細波の唄

月の光を浴びて海は静かに唄う。 月から聞いた星の記憶を。 その手に抱く全てのものに、海は優しく語りかける。 想いと記憶を子守唄に変えて、海は優しく唄いつづける。 細波に混じった唄は静かに夜に溶けて行く。

ある夜のことです。海の水面に、一人の少女が顔を出しました。 小さな岩場にゆっくりと昇って行きます。 この岩場で唄を唄うのが少女の日課だったのです。 少女の体の下半分は魚のようなうろこに覆われた流線型をしていました。 少女は、人魚だったのです。 少女……人魚は古ぼけた竪琴を岩場から取り出すと、軽く爪弾きながら唄い始めました。 その歌声はこの世のものとは思えないくらい美しく、誰もが聞き惚れるような唄でした。 夜毎人魚は月の光の下で唄を唄っていました。 唄うのは子守唄です。月の光や海の細波に聞いた子守唄でした。

いつものように人魚が歌っていると、遥か遠くの海から何か大きな音が聞こえてきました。 何の音かはわかりませんが、人魚は何故だかとても不安な気持ちになりました。 人魚は竪琴を元の場所に戻すと、海の底の人魚の集落に急いで帰ることにしました。

人魚が集落に帰ってみると、集落はひどいありさまになっていました。 強い力でめちゃくちゃに破壊されたような集落は、元の美しい海の底とは大違いでした。 生きている人魚は何処にも見当たりません。 人魚は何が起こったのかわからずに、半狂乱になりました。

ふと、海の上で何かの音がしました。人魚は恐る恐る水面に上がっていきました。 水面には、一隻の大きな船が通っていました。大きな汽笛の音が辺りに響きます。 船は、何かとても禍禍しい雰囲気を放っていました。 人魚は、この船が集落をめちゃくちゃにしただろう、とぼんやりと思いました。 人魚が為す術も無く見上げる中、船は悠然と去っていきました。

人魚達の亡骸は、しばらくすると海の泡に溶けて行きました。 人魚はもう、一人ぼっちです。 人魚はいつも唄っていた岩場で竪琴を抱えてぼんやりとしていました。 月の唄も海の細波も、人魚の心を癒してはくれません。 人魚はそっと竪琴を取り出すと、力無く歌い始めました。 いつもの優しい子守唄ではありません。 悲しみに満ちた、葬送曲でした。 心を締めつけるような悲しい唄が、夜の海に響き渡ります。 とてつもなく悲しく、それでも全てのものを惹き付けずにはいられないような美しさを持った歌でした。

その歌声が響く中、遠くに一隻の船が通りかかりました。 船は、ふらふらと吸い寄せられるように人魚の岩場に近づいてきます。 けれども、近くによることもなく、何かに座礁したかのように船はゆっくりと傾いでいきました。

人魚は幾晩も幾晩も歌いつづけました。 仲間の人魚達の魂を慰めるように。 一人取り残された自分の心を慰めるように。 いつしか、人魚もゆっくりと海の泡にとけて、消えてしまいました。 岩場には人魚の弾いていた、古びた竪琴だけが残りました。

もうその岩場に人魚はいません。 人魚の歌う子守唄が聞こえる事もありません。 けれども、月の綺麗な夜、海に静かな竪琴の音色が響き渡る事があるそうです。 そんな夜、船で海に出てはいけないと、近くの浜では言い伝えられています。 悲しみに沈んだ人魚の魂に惹かれて、船を沈めた者が跡を絶たなかったのだといいます。

月がそっと海を照らす夜、人魚の竪琴はどんな音色を響かせるのでしょう。 悲しみに沈んだ人魚の歌声は、今でも細波にとけて海に響いているのかもしれません。

おしまい。

+コメント+
ローレライのイメージで。
闇夜に響く悲しげな歌は全てを魅了し、逃さない。


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