力とその代償

 

序、死を免れた男

 

キタルレア大陸の中央部は、どこまでも広がる草原の世界である。遊牧民にとっての天地である此処は、古くから騎馬民族が群雄割拠する地獄の縮図だった。

少し前に、魔王軍との交戦で最大国家であるモゴルが崩壊し、更に大陸南部の諸国を残虐に侵略して力を増そうとしていたキョドも王であるボクトツの死によって滅び去った。結果残ったのは、キタンである。

キタンのハーレン王は、まだ三十代の若い人物だ。手腕は強国をまとめ上げるに相応しいとされているが、現在彼の両肩には草原の民全てが乗っている。数そのものはおよそ三百万ほどと農耕民に比べると少なめだが、その四分の一が戦闘要員であるという、非常に極端な国家構成から考えると、戦闘能力は大陸の中でも上から数えた方が早いほどである。

かっては、大陸東の強国達が、裏から様々な陰謀を仕掛けた。

それで巨大すぎる国家が生まれないように、様々に裏から手を回していたのだが。どうやらそれも、方針が変わったらしいと、腕組みをしながら羊の群れを見つめ、ジャドは思った。

此処は、ハーレン王のパオがあるほど近い草原。時々、警備らしい騎兵が巡回しているのが見える。

彼らは優れた弓の腕の持ち主であり、視力も凄まじい。ジャドも、あまり油断していると、かり出されてしまうだろう。

気配を消して、パオに近づく。

元々、こういう隠密任務向けだったジャドである。近年は特に能力が極端に強くなってきており、暗殺なら衆人環視の下でも行えるようになっていた。実際、キョドのボクトツ王も、宴会の最中、護衛が見張っているところを斬り殺したのである。そして、何食わぬ顔で、其処から離れた。

否、それは違うか。

ジャドは黒いフードを被っているが、既にその下に顔は無い。

手や足と呼べるものは、かろうじて残っている。

だが、ジャドの姿を見たら、魔物でさえおののくかも知れない。それほどに、今のジャドは、異形を極めた姿をしていた。

パオが見えてきた。

双子のことを思い出す。今、アニーアルスで魔王軍に対する最前線にいる彼女らが少しでも楽になるように。ジャドが、周辺で動く必要がある。ジェイムズがグラント帝国から放逐された今、別々に行動した方が良いとジャドは結論。役に立ちそうな人材をアニーアルスに向かわせる一方、周辺国の王の中で、害がありそうな奴は消して廻っていた。

地面に、沈み込む。

正確には、極限まで薄くなることで、地面と見分けがつかなくなる。今では、地面に擬態することも出来る。

そのまま滑るように行く。兵士達に踏まれないように、時々形状を変えながら。

馬が怯えて嘶いた。だがその時には、既にジャドはだいぶ離れたところまで逃れていた。

さて、此処だ。

ハーレン王のパオに到達。人だかりが出来ているのは、決済や問題ごとを持ち込んでいるのだ。

到着する前に情報収集したのだが、この国では伝統的に、どうしても決められないことが出てくると、王に一任する決まりがある。これを上手に裁けるかで、王の評判が決まる。評判が悪化すると、王から離反する勢力も出てくるようになる。

勿論、騎馬民族全てがこのやり方を採用しているわけでは無い。

ボクトツ王は採用していなかった。モゴルのテジン王は採用していた。特にテジン王の場合は、この採決によって評判を得て、あれだけの大きな国を大過なく回していたそうである。

ハーレン王は、どうかというと。

見ていると、パオから出てくる連中は、おおむね満足した様子である。あの様子だと、決済にしても採決にしても、上手く行っているのだろう。

だいたい一段落したところで、パオの中に入る。

面白い構造になっていた。

御簾のようなものが奥にあり、其処の中にどうやらハーレン王は寝そべっているらしい。何かしらの理由で立ち上がれなくなった、という事だが。声は壮健で、特に問題がありそうには聞こえない。

だいたい、ジャドには見当がついた。

そういえば、見張りについている兵士は特に忠誠度が高そうな連中ばかりである。

「分かりました、ハーレン王。 帰ってそのようにいたします」

「うむ。 家族仲良くするようにな。 次の者」

「はい」

続々と、決済と採決がされていく。

見ていると、特に誰かに意見を聞いている様子も無い。元々キタンはさほど大きな国では無かったと聞いているから、この王にはある程度の才覚が最初から備わっていた、ということなのだろう。

きびきびと、採決が行われていく。意見をきちんと聞き終えた後、これはといえる採決を導けるのは流石と言えるだろう。

二刻ほどで、民衆はみないなくなった。

御簾の向こうで、身じろぎする音がする。床に擬態して様子を見守っていたジャドは、やはりなと思った。

「肉をもて」

「ははっ」

肉。しかし、それは死肉では無かった。

なんと生きた羊が、そのまま持ってこられる。そして、忠誠心が特に高そうな兵士が、怯えきった鳴き声を上げる羊を、御簾の向こうへと引っ張っていった。

惨劇は、すぐに起きた。

御簾の向こうに消えた瞬間、伏せていたように見えた影が、がばりとその大きな姿を露わにする。

悲鳴を上げる羊が、すぐに静かになった。

羊をつないでいた縄、それも途中から切れた……だけを手にして、先ほどの兵士が戻ってくる。顔は青ざめていた。

ゆっくり、御簾の向こうへ行く。

やはり、予想通りだった。

其処にあったのは、人間だった肉塊である。もう形が人間を為していない。小山のような、桃色の肉塊。所々に目やら口やらがついていて、その醜怪さは、ジャドでさえ同情したくなるほどであった。

肉塊の彼方此方からは触手が伸びていて、哀れな羊の残骸は、肉塊からわずかに見えているだけ。

殆どの場合、こういうことになってしまうと、食欲は消えて無くなるものなのだが。どうしてか、ハーレンの場合は却って増大したらしい。多分ジェイムズに教えてやれば、驚喜することだろう。面白いデータだとでも言って。

ハーレン王は元々かなりの伊達男だったそうだが、魔王の手による死を逃れるため、随分無理をしたものである。ジェイムズの手を借りるというのは、こういうことだ。ジャドのように人間の姿を失うこともまた多いのである。

グラント帝国の跡継ぎも、確かこんな結果になったはず。ジェイムズに追っ手が掛かった理由も、それだった。

いたたまれなくなって、無言でジャドはパオを出た。

ハーレン王は、いつまで正気を保てるだろう。魔王を倒すまでは正気でいて欲しいが、それも難しいかも知れない。

人間という生き物は、よほどのことが無い限り、「人間である」事に妙なプライドを持っているものだ。

ジャドのように暗殺者として精神を徹底的に非人間的に鍛えた場合や、双子のように地獄を見ながら生きてきた場合などは例外である。普通の人間の場合、多少の変化であっても、耐えるのは難しい。

ましてや、あのような姿になってしまっていては。

幸いと言うべきか不幸にと言うべきか、ハーレン王は並外れた精神力の持ち主らしいし、何より知能は全く衰えていない様子だが。それでも、いつまでも持ちこたえるのは難しいだろう。

さて、どうするか。

魔王軍に潜入して、その人事や内幕を多少探った方が良いだろう。まだ人間側は、魔王軍の組織編成や構成をあまり理解できていないはず。ジャドがそれを持ち帰れば、かなり双子の力になるだろう。

地面に擬態していたジャドは元の姿に戻ると、無言で西に進み始めた。

この戦いは、狂気に満ちている。

どうしようも無い破滅ばかりが、先に待っているような気がした。

 

1、西の一幕

 

爆発が、連鎖して起こる。

崖から、大量の土砂が流れ出た。それはまるで荒れ狂う川のように、怒濤の勢いで坂を下り、その途上にあるものを全て飲み込んでいった。

略奪を行おうと小さな村に向かっていた軍人崩れの一団が、あっという間も無く、土砂に飲まれていた。当然、一人も助かるわけが無い。

崖崩れが収まると、静寂が訪れた。それが、爆発から生じたとは、信じられないほどに、薄気味悪い静けさであった。

崖を崩した爆発は、魔術によって為された。

それを為したのは、まだうら若い女教師。レンメル。訓練を積んだ魔術師では無い。レンメルは音声通信の術式を起動すると、別のところで見張っている元軍人達に連絡。

「こっちは片付きました。 そちらは」

「既に片付けた」

「分かった。 では引き上げます」

既に、彼女がまとめた村は要塞化している。時々、盗賊化した軍人崩れがこうやって入ってこようとするのだが、その殆どが生きて帰れない。生きて帰ることが出来た者も、計算してわざと生かして帰してやっているのだ。

エンドレン大陸では、彼方此方でこういう光景が現出している。

無作為に冗談のような安値でばらまかれた魔術書によって、軍人以外の人間が、明らかに分不相応な戦闘力を得だしたのだ。その結果、今まで搾取階級でもあった軍人達に対しての不満が、彼方此方で爆発している。エル教会による統制が緩んだこともあり、既に軍人による支配という、エンドレンに共通していた不文律は、木っ端みじんに砕かれていた。

自分の肩をもみながら、一端戻る。

返ると、鹵獲品である戦闘車両を、元軍人の者達が弄っていた。

使えるようにするためでは無い。使えないようにするためだ。動力機関は、既に少し前に外している。外して解析してみて分かったのだが、どうも魔術によって動いているらしい。

一人が、一番若い男が振り返る。一番若いとは言え、左目は戦傷で失っており、向かい傷で凄まじい形相である。むしろ性格は穏やかな人物なのだが。

「レンメル、終わったのか」

「ええ。 全員土の下よ」

「……そうか」

男はうつむいた。元同僚だった可能性もある連中である。あまり良い気分はしないのだろう。だが、もし侵入を許したら、文字通り何をされるか分からない。特に子供達は、一生消えない傷を体にも心にも負わされるだろう。

人間よりたちが悪いケダモノは存在しない以上、仕方が無い事だった。

既にこの村は、以前に比べて人口が三倍増している。そして、評判を聞きつけた者達が、更に集まってくるのは確実だった。元々過疎だった村なのだが、要塞化して何度か軍人崩れを撃退した後は、軍人を嫌ったり、その迫害に遭ったりした民が大勢集まるようになり始めた。また、軍人崩れの中でも、戦争を嫌っている者や、戦争で心に大きな傷を受けて、戦えなくなったような者も、保護を求めて集まるようになりはじめていた。

今では、かなりの人数が暮らしている。ただ、そうなると、発生する問題もまた増えていた。

学校へ入る。

一番上手に攻撃魔術を使いこなせる上に、この共同体を作り上げたレンメルを中心とした組織であるが故に。ここは聖域である。子供に授業をするよりも。今は此処で、共同体の中心人物を集めて、会議をする事の方が多くなり始めていた。

一番広い部屋は、今会議室として使われている。以前星が落ちたときに壊れた部屋なのだが、天井には天窓をはめ込み、内部の掃除も済ませて、今はとても高級感のある部屋に変わっている。赤い敷物を床に敷き、真ん中に丸テーブルを置いて、最上座である一番奥にレンメルが、それを囲むように他の者達が正座する。

これが、会議の正式なスタイルになっていた。

かって村長だった男や、師団長だった老人など、癖がある者達が顔をそろえている。中には、キタルレアから逃げてきた魔術師や、エル教会に異端扱いされかけて、慌ててこの共同体に逃げ込んできた科学者もいた。

レンメルは教師だから、人間は癖が強い方が伸びることを知っている。現に、このあくの強いメンツの方が、凡人を集めたより会議はスムーズに進むことが多いのだ。

今日の会議の議題は、勿論戦果についてだった。

「村に侵入を試みていた盗賊の一味は全滅しました」

「流石だなあ」

くつくつと笑ったのは、魔術師だ。

彼は既にかなりいい年をした男なのだが、少年のように純真な心の持ち主で、戦闘魔術よりも補助系の魔術に詳しい。土を豊かにしたり、長時間の詠唱で雨を呼び込んだりと、色々と便利な力の持ち主である。心を現すように、年齢の割には肌はつやつやしているが、残念ながら極端なブ男である。

彼は攻撃系の魔術はあまり得意では無いが、色々と便利な術を持っているが故に。魔術が珍しくなくなっている現状でも、皆に頼られているのだ。彼が使えるような魔術は、配り倒されている魔術書には載せられていないのである。

「此方の被害は」

「崖がまるごと土砂で埋まりました。 しばらくは崩落が心配されますから、誰も近寄らない方が良いでしょう」

「ふむ、何も皆殺しにしなくても良かったのではないのか」

「しかし、手加減が通じる相手ではあるまい」

科学者の苦言に、元師団長が返す。村長はしばらく腕組みしていたが、やがて咳払いをした。

「あー、今回の勝利は大変にめでたい。 だが、そろそろ、皆で考えなければならない問題が出てきておる」

「人口についてかい?」

「その通りだ、魔術師どの」

この共同体は、要塞も同然の地形の中にある。だからこそ、皆安心して暮らすことが出来るのである。

これ以上共同体を拡張すると、要塞の中に住める人間が絞られてくる。新しく移ってきた者のための土地が、もう無いのだ。

こんな短時間で、此処まで人間が増えるとは、レンメルも予想していなかった。勿論繁殖して増えたわけではないし、不安な世相もよく分かる。レンメル自身だって、少し前まで、随分怖い思いをしていたのだ。

だが、誰も彼もを守りきれるわけが無い。

「まだ、西の荒れ地の辺りは、人が住めますよ」

「だが、あの辺りは「忌み地」だ」

村長が、大まじめに言う。

忌み地とは、かって大規模な戦闘などで、大勢の人が死んだ場所を意味する。いうまでも無く、年がら年中大国が戦争ばかりしていたエンドレン大陸では、至る所にある。実際忌み地を掘ると、骸骨がごろごろ出てくる事も珍しくない。

