懐古館

「待っていてくれとは言わない。もし何年も経って俺が帰ってこなかったら、もう俺は死んだと思ってくれ。そのときは泣かないで欲しい。それは俺自身が望んだ結果なのだから。俺のことなど綺麗に忘れて、新しい人生を生きてくれ」
そんな悲しい約束を遺してあの人は私の目の前から消えた。それから二年が過ぎ、三年が過ぎた。もうあの人は帰っては来ないのだろう。約束を守ったつもりも無かったが、涙は一粒も零れることは無かった。けれどまたいつの日か何食わぬ顔で帰ってくる気がして、隙間の開いた隣の席に視線をやらない日は無かった。
いつ頃だろうか。風の噂である館について聞いた。どこか森の奥深くにある思い出のみが住まう館、懐古館。そこには今はもういない過去の人が変わらずに生きているのだと言う。そこならば、またあの人に会えるのかもしれない。私は縋るようにその館を捜し求めた。
ようやく辿り着いたのは、帰に囲まれた古ぼけた館だった。何百年も前に時を止めてしまったような館が、懐古館だった。音を立てて開いた扉のその奥で、館の主は快く私を迎え入れてくれた。
「ようこそ、懐古館へ。ここは思い出の住まう場所。逢いたい人、亡くした人、どんな思い出も映し出し、叶える館。貴方は何を望んでこの館へ来られたのですか?」
「逢いたい人がいるの。いなくなってしまった人。帰ってきてはくれない人。……ここならば、逢えると聞いたわ」
館の主は艶やかな笑みを浮かべて頷くと、奥の間へと私を誘った。奥の間には柔らかな香りの香が焚かれ、懐かしいような甘い匂いが漂っていた。天井から張られた薄布が幾重にも重なる向こうに、小さな少女が神秘的な装束を身につけて座っていた。
「彼女が、貴方の望む人を呼び出してくれます。さぁ、心に強く思い浮かべてください。思い出の、その人を」
言われるままに、私は目を閉じてあの人のことを思った。最後の日の優しいあの人。いつも見せていた不敵な態度。しっかりと前を見据え、歩いていたあの人の横顔。

しゃらん。
どこからか鈴の音が聞こえた。
しゃらん。しゃらん。
段々音が大きく、早くなっていく。そして突然鈴の音が途切れ、思わず私は目をあけた。

「優奈」

目をあけるとそこには思い出のあの人が立って、私の名を呼んでいた。あの日と寸分違わぬ笑顔。懐かしさと驚きに私はその場に立ちすくみ、ただぼんやりと貴方の笑顔を見つめていた。
「……高志?」
「優奈。……ただいま」
はにかんだような笑みに、私は思わず高志に縋りついた。視界の端で、少女が目を伏せるのが見えた。
「高志……高志。逢いたかった。逢いたかったよ」
「優奈……」
高志がその筋肉質の腕で私を抱きしめる。いなくなったあの日と同じように。胸の奥を違和感が掠める。
「ねぇ、高志。……今まで、どうしてたの? 一度も連絡くれないで」
「悪いな。優奈」
言って、くしゃくしゃと私の頭を撫でる。
「心配かけたな」
「ねぇ、高志……話してよ。今までのことを。知りたいよ。もっといっぱい、話してよ」
高志は、答えない。あの日と同じ優しい……そして悲しい微笑を浮かべて、私を見つめるだけ。
「高志がいない間、寂しかったよ。凄く。待って待って待ちつかれて、もう嫌になっちゃいそうだった。待つなって言われたけど、待ってたんだ。逢いたかったから。泣かないで待ってたんだよ。ずっと、ずぅっと」
高志は何も言わない。
「ね、帰ろう。高志の部屋、そのままにして残してある。帰って、もう一度二人で暮らそうよ」
高志がゆっくりと諭すように言う。
「……優奈。それは、出来ない。……すまない」

『……優奈。それは、出来ない。……すまない』
あの日、思い出のあの日。引き止める私を諭すように言った言葉。高志は夢を追って出て行った。だから、留まることは出来ないと言って私を諭した。あの時の、言葉。完全に重なるその声色。思い出の中の言葉。

「何で? ……どうして出来ないの? 帰ろうよ。高志……」
ゆっくりとかぶりを振るその仕草があの時の高志と完全に重なる。その苦しげな、困ったような表情すらも。
「答えてよ、高志。……それも、出来ないの? ……出来ないんだね」
ゆっくりと高志の体から離れる。目の奥がツンと痛んだ。
「だって、貴方は幻だもの。私が望んだ、ただの幻だもの。貴方が言った言葉は私が欲しかった言葉。この腕も、この顔も、全て思い出のあの日のまま。私が時を止めてしまった、あの日のまま。だから、思い出の中の言葉しか話せないのね。私の思い出の他のことは知らないのね」
悲しい微笑を浮かべて、貴方が私を見つめた。その微笑さえも、あの日のままで。
「……逢いたいよ、高志。思い出の中の貴方じゃなくて、今を生きる貴方に。今、貴方はどうしてるの? ……帰ってきてよ、高志……」

