謎の縦穴事件

 

1、大きな大きな穴

 

大学生になる角倉京子(かどくらきょうこ)は、友人の沢田清花(さわだせいか)にメールで呼ばれて、彼女の家に向かっていた。助けてとかメールには書いてあったが、別に危機感は無い。

清花はとにかく駄目な子で、大学生になってまともに家事も出来ないわ何も無い道で転ぶわで、信じがたい残念大学生である。普段は頭の回転も速いとはいえず、いつもぼんやりとしている。これでいておかしな事に、妙に顔の造作が整っていて、しかも成績は抜群に良いのだから異常だ。

理工学部に所属している清花は研究室で既に教授に頼られ切っているとか言う話もある。実際、幾つか大学で奨励賞を出すほどの研究成果を上げているそうだ。

しかし、京子の知る普段の清花は、ただの駄目で残念な女だ。

あくまで、普段の、だが。

普段ではないときはというと、別の意味で駄目なのだが。

家に着いた。

一軒家である。大学生なのに。しかも一人暮らし。

金持ちなのでは無く、去年両親が亡くなって相続したのである。それ以降、この駄目女の世話は、いつも京子が焼いているのだった。

ドアをノックする。

「おーい、セイー! 来たぞー! 開けろ−!」

返事無し。

呼びつけておいてこれだ。なんという失礼な奴。

しばらく待っても何も無いので、寝ていると判断。渡されている合い鍵を使って、家に入った。

あまりにも危なっかしいので、合い鍵をもらっているのである。彼女の両親が存命中の頃からだ。

幼児の頃からの腐れ縁である。だから、昔から知っている。清花は出会った頃から意味がわからない奴であった。幼い頃は変人ぶりから孤立もしていたのだが、中学くらいまでだ。それまでは京子しか友達がいなかったのに、高校くらいからは急にもて始めたのもよく分からない。

ぜんっぜん変わっていないのに、である。

案の定、チェーンなど掛かってもいない。ドアを開けて入る。それこそ何百回も入った家だから、構造なんか熟知している。

まあ、いるのだったら寝室だろう。

曲がりくねった階段を上って、二階に。二階にトイレがあるちょっとお高い家だ。何しろ、別に仕事なんかしなくても、遺産で充分生活できるほどなのである。それだけ、大量の有価証券や株券、土地を所有しているのである。まあ、相続の時にだいぶ減ったのだが、それでも大量に、だ。

もっとも、金持ちになる前から清花はもてた。大変に。

金目当ての男ばかりというわけでは無く、その駄目ぶり変人ぶりがもてる原因なのだろう。

「おら、セイ! 起きろ!」

部屋に入る。

いない。ベットはそのまんま。ベットの周囲には、大学生とは思えないファンシーグッズが満載されている。日本で最も有名な猫のキャラクター抱き枕が、寝よだれがついたまま放置されていた。

後で洗濯しなきゃあと思いながら、他の部屋に。

三つ目に入った居間で、見つけた。

「セイ、いるんなら返事……おあっ!」

「あー、おはよー、キョウコちゃん」

目をこすりながら清花が応える。

彼女の腰から下が見えない。床に埋まっていた。

何か障害物があるのでは無い。一階のダイニングの半ばほど。フローリングの床だ。下半身が切り取られたように、すっぽり床に埋まっているのである。

しばらく呆然とした京子は、これ以上探してもいないなら電話しようとして出していた携帯電話を、床に取り落としていた。

「何、やってんだ」

「それが聞いてよ、キョウコちゃん。 何だかね、いきなり床に大きな穴が開いて、すぽーんってうまっちゃったのー」

ふへへへと、特徴的に清花が笑う。

研究室で眼鏡を掛けている彼女だが、今日は素のままだ。化粧もしてない。

それでモデル並の美貌なのだから詐欺である。世の中には、体の手入れなんぞろくにしないでも、アホみたいな美貌を保てる奴がいるのだ。京子なんか元が平凡だから、どれだけ身繕いに時間を掛けているかわからないのに、である。

長くて美しい黒髪は、背中を伝って床にばらまかれている。外では流石に縛っているが、家の中では引きずりながら歩いている長い髪である。元々長身の清花は、京子が雷を落とすまで、床屋にも行かないのだ。

それでいながら、その髪の美しいこと。昔は髪の毛を売る商売があったそうだが、どんだけの高値がつくか知れたものでは無い。天然パーマの上若干地毛が茶色い京子とは天地の差である。時々この格差には殺意さえ覚える。

「で、どうしてでない」

「はまっちゃった。 助けて」

「……」

思わず頭を抱えた京子だが。

しばしの虚脱から立ち直ると、友人が不可思議な穴から脱出するのを、手伝うことにしたのだった。

 

さて、無理矢理に清花を引っ張り出して、一年前にリフォームをやった業者に抗議の電話でも入れてやろうと京子は思っていたのだが。考えが変わった。

穴を見て、それが尋常な代物では無いと、一目で気づいたからだ。

まず、切り取ったかのような正円である。しかも床には、其処以外にダメージも無い。嫌みのようなモデル体型(しかもダイエットなんぞしたことも無い!)清花が踏み抜いたのなら、もっと床はおかしな状態になっているはずなのだ。

だが、この異常な穴は何だ。

のぞき込んでみると、底が見えない。

地盤沈下とか、そういうものではないことは、一目でわかった。

一応京子も、四大学の一角に数えられるW大学に通っている現役大学生である。清花のいる理工学部と京子の文学部では天地の差があるが、それでもその辺の、ギリシャ神話とローマ神話の区別もつかないようなフリーターとは一応違って、知識は最低限備えている。それなりに論理的にものを考える技も持っている。

腕組みする横で、ぺたんと座った清花が、にこにこしていた。

「キョウコちゃん、ありがとうねー。 お礼になんか食べてく?」

「いや、それより何だよこの穴。 それに食べるっていっても、どうせあたしが料理するんだろーが」

「でへへへー、ばれたかー」

「全くこの女は……」

イライラしながら、視線を背ける。中学くらいから背にも体型にも露骨に差が出始めて、今では清花の方が頭一つ半分大きい。それに比べて京子は、私服で外を歩いていると、中学生と間違われる始末だ。

一度なんか、既に酒を飲める年だというのに、繁華街で補導されかかった。悪辣なことで知られ、ついに犯罪を起こしてW大学の名望を地に落とした見合いサークルも、清花には執拗に声を掛けていたのに、京子には見向きもしなかった。

清花を見ていると、思い知らされる。

どんだけ努力しても、全く手が届かない相手がいると。京子の寂しいプライドを保っているのは、私生活で清花が駄目を極めているという事実だけである。これで此奴が家事も私生活も完璧だったら、多分劣等感で生きていられなかっただろう。