エル教会の影響力が及びづらくなってきていても、民が迷信深いことに変わりは無い。忌み地に住めと言われて、喜んでそうする者はまずいない。

だが、死ぬよりましだと言われれば、住む者はいるだろう。ただし、その者の心には、強い不満を植え付けることになるだろうが。そういった不満がやがて大きくなると、共同体にとって致命的な事態になっていく。

咳払いしたのは、元師団長だった。

「実はなあ。 どうもきな臭い噂があってな」

「きな臭い噂?」

「例の魔王軍についてじゃがなあ。 エル教会は、このエンドレン大陸の軍事力を使って、最初は魔王軍を潰すつもりだったらしい。 まあ、順当なところではあるのだが、問題はその次じゃ」

「その次というと」

「エル教会は軍人に見切りをつけ、民間人に魔術書をばらまいて武装化させた後、そろって魔王軍に武装難民としてけしかけるつもりだ、というのじゃ」

思わず、レンメルは息が止まるのを感じた。

幾つか、無理のある点は散見される。

だが、もしそれが実行されたら、大変なことになる。この大陸そのものが、文明から何から一切失われてもおかしくない。

古代の大国家が、民族レベルでの大移動などで滅び去った例は枚挙にいとまが無い。エンドレンでも、魔物を駆逐した後、そのような血なまぐさい歴史群像劇が彼方此方で繰り広げられた。

もしも、エンドレンを一つの地方として、貧困なり思想なりでまとめ上げ、数の暴力で魔王軍にけしかけるのだとすれば。

その洪水が過ぎ去った後、残るものは何も無い。エンドレン大陸という名前さえもが、消えて失せるかも知れなかった。

「エル教会は、己の保身がそれほど大事ですか……!」

「怒るな、先生。 まだ噂の段階だろう」

「ですが、看過できません」

「じいさんも困ってるよ、この話題は此処までにしよう?」

魔術師がそうたしなめてきたので、レンメルは嘆息すると、言葉の矛を収めた。

他にも色々と情報交換をした後、会議を終える。ぞろぞろと学校を出て行く共同体の中心人物達。

屋上に出たレンメルは、星空を見上げた。

レンメルは大人が嫌いだ。

子供を導くべき同僚の教師達が、保身に走って子供の食料を略奪しようとしたあのとき以来、心の奥底で大嫌いになった。勿論それには、自分自身もが含まれている。だが、現実問題、大人がいなければ社会は廻らない。だから、仕方が無く自分を保っているし、周囲の大人達と接している部分もある。

ふと気づく。

自分は或いは、社会の仕組みそのものが嫌いなのでは無いのだろうかと。

子供だって、いつまでも子供では無い。

成長すれば性に興味も持つようになるし、或いはもっと乱暴にもなってくる。男の子などは、その傾向が顕著だ。女子だって恋愛ごとだけでは無くて、コミュニティの構築による排他的な行動をはじめるようにもなる。

自分のことだから、良く覚えている。

当然、子供は無邪気などと言うのは間違いだ。子供はむしろ残酷で、状況次第ではより残虐にもなれる。虫や小動物を嬉々として惨殺できるのが、その証拠である。

だから、大人が子供を導いてあげなければならないのに。

空を見上げる。

子供達を導くべき大人がこれでは、この大陸はもう終わりかも知れない。いずれにしても、エル教会がもしもそんなことをもくろんでいるとしたら、絶対に阻止しなければならない。

勿論、それには大きな社会的チャンスを生むという側面もある。

エル教会が吹聴しているように、人間社会では、魔物は殺して良いし、その所有物は略奪して良いのが当たり前だ。今北のフォルドワード大陸全てと、キタルレア大陸の南西部が魔王軍の手に落ちている。つまり、それらは魔物さえ排除できれば、切り取り勝手次第と言うわけだ。

軍人達が、血眼になるはずである。

だが。冷静になって考えて見ると、やはりそれはおかしい。あれだけ軍人達は今回の戦役で血を流しながら、まだ反省していない。エル教会だって、これほどの死者を出しておきながら、今だ血なまぐさい宴を止める気配が無い。

社会そのものがおかしい。

やはり、そう結論せざるを得なかった。

「先生、まだ起きているか」

「どうしたの?」

振り返ると、警備をしてくれていた、軍人崩れの一人だ。最近入ってきた男で、戦災で左足を失い、いつも松葉杖をついている。

まだ若いが、いつも苦労して歩いている様子が、見ていて痛々しい。

「エル教会の司教が来てる」

「追い返して」

現在の社会状況を作っている元凶は、エル教会だ。それはレンメルにも分かる。つまり、今後は脱エル教会を考えていかなければならないだろう。

男は頭を掻きながら言う。

「先生がそうしたいならそうするけどよ。 先生に話がしたい、って言ってきてるんだけどなあ」

「……分かったわ。 此処に通して」

会うのは嫌だが、名指しだというのなら仕方が無い。

それに、大々的にエル教会に喧嘩を売るには、まだ早すぎる。この共同体にも、エル教会の熱心な信者はたくさんいるのだ。

いずれ、現在の社会の問題を、皆に説かなければならない。そして、エル教会からの離脱を宣言するのは、その後だ。

司教が来た。

司教というと、かなり偉い僧職になる。普通説法をして廻るのは司祭であり、その上の大司祭の更に上になる訳だから、相当な高位である。僧侶が数百人いるとしたら、それをまとめているのが司教だ。一つの国に一人しかいないことも珍しくないらしい。

そして、その司教の上が大司教、更にその上が教皇となる。もっとも、大司教より上は殆どが世襲によって地位を独占しているらしいと、噂で聞いたことがあるが。

現れた司教は、まだかなり若かった。知性の光があるというような事もなく、見ていると妙に貫禄が足りていない印象がある。

さっき会議をした部屋に通す。上座を譲る気にはならなかったので、そのまま座った。護衛にも、一人残って貰う。

ちょっと居心地が悪そうにしていた司教だが、それでも所在なさげに喋りはじめた。

「ええと、貴方がこの共同体の長をしているレンメル様ですな」

「長かどうかは別として、とりまとめはしています」

「それは良かった。 実は、このたび教皇が交代しまして、各地の有力者の方に書状を配らせていただいています」

おかしい。妙に腰が低い。

以前見たエル教会の司教は、腐敗の塊だった。

膨大な金に飽かせて好き勝手に贅沢をし、掟で禁じられている事もやりたい放題だった。高級娼婦の上客と言えばエル教会の高位僧侶が定番いうのは結構有名な話であったし、実際様々な腐敗を一手に背負っている存在でもあったのだ。

それが、こう妙に腰を低くして出られると、妙な警戒心を覚えてしまう。

「ここ半年ほどで、教皇は十回以上変わっていると聞いています。 その時に、何か連絡があった記憶はありませんが」

「はあ、申し訳ありません。 ただ、今まで存在していた腐敗上層部が、急に一新されたようでして」

「あれだけ、魔王に殺されたのに、腐敗が消えなかったというのに?」

レンメルでさえ知っている。

魔王は、どうやら任意の人間を、好き勝手に殺せるらしいと。実際、そうでもなければ、エル教会上層部の大混乱は、説明がつかない。

更に言えば、それだけ殺されまくったというのに、次から次へと首がすげ変わるだけで、まるで腐敗体質が変わらなかったエル教会の凄まじい腐敗ぶりにも、呆れの声が上がっていたのだ。

キタルレアならともかく、エンドレンは戦絶えぬ土地であり、エル教会の熱心な信者がいる反面、やはりエル教会への冷静な視点を持つ者も少なくない。いや、キタルレアでも、そうなのかも知れない。

ただし、表だって口にすることはなかなか出来ない。そういうものだ。

「仰るとおり、魔王が現れるまで、エル教会の腐敗は著しいものでした。 一部の真面目な僧侶達は腐敗した勢力に頭を押さえられて、邪悪の横行を指をくわえて見ているだけだったのも事実です」

「……」

「しかし、今度の教皇様は、どうやらその態度を改めるべきだと考えておられるようでして。 今、理解を求めるべく、各地に書状を配布しているのです」

一礼すると、司教は帰って行った。

書状をひもとく。非常に丁寧な文字で、比較的短めの文章が書かれていた。

「……どういうこと」

「え?」

「魔王軍との戦いには益が無い。 今後は敵に働きかけ、出来れば停戦を求めるつもりである。 それが失敗した場合には、此方から侵略はせず、しかし向こうにも侵略する隙を見せない体勢を作るべきだと、私は考えている。 是非皆様にも、協力を願いたい」

驚いた。

確かに、一千万に達すると言われたエンドレンからの遠征軍が、大きな被害を出して撤退してきたほどである。

魔王軍の底力は計り知れない。

だが、隙さえ見せなければ、敵の侵攻を防ぐのは難しくないはずでもある。実際問題、侵攻軍は後一歩まで魔王軍を追い込んでいたという噂もある。

それを考えると、新しい教皇とやらの考えは正しい。問題は、それがどこまで信用できるか、だ。

今の司教の行動は、確かに誠実なものであった。だが本物の外道は誠実なふりなどいくらでも出来るのである。そして、今までのエル教会の言動を見る限り、信用できない要素の方が遙か大きい。

問題は、それが嘘だったとして、何をもくろんでいるか、なのだが。

分からない。その日は、レンメルも疲れていた。この共同体が出来て、魔術を使える戦力が増えて、その結果交戦する機会も多くなった。人を殺して分かったのだが、やっぱりあまり良い気分では無い。手が血まみれになるようで、とても疲れるのだ。

その日は、レンメルはもう寝ることにした。

護衛を下がらせると、自室に戻る。

疲れている頭で、机の上を見る。子供達に教える算数の問題が、作りかけのままほったらかしにしてあった。

 

エンドレン大陸で情報収集をしているバラムンクは、小首をかしげていた。

情報が錯綜しすぎているのである。

まず最初に発生したのは、バラムンクがばらまいている魔術書を、逆に利用しようという動きだった。

要は魔術を覚えてある程度の戦闘力を得た人間を、根こそぎ戦場にかり出すという作戦である。軍人階級を煽ったときのように、エル教会の総力を挙げて科学力では無く魔術で武装した難民をフォルドワードにけしかけよう、という計画だったようだ。

流石にバラムンクもそれを聞いたときは驚いた。人間が悪い意味で最強の生物だと言うことは知っていたが、まさかこんな事まで利用しようとは、思っても見なかったのだ。人間についてよく知っているはずのバラムンクでも、予想できなかった。

苦虫をかみつぶしたのは、もしそれが成功した場合、攻め寄せてくる武装難民の数は、以前撃退した軍隊とは比較にならない、という事である。数億の人口を有するエンドレンである。もしも民間にまんべんなく魔術が浸透し、ある程度の組織化が行われでもしたら、それこそ天文学的な兵力が攻め込んでくる可能性さえあった。

だが、その噂は不意に消えた。

バラムンクが小首をかしげている内に、次の噂が浮上してきた。今度は、エル教会の腰が急に低くなった、というものである。

エル教会が暴利をむさぼっているのは、エンドレンでも同じである。道徳を広めるべき組織であるのに、この世の人間的悪の全てを集めていると言っても良い組織というのが、エル教会の実情であった。

だが。どういうわけか、不意に綱紀粛正が引き締まったというのである。

腐敗堕落坊主達が更迭され、逆に今までこつこつ草の根で地道に頑張ってきた善良な信者達が抜擢されているという。それだけではない。どうやら教皇が変わったようなのだが、その男の手で、戦争を止めるにはどうしたら良いかという話が持ち上がっているというのだ。

最初はバラムンクも信じられず、情報を持ってきた補充兵スライムをしかり飛ばした。

ところが、同じ情報が複数筋から上がってくるに及び、どうも一笑に付すわけにはいかないと思い始めたのである。

魔王軍の最終的な目的は、勿論人間の殲滅である。

だが、もしも人間が横一線の組織を作り、守りに徹しはじめると、正直な話これ以上打つ手が無くなってしまう。

元々人間の数はあまりにも、圧倒的に多すぎる。補充兵は、いくら増やしても四百万が限界だと推測されている。このうち、戦闘要員は七割というところで、インフラにもかなりの数を裂かなければならない。

これに対して人間は、まだ十数億が存在しており、軍隊も全部併せれば当然数千万という数になる。

如何に一騎当千の猛者が集まろうと、勝てるわけが無い。

だから連携が取れないところを各個撃破したり、攻勢に出ようとしているところを反撃したりと、ある程度トリッキーな戦いが求められた。実際、ヨーツレットはそうやって、長い間勝ち続けてきたのである。

だが、相手がガチガチに守りを固めてしまうと、今後はどうなるのか。

一旦キタルレアの魔王領に帰ることを、バラムンクは決めた。

部下達を集める。根城にしている鍾乳洞である。湖の地下にあり、人間が入ったことが無い珍しい場所だ。此処に集合したスライム達を見回しながら、バラムンクは言う。

「おまえ達は情報を集めろ。 今までに無い警戒レベルを敷け」

「しかし、バラムンク様」

「何だ」

「正直な話、人間が攻めてこないのなら、私は嬉しいです。 人間と我ら魔物、関わらずに生きることは出来ないのでしょうか」

周囲の部下達がざわめく。

バラムンクは、四つある大きなはさみの二つを、地面にたたきつけた。静まる部下達。

「もしも、人間のトップにいる連中が、穏健派にすり替わったとする。 確かに、それで一時的な平和が来るかも知れない」

「ならば……」

「その平和の間に、人間は数を増し武器を改良し、そして此方を確実につぶせると判断したら、それこそ津波のような勢いで攻め込んでくるだろう。 攻めの姿勢を崩さないことで、やっと我らは人間と対等に戦えるのだ」

その言葉を、実はバラムンク自身が信じていない。

多分、魔王軍の中で一番人間に近いバラムンクは、嘘を平気でつけるように作られている。毒を制すには毒をという事で、魔王が作り上げたのが、そういう性格だったからだ。故に、どんなえげつない策略でも思いつく。

