からは逃れられない。むしろ、もっとも法則に縛られている存在が魔王だと、ミズガルアは言った。

いつの間にか、弁当は全て無くなっていた。

思えば、ミズガルアが外に出てきているのも、その法則が書き換わった事が原因なのかも知れない。以前だったら洞窟の奥の研究室で、アリアンロッドを呼びつけて話を聞くか、或いは情報通信球で会話をしただろう。

ミズガルアは、空を流れる雲を見つめる。

アリアンロッドも、それにつられて空を見上げた。

「この変化自体は、悪いものだとは思えませんねー。 たとえ、聖主がやったことだとしても。 これで、恐らく世界から、魔物を絶滅させようという人間はいなくなることでしょうし、我らももう少し暮らしやすくなります」

「つまり、利権への渇望を、非好戦的な思考が上回るという事ですか」

「そうなります」

「よく分かりました。 今日は話を聞けて嬉しいです」

無数の触手の一つが握手をしてきたので、受ける。ミズガルアの触手は、巨体を移動させるためか、結構力が強く、危うくシェイクされそうになった。

そのままミズガルアを研究室まで送り届ける。

じっと護衛をしてくれていたマーモセットが、所感を述べた。

「あっしは、平穏な暮らしがしたいって気持ちはよく分かります。 でも、どうしても理解できなかったのは、どうして人間がそう考えられないかって事なんでして」

「人間の中にも、平穏に暮らしたいと考えるものはいたそうだ」

面倒を見ていたマリアが、そんなことを言っていた。

信じがたい話だが、マリアは嘘をつくような奴では無かった。それは接していたアリアンロッドが知っている。

実際、そんな人間を、アリアンロッドは見たことが無かったからだ。

だが、今世界は変わりつつあるという。

それは恐らく、人間が反省したとか、そういうような事が原因では無いだろう。外部からの力が掛かった結果だ。聖主の仕業なのか、そうではないのか、よく分からない。

一つ分かっているのは。

人間は自分の力では、何一つ進化しなかった、という事だろう。

「今後は、人間を理解できるようになるんでしょうか」

「そうなれば、良いのだがな」

「あっしとしては、そうなって欲しいです。 故郷を奪われて、フォルドワードで暮らしている魔物の皆さんの苦境は知ってやすし、人間と魔物が相互に理解し合えば、特に長寿種の魔物の皆さんも、故郷に帰れるかも知れないじゃ無いですか」

その通りだ。

アリアンロッドも、いつかは故郷の森を見ることが出来るかも知れない。しかし、そんなものはもう開発され尽くして、とっくに荒野か畑だろうが。

違和感は感じる。

自然云々の話では無くて、それが一体何の目的で行われたか、理解できないからだ。人間は究極的に自己肯定に行き着く生物だと思っていた。その結果、どれだけ虐殺と殺戮を積み重ねても、「ありのままの人間が美しい」という巫山戯た理論で自己弁護する存在だと感じていた。

もしも、人間から出でた聖主がこれをやったのだとすると。

目的は、未だ見えない。

 

ヨーツレットはアリアンロッドからの報告を受けて、唸っていた。

アリアンロッドはミズガルアに話を聞くだけでは無く、各方面から様々な情報を集めてくれた。クライネスやカルローネの談話も、目を通すとかなり興味深かった。

好戦性を失っているのは、グリルアーノだけでは無いと言う。

たとえばレイレリアだ。以前はかなり落ち着きが無い性格だったのが、まるで別の存在のように穏やかになったという。あの娘はとにかく五月蠅かった印象が強いが、そんなに変わったのか。

グラウコスはあまり変わりが無いようだが、少し前にグリルアーノと、平和が一番だと話しているのを、アリアンロッドは目撃したという。

そうなると、やはりミズガルアの仮説は正しいという事か。

グラに連絡をつなぐ。

戦略の話をするならクライネスだが、純粋な知恵者ならグラだと、最近はヨーツレットは考えている。クライネスは専門家としては優秀で、後方で参謀をさせると良い仕事をするのだが、前線に出すと途端に駄目になるように、知識にムラが多い。

それに対してグラは基本的に頭が良い上に、相手の話を良く聞くという長所がある。話をするなら、グラの方が適している印象だ。

グラは丁度仕事が片付いたところで、夕食が終わった後だったらしい。これから寝るところで済まないがと断ると、仕事の話なら仕方が無いと割り切って返してきた。

思えば、グラは重要な仕事を任せるに足る能力を、最近は充分に備えてきている。いずれ、魔王の補佐役として、魔王軍の政治面でのトップを任せられる日が来るかも知れない。軍政の傾向が強かった魔王軍では、貴重な存在だと言える。

「なるほど、聖主の手によって、人類も魔物も好戦性を失いつつあると」

「恐らく魔王陛下も、例外では無い。 今の時点では非常に良い方向に進んでいるように思えるのだが、何か懸念点は無いか」

もしもこれが聖主の仕業であったとしたら、完全に先手を取られたことになる。

今の時点で、キタン軍は既に撤退を完了。グラント帝国も、既に前線にいる戦力は半減している。

エンドレンに至っては、軍は解散して後方に下がりはじめていて、平穏が戻りはじめているとか言う報告さえあった。

ヨーツレットもそれに合わせて機動部隊を後方に下げ、また後方の拠点の補修と強化をはじめているが、今の時点ではそれ以外に備えることが無い。

特にキタルレア南岸の防衛施設は海軍に頼りきりでおざなりだったので、今後の事も兼ねて力を入れて補修するように手配してはいる。

「軍による侵攻という点では、多分もう警戒しなくても良いかと、私も思います。 ただ、気になるのは、聖主の目的です」

「奴の目的について、何か想像は出来ないか」

「聖主は、魔王陛下に対して執拗な攻撃をしてきていた記憶があります。 攻撃の数々も、魔王陛下を殺す事自体が目的になっていたように思えるのですが」

「だとすると、何を奴は求めている」

魔王はこの間の戦闘での傷がひどく、今は療養に努めている点は、確かにある。

だがそれ以上に、骨抜きになっているように、ヨーツレットには思えていた。

しかし、それはそれだ。

力が今は弱まっているとは言え、魔王は魔王。到達者であり、その気になれば世界を変えうる存在である事に違いは無い。

未だに健在なのだ。魔王は。

だとすると、聖主のもくろみは失敗したのか。否、どうもそうとは思えない。人間側の行動が、あまりにも事前から準備されていたようにしか思えないからだ。

「今は何とも。 人間側の偵察を念入りに行って、連中の内情を探っていくしか無いと思います」

「そう、だな。 焦りは禁物と言う事か」

「はい。 聖主との戦いでは、ただでさえ先手を取られがちだったと聞いています。 相手は人間の中でも超越者となるほどの智者です。 もしも今後戦いで先手を取られないようにするためには、精確な情報と確実な敵の把握が必要になるかと」

「うむ、参考になった」

グラが言っているのは、ごく当たり前の話だ。だが、しっかりと形にして示されると、水がしみこむように理解できる。

そうなってくると、今後戦闘はまず情報の探り合いが第一になるだろう。

バラムンクの兵力を強化して、情報の探り出しに力を入れさせるしかない。後は、人間側との交渉を進めながら、連中の企みを看破していくほか無いだろう。

人間と情報戦をやらなければならないというのは、ぞっとしない事態だが。敵も、此方の内情は理解できていないのだ。形勢は全体的には不利だが、一方的に圧倒されているというほどでは無いはずである。

「しかし、人間全体もまとめて洗脳しているようなものではないか。 聖主にとって、どんなメリットがあるのだろうか」

「人間の世界では、部下を洗脳することは珍しいのですか。 利権を最重要視するその特性から言って、洗脳くらいは平気でやりそうだと思っていたのですが」

「それは、思いつかなかった」

そういえば、同胞を強姦したり売り飛ばしたり、平然と殺す連中だと言う事を忘れていた。洗脳くらいはやっても不思議では無い。場合によっては、息子や娘を奴隷商に売ることもあると聞いている。そんな連中に、モラルなどある訳も無いか。