「とりあえず、危ないから塞いどこう。 板かなんかあるか?」

「えー? 塞いじゃうの?」

「そりゃあそうだろ。 何も無いところで転ぶような奴がいる家に、こんな穴があったら危ないだろうが」

「何だかもったいないなあ」

謎の理論でもったいないと宣う清花は放っておいて、京子は裏庭に出て、物置を開ける。日曜大工用のベニヤが幾つか残っていたので、それを床に敷いて、その上からカーペットを乗せた。念のために、縁はガムテープで固定した。ちょっと跡が残るかも知れないが、落ちるよりはましだ。

これで一応は安心である。

それから、せがまれたので料理を作る。なんと半日以上、穴にはまっていたのだという。

「それでおなかが空いちゃって。 だからキョウコちゃんよんだのー」

「アホか! 穴から脱出しようって思わなかったのか−!」

「ええ? でも穴の中、ひんやりして気持ちよかったよ?」

「この女は……」

相変わらず理解不能な思考回路である。

そういえばトイレに行くのも忘れていたと行って、のそのそと消える清花の背中を見送ると、大きく京子はため息をついたのだった。

 

2、縦穴の謎

 

W大学に入って三年になる京子だが、まだまだ所詮は子供である。そう自分を評価していた。

男子に比べると大人だとは思っている。

だが、それも実質はそう大差ない。大学内で作られている人脈の偏狭さや、女子のコミュニティの狭隘さを考えると、多分子供である部分が違うだけなのだろうと思う。

W大学の敷地に入った後は、まっすぐ歩いた。そろそろ冬と言うこともあり、マフラーに手袋、カーディガンとフル装備だ。それでも寒い。今日は講義が無いから、来たのは勉強目的では無い。

敷地を横切るようにして、図書館に向かう。

このW大学は、数年前に巨大な犯罪的サークルの摘発が発生してから、首脳部に大幅なメスが入り、それに伴い体制も大きく変化した。

海外から高名な教授が何名も招かれて、それに伴って学長をはじめとする首脳も交代。今まで偏屈な人脈でガチガチに固められていた教授陣は既に瓦解しており、今は秩序も存在していない。

そんな中、学生は就職に戦々恐々とはしていても、大筋では皆のんびりと平穏な日々を過ごしていた。むしろあのサークルが消えてから、学内の空気は良くなったくらいなのである。

図書館に入る。

蔵書だけは立派だ。奥の方で、あの怪奇現象について調べてみる。警察に連絡しなかったのは、清花に懇願されたからだ。勿論何かの犯罪につながるといけないから、しばらくは厳重に見張る必要がある。

それにしても、あの穴は。

一度落ち着いてから、何度か穴について調べてみた。

そうすると、不可思議すぎることがいくつも浮かび上がってきたのである。

まず穴だが、床と、その下の地面に、綺麗に正円型を保ってあいている。直径は四十七センチ丁度。コインを落としてみたが、地面にぶつかる音はついに聞こえなかった。

つまり、音が聞こえないほど下方まで、穴は通じていると言うことだ。

穴自体を塞ぐのは、今度リフォーム業者にやってもらうとして。開いた穴が無くなるわけでは無い。

そして存在している以上、あの残念女は必ず首を突っ込むだろう。そうなれば事故になる可能性も高い。早めに適当な結論を出して、興味をよそに向けさせたかった。

本を適当に物色していると、先輩に声を掛けられる。

研究室の先輩で、既に就職活動を頑張っている人だ。名前は秋坂眞美(あきざかまさみ)という。

「京子ちゃん、お勉強?」

「ええ、まあ。 それより先輩、どうしたんですか。 もう単位は足りてるって聞いてますけど」

「今は資格の勉強中よ。 今の内に出来るだけ取っておこうと思って」

くすくすと先輩は笑う。

高校の頃からOLに間違われることもあったと言うくらい大人っぽい先輩は、その容姿が故にもてる。多分清花と同じくらいもてるだろう。

ただ、どの男も長続きしないらしい。というか、交際を解消した男が、交際していた間のことを一切口にしないという不思議な現象が、男子皆の妄想を刺激しているようなのだ。まあ、女子には別の風評があるし、そもそも京子にはどうでも良いことである。

幾つかの本を見繕った後、読書スペースに。

この時期はレポートの学生もいるので、出来るだけ小声で話さなければならないので、ちょっとストレスが溜まる。

「あら、それ、クトゥルフ神話?」

「え? まあ、はあ」

「貴方もマニアックなものが好きなのね」

くすくすと、眞美先輩は笑ったので、ちょっと京子は恥ずかしくなった。

言うまでも無く、架空の神話である。アメリカで作られたこの神話は、今でも彼方此方に熱狂的なファンがいる。

何でこんなものを持ち出したかというと、手がかりが他に無かったからだ。いろいろな災害関係の本を読んでは見たのだが、どうも話がつながらない。地盤沈下の関連書などはそれこそ十冊以上見てみたのだが。あのような異常な事例に類するものは、一つも過去に起きていなかった。

地盤沈下の類というのは、地下に空洞が出来たときに発生する。水の吸い上げ過ぎなど様々な原因はあるのだが、結局の所、空洞の天井が重量に耐えきれなくなって発生するのが主な要因なのだ。

だからこそに、あんな穴の開き方はあり得ないのである。

他にも様々な現象を調べてみたが、どれも考えられないという結論に達してしまう。

最終的にオカルトに手を出すことになったのは、半ば自棄だ。

どうしてクトゥルフかというと、一番可能性が低そうなのから、と思ったからである。他にもオカルト関連は目を通そうとは思っているが、まずはそれらの集大成ともいえるこれから見ることで、参考にしようと思ったこともあった。

科学的では無いと言う意見もあるかも知れない。

だが科学の世界では、訳のわからない実験結果は日常的に起こる。文学部である京子も、きな臭い噂はいくらでも聞いたことがある。実際問題、理系の大学でもオカルト話はいくらでもある。

この四大学に属するW大でも、それは同じ事だ。

「何が起きたの?」

「ちょっとセイの家で変な事件が起こりまして。 色々調べてるんですが、どうもらちがあかないんですよ」

「それって、どんな事件?」

とても嬉しそうに、眞美先輩は目を輝かせた。

この人が実は重度のオカルトマニアである事を、京子は知っている。実は男が長続きしないのも、彼女の自室を見てどんびきし、逃げ散ったのが原因では無いかという説さえあるほどなのだ。