逆に言えば、だからこそ、今回の件はバラムンクにもショックだった。

「とにかく、だ。 おまえ達は人間の情報を収集せよ。 私は二週間ほどで戻る」

「分かりました。 補充兵を動員して、出来るだけ大規模に」

「……頼むぞ」

頷くと、バラムンクは念入りに三度座標を確認した後、テレポートの術式を発動した。

バラムンクは戦闘向きの軍団長では無いが、それでも様々な術式を持っているし、人間に対して有効な魔術もある程度身につけている。ただし、魔力量は魔王は言うに及ばず、ミズガルアやレイレリアに比べるてもかなり落ちる。その特性はあくまで隠密潜行なのだ。テレポートも何度となく実行しないと、魔王城まで行けない。

だから、いつも神出鬼没のように思われているバラムンクも、裏ではかなり苦労している。特に海上を行くときは、ある程度上空にテレポートし、落ちながら次の地点へという事を繰り返すため、気が抜けない。勿論空なんか飛べない。ついでにいうと、泳げるように出来ていない。

一度などは、人間の船に目撃され掛かって、慌ててテレポートした結果、火山の火口に突っ込みかけた。死ぬかと思って、本気で大慌てしてテレポートし、近くの平原の地面すれすれに出現。テレポート時、運動エネルギーは消滅しないため、そのまま激突。地面にクレーターが出来た。

勿論、痛いでは済まなかった。

それからしばらく他の軍団長の前には姿を見せることが出来なかった。体中がぐちゃぐちゃになっていたからだ。バラムンクのような仕事は、味方にも信用されないようにしないと成り立たない。だから、作っている自分を崩すわけにはいかないのである。なんだかんだで、結構苦労するのだ。怪我をしても、医者にもかかれないのが特につらい。一応回復力はかなり高く作られているので、大概のことでは死なないが。

いずれにしても、失敗の時のことは今でも思い出したくないので、テレポートは慎重にやるようにしている。やがて、座標の測定が完了。

数度の連続テレポートを経て、バラムンクはキタルレアに渡った。

海を渡るだけで難事なので、いつもテレポート先は海岸である。しかも砂浜が広がる辺りをターゲットに厳選している。テレポート時、運動エネルギーは消えないので、地面が柔らかい方が体に優しいからだ。

着地。

大量の砂を巻き上げる。節足がきしむほどの衝撃が来たが、特に問題なく耐え抜く。

しばらく休んでから、短距離テレポートを繰り返す。人間は当然のこととして、魔王軍にも出来るだけ見られないようにしないとならないところが、若干煩わしい。

移動中、演習を行っているヨーツレットの親衛師団と行き会った。どうやら新開発のアシュラ型補充兵を如何にして運用するかで、かなり苦労しているらしい。圧倒的な破壊力を持つアシュラ型だが、戦場にぽんと置いておくわけにも行かない。かといって、部隊の中心にいても、威力を発揮できない。

必然的に部隊の外縁におく必要があるわけだが、前衛にすると部隊の動きが阻害されるし、かといって側面過ぎると今度は意味をなさなくなってくる。しかし、騎馬隊に対して文字通り必殺の破壊力を発揮できる補充兵なので、軍部隊には必須だ。特に、キタン軍が五十万とか七十万とか言われはじめている今、それとまともに戦う必要が生じてきているヨーツレット軍には、絶対に欠かせないのである。

苦労している様子を横目に、また短距離テレポート。

今度は第六巣穴の近くに出た。かなりの距離を来たので、太陽の位置がだいぶ変わっている。出るときは朝だったのだが、既に夕方少し手前だ。

そういえば、第六巣穴ではすったもんだの末、水源確保のためにエルフ型の補充兵を数名回す手はずになっていた。サソリのような姿のバラムンクが行っても、怖がられるようなことはあるまい。物陰に隠れたまま、こそこそと移動。自身の秘匿性を保つために、移動しているところは出来るだけ見せない。

物陰からこっそり覗くと、水源はかなり形になっていた。

わき水を中心に、小さな林が出来ている。わき水もかなり周囲が掘り下げられ、泉としての形になっていた。

エルフ型の補充兵達は、かなり薄着で仕事をしていた。

既に泥だらけになるような仕事では無い様子だが、多分人間には眼福な光景だろう。股までズボンをたくし上げて水に足を入れ、石を移動させたり、水草を植え込んだりしているようだ。泉を安定させるため、周辺に粘土を使って水が浸透しにくい場所を作り、更に保水力が高い植物を植えてもいる様子である。

見ると、泉には既に蛙や小型の魚も入れられているようだ。

更に、川として安定させるべく、山から降る水も、かなり水路として手が加えられている様子である。

エルフは森の番人と呼ばれる種族で、本能的に森を如何にすれば作れるか、守れるか知っている。それが故に人間とは相容れないわけだが、補充兵とはいえ彼処までしっかりと水源を作ることが出来るのを見ていると、感心する。

もっとも、冷笑的な嫌な奴と周囲に思わせておかなければならないので、バラムンクはそんなことは口が裂けても言わないが。

一番小さいの、確かカーラと名前をつけられている奴か。無言で黙々と作業を続けながら、他の自分より大きなエルフ型補充兵に時々指示を出している様子だ。あれがベースになっているからかはよく分からないが、音が無いにもかかわらず、コミュニケーションはしっかり成立している。見ていて面白い。

せっかくなので、グラにも挨拶をしておこうと思って、かさかさとグラの仕事場へ向かう。

グラは、丁度死体の搬入作業が終わったようだった。自分の肩を叩いているのは、かなり疲れが溜まっているからだろう。

分からなくも無い。此奴は今や、各巣穴の管理者の中でも、注目度が一番高い。魔王も期待しているようだし、クライネスも色々と複雑な視線を向けている。軍団長の間でも、評判が上がることが多いようだ。

グラは、すぐにバラムンクに気づいた。

「これはバラムンク軍団長。 御用向きは何でしょうか」

「様子を見に来た。 ふむ、そこそこ上手く廻っているようだな」

「おかげさまで」

「水源の方も少し見てきたが、まあまあか。 魔王様には、私が見たままを報告しておく」

少し意地が悪い言い方だが、多分褒める方はヨーツレットがやっているはずだから、これでいいのである。

まだグラは若いし、周り中から褒められると絶対に天狗になる。若い内に調子に乗ると、絶対に碌な事にならない。

他にも少し仕事場をみて回った後、第六巣穴を後にした。

グラは流石にちょっと顔をこわばらせていたようだが、バラムンクが見たところ問題は特にない。

あれだけしっかり運用できていれば、魔王としても想定の遙か上だろう。文句は何も無いはずだ。

再び何度か短距離テレポート。

そして、魔王城に到着。

あまり知られていないが、裏門には、バラムンクが通ることを前提としている場所がある。見張りをしている補充兵達にも知らせてあるので、バラムンクが行くと、無言で通してくれる。

これは、魔王しか知らないことだ。ヨーツレットが知ったら、多分セキュリティがどうのと言うだろうが、その辺はぬかりない。魔王がしっかり魔術で防御を固めているからで、下手な戦力を千や二千配置するよりも、よほど守りは堅い。

当然のことながら、此処を通ると、すぐに魔王に探知される。だから、寄り道をせずに、すぐに魔王の所に向かわなければならない。

だが、今日は、魔王の方からテレパシーで呼びかけてきた。

「バラムンク軍団長」

「これは陛下。 すぐにそちらに参ります」

「うむ、うむ。 儂は今、暖炉に当たっておミカンを食べておるでな。 自室の方へきておくれ」

「直ちに」

バラムンクが、これだけ素直にやりとりをしているのを見たら、ヨーツレット達はきっと碌な感想を抱かないに違いない。

だから、魔王に報告しているところを、基本的に他の軍団長には見せない。見せる場合もあるが、それは魔王には事前報告を済ませている場合のみだ。

仮設魔王城の内部は、すっかり緑に覆われていて、バラムンクとしても心地よい。かなり大きな木も育ちはじめているようだ。もう少しバラムンクが小さかったら、根元などに隠れたり巣を作ったりできそうなのだが、あいにく其処まで大きな木は流石に無い。

小さな川もある。これもおそらく、水源整備したのだろう。のぞき込むと小型の川海老や蟹、魚などもいる様子であった。

登城すると、純正の魔物がちらほら見受けられた。バラムンクには、揃って良い表情を向けてこない。

それでいい。

嫌われてこそ、諜報部隊なのだから。

 

ヨーツレットは、演習を終えたところで、魔王に呼び出された。

部隊の統括は部下達に任せて、自身は仮設魔王城に向かう。多分問題が発生したと言うよりも、何かしら新しい事態が起こった、というようなことだろう。

まだ、人間達は体勢を整えきっていないはずだ。キタン軍も数は脅威だが、そのまま攻めてきて勝てるとは思っていないだろうし、まだ警戒はしなくても良い。更に、国境には、着々とアシュラが配備されている。アシュラが二十体配備されただけで、砦の防御力は以前と比較にならないほど上昇するのだ。念には念を入れている状態であり、今の時点でこれ以上の心配は必要ない。

警戒すべきは銀髪の双子だが、あの二人も最近は前線に出てきていない。後方で腕を磨いているのか、或いはソド領辺りで何かもくろんでいるのか。

いずれにしても、多分今回の呼び出しとは関係ないだろうと、ヨーツレットは移動しながら予想した。

テレポートが使えないヨーツレットは、長距離であっても歩いて移動するしか無い。海は当然クラーケンを使うことになる。だが、無数の足があるので、歩くこと自体はさほど苦にはならない。

魔王城に到着。

部下達から移動中も、様々な報告を受けた。

カルローネはだいぶ回復してきているようで、そろそろ飛ぶ訓練に入るという。カルローネは事実上フォルドワード防衛部隊の中心にいる存在でもあるから、かなり良いニュースと言えた。

温泉を横目に、仮設魔王城の長い階段を上がる。

途中、部下達の敬礼を受けつつ、軽く話をする。最近は平和そのもので、領内に人間の斥候が入り込んでくることも減ったそうだ。

一時期は、此方の軍勢の弱体化を良いことに、かなりの数が入り込んできていたらしい。だがここのところは国境への兵力配備が進んだこともあり、領内の秘匿性は格段に常勝していた。

それでも、まだ人間と全面戦争をするには早い。

そして、運良く勝てたとしても。人間を全滅させることなど出来はしないだろう。ソドから上がってくる人間に関する報告を見れば見るほど、その悪い意味でのしたたかさを知ることになる。ヨーツレットの結論は、ますます揺らぐことがなくなりつつあった。

謁見の間に入る。魔王は玉座で、どうやら烏賊を干したらしいものをしゃぶっていた。美味しいようなのだが、堅くてなかなか噛みきれないようだ。

「おお、元帥、良く来たのう」

「このヨーツレット、陛下のためなら世界の果てからでもはせ参じまする」

冗談めかして言っているが、本心だ。

魔王の心に悲しみと怒りに起因するゆがみがある事はよく分かっている。だがそれを加味しても、ヨーツレットは魔王が大好きなのである。

頷きながら、魔王はどうにか烏賊の干し物をかみ切る。

しばらく、くっちゃくっちゃという噛む音だけが場に響いた。

魔王は不老不死になった年、既に老人だった。だから行動はどうしてもワンテンポずれる。それは仕方が無い事だと割り切って、ヨーツレットはゆっくり待つ。

しばらくして、ようやく魔王は本題に入ってくれた。

「どうやら、人間側のトップに、人間では無い存在が座ったらしくてのう」

「あり得る事にございます」

「ふむ、例の魔物化技術か」

「作用にございます」

少し前に報告が入ったが、ミズガルアのところで、この間回収したテジン王の死体の解析がようやく完了した。

その結果、やはり人間は魔物の血なり体液なりを体に無理に取り込ませることで、魔物に近い存在を作り出している事が分かったのだ。

多分銀髪の双子も、そうして作り出された存在なのだろう。三千殺しの力は、「人間」にしか作用しない。人間だったらどんな強者でも一撃必殺だが、それ以外の存在には無害に等しい。

しかしながら、魔王の芸はそれだけでは無い。実際問題、人間など束になってもかなわないほど強いのだ。

下手をすると魔王軍九将が全員がかりでも、魔王には届かないかも知れない。そう、ヨーツレットは思っている。

「それで、少し前からエル教会の動きが活発化しておる」

「エル教会は、今まで世襲と腐敗の温床でした。 有能な人間は、出る杭を打つようにして潰していたと聞いています。 どういう経緯か分かりませんが、相当な暗闘があったのだと予想されます」

「そうじゃの。 だが、どうもそれに勝ち抜いた奴は、聖人君主を気取っているらしくてなあ」

小首をかしげたヨーツレットに、魔王は話してくれる。

次の教皇が、どうも今まで閑職につけられていた有能な者達をどんどん抜擢している上に、戦争を止める方向で動いているらしいことを。

それは驚きだ。

人間にとって、魔王軍が勢力を拡大している現在は、文字通りビジネスチャンスの筈である。魔物は殺して良いし、その持ち物も土地も奪って好きなようにして良い。それが人間の不文律である以上、魔王軍の領土は人間から見ればよだれが出そうな宝の山に見えているはずなのだが。

「勿論、儂も人間がそのような殊勝な生物であるとは考えておらぬ。 だが、此処はある程度、相手の動きを見る必要があるじゃろう」

「同感にございます。 聖人君主を気取っているような偽善者が、一番手強い可能性がありますが故に」

「うむ、うむ。 そこで、現在再編成中のクライネス軍団にて、南部諸国に圧力を掛ける」

一瞬、息が止まった。

今、南部諸国は、ユキナという女を中心に急速にまとまりつつある。兵力はまだ脆弱だが、再編成中のクライネス軍団は、まだ外征できるほどの力が無い。ヨーツレットの親衛軍団でさえ、まだ訓練をもう少し積んだ方が良いと思っている位なのだ。

