際限なき業の経験者
序、召還
ヨーツレットは、仮設魔王城を訪れていた。
仕事上の話では無い。今回に限っては、魔王に直接呼び出されたからである。
以前から、魔王は気づいていた。ヨーツレットが、人間との戦争を停止する方法について、考えていると。
だから、今回はそれについての話をされるのだろうとは、理解していた。
ヨーツレットも、一度魔王と二人きりで話したいことがいくらでもあった。魔王は普段こそ温厚でとても懐が広い君主であり、器も驚くほど大きい。部下を処断するにしても処刑するようなことはしないし、どんなに使えない部下でもしっかり役立てる方法を考える。
上奏の類は絶対に拒まないし、他者の話もしっかり聞く。
理想的な君主と言っても良い。
それなのに、どうしてか人間とのことになると大変に頑なだ。魔王の過去に様々なことがあっただろう事はヨーツレットも理解はしている。だが、戦略を狭めるような思考は、やはり弱点だとも思うのである。
それに、ヨーツレットも、何も人間と睦み合うような関係を模索しているのでは無い。連中を効率よく管理し、魔王に逆らわないようにする体勢を作ろうと現時点では考えているのである。
それでも、魔王は許さないという。
気に入らない生物を皆殺しというのは、人間の思考だ。見かけが醜いから、気持ち悪いから、思想が異なるから、そういった理由で、なんら害の無い生物を大量虐殺するのは人間だけである。現在人間は魔物にとって大変有害な存在なので、虐殺することは別に問題ない。だが、無害化した場合は、存在を許しても良いはずである。かっては人間だった魔王は、そこだけは人間のままなのだなと、ヨーツレットは思っている。
仮設魔王城に入る。
入る前に、補充兵達が作っている森を見てきた。かなり形になってきている。木々が植えられているし、土作りも佳境に入っているようだ。踏まないようにと、何度か注意されたので、慌てて下がった。土の中には、ミミズをはじめとする、土を作るのに必要な生物が多く投入されているようだった。
荒れ地が、よみがえりつつあるのを、仮設魔王城に入ると一望できる。その外側に作られている城壁も、完成が近づいているようだ。
「ヨーツレット元帥」
「おお、ヴラド将軍」
バジリスクのヴラドだ。魔王に与えられた休暇から、復帰したのである。
今度は一番外側の城壁を守る役割を与えられ、一万の兵をしっかり管理することにしたという。
体面的には、失敗を償えというわけだ。こういう小粋な配置を見ると、魔王の能力の高さがよく分かる。ヴラドも、当然やる気を出しているだろう。
「子らは無事かな」
「はあ、おかげさまで。 次はいつ帰ってくるのと言われました」
「ならば、担当部署もシフトで回す工夫をするか。 奥殿も一人では寂しかろう」
「心遣いには感謝します」
並んで、仮設魔王城のホールを歩く。巨大なムカデに似たヨーツレットと、超大型のオオトカゲに見えるヴラドが並んで歩いていると、ちょっと光景としては面白い。
他愛も無い話を幾つかした後、ヴラドが言う。
「それにしても、今回の召還は如何したのですか」
「陛下と、一度腹を割って話し合いと思ったのだ」
「陛下と、ですか」
「そうだ。 我らは創造物という事もあり、何より陛下のお人柄に触れて、かのお方を聖域として扱っている。 だから私だけでも、一度陛下と腹を割った話をしておこうと思ってな」
純正の魔物にしても、魔王を聖域の存在として扱っていることに変わりは無い。
勿論魔王は、その程度のことで孤独を感じるようなことは無いだろうと思う。実際、随分長い間単独で研究を続けてきたのだとも聞いている。
だから、魔王に対する事では無くて、これはヨーツレットに関する事なのだとも言える。
魔王は今日、裏手に新しく作られた監視塔の部屋で待っているという。前回の侵入事件で、根本的に城の作りが見直され、幾つか発見された死角に監視がつくようになったのである。
その一つであった。
ヴラドと別れて、監視室に。魔王は安楽椅子に揺られて待っていた。
部屋の一角にはテーブルがあり、ミカンが山盛りになっている。暖炉には灯がともり、部屋の温度は的確に保たれていた。
監視窓には、魔王が作り出したアラームの術式が張り付いていて、淡く発光し続けている。一見するとただの光球だが、実際には人間に反応してアラームを展開する優れた術式だ。
「ヨーツレット、参上いたしました」
「おお、来たか。 ミカンを食べるかのう」
「一ついただきましょう」
エンドレンの戦況が小康状態になっている事もあるが、最近やっと一匹だけ、輸送用のクラーケンが復帰した。既に戦闘では使い物にならないほど傷ついている個体なのだが、輸送には問題ないと判断され、フォルドワードとキタルレアの間で、物資の運搬を行っている。
このミカンも、そうして届けられたものだ。
小さな果実だが、ヨーツレットも味覚は有している。酸味と甘みが何とも言えない、とても美味しいミカンだ。
作り手が、魔王のために丹精込めて作ったであろう事が、少し味わっただけでよく分かった。
「それで、これからの人間に対する戦略なのですが」
「元帥は、言いたいことがあるようだのう」
「はい。 此処には陛下しかおられません。 それが故に、今まで私が考えてきたことと、結論を述べさせていただきます」
今日は、とことんまで話すつもりだった。
だからこそに、時間を作って、此処まで来たのだ。
クライネスの軍団は半壊状態で、しばらく再編どころでは無い。平原での会戦で、師団長を二名も失うなどと言うのは、考えられない規模の敗北だった。
人間共が勢いづくのは当然の話で、特にエンドレンでの大規模攻勢とあわせての一斉攻撃が予想される。巣穴をもう一つ二つ増やして、少しでも兵力の充実を図りたい位なのである。
それなのにここに来たのは、それだけ重要だと思ったからだ。
「うむ、話してみるが良い」
「人間という生物は、環境によっていかようにも変わります。 それを今までの戦闘で、私は実感しました。 人間がこうも獰猛で残虐なのは、魔物の物資は略奪して良いし、土地も奪って良いという、彼らの宗教観と、何よりも不文律が影響していると、私は考えております」
「ふむふむ、それで」
「人間が我らに逆らえないと判断したら、戦闘を終えることも不可能では無いと、私は思っております。 エル教会を潰し、その後人間の中で少しずつ増えつつあるという反戦派と交渉のテーブルを保つことが出来れば。 或いは、数百年、魔物にとっての時間を稼ぐことが出来るやも知れません」
魔王は、じっと黙っていた。
ヨーツレットは、続ける。続けなければならなかった。
「陛下にはご事情があるのも、よく分かっております。 しかし、陛下の思考は、やはり何処かで偏ってしまっているのでは無いかと、私は感じているのです。 今後は柔軟な戦略を練ることで事態に対して行けば、或いはこの世界を、平穏に戻すことも出来るのやも知れない。 私は、そう感じております」
「言いたいことは、それだけかな。 元帥」
「ははっ」
黙ったのは、今度は魔王の言葉を聞きたいと思ったからだ。
勿論、軍団長の中にも、魔王に全面的な心酔をしている者や、その意見を絶対視している者も多い。
人間排斥という意見で言えば、老竜カルローネなどはその典型だ。グリルアーノも、人間は出来れば滅ぼしたいと思っているだろう。メラクスやグラウコスも同じ筈だ。
よく分からないのは、補充兵の二名。バラムンクとミズガルアだ。バラムンクはおそらく、魔王にとっての懐刀であり、軍団長と言うよりは影なのだと思っている。わからないのは、奴自身がどう考えているか、だ。
ミズガルアについては、接触自体が少ない。
一見すると、研究にしか興味が無い奴にも思える。奴はどう考えても戦場に出てくる柄ではないし、典型的なノンポリの科学者では無いかとも思える。だが、それでも軍団長であり、小規模ながら独自の部隊も備えている。である以上、意見をないがしろには出来ない。
ハッキリしているのは、魔王の意見次第で、軍団長達は傾くと言うことなのだ。
だから、いずれにしても、何かを為す場合は魔王を説得しなければならない。
「つまり、そなたは人間を信用しうる、という意見を述べているのだな」
「あくまで理論で固めた場合です。 利権と利害で誘導してやれば、人間を操作することは可能だと考えております」
つまり、人間にとって魔王との敵対が著しく利害を損なうと判断できる状況に持っていけば良いのである。
それにはエル教会の壊滅と、エンドレン戦線での勝利が必要になるだろうが、殲滅に比べればずっとハードルは下がるはずだ。
魔王は、窓の方を見た。
雲が、静かに流れていく。
「懐かしい話じゃのう」
「そう仰いますと……」
「ずっと昔、儂はそなたと同じようなことを考えておったよ」
不意に、壁が出来たような気がした。
魔王は静かにミカンを剥き始める。
そして、告げた。
「儂の昔の話を、してやろう。 元帥」
今、自分は。
とてつもなき闇の一端に触れようとしている。それを、ヨーツレットは悟っていた。
1、飽くなき努力の人
フォルドワードの一角。
西海岸の近くに、小さな国家が存在した。名前はユアン青連邦と言う。国王を中心に、五人の貴族が国政を執り行う、人口二百万に満たない小規模国家であった。
海に面した領土も持たず、人口も少ないこの国は、軍事大国がひしめくフォルドワードでは、文字通り話にならない小国に過ぎなかった。実際、幾つかの大国に隣接していて、それ自体を外交的に利用しながら立ち回るしか無い国家であり、大国の侵略を受けなかったのも、資源においても戦略的見地においても、なんら価値が無かったからに過ぎない。
そんなどうしようも無い国ではあったが、一つだけ誇ることが出来るものがあった。
山間にある、小さな都市、キラスレア。
其処には、フォルドワードでも屈指の、大図書館が存在していたのだ。蔵書は三百万冊を越え、地上四階、地下二階という、迷宮のような規模の建築物であった。
「儂が生まれる少し前の王が、エル教会と太いコネクションを持っていたらしくてのう」
魔王は安楽椅子に座ったまま、くつくつと笑う。
別にこの国の民が努力したとか、王が傑物だったわけでも無い。単なる収集癖のある王に、コネクションが備わっていただけだ。
結果、普通の民では全く必要としないような巨大図書館が作り出され、その周辺の街にはあまりにも不釣り合いなそれが、異様な存在感を示すようになった。
本が揃えば、知識も当然周囲に広がる。
魔術に関する本も多数収録していた事もあり、この近辺からは高名な魔術師が何名も出た。独自の哲学や魔法に関する考え方も広がり、貴族よりも魔術師の方が有名になるという事態も発生した。
実際問題、いつの間にかこの国にとって、最大の資源は魔術師となっていたのだ。
そんなとき。
平凡な人間、ユーレット=フォムラが生を受けた。
後に、魔王となる男である。
ユーレットは特徴の無い男で、運動神経が良いわけでも無く、頭も決して良くは無かった。
六人兄弟の二番目として生まれた彼が魔術師を志したのは、この街の特性が原因である。他の街だったら、平凡な農民や、運が良ければ役人などになって、平穏な一生を過ごしていたかも知れない。
しかし、豊富な知識に囲まれたこの町では、誰もが必ず最初は魔術師を目指す。
子供が野心に駆られてそうするのでは無い。親がそうさせるのだ。
基本的に、この大陸では強い人間が偉いという風潮がある。魔物達を駆逐して奪った領土に住み着いた人間だから、というのもあるだろう。魔術師の中には、歴史上勇者やら賢者やらと呼ばれた人間も多く、国に招聘されれば高位のポストについても期待できる。故に、どんな親も、必ず子供には魔術師を目指させるのだ。
そんな状態であったから、当然ユーレットも魔術師学校に入学させられた。
最初、素質ゼロと教師は鼻でユーレットを笑ったが、真価を発揮したのは、入学後のことであった。
とにかく、ユーレットは努力を他の人間の何倍もする男だったのである。
元々才能はゼロだったかも知れない。魔力も、殆ど備えていなかったかも知れない。
しかし、入学して二ヶ月もした頃には、ユーレットは魔術師になるだけの実力を、教師達からも認められるようになっていた。
知識が足りなければ本を徹底的に読み込んだし、魔力が足りなければ修行を何倍もした。上手く術を発動できなければ、それこそ出来るまで食らいついて作業をした。
勿論、努力だけでは埋められない壁も大きい。
上位の生徒達は、それこそ道を歩くように容易にこなす初歩の術式でも、ユーレットは発動まで随分苦労した。上位の生徒達からは、血がにじむような努力をして、やっと初歩の術しか使えないユーレットは面白いゴミのように見えていたらしく、良くいじめを受けた。
だが、いじめる相手の顔など、ユーレットはいちいち覚えていなかった。そんなのに応じるくらいなら、少しでも勉強をした方がましだったからである。
