遅れて出会った作家

花郁悠紀子




花郁悠紀子(かいゆきこ)
の名を初めて知ったのは、昨年(2001年)だ。

オーケストラアンサンブル金沢の『石川の三文豪によるオーケストラ歌曲作品コンクール審査演奏会』で、
泉鏡花の「夜叉ケ池」をテキストにした曲を歌った時。

団員間で「夜叉ケ池」の原作と、それを漫画化した
波津彬子(はつあきこ)の本が回し読みされた。
その折に、合唱団のメーリングリストで、波津彬子の姉である花郁悠紀子の名を見たのだ。
確か、『お姉さんの花郁悠紀子さんの方が好きだ』のような内容だったと思う。

まったく知らなかったのだが、この姉妹の漫画家は金沢出身である事、
そして姉の花郁悠紀子は、ずっと前、1980年に、わずか26歳の若さでこの世を去っている事を。


妹の波津彬子の作品は、代表作‘雨柳堂夢咄'で既に読んでいたけれど、
花郁悠紀子のいくつかの作品は、縁あって、今年になって読む機会を得た。
これがまたっ・・・なんと言いましょうか・・ちょっとびっくり。


彼女の絵柄は・・・いかにも当時の‘少女漫画’風。
お花いっぱい、巻き毛金髪、メルヘンチック・・・ちょっと苦手かも。
リアルタイムで出会ったところで、たぶん当時の私は読まなかったのではないかと思う。
よくよく眺めれば、アシスタントを勤めたという萩尾望都の影響が見えるし、
SF作品が多い水樹和佳の雰囲気もある。

が、彼女の描く世界は、実に広い。
まだ生きて仕事を続けていれば、萩尾望都も真っ青かもしれない。
SF,メルヘン,ミステリー,‘能’の世界,そして日常ー。
デビューしてわずか4年の間の仕事をも、ひとくくりに出来ない作家さんなのだ。
作品は短編のみ(三話連載が一作)。
長編を手がけていれば、どんな作品を残しただろうか。
今となっては、未完の作品を残さなかっただけ、読者孝行だったのかも。

出会った作品のうちから、特に印象深い作品をオススメとしてご紹介したい。




SF作品より


フェネラ (1977 プリンセス掲載)                  秋田文庫 フェネラ 表紙

SFなんだろうか、ファンタジーなんだろうか?

舞台は未来、科学の発達と活躍するE.S.P達。
そして、時空の壁を突き破ってやってくる大量の妖精達!!
目がテンの設定だ。

ヒロインは人間と妖精との間に生まれた混血(キクナラエ)の
少女フェネエラ。

ヒーローはE.S.Pであり、『クレムリン』から亡命してきた
科学者アナトリィ・ドニェプロフ。

人間でも妖精でもない少女と、自分のなかの‘特殊能力者(ミュータント)
の血’を受け入れられない青年の出会い。

アナトリィはフェネラに、どこにも属せない者同士のシンパシィを感じる。
が、『母のいる世界に、自分を受け入れてくれる所に行きたい』という彼女の願いを叶えてしまうのだ。
フェネラは、時空の向こうの妻を捜す男エイドリアンとともに、旅立つ。

物語の後半はうって変わって、時空の壁の向こうの、妖精達の世界。
フェネラはいとこに当たる姫君と、母の僕であったハルピュイアに出会うが、
そこでも、彼女は自分が妖精でも人間でもない事を認識するほかない。
自分のために死んだハルピュイア、
エイドリアンとその妻の死、
そして夫と娘のために命をなげうった自分の母の姿に、
フェネラは自分の愛する人々のそばが、自分の生きる場所だと確信するのだ。

ぼんやりと次元の接触点にたたずむアナトリィのもとに、フェネラが現れる最後のシーンがきれいだ。


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フェネラとアナトリィのカップルは、別のお話にも現れる。
やはりE・S・Pものの『
水面に咲く』(1978 ビバ・プリンセス掲載)に、今度はフェネラが遠視能力を持つ
E・S・Pとして登場する。