現在、クライネスの部隊は五万程度。そのうち、部隊として編成出来ているのは半数ほどに過ぎない。

ヨーツレットの親衛軍団の規模を拡大し、最終的には三十万にする予定が立てられている現在、クライネスの部隊に割く余力は無い。

「そんな顔をするな、元帥。 ええと、じゃなあ。 何も本当に侵攻するのでは無く、多少ちょっかいを出す、程度で良いのじゃ」

「なるほど、今度はどんな風に敵が動くのか、見極めるというわけですな」

「その通り。 それならば、どちらかと言えば正面からの戦があまり得意では無いクライネス将軍も、しっかり動ける事じゃろう」

少し考え込むが、それならばヨーツレットも許容できる範囲内である。

ただし、前回の侵攻作戦の失敗のことを思うと、あまりクライネスを放任も出来ない。クライネスはあれでいてプライドが高いから、一騎で行かせると無茶なことをしかねない。

「分かりました。 ただし、私が隠密で同行いたします」

「大丈夫かのう」

「大丈夫にございます。 いざというときは、クライネスにテレポートの術式で送らせますが故に」

まあ、それくらいはさせても損にはならないだろう。

今度は魔王が考え込む番であった。しばらく烏賊の干し物をしゃぶりながら上下させていたが、やがて頷いてくれた。

「分かった。 しかし、今回の目的を、忘れてはならぬぞ」

 

2、影と光

 

アニーアルスの西端、オリブ領に早馬が飛び込んできた。南部諸国をまとめつつある、ユキナからである。

ユキナは努力が功を奏して、どうにか南部諸国のまとめ役として認められつつある。まだ実質的に動かせる兵力は三万程度と少ないし、精鋭とはとても言えない寄せ集めだが、その力は急激に拡大していた。

以前はキョドと敵対していたこともあり、アニーアルスとしては表だって支援は出来なかったのだが。キョドのボクトツ王が死んだことで、状況も変わっている。最近は、かなり頻繁に情報をやりとりし、魔王軍の攻撃に備えていた。

それが故に、一気にオリブ領は緊張する。

イミナも、シルンと一緒に、マーケット将軍に呼び出されていた。

慌ただしく兵士達が行き交う砦の中を、早足で行く。元モゴル軍だった者や、南部諸国から逃げ出してきた兵士達も目立つ。アニーアルスは七万程度まで保有兵力を拡大しているが、その過程で雇われた者達だ。

レオンが途中でプラムの手を引いてきた。プラムはというと、串に刺した羊の肉を無言でしゃぶっている。若干不満そうだが、肉をかじれるのでどうにか我慢できているという表情だ。

怖がられないように、多分レオンが工夫した結果だろう。

「魔王軍が国境で蠢動しているそうだな」

「陽動だろう」

「どうして?」

「まだ動くには早すぎる。 魔王軍の痛手は相当なものだった。 おそらく、軍を一から再建しなければならないほどのな」

小康状態だった今までのことを考えると、まだ魔王軍は打撃から回復していないと見て良いだろう。エンドレン方面の海上でも相当に激しい戦いが繰り広げられていた様子であるし、まだしばらくは警戒しなくて良い筈だ。

だが、師匠に楽観に溺れるなと言われたこともある。常に最悪の事態には、備えておく必要がある。

会議室に入ると、主な面々が集まっていた。なんと、王弟まで来ている。最近は東側諸国との折衝で忙しいと聞いていたのだが。そして、何ら問題無さそうな顔をして、末席に座っているジェイムズを見て、一瞬殺意がわいたが、放っておくことにする。

まだ、ジェイムズは、必要な存在だからだ。

イミナはかなりの上席に案内された。シルンと一緒に並んで座る。

シルンが、耳打ちしてくる。

「ねえ、お姉。 どうしてこんなにお偉いさんが集まってるんだろう」

「まだ推察するには情報が足りないな」

「うん、そうだね」

疑念を出しておくだけでも、今は意味がある。しばらくして、だいたいの人員が揃った。兵站を担当している軍務大臣のピネスや、軍事費の捻出に頭を悩ませている財務大臣のヨーも顔を見せていた。

武の国であるアニーアルスでは、文官は退役軍人がなる事が多い。この二人も、戦傷で戦場を離れたらしい。二人とも元は強面の騎士だったらしい面影が何処かにある。

それにしても、これだけの強面が揃っているのに平然としているジェイムズは、ある意味大物なのかも知れなかった。

資料が配られはじめる。マーケットが恭しく差し出した資料を受け取ると、王弟は言う。声の威厳が、以前より増してきているように思えた。

「では、はじめてくれ」

「ははっ。 このたび、南部諸国連合の一つ、キューブリック王国の東に、魔王軍の斥候と思われる戦力が姿を見せました。 兵力はおよそ二万」

「キューブリックだと?」

キューブリックは、魔王軍に降伏したソド王国の、更に南に位置している。つまり魔王軍はソドを通過して、更に南に兵を派遣してきた、という事だ。

しかも二万である。斥候としてはかなり大規模だ。

「これに対して、ユキナ女王は、二万五千の兵を動かして、監視に当たっています」

「二万五千、か」

ユキナが動かせる全戦力と見て良いだろう。

ただし、質は魔王軍とは雲泥の筈だ。まともに戦おうとしても、あっという間にひねり潰されてしまうだろう。

今、ユキナの所には、以前の魔王軍侵攻で活躍した軍師、クドラクが張り付いている。クドラクからの情報も、配られた資料には添付されていた。

「魔王軍には、見たことが無い敵兵がかなり混じっているようです。 前回の戦いから、魔王軍はかなり編成を変えていると見て間違いありません」

「ふむ、あれだけの激戦で、元々此方より数がぐっと少ないのだ。 当然の判断であろうな」

「少し残酷になりますが、此処はユキナ陛下に戦っていただき、データを収集して貰うのはどうでしょうか。 犠牲は出ると思いますが、最終的な勝利のためには致し方が無い事かと」

残忍な提案をしたのは、将軍の一人である。マーケットと対立している男で、十歳ほど若い。

それに対して、レオンが挙手する。王弟は発言を許可した。眼帯をしている若い僧は、周囲を見回しながら言った。

「私は、あなた方を部門の国の誇りある戦士だと思っている。 ならば、民間人と遜色ないような脆弱なユキナ陛下の軍勢を、無為に死なせるようなことはしないはずだ」

「同感!」

何名かの騎士や将軍が同意を示す。

イミナとしては、最初の提案については間違っていないとも感じている。実際にやろうとは思わないが、選択肢の一つとしてはありだろう。

だが、最終的には、やはりレオンに賛成だ。

現在のアニーアルスは、非常に微妙な立場にある。

東にあるキタンは、今の時点では対魔王戦線で非常に強固なバックアップが期待できるが、期待しすぎると危険である。キョドの時のようにろくでもない結果を招きかねないからだ。

つまり、彼方此方に等間隔に距離を保ち、その全てと敵対しないという戦略が、今の時点では正しいのだ。

もっとも、それはイミナの意見だ。他にも戦略を示せる者もいるかも知れないが。

「他に意見がある者は」

「私に五千をお貸しください。 魔王軍の国境拠点を脅かしてきます」

マーケットが挙手する。

彼が地図上で指し示したのは、ソドと魔王領の中間地点にある砦だ。此処を奪取されると、魔王軍は動きが取れなくなる。勿論此方も維持するには相当な戦力が必要になっては来るだろうが。

魔王軍はそれを見越して放置するか、或いはどう動くか。

少なくとも、敵の選択肢を削ることが出来る。マーケットの出した案は、そういうものであった。

「勿論敵に隙があれば、一気に陥落させてご覧に入れまする」

「ふむ、そうか。 勇者殿はどうみる」

視線が、一気にシルンに集中する。

イミナは飽くまで裏方だ。人望があるのは、明るくてわかりやすい魅力を持っているシルンである。

人脈に関してもそれは同じで、最近は露骨に口説きに掛かる男も出始めているようだった。

「ええと、わたしは兵を出すのには反対です」

「どうしてかな」

「今回、魔王軍は多分本気じゃ無くて、此方の動きを見ているだけです。 兵を出せば、多分お金も労力も、全部無駄になるような気がします。 いっそわたし達が、精鋭の少数と一緒にユキナさんの兵と合流した方が、よい動きが出来るかも知れません」

なるほど。それも良い意見だ。

レオンは少し難色を示したが、最終的には納得してくれたようだ。イミナとしても、当初の戦略を変えるわけではないし、その意見で問題が無い。勿論、イミナとしては、自分が妹に甘くなることは承知している。それを加味しても、問題は無いと判断したのである。

王弟はしばらく考え込んでいたが、やがて決断した。

「分かった。 ユキナ女王の所に、銀髪の双子よ、急行して貰えるだろうか。 レオンとプラムも同行して欲しい」

「は。 承知しました」

「……」

プラムはこくりと、無言で頷いた。

マーケットも同行が決まる。腕利きの騎士数名と一緒である。またこの組み合わせだが、今回は現地で高度に戦略的な判断を求められる。戦術面での判断も、相当に必要になってくるだろう。

つまり上級将校レベルの、戦略眼のある人物の動向が必須になるのだ。

現地にいるクドラクは、今ユキナの側を離れられない状況である。それを考えると、最小限の出兵ながら、危険性はその割にあまり低くなかった。クドラクが造反している可能性も考えなければならないからである。

翌日早朝、イミナはシルンと、レオンとプラムを伴って出発した。

驚くべき人物が、一緒についてきた。ジェイムズである。レオンの刺し殺すような視線を者ともせず、狂科学者は言う。

「実戦の可能性があると聞いてね。 是非みたい」

「殺されそうになっても、助けはせんぞ」

「おう、覚悟の上だ」

ジェイムズの周りは、顔をフードで隠した、屈強な男達が固めている。

グラント帝国の研究所時代から一緒にいる弟子達らしい。ジェイムズがオリブ領に入ってから、二ヶ月ほどでぽつぽつ集まってきたのだ。普段は全く口をきかず、研究所に籠もりっきりなので、大変に気味悪がられている。

勿論、人間では無い可能性もあるだろう。

オリブ領から南へまず進み、幾つかの小国を経由する。

ソド国が魔王軍に降伏したことで、南部諸国は内部にくさびを打ち込まれたに等しい。さらには東西の街路も使用できなくなっており、かなり面倒な状態だ。

少し前まではソド国をこっそり通過するという手も使えたのだが、今はかなり難しい。ソド国には少し前までに三万の兵がいたが、今は更に一万が増強されているらしいからだ。その一万は、守備専門の部隊で、国境にかなり強力な防衛線を複数張っているという。

途中、通りながら防衛線を見るが、確かに凄い。

魔術によるアラームが何重にも仕掛けられ、その上頑丈な馬防柵が張り巡らされている。場所によっては堀もあるようだ。

遠目で確認して、気づく。シルンも、すぐにそれを見つけた。

「あれ? 人間の兵士もいる」

「何!?」

マーケット将軍には見えない位置だ。しかし、視認できる位置まで近づくと、当然向こうにも見つかる。

矢も放ってくるだろうし、魔術だって飛んでくる。

だから、近くの林に潜り込んで、其処から近づいた。

プラムは嬉しそうに岩の上で休んでいる蜥蜴を捕まえて、そのまま口に運んでいた。満面の笑顔で、もぐもぐと口を動かしている。

「ひひひひひ、美味いか?」

「うん。 でもあげない」

「いらんいらん。 だが、良いデータになる。 何が美味いんだ?」

「ええとね、蛇と蜥蜴は鉄板。 後は兎とか猫とか」

レオンが流石に真っ青になり、恐ろしいことを聞いたという風に首を横に振っていた。ジェイムズは倫理など最初から眼中に無いからか、好奇心をむき出しの顔で、何度も頷いていた。

マーケットはそれを横目に、イミナと一緒に木陰を移動しながら国境線に近づく。

見えた。やはり人間の兵士だ。ソド国の正式な鎧を着ている。青で塗った皮鎧で、それほど頑強では無さそうだ。

プレートメイルやブレストプレートのような高級品は、最低でも小隊長以上で無いと配備されない。どこの国でもそれは同じだ。

見張りをしているらしい兵士が、魔物が近づいてきたのを見て敬礼する。魔物は、まるで陸上に上がった大きな蟹のようだった。ただし足は蜘蛛の配置に近いが。

「異常ありません」

「了解した。 難民があったら、すぐに連れてくるように」

蟹のような魔物が、かさかさと去って行く。兵士は何事も無かったかのように、見張りに戻っていった。

離れる。

小首をひねるマーケットは、困惑していた。

「どういうことだ。 洗脳されていたようにも見えなかったが……」

「以前にも報告しましたが、ソド国では魔物と人間が普通に混在しています。 魔物が上位の存在として、ですが。 しかし軍人までもが混在することになるとは……」

「つまりあれか、ソド国に攻め込んだ場合、人間の兵士と戦わなければならなくなる可能性もあるのか」

「そうなると思います」

イミナが見たところ、ソド国は以前とは比べものにならないほど発展している。

効率的な管理が導入された結果、インフラ周りも生産効率も、以前の田舎国家時代とは比べものにならない。短期で栽培できる食料に至っては、魔王領に持ち込まれさえしているようだ。

はっきり言って、生半可な国王では、これ以上の善政は敷けないだろう。

かといって、魔物が今までしてきたことを考えると、連中が何を考えているのかよく分からない。家畜と同じように、状況次第ではまとめて殺すつもりかも知れない。

それは、イミナにも否定できなかった。

「一端距離を取りましょう。 さっきのは連隊長級です。 見つかると、無事で済む保証はありません」

「分かった。 しかし、人間が魔物に魂を売るとは。 天にいるという神は一体何をしているのだ」

心底がっかりした様子で、マーケットは言った。

気持ちは分かるが、エル教会のひどい腐敗と、それによって人間では無い体にされたイミナは、あまり同意できない。神罰が落ちるというのなら、エル教会の上層部にまっさきに落ちてきたはずだ。少なくとも、生きるために必死で、魔王軍に降伏するしか選択肢が無かったソド国の民には落ちないだろう。