女子の情報ネットワークは、男子のそれより広くて高性能だ。

まあ、この先輩はおもしろがって首を突っ込んでくるが、スピーカーにはならない。話してしまっても大丈夫だろう。

かくかくしかじかと話をする。

聞き終えると、にんまりと眞美先輩は笑顔を浮かべていた。

「とても楽しそうだわ、その穴」

「といっても、本当にただの穴ですよ」

実際には違う。

壁面は磨き抜かれたかのようで、非常にすべすべしていた。崩れる気配もない。

ボーリング用の穿孔機を、そのまま引っこ抜いて、コンクリか何かで固めたかのようである。

ただ、実際に見せると先輩が大喜びして何か更に事態がこじれるような気がしてならないので、そこまでは話さなかった。

「是非見てみたいわ」

「駄目です。 危ないですし」

「そう、残念ね」

残念そうではあるが、笑顔を浮かべたままの先輩は、そのまま色々とオカルト関連の書籍をピックアップしてくれた。

それにしてもこの人は、W大学まで来てオカルトの事ばかり考えているというのも不思議な話だ。

賢い人には変人が多い。それは隣人を見てわかってはいる。

世間的な常識などと言うものが、アホをまとめるために作られているのだと、何となくわかるのは、こういう人々と接しているからかも知れない。

もっとも、どちらかと言えばアホよりの京子は、何処か突き抜けてしまおうとまでは思わないが。

どうせ暇なので、そのまま言われた書籍を集めてくる。

神話についてはある程度の知識があるから、読み進めてみると面白い。細かい部分で、知らなかったことが結構ある。

魔術に関しても、それは同様だ。

仏教もインドにあるものと、日本にあるものではまるで別物だという事がよく分かる。根源的な思想は同じなのだが、その過程が全く異なってくるのである。

やがて、現代オカルトに移行。

カルト宗教に利用されているものを除くと、現代のオカルトは意外に原始的なものだという事が、調べてみてわかる。

都市伝説などもそうなのだが、高度に体系化された古代のオカルトである神話や魔術が否定された結果、一回りして却って陳腐化してしまった、というのが正しいのかも知れない。

要するに、人間の心の問題なのだ。

だが、それでは説明できないことも、一部ある。幾つか、面白そうなものがあった。まあ、参考程度だと思って、ピックアップしておく。ルーズリーフに挟み込んだメモ書きが、徐々に増えていった。

最後に、クトゥルフ神話に掛かる。

外は既に夕方になっていた。先輩はもうとっくに帰っている。

咳払いの声。

顔を上げると、友人の上城添水(かみしろそうず)であった。京子は女友達だけではなく、男友達も何名かいる。その一人である。

「すげえ集中力だな。 頭が悪いって言ってる割に、W大学まで来られるわけだぜ」

「何だよソーズ。 馬鹿にしに来たのか」

「そう怒んなよ。 何読んでんだ」

へらへらと、上城は本のタイトルを見る。クトゥルフ大全という、少し古い百科事典的な資料である。

まがまがしい表紙絵を見て、上城はどんびきした。

「おまえ、変なの読んでるな」

「悪かったな」

実は此奴、二年前に交際を申し込んできたことがある。少し前に手痛い失恋をしていた京子は断ったのだが、それからも平然と側にまとわりついてきている面白い奴だ。普通そういったことがあると距離を置くことが多いらしいのだが、全然気にしていない。

元々此奴は音楽系の特待生で、女子にはもてる。そんな奴がどうして京子に近づいてきているかはよく分からない。

「そろそろ閉館の時間だぜ。 上がるんならファミレスいかねえか」

「気前がいいじゃん。 バイト代でも入った?」

「ああ、音楽教師のバイト、割が良いんだ」

此処で言う教師とは、ピアノの個人レッスンのことだ。コンクールで賞を取っている此奴には、丁度良い稼ぎ場なのだ。

別に断る理由も無いので、本を片付けて、ファミレスに寄る。

適当な定食を取ったが、早めに引き上げたのは。清花が穴をいじったり、落ちたりしていないか心配だったからである。

夜道を送ってくれると上城は言ったが、断った。

自分の身くらい、守れるからだ。

 

ファミレスで持ち帰りのハンバーグセットを買って帰ると、床でころんと丸まって清花が寝ていた。

布団も被っていない。

思わず脱力した京子は、足先でぐりぐりと清花を押す。自宅に帰れるのは、これではいつになる事か。

「おきろー。 セイ、めしだぞー」

「んー。 ごはんー?」

「早く起きないとあたしが全部食べるぞー」

むくりと清花が起き出す。だがすぐには立ち上がらず、地面に額をこすりつけるようにぐりぐりしていた。よく分からないがそれで目が覚めるらしい。

レンジでファミレスの持ち帰り品をチンした頃には、清花は起きてきていた。

此奴は既に単位をあらかた取っていることもあり、研究室に行く以外は悠々自適の毎日である。

「わー、ハンバーグだ!」

「子供かおまいは。 ほら、あたしはもう帰るから」

「うん。 それで、穴の事って何かわかった?」

此奴はアホのようでいて、きちんと覚えることは覚えている。というか、根本的な部分では、並の人間が何十人束になってもかなわないくらいのものをもっているのが怖いのである。

夕食にがっつく清花。ちなみに、外食には行かせない。マナーがあまり悪いからである。フォークもナイフもまともに扱えず、ぼろぼろこぼす飛ばすで、見られたものではない。造作が整っている分、周囲の目も引きやすい。

だから、だいたいお土産を買って、持って行ってやるのだ。

無言で、まとめたメモを出す。

ふーんと呟きながら、清花は内容を見ていった。

「ああ、オカルトに行っちゃうんだ」

「他にもう思いつくところが無いんだよ」

「そんなに悲観することでも無いよー。 心理学なんかはオカルトそのものの部分が結構あるし、量子力学だって部分的には実証されてるけど、まだ理論を積み重ねただけで実現にはほど遠いしね」

それは知っている。だが、清花がそれを言い出すと、ちょっと不思議だ。

この大学は一応日本でも上位のものであり、理工学部もちょっと気取って理工学術院などと呼んでいる位なのだ。京子はそういうのが嫌いなので、敢えて理工学部と自分で呼んでいるだけである。

そんな学校にいる、しかも最上位の成績を独占している清花がオカルトを肯定しているのを見ると、面白い。

「ああ、これ面白いねー。 南米で大穴があいた奴でしょ」

「それは不謹慎だろ」

「うん、現象の話だけね。 確かに悲劇だね」

さらりと流す。

以前ニュースにもなったが、地盤沈下で大穴があいた事例があったのだ。場所は南米。凄まじい超巨大な円形の穴が、大きな話題を呼ぶきっかけとなった。

だがこれは原因がはっきりしており、オカルトとは言いがたい。

他にも様々な、似たような事例を見つけてきた。時間を掛けて京子が見つけてきた情報を、殆ど流し読みしていく清花を見ていると、ちょっと腹立たしい。

そういえば。

大学受験の時も、此奴はこうだった。

必死に京子が勉強している横で、ベットに寝そべりながら、漫画でも読むように赤本を見ていただけだったのに。いざ受験を行ってみると、あっさり主席で合格しやがったのである。

