魂の行方


 遠い地に、女神の作った世界がありました。
 女神は全てを作り、深い深い眠りにつきました。
 女神が眠りについた後、どこからか翼持つ天使が女神の奇蹟を代行するようになりました。
 いつしか、世界は終わらない冬に覆われるようになりました。
 降り注ぐ雪は天使の涙。吹きすさぶ風は天使の溜息。
 これは終わらない冬の世界のお話です。
 
「声を聞いてはいけない」
 そう教えられて、彼女は今まで生きてきました。仕事の時にその「声」を聞いてしまうと、心が壊れてしまうのだと、そう聞いていました。周りの大人は何度も口をすっぱくして子ども達に言い聞かせました。
 その「声」が何を言っているのか好奇心はありましたが、幼心にも大人たちの鬼気迫る様子は空恐ろしく映って、「声」をはっきりと聞いたことはありませんでした。
 そしていつしか、その「声」を耳から締め出す方法を身体で覚えるようになっていきました。もとよりその「声」は低く、小さく、幾重にも重なり合って聞こえ辛いものだったので、耳から締め出すのもそう難しいことではありませんでした。
 けれども、何を言っているのかわからなくとも、「声」にはどこか心に訴えるような響きがあって、「仕事」のたびに心を揺さぶられるのも確かでした。時に聞こえる風のうわさで、仕事仲間の誰かが「声」を聞いたために壊れてしまった、という話を聞くたび、言いようのない恐れを「声」に対して感じることも多くありました。
 あの「声」は何を訴えているのだろう?
 彼女は疑問には思っていましたが、実際に「声」を聞く勇気はありませんでした。
 
 彼女の仕事は、歌を歌うことです。
 とは言え歌手の類ではなく、歌うのは鎮魂歌でした。仲間の天使からは「歌い手」と呼ばれる仕事を彼女はしていたのです。
 「運び手」と呼ばれる天使がどこかからか集めてくる魂達の前で歌い、その傷を癒すことが歌い手の仕事でした。
 
 今日も運び手達が魂を連れて来ました。集められた魂たちは、幽かに震えながら叫び声を上げています。なんと言っているのかは、耳から締め出しているおかげでわかりません。わずかながら伝わる感情の波に押されながら、彼女は魂たちのほうにそっと歩み出ました。大きく一度息を吸って、魂たち全てに聞こえるような大きな声で歌を歌います。魂の叫び声を切り裂くような強い声で歌います。魂たちが一生を終えるまでに受けた疵が癒えるように祈りを込めて歌います。歌い続けると、魂たちはゆっくりと舞い上がり、淡く光りながら次第に薄れて消えていくのです。歌を聴いた魂たちは癒され、清められて大地へ、海へ、空へと還っていくのだといわれています。そして、集められた魂たちを一つ残らず浄化すると、歌い手達の仕事は終わります。
 
