人類の黄昏

 

序、壊滅しゆく北の大陸

 

北上しつつある軍勢、およそ五万。

大陸最強を誇る軍団、通称青狼師団を中心とした、イルツルーク王国の精鋭部隊である。

ついに人類が本格的な反抗に出たのだ。

切り立った岩山の頂上にて、無数の足で体を支えながら、複眼でヨーツレットは敵の布陣を観察する。非の打ち所が無い、見事なものであった。流石に血みどろの抗争の中で勢力を広げてきたイルツルーク自慢の精鋭だけはある。

「ヨーツレット将軍」

「陛下。 ここに来られましたか」

無数の節がある体を曲げて振り返る。

其処には、一見して小柄な人間の老人に見える存在が、輿に乗せられていた。陛下と呼ばれたその者は、痩せた手をかざして、布陣する人間の軍勢を見やる。老人は魔術師が纏うことで知られるローブと呼ばれる全身衣を着込んでおり、更に寒いためか、その上から毛皮のマントまで被っていた。

小さな目をしょぼしょぼと動かす老人は、とても細くて、それこそヨーツレットがその長い足でつついただけで死にそうである。

だが。

事実は、違う。

「将軍の見たところ、勝算はどれほどかな」

「現在、各地に展開している軍勢を戻しております。 包囲網はほどなく完成することでありましょう。 しかしながら、この根拠地にいる軍勢は、「補充兵」ばかり三万程度で、とてもではありませんが正面からの戦いで勝てる見込みはございませぬ。 籠城を選ぶにしても、支えきれるかは微妙であります」

「ふむ、まあそうであろうな」

輿を支えているのは、どれもこれもが人間によく似た生物だ。数は二十ほどで、いずれもが、簡素な鎧を身につけている。そして共通して、目には感情の光が存在しない。そして、注意力があれば気づくことだろう。

どれもが、同じ顔をしているのだ。三種類くらいの顔しか、其処には存在していない。

「やむを得ぬか。 力を使うこととしよう」

「陛下のお手を煩わせるのは、誠に心外ながら」

「良い。 思ったより敵の反抗が早かったのは事実だ。 あれだけの軍勢を、瞬く間に我が本拠に派遣してきただけあり、あの軍勢を指揮している奴輩の有能さは明らかなのだろう。 ふん、有能な王か」

老人が、冷酷な声で、露骨に相手を侮蔑した。

輿を進める。

輿を護衛するように、補充兵の軍勢が、じわりと岩山を覆った。指揮官であるヨーツレットも、前に出る。老人の実力はよくよく知っているし、人間では百パーセント勝てる見込みは無い。

だが、それでも。何が起こるか分からないのが、戦場なのだ。

敵が、銅鑼を叩き鳴らし始めた。攻撃の合図だ。

冬の寒さにも耐えられるように、分厚い青い毛皮を鎧の上から纏った軍勢が動き出す。一人一人が青い狼に見えることから名付けられた凶猛な軍団は、今まで無敗を誇っていた。その上、英雄と湛えられるエドワード片袖王が直接率いているのである。兵士達は、勝利を確信していることだろう。

だが、それが彼らの敗因だ。

「陛下、お力を」

「うむ。 かの軍勢を実質的に指揮する人間。 地位が高い順から上から三千人。 死ね」

指を、「陛下」がならす。

次の瞬間。

瞬時に、軍勢が瓦解した。

陣形も何も無い。いきなりの大混乱が、軍勢を襲った。

さぞや驚いたことであろう。軍を指揮していた歴戦の名将達が、いきなり落馬して死んだのだから。更に、本陣にいる片袖王も、今頃は息をしていない事確実であった。

南から、東から、西から。

地面を覆い尽くして、無数の軍勢が現れる。いずれも補充兵ばかりだが、しかし数は十万を軽く超えている。

「後の指揮は任せるぞ。 一匹も生かして帰すな」

「分かりましてございまする」

「ふう、しかし此処は寒いわい。 早く暖炉に当たって暖まるとするか。 温めたミルクも飲みたいのう」

輿が、岩山の中に入っていく。

それを見届けると。ヨーツレットは、全軍に攻撃を命じる。わざと退路を一つ開けておき、徹底的に、執拗に追撃を行うのだ。いきなり指揮官が全滅した軍勢は、もはや秩序など有しておらず。

後は、ただの殲滅戦となった。

この日。

大陸で、唯一魔王に抵抗できる兵力を持っていた国家が。

その王ごと、軍勢を失った。

 

1、魔王とその軍勢

 

フォルドワード大陸。この世界に四つある大陸の中で、もっとも北極に近く、それを取り巻くようにして存在している。四つある大陸の中では、最南端にあるキルレーシュ大陸に次ぐ大きさを誇るが、土地はお世辞にも豊かとは言いがたく、大陸の気候は厳しく。それが故に人類以外の存在である「魔物」が最も長く生息していた場所であったのだが。

それも、駆逐されること既に久しかった。

北極に逃げ込んだ魔物は小心にも人間に対して反抗の姿勢を見せることは無く。一方で人間側にも、流石に桁違いに気候が厳しい北極にわざわざ遠征しようという物好きもおらず。故に、百年以上、フォルドワード大陸では人間同士の戦争だけが行われていた。

それは魔物に対する掃討戦など比較にもならない激しさであり、残虐さにおいても類をみなかった。

肌の色、出身地、使う言葉、宗教。

いずれもが、相手を殺し、滅ぼす理由になった。人間は互いを憎み合い、大陸の、いや世界の支配者の座を確保してからは、傲慢に殺し合いのみを続けていた。

だが。

その状況が、わずか十年で覆されようとは、誰が考え得ただろうか。

突如にして、最北端にあった大陸でも三番目に強大な軍事力を持つリレット王国が壊滅したのは、大陸に人間が渡ってきてから427年目の事。この大陸で使われている暦で、丁度春の日の出来事であった。人口八百万を誇ったリレットは、わずか一年ほどでこの地上から消滅した。

最初その混乱は、政治の壊滅から始まった。

国を支えていた人材が、経済、軍事、政治、関係なしに突如として全滅したのである。王族は一夜にして例外なく全員が不可解な死を遂げ、それからは地獄絵図であった。政治的主導も国家組織も全滅したリレットは、以降は完璧なる無法地帯と化した。

周辺国が侵攻を試みる暇さえも無かったほどである。

混乱は、周辺国にも波及していった。小さな国が、一つ、また一つと、同じようにして壊滅していく。派遣された斥候や使節団は凄まじい混乱を目にするばかりで、原因は全くつかめなかった。また噂が流れるようになった。

魔物による、大反抗作戦が開始されたのではないかと。

魔物を恐れる人間など、誰一人いなかった。個々の能力においては、人間をしのぐものも確かにいるが、種としての力が違いすぎる。実際、小さな戦いでは破れた記録もあるが、大会戦では必ず人間が数と繁殖力と技術力に物を言わせて相手をねじ伏せてきた。魔物には魔術を使う知識も一部を除くと劣悪で、武器の技術もだいぶ遅れていた。だから、これほどの破壊力があるはずもないのだ。

それに、住民が皆殺しにされた訳でも無い。国の指揮をしていた者達や、或いは国を支えていた有能な人間達が根こそぎ死んだ、というだけである。不可解なことに、その死因は、何をどうやってもつかむことが出来なかった。

だが、凄まじい勢いで大陸各国が消えているのは事実だった。統合しようと触手を伸ばす国もあったが、それも次々に滅びた。

魔物は、恐るべき存在を王に抱いたのでは無いのか。それは伝承にしか現れない、いわゆる魔王という存在なのでは無いのだろうか。

まことしやかに、そんな噂が流れ始める。

ほどなく、その噂は現実のものとなった。

リレットの跡地では、もはや国としての形を為さない土地で、多くの人間が殺しあいをしていたが。そこから、大量の難民が周辺国に逃れ出てきたのである。逃げ出してきた難民が、口々に訴えた。

人間を皆殺しにする、訳の分からない集団が現れたと。

魔王の軍勢の、到来であった。

抵抗できる状態に無い国を、魔王の軍勢は片っ端から滅ぼしていった。瞬く間に旧リレットの領地には人間が存在しなくなり、流石に対策を練ろうと連合を組み始めた国々も、次々と王族や主要貴族が謎の怪死を遂げ、足並みが揃わないうちに各個撃破されていった。

パニックを起こす民衆と、混乱する指導者層をあざ笑うように、謎の軍勢は人間の駆逐作戦を着々と進め、そして今日。

ついに、魔王に対抗しうる戦力を持つ最後の国イルツルークが、陥落したのだった。

イルツルーク城陥落の報告を受けたヨーツレット将軍は、魔王の下へ報告に急ぐ。現在、魔王は急あしらえの仮城に住んでいる状態で、未だ豪壮なる宮殿も無ければ、大いなる城壁も存在しない。

「巣穴」と呼ばれる生産施設を兼ねた大きな岩山の中腹に作られたその仮城は、粗末な木の壁で三重に覆われただけの寂しい施設で、周囲にはこれと言った櫓も砦も無い。内部構造も極めて脆弱で、広いことは広いが、ただ大きいだけの蟻の巣穴と同じである。迷路にもなっていないし、罠の類いも用意されていない。防衛には著しく不利な場所だ。戦の専門家であるヨーツレットとしてみれば、こんなところで籠城戦を行うことだけは避けなければならないと考えるほどに、貧弱な施設。

それが、魔物達の希望「魔王」が住んでいる「城」の現実なのであった。

「城」の周囲には、無数の「補充兵」が整然と並び、陣を組んでいる。この間イルツルークの電撃作戦で、この近辺まで人間の軍勢を近づけてしまった教訓からである。兵員は五万。「巣穴」で生産しつつ各地の駐屯地に兵力を送る予定だが、それもまだまだ先の話になる。

まず此奴らの消耗を押さえるためにも陣屋を増やさなければならない。食料については考えなくても良いが、後は輸送手段についても今後考えていかなければならないだろう。

やらなければならないことは、山積みされているのだ。

城の入り口で、補充兵に触覚の先にぶら下げている通用証を見せる。

無言で、感情無き使い捨ての兵士達が、戸を開けた。勿論木で出来ていて、破城槌をぶつければ一発で吹っ飛ぶ程度の代物である。しかも、ヨーツレットにはかなり狭い。他にも大型の体躯を持つグリルアーノ将軍は、這いつくばるようにして戸を通らなければならないのだった。

中に入っても、吹きっさらしの部分は多い。

建屋でも、屋根が無い場所もあり、雪が降ると大変である。穴の中に入ってしまえば多少は暖かいが、大型の将官が互いに行き交うのが面倒すぎる。穴自体は安定しているので落盤の危険は無いとはいえ、いつも難儀するのだった。体がとても長いヨーツレットに穴は相性が良いが、しかしもう少し広くならないかと思う。

だが。

魔物達は、極寒の北極で、もっと狭い地下で数百年暮らしてきたのである。

だから、「純正の」魔物に、此処での生活に不平を漏らす者はいなかった。ヨーツレットも、その境地まで辿り着きたいものである。

穴を深く深く潜っていく。

深部は信頼度が高い「純正の」魔物達が警備している。魔術に長け、森で暮らすエルフ族と呼ばれる者達が、最深部で巡回していたので、声を掛ける。彼らは人間に似ているが、若干背が低く、体が細い。かっては人間と共存していた時期もあり、混血も可能なのだが、人間の数が圧倒的になるにつれて対立。森が無ければ生きられないエルフ族は魔物の一種とされ、追い立てられていった。

北極の地下空間で、小さな人工林で暮らしていたエルフ族も、気の毒に年々厳しい環境で数を減らした。今では、全てをあわせても百四十ほどしかいない。義勇兵に来ている者達の士気はとても高いが、ヨーツレットは出来れば戦わせたくないと思っていた。

「異変は無いか。 将軍達は来ているか」

「ははっ! 今のところ何もありません。 魔王様を始め、幹部の皆様はそろい踏みにございます」

「そうか、私が最後か。 グリルアーノが入るのが大変であっただろう」

苦笑いして、エルフの戦士は道を空けてくれる。

弓を得意とするエルフ族は長生きだが。しかし、それでもこの戦士は、北極から初めて出たという。そして、顔には既に深いしわが刻まれていた。もう若くないのに、戦士として志願してきているのだ。

森に対する思想の対立で、人間とエルフ族は古くから争ってきた。人間からみて容姿が美しいこともあって、争いの終盤は殆ど狩りに等しい状況であったと聞く。若い者は男女問わずに性奴隷として売り飛ばされ、各地で嬲りに嬲られたあげくに無念の死を遂げていった。

この戦士が、深く人間を恨んでいる事を、ヨーツレットはよく知っていた。

最深部に、扉は無い。

ござのような粗末な布が、穴の入り口に掛かっているだけである。それを避けて中に入る。

かって地底湖だった巨大な空間が広がっており、その奥に八名の将軍達が勢揃いしていた。筆頭であり、元帥でもあるヨーツレットも含めて、魔王軍九将と呼ぶ。

最奥に、魔王が玉座に着いていた。

とても小さな玉座である。陥落させた人間の国から、良い玉座をとってこようかと提案した将軍もいたのだが、魔王は笑って謝絶した。その代わり、ドワーフ族と呼ばれる器用で力の強い地底生息種族が、魔王のためならばと制作した椅子に座っている。大理石で出来ていて、石なのに暖かみのある不思議な椅子だ。

ドワーフ族もエルフ族とほぼ同じようにして、人間に駆逐された種族だ。人間に似ているが、だいぶ背が低く、筋骨隆々としていて、男女ともに豊富な髭を蓄えている。エルフ族よりは地底生活に向いている種族だが、やはり長年の厳しい生活で、既に五百弱にまで数を減らしていた。しかも戦士はもう残っておらず、魔王軍の鎧や武器の中で、将軍や高位の者達が身につけるものを優先的に作るにとどまっていた。

