潮が満ちるがごとく
序、地獄の釜
キタルレア大陸にて、二つ目の「巣穴」が出来たと聞いて、早速ヨーツレットは護衛の部隊を引き連れて視察に向かった。
既にキタルレアに展開している部隊は五十万。更にいつでも稼働可能な予備戦力が二十万を超えている。この予備戦力は、フォルドワードでも数を増しており、現在二十万強が稼働している様子だ。
そろそろ百万に達しようという勢いである。
今回は、レイレリアを伴う。風船状の姿をした空の守り手は、ふわふわと音が鳴るような軽やかさで、浮遊したまま少し後ろをついてくる。
レイレリアは、魔王によって、ヨーツレットと同時期に作り出された。
それが故か、妙にヨーツレットを意識している節がある。意識したところで、どうにかなるものでもないというのに。不思議な話である。
周囲に護衛の戦力がいるから、レイレリアは口数が少ない。あまり器用では無いので、口調の切り替えが難しいらしい。
「ええと、元帥。 航空部隊の生産は、う、上手く行っている、のかしら?」
「レイレリア将軍」
「あ、間違えたっ。 ええと、上手く行っているのです、か?」
「クライネス将軍の話によると、今の時点では問題ない」
見えてくるのは、岩山。魔王城から、安全圏までヨーツレットの速力で三刻ほどで到着する。
周囲は険しい岩山だらけで、しかも其処を検問が二重三重に守っている。岩山の彼方此方には監視用の補充兵が仕掛けられ、文字通りネズミ一匹通れない有様である。
しかし、中央には大きな道が作られている。
材料を運ぶための輸送道だ。
その輸送道を並んで歩く。その間にヨーツレットは、長い触手で書類を器用に広げて、複眼に映して読み取っていった。
「ふむ、なるほど、な」
レイレリアは上手に喋れないからか、無言でのぞき込んでくる。
無数の目が、じっと書類を見つめた。
洞窟の入り口。連隊長級の補充兵が三体、常時守りについている。手形を見せないと、将軍でさえ通れない厳しい警戒態勢の中、ユニコーンが引く荷車を通す打ち合わせが行われている。
通り過ぎる途中、若いゴブリンが、会釈をしてきた。だから、応じる。
「君は、見たことが無い顔だな」
「え? はあ、軍に入ったばかりでありますので」
「私はゴブリン族全員の顔を記憶している。 君の名前は」
「グラです。 ヨーツレット元帥」
ちょっとぎこちなく敬礼をするグラは、何だか少しほほえましかった。
軍務に励むようにと、出来るだけ柔らかい口調で声を掛けると、奥に。天井が低いので、ちょっと浮遊しているレイレリアは苦労していた。案の定、鍾乳石にぶつかったりしている。
「あいた! 鍾乳石が邪魔っ!」
「淑女が情けない声を上げるな、レイレリア将軍」
「ああもう、五月蠅いわねっ! いちいち口うるさいのよ!」
何故か不機嫌になってぴいぴい叫ぶレイレリア。困った奴である。ただし、能力の方は折り紙付きなので、そちらの心配はしていない。
洞窟は下り坂になっており、ゆっくり地底に潜っていく。床も鍾乳石があったのだろうが、そちらは綺麗に取り除かれていた。
徐々に、異臭がし始める。
壁や天井に、明かりが増え始めた。火を使ったものではなく、北極と同じくヒカリゴケや光草を使った自然由来のものだ。踏みつぶさないように、気をつけながらヨーツレットは歩く。
これの栽培は結構難しいのである。明かりを放つという特性にかなりの力をそがれているらしく、どちらもデリケートなのだ。
最下層に、出た。
此処が、巣穴の中心部。地獄の釜だ。
広い広い空間。此処だけは、人工的に作り出されたのだと一目で分かる。柱が何カ所かに設置され、天井の崩落がないようにされていた。天井には幾つか穴が開けられている。発生する有毒な気体を逃がすためだ。
異臭は、既に相当に強くなっている、
此処が本格的に稼働したら、更にひどい臭いになる事だろう。
穴の底には、既に融解用の液体が、ぐつぐつと音を立てて沸騰していた。そして、其処に試験用の素材が、次々投げ込まれていた。
作業をしているのはクライネスと、その助手であるオーガと呼ばれる大型の魔物だ。勿論補充兵のオーガでは無い。
人間よりもだいぶ体格が良い存在であるオーガは、知能こそ若干人間より劣るものの、頑丈な肉体を持ち、特殊能力として天井に張り付くことが出来る。意味が無いようにも思える能力だが、実際には上から相手を奇襲したりするのにも役立つし、こういった場所では安全に天井を清掃することも出来る。
穴の淵は、落ちないように何重にも頑強な鉄柵が張り巡らされている。
中をのぞき込む。
まるで溶岩だ。其処に投げ込まれているのは、人間の死体である。服を剥がれ、腐敗防止用の薬剤を振りかけられた人間の死体。それが、補充兵の材料なのだ。
正確には、人間の体を構成している細胞という要素がそうらしい。一旦この融解液で、骨も残らずばらばらに分解して溶かし、それから上澄みを抽出して、補充兵を作成するのである。ここは溶体炉と呼ぶ施設。ただし、殆どの魔物は、そのおぞましさから地獄の釜と呼んでいる。
魔王がこの事を提案したとき、流石に驚く魔物も多かった。
最初、魔王が三千殺しの能力を使って幾つかの国で人間の町や村を全滅させ、その死体を北極の地下にある小規模な巣穴に魔物達が運び込み、補充兵を作成した。そしてある程度の軍勢がそろったところで、侵攻を開始したのだ。
人間など、人間を使って殺せば充分。
そう、好々爺である魔王は。普段の優しい穏やかな言動とはまるでかけ離れた憎悪と悪意を込めながら言ったものである。
あのとき、ヨーツレットは全身に寒気が走った。
そして、自分もこうやって作られたのだと思うと。忸怩たるものも覚えた。
此処は、まさに呼ばれるとおりの地獄の釜。
老若男女関係為しに死体を投げ込んでは、人間を殺すための兵隊を設計する。人間の思想に輪廻転生というものがあるが、それを最悪の形で再現したのがこれだと言っても良かった。
クライネスが気づいて、触手をわきわきとさせる。
「ヨーツレット元帥、それにレイレリア将軍も。 おいでならば、お声を掛けていただければ良かったものを」
「何、軽く視察に来ただけだ。 それで、どのような様子かな」
「見ての通り、釜は既に稼働を開始しています」
クライネスは紳士的な男だが、地獄の釜を見て嫌悪感を示さない。この辺りが、周囲から嫌われる要員の一つにもなっている。丁寧な努力で打ち解けようとしているのは買うが、根本的に何処かが歪んでいることを、皆感じ取っているのだろう。
魔物の中にも、この凄惨な有様を好まない者は多い。ヨーツレットも、人間に勝ちたいとは考えているが、出来ればこのような、人間がやっていることをそのまま真似するような非道は避けたいと思っていた。
一方、感覚が麻痺しているのか、この優れた知能を持つ参謀長をはじめとして、平然としている者もいる。不思議と、クライネスはそういった同類とは、あまり接触を持つ機会が無いようだった。
「補充兵が作成される様子を、確認していきますか」
「そうさせてもらおう」
レイレリアは気分が悪いのか、ずっと無言だ。自分の補充兵が作成されているから来ているとはいえ、あまり好みの光景では無いのだろう。
長いひしゃくを使って、上澄みを確認するクライネス。真っ赤な血色の液体は、強い異臭を放っている。
どう見えるかよく分からないが、クライネス的には充分な仕上がりらしい。
「ふむ、だいたい良さそうですかな」
「それは何よりだ」
「では、成形の課程を見ていただきましょう」
釜を見ると、一部に穴が開けられている。熟成された上澄みが流れ込む作りになっているのだ。
奥に行くと、更に地下に降りる階段が。まあ、配管の高さから言って、わざわざ液体を重力に逆らって上げるよりも、下ろす方が楽だろう。
ちょっと狭い階段を下りて、地下空間に。
其処は、さらなる地獄だった。
幾つかの奇怪な機械群がある。魔王が設計した成形装置だ。魔術文字の刻まれた地面に置かれていることから、魔力で動くものなのだろう。
暖炉のように見えるものや、煙突のように見える部分もある。中ではグオングオンと音がしていて、液体を攪拌したりしている様子が見て取れた。
「まず抽出した上澄みを、この人工子宮に入れて、魔術的に核を与えます。 この核をどうデザインするかで、完成する補充兵が変わってきます」
「高度な技術だな」
「魔王様が、二百年以上掛けて開発されたという話ですから」
そうなると、文字通り半生を費やした研究であったと言うことだ。
核の作り方についても聞いておく。
これは特に純度が高く抽出した上澄みに、幾つかの魔術を掛けていくことによって作成するという。
何でも生物には、どのように育つか決めている部分というものがあるらしい。それに人為的に手を加えることにより、成長を決めると言うことであった。よく分からないが、理論書を見せてもらって、何となく理解できた。
「ふむ、この核酸というのを操作するわけだな」
「はい。 しかしこれは暗号も同然で、魔王様が作り上げた術式でこうやって完成後の立体映像を見ながら、微調整をして行くことになります」
「ふむ……」
人工子宮の所に行く。
それは大木に見えたが、所々脈打っており、気味の悪い卵状の実がたくさんなっている。
あの一つ一つが、人工子宮だ。それにしてもこの木の巨大さはどうか。地上に出したら、伝説の世界樹のように見えるかも知れない。
「実は二日ほどで成熟します。 この巣穴だと、一日に、千五百ほどが生産可能です」
「なるほど、それで?」
「スタンプ、あの実を」
言われたままに、オーガが手を伸ばして、木に無数になっている実をもぐ。
そして皮を剥ぐと、中から膝を抱えた人間のような姿が出てきた。知っている。補充兵のオークだ。
魔物のオークとは似ても似つかない。虚ろな目のオークに、クライネスが武装せよと命令すると、いそいそと用意された鎧を着込み始めた。なるほど、生産してすぐに使い物になるというわけだ。
こういうのを見ると、戦略家としての血が騒ぐ。
人間は戦士として使い物になるまでに十年以上が掛かる。一回の繁殖も一年がかりで、生まれる子供も多くて二人か三人だ。
それに対して補充兵は、人間の死体さえ見繕えば、多少痛んでいてもすぐに作ることが出来る。
オークやゴブリン、コボルトもそうだし、大型の補充兵だってそうだ。
材料さえあれば、いくらでも作れる。これは非常に大きな意味を持っている。
クライネスが、注射器を取り出す。最近西の大陸で開発されたものだが、既に魔王軍では実用化に成功していた。
補充兵を触手でとらえると、注射をする。
「ん? それは何か」
「魔王様から提供されている補充兵を制御するための薬剤です。 作り方は知らされているのですが、解析は出来ていません」
「ブラックボックス化されている部分があるのだな」
「はい。 もっとも、魔王様が我らに何か仇なす事もありませんし、誰も問題視はしていませんが」
「……そう、だな」
心優しい魔王だが、人間のこととなるとまるで豹変したかのように邪悪な存在になる。このことに関しても、それは同じではないだろうか。そう、ふとヨーツレットは思ってしまった。
だが、魔王が魔物達を愛していることだけは、ヨーツレットも断言できる。
それには、ヨーツレットら上級の補充兵も含まれるはずだと、考えてもいる。魔王が嫌っているのは、あくまで人間なのだ。
「ねえ、クライネス将軍。 わたしの航空兵は?」
「ああ、もう量産に入っておりますよ。 そちらのがそうなります」
「どれどれ」
レイレリアが風船状の体をくるくる回して、興味津々の様子で奥へ向かう。
ヨーツレットも、念のためと思ってついて行った。
洞窟の地下空間は、ホールから分岐する形になっているので、また階段を一階上がって、別方向から降りなければならない。
其処には別種の人工子宮木があり、材料を注ぎ込まれていた。そして、作り上げられた補充兵が、別の作業用補充兵によって次々整備されている。
見た感触では、鳥の翼を持つ人間である。ただし頭部が丸ごと存在せず、首の辺りに巨大な目がついていた。手もものを持てるようにはなっておらず、それ自体が鋭い槍になっている。
足は鳥の足を思わせる、広がったものだ。樹上での休憩を想定している、ということだろうか。
食事をしなくても大丈夫なので、その辺りでの無理が無い辺りが美味しい。鳥は基本的にとても燃費が悪い生物で、如何にして飛ぶことと食事をすることを両立させるかで、どの種類も苦労しているのだ。
だがこれは違う。
飛んで、相手を殺す事だけを考えれば良いのである。
「基本的な武器は、両手についているクローです。 先端部分には毒を出す器官もついています」
「なるほど……」
「これは近接戦闘用の航空兵です。 こちらは敵の弓兵に対しての航空攻撃や、或いは哨戒任務を担当します」
そして、空中戦で小隊長の役割を果たす個体が紹介される。
それは巨大な風船の下に、六本の腕があるヒトデ状の物体がついている存在だった。風船状の体というとレイレリアに近いが、それよりもずっと小さい。
ヒトデ状の先端部分には、無数の魔術的な刻印が刻まれている。
「こちらが指揮官個体です。 数は近接戦闘用20に対して、1を配備する予定です」
「これは遠距離攻撃が専門?」
「流石ですレイレリア将軍。 これは近接戦闘用が護衛し、索敵した敵を直距離から魔術で攻撃する個体です。 攻撃は回転しながら行い、腕の数だけ連射できます。 最大で現状は6連射まで可能です」
一撃で人間の家屋を木っ端みじんに出来るくらいの火力があるという。それを6連射可能というわけだ。しかも、である。人間の死角である頭上から、それを実施できるというこの強み。
