女神は目覚めない

女神は目覚めない。
どんなに願っても安らかに眠る女神の瞳が開くことはない。
そして枷を填められた体は心に重くのしかかるばかりだ。
解放のときを待つのも無駄なのだろうか。
全ての鍵を握るのは女神であり、その女神は目覚めない。
とうに希望など指の間をすり抜けて消えていった。
絶望が黒々と胸のうちを塗りつぶしていく。
苦しむのは己の咎の為。咎を赦し解放できるのは女神のみ。
そして女神は目覚めない。


どこか、遠い遠い地に、女神の作った世界がありました。
女神は全てを作り、深い深い眠りにつきました。
女神が眠りについた後、どこからか翼持つ天使が現れました。
天使はいつしか女神に変わって世界を司るようになりました。
その頃からでしょうか。
終わらない冬が世界を覆いました。
これは、そんな冬の世界でのお話です。

青年は空を飛んでいました。青年の背には真っ白な翼が、頭の上には光り輝く輪がありました。 青年は、天使でした。天使は目覚めない女神の代わりに仕事をするために生まれたものたちです。 青年は人間の街へと降りていきました。今日は、小さな病院での仕事です。 青年はそっと雪の町へと降り立ちました。

病院の小さな病室に音もなく滑り込むと、青年はベッドに横たわる人影を見つめました。小さな、しわしわの老人がか細い呼吸を漏らしています。 ベッドのまわりには、医者と看護婦、そして若い夫婦と小さな子どもが集まって、神妙な面持ちで老人を見つめています。まだ若い母親は、今にも泣き出しそうな顔で老人を見つめていました。

病室の中にいる人間は、誰も青年に気がつきません。天使は人には見ることができないのです。 老人がゆっくりと目をあけました。 固唾を飲んで見守る家族に一言言葉を告げるとがっくりと力を無くしました。 医師が首を振り、時計をちらりと見ました。 母親は夫の胸に縋って泣き出しました。

青年は、嘆く人間を見向きもせずに老人に近づいていきました。 死んだものの魂を抜き取って、天へと届けるのが天使の仕事なのです。

青年がそっと手をかざすと、老人の胸から光り輝く丸い玉がゆっくりと抜け出てきました。 これを天に届ければ、今日の仕事はおしまいです。 玉を持って飛び上がろうとした青年は、ふと視線を感じて振り返りました。
視線の元は、一人の少女でした。 ゆったりとした服を着て、うさぎのぬいぐるみを抱えた少女がじっと青年を凝視していました。

青年は驚きました。 天使の姿は見えないはずなのです。
青年は、記憶の底から心の純粋なものや死に行くものには天使の姿が見えることがある、という話を思い出しました。
青年が近寄ろうとすると、少女は青年を凝視したまま母親の服のすそをぎゅっと握り締めました。
「母様。死神がいる」
少女はかすれた声で呟きました。大人は誰も取り合いません。 少女の澄んだ目はじっと青年を見つめました。 青年はじりじりと後退すると、身を翻して飛んでいきました。

青年は魂を送り届けて一日の仕事を終えました。 仕事を終えたはずなのに、胸に何かが重くのしかかります。 雲の上にある自分の部屋に帰っても、その気持ちは変わりません。 生まれてはじめて自分を凝視した少女の顔が目の前にちらつきます。 生まれて初めて人間が自分を表した言葉が胸を貫きます。

「母様、死神がいる」

青年は今まで、自分の仕事について疑問をもったことはありませんでした。 女神の仕事を変わりにしているだけだからです。 女神は絶対で、間違うことなどありはしません。 ですから、女神の仕事を代行する自分の行いに疑いを持ったことはなかったのです。

「死神」

少女の言葉は青年の心を抉りました。 青年の仕事である魂の運搬は、人間をただの肉の塊へと帰す行為に他ならないからです。 青年はそれをはじめて実感したのでした。 少女の言葉が青年の耳について離れません。

「死神」

少女の言葉は薄れることなく、青年をいつの日も苛んでいました。 次の日も、あくる日も、青年は仕事をしながらも目に見えて疲弊していきました。

そんなある日のことです。
青年は、また仕事であの日の病院へとやってきました。 胸に広がる感情を押し殺しながら、青年は病室に滑り込みました。 部屋の中には医師と看護婦、若い夫婦がいました。 そして、ベッドには小さな少女が寝ていました。

青年に向かって死神と言った少女でした。

少女はうっすらと目をあけると、青年を見つめました。 あの日と同じ、澄んだ美しい目でした。 そして、かすれた声で言いました。

「母様、死神がいる」

あの時と、同じ台詞を言いました。薄く開けられた瞳あの時と同じように青年を見つめます。青年は声にならない叫び声を上げて、逃げるようにその場から飛び去りました。

青年は飛びながら叫びました。 訳がわからなくなって叫びました。 これは正しいことなのか? 本当に正しいことなのか?
女神は本当に間違わないのか?
あの小さな少女から魂を抜き出すことは正しいことなのか?
生きているものが他のものから命を奪うことは赦されるのか?

今まで何をしてきた? どれだけの人間を肉塊にかえてきた?
これから何人を肉塊に変えるのか?
あの少女をただの肉塊に変えてしまうのか?
何の罪もない少女を? 祖父を失ったばかりの少女を? 

神でもない、不完全な生命である自分が命を奪い去るのか?
……なんと言う咎か。

青年は自分の存在そのものを憎みました。 あまりに多くの人間から命を奪った自分を憎み、絶望しました。 そして、悔恨のあまり自らの翼を切り落とし、地の果てへと歩み去りました。

青年を見つめる瞳がありました。 それは年老いた天使でした。 天使は深い溜息をつくと、天を仰ぎました。
「女神よ、いつになったら赦しをくれるのですか。 私どもはそれほどまでに罪深い業を背負っているのですか。 早く目覚めてください。早く終わらせてください。 滅びと言う名の解放を与えてはくださいませんか……」
答える声はありません。
深々と降る雪は、年老いた天使の呟きを包み込んで溶かしていきました。

……どこか、遠い地に。
女神の作った世界がありました。
女神は全てを作り、深い深い眠りにつきました。
女神の代わりをする天使は神にはなれない不完全な生き物にすぎませんでした。
天使たちは己の業に嘆き悲しみ、冷たい涙を流しました。
涙はいつしか雪となって世界を覆い、終わらない冬が始まりました。
女神の目が醒めるまで雪がやむことはなく、天使の涙も枯れることはありません。

これは、そんな冬の世界でのお話です。


おしまい。

+コメント+
少し前から考えていた、天使話です。
天使だろうがなんだろうが、暗くなるものは暗くなるんです。
この話の続きが『裁断者はどこに』です。


+++++MENU***HOME+++++