湖の絵描き

幻の名画と呼ばれた絵がありました。 人々に深い感銘を与え、幻のように消え去った名画です。 これは、そんな名画を描いた絵描きの話です。

ある湖に、一人の若い絵描きが住んでいました。 絵描きは湖や湖の上にかかる月を絵に描いていました。 その絵を売って、日々を細々と暮らしていました。

絵描きには詩人の友達がいました。 詩人は道端で詩を書いていました。 道を通りかかる人に詩を捧げながら暮らしていました。 哀しい顔をしている人には、楽しくなるような詩を。 淋しい顔をしている人には、そっと心に寄り添うような詩を。 唄うように、囁くように、そっと捧げるのがその詩人の仕事でした。

詩人は絵描きに詩を捧げたことがありません。 詩を贈るのは絵描きが一生に一度の最高の絵を描いた時に、と決めていたのです。 其の時こそ、詩人は一生に一度の最高の詩を贈る、というのが二人の約束でした。

ある日、絵描きはいつものように湖の絵を描こうとして出かけました。 その道中、絵描きは詩人に会いました。
「やぁ。また今日も湖かい?」
「あぁそうさ。今日こそは、一生に一度の絵が描ける気がするんだ」
「またそれかい? まぁ頑張ってくれよ」
絵描きは詩人に別れを告げると、湖に向かいました。

湖についた絵描きは、湖の絵を描きました。 いつもに比べて、とても素晴らしい出来でした。 これこそ一生に一度の最高の絵なのではないだろうか。 絵描きはそう思い、満足しながらいつしかうたた寝をしていました。

それは、夢だったのでしょうか。 絵描きは、とても幻想的な光景を見ました。 月の光の下、輝く湖水の上で、一人の少女が軽やかに舞を踊っているのです。 少したりと湖水を揺らすことなく、少女は緩やかに舞っています。 蒼白い月の光が少女を照らし出しました。 少女自体が、淡く光を放っているかのようです。 光の中で踊る少女の姿は、えもいわれぬ程美しく、幻想的でした。 絵描きはその光景に、目を奪われていました。

ふと気がつくと、少女の姿は影も形もありませんでした。 やはり夢や幻だったのか、と絵描きは呆けたように湖を見つめました。 あの少女の美しさは、ただの幻だったのだろうか。 あの美しい光景は、二度と見ることが出来ないのだろうか。

絵描きはいてもたってもいられず、筆を手にとりました。 あの光景の美しさを、絵に刻み付けてしまいたい。 手をすり抜けて消えてしまわないように。 まだあの光景が目に残っている内に。 あの光景が、幻と消えてしまわぬように。 絵描きの心はそんな気持ちでいっぱいでした。

絵描きは1枚の絵を仕上げました。 けれども絵描きは納得できません。
こんなものではない。 もっと美しい情景だった。 あの少女の軽やかさや、神秘的な雰囲気。 息を飲むほどの美しさを、どうにかして絵に閉じ込めたい……。
絵描きはかきあげた絵を破り捨て、再び描き出しました。

昼がきて、夜がきて、朝が来ました。
絵描きは何度も絵を描きましたが、納得できる絵はまだ描けません。 一度はこれでいい、と思っても、しばらくするとあらが目に付くのです。 絵描きは何度も絵を破り、幾度も夜を越えました。

詩人は、絵描きが何日経っても家に帰らないのを心配して、湖にやってきました。 絵描きはまだ絵を描きつづけています。 その鬼気迫る様子に詩人は不安になり、絵描きを止めようとしました。
「なぁ、絵描きよ。そんなに根を詰めていると、体を壊してしまうぞ。 ちょっとは休んだらどうだ?」
絵描きは筆を休めることなく言いました。
「いや、駄目だ。 少しでも休んだら、あの光景が薄れて行ってしまう。 そんなことは耐えられない。 これを逃したら、もう一生に一度の絵は描けない」
いくら言っても聞かないので、仕方なく詩人は絵描きを止めるのを諦めました。 絵描きは絵を描きつづけました。 詩人はそんな絵描きを見守りつづけました。

何度夜を越えたことでしょう。 絵描きが何枚目かの絵を完成させました。 絵描きは絵を描きあげると、ぱったりと倒れました。 詩人は慌てて