SF作品では、『
風に哭(な)く』(1980 ポニータ夏季号掲載)も印象的。
E.S.Pの力で酸素を作る植物(羽花)をコントロールし、惑星開発に向かうお話。
水樹和佳の『樹魔』とそれに続くお話『伝説』を連想するが、
それよりもはるかに短くまとまっている。




ミステリー作品より


カルキの来る日 (1978 プリンセス掲載)            秋田文庫 カルキの来る日 表紙

殺人犯(エドモン・ラムファード)を追ってステフェンが彼の城に辿り着く。
東洋人のようなダナエ、金髪のエウロペ・・・まったく似ていない姉弟達。
謎だらけの城にあるのは、エドモンの死んだ妻の呪い?とたくさんの死。

姉弟達も次々死んでいくが、納棺所にもどこにも死体が無い。
かつてステフェンの婚約者だったディアナの死体も無い。
あるのはヒンズー教の最高神ヴィシュヌの像、そして中庭の蓮池。


いかにも西洋!を舞台にしているのだけど、
そこに不気味な東洋のかおりがミスマッチ。
姉弟達の名は、ギリシャ神話の最高神ゼウスが愛した女達の名前、
ジュノー,レダ,ダナエ,エウロペ。
対して、主人公ダナエの黒髪、黒い瞳、そして翡翠のピアス。
人が死ぬたびに顔が崩れていく、正義の神ヴィシュヌ像と、その10の化身の像。
その中に、ダナエが待ち続けた最後の救いの神‘カルキ’の像がある。
最も呪われるべきエドモン・ラムファードが死に、すべての謎が明かされた時、
城は崩れ、ダナエは蓮が咲き誇る池に消えていく。
カルキは最後までこなかったのか?
ダナエの気持ちを理解しようとしたステフェンだったのか?
いや、呪われた血を引く姉弟達を 殺す事で彼らを救おうとしたダナエ自身が、‘カルキ’なのだろうか。


1978年当時に読むと、なかなか異様な設定にびっくりしちゃったのでは、とも思う。
そんなに仕掛けはないけれで、読んでいてテンポがよすぎて、なかなか頭がついていかない。
なにしろページが少ない。
もっとふくらませて描かれていれば、などと思う。


なお、この作品には後に描かれた短編の後日談『
黄昏に風』(1979 同人誌)があり、
「実はダナエが生きていた」事になっている。
殺人事件の捜査に来たステフェンと再会、ついに‘やおい’の道へと突き進む?

‘ダナエ’キャラは作者のお気に入りだったらしく、『
柘榴人(ざくろびと)』(1980 コミックス書下ろし)で、
自分のもとを離れていこうとする男を殺してしまう‘少年’の姿で現れる。



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花郁悠紀子と、妹にあたる波津彬子の作品にはあまり共通点は無いように思う。
花郁作品のテーマはとても幅広いが、波津作品はほとんどが異世界と現世の接点だ。
だが一作だけ、似た作品がある。
花郁悠紀子の『
私の夜啼鴬(ナイチンゲール)』(1980 プリンセス掲載)、
波津彬子の『
東方からの客人』(1999 眠れぬ夜の奇妙な話 掲載 朝日ソノラマ『唐人屋敷』)だ。


私の夜啼鴬』は、事故ですべての記憶を失った青年が、                    私の夜啼鴬 より 李仁
ルーヴィン男爵の遺産の相続のトラブルに巻き込まれるミステリー。
「お前はアレキサンダー・ルーヴィンだ。」と言われた男は、
‘婚約者’に‘父’の別荘に連れて行かれる。
そこで、今は家を取り仕切っている‘いとこ’と、
父が中国から連れてきたという東洋人、李仁(リーイン)に出会う。
アレクは朦朧とした意識のなかで(実は麻薬で眠らされていた)、
美しい歌声を聞く。
それが李仁の声だとわかった時から、謎が、記憶の糸が解れはじめる。
李仁がアレクを‘主人(マイロード)’と認める結末がかっこよかったりする。
彼にとっての正義は、主人に仕える事なのだ。