いずれにしても、これで調査の方針は定まった。

魔物は元々、人間に対して好戦性は少ない。今回の件での異常は、少なくとも味方にはさほどマイナスにはならないだろう。

問題は、これからのことだ。

まず聖主の目的を洗い出す。

魔王に何か悪影響が出ているのなら、それによる被害をできる限り食い止める。

もしも今回の件が良い方向に進むのであれば、容認して別の戦略を練ることも、視野に入れる。

グラとそれらを話し合って、通信を終える。

咳払いの音。部下達が、休むように言ってきた。

「まだ働けるが」

「軍医の言葉をお忘れですか。 貴方は全身がぼろぼろになっているんです。 もしもこれ以上働くというのなら、取り押さえてでも休ませますよ」

「分かった分かった、それでは、何か重要な報告があったら起こしてくれ」

「イニー師団長、貴方が見張りを。 抜け出さないように、しっかり見張ってくれ」

監視付きとは、気合いが入っていることだ。

ヨーツレットはとぐろを巻く。軍医が入ってきて、体のダメージを調べはじめた。傷はふさがりつつあるが、体の中に受けているダメージはまだ回復しきっていないという。

軍医はモグラの様な姿をした補充兵である。既に絶滅した地下生活をしていた魔物を、モデルにした存在らしい。

「これはいけませんな。 疲労が蓄積して、回復が遅れています。 このままだと、軍病院に入院してもらう事になりますよ」

「それは困るな」

「仕事量を減らしてください。 貴方には優秀な部下が大勢いるのですから、彼らを活用するようにするのです。 そうだ、仮設魔王城の温泉に入ってくるとよろしいでしょう」

それは、確かに魅力的な提案だ。あの温泉はとても心地が良くて、体が芯から温まるかのようだった。

くどくど説教をされた後、ようやく軍医が許してくれたのは、真夜中だった。

人間型師団長であるイニーが正座をしてこっちを見張っているので、もう出来ることも無い。寝ることにする。

しばらくうとうとしていると、夢を見た。

夢だと分かっているのに、それはどうしてか妙なリアリティを持っていた。

今まで死んでいった部下達が、何かを見上げている。それは、戦っている魔王と聖主だった。

あの凄まじい戦いは、今でも良く覚えている。巻き込まれずに済んだことを、幸運だと思って半ば忘れようとしているほどである。

戦いが続き、やがて聖主が吹き飛ぶ。

歓喜の声が上がるが、だが。

魔王が苦しみだした。そして、徐々にその体を覆うオーラの色が変わっていく。ほどなく、魔王は異常に穏やかな顔つきになってしまっていた。

着地した魔王は、まるで何かを成し遂げ、果てる寸前の老人に思える表情を浮かべていた。

「皆、これで戦は終わりじゃ」

いや、終わっていない。

元々聖主が出張ってくる前から、人間側の方が戦力的に遙かに強大だった。魔王が前面に出てきてなお、人間を圧倒することは出来なかったのである。単独で五万の敵兵に匹敵する魔王が、だ。

敵の戦力はまだまだ健在。それなのに、どうして戦が終わりという事になる。

こんな魔王は、ヨーツレットが知っている魔王では無い。

確かに心優しいお方だった。部下達の事は誰よりも愛し、意見が異なる場合は丁寧に話し合い、自分より部下のために泣ける。そんな方が、魔王だった。

だから、こういうことを言っても、おかしくはないのではないかと、一瞬思ってしまう。

違う。

魔王は、人間を誰よりも憎んでいた。世界の支配者を気取る傲慢な邪悪生物を、誰よりも憎み抜いていたのでは無いか。

奴らを滅ぼすまでは、戦を止めないと、何度明言したことか。

それだけではない。

現実的ではないとヨーツレットが何度諫めても、これだけは譲らなかった。ソド領の時も、いつ押さえている人間を皆殺しにするのだと、時々聞いて来た位である。魔王は、そういうお方だ。

立脚点は、孫の惨殺。

だが、今では、それ以上に、魔王軍のことを考えて、人間の根本的排除を画策しているお方。

目が覚める。

正座して見張っていたイニー師団長が、顔を上げた。どうやら正座したままで寝ていたらしい。よだれを慌ててぬぐうイニーがほほえましかった。人間型師団長の中では、比較的人間に近い姿であり、異物になっているパーツも背中に生えている翼だけである。その翼は、蜻蛉の薄いものだが。

手にしている長槍に蜻蛉斬りと名付けて愛用している此奴は、ちょっと変わり者の生真面目武人である。だからこそに、見張りを周囲から押しつけられたというわけだ。

「お目覚めですか」

「ああ」

最悪の目覚めだと、ヨーツレットは言いそうになって、押しとどめた。

一度仮設魔王城に戻る。

そして、温泉に入りながら考えた。ひょっとして、魔王は既に、死んでいるのも同然なのでは無いのか。

確かに今までも、現実的にものを考えて欲しいなあと思うことは、何度となくあった。だが、これは少しひどすぎる。

これでは、牙を抜かれた虎では無いか。

自分まで、牙を抜かれそうになっているような気がして、ヨーツレットは慄然とする。人間はよりひどくこの世界改変の影響を受けているようだから、軍勢による侵攻は考えなくても良いだろう。

だが、これは。

或いは、聖主がもくろんでいたのは、魔王の抹殺だとすると。全てが、上手く行ってしまったのでは無いのか。

だから、もう手を出してこないとなると、確かに納得がいく。

今の状態で、人間と魔王軍の勢力は、極めて安定していると言える。もしも聖主が、文字通りの意味での世界征服を画策していたとすると、これは全て計画通りの結実なのでは無いのか。

震えが来た。

やっと此処に到達できたと言うべきなのか。魔王は既に死んだも同然。人間達ははっきりいって木偶も同然だ。

これからどうやって料理しようが、聖主にとっては掌の上。

魔物だけでは無い。人間も、全てだ。

温泉から手早く上がると部下を探した。こういうとき、服など関係ない姿である事は便利だ。

「パルムキュアに連絡を」

「はい。 すぐに手配します」

「急げ」

パルムキュアを通じて、人間側と連絡を取る。勇者と話を付けておいた方が良いだろう。

このままでは、負ける。

いや、それ以上にひどいことが、起きるかも知れなかった。

 

2、追撃

 

襲撃があったのは、早朝だった。ユキナ陛下に近々出頭するように言われた翌日のことである。

ジャドは丁度留守にしている時間帯だ。いや、それは偶然では無いだろう。事前に、念入りに調べていたという事だ。

ジェイムズは勘が働く。

何しろ研究の内容が内容だ。今までも、過激派をはじめとする様々な連中に、消され掛けた事がある。その上、人間を止めてから勘の鋭さには更に磨きが掛かっている。だから、気付いた。

いつもジェイムズは、寝るときに笛を下げている。ホイッスルと呼ばれる形式のものであり、弟子達は皆がこれを聞くと即座に反応できるよう訓練している。

だから、笛を吹き鳴らすと、即座に集まってきた。

「襲撃だ。 研究材料は残して逃げる」

「分かりました」

「表にいる警備は駄目だな。 時間だけ稼いで貰うか」

ユキナが派遣してくれた護衛の部隊がいるにはいるが、これだけ勘が働くと言う事は、多分手も足も出ないか、或いは事前に買収されているだろう。

小さな砦を改修した研究所の地下へ地下へと潜る。途中石戸や仕掛け扉をことごとく施錠しながら、奥へ。

人間を止めてから、体力も上がってきている。昔より、かなり足取りは軽かった。

「マスタージェイムズ。 この下は」

「ひひひひひ、儂は研究所を作るときは、必ず逃げ道を作ってから研究を始めるんだが、下がそれよ」

「知りませんでした」

「教えていなかったからなあ」

つれている弟子達は、周囲には教えていないが。

誰も、生きた人間では無い。

殆どが各地で拾った瀕死の人間や、性格破綻者、それにもらい受けた死刑囚に実験を施した存在だ。

勝手と違い、闇の福音を手に入れる前から、ジェイムズは様々な実験を行っていた。そういった実験で、身体能力を上げたり、心を壊したりして、様々な弟子が出来た。筋骨隆々の、覆面をしたこの男達は、存在自体がジェイムズの研究成果なのだとも言える。

もっとも、ジェイムズの脳内には、今までの研究成果が全て納まっている。

仮に身一つで逃げることになっても、痛くもかゆくも無いが。

追撃がかなり早いようだ。犬や何かを使っているのかも知れない。

「ブラックスライム解放」

「分かりました」

弟子の一人が、魔術で作った指輪を、指先でひねり潰した。

同時に、後方で厳重に封じられていた牢が、解放されるのが分かった。研究成果の中で、特に危険な奴を入れておいた牢だ。

どれほど強力な追撃部隊でも、簡単に勝つことは出来ないだろう。

「さて、下へ……」

つぶやき掛けて、ジェイムズはとっさに口をつぐんだ。

近い。

勘が告げている。予定通りに行けば、多分死ぬ。敵が何者かは分からないが、恐らく先回りされている。

弟子達も、ジェイムズの様子を見て、押し黙った。

「道を変えるぞ」

少し考えた後、ジェイムズは決めた。若干危険度は高いが、多分予定通りに進んだら、死地に陥る。

今までは、砦地下にある洞窟を通って、地下水脈をたどって脱出するつもりだった。

だが、今度は砦の地下水道を通り、かなり垂直勾配が高い縦穴を使って脱出する。当然滑るし、落ちたら死ぬ。

だが、今は此処しか無いのだ。

 