彼らは魔王に感謝しており、貴重な大理石を惜しみなく使って最高の玉座を作った。それを汲んだ魔王は、城が少しずつ大きくなってきている今も、大事にこの玉座を使っているのだった。

ローブを着込んだ魔王は、膝掛けを広げている。その上にはかごがあり、ミカンと呼ばれる橙色の小さな丸い果実が幾つか入れられていた。

八将の視線を浴びながら、長い体をくねらせて、ヨーツレットは魔王の前に。

そして、頭を深々と下げた。

「イルツルーク王国、陥落いたしました。 既に補充兵の手配と、掃討作戦を開始しております」

「うむ、見事な武勲であったのう」

「いえ、これも陛下の偉大なお力のたまものにございます」

嘘は一言も言っていない。実際、魔王の偉大なる力が無ければ、攻略戦はこの百倍以上の時間を掛けても成功しなかっただろう。

一見すると、殆ど魔王は人間と姿が変わらない。それも豪傑然とした男でも無く、邪悪な闇を秘めた魔女でも無い。どこにでもいそうな、とても優しそうなおじいさんである。だが、この好々爺が、どれだけ人間のことを憎悪をしているか、ヨーツレットはよく知っている。

多分、魔物達の憎悪を全部併せたとしても。

この老人一人の憎悪に、及ばないかも知れない。

「今後の戦略はどうなっておる? クライネス将軍」

「はい。 皆様、こちらを注目願います」

無数の触手が絡み合い、先端部分にそれぞれ目がついていて、中心部分にはウニのようなとげが生えている異形の将軍が前に出た。彼もまた、非常に巨大な体躯を持つが、しかしテレポートと呼ばれる空間転送能力を持っているため、移動は自由自在だ。

彼はヨーツレットと同じく、魔王の手によって生を受けた「後発組」と呼ばれる存在の一人である。将軍の内四名がこの後発組だ。

クライネスは高い知能を持つ将軍で、今までも人間の国家殲滅の戦略を、殆ど一人でたててきた。いずれの作戦も的確で、軍勢が殆どの場合ローラー作戦だけをすれば良かったのも、殆ど彼の功績といって良い。

しかしながら、参謀という職にありがちなことだが。やはり他の将軍の間からは評判があまり良くない。魔王様の力を好き勝手に使っていると、特に陣頭で戦い続けてきたメラクス将軍や、グリルアーノ将軍は良く思っていないようだった。それに対して、クライネスは紳士的な態度で、粘り強く接し、誤解を解こうと根気良く行動している。

中空に、フォルドワード大陸の勢力図が表示される。

赤が、既に陥落させた地域である。青は魔王軍にとって、これから攻略すべき地域。

つまり、まだ人間が生息している場所だ。

その一部が、紫色に変わる。かなりの広域にわたって、だ。

「イルツルークの陥落により、この地域での掃討作戦をこれより開始いたします。 補充兵の投入によって、おそらく三ヶ月ほどで実施が出来ることでしょう。 それで、その後ですが、アンダルシア王国、クレーン帝国と、順番に攻略し、最後にこの一帯にある小国群を滅ぼすことで、フォルドワードを人間の手から奪回できます」

おおと、声を上げたのは、カルローネ将軍である。

最も高齢であるカルローネは、後発組では無い。北極に元々逃げ込んでいた魔物達の顔役の一人で、フォルドワードに人間が攻め込んできた頃から生きている、歴史の立役者だ。

彼はいわゆるドラゴンと呼ばれる超大型は虫類であり、全体的には蜥蜴に似ている。肌は青黒い美しい鱗に覆われ、顔の後ろには鋭いエリ飾りと角が複数生えており、背中には空を切り裂く翼があった。

ドラゴンは魔物の中でも最も有力な一族だが、人間にとっての商品価値も著しく高く、各地で容赦なく狩り立てられ、滅ぼされてきた。既に生き残りは彼と、グリルアーノ、それに十を数えるほどしかいない。

既にカルローネは生殖能力を失っており、そういう意味でも前線に立つことは吝かでは無いようだった。もっとも、本人の戦闘能力は著しく高く、補充兵の大群と組み合わせることにより、圧倒的な破壊力を発揮することが出来るが。

「いよいよか、いよいよなのか。 長かった。 長かったのう」

老いたドラゴンの両目から、涙がこぼれている。

絶望的すぎる状況。極寒の地獄で、次々屈強なドラゴンさえ果てていった悪夢。それが、ようやく終わろうとしているのだ。

人間に対して負け戦ばかり繰り返してきたのを、ずっとみてきたカルローネである。画期的かつ圧倒的な勝利をみて、感極まるのも無理は無い。

クライネスが、更に提案を続けた。

「大陸を攻略後、続いて文治組織を作成いたしましょう。 今後は奪回した領土をそれぞれの種族に割り振らなければなりませんし、それ以上に復興策を効率よく進めるためには、いつまでも軍政を続けていてはなりません」

「しかし、それでは人間共と同じように、政争が始まってしまうのでは無いのか」

懸念を示したのは、グリルアーノである。彼はまだ若いドラゴンであり、戦闘的な性質を示すように全身は真っ赤である。

しかしながら、カルローネに比べて二回りほど体は小さく、当然戦闘能力もあまり高くは無い。ドラゴンは若いほど性格が血気盛んなのだ。だから、人間に効率よく刈り取られてしまったのだが。

カルローネがテレポート能力をはじめとする数々の魔術的能力を有しているのに対して、グリルアーノは魔術を殆ど使うことが出来ない。ドラゴンとしては、まだまだ修行中と言って良い若造なのだ。だからカルローネは最後まで、参戦に反対した。だが、一族の戦士を代表して、どうしても義勇軍に加わりたいと言って、初期から軍に参加している。

「其処は、魔王様に指示を仰ぎましょう」

「ふむ……」

「案ずるな」

魔王が、その時初めて口を開く。

周囲がしんとするのも、魔王に対して、絶大な敬意を払っているからだ。それに、敬意だけでは無い。

皆、この穏やかな老人が、大好きだ。

「元々、人間が侵攻してくるまで、フォルドワードでは魔物同士の諍いも殆ど存在していなかったからのう。 問題は、他の大陸から逃げてきた者達だが、そっちも問題はおそらく無いだろう。 彼らはそもそも数が著しく少なく、人間が元から住んでいた土地で我慢してもらい、数を増やすことに専念してもらう他あるまいて」

「仰せの通りにございます」

人間が強行的な侵略を実施する前も、この大陸は魔物達と人間が、ある程度のバランスをもって勢力図を作っていた。

魔物は基本的に生息域で縄張りを作り、それぞれが互いを侵し合わないように不文律を作り生活していた。

今後は、それを復活させれば良い。

とにかく、どの種族も、今は数が足りなさすぎる。政争だ何だというパワーさえも残っていないのだ。

「それで、この大陸を落とした後はどうする」

重苦しい声を上げたのは、メラクス将軍だ。

彼も後発組では無い。魔物の中ではドラゴンと比肩する存在である、いわゆる「魔族」の出身者だ。

魔族は巨大な人間といった雰囲気の存在であり、場所によっては悪魔とか巨人とか、様々な呼ばれ方をする。人間がただ大きくなったのでは無く、耳がとがっていたり角が生えていたり、尻尾があったり翼があったりと、いろいろ体のオプションが充実しているのも特徴だ。

異世界の住人だとか人間は考えていたようだが、実際はこの世界の固有種であり、遠い先祖は人間と同じだという説もある。

メラクスは頭に三本の角を生やした筋骨隆々とした魔族の戦士であり、背中には巨大なコウモリの翼がある。既に中年に入っているが、三つある目にはいずれも鋭い意思の力があり、みなぎった筋肉は戦闘能力を示すようにたくましい。険しく結んだ口元からは、二本の長い牙が生えており、天に向かってそそり立っていた。全身の体色は、その激しい性格を表すように、魔族の中で戦意を示す緑だった。

巨体と言ってもグリルアーノやカルローネらドラゴン、ヨーツレットらの後発組将軍ほどでは無い。だから、この空間では、むしろ小柄な方に属していた。ただ、彼は北極に閉じ込められていた魔物の中では、最強硬派の一人であり、最も過激な思想の持ち主であった。その性は溶岩のごとしなどとさえ言われる。

「我らの故郷であるキタルレア大陸では、既に人間がこの事態を察知しているという報告もある。 技術力が進んでいて人口が多いエンドレン大陸も、下手をすると数十万単位で軍勢を送り込んでくる可能性がある。 文治政策も結構だが、人間をさっさと滅ぼさないと、手痛い反撃を受ける可能性が高いぞ」

「そうなると、常備兵を整えて、早々に侵攻を仕掛けた方が良いのかな」

カルローネが言う。どちらかと言えば穏健な思想だが、だからといって人間への憎悪が薄いわけでは無いのだ。

挙手したのは、下半身に無数の蛸の足をはやし、上半身は巨大な目と椰子の木のようなとがった触手を持つ異形の将軍だった。中央部にある禿頭の頭部だけは、人間に似ている。後発組では無い将軍としては、もっとも奇異な姿をしている彼女は、スキュラと呼ばれる海洋種族の生き残りである。既に同族は存在していない。

ただし、単為生殖をする種族なので、まだ滅亡したわけでは無い。

「グラウコス将軍、意見があるのか」

「敵地に侵攻を仕掛けるにしても、足がありませんわ。 クライネス将軍が言うように、常備軍五十万を達成したとして、侵攻軍を二十五万とします。 しかし、それだけの兵士を短期的に送るすべがありません。 人間の船を奪うにしても、隣の大陸までは近い方のエンドレンにしても、最短距離で七日かかります。 しかも味方の兵士は、大半が戦闘力の低い補充兵となれば、各個撃破されるのが落ちでしょう。 魔王様の力を借りるにしても、もしも一つの大陸を攻略中にもう一つから攻め込まれると、かなり難しい状況になると言わざるを得ません」

「ふむ、やはりまだ難しい状況か」

「それならば、まずは厄介そうな方から、足を潰すとしようか」

不意に魔王が発言したので、皆一斉に注目した。

膝掛けの上のミカンを食べていた魔王は、もぐもぐと口を動かし、咀嚼する。しかし間髪入れずに咳き込んだので、ヨーツレットは心配になった。

「げほげほっ! げふう! むー、ううむ、皮のまま飲み込むと、ちょっとしんどいのう」

「それでは、次からは皮をむき、食べやすいように切り分けてお出しいたします」

「いや、これでいい。 そのような手間を掛ける暇があったら、北極で寒い思いをしている魔物達を、少しでもましな生活をさせてやるのじゃぞ。 まあなんだ、儂がちょっと我慢すれば良いだけのことだからな。 我慢には慣れておるで、平気じゃ。 それで、これからの戦略なのだが」

皆を見回す魔王。将軍達の全員が注目する。

「儂の能力、三千殺しを使い、厄介そうなエンドレンの国家群を、ことごとく混乱させる」

三千殺し。

その名を聞いて、ヨーツレットは緊張した。

これぞ、魔王の持つ、究極の力。本人も優れた使い手であるのだが、それ以上にこれがあるからこそ、魔物は一気にこの北の大陸を席巻できたのだともいえる。

魔王は、条件を指定した三千人を、一日一回、任意に殺す事が出来るのだ。対象は人間だけに限られるが、たとえば「全世界で最も武勇が優れている人間上から三千人」とか「最も将来性がある人間上から三千人」などと言った、非常にアバウトな条件であっても能力は発動。

対象とされた人間は、その場で心臓麻痺を起こして即死する。

どれほど頑健だろうが、すぐれた魔術で体を守っていようが、一切関係ない。「人間である」というだけで、この能力の発動からは絶対に逃れられない。クライネスの話によると、世界には全ての情報を納めた「神の記録庫」なる存在があるらしく、それに接続して起こしている一種の「災害」なのではないかと言うことであった。

三千人は、数億とも言われる人間から比べれば、確かに微々たる数だ。

だがこれだけの数を一度に消せば、たとえば十万単位の軍隊を一瞬にして烏合の衆にすることが出来る。国家を運営している人間を、根こそぎ駆除することも可能だ。

人間は、単独ではそれほど強くない。

集団戦で、力を発揮する生物なのだ。

その強みを、最も効率よく消してしまう力。それが、魔王の持つ、三千殺しなのである。空間などどれだけ離れていても関係なく発動するコレの前には、いかなる英雄豪傑であろうと、ひとたまりも無い。

フォルドワードがこの短期間で壊滅同然の状態になったことからも、その破壊力は折り紙付きである。

「クライネス将軍は、グラウコス将軍と共同して、千の兵士を乗せられる補充兵の設計に入るのだ」

「千の兵を、ですか」

「そうだ。 速度は遅くても良いから、安全を第一に考えよ。 何、材料はいくらでもあるからな。 そうさな、それを四百。 この大陸から、人間を駆除する前に作成出来るか」

「やってみます。 しかし、かなり難しい作業となります」

無数の触手を揺らして、クライネスは言う。

この知恵多き者がそう言うのである。他の将軍に、出来ることでは無いだろう。

魔王は頷くと、任せると言った。

それだけで、羨望の視線が、クライネスに注ぐ。これはしばらく、この有能な参謀は、嫉妬から逃れられないだろう。

「他の諸将は、事前の作戦通り、人間の国家を各個撃破せよ。 他の大陸に逃げる人間に関しては、あまり気を遣わなくてもかまわぬ。 どうせ多くは逃げられぬし、逃がしたところで近々死ぬことになるのだ」