東方からの客人』は、父の財産を継ぐ事になった青年ウィリアムが、        波津彬子 東方からの客人 より 劉郎英  朝日ソノラマ「唐人屋敷」掲載
その財産の一部,中国陶磁のコレクションとともに、‘管理人’も相続する話。
招待されたパーティの席で、彼は不思議な中国人留学生劉郎英に出会う。
彼は父の宿敵デイヴィット卿の‘客人’だが、なぜか、ウィリアムに、
コレクションがねらわれている、と警告する。

劉は、実は龍王からつかわされた、‘コレクションの管理人’だった。
‘主人’にしか見えないはずの彼は、ウィリアムが幼い頃に自分がかけた暗示で
まったくコレクションに目を向けなくなった事を憂い、新しい主人のもとに現れたのだ。

波津彬子が姉の晩年の作品を意識して描いたかどうかは、わからない。
(いや、絶対意識してると思うなぁ・・キャラがまともに似ているもの。
ただし、李仁は生身の人間、郎英はあちらの世界の‘人’だけど。)
が、『私の夜啼鴬』の世界と、『雨柳堂夢咄』の世界がみごとにマッチした作品だ。






「能」の世界から

不死(ふじ)の花  (1979 プリンセス掲載)

金沢は空から謡が降ってくる土地らしい
私は金沢出身ではないが、職人の兄が習っていた謡の本(昔は職人の教養だった)が家にあったので、
ちょっとばかしのぞいた事はある。(本文ではなくて、欄外にある物語のダイジェスト・・・汗)
まともに能を鑑賞したのは、ずうっと昔、「黒塚」以来ないのだ。

花郁悠紀子は、出身地である金沢をずいぶん意識して作品を出している。
それが風景だったり、方言だったりするが、能をモチーフにした作品が何作かある。
不死の花』、続編の『百の木々の花々』、錦木流家元の三兄妹である万里,千尋,百枝の物語だ。

不死の花』は、父雅臣からはじめてシテ(主役)を譲られた長男万里(まさと)が、   不死の花 より 藤若
演目‘藤’の解釈に悩み、弟達に勧められて出た旅先での不思議な
出会いと体験のお話。


みごとな藤の木があるという寺に行った万里は、そこで美しい菩薩像に
出会う。藤の木の下にたたずんでいた時、万里は‘藤若’の幻と遭遇し、
彼の意識は室町の世へと飛び、世阿弥元清の長男‘元雅’と同化する。
父元清は助けた舞侍童鬼夜叉に、自らの幼名‘藤若’を与える。
元雅は、元清を慕いその思い出だけで生きていけると言い切る少年に、
嫉妬に似た感情を抱くも、少年を守ろうとする。
やがて運命は藤若を破滅へと追いやるが、彼の魂は藤の木と同化し、
世阿弥の舞が時を超えて行き続ける事を見守る。
現世に戻った万里は、菩薩像が元雅が精進の決意をこめて寄進した
ものと知り、迷い無く舞台へ向かう。


演目としての‘藤’は特にドラマチックな物語があるわけでなく、単に叙情的な演目なのだそうで、技術よりも
演じる者の心境がより重要らしい。
芸術的な舞踊をステップアップするのに、‘叙情的な舞’と言うのはどうやらお約束のようで、ついつい
山岸涼子の『アラベスク第二部』を(これは、‘ラ・シルフィード’だった)連想する。
(あ、ついでに『ガラスの仮面』の紅天女も・・・笑)



百の木々の花々』(1980 プリンセス・ゴールド掲載)は、3兄妹の末っ子百枝の物語。
能は好きだけれど、本舞台には立てない。(実際のところ、どうなんでしょ?狂言はOKだけど)
「では私は何を目指して生きていけばいいのか、恋愛?何?」と悩む17歳の少女の等身大の姿。
能をやめて考古学の道へ進もうとする千尋兄さん、体をこわして道を閉ざされた能楽師経四郎・・。
道を探し出せたわけでないけれど、彼女にはきっと花咲く未来が開けるだろうと予感させる最終ページ。

