氷の女王

風の便りで、いつか聞いたお話です。
寒い寒い北の果てのどこかに、冬の国があるのです。 冬の国には氷の女王が一人、住んでいるのです。

冬が来ると女王は北風に乗ってやってくるのです。 そして艶やかな銀色の髪を北風になびかせて、大地を白銀に染め上げるのです。

雪の色は氷の女王の肌の色。
冬の空は氷の女王の瞳の色。
北風は氷の女王の零した吐息。

そんな話を、風の便りに聞いたのです。


今年も冬がやってきました。 いつしか雪は降り積もり、世界は白く染まりました。

北の端の村にすむ少年は、ずっと外を眺めていました。
「ぼうや、外に何かあるの?」
お母さんが聞きました。 少年は笑顔で言います。
「お母さん、氷の女王がいるよ」

お母さんは凍った窓からそっと外を見ました。 外の雪は、もう春まで溶けないくらいまで積もっています。 窓の外には誰もいません。

「そうね。もう、氷の女王がやってくる時期ね」
お母さんは微笑んで言いました。 少年はお母さんに擦り寄って、言いました。
「ねぇ、お母さん、もう一度氷の女王のお話、して?」
お母さんは少年の頭をなでて、いいました。
「そうね。それじゃあ、温かいココアを入れたら話してあげるわ」

温かいココアの湯気の向こうで、少年はお母さんをじっと見詰めています。
「これは、お母さんが風の便りで聞いたお話」
お母さんはココアを手に、ゆっくりと話しだしました。


遠い遠い北の果てにある冬の国に、氷の女王様が住んでいました。 抜けるように白い肌と、冬の澄んだ空の色の瞳をした女王様です。 女王様はいつも冷たい氷のベッドで眠っています。 冬の季節がやってくると、そっと起きてきてあたりに雪を降らせるのです。

舞い降る雪の中、氷の女王は春がくるまで踊ります。 銀色の髪を翻して、白一色の世界で静かに踊っているのです。

ある日のことです。 氷の女王はいつものように雪の大地で踊っていました。 そこへふらりと若い旅人が通りかかったのです。

旅人は、女王の踊りを一目見るなり恋におちました。 それほどまでに女王は美しかったのです。

旅人は女王にそっと近寄って行きました。 女王は旅人が近寄ると、すぐに北風に乗って消え去ってしまいました。

女王が消えた後も、旅人は女王のことを忘れられません。 旅人は雪野原に何日も何日も通いました。 女王が踊っているのを何日も何日も眺めては、そっとため息をつきました。

何日たったことでしょう。 旅人は寒さでふらふらになりながら、それでも女王を見つめていました。 女王は旅人が近寄るのを見て、北風を呼び寄せます。 旅人はそこで叫びました。
「お願いです。行かないでください。 教えてください。貴方は誰なのですか。 貴方のことを思うと夜も眠れないのです。 貴方を忘れて雪野原を去ることも出来ないのです。 お願いです。せめてもう少しだけ、行かないでください」

女王は旅人の方へ向き直りました。 そして、凛とした声で言いました。
「私は氷の女王。遠く遠く北の果て、冬の国の氷の女王」
旅人が傍まで近寄ると、女王は静かに言いました。
「お前は誰か。何日も私を見ている、お前はいったい何者か」
旅人は言いました。
「私はただの旅人です。貴方の踊りに魅せられた、ただのしがない旅人です。 貴方をどうしても忘れられず、離れることも出来ず、何日も通っていたのです」

氷の女王は珍しそうに旅人を見ました。 まともに人と話すのは、初めてだったのです。

旅人は、女王にそっと言いました。
「もし叶うなら、貴方の国へ、冬の国へ連れて行ってはもらえませんか。 貴方の住まう冬の国を、私も一目見たいのです」
女王は首を振っていいました。
「冬の国は、氷の国。此処よりはるかに北にある。 永久に凍りついた冬の国。氷と雪のほかに何もありはしない。 そんな国に来たいと言うのか」
旅人はゆっくりと頷きました。
「それならそれで構いません。貴方と一緒に行きたいのです」
氷の女王は北風を呼び寄せて言いました。
「いや、やはりやめておこう。お前にはきっと耐えられまいよ」
いうなり、女王は北風に乗って消え去ってしまいました。

その後も、旅人は何日も何日も雪野原に通い詰めました。 そして何度もいいました。
「お願いです。貴方の住まう冬の国に私も連れて行ってください。 あなたといっしょに、連れて行ってください」

ある日のことです。氷の女王は言いました。
「そんなに来たいのなら、連れて行ってやろう。 全てが凍る冬の国へ。私の住まう、北の果てへ」

氷の女王は旅人を連れて北風に乗りました。 北風は遠く遠く北の果てに二人を運びます。 息すらも凍るほどの寒い国に、二人はやってきました。 そこが、冬の国でした。

氷の城は冷え冷えと佇んでいます。 氷の玉座は氷の女王のためにあるのです。 雪は城を包みこむじゅうたんです。 氷のシャンデリアは月の光を反射して輝き、氷の彫像は透き通った輝きをたたえています。

そこは、美しくも冷たい国でした。

旅人はあまりの美しさに目を奪われました。
「今までいろいろなところを見てきましたが、こんな美しいところを私は見たことがありません」
旅人は冬の国のあちこちをしげしげと眺めました。 そして、今まで見たところがどんなところだったか、女王に話しました。 灼熱の砂漠の国や、青い青い海、深い深い森の奥の国の話。 そんなところにいったことのない女王は、物珍しげに話を聞きました。