「ははっ!」

「それを達成し、この大陸から人間を駆除し終えたら、常備兵を五十万まで増強する事と目標とする。 さてだいたいこの辺かな。 さて、何というか、ちょっと疲れたのう」

何だか魔王が眠くなってきたようなので、将軍達は気を利かせて退出に入る。気性の荒いメラクスやグリルアーノも例外では無い。

魔王は大あくびをしていたが、やがてミカンを片付け、暖炉がある部屋に、エルフ戦士達の護衛をつけて向かった。そうしないと、迷子になってしまうのである。魔王はとても方向音痴なのだ。しかも若干呆け気味なので、うっかりするととんでもない所に迷い込んでしまう。この間は女子更衣室に迷い込んで、ひんしゅくを買っていた。

今更子孫を残すもないし、ハレムの類も作る予定は無いようだ。まあ、魔王の寿命については心配いらないという話なので、ヨーツレットが気をつけて身辺を守れば問題ない。後は喉に詰まりそうなお餅とかは出来るだけ出さない工夫が必要だろう。

一番最後に退出すると、ヨーツレットは一旦外に出る。

長く伸びきった戦線の各地で、激しい戦いが続いている現状、末端ではヨーツレットや他の将軍達が頑張らなければならない。

外では、レイレリアが待っていた。

後発組の将軍の一人で、空軍を担当している。といっても、まだ空軍の補充兵は数少ないので、軍団を編成中の段階だが。

レイレリアは巨大な風船から、無数の触手をぶら下げたような姿をしていて、四つの円盤が頭上で回転している。風船は縦縞模様の赤と白で、真ん中辺りに目が十七個、円周上に並んでいる。

他の後発組将軍と同じく強烈な異形だが、実はとても恥ずかしがり屋の乙女だ。

「ヨーツレット、魔王様大丈夫かな。 何だか私心配だよ。 お仕事させると、凄く疲れるみたいなんだもん」

「陛下は人間への憎悪を心の糧にしておられるからな。 しかし、他の将軍の前でその口調はいかんぞ」

「そんなこと、分かってるわよ! あんたの前でしか、ため口でなんかしゃべらないんだからね! あ、か、か、勘違いしないでよ! あんたを特別だなんて思ってないんだから!」

何だか勝手に真っ赤になってくるくる回るレイレリア将軍。よく分からん奴である。

まあ、それでも空中戦での指揮を目的に調整されているだけあり、戦闘能力は充分なものがある。

さっき話題に上がった、異大陸への侵攻作戦の際には、海軍の護衛として充分な実力を発揮してくれることだろう。それに、元々空軍は二万まで規模を拡大する予定になっている。今は手が空いていても、じきにいそがしくなるのだ。

宮殿に入る側とは、逆方向にある穴から、ぞろぞろと影が出てくる。

新しい補充兵だ。

補充兵。現在、魔王軍の主力となっている者達。魔物の中でも正体はあまり知られていないのだが、ある特徴がある。

下級になればなるほど、理性が無い。そして、見かけが人間に似てくるのだ。

たとえば、小隊を構成している補充兵は、近接戦闘に優れたオーク、機動力に優れたコボルト、弓を得意とするゴブリンに分類される。だが、これらはどれも人間に見える上に、しかも個体は全て同じ顔をしている。

更に言えば。

元々存在しているゴブリンは子鬼と呼ばれていて、人間より若干小柄で、丸い顔をしていて、牙が鋭い種族である。簡単な道具を使いこなし、知能も人間の子供くらいはある。このゴブリンは、他の魔物同様、北極にごく少数が生き残っているだけだ。

コボルトは犬鬼と呼ばれており、ゴブリンよりも更に小柄な種族である。知能は更に低く、名前の通り顔は犬に似ている。どちらかと言えばおとなしい種族であり、人間との争いでは殆ど抵抗できずに虐殺されてしまった。今では、三十そこそこしか生き残りが存在せず、北極から出ることも無く、静かに暮らしている。魔王はそれを哀れんで、積極的に獲得した領土を与えるようにとヨーツレットに命じたくらいだ。

そしてオークだが、こちらは豚鬼と言われている。ゴブリンより若干大柄で、分厚い脂肪で全身を覆い、顔は豚によく似ている。知能はコボルトよりも更に低く、人間で言えば幼児くらいだ。性質は若干荒いが、実は豚と同じく非常にきれい好きで、現在生き残っているわずかな個体は志願して魔王の近辺で掃除をしているくらいである。

つまりだ。

補充兵として使われているゴブリン、コボルト、オークとは、似ても似つかない。

現在補充兵はこの三種類に加えて、人間の倍近い体格を持つオーガとトロールと呼ばれる種族が実戦投入されている。小隊長として運用されているこの二種類も、ただ体格が大きいだけで、人間と見かけは全く同じである。ただし、知能はずっと雑兵よりも高く設定されている。

魔物として存在しているオーガも、トロールも、勿論これらとは全く別の存在なのだ。

補充兵は、かっては設計から魔王がこなしていたが、現在は九将の一人、後発組のガルアザードが設計を行い、生産自体もだいたい行っている。このため、現在では魔王の仕事は、三千殺しの行使が殆ど全てと言っても良かった。

「私の補充兵は、まだなの? 今空軍にいる魔物達は、みんな絶滅寸前の種族から来ている志願兵ばかりなのよ。 これじゃあ戦えないよ」

「材料はいくらでもあるから、心配するな。 今、この大陸での戦況は圧倒的有利だし、じきにそちらにも補充の手が回る」

「本当でしょうね」

「嘘をついてどうする。 それに、空軍の活躍の場はこれからだ。 今後海上輸送をする際に、護衛としてこれ以上無い重要な仕事をしてもらうことになるのだから、今はゆっくり英気を養っていてくれ」

分かったわよと、不満そうに言いながらも、レイレリアは引き下がった。

現在、予定の五十万の、三割ほどしか兵員はいない。そして予定の数が揃ったら、後は兵力の補充施設を各地に作り、集めてきた材料を用いて、質を改良していくことになる。勝ち続ける限り、材料はいくらでも手に入る。

何しろ、不自然なくらい世界には存在しているのだから。

 

2、灰燼に帰す

 

キタルレア大陸の中央部にあるコルレット王国。

特色も無い小さな国であり、名君と呼べる王が出るわけでも無く、平和と呼べる訳でも無い。周辺の諸国と小競り合いをずっと繰り返してきた、その国の民で無ければ興味も持たないような存在である。

大陸中央部を流れる大河キタラの周辺にある小国の一つであり、主に農業と、山岳地帯での牧畜で民を支えてきたこの国は。別に何百年も存在しているわけでは無く、八十年ほど前に大陸中央部に覇を唱えていたイラニル帝国の分裂と崩壊に伴って独立を宣言し、まだ存続しているにすぎない。国王も、かっては帝国の藩主に過ぎない存在だったが、時流に乗って王と名乗っただけであり、その前身は一将に過ぎなかった。

大河に沿って栄えてきた国だけあり、交易と、情報だけは盛んにやりとりされている。故に、民の多くは知っている。

既に、北の大陸に人間が存在していないことを。

そして、この大陸でも、西の方にある幾つかの国家は、既に灰燼に帰している事を。

箝口令が敷かれているが、それ自体が、実体を告げているようなものだった。旅人達は、口をそろえて迫り来る恐怖について告げている。既に、大陸の東に、逃げ出す準備をしている者達もいた。

国の西端にある町イルシュは、山間の街道を塞ぐようにして作られ、砦と一体化した要害であり、二万の敵兵の攻囲に耐え抜いたこともある。強固で分厚い石壁には、魔術での攻撃を防ぐために淡い紫の光を放つ術式刻印が刻まれており、旅をする際には遠くからも目立つ。町をぐるりと囲んでいるこの城壁は、今まで一度も敵兵を通したことが無かった。狭い街道と、切り立った周囲の山々は天然の城壁を為し、確かに難攻不落の名を誇るに相応しいように見えた。

ゆっくり城の周囲を回ったイミナは、この町の頑強な防備について、一通り確認を済ませた。その上で結論する。

この町では、守りきれない。

かといって、今の時点で魔王軍の侵攻を食い止められそうな町には、あまりにも遠すぎる。激しい戦いを何度もこなしながら、どうにか此処まで下がったのである。何とか、此処で敵の出鼻をくじきたいというのが本音であった。

勿論、本格的な防衛戦が無理だと言うことくらいは分かっている。

近くの岩山に上がって、見下ろす。山の間を縫うようにして、街道が走っている。石畳はかなり古くなっているが、それなりの人数が行き交っているからか、埃を被ってはいない。

町はそれなりに栄えているが、やはり得体が知れない恐怖を感じているのだろう。周辺に配置している見張りの兵士は、かなり増員されている様子だった。

フォルドワード大陸が陥落してからおよそ十年。

既に、この国にも、魔王の手は迫っていた。

山から下り、木々をかき分けて街道へ。城門で通行証を見せて、中に。

妹のシルンは宿で待っているはずだ。好奇心旺盛なあれも、流石に殺気だった町をふらつくほど無防備では無いだろう。共に戦場での地獄をかいくぐってきた仲だ。それくらいの緊張感はあると信じたい。衣服についた葉っぱを取り捨てながら、小走りで歩く。ゆっくり歩くと言うことを、イミナはしない。急ぐ事が習慣になっているのだ。

だが、宿の自室に戻ると、妹は影も形も無かった。代わりに、書き置きが残されていた。

「時間がありそうなので、ちょっと町をみてきます」

「あいつは……」

髪の毛を乱雑に掻き回すと、イミナは舌打ちした。

現実主義者のイミナと双子にも関わらず、シルンの性格は正反対だ。体の中にいるアレの性質も全く違っている。だからいとおしくもあるのだが、アホな所にはたまにイライラさせられる。

宿を出ると、市場の方へ。

まさか此処が最前線になる可能性があると、思っていない者も多いのだろう。そこそこに物資は豊富で、色とりどりの果物類もあった。この国の言葉は、キタルレア大陸で標準的に使われているキタルレア語だ。若干フォルドワードで使われていたアンセム語とは違うが、もう流石に覚えた。

シルンの趣味はウィンドウショッピングだ。市場でも、店を冷やかして歩くのが大好きである。そのため、たちが悪いのにも絡まれやすい。

自衛能力については心配していない。

目立つことを、イミナは心配していた。

「どうだいお嬢ちゃん。 みていかないか」

気のよさそうな老人が、声を掛けてくる。フードで顔を隠しているが、十代後半にもなると、やはり体つきだけで性別は分かるようになってしまう。これが大変面倒だ。全身の肌をほぼ隠しているイミナに対して、老人は二の腕までまくり上げている。赤黒い綿の服は多少汚いが、通気性は良さそうだった。ズボンもすり切れてはいるが、それなりに綺麗で、生活水準の高さをうかがえる。

もう秋が近いというのに、肌を見せる服装など、北の大陸では考えられなかった。だが、此処ではそれが普通だ。

出来るだけ顔を見せないように、店を確認。

果物の店だ。この地方ではよく売られている、マンゴと呼ばれる果実が並んでいた。

一つ手に取る。よく熟れていて、美味そうだった。

どうしてもイミナはシルンに甘い。値段も適切だったので、そのまま二つ買う。一つでもいいのだが、シルンはどうしても二つに分けたがるから、最初から二つ買っていった方が良いのだ。

市場を歩いていると、見つける。

銀の髪を持つ、小柄な影。いつも表情に影が差すシルンとは真逆の、太陽のような笑顔を浮かべる娘。

イミナの双子の妹だ。

ショートカットにしているイミナと違って、髪を伸ばしている辺りも違う。しかし顔を並べてみると、双子だとよく分かるのだ。雰囲気だけで、人はこうも変わるのだと、不思議な気分になる。

イミナと違い、この辺の平常服である綿の服を着て、二の腕まで肌を露出もしている。上は空色で、膝下まであるズボンはベージュ。靴も、それなりにおしゃれなものを履いていた。

此処で調達した衣服である事は間違いない。いつの間にか着替えたのか。

しかも、この辺りでは黒髪が普通だから、銀髪のシルンは目だった。

「おやじさん、もう一声!」

「そういわれてもなあ、これ以上は商売あがったりなんだよ」

「ええー。 けちー」

「なんと言われても、これ以上は駄目だ」

いかにも強面な男も、たじたじとなりながら、値切りを拒否している。

もっとも、いかにも陽気であけっぴろげなシルンだから、店主も怒らずにいるのだろう。イミナだったら門前払いされそうだ。

シルンが買い物を終えて戻ってくる。

無言で立ち尽くしているイミナをみて、ご機嫌だったシルンは、見る間にいたずらを見つかった子供の表情になった。

「あ、お、お姉!」

「話は後で聞く。 宿に戻るぞ」

「う、うん」

ちょっと残念そうにシルンは市場をみたが、咳払いすると亀のように首をすくめた。

フードで人相を隠せと言っても、どうしてもやらない。平均よりも優れた美貌の持ち主である事を、シルンは理解してない。だから、明るい表情と、意外に凹凸がハッキリしている体もあって、とても目立つ。

だから、余計なトラブルも呼び込みやすいのだ。

「余計な敵を作りたくないと、いつも言っているだろう。 目立たないように動け」

「はーい」

不平満々といった様子で、シルンは口をとがらせる。子供みたいな表情だが、しかし裏表が無くてわかりやすい。

手には戦利品らしい、非実用的なアクセサリやら何やらがたくさんぶら下げられていた。まあ、金ならある。だから、別に多少浪費しても良いだろう。

「お姉も少しは身を飾ればいいのに」

「興味が無い。 それに、飾るべきところで飾れば良い」

「でも、いつ死ぬかも分からないんだよ。 少しは楽しく生きようよ」

「そんなことを考えていると、死ぬ確率が上がるぞ。 こんな小さな町、侵攻が始まったら、数日も保たないだろう」

それを聞いて、多分流石に悟ったのだろう。

シルンは、表情を引き締めた。

既に、兆候がある。

魔王軍は基本的に、国を一つずつ集中して潰していく策に出る。現在この国の北に存在しているニア連邦が攻撃を受けているのだが、まだ攻撃が開始されてから二日程度という事もあり、まだ民に動揺は広がっていない。