確かに、これは時間を掛けただけのことはある。
使い道も多い。海上での戦闘でも活躍する。人間の船なんか、これの集中砲火を浴びればひとたまりも無い。
攻城戦でも活躍できる。上空から降り注ぐ爆撃に、人間が抵抗するすべなどは無いだろう。
今、イドラジール王国の残党狩りが手こずっているが、それが終われば一気に北西部の小国群を制圧できる。その後、残る強敵は大陸中央部の遊牧民達と、東の幾つかの大国くらいである。それも三千殺しと、この航空軍を投入すれば。一気に蹂躙できるはずだ。
「一日辺りの生産量は?」
「千五百の内、二百ほどをこれに回すことが出来ます。 一個師団をそろえるのには、一月もあれば充分でしょう。 そして既に、一旅団分の戦力は先行で作成していますので、実戦投入はすぐにでも可能です」
「そうか、やっとわたしの航空師団が活躍できるんだ!」
くるくる回転して、明滅するレイレリア。凄く嬉しいらしい。
何だかかわいらしい反応だが、だからなんだという気もする。此処は軍隊なのだが。
「これで私も、魔王様の役に立てる! 嬉しいよ! ヨーツレット……元帥!」
「ああ、今後は更に味方の優位が加速することだろう」
はしゃぎすぎて自分を呼び捨てにしようとしたレイレリアにちょっとげんなりしたヨーツレットだが。
しかし、高揚は確かに感じていた。
1、新たなる生け贄
ジャドは血の臭いに嫌気が差して、一旦外に出た。既に顔など無い身だが、思わず天を仰いでしまう。
何をやっているのだろう、自分は。
何度も自問自答したが、答えは得られない。愛する双子のためだ。そう言い聞かせても、特にシルンには嫌われること疑いなかった。イミナは、どうなのだろう。自分の愛するあの氷の心を持つ娘は。理解してくれるだろうか。
既に、体は何も欲しない。
酒を飲んでも、まるで酔わない。
心が軋みを挙げているのが分かる。
ジェイムズは自分を盟友と呼ぶ。自分のいかれた研究に興味を示し、価値を見いだしたのがジャドだけだったからだろう。その孤独は分かる。だが、積み重ねている悪徳には、どうしても心が腐る。
しばらく、膝を抱えて座っていたのは。少しでも、心を落ち着かせるためかも知れない。
ふと、側に気配。
顔を上げると、じっとこっちを見ているのは。白いワンピースを着た、裸足の子供であった。
此処は王城の中、しかも研究所の敷地内だ。普通の子供などいるわけもない。
この子も、犠牲者の一人だった。
黒く長い髪は、腰の辺りまである。今は美少女とはとてもいえないが、年齢は十歳程度だろうし、そんなことは気にしなくても良いだろう。妙に大きい目は、将来が美人になる事を予感はさせる。
しかし残念だが。
この子が、まともな将来を得ることは、もう無いのだ。
切り刻もうとするジェイムズからどうにか助け出しはしたが、気が咎めていた。こんな子供を死刑囚として、狂気の研究所に放り込むこの国には呆れた。そして、嬉々として実験台にしたジェイムズにも。
何よりも。
必要だからと言う理由で、それを容認した自分自身にも、だ。
「ジャドさん? どうしたの?」
「御前こそどうした。 牢屋から逃げ出してきたのか」
「うん」
暗くてくさくて嫌いと、子供は言う。
プラムという名前のこの子供は、どうして死刑囚にされてしまったのだろうか。興味を感じたので、少し前に調べてみた。
結論は、異端であった。
エル教会は、この国と言わず、人類勢力のある三つの大陸全てに根を張っている宗教である。一神教で、その教義は南の大陸にある法王が決めている。問題なのは、たまに新しい学説を唱えようとすると、異端という烙印を押される事があることだ。
そしてその異端という烙印が一度押されると。後は、その異端を浄化するために、説を唱えた司祭だけでは無い。その司祭のいた地域全ての住民が審問に掛けられるのである。
審問などと言っても、実際には、公認された大量虐殺と言っても良い。最初から、法王の発言は絶対なのだ。そればかりか、人間の負の感情のガス抜きとして、これを使っている節さえもある。
女子供も片っ端から殺され売られ、財宝は全て略奪される。プラムもその時に両親を切り刻まれ、姉は目の前で強姦されて死んだそうである。そして本人は、売り物になりそうにないという事で、死刑囚にされた。理由はよく分からない。その時のことを、プラムは話そうとしないからだ。
鬼畜の極み、いや外道以下と言わざるを得ないが、別に珍しいことでも無い。エル教会がどれだけ腐敗しているか、何よりも集団ヒステリーが如何に恐ろしいか、ジャドはよく知っている。
現に北の大陸で、ジャドが双子に出会った事件が、そういった人間の業が発露した出来事に起因していたのだから。
隣に座ったプラムは、木の枝を持つと、機嫌良さそうに振り回し始める。木の枝には、淡い青の魔力がまとわりついていた。
どうもこれがこの子供の能力らしい。
棒状の武器を、誰よりも見事に扱えるのだ。長柄は無理のようだが、その気になれば木の枝で大木を両断することが出来る。
もっとも、連続で出来るわけでは無い。斬撃の内容次第では、しばらく身動きが出来なくなるようだ。
「ジャドさん、私、もう人間じゃ無いんでしょ?」
「ああ、そうだ。 俺と同じだ」
「じゃ、さ。 ジャドさんがすきな人たちの事、私も助けに行ったら駄目かな」
「馬鹿を言うな。 死ぬぞ」
ここにいたって、どうせ死ぬことはわかりきっている。今はジャドがかばっているが、いずれジェイムズが隙を見て切り刻んでしまうだろう。
この子供は、異端審問にあったとき、心が壊れた。
今では、まるで大人のような洞察力を見せる。子供らしさが全部壊れてしまって、多分合理的にしか考えられなくなっているのだろう。
本当だったら、今だって泣いていてもおかしくないはずだ。それなのにこの子は平然としている。家族との仲が悪かったような話も無いのに。
「でも、ここにいたらあの頭がおかしい人に、ばらばらにされちゃうんでしょ? 他に行く場所もないし」
「……俺が何とかする」
「いや、無理だよ多分」
子供は立ち上がると、埃を払う。
泣くことも忘れて。悲しむことも無くなり。多分、見かけよりも、心が一番人外の者となってしまっているだろうプラム。
これも、自分の罪か。しかし、まだ此処を離れるわけにはいかない。
最低でもある程度のノウハウを確立させ、そして何より、ジェイムズの暴走を間近で止める者が必要になる。
ジェイムズはこの子に対する仕打ちからも分かるように、心に制御装置がついていない。放っておいたらエル教会の上層部のクソ坊主どもと同様、どんなことでも平然としでかす事だろう。
もっともそれは、ジャドも同じだが。
信念のためとか勝利のためとか言おうが、あんな狂人に最悪の凶器を渡したのは、ジャドなのだから。
「お靴や服だけでもくれない? 後は自分で何とかするよ」
「どうしても行くつもりか?」
「うん。 ここにいるくらいだったら、魔物とでも戦ってた方がましだもん。 人間と戦うのはいやだけど、人間といるのもいやだ」
「そうか」
ジャドは王が投げよこした金貨の袋を出すと、中身をある程度握らせた。
西へ行く旅費と、服代くらいにはなるはずだ。金貨を上から下から眺めていたプラムは、特に感慨も無い様子で、そのまま柵に足を掛け、一気に飛び越えた。
足音が遠くに消えていく。素足だから足音など殆どしないだろうに、ジャドの耳は、感度があまりにも高くなってしまっていた。
地下へ続く階段を使い、研究所に戻る。
ジェイムズが、プラムが入れられていた牢をのぞき込んでいた。牢の鉄格子は、ものの見事にゆがめられ、内側からこじ開けられていた。
「素晴らしい! あんな何の変哲も無い子供が、此処までの力を発揮するか!」
「御前、これを喜ぶか」
「おお、盟友! 見るが良い、私の研究成果は素晴らしい! 元の研究成果よりも、更に性能が上がっていること間違い無しだ!」
それは同感だが。
しかし、この男、いずれ研究素材に殺されるだろうなと、ジャドは思った。何しろこんな時でも、自分の身の安全よりも、プラムが得た破壊力を喜んでしまっているのだから。ある意味、現実感が無い男なのだろう。
先に西へ向かわせたレオンは、そろそろ辿り着いているはずだ。もしあの子も辿り着ければ。双子は、かなり優勢に戦いを進められる筈である。
「他に成功例は?」
「我が盟友よ。 話してはいなかったが、他に幾例かは出始めている。 ただ、完全に成功した奴は、二つとも逃がしてしまったが、それは盟友の願い通りなのだろう?」
「まあ、そうだな」
「ならばいい。 私はあたまが見ての通りおかしいが、唯一の盟友である御前の言うことは聞きたいし、願いだって叶えたいと思っている」
意外な言葉を聞いた。このシリアルキラーに近い異常な男にも、そんな義理人情に近い考え方があったのか。
「さて、次の実験体を試すとするか。 今回のは健康な大男でな。 今までのデータを総合する限り、多分上手く行く! ひゃははははは」
やはり、ジェイムズはジェイムズか。
そう思うと、少しおかしくなった。これから行われる酸鼻な実験のことを思うと、楽しもうとでも考えなければ、やっていられないのかも知れなかった。
2、魔王の日常
報告書をまとめたグリルアーノが、魔王の前に跪く。
魔王は前線指揮所の玉座で、膝に毛布を掛けて、ミカンを食べながら話を聞いていた。側にはヨーツレットとクライネスもいる。ヨーツレットは前線から帰ってきたばかりであるが、特に疲れがたまっている様子も無かった。
「よって、おそらく我が部隊に打撃を与えたのは、最近目撃例が多くなってきた、銀髪の双子に間違いありません。 そしてこの双子ですが、どうも三千殺しに引っかかっていない節があります」
「ほう?」
実は少し前。グリルアーノの軍が打撃を受けた直前のことなのだが。
イドラジールにいる人間の中で、腕が立つ者上から三千人、という曖昧な条件で、三千殺しを発動しているのである。実際それで敵の砦が壊滅状態になるのも確認し、一気に勢力を広げることも出来た。
しかし丁度その日、補給部隊がこの双子によると思われる襲撃を受けて、大きな損害を出しているのだ。
つまり、双子は、三千殺しに引っかかっていない。
「実力的に言って、上から三千人程度に入らないはずがありません。 何かしらの理由で、この双子は三千殺しを回避したのです。 それが能動的か、そうではないかは別として、です」
「そうかそうか。 ふーむ、それは困ったのう」
魔王は腕組みすると、ミカンを食べる手を止めた。
側には、報告を聞くために戻ってきているクライネス将軍もいる。意見を聞きたいところだが、その前に少し考えたい。
三千殺しの能力は、絶対だ。
これに関しては、百年以上研究して作り出した術式なのだから、間違いない。そもそも術式という段階を一歩超えているものであり、一種の自然災害の発生能力なのである。人間が如何に術を使おうが、防御の壁を巡らせようが、防ぐことは絶対に出来ない。たとえば魔術を絶対に防ぐ力、という能力を持っている奴がいたとしても、人間である以上は確実に死ぬ。
そういう力なのだ。
しかし、それが通じていないとなると。可能性は、幾つかある。
「まず考えられる可能性としては、その双子が、三千殺しが発動した瞬間、イドラジールの外にいた、ということじゃが」
「あり得ません。 その日、攻撃を受けたのは、イドラジールのかなり奥まった場所ですので」
「ふむ、そうなると第二の可能性。 この二人の実力は、本人の実力以外の部分に起因するところが大きい。 たとえば、凄く強い武器などを持っている、などというのがこれに該当する」
「なるほど……」
人間の歴史には、何度か一軍に匹敵するという破壊力を持つ道具類が出てきている。勿論殆どの場合にはそれほどの破壊力は無いのだろうが、例外はある。国宝として秘蔵されている品の幾つかには、偶然であったり必然であったり、とてつもない破壊力を手にした武具が存在しているのも事実だ。一軍を滅ぼすまでには至らないにしても、である。
ヨーツレットにこのあいだ与えた神剣オーバーサンなどもその一つである。確かに破壊力はずば抜けていて、とても人間が使うものとは思えなかった。
その類いを、その双子が持っているのだとしたら。
「確かに、その可能性があります」
「後最後に、考えたくは無いが。 その双子が、人間では無いと言う可能性もあるのう」
ミカンを口に入れる。
もふもふと食べている内に、その可能性は出来るだけ排除したいと、魔王は思った。だがしかし、どうも引っかかるのである。
最近、魔物の間にも、現在実施しているローラー作戦はやり過ぎでは無いかという声が上がっていることを、魔王は知っている。大量虐殺は人間の悪い見本であり、ある程度の領土的成果を上げた現在、もう人間との講和を考えても良いのでは無いか、というのである。
浅はかで悲しくなる。
人間が、自分と対等の存在など、認めるはずが無い。人間にとって、他の知的生命体など、搾取するか、滅ぼすか、奴隷化するか、それ以外の対象ではあり得ないのである。純心な魔物達はそれを知らない。だから、魔王がそれを知らしめなければならない。
魔王は、魔物達に対しては暴君であってはならない。
だから何度も穏健派の代表達を集めて、自分が見てきた人間の真の姿を、彼らにも見せた。人間がどれだけの事をしてきたかは、映像として残してある。だから、彼らを納得させるのも容易だった。
だが、それでも。
まだまだ甘い考えを持つ魔物は尽きなかった。
そんな魔物達の中に、或いは人間に味方する者が出たのでは無いのか。そんな考えが浮かんでしまう。
「陛下」
「クライネス将軍、如何したか」