聖主は、ジェイムズを消すべく二つの手を打っていた。

一つは研究所の警備員を、そもそも買収することである。警備をしていたのはさほど質が高くない兵士達であった。

これには事情がある。

少し前まで、この研究所はアニーアルス出身の精鋭が守っていたのだ。だが、停戦後各地で今までおざなりになっていた施設や設備の警備が重要になってきた。今まで外に向いていたマンパワーが、内側に向き始めたからである。

そこで、ジェイムズと話し合って、警備兵の質を落としたのである。

警備兵はそれこそ、暇さえあればたばこを吸ったり賭け事をしている者達で、買収にも容易に応じた。

ただし、此奴らに要求したのは、突入口を確保することだけである。

中に突入させたのは、融合不死者兵だ。しかも憎悪充填型の奴を七体である。

ジェイムズは研究内容から言っても、それなりに強力なガーディアンを有している可能性が高い。当然の措置であった。

そして、もう一つ。

この砦を以前根城にしていた夜盗を見つけ出したのである。これに関しては、エル教会の人脈を駆使すれば簡単だった。

夜盗はすっかり福音の作用でおとなしくなっており、少し尋問するだけで全ての内容を吐いた。乱暴な手段を用いる必要も無く、神への信仰を欠かさなければ地獄に落ちずに済むと説いただけである。

それだけで、夜盗は涙を流し、己の罪を全て告白した。

西ケルテル軍に叩き潰される前に、この夜盗は砦を根城にして、悪逆の限りを尽くしていた。当然砦の内部構造も全て把握しており、抜け道もしっかり知っていた。

だから、その脱出口にも、何体かの融合不死者兵を派遣した。

これで、だいたいの仕込みは終わった。だが、どうも聖主には、これでも足りないような気がしていたのである。

腕組みして、考え込む。

新しくジェイムズが脱出口を見つけていたり、発見していた場合は。

その場合にも、備えてある。

既にこの辺りには広域の探索術式を掛けてあり、ジェイムズを見つけたら即座に対応が可能だ。

では、勇者とその配下を増援として呼んだ場合は。

いずれの事態についても、手は打ってある。これほど偏執的に追い詰めるほどの相手ではないと、聖主も思うのだが。しかしながら、わずかでも不安要素は取り除いておいた方が良い。

ましてや、此処のすぐ側に勇者がいるのだ。

今の聖主は、かなり戦闘力が落ちている。目的を達成するためにリソースの大半を割いていたから、仕方が無い部分はあるのだが。それにしても、勇者と戦ったらかなり危ないだろう。

護衛も付けているし、切り札もある。

だが、今までの直接戦闘での戦果の悪さを見る限り、あまり聖主自身の戦闘における運は期待出来ない。

同じ力の持ち主と戦ったら、後れを取る可能性が高いと見た方が良いだろうと、聖主は自分のことを冷静に見ていた。

山の奥に作られている研究所に、融合不死者兵が踏み込んでいく。

腕組みして、状況を見つめる。中で大きなトラップが発動したらしい。融合不死者兵が、交戦状態に入るのを、聖主は確認した。

「かなり手強い相手のようです。 研究資料として回収することを諦めますか」

「そうしろ。 薙ぎ払え」

「分かりました」

ナビゲーターとして連れてきている側近の大司教が、情報通信球で指示を出している部下達に、命令を細かく下していく。

数分の戦闘の結果、ガーディアンは排除された。

ジェイムズはまだ捕捉できないという。出口にいる融合不死者兵達は、今だ敵を確認できていない。

「ほう。 意外に逃げが巧いな」

「如何なさいますか」

「二匹、追加で近くに展開。 別の抜け道からジェイムズが出た場合、追撃して捕捉する」

「分かりました」

大司教が指示を出すと、キャリアとして使っているステルス航空機から、二匹の融合不死者兵が追加される。

以前も用いた円盤形の航空機である。戦闘能力はほぼ有していないが、機動力と速度から重宝していた。しかも光学ステルスも有しており、魔術による擬態すらも施している。魔王には捕捉される可能性があるからキタルレア北西部には入れられないが、それ以外の地域だったらこれで好き勝手に移動可能だ。

程なく、入り口から突入した融合不死者兵達が戻ってきた。

手に手に研究資料を持っている。聖主はそれらに目を通していくが、かなり高度な研究を、独自に行っているのが分かった。

闇の福音についても、相当な所まで独学で研究を進めている。それだけではない。福音についても、一部理解している様子があった。

これは天才と言うより、鬼才と言うべき存在だろう。

一世代に一人出るか出ないかというような、常識外の能力の持ち主である。とりあえず、殺してからはその知識と頭脳、遺伝子を保存しておこうと、聖主は思った。

どうやら抜け穴から逃げられたか。後はどこに逃げたか、捕捉する必要がある。

聖主は展開している術式の隅に、奴が姿を見せたのを捕捉した。目を細めたのは、相当な遠くであったから、である。山裾の、しかも此方とは反対側だ。

「追え。 人里に入る前に殺せ」

追加で出した融合不死者兵が、すぐに追い始める。

買収しておいた兵士達は、既に報酬を受け取ってこの場から消えている。余計な目撃者を消さずに済むようにしたいものだ。

聖主は山頂に向けて歩く。

其処からなら、山裾と、広がる平野が一望できる。普通の人間であれば、夜闇に紛れる相手など見つけられないが。聖主は違う。すぐに、ジェイムズと、その弟子達を捕捉した。話には聞いていたが、実験台にした連中を弟子にして、不思議な信奉を得ている。一緒にいる筋肉質の男達は、皆そうなのだろう。

人間相手にはそこそこ戦えそうだが、しかし。憎悪充填型の融合不死者兵相手には、無力に等しい。

猟犬のように、二体の融合不死者兵が追いすがる。

ジェイムズはそれほど足が早い方では無い。だが、途中から、弟子達が担いで逃げはじめた。

舌打ちしたのは、軍の一部隊が、偶然其処に通りすがった事である。

指を鳴らして、追撃を中止させる。どうやら奴は命を拾ったらしい。今、聖主もこれ以上は事を荒立てる気は無い。

いずれにしても、暗殺の機会など、いくらでもあるのだ。

現時点で必ず殺さなければならない、というわけでもない。そして、聖主による攻撃であるなどという証拠は、一つも残していない。

「奴の研究資料を全て回収後、撤収」

「よろしいのですか」

「かまわん。 別に機会など、いくらでもある」

言い捨てると、聖主は闇へと消えた。

 

軍の輸送部隊が、身一つで研究所から逃れてきたジェイムズを保護してきた。ユキナが話を聞こうと、呼び出した矢先であったという。イミナはシルンと一緒に、奴を保護しているという一階の一室に向かった。長いすがある広めの部屋であり、既に護衛のプラムと、機嫌が悪そうなレオンもいた。偉そうに長いすにふんぞり返っていた狂気の科学者は、シルンを見ると、いきなり満面の笑みを浮かべた。

「おお、我が友の愛する者よ!」

「い、いきなり何!?」

あまつさえ飛びつこうとしたので、イミナが中途で割って入って、顔面に拳を叩き込んで撃墜する。床でもがいていたジェイムズは、何事も無かったかのように立ち上がると、白衣の埃を払う。それだけで、凄い異臭が周囲に充満した。

洗濯どころか、多分この男、風呂にも入っていないだろう。

レオンが忌々しげに言う。

「何があった。 貴様の顔は、出来れば見たくないが」

「それが、暗殺されかけてなあ」

「暗殺!」

「腕自慢の弟子達も歯が立ちそうに無かったから、さっさと逃げてきた。 研究資料も、ぜーんぶ取られてしまったよ」

けたけたと笑うジェイムズ。白髪を遠慮無くぼりぼりかくので、更に異臭が周囲に広がった。

弟子達もこんな様子だろう。

侍女達に言って、風呂を用意させる。城の中には、王族が使うもの以外に、幾つか風呂が用意してあるのだ。

ついでに白衣も洗濯させたが、こっちの汚れは、どうしても落ちなかった。

仕方が無いので、新しい服をイミナのポケットマネーから用意させる。活動資金として、ユキナから渡されている分だ。白衣を買うくらいは別に問題ないが、ジェイムズは色々と注文を付けてきたので、皆憤慨した。