だが、それがまずいのだ。

一度目をつけられた国が崩壊するのは、異常に早い。

大陸中央部には、まだ魔王軍の恐ろしさを知らない連中も少なくない。流石に国家上層になると知らない者はいない様子だが、それもこのような小国になってくると、どこまで正確に把握しているか。

宿に戻ると、この近辺の地図を広げる。

今、この場には斥候をしてくれているジャドがいない。北の大陸以来の縁だが、ここしばらくは姿を見せない。

まさか命を落としたとは思いたくないが、想定しなくてはならないことであった。

「ニア連邦の様子はまだ分からないの?」

「あの国は元々上層部の意思統一もされていないし、常備軍も三万程度しかいない。 多分、三日で組織的抵抗が出来なくなるだろう」

「そんな……」

「事実だ。 ただし、その後の掃討戦には時間が掛かるはずだ」

つまり、民を皆殺しにするために、魔王軍は足を止める。領地から、人間を完全に駆除して廻るのだ。

その徹底ぶりは凄まじく、何度もそれから逃れたイミナも目の奥に焼き付けている。

人間は、元から嫌いだった。

シルンを守って生きてきたイミナは、魔王軍が侵攻を始める前には、既に人を殺したことがあった。二度や三度では無い。

そうせざるを得ないほど、生まれた環境が悪かったと言うこともある。

しかし、そんなイミナにしても。魔王軍の偏執的なまでの徹底ぶりには、思わず目を背けるほどである。

魔王とやらの実在は、もはや疑いが無い。

だが、その精神は一体どれだけの残虐性を秘めているのか、想像を絶するほどだとしか思えなかった。

「いつになったら、あんな非道をやめさせられるの?」

「今は無理だ。 力が無い」

「でも、お姉もわたしも、だいぶ強くなったよ! 術式だって、師匠が生きてたら、きっと勝てるくらいまで覚えたもん!」

「駄目だ。 補充兵の少しくらいなら倒せるが、数が違いすぎる。 連中がどうやって、攻略する国の上層を崩壊させているのか探り出すまでは、下手に動けない」

意見の対立は、しかし方針の対立は生まない。

しばらく周囲の地形について、説明を続ける。基本的にシルンは戦えるが、しかし地形が分からないと戦力を十全に発揮できない。特に近距離まで接近されると面倒だ。

だが、そのためにイミナがいる。

だいたいの確認を終えた。

「じゃあ、今日からは野宿だね。 此処の宿のお昼、美味しかったのになあ」

「敵の出鼻をくじけば、また食べられるかも知れない」

「そうだと良いね」

半ば諦めているイミナと違って、シルンはそれに希望を持っているようだった。

少し、ベットで仮眠を取る。それから、マンゴを二人で分けた。

そういえば、不思議なことに、言葉が違っても固有名詞はどこの大陸でも共通している事が多い。最初この大陸に逃れてきたとき、一番驚いたのはそのことだった。

師匠が生きていたら、興味深いとか、不思議だとか、言ったかも知れない。

夕刻。

町に出ると、騒ぎが起こっていた。難民が、北から逃れてきたらしい。

ぼろぼろの民が、ぞろぞろと蟻のように続いている。中には着の身着のままどころか、殆ど着衣を纏っていない者さえもいた。城門を開放した兵士達が、蒼白な顔を集めて話し合っている。

「とうとうこの近くまで来たらしい」

「おい、冗談じゃねえ。 連邦の軍勢は三万を超えてるはずだぞ。 侵攻が始まって、まだ十日も経ってないじゃねえか。 各国から援軍も出てるって話なのに」

「アドラード要塞が、二日しか保たなかったって話だ。 主力が敵に飲み込まれてからは、後は殆ど虐殺だったとか」

「うちの国からも、援軍は二千出てたはずだ。 援軍に行った連中は、どうなったんだ」

唇を噛んでいるシルンを促す。

城門から出ると、難民は数を増す一方だった。体力の無い子供や女性は、殆ど瀕死の有様である。

確か、ニア連邦の人口は百万を超えていたはずだ。

逃れ出ることが出来た民は、その一割いたか、いないかだろう。そして敵の消耗は、ほぼ期待できない。

次のターゲットがどの国になるか次第だが。

いずれにしても、国境線まで、敵は出てくるはず。それを見越して、シルンもイミナも、ここに来ているのだ。

若い指揮官が叫んでいるのが見えた。精悍な顔つきをした、だが経験が足りなさそうな士官である。

「出撃命令を! 今なら、追撃を振り切って逃げてきた多くの難民を救えます!」

「この砦の兵員は五千しかいない! もしも敵と遭遇した場合、この砦を守れなくなる」

司令官らしい中年の将軍が、蒼白なまま応えている。若い指揮官と言い争いをしているが、そうこうしているうちに、犠牲は増える一方だろう。

あまりにも、例が無い敵。

人類は、足並みをそろえる前に、各個撃破されている。

だが、いつまでも好き勝手にはさせない。少しでも敵の進撃を鈍化させ、能力を解析し、存在自体を理解していけば、いつか必ず反撃の機会が訪れる。そしてそのために、イミナとシルンが出来ることは、限られていた。

門をこっそり出る。

混乱の中では、難しくなかった。

既に夜が来ようとしている。だが、難民の群れはまだずっと続いている。山間の街道から逃れてきている難民の中には、どうやら敗残兵も混じり始めたようだ。この様子では、そろそろ敵の先鋒が姿を見せてもおかしくない。

「ジャド、どこ行ったんだろ」

「さてな。 生きていれば、いずれまた私達の前に現れるだろう」

街道を外れて、山に。

難民達は争う気力も無いようで、無言で歩き続けていた。星明かりを頼りに、山を登る。手をかざして、遠くを見た。

目を細めて、闇に瞳をならす。聞き耳を立てていたシルンが、顔を上げた。

「近いよ、お姉。 数は、百、いやもっといる」

戦いの音がする。

敗残兵が、必死に敵の大群に抵抗しているのだろう。ならば、多少はやりやすくなる。

バックパックを開けて、取り出す。

深紅の手甲だ。

シルンは、杖を組み立てる。

妹が使う杖は、柄の部分だけで彼女の背丈ほどあり、先端部に月をかたどった大きな飾りがついている。

太陽の形の方がシルンには合っているような気もするが、師の形見だ。そう言ってもいられない。

「接近し、可能な限り殲滅して、後退」

「分かった。 近距離でぶっぱなすから、お姉、いつもみたいにガードして」

「任せろ」

がつんと、胸の前で手甲を併せる。

そしてバックパックを置き去りに、山を駆け下った。

無数の木々の間を走り抜けながら、戦の音へ迫る。星明かりの下、阿鼻叫喚の修羅場がすぐ近くにある。

何処か、暗い喜びを、イミナは感じていた。

 

本当に、訳が分からない戦いだった。そして、今も現実の事とは信じられない。だが、戦わなければ殺される。

ニア連邦の士官、イジット中尉は、剣を振るいながら、必死に現実と戦っていた。

敵が押し寄せてきた。文字通り、雲霞のような数だった。どれもこれもが、人間と似たような姿をしていた。

しかし、決定的に違ったのは。

目に感情が無く、黙々とただ蟻のように押し寄せてくる、ということだった。

刺しても斬っても、完全に死ぬまでは、動きを止めない。痛みも感じないのか、隣にいた兵士などは、真っ二つに斬り下げた筈の相手に、槍で突き殺されていた。

敵の中には、やたら体格が良いのも混じっていた。人間と同じ姿なのに、二十匹に一匹は背丈が倍くらいある奴がいたのだ。どうも小隊単位の指揮官であるらしい。更に百匹に一匹は、更に大きいのも混じっていた。

そういうのは、矢を浴びても剣を受けても、びくともしなかった。

幾多の戦いを耐え抜いた難攻不落のアドラード要塞だったのに、文字通り味方の死体を踏み越えて迫る敵の前に、わずか二日で陥落。どれだけ倒しても敵は前進をやめず、しまいには死骸が城壁の高さまで積み上がり、攻城兵器など無視して登り上がってきた。そうなってしまうと数の差が物を言い、どうにもならなかった。

逃げ出した軍勢は体勢を立て直そうとしたが、敵は補給も休息も必要ないようで、どれだけ逃げても追いすがってきた。

首都まで逃げ込んだときには、既に軍勢は壊滅。もはやどうにもならない事態になっていたのである。

そして、民を逃がしながら必死に此処まで後退したイジットの前には、文字通り雲霞の如き追撃軍が迫っている。

狭い街道は、文字通り真っ黒に埋め尽くされていた。険しい山にまで、敵ははみ出している。木々の間からは、味方の影は見えない。敵しかいない。

部下は既に残っていない。各国から派遣された援軍も、全滅状態だ。

王族ももう一人も生きていないだろう。

連邦という国は、もはや滅びたのだ。

「くそっ! 奴ら、疲れを知らないのか!」

絶叫した兵士が、敵兵の首をはね飛ばした。だが、その死骸を踏み越え、次が来る。無数に突き出される槍。一つ一つは練度が低くても、疲れを知らず、痛みも知らない上に、数が多すぎる。

兵士が、串刺しにされる。

鮮血と絶叫。地面に押し倒された兵士を助けようにも、無理だ。黒山のようにたかった敵が、見る間に肉塊にしてしまう。槍を持った奴の他にも、とどめを刺すのを専門にしている、大きな剣や斧をもったのもいるのだ。

街道の向こうは、真っ黒なほどに敵が充満している。逃げ遅れた者がどうなったかなど、言うまでも無いことだ。

槍が、穂先をそろえて迫ってくる。

下がりながら、穂先を払う。だが、たとえ素手になっても、敵兵は迫ってくる。人間と違い、死など恐れてはいないのだ。

「増援は! 増援は来ないのか!」

「来たってどうにもならねえよ! 畜生っ!」

まだ、騒いでいる兵士達はいる。

だが、その声も確実に少なくなりつつあった。

その時、である。

不意に、山の上から飛び降りた、小柄な影が。イジットの前に、背中を向けて着地した。

立ち上がる小柄な影。

沈んだ低い声。女か。

「下がれ。 時間を稼ぐ」

反論を待たず、影が踏み込む。同時に、拳を繰り出す。

冗談のように、頭一つ大きい敵兵が、体をくの字に折った。無言で女は動き、繰り出された槍を軽く払いつつ、半回転して蹴りを見舞った。また敵が一匹吹き飛ぶ。首がへし折れているのを、イジットはみた。

速い。

徒手空拳で戦う技の持ち主がいるとか聞いたことはある。だがそれはあくまで儀礼的な武術であり、実戦で使えるというのをみたことは無い。どんなに優れた拳の技でも、間合いの関連で武器にはかなわないのが常識なのだ。

だが、小柄な女は、右に左に、片っ端から敵を薙ぎ払っている。一撃で確実に一体を仕留め、次の相手と渡り合い、また打ち倒す。

拳が振るわれるたびに敵兵が体を降り、蹴りが虚空を抉るたびに敵の首があり得ない方向に曲がった。

だが、敵の中から、ひときわ大きいのが出てくる。

同じ顔をしていても、倍近い体格が、どうしても目立つ。イジットは負傷兵に肩を貸して下がりながら、駄目だと呟く。

あの大きいのは、強い上に頑丈だ。人間が、一対一で勝てる相手ではない。長い槍を持った大きいのが、唸りながら迫ってくる。槍は、既にべっとり血に濡れていた。

振り下ろされる槍。槍は突いても薙いでも叩いても使うことが出来る。その上、その全てで充分な殺傷力を誇る。近接戦で、剣など比較にならないメインウェポンとして、世界各地で活躍しているのは伊達では無いのだ。

槍が、街道を叩いて、凄まじい音を立てる。

その時、女の体は。

振り下ろされた槍を優しく押さえるようにして、飛んでいた。槍の勢いを逆手に取り、飛んだのだと分かった。空中で大きいのの頭を、女が掴む。

そして、頭頂部に膝を叩き込んでいた。

「なっ!?」

大きいのが、崩れ伏す。

今までの攻防で、悟る。これは練度がどうという問題では無い。女は、おそらく人間では無い。

魔術を使っているのでも無いとすると。奴は一体何者だ。

大きいのが崩れ伏すが、敵の戦意は衰えない。まだまだ、後ろから雲霞のように迫って来る。また、一人兵士が転んだ。起こす。子供が泣いている。抱えて走る。何とか、城壁の中まで逃げ込めば。

どうにか、なるのか。

敵は、味方の死体さえ踏み越えてくるような連中だ。死など恐れない。そのまま死体を積み重ねて、城壁を上ってくるような戦術も平気で取る。連中は蟻のように、仲間の死など何とも思っていない。勿論、自分の死さえも。

山の上で、何かが光る。

爆音が、とどろき渡った。

狭い街道を、光が薙ぎ払うのが見えた。薙ぎ払った光は、瞬時に爆発を巻き起こし、敵兵を十、二十とまとめて吹き飛ばす。更に第二射。光が、また一直線に走り、敵を吹き飛ばした。

小柄な体を舞わせて戦っていた女が、手近な数体を倒すと下がる。

もう一撃。

光が、街道を薙ぎ払っていた。敵が、動きを止めるのが分かった。流石に斜め上から、この攻撃を受け続けては、無駄な被害が大きすぎると判断したのだろう。女が、無言で更に下がる。