「はい。 その時の戦いにて、襲撃者を見た補充兵が生き残っております。 それらから情報を集めるのが良いかと思いますが」
「グリルアーノ将軍は、やっていないのかのう」
恐れながらと、グリルアーノは言う。
「集めた情報からは、人間にしか見えなかったという報告だけしかありません。 具体的な姿をモニターする事は出来ますが」
「それは既にこちらでも押さえています。 グリルアーノ将軍、私が知りたいのは、途中の戦術展開や、敵が何をしゃべったか、というようなことです」
「分かった。 すぐに調べてまとめさせる」
下級の補充兵は嘘をつけるように出来ていない。しかも、覚えたことは忘れないようにも作ってある。
クライネスの判断は最もだった。
知恵多きクライネスは向き直ると、論理的に喋り始める。
「陛下、今私が懸念している可能性は二つあります。 一つは、魔物の一部、穏健派と呼ばれる者達が、人間に荷担しているのでは無いか、ということです。 そしてもう一つなのですが、人間が、他の人間に何らかの方法で魔物の力を持たせることを始めたのでは無いのでしょうか。 伝説的な武器を持っている一般人、という可能性も確かに否定できません。 しかしざっと報告を見る限り、どうもその可能性は低いように思えるのです」
「人間に、魔物の力を?」
「そうです」
魔物の中には、人間と混血可能な連中も多い。エルフ族などはその代表だ。
確かに、それも可能であるかも知れない。
元々魔王にしてからが、おぞましいことではあるが、元人間なのだ。人間が魔物に近い存在になったり、人間を止めることそのものは、不可能だとは思えない。
しかし、それをほいほいとやれるとは、とても思えはしないのだ。
「もしそれをやるとすると、百人に一人も成功はしないだろうな。 おぞましき業を積むものよ、人間は」
「それは同感です。 しかし、今はある程度現実的な対処を考える必要があるかと思います、陛下」
いつの間にか、ミカンを食べる手は、完全に止まっていた。
少し休憩がしたいところである。ちょっと頭を使いすぎた。
しかし、此処でハッキリさせておかないと、後が面倒くさいことになる。今でもその双子とやらは、味方に攻撃をしているかも知れないからだ。
「対処策としては、どのようなものがあるのかな、クライネス将軍」
「相手は人間では無い、と考えてはどうでしょうか」
さらりと、クライネスは言う。
人間にしては最悪の侮辱になる言葉だろうが、勿論今使われた意味は違っている。
「内応を誘え、ということか」
「はい。 はっきり言いますが、もしも魔物の力を体に入れた場合、爆発的な力は得るでしょうが、その代わり人間では無くなっていきます。 異形と言って良い存在になるでしょう」
「そうなれば、戦っている間は人間にもてはやされたとしても、戦いが終わればどうなるか、ということじゃな」
「ご明察にございます」
良かろう。たとえば、その圧倒的な力を得た魔物人間が、首尾良く魔王を打ち倒したとする。
だがその後で、人間が彼らに報いるわけが無い。
人間の昔話は、よく「めでたしめでたし」という形で幕を閉じる。昔話の主人公のその後を書くことはまず無い。
当然の話である。冒険譚であればあるほど、その主人公は周囲の嫉妬を受けて、最終的には地獄に叩き落とされるからだ。
魔王に勝ったとしても、そいつらに待っているのは、滅びの命運だけだ。
それを理解させることが出来れば、或いは。
魔物の血を引いている人間となると、おそらく相当いびつな存在になる。エルフ族のように人間に近い存在になれればまだいいが、そうでない場合は、生殖能力も無いような極めておかしな種族になり果てる可能性が高い。
そうなれば、なおさらだ。
人間は、肌の違いやら髪の色やら思想やらで、容易に大量虐殺を行う種族である。そんな状態になり果てた相手を、同胞として認めるわけが無い。勿論、ごくごく一部には、例外もいるだろう。
だが、その例外ごと、迫害されるのは火を見るよりも明らかであった。
「分かった。 状況を見極め、クライネス将軍の読みが当たりそうなら説得に当たるようにせよ」
「御意」
「さて、儂は少し疲れた。 ちょっと昼寝したいのう」
「お疲れの所、申し訳ございません。 基本的な戦略は示していただきましたので、後は我らで会議をして方針を決めておきまする」
ヨーツレットが気を利かせてくれたので、ありがたく受けて下がる。玉座の間はだいぶ整理されてきて、多くの侍臣達が作業できるようになりつつあった。
軽く昼寝してから、護衛を連れて外に。
此処は前線指揮所だから、城下町の類は無い。人類側の反撃があった場合、此処まで敵兵が来る可能性があるからだ。
今の時点では、各地に派遣している偵察要員から、これといった反撃の情報は来ていない。勿論反撃を画策している大国はあるのだろうが、まだ目だった脅威にはなり得ないのだ。
城を出ると、岩山ばかりの光景が目に飛び込んできた。
遙か向こうまで、荒野と岩山が広がっている。地質を調べたところ、此処はほんの数百年前まで、緑豊かな沃野だった。山にも緑が溢れていた。
だが人間の節操が無い潅漑作業と燃料を目的の木々の伐採により、緑は消え果てた。
今では塩に覆われた荒野と、緑無き山々が延々と連なるばかりである。
実は、このように栄養が吸い尽くされた土地は、此処だけでは無い。フォルドワード大陸の彼方此方にも、農業のやり過ぎで栄養を使い果たし、枯れ果ててしまった土地はいくつもある。
そういった場所の再生作業も魔物達の一部が請け負っているが、上手く行っていないのが現状だ。というよりも、駄目になった土地が多すぎるのである。中には魔術的に汚染されてしまっていたり、おぞましい薬剤にて不毛の地になり果てた場所さえあった。敵対国に豊かな土地を渡さないようにするという目的で、数百年分の未来をふいにしたのである。
人間への憎悪は、果てしなく沸く。
だが、今は、重要なのはそこでは無い。思考を切り替える。
「ふう、冷えるのう」
「魔王様、お召し物を」
「うむ」
エルフの護衛戦士が、コートを一枚多く掛けてくれた。羊の毛を編んだコートであり、じんわりと暖かい。
彼らエルフ族は森と共にある種族だ。このような光景は、見ていて悲しい以上に、怒りを覚えるのだろうか。そう思ったが、護衛達を見ると、むしろ悲しそうだった。いたたまれなくなる。
「森の民たるそなた達の技術で、どうじゃ。 この荒野を再生できるか」
「此処まで大地の力を吸い尽くされてしまうと、効果的な植林から始めて、再生まで数百年は掛かってしまいます。 此処までひどい状態になると、まずは土を作るところから始めませんと」
「そうか、数百年」
「ただし、それは現状の技術では、の話です。 魔王様の力と、側近の方々の英知があれば、ぐっと短縮できるだろうと、私達は信じています」
買いかぶってくれるのは嬉しいが、魔王にも出来ることと出来ないことがある。魔術には習熟しているが、それだって万能では無い。
エルフ族は魔術にも長けているが、何でもかんでも知っている訳では無い。ただ、人間に種族ごと嬲り尽くされて、絶滅寸前まで追いやられた彼らが、魔王に期待してくれるのは嬉しい。彼らが如何に迫害され、蹂躙されたか知っている魔王としても、期待には是非応えたい。
「決めた。 この辺りを再生させたら、そなた達に提供しよう」
「おお、それは」
「そなた達の故郷の森は、南の大陸だという話だな。 それを取り戻すのには、時間がまだだいぶ掛かろう。 儂の力でどうにかこの辺りの森を再生させて、そなた達の第二の故郷としよう」
それが、魔王としてのつとめだ。
エルフの戦士達の中には、涙を流している者もいる。この一面の荒野を再生させるのは難事だが、何とかしてみせる価値はある。
森に住む魔物は他にも多い。
此処で、植林の技術を完成させることに、意味は大いにあるはずであった。
一旦自室に戻る。そして、護衛達にも外に出てもらって、安楽椅子に揺られながら意識を集中。
徐々に周囲の音が消えてくる。
元から、集中して勉学するのは得意だった。人間の頃に身につけたスキルだが、これだけは気に入っている。やがて、周囲の音が完全に消える。目を見開くと。思考の集中の結果、周囲は薄ぼんやりとしか見えない状態になっていた。
人間を止めたときに、魔王は幾つかの能力を得た。それから修練を重ねていくつも能力を増やしてきたが、今回使うのは、最初に得た能力の一つである。
それは、記憶の蓄積だ。
人間だったころも、大量の蔵書を、魔王は所有していた。知恵の意味を理解しない家族からはゴミ扱いされていた本の山を、今でも魔王は全て所有している。ただし、記憶という形で、だが。
それらの中から、情報を検索する。
しばらく、思索に集中。様々な情報を、高速で検索する。
結論として、あまり現実的な方法は無かった。だが、調べてみただけでも意味はある。そう信じて、魔王は次へ策を進めた。
続いて、方法を切り替えてみる。思考の並列稼働だ。
幾つかの方法を同時に検索しながら、やるべき事と、可能性の高低を検証していく。まずやるべきは、土壌からの塩分の除去だ。これには幾つか方法がある。元々水はけが悪い土地に水を撒きすぎて、土地に大量の塩が含まれてしまっているのだ。栄養を単純に土地に与えても、すぐに土が豊かになるわけでは無い。
これは、幾つかの術式で薬剤を生成することでどうにかなる。
だが、軍政の傾向が強い現状、まだ難しいと言わざるを得ない。フォルドワードでも防衛計画をまず前において、そこから出来るところのインフラを整備している状況なのだ。牧歌的な生活を謳歌している民もいるが、まだ荒れ地の回復にまで手を割けていないのが実情だ。
とりあえず、塩の除去。これを行う方法については、皆で会議でも行うしか無いだろう。テストケースとして、この土地を利用するという手もあるが、それにはまずイドラジールを陥落させないとならない。更に南には幾つかの小国もあり、これらも滅ぼしておいた方が良いだろう。
次。
痩せきった土地の回復だ。
これには休作作物が効果的だろう。痩せた土地でもたくましく育つ草の類いであり、これなら記憶倉庫の中から幾つか引っ張り出すことが出来る。また、大量に種を得るのも難しくない。
土地を回復した後は、植林である。
植林そのものは、エルフ族にやらせれば良い。植林だけでは駄目で、動物もたくさん入れなければならないのだが、こちらは数のバランスを取りながら長期的にやっていく必要があるだろう。
幾つか、課題もある。
まず安全圏の確保が最大の課題。それから、エルフ族が元々繁殖力がとても弱く、生物として貧弱である事が問題である。北極の地下で滅びかけていたエルフ族は、まだ打撃から回復するにはほど遠い。一番若い世代には子供も生まれ始めているが、個体数が四桁に乗るまで、後百年は必要だという話さえあった。
禁じ手を使うべきだ。
そう、魔王は判断した。
元々補充兵は、その禁じ手の一種だ。人間も似たようなことをやってきている以上、手段を選ぶ必要は無い。更に言えば、補充「兵」だけではなく、もっと広範囲に活用しようと前々から思惑はあったのだ。
思考を停止。
ゆっくり、周囲に色と音が戻ってくる。
手を叩くと、護衛の戦士達が入ってきた。
「ああ、魔王様。 お汗が」
「うむ、ちょっと疲れたでな。 おミカンをもらえるかな」
「すぐに用意を」
護衛兵の長である年かさのエルフ戦士が周囲に命じ、かごごとミカンが持ってこられた。額の汗を拭いてもらうと、一段落である。
「ヨーツレット元帥は、まだ城にいるかな」
「先ほど、会議が終了したようです。 クライネス将軍とグリルアーノ将軍は、イドラジールにとどめを刺すべく出て行ったようですが、まだヨーツレット元帥はお残りになっておられるはずです」
「そうかそうか」
ちょっと今のは疲れた。今でも戦うことくらいは大丈夫だが、頭の方は体よりもずっとがたが来ている。
人間を止めたとき、魔王は七十を少し超えていた。元々体が頑丈だったわけでもなく、家族からは遺産が入らないから早く死んで欲しいとか言われていた。まあ、思い出したくも無い過去だ。その年のまま不老不死になったので、どうしても体中の彼方此方に無理な負担が掛かっている。肉体を若返らせようというような気は起こらないし、今更若造の頃の肉体に興味は無い。
ミカンを幾つか食べて、脳に糖分を補給。護衛戦士が気を利かせてくれたのか、部屋を出てくれた。すると丁度ヨーツレットが術式を展開したらしく、眼前に映像を映す魔法の球体が出現する。護衛のエルフ戦士達には外に出てもらい、話をする。
「陛下、如何なさいましたか」
「うむ、この城の近辺に植林をしようと思っていてな」
「良いお考えにございます。 しかし、この国を陥落させてからの方が現実的かと思いますが」
それは分かっている。
ただ、エルフ族達は、百年以上は森が戻らないと悲観しているのだ。それを何とかしてやりたいのである。
「陛下はお優しゅうございますな」
「儂のことはいいのだ。 それで、補充兵として、幾つかこの森を作成するインフラ整備用の個体を作っておきたい。 巣穴に余裕はあるかな」
「現時点では、戦況は圧倒的優勢ですので、生産が追いつかないということはありませんが、しかし今後は人間が反撃に出る可能性もあります。 本土に待機している二十万ほどの予備戦力の内、二万か三万くらいはこちらに搬送し、本土でも補充兵の生産量を増やす必要があるかと。 いざというときに備え、巣穴を増やす必要もあるかも知れません」
「ふむ、そうか」
戦略上の問題である。最上層部になってくるが、今まだ補充兵が足りないと、懸念を示している幹部が何名かいる。ヨーツレットはその筆頭だ。