なぜW大学に行ったかというと、京子が行くからだと即答したらしいので、それは嬉しいことではあるのだが。

「腹立たしいほど一瞬で読んでいくな」

「だって、いつもキョウコちゃん選んでくるデータ、おもしろいんだもーん」

「……」

複雑な気分である。

やがて、水を象が吸い上げるように、清花は本を読み終えてしまった。

それから、ベットに転がって、ぼんやりとし始める。足をぶらぶらさせているのを見て、帰ろうかと腰を上げかけたところで、ふいに清花が口を開いた。

「ちょっと見て欲しいものがあるんだけど、いいかなー」

「先にいえよ」

「いや、ごめんね。 ちょっとキョウコちゃんがもってきたデータを見て、思い出したからさ」

髪がぼさぼさのまま外に出ようとするので、慌てて止めた。

一応の身繕いをさせた後、外に。既にすっかり夜中である。これなら、もう泊まっていく方が良いか。

ここから京子のアパートは歩いて十分ほどだが、帰る気分では無い。

裏の物置に入る。色々とごちゃごちゃしている中で、清花が漁り始めた。

「セイ、何探してるんだ」

「ええとねー。 十三年前に、この辺に隠したのがあるの」

「十三年、前」

覚えてるのか。

いや、あり得る話だ。以前行ったケーキ屋が美味しいと言ったら、何月何日の何時に店に入り、領収がいくらだったかとか、すらすら暗唱して見せたのである。勿論何を食べたかも完璧に覚えていた。

此奴は頭の作りが、根本的に違うのだ。

「あった、これこれ。 じゃじゃーん!」

「……」

其処には。

埃をたくさん被った、いかにもな本があった。よく分かるルルイエ異本とか書かれている。何がよく分かるルルイエ異本だ。頭が痛くなるタイトルである。

勿論オカルトマニアが書いた冗談本だろう。

さっき見たのだが、確かこれは原点では人皮で装丁されているという曰く付きの代物だ。触らせてもらうが、皮どころか安っぽい装丁で、埃で痛みきっている。埃を噴くと、咳き込みそうになるほどの量が舞い上がった。

「何だこれ」

「んーとね。 ちょうど十三年前の七月四日、確か朝六時半だったかな。 暇つぶしに、これのなかの一つ試してみたんだよ。 で、効果が無いから、物置に放り込んでそれっきり」

「どれ」

「此処」

正確にページまで導き出してみせる。

十三年前というと、小学生の、しかも低学年だった頃なのに。此奴の脳内は、一体どうなっているのか。

そして、示されたページを見て、京子は固まっていた。

其処には。

「ヨグ=ソトース!?」

「うん。 丁度その頃、異世界ファンタジーにはまっててね−。 あ、あれあれ。 マリーホットー。 あの空飛ぶサッカーみたいの、どうしてもやってみたかったんだ」

「懐かしい名前だな」

「で、異世界に行ってみたいと思って、それをやってみたの−。 で、なんにも起こらなかったから、すぐ飽きちゃった」

儀式のやり方について、詳細に書かれている。

あまりまがまがしい内容は無い。図形を書いて、呪文を唱えて、それでおしまい。

「でも、これ後書き見て? この人、間違いない。 インチキオカルト本とか疑似科学で有名な人だね。 どうして今更、こんな人が適当に書いたインチキ召還術が成功したんだろ」

「いや、まて。 ヨグ=ソトースって、とんでもないことになってないかそれ」

話を進めようとする清花を押しとどめる。

これは、帰るどころでは無くなってきたと、京子は思った。

 

3、異界の神様の事情

 

ヨグ=ソトース。

ラヴクラフトが作成し、シェアード・ワールドとして大変人気のあるクトゥルフ神話において、中心に近い位置に座する強大な邪神である。

そもそもクトゥルフ神話とは、文字通りの神話では無く、創作小説群の総称である。宇宙から来た異神達に、非力で無能な人間共が蹂躙されるという内容の作品だ。人間の掲げる愛だの勇気だのなど、異世界から来た強大な神の前には塵芥に等しいというのがこのシリーズの主張であり、ある意味アンチ一神教的な要素もあって、ダークファンタジーの決定版的な存在となった。

その内容は完全な創作ばかりでは無く、既存のオカルトや魔術の要素も取り入れており、実際の神話に登場する神々が、名前と設定に斬新な変更を加えられ、登場することもままある。

ヨグ・ソトースはそのクトゥルフ神話の中でも、特に強大な神。神と言うよりも、もはや現象に近い存在で、全てを知り、全ての場所へ移動できる能力を補佐するという、文字通り規格外の存在だ。それでいて人間と子供を作ったり出来るのだから面白い。

清花は、そんなものを呼び出した結果が、今頃来たのでは無いかとか言う。

勿論京子は賛成できない。だって、怖いからだ。

とりあえず、その晩はもう清花の家に泊まった。居間は嫌だったので、開いている部屋を一つ貸してもらって、布団を敷く。だが、案の定、眠れたものでは無かった。

そんなばかなと、呟いて起きる。

外は既に朝になっていた。

「ばからしい。 オカルトを通り越して、ただの小説じゃ無いか」

つぶやく。

だが、そういうのなら、世間に蔓延するオカルトとは一体何だ。どれもこれも人間の妄想から生まれたものではないのか。

それなのに、どうしてこうも世界で知名度をもつ。

市民権を得ている。

狂信的な科学至上主義者が、オカルトに転ぶと言うことがある。これは珍しいことでは無く、実際に起こってしまうことがあるのだ。

それにオカルト、特に有名な超能力に関しては真面目な研究が広域で行われていて、ノーベル賞を受賞した人間も何名かそれに加わっているほどだ。

世界には、何かがあるのである。人間の知恵を越えたものが。

それがわからないから、怖い。

皆、探し求めてもいる。

馬鹿なと呟く。だが、あの異常な穴について、合理的な説明は出来るのか。そう言われると、否としか言いようが無い。

自宅に穿孔機を持ち込んで、何十年も掛けて穴でも掘っていたというのか。それこそあり得ない事では無いか。

チャイムが鳴った。

心臓が飛び出すほど驚いた。

「ほーい、だれー?」

ぽてぽてと清花が歩いているのがわかる。あいつ、起きていたのはいいが、髪の毛とかがぼさぼさのまま出ていないか。

そう思ったら、玄関から聞き覚えのある声がした。

「あ、眞美先輩。 おはよーございますー」

 