「シリーズとしてもう一作描かれる予定だった」とコミックスの表紙の折り返しに書かれていた。
今度は千尋を描くつもりだったのか?
それとも、目標を見定めた百枝?
かえすがえすも、残念。

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能が中心ではないが、題材を得た物語に、『
菊花の便り』(1979年 ビバ・プリンセス掲載)がある。
大学教授 東朔太郎のもとに、離婚した妻についていった息子,文(あや)の事故死の連絡が入る。
妻の里を訪ねた東と養子の士郎のもとに、死んだはずの文の手紙が一通ずつ流されてくる。
そしてある晩、9年前の別れた14歳の時のままの姿で、文の幻が彼らの前に現れる・・。

題材は、‘菊慈童(枕慈童)’だそうで、周の穆王(ぼくおう)に使えていた寵童が無実の罪で山に
捨てられ、七百年後、変わらぬ少年の姿で人々の前に現れるお話らしい。菊の葉におりる露が不老不死の
薬になっていたとか。(もちろん『菊花の便り』で現れるのは、幽霊でも妖怪変化のたぐいでもない。)
とてもきれいで悲しいお話だが、話についていけた読者はどれだけいたかな?




現世を生きる・・・

緑陰行路 (1980 ビバ・プリンセス掲載)

花郁悠紀子の最期の作品。
この作品を仕上げて7月には入院、この歳の暮れの12月12日に、彼女は26歳で亡くなった。
胃の痛みはずっと感じていたらしいが、自分の死は予感していなかったと思う。
意識が無くなった後も、彼女は‘仕事に夢中’だったらしい。

緑陰行路』は皮肉な事に、恋人の死を知った事で、               緑陰行路 より 巽と綾
かえって新たな生に向かうお話。

綾(りょう)にとって、門から家までの‘緑陰行路’は、はてしなく続く
トンネルのようで、恐怖以外の何ものでもなかった。
巽(たつみ)は、「一人で歩かなければいい」と言う。
ある日綾の家(下宿屋)にやってきた、ワケありな男,巽が、
綾の心に波風をたてる。

死期が近い事を隠して去っていった恋人、
心の整理がつかず、かえってなんでもないよう振る舞う綾、
母親のためにつっぱていた過去を清算しようとする巽、
彼女を見守る親友まりか、
ありがちな設定なのだけど、心ひかれる。
特に好きなのは、巽にデートにさそわれての、『よーし!やったろーじゃないか』の綾のモノローグだな。


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日常を描く作品はいろいろあるが、なかでも『
白木蓮抄(マグノリアしょう)』(1979 プリンセス掲載)は
オムニバス形式で一人の少女の成長を描く。
母の療養のために田舎の親戚に来たりよが、白木蓮の咲く西洋館に住む人々と交流する話。
おとぎ話と現実と、少女はどう折り合いをつけていくのだろう。
失望し、また夢見ながら、りよは出会った人々の思い出を胸に、現世を生きていく。





おまけ


コミックスに、何人かの有名作家達の追悼文が掲載されている。
萩尾望都,青池保子・・・。
葬儀の日、金沢は雪がみなりだったらしい。

それとは別に山岸凉子が、花郁悠紀子の葬儀での怪異現象(?),それどころか
なんと花郁悠紀子が‘出た’話を作品にしたものがある。
(「蓮の糸」1993 別冊プリンセス掲載  秋田文庫 「甕のぞきの色」掲載)
それによると、亡くなる間際まで‘仕事に夢中’だった花郁悠紀子は、亡くなってからも
その魂は仕事場にあった、というお話。
彼女の魂は、なかなかいいところに往かれたようである。

蛇足だが、山岸凉子は自らの怪異現象をネタにいくつか作品を描いているが、
たぶん最初の作品、『ゆうれい談』を、私はリアルタイムで読んでいる・・・・爆。