「あんな異常者に、なんで好き勝手言わせておくんですか!」

「今後必要な人材だからだ」

怒っている騎士をたしなめる声。

騎士達が咳払いして、居住まいを正す。ユキナだった。

ユキナは部屋に残っている異臭を、あまり気にしていない様子である。長いすに座る動作も、王族の風格が漂っていた。

「話を聞かせて貰えるか」

「はい。 ジェイムズによると、謎の勢力により、暗殺され掛けたと言う事です」

「妙だな。 彼処には……そうか、アニーアルス出身の兵士達を、よそに回したばかりであったな」

「そういうことがあったのですか」

レオンが色々とユキナから話を聞いていく。

眉をひそめたのは、イミナだけでは無い。シルンもすぐに気付いたようだった。

「という事は、お姉。 暗殺をしようとした人たちって、此方の内情に通じているって事なのかな」

「間違いなくそうだな。 キタンやグラント帝国では無いだろう。 ましてや間違いなく、魔王軍でも無いな」

「陛下、心当たりはありませんか」

「ジェイムズの性格のことを考えると、ありすぎるほどだ。」

研究内容もそうだし、あの傍若無人な性格のこともある。ジェイムズを疎ましく思っている者など、確かにいくらでもいるだろう。

だが、それが暗殺にまで結びつくと言うのは、不可解だ。

戦争が終わったことで、西ケルテルは急速に戦時体制が解除されつつある。その結果、今まで日陰者だった文官達が、一気に力を増している。逆に軍人は、戦争中は得られていた高い評価が、反比例して下がりつつある。

今はさほど深刻では無いが、今後は権力争いが始まるだろうと、イミナは思っていた。

だが、不思議な事に。

今のところ、内紛らしい内紛は起きていない。そればかりか、争いになりそうな雰囲気が発生すると、それぞれが妥協点を見つけて引いてしまうのだという。

「今の状態は、正常とは言いがたい。 だがそれが故に、暗殺の可能性も、高いとは言えない」

「そうなると、一体誰が」

「調査を進める必要があるだろう。 騎士団を派遣して、現場を調査。 警備に当たっていた兵士達は」

「既に行方をくらませております」

国境に早馬を送ってとらえよと、ユキナは指示。

だが、現状から考えて、国境線にはいくらでも隙間がある。特にソド領か何かに逃げ込まれたら、もはや手出しは出来ないだろう。

ジェイムズが戻ってきた。

侍女や侍従達は、皆渋い顔をしていた。此奴はもうとっくに人間を止めているし、それは周知であったのだが。よほどおぞましいものを見せられたのだろう。その中で、上機嫌なジェイムズだけが浮いていた。

「いやー、よい風呂でした! 堪能させて貰いましたぞう、陛下ぁ」

「そうか。 それで、暗殺について聞かせて貰おうか」

「ふーむ、そうですなあ。 儂は人間を止めてから、妙に勘が働くようになって、それで事前に察知できたのですが。 どうもあれは、あまりにも実力がありすぎて、普通の暗殺者ではないように思えましたなあ」

「普通の暗殺者では、ない?」

「そうそう。 儂がおいておいたガーディアンも、あっさり潰してくれたようですし」

此奴が研究の結果作り出したガーディアンをあっさり倒すとなると、考えられる存在はそうそう多くない。

魔王軍の精鋭か、それとも。

嫌な予感がふくれあがる。

「そんなことが出来る奴は限られる。 少なくとも、純粋な人間にはかなり難しいだろうな」

「ああ、気配から言って人間じゃあなかったねえ」

「そうなると、魔王軍か」

「いや、それは考えにくい」

レオンの言葉に、イミナは返す。

魔王軍だったら、多分そんな姑息な真似はしない。この間の会議でも思ったが、そもそも彼らは人間と違って、「いかなる手を使って」もの部分が欠落している。仮にそう思ったとしても、もっと堂々とやるはずだ。

これは人間側の陣営の仕業、という事になるだろう。

そうなると、思い当たるのは。

「融合不死者兵……」

「キタンで実用化されているあれか。 最新鋭のものは、魔王軍の精鋭に匹敵する戦闘力を持つと聞いているが」

「戦ってみたいなあ」

ぼそりとプラムが呟く。

この間の会議では、結局戦う機会が一切無かったし、最近はガルフ以外まともな敵と交戦していないから、退屈らしい。

「分かった、私からキタンに確認する。 しかしおかしいな。 ジェイムズ、そなたにキタンに暗殺される謂われは?」

「ありすぎるほどだが」

「そうか。 いずれにしても、今のは予測の一つに過ぎん。 銀髪の双子は此処に残って欲しい。 レオン、騎士達をつれて、研究所を調べてきてくれるか」

「分かりました」

自然にユキナがリーダーシップを取り、話し合いは終わった。

出て行こうとするレオンに一声掛けておく。

「何かあっても、深追いはするな」

「分かっている。 プラムを連れて行っても、魔王軍の幹部並みの相手がいたら、手に負えないからな」

レオンが出て行った後、侍従に聞かされる。

ジェイムズの体は既に異形そのもので、体中に目とか口とかがあったという。それだけではなく、入った風呂は異臭がひどく、洗い流さなければならなかったそうだ。

嫌悪に満ちた愚痴を、適当に流す。

イミナもシルンも、既に人間では無いも同じだ。そして、彼らが敬愛するユキナだって、それは同じなのだ。

魔王が言うとおり、やがて人間は、シルンを忌むようになる。

それは予言でも何でも無く、規定の未来だとは分かっていたが。どうやら魔王が恐怖の対象では無くなった今、そう遠い未来のことでも無い様子だ。最前線のアニーアルスでさえそうなのだ。

他の場所で、闇の福音を体に入れた奴はどうなることか。

ジェイムズは気にくわない奴だが、その暗殺が実行されてしまえば、今後更に迫害への流れが加速する気がする。

できる限り、守らなければならない。そうイミナは思った。

 

二日ほどで、レオンは戻ってきた。

研究所の跡地はすっかり空っぽになっていたという。研究資料はおろか、サンプルの類まで全て持ち去られていたそうだ。

敵と交戦するどころか、その痕跡さえ無かったと、プラムはぼやく。不満がありありと顔に表れていた。

「せっかくオーバーサンがあるのになあ」

「プラム、貴方の剣はそんなに軽いものなのか。 悪を払う光の剣であるはずだが」

「はいはい、分かってます」

不満そうだが、プラムはレオンの言う事は良く聞く。中庭に調練に出かけるとプラムが言うので、騎士達が連れて行った。プラムの能力は、なんだかんだで優れた使い手達にとっても垂涎の的なのだ。近年は身体能力も上がっているし、もう少しすればシルンの実力に匹敵するかも知れない。

プラムが行った後、クドラクが来る。

「調べてみましたが、キタンにおかしな動きはありませんな。 恐らく、暗殺者が融合不死者兵だったとしても、キタンの差し金では無いでしょう。 ジェイムズ殿は、キタンに別に恨まれても邪魔だとも思われていないようですし」

「本人には、恨みを買う覚えがあるようだが」

「あの御仁は、人間を全部自分のオモチャだと思っている節があります。 おそらくは、それが故に他の誰からも恨みを買って当然だとも思っているのでしょう」

頭はおかしいが、案外フェアな思考をする奴だ。勿論、周囲の人間は、ジェイムズに異常者というレッテルを貼っているだろうから、そうは思わないだろうが。人間はレッテル貼りをすることで他者を貶め、自分の地位を高く思うことで、精神的な安定を保とうとする傾向がある。

まあ、馬鹿にしているジェイムズと同レベルという事だ。そういう意味では。

ただし、今回のケースでは、ジェイムズはキタンから、別に殺したいほど恨まれている、というわけではないとはっきりした。

そうなると、相手は誰か。

恐らく、消去法で行けば、一人しか該当者はいない。

「聖主か?」

「しかし、聖主とやらにジェイムズを殺す事で、何かメリットが生じるのでしょうか」

「そうだな、それが分からない。 それに周到な暗殺の割には、失敗したら二度目、三度目を仕掛けてこない理由もよく分からないな。 勝つためには大陸ごと吹き飛ばすような策を使う奴だったのだが」

「エル教会に探りを入れてみましょうか」

「いや、それは私がする。 以前南の大陸に乗り込むルートを確保してくれたな。 あれを使って、直接南の大陸を探りに行きたいと思うのだが」

勿論、ジェイムズも連れて行く。

それで、多少は敵の動きが見極めやすくなるだろう。

「かなり危険が伴う気がしますが」

「それならば、ここにいても同じだ。 敵の手が届くところに行けば、むしろ動きが分かり易くなるだろう」

勿論、細心の注意を払う。

それに、今聖主がどれほどの勢力を持っているかも、よく分かるだろう。

イミナは、聖主を殺すつもりだ。聖主のいる場所に、シルンを据える気でもある。そのためには、まず聖主を見つけ出さなければならない。

何より、イミナが聖主だったら、福音システムを南の大陸に移設するだろう。発見するためにも、まずは南の大陸へ行くことだ。

「陛下に、南行きを告げてくれ」

「シルン様はどう思われますでしょうか」

「私が説得する」

もしも戦いが生じるなら。これが恐らく、決戦になるだろう。

勝算はある。

 