だが、それは言わない。シルンも残念そうにしていたからだ。

そのまま南下して、更に幾つかの国を抜ける。そして、ソドの東南東で、魔王軍を視認。それと向かい合って布陣しているユキナの軍勢も見つけた。

丁度場所は、中規模の川が幾つか流れている原野である。間にある中州を挟んで、両軍は川を防波堤に向かい合っている様子だ。

報告だと二万と言うことだったが、以前と雰囲気が違う。

見たところ、敵兵が均一になっている。以前は人間と同じような姿をした歩兵がかなりいた。今もいるのだが、比率が前より少なくなっていた。

代わりにあの手強い六本腕が整然と並んでおり、更にその後ろには、見たことが無い巨大なのがかなりの数いる。

そして空もである。

何列かの横陣をしいて、整然と並んでいる敵部隊。半数ほどは以前から見かける風船とその護衛なのだが。見たことが無いのが混じっている。

遠くから見る限り、鳥のような奴だ。勿論近づかないと、詳細は分からないだろう。ただ気になるのは、旋回しているのでは無く、どうも空中でホバリングしている様子だと言うことだ。鳥形なのに、である。

キタルレアの南部に生息している超小型の鳥には、ホバリングが出来るものがいる。ハチドリとか言うそうだ。だが、空に浮いている奴は、どう見ても翼長二メートル以上はある。

もしも、飛行するのに魔力の補助を使っているのだとすると。

あれは、今までに無いほど、空の生活に適応した魔物なのかも知れない。

ユキナの陣地に赴く。

イミナはともかく、シルンは既に末端の兵士達にまで顔を知られはじめている。殆ど顔パスで、ユキナのいる本陣まで通してもらう事が出来た。ただし、ジェイムズは会議は退屈だといって、ふらりと消えてしまった。まあ、放っておけばじきに戻ってくるだろう。

ユキナは以前にも増して貫禄がついており、どうやら経験が浅い将軍達に、丁寧に陣図と状況を説明しているようだった。シルンが顔を見せると、会議を一端中断して、にこりともせずに言う。

「勇者どのか。 来てくれてありがたい」

「お疲れ様です。 二度手間になってしまいそうですが、状況をわたしにも教えてくれますか?」

「良いだろう」

周囲を見回すが、クドラクはいない。前線を視察しているのかも知れない。

来る途中にざっと見たが、兵士達の訓練は、まだまだ足りているとは言えない。少なくとも、魔王軍の最精鋭と真正面から渡り合ったアルカイナン王やテジン王の軍勢と比べると、雲泥の差だ。

確かに真正面から渡り合ったら、ひとたまりも無く潰されてしまうだろう。

しかし、陣の配置は理にかなっている。それに、敵が出てこないのをある程度想定し、ユキナとしても訓練を兼ねて出兵しているのかも知れなかった。

「なるほど、魔王軍はかなり高度な臨戦態勢をしいている、と」

「そうだ。 軍師殿の話によると、未確認の敵兵がかなり姿を見せている。 ひょっとすると、訓練のついでに、やっと形になり始めた余の軍をひねり潰すつもりかも知れぬ」

「その時は、わたしができる限り皆を逃がせるよう助力します」

「期待しよう」

大国と呼べる国は存在しないが、元々キタルレア南部には黒色人種が中心に暮らしており、彼らの身体能力はおしなべて高い。きちんとした訓練さえ施せば、遊牧民よりもかなり高い戦闘力を発揮できる。

だから、これは無駄では無いはずだ。

見たところ、経験が浅い兵士だけでは無く、かなり修羅場をくぐった精鋭と言える兵士もいるようだ。南部諸国は、かなり激しく魔王と交戦してきている。あれだけの戦いをくぐり抜けたのだから、中には強い兵士がいてもおかしくは無い。

「勇者殿には、経験が浅い兵士達に、戦いを教えて欲しい」

「戦場で、ですか?」

「そうだ。 今はにらみ合いの段階だし、新兵同然の連中を少しは鍛え上げておきたいのだ」

「分かりました。 ならば、ローテーションで少しずつ兵士達を鍛えるようにします」

マーケットはしばらく盤上の軍図を見ていたが、幾つか指摘をしていく。

ユキナは頷くと、その指摘について的確な答えを返していた。

この女性は、元々王族でも軍人でも無かったはずだ。だが、今は軍事に関して、並みの素人では及ばないほどの知識と、正真正銘のカリスマを身につけている。イミナが会うたびに成長しているようにさえ思えるほどだ。

雰囲気で分かるが、既に人間も止めているようだし、或いは。

南部諸国を、まとめ上げることが出来るかも知れない。魔王軍との戦いが一段落して、もし南部諸国が存在していたら。弱小諸国の代名詞だった国々が、偉大なカリスマの元統一され、大陸中央の強国や、東の列強とも渡り合えるようになるカモ知れなかった。

レオンは少し後方にある医療所に呼ばれて、そちらに向かった。まだ実戦は行われていないようだが、病人やけが人はどうしても出る。慣れない兵士だと、設営や運搬でも、怪我をする事はあるのだ。プラムもそれについていった。

イミナは残って欲しいと言われて、残った。

ユキナの周囲にいる腕利きの護衛と、イミナだけがその場に残る。

「銀髪の乙女、貴方はこの状況、どう見る」

「どうと言われても」

「ならば言い方を変えよう。 もうアニーアルスには、教皇からの使者は来たか?」

「教皇からの?」

そんな話は聞いていない。アニーアルスは色々と難しい立場にある場所だし、エル教会のトップから連絡があれば、今のイミナには届いているはずなのだが。

「そうか、届いていないのか」

「貴方の所には?」

「少し前に届いた。 どうやら新しい教皇は、魔王軍との停戦を考えているようでな、その準備を進めているらしい」

「停戦?」

それは難しいだろう。

魔王軍との戦いは大きなビジネスになっている。そもそも、魔物に対して徹底的な差別と略奪の正当化をしているのがエル教会なのだ。そのトップが、魔物との停戦を考えるとは、どういうことなのか。

勿論魔物だって、エル教会のことは恨み骨髄しみているだろう。

エル教会が出来る前は、魔物に対して人間は此処まで一方的かつ勝手な考え方を持っていなかったとも師匠から聞いている。ならば、なおさらだ。

「それが届いてから、すぐに魔王軍がソドを経由して威力偵察に出てきた。 無関係だとは思えない」

「なるほど、確かにそれは考えられます。 魔王軍にしてみれば、何か企んでいるとしか思えないでしょうから」

「今、一番危険なのは、ソドから南下した魔王軍が、幾つかの国を攻略して、南部諸国が分断されることだ。 此処で隙を見せると、魔王軍はそれを実施しかねない」

ユキナの読みは正しいと、イミナも思う。というのも、イミナが魔王軍の将軍でも、多分同じ事を考えるからだ。

それにしても、今回の侵攻に、そんな因子が絡んでいたとは。意外である。

「分かりました。 すぐに王弟殿下に、書状を出します。 今の話を聞く限り、すぐに牽制のための軍勢を出した方が良いはずですから」

 

二万の軍を率いて出撃したクライネスは、憮然としていた。

人間の出方を見るためだけの出兵だと言うことはわかりきっていたからだ。それだけではない。ヨーツレットからも、無為な消耗は避けるようにと、わざわざ言われている。パルムキュアはソドの防衛から動かさないようにと言われているし、言うならば一個師団だけを率いて、相手の動きを見るためだけに出てきたも同じであった。場合によっては方面軍の指揮を執る、軍団長の自分が、である。

前回の大戦での怪我は、とっくに完治している。だから、傷はいらだちの原因にはなっていない。

だが、いやむしろだからこそに、いらだちは強いのだとも言えた。

部下が来る。幾つかの敵前線で、動きがあったという。

「敵の一部が後退を開始しました。 ごくごく小規模の兵力ですが」

「む? どういうことか」

「今、確認中です」

上空を旋回している航空部隊を少し進める。

実戦前のラピッドスワローが、今回は試験運用中だ。アシュラも何匹か連れてきている。航空部隊の戦力を格段に上げることになるラピッドスワローは、今のところ何ら問題を起こしていない。

いつかは実戦を経験することになるのだ。それに、人間側に見られたところで、対策など取りようが無い。

「どうやら敵は少し後方に下がり、訓練を開始したようです」

「戦場でか? 舐めてくれたものだな」

「それが、その訓練を指揮しているのが、この者のようです」

ラピッドスワローは、今までの魔物とは考えられない視力を有している。それは何度かの演習で確認していたが、今回も立体測量で性格に相手の情報を送ってきた。

その情報を見て、クライネスは思わず絶句していた。

銀髪の双子。しかも妹の方。人間に勇者と言われている魔術師だ。常識外れの魔力を持ち、魔王軍の師団長に匹敵する力を持つとさえ言われる。人間側の切り札とも言われる奴が、まさか出てきていたとは。

人間、特に教皇は平和路線に転向し、その実を確かめるためにクライネスは出撃させられたというのに。あれが出てきていると言うことは、それは嘘だったのか。

いや、今回戦線を開かないためにも、抑止力として送り込んできた可能性もある。実際、全面に展開している南部諸国の連合軍は、極めて脆弱だ。その気になれば一息に押しつぶせる相手だったのだが。しかし、銀髪の双子が出てきたとなると、人間の最精鋭が混じり込んでいる可能性も否定できない。

そうなると、簡単にはいかないだろう。

今回、クライネスは師団長を連れてきていない。配下は旅団長以下ばかりだ。

銀髪の双子との交戦は出来るだけ避けたい。

それだけではない。もし銀髪の双子が出てきているとなると、アニーアルスの精鋭は、別の方角にいる可能性もある。たとえば、魔王軍の退路を塞ごうとしているとか。

その場合は、ソド領にいる部隊も動かさなければならない。戦線が一気に拡大し、最悪の場合はヨーツレットの親衛軍団にも動いて貰わなければならなくなる。キタン軍辺りも連携している可能性も、否定できなくなってきた。

悶々と悪い考えが続々浮かんでくる。

ぶるぶると体を振って、一度考えを直す。人間側も、教皇の指示通り、戦端を開かないように、抑止力を送り込んできているだけの可能性が高い。実際魔王軍としては、今戦端を開くのは得策では無いのだ。

「もう少し、情報を探れ」

「少数の部隊で、攻撃を仕掛けてみてはどうでしょう」

「相手にはあの銀髪の双子が出てきている。 思わぬ被害を出す可能性もあるから、やめておけ。 全戦線で、警戒を密にせよ」

「分かりました」

如何に銀髪の双子でも、アシュラの集中砲火と、ラピッドスワローが可能にした新戦術の前にはひとたまりも無いはずだ。

油断せず、どっしり構えている筈で大丈夫だ。そう自分に言い聞かせて、クライネスは本陣でそわそわしていた。

 

魔王軍の偵察部隊が、少し前進してきているのを、イミナは見て気づいていた。

王弟に書状を出した後、シルンと合流しようとして陣内を移動している時のことである。どうやら敵将は、以前南部諸国を蹂躙した奴と同じようなのだが、思ったより小心なのかも知れない。

相手にせずに、そのままシルンの所に。こういう場合、下手な反応をした方が、むしろ相手のヒステリックな反応を引きずり出しやすい。混乱している兵士達の指揮官を呼んで、放っておくように指示。そのまま、シルンの所へ向かった。

シルンは特に経験が浅そうな兵士達を集めていた。

「あ、お姉。 まず、何から教える?」

「お前はどう思う」

「うん。 ええとね、まずは軍隊としての行動から教えようかなって」

兵士達が顔を見合わせる。多分名高い勇者のことだから、魔術とか武術とかから教えてくれるとでも思ったのだろう。

だが、シルンの判断は正しい。

「軍としての組織が、人間の力を何倍にも高める。 生き残りたかったら、軍隊として動く事を体に刻み込め」

兵士達にイミナが言うと、流石に彼らも萎縮したように黙った。

勇者の姉は、冷酷な戦闘機械だとか言う噂が流れているらしい。まあ、大筋では外れていないし、周囲には怖がられていた方が良い。シルンがあまりにも親愛の対象になりすぎると、いずれ舐められる。

それを防ぐためには、側におっかないイミナがいる方が良いのだ。

特に今、魔王軍が困惑しているのがよく分かる。もしもこのままなし崩しに平和でも成立してしまったら、シルンは確実に用済みだ。王弟がシルンを切り捨てるとは思わないが、他の連中は違う。

場合によっては、魔王軍に平和の生け贄として、突き出される可能性さえある。

そんなことをさせるわけにはいかない。だから、側にイミナがずっといる必要があるのだ。

兵士達を、組織行動させるべく、シルンが指示をはじめた。

側でずっとイミナが見ているせいか、兵士達の動きも、緊張できびきびしたものへと、徐々に変わっていった。

数日間訓練をして、次の部隊に入る。

魔王軍は動かない。やはり、此方の出方をうかがっているのだと、イミナは確信した。

しばらくそうやって、訓練を続ける。覚えが悪い兵士もいる。だが、使えないといって排除するわけにも行かない。今は猫の手も借りたい時期だからだ。それに何より、戦士としての特性が無くても、他に才能がある場合も多い。

人事にまでは口を出せないが、ユキナに提案して、ある程度の融通は利かせられる。そうして、兵士の訓練を見ながら、半月以上を過ごした。

あの激戦から、既に八ヶ月以上が経過している。魔王軍もかなり再編成を済ませているはずだ。人間側も、彼方此方の国で前回以上の兵力を動員できる体制が整いつつあるはずである。

南部諸国は、まだ痛手から立ち直り切れていない。編成中の部隊はまだまだいるようだが、実際に動かせるのはこれが精一杯だ。つまり、魔王軍が本気で侵攻してきたら、ひとたまりも無い、という事である。