山の上。

夕闇の中、銀色に光る何か。

今の光を放ったのは、多分アレだ。手に長い長い杖。そして、星明かりに目立つ銀の髪。

敵を見据える姿は。

伝承に残る、戦の神のようだった。

「今だ! 逃げ込め! 早く!」

イジットは、もう振り返ることも無く。街道を走った。

城門が開け放たれている。多分敵の追撃がとまったことを、城兵も気づいたのだろう。難民をせかして、イジットは走った。

城門をくぐる。

もう、後ろには誰もいない。あの女二人も、何処かに逃れたようだった。

敵の追撃はとまっている。城門が閉じられた。跳ね橋が挙げられる。どれだけの効果があるかは、著しく疑問だが。とりあえず、当座は助かった。

まだ、心臓が早鐘のように動いている。初陣の小僧じゃあるまいし、情けない。だが、あの津波のように押し寄せてくる敵のことは、どうしても頭から離れない。町から逃がすことが出来た民も、殆どいなかった。殆ど、あの押し寄せる敵に飲み込まれてしまった。

泣いている子供が、親を探しているようだ。だが、イジットにはもうどうにも出来ない。親が生きているかの保証さえ、出来なかった。

生き残った。

だが、生き残っただけだ。

いつの間にか、あの女がいた。フードの中から、わずかに顔が見えている。造作は整っているようだが、氷のように冷たい印象だ。

「おまえ、は」

「見たところ士官だな。 この国の王に、現実を伝えろ」

「助けてくれたことには礼を言う。 しかし、おまえは何者だ」

さっきの、山の上にいた奴が使った魔術にしてもそうだ。単独の人間が使える魔術にしては、少しばかり威力が大きすぎる。

あれは本来、攻城兵器を使って初めて実現できるような破壊力だった。それも、こんな辺境の小国では無い。せいぜい、中規模国家以上の技術力があって、初めて実現できる代物だろう。

「私のことはいい」

いつの間にか、女は消えていた。

イジットは、周囲を見回す。先に逃れていた部下が、何名か生き残っていた。だが、それも決して多くは無い。

そして、心の傷を受けた者も散見された。頭を抱えて、ぶつぶつ呟いている兵士。もう、戦場には出られないだろう。

「おい、貴様」

威圧的な声に振り向くと、どうやらこの砦の兵士らしかった。指揮官らしい男もいる。

鎧は豪勢だが、残念ながらどう見ても経験と威厳が伴っていない。惨状を見て、青ざめている様子が滑稽だった。

「何が起こった」

「みて分からないか。 ニア連邦は滅亡した。 俺たちは必死に逃げる民を守って敵を食い止めていたが、それも限界に来た。 敵の数は、最低でも二十万。 もっと多いかも知れないな」

「何を馬鹿な。 二十万など、あり得る数では無い。 さては臆病風にでも吹かれたか」

「王に会わせて欲しい。 俺はニア連邦の士官だ。 一兵卒の口からでは信じなくても、士官の話なら聞く気になるだろう。 全部、話す。 何が起こったか、何が起ころうとしているか」

早くしろと、おびえを顔に現し始めている司令官に告げる。

どうして、こう積極的になったのかは分からない。

だが、それしか路が無いことは。イジットも知っていた。

 

師団長級以上の補充兵は、高い知能を魔王によって与えられている。

それ以下は、格が下がるに従ってどんどん知能が下がっていく。それに伴い、姿が人間に近づいていくのだから、事情を知るヨーツレットは時々魔王が抱えている鬱屈を感じてしまう。

長い体をくねらせて、人間の国家だったニア連邦に、ヨーツレットは足を踏み入れていた。補充兵は文字通り数を武器にして、この国と、援軍を文字通り踏みにじった。今では国内で掃討戦を行っている。抵抗は軽微であり、徹底的な掃討でそれも日に日に弱まっていた。

燃え落ちた町。

既に、更地にされ始めている。

人間の痕跡は一つも残すなと、師団長が命令した結果だ。師団長は魔王に深く傾倒しており、それが故に人間を憎むこと甚だしかった。

城だった場所に入る。

既に、外側から解体が始まっていた。石材は全て持ち去られ、無事な木材も運び出され始めている。

人間の文化的産物は、粉々に壊された後、焼き払われていた。武器類は後送され、溶かした後焼き直して使う。

人間の死骸も、十把一絡げにキャリアの役割を果たす補充兵、ユニコンにて搬送する。ユニコンは大型の馬に近い姿をしているが、首の辺りに無数の目がついており、危機察知能力が高い。そしてその目は、人間のものによく似ているのだった。

ユニコンが数十頭、荷車を引いて、生産城である「巣穴」に人間の死体を運んでいる。

老若男女関係為しに。服をはがれた死体の山には、蠅がたかり始めていた。だが、別にそれは気にしなくても良かった。

「これはヨーツレット元帥閣下。 わざわざご足労にございます」

「作業は順調か、アニアール師団長」

「は。 既にニア連邦は壊滅させました。 次は戦線を変えまして、北部のイドラジール共和国へ攻撃を仕掛けまする」

アニアールは巨大な脂肪の塊と言った姿の師団長で、十六ある目が体の中央に並んでおり、その周辺にはむき出しの肉が団子状についている。全身からは無数の触手が生えており、コレを使って移動する。

近接戦よりも魔術が得意な師団長で、性質も陰険である。今回の作戦でも、補充兵を必要以上に使い潰す様子が目だった。

「もう少し、被害を減らして、効率よく勝て」

「ははっ。 汗顔の至りにございます」

「イドラジールへの攻撃前に、兵力を補充する。 その間に、掃討戦を済ませておくように」

イドラジールは近辺でもっとも大きな兵力を持っている国である。ニアも大きな国だったが、イドラジールを潰すことで、北部で人間はもはや組織的な反撃が出来なくなるだろう。

本当だったら師団を分けて同時に幾つかの国を攻略したいのだが、魔王がそれを許さない。戦線を拡大するのでは無く、一つ一つ潰す。これが、魔王の指定する戦略なのだ。確かに理にかなう部分もある。

徹底的に一つずつの国を滅ぼしていくことで、人間はこちらの情報を今だ正確にはつかめていない。

それでいい。

エンドレン大陸は既に、国家というものが存在しないような、超混沌に叩き込まれている。あらゆる国家の指導者層が、この十年で三千殺しにより片っ端から殺されたのだから当然の話である。群小単位に分かれた人間は、互いの利権を巡ってせせこましい殺し合いを続けており、こちらに介入する余裕など無くなっている。ただ、それだけ殺し合っても人口はあまり減っていない様子である。人間という生物の繁殖力が如何に異常か、よく分かる事例だ。

ただし、烏合の衆になれば、人間など敵では無い。

後はこちらの大陸を潰してしまえば、何ら危険は無くなる。残り二つは、ローラー作戦で押しつぶしてしまえば良いのだから。

「人間側の反撃があるかも知れぬ。 念のために、国境の防備は固めておけ」

「実は、それなのですが」

「何かあったか」

些細なことだがと前置きしてから、アニアール師団長は言う。

南部の国境線付近、コルレット王国近辺の山岳地帯で、敵の追撃を行っていた部隊が手痛い打撃を受けたのだという。先鋒を努めていた一個連隊一千が、二割近い被害を出して後退した。逆撃を受けたのかと一瞬ヨーツレットは思ったが、どうも違うらしい。

「補充兵の小隊長に報告を聞いたところ、どうもこれをやったのはたった二人だけのようなのです」

「補充兵とはいえ、二人で二百以上を倒した、だと?」

「はい。 山岳地帯で身動きが取れなかったという事もあるようなのですが、それを差し引いても被害が大きすぎます。 元々コルレットを次の攻撃目標としていない事もありますし、被害が大きくなる前に引いたようなのですが、もし無理に押し通ろうとしていたら更に損害を出したかも知れません」

アニアールは、如何いたしますかと、こちらを試すように言う。

人間の中でも、特に強い連中は、それなりの武力を持っている。

だが、そういう連中は、魔王が三千殺しを使い、十年で駆逐したはずだ。新たに育ち上がって来たとでも言うのだろうか。人間の繁殖能力を考えれば、あり得るかも知れない。

それとも。

「警戒を強めよ。 今までが順調に進みすぎただけという可能性もある。 ひょっとすると、人間が組織的な反撃を開始する烽火かも知れん」

「分かりました」

何だか、嫌な予感がする。

しかも、ヨーツレットの勘は当たる。

魔王を守るためにも。この大陸が陥落するまでは、手を抜くわけにはいかなかった。

 

3、抗いの形

 

かってアンダルシア王国というものが存在していた。

既に存在していない。人類が存在しなくなったフォルドワード大陸の国家なのだから当然だ。民も兵士も殺し尽くされたこの国だが、実は未だに、その存在は幾らかの影を引いていた。

その一つ。

どうにかしてフォルドワードから脱出した民の中に、その娘はいた。

元々、辺境の最辺境、小さな港町で暮らしていた娘である。それも、脱出できた経緯が経緯なので、あまり故郷のことは良く思っていない。だが、それでも。今では貴重な、フォルドワードの生き残りの一人であった。

名前はユキナという。名字などという豪華なものは持っていない。

元々貧困層への差別が激しいアンダルシアの、最下層民だった存在である。家族などは存在せず、奴隷として激しい差別と虐待を受けて育った。脱出した十年前も、他の奴隷達もろともに、「貿易品」としてキタルレア大陸に売り飛ばされたためで、能動的な行動の結果では無い。

勿論、キタルレアでも立場は変わらなかった。

不潔な馬車に詰め込まれ、東へ。性別を隠すことで、どうにか性奴隷にされることは避けたが、それでも最後に到着したイージットと言う帝国の辺境の町で、まとめて貴族の屋敷に売り払われることになった。

此処でも虐待が待っていた。言葉が通じない分、より環境は悪かったかも知れない。過酷な仕事、貧弱な食事。更に異なる気候。

実は、貴族の屋敷での仕事は大変に厳しい。カーペットの洗濯一つをとっても相当な重労働なのである。その上、元からいる奴隷達は性格がすさみきっているから、如何に新人をいびるかだけに血道を注いでいる有様だった。

フォルドワード大陸から連れてこられた他の奴隷達は、ばたばたと倒れていった。そして倒れると、もはや救いは無かった。薬などを買ってもらえる筈も無く、体力が無ければそのまま死んだ。そして死体は、無縁墓地に放り捨てられ、まとめて火葬されるのだった。

元から、体力があったのだろう。

ユキナは過酷な環境の中、生き延びた。この土地の言葉も、徐々に覚えていった。生きると言うだけで、徐々にベテランになっていった。環境はみじんも改善しなかったが。

成長すると、どうしてかユキナはそれなりに美しくなっていった。嫌だなあと思った。というのも、貴族の妾奴隷にされたら、更にひどい目に遭うのが確実だったからである。多少食生活などは改善するが、飽きたらポイ捨てされるのが落ちで、しかも場合によっては妻や愛人の復讐さえ受ける。ここの貴族の妻は豚のように太った嫉妬深い人物で、行方不明になった妾奴隷は一人や二人では無かった。

そんな折のことである。

アンダルシアが滅亡したと、聞かされることになった。

フォルドワード大陸からも、人類がいなくなったのだという。最初ざまあみろと思ったことは、否定しない。

だが、少しして、空恐ろしくなった。

一体何が起こったというのか。しかも、滅亡はユキナが売り飛ばされて、数ヶ月もしないうちの出来事だという。

それは、つまり。

運が悪ければ、ユキナも巻き込まれていた、ということでは無いか。

しかも、大陸の西の方に、謎の勢力が侵入を開始したという。その勢力は凄まじい勢いで西の諸国を滅亡させ、焼き払い、人間を滅ぼしているというでは無いか。

魔物の軍勢だという噂があった。

しかし、その軍勢を構成しているのは、どうみても人間なのだという。しかし、人間ではない者達も混じっているのだとか。とてつもなく巨大な、化け物としか思えない連中も、構成員に含まれているのだそうだ。

訳が分からない。

征服した国で、残虐行為を行う連中はいくらでもいるという。

この大陸でも、中央部にある遊牧民の国が、それで恐れられている。敵対する国には容赦しないと言うことで、この国の貴族でも悪魔のように呼び習わしていた。しかし、そうなると、攻め寄せているのはどこの誰なのだろう。

やがて、この国にも、難民が現れるようになった。奴隷に近い状態でも良いから、働かせて欲しいと、屋敷に粗末な格好で来るようになったのだ。殆どは門前払いだったが、貴族は見目麗しい娘が来た場合は、妾奴隷にしていたようだった。

夢も、希望も無いそんな日々の中。

屋敷に、若い軍人が訪れた。

 

軍人は精悍な顔立ちで、目鼻立ちも整っており、いかにも若い娘からもてそうだった。背もかなり高い。或いは、この国の出身では無いのかも知れない。

屋敷に入る若者をみたとき、ユキナは別の世界の人だなと、ぼんやりと感じたくらいである。そもそも、日々の生活でやっとの状態だ。肌は焼けてしまっているし、手荒れもかなりひどい。ずっと過酷な環境で食事も粗末だから、痩せてもいる。

というよりも、身繕いする時間が無かったので、髪の毛なども手入れしていない。だが、それが故に、妾奴隷にされずに済んでいるのだとも知っていた。だから、ある程度野暮ったくしているのは、本能的な行動であった。

「ユキナ、あれ、いい男だよね」

「関係ありません」

奴隷仲間に言われたので、つれない返事をした。

同年代の奴隷仲間は、殆ど生き残っていない。ユキナは後輩をいじめるような行動をしなかったが、それでも子供達は次々に死んでいく。この屋敷での労働は、北の大陸で、寒さに凍えながら網から魚を取り出す作業よりも過酷だった。