数日の間に、準備はとんとん拍子に進んだ。

ユキナはずっとジェイムズに尋問していた。この世界に起こりつつある異変について、だ。ジェイムズは、それがどうも世界の法則が書き換わった可能性が高いと返答していた。

なるほど、と思う。もしそうならば、余計に聖主からは目を離せないだろう。魔王は世界のルールを変えようとはしていなかったように思える。聖主は、そうではなかった。手を下したのは、聖主以外にあり得ない。

グラント帝国が撤退したことで、再び混沌が生じつつある南部諸国の一角、リレ連邦。その領土であるカマル港は、典型的なリアス式の海岸で、少し前まではひっきりなしにグラント帝国の輸送艦隊が、兵士や兵器を上げ下ろししていた。その巨大な戦艦群は、まるで海を埋め尽くすかのようだったのだが。

今では、グラント帝国の関係者はわずかしかいない。当然かっては海を我が物顔に行き来していた巨艦の群れも、まるで台風に吹き飛ばされてしまったかのように、存在していなかった。

勿論実情は違うのだが、そんな錯覚が生まれるほど、異様な光景であった。グラント帝国が、キタルレア大陸東に広がる巨大な領土からかき集めた軍用艦は、それだけ途方も無い数だったのである。

かってこの港は、リアス式の優れた利便性を生かした海運の街だったらしいのだが、経済不安やグラント帝国の接収、何より政治的混乱を経て、現在はゴーストタウンに等しい状況である。

もとの支配者層などとっくの昔に何処かに雲隠れしている。グラント帝国に消されたという噂もあり、もしもそうなら手を下したのはテスラだろう。それにこの状況下では、小国であるリレ連邦に、なすすべなど無かっただろう。

港に停泊している一隻の戦艦が、西ケルテルが用意してくれたものである。グラント帝国からの支援物資の一つである。

「聖主主導の暗殺計画が行われたとして、奴がまだこの大陸にいる可能性は」

「いなくても良い。 南の大陸は奴の本拠。 そちらにわれらが直接乗り込んだということ自体に意味がある」

会話をしているのは、此処まで視察という名目できてくれたユキナである。話を受けているのは、当のテスラ自身だ。

テスラの背後には、フードで姿を隠した若者がいる。誰だかは分からないが、護衛に相当な腕利きがついている以上、相当な高位についている人間だろう。或いは、グラント帝国の皇帝カルカレオスかも知れない。

テスラは腕組みし、糸のように目を細めた。

「止めはしませんが、自殺行為になりませんか」

「赴くのは、人類側で最強の戦力だ。 これで自殺行為になるようなら、他に手の打ちようはないだろう」

「それは確かに……」

「それに、そろそろ聖主について、各国首脳で話をする場を設ける必要もあった。 あなた方とキタンが連携して、聖主に関する情報を裏で魔王軍に流していたのは知っているが、それもしっかりした連携では無かったことも既に分かっている」

各自に行動した結果、魔王軍が適切な対応をした。そんな内容だったと、ユキナは指摘する。

プラムが船から下りてきた。中はとても広くて、遊び場に事欠かないとレオンに言っている。レオンは頷きながら、同行する武官達と、搭載している兵器について話をしている様子だ。

イミナはというと、ユキナとテスラの話を横目に、シルンの蔵書を積み込ませている。

今回、航海中にまとまった時間を作ることが出来る。その間に、到達者になってしまうつもりであった。

計算上どうにかなる。後は、できる限り邪魔が入らないように、巧く立ち回っていくほかない。

「しかし、表だって反逆を開始したら、何をしてくるか」

「いや、それは心配ない。 調べてみたが、貴方の軍も、とっくに骨抜きにされているようだな。 聖主の目的は、まさにそれだろう。 今更軍を使って攻勢に出ることは出来ないし、何より意味が無い」

「……どこでそれを」

「グラント帝国軍だけではない。 キタンも、それに私の軍の精鋭部隊もだ。 戦意というものが、心の中からごっそり抜け落ちてしまっている。 それだけではない。 魔王軍でも、同じ事態が進行している様子だ」

ユキナがぶちまけた事実に、テスラの後ろにいた若者が咳払いする。ジェイムズとの会話から、推論で導き出したものなのだろうが、それにしても的確にグラント帝国の得ている情報と一致していた、という事なのだろう。

嘆息すると、テスラは言う。

「あなた方の情報収集能力を、侮っていたようですな」

「これでも人間と魔王軍の勢力境界で、両者の圧力を受け続けてきたのだ。 これくらいできなければ、とっくに西ケルテルは滅亡している」

「なるほど、分かりました。 近々ハーレン王と我らが皇帝陛下の間に秘密の会談を持つ予定でしたが、その際に貴方もお呼びしましょう」

話がまとまった様子だ。

さっきの反応からして、後ろにいた若者がやはりカルカレオスだろう。雰囲気から言って、おそらく人間を止めている。魔王による鏖殺を避けるための処置だったのだろうが、今後は如何にそれを隠していくかが、この若者にとっての人生の焦点になる。勝つためとはいえ、悲しい結果である。

とはいっても、シルンについても他人事では無い。

イミナにとってもだ。

気付いて愕然としたのだが、師についての復讐心が、最近極めて希薄になってきている。魔王軍との戦いのモチベーションを保つのに、師を殺されたことは役に立っていた。実際問題、イミナとシルンにとって親と言えたのは師だけであり、あの人を殺しただけで魔王軍を許せないと思ってもいたのだが。

ここしばらくは、あれは戦いだったのだから、やむを得ないことだと思うようになっている自分がいるのだ。

おかしいと思ったときには、もう復讐心は薄れ果てていた。

船の上から、シルンが海上を見つめているのが見えた。後のことはユキナに任せる。戦場に上がると、シルンが無言で指さす。

じっと目をこらすと、見えた。

巨大な何かが、こっちと距離を取ったまま回遊している。鯨などとは比較にもならないほど大きい。

「あれは……」

「多分、魔王軍の補充兵だよ。 少し前から、存在は確認されていたみたいだけど、交戦記録は無いみたい」

「大きいな。 前に見かけた二枚貝みたいのとはまた違うが……」

「あれは輸送用も兼ねていたみたいだけど、こっちは完全に戦闘目的で作られたみたいだね。 この船が襲われたら、ひとたまりも無いよ」

だが、その恐れは無いだろうと、イミナは思う。

というのも、今魔王軍に、人間に攻撃を仕掛けるメリットが無いからだ。洋上に出てから暗殺目的で攻撃をするにしても、魔術がある世界では、それでも確実な証拠隠蔽は難しい。

しかもこの船をピンポイントで見張っているという事は、シルンがいる事に気付いている可能性が高い。それならばなおさらだ。

ユキナが船に上がって来た。 どうやら話がついたらしい。

「南の大陸は、長くエル教会が寡占状態に置いてきた。 学問目的で行って帰ってきた者はかなりいるが、それでも内陸深部まで行った者は殆どいない。 どうなっているか全く分からないから、気をつけて欲しい」

「分かりました」

「あの大きいのは」

「此方の見張りだと思います。 多分仕掛けては来ないでしょうが」

仕掛けてきた場合は、シルンとイミナでどうにか撃退するしか無い。ある程度覚悟も決めるほか無いだろう。

勝てないとは思わないが、なにしろ海上だ。

船が無くなれば、如何にシルンといえども危ない。人間とは、そういうものだ。

荷物を積み込んだ後、出航する。勿論ユキナは此方に残る。騎士団の精鋭が常時護衛につくが、出来るだけ早めに目的を達成する必要があるだろう。

聖主を倒すか、その勢力の状態を確認する。決戦に持ち込めればよし。上手く行かなくても、その勢力をある程度削るか、しっかり内情を確認したい。

聖主が信頼出来る存在なら、こんな事はしなくても良いだろう。

だが奴は、目的のためなら大陸ごと爆破しかねない輩だ。しっかりその存在を、見極めておく必要がある。

船の中では、ジェイムズが待っていた。

ここにいた方が良いだろうと言うことで、連れてきたのだ。勿論大喜びしていた。弟子達もろとも船に乗り込んだジェイムズは、南の大陸がどんなところか見てみたいと満面の笑顔で言い、イミナを呆れさせた。

 

出航する船を見下ろす影あり。全身を覆うローブを着込んでいるが、妖艶なボディラインまでは隠すことが出来ない。

聖主である。カマル港はリアス式の海岸であるため、発着する船を見下ろせる場所は周囲至る所に存在する。かっては見張り小屋や櫓もあったのだが、今では全く機能していない状態だ。