確かに現在は圧倒的に優勢に戦いを進めているが、もしも三千殺しに対する抵抗能力を人間が身につけた場合、これまでのように簡単には勝てない。補充兵もそろそろバージョンアップしないと、敵に対抗戦術を身につけられる可能性もある。
憎めど、侮るな。
それは、自分だけでは無い。部下達にも課していることだ。侮らず、最後まで徹底的に叩き潰す。
そうしないと、勝てない可能性が高い。
「よろしい。 クライネス将軍と相談し、良きようにせよ」
「分かりました。 それで陛下。 二つほど、気になることが出てきています」
先ほど言わなかったと言うことは、新しく出てきた懸案か。或いは、先ほどより小規模の事か。
「一つは、先ほどグリルアーノ将軍が言及していた双子ですが、どうも人員が追加された模様です。 エル教の司祭らしい男が、一緒に行動しているのを確認しました」
「ふむ、なるほど。 戦力を見極める必要があるのう」
「今後物量で追い詰める作戦をとり、ここぞという所に上級の補充兵を投入いたしますので、それでおそらくは片がつくでしょう」
楽観的にも思えるが、しかし上級の補充兵の戦力から考えるに、人間に毛が生えた程度の実力では対抗できない。客観的に見ても、ヨーツレットの発言は正しいといえる。
もう一つは、とわざとヨーツレットは言葉を切った。
この優秀な元帥は、しゃべり方などを工夫することで、相手に印象を強く抱かせる技を持っている。
些細な技だが、結構優れた技術だ。
「どうやら、国境線付近に、我が軍に抵抗する勢力がいる模様です。 しかも、イドラジールの国境線をまたぎながら行動しているようです。 実戦戦力は五百程度ですが、背後にはかなり大がかりな組織が潜んでいる模様です」
「ふむ、三千殺しの特性に、一部ながら気づいたようじゃのう」
「御意」
「分かった。 では、早速試してみるか」
今日はまだ力を使っていないし、クライネスも特に指定は無いと言ってきている。ならば、五月蠅い蠅を今のうちに潰しておくのも良いだろう。
地図を広げ、その勢力が活動している地域を確認。
意識を集中して、能力を発動した。
「この地域にいて、儂の邪魔になり得る存在、上から三千人。 死ね」
指を鳴らす。
同時に、三千人の命が消し飛んだ。
3、空からの脅威
イドラジール王国東端にある要塞フォーマン砦は、既に明日をも知れぬ運命のただ中にいた。
元々東にいる遊牧民への備えとして作られた砦である。大国であるイドラジールも、剽悍な騎馬民族の襲撃には何度となく悩まされ続けており、そのため滑稽なほど強固な城を作り上げたのだ。
騎馬民族の侵入を防ぐために、平原に蓋をするように存在している城塞。
だが今は。騎馬民族では無く、それどころか人間でさえない者達に、十重二十重と取り囲まれていた。
城塞の上を歩いていた騎士ベヘトは、舌打ちする。
城壁に刻まれていた防御用の魔術刻印が、相当弱っている。既にこの城塞に逃げ込んでくる兵も民もいなかった。
既に、この国は、此処しか残っていないのだろうと、容易に見当がつく。
大陸北部最強の国家としてならしたイドラジールの末路がこれだ。思わず歯ぎしりするベヘトの視界の先には、地平を埋め尽くす敵の大軍勢がいた。
ざっと二十万と、既に試算は出ている。
この凄まじさ、百年以上前に騎馬民族の英雄王が大挙して攻め寄せたとき以来では無いだろうか。
鉄兜を被り直す。腰の剣は、敵を切りすぎてもはや役に立ちそうも無いから、残り少ないハルバードでずっと戦っていた。昨日も大規模な攻撃があり、辛くも退けたが、既に城内で戦える兵士は殆どいなかった。
「籠城など無意味だ。 どうにかして、脱出させるしかあるまい」
そう呟くベヘトだが。上層部は既にクズのような将しか残っていない。責任感のある者、有能な者、皆不可解な死を遂げた。残りカスが必死になって逃げ惑い、ついに逃げ込んだのが、この砦なのだ。
民間人およそ三万と、兵一万八千。
それが、大陸北部最強だったイドラジールの、現有人材だった。
しかも、わずか一月ほどの間に、この事態になったのである。まるで何かたちが悪い夢でも見ているかのような有様であった。
指揮官は毎日のように酒を飲んで酔っ払っていたり、或いは無念の声を上げながら自害していた。絶望感が、彼らを死と狂気に駆り立てていた。
要領の良い者は、敗色濃厚となった時点でよその国に逃げ込んでいる。その中には、民に義務とやらを強いて死地に送り込んだりした貴族や、神に祈り災厄を避けるとか吹いていたエル教会の坊主どもも多く含まれていた。
要領が悪かったり、足が悪かったり、或いは逃げ遅れたり。
そういった者ばかりが、この要塞にいる。
退路は、かろうじてある。だが、既にどうやら魔物らしい影が空にいる。毎日少しずつ山を通して逃がしているのだが、それも一体どれだけが逃げ切れていることか。
山だらけの大陸北部。
其処にある幾つかの肥沃な平原は、昔から人間達にとって争いの的になってきた。それらをおさえ、ある程度の版図を築き挙げたのがイドラジール王国である。大陸中央部から西部にかけて覇を唱えたイラニル帝国とも互角に渡り合った歴戦の国だ。だが最近は西部の耕作地が枯れ果てるのに合わせて少しずつ消耗し始めていた。
そこへ、この大侵攻である。
最初の数日は、まだ戦えていた。各地から集めてきた軍勢を総動員して、敵を押し戻しさえしたのだ。
だが国王、歴戦の名将達、それに何より主要な文官や有能な貴族達が一夜にして怪死を遂げると、後は坂を転がり落ちるかのようだった。
もうこの国は駄目だ。そうベヘトは思っている。
だがしかし、敵に一矢は報いたい。それに、残っている民間人だけでも助けたい。
残念ながら、相手は交渉に応じそうもない。使者を送ってみたが、敵陣に近づくだけで容赦なく攻撃され、その場で殺されるか、すぐに逃げ戻るばかりだった。
兵士が呼びに来た。嘆息すると、城壁を内側に降りて、建屋の一つに。
入ると、数名の貴族が、青ざめた顔を集めていた。
「騎士ベヘト、参上しました」
「何だ、平騎士では無いか」
「そうですが、何か?」
貴族様に、やる気無く応える。
現在ベヘトは三十七歳。目だった武勲にも縁が無い、それほど腕が立つわけでも無い、平均的な騎士だ。
騎士だと言うからには、一応領地も持っているが、田舎も田舎、それも十戸程度という有様である。武芸も拙い上に人脈も無い。だから、出世にも、全く今まで縁が無かった。
「今は、貴様しか指揮官がいないのか」
「知っての通り、軍は指揮官が根こそぎ怪死を遂げましたので。 騎士達も、優秀な者は殆ど同じ運命をたどっております。 で、私のような三流だけが生きているというわけです」
一応生きている指揮官もいるが、既に廃人同然である。更に言えば、一万八千の兵は、殆どがヒラという異常事態だ。
大隊長以上の指揮官の殆どは、皆戦闘開始初期に謎の怪死を遂げてしまった。だから、戦闘でもろくに動けない。各地で兵士達は必死に戦ったが、もろく壊滅した。
そして、今である。
ちなみに、貴族も同じ事だ。今ここにいるのは、最下級の貴族ばかり。騎士よりはまし、というような連中である。
「お、おまえ、どうすればいい」
「といいますと」
「そ、その、敵の総攻撃をどうしのぐ。 それに、我らにはもう王もいない」
「誰かがなろうにも、王族との血統も、そればかりか門地さえも無い」
おろおろするばかりの貴族共に、ため息が出た。
要するに、責任を押しつけたいというわけだ。
「逃げなさい。 はっきり言いますが、少しでも非戦闘要員は少ない方が良い」
「非戦闘要員、だと」
「あなた方が指揮官としての訓練を積んでいるというのなら話は別です。 しかしはっきり言って、あなた達は敵にも放置されたほどの三流貴族です」
「き、貴様っ!」
貴族の一人が立ち上がるが、視線で射すくめると黙り込んだ。一応実戦を経験しているベヘトである。こんな、老年まで惰眠をむさぼり続けたような連中、ひと睨みで制圧できる。
「この国はもう終わりです。 本当なら、この要塞も放棄して、さっさと逃げるべきなのです。 しかし、外の大軍が、それを許すわけもありません。 だから、此処にとどまっているだけです」
「な、ならば逃げられるのなら、逃げても良いのか」
「山の空は、既に魔物の監視下にあります。 それでも逃げ切れると思うのなら」
実際、逃げるのに成功した奴もいるはずだ。
だがベヘトは、それは半分もいないだろうと踏んでいた。確証は無いが、その予想は当たっているはずだ。
「いっそ、今から逃げるとしますか? 今まで聞いた話によると、魔王軍はどうやら一つずつ国を徹底的に攻撃して滅ぼしているようですからな。 ここから逃げ延びれば、当座はしのげる可能性が高いですよ」
「お、おお、そうだな」
貴殿はどうするとは、間違ってもこの老貴族達は聞いてこない。そういう環境に育ったというのが一番大きいのだろう。
勿論最後まで残るつもりだ。
国など関係ない。ここにいる非戦闘員は、いずれもが弱い者達ばかりである。こういう例外もいるが、それ以外はみんなそうだ。
だから、少しでも時間を稼がなければならなかった。
「で、それでだ。 逃げる計画は」
「分かりました。 私がたてておきます」
「頼むぞ」
貴族達の懇願の視線を受けながら、退出。
城壁に上がる。兵士達には負傷者も多く、やる気が無い姿が目だった。厭世感とでもいうのだろうか。無理も無い話である。
国中を蹂躙し尽くした敵の大軍勢が集結していると言うことは、もう此処しか拠点が残っていないと、誰の目にも明らかだからだ。しかも敵は増える様子こそあれど、減るようにはとても見えない。
絶望するのも当然だ。
ベヘトはどうかというと、まあ仕方が無いことだと思っている。此処一月の戦いは、負け戦こそあれど勝ったことは一度も無い。それに、勝ち戦に参加したときも、敵の首をたくさん挙げたことなど一度も無かった。
人生そのものが負け戦と言っても良いのだ。何を今更、勝ち負けにこだわることがあるだろうか。
敵は動く様子が無い。
難民を見に行く。怪我をして動けない者や、もう座り込んで死を待つばかりの老人も多い。
味方の兵士は一万八千。
敵の猛攻を支えるのに三千、いや五千は必要だろう。国境さえ抜けてしまえば敵は多分止まる。其処までどうにか逃げ切れれば。
しかし、決死隊などを募ったところで、どれだけの兵士がやる気を出すか。
護衛の兵士達も、敵を見てどれだけ踏みとどまれるか。
本来こういうときにこそ、貴族が皆を指導してやらなければならない。だが、今残っている連中では、それも無理だ。
大きくため息をつくと、兵士達をできる限り集める。
殆どがヒラばかりの兵士達が、城壁の上や下に集まった。
「騎士殿、如何なさいましたか」
「これから逃げるぞ。 この城はもう駄目だし、逃げ込んでくる奴ももういない。 周辺国の援軍も期待できないから、逃げるしか無い」
「しかし、逃げると言っても、どこに」
「国境線を越えろ。 そうすると、敵は一旦足を止める。 既に証明されている」
嘘だ。経験則でしか無い。
実際、今まで逃げ回り続けて、此処に辿り着いた者の話によると、国境を越えて追ってきたこともあったという。
だが、今敵は此処に攻略軍の殆どを集中させているはずで、追撃が過ぎると陣形が伸びきるだろう。更に言えば、東の国境を越えれば、あと少しで遊牧の民の国々だ。今までの状況から、彼らも何が起こっているかは理解しているだろう。
とにかく、今は生き残らなければならなかった。それには希望がいる。だから、誇張も必要だ。
「強い奴も偉い奴もみんな死んだ。 だが俺たちは生きてる。 だから、生き続けなければならん」
「し、しかし」
「生き残って、魔王軍について他の国の連中に知らせろ。 見聞きしたことは何でも良いから、だ。 そうすれば、少しは次の戦いはましになるだろう。 そうやって情報を積み重ねていけば、いつかは勝てる日が来るはずだ」
そんな保証はどこにも無い。
だが、少しでもましな方向へ事態を動かすには、他に方法も無かった。
兵士達が逃げ出す準備を始める。敵には筒抜けだろう。当然すぐに敵は動き出すはずだ。決死隊を、募ってみる。
案の定、手を挙げる兵士は、数えるほどしかいなかった。
これでは、時間を稼ぐことも出来そうに無い。なら、次善の策を採るしか無いだろう。
「じゃあ、仕方が無い。 燃えそうなものを集めろ」
首を伸ばして敵陣の様子を見ていたグリルアーノは気づく。急に、敵の動きが慌ただしくなってきた。
「ほう。 どう見る」
「これ以上の抵抗は無理だと判断して、逃げるつもりでしょう」
「同感です」
グリルアーノにつけられている参謀達、それに師団長達も、全員が意見を同じくした。他の軍団長の話も聞きたいところだが、今最前線にいるのはグリルアーノだ。これは別に魔王に評価されたからでは無く、順番から、である。
ならば、判断する権利はグリルアーノにある。
「攻撃はかまわないのですが、レイレリア将軍の航空部隊を活用しては如何でしょうか」
「……」
師団長の一人が、そんな余計なことを言った。
この師団長は、補充兵では無い。義勇兵としては最古参の一人であり、年齢はグリルアーノよりも上だ。
種族としてはウェアウルフとなる。満月を見ると狼になる人間、と思われがちだが、それは実際には違う。実際の姿は、現在のような狼である。月から直接魔力を受けると、人間の姿を維持できなくなる、というのが正しい。
白い毛並みを持つ大きな狼であるこの師団長は、フォックスという。経験と言い識見と言い、師団長の中でも上位に入る存在である。グリルアーノも、おいそれとは扱えない。だから余計なことを言うと思いながらも、むげには出来ない。