だから、希望も持っていない。

得体が知れない勢力が、人間を皆殺しにするのが先か。或いは、この屋敷で消費されて使い潰されるのが先か。

どっちも、大差ないように思えてならなかった。

だから、ユキナが呼び出されたときは驚いた。

屋敷の中は知り尽くしているが、しかし逃げられるかは話が別だ。三階建ての屋敷の一番上は、窓に格子がはまっていて、妾奴隷が逃げないように雇われた武官が見張ってもいる。連中は貴族の妻に金を握らされてもいて、妾奴隷を始末もしているのだと、もっぱらの噂だった。

彼らがガラス玉のような目で見つめる中、貴族の部屋に。

さっきの若者と、不満そうな貴族がいた。椅子にどっかと腰掛けている貴族が、鼻を鳴らす。

「本当に、これがそうなのか?」

「無礼な発言は慎まれますよう」

「ふん……。 まあかくいう儂も、今西の方が大変なことになっている事くらいは把握しておる。 国王陛下のお墨付きと言うこともあるし、そなたの顔を立てよう」

貴族は立ち上がる。

図体だけは立派な男だ。その体格に物を言わせて奴隷を虐待し、時には性欲のはけ口にもしてきた存在。

貴族は優秀。

貴族は支配者。

だから、家畜同然の奴隷には、何をしても良い。

そんな思想の体現者だ。

「連れて行くがよい」

「えっ?」

「貴方はこれから自由です。 さあ、この屋敷から早く出ましょう」

訳が分からないうちに、若い男に手を引かれて、ユキナは屋敷を出た。そして、馬車に詰め込まれるようにして乗せられる。

何が、自由か。

多分どっかの物好きが、ユキナに目をつけたのだろう。これから性奴隷にされるのだろうと思うと、憂鬱だった。若い男をにらむ。男は、柔らかい笑みで帰してきた。

「私も、実はこの大陸の出身ではありません」

「だから何? 北の大陸出身の奴隷なんて、掃いて捨てるほどいるでしょ」

「お聞きください。 私は片袖王の軍勢にいて、その壊滅を見届けたものです」

聞いたことがある。

ユキナが北の大陸を離れる少し前、謎の軍勢に勝負を挑んだ王がいた。英雄と名高いエドワード片袖王である。

何故片袖というと、左腕が無いからだ。若い頃から戦場を駆け回っていた王は、戦傷で左腕を失ったのである。だがそれが何ら重みにならぬほど、強い戦士であったという。

だが、その王も。

謎の軍勢にはまるで歯が立たなかった。五万の精鋭部隊が全滅するまで、ほんの二日と掛からなかったという。

生き残りはわずかだと聞いていたが。こんな若い男が、その一人だというのか。

「私は遠縁でしかも妾腹ですが、エドワード王の子息にあたるものです。 あまりにも出自が悪いので、王族とは認められていませんでしたが」

「だから何。 今、エドワード王になんの価値があるって言うのよ」

「そして貴方も、実はアンダルシア王家の遠縁に当たる方なのです」

嘘だと、直感的に悟る。

青年は、初めて、おそらく生の笑顔を浮かべた。それは何処か影のある、薄ら寒い要素のある笑みであった。

どれほど過酷な人生をこの男が送ってきたのかは分からない。

ハッキリしているのは、ユキナとあまり変わらないほど、ひどいものだったであろう、という事くらいだ。

「嘘、ね」

「流石にご聡明であられる。 勿論嘘です」

「それで、私を王女様に仕立て上げて、どうするつもり」

「全てが嘘だとは言っていません」

実は、半分は本当なのだという。

ユキナの生みの親は、半年ほどアンダルシア王の後宮で、侍女をしていた事があったのだそうである。

その時、王が二度ほど、母に手をつけたのだそうだ。

「勿論子が出来たかは分かっていません。 しかも、貴方の母は言葉は悪いがかなり淫蕩の性質が強いお人だった。 調査しただけで、同時期に三人以上の男性と関係を持っていたようなのです」

「よく調べたわね」

生みの親のことなど、ユキナだってろくに知らないのに。たいした調査能力だ。

多分、足で稼いだとか、そういうものではないのだろう。

魔術によるものである可能性が高い。

此奴は一体何者だ。本当に言葉通りの存在なのか。

「実は、この破滅に関して、既にかなりの所まで分かってきています」

「はあ?」

「かって、人間達に駆逐された魔物。 それらを束ねる王が現れ、圧倒的な力を振るい始めている。 それが、この破滅劇の真相です」

馬車が、とまった。

寂れた屋敷に着く。性奴隷にされることはなさそうだが。これは、一体何だ。

国の、秘密施設か何かか。

「中へどうぞ」

「嘘つき。 私、自由になんてなれない」

「いえ、コレに関しては本当です。 貴方は戦うか、逃げ出すかという二択を得た。 これだけでも、のたれ死ぬしか未来が無かった今までとは、根本的に違う」

選択の自由を、貴方は得たのです。

そう、若者は言った。

屋敷の中には、使用人が何名か待っていた。風呂に入れられて、体を洗われる。髪の毛を丁寧に手入れされて、肌も石けんで随分こすられた。

汚れを落として、鏡に自分を映してみて、驚いた。

野暮ったくしておいて、正解だったのだ。自分でも驚くほど、綺麗になっていた。もしも下手に色気づいていたら、間違いなくあの貴族に死ぬまで犯されていただろう。

「既に身元は偽装しております。 これで貴方は王女です」

「……それで、私は何をすれば良いわけ?」

「魔王と戦う、旗印となっていただきます」

若者は、笑顔を崩さないまま言う。

ユキナはしばらく沈黙を保った。そして、着せられたドレスの、スカートの縁をつまんだ。

こんなもの、くだらない。

だが、戦うことで、自由が得られるのなら。

貴族に犯されることを怖がるだけの毎日を、脱出できるのであれば。主体的に、自分の人生を動かせるのであれば。

今までは、そんな概念さえなかった。

だが。今は違うのならば。

「分かったわよ。 その魔王とかなんとかと、戦ってやろうじゃない」

ユキナは、決意を固めていた。

どうせこのまま生きていても、先にあるのは破滅のみなのだ。ならば、せいぜい華々しく動きたかった。

 

薄暗い部屋である。

ただし、かなり広い。窓から光が差し込んでいないから、全体が暗いのだ。

一番奥には玉座があり、痩せた目の大きい男が腰掛けていた。まだ若いのに、雰囲気は刺すように剣呑である。

「それで、おまえが言う二人組が、魔王を倒せる可能性があると」

「勿論、二人だけでは無理でございます」

玉座の男の前には、全身をフードで隠した影が傅いていた。

影の声はしわがれていて、老人のようだが。それ以上の情報は、一切外界にさらしていなかった。性別さえも、である。

「おまえが持ち込んできた情報は、確かに使える物が多かった。 だが、正直な話、信じがたい部分も多いのだ」

「ならば、今西の諸国に侵攻してきている軍勢は如何に解釈なさいます」

「確かにそれを見る限り、おまえの言うことも正しい。 しかし、全てを鵜呑みにするほど、儂は純粋では無くてな」

けたけたと、玉座の男は笑う。

キタルレア大陸、最大の国家。グラント帝国皇帝、ジューナス=グラント。

先代皇帝の急死により、つい三ヶ月ほど前に皇帝になったばかりの男である。陰気で狡猾で、保身にしか興味が無い人物だが。それが故に、影にとっては都合が良い存在でもあった。

保身に興味があると言うことは、死にたくないと言うことだ。

ならば、充分に話を誘導することが出来る。

「このままだと、後二年ほどで貴方の元へも、魔王の軍勢はやってきます。 そしてその時と同時に、貴方は滅びることになるでしょう」

「例の、魔王と敵対した国家の権力層が全滅する、という奴か」

「はい。 偶然にしてはあまりにも数が多すぎます。 当然のことながら、貴方にも類は及びましょう」

「儂は自分を守るために、超一流の術者に防護の結界を何重にも施させておる。 それでも駄目だというのだな」

何が超一流の術者かと、影は鼻で笑った。だが、それを表には出さない。

北の大陸は、魔物との戦いが最近まであったせいか、能力が高い術者が多く存在していた。この大陸とは根本的に水準が違ったと言っても良い。それでも、魔王による謎の暗殺は防ぐことが出来なかった。

多分、そういった術とは、根本的に次元が違う力なのだろう。

「恐れながら、北の大陸でも、それ以上の防備を周辺に施していた王族は多く存在しておりました。 しかし、誰一人として、魔王の魔の手を逃れることは出来ませんでした」

「ふむ……」

懐から、出す。

己を破滅させ、愛する双子が闇の人生しか選べなくなった原因を。

不思議な話である。

憎んでも憎みきれないはずなのに。どうしてか、今はこれにすがるしか無い。

北の大陸の、ある国家で。影は人間をやめた。正確には、強制的にやめさせられることとなった。

この小瓶に入っているものによって。

研究は一部持ち出した。時間はもうそう残ってはいない。この王は、完全に使い捨ての駒だ。

もしも人類が魔王に対抗するすべを身につけるとしたら。

それを実用化できるとしたら。

その犠牲には、目をつぶらなければならないだろう。

「それは何か」

「魔物の血にございます」

「ほう?」

「正確には、魔物の中でも特に力が強いドラゴンと魔族の血を混合したものです。 これを移植することで、爆発的な力を得られるのです」

勿論、副作用も大きい。

影がこれを体に入れられたとき。その後、生存できたのは百人に一人もいないという状況だった。

それに、不思議な話だが、これを入れられて人間をやめた存在は、少なくとも魔王の手に寄るらしい謎の死を遂げなくなった。双子にしても、あれだけ魔王の配下である補充兵を潰してきているのに、殺される気配も無い。

まだ、魔王の力がどのようなものかは分かっていない。

だが、これにある程度の耐性があるのは、間違いないところであった。

「分かった。 ジェイムズ」

「はい」

「急ぎ、これを研究せよ。 魔王の力がどれほどのものかはまだよく分からぬが、儂が殺される前に、実用段階に移せ」

「御意」

進み出たのは、痩せた顔色が悪い男である。銀髪で、文字通りの鷲鼻である。いやみったらしく掛けているクロームは、知性よりもむしろ陰険さを際立たせていた。

この国を代表する魔術師の一人だ。魔術師と言っても、戦闘を得意とするタイプでは無い。

非人道的な実験を繰り返し、生物兵器を作る専門家として、近隣でも悪名を轟かせる通称「人食いのジェイムズ」。勿論人間を好んで喰うわけでは無く、その悪辣な行動からついたあだ名だ。

だが、そのあだ名も、あながち間違いでは無いことを、影は知っている。

そして、その悪辣さこそが、現在必要である事も。

薄暗い部屋から退出する。

外は逆に、まばゆいまでに明るかった。王は、明かりを好まないのだ。

「すぐに、研究に取りかかります。 それにしても、貴方が直接これを持ち込んでくるとはねえ」

「私にも守りたいものがある。 それだけのことだ」

「幸い、王は理解があるお方だ。 被検体はいくらでも用意してくださる」

くつくつと、人食いは邪悪な笑みを浮かべた。これから、この男の手で、多くの犠牲が出ることだろう。

だが、双子のためには。

いや、イミナのためには、必要なことなのだ。

「ところで、ジャドどの。 貴方がご執心だという双子は、今どこに?」

「西の国々で、魔物の軍勢と戦い続けている。 少しでも早く、援軍を回さなければならぬ」

「私の仮説が正しければ、この研究をできるだけ早く完成させなければ、人類は滅びるだろうからねえ。 くくく、自由に任意の相手を殺せる能力か。 ただし、人間限定でしか発動しないが」

便利だ。欲しいと、人食いは呟く。

王宮を出て、町へ。

流石に大陸最大の国家だけあり、十万を超える人間が集う巨大な町だ。町は石畳で整備され、水路が縦横に走り、街路樹が清潔な雰囲気を作り出していく。ただし、あまり好景気とはいえず、行き交う人々の表情は暗かった。

或いは、大陸の西の方で、何が起こっているか皆知っているのかも知れない。

途中で馬車を捕まえ、郊外に。

町はかって城壁で覆われていたが、大陸最大の国家の首都が城壁で覆われるよりも、むしろ街道を四方に伸ばした方が有益だと、何代か前の皇帝が気づいてから、壁は一部取り払われた。

今では開放的な作りの首都は、大きな潜在能力を秘め、これ以上の発展さえもが見込まれている。

しかしながら、景気の後退がそれに水を差した。

そして今では、景気どころでは無くなっている。

城壁だった辺りの側に、研究所はある。まるで貧民窟だ。この辺りは城壁を無理に取り去った結果、都市計画が上手く行かず、貧民の巣窟と化している。周囲を兵士達が警戒はしているが、粗末な柵はあまり侵入者を防げそうに無い。

中で働いているのは、筋金入りの変人か、異常者ばかり。人体実験を行っても、何とも思わないような者達ばかりだ。

階段を下りていく。

かって、城壁の中に作られていた休憩所を改装した警備室で手形を見せ、更に奥へ。ここからは、壁にあるスイッチを押すと、階段が現れるようになっている。魔術によるしかけで、かって王族が避難するために作られた通路であるらしい。

曲がりくねる階段を下りる。壁はしめっていて、こけやカビが生えていた。

一番下に降りると、天井は案外広い。最初にこの国に来たとき、ジェイムズにまず話を持ち込んだ。だから、ここに来たことはある。

中に入ると、ジャドはフードを取った。

其処には、既に人間の顔は、存在していなかった。

「何度みても素晴らしい。 それが人間の行き着く先とは」

「俺はもう人間では無い」

双子も。

いずれ、人間の姿では無くなっていくはずだ。シルンは不思議と全く影響が無いと言うが、それも体内にどんな影響が出ているかは分からない。

イミナは。

妹には隠しているようだが、既に変調が始まっているようだった。

だから、親近感も覚える。

ジャドは既に、顔だけでは無い。形も人間では無くなっている。

歩いて、奥へ。其処には、無数の動物の死骸が転がっていた。ジェイムズが行った、おぞましい実験の犠牲者だ。

「まずは罪人で試す。 貴殿が持ち込んだこの研究資料を見ると、既に七割ほど完成しているでは無いか。 楽な研究になりそうだ」

「そうか」

「まずは百分の一程度しか無い「成形率」を、五割まで引き上げる。 あの臆病な皇帝が、魔王に殺されるまで時間はそうないだろう。 五割だったら、まだ勝負に出る価値があるからな」