満面の笑みで、眞美先輩は穴をのぞき込んでいた。これは恋人でも側にいるかのようである。

少女漫画だったら、多分花が咲き誇っているだろう。

「凄いわ! この完璧な円! どこまで続いているかわからない深さの穴! まさに神秘ね!」

「凄いですよねえ。 科学的にはなんでこんなもんがいきなり出来たか、説明しようがないですもんね」

「そうね。 ヨグ・ソトースという説はとても面白くて、私小躍りしそうよ」

なんか面白いことを眞美先輩が言っている。大人っぽくて美しい先輩のイメージが、音を立てて崩壊しそうである。

もう呆れて言葉も無い京子は、側でテンションが高い二人を見ていた。膝を抱えて座っているのは、何かもうどうでも良くなってきたからである。

眞美先輩が、何か取り出す。

ダウジングロッドだった。

水脈などを発見するときに使う棒で、二つを手に持って扱う。何かある場所で棒が反応するのだ。

オカルトの類だが、これで実際に水脈が見つかることがあるので侮れない。ただし、使う人間によって精度は著しく変わってくるようだが。

先輩がダウジングロッドを穴に向けると、ぐるうんと音を立てて曲がる。きゃっきゃっと嬉しそうに笑う二人を見て、京子はますますげんなりした。

「で、そろそろフタ閉じてもいいすか?」

「駄目よ、こんなすてきな穴、もっと調べたいわ」

「それに、キョウコちゃんも、当事者だよー。 キョウコちゃんがヒントくれなきゃ、思いつかなかったんだから」

「いや、あり得ないし」

頭を振るが、既に清花と眞美先輩は訳がわからない話に戻っていた。

それにしても、清花までこうもオカルトに詳しいとは、研究室の教授が見たら目を回すのではあるまいか。

確か、相当な堅物で知られていたはずなのだが。

「ビデオカメラを吊してみましょう。 ロープ、買ってこなくっちゃ」

「専門家に任せません?」

「駄目よ、そんなこと。 情報を盗まれてしまうわ」

お茶目さんねと、額をつつかれる。

ますますげんなりした京子は、講義に出ようかと思って鞄を整理する。この様子では、此奴らは獲物に食いついたサメのように、いつまでも穴の前を離れないだろう。あの大きさなら、落ちる心配もしなくて良さそうだし。

「じゃ、あたしは講義にでますんで」

「うん、達者でねー」

何かとんでもない受け答えだった気がするが、気にしたら負けだ。

京子はそのまま、大学に出る。歩いて行ける距離だし、何度かため息をつきながら、もくもくと歩いた。

朝一の経済学は、生徒がまばらだったが、それ以上に退屈だった。

あくびをしていると、隣に上城が座ってくる。

「何だ、昨日は何かあったのか」

「朝まで恋人とホテルにいたんだよ。 なかなか離してくれなくてな」

「なっ……」

「嘘だよバーカ。 本気にしてるんじゃねーよ」

本気で動揺したので、こっちのほうが驚いた。上城の奴、まだ京子に未練があったとは驚きだ。

そういや此奴、浮いた噂が多いのに、どうしていつもいつも京子に絡んでくるのだろうとは思っていたが。

ちなみに、京子にその気は無い。タイプじゃ無いのである。

どうせ生徒はぽつぽつとしかいない。講師もやる気が無さそうであり、黙々と黒板に文字を書き連ねるばかりだった。

「びっくりさせんなよ。 心臓が飛び出すかと思った」

「飛び出しちゃえ。 で、何」

「ああ、おまえのダチの清花だっけ、あの子の研究室が騒ぎになってるんだ」

「はあ」

そんな話は聞いていない。というか初耳だ。

確か清花の研究室は、このW大学でも屈指の精鋭が集まっているはずで、何かあれば当然騒ぎになるはず。

女子のネットワークに入ってきていないと言うことは、起きたばかりと言うことだろう。

チャイムが鳴ったので、ルーズリーフを畳んで教室を出る。次の授業まで、まだ少し時間がある。

無言で、清花の研究室がある棟に足を向ける。近代化された棟が多い中、妙に古い建物が混じっているのが面白い。店もある。小腹が空いたときなどは、時々寄って食べていくのに丁度良い。

七分ほど歩いて、清花の研究室がある棟に到着。

京子の研究室がある棟より少し古い、五階建てのコンクリ製だ。面白いことに、この古い棟が教授の間では権威の象徴とされているらしく、此処で研究室を開いている教授は他より格上と見なされているという。

清花についても、随分と誰が引っ張るかで揉めたそうだ。

確か、研究室は三階。どうも上城の奴の言葉は嘘では無いらしく、ざわざわと無駄話をしている学生の姿が目だった。

「おまえも、意外に野次馬根性があるんだな」

「違う。 ちょっと用事があるんだよ」

「何の用事だよ」

無視して、先に。

当然エレベーターなどと言う便利なものはないので、階段を上る必要がある。このためか、格が上の教授ほど、下層階を独占するのだそうだ。

三階まで上がると、騒ぎは露骨に大きくなっていた。

何人か、教授が立ち話をしている。京子を見ると、その一人が反応した。理工でも中堅の上くらいにいる教授である。でっぷり太っていて、歩くのも大変そうなほどに腹が出ている人物だ。何を勘違いしたか、かっこいいと思ったのだろうか、ぼうぼうにあごひげを生やしている。

「おっと、君は確か清花君の友人だったな」

「はい。 角倉です」

「清花君はどうした。 連絡が取れないのだが」

「あいつ、基本的にあたしの携帯にしか出ないんですよ。 ちょっと待ってください」

携帯を鳴らすと、一コールで出た。

現金なほどの差である。

「やほー。 キョウコちゃん、どうしたの?」

「電話したいって教授がいてな」

「うん、代わってくれる?」

電話を渡すと、小声で何か話し始める。腹立たしいことに、京子に背中を向けて、聞こえないように、だ。

しばらくして、携帯を返してくれる。非常におざなりに、だが。

「何をしに来たのかね」

「用済みだから帰れって風情ですね。 清花に言いますよ」

「ぐっ、そうじゃあない。 此処は危険だ、帰りたまえ」

「あいにく、その清花に何が起きたのか、見て来て欲しいって言われてるんでね」

嘘だが、清花ならそう言うはずだという確信はある。

舌打ちした教授の横を通り過ぎる。

「おま、あれレポートが厳しいことで知られる郷目だぞ。 来年確かおまえの文学部、授業があるんじゃ無いのか」

「しるかそんなん。 確か其処だったな」

研究室を除くと、やはりわらわらと人が集っていた。

そんな中、場違いな姿がある。

廻る椅子にちょこんと腰掛けている性別不肖の子供。緑色の、童話に出てくる妖精が着ていそうなフラワースカート。髪の毛は短く刈り込んでいて、クリスマスで被りそうな三角帽子。しかし色は服と同じく緑色。