いつの間にか、才能にあぐらを掻いていた上位の生徒が、落ちていくことも多かった。
ただ黙々と、地道に努力を続けた。足りない知識は本を読んで補い、技術的に足りなければ練習をいくらでもした。
多分、努力という点では、同学年の誰よりもしていたどころか、学校で一番重ねていただろう。
それでやっと平均的な成績しか収めることが出来なかったという点で、ユーレットは神とやらから嘲弄を受けていたのかも知れない。
いずれにしても、卒業後は魔術師になる事が出来た。勿論、今まで無視していたも同然の家族達も、魔術師になると同時に集まってきた。見たことも無い顔さえもあった。だが、この国では、一度出世したら、一族を皆養わなければならないものであった。
魔術師として平均的でも、社会的にはそれなりに給与は高くなる。
ユーレットは魔術師になってから、国の研究機関に配属された。最初軍事兵器の開発分野に回されたのだが、こちらには以前ユーレットを目の敵にしていた上位の人間がいたらしく、別の場所に転属となった。
それは、閑職として名高い、図書館の書類整理係だった。
図書館と言っても、魔術師でないと触れないような危険な書物も多数あるし、どうしてもユーレットのような「外れ籤」を引かされる人間は出てくる。ユーレットにはあまり自覚も無かったのだが、寒門出身の上、どれだけいじめても屁にも思わない事を逆恨みしている連中は多かったらしい。真面目に仕事をしていても、どうしてかユーレットの悪口は、周囲から溢れるほど聞こえてきていた。
それを全く気にしない事も、ユーレットに対する悪感情を煽ったらしい。
いつの間にか、ユーレットは、書類整理係のまま、年を重ねていた。
ただ、これはユーレットにとっては、決して悪いことでは無かった。
書類を整理すると言うことは、中身に目を通せると言うことでもある。膨大な蔵書も、片っ端から目を通すことが出来た。
十代の半ばでこの仕事を始めたが、十年経った頃には半分ほどの蔵書には目を通すことに成功していた。蔵書の中には、地下の倉庫で埃を被っているだけのものや、巻が連続しているのに間が抜けているものも多く、それらは放置されていた。
図書館の館長をしている役人は、致命的にやる気が無い老人だった。幸いにも、意見を上奏すれば右から左に書類を回すくらいのことはしてくれた。だから、足りていない本を補充したり、本を補修するための魔術的な道具などを回してくれたりという事だけはきちんとやってくれたのである。
無数の本に埋もれて、静かにユーレットは年だけを取っていった。
周囲の家族は、ユーレットに寄生して給金の一部をかすめとり、なおかつユーレットを馬鹿にしきっていた。如何に自分たちが楽に生活をするかで、兄弟げんかが常に耐えないようだった。
ユーレットはそんなものには興味が全くなかった。
いつのまにか、ユーレットは三十の大台に乗っていた。家族が三下の魔術師の子女との縁談を持ってきたのも、その頃である。
「魔術師の家系」という箔をつけたいらしかった。
別に断る理由も、否定する気も無かった。ユーレットは、自分の仕事を邪魔さえしなければ、それで良かった。一度だけ怒ったことがある。弟の一人に、もっと稼げる仕事に就けないのかとか、言われたときだ。
その時だけは怒った。
ならば、貴様が働けと。
ユーレットが働かなくなったら、家族全員が路頭に迷うことに、今更ながら気づいたらしい。
その時以来、ユーレットを表立って、馬鹿にする家族はいなくなった。
静かだったら、それで良かった。
だから、縁談も受けることにした。
話を一旦途切れさせると、ヨーツレットは不可思議そうに小首をかしげていた。
「陛下、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「うむ、どうしたのかな」
「先ほどから聞いていますと、陛下は不断の努力を重ねていたように聞こえます。 才能が平均的であっても、努力を重ねる存在を評価しないというのは理解できません。 それを閑職に回し、「不快だから」という理由で遠ざけ続けるというのは、正直人間という生物が本当に底からの阿呆だと思えてくるのですが」
「当時は何も感じていなかったが、その通りじゃな」
くつくつと、魔王は笑っていた。
我ながらおかしくなってきたからである。そんな連中の作ったくだらない社会の中で、真面目に生きてきたことが、だ。
ミカンを一つ口にする。
当時、ユーレット自身にも、色々と思うことはあった。
周囲を養うのは社会の義務だとも思っていた。だから、さほど豊かな生活は出来なくても良いから、それなりの給金が貰えている時点で満足はしていた。実際図書館を管理する人間は必要だったし、年に何度か王室の人間が視察に来ることもあったのだ。そういう時には、ユーレットの管理によって見違えるように綺麗になった図書館が、喜ばれることもあった、らしい。
らしいというのは、図書館の館長が、全て手柄を独占していたからである。噂で聞いただけだ。
「そのような環境でも、自浄しようという動きは無かったのですか?」
「無かったのう。 基本的に人間という生き物は、環境に従うように出来ているからのう」
「呆れた生物ですな」
ヨーツレットの怒りが、徐々に高まっていくのがわかる。
それでいい。
魔王としても、名前を捨て、人間というくだらない生物を止めてから、当時の愚かしさがよく分かってきた。何でこんな生物と一緒に、社会など構成していたのだろうと、今でも自嘲してしまう。
だが、当時は特に疑念を感じていなかった。
出る杭は叩かれるという言葉もある。もしも疑念を感じて、反発していたら。その時点で、社会から排斥されていたのかも知れない。
結婚の相手は落ちぶれた魔術師の家系の娘であり、当然本人は魔術師などでは無かった。それでいて気位だけは高く、ユーレットが図書館に勤めていると話を聞いた瞬間から、ぞうきんの絞り汁でも見るかのような目で見つめてきたのだった。
ユーレットにとっては、最初から期待など何一つしていなかったから、別にそれで良かった。
財産を好き勝手に出来ないようにはしたし、嫌なら出て行くようにとも言ったので、くだらない小言は聞かなくて済んだのは良かった。いずれにしても、義務で結婚したことは、向こうもわかっていたのだ。自分は不幸だの夫は宿六だのと周囲に喚き散らしていた妻も、じきに静かになった。
ただし、態度は冷え切っていた。
子供が出来てからも、妻の態度は、何一つ変わりはしなかった。
だが、そんなものだとユーレットは知っていた。何しろ、生まれた頃から周囲にいた兄弟達でさえ、それは同じだったのだから。ユーレットにしてみれば、養わなければならない人間が、更に増えただけで、他に差は無かった。
思うに。
人間としての社会を維持する行動に参加はしていても、この頃からユーレットは、人間そのものにあきれ果てていたのかも知れない。
元々、社会からはじき出されたも同然だったのだ。それを外側から見ることは、さほど難しくも無かった。周囲から見て、ユーレットの存在価値は金を稼いでくることだけであり、もしも条件が整っていれば、何もためらわずにユーレットを殺しただろう。
時間だけが過ぎていった。
子供達も、ユーレットを親などとは思っていない様子で、単純に金を稼いでくるだけの生き人形だと思っていたらしい。
これが、後に大きな悲劇を招くことになるのだが、ユーレットにとってはあまり意味の無い話であった。実際問題、数少ない親しい魔術師に話を聞いてみても、親子関係が良好だという人間は存在しなかった。ユーレットの周囲だけが例外かとも思ったのだが、他の人間に聞いてみても、魔術師の家が冷え切っているというのはごく当たり前だと言うのだ。
思うに、この国では、魔術師と他の職業で、収入に差がありすぎたのかも知れない。
平凡な魔術師でしか無かったユーレットでさえ、役立たずを二家族分まとめて養えるだけの収入があったのだ。他の魔術師も、並の職業とは比較にもならないほどの収入が合ったことは疑いが無く、それが現実感との著しい乖離を生んでいたのだろう。
魔術師が愛人を囲うことが非常に多いのも、それが原因であったらしい。実際、ユーレットにも愛人を囲わないかという誘いが何度か来た。
だが、人間の醜さをさんざん見てきているユーレットは、これ以上醜悪な泥沼に足を踏み入れたくなかった。二人の子供の内、兄は家督を継ぐと言って家に居座り続けたし、弟は魔術師になるのを諦めて、早々に家を出て行った。その後は行方もわからなかった。妻は一度も話題にしなかったし、何処かでのたれ死んだとしても不思議では無かった。
やがて、どれだけの時を経ても生きていそうだった老館長が死んだ。
後で聞いたのだが、魔術師としてはユーレットと同じく平凡な人であったらしい。あらゆる魔術の秘を尽くして寿命を延ばしていたらしいのだが、それも病魔には勝てなかった。葬儀には出たが、家族は誰一人として悲しんでいなかった。
呆れた話だが、
葬儀の場で、聞こえ来るのは遺産分配の話ばかりであった。それでつかみ合いの喧嘩をしているいい年の大人さえ見た。
何でも、館長が残していた財産は、貴族の屋敷を奴隷ごとまとめて買えるほどの代物であったらしい。それを妻とその子供達、館長の兄弟、さらには二人いた愛人の子供達が奪い合いをしたというのだから壮絶だった。
だが、既に中年だったユーレットは、何度も魔術師の葬儀に出て、似たような醜態を彼方此方で目撃することになっていた。
勿論、ユーレットも、平和で幸せな家庭を築いている家族がいることも知っていた。図書館に下働きに来ているような人々は、そういったささやかで平穏な生活をしていることも多かったのである。
だが。
不釣り合いなほど大きな図書館と、其処から流出する知識、知的財産として大陸でも屈指の魔術師達がもたらす富は、この小国ではあまりにも桁が外れていた。だから、その周辺に直接いる魔術師達は、皆魑魅魍魎のただ中に住んでいると、言っても過言では無かったのだ。
老館長の葬儀後、少し揉めはしたが。
後任は、ユーレットに決まった。
不思議な話だが、後任として国の上の方にいる魔術師が、天下りしてくると言うことは無かった。勿論ユーレットが評価されたわけでは無いだろうと思っていたのだが、事実は違っていた。
以前来た王族の一人が、ユーレットを覚えていたらしい。
更に言えば、この館長職、別に魔術師にとってはうまみのある仕事でも何でも無かった。賄賂を懐に入れられるわけでも無く、ポストとして箔がつくわけでも無い。
むしろ、政界中枢を独占している魔術師達にとって、ユーレットは以前不快な思いをさせてくれた相手に過ぎず、それを飼い殺しにしておくには館長職が一番良かった、というのが実情らしかった。
別に、そんな事情は、ユーレットにはどうでも良かった。
こうして、不思議な話だが。この国の、不思議な体勢を作り出している国立大図書館の館長に、ユーレットは四十代の半ばで就任したのである。
此処まで話をすると、ヨーツレットは吐き捨てた。
「おぞましいまでに醜悪で、バランスの悪い社会ですな」
「そうじゃな。 儂も後で分析してみてこういうものだったのだと気づいたが、当時はどうしてこんなに腐りきっているのだろうと、何度も悩んだものじゃよ」
「収入の格差が、これほど同類間での道を踏み外させる原因となるとは。 いっそ人間は、経済など得ない方が幸せだったのかも知れませんな」
「そう、じゃな」
怒り心頭のヨーツレットには悪いが、人間という生物が発展したのは、意図的な差別化の結果である。それが競争意欲を駆り立て、社会にドロップアウトする人間と成功者を作り出した。その社会的な熱量が、人間の社会を発展させる原動力になったのだ。
勿論それが行きすぎると、国が傾き、やがては滅ぶ。
しかし人間は飽きもせず学びもせず、それを繰り返して、大量に悲劇を生産していくのだ。
この当時から、ユーレットは社会のゆがみに疑念を抱いていた。
家族を養うことはしっかりしていたし、愛人を作るようなことも無かった。それなのに、家族はユーレットに金を稼いでくる機能だけを要求していた。ユーレットに対して、愛情など向けてくる家族など、只の一人もいなかった。これはユーレットが六人兄弟の二人目だった頃から、全く変わらなかった。既に亡くなっていた両親も、金を稼いでくるユーレットに対しては、それしか期待していなかった。それぞれに愛人を作り、やりたい放題に財産を浪費するばかりだった。
それで宿六扱いするのだから、ユーレットとしてはたまったものでは無かった。勿論子供にも自分なりの愛情は注いでいたが、見向きもされなかった。
どうにか変えられないかと、悩みもした。
給料から少しずつ、孤児院や福祉施設に寄付もした。だが、これらの施設は、後に知るのだがエル教会の人体実験施設だった。中にいる子供は多くが生きて外に出られず、仮に生き残ることが出来たとしても、それは奴隷としてだった。後でそれを知り、社会のあまりの醜悪さに、吐き気さえ覚えたものだ。