「皇帝を、俺と同じようにするつもりか」

「あの男の目的は不老不死だ。 貴殿のように人間を完全にやめてしまえば、不老不死にも手が届くのだろう?」

確かに、それはその通りだが。

人間の楽しみとは、完全に縁が無くなる。

たとえばジャドは、既に性欲が無い。人間の女の裸をみても、何とも思わなくなってしまっている。生殖器も既に存在するだけのものとなっていた。イミナに対する愛は変わっていないつもりだが、それでも同じ事である。

食欲も、薄れつつある。

実験体の中には人間の肉を好んで食べるようになった者までいた。

睡眠に関しても、あまり意味がある行動ではなくなりつつある。疲れたときは、休めばいい。

脳が特別な休みを必要とするという、当たり前の人間には普通にある事が、ジャドにはもう無いのだ。

「仮に成功しても、皇帝は、ただ永く生きるだけという生をどう思うのだろうな」

「そんなことは知ったことでは無い。 研究が完成したら、私も貴殿と同じ姿になり、あとはスポンサーを探しては研究三昧の日を送るだけだ。 ひひひひひ、寿命が無限になれば、ありとあらゆる事を研究できる! これほど素晴らしいことがあるか? いや無い!」

「本当に研究が好きなのだな」

「世の中のことは全て調べることが出来る! だから、全てを調べ終えたら、その存在は神ともいえるでは無いか。 それなら、別に人間の体なんぞ、心なんぞいらん! どぶに捨ててくれるわ!」

意味がよく分からない理屈だが、熱意は伝わった。

それに、こういう異常な才能こそが、危地で意味を持ってくる。勿論、多大な流血を周囲に生むのも分かった上で、ジャドはここにいる。

「死刑囚を用意するにしても、実験はすぐに始めるのか」

「既に研究の内容は覚えた。 もしも私が死んだときに備えて、弟子達も既に招集している」

「たとえ魔王が任意に人間を殺せるとしても、全てを知っているわけでは無い、か」

「そうだ。 だから私の事を魔王が知る前に、私は人間をやめてしまうのだ。 それで、私の勝ちだ」

けたけたと、ジェイムズは笑う。

人食いの二つ名にふさわしい、狂気に満ちた言動だった。

 

4、魔王東へ

 

魔王が、キタルレア大陸への渡航を望んでいると聞いて、流石にヨーツレットも驚いた。

かねがねから、魔王が安全なところに引っ込んでいるくらいなら、指揮が執りやすい最前線にいた方が良いと言っていたことは知っている。しかしながら、そもそもフォルドワード大陸は、現在復興の途中である。人間共を駆逐したのは良いが、数少ない生き残りの魔物達にとって、魔王の存在はどれだけ心強いことか。

魔王がいれば、絶対に人間に勝てる。

その信仰だけで、絶望していた魔物達は奮起することが出来た。北極の地下で暮らしていた皆は、一丸となり、大反攻作戦の準備を整えた。

そして大陸から人間を追い払った今、魔王はそこで、城にどーんと構えていなければならない。

信仰こそが、今の魔王軍の躍進を支えているのだから。

だが、魔王の意思も分かる。今後、だらだらと侵攻作戦を続けていくと、人間に魔王と、その能力について察知される可能性が高い。人間の異常な学習能力については、ヨーツレットもよく知っている。

普段こそ心優しい老人だが、魔王は人間を滅ぼすことに関しては、とても頭が回るのだ。

話を持ってきたアインホフ師団長は、後発組では無い。魔族の一人であり、全身が赤い肌の巨人である。肌は赤いが、別に炎の術式を使うわけでも無い。ただし、屈強さに関しては、目を見張るものがある。

見るからに四角い壮年男性であるアインホフは、冗談の一つも通じない節がある。だから、魔王には常に威厳を持っていて欲しいと、大まじめに語っている男である。

「如何なさいましょうか」

「来るというのを、拒むわけにも行くまい。 それに、あの魔王城だからな」

「建造が遅れていると言うことでしたな」

アインホフは大まじめにそう言うが、遅れている、などという話では無かった。

現在、フォルドワード大陸の中央部にある山を崩して、魔王城を作っているのだが。これが大変に難航しているのだ。

作成を担当しているのは、主にドワーフ族である。彼らはついに北極から出られたことを大喜びしており、しかも良い土地と鉱山を得られたことから、一族の復興のめどが立ち始めていた。このため、恩義を返すために一族を挙げて魔王のための城を作ると息巻いていた。しかしながら、熱意があまりにも空回りしすぎているのだ。

とにかく、阿保みたいに壮大な城を作ろうとしているのである。

建造にはおよそ百五十年とも、三百年とさえも言われている。現在ござを床に敷き、すきま風吹き込む蟻の巣穴のような城に住んでいる魔王は、それだけの年月待たなければならないというのか。いや、魔王のことだから、暖炉とミカンがあれば幸せだとか言いかねない。皆のための物資を優先しろ、城なんかいつでもいいと言っているほどなのである。

しかしながら、それでは魔王の勝利を、魔物達に印象づけられない。

魔物達の中には、まだ北の大陸で苦労を重ねている者もいるし、少ない一族を義勇兵に出している者達だっている。そういった苦境にある魔物達を勇気づけるには、魔王の勝利という輝かしい実績は絶対不可欠なのだ。

そうなると、仮の城を作るしか無い。

ドワーフ族はそれこそ一族の全てを挙げて城を作っており、彼らは話を聞く雰囲気に無い。そうなると、前線辺りに、仮の城を作って移ってもらう他無い。

幸い、人間から強奪した城も宮殿も腐るほどあるのだ。中身は綺麗さっぱり取り去るとしても、外部機構はそのまま活用することが出来る。大きな城になってくると、中を掃除すれば、大型の幹部もそのまま入ることが出来るだろう。

北の大陸では、既に人間の痕跡が無くなるほど、徹底的に掃除を行った。

しかしこのキタルレアでは、まだ人間の城などがかなりの数残っている。それらを改良すれば、魔王のための仮城を作ることが出来るだろう。

それにしても、人間のように陰惨な権力闘争をするわけではないのだが、それでもあちらをたてればこちらが立たなくなる。その上、ドワーフ族は純粋な善意で行動しているので、ちょっと対処に困る。

悪意が無くても、何かしらの政治闘争は発生してしまうのかも知れなかった。

ヨーツレットが前線を離れるわけにはいかないので、空を飛ぶことが出来る魔物に伝令を頼むことにする。魔王は嘘を好まないので、事情を全て書いた上で、だ。

実際、人間に対すること以外では極めて善良な魔王に、必要の無い嘘をつくことは気が咎める。

伝令を努めることになったのは、イビルアイという魔物であった。巨大な眼球に、コウモリの翼が生えたような姿をしている。

実は蛾の仲間であり、巨大な眼球に見える部分は胴体で、その下からぶら下がった視神経らしきものに口と足が混じっている。主食は花の蜜だ。

飛翔能力が高く、大陸の間を飛ぶことが出来る少ない魔物である。その「おぞましい」姿が原因で人間から徹底的な駆除を受け、既に二百を割り込むほどしか生きていない。知能はそこそこにあり、一部が伝令として魔王軍に志願して加わっていた。その一人である。

繁殖力が決して高くないイビルアイである。伝令という危険な仕事でもあり、だからこそヨーツレットは手紙を渡すときに念を押した。

「手紙とは言っても、危急のものではない。 くれぐれも安全を優先するようにな」

「分かりました。 魔王様の返信があった場合も、同じようにいたしますか」

「うむ。 必ず味方の勢力圏を通り、海もクラーケンによる中間地点を活用せよ」

「分かりました」

手紙を抱えて、イビルアイが飛び去る。

少し悩んだ後、ヨーツレットは人間の国を攻略中の師団長を、頭の中で見繕った。

現在、軍団長はそれぞれ軍の編成を行っている。基本的に一つの国を攻略する際は、一軍団を投入して蹂躙する。二つの軍団が後方支援を行い、もう二つが補給を担当。その間に補充兵を規定数まで補給し、他の軍団は調整を行うのだ。

五十万からなるキタルレア攻略軍の内、だいたい四割程度が常時稼働しているのは、それが理由である。

このため、後発組であるか否かを問わず、基本的に軍団長である魔王九将は皆忙しい。ヨーツレットはその忙しい彼らを統率する立場にあるため、逆に雑事は全て自分で片付けてしまう癖がついていた。

「アリアンロッド将軍は、いまちょっと忙しいか

「かの女傑は、今最前線で敵の軍勢と交戦中です。 今度の敵国はそこそこに手強く、対応も早い様子でして、こちらに戻る余裕は無いでしょう」

「ふむ、そうなると国境警備をしているアニアール将軍が適任だな」

アインホフを下がらせると、ヨーツレットは部下を呼び、アニアール師団長を呼ばせる。

同じ後発組という事もあり、ある程度気軽に仕事を頼めるのが嬉しいところだ。もっとも、差別や区別が生じないように、気を遣っていかなければならない部分もある。

アニアールが来たのは、三日後の事である。

現在、主戦場になっているイドラジールの南部は、既に魔王軍の制圧下にある。今回は補給中の部隊を展開して守備を固めているアニアールを呼び寄せた訳だが、彼だって暇では無い。

イドラジールはかなりの兵力を有する国で、此処が陥落したら厳しい状況になることを、人間どもも理解しているのだろう。各地から援軍が駆けつけており、突発的な反撃が発生することも時々あった。

アニアールからも数回、守備拠点が襲撃されたと報告が入ってきている。

「お呼びでございましょうか、元帥」

「うむ、忙しいところすまないな」

ヨーツレットにしても、仮の陣屋で寝泊まりしている位なのである。

陣に来ているドワーフ族が掘ってくれた穴であり、ちょっとした山の中腹に作られている。守備陣地としては悪くないのだが、やはり現在の魔王城同様、大型の幹部には居心地が悪い場所であった。

「実は、陛下が前線に来たいと仰られていてな」

「それは名誉なことです。 獅子奮迅の活躍を見せなければなりますまい。 武勲の立てどころですな」

「それは大いに結構なことなのだが。 この際だから、仮の魔王城を作り、其処に移っていただこうと思っている」

それだけで、アニアールはヨーツレットの意図を察してくれた。

「それでしたら、良い城がございます」

「どのような城か」

「既に放棄されていたものなのですが、石造りなので、かなりしっかりしています。 多少埃っぽいですが、山間にあることもあって、人間による襲撃はさほど警戒しなくても大丈夫でしょう」

「どれ、視察してみよう」

陣屋を這い出る。

一個連隊が護衛としてついてきた。アニアールと並んで歩きながら、ヨーツレットは最近の状況を合わせて聞いておく。

「国境線の状況は?」

「敵は息を潜めております。 少なくとも、攻勢を準備している気配はありませんし、仮に十万単位の軍勢が来ても、援軍が辿り着くまで充分に支えられます。 今回紹介させていただく物件は、前線からも少し距離がありますし、味方防衛線を三つ越えた先にあるので、まず危険は無いでしょう」

「魔王陛下は人間に対しては無敵だ。 だが、どうも気になる。 護衛には、私が直接当たることにしよう」

「元帥閣下が? 分かりました。 それならば、私としても警護には万全、いや億全を尽くすことにいたします」

「はっはっは、そうか」

ちょっと面白いことをアニアールが言ったので、ヨーツレットは笑ってしまった。

元々生物としてはムカデに近い姿をしているヨーツレットは、音声を発する器官が無い。そこで、体の節をすりあわせて音を出す。笑うときはガリガリガリと音が立ってしまうのだった。

連隊ごと移動すること一日半。

目的の城に到着した。

「これは、遺跡か?」

「調べてみたところ、我らが接収する半月ほど前に敵が撤退した様子です。 こちらの戦力をみて、兵力を集中するつもりだったのでしょう」

「ふむ……」

見上げた先にある城は、山の中腹と一体化するようにして存在していた。

中に入ってみると、かなり広い。或いは、城と言うよりも、宗教的な施設を改装したのかも知れない。

壁は石造りで、天井からは光が差し込んでいる。穴が開いているわけでは無く、窓を工夫して設置しているらしい。これはドラゴンが背伸びしても届かないほどに高い。岩山をくりぬき、壁に石材を埋め込んだのだろう。

区画分けに使っていたらしい壁は、既に撤去してある。

「念のため、罠などが無いかしっかり調べておくように。 地下に爆発性の物質や、強力な魔術などが仕掛けられていないか、念を入れて確認するのだ」

「既に確認済みではありますが、それでは更に念を入れて確認いたします」

「うむ」

今、魔王城を作っているドワーフを何名か呼ぼうかと思った。一応声を掛けておかないと、後がうるさいだろう。彼らは確かに優れた技術を持っているし、それを今まで保存しても来てくれた。ただ、大局を見る目が無い。それに関しては、今後もヨーツレットがどうにかしなければならないだろう。