「言っただろう、優奈」
そっと肩に手を乗せて、ゆっくりと噛んで含めるように。
「待っていてくれとは言わない。もし何年も経って俺が帰ってこなかったら、もう俺は死んだと思ってくれ。そのときは泣かないで欲しい。それは俺自身が望んだ結果なのだから。俺のことなど綺麗に忘れて、新しい人生を生きてくれ」
思い出の貴方は、あの時と同じ台詞を紡いだ。

「……高志」
紡がれた言葉は思い出の言葉。高志が最後に告げた言葉。何度も繰り返し思い出していたはずの、言葉。私の目から熱い雫が零れ落ちた。
「……私は、貴方に全て押し付けていたの? 寂しさも、悲しさも、全て貴方になすりつけていたの? 貴方は待たなくていいといったのに、貴方はもういなくなってしまったのに。勝手に縛り付けられて、貴方を恨んでいたのね」
貴方の笑みは、優しかった。思い出のあの日の通りに。遠い過去の日と同じように、私は貴方の胸に縋りついて泣いた。
「……ごめんなさい。これで、最後にするわ。貴方のことで泣くのは、これで最後。ごめんなさい」

「……思い出の彼とでは、生きていけませんか」
背後に立つ館の主が私に問うた。私は主に向き直ると、微笑を浮かべた。丁度、彼が浮かべているのと同じ微笑みを。
「思い出だけでは、生きていけないわ」
「でも、今までの貴方は思い出に縋って生きていたのではありませんか?」
「……そうね。私はあの人の思い出に縋って生きてきたわ。けれど、それではダメなの。今、気がついたわ。思い出だけでは、生きていけない」

しゃらん。
鈴の音が響いた。
しゃらん。しゃらん。
音はゆっくりと辺りに響き渡り、溶けるように鎮まっていく。
ふと振り返ると確かにそこにいたはずのあの人は、夢のように消え去っていた。……いや、夢だったのだろう。私が懐かしんで思い出した、過去の幻影。
ふと見ると、薄布の向こうの少女が澄んだ瞳でこちらを見つめていた。

「思い出の中にいて、何がいけないのですか」
主が私をひた、と見つめて言った。
「ここならば、願えばずっと思い出の中に住むことも出来ます。それではいけないのですか」
「……思い出は、優しいから。思い出は美しく飾りつけられた昨日だから。剥き出しの今日よりも優しいものなのね。でも、それに縋っていたのでは前に進めない。疵だらけになっても、今日を見つめていかなくては明日は開けない」
「そんなに明日が大切ですか。絶望ばかりの明日などいりません。私は思い出だけあれば十分です」
私はそっとかぶりを振った。館の主は今までの私。思い出の中に住み着いていた今までの私。思い出の中に住み着くのは安らかで、ある意味では幸せなことかもしれない。明日を恐れるのならば、ある種安息の地であることに違いない。……いつかはそこから抜け出さなくてはならない。いつか、明日を見つめなくてはならない日が来る。けれど、主にとって今はその時ではないのかもしれない。気付くのはいつだって、自分でしか出来ない。他人はきっと、きっかけになることしか出来ない。私のきっかけになったのは高志の幻影。……館の主には、きっと何を言っても届かない。まだ、今は。
「ただ、私は繰り返す昨日より歩み寄る明日のほうが大切に思えたの。……それだけのこと」
「ならば、出てお行きなさい。ここは思い出の住まう館。思い出を否定するならば、出てお行きなさい」
言われるまま、私は館を後にした。振り返ると、薄布の奥にいる少女が薄い笑みを浮かべてこちらを見ていた。

館を出て、私は私の家へと帰った。高志との思い出が詰まった、私の家。高志の部屋の荷物を整理しようとして、止めた。高志は待つなといっていたけれど、私は待っていたいのだということに今更ながら気がついた。前のように捨てられたと恨みがましく待つのとは、少し違うのだろう。前よりも心穏やかに、ゆっくりと自分の時間を楽しむ余裕が出来た。もう、帰ってこないのかもしれない。……それでも構わないと思った。出来るなら、帰ってきて欲しいけれども。

また、幾年かの時が流れた。
遠い別れの日を懐かしく思い出す。懐古館でのあの人のことも。

ちりん。
ドアベルが鳴った。
誰だろうといぶかしみながらゆっくりとドアをあける。

「優奈」

ドアの外には、あの日よりも年を取った貴方が、はにかんだような笑みを浮かべてたっていた。
「久しぶり。……元気だったか?」
あの日よりも落ち着いた、穏やかな笑顔。思い出とは違う、今の貴方。
「ええ。……お帰りなさい、高志」
笑みを深くして、貴方は言った。
「……ただいま、優奈」

思い出は美化されるから優しくて飲み込まれそうになります。
過去に酔いしれることと未来を見据えて生きること。
どちらが幸せかは本人にしかわかりません。


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