国に対して、上奏もした。
アンバランスすぎるこの国の状態は、いずれ崩壊を招くと。
是正のための具体案も幾つか出した。魔術師が独占している要職の解放や、他国との積極的な交流、知識をカードにしての交渉など、幾つか実際に出来る案も提出した。しかしながら、それらの全ては黙殺されるのが常だった。
自分の立場で、出来ることは全てしてきた。
社会的な義務は果たしてきた。それは、どれだけ憎んでも、利用されているだけだとしても、社会があったから生きてこられたと知っていたからだ。
だが、どれだけ真摯に訴えても。
ユーレットの言葉に、耳を傾ける者はいなかった。
むしろ五月蠅いからこそ、館長職に封じ込められていたのかも知れない。
悶々とした日々を送る内に、本を読むことだけがユーレットの趣味となっていた。
五十代になった頃。
国の蔵書は、全てユーレットの頭の中に入っていた。
この頃になって気づいたが、ユーレットは一度読んだ本は、時間さえ掛ければ、内容をかなり正確に思い出せる特性があったらしい。平々凡々だったにもかかわらず、努力が最低限の水準で実を結んだのも、それが原因であったのだろう。
だから、図書館の中で在庫が多いものはよそに放出したり、逆に存在しない在庫を補填したりという作業については、とてもスムーズに行うことが出来た。予算も無駄遣いせず、最小限の予算で最大限の効果を上げることが出来た。新しく入ってきた本は全てユーレットが目を通して、それから図書館に納品した。
妙な話だが。
他の連中に押しつけられた閑職であったのに。ユーレットとしては、この上ない天職であったらしかった。
在庫の整備と充実に関する上奏だけは、いつも受け入れられた。どういうわけか、ユーレットの「本に関する提案」だけは「とても正確である」と考えられていたらしい。というよりも、単純に他の魔術師達の利権に抵触しなかったからだろう。
ユーレットが図書館の館長に就任してから十年ほどで、図書館の在庫は十五万冊ほど増えた。
その中には、禁術と呼ばれる魔術の奥義を記したものや、各国で発禁処分を受けている、秘中の秘となる事実が記されているものもあった。だが、国王も王族も、それらの貴重さには終始無関心であった。
ユーレットの中には、知識だけが増えていった。
魔術の実践技術も、である。
ユーレットは本が好きだ。嘘をつかないし、書いてあることだけが全てだからだ。愛人を作ることも無ければ、愛情を裏切ることも無い。
時間が余っているユーレットにとって、本と語らう事だけが楽しみだった。その過程で、載せられている魔術に関しても、生け贄を必要としたり、非人道的なもの以外は、あらかた試すことが出来た。
いろいろな知識を得ていくと、どうしてこのような発想が出来るのだろうと、小首をかしげたくなるような残虐なものも時々目にすることになった。
そして、歴史についても、いくつも興味深いものを目にする事となった。
英雄の真実。伝説とされた英雄の真の顔は、只の魔物に対する残虐な殺戮者に過ぎなかった。
エル教会の成立についても、色々と知った。
現在世界を宗教的に支配しているエル教会の起源が、よく分からない事は、驚きだった。定説となっているものは、あくまでエル教会が後々にでっち上げた、都合の良い事実に過ぎないのである。
最も古い歴史書の中には、興味深い記述がいくつもある。
エル教会のエルとは、そもそも神を示すものらしいのだが、どこから来た言葉かわからない、らしい。このどこから来た言葉かわからないものはかなり多く、果実や日用品に至るまで、世界中にあるのだそうだ。
更に不可思議なことは、他にもある。
現在、全世界でほぼ同じ言葉が使われているが、もしも人類が広がりながら発展していったのだとすると、これはあり得ないのだという。各地での差異はほぼ方言のレベルに過ぎず、会話が成立することも奇怪きわまりないのだとか。
いつの間にか、ユーレットは、誰にも気づかれないまま、世界の深奥に近づきつつあった。
だが、醜悪な人類を御する術は、とうとう見つかりそうにも無かった。
ユーレットが六十になった頃、妻が死んだ。病の結果であった。終始ユーレットに対しては愛情のかけらも見せず、金を稼ぐ道具としか見なさない女だった。勿論医師を付けたし、医療魔術も施したが、それでもどうにもならなかった。
葬式でも、息子一家達でさえ、誰も泣かなかった。というよりも、他の魔術師の家と同じく、妻の私財をどう分配するかで、醜い争いを繰り返すばかりだった。管理権はユーレットにあったのだが、家族と称する豚共は、こんな時ばかり媚態を尽くしてすり寄ってくるのだった。
だから、あきれ果てて管理権などくれてやった。そうしたら、途端に獲物をあさる豚そのものの浅ましさで、妻の少ない遺産を漁りあったのだった。
一体この生物は何だ。
葬式で浅ましい言い争いをしている「家族」を見て、ユーレットはそう冷たく考えていた。
人間とは、本当にこの世界の覇者たるものなのだろうか。
ただ残虐で、繁殖率が高いという理由だけでこの生物は世界の覇者となっている。暴虐と殺戮だけで、人間は世界の覇者となった。しかし、それは一時的なものに過ぎないのでは無いかと思えてならない。
その結果、世界は滅びてしまうのではないか。
そうとさえ、感じ始めていた。
2、破滅の時
ユーレットが老境に入り始めた頃、孫が生まれた。
息子であるジルニトールと、その後妻であるキトンの娘である。ルルサという。後妻というのも、愛人に子供が生まれたので、正式に妻にしたのである。元の妻は弁護士と相談して、財産を全て取り上げたあげくに放り出したらしかった。
まさに下郎である。だが、どこの魔術師の家でもやっていることだった。それに、子供を産まないのが悪いという理屈がまかり通るのがこの国であった。
孫も、子供らと同じく、ユーレットには一切なつかなかった。更に言えば、後妻は前妻同様性格が非常に悪く、いつユーレットが死ぬか、死んだ後の財産分与はどうするか、そんなことばかりを周囲と相談しているのだった。
こんな家と、何度も思った。
だが、社会的な義務だ。それに、どうせどこへ行っても人間は同じである。人間に夢など見ないのには、これが一番良いのかも知れなかった。働くこと自体は嫌いでは無かったし、何より誰もが我慢しながら生きているのだ。そう思えば、少しは楽になった。
悲劇の主人公を気取るには、ユーレットは現実を知りすぎていた。
だから、現実を見て、それでも歯を食いしばって頑張り続けた。たとえ、その努力が、何一つ報われないとしても。
家族は老境になっても働くユーレットを見て感謝するどころかいつ死ぬか賭け事までしていたようだが。もう気にはならなかった。孫娘が、早く爺が死ねば良いのにと言っているのを、何度か耳にもした。
耳が遠くて、聞こえないと思っているらしい。
もはや、ため息も漏れなかった。
使用人達も、家族と一緒に派閥を作り、その後どう甘い汁を吸うか牽制しあっている様子であった。ユーレットが毒殺されなかったのは、使用人達がそれぞれ裏側で牽制し合っていたからである。もしも有力な家族が一人でもいて使用人達がまとまっていたら、ユーレットは早々に「事故」か「病気」で、殺されていたことだろう。
実際、周囲の魔術師にも、おかしな死に方をした者がいくらでもいた。そして、魔術師の家族に金を握らされていた犯罪捜査官は、それをろくに調査しようともしなかった。
六十を過ぎた頃から、体があまり動かなくなり始めた。本を読むのも大変になり始めて、唯一の取り柄であった記憶力も衰え始めていた。
そろそろ、ユーレットも引退するかと、時々声が掛かるようになっていた。
だが、この図書館は、ユーレットの人生そのものだった。閑職だとか、クズのたまり場だとか噂されているかも知れないが、ユーレットにとっては何よりも大事な存在であったのだ。
だから、死ぬまで努めると、明言した。
そして、此処のポストには魅力も無かったので。
国としても、それを黙認するつもりのようだった。
記憶力は衰えても、大変になっても。
ユーレットは、本を読み続けた。
そんなおりの事である。
全ての破滅が、始まった。
夏の、暑い日だったと思う。
使用人を雇おうと、ユーレットは街の市場に出かけた。市場の一部には、奴隷を販売している地域もある。
奴隷は、主に敗戦国の住民、力の無い女子供が中心だ。戦に負ければ、その土地の住民は全て奴隷として良い、というのが不文律である。だからどこの国も必死になって軍備を拡張するし、戦争になれば最後の一兵までも殺し合う。
中には征服地の民を寛大に扱う王もいたが、「軟弱」とそしられるのが常だった。
使用人は殆どの場合、こういう奴隷から見繕う。当然美しい女の場合は、妾奴隷として需要がある。ユーレットは、家族で奴隷にされているような場合は、まとめて購入するようにしていたし、奴隷がひどい目に遭わないようにいつも見ていたのだが。恩など受けたことが無かった。むしろ、軟弱だと思われるようであった。
使用人としていた奴隷の何名かを、給料が貯まって自活できる目処が立ったから解放したので、今日は代わりを探しに来たのである。
奴隷市場は無くなることが無い。
この国は幾つかの強国の衛星国として栄えている。魔術師を輸出する代わりに、様々な恩恵を得ている国なのだ。
その中には、強国から奴隷をお裾分けしてもらう、というものもある。
草刈り場などと称される、フォルドワード南部の小国群から得られた奴隷が、今日もかなりの数売られていた。手かせをつけられ首輪を填められ、動物と同じ扱いである。ひどい話だが、これが人間社会の現実だ。
ふと、耳に妙な声が入ってきた。
「さあさあお次の商品はこれだ! 魔物の娘だよ!」
声を張り上げているのは、ふくよかな中年女性である。笑顔を振りまいているが、手には鞭。そして、後ろ手に縛られて台上に座り込んでいるのは、裸の子供だった。
耳の部分が、鳥のように羽毛になっている。あと、何カ所か羽毛化している場所がある様子だ。白い肌から言って、大陸南部の漁民では無く、中央部の狩猟民だろう。
あんな小さな子供を、見世物に。
憤りがわき上がってくるが、周囲の人間は違う。みな、やんややんやとはやし立てていた。
一目で、あの子供が突然変異で、魔物などではないという事はわかった。そして、売っている人間も、おそらくそれを知っている。
「これは北極で捕まえてきた魔物の子供だ! 暴れないようにしつけてあるから、何をしても大丈夫だよ! 何なら、持って帰った後は料理して喰っちまってもいい! 魔物の肉は精がつくって話だからねえ」
どっと周囲が笑う。
青ざめてうつむいている子供は、まだ七歳か八歳くらいだろう。そこそこ造作が整っているが、人形のようにかわいらしいというわけでも無い。普通の子供だ。だが、小さな目には、涙が浮かんでいた。
何が、魔物は悪だ。
人間が正義だとするエル教会の思想は、明らかに世界をおかしくしている。
相手が悪だから、何をしても良い。自分が正義だから、悪に何をしても許される。そんな思想を種族単位で植え込んだ結果がこれだ。災害は全て魔物のせいにすればいいし、土地が痩せるのも海が汚染されるのも、人間のせいではないのだ。
そして、突然変異の子供が生まれたら、魔物ということにして、こうやって社会単位での慰み者にするというわけだ。
唾棄すべき生物では無いか。正義を主張する存在とは、こうも愚かしく醜いものなのか。
ユーレットは前に進み出た。
観衆が、邪魔だ爺と声を張り上げるが、視線を向けるだけで下がる。ユーレットはいじめられていた昔から、何をされても気にしなかったが。たまに本気で怒ると、相手は何も言わず逃げ散るのが常だった。
一番最前列に出た。丁度満面の笑みで、売り物を宣伝している中年女を見上げる形になる。
「儂が買おう。 幾らか」
「おやあ、爺さんも物好きだねえ。 さっそく持って帰って魔物鍋にするのかい? 長生きしたいだろうし、当然だね」
「幾らか、と聞いておる」
有無を言わさぬ口調に、女は笑いかけて失敗した。周囲が一気にしらけていくのがわかる。
これが、「空気を読まない」行動だというのはわかっている。だが、人間の下劣な本性をむき出しにした空気など、どうして読む必要があるのか。そんな空気など、この世から消し去ってくれる。
今、ユーレットには、この子供を救えるだけの財産と社会的地位がある。ユーレットが買わなければ、良くて見世物小屋に売り飛ばされ、悪ければ本当にその日のうちに殺されて食べられてしまうだろう。
人間とはそういう生き物だ。
この頃、もうユーレットは、人間には何も期待していなかった。だから、自分でやるしかなかった。
言われた値段をそのまま払う。鎖を外させて、羽織っていたマントをかぶせてあげた。震えていた子供は、まだじっとユーレットを見つめていたが、歩けるかと聞くと頷いた。