 傷を癒す、などと言っていても、本当に魂たちの疵が癒えているのかどうかはわかりません。歌って消えていった魂たちがそのあとどうなるのかは、歌い手すらも知らなかったのです。
 古来、歌を歌っていたのは女神でした。歌い手だけでなく、運び手も、その他の天使の仕事も全て女神の奇跡の一部を代行しているに過ぎないと彼女は聞いています。天の使いと名乗ってはいても、天使とは女神の奇蹟を代行するために作られた生き物の一種であると考えられています。生物の枠を超えられない神ならぬ天使達には、たとえ一部であろうとも奇蹟を代行するのは難しいことなのです。その罪深さに壊れてしまう天使も少なくありません。例の「声」に関わる禁忌にしても、天使たちの心が壊れないための一つの防護策のようなものだと彼女は思っていました。
 なぜ女神はこんな不完全な私たちに奇蹟を代行させるのか。何故女神は未だ目覚めないのか。心の中にわだかまる気持ちを押し殺して、彼女は溜息をつきました。天使たちは心のどこか奥深い所で、女神の目覚めと解放を願っているのだと言います。
 女神ならば、あの「声」を聞いたとしても壊れることはないのだろう。そして、「癒された」魂の行方も知っているのだろう。天使はやはり未熟な生物の枠を超えることはなく、魂の声を聞くことも出来ない。
 そう思うたび、彼女はとても強い無力感に襲われるのでした。  
 彼女は沈む考えを打ち払うように軽く頭を振って、あたりをふと見渡しました。ゆっくりと空へと登っていく魂たちの輝きが見え、その視界の端に、何かが引っかかりました。よくみると、そこには幽かに震える小さな魂がひとつ、ゆらゆらと浮かんでいます。
 彼女はぎくりとしながら、ゆっくりとその魂の方へと近づいていきました。今まで歌ったあとにその場に留まり続ける魂などは一つたりともありませんでした。小さな魂はゆらりゆらりと彼女の方へ近づいていきます。青白く光りながら、か細い叫びを発しています。それは、聞き取ってもいないのに、彼女の心を強く揺さぶりました。
 何を、叫んでいるんだろう。
 強い感情の流れを感じますが、その意味はわかりません。それは、彼女が拒絶しているからです。
 何かを伝えたがっているのはわかるのですが、彼女はいまだ耳を塞いでいます。
 ……「声を聞いてはいけない」。
 叫び声は、か細く儚いものです。けれどその感情はとてつもなく強く、彼女を揺さぶり続けています。
 何を、訴えているのだろう。何故、この場に残っているのだろう。
 彼女は考えずにはいられませんでした。  耳から締め出している「声」を聞けばそれはきっと理解できます。けれど彼女は躊躇したまま、魂を見つめています。
「声を聞いてはいけない」。
 ふらふらと、引き寄せられるように、彼女はその魂にそっと手を触れました。ひんやりとした冷気を感じ、一瞬の後に押し寄せる感情の波に、彼女は思わず足元にへたり込みました。それは、他には何も含まない、純粋な悲しみでした。凍えるような哀しみが彼女の中に流れ込んできました。
 あまりの感情の渦に、彼女は振り払うように魂から手を放すと、荒い息をつきました。かたかたと小さく体が震えるのは、びっしりとかいた滝のような汗のせいだけではありません。いままでにこんなに強い感情に触れたことは全く無かったのです。
 なぜ、こんなにも悲しいのだろう。ここまでこの魂を悲しませるのは一体なんなのだろう。
 彼女は頭を抱えました。そんな彼女の耳に、ふと「声」が聞こえました。目を上げると、周りで蒼白い魂がゆっくりと回り続けていました。聞いてはいけないと言われ続けてきた、魂の声でした。魂はただ悲しい、悲しいと彼女に訴え続けていました。
「何故、悲しいの?」
 魂は答えません。ただ、悲しいと言い続けるばかりです。
 死んでしまったことが悲しいのか、誰かを遺してしまったことが悲しいのか、何か思い残すことがあったのか。どれがその理由なのだろうと彼女は考えました。もっと他の理由なのか、それとも全てがその理由なのか。彼女は考え続けました。
 ――これは、一生涯分の積み重ねられた哀しみなのかもしれない。ならば、この哀しみは癒せるのか? 
 そして、この哀しみはこの魂だけが持ちえた哀しみなのか? 全ての魂が同じだけ、それぞれの哀しみを抱いていたのではないのか。ならば、その魂たちの疵は癒えたのか? 
 彼女は、その悲しみの深さも知らずに歌を歌っていました。それで、本当に疵は癒えたのかと、彼女は深く自問していきます。
 
 魂たちは癒えない疵を抱いたまま大地に還っていったのかもしれない。
 
 そこまで思いが至ると、彼女はゆっくりと手を伸ばして、私の周りをたゆたう魂を抱きしめました。また、凍えるような悲しみが襲ってきます。ふと、彼女は頬を熱い雫が流れるのを感じました。これは、魂の哀しみに引きずられて流した涙か、それとも、私が流した涙だろうか。彼女にはわかりませんでした。
 ……悲しい。心を埋め尽くす、悲しみの波が全てを飲み込んでいきます。
 
 一片の雪が見えました。この世界に降る雪は天使の流す涙だと言います。これは私の流した涙だろうか? 彼女はぼんやりと雪を眺めていました。

 ――女神ならば、涙を流すこともないのだろうか。きっとこの声を聞き分けて、魂一つ一つを綺麗に浄化して大地へと還すことができるのだろう。女神ならば。神ならぬこの身には、それは出来ようもないこと。
 なぜ女神は私たちにこのような仕事を課したのだろう。別の存在を完全に理解することなど出来ない。理解できなければ癒すことも出来るはずがない。土台、無理な話なのだ。なのに、何故。
 この哀しみを癒して欲しい。この苦しみから救って欲しい。それは魂の叫びか、私の心の叫びか。
 女神は何故目覚めないのだろう。もう、私たちを見放してしまわれたのだろうか。救いの手を待つしか出来ないのか。何時目覚めるか知れない女神を待ち続けるしかないのか。
 
 ゆっくりと、彼女は歌い始めました。それは、歌いなれた鎮魂歌でした。
 彼女の心に、抱きしめた魂に響き渡るように彼女は歌いました。
 この哀しみを癒せるように、彼女は歌いました。
 大地へと還っていけるように、彼女は歌いました。
 精一杯の、願いを込めて唄い続けました。
 
 遠い地に、女神の作った世界がありました。
 天使たちは、祈りを込めて歌います。
 哀しみが全て癒えるように。
 そして、女神が早く目覚めるように。
 けれども女神は目覚めません。
 哀しみの雪は大地に降り続きます。
 
 これは、終わらない冬の世界のお話です。

「女神は目覚めない」「裁断者はどこに」の続き。
書き方が変わってしまいました。三人称に直せなかったのでそのまま。
言わなきゃわからないけれど、あの魂は「女神は目覚めない」で出てきた女の子の魂です。


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