悲しい話だが、これが現実なのだ。

だが、魔王軍にも、利が無いにらみ合いであるのも事実。実際、先に音を上げたのは、魔王軍だった。

七つ目の部隊の訓練を終えたところで、伝令が来た。丁度良いタイミングだった。

「魔王軍が、撤退を開始しました」

「これ以上は易無しと見たのだろう」

イミナは、伝令に応える。そして、ユキナの本陣に、シルンと一緒に向かった。

歩きながら、シルンと話す。

「ねえ、お姉。 やっぱり戦いが終わったら、わたしは用済みなのかな」

「そうさせないために、私がここにいる」

「うん。 頼もしいよ」

「まだ戦いが終わるかは分からない。 だから、様子を見よう」

不安そうにしているシルンの肩を叩くと、イミナは並んで歩く。

自分にとってもっとも大事な存在である、双子の妹を守る。それが、シルンにとっての全てであった。

 

3、接触

 

クライネスは、撤退戦をほぼ完璧に達成した。

元々、半月に達する滞陣が、何ら意味をなさないことは、数日ではっきりした。人間側が様子見をしているだけなのは、斥候の情報を集めれば一目瞭然だったからである。

ただし、色々有益なことも分かってきた。

南部諸国は、今だまとまりきっていない。おそらく今回出てきたのが、敵の機動軍の全てだと見て良いだろう。

寄せ集めの二万五千など、その気になれば此方の五千で蹴散らせる。

だが、しかし。それでも、今後は力を増してくるのが予想される。あまりもたもたはしていられないというのも、素直な感想だった。

一度本土にまで引き上げる。その過程でソド領を視察したが、パルムキュアは非常に良く統治している。未だ人間共はパルムキュアを恐れてはいるようだが、善政を敷いて貰っているとも考えている様子だ。

反乱の気配などは無い。

勿論、武器などを取り上げられて、反乱が出来ないという事情もあるだろう。しかし見ていると、牧歌的な空気がある。適切な仕事を適量割り振られている人間どもは、むしろ平穏な生活を謳歌しているようにも思えた。

勿論、規律が行き届いているクライネスの部隊は、略奪も暴行もしない。これも、人間の軍隊とは根本的に異なる点だ。人間の軍隊だったら、通り過ぎる村はことごとく略奪し、女子供は陵辱の対象とし、通った後には何も残りはしない。魔物に対してだけでは無く、同類に対してもそういったことをしていると、クライネスは知っている。

歩きながら、参謀をしている旅団長と話す。

「クライネス軍団長、なんだか考えていたのと違いますね」

「或いは、エル教会の弱体化が原因かも知れないな」

「といいますると」

「人間は、敷かれた不文律によって、いくらでも考えを変える。 卑屈にも残虐にも、奔放にも真面目にもなる。 エル教会という独善的で戦闘的な不文律によって、今まで連中は邪悪の極みにいたのだとすると、むしろこっちが自然なのかも知れない」

そうなると、ヨーツレットの考えも、分かってくる。

ヨーツレットは人間をこういう状態にしたいのでは無いのか。魔物に支配されることに反発する人間も、当然出るだろう。

だが、こういう国をもう三つか四つ増やしていけば、或いは緩衝地帯を作ることが出来るかも知れない。

実現できれば、世界のあり方は変わる。

どうしようも無い殲滅戦の時代は終わり、緩衝地帯を挟んでの、小競り合いの時代が来るかも知れない。

問題は、それを魔王が由とするか、なのだが。

国境線の村を通ったとき。不意に、子供がこっちに来た。護衛についているアシュラが、砲口を向けかけるが、止めさせる。

「あ、あの」

「何か」

「魔王軍の将軍の方、ですよね」

「いかにも」

軍が停止する。クライネスの周囲にいる部隊は、停止と共に、周囲を警戒しはじめた。

声を掛けてきたのは、男の子かと思ったが。どうやら女子らしい。格好が粗末で髪を隠しているので、男に見えた。だが、それが故に、実際の年齢は見かけよりももう少し上のようだ。子供というのは無理があるだろう。僧衣を着ているが、今まで殺してきたエル教会の坊主どもとは、根本的に別に見えた。連中は豪勢な食事をむさぼり、暴利を好き勝手に得ることで、豚のように肥えていた。此奴の体は、節制と統制によって、しっかり引き締められている。

「この近くの山に、恐ろしい大熊が住み着いていて、毎年冬になると暴れて大きな被害が出ます。 ソド国の時代に何度か退治を依頼したのですが、賄賂を渡さなければ軍の方は動いてくれなくて。 今の時代になっても、魔王軍の皆様は自然に手を出すことは許してくださらなくて」

「ふむ、この村の護衛の部隊は何をしている」

「此処の村は防衛ラインから外れているとかで、村を守る最小限の補充兵しか派遣してくれていません。 このままだと、また冬になると、大勢被害が出ます。 どうにかしていただけませんでしょうか」

パルムキュアの評判を、クライネスが落としたとなると不快だ。

人間と話したのは、実はこれが初めてでもある。

「他の部隊は撤退を続けさせよ。 キーネス情報将校」

「はい」

「すぐにパルムキュアに連絡して、判断させよ。 状況次第では、私が退治に向かっても構わん」

「ははっ。 直ちに」

純正の魔物であるキーネスは、ロードランナーと呼ばれる鳥の魔物だ。鳥と言ってもいわゆるダチョウのように、地上を走り回るタイプの鳥に近い姿をしていて、知能もそれなりである。

ただし真面目で足が速いので、伝令には重宝していた。また彼の種族は、フォルドワードでどうにか繁殖に成功しており、それなりの数がいる。今後は新しい世代が、どんどん伝令として前線に出てくるかも知れない。

礼を言う女を、他の村人共が見ているのが分かる。視線は何というか、信仰の対象をみるそれだった。

「そなた、名前は」

「マリアと申します」

「私はクライネス。 魔王軍の軍団長の一角だ」

そういえば、人間は確か、エル教会の開祖やその近親者の名前などをつける風習があるとか聞いている。

マリアとか言うのは、エル教会の開祖であるエル=セントの妻だか母だかの名前であったはず。処女のまま子を宿したとか言う、変な伝説の持ち主だ。まあ、マリアという名前の、神話上重要人物は他にもいるらしい。或いはそいつらの名前をつけたのかも知れない。

クライネスにしてみれば、名前などどうでも良いことである。生きている人間を観察する、好機であった。勿論、効率よく滅ぼすためにである。

「護衛の部隊と、此処にとどまる」

「よろしいのですか」

「再編成はいずれにしてもまだしばらく掛かる。 熊の退治の間くらい、ここにいても良いだろう」

此処でトラブルを起こすと、パルムキュアの評判を落とすだけでは無く、ヨーツレットまでへそを曲げるかも知れない。

それは、どうにか避けたい。

ただでさえクライネスは皆から嫌われているのだ。仲良くしようといろいろしているが、どうしても上手く行かない。

実施したら更に関係が悪化するとわかりきっていることを、するわけにはいかなかった。

 

半日ほどで、キーネスは戻ってきた。驚くことに、ラピッドスワローに吊されて、パルムキュアまで来た。

村人達が怯えるのが分かる。

今まで何度か小耳に挟んだが、この内気な師団長は、人肉を好んで喰うと人間共に噂されている。大変小心できまじめなのにひどい話だ。見かけはイソギンチャクのようで、人間から見れば恐ろしいかも知れないが。

まあ、人間は基本的に外見だけで相手を判断することが多い生物だ。このような醜態は、今に始まったことでは無い。

「パルムキュア師団長、久しぶりだな」

「クライネス軍団長も、お久しぶりです。 ご壮健なようで何よりです」

「何、私も前の大会戦ではかなり手ひどい傷を受けた」

軽く話をする。

パルムキュアの話によると、なんと主に南部諸国の東の方から、難民がソド領にかなりの数流れ込んできているという。

どうやら人間にとってソド領が「善政を敷かれている」状態であるらしく、なおかつ東の騎馬民族国家に対する恐怖もあって、保護を求めるつもりらしい。家畜の理論のような気がするのだが、人間は基本的にどこまでも独善的だし、多分彼らから見れば「正しい行動」なのだろう。

「既に、エンバミア王国の領土西八千歩四方ほどが、半無人地帯と化しています。 元々無能な王に不満が多かった民が、今回の件で王に見切りをつけたようです。 ヨーツレット元帥は全部保護するようにと告げてきています」

「なるほどな」

「はい?」

「一万の増員の理由が分かった。 エンバミアの西半分を、無血占領させるつもりだろう」

なるほどと、パルムキュアが頷いた。

もしそれが実現すれば、大規模戦闘が始まる前に、魔王軍の領地は更に拡大する。更に言えば、一押しで南部諸国を東西に分断できる状態にもなる。

エンバミアが転べば、他の国も続けて転ぶ可能性が高い。これは、確かに今までの戦略には無い、面白いものだ。クライネスの知的好奇心も刺激され通しだ。ヨーツレット元帥は、なかなかに知性派では無いか。

しかし、そうなると魔王が何を言うかが気になる。

魔王のことはクライネスも大好きなのだが、戦略が上手く行っているのなら、それをそのまま進めれば良いとも思う。人間の事を皆殺しにするタイミングをしっかり計るのも大事だろう。

手当たり次第殺せば良いというわけでは無い。

こうやって家畜化した人間を、ある一線でローラー作戦にかければ、もっと効率の良い殺戮が出来るでは無いか。

卑劣にも思えるが、人間はもっと残虐に非道に魔物の領地を宝物を命を奪ってきたのだ。今更遠慮する必要などは無い。

マリアが住んでいる襤褸の教会の前に辿り着く。

不安そうな顔をした、村の有力者達が集まっていた。村長は少し前に就任した若い人物だ。がりがりに痩せているのだが、目の光は強く、知能も高い。

「領主様、それにええとクライネス軍団長様。 わざわざお言葉を聞き届けていただき、ありがとうございます」

「早速ですが、既に人食い熊の件は、調査を進めています」

パルムキュアがぱちんと触手を鳴らす。

そうすると、空中にこの辺り一帯の地形図が出た。立体映像であり、非常に精巧なものだ。

ある程度緑があるが、一部がはげ山になっているのが分かる。

なるほど、これでは熊も人を襲うわけだ。

パルムキュアが喋りにくそうにしている。代わりに、首が長い鳥のような姿をした旅団長が前に出た。代理で喋るつもりらしい。

「そして原因もはっきりしています」

「そ、それは」

「あなた方が林業で、片っ端から木を切っていることです」

パルムキュアが、正確には旅団長が代わりに、生体系について説明する。

元々熊は、本来であれば豊富な山の幸をあさって充分に生活が出来ている。人間が縄張りに踏み込んできた場合などを除けば、人間と諍いになる事もない。

だが、人間は熊を駆逐する。

山を切り開くためには邪魔だからだ。山を切り開けば、資源を独占できる。自分の勢力圏を拡大できる。

人間の世界では、それでも良い。だが、此処は既に魔王軍の領土である。そんな理屈は認められない。

「熊については、すぐに捕獲します。 今後、被害が出ることは無いでしょう」

「それは、ありがとうございます」

「ただし、貴方たちにも、仕事をして貰います。 これから一年ほどの計画で、この辺りの山をしっかり元に戻して貰います」

不安そうに、村人達が顔を見合わせる。

分からないのだろう。そもそも、自然を尊重するという思想が無いからだ。

エル教会は、人間を万物の霊長とし、絶対正義とした。それが、人間の傲慢を産んだ。

人間は何をしても良いのだ。何か悪いことがあれば、それは全て魔物のせいなのである。森が枯れて木の実が採れなくなるのも、長い間潅漑をしていて畑が枯れるのも、それは全て魔物がこの世にいるせいなのだ。冗談ではなく、実際に聖書とやらにはそう書いてあるのである。

人間の独善が、世界を食い荒らしている。

「森なんかを作って、どうするんです」

「簡単に言うと、世界の栄養は、循環しています。 小さな虫から順番を経て、やがて大きな生き物へ。 貴方たちはそれを今まで一方的に搾取することはあっても、育てようとも慈しもうともしてこなかった。 いや、ずっと昔はしていたようですが、今はしていない」

「……?」

「我々の国にいる限り、何を考えようと、何を信じようと自由です。 ただし、根本的な方針は我々に従って貰います」

そうすることで、安全も保証されるし、食料も得られる。税だって前よりずっと安い。それを知っている村人達は、訳が分からないと顔に書きながらも、散っていった。

一人、不安そうにしているのはマリアだ。

「熊を、どうするつもりですか」

「今、我らが魔王様の城の周辺には森が出来ている。 其処に移して、生体系の安定を図るために活躍して貰う」

「……分かりません」

何が分からないと言おうと思ったが、どうやら考えていることが、クライネスの思ったことと違うらしいと気づく。

この娘は、今まで魔王軍に対して、心の奥底で敵意を燃やしていたのかも知れない。

だが、或いは、魔王軍が、人間を除けば世界全体のことを考えて動いているのだと、気づきはじめているのだとしたら。人間を滅ぼすのも、むしろ生きるためなのだ知ったとしたら。

もしそうなら面白い。

クライネスは、そう思った。

 

翌日から、山狩りが行われた。といっても、あっという間に終わったが。早朝から始まって、わずか一刻で終了した。

三百キロほどある大きな熊が捕らえられた。連隊長が三名参加したので、人間が山狩りするよりも遙かに効率的だったのだ。腹を空かせていたようで、かなり暴れたが。しかしパルムキュアが触手で縛られた熊の額に触手をつけると、すぐにおとなしくなった。動物と意思を通わせる術式を使ったのだろう。

「何を話したのか」

「食事がたくさんある所に連れて行ってあげるから、おとなしくしてくださいと言いました。 後、彼はあまり人間は好きでは無くて、空腹に絶えかねて食べたそうです」

「まあ、そんなものだろう」

檻に入れることも無い。何名かの魔物に、熊を連れて行かせる。

熊は何度かパルムキュアに振り返り、礼を言うような視線を向けていた。仮設魔王城の城下にある森には、熊相手なら自衛できる魔物が揃っているし、生体系のボスとして丁度良い。