言葉は通じるらしいとわかって、少し安心した。
この子の容姿からして、まともな環境で育ったとはとても思えない。下手をすると、言葉さえも教わっていないのでは無いかと不安になったが、歩きながら話すと、どうやら会話は十分出来るらしかった。
屋敷に戻る。
使用人に、ユーレットがいない間に、子供の世話をするように言いつける。普段は一切口出しをしないが、口を出すとなると財産を動かす権利を持っているのはユーレットなのである。使用人達は一も二もなく従った。
服を用意する。
孫娘が小さかったときの服と靴を出してきて、使用人に風呂に入れさせた。裸にされて見世物にされていただけあって、かなり衰弱して痩せていたが、肌の状態などはさほど悪くも無かった。
子供の名前は、アニアと言った。
ヨーツレットは、話を聞いていく内に、だんだんと魔王の心の闇を理解でき始めていた。
今話題になったアニアというのは、おそらく仮設魔王城の玉座の間裏にある、あの結晶体の中の子供だろう。
頭に致命傷を受けていることから、死んでいることは確かだ。
「陛下、お伺いしたいことがあります」
「何かな」
「陛下は、人間に自分が虐げられたことを、恨んではいないのです、ね?」
「そうじゃなあ」
魔王は、少し寂しそうに笑った。
魔王からしてみれば、「弱者」であった自分が人間から虐げられ続けたのは、その社会的な構造上仕方が無かったことだと考えていた。だから、物心ついた頃には、もう諦めていた部分が大きかった。
「そんなことは、正直どうでもええのう」
「それを聞いて安心しました」
「む?」
「陛下が私怨で動くような器が小さい存在では無い事を、私は充分に理解していたつもりです。 しかし、これで確信できました」
人類滅亡を魔王が結論したきっかけは、アニアという子供だ。
魔物では無く、突然変異だった。
それだけで、人間が激しい虐待と差別を加えたのは、状況からも明らかだ。しかしながら、生まれてすぐに間引かれなかったのは、どうしてなのだろう。
或いは、親が金になると判断して、ある程度までは育てたという事なのだろうか。
「陛下は、仇討ちをするつもりではありませんね」
「よく分かったのう。 まあ、仇討ちをしている部分もあるのだがの」
「これでも、陛下にそれなりの年月仕えておりますから」
魔王は、補充兵に時々、アニアにちなんだ名前をつけている。
それだけではない。最近確信したのだが、秘書官役として使われている、あの人間型の補充兵。あれはおそらく、アニアの要素を取り込んだ実験体だ。見るたびに悲しそうにしているのも、現物と性格が違いすぎるのが原因だろう。
そうなると、魔王はおそらく。
アニアが、生きられる世界を作るために。アニアとは絶対に共存が出来ない人間を、この世界から排除しようとしているのでは無いのか。
勿論、魔物の世界を作るという理由もあるだろう。魔物に対する、魔王の慈愛は本物だと断言できるからだ。
だがその根底にあるのは。
おそらく、血のつながらない孫娘に対する、深く悲しい愛情だ。
ミカンをもう一つ食べると、魔王は話し始める。
破滅の日が、如何にして訪れたかを。
春が訪れたかのようだった。
血のつながった孫が出来ても、何ら嬉しくなかったのに。アニアを引き取ってから、随分とユーレットの人生には潤いが出来た。
まず仕事から帰るのが、とても楽しみになった。
家に私蔵していた本を読むことだけしかなかったのだが、アニアがいるようになってから、それもなくなった。
一緒に食事をして、一緒に本を読んで。
それだけで、随分と今まで灰色にしか見えなかった人生が、明るくなったのである。
少し話してみてよく分かったが、やはりアニアは突然変異体であって、魔物では無かった。生まれたのはやはり大陸中北部の小さな村であった、らしい。
というのも、両親の事を知らないと、アニアは言うのである。
「お父様とお母様、いない。 アニア、捨てられてた、の」
「そうか」
「育ててくれたの、村の司祭様。 でも」
どうやらアニアが人間では無い事を知って、最初から見世物に高く売り飛ばすつもりであったらしい。
逃げないように足に鎖をつけられたという。
教会の隅で、膝を抱えて座って。外で子供達が楽しそうに遊ぶのを、じっと見ているだけだったらしい。
そうこうするうちに、「司祭様」の所に黒服の恐ろしい男達が来たそうだ。
そして、売られた。
札束を持ってにやける司祭と、黒服の連中が握手しているのを、アニアは見た。馬車に詰め込まれて、幾つかの街を経て、そしてここに来たそうである。
「裸にされたり、他にもいろいろ気持ち悪いことされた。 誰も助けてくれなかったし、今回こそは殺されて食べられちゃうと思ってた。 おじい様は、どうしてアニアに優しくしてくれるの?」
「儂以外に、そなたに優しくする存在がいないから、かのう」
「……」
安楽椅子に揺られるユーレットの膝に、アニアはぎゅっとしがみつく。
頭を撫でると、とても髪が柔らかい。
目を通してきた本には、親子の情愛や、孫を愛でる祖父母の姿が描かれるものもあった。だが、そんなものを、現実に見たことはついぞ無かった。だが、やっとこの年になって、それがフィクションでは無い事を知ることになった。
どうしてなのだろうと、思う。
環境がおかしいとは思えない。周囲を見ていると、皆が皆、殺伐とした空気の中に生きているからだ。
家族は早くユーレットが死ぬよう本気で祈っているし、遺産の分配について対立まで始めている。
孫には結婚を遅らせるようにとまで言っているのだ。ユーレットが死んだとき、遺産を分配する人間が少なくなるように、という配慮かららしい。他の家族も似たような有様で、時々専門家とやらを呼んで、ユーレットが死ぬ時期について推測までさせていた。
周囲がおかしいのでは無い。
周囲が皆そうなのだから、それを疑念に思うユーレットがおかしいのだと、わかってはいた。だが、どうしても納得できない。
暖炉のある部屋で、いつの間にか眠ってしまったアニアに毛布を掛けて、その寝顔を見つめる。
この子を虐待することが、人間の社会では正しいとされている。
虐待するだけでは無く、殺して肉を食うこともである。
人間では無いから。
人間は正義であり、魔物は悪である。
故に人間は世界を好きなようにして良い。人間の敵を殺してもいい。
それが、世界で普遍的に広まっている理屈だ。不文律だ。どんな国でも、この理屈に変わりは無い。
だが、正義を主張することで、人間はおかしくなっているのでは無いのか。
しかしながら。それを声高に主張するには、ユーレットは年を取りすぎていた。
流石に、六十後半を過ぎると足腰がおかしくなってきた。だから、あまり出歩くことも出来なくなってきていたが、それでも仕事は続けていた。
図書館は幸い家の側にあるから、それ自体は問題ない。
だが、夜中などに、便所に行くのがおっくうになり始めていた。
それでも、ユーレットは歩く。
今では、その目的は以前とは違うものになり始めていた。家族を養うためでは無い。アニアを、どうにかしてやりたいと思うが故に。
アニアは何も基本的にほしがらない。最低限の生活だけ出来れば良い様子だった。
だが、ユーレットとしては、無欲なこの小さな命に、少しでも幸せを味わって欲しいと思うのだ。
アニアがもう少し育ったら、ほしがるものも変わるのだろう。だが今は、食料や衣類だけで充分である。
図書館で、新しい本に目を通していると、咳払いの声。
振り返ると、ユーレットの後釜として、図書館の書類整理係になったキナストだった。名門の出身らしいのだが、四男坊で、兄たちに家督を独占されているという事もあり、この仕事に回されたらしい。
ユーレットが見る限り、とても無能な男だ。彼の仕事の後は、必ずユーレットが目を通さなければならなかった。
ただし、ユーレットが珍しいと思うほど、善良な男でもあった。ユーレットのことも慕ってくれるし、悪い印象は感じない人物である。それが故にか、時々噂について、教えてくれることがあった。
「館長、良くない噂を聞いたのですが」
「何かね」
「館長が最近、魔物の子供を飼い始めたという噂は、以前話したと思いますが……」
「相変わらず、ひどい言いようじゃのう……」
アニアは人間だ。
いろいろな方法で証明しても良い。だが、「周囲と違う」という時点で、人間はアニアを同類だとは認めない。
肌の色が違っていたり、目の色が違うだけで差別の原因になるのである。耳の辺りに羽状の器官がある、などという存在は、人間として基本的に認められないのだ。
「ああ、はい。 それが続きなのですが。 館長が、その子供に下の世話をさせているとか何とか……」
流石に不快感が沸騰したので、ユーレットがにらみつけると、手で遮るようにしてキナストは頭を振った。
「ぼ、ボクが流した噂じゃありません!」
「……それで?」
実際、そういう噂は聞いたことがある。
貴族の変態老当主が、幼児で性欲を発散しているとか。男色にしか興味が無いとか。貴族でもそうだし、魔術師でも同じ事だ。
権力を得ると、人間は欲望を思いのままに発散するようになるらしい。その結果異常な性欲を満たすために、変態行為に走ることが良くあるのだ。ユーレットが知っているだけでも、三十ほど、この国の上層にいる魔術師が垂れ流した醜聞がある。
「はあ。 それがその魔物の子供の手管に館長が丸め込まれて、遺産を全て譲るつもりになっているとか」
「何を馬鹿な……」
「しかしこれ、ボクの友達の、館長の孫娘さんの友人から聞いた話なんです。 館長の孫娘さんが、何というか、此処じゃあ口に出せないような下品な表現を含めて語っていたのだとか」
吐き気がする話だ。
これでも妻帯したことがある身だし、妻が死んでからは他の女には触ってもいない。ましてやあんな幼子で性欲をどうにかするなど、そんな発想をする人間が側にいると、想像するだけで吐き気がする。
「馬鹿なことを。 儂は不幸な生い立ちの子供を、奴隷の身から助けようと思っているだけじゃ」
「子供って、本気ですか? 耳の辺りに羽見たいのが生えてるんですよねえ。 そんなの、人間じゃありませんよ」
「人間だとも。 何なら、此処で証明しても良いがのう」
「あ、いえ、結構です。 館長が博識なのは、よくわかっていますから」
そう言って、理論を並べようとしたユーレットの前から、キナストはそそくさと逃げていった。
後に、後悔することになる。この時、もっと早くに手を打っておけば良かったと。
何か、虫の知らせがあったのだろうか。
それからユーレットは、旅行業者を呼んで、別の国について調べ始めていた。
何というか、アニアが人間として受け入れられる国は無いか、調べようと思い始めたのである。
膨大な知識の中から探しては見たが、ついぞそんなものはない。
たとえば西のエンドレン大陸では、人種は関係なく、有能であれば抜擢される制度が整っている。
だがそれも、「人間」であればの話だ。しかも彼処は、年がら年中発達した兵器で殺し合いをしているような物騒きわまりない土地である。もしもアニアを送ったりしたら、ほぼ確実に短い命を終えてしまうだろう。
側に置いてみてわかったが、アニアはとても心優しい子供だ。
だからこそ、人間の世界で生きていくのは難しいのかも知れない。
いっそ、北極に出向いて、魔物に引き取ってもらうというのもありかも知れないと、ユーレットは考えた。
しかし、アニアは人間だ。人間に滅亡寸前まで追い込まれている北極近辺の魔物達が、姿が違うとは言え人間を引き取るだろうか。
もしも引き取ってくれるとしても、相応の対価が必要になるだろう。
たとえば、ユーレットが持っている知識全てとか。
しばらく考え込んでいると、アニアが見上げていることに気づいた。
引き取ってから二年が過ぎていた。背もすっかり伸びて、しゃべり方もだいぶしっかりしてきているアニアだが、やはりいつも寂しそうにしていた。外に出ても同年代の子供と友達になれるわけでも無い。家族からの暴力を受けないよう監視につけている使用人とだって、会話がある訳でも無い。
孤独なのだ。ユーレットと同じく。
「お爺さま、険しい顔をしてどうなされたのですか?」
「うむ。 アニアの幸せを考えていた」
「私の、幸せですか」
「そうだ。 人として生を受けたのだ。 せめて幸せに生きて欲しいと願うのが、祖父の考えることじゃてのう」
首を横に振るアニア。
すっかり諦めきった空気がある。
アニアには、ふんだんに本を与えている。読み書きもとっくに習得し、夜遊びばかり繰り返してろくに学校に行こうともしない孫娘よりよっぽど頭も良い。知識の量に至っては、何十倍という単位だろう。
「私は、きっと幸せになんてなれません」
「そんなことは無い。 儂が、どうにかするでな」