ジェイムズを仕留め損なったことは別に構わない。

今、このタイミングで勇者と銀髪の乙女が南の大陸に向かうのは、どういう意図でなのか。聖主の本拠地を探るためか、或いは。

聖主そのものを危険と判断し、倒すためか。

自身を露出させないことが、失敗だったかと聖主は思った。どのみち、もう聖主の目的は達成されている。聖主がやろうとしていることは、世界平和と人類の進歩である。人類の凶暴性を押さえることで進化のスピードは遅くなる可能性があるが、その代わり平穏に他者との共存を考える事が出来るようになる。

魔王は既に、元の性質を失った。その時点で到達者であっても聖主の敵ではないし、もはや魔王ではないともいえる。力のある呆け老人に過ぎず、別に殺さなくても問題は無い。

だが、勇者については話が別だ。

奴は民の間で、戦争の英雄となっている。魔王軍と一番分かり易い形で激しく戦い、場合によっては軍団長級の魔物さえ退けてきたのだから当然だ。今後勇者が成長すると、聖主の予想を超えた行動を取る可能性が高い。

悩ましいところだ。

後ろから、歩み寄る影。

のっぺりした顔の、耳が長い大男だ。目には感情が存在していない。

実験的に作ったフローネスである。

フローネス本人はガルフによって殺されてしまったが、その意識や記憶は移植することが出来た。この男の肉体は、可能な限り知能が高い実験体の中から厳選したものである。異形なのは、スペックを重視して、容姿は一切気にしなかったからだ。

「聖主サま」

「どうした」

「ガルフの残りヲ見つけました。 これから座標を転送します」

「うむ」

確認。所々片言になっているが、優秀な事に変わりは無い。実際問題、既に五匹のガルフを発見し、屠るきっかけを作ったのだ。

ガルフは。

此奴が言ったとおりの座標にいた。

キタルレアの東端である。随分逃げたものだ。大胆にも既に朽ち果てたエル教会に住み着いているでは無いか。

地下墓地の奥に引きこもっている。其処を拠点にして、人間達とのパイプを作っていたか。

今、残ったガルフは二十を切っている。指を鳴らして、バックドアから意識に侵入。

そのまま、自殺コードを発動させた。

ガルフの首から上が、綺麗に吹っ飛ぶ。ガルフに与えてあった魔力が、死に向けて暴発したのだ。勿論即死である。ガルフは恐らく、自分の体にこんな仕掛けをされていたとは、気づきもしなかっただろう。

他にも、複数いる場合は周辺への殺意を暴走させて同士討ちにしたり、或いは頸動脈を刃物で切り裂いたりと、様々な方法で自殺させることが出来る。別に自殺にこだわりがあるわけではない。単に人間が編み出した方法を、順番に試しているだけだ。

フローネスは、かくかくと機械のように頷くと、その場から歩み去って行く。

蘇生はさせてみたが、あれはもう駄目かも知れない。かっての、聖主を操って世界を裏から支配しようとしていた男の物陰はもう存在していない。仕事は、出来る。ただしもはや心は再生できない。

ただの抜け殻を、能力だけ再現してよみがえらせてしまった。

今、聖主には相談が出来る部下がいない。

一人でいくら能力が高いとは言え、これは大きな失点だった。ガルフが裏切らなければ、こんな事にはならなかったのだが。

まあよい。聖主が死んでも、今後計画が動かなくなることは無い。

現時点では南の大陸に隠してある福音の制御部分には、ある仕掛けを施してある。魔王でも、勇者でも、それを壊すことは不可能だ。

或いは、南の大陸に直接足を踏み入れる事で、聖主に心理的圧迫を加えるつもりか。それならばそれで分かり易いのだが。

もう一度、直接話をするか。

その方が良いかもしれない。明らかに第三勢力の状態に置いておくよりも、勇者は敵にしても味方にしても、コントロール出来る状態の方が扱いやすい。敵にしておくにしても、味方にしておくにしても、勇者は駒として大変有用だからだ。

ただ、それも考え直す必要が生じているかも知れない。

この後、福音の影響により、この世界からは確実に戦争が減っていく。それだけではない。過剰競争が薄れ、人口増加も抑制され、最終的に宇宙に出る頃には、銀河連邦の者達も認めるほどに精神文化を発展させていることだろう。

つまり、戦争によって立脚する存在である英雄や勇者は、不要になるかも知れない、という事だ。

少し考え込んでから、聖主は決断する。

「そのまま殺すのももったいないか。 投資をしている相手だ。 話をしてからでも遅くは無い」

それに、聖主は思わぬ所からでの敗戦経験が多い。魔王が相手の時は仕方が無いとも思ったが、根本的に戦に関する運が不足しているのかも知れない。それは恥ずかしい事では無く、そういうものだと思って、対処してゆけば良いのだ。

つまり、出来るだけ戦わない方向で話を進めて、更に策の成功率を上げる。それで良いのである。

「誰か」

「此処におります」

手を叩くと、フローネスが来た。他の司教達は、全員で払っている。南の大陸に戻っている者もいれば、キタルレアで暗躍しているものも。

皆精力的だ。

これ以上は働かなくても良いのは分かっている。だが、どうも聖主としては、人類の未来を完璧な形で仕上げたい。

既に勝っているのに、欲望は尽きないからおかしい。

「快速艇を用意せよ。 あの船に乗り込む」

「分かりました」

「中途で捕捉すればいい。 親衛艦では無く、グラント帝国から適当に調達せよ」

「御意にゴざいます」

フローネスは、危なっかしい足取りで、港へ消えていった。

補助に付けているシオン会の連中も、不安そうにフローネスを見ているという。前の化け物じみた姿とは別の意味で気味が悪いから、だそうだ。

まあ、そういった阿呆な性質も、そのうち修正してやる。今は戦意を人間から四割ほど取り除いただけで充分だ。

福音は、そのうち自己学習を進め、最終的には世界を神が統治したかのような理想郷に変えるだろう。

そのためにも、聖主は。

座視して待つだけではなく、積極的に行動していきたかった。人類の未来のために。

 

3、魔王の安息

 

キタルレアにある仮設魔王城と違い、フォルドワードにある魔王城は、ドワーフたちの凝り性があまりにも爆発した結果、今だ未完成である。完成にはあと百年かかるとさえ言われている。

ただし、城としての機能は既に完成している。ドワーフたちがかってない魔王の城を作ろうと複雑怪奇奇々怪々な設計図を持ってきて、それを大まじめに構築しているので、誰も口出しが出来ないのだった。

魔王はまだ若干埃っぽい玉座の間につくと、感動のあまり震えてさえいる魔物の代表者達に声を掛けた。まだキタルレアにいるヨーツレットと、諜報中のバラムンク、それに療養中のメラクス以外の九将は、この場に勢揃いしていた。ドラゴンであるカルローネとグリルアーノは、若干狭苦しそうにしていたが。

「戦争は、一応の決着を見た。 皆の故郷を取り戻すまでにはいかなかったが、人間側はこれでしばらく侵攻して来ないじゃろう」

わっと歓声が上がる。

皆、生きた心地がしなかったのだろう。いつ人間が攻めこんでくるか分からない恐怖の日々。

迫り来る人間共の兵器。殺戮の足音。

捕まれば、運が良ければそのまま殺される。女の魔物は子供だろうが大人だろうが陵辱の限りを尽くされたあげくに最終的には殺される。運が悪ければ食肉加工され、全ての尊厳を奪われたあげくに殺される。結局、人間に負ければ、魔物には殺されるしか路が無かった。

それを、この場にいる魔物達は、皆知っている。

たとえば、人魚族の女性長老はまだ若々しく見えるが、既に年は二百才を超えている。亜麻色の髪の毛を持つ人魚で、上半身だけなら人間の女そのものだ。フォルドワードの基準で言えば、大きな目も若干褐色に焼けた肌も、充分に美しい範疇に入る。

だが彼女は、人間に夫も妹も娘達の内大半も孫達の殆ども殺され、その全員が「不老長寿の薬」として、食肉加工されて売りさばかれたのである。人間に対する怒り以上に、恐怖がこの長老の心をむしばんでいた。

エルフ族の長老もいる。

彼はカルローネと同年代で、年は千才を越えている。エルフ族も長寿である事と、人間の基準で美しいことから蹂躙の限りを尽くされた一族だ。アリアンロッドに支えられて歩いているこの老人は、一族がどのような恐ろしい目に遭ってきたか、つぶさに今でも語ることが出来る。