既に鹿や兎も入れはじめているし、熊は欲しい所だったのだ。

他にも熊を二頭見つけたが、いずれもやせ細っていた。魔王領内に連れて行かせる手はずをする。

用事は済んだので、パルムキュアはすぐに戻っていった。

マリアは、連れて行かれたやせ細った熊を見つめていた。

「意味が分かったか。 御前達が、熊を追い詰め、冬ごもりにも失敗させ、結果その反撃を受けていたのだ。 此処が辺境の、しかも腐敗した国でなかったら、熊を殺して人間の勝利を喧伝していたのだろう。 全ての悪を熊に押しつけてな。 何しろ御前達人間は、万物の霊長だと聖書だとかで言われているからな」

「……人は」

「?」

「いつの間にか、世界で暮らす術を忘れてしまったのかも知れないと、私は思いました」

このマリアという娘は、エル教会が浸されている悪徳とは無縁の生活をしてきているのが、一目で分かる。

人間の価値観で美しいか醜いかはよく分からないが、言い寄る人間が出ないのも、その高潔さが圧倒的な聖性を作り出しているからだろう。美醜はあまり関係が無いはずだ。

「貴方たちは、今まで多くの人々の命を奪いました。 何故なのか、教えていただけますか」

「当然、生きるためだ。 エンドレンでもキタルレアでも、凄まじい激戦が繰り広げられたのは知っているだろう。 人間を殺さなければ、魔物は皆殺しにされる。 ましてや魔王陛下が現れるまで、魔物は北極の地下洞窟に押し込められ、全滅の時を待つばかりだったのだ」

「では、わたし達人間が貴方たちとの共存を選ぶとしたら、戦いを止めてくれますか」

「状況次第だ。 魔王様は人間を非常に嫌っておられるし、何より人間を絶対正義とする今の御前達の不文律では、魔王軍の領土は美味しいビジネスチャンスにしか見えていないはずだ。 共存を選ぼうとして、その実また攻めてくるために力を蓄えているだけに過ぎない可能性が高いからな」

事実、混乱しながらもエンドレンではまた再侵攻の準備が進められている筈だし、キタルレアでも、大陸中央の覇者となったキタンや東側の大国群は、体制を立て直し次第圧倒的な大軍を送り込んでくるはずだ。

むしろ南部諸国を今のうちに落としてしまえば、キタンと全面的な対決が出来る。そしてアシュラとラピッドスワローの戦力に対抗できないうちにキタンを叩き潰してしまえば、後は本命の大陸東側にいる、グラントをはじめとする大国群だけだ。此奴らを潰せば、エンドレンに全戦力を投入することも可能になる。

南の大陸が沈黙を守っているのが不気味と言えば不気味だが、エンドレンが混乱している今こそ好機だとも言えるのだ。

「私は、貴方たちをもっと知りたい」

「む?」

「貴方も私も、互いのことを知らない。 知らなすぎるのだと思います。 エル教会の教義に、貴方たちが言うように問題があるのも事実です。 でも、本当におぞましい醜悪な人間は、それほど多くはありません。 様々な悲劇で、邪悪な人が目立ってしまうから、そう思えてしまうだけだと、私は考えています」

つくづく、面白いことを言う奴だ。

此奴を解剖して、調べてみたいとも思う。何を考えているか、脳を直接いじくったら面白いかも知れない。

だが、それは、あまり望ましいことでは無い。パルムキュアの方針に反するし、つまりヨーツレットの機嫌を損ねかねないからだ。

「興味深い意見だった。 いずれまた、会うこともあるだろう」

「今度は、平和のために会うことになると、信じます」

「そんなことはあり得ぬと思うがな」

クライネスは部下を促し、少し長くなってしまった辺境の村の滞在を切り上げる。

マリアは、此方をずっと見ていたようだった。

 

魔王軍の幹部であるクライネスが去ると、村人達は小声でひそひそと話をしていた。

「俺のばあさまは、あの熊に喰われた。 何で殺さなかったんだ」

「わかんねえけど、やっぱり戦争に使うのかなあ」

「話に聞くと、魔物って人間に比べて数が凄く少ないらしいんだよ。 だから、熊も兵器にするのかもしれないな」

いずれもが、クライネスと話した今なら、違うと分かる。

マリアが咳払いすると、村人達は居住まいを正した。

「ありがとうございます、マリア司祭」

「結果はともあれ、これからは安心して暮らせますだ」

「でも、植林だっけ? 訳が分からない仕事が増えちまいましたけど」

この純朴だが残酷な村の者達に、クライネスが言ったことがどれだけ伝わるだろうかと、マリアは思った。

「今は、脅威が去ったことを喜びましょう。 少しずつ、新しいことを理解していけば良いのです」

「はい、マリア司祭」

「頑張って収穫を増やしますだ」

農民達は、笑顔で周辺に散っていった。

マリアは、暗い気持ちで、自身の教会を見上げる。

よその教会は、中央に納金するために、どこでも悪事に手を染めている。孤児院の子供を売り払ったり、エル教会中枢に話をつけて、人体実験の材料にする事さえある。麻薬をつくって密売している教会まであると噂に聞いたことがある。しかし、そんな腐敗しきったエル教会の関係者に、天罰が下ったという話は聞いたためしがなかった。神は天罰など下さないと、一番よく知っているのは、エル教会関係者なのかも知れない。

マリアは、教会を真面目だった父から受け継いでから、中央のもっと納金しろという命令を蹴り続けた。民が貧しい暮らしをしているのを幼い頃から一緒に過ごして知っていたし、何より腐敗した国政にも苦しめられているのに、これ以上負担を増やしたくないと思っていたからだ。

いつの間にか大人になってしまったマリアは、他の強欲なエル教会司祭とは違うと評判になっていたらしい。村人達から聖女のように崇められたが、嬉しくは無かった。彼らの心を楽にすることは出来ても、巨大な脅威にはなすすべが無かったからだ。

魔王軍が進駐してきたときも、怯える村人達を教会にかくまうだけが精一杯だった。隠れていても死ぬだけだと思ったマリアは、一人で魔王軍の前に出向く。そして、現れた魔王軍の連隊長に、一人で話をした。話をしてみると、村人を喰うとか、皆殺しにするとか、そういうことでは無かったので安心した。墓地の死体を持っていくという話には悲しくなったが、税は安くなったし、労役は軽くなった。何より、今回は毎年苦しめられていた熊もどうにかしてくれた。

ソドの前国王より、今の魔王軍の方が、遙かに誠実で頼りになるとさえ言える。

だが、それは家畜が人間に対して抱く信頼にも似ていると、マリアはしっかり把握できていた。

結局、自分は弱いままだ。

あのクライネスという将軍も、必要に応じて村人の頼みを機械的に処理したという空気が非常に強かった。マリアとの会話も、単に人間の思考が物珍しいからおもしろがっていただけで、必要になれば村人を何の容赦も無く鏖殺しただろう事は間違いない。

力が無い。

だから、食い止められないのだ。

どうすれば良いのだろうと、思う。今、魔王軍に反旗を翻したりするのは論外だ。しかし、魔物と話をしようにも、マリアには切るカードが無い。魔物達は、そもそもマリアを同格の存在だなどと思っていない。

かって、人間が、魔物にそうしていたように。

いつの間にか、村の外をふらふらと歩いていた。熊はもういないとはいえ、山賊や盗賊もこの辺りには出ないとはいえ、不用心すぎる。

嘆息して戻ろうとした時。

背後から、視線を感じた。

「誰!?」

返事は無い。いや、あったと言うべきか。

茂みから、ぼさぼさ頭の、異相の老人が現れた。汚らしい白衣を着ており、マリアのことを興味深そうに見つめている。

「何ですか……。 迷子になられましたか?」

「迷子? この私が? ひゃははははは、面白いことをいう娘さんだ」

なんだか失礼な老人である。

ちょっとむっとしたが、怒るようなことはしない。それによく見ると、老人なのか、若いのかも、よく分からなかった。

「私はジェイムズ。 此処を通りがかった者だが、これは面白い拾いものをした」

「!」

「おおっと、心配いらんよ。 私は人さらいでは無い。 むしろ、御前さんに良い物をくれてやろうとおもうてなあ」

男は白衣の中から、硝子瓶を取り出す。

それには、土留め色の、おぞましい液体が納められていた。

男はさも大事そうにそれを地面におくと、此方を伺うように見る。

「あんた、人間を止めたいと思っているね?」

「そんなことは、思っていません」

「いいや、違いない。 力が欲しいと思っている目だよ、それは」

けたけたとジェイムズは笑う。そして、視線の先で、硝子瓶を刺した。

「それは、魔物の血から、私が工夫をして作り出した秘薬。 それを使えば、御前さんは人間を超越し、魔物と人間の中間とも言える存在となれるだろう。 確率は……普通なら百分の一という所だが、御前さんの場合は半分くらいはありそうだ」

「訳が分かりません。 貴方は一体何者ですか」

「私は生命の神秘を追い求めるものだ。 どうしたね。 無力は嫌なのだろう。 力を得たいのだろう? 理由は何か。 御前さんを振った男に復讐したいのか。 或いは、もっと高尚な理由か?」

息を呑む。

この男は、本当に何者だ。

やがてじっとマリアを見つめていた男は、そそくさと茂みの中に消えていった。

瓶を拾う。なにやら但し書きとやらが、添えられていた。

失敗すれば死ぬ。そう書かれている。

だが、マリアは。あの男が、嘘をついているようには思えなかった。気味が悪い男だったが、どうしてマリアが思っていることを、知っていたのだろう。いや、知っているはずは無い。

洞察したのだ。少しマリアを見ただけで。

人間を止めたいとは思わない。

だが、力は欲しいと思う。

戦うためでは無い。交渉のカードとするためだ。

添え書きを読む。使い方は簡単だ。体を傷つけて、傷口にその汚れたような色をした、おぞましい液体を掛ければ良いとか。

無言でマリアは瓶を見つめていたが。やがて、大きく嘆息した。

これが神の悪意か、悪魔のささやきかは分からない。だが、偶然あのジェイムズとかいう怪人がここにいたのは、好機だ。それも、おそらく、マリアにとっては最高で最悪の。

一度、教会に戻る。

自室で、寝台に転がった。

よく考えようと思ったからだ。瓶を捨てるのは、いつでも出来る。だが、また手に入れることは、もう出来ないだろう。

眠れなかった。

生理が来てから、時々体をもてあますことがあった。精神力で押さえつけては来たが、その時の感覚に近いかも知れない。

男性を好きになった事は一度も無い。勿論、女性もそれは同じ事だ。

人間は全て博愛の対象であり、特定の個人に対して愛を感じたことは一度も無い。子供は皆等しく可愛い、というような事だ。

マリアは、今。

力を得る好機を目の前にしている。力を入れれば、今までのように、強大な暴力に泣くだけの生活から、抜けられるかも知れない。大きな力を得れば、責任も背負うことになる。それは構わない。

いつの間にか、土留め色の液体が、本当に自分に力をくれると、マリアは信じてしまっていた。

しかし、あの男が嘘つきだとも、思えなかった。

寝台で悶々とする。翌日は仕事にならなかった。その次の日も。

村人達は心配してくれた。そのたびに、マリアは己の決断力のなさを情けないと思った。

やがて、マリアは、小さなナイフを取り出すと、手首に当てた。

目を閉じると、一気にナイフを引く。

もし嘘でも、怪我をする程度で済む。成功すれば、村人達をより効率よく守ることが出来るようになる。

魔物とも、対等の交渉のテーブルに着くことが出来るかも知れない。

このまま生きていても、マリアはどうせ辺境の貧乏司祭で終わりだ。それならば、せめて皆のためになれる方法を選びたい。

瓶を開けると。マリアは、盛大に土留め色の液体を、傷口にぶっかけた。

 

全身がひどく痛む。

いつの間にか、気を失っていたらしい。マリアは、自室でむくりと体を起こした。

背中がひどくかゆい。それだけでは無い。とても重いように感じる。

なんだか、体の感覚がおかしい。

そもそも、なんだか、体のバランスが以前と違っているような気がして鳴らない。

頭がぐらぐらする。手を頭にやって、驚いた。

髪が、かなり伸びている。

そもそも、今はいつだ。

辺りの景色が歪んでいるように見える。目を何度かこする。それで、違和感が、はっきりしてきた。

手が、浅黒い。

こんな肌の色をしていたか。

確かに、農民と混じって畑仕事もしていたし、皆の手が足りないときは家事や子守もしていた。だから、教会でのうのうと生活し、必要に応じて説法だけしている他の女司祭に比べれば肌も焼けている自覚はあった。

だが、この肌はどういうことだ。

髪は以前と同じく真っ黒だ。だが、妙に爪も伸びているような気がする。更に、背中に手を伸ばしてみて、思わず小さく悲鳴を漏らしていた。

翼がある。それも、コウモリのような、とても大きなものだ。

ドアをノックする音。気づいて、マリアは思わず体をこわばらせた。

「マリア司祭。 起きたようですね」

「誰、ですか」

「魔王軍駐屯部隊のケンブリッジ連隊長です」

この辺り四つの村の警備を総括しているお偉いさんだ。いわゆるヒドラと呼ばれる魔物を模して作られた存在だとかいう話で、巨大な蛇体に複数の頭を持っている。恐ろしい見かけの割に紳士的で誰にも敬語で喋るので、恐れられはしているが評判自体は良い魔物である。