そして何より、魔王に釘を刺されている。安易に最前線には出ないように、と。ならば、従うしか無い。
荒々しいグリルアーノだが、魔王のことは尊敬しているし、大好きでもあるのだ。
同格である軍団長レイレリアの力を借りるのは、はっきりいって恥ずかしい事ではあった。だが、魔王は前々から言っているのだ。皆で仲良くするように、と。
そう言われてしまうと、グリルアーノは弱い。
「他の師団長、意見は」
「フォックス師団長に賛成です」
その場で、反対意見は出なかった。白銀の毛並みを持つフォックスは、月を見上げるようにして、グリルアーノを見つめる。
「今は、少しでも航空部隊の実戦での戦力を確認しておくべきです。 我が一族は、人間の中に潜り込み、最後の最後まで抵抗を続けました。 だから知っている。 奴らを侮るのは危険すぎる。 とにかく、相手が反撃できないうちに、徹底的に叩き潰しておく事が、最上の策です。 そのためには、仲間内の下らぬ反発など捨てるべきです」
「そう、だな。 我らドラゴン族でも、そなた達ウェアウルフ族の勇猛さは認めていたし、その知略に敬意を払っていた。 それに、何よりだ。 魔王陛下は不和を望んでおられぬ」
「ならば、為すべき事は決まっておりましょう」
頷く。
グリルアーノは、足が速い部下に命じた。
「レイレリア将軍に伝達。 虎の子の航空部隊、今こそ活用すべし」
これで役に立たなかったら、クライネスにどんな罵声を浴びせてやろうか。
そう、少し意地悪く、グリルアーノは思った。
慌ただしく撤退の準備を始める騎士ベヘトは、気づく。少しばかり、決断が遅かったと言うことに。
兵士達が、恐怖に声を上擦らせた。
「な、なんだありゃあっ!」
空に、黒い点が。
夜闇の星空に、星を覆う黒い点が、ぽつぽつと見え始める。それは、やがて雲霞の如き数となる。
ざっと見て、数千はいる。
どうやら、ついに魔王軍とやらは、空までも味方につけたらしかった。
「準備はもういい! 全員逃げろ! 国境線まで走れ!」
作業には、一人いれば充分である。
兵士達が逃げ始める。先に避難を始めさせていた民間人が、どれだけ守れるか。騎士としては三流だが、それでも。ベヘトは、自分の仕事に誇りを持っていた。
空に無数に浮かぶ風船のような姿が見え始める。
それが、回転を始めたとき、ベヘトは来ると悟った。
次の瞬間。
魔術刻印によって防御力を極限まで強化された城壁に、無数の光の弾丸が降り注いだ。あの高高度から、術式による攻撃を行うことが出来るというのか。しかも、回転しつつ、凄まじい連射をしている。
城壁の一部が、派手に吹き飛ぶ。
魔術刻印が消し飛び、城を守っていた防御が消え去った。わずか、十拍程度の間の出来事だ。
敵が陣を変える。今、攻撃を終えた部隊が下がり、代わりに別が降りてくる。
そして、第二射が行われた。
城塞の尖塔が吹っ飛び、大量の石埃をまき散らしながら落ちてくる。多数の兵士が巻き込まれているのが見えた。城壁が水を掛けられた砂山のように崩れていく。爆炎。どうやら、残る必要もなさそうだった。
城が、彼方此方から、一斉に火を噴いた。
逃げ延びろ。
今の敵の攻撃を、一人でも多くの人間に伝えろ。
咳き込みながら、ベヘトは呟く。今見ただけでも、敵の攻撃性能は凄まじいが、弱点がある。多分長時間の戦闘は出来ない。連射した後に、体を冷やすか、魔力を充填するか、或いはその両方か。とにかく「ため」が必要だと言うことだ。
火の回りが早い。逃げ道はもう無い。
魔物達も、流石にいきなり火を噴いた城に、唖然としているようだ。もはや魔術による防御は意味をなさない。数による暴力の前には。
だったら、数でも押し切れないものがいい。つまり、自然の脅威を味方につけるしか無い。簡単な結論であった。
さあ、どうやって死のうか。火だるまになるのは嫌だ。この炎の中、勇敢に突入してくる敵はいないか。多分手も無くひねり殺されるだろうが、その方が良い。ボンクラのまま生きるより、せめて英雄になりたい。一瞬だけでも。
不意に、炎が途切れる。
ふわりと、高いところから誰かが飛び降りてきた。
「やっと来たか」
「勘違いしているようだが、私はおまえの敵では無い」
剣を構えた。視線の先にいるのは、コートで体を隠した相手だ。多分一見したところ、人間、それも妙齢の女だろう。声は低く押し殺しているが、何ともいえない暗く沈んだ妖艶さを湛えている。
多分、本人は理解していないことであろうが。
「敵は進軍を止めた。 逃げる好機だ」
「気が進まない」
「おまえが、四万以上の人間を逃がすことに成功したのだ。 それをどうして誇らない」
俺は三流の、万年下っ端騎士だ。
そう静かに言い返すが、女は感心したようには見えなかった。
「無駄に死ぬな。 おまえは、おまえが思っているよりもずっと立派な騎士だ」
「褒めてくれるのはありがたいが、もう俺には行き場も無い」
「この実績を手に、大陸中央部の騎馬民族国家に売り込め。 連中の軍事力と、複雑に入り組んだ国家体制は、魔王軍にとって一矢報いる可能性を生み出す。 おまえが見てきた敵の行動を告げれば、更にその可能性は大きくなる」
また、何処かが焼け崩れたようだ。
ぼんやりと、炎の中、女を見る。プラチナブロンドの、美しい女だった。自分を飾ることに、興味が無いようだが。
それに戦士としての凄まじい力量を感じる。
「お姉ー!」
「妹が来たようだ。 死にたくなければついてこい」
「……」
しばらく、ベヘトはためらった。
だが、言われたとおりだ。同僚や上司に、ろくな奴はいなかった。武芸でも学問でも、絶対に勝てないと思っていた。だが、今ベヘトは、実績において彼らを凌駕した。凌駕したのだ。
ならば今は。その実績に、胸を張るべきなのでは無いのか。
「分かった。 ついて行く」
「こちらだ」
燃え落ちる城を、ベヘトはもう一度だけ見つめた。
だが、それからはもう、振り返らなかった。
敵城の防御結界を、一度の斉射で粉砕した。その実績に、レイレリアは大喜びしているようだった。
事実連射の後は続かなかったが、その破壊力は凄まじい。平野での戦闘でも、充分すぎるほどの破壊力を発揮できるだろう。
ただし、弱点もある。
実況を見ていた魔王は、腕組みして唸った。安楽椅子をしばし揺らして、ミカンを剥き剥きする。ミカンの筋をしばらく取っていたが、やがて手元にある鈴を鳴らした。鈴はミカンの筋だらけになった。
自室に、護衛の戦士達が入ってくる。映像は一旦停止した。
「如何なさいましたか、陛下」
「クライネス将軍につないでくれるかのう」
「分かりました。 直ちに」
魔術による通信は、残念ながら万能では無い。
今、戦場を見ることが出来ていたのも、レイレリアが必要な術式を展開していたからである。魔王側でも術式を展開することにより、空間を擬似的につなげ、現地の光景を見ることが出来たのだ。
魔術は残念ながら万能では無い。むしろ、出来ることと出来ないことが、非常にはっきりしているものなのだ。
クライネスが画像一杯に出た。無数の触手を揺らめかせているのは、何か作業をしていたからだろうか。
「陛下、如何なさいましたか」
「今、航空部隊の攻撃を見たが、これはいかんのう。 連射後に生じる隙が、あまりにも大きすぎる」
「気づかれましたか。 兵の運用によって補おうと考えてはいたのですが」
「確かにあの規模の術式を連射すれば、魔力が尽きるのも道理なのじゃが、もう少しどうにかならぬかのう」
魔王も、懸念している。
たとえ塵芥と蔑もうと、侮ってはいないからだ。
人間のゴキブリが如き生命力と、その対応力は確かに特筆すべき点がある。今回配備された航空部隊のように火力が大きい存在は、確かに一気に勝負を決めるのには適しているが、しかし弱点を突かれたときには大変もろいはずだ。
「分かりました。 弱点を補うべく、工夫をしてみます」
「うむ、無理難題だと言うことは分かっておるが、味方の勝利のためだ。 性能を生かすか、運用を生かすか、それらについては問わぬ。 頼むぞ」
「ははっ!」
クライネスが無数の触手を不器用に動かして、敬礼。映像を切った。
安楽椅子にもたれると、魔王はミカンをまた口に入れる。次のミカンを剥き剥きすると、丁寧に筋を取り始めた。
そういえば。
麓の植林が上手く行ったら、エルフ戦士達がミカンを植えてくれると言っていた。それはとても嬉しいことだ。補給部隊の魔物達の手を煩わせなくても、この前線まで簡単にミカンが届くのだから。
もう一度、レイレリアの方に映像をつないだ。
燃え上がる城を見て、イドラジールが陥落したことと、やはり今後は今までほど上手く行かないだろう事を、魔王は悟る。随分大胆な策に打って出たものだと、少し呆れた。人間はやはり、追い詰めたりすると何をしでかすか分かったものでは無い。
現在、イドラジールに展開している戦力は二十万。他は全て支援部隊だ。
その気になれば複数の国家を同時に攻めることも可能だが、二方面作戦を展開するのは好ましいことでは無い。そうなると、兵力を増やして、より効率的に敵を押しつぶすのが最適だろう。
人間の兵士と違って、補給についてはあまり気にしなくても良いという利点がある。義勇兵として参加している生粋の魔物達に関しては違うが、彼らの数はあくまで少ないのである。
味方の戦力を、七十万まで増強するか。
そう、魔王は決めた。
4、巨大な力に触れられて
夜闇の森の中、野営中の事である。辺りが急に静かになったので、ユキナは嫌な予感がして馬車を出た。
唖然としている兵士達が、何名か棒立ちになっている。
理由は、すぐに分かった。
この「義勇軍」の主要な者達が、皆倒れているのだ。息が無いのは、一目で分かった。
ヴェンツェルも死んでいた。戦いを心底愛していた猛将は、その最後に相応しく、笑ったまま目を見開いて、巨大な剣を手にしたまま死んでいた。剣の手入れをしている所だったのだろう。心底楽しそうに。
ハールが来た。生きていたか。
「陛下、これは」
「魔王による報復だ」
お飾りの指揮官とはいえ、それくらいは分かる。
話には聞いていた。魔王と敵対する国や組織の、上層部の相次ぐ怪死。この現象が、北の大陸でも嫌と言うほど発生したのだろう。
多分、あまりにも派手にやり過ぎたのだ。それで、魔王に目をつけられてしまった。
かなり大きな後方組織があったそうだが、この様子だとそっちも壊滅だろう。ユキナが死ななかったのは、お飾りで、実質上は何の権力も無かったから、だろう。ハールも多分それは同じ筈だ。
メアリも生きていた。だが真っ青になっており、木陰でぶるぶると震えていた。多分、語らっていた恋人が死んだからでは無いのか。いつもの機械的な冷静さが、みじんも残っていなかった。
兵士は多分、三分の一も生きてはいなさそうだ。
文字通りの全滅状態であった。
「一旦後退する」
「し、しかし」
「これでは補給さえ得られないだろう。 おそらく我々の後ろにいた者も、多分死んでいるはずだ。 とにかく、後方の拠点まで下がり、補給だけでも確保せよ。 急げ!」
慌てている様子のハールを一喝。意外に情けない奴だと、ユキナは思った。多分魔王の力は、イドラジールの国内にしか働かないとでも思っていたのでは無いのか。
ユキナは最初からこの事態を想定していた。だって魔王にしてみれば、国境線など意味が無い概念では無いか。人間にとって意味がある概念だったから、攻撃の際にはそれを活用していただけのこと。
うっとうしい蠅が現れれば、その強大な力を使って叩き潰しに掛かるだろう。
兵士達を点呼させる。二百名ほどしかいなかった。しかも、歴戦の兵士達は殆どが命を落としてしまっており、新兵と、イドラジールの敗残兵ばかりである。
文字通りの壊滅だ。しかも、失ったのは熟練兵と有能な指揮官である。多分後方も壊滅していることを考えると、痛手は計り知れない。
ヴェンツェルの馬は生きていた。それに跨がると、ユキナは皆を見回しながら、指揮を執った。やり方はヴェンツェルのを見ていたからうろ覚えだが、こういうときは確か上がしっかりしていれば、兵士達は怖がらないはずだ。
「まず、後方に下がる。 死骸は皆埋葬せよ。 皆歴戦の勇士だったのだ。 野ざらしにならぬように」
「分かりました」
真っ青なハールが頷くと、今まで生きていた味方を土に埋め始める。
辺りが土を掘り返す臭いで満ちる中、ユキナは自分を無視したことをいずれ後悔させてやると、内心で誓っていた。勿論怖い。だが、それ以上に。これだけの人間を、さながらゴミでも掃除するかのように大量虐殺した魔王が許せなかった。
埋葬が終わると、ユキナは馬車からハールを見下ろした。
何だか、いつの間にか、ハールが小さく見えるようになっていた。露骨に動揺しているのが分かったからかも知れない。
どうせ嘘まみれの経歴だろうと思っていたが。此奴、或いは片袖王と一緒に戦ったというのもホラなのでは無いか。勝てる戦いではある程度勇敢に振る舞っているのを何度か見たが、逆境でこれでは。歴戦の戦士だとは思えなかった。
「後方拠点の位置は」
「分かりました。 案内いたします」
しずしずと、兵士達が下がる。
多分、対処が早かったから秩序を保っていられたのだろう。もしもユキナが慌てたり、対処が遅れたら、今頃兵士達は四散してしまった筈だ。だが、その悪い意味での仮定は、意味をなさない。
魔王さえ、歯牙にも掛けぬほどの小物だったから、ユキナは生き残った。
だが、その歯牙にも掛けなかったと言うことを、いずれ後悔させてやる。
社会なんか大嫌いだった。運命を選べないことを、呪ってもいた。
だが、眼前の大量虐殺を見せつけられると、それさえもどうでも良くなってくる。魔王という存在が、許せなくなった。