教授達が何を話しかけても、相手にしていないのか、くるくると廻っている。椅子がきしむ音が、冗談のように続いていた。

「あれ? 君は召還者の臭いがするね」

何だか、とてつもなく嫌な予感がする声が聞こえた。どうやら、その子供が喋ったらしい。

視線が、京子に集まる。

「そこの天然パーマさん。 何だか女の子なのに、野暮ったいねえ」

「うるせっ! 何だよてめーは! 教授の関係者か!?」

「わ、怒った怒った!」

きゃっきゃっと子供が喜ぶ。教授達は無言のまま、じっとやりとりを見つめていた。

「僕はヨグ・ソトース。 暇だから様子を見に来たんだけど、君についていけば会えそうだねえ。 いーかげんな呪文と、適当な方法で僕を呼び出した天才に、さ」

思わず、頭がくらっとするのを感じた。

あのたちの悪い悪夢が、本当になったというのか。あの穴は、じゃあ何か。クトゥルフ神話で言う異世界への扉か。

しかし、そうなると銀の鍵はどうなる。確かヨグ=ソトースを通って何処か別世界に行くには、そういうアイテムが必要だったはずだ。

それに此奴は、確かどこにも行けない場所に幽閉されているとか言う設定だったはずだが。

「ま、とにかく。 会わせてくれる?」

ヨグ・ソトースと名乗る子供は、混乱している京子をあざ笑うように、悪魔的な笑みを浮かべた。

 

歩きながら、子供は話をする。

此処に現れたのは、丁度六時間ほど前。研究室にゲートが開いたので、体の一部を出したのだという。

「召還に応じたときは、ぴかぴかする球を出すことが多いんだけどね、今回は召還された場所と時間とずれてるのが明白だったし、いい加減な術式で僕を呼び出した奴に興味があったから、こういう姿で出てきたのさ」

「あっそう」

「つれないね」

「当たり前だ! おまえ、本当はどこの子供だ!」

話について行けないらしい上城は、どん引きしながら少し後ろを歩いている。そもそも、だ。シェアード・ワールドとして作られたクトゥルフ神話の神格が、どうして実在しているというのか。

クトゥルフ神話の生みの親であるラヴクラフトは、変人であった事で知られているが、際だっておかしな人物でも無い。アイスが好きなお茶目なおっさんだったという側面もあったらしいし、勿論「魔術師」でも無かった。いろいろな過激思想の持ち主ではあったようだが、それ以上でも以下でも無かったはずである。

教授達によると、突然研究室にこの子供は現れたそうだ。徹夜で作業をしていた学生達が、複数目撃しているという。教授の一人も。

だから、質問攻めをしていたらしいのだが。

子供は、名乗ることも無く、沢田清花を出せの一点張りだったという。そして捕まえようとすると電撃のようなのが走るので困り果て、警察を呼ぶ前に、清花に話を聞こうとしていたそうだ。

もっとも、清花は例のごとくの変わり者だ。電話は無視して出なかったようだが。

途中のものに、殆ど子供は興味を見せない。歩くとてふてふと音がする。靴は一応履いているのだが、サンダルのような不思議な作りだ。

「しっかし君、召還者の臭いが濃厚にするねえ。 姉妹? 親子?」

「友人だ」

「へー。 下手な家族よりも濃い臭いがするけど?」

「知るかよ、そんなの」

確かに、そういう噂が立てられたことはある。高校時代はレズじゃ無いかとか言われたこともあったか。女子のコミュニティでそういう噂が広まると致命的だ。だが、元々妙な人望があった京子は、周囲から孤立することも無かった。これがもしも立場が弱いおとなしい女子だったら、目も当てられない惨状になっていただろう。

噂好きの雀たちにはあいにくだが、京子は女より男の方が好きだ。最近男と距離を取っているのは、失恋でひどい目に遭ったからである。清花については知らない。あいつの場合、そもそも性に興味が無いように思えてくるが。

「まあいいや。 清花も君と一緒なら、話くらいはしてくれそうだし」

「で、おまえは何がしたいんだ」

「さっき言ったとおりだよ」

「クトゥルフ神話は架空の存在、創作の生成物だ。 完成度が高いのは認めるが、それに登場する神がいるわけねーだろ」

ぴたりと、子供は足を止めた。

そして、にやりと笑みを浮かべる。

「それを言うなら、どの神話だって同じだろ? それだけじゃない。 オカルトと言われるものは、だいたいがそうだ。 なのに、時々本当に科学では説明できない不可思議な事件は起こる。 その現実はどう説明する?」

「そいつ、本当に子供か?」

呆れたように、上城がぼやく。

だが、それに関しては動かし様が無い事実である。如何に上手に変装しても、大人が子供になるのは難しい。

「まあ、清花に会わせてよ。 それからだ」

「……」

不快感が募る。ついに呼び捨てにまでし始めたか。しかもファーストネームを、である。それがどうしても京子には不愉快きわまりなかった。

まあ、この後の展開が見えていたから、放っておくことにした。

 

4、銀の鍵

 

もう、他に選択肢は無い。

清花の家に戻ると、鼻歌交じりで、眞美先輩が何か作っていた。そういえば料理も出来るのかこの人は。つくづく趣味がアレでなければ、お嫁さんにしたい女の子第一号である。男子にもてるのも頷ける。

清花はというと、ビデオカメラを穴から引き上げている所のようだった。ロープは何重にも何重にも蜷局を作り、うずたかく積まれている。

「おかえりー。 教授、どうだった?」

「かんかんだったよ。 で?」

「こっちはねー、色々面白いことがわかったよー」

「あ、お邪魔しまっす」

申し訳なさそうに、上城も家に上がった。まあ、これは別に気にしなくても良いだろう。寝室なんかは当然入れないし、人が来る可能性がある居間はいつもある程度掃除をしている。