この間話したクライネスに比べるとかなり地位は落ちるが、どうしてそんな者がマリアの部屋の戸を叩いているのか。

「村人が貴方が倒れたという話をして、医師が異変を確認。 私の所に話が来てから、丁度一週間になります」

一週間も経っていたのか。

徐々に、思い出す。ジェイムズという男の悪魔のささやきに、乗ってしまったのだ。この肌の色、背中の翼は、その結果か。

手鏡を慌てて取り出して、のぞき込む。

そして、絶句した。

姿形は、さほど変わっていない。だが、浅黒い肌、伸びた黒髪、そしてコウモリを思わせる禍々しい翼。

体型も、以前よりかなり豊満になっているようだ。

これでは、伝承にある女悪魔だ。それも、男の夢に現れてその精をすするような、極めてたちが悪い奴では無いか。

村人達に、こんな姿は見せられない。

幾らか姿が変わることは、予想していた。だが、まさかもっとも忌むべきこのような姿格好になってしまうとは。

「貴方、一体何をしたのですか? 秘術か何かですか」

「あ、そ、その」

「落ち着いたら良いので、少しずつ話してください。 無理に逃亡しようとしたら、此方もそれなりの処置を執らなければならなくなります。 落ち着いて行動してください」

恐怖が、せり上がってくる。

だが、同時に。以前と同じく、心を落ち着かせようとも努める。

力が欲しいと願ったのは、自分だ。これは当然のリスクとして生じたものだ。人間のままでは、マリアは村人達に信頼を受けても、無力な小娘だった。だが、今はどうなのだろう。

人間では無くなったかも知れないが。

しかし、力は得たのでは無いのか。

確かに、全身から溢れるような力を感じる。翼を動かしてみると、さほど風も起こらないのに、体も浮いた。

飛ぶくらいは、簡単と言うことか。

傷口は、綺麗に消えている。たった一週間で、あれだけ派手な傷口が消えているというのは、不可解な話だ。これも、新しい体が故だろうか。

困惑の中で、徐々に心が落ち着いていくのも分かる。

自分が選んだ道なのだ。ならば、自分で責任を取らなければならない。

そして、ケンブリッジと話すのは、その第一歩となるだろう。

村人達はこのことを知っているのだろうか。だとすると、もうこの村に、自分の居場所は無いかも知れない。

生まれ育った村である。もう居場所が無いと言うのは少し悲しいが。

だが、仕方が無い事だとも思えた。

 

4、直接対決への道

 

魔王の前に、複数の情報球が浮かんでいる。その中には、御前会議にさえ滅多に顔を出さないミズガルアやバラムンクの姿もあった。謁見の間に傅いているのはヨーツレットとクライネスだけであり、病床から立ち直ったばかりのカルローネも情報球の中に姿を見せている。

勿論、グリルアーノやメラクス、レイレリアとグラウコスの姿もある。魔王軍が誇る九将が、会議とは言え全員出席している形となる。

師団長達も、この話は全員が聞いている。久方ぶりの、非常に重要な御前会議なのだから当然か。

「ふむ、ではやはり、人間共が融和路線とやらを押し出しつつあるのはほぼ間違いないという所なのじゃな」

「はい」

「何かの罠じゃな」

魔王は即時に切り捨てた。

口調は柔らかいし、表情にも怒りは見えない。だが、はっきりとした拒絶があるのを、ヨーツレットは見て取っていた。

確かに、魔王の歴史を知るヨーツレットは、それも納得できる。同じ生を送っていたら、ヨーツレットだって、同じように考えただろうからだ。

「警戒を密にするように」

「分かりました。 各地の前線基地を、更に強化。 軍団の規模増強を進めます」

「うむ。 クライネス将軍、それと、例の計画はどうなっておる」

「ははっ。 順調です、陛下」

例の計画と、グリルアーノが小首をかしげた。

フォルドワードに展開している軍団長の中では、比較的怪我が浅く、結果として部隊の指揮を最近まで続けていたグリルアーノは、緊張感の中におかれたからか近年成長が著しい。

義足ならぬ義翼の調子も良いようで、充実した様子がうかがえた。

「はい。 今、キタルレアの南部諸国が、かなり政情不安になっています。 それで、ソド領に流れ込んでくる難民が出始めておりまして、空白地になるような敵国まで出始めております。 敵軍には進軍する余裕も進駐する兵力も無く、そのまま無血で領土を広げることが出来ている状態でして」

「……なるほど。 して、その難民はどうするのだ」

「はい。 今の時点ではソドで働かせております。 いずれ機会が来れば、適切に対応いたします」

「その時期に関しては、私が判断を任されている」

グリルアーノの疑問が出る前に、ヨーツレットが付け加えておいた。

魔王は頷くと、立ち上がる。

皆の表情が、一気に緊張するのが分かった。

「どうも人間側の動きが気になる。 一度敵の本拠に儂が殴り込みを掛けるとするかのう」

「アニーアルスですか」

「いや、それは別に心配しなくても良い。 確かに直接的な弊害としては銀髪の双子は目だっておるようじゃが、何も軍団長が勝てぬほどの相手ではあるまい?」

確かにその通りだ。

いろいろな情報を調査する限り、銀髪の双子はむしろゲリラ戦の名人で、魔王軍大物士官の戦死には殆ど関わっていない。関わっている場合も、よほど条件が整った場合のみのようである。

「南の大陸、聖太陽都に飛ぶ。 クライネス軍団長、準備をせよ」

「ははっ。 護衛は誰を伴いますか」

「クライネス軍団長だけで良い。 今は状況が安定しているし、多少ここを離れても平気じゃろう。 三日ほどで戻るから、皆は心配せず待っているようにの」

危険ですと言いかけて、ヨーツレットは止めた。

魔王に勝てる相手がいるとは、想像しにくい。単独で五万の精鋭に匹敵する戦闘力を持ち、人類が作り上げた魔術に関する知識の殆どを有していると言っても過言では無いほどの怪物的な存在。

それが、魔物のカリスマである魔王だ。

更に、クライネスも同行するのである。クライネスのことはあまり好きでは無いが、頭脳と忠誠心に関しては信頼もしている。おそらく、最悪でも自分が犠牲になって魔王を逃がすくらいのことはしてのけるだろう。

テレポートの使い手は他にもいる。だがいずれも上級士官ばかりであり、最悪の場合は脱出に骨が折れるかも知れない。まあ、それはそれだ。

「お留守の間は、必ず私が御座を守りきりまする」

「頼むぞ、ヨーツレット元帥」

「フォルドワードに関してもお任せを。 必ずや守り抜いて見せまする」

カルローネも、多少咳き込みながらそう言ってくれた。

 

魔王軍でも随一のテレポートの使い手、クライネスによって、南の大陸キルレーシュまで一気に跳躍。

流石に疲弊しきってぐったりしているクライネスから離れると、魔王は周囲を見回した。

南の大陸に乗り込むのは初めてだが、伝聞で状況は知っている。随分前からエル教会によって大陸そのものが私物化されており、単一国家での平穏な状況が続いているという。

だが、それは腐敗と共にある。

完全に血脈で地位が決まる社会であり、奴隷は奴隷として一生を送るしか無い。どんな暴虐でも金を積めば見逃され、場合によってはエル教会にとって大事なはずの教義でさえ金によって変動するという。

人間の社会の縮図とも言える、腐りきった場所だ。

聖太陽都の近くの平原に降り立ちはしたが、どうも人気どころか、生物の気配が無い。ぼうぼうと生えている草には生気が無く、虫が殆ど見当たらなかった。エンドレンもひどい状況だとバラムンクから聞いているが、ここは更にその上を行くかも知れない。

「やれやれ、どこも人間がすることは同じじゃのう」

「お待ちください、陛下。 す、少し、休ませてください」

「まだ若いというのにいかんぞ、クライネス軍団長。 もっとこう、体を鍛えなくては」

「ご勘弁ください。 それよりも、我らは少しこのままでは目立ちすぎまする。 隠密潜行をした方が良いのではありませんか」

クライネスが脳天気な事を言ったので、魔王はからからと笑った。

何を隠れる必要があるというのだ。

辺りを歩き回り、小高い丘に出る。聖太陽都を探して、周囲を見るには絶好の地形だと言える。

海が見えた。青く澄み渡り、空には白い雲が無数に流れている。

行き交っている船は殆ど無い。この辺りは港から遠いと言うことか。

大きな都市は見当たらない。

「ここは、本当に聖太陽都の側なのかのう」

「はい、座標的にはこの近くの筈なのですが」

「もう少し歩いてみるとしよう。 行くぞ、クライネス将軍」

「お待ちください、陛下ぁ」

クライネスは、ウニのような体を動かして、わきわきとついてくる。疲弊が相当にひどいらしく、ぐったりとした様子である。

年老いた状態で不老不死になった魔王が平気で歩き回っているのに、情けない話だが、元々クライネスは肉体派では無い。テレポートによる疲弊がひどいとは言え、ちょっとこれは問題かも知れない。

「やれやれ、仕方が無いのう」

空中で印を切る。

クライネスの周囲に、淡い紫色の円が出現し、其処に様々な文字が刻み込まれていく。

魔王が短い詠唱を行い、拳を握り込むと、光が炸裂。

クライネスは、非常に体が軽くなったようで、飛び上がった。

「へ、陛下!?」

「何、簡単な回復術じゃよ。 肉体の破損は回復できないが、体力の方はこれで充分戻ったはずじゃ」

「醜態をお見せいたしました」

「何、気にするでない。 そなた達は、みな儂の宝じゃからのう」

恐縮した様子で、クライネスが頷いた。

魔王にしてみれば、クライネスの駄目なところもひっくるめて可愛いわけで、むしろ欠点があるなら補ってやれば良いとさえ考えてもいる。

辺りをしばらく歩き回っている内に、魔王もちょっと面倒になってきた。

「クライネス軍団長、空から探すことにしようかのう」

「ご明察にございます」

触手を何本か伸ばして、クライネスが魔王のためにブランコのような座を作る。

それに腰掛けると、クライネスが魔術を展開して、空に浮き上がった。

流石に空に出ると、周囲の様子がよく分かる。だが、逆に言えば。

どうして、それで今まで見つからなかったのか、分かってしまった。

「なんだこれは」

思わず、魔王は呟いていた。

近くの平野に、巨大なクレーターが存在している。多分、聖太陽都があった筈の場所だ。どうしてそんなものがここにある。

むしろ最近は、エル教会の活動が活発化してきていると聞いているのだが。中枢部分がこんな事になっていたら、大混乱になるはずなのに。

「大規模な幻術か」

「いえ、あり得ぬ事にございます」

「そうよのう。 もう少し近づいてみてくれるか」

「分かりました。 直ちに」

クライネスの飛行速度は、さほど速くない。レイレリアにぶら下げて貰った方が、早く着く位である。

通信が来た。ヨーツレットからだ。

「陛下、状況は」

「うむ、見ての通りじゃ」

「何という禍々しい光景でしょう」

「そうじゃのう。 一体人間の世界で、何が起こっているのか」

陛下と、クライネスが叫ぶ。

同時に、光の巨大な柱が、魔王とクライネスを直撃していた。

何もかもをかき消す光が納まったとき、間髪入れずに周囲一体が吹きとばされる。都の跡にあったクレーターも、それでまとめて薙ぎ払われた。

おぞましいまでに神々しい光が、音と共に消える。

爆風の後には、何も残っていなかった。

 

聖太陽都は存在している。

ただし、元の姿を取り戻した状態で、だ。

エル=セントは、荘厳な玉座についたまま、フローネスの報告を聞いていた。

「星砲、偵察に来ていたらしい魔王を直撃いたしました。 しかし、逃した模様です」

「ふむ、しかし無事では済むまい」

「それにしても、まさか単独の相手に、この星砲を用いることになろうとは。 聖上の発想には恐れ入ります」

フローネスが、既に人でも無く生物にさえ見えない体を、深々と平伏させる。

玉座の主、穏やかな中年男性にしか見えないエル=セントは、口ひげを弄りながら呟くようにして応えた。

「違うな、それは」

「お続けください、聖上」

「あの存在は、既に人類への憎悪そのもの。 単独で、私が掲げようとする愛の世界に反する者と化している。 ならば、その存在そのものを、全力で叩き潰すのが、私なりの敬意の表し方だ。 魔物と人間の共存を考えるのは、その後で構わぬ」

立ち上がったエル=セントは、周囲に広がる星空を見る。

ここは、星の大気上層。

そしてこの街は、人間が、そして魔物さえもが、何もかも忘れ去る前に、建造されたものの名残。

いや、それは違う。

全ての先祖が、ここに命の種を持ち込んだときに、使った道であり具。

かって、全てを知った者がいた。

エル教会の始祖、エル=セント。それこそが、賢者の正体。

そしてまた、全てを知った者が出た。

魔王。

それが、第二の賢者の名前だ。

教皇などと言う人間の地位は、エル=セントにとっては眠りにつく前に使っていた、羽衣の一つに過ぎなかった。

今のエル=セントは、言うならば聖主。エル教会にとって、神そのものとも言えた。

「魔王軍は、体勢をほぼ整えつつあるようだな」

「ははっ。 我らの介入が無ければ、シオン会はまだエンドレンでの兵力整備が出来ない状況です。 キタルレアでは、総力戦体勢に移行すれば、二百三十万ほどの軍勢が、魔王軍に攻撃を行う準備を整えているようですが」

「止めさせよ」

「御意。 しかし、何故にございましょう」

目に静かな光を宿したまま、エル=セントは忠実なる部下に応える。

「単純な事よ。 勝てぬからだ」

「キタルレアに展開している魔王軍の兵力は、体制が整っても四十万と少し程度と見積もられております。 五倍の戦力でも、勝てぬと」

「魔王軍はおそらく、新しい量産型生体兵器の配備を進めていよう。 今までのように数で押しても、蹴散らされるだけだ。 エル教会が保存している陸上戦闘兵器のデータを、グラント帝国とキタン王国に配布してやれ。 間違っても騎馬隊による人海戦術など仕掛けさせるなよ」

「ははっ」

すぐに、這いずるようにしてフローネスは去って行った。

エル=セントは、星の空から、全てを見下ろす。

其処にある青い星。人と呼ばれる種族が、この世界で、何番目か分からないほど後に、降り立った世界の一つ。

いびつな文明、一つしか無い言語、そして源が分からない言葉や生物の数々。

それらの理由を知る男エル=セントは。この狂った混沌の星を、今こそ救おうと、戦略を巡らせていた。

 

(続)