必ずや、打ち倒す。
そう、ユキナは決めた。
補給拠点では、点々と散っている死体と、呆然と立ち尽くしている気弱そうな中年男性が一人だけいた。多分ユキナと同じように、役立たずだと判断されたから、死なずに済んだのだろう。
「あ、ああ、あの」
「貴方は」
「私は此処で倉庫番をしていた、え、ええと、ボルドーと申します」
気弱そうな、弛んだ体の中年男性だ。
何だかこの人と同じくらい無力なのだと思われたというのは、少しほほえましかった。あまり性格が悪そうには見えない。
ヴェンツェルのような男がいたことや、兵士達の精強さから言っても、多分この組織の裏にはエル教会か何処かの大型国家があるのだろう。だがこの人は、多分下働きとして、この近くで雇われたに違いない。
「これは一体、何が起こったのですか」
「魔王による攻撃だ」
「ひい、恐ろしい。 魔王の姿も影も見えなかったのに」
「だから、魔王なのだ」
まずは埋葬をするようにと、青ざめている兵士達に指示。
幸い、殆ど略奪には会っていない。後は、他の拠点と連絡が取れないか、確認をさせる。ボルドーが何カ所か拠点については知っていた。無能で貧弱な男だと言うことで、周囲も油断していたのだろうか。
すぐに伝令を走らせる。
「ハール」
「……おまえ、本当にただのハウスメイドか」
突っ立っているので声を掛けると、地金が出たか、ハールが呆然として呟く。
ユキナは頭を振ると、少し頭を冷やしてくるように命じた。
一晩明けると、少しは状態も落ち着いていた。
兵士達に点呼をさせる。幸いにも、一人も欠けていなかった。
否。
あの力を見た前だと、どこへ逃げても同じだと思ったのかも知れない。
他の拠点とも連絡が取れていた。どこも壊滅状態だという。すぐに近いところから順番に馬車で廻る。
物資を確保するべく手配をしつつ、命を落とした者達を埋葬する。皆、魔王と戦って死んだのだ。勇敢な者達だった。
前線に手配していた兵士が戻ってきた。
「魔王軍はイドラジールの国境線に守備部隊を配置すると、北へ向かったようです」
「ハール、北となると」
「おそらくは、アンネリッテ皇国かと思われます」
ようやく少しずつ調子が戻ってきたか、若干たどたどしくはあったが、ハールは応えた。アンネリッテは人口も兵力も少ない、海洋貿易で細々と生計を立てていたイドラジールの衛星国家だ。
勿論そんなところが、魔王軍の怒濤の進撃を防ぎきれるわけも無い。
三日も保てば良い方だろう。
問題は、魔王軍がどうしていきなりそんな小国を攻めに行ったか、ということだ。
「やはり海岸線を確保するのが目的なのでは」
ボルドーが、はげ上がった頭をハンカチで拭きながら言う。
細かい意見を求めると、少し困った様子で視線をさまよわせた後、つらつらと言った。
「魔王軍には、クラーケンという巨大な海洋輸送戦力があると、小耳に挟みました。 確かキタルレアに最初に侵攻してきたときも、そのクラーケンを使って、一気に軍勢を送り込んできたはずです」
「ふむ、つまり、海上での兵力輸送をやりやすくするのが目的か」
「おそらくは。 多分アンネリッテを落とした後は、東へ進み、海岸線を引き続き確保していくのでは無いでしょうか」
確かにイドラジールを落とした今、そうすることで兵力の円滑な運用を図るのが的確である。
意外とこのおじさん、博識な上に頭も回る。
魔王が見逃したのは、或いは僥倖だったかも知れない。これならば、組織の再建もある程度可能なのでは無いか。
壊滅した組織の拠点を廻り、整備するのに二日。
そして兵士達をまとめ、指揮系統を再構築するのに更に三日かかった。
しかし、後ろにいるという国家なりエル教会なりとは、連絡が取れなくなった。まあ、魔王の攻撃で、この義勇兵の直接の後ろ盾になっていた奴は死んだのだろうし、当然だろう。
ならば、ここからは、ある物資を活用して動くしか無い。
現在ユキナ達がいるのは、中立国として知られるアニーアルス王国である。東に行くと幾つかの遊牧民族が点在しており、彼らとの接点も持っている。文明としてはイドラジールに近く、石造りの城壁で町を守り、農耕と狩りで国を支えている。かって遊牧民族との戦いに困り果てた大陸西部の国家群が、押さえとして置いた国だ。このためイドラジールの東国境にちょこんと存在している小型の国の割には軍事力も高く、地形も複雑で、平野と山が入り組んでいる。
魔王軍を迎撃するには、もってこいの場所である。
此処は、東へ進むべきだろう。
此処を主戦場に、大陸中央に広がる遊牧民達の国家を説得して共同戦線を張らないと、とてもではないが対抗できない。そして、大陸東部の国家群の支援を受けられれば、或いは敵を押し返せる。此処にこんな国家があるのも、大軍勢がとにかく動きづらいからなのだ。
それに、魔王による攻撃の正体も見極めたい。組織が再興しても、魔王による攻撃を防げなければ、適当なところでまたひねり潰されてしまうだろう。
アンネリッテは見捨てることになるが、仕方が無い。現有の戦力では、どうにも出来ない。
ただ、住民達に、避難を促すことだけはやっておきたかった。
「ハール」
「何か」
「この書状を、アンネリッテに届けるように。 署名は私と、後この印を押しておく」
十字をかたどった飾りがついている、手のひらほどもある大きな印章である。倉庫から、ボルドーが見つけた。
案の定、エル教会の印だった。それも司祭では無く、司教のものである。エル教会の司教というと、各国に四人程度しかいないVIPである。殆どはエル教会の権力を盾に、利権をむさぼり喰らうしか能が無いゲスどもだが、此処はその利権をありがたく利用させてもらう。
ハールはこの様子では、逃げ出すのでは無いのか。いや、その時はその時だ。
一段落したところで、ユキナは馬車の中で眠りにつく。
何だか、遠いところへ来てしまったような気がした。
偵察に出ていたイミナは、イドラジール国境線を越えて、黙々とシルン達の所に戻った。
国境線の森は、敵を監視するにはもってこいの場所になっている。敵の駐屯部隊がある程度いるので、それを見張っていれば動きを読みやすいのだ。
案の定、敵は北上した事が分かった。
兵力は軽く十万以上である。旧イドラジール領にも支援部隊として動いていた大軍が入り込んでいるようで、数はどう見ても十五万を超えていた。
しばらくはイドラジール領を拠点として、魔王軍は各地の攻略を行うのだろうと、イミナは判断した。
森の中の野営地では、レオンが洗濯物を干していた。
イドラジール内で転戦しているときに、ひょっこり現れたこの僧衣の男は、寡黙な堅物だ。そして、彼が言うジャドの話を聞いて、複雑な気分になった。シルンが聞いていないところで良かったとさえ思った。
ジャドは、イミナとシルンのために、文字通り悪鬼になったとしか思えない。
「イミナどの、状況はどうであったか」
「シルンは?」
「少し前から眠っておられるはずだ」
「そうか」
この左目に眼帯をつけた男は過剰なほどに紳士であり、女子の寝床に近づくなど言語道断と大まじめに言うような男である。
こういった紳士的行動は社会的には表面では尊敬されるが、裏では嘲笑の種になる事が多い。人間は基本的に怠惰や残虐、淫売に冒涜が大好きだからだ。
それでも、この男は大まじめに紳士である。まだ短いつきあいだが、その点では信頼出来る。イミナは嘘を見抜くのが得意で、その点は誰にも負けない。
もっとも、まだ力を得たとは言ってもそれから大して時間も経っていない。シルンが不覚を取るとも思えないが。
森の中に張ったテントの中で、シルンは寝ていた。腹を出して寝ていることは無くなったが、それでも寝相は良いとはいえない。
「シルン、起きろ」
「んあ、お姉?」
シルンは髪が長いから、寝相が悪いとぐしゃぐしゃになる。目をこすっているシルンは、しばらくすると正気に戻り、顔を布で拭き始めた。綺麗好きなのは良いことだ。機嫌が悪そうに着替え始めるシルン。
身繕いを終えた妹と、一緒に外に出る。
レオンはじっと西の方を見つめていた。僧衣に、被っている緑のつばがない僧帽から、階級は司祭だと分かる。手にしているのは、かなり大きなモーニングスターである。屈強な大男でも持てないような武器だが、この男は既に縦横に振り回せるようになっていた。もっとも、最大の武器は別にあるが。
レオンは見上げるような長身である。非常に自分に厳しいことは良いのだが、他人にも厳しすぎるのがちょっと五月蠅い。
「目を覚まされたか、シルンどの」
「んー。 ずっと見張りしてたの?」
「妙齢の女性が休んでいるとあれば、見張りをするのが男の仕事だ。 僧であろうが武人であろうが、それに変わりは無い」
まだ若いのに、珍しいくらいの堅物である。シルンはまだ寝ぼけ気味だから、若干衣服が着崩れているが、見える柔肌から視線を平然とそらし、印を切って神に祈りの言葉を捧げるレオンは、何だか浮き世離れしていた。
もっとも、そういった僧侶が歓迎されるのでは無く、邪魔者扱いされる時点で、エル教会がおかしいことはよく分かる。腐りきった教会上層の話はシルンも聞いていたが、改革を志したのもその現状を知っているからだろう。
そしてこの男は、腐りきった教会に染まらなかった、強い精神の持ち主だともいえる。
人間とは面白い生物で、腐っているのなら改善しようとは思わない。周囲が腐っているのなら、自分も一緒に腐るのが正しいと考える。少なくともそういう奴の方が多いことを、シルンは知っている。
師匠とイミナと、北の大陸を逃げて廻っているとき、何度も見たことだ。
地図を広げて、状態を確認。小さくあくびをしながら、シルンは言う。
「それで、魔王軍はやっぱり北に行ったの?」
「ああ。 軍勢は十万を軽く超えている。 とてもでは無いが、北の小国群では勝ち目など無いだろうな」
元々、イドラジールの衛星国として、屈服の代わりに平穏を得ていた連中である。今回の件でも、なけなしの軍をイドラジールに送り、もろともに壊滅したらしいし、まあ三日も保てば御の字だろう。
東の方に送り出してやったあの騎士は。
敵を道連れに死のうとし、助けた後は難民達を率いて東に去って行った騎士ベヘトは、どうしているだろう。
今度は北の地に魔王軍が侵攻したと告げてやったら、そっちに向かいかねない。
「敵の主力が北に行ったとなると、これは好機なのでは無いか」
「いや、駄目だ。 魔王軍の主力と入れ替わりに、後方支援をしていたらしい部隊がイドラジールに入ってきている。 数はこっちも十万を軽く超えているようだ」
「なんと言うことだ」
レオンが忌々しげに呟く。
シルンが見たところ、敵の総数は五十万を超えているかも知れない。東部にある諸国が総力を挙げても、それだけの軍を繰り出せるかどうか、という数だ。それなのに、人間達はまだまともに動くことさえ出来ていない。
足並みをそろえる事など、このままでは出来そうに無かった。
「お姉、どうしようか」
「我らも北に行く。 少しでも敵の進行速度を遅らせる」
「うん、そうだよね」
善良な妹は、頷いた。
この娘は、師に言われたことを、大まじめに信じている。だから、人を守って戦いたいと言う。
どのような経緯であれ、力を得たのは事実なのだ。
だから、それを建設的に使いたいと、妹は言う。それは、師の思想に浸されたが故に、だ。
師は、厳しい人だったが、いつも言っていた。
人は下らん側面も持つが、やはり深奥にあるのは善なのだと。その善を、闇が覆い隠さないように、皆で努力していかなければならないと。
師匠自身も、どちらかと言えば被差別民族の出身だったというのに、人間をそれでも信じていた。
本当に強い人だったのだ。
同じように生まれながら、イミナはどうしても師の域には到達できなかった。或いは、妹の域には。
だから、二人のことが羨ましくもあり、かっては妬ましくもあった。だが、今は、全てだった。
師の思想は、光そのもの。
シルンもそれを信じて、世界に光が戻ると考えている。魔王軍との戦いを乗り越えれば、人はきっと今よりもましな存在になれると。
イミナは、それを真面目には信じていない。師匠のことは今でも尊敬しているが、その思想には同意できなかった。
だが、妹の願いは、かなえてやりたかった。泣いているところは、見たくなかった。
なぜなら、イミナこそ、シルンの全てだからだ。
「やっぱり、大物を仕留めないと、敵の進撃速度は鈍りそうに無いね」
「だが、この三人だけだと厳しい。 連隊長なら、前よりも簡単には倒せそうだが……」
「連隊長か。 確か千人程度の指揮官だったな。 それでさえ、貴方たち常識外の使い手が、総力を挙げないと倒せないというか。 一体魔王とやらは、どれほど強大なのだ」
レオンがぼやく。だが、応えるすべを、イミナは持たなかった。
そのまま、テントを畳むと、国境線に沿って北上する。燃え尽きた城塞は、既に魔王軍が入り、整備を開始している。
その様子はまるで無駄が無く、精鋭の工兵部隊が全力で活動しているようにしか見えなかった。
黙々と、森の中を歩く。
やがて山に出た。国境線を越えないように注意深く進みながら、敵の進軍を観察。およそ二万ごとに別れて、六路か七路に別れ進撃しているようだ。しかも隘路では、どうやら城を落としたときに暴力的な火力を振るった航空部隊が旋回し、偵察をしているようである。
隙が無い。
名将に率いられた軍勢そのものだ。これでは手の出しようが無い。
隙があったら多少は仕掛けて削っておこうと思ったのだが、空に目が出来てしまった今、下手に仕掛けたらすぐに包まれて袋だたきにされる。隘路に誘い込めば数百を相手にすることも可能だが、死を恐れない敵に囲まれるというのは致命的な事態だ。