旅人が冬の国にやってきて、朝がすぎ、昼がきました。 旅人は時間がたつごとにだんだん寒さで弱ってきます。
「どうだ、もう帰りたくなったか?」
女王が旅人に尋ねても、
「いえ、まだ貴方と一緒にいたいのです」
旅人はそう答えるばかりです。

とうとう夜がきて、旅人は寒さでぐったりとしてきました。 女王は旅人に言いました。
「もう帰らないと、お前は死んでしまう。 やはりお前はこの国の寒さに耐えられないのだ。 さぁ、もとの国まで送り届けてやろう」
旅人は、それでも首を横に振ります。
「いいえ、まだ大丈夫です。 私はまだ、貴方と一緒にいたいのです」

そういいながら、旅人はとうとう倒れてしまいました。

氷の女王は困りました。 暖めようにも、この冬の国には暖かい毛布も、火を起こすものすらもなかったのです。 どうしようもなくて、氷の女王はそっと旅人を抱きしめました。

するとどうでしょう。 旅人の体はみるみる凍ってしまいました。 そして、氷の女王の体は、じわじわと溶けてきてしまったのです。

氷の女王は慌てて旅人を放しました。

氷の女王に触ると、みんな凍ってしまうのです。 そして、氷の女王は、誰かに触ると解けてしまうのです。 だから、氷の女王は今までずっと一人ぼっちでいたのです。

氷の女王は旅人を乗せて北風に乗りました。 そして大急ぎで旅人のいた村の娘に旅人を託しました。 暖かな暖炉の火の傍で旅人が回復していくのを、氷の女王は窓の外からそっと見守りました。

何日かして、旅人はずいぶん元気になりました。 そして、またふらりと雪野原に出かけたのです。

そこでは、氷の女王が踊っていました。

旅人は氷の女王に近づいていきます。 氷の女王は旅人が近づくのを見て、そっと北風を呼び寄せました。

「なぜ行こうとするのです。おねがいです。もう一度、連れて行ってください」
若者が言うと、女王は静かに言いました。
「いや、駄目だ。お前は、私の国の寒さに耐えられない。 もう一度冬の国にきたら、きっとすぐに死んでしまうだろう」
「それでも構いません。お願いです。もう一度だけ、連れて行ってください」
女王は静かに首を振ります。
「お前が凍えても、私はお前に何も出来ない。 私は氷の女王だから。 氷と雪をつかさどる、冬の国の女王だから。 お前が死にそうになっても、私は何も出来ない」
女王は一粒涙を流しました。

「お前が私の腕の中で冷たくなっていくのは、嫌だ。そんな思いだけは、したくない」

女王の流した涙は、風の中ですぐに凍って、一粒の氷となって零れ落ちました。 旅人は何も言えずに女王を見つめていました。 女王は旅人を見て、微笑みました。
「お前とあえて、楽しかった。けれども、もう一緒にいるわけにはいかない。 私と一緒にいても、お前は幸せにはなれまい。私は、お前が死んでいくのを見たくはない」
旅人はしぼり出すように尋ねました。
「もう、会えないのですか」
「どうせ、じきに冬が終わる。私は氷のベッドで眠りにつく。もう、この里へは来ない」
旅人はため息をついて、そっと女王を見つめました。
「……わかりました。けれど、お願いです。 最後に、一度だけ踊っていただけませんか。 貴方のことを、忘れないでいられるように」
旅人の言葉にゆっくり頷くと、女王は静かに踊りだしました。 銀色の髪が空に舞います。透き通った声で、女王は歌いだしました。 雪の舞い降る中で、女王は一心不乱に歌い、踊ります。 それは、幻想的で物悲しい光景でした。

踊りながら、女王は旅人に魔法を一つかけました。 一つだけ、旅人から大切なものを抜き取っていったのです。 それは、旅人が女王に恋した思い出でした。 旅人は、思い出を抜かれると、糸の切れた操り人形のように雪野原へ倒れこみました。 氷の女王は旅人の傍にしゃがみこんで、囁きました。

「すまない。私のことなど綺麗に忘れて、他の誰かと幸せになってくれ」

氷の女王はそっと北風に乗って、消えていきました。 それ以来、この里で氷の女王を見た人はいません。

旅人は、里の娘に介抱されましたが、雪野原での思い出をすっかり無くしてしまいました。 旅人は、里の娘と結婚して、幸せな暮らしをしたということです。


二杯目のココアの湯気の向こうで、少年はじっとお母さんを見ています。
「ねぇお母さん、どうして氷の女王は行ってしまったの?」
お母さんは、微笑んで言いました。
「さぁ、どうしてかしらね」
「僕、氷の女王に聞いてくる!」
少年はココアを飲み干すと、暖かなコートを着て、外へ飛び出していきました。
「風邪を引かないうちに、帰ってくるのよ」

少年が走っていった後、お母さんはそっと外を眺めました。 コートを着た少年の姿が見え、そして、きらきらと光るものが見えた気がしました。 それはすぐに北風に溶けて、どこかへ消えてしまいました。


風の便りで聞いた話です。 北の遠い果てに、冬の国があるそうです。 冬の国には、氷の女王が住んでいて、

今でも一人で、そっと一人の旅人を見守っているそうです。





おしまい。

+コメント+
……地味にラヴ話。
大切な人に何かしてあげたいのに出来ない。
そんな時の気持ちが微妙にテーマかも。



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