彼にとっては、人間は生物の形をした災害なのだ。

万歳、万歳と魔物達が涙を流しながら唱和している。

そんな中、魔王は一人、違和感を感じていた。

確かにとても皆が喜んでいて嬉しい。だが、何処かに何かを置き忘れてしまっていないのだろうか。

何を置き忘れたのかが、さっぱり分からない。

式典を終えると、魔王はゆっくり歩きながら、護衛のエルフ戦士に聞いた。

「アニアは、機嫌を直してくれたかのう」

「まだ分かりませんが、皆が手厚く警護をしています。 側には常時戦闘タイプの師団長二名がついておりますので、危険はありません」

「そうかそうか。 ならばこれが終わったら会いに行くとしよう」

やはり、違和感がぬぐえない。

魔王城の周辺には、平和を喜ぶ魔物達が集まっていた。皆姿は違うが、いずれもが魔王に忠義を誓ってくれるありがたい民だ。彼らの喜ぶ顔を見ることが出来て、魔王は本当に嬉しく思った。

だが、それ以上に、やはり違和感が膨らむ。

魔王は何か、とんでもない事を忘れてしまったのでは無いのか。自問自答は、誰にも届かない。

不意に周囲が真っ暗になる。人間だった頃の自分と、アニアがいた。

アニアを家族は受け入れてくれて、そして幸せに暮らしていた。後はアニアの花嫁衣装が見られれば、満足して死ねる。そう、思った。だが、闇が全てをかき消していく。

これで良いのか。

良いはずが無い。

ふと気がつくと、移動中の輿の上で居眠りしてしまっていた。今のは、夢か。

昔は、アニアが惨殺されるところを、頻繁に夢に見た。そのたびに飛び起きた。フォルドワードの地下で、補充兵の研究をしていた頃の話である。

そのたびに、焼け付くような怒りが全身をむしばんだ。外に出るときは、必要以上に人間を虐殺したような気がする。女子供も関係無しに殺した。村や町を滅ぼす謎の災厄として、魔王は人間共から得体が知れない恐怖として知られていたらしい。

今はもう、どうでも良いことだ。

目をこすりながら、視察先の学校について書いた資料に目を通す。主に長老達が、若い世代に整理された知識を伝えるため、作り出したものだ。とはいっても、若い世代の子供達は、ほんの少ししかいない。繁殖率が高いコボルトやオークでさえ、まだまだ数が足りない状態なのだ。比較的数の回復が早いロードランナー族くらいしか、しばらくは学校に来ないだろう。

学校には、そもそも良い思い出が無い。魔王は昔の事を思い出し、努力しても報われず、家族からも社会からも迫害され続けた事を思って陰鬱になった。復讐してやったが、今でもあのときの事は不快きわまりない。

だが、どうしてだろう。人間を焼き尽くしてやろうと思うことが無くなっている。

到着してみると、敷地は良く整備されているし、建物もしっかり作られている。雰囲気も悪くない。輿から降りて、歩いて周囲をみて回る。

運動を行うべきグラウンドの周囲には木が植えられており、全体的に広い作りが開放的だ。学業を教えるべき教室はかなり多目的に区切られていて、多くの生徒が入れるように工夫されている。廊下は広く、窓も多い。整備が若干大変そうだが、学校としては魔王が人間時代に行っていたものよりも遙かに良さそうだ。

校長室では、マインドフレイヤ族の気むずかしそうな老人が出迎えてくれた。頭足類のような頭を持った老人は、見かけは魔王を歓迎しているようだった。だが、実際には視察なんか良いからさっさと引き上げてくれた方が嬉しいと思っているのが魔王には分かった。

一通り、教育設備を見せて貰う。

「これは人間の貴族が通っていた教育設備を改装したものでしてね。 大形の魔物用に、いずれ棟を増やす予定です」

「ふむ、壊されずに残っておったのか」

「いえ、一度は完膚無きまでに。 ただし、素材類はそのまま残っておりましたので、組み立て直しました」

そして、それから改装したのだという。

魔王軍には、優秀な文官が少ない。今回はそれが運が良い方向で働いた、というわけだ。今はグラくらいしか見るべき文官がいないと、ヨーツレットがぼやいていたことを思い出す。これからは教育に力を入れると同時に、文官の育成も進めなければならないだろう。多分マインドフレイヤ族の老人も、それを指摘したかったのだろう。

「教育については任せるでな。 魔王軍の将来を担う人材を育ててくれ」

「分かりました。 いずれ、その名称も変えたいものですが。 此処は陛下の国であって、軍だけの存在ではありますまい」

「ふむ、検討しよう」

今までは、なし崩しで魔王軍と呼称してきた組織名だが、平和になったのなら軍政では無く、内政にも力を入れていく方が良いだろう。

気むずかしいが、優秀。それがマインドフレイヤ族だ。だから、意見には出来るだけ耳を傾けた方が良い。

再び、輿で魔王城に戻る。

護衛達は、言いたい放題のマインドフレイヤ族に憤っていたようだが、魔王は笑って彼を許すようにと諭した。

 

彼方此方を視察して、帰城したのは夜中となった。

流石に魔王も疲れたが、周りは良くしてくれたし、色々と嬉しいものを見ることも出来た。

首都としている魔王城近辺では、オーク族の老人達が畑仕事に精を出していた。排泄物を発酵させた肥料がようやく形になってきたとかで、かなり良い野菜が取れるようになってきたという。

この肥料の技術には、エルフ族も協力しているという事だった。かっては犬猿の仲で知られた両者なのに、今ではしっかり手を携えて働くことが出来ていた。

ライフラインの構築についても、最低限で済まされていた。移動ではミニョコンと呼ばれる大形のミミズ型補充兵が用いられていたが、これは耐久力に、それ以上に乗り心地の悪さに不安があった。魔王は実際に駅を視察し、更には一駅分ミニョコンに乗ってみて、その訴えが嘘では無い事を実感。今後ミズガルアに改良の指示を出すように指示を出すこととした。駅員達に話を聞くが、此処を利用している民は基本的に戦時である事を理解し、利便性の悪さは皆我慢してくれているという。ならば、戦時が小康状態になった今、改善を図らなければならないだろう。

かといって、軍事力を減少させるわけにはいかない。

テレポートを使って、最後に視察したのは南岸の砲台部隊である。今ではやっと砲弾などを自主的に作れるようになったが、かっては鹵獲品を並べているだけだった。だから、場所によっては質も不揃いで、非常に滑稽でさえあった。

視察に訪れたとき、待っていたのはクライネスである。今では後方での支援任務を受け入れている知将は、遠慮無く思うところを言う。

「陛下、此処にいる戦力を削減するのは危険だと私は思います」

「ふむ、そうなのか」

「はい。 人間共は、あくまで此処の守りが堅いが故に、侵攻を諦めているのです。 今後も戦力を出来れば増強し、兵器の刷新も行うべきかと思います」

「分かった。 検討するとしよう。 しかし間近で見ると、禍々しい兵器じゃのう」

だからこそ、効果もあるのですと、実践的なことをクライネスは説明してくれた。

クライネスは軍図を引っ張り出し、どこにどういった戦力を配置すべきか、その後熱弁した。

魔王はその辺りは苦手である。ヨーツレットに任せてしまいたい所だが、そういうわけにもいかない。

まずはフォルドワードで事実上の総司令官であるカルローネに相談するようにと言い残して、その場を後にした。

城で、しばらく休む。

ドワーフが城を作っているからか、立派な風呂が既に出来ている。魔王が入っても大丈夫なように、最高級の湯を引いてきており、四十歩四方はある巨大な風呂は徹底的に磨き抜かれていた。

「ふむ……」

目をつぶる。

この徹底的な整備をしていたのは、前線から下がってきた補充兵達だという。ドワーフたちも風呂好きだが、流石に手が足りていないそうだ。

彼らにねぎらいの言葉を掛けることにしよう。

そう思いながら、魔王は久々の安息に、体の芯から温まっていた。

風呂から上がると、もう実務は残っていない。魔王が処理しなくても良い仕事ばかりであり、ヨーツレットなりカルローネなりが対処すれば良いからだ。

夜中は、流石に魔王城にも工事の音は無い。

虫の鳴き声が風流であった。目を細めて、ミカンをつまみながら、魔王は呟く。

「平和じゃのう」

「陛下、此方もどうぞ。 作りたてのスルメにございます」

「おお、これはありがたい」

魔術で火を熾して、そのままあぶりながら口にする。語源がもはやよく分からない烏賊の干物は、塩味が効いていて、とても味わい深い。顎が弱くなっている魔王としては、呆け防止に最適の食べ物だ。