フローリングの穴を見て、上城は流石に仰天したようだが。それでも、声までは上げなかった。

清花は、ヨグ・ソトースと名乗る変な子供を見ても、特に驚くことも無い。

腰を下ろすと、子供はにんまりと笑顔を浮かべた。

「こんにちは、可愛い召還者さん。 異世界への穴と、僕の召還を別時空にしたとは言え、こんないい加減な術式で良く僕を呼び出せたものだね」

「あ、やっぱりいーかげんなんだ、それ」

「1+1は3って言うくらいにね」

カメラを引き上げ終えた清花は、会話を切ることも無く、それをのぞき込む。

カメラにはライトがついていて、明かりでしっかり映す補助をしている様子だ。しかし、映像をどれだけ早回ししても、写っているのは壁ばかりである。

「この穴は、やっぱり貴方が開けたの?」

「それは違う」

「そうなると、貴方そのもの?」

「そういうことだ」

頭が痛くなる会話である。大きくため息をつく京子に、こそこそと上城が耳打ちする。

当然、肉食系でも無い此奴は真っ青になっていた。

「な、なあ、何の会話だ」

「知らない方が良い」

「そうなのか」

「多分頭がおかしくなる」

そうこうしているうちに、料理が出来た。

満面の笑みというか、にこにこ全開で眞美さんがもってきたのは、大皿一杯のカルボナーラである。実に美味しそうだ。

テーブルの上に置かれたそれは、大変に食欲をそそる臭いを周囲にばらまきまくっていた。

「さ、ヨグちゃん、食べて食べて」

「ヨグちゃんっ!?」

邪神と名乗る子供が面食らう。

だが、がっしりその肩をホールドしている清花。ヨグちゃんは逃げるに逃げられない状況である。

はっきりいって、人間の方がよっぽど邪神なんぞよりたちが悪い。

それがわかりきっているから、気が進まなかったのである。というよりも、此奴が何処かの頭がおかしい子供だというのなら、まだ救いがあった。助けてやる大義名分もあった。

だが、一応W大学まで行っている京子は、此奴が明らかに超常の存在だと理解できていたのだ。

クトゥルフ神話の神格は、人間の非力さともろさをあざ笑うために出演する事が殆どだ。だがホラーの世界はともかくとして、現実にもこういう化け物じみた奴は実在しているのである。

更に言えば、所詮人間の創造したものである神格は、人間の想像を超えることが出来ない。

つまり、結局の所人間を凌駕できない。

以前、ある事件でそれを思い知った京子は、もうこのヨグ・ソトースとかいう奴がこれからどんな目に遭うかを理解していたので、何も口を挟まなかった。さっきなれなれしくも清花をファーストネームで呼びやがった罰である。助けてやらない。

或いは、人間の理解が及ばない神格は何処かにいるかも知れない。人間が至高の存在などと、京子は思っていないから、いてもおかしくないとは思う。

だが、人間の想像した存在である此奴は、少なくとも違う。

「貴方って、知識を司る神様だったよねー。 色々、教えて?」

目を白黒させる子供。多分、今頃悟ったのだろう。

自分がどんな危険な場所に、今足を踏み入れているのか。

「ぼ、僕を召還したくらいだから、変わり者だとは思っていたが」

「助けないからな」

ついてきた方が悪い。

そう思って、京子は言い捨てて部屋を出る。しばらくスイッチが完全に入った清花と眞美先輩が、あの子供を徹底的におもちゃにするはずだ。

そんなの見ていて面白くないし、関わりたくも無い。

抜き足差し足で、上城が部屋を抜け出してくる。

そして、ぼそりと言った。

「どうして秋坂先輩がもてても交際が長続きしないのか、やっとわかった気がする」

「あたしは後始末があるから残る。 さっさと帰りな」

「悪いが、そうさせてもらうわ。 頭がおかしくなりそうだ」

こそこそと逃げ出す男子。

こういうのを草食系とか言うのだろうと、京子は思った。

ドアを閉めて、目を閉じる。中では邪神がどん引きするほど恐ろしい質問地獄が繰り広げられている様子だ。

「円周率を三千桁まで言ってみて?」

「な、なんでそんなことを」

「私が覚えているからだよー。 その気になればその二十倍くらいは軽く暗記できるけど−、無意味だからやっていないだけ」

「わ、わかった。 とりあえず僕が知識の泉だとそれで証明できるだろう」

子供がべらべらと数字を並べ始める。

そして、それが十分ほども続いた頃、嬉しそうに清花が言う。

「本当だ! あってるよ眞美先輩!」

「ステキね! これは本当に邪神に違いないわ!」

「な、何故邪神だと理解しているのに喜ぶ!」

「「面白いから」」

同時に帰ってくる返事に、言葉も無いヨグ・ソトース。

邪神が化け物二人にもてあそばれているのは、正直見ていてあまり面白いものではなかった。

「ねえねえ、ダークマターの正体って何?」

「クトゥルフ様って実在するの? いるんだったら、ルルイエってどこにあるの? 是非行ってみたいわ!」

「超ひも理論についてわからないところがあるんだけど、教えてー? 最後の部分が、まだ現在では理論的に解明されていないの! その部分がどうなっているか、個人的に知りたいよー」

「ネクロノミコンの本物を見てみたいわ! どこの本屋に売ってる?」

世にも恐ろしい質問地獄である。外を見ると、どんどん陽が落ちてきている。これは、助けてやらなかったら二三日は子供は出られないだろう。

おなかが空いたという言い訳は通用しない。山盛りのカルボナーラがあるからだ。更に、何か言葉を口ごもるたびに、ヨグちゃんはカルボナーラを無理矢理食わされていた。口に突っ込まされるカルボナーラは、まるで異神への供物である。というか、状況から考えて、供物そのものだ。

見ると、ヨグ・ソトースは完全に涙目になっていた。宇宙の中心に座する邪神の腹心だというのに、情けない話である。

いや、人間という生物の怪物性が、この可愛い邪神を上回っていると言うだけか。

しばらく残虐な悪の宴を横目に携帯ゲームを弄っていたが、それも飽きてしまった。もう外は星が瞬いているが、まだ二人はおもちゃを離さない。

「わかった! 君達がいかれている事は充分にわかった! ナチュラルにいかれているから僕と接して平気なのもよーく理解できた! だ、だから、これを望み通りやるから、帰してくれ! 頼む!」

とうとう泣きながら、ヨグ・ソトースがきらきら光る何かを差し出す。

彼は何でも知っているという設定だが、それは所詮設定だけ。

こんな所に来てしまったと言うことは、知らなかったのだろう。

世の中で一番おぞましく恐ろしく邪悪で凶悪なのは、人間だと言うことを。万物の霊長などと言う賢いものではなく、もっとも残虐で醜悪な存在こそが人間だ。

どうやったのかはわからないが。

清花が何か呟くと、子供はもういなくなっていた。

最初から、そこにいなかったかのように。

 