「この社会に、私の居場所なんてありません。 お爺さまの側だけが、奇跡のように生じている隙間です。 其処に暮らしているだけです。 だから、私思うんです。 今のうちに、死んでしまえたら楽なのでは無いかと」
「そんなことを言うものでは無い」
諭すように、ユーレットは言う。
アニアは賢い子供だ。学習能力は、幼い頃のユーレットなどと比較にもならない。
それにこれだけひねくれた環境に育ったというのに、とても優しい。ユーレットの血を受け継いでいる家族などとは、比べものにならないほどに。
それなのに。この世に居場所が無い。
そんな馬鹿なことがあって良いのだろうか。
社会がそういう仕組みだから、などというのはおかしい。おかしいと考えることが、人間のルールから逸脱していることなどわかりきっている。
だが。それがおかしいというのなら、ユーレットは異常者でも構わなかった。
孫の幸せを願うことが異常だというのなら、人間の社会などに用は無いとさえ、ユーレットは思い始めていた。
「儂はもうそう長くないだろうが、死ぬまでに必ずどうにかする。 だから、心配するでないぞ」
「ああ、お爺さま。 このままでは、貴方まで不幸になってしまいます」
「何の。 生まれてこの方六十年以上、幸せなど感じたことは一度も無い。 人間の社会のルールは守り続けてきて、家族も養い続けてきたというのにのう。 儂は社会からずっと搾取され続けてきた。 今更不幸など、怖くも何ともないわ」
実際、ユーレットにとって、自分のことなどもうどうでも良かった。
孫に囲まれて幸せな最期を遂げるなど、物語の中にしかないことくらい、既にわかりきっている。いっそのこと、アニアをつれて誰もいない場所に逃げて、そこで静かに最後を迎えたくさえある。
だが、この世は既に人間の世界。
どこへ行っても、人間しかいない。唯一の例外は北極近辺だが、そこで暮らしている魔物達に受け入れられるのは、相当な工夫が必要だろう。
ユーレットが人間を止めてしまうのはどうだろうか。
実は、無数の知識の中に、一つだけ可能性があるものが存在する。それを使えば、或いは。
「お爺さま、私は心配です」
「アニア、何も心配しなくても良い。 儂にとって幸せがあるとしたら、おまえが幸せになれることだけだからのう」
咳き込む。
どうやら、肺が少し前から病魔にむしばまれているらしい事は知っていた。
それも含めて、もう時間が無いことは、明白であった。
やがて、破滅の時が、静かに訪れた。
その日、ユーレットは図書館で本格的にある事を調べていた。管理している蔵書の中には、大量の禁術に関するものもある。
そして、使ったことは無いが、ユーレットの頭の中には、それらの使い方が全て収まっていた。
皮肉な話である。
平々凡々だった筈のユーレットなのに。環境が、今やこの国どころか、世界屈指の知識を持つ魔術師を育て上げてしまった。今のユーレットは、おそらくどこの魔術師よりもあらゆる魔術に通じている。
それなのに、只一人の孫娘さえ、未来に送り出すことが出来ない。
人間社会とは、どれほど巨大な怪物か。
もどかしさに、焦りも生じる。何度も咳き込みながら、目的の本を読了。既に頭に入れてある知識を、更に完璧なものとした。
これで、アニアをどうにか救うことが出来るかも知れない。
アニアを救う方法があるとしたら、それは二つだけ。
一つはアニアを外科手術で、人間に近い外見にすること。つまり「人間では無い」とされる原因になっている器官を取り除いてしまうことだ。
これは、調査の結果、かなり難しいことがわかっている。
耳の辺りにある羽のようなものが、魔力を媒介する機能を持っている事が確実なのだ。これは内蔵と同じようなものであり、無理に取り去れば命に関わりかねない。
もう一つの方法は、ユーレットが人間を止めてしまうこと。
これについては、今回の調査で、だいたい目処がついた。具体的な方法についても、既にわかっている。
これを使ったあと、さっさと北極に逃れるつもりであった。
こんな社会、未練などかけらも無い。
ユーレットに対する搾取と虐待のことは別にどうでも良い。不快きわまりないのは、幼い孫娘一人、「人間と姿が違う」というくだらない理由で、受け入れる余地がないという事だ。
しかも「人間が絶対正義」という社会の根源的規範がある以上、アニアが受け入れられることは絶対に無い。
ならば、こんな社会は捨て去るだけだ。
「館長!」
叫び声に顔を上げると、キナストだった。
ろくでもないことが起こったのだと、一目でわかった。
「どうした」
「館長の家で、騒ぎが起こっています! なんだか、館長が飼っている魔物が、何かしたとか」
どんな風に歪んで元の情報が伝わったかはわからない。
だが、一つはっきりしているのは、アニアに危機が迫っている、ということだけだった。
そのまま図書館を飛び出すと、老いた体にむち打ちながら、家に向かう。
どうしてか、一秒ごとに嫌な予感が高まっていく。
息が切れる。
元々、体力があるほうではないのだ。肺から必死に空気を出し入れし、老いた体を叱咤しながら、ユーレットは走った。
魔物には、人権など当然無い。
社会的に人間と見なされないアニアにも、それは同じなのだ。
だから、公然と売り飛ばすような商売が成立するし、肉を食べれば滋養がつくなどと言うおぞましい文言に人間達は笑う。
呼吸が乱れるのがわかる。
アニア。
愛しい孫娘よ。どうか死なないでくれ。
儂の唯一の宝。
この腐った世界で、唯一儂の心のよりどころとなった花。
転んだ。だが、立ち上がる。通行人が、その必死な様子を見て失笑した。だが、構っている暇など無かった。
あの角を曲がれば、家だ。
嫌な予感が加速する。大勢の野次馬がいるのを見たからだ。
もう杖が必要になるだろうと言われていたのに、それでもユーレットは図書館から毎日歩いて通っている。だが、今の年になると、流石に走るのは体力を使った。
野次馬が人垣を作っている。
殴打音。
笑い声。
野次馬をかき分けて進む。
「何だ爺!」
「どけい!」
五月蠅そうにユーレットをはじき飛ばそうとした大男を、逆に魔術の応用で吹き飛ばす。手のひらから圧縮した魔力を叩き込んだのである。まるで放り投げられた人形のように大男は飛び、ユーレットの屋敷の庭に落ちた。
周囲がしんとなり、人垣が割れる。
そして、ユーレットは。見てしまった。
既に命が無いアニアに、馬乗りになったルルサ。その手には、握り拳大の石があり、血がべっとりついていた。
「ああん、爺! てめえ、仕事の時間じゃ無かったのかよっ!」
まるで猿のように顔をゆがめたルルサが、吐き捨てるように言った。
それなりに端正な顔立ちだからか。余計にその醜さが際立っていた。
「てめーがわりーんだぜ! 年甲斐も無くこんなガキに毎晩ナニしゃぶらせやがって、そんなことでアタシが相続する筈の財産を削られちゃあたまんねーんだよ! しらねえとでもおもってんのか、ああんっ!?」
わめき散らすルルサ。
この時。、
ユーレットの中で。
何かが、決定的に、音を立てて崩れ、そして構築されていった。
全身に、魔力がみなぎっていく。
「いっとくが、これは爺孝行だからなっ! こんな人間じゃねえガキぶっ殺したって、何の罪にもならねーんだよ! いい加減頭冷やして、とっとと墓の下にいねや爺!」
「こら、ルルサ。 お父さん、ちょっと娘が粗相してしまいましたが、許してやってください。 代わりのおもちゃなら、またいくらでも買って上げますから」
どっと、周囲の観衆が沸く。
聞こえてくる。
あれが、ユーレットの爺。年甲斐も無く、魔物の子供を買って、毎晩下の世話をさせているとか言う。
ああ、あの変態エロ爺。
孫娘にまで迷惑駆けて、どうしようも無い爺ねえ。
さっさと死んだ方が、世のため人のためじゃないのか。
見ろよ、あの死んでる魔物の醜いこと。耳の辺りに、おぞましい器官がはみ出してるじゃ無いか。
あんなのにナニを毎晩しゃぶらせるなんて、よっぽど異常な趣味なのね。
げたげた。
けたけたけたけた。
笑い声が、脳内で反響し、反響し。
無言で、ユーレットは右手を挙げていた。
術式を紡ぐ。
次の瞬間。右手から放たれた光が、ルルサの頭を消し飛ばし、数千歩先まで、無音のまま薙ぎ払っていた。
遙か遠くで、キノコ雲が上がる。
「儂は馬鹿だなあ。 本当に愚かだ」
大量の鮮血をまき散らしながら、ルルサの死骸が前のめりに倒れる。
それをにらみつけると、汚らしい血と内蔵ごと、蒸発して消えて無くなった。
「お、おお、お父さん?」
「最初から、こうするべきだったのに」
血を分けた息子だとか言うゲスが、蒼白になって後ずさる。
ユーレットの全身に、圧倒的な、膨大な魔力がみなぎっていた。おそらく、今まで殻に封じられていた力が、完全に解放されたのだ。膨大な知識を蓄え続けたことで、ユーレットはありとあらゆる魔術に精通していた。それが、この劇的な変化を巻き起こしたのかも知れない。
もはや、手を向けるまでも無い。死ね。そう念じ、視線を向ける。次の瞬間、息子とか言う生物が一瞬で巨大な水疱だらけになり、内側から破裂して吹っ飛んだ。
悲鳴がとどろき渡る中、ユーレットは両手を高々と上げ、振り下ろした。
無数の光の槍が、辺りを徹底的に貫き、焼き尽くし、片っ端から人間共を殺戮していく。凄まじい熱量の中、ユーレットは命絶えたアニアに歩み寄り、腰をかがめた。
「そうか、おまえはこんなくず共に対してさえ、最後まで暴力を振るおうとはしなかったのだな」
アニアは、逃げようとした。
捕まってしまった後も、頭をかばって、耐えようとしていた。
それが、死体の様子からわかった。
「すまんな、アニア。 儂が、儂が本当におろかじゃった。 一刻も早くこのような生物共は皆殺しにするべきだったのに、人間の良心とか、社会的な道徳とかを気にして、ためらってしまった。 愚かな爺じゃ。 本当に愚かな爺ですまん。 許してくれ、本当に、本当にすまぬ」
兵士が来る。
キチガイ爺だ、殺せとか叫んでいる。
指を鳴らすと静かになった。地面から吹き出したマグマが、それ以上何も言わせず、人間共を焼き尽くしたからだ。地面の亀裂は広がっていき、ぎゃあぎゃあ騒がしい人間共を、マグマが片っ端から焼き払っていった。
ユーレットは涙を流しながら、自分が唯一愛した存在を抱き上げる。
そして、図書館に向けて、歩き出す。途中、見かけた人間は、どんな姿だろうが敵意があろうが関係なく、片っ端からぶっ殺した。
図書館に入ると、最初に目についたキナストとか言う人間を八つ裂きにして、他のも全部作業的に殺した。殺す事は、先以上に何とも思わなくなっていた。連中は外敵であり、アニアを殺した存在だからだ。中に人間の気配が無くなったのを見計らい、外に。そして、人間の死骸を魔力で浮き上がらせて空中で圧搾し、大量の血を絞ってそれで魔法陣を書いた。
既に、この町から、人間とかいう下劣な生物の気配は無くなっていた。
それに死体はいくらでもあった。こんなくだらない生物でも、死体くらいは有効に使うことが出来る。
魔法陣を書き終えると、今度は図書館そのものを情報化して圧縮した。
半刻くらいかけて、手のひら大の大きさにする。これで、唯一の未練は全て自分の手のひらの中に納めた。
図書館のあった場所には、巨大な穴が開いた。
無言でユーレットは、アニアの亡骸を抱えたまま、暗い闇の中に降りていった。
既にその心は、体も、人間では無くなっていたのかも知れない。
街が全滅すれば、流石に騒ぎにもなる。
人間共が押しかけてきたようだが、関係ない。図書館のあった場所は土砂で入り口を塞いだし、それでもまだ五月蠅いようなら、星を落としたり、開発した邪悪な呪いでまとめて焼き殺してやった。
何度か訪れる人間を皆殺しに。そうすると、人間は現れなくなった。
呪われた土地だとか、邪悪な土地だとか、そんな噂が流れたようだ。どうでも良いことであった。
人間は基本、噂くらいで土地を放棄したりはしない。正体不明の結果によって全滅すると言うことが何回か繰り返されたので、利害を吟味した上で、土地を捨てたのだろう。いずれにしても、静かになったのは良いことであった。
地下で、ユーレットは研究を続けた。
アニアの死体が腐敗したりしないように、特殊な結晶の中に封じ込めた後、人類を滅ぼすにはどうしたら良いのか、只ひたすらその全知全能を振り絞った。元々、知識を蓄えることには定評があったのだ。
その過程で、魔物についても様々なことがわかった。
魔物とは何か、理解するのに、さほど時間は掛からなかった。
ユーレットの体自体も、その時既に魔物化していた。不老の体になっている事は、わざわざ研究しなくても、数十年経った頃には明らかだった。どうしてこのように圧倒的な力が目覚めたのかもわかった。
地下は静かで、落ち着いた。
圧縮した図書館の情報についても、最適化して脳の中に納めた。様々な術式も、全て仕えるようにして、なおかつ自分の手でアレンジして強力に改良した。
様々な事を並列して進めた。