差し出してきたのは、いつも周囲にいるエルフの若い戦士達の一人では無い。平和を喜んでいた、人魚族の長老であった。

「これは大変に美味じゃて。 この製法を、平和な世にも是非伝えてくれよ」

「ありがたきお言葉にございます」

「やれやれ、この分だと、儂もそろそろ引……」

不意に、頭の中に強烈な拒否反応が走った。

思わず手を止めてしまう。

それだけは、それだけは絶対にならない。自分の中の何かが、徹底的にその言葉だけは拒否していた。

そもそも、何故お前は魔王になった。

自問自答する。

アニアの事があったからだ。あのことを忘れるな。たとえ、アニア当人が気にしていないとしてもだ。

人間を信用するなど、愚の骨頂。

常に神経を研ぎ澄ませ。そうしなければ、必ずやお前が愛する者達を、また蹂躙し尽くすことだろう。

奴らは自己のことしか考えない、自然界の法則を明らかに逸脱した怪物だ。それを忘れるな。仮に平和がなったとしても。今のお前は、わずかな時間で、平和にぼけようとしている。

あの感覚を、忘れてはならないのだ。

敵は、奴らだと言う事を。

己に言い聞かせる。

不意に手を止めた魔王を、不安そうに人魚族の長老は見上げていた。心配させてはならないと思い、魔王は優しい言葉を掛ける。

あらがわなければならない。

何だか分からないが、心の奥底からわき上がってくる、この感覚に。呆けてしまってはならない。

それでは、奴の思うつぼだ。

今、まだ聖主が生きている以上、奴が何をもくろんでいるか分からない。ただでさえ、聖主がいなくても、魔物は人間に対してまだまだ力が劣っているのだ。ここで魔王がいなくなったら、彼らの未来は真っ暗では無いか。

その日だけは、ゆっくり眠った。

だが翌日から、魔王はすぐに仮設魔王城に戻る事にした。護衛のエルフ達は、口々に言う。

「ずっと最前線にいらっしゃったのです。 しばらくは休んでもよろしいのではないでしょうか」

「いや、いや。 和平がなったとは言え、まだまだ前線で怖い思いをしている兵士達も少なくない現状を思うに、儂だけ後ろでのんびりしているわけにもいくまいて。 それに何より、聖主が何を考えているかよく分からん現状、しっかり儂が睨みをきかせなければ、兵士達も有事の際に動きづらかろう」

平和を楽しみたいという気分は、魔王にもある。

だが、それは。まだ今は、封印しなければならない。アニアも魔王のことをまだ拒否しているかも知れないが、それでも側にいなければ、何かあったときにもう一度後悔することになるだろう。

そうして、魔王は仮説魔王城に戻った。

まだ、魔王の中で、戦いは終わっていない。だが、何処かで、この平和を維持するべきだと思っている自分もいる。

苦悩は、続いていた。

 

4、混迷の裏で

 

キタン王ハーレンは、小首をかしげていた。だが、それは何処か納得できる事でもあった。

急激に、陣内の兵士達が和平に傾いた。誰も彼もが、戦争が大好きな凶猛な兵士達であったのに。戦争による惨禍を恐れるようになり、もう平和が良いと宿将達までもが言い始めたのである。

大血族集団である遊牧の一族では、一般の兵士といえども意見は無視できない。なぜなら、全員が家族とも言える集団こそが、騎馬民族だからだ。それが故に闘争が始まると戦禍は深刻になるし、一度負けると取り返しがつかない事態にもなる。

それでも、戦意は高かったのだが。しかし、今ではそれらの戦意は、過去の話となってしまった。

何より、ハーレン自身の闘争心が、雲散霧消してしまったのである。

訳が分からないが、宿将達が嘆願して来たこと、何よりも今では戦争のリスクの方が大きいことなども合わせて考えると、和平しか無かった。

ユキナに書状を送ると、驚くべき返事が返ってきた。

既に、グラント帝国からも、同様の書状が来ていると。

聖主が巨大要塞で魔王領に侵攻した、直前のことである。

やがて聖主が敗れたらしいと言う報告が入った。実際にはもう少し細かい所までハーレンの所までは報告が来ていたのだが、それは別に良い。問題になるのは、これで戦う意味が文字通り消滅したという事だった。

魔王領の奪取は、未だに興味がある。

だが、それ以上に、今は人材の損耗が気になってしょうが無かった。思えば、騎馬民族の優秀な戦士達は、魔王との開戦以来大いに数を減じた。利権に突き動かされて戦いを続けてきたが、潮時かも知れないと、自然に考えられるようになっていた。

そして、和平がなった。

兵士達が皆、心から喜んでいるのを見て、ハーレンは何故今まで戦いを続けてきたのか、分からなくなった。

こんな体になってまで、どうして野望を達しようとしていたのか、自分でも理解できなくなってしまったのである。

欲望も減じてしまい、今では酒もほとんど必要なくなっている。それだけではない。このように崩れてしまった体では、女を抱くことも出来ない。性欲も、もはや遙か昔の出来事のように、感じることが無くなっていた。

既に後継者は指名しているとは言え、もどかしい。

話によると、カルカレオスはまだ性欲が無くなっていないとか。同じ人間を止めた存在だというのに、この不公平はどこから来るのだろう。

しばらく悶々とした生活をしていたハーレンだが、やがて書状が届く。

勇者が、南の大陸の威力偵察に赴くという知らせであった。

宿将達を招集する。

数日で、各地に散っていた宿将達が集まってきた。ハーレンは相変わらず御簾の後から、皆に話をする。

「と言うわけだ。 皆に意見はあるか」

「平和が一番です。 聖主がそれを乱すのなら、倒すのも致し方ないかと思います」

そう、平和そうな笑顔を浮かべた老人が言う。ただし、その顔中に向かい傷があり、左耳は存在していない。

この男、少し前までは虎とあだ名を付けられていた人物で、敵陣を突破することに定評があった猛将だった。戦いに出る度に敵の将を討ち取ることでも知られ、キタン軍随一とも言われた戦上手であったのだ。過去形である。今では戦争はやってはいけないのだと部下達に優しく諭す男になり、兎と呼ばれるようになっている。

皆がこんな調子だ。

不自然だとは思う。異様だとも感じる。

だが、戦争が遠ざかったことで、今まで後回しにしていた国内の施策を出来るのも事実なのである。

特に、押さえた農耕民族達は、荒れ果てた土地で途方に暮れているようだった。早めに潅漑作業を進めないと、反乱が起きるかも知れない。

「他に意見は」

「皆、同じ意見にございましょう」

ふくふくしい男が、満面の笑みで言う。

この男も主戦派の巨魁であり、魔王軍を滅ぼすにはどうしたら良いというような報告書を、毎月送ってくるような奴だった。放っておいたら勝手に戦端を開きかねない危険人物で、常に側に慎重な副官を付けて見晴らせていた位なのである。

それなのに、今ではすっかり平和を愛する男になっていた。勿論、見張りなど付ける意味さえない。

「聖主側の動きについて、何か報告は」

「一つ、気になることが」

挙手したのは、西ケルテルと交渉を進めてきた文官である。並み居る武官達に混じって文官をやれているのは、若い頃に戦傷で右腕を失い、それ以降文によって立身してきたからだ。

密偵達も、彼がまとめている。

「西ケルテルで暗殺騒ぎがありましたが、それが聖主の仕業らしいのです」

「そうか、やはりな。 それが南行きのきっかけか」

「はい。  聖主は様々な前科がありますので、勇者としては不審な行動を見逃すべきではないと判断した様子でして」

実際に判断したのは、恐らくイミナだろうなと、ハーレンは思ったが、敢えて修正しない。

それに、聖主が危険な存在であるのは事実だ。

部下達が、それにハーレン自身も、揃って骨抜きになっているのは、恐らく聖主の仕業だろう。これほど途方も無い事が出来る奴が、好き勝手に力を振るいはじめたら、どのような惨禍が巻き起こることか。

グラント帝国は、既に動いていると、密偵達から報告。

それならば、足並みを揃えた方が良いだろう。

「エル教会に圧力を掛ける。 最近報告があったガルフという男と連絡を取れ。 隠密に、だ」

「分かりました。 直ちに」

「勇者が本拠に向かったのであれば、聖主も恐らくそれに伴って動いているはずだ。 その隙を突けるように、最大限の速度で動け」

会議を終えると、ハーレンは気付く。

体の一部が、溶けてきている。

これは、どういうことか。だが、すぐにそれが何を意味しているか、悟る。

来たのだ、死期が。

元々、無理をして得た人外の体だ。今まで酷使もしてきたし、そろそろ限界が近いのだろう。今すぐ死ぬわけではないだろうが、それでも保って数ヶ月と言うところか。

長生きをしようという気も失せはじめている。

ハーレンは、せめて死ぬ前に聖主を倒したという報告を聞きたいと、まるで霧が掛かったかのように、力の無い思考の中思った。

 

(続)