さて、この城をどうするか。

華美な装飾は、多分魔王自身が喜ばないだろう。そうなると、此処に求められるのは、政務のやりやすさと指揮の利便性だ。勿論、そのためには周辺の防備が重要になってくる。

「前線防衛施設として、櫓が必要だな。 それといざというときに備えて、脱出用に空路を確保する必要がありそうだ」

「魔王様を乗せて飛べる魔物が、存在する必要があると?」

「乗騎と前向きにとらえれば良い。 まだ実用段階には移っていないが、航空戦力の補充兵を幾らか回してもらうのと、後はペガサスを何騎か、だな」

ペガサスは、魔王軍の中でも特に稀少な存在である。現在十騎ほどしか生き残っておらず、そのうち八騎は北の大陸で繁殖をしている段階だ。人間によって乱獲されて、既に種としては滅亡寸前の状態にある。

魔王はそんなペガサスを前線に出すことを望まないだろうから、何かしら説得の言葉を考えておかなければならない。

山の上に。

複眼で、周囲を念入りに観察。ついてきたアニアールに、地図を広げさせる。

「この辺りが死角になっているな。 櫓を作って、狼煙で連絡を密接に取り合うようにせよ」

「分かりました。 手配いたします」

「それと此処だ」

触手を一本伸ばし、指す。

一カ所、極めて危険な地点がある。

「ここから敵の大軍勢が来ると、危険だ。 止められないだろうな」

「では此処に、関所のようにして、壁を作りますか」

「うむ。 分厚い壁を作り、魔術での防御を施し、更に櫓を重点的に配置した方が良いだろう」

他にも、何カ所か気になる地点がある。

それらは、九将と協議する必要がある。魔王がここに来るとなったら、全員が揃う、とまでいかなくても、話だけは通しておかなければならないだろうからだ。

周囲は切り立った岩山だ。しかし、こんな所にも、たくましく生きている生命はいる。

山羊が斜面にいた。切り立った崖でも、平然と上り下りして、少ない草を食んでいる。たくましい生物である。

「あれくらいのたくましさが、魔物達にも欲しいな」

「か弱い中にも、不思議な強さがありますな。 確かに同感です」

ヨーツレットは、更に幾つか細かい提案をした。

 

五千の補充兵に護衛された魔王は、フォルドワードの東海岸に到着していた。

かって人間の巨大な港があった場所であり、現在は魔王軍の海上基地として活動している。海からせり上がってくる、小山のような黒い影。

それが、巨大な二枚貝に、無数の触手をはやしたような補充兵である。

クラーケン。

安全な海上輸送を想定して設計された補充兵だ。中に千余の兵を搭載することが出来、しかも分厚い殻によって生半可な攻撃では傷つかない。短時間であれば、兵士達を搭載したまま潜ることも可能だ。

補充兵であるから、生物としては極めていびつだ。餌は必要ないという点は利点だが、完成するまでは多くの事故があった。搭載した補充兵を全部食べてしまったこともある。餌が必要ないにも関わらず、である。

このクラーケンは、改良に改良を重ねた上、いざというときは即座に殺せるように操縦手として人魚達が頭脳部分に乗り込む。人魚もまた、人間によって駆逐され、既に三百を割り込むほどしか存在していない。

巨大な羽音。

舞い降りてきたのは、カルローネ将軍である。現在実験段階にある、高空戦力の補充兵も五百ほど連れていた。

「陛下、カルローネめ参上いたしました」

「うむ、わざわざすまぬな」

「陛下にもしもの事があっては一大事にございまする。 人間側の海上戦力は既に壊滅同然で、クラーケンに攻撃を仕掛ける力はありませんが、それでもこのカルローネめと、それに途中からはレイレリア将軍も護衛に加わります」

本当は、私が背に乗せてお運びしたいくらいなのですがと、カルローネは言う。

しかしながら、魔王としてみれば、カルローネには作戦に従事していて欲しいのである。人間の駆除が最優先すべき事であって、自分などの護衛にこれ以上の戦力を割かせたくなかった。

一刻も早い、人類の駆逐を。

それだけが、魔王の望みなのだから。

蓋を開けているクラーケンに乗り込む。護衛の兵士は八百ほど。人魚族が、頭脳部分の制御に入る。

「制御、問題ありません」

「何かあったら、魔王様の安全を最優先せよ」

「分かりました!」

上半身が美しい乙女の姿をしている人魚達は、人間に肉が不老不死の秘薬だと思われたせいで、片っ端から殺された。だから、皆が人間を憎み、魔物達にとって希望の星である魔王に全ての忠誠を捧げている。

クラーケンの殻の中は絨毯のようになっているのだが、少し湿っていて、玉座を据えてもちょっと居心地が悪かった。さっそく膝に毛布を掛けて、ミカンをむく。クラーケンが触手を動かして、出航した。海上では、既に四匹のクラーケンが、艦隊を組むべく待っていた。更に海上で三匹を追加するという話だったが、それは魔王が退けた。輸送にしても制海権の確保にしても、クラーケンには仕事がいくらでもある。

魔王のクラーケンを中心に、鱗形陣を組む。

そして、東へと、海上を進み始めた。

クラーケンの殻は帆の役目も果たす。波はとても穏やかで、魔王は目を細めた。

「アニアにも、この穏やかな海を見せてやりたかったのう」

「魔王陛下?」

「ん? おお、独り言がもれてしもうたか。 何でも無いぞ」

護衛として周囲を見張っているエルフ族の戦士達が怪訝そうに言うので、魔王は笑って誤魔化した。

アニアという名前は、周囲の誰にも教えていない。

九将の中でも、知るのはヨーツレットだけだ。

「海上の天気に問題は無いか」

「今の時点で、水や風の精霊達は騒いでおりません」

「そうか。 ゆったりと船旅を楽しめそうだな」

エルフ族は、世界の根源である自然の要素、精霊を観ることが出来る。だから、こういうときその能力はとても重宝する。魔王にも、精霊を観ることは出来ない。他のどの魔物にも観ることが出来ないので、エルフ族が如何に特徴的な存在なのかは明らかだ。

クラーケンは巨大な十本の触手を動かして、海上を進む。雲一つ無い空の下、魔王はふと気づく。

現時点で、フォルドワードの守備に当たっているのは補充兵十二万。これらの戦力は軍団に配置されておらず、いずれもが予備兵力扱いとして、人間の航行可能な海路と、それから到達可能な陸地を押さえている。

しかしながら、もしも人間が何かしらの新しい技術を開発したら。

海上はクラーケンの艦隊で封鎖しているから、生半可な戦力では突破できない。西のエンドレン大陸は今大混乱の中にあるから、あまり気にしなくても良い。問題は現在手を出していない、南の大陸だ。

南から、この世界を半周するほどの距離の大航路を遠征してくる軍勢が、もしあったら。

今の時点では、それはあり得ない。人間の技術力では、それほどの長距離航海を行えないからだ。

だが、気にはしておいたほうが良さそうだった。

数日間の旅の末、クラーケンはキタルレア大陸の西岸に到達。

海は一切あれることも無く、穏やかなままだった。

既にこの近辺からは、人間の駆逐は完了している。完全に味方の勢力圏だが、それでも護衛戦力およそ五千が魔王の周囲を固めていた。

過剰すぎる気もするが、部下達が安心するというのならと、魔王は思う。

しかし、今は戦況が優勢だからいいが、ギリギリの戦いになる場合、このような無駄は排除しなければならないだろう。

もっとも。

相手が人間である以上、負けることは考えられないが。

着地したカルローネが、長い首を伸ばす。ドラゴン族は長い首を持っているが、彼の場合は元々の体格が巨大なので、天まで届きそうな勢いである。

「周囲に敵影はありません。 陛下、そのまま東へお進みください」

「仮の指揮所が出来ているときいておるが、あまり贅沢なのは困るぞ。 物資が余っているなら、魔物達の生活を向上させよ」

「御意にございます」

何だか、部下達は妙に魔王に気を遣う。

気にしなくて良いと言っているのだが、この辺りは忠誠心の表れなのだろうか。

歩こうかと思ったが、輿が用意されていたので乗る。馬車でも良いのだが、人間の姿をしている補充兵をこき使う事に関しては、悪い気分はしなかった。オークにしてもコボルトにしても、はっきり言って顔を見るのも虫ずが走るが、しかしこれを前線で不幸な魔物達の代わりに大量消費すると思うと、多少は溜飲も下がる。

ところで。

こちらの大陸は、とても気候が穏やかだ。

「こちらはぽかぽかして温かいのう」

「北の大陸の方が、我らドラゴン族には過ごし易うございます。 しかし森が必要なエルフ族や、穏やかな海が好きなマーメイド族には、こちらの方が良いようです」

「うむ、一刻も早く人間を駆逐しなければなるまい」

暖かい日差しを楽しみながら、魔王は輿に揺られる。

ほどなく、山岳地帯にさしかかる。周囲から急に自然が乏しくなり、路も狭くなってきた。

この辺りで人間の軍勢に攻撃を受けると、多少面倒だ。

しかも、下手に周囲が森になっているから、視界が悪い。エルフ族の戦士達は森に紛れ、周囲を補充兵だけが固めた。低高度を滞空しながら、カルローネが指示を出す。

「散開。 警戒を密にせよ」

「出来るだけ急いだ方が良さそうじゃのう」

「陛下の心を煩わせるわけにはいきません」

「かまわん。 場合によっては輿を掴んで飛ぶこともかまわぬ。 うむ、しかしこの気候だと、ミカンがうまいの」

こちらには、もっと大きくて甘い品種があると、視線を向けずにカルローネが言う。

それはとても楽しみだ。

緊張しながら路を抜け、山の上に出る。

そこから、新しい拠点が一望できた。

なるほど、コレは凄い。ヨーツレットが丹精を込めて作り上げたのだろう。

どうやら山塞だったらしい施設を改装し、周囲に様々な防御施設を張り巡らせている。しかも山の麓には、補充兵の生産施設まで作られているでは無いか。

山の周囲には、城壁が着実に作り上げられている。これは指揮をするにはちょっと不便だが、しかし難攻不落の要塞だ。補充兵を数万使い潰しても、簡単に作れるものではない。元からあったものを、上手に活用している、ということであろう。

「仮に人間が百万で攻めてきても撃退可能です」

「うむ、ヨーツレットには苦労を掛ける」

いずれ、此処で魔物達に戦勝をねぎらいたいものである。

「ところで、補充兵の素材は足りているか」

「ご安心を。 腐らないように保存したものがいくらでもございます。 人間共の国を落とすたびに増えますから、今のところ何ら問題はございません」

「そうか、ならばいい」

今の時点では、状況の変化に対応しつつ、人間どもの国を一つずつ潰して行くだけで充分だろう。

城に入ると、玉座につく。

まだ、九将は半分も揃っていない。だが今後、九将の全員が揃うという事態はまず来ないだろう。

ヨーツレットが来た。

巨大なムカデに似ている元帥は、複眼だけで十二個が顔についており、触手も無数に生えている。戦闘能力は高く、知性も理性も優れていて、魔王が作った中でも最高傑作といって良い。高い知能と忠義を両立しており、戦術指揮手腕も問題ない。そして、戦略的にも高い識見を持っていることが、この城を観るだけで明らかだ。

あまり頭が良くない自分が、これほどの名将を生み出せたのは奇跡に等しい。

魔王は、思わず目を細めていた。

「ヨーツレット元帥、大義である」

「光栄にございます」

「諸将はこの城をどう思う。 儂は前線指揮所として完璧だと思うのだが」

「悔しいですが、俺もそう思います」

本当に悔しそうにグリルアーノが言ったので、魔王は遠慮無く笑った。グリルアーノも苦笑するばかりである。

「さて、現時点でエンドレンは気にしなくても良いから、これから儂が陣頭指揮をとって、一気にキタルレアの攻略作戦を推進する」

諸将の顔に、緊張が走るのが分かった。

「その前に、エンドレンはともかく、南のキルレーシュ大陸をどうにかせねばならんだろうな。 三千殺しを使って主要国を潰す戦略は良いとして、問題はそれが通じなくなった場合の事を、早めに決めておかねばなるまい」

「そのことについてなのですが」

挙手したのは、メラクスである。凶猛なことで知られる彼は、意外な提案をする。

「キルレーシュは放置するべきだと考えます」

「ほう?」

「私はキルレーシュの状況を調べてきましたが、かの土地では爛熟しきった文明によって、人心の荒廃が著しく進行しています。 よその大陸にも興味は無いようで、殆どの民は魔王軍の事を全く知らない様子です」

「それは好都合だな。 むしろ下手に手を出すと、無為にこちらに注意を向けることになりかねん」

ヨーツレットが頷いた。

魔王は、ちょっと不機嫌になる。此奴らは、人間を、勢力を争うための対等な存在としている。

違う。

人間は、世界のためにも。駆除しなければならない害物だ。害虫などと言ったら、虫に失礼なほど、下劣で存在するだけで有害なものだ。

「陛下?」

「何でも無い。 確かに、メラクス将軍の言うとおり。 しかし、人間は必ず駆除しなければならない存在だ。 それは理解するようにの」

「分かっております」

深々とメラクスが頭を下げる。

ミカンの皮をむきながら、魔王は呟くようにして言った。

「三千殺しを使う必要がある場合は、早めに申請するように。 儂としても、近くに人間がいて、同じ空を観ていると思うだけで不快でのう」

「は。 一刻も早い駆除に努めまする」

九将が退出する。

魔王は自室に案内してもらった。エルフ達が案内してくれた部屋には、おあつらえ向きの暖炉があり、安楽椅子が用意されている。そして机の上には、ミカンが山盛りに置かれていた。

これはいい。

後は、アニアを早めに北極から持ってこなければならないだろう。ドワーフたちの苦労に報いるためにも、いずれフォルドワードの魔王城に移るとして。前線指揮所の此処にアニアを持ってきても、罪にはならないはずだ。

安楽椅子に腰掛けると、魔王は思う。

早く、人間がこの世から消え去らないかと。

ただ、暖炉の中で。炎は揺らめき続けていた。

あのときと同じように。

魔王が人間を止めて、その駆逐を決意したときのように。

 

(続)