人間に対する焼け付くような憎悪が、それを可能にしていた。
やがて、補充兵の技術を完成させた。
空間を跳躍し、その辺りの人間の街に出かけては、片っ端からぶっ殺して材料を得た。もはや人間を殺す事には、何ら通弊どころか感情さえ動かなかった。集めてきた死体を使って補充兵を作った。最初の頃は上手く行かなかったが、効率的に作れるように様々な技術を併用して開発し、やがて実用化にこぎ着けた。
そして、魔王は。
北極に出向いたのである。
虐げられた魔物達と共に、この世界から人間とか言う害虫以下のクズ共を、一掃するために。
話が終わった。
ヨーツレットは知った。魔王が、どうして人間をこうまで徹底的に憎んでいるかを。
なるほど、これでは確かに、人間と共存などと言い出したら怒るはずだ。
だが、同時に興味もある。
もしも、人間の生存環境が変わったら、どうなるのか。
人間という生物が下劣に落ちているのも、「正義」とやらを錯覚しているからだ。人間は正義で魔物は悪。だから魔物からはいくらでも搾取して良いし、奪って良いし、殺しても良い。
勢力を拡大するために作り出しただろうその不文律が、人間という生物を際限なく傲慢で、邪悪な存在にしているのだ。
それに、指摘したら怒るだろうが。
魔王の心を唯一溶かしたのは、その人間だったのでは無いのか。アニアという子供は、存在自体が人間の視点から見れば「人間では無い」のかも知れない。だが、生物学的には人間だったはずだ。多少の奇形はあったにしても、である。
「ヨーツレット元帥」
「はい」
「儂は別に、虐げられたことを恨んではおらんし、むしろどうでも良いと思うておる」
「それは、今までの話を聞いて、理解できました」
魔王にとって、人間への憎悪は私怨では無い。それは確かだ。
というよりも、一度社会の外に出てみて、わかってしまったのだろう。人間という生物が、長期的には世界の敵にしかならないと言うことを。
実際問題、エンドレンでは延々と大規模な戦争を繰り返し、環境を徹底的に破壊し尽くした。今はまだ鉱物資源も豊富にあるが、それもいずれは掘り尽くしてしまっただろう。現状のままだと、人類は魔王が言うとおり、世界の敵だ。
この世界が滅びるまで、放っておいたら資源をむさぼり食い尽くし、壊してしまったことだろう。
「そして、人間という生物の本質も理解できたことじゃろう。 血がつながった家族でさえ、わずかでささやかな遺産目当てで邪推し、殺戮を行い、そればかりかそれを正義だと考える生物なのじゃよ」
「……確かに、ごもっともです」
確かに、魔王の周囲では、それが正しかったように思える。
話を聞く限り、魔王の周囲の人間は、全員が遺産目当てで邪推し、アニアを殺した魔王の孫娘を正しいと判断していたようだ。
相手が「魔物」だから。そういう理屈が成り立ったのである。
しかも、それが魔王の邪推で無い事もはっきりしているという。
人間を止めてから、魔王は殺した連中の肉塊から霊的な手段を用いて記憶を抽出し、それを確認した。結果はおぞましいまでに魔王の想像を裏付けていた。遺産を如何にして奪い取るかしか考えていなかった孫娘に息子、その妻、その他家族。人間時代の魔王ユーレットは、連中から一種の家畜としか考えられていなかったのだそうである。
魔物からは奪ってよい。魔物は殺して良い。弱者からは搾取して良い。
人間の社会の理屈では、全員が正しいと言えば、それが正義になるのである。客観的に見て、それがどれだけ醜悪であろうが関係ない。「人間の主観」が絶対なのだ。視点を切り替えることなど、許されないのだ。「正義にもとる」行為だからである。
だが、それはやはり、既存の不文律が原因なのでは無いのか。
人間という生物を一度徹底的に叩き潰し、その腐った不文律を根底から変えてしまえば、或いは結果は変わるかも知れない。
既に、エル教会の動きが鈍化していることは掴めている。
エンドレン戦線での戦闘が一段落すれば、攻勢に出られるかも知れない。人間がガルガンチュア級戦艦を量産している間に、こちらも蓄えてある死体から、補充兵を量産して対抗した。
クラーケンの数も、前回とは比較にならないほどそろえている。88インチ砲に対する対策も、どうにかなりそうなのだ。
一礼すると、魔王の前を退出する。
ヨーツレットは、一度玉座の間の裏に出た。膝を抱えて、眠っているように見えるアニアの死骸。
無言でそれを見つめると。ヨーツレットは、文字通り血の涙がしみこんでいるだろうその場を、後にしたのだった。
3、山での出来事
第六巣穴を管理する立場になったゴブリンのグラは、いきなり舞い込んできた巣穴増設の命令を見て仰天していた。
この間、クライネスが発動した南部諸国侵攻作戦が失敗したことは知っていた。人間の迎撃部隊を壊滅はさせたが、当初の目的である南部諸国の蹂躙に失敗した時点で、戦略上の敗退であったのだ。
だから、ある程度の戦力補強のために、巣穴を増やすことは想定していた。
だが、巣穴を拡張するというのは、驚きである。しかも、よりによってグラの担当している此処で、だ。
更に言えば、人間の死体の備蓄も、いくらでもあるというわけでは無い。こんな調子で増産していけば、いずれ在庫も尽きる。戦略を練っているクライネスは、何を考えているのか、ちょっとわからなくなった。
仕事場にしている、穴の外の天幕で考え込んでいると、弟分であるトロールのキバが来た。
「あにきー! いるかー?」
「どうした」
「カーラが、また新しい木を植えただ! 今度はりんごだぞ!」
「そうか」
外に出る。
カーラには、既に無制限に植林をして良いと告げてある。巣穴がある岩山は、幾つかの小さな山が連なっているのだが、その一角が緑になり始めている。岩だらけだった所を、土を耕し、雑草からまず植え、少しずつ緑が戻るようにしてきた。
無言で黙々と頑張り続けるカーラは、エルフ族の特性を入れた補充兵である。だから喋ることは出来なくても、本能で森の作り方は知っている。無制限にやってよいと言われた後は、植林の範囲を、黙々と拡大し続けていた。
最近は、小鳥が飛んでくるようにもなってきている。
最初に植えたものを中心に、数本の木が生育し、更に幾つかの苗もその周辺に植えられ始めている。無言でカーラは働き続けているが、小柄な彼女が真面目に働くことを、好ましく思っている魔物は多い。
その一方で、所詮補充兵だと、カーラのがんばりを低く見ている同僚も少なくは無い様子だ。
しばらく伸びをして、体をほぐす。
もしも巣穴を拡張するとなると、それなりの要員が必要だ。補充兵の内、戦闘で使い物にならなくなったのを数百体ほど回してもらう必要があるだろう。更に、ある程度の頭脳活動が出来る奴も必要になる。
秘書官のマロンが来る。此奴も補充兵だが、人間に酷似した姿をしているという、かなりの特例だ。
たまに、上級士官などに秘書としてつけられていたり、或いは文官であったりする。以前文官をしている同タイプに遭遇した事があるので、こういう補充兵がいる事はグラも知っていた。
ただ、このタイプはどれも性格が違う。マロンは口数が少なく、必要が無ければそれこそ何日でも喋らない。
「グラ様」
「どうした」
「今日は、これから少し多めに死体が運ばれてくる様子です」
「む?」
最近在庫が減っていて、どこからの輸送も抑えめになってきているはずだが。何かあったのだろうか。
とにかく、死体が運ばれてくるのなら、仕事をしなければならない。
「あにき、仕事か?」
「そうだ。 あと、今日はこれからちょっと真面目に考えなければならんことがあるからな。 先に休んでいてくれ」
「わかった! あにき、無理しないでくれよ! カーラもあにきがたおれたりしたら、多分かなしい!」
どすどすと足音を立てて、気が良いトロールは持ち場に戻っていく。
カーラが悲しむ、か。
補充兵には、特に下級の連中にはそんなものは無いように思える。だが、キバはとても純真な分、何かそういった細かい変化を見分けることが出来るのかも知れない。実際、キバが勘違いをする事はあっても、嘘をつくとは思えない。
「マロン、巣穴を拡張するとしたら、名案はあるか」
「増設か、それとも新たに作るか」
「やはりその二つか」
増設する場合、補充兵を作り出す装置を増やすために、穴自体を拡張する必要が出てくる。
この場合、落盤事故を防ぐために、慎重な設計と工事が必要になる。
ドワーフの専門家を呼ぶか、或いは頭脳活動担当の魔物に頼む必要が出てくるだろう。ただし、増設の場合、手間はさほど掛からない。
問題は新たに作る場合だ。
この岩山の地下に、もう一つ巣穴を作ってしまう場合、単純に生産力が倍になる。別に洞窟はまだ幾つかあるし、地下のスペースにも余裕はある。更に言えば、少し元の場所から離して作れば、落盤なども気にしなくて大丈夫である。
だがこの場合、膨大な労力が必要になる。
この巣穴だって、最初に作ったときは千体以上の補充兵をこき使って作ったという話である。仮設魔王城に作っている巣穴も、現在完成に近づいているとは言え、まだまだ労力が必要で、かなりの補充兵をつぎ込んでいるという。
「ブリッツとカーネルを呼んできて貰えるか」
「わかりました、直ちに」
ぺこりと一礼すると、マロンはぱたぱたと走っていった。
あまりグラには見分けがつかないのだが、マロンは人間で言うと成熟少し手前くらいの年齢であるらしい。仮設魔王城には、結晶に封じ込まれた人間の死体みたいのがあるのだが、それより少し年上だとか。
だが、働きは成熟手前にしてはしっかりしている。使いどころもあって、重宝していた。
ほどなく、ブリッツとカーネルが来た。
二名とも、巣穴護衛用に派遣されてきた連隊長級の補充兵である。ブリッツは全体的に見て、長細い犬のような姿をしている。ただし腹の下からは無数の節足が生えていて、それを使って高速で動き回る。本来の犬の前足後ろ足は退化していて、ただぶらんとぶら下がっているだけだ。
口を開けると大きな目玉があるのも特徴である。
カーネルは触手が一杯生えた椰子の木のような存在だ。全方向に等速で動き回るほか、体の上部についている目で全方位を同時に監視できる。全身はきついショッキングピンクで、しかも紫色のしましまがついている。勿論目立つための工夫である。敵の攻撃を引きつけて、味方の被害を減らすのが目的だ。
この二体が、巣穴の防衛に回されてきた。
二体とも最古参の補充兵であり、今の現役連隊長級に比べると、戦闘力はかなり心許ない。そもそも、インフラ整備の目的で回されるはずだったのが、護衛としての任務に就いたのだ。いずれ退役寸前の、もっと新しい連隊長級が回されてくると言う話である。
「お呼びですかな、グラどの」
ブリッツはちょっと時代がかったしゃべり方をする。興奮すると口の中の大きな目玉が露出する。
「我々に出来ることであれば、すぐにでもいたしましょう」
これに対して、カーネルは物腰が柔らかい。どぎつい体色の割には性格も落ち着いていて、話によると部下達も丁寧に扱っていたそうである。
「これから二名には、巣穴の拡張作業を手伝って欲しい」
「その程度であれば、すぐにでも取りかかりましょう」
「いや、それがすぐに出来るわけでもないのだ」
まず、巣穴をどうやって拡張するかを決める必要がある。
戦術判断能力がある二名に、その辺も含めて判断して欲しいのである。勿論、これから巣穴で働いている魔物に、適当な時間を見て意見を聞くつもりだ。
話を回すと、無数の触手をうねうねと動かしながら、カーネルは言う。
「個人的には、多少負担が増えるとしても、巣穴を増設した方が良いかなと思います」
「どうして貴殿はそう思われる」
「長期的に見ると、現在の戦況をひっくり返すには、大規模で大胆な増産しかありません」
それには、グラも同感だ。
魔王の力は噂には聞いているし、それでいくつもの国が卵を踏みつぶすように陥落したことも知っている。
だが、それでも今人類はある程度まとまり始めていて、特にエンドレンなどでは再三の魔王の攻撃にもかかわらず耐え抜き、凄まじい大軍で攻め寄せようとしているという話では無いか。
それなら、こちらもある程度は物量で対抗するほかない。
「我の意見は違う。 実際に前線で見てきたが、多少巣穴を増設したくらいで、あの戦略的な格差は埋められぬ。 人間が有している物量は異常だ。 あれを崩すには、奴らの中核を叩くしか無い」
ブリッツはそう言う。
それもまた納得できる意見ではある。
確かに人間の物量は異常だ。同類同士で延々殺し合っていたからこそ、これだけの物量を作り出せたというのも含めて、頭が痛い話である。結局の所、同類を殺すために、それだけ熱心になれるのなら。世界を皆で仲良く分けて、平穏に暮らそうとか考えられないのだろうか。
実際に生きている人間と、グラは接触したことが無い。
だが、彼らの行状を考えると、呆れてしまう。
坂の下から、無数のユニコーン型補充兵が来る。確かに膨大な量の死体を運んできていた。