戦について殆ど知らないレオンに、何度か頭を下げて進むように指示。力を得たとは言っても、まだまだ素人だ。
数日掛けて、山を進む。
敵はその間、殆ど休むことも無かった。
「このままだと、敵に追いつけないのでは無いのか」
「問題ない。 敵は今まで必ず敵地に入った場合、陣形を組んでから動き始める。 相手がどんな小敵でもだ」
レオンの言葉に、イミナは応えながら、峠を越える。
海が見えた。
そして、見たくないものも。
眼下に広がる小規模な平原には、見渡す限り敵が陣を組んでいた。十万、いや十五万は軽くいるだろう。
どんな小規模な相手でも、徹底的に、容赦なく叩き潰すというわけだ。
「アンネリッテの軍勢は」
「せいぜい五千」
しかも、大きな港町一つを除くと、小さな村ばかりという国である。守るには著しく適していない。
海軍はそれなりにあるかも知れないが、これではもはやどうにもならない。
港町へ、まず入るべきだ。其処の状況を確認してから、対策を練ろう。そう、イミナは決めた。
着実に集結していく魔王軍を尻目に、早朝には港町に入った。出来るだけ偵察部隊と接触しないように森の中を進んだ。森が無いところでは、魔王軍が動きを止めた夜の間に、平原を走り抜けた。
途中、二回偵察部隊に接触したが、総力での攻撃を浴びせて、一気に殲滅した。といっても十名ほどの小部隊だったから出来ただけだが。
背後に十万を超える兵がいるというのは、ぞっとしない。
簡単に入ることが出来たのは。城門が既に開け放たれていたからである。兵士五千どころか、イミナが見たところ、殆ど誰も港には残っていないようだった。
「敵が攻め寄せるまで少し時間があるな。 手分けして情報を集めよう」
いち早く、敵から逃げたのかも知れない。もしもそうなら、かなり良いことだ。
とにかく敵の情報を知る人間が一人でも多く逃げ延びれば、それが後の反撃につながる。それに人間はとにかく増えるのが早い。いずれ押し返せる時が来るかも知れない。
城壁の内側は、典型的な港町だ。戸汚い木造の家が並んでおり、地面もろくに整備されていない。港には帆船が何隻か停泊しているが、どこにも人気は無い。
何気なしにイミナが家の一つを覗いてみると、野犬が飛び出してきた。そのまま野犬が逃げていくが、放っておく。
魔王軍が、人間以外の生物に興味を見せないことを、イミナは知っている。
以前、野良犬が補充兵に吠え掛かっていたところを見たことがある。だが、補充兵は全く相手にせず行軍を続けていた。流石に噛みつかれると反撃して犬を殺してしまったが。
だから、あの犬は気にしなくても良い。
家の中は、腐臭がした。木の床には残飯が散乱している。食器なども並んでいるが、これはおそらく相当慌てて逃げ出したのだろう。
港の真ん中には、噴水があった。
そこで三人合流する。城の方に行っていたレオンが、首を横に振る。
「城の中はもぬけのからだ。 慌てて逃げ出したようだな」
「お船を見てきたけど、誰もいないね。 死体があるかなと思ったけど、それもない」
「国ごと逃げた、ということか」
どうやってそれをやったかはひとまず置いておく。おそらく船を使ったのだろうが、それにしても迅速すぎる。その謎について考えるのは、後で良い。
つまり、現在考えるべきは、籠城に加勢する事も、敵に対してゲリラ戦を行う必要もなくなった、という事だ。
いや、違う。この状況は利用できる。
「どうする? さっさと逃げる?」
「いや、魔王軍の習性を利用する」
「習性?」
「魔王軍はその国から人間を根絶やしにしない限り、次の国を攻撃しない。 つまり、我々が徹底的なゲリラ戦を行って、人間が多数いるように見せかける」
勿論、相当に厳しい戦闘の連続になるだろう。
だが、これは効果が大きいはずだ。少なくとも、数日以上は稼ぐことが出来る。
今人間がどうして足並みをそろえられないかはよく分からないが、時間は稼げれば稼げるほどいい。
それに、この町には誰もいないのである。それを利用出来る。
犬死ににならないように徹底的に退路を確保しておく必要もあるが、しかし。今後の事を考えると、意味のある戦いになるはずだ。
「なるほど、魔王軍に多数の人間が潜んでいると思わせるわけだな」
「そういうことだ。 足止めが上手く行けば、逃げられる人間も多くなり、魔王の不可解な力に対する対抗策も出来る可能性が上がる」
「お姉、相変わらずあったまいい!」
シルンが無邪気に言う。その言葉を聞けるだけで、だいぶ報われる。
敵はまだ動きを見せていない。もうこの港には誰もいないことくらいは把握しているのだろう。
後は、どう残敵を掃討するかを考えているはずだ。
その出鼻をくじく。
今回は、条件が揃っている。危険も極めて高いが、賭に出る価値は充分にあった。
城壁に上がる。遠くには、まるで雲霞のごとく大軍勢が布陣している。
今度こそ、連中に手痛い打撃を与えてやる。そう、イミナは誓っていた。
5、疑念
キタルレア大陸に渡ってきたゴブリンのグラは、途中で士官としての訓練を受けながら、配属される場所に向かった。高揚とともに、不安を感じてもいた。
担当地域が最前線では無いと言うこともあるのだが、文官の数が本当に少ないのだ。流石に文官には補充兵では無い通常の魔物が当てられていたが、以前聞いたとおり確かに年かさの魔物ばかりだった。
そして、皆が口々に、補給担当のグラに文句を言うのである。
「補充兵の消耗が早すぎる。 数に頼った戦術を使いすぎだ」
「材料も無限じゃあ無い。 湯水のように浪費していると、いずれ足下を掬われるぞ」
そんな声ばかりが聞かれた。
そして、配属先に到着。
ヨーツレット元帥を見る機会があった。巨大なムカデのような補充兵で、頭の周りには無数の触手が生えている。それこそ万の軍勢を単独で相手に出来る実力を持っているという話だが、それも頷ける。間近で見ると、感じる圧迫感が尋常では無かった。しかも、グラのことをきちんと新規配属の人員だと見抜いて、声まで掛けてきた。
補充兵と言っても、軍団長や元帥になると、理性的で頭も良い。少し感心したが、だが。安心できたのは、其処までだった。
グラが任されたのは、新しく完成した巣穴の管理である。
つまり、補充兵の生産施設であったのだが。そこで、グラは見てはならないものを見てしまったのだった。
補充兵ユニコーンが、大量の荷車を今日も引いてくる。監視用の補充兵が多数配置されている中、運ばれてくるその中身を、グラは知っている。
服をはぎ取られた人間の死体だ。
徹底的な殲滅の影には、これがあった。確かに大量の人間の死体をどう処理しているのか、興味はあった。だが、まさか此処まで直接的な処理方法だとは思っていなかった。人間は大嫌いだが、これほどまで徹底的な憎悪を感じると、流石に青ざめてしまう。
機械的に運ばれてくる荷車。最低限の知能を持つ補充兵が、死体の数と重さを調べている。大きなはかりがあって、其処に死体を乗せていくのだ。それも全て機械的に処理されていく。
そして、書類が作られる。
グラの仕事は、それの管理だ。書類をまとめてしばり、日付ごとに倉庫に格納していく。
単純な仕事だが、確かに運ばれてきた死体の量が非常にわかりやすい。そしてやっておかなければならない大事な仕事でもある。
巣穴はありの巣のような鍾乳洞になっていて、作業はその外で行われる。周囲は要塞状の非常に強固な城壁が連なっているのだが、その一角に大きな広場があり、其処は連なる城壁の影になっている。屋根もついているそこで、グラは連日死体の数を調べる簡単な仕事をしているのだった。隅にあるデスクが、今のところグラの城だった。近くにある魔物用の宿舎で寝る。起きたらまた仕事の繰り返しである。
死体を見ていると、やはり老若男女様々である。苦悶の表情を浮かべた男の死体はまだいい。痛ましい悲しみに顔をゆがめた子供の死骸も多数ある。補充兵のオークやコボルト、勿論ゴブリンも、人間には一切憐憫を掛けないと聞いているが。しかし、機械的に殺され服を剥がれただろうこの死体達も、当然生きていたのだと考えると、流石に気の毒だなと思ってしまう。
これでは、人間がやってきたことと、同じでは無いか。
何度か、最初の内は吐いた。
だが、今はどうにか慣れてきた。
空になった荷車を引いて、長い坂道をユニコーンが下っていく。代わりに、死体を満載した次のユニコーンが来る。一つの荷車にはだいたい三十から四十の死体が積まれていて、それが日に多いときは百ほども来る。
凄まじい虐殺が繰り広げられていることが嫌でも分かってしまう量であった。
どすどすと慌ただしい足音。
「あにきー!」
太った巨大な影が、汗をかきかき走り寄ってきた。
トロール族。人間と最も勇敢に戦った魔物として知られる存在である。巨大な図体と、切られてもくっつければ再生するほどの強靱な生命力で、人間と激しく戦い続けた一族だ。人間の五割増しほどの上背を持ち、青白い肌と筋肉が盛り上がった屈強な体、額から伸びた二本の角など、一目で分かる特徴は多い。
ただし、このトロール族キバは、それらの特徴とはかけ離れていた。
角だけは二本あるが、体はグラの二倍ほどしか無い。つまり、人間の二割増し程度であり、標準的なトロールよりもかなり小さい。
しかも甘い物が何より好きで、しかも戦いも暴力も嫌いと言うことで、全身が弛みきっている。走ると凄く汗をかくし、体力も無い。力だけはそれなりに強いが、ただそれだけであった。
年齢はグラよりも更に若い。
何でも、一族が皆義勇兵になった事がきっかけで外に出てきたという。トロール族は一族単位でまとまった行動をするらしく、北の大陸で数の回復に努めている一族と、戦士として戦うことを選んだ一族が、真っ二つに割れているそうである。
このキバも一族に連れられて戦場に来たは良いが、とにかく致命的に適性に欠けていたため、こうして後方に回された。
そして仕事も出来ないので、グラに上司を取って代わられた、というわけだ。
もっとも、仕事は出来ないが、トロール族とは思えないほど戦闘意欲が無く、また純粋で善良な奴なので、あまり敵意や悪意はわかない。兄貴と慕われるのも、斬新な経験だった。
「あにき、保存薬が切れた! 奥の倉庫の死体が、くさっちゃうよ!」
「分かった。 俺から手配しておく」
「ほんとうか! あにき、すげえ」
「いや、誰でも出来る仕事だからな」
本当は、薬が切れる前にさっさと連絡するのはキバの仕事なのだが、まあそれを説教しても仕方が無い。薬を使うことを忘れないでいて、在庫を確認してくれただけでも上出来である。
頭があまり良くないし、記憶力も悪いので、仕方が無いのだ。
死体は多少痛んでも平気だし、なにより来る側から洞窟最奥にある溶体炉に放り込まれていくので、保存薬そのものはあまり意味をなしていない。ここのところは補充兵作成のペースも早く、よく冷えた部屋に死体は長くても数日程度しか置かれていない。来る途中にも保存薬は使われているし、此処で追加で掛ける保存薬はあまり意味が無いのだ。
「それよりキバ、いいのか、仕事に戻らなくて」
「ああ、わすれてたあ! あにき、じゃあお願いする!」
「分かった分かった」
死体の数をまとめた書類の横にある、手配用の用紙を取り出す。インクに浸したペンで、さらさらと手配を求める文章を書くと、待機している補充兵に手渡した。
伝令と違い、書類の配達は補充兵にやらせている。最近配備された航空師団の補充兵の内、スペックが規定に満たなかったものが、こういう伝達役をしているのだ。
書類を出し終えると、屋根の下から出て、空を見上げた。
一雨来そうだ。暗い雲が立ちこめる中、補充兵は飛んでいく。
「おや、休憩中かな」
振り返ると、クライネス将軍だった。
無数の棘と触手が混在し、その全ての先端に目がついている不気味な姿と裏腹に、この将軍はとても理知的で心優しい。キバがどれだけ失敗しても優しい言葉を掛けて、褒めて伸ばしているのを何度も見た。実際キバはクライネス将軍のためなら死んでも良いと、時々言っている。
しかし、補充兵作成の責任者であり、悪辣で冷徹な作戦を立てている張本人でもあると聞いている。それを考えると、この優しさは嘘では無いのかと、思ってしまう自分もいるのだった。
「仕事が一段落しましたので」
「休憩は適切にとって、しっかり仕事をして欲しい。 君の同僚のキバくんも、最近は積極的に仕事をしてくれているようで何よりだ」
「あいつは頭は悪いですが、良い奴です」
「同感だ。 私も、そう思われたいが、なかなか難しいな」
もそもそと、クライネスは無数の触手を動かして言う。見ると、坂をユニコーンが上がって来ている。次の仕事をしなければならないだろう。
仕事に戻ろうとすると、クライネスが背中から声を掛けてくる。
「君の仕事をしばらく見せてもらったが、とても有能だ。 これからも是非頑張って欲しい」
「ありがとうございます。 褒められても、何も出せませんが」
「いや、これは単に褒めたわけでは無くてな」
触手が伸びて、クライネスの後ろにいたものを引っ張り出した。
地面に引き倒されたそれは、一見するとエルフ族の子供に見えた。性別はメスか。最低限の衣服しか身につけていない。鎧しか着ていない、その辺で働いている補充兵ゴブリンよりはましだろうが。グリーンブルーの髪の毛は腰まであり、美しいつやを帯びている。
口はきけないようで、恐怖も感じていないらしい。非常に乱暴に扱われているのに、文句一つも言わない。
「これは魔王様に言われて試作した、土壌改良用の作業補充兵だ。 エルフ族から血液の提供を受け、それをベースに作成した」
「エルフ族の姿をした補充兵、ですか」
