関ヶ原

 

関ヶ原の戦い。

1600年に発生した戦いである。戦いの規模もさることながら、世界に存在していた銃の何割かがその戦いで用いられたという。東洋の島国とは思えない規模での戦闘である。

東軍徳川家康と、西軍石田三成の戦いだったこと。東軍が完勝したこと。石田三成は死罪になった事。

更にこの戦いの結果、徳川家康が天下の実権を握り。豊臣家は衰亡に向かう事。などなどが挙げられる。

とはいっても、この戦いの(具体的な戦況の推移については)一次資料は21世紀になるまで発見されず。100年以上後に書かれた資料に頼らざるをえないのが実情だった。

だから、当初は西軍が圧倒していたが。

小早川秀秋の裏切りにより、東軍が攻勢に転じて、死闘を制したという話は誰でも知っていると思う。

そしてこの定説は21世紀に覆された。

実際には小早川秀秋は、戦闘が開始されると同時に裏切り。更に小早川秀秋に備えていた四部隊も同時に裏切り。

小早川秀秋を二度も押し返したとされる大谷義継の部隊は秒で壊滅。他の部隊も殆ど戦闘らしい戦闘も出来ず。

戦場南部にいた毛利家の部隊は戦闘に参加するどころではなく、瞬殺される石田三成や島津家の軍勢を見ている事しか出来なかったことが分かってきた。

一次資料が出てしまった以上、定説がひっくり返るのは仕方が無い。

というわけで、定説がくるっとひっくり返ってからだいぶ経った近年。

過去の地球を見る事が出来る装置が出来上がった。

宇宙ステーション「菊花」の内部にて、量子コンピュータの前に科学者が集まっている。

私もその一人だ。

私は歴史学者で、関ヶ原の戦いについて色々調べてきた人間である。

21世紀に発見された一次資料によっても、戦場での推移がひっくり返った後も。それでも必死に何とか西軍が少しでも頑張ったと考えたい人は多く。まあそれは徳川家康が不人気だから、という理由からくるのだが。

まあいずれにしても、はっきりしているのは。

今回の件で、実際の状況が分かると言うことだ。

さて、量子コンピュータと接続されているのは、空間歪曲を行う一種のブラックホール発生装置。

これを用いて空間に一時的に穴を開け。

過去の映像を見る。

ただし、あくまで過去の映像を見る事だけしか出来ない。

タイムマシンというと人間を送り込む事を想像してしまうが。

実際に出来るのはこれくらい、ということだ。

というか、過去に干渉した場合。

基本的に違う世界線が発生してしまうため。

元々の世界からは観測できない。

そういう結論も既に出ている。

というわけで、過去を正確に知るのなら。こうして見るだけ。それだけが、正解なのであった。

何とも夢がない話だが。

それにしても、関ヶ原の戦いか。

今までも色々な歴史的事実が、このタイムマシンによって明らかになってきた。

写真がなかった時代の歴史的偉人についても映像が出て来ている。

幸い一神教徒の影響力は今の時代は殆ど無いので、それらの開祖の写真や。更にはアレキサンダー大王や、チンギスハンなどの実際映像も既に取得に成功していた。

というわけで、今回は関ヶ原の戦い。

日本史に出てくる戦いの中で、もっとも有名な一つである。

他にも見てみたい戦いはいくらでもあるのだが。

ともかくこれが見たかった。

私は頷くと、装置の方を担当する人に頷く。

「徳川博士、この時間、座標で間違いないですね?」

「間違いありません」

そう。

私は徳川連。

嫡流では無いが、徳川家の子孫だ。

まあ徳川家康の嫡流は江戸時代に途絶えているのだが。その時のために徳川家康は御三家なんてものを用意していたし。

何より徳川家康は、あの戦国最強も名高い武田軍団と二十年も戦い続けた名将。世界史に普通に残るレベルの人物なので。

関ヶ原の戦いで、徳川家康が不自然に苦戦したのはおかしいというのは、私の中ではあった。

とはいっても、現物を見るのは冷や冷やする。

それが歴史学者の常だろう。

十七で大学院を出て。

今、こんなプロジェクトに参加している私だが。

それでもひやひやはする。

量子コンピュータが起動開始。ワームホール起動。

観測開始。

それだけ。指示の声が上がる。全てが動き出す。

そして、実際の映像が映し出された。立体映像で、である。

おおと、声が上がる。

関ヶ原に、双方合計して十五万を超える兵が集結している。これは実数である。

関ヶ原の西側には、石田三成が率いる兵が多数展開。

小早川秀秋が率いている兵が、南西の山に陣取っている。

その麓に点在しているのは、小早川秀秋に備えた兵力だろう。

戦場南には、毛利家の軍勢と、長宗我部の軍勢がいる。

長宗我部か。

四国の覇者だったこともある大名だ。秀吉に楯突いてからは全てが上手く行かなくなり。更には九州での戦役で、仙石秀久という無能な武将の指揮によって。長宗我部家は有能だった長男を失い。有名な長宗我部元親は精神的な体調を崩して以降長宗我部家はグダグダ。この戦いに再起を賭けて来たのに。毛利家が戦場に出る機会さえ奪ってしまった。