「わかった。 今晩、この巣穴の魔物を皆集めて会議を行う。 その時に、二名には意見を忌憚なく述べて欲しい」
「わかりました」
「承知」
二名は、それぞれ持ち場に戻っていく。
さて、これから忙しくなる。マロンを呼び戻すと、作業の手伝いをするように言いつけた。
ユニコーン型の護衛をしているのは、先の負け戦で傷ついた補充兵が多い。中にはヘカトンケイレスの姿もあった。
死体がどさどさと荷車から落とされる。かなり新しい死体も目だった。
「これらはどうしたのだ」
「クライネス軍団長が、二個師団だけを率いて、南部諸国の一つを短時間で蹂躙したそうです。 住民を皆殺しというわけにはいかなかったようですが」
「ふうむ……」
「この間の戦いで、南部諸国の軍事力が揃って決定的な致命打を受けたことに代わりはありません。 今後はこうやって、少しでも回復する前に相手を叩き、戦略的な勝利を優位に結ぶべく動くとか」
護衛についていた旅団長が言う。彼もまた、先の戦いで重傷を負った一名だった。
やはり、死体には老若男女関係ない。苦悶を浮かべたまま死後硬直している女児の死体などを見ると、やっぱりいたたまれなくも思う。
帳簿をつけながら、死体を受け取る。
今日は時間が流れるのが早い。忙しいからだろうか。死体をあらかた受け取り、倉庫に移した頃には、陽が落ちていた。
鐘が鳴る。
仕事の時間の目安をつけやすいように、最近グラが設置させたのだ。そうしたら他の巣穴でも真似始めたという。
ぞろぞろと、いろんな魔物が広間に集まってくる。
集まってきた中には、手足がどろだらけのままであるカーラもいた。キバに手を引かれて、一緒に来たらしい。
「皆、疲れているところをすまない。 これから、この巣穴に関する事を決めたいのだ」
「何だよ、巣穴に関する事って」
不満そうに、マジェスが言う。
グラは咳払いすると、巣穴の増設について話した。それに関する、一長一短についても、である。
一通り話し終えると、どれに賛成か、投票で決めることにした。挙手だと、意見が見えやすいので、後に禍根を残すからだ。
夕方、作業が比較的スムーズになったところで、マロンに作業用の道具を作らせた。箱に、木片を入れる。木片には増設か、作成かを○×で書く。出来るだけ似たような木片をそろえたので、誰がどう意見を書いたのかはわかりにくい。
投票が終わったのは夜中である。
かなり遅くまで考え込んで、投票してくれた魔物もいた。
投票が終わったところで、開封する。
キバはなんと、自分の名前を書いて投票していた。アホだが、しかしほほえましい行動だ。
カーラも投票していた。そういえばカーネルとブリッツも投票はしているので、補充兵だから投票できないと謂うことは無いか。それにしても、口はきけないにしても、話は理解できていたと言うことになる。
元々エルフ族は知能も高い。それを模して作られたカーラなのである。ある程度の知性は備わっていて不思議では無い。或いはキバが毎日親しげに話している内に、知性が芽生えたのかも知れなかった。
キバに手を引かれて、カーラは宿舎に戻る。
それを見送りながら、グラは集計を続けた。マロンは最後まで、文句一つ言わずにつきあってくれた。
結果、殆ど意見は拮抗した。
面白いことに、増設と作成、二つに丸をつけているものもいた。だが、最終的なリスクを考えると、やはり作った方が良いのでは無いかという意見を述べているものも目だった。
集計を終えると、わずかに作成が勝った。
そうなると、数百体は補充兵を増員しなければならないだろう。短期的だとしても、だ。
「マロン、司令部に手紙を書く。 用意してくれ」
「そろそろお休みになられては」
「これくらいは残業の範囲内だ。 いつもそれほど激しい労働をしているわけでもないし、どうにかなる。 それよりも、皆の苦労が実感できている内に、今日の作業を済ませておきたい」
実際問題、グラは今でも皆より上だとは思っていない。
仕事の後に集まる苦痛も理解できるつもりだ。だから、今のうちに、作業をしておかないと失礼に当たるとさえ思っていた。
マロンと共同して、司令部に手紙を書く。
何度か校正しては書き直し、やがて仕上がった。
手紙を届けるのは、空を飛ぶ補充兵の仕事である。インフラが整備されつつあるフォルドワードでは他の方法も採られるのだが、此処では基本的に軍政なので、当然軍関連の補充兵が片手間に作業を行うことになる。
手紙は一旦仮設魔王城に集められ、其処からテレポートが仕える魔物によって、彼方此方に集配されるのである。
もっとも、今回は仮設魔王城宛てなので、その後の手間は存在しないはずだが。
手紙を書き終えた。
そろそろ、夜半を過ぎた頃だ。集配するための箱に手紙を入れると、宿舎に戻る。
そして、自室の寝台に潜り込むと、さっさと眠りについた。
今日もヨーツレットは、領土にしている原野で激しい調練を行った。
クライネスは負けたとは言え、南部諸国連合の抵抗能力を奪った。それからは二個師団から三個師団を率いて、防衛戦力がいない国々を荒らし回り、手当たり次第に人間をぶっ殺しては、死体を集めてきているようだ。
さながら、人間共の海賊が如き悪辣さである。勿論参考にしている部分はあるのだろう。人間に勝つには、まず人間を知ることだ、というわけだ。
そして、それによって新しい死体が大量に入ってきている。
勿論、それを大陸中央部の軍事国家群や、大陸東部の大国が見逃すはずも無い。それに何よりも、エンドレンでの戦線が、いつまた発火するかもわからなかった。
十五万の機動軍を何カ所かに分散させ、野営させる。
クライネスの軍も再編を急いでいるが、エンドレンの守備部隊が何よりも最優先なので、遅々として進まない状況だ。せめてあちらの戦線が安定すれば、一気に戦況をひっくり返せるのだが。
仮設魔王城に戻ったヨーツレットは、魔王の所に出向く。
偵察に出している部隊の連絡を総合し、報告しなければならないからだ。
魔王は玉座にいた。膝掛けを乗せて、ミカンを食べている。
「おお、元帥。 来たか」
「はい。 幾つか、議題が出てきております」
「ふむ、そうか」
エルフの戦士達が、魔術で準備をする。
映像によって直接話す方が、色々と都合が良いからだ。
程なく、準備が整う。
今回は珍しいことに、バラムンクが会議に参加するようである。ヨーツレットは、軍団長達の顔を見回しながら言う。
「さて、今回の議題だが。 まず最初に、幾つかの巣穴を拡大し、生産力を強化することが決まった」
「新しく作るのでは無く、拡大するのですか」
グリルアーノが言う。
少し前から、フォルドワードの戦線をカルローネに任せて、前線に出てきている若きドラゴンは、ちょっと落ち着かない様子で羽を縮めた。
「そうだ。 新しい巣穴を作ると、やはりゼロからの作成と言うことになり、コストがかさむと結論が出た。 それならば、ノウハウがある場所に、増設した方が安上がりに済むと言える。 既存の輸送ルートも利用できる」
「なるほど。 しかし人間の襲撃を受けた場合が心配ですね」
「その通りだ。 だが今回、連隊長級をそれぞれの巣穴に二名ずつ配備している。 これにより、近場にいる駐屯軍が駆けつけるくらいまで、時間は稼げるようになった」
クライネスが、ちょっと苦虫をかみつぶしたような表情になった。だが、ヨーツレットは気にせず、話を進める。
「それについて、意見書が来ている。 巣穴を増設するのだと、作業上の事故などの危険性もあるし、巣穴の構造にも制限が出る。 落盤などの可能性も否定できない。 だからいっそ、岩山の中の別のスペースに、巣穴を新しく作りたいというものだ」
「なるほど、斬新ではありますが」
「しかし、補充兵が足りますかな」
腕組みしたのは、メラクス軍団長である。
ずっとエンドレン大陸軍との海上前線に出張り続け、死闘を繰り返している彼は、当然今も海上にいる。
大まかでは賛成だが、細かい部分では賛成できない所もあるらしい。
「新しく巣穴を作るとなると、設計を行う者も含め、千名程度の補充兵を回さなければならないでしょう」
「その通りだ。 クライネス将軍、回すことは出来るか」
「現在、補充兵はどれも手が足りない状況です。 輸送に当たっている補充兵を回せば、或いは」
「そのような底意地の悪いことを言うでないぞ、クライネス将軍」
魔王が柔らかくたしなめて、クライネスは恐縮したように身を縮めた。
仮設魔王城に作った巣穴は、やっと稼働開始したところだ。規模も小さく、生産できる補充兵も少ない。
現在は上級士官の補充兵を専門に生産しているので、更にここから出て行く者は少なかった。
「確かに現在、補充兵の数が足りていないのは事実じゃて。 どうにか兵員を回せぬか」
「は。 そうなりますと、南部諸国への攻撃を控えませぬと」
「今、貴殿は四つの国を一月で壊滅させた戦果を上げている。 死体も確か五十万ほど入手したといっていたな」
「その通りです」
魔王が絡んでくると、急にクライネスは態度が軟化する。
まだ話していないのだが、これが御前会議をする大きなメリットになっていた。
「話には聞いていたけど、すごいじゃない! ここのところ、人間への攻撃は全く上手く行かなくて、補充兵の材料だってなかなか入手できなかったのに」
「レイレリア将軍、褒めていただけるのは光栄だが、しかし南部の諸国にはまだまだ多くの人間がいる。 出来れば今月中に、もう二三十万は殺しておきたかった」
「クライネス将軍、それならば一個師団を一月ほど巣穴の拡張に回し、その間だけ侵攻を休むと良い。 そもそも、新しく創設した軍団は疲弊が激しく、今回の侵攻戦でも失っている兵力がそれなりにいると聞いておる。 それならば無理をせず、今は再編成も兼ねて少し休むべきじゃろう」
「ははっ! ご明察にございます!」
クライネスが非常におとなしく、なおかつ物わかりが良いので、グラウコスやカルローネも顔を見合わせているようだった。
ずっと黙っていたバラムンクが、此処で不意に発言する。
「そうそう。 そろそろ話すべきかと思っていたのですが」
「どうしたのだ」
「人間共が、そろそろエンドレン海域で攻勢に出ます。 私の配下が、密かに造船工廠を出るガルガンチュア級の姿を確認しました。 数は十隻を超えています」
全員が押し黙る。
あの、ガルガンチュア級が十隻以上。
対応策はできはじめている。既にそれを搭載したクラーケンも、戦線に配備している。だが、カルローネのようなエンシェントドラゴンが、クラーケン数体と一緒になってようやく押さえるのが精一杯だったあのガルガンチュア級が、十隻以上出てくるというのか。
しかも、そうなると、おそらく人間は全戦力をたたきつけてくる可能性が高い。もしフォルドワードになだれ込まれでもしたら終わりだ。
「貴様、何故それを早く知らせない!」
「私も万能ではありませんからな。 ついさっき、部下が知らせてきたのです」
声に愉悦が混じっているのを、ヨーツレットは見て取っていた。
此奴は、おそらく何か他にも知っているはずだ。ろくでもないことばかりだろうが。
「現在、海上配備されているクラーケンは」
「前線に配備されているものが八十七、後方待機しているものが三十八になります」
「海上での戦線は、今まで後退するばかりであったからのう。 その戦力でも、海を埋め尽くすほどの敵の艦隊には厳しいかも知れぬな。 よし、今回は儂が出るか」
「残念ながら、陛下。 もう一つ良くない話がございます」
やはり来たか。
周囲を見回すように、嫌みたっぷりにバラムンクは言う。
「こちらもついさっき掴んだ情報なのですが、キタルレア中央部の遊牧民国家の幾つかが、アルカイナン二世の旧領を完全に掌握。 余勢を駆ってこちらへの進軍をもくろんでいる様子です」
「何じゃと」
地図上に、三つの導線が示される。
一つは、大陸中央部のやや北寄りにあるキタン国の軍勢。およそ十二万。これはまっすぐ、東から西に向けて進軍してくる。
問題はもう二つだ。
一つは大陸中央部の、最南端にあるキョド国。南部諸国の領土を通ってくる事が予想されるらしい。兵力はおよそ八万五千と小ぶりだが、バラムンクは聞き捨てならない事を言った。
「どうやらこの軍勢は、今回クライネス殿が蹂躙した国々から義勇兵を募り、報復戦を喧伝して攻め込んでくる模様です」
「やれやれ、魔物達をさんざん虐殺しておいて、報復とは片腹痛いのう」
「兵の質は微妙になるでしょうが、しかし下手をすると三倍以上にふくれあがる可能性があります。 お気をつけください」
更に、もう一つ。
これは動きが良く読めないという。
大陸中央部にある、騎馬民族国家最強を誇るモゴル帝国。その軍勢およそ二十万が、動き出しているという。
合計して四十万を越える。しかも、である。そのうちキョドの八万五千は、兵の質はともかく、最悪二十万程度までふくれあがる可能性があるというのだ。