「出来ればやりたくなかったそうだが、魔王様としても、出来るだけ早くエルフ族に第二の故郷となる森を与えてやりたいという事らしくてな」
補充兵は、人間に近い姿であるほど、知能は低くなる。例外も存在するが、殆どは指揮官個体に命令されて動くだけの肉人形だ。
そうなると、「これ」も近い存在なのかも知れない。
「しばらく、君のところで使って見て欲しい。 任務は、あの辺りの植林だ」
クライネスの触手が一本指したのは、山間にある小さな平地である。三十歩四方ほどであり、この山の他の部分同様、ろくに木も生えていない。
彼処に、植林するのか。
立ち上がった補充兵は、全く感情の無い目で、グラを見上げた。
「あの、使えないようだったらどうしますか」
「潰して肥料にする。 元々これは人間を素材に作った道具だ。 使えないようなら、その場で潰す」
「分かりました」
流石にそう言われると、しっかり監督しなければならない。今後様々な作業をやらなければならないのだろうし、これくらいこなせないと出世など夢のまた夢だ。
クライネスは空間転移の力を持っている。消えるのも、現れるときと同じで一瞬であった。今までそこにいなかったように消え失せたのを見て、グラは帽子を取り、髪の毛を掻き回した。
エルフ補充兵は、じっとこちらを見ている。命令を与えるにしても、植林についてしっかり勉強しておく必要もあるだろう。しかも、この子供を量産するとして、植林は多分年単位の作業になるはずだ。
だから、狭い土地で実験をしてみる、ということか。
手始めに、ユニコーンが運んできた死体を書類にして、洞窟の奥へ運ばせる。それが終わると、ユニコーンはもう来なくなった。今日は輸送終了か、もう一つの巣穴へ運んでいるのだろうか。或いは、ただ作業が途切れているだけかも知れない。
視線を感じる。エルフ補充兵は膝を抱えて座り、こちらを見つめていた。指示待ちと言うことだ。
「それにしても、これはやりづらいな」
「あにきー!」
どたどたと、緊張感の無い足音。ひょいと抱え上げて後ろにどかしたのは、そのままだとキバがはね飛ばしかねないからだ。
グラの至近で止まったキバは、何だか嬉しそうだった。抱えているのは、大きな木箱である。
「アニキ、クライネス将軍になんかもらった! 多分ごはんだ!」
「どれ。 こっちが塩害対策用の散布材、こっちは休作作物、これはシャベルと。 ご飯ではないな」
「ええと、それうまいのか」
「食べられません。 というか、植林用の道具だ」
補充兵にシャベルを渡す。しばらく見つめていたが、使い方は分かっているようである。
しばらくはユニコーンも来なさそうだし、作業を教えておく時間はある。どうせ退屈していたところだし、丁度良いだろう。
「あにき、それ、エルフ族の子供か?」
「いや、クライネス将軍から預かった補充兵だ。 食事や睡眠なんかの生命行動が無い分実際の子供よりは手が掛からないだろうが、使えないと判断したら殺すらしいから、しっかり面倒を見るぞ」
「あにき、優しい! おれ、あにきのそういうところがすきだ!」
「ありがとうよ」
感動して大まじめにキバがそう言ったので、ちょっと呆れつつ、適当に流した。
指定された空き地は、かなり険しい道の先である。というよりも、これは道から作らないと駄目か。うねうねと山の間を縫っている城壁の間を、進まなければならない。途中は大岩だらけで、地面もかなりとがっていて危ない。
まず少し正面の道を降りて、城壁を幾つか抜ける。目的地を下から見上げると、かなり険しい。
「キバ、少し岩をどけてくれるか。 路を塞がないようにするんだぞ」
「分かったよ、あにき」
キバが張り切って、岩をどけに掛かる。トロールの中でも弱いキバだが、それでも腕力はグラよりもずっと強い。岩を難なく横にのけていくのを見て、グラはじっとこちらを見上げている補充兵が、素足なのに気づいた。
「此処を上るとなると、靴くらいは欲しいな」
「ちっせえ靴、作るのか? あにき」
「そうだな。 今日の作業が終わったら、発注しておく。 悪いが今回は、おまえがこの子を肩に担いで行ってくれ」
「あにき、分かったよ!」
ひょいと抱え上げると、肩に座らせるキバ。この頭が悪いトロールは、結構子供が好きらしい。
多分自分と同じ目線で物を見てくれるからだろう。大人には好かれなくても、子供に好かれるのは良いことでは無いか。
岩をどけた山道を登る。
赤茶けた地面は、この近辺の土が如何に痩せているかを、如実に示していた。
一番上まで上がると、猫の額ほどという言葉通りの狭い土地が見えた。雑草が多少生えているが、枯れかけである。
キバの肩から降りた補充兵が、辺りを見回す。
「足を怪我しないように気をつけろよ」
頷く。ある程度の理解力はあると言うことか。
いや、或いはしゃべらないように設定されているのかも知れない。上層部の人間への憎悪を鑑みるに、あり得ることだった。
「あにき、この子に名前つけたい」
「そうだな。 だが、クライネス将軍とか、他の奴には聞かれないようにしろ」
「どうしてだ、あにき」
「みんな人間が嫌いだからだよ。 この子はエルフに見えるが、人間を溶かして作ってるんだ。 だから、この子もみんなは嫌いなのさ」
もっとも、最高司令官のヨーツレット元帥も、そういう意味では同じ存在の筈だ。線引きはどこでやっているのか、グラにはよく分からない。或いは潜在的に敵対意識は残っているのかも知れない。
どう反応して良いのか分からないらしく、キバは小首をかしげた。
キバはこういう奴だ。純粋で、悪意とかが無い。その分、怖いのも痛いのも嫌いだと言っていた。
軍には全く向かない存在である。ただし、見ていて嫌な気分はしない奴でもあった。
「でも、おれはこの子嫌いじゃ無い」
「ああ、そうだな。 俺にはそれを教えてくれても良いが、他の奴には言うな。 おまえも、他の奴に嫌われたくないだろ」
「わかったよ、あにき! おれはこの子が嫌いじゃ無くて、それはあにきにしかいわない!」
純粋すぎる言動。嘘を全くつけない気性。善良な奴である。まあ、悪い気分はしなかった。
補充兵の子供は、多分、何をすれば良いか本能で分かっているのだろう。
土の状態を這いつくばって見て回っていたが、やがて石を丁寧に取り除き始めた。手伝うことは、実験にならないから禁止だとクライネスは言っていた。道具類を側に置いてやると、スコップを使って、石をどんどん取り除いていく。
意外に手際が良い。
エルフ族の情報を持っているからだろうか。空を見ると、かなり雲行きが怪しくなってきている。
早めに作業を済ませるほうが良いだろう。
「キバ、その子の名前、どうする」
「ええと、カーラがいい」
「どうしてだ」
「おれのいもうとだ。 北極にいたとき、生まれてすぐにしんじまった」
それ以上、何も言えず。
グラは、カーラと名付けられた補充兵が、黙々と作業をする後ろ姿を見つめていた。
作業は黙々と続き、夕刻過ぎ。
石を取り除いたカーラが、スコップで地面を掘り返し始めた。
そして、渡されていた栄養剤を撒き始める。雑草も根を抜くこと無く、そのまま掘り返している。
大きなスコップなのだが、多分無理な力が入っていないからか、結構上手に扱っている。補充兵は知性が無い分力が強い場合も多いが、カーラもそうなのだろう。退屈そうにしているキバは一度仕事場に戻らせて、倉庫での作業に入らせた。
ユニコーンはあれから来ない。
「おーい、グラ!」
「ゼンドか」
手を振っている人影に気づく。夕焼けに赤く染まった岩山の坂道で、そいつはグラに笑みを向けている。
ゼンド。この近くで補給部隊の指揮をしている男である。種族としてはオークになる。北のフォルドワードで農民をしていたオークと違い、体格もかなり良くて、荒々しい性格である。全身も毛むくじゃらで、顔も豚と言うよりイノシシに近い。
戦闘能力もそれなりにあるようなのだが、前線に出るには指揮能力の適正が足りなかったらしく、ユニコーン部隊の指揮をしているようだった。死体運びでは無く、物資の輸送が主体である。
ゼンドは手ぶらだった。作業が終わって、休みになっているのだろう。岩山の間に作った狭い坂道を上がってくる。
「おや、エルフの子供? どうしてそんなところに」
「補充兵だ」
「それは面白いな。 魔物と同じ名前がついていても、似ても似つかない場合が多いのに」
「クライネス将軍から、試験的に預かっている。 植林を行う能力を見たいのだそうだ」
ゼンドは、グラの横にどっかと腰を落とす。
腰には荒縄を結びつけていて、徳利と呼ばれる酒入れが幾つかぶら下がっていた。かなり強い酒の臭いがする。
「どうだ、飲むか」
「仕事中」
「そうだな。 後で一緒にやるか。 キバも混ぜて」
「いいな、そうするか」
カーラは黙々と地面を耕していた。やがて、綺麗に土地を耕し終えると、休作作物と書かれた袋から、種を蒔き始める。あまり植林に対する知識は無い。巣穴の中には書庫もあるので、後で目を通す必要があるだろう。
雨が降り出した。
「おっと、そろそろ戻るか」
「傘はある」
「おい、作業が終わるまで見ているつもりか」
「俺が預かったんだ。 だから、最後まで面倒を見る」
カーラを呼ぶ声。
でかい傘を差したキバが上がってくるのが見えた。雨が降るのにどうやってか気づいて、此処まで来たのだろう。
キバはゼンドに頭をぺこりと下げると、初々しく、働いているカーラの上に傘を出す。邪魔にならないように、耕した土はちゃんと避けている辺り、頭は悪くても気が利くことが分かる。
「……」
種をまきおえたカーラが、じっとグラを見る。
もう今日の分は終わり、という事なのだろう。
「キバ、今日の作業は終わりだ。 降りるとき、転ばないように気をつけろ」
「わかったよ、あにき! ほら、肩に乗るんだ。 靴が無いから、いまだけだぞ」
「甲斐甲斐しい奴だな」
ゼンドが、イノシシによく似た牙を見せて微笑した。
宿舎に引き上げた。宿舎は要塞状になっている城壁の一角に作られていて、魔物が三十ほど生活している。その殆どが軍人ばかりであり、補給人員はわずかだった。
軽くゼンドと飲んでいる間、カーラは宿舎の隅で、膝を抱えてじっとしていた。目をつぶっているが、寝ているのでは無いのだと分かる。補充兵は基本的に眠ることが無いのである。
ただ、風呂には入らせた。今日土まみれになったのだし、汚れると体が痛むかも知れないからだ。
靴も手配する。丁度次の日の朝、宿舎にドワーフが来ていたので、カーラの靴を見てもらう。昔ドワーフとエルフというと仲が極めて悪かったという話もあるが、今はそんなことも無い。
だが、補充兵の靴を作れというのを、ドワーフの職人はあまり喜ばなかった。宿舎の部屋に呼んで、茶を出す。
グラと背丈は殆ど同じでも、全身が岩のような筋肉の塊であるドワーフの職人は、茶を無言で飲んでいた。だが、話を終えるとじろりとグラを見る。
「これでも手が足りないんだがな。 靴なんざすぐ作れるが、理由はあるのか」
「その子は貴重なプロトタイプだ。 クライネス将軍から預かって、植林をしている」
「植林、か」
「そうだ。 エルフ族の情報を仕入れて、わざわざその姿に似せているそうだ。 今仕事をしている所が、靴が無いと怪我しそうな場所でな。 俺もずっと側についているわけでは無いから、靴を作ってやってくれ」
ドワーフの職人は腕組みしていたが、やがて頷いて、リュックから皮材を取り出した。
「魔王様の城を作るんだって、みんな俺の仲間ははりきってる。 だけど、ドワーフが全員それだとみんな困るからな。 俺は敢えて違う仕事をして、彼方此方を廻って、魔物達のための日用品を作ってるんだ」
「助かってる。 俺の着ている服なんかも、あんたが作ったのかもな」
「可能性はあるが、流石に作った数が多すぎて分からん。 量産品は、戦闘で傷ついて使い物にならなくなった補充兵が作ってるしな」
カーラを座らせて足の大きさを測ると、すぐにドワーフは作業を始めた。
皮を切り取り、縫い始める。幾つか金属の部品も使って、カーラの足に合う靴を作っていく。
「補充兵って事は、育つことはないな」
「おそらくは」
「ならば、余計に頑丈に作っておくぞ」
最初に足形だけを切り取った後は、殆ど何も見ずに、ドワーフは分厚いナイフを使って皮を切っていく。太い指なのに、その繊細かつ大胆な動作には恐れ入る。そして分厚い布と、針で縫いながら、靴を作っていく。
職人技だ。
確かにドワーフ族が人間の職人から恨まれるわけである。多分天性の素質が皆に備わっているのだろう。
ギルドと呼ばれる人間の職人組合が、ドワーフの虐殺を裏から支援していたことは有名だが、これでは納得もいく。人間は技術を開発することが出来ても、こんな神業じみた技を真似できないだろう。出来る人間はいるのかも知れないが、多分少数だ。
やがて、革の靴が出来た。
靴は無骨な作りだが、底は厚くなっているし、上の方には飾りのようなものもある。
「カーラ、履いてみろ」
無言で頷くと、カーラは靴に足を通す。
ぴったりの様子だった。
「服も適当に作ってやれ。 その支給品だけだと、いずれすり切れて裸で歩き回ることになるぞ」
「そうだな。 靴、ありがとう。 助かった」
目を細めてドワーフは頷く。目元に深いしわが刻まれていた。
カーラはしばらく靴をいじっていた。植林には関係ない動作に思えるが、或いは何かしら感情に近いものはあるのかも知れない。
靴を見たら、多分キバが大喜びしそうだ。
そう思って、グラは靴を大事そうに撫でているカーラの姿を見つめていた。
(続)
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