この時関ヶ原の戦いに参加した長宗我部盛親は大阪の陣でかなりの活躍を見せている事を考えると。

はっきりいって、不運だったと言わざるを得ない。

整然たる軍列。

膨大な鉄砲。

勿論大砲もある。

それらを考えると、この戦いが如何に歴史に大きな影響を与えたかが分かる。

なお、地方版の関ヶ原の戦いと呼べるものも幾つもあったのだが。

それらについては。今回は観測しない。

一回の観測で見られるものは限度があるのだ。

「映像をズームします」

「了解しました」

「あれが徳川家康か……」

声が上がる。

精強な徳川家臣団を率いて、武田家と戦い続けた戦国屈指の闘将。常に勝ち続けた訳では無く、何度も敗北の苦渋を舐めてきた人物。

それどころか幼い頃は敵国に捕らわれ、人質生活を送り続け。

何度も殺される危機にあった。

苛烈な人生を送った人物だ。

だからこそ、後の時代に徳川家康という人物は評価が極端になる。

特に重商主義を掲げていた大阪の人間には徹底的に嫌われ。真田信繁(幸村という名前の方が有名だが)の活躍がもてはやされた事もあり。

無能だのタヌキだの好き勝手に言われていた人物だが。

実際に戦場に立つ姿を見ると。

アレキサンダー大王やチンギスハンなどにも見られた、圧倒的な戦気が満ちている。

それに言われている程太ってもいない。

何より落ち着き払った空気が凄い。

なるほどな。

戦国三傑最後の一人にして、江戸時代三百年の平穏を作った人物。

その実績は、伊達では無いと言う事だ。

さて、これから関ヶ原の戦いが始まる。

私は、一次資料の記述が正しいのか。

様々な地点の映像を出すべく、周囲に指示。

それにしたがって、科学者達は動いてくれる。

さあ、事実はどうだった。

関ヶ原の戦いの結果は分かっている。東軍の完勝。一日で終わり。

それについてはあらゆる資料が裏付けている。

だが、まだ戦場で西軍が頑張ったと信じたい人はどうしてもいるのだ。

それについては、もうこうして実物を見るしか無い。

福島正則が映し出される。

豊臣秀吉の妻であるねねが育て上げた子飼いの武将の一人。気性が荒く、大酒飲みで知られた猛将。

いかにもなヤクザ的雰囲気の人物だ。

実際問題、戦闘は得意だったが政治は大の苦手で。

関ヶ原の戦いの後上手に立ち回る事が出来ず、あっと言う間に没落していくことになる。

この戦場には、彼の相方だった加藤清正はいない。

加藤清正は朝鮮の役でも活躍した猛将だが、城造りの名手としても知られていて。清正が作り上げた熊本城は、西南戦争で近代兵器の攻撃にもびくともせず。圧倒的堅牢さを見せつける事になる。

関ヶ原の戦いは、勘違いされやすいのだが。豊臣政権の内部紛争であり。

あくまで家康はその一派の統領だったに過ぎない。

故に加藤清正も福島正則も、家康の配下として戦った。

また石田三成は実際には総大将などではなく。西国最大の大名である毛利輝元が実質上の指導者だったという話もあるが。大阪城に閉じこもって出てこなかった毛利輝元は、この戦いに関してどうこういう資格は無いだろう。

さて、小早川秀秋を見る。

小早川秀秋と言えば、日本史でももっとも嫌われている人物の一人だ。

加藤清正同様に朝鮮の役でも活躍した実績があり。

更には元々は秀吉の一門として、未来を期待されていた節もある。

だが、若い頃からそういう人間には悪い輩が寄ってくるものだし。

何よりも小早川秀秋にしてみれば。未来を期待していると言われながら、いきなり放り出された(小早川家の養子に出された)という経緯もある。

性格も歪むのは当然だと言える。

どんな捻くれた奴かと思ったが。

見てみると、意外に精悍な若者である。

確かひょろっひょろのいかにも弱々しそうな肖像画があったし。色々な歴史物ではこれでもかとこき下ろされている小早川秀秋だが。

そもそもこの時代の裏切りは事前に裏切るタイミングや報酬などの約束を取り付けておくのが必至で(そうしないと却って戦場が混乱するため)。小早川秀秋はちゃんと家康と裏切りの約束をしている。