「さて、ヨーツレット元帥、どう対処なさいます」
「時間差をつけての各個撃破、これしかあるまい」
「しかしながら、おそらくこの三国は示し合わせて、ほぼ同時の攻撃を仕掛けてくる模様なのです」
にやにやが続いている。
バラムンクは何を考えているのか、よく分からないところがある。情報を一手に握る部署にいるのだから、それくらいの方が良いのだろうが。しかし今は、それが不快でならなかった。
「同時攻撃だろうと関係ない。 相手の侵攻路に足止めの部隊を配置し、主力が敵を順番に撃破していく。 奇をてらった戦略では無く、それしかない。 そしてこんな時のために、国境の部隊を増強し、要塞を強化し、更に予備部隊であるクライネス将軍の軍団を整備してきたのだ」
「ヨーツレット元帥のお手並み拝見と行きましょう」
バラムンクも、この戦に負ければ無事では済まないだろうに。どうしてこう余裕があるのか。
或いは心の奥底では恐怖を感じているのに、余裕を装っているのだろうか。
今まで黙り込んでいたグラウコスが発言する。
「しかしこうなると、しばらく攻勢には出られそうに無いですね」
「そうだな。 とにかく、此処が正念場だ。 此処さえしのげば、光が見える」
少し、不安はある。
クライネスが以前から言っていた通り、此処が正念場にならなかったら。人間が無尽蔵に兵を繰り出してきたら。
実際、エンドレン戦線では、異常すぎる数の兵力が、未だに維持されている。
兵站もいい加減だろうに、連中の士気が衰える様子は無い。それも、またヨーツレットの警戒感を煽る一因であった。
「今は、可能な限り、直前まで兵を生産して、それで勝負するしかあるまい」
カルローネが、無言でヨーツレットの言葉を聞き続けていた。
マロンが小走りで来る。
グラは、直感的に何かあったなと気づいた。大量の死体を捌き続けていたから、それに対する反動も大きいだろうとは思っていたのだ。
「グラ様」
「どうした」
「敵の大攻勢が開始されるようです。 キタルレアでも、最低四十万の軍勢が動き出したという報告が」
「四十万!」
それはまた、桁違いの大軍だ。
前回アルカイナン王が攻め込んできたときでも、予備の陽動戦力を会わせて、二十万程度だったと聞いている。単純にその倍、しかも最低でも、ということだ。
しかも、そんな報告が来ていると言うことは、とてもでは無いが、魔王がその能力で食い止められる段階では無い、ということなのだろう。
「皆を集めてくれ」
仕事中だが、これは聞かせておかなければならない。
魔物達が来た。肩にカーラを乗せているキバ以外は、皆何かあったのだと、すぐにわかったようだった。
「グラ殿、どうした」
「敵だ。 今回の侵攻軍は、四十万に達するらしい」
「四十万だと!」
キバだけは、いまいちその凄まじい数がわかっていない様子だ。
現在、ヨーツレット元帥の機動軍十五万は、魔王軍の中でも最精鋭をそろえている。ヨーツレット元帥単独でも、一万程度の敵なら正面から相手に出来るという噂もある。だが、クライネス将軍の軍は確か八万程度しか稼働出来ないはず。国境の守備隊が六万から七万程度はいるはずだが、どこの防衛線も厳しい戦いになるだろう。彼方此方にある要塞の守兵を増員するほか無い。
それには、巣穴から、出来るだけ多くの補充兵を作り出さなければならないだろう。
「すまないが、いつぞやの総力戦体勢に戻そうと思う。 巣穴の増設も、出来ればこっちでやってしまいたい」
「なるほど、回してもらうより先に、補充兵を作ってしまった方が良いと言うことか」
「そうだ。 カーネル、ブリッツ、二名は今日中に新しい巣穴の設計と、建築プランを立ててもらえないか。 無茶は承知だ」
「どうやら、無理だとは言っていられないようですね」
カーネルが嘆息する。ブリッツは興奮して、口の中の巨大な目玉をむき出しにした。
「しかし、その間の山の護衛は」
「それは、此方でどうにかするしか無い。 皆、手分けして仕事を回し、見張りもして欲しい」
「無茶だ」
「とりあえず、一日だけだ。 マロンは、司令部に情報通信の準備」
会を解散させると、皆てきぱきと動き出した。
キバはぼんやりとしていたが、やがてカーラを下ろすと、言い聞かせるように言った。
「ごめんな。 おれ、あにきを手伝うから。 ひとりでしごとしてくれ」
無言でカーラが頷くと、くしゃくしゃに破顔するキバ。
人間が見たら、腰を抜かすかも知れない。
「あにき、おれも手伝う。 ちからしごとならまかせろ」
「わかった。 力仕事が必要な段階になったら呼ぶから、いつも通り倉庫の整理を頼むぞ」
「がってんしょうちだ!」
はりきって、どすどす足音を立ててキバが洞窟の中に消えていく。
額の汗をぬぐう。ふと見ると、カーラが手ぬぐいを差し出していた。
「ありがとう。 おまえも職場に戻れ」
カーラは頷くと、坂を下りていった。
それにしても、あんな風に気をつかえるようになっているとは。キバがずっとかわいがっていたから、感情とか心とかが、ずっと以前より強くなっているのかも知れない。
或いはそのうち喋ったりするかも知れないなと、グラは思った。
「グラ様、通信の準備が出来ました」
「つないでくれ」
マロンに言うと、帳簿をつけながら、通信に使う情報球を見る。
クライネスが出るかと思ったのだが、意外にもヨーツレット元帥が姿を見せた。
「グラ君か。 どうした」
「はい。 敵の大攻勢が始まると聞きました。 それで提案があるのですが」
「何かね」
「今、この第六巣穴では、総力戦体勢で四千ほど一日に補充兵を生産できます。 そのうち千を増設に回してもよろしいでしょうか」
ヨーツレットは、首を八の字に回している。
怒っているのでは無くて、考えているのだとすぐに理解できた。
「なるほど、その方が今は効率的かも知れないな。 わかった。 それで良い」
「ありがとうございます。 使う千余は、出来るだけ戦闘タイプでは無い、コストが低いものだけを厳選します」
「いや、それで事故などが起こっては元も子もない。 君達は皆、魔王様の大事な家臣達なのだ。 私も出来るだけ君達を守るから、君達も命を無為にするな」
通信が切られる。よほど忙しいのだろう。
とにかく、許可は出た。
毎日前線や或いは別の部隊に出て行く補充兵達を見つめ、運ばれてくる材料の吟味をするだけの平和な時間は終わった。
マロンに、帳簿をつけて渡す。
「この補充兵を、巣穴の増設に。 後は、出来るだけブリッツとカーネルに、設計を急ぐようにと」
「かしこまりました」
さて、ここからは忙しくなる。
もしも人間の大攻勢で、敵が前線を突破してきた場合、巣穴が幾つか蹂躙される可能性も否定できない。勿論味方領の奥深くには作られているが、それも絶対では無い。
グラも、戦が続くこと自体には、あまり良い感情が無い。
しかしながら、戦争を実際に行うのなら、勝つべきだとも思っている。
そして今、グラは少しでも、勝ちに貢献できる立場にいる。ならば、多少なりと努力しなければならなかった。
4、雪崩
わずかの間に、情勢が凄まじい動きを見せていた。
南部諸国への敵軍侵攻を食い止めはしたものの、軍勢が壊滅的な打撃を受けたことには変わりなく。魔王軍の機動部隊と思われる軍勢が、短時間で四つの国を蹂躙した。街や村を集中的に攻撃するやり方で魔王軍は人間を効率的に殺し、その数は数十万にも達したと報告があった。
レオンが、イミナの前で、拳を机にたたきつける。
此処は、イミナ達に与えられている部屋。二十歩四方ほどもある広い部屋で、四人で生活するには充分な広さがあった。壁は石で冷たく、出入り口は一つしか無いが、それを我慢すれば水回りも併設されているので快適である。
「くそっ! あれだけ大勢死んだのに! 護国の鬼になった彼らは、無駄死にだったというのか!」
「でも、もし彼処で敵軍を押し返せなかったら、それこそ南部の諸国は全滅してたんじゃないのかな」
「それはそうだが……」
柔らかくたしなめるシルンに、レオンは歯ぎしりばかりしていた。
現地に残ったクドラクが指揮を執っているようだが、敵はそもそも今回の戦略的な敗退を生かす方法で動いているらしく、機動戦による一撃離脱で此方を翻弄しているらしい。此方は敵の軍勢を退けはしたが、南部諸国の軍勢も致命打を受けていたことに変わりは無く、とても敵の機動軍を野戦での決戦に持ち込める状況ではないという事だ。
プラムが無言で焼いた肉を囓っている。今日はどういうわけか、食べている肉があまり多くない。
「食欲無いの?」
「ううん。 多分、もうすぐ大きな事が起こりそうだから」
「大きな事、か」
プラムが肉を食いちぎって、大きな音を立てて咀嚼する。レオンは腕組みして苦悩しており、それをたしなめる余裕も無い様子だった。
木戸がノックされる。
ここの戸は、引き戸になっている。窓にも鉄格子がはまっている。
それだけ、此方が警戒されていると言うことだ。実際問題、籠城戦でのシルンの凄まじい暴れっぷりは、兵士達の間でも畏怖を持って伝わっているという。それはプラムやイミナも同じ事で、こういう措置は当然であった。
戸を引いて、中に客を招き入れる。
マーケット将軍だった。
あいている席に座ると、マーケットは言う。
「良い知らせと、良くない知らせがある」
「良い知らせとは」
「其方からか。 大陸中央部にある三つの遊牧民国家が、先ほど魔王軍への攻撃を意思表明した。 動員され、既に動き出している軍勢は合計して四十万を越える」
「四十万!」
あのアルカイナン二世でも、確か動員した兵力は十万少しだったはず。実際に動かしていた軍勢は陽動も含めてもっと多かったはずだが、それでも魔王軍はやっとの事でそれを迎撃していたはずだ。
東側の諸国が、援助したことも考えられる。
実際、そろそろ本腰を入れないと、危険な時期である。
「軍勢は三方向から、同時に魔物どもの根拠地を目指す様子だ。 敵は当然各個撃破を狙ってくるだろうな」
「それがわかっているのに、三方向から進撃するのですか?」
「いや、勿論これは陽動を含んだ複雑な作戦だ」
シルンの疑念に、マーケットは子供に講義するかのように、楽しげに言う。
「東側の諸国が、今回秘密裏に七万ほどの軍勢を動員し、海路から大陸北西部の奪回を目指す。 そして敵の注意が逸れたところで、本命の軍勢が一気に敵の中枢を叩くという算段だ」
「そうなると、五十万近い軍勢が動くと言うことですか」
「そうなるな」
恐るべき規模の合戦である。
しかし、これをしのがれてしまうと、此方に後が無いようにも思える。それに、これだけの勢力が、同時に連携して動けるものなのだろうか。
勝ちを確信するには、まだ早すぎる。
「それで、悪い知らせとは」
「王弟殿下が、今回の作戦に参加を命じられた。 東側の連合国からの圧力で、逃げるわけにはいかん。 私は三万を率いて、モゴル国の軍勢に加勢する。 王弟殿下も、其処に同道することになる」
なるほど、それは確かに。
良い知らせとは言いがたい。
魔王が、任意に好き勝手に人を殺せることは、既にほぼ確定している。流石にこれほどの規模の戦闘となると、指揮官を一夜で皆殺し、というわけにはいかないだろうが。だがそれにしても、簡単にはいかないだろう。
そして、今まで消極的な関わり方をすることで死を免れてきた王弟も、今回の件は流石に危ない。
そしてこのアニーアルスは、彼がいなければ瓦解してしまうだろう。
勿論、それはマーケットも同じ筈だ。
それに確か、この国の軍勢は五万五千程度だったはず。三万も連れて行って、それが壊滅でもしたら。
「わかりました。 我々も同道しましょう」
「お姉!」
「兵力から言って、モゴル軍はおそらく主力になる。 もしも魔王を倒す機会があるとしたら、この軍勢が一番可能性でも高い」
それに。
どうも南部から敵を目指すキョドの軍勢はうさんくさい。本当に魔王領を目指す気があるのか、どうも疑問でならないのだ。
しかも、東から直接西進するキタンの軍勢は、おそらく最も最初に敵の迎撃目標になるだろう。
あのムカデの怪物と戦うのは、まだ避けたい。
魔王が奴より弱いと言うことは無いだろうが、出来れば魔王との戦いまでに消耗するのは出来るだけ回避したいのだ。
「わかった。 殿下にその旨、打診する」
「武運を」
敬礼すると、マーケットは部屋を出て行った。
「お姉、本当に大丈夫? わたし達の得意分野って、平原での戦いじゃ無いよ」
「この戦い、相当に混乱するだろうな」
「え?」
「だから、最悪の場合に備えて、生還率が一番高そうな部隊に入った。 ただ、それだけだ」
勿論それだけでは無く、勝ちを拾える可能性が一番高い部隊という意味もある。
だが、どうも嫌な予感が消えないのだ。
いずれにしろ、次はほぼ確実に、総力戦になる。
もはや、引く道は、残されていなかった。
(続)
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