後片付けをしながら、京子は聞いてみる。

どうしても、興味があったからだ。

「なあセイ。 あいつ、何者だったんだ?」

「んー、そうだねー。 仮説になるんだけど」

眞美先輩はもう帰った。楽しみすぎて、肌がとてもつやつやになっていた。あまりにもご機嫌すぎて、帰るときにはスキップしそうな勢いであった。

残った山盛りのカルボナーラは冷めても美味しかったが、とにかく量が量だ。二人で今処理しているのだが、食べても食べても無くならない。

家にタッパーで持って帰っても、まだまだ残りがある。むりやり喰わされて真っ青になっていたヨグ・ソトースの顔を、今でも思い出せる。これは美味しいが、だからといってたくさん無理に喰わされたら、絶対に嫌になる。恐怖さえ感じるほどに。

勿論、眞美先輩はそれを想定していたのだろう。恐ろしい人である。

仮設を、清花が話し始める。

「量子力学に、観測理論ってものがあってね」

「ああ、聞いたことがある。 宇宙はその時代の主体となる存在が観測することによって形をなすってアレだろ? なんだか自分たち人間は宇宙の中心だみたいな、傲慢な思想だと思うんだが」

「そう。 私が思うに、宇宙なんて大げさな事じゃ無くて、この地球くらいでは、或いは主観によって観測することによって、地球人の思ったことが起こってるのかも知れないんじゃないのかな」

なるほど、それならば。限定的であるが、まあ確かに納得は行く。

しかしこの星で一番多いのは昆虫だ。ただ、環境を最も劇的に好き勝手にしているのは、やはり人間だろうか。

悩む京子に、清花は笑みを向ける。

「昔の宗教で、どうして蛇があんなに大きな地位を占めていたかも、それが原因なんじゃ無いのかなーって、私は思っているんだけど」

「あん?」

「蛇はさ、蜘蛛と違って毒を持っている場合があって、大きいし、ストレートに恐怖を感じさせるでしょ? 類人猿の頃から。 主体となっている存在が最も潜在的な恐怖を抱いている生物が蛇だとすると、それもあり得ると思うんだよ」

「よく分からない理屈だな」

清花の話では、何かしらドラゴンのような恐怖の存在が、昔いたのでは無いかという。

世界中に伝承のアーキタイプとして存在しているそれが、今ではさっぱりみかけないのも。猛獣としても害獣としても、蛇が全く身近では無くなってきたから、ではないのだろうかと。

やがて神話の時代が終わると、今度は宇宙人の目撃が増えてきた。

これは神々に期待できなくなった人々が、宇宙人に理想的な存在を仮託し始めたのが原因では無いかと、清花は言う。

「じゃあ何か、目撃されたUFOは、みんな人間の妄想とか観測とかが作り出してきた、って事なのか」

「勿論、銀河系の規模と星の数を考えると、宇宙人はいるほうが自然だけどねー。 それが地球に来れるかとなると、別問題だしね。 もしも来ているとしても、地球人の野蛮さと残虐さを見て、愛想を尽かしてすぐに去っちゃうんじゃないのかなー」

「……」

腕組みして、考え込んでしまう。

じゃあ、あれも。

新しい時代の、何か得体が知れないもの。人間がその空想の中から作り出した、怪物だというのか。

しかし、所詮人間の想像を超えない怪物だから、人間を超えることが出来なかった。

設定で、「人知が及ばない」とされていても。

所詮、人間の知力が及ばない存在は、それでは作れない。

「前の、あの事件と同じか」

呟いてしまう。やはり、途中からわかっていたとおりだった。

以前も、清花と一緒に訳がわからない事件に遭遇したことがあったのだ。その時も、殆ど同じ展開になった。

否。

今回もそれと同じだと、最初からわかっていたのかも知れない。

「で、それは?」

「銀の鍵。 異世界への扉を開くもの」

「使うのか?」

「まさか。 私のコレクションにするの。 どうせ観測によってもたらされた神様だから、その力だって限定的だしねー。 もう私も、子供じゃ無いんだし、異世界に行きたいとかは今更思わないよ」

確実じゃ無い場合はねと、付け加えるところが清花らしい。

電子レンジがチンと鳴った。

温め直したカルボナーラを出すと、二人で分ける。まだ山盛りで五人分くらいは残っている。

「あー、女二人じゃこの量は無理だよな。 おまえの彼とか元彼とかいねーのか?」

「いないよ。 なんだか私とつきあいたがる男子って多いけど、ちょっと話すとすぐに襤褸が出てつまらないんだもん。 なんだか私をおもしろがらせてくれる人が理想かな−、やっぱり。 それをいうなら京子も上城君連れてきてよ」

「あいつは彼じゃ無いしタイプでもねー。 しかしおまえ、それだと結婚遅れそうだなあ」

「お互いにね」

くすくすと笑いあうと。

後は黙々と、カルボナーラの片付けに専念した。

 

5、事の顛末

 

清花の家に出現した床下の穴は、ふと気づくと消えていた。

フローリングにあいた穴ごと、である。

もしも清花の仮説が正しいとすると、人間の空想や妄想、観測は意外に不思議なパワーを持っていることになる。

現在では見かけない妖怪も、案外昔は京都の町を闊歩していたのかも知れない。

それはそれで面白いことだ。

大学に出て、授業を受けていると、上城が隣の席に座ってきた。

「何だよ、鬱陶しいな」

「邪険にするなよ、傷つくじゃ無いか」

「おまえがそんなタマか。 で、何?」

「喜びそうな話を持ってきたのに、つれない奴だな」

多分それは、多分京子が、では無く。清花では無いかと直感的に感じ取る。だが、別にそれでも良い。

この間の事件も振り回されどおしだったが、それでも面白かったような気もする。

冷静に対処できなければ、クトゥルフ神話の登場人物みたいに、恐怖に追われてがくがくぶるぶる震えている内に、発狂してしまったのかも知れない。だが、実際には冷静に対処すればあんなものだ。

ホラーとコメディは紙一重だという話もある。

前の方で教授が黒板に黙々と経済学の話を書き連ねている。それをルーズリーフに書き写しながら、話を聞いてみる。

「大学の隅の方に、G棟ってあるだろ」

「ああ、あるな」

「最近、出るらしいんだよ」

「幽霊か」

違うと、上城は言う。

なんだか得体が知れない触手みたいなのが、廊下を這いずっているのを、複数の学生が目撃しているという。

今のところは実害は出ていないが、実験用の動物が逃げたんじゃ無いのかという噂が、早くも出始めているそうだ。

実験動物、ね。そう、京子は呟く。

そういえば、この手の大学では、実験動物というのを基点に噂が広がることがあるらしい。かの人面犬の噂の時も、東大の実験動物という話があった。

京子は別に見たいと思わない。

だが、清花が喜ぶかも知れない。なんだかんだ言って、京子は清花が喜ぶ姿を見るのが、嫌では無かった。

それは昔からそうだし、今でも同じ事だ。

「詳しく聞かせてくれるか」

そう、口にしていた。

 

(終)