約束の樹
桜が咲いていた。
艶やかな薄紅色の花が、目を閉じていても判るくらい、咲き誇っていた。
まだ散らないで。お願いだから、まだ、散らないで待っていて。
私が其処に辿り着くまで…。
ある夏の日のことでした。一人の少年が、小さな森で遊んでいました。
ふとしたことで、少年は森の奥の方に入りこんでしまいました。
町の大人からは、入ってはいけないといつも言われている森です。
少年は、ちょっとした探検のつもりで、森を歩きつづけました。
どのくらい奥に入ったのでしょうか。不意に、少年はおかしな通りに出くわしました。
桜の樹の並木が、緩やかに奥まで続いています。夏だというのに、並木の桜は満開なのです。
少年は不思議に思いましたが、桜の花のあまりの美しさに、引き寄せられるように奥に進んで行きました。
しばらく進んで行くと、少年は広場のように開けた所に出ました。
其処には、ひときわ大きな桜の樹が、悠然と立っていました。
満開に咲き誇る桜の花は、辺りに柔らかい桜の香気を満たし、ちらちらと舞い落ちる花びらは地面を薄紅色に染め上げていました。
あまりの美しさに少年はしばし桜の花に見ほれていました。
突然、強い風が吹きました。風は花びらを舞い上げ、辺りを薄紅色に染め上げます。
少年は思わず目を閉じました。舞い上げられた桜の花びらが、舞い降りてきます。
風が収まったのを感じて、少年はそっと目をあけました。
ひらひらと桜が降る中、少年は桜の根元に佇む一人の少女を見つけました。
桜色の着物を着た、可愛らしい少女です。
少女は、ちょこんと木の下に座り込んでいます。
少年は、少女の方にふらふらと近寄って行きました。
「こんにちは」
少女は、可愛らしい声で言いました。
「今日は……。ねぇ、何してるの?」
「人を待ってるのよ」
「……ふぅん……。こんな所で?」
この森には、ほとんど誰も入ってきません。町の大人も入るのを止めているのです。
少年は、こんな所で誰を待っているんだろう、と不思議に思いました。
「ねぇ、ぼくも一緒に待ってみても良い?」
少女は少し考えるように首を傾げました。
「……良いけど……。来ないかも、しれないのよ?」
「それでも、いいよ」
少女は、にっこりと微笑みました。
「それなら、一緒に待ちましょう」
2人は、桜の根元に並んで座って、待ち続けました。
いつのまにか日も落ち、空には細い月が昇りました。
たまりかねて、少年が聞きました。
「ねぇ、誰を待っていたの? どうして、待っているの?」
少女は言いました。
「私、友達を待っているの。約束したから……」
「約束?」
「そう……約束したの」
少女はすっと立ちあがり、桜の樹を見つめました。
「この桜が、満開になったらまた逢いましょう、って約束したの」
「桜が……?」
少年は桜の樹を見上げました。
確かに花は満開に咲き誇り、月の光が桜の薄紅色を艶やかに、妖しく照らしています。
「ねぇ、もうこんなに暗くなっちゃったんだし、帰ろうよ。
きっと、その子ももう来ないんじゃない?」
少年は何の気無しに言いました。とたん、少女は顔を曇らせました。
「そうね、……もう、来ないかもしれない。
いいえ、きっともう来ないのよ。でも、私は待ってなくちゃ駄目なの。
だって、約束したんだもの。この桜の樹の下で逢いましょうって、約束したんだもの」
とうとう少女は泣き出してしまいました。
「私は一度約束を破ってしまったの。
だから、今度は私、約束を守らないといけないの。
この桜の下で、あの子はずっと待ってたの。
私が来なくても、ずっと、ずっと。
だから今度は私がずっと此処にいないといけないの。
あの子が来てくれるまで。ずっと、ずっと」
少年は、どうしたら良いのかわからなくなって、ただ少女を見つめていました。
「もうあの子は私を嫌いになってしまったかもしれない。
だって私、約束を破ってしまったんだから。
それでも待ってないと駄目なの。
この桜の下で。散ることのない桜の下で。
私ずっと待ってるの。ずっと、ずぅっと。
あの子が来てくれるまで。この桜の花が、散るまで」
もう桜が満開になってしまった。
早く行かないといけないのに、何故私は動けないの?
あの子が待ってるのに。約束したの。早く行かないと。早く、早く……。
「ずっと、待ってるの? この、桜の樹の下で?」
少年は吃驚して尋ねました。
「そう。ずっと、ずっと……」
少女は泣きじゃくりながら答えました。
少年は、少女がどうしようもなくかわいそうに思えました。
「そんなに、ずっと待ってたの?
なら……もう、良いんじゃないかな」
「もう、良い……?」
「そうだよ。だって、ずっと待ってたんだよね?
だったら、その子ももう怒ったりしないよ。
わかってくれるよ。きっと……」
少女は、涙で滲んだ目で、そっと少年を見つめました。
「そう、かなぁ……」
「そうだよ、きっと」
少年は、少女に笑いかけました。
「だから、ね、今日はもう、帰ろうよ。お家の人も、心配してるよ?」
少女は目に涙を貯めたまま、微笑みました。
優しくて、悲しい微笑みに、少年は射竦められてしまいました。
「ありがとう……。貴方は、優しいのね。……ありがとう」
少女はそっと桜の樹に手を触れました。
「……そう、かな……。もう、許してくれる、かな……」
少女はそっと桜の樹に額を寄せました。
「……ありがとう……ごめんね」
少女はぽつりとつぶやきました。
「……さよなら」
突然、強い風が吹きました。風に巻き上げられて、桜の花びらが空に舞いあがります。
少年は吃驚して、目を閉じました。風の音に混じって、少女の声が聞こえました。
「ありがとう……。私、きっと貴方に逢えて良かった。……ありがとう……さよなら」
「ちょっとまって、待ってよ……!」
風の勢いはやまず、少年は無理に目をこじ開けました。
狂ったように舞散る桜の向こう側に、少女が立っていました。
「ありがとう……」
そう言った少女の声を残して、少年の意識は遠のいて行きました。
また、桜が咲いた。あぁ、まだ散らないで。待って、待って。
やっと来たの。やっと来られたのよ。
約束を果たしに来たの。ね、待っててくれたのね。
ありがとう、ごめんなさい、遅れてしまったわ。
でも、逢えて良かった。
あぁ、一緒に待っていてくれた人がいたのね。
その人にもお礼を言わなくちゃ……
……ありがとう……
ふと、少年の耳に聴いたことのない少女の声が響きました。
少年は目を覚ますと、一本の古ぼけた樹の根元に倒れていました。
あんなに綺麗に咲き誇っていた桜の花は、何処にもありません。
遠くに、蝉の鳴き声が響いています。少女の姿も、何処にもありませんでした。
あれは、夢か……それとも幻か……?
少年には、どちらともわかりませんでした。
少年は、ゆっくりと家路につきました。
そっと手のひらを開くと、薄紅色の花びらが手のひらに残っていました。
あっ、と思った瞬間、花びらは風に攫われてどこかへ飛んでいきました。
その後少年はその森で桜が咲くのを見たことはないそうです。
あの桜並木も、桜の大きな樹も、二度と花を咲かせることはありませんでした。
おしまい。
+コメント+
桜をテーマに数パターン考えていた中の一つです。
割とネタがかぶっているので、桜はしばらく書きません。
rustyさまへ。
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