そもそも小早川秀秋は晩年耄碌した秀吉によって理不尽な折檻と粛正を受けかけた経緯があり。

それを徳川家康に助けられている。

豊臣秀吉は、晩年の耄碌で若い頃の功績やカリスマを台無しにした経緯があるが。

その台無しになった所を徳川家康が全て埋めていた。

故に関ヶ原の戦いでは、家康が勝つと誰もが分かっていたのだろう。

実際、この関ヶ原の戦いに唯一利害関係無しで参戦した大谷義継も、石田三成に絶対に勝てないからやめろと諭したという逸話がある。

「これが小早川秀秋?」

「チビじゃないのか……」

「朝鮮の役では陣頭で暴れ回って多数の首級を挙げた猛将ですよ」

私が事実を告げると、周囲の学者達が黙る。

さて、此処からだ。

他にも石田三成を見るが、顔が青ざめている。そこそこに精悍な人物だが、兎に角戦下手で、勝ち確の状態で負けたりしている人物だ。故に戦場にはあまり立たず、後方支援を中心に辣腕を振るった。

陣形だけなら勝ち確定の状況を作ったが。

これは勝てないと、何となく分かっていたのだろう。

側に噂の島左近はいない。

島左近については分からない事が多く、実は関ヶ原の戦いで死なず。徳川家の旗本になったと言う話もある。

島左近がいないということは、要するに言われている程の扱いはされていなかったと言う事だろう。

少なくとも、これが島左近だと特定出来る人物は、石田家の陣にはいなかった。

島津家はどうか。

島津家については、この戦いに参加するまでの経緯が錯綜している。

千騎ちょっとで出て来たは良いが。徳川家にそもそも味方するつもりが、連絡が上手く行っていなかったことから。伏見城に入ろうとしたところを追い出され。孤立するのを困り果てて西軍になし崩しに参加したという説がある。あくまで一説だが。

なお戦場を突破して井伊直政に致命傷を与えたというのは大嘘で。

実際には井伊直政は過労死である。

戦場から逃げ延びた島津軍は八十人程度まで撃ち減らされていたことからも(消滅レベルの損害である)、関ヶ原での活躍は明治後などに誇張されたものと考えて良いだろう。ただ、関ヶ原の戦いの経緯についてはもう少し研究が必要だ。

島津義弘は鬼島津と呼ばれただけあって、筋肉質の豪壮な老人だった。ただ、疲れきっているように見えた。

もう戦場から生きて戻る事を諦めている。

そんな様子にさえ見えた。

さて、戦いがそろそろ始まる。

21世紀に発見された一次資料で、定説がひっくり返った関ヶ原の戦いが。

未来から、こうして観測される。

 

結論から言うと。

一次資料の記述は正しかった。

そもそも徳川家康と石田三成とでは、将としての実力が違いすぎる。また、石田側は統制も取れておらず。毛利家は殆ど遊軍。勝ち馬に乗ろうと考えていた毛利家は、そもそも勝ち馬に乗るどころではなくなったのだろう。

戦闘開始は、一次資料にあったとおり十時。

徳川家康がわっと軍勢を前面に突貫させると同時に。

一次資料の通り、小早川秀秋が一気に山を駆け下った。

小早川秀秋の軍は一万五千。

更に、小早川秀秋に備えていた脇坂安治ら四将も即応して裏切った結果。麓に陣取っていた大谷義継隊は、文字通り秒で消滅した。

二回も押し返したんじゃなかったのか。

そうぼやく声があったが、文字通りの瞬殺である。そしてこの大谷義継、秀吉にも将器を認められていた人物だ。

後は、文字通りの蹂躙となった。

小早川勢に真横をつかれた石田勢は、一瞬にして主力である宇喜多秀家軍一万五千がゴミのように蹴散らされて消滅。この部隊は福島正則の軍を何度も追い返したとか戦記物には書かれていたのだが。実際には福島正則と小早川秀秋に文字通り両面から攻め立てられ、ロクな抵抗も出来ずに潰された。

こうなると、毛利勢は大慌てである。

高みの見物どころでは無い。

更に下手に動けば、家康が。

恐らくこの時代、戦国最強の用兵家である家康が全力で反撃に出て来て潰されるだけである。

宰相殿の空弁当などという話がある。

この戦いで、毛利家の軍が動かない事を詰問した者に対して。毛利軍を率いてきていた毛利秀元が今飯を食っているからとか返したという話だが。

それは大嘘だった。

これではどうにもならない。

更に、徳川家三万の軍勢は凄まじい勢いで暴れ回り、石田軍の前線を文字通り木っ端みじんに粉砕した。

島左近の猛攻も猛反撃もなく。

三万という圧倒的兵力、更に戦歴でも能力でも現時点最強の徳川家康が率いる上、前線にはあの東国最強を噂される本多忠勝までいる。

文字通り、どうにもならない。

島津軍は。

すてがまりという決死の策で逃げ延びたとか、逃げる途中に敵中突破したとかいう話があるが。

これはそれどころではない。

見ていると、文字通り一瞬にして踏み砕かれて全滅。

もうどうにもならないと即座に判断したらしく、島津義弘は逃走。すてがまりも敵中突破も何も無い。

もみくちゃにされる敗残兵の中を、ただ逃げるだけである。

その中で、島津豊久はよってたかって雑兵になぶり殺しにされた。

残念。

島津家の活躍はなかった。

そして石田家の本陣は、野戦陣地を組んではいたものの。

もはや四方八方から猛攻を受けてどうにもならずに、消滅。

後は敗残兵狩りに移行した。

実際の戦闘は三十分も掛かっていない。

後は毛利家が、不満そうな吉川家の軍勢と共に撤退。

そして長宗我部家は右往左往しているうちに、追撃を仕掛けて来た徳川軍にゴミのように蹂躙された。

十二時。戦闘終了。

敗残兵狩りも含めて、十二時で終わりである。

呆然としている周囲の様子がよく分かった。

戦記物で壮麗な戦いとして書かれていたこの関ヶ原の戦いが。

一方的な蹂躙マッチだった事が分かってしまったのだから。

溜息がこぼれた。

「島左近の活躍は? 島津義弘の中央突破は?」

「いずれも創作だったということですね」

「こんな結果は見たくなかった」

嘆く声が多い。

歴史マニアはたくさんいるが。実の所、21世紀になって一次資料が発見された後も。100年以上後に書かれた壮麗な合戦絵巻の内容を信じていた人は多かったのだ。

しかしながら考えてみれば当然で。

老年になってからも明晰な頭脳を持っていた上、この時点で戦国最強の徳川家康が率いる軍勢と。絶対に勝てる戦場を用意して貰っていても勝てなかった石田三成とまとまりが取れていない軍勢が。

ぶつかったらどうなるか。

それは自明の理だったと言える。

「コントかよ……」

誰かが呟いた。

まあ気持ちは分かる。此処まで一方的な戦いなんて、誰も見たくなかったのだろう。

それに、その後徳川軍が迅速に状況を収束できたのもよく分かった。

この結果を見れば。

その圧倒的強さは誰の目にも分かる。

逆らおうなんて、誰も思わないだろう。

私は皆に指示を出す。

「電気代がバカにならないので、観測は此処までです。 ありがとうございました」

「はい、ではワームホール停止します」

「量子コンピュータも停止開始」

失望の顔が多かった。

一次資料で書かれていた、徳川家の瞬殺マッチ。それがひっくり返される所が見たかったのだろう。

しかしながら、そもそも東軍圧勝の歴史は変わらないし。

東軍が多大な被害を出していたのなら、そもそもその後畿内を迅速に制圧も出来なかっただろう。

毛利輝元が即座に抗戦を断念したのも道理と言える。

この時代に、徳川家康にかなうものはいないと、一瞬で誰もが悟ったのだ。この関ヶ原の戦いで。

私は徳川家康の子孫だ。

だからこそ、この結果は見るのが怖かった。

さて、戻ったらレポートを書くとしよう。

それにしても。

ステーションから地球を見る。

もう資源が尽きてしまって、人間に見捨てられた星。

散々資源を無駄遣いした結果だ。

地球人は急速に火星や金星の宇宙コロニーに移り住んだが。それでもここ百年で人口は百分の一に激減した。

徳川家康を見る事が出来たが。

徳川家康が今の私を見たら、激怒するだろうな。

そう思うと、あまり嬉しくは無かった。

まずい宇宙食を食べた後、レポートを仕上げよう。

そう思って、自室に向かう。

今後人類がどうなるかは分からない。

分かっているのは、再起が出来るかどうかすら怪しいと言うことだけ。

私は大学院を出た俊英だが。

徳川家康には、及びそうにもなかった。

これこそコントだな。

私はさっき呟いた誰かの言葉を反芻すると。大きなため息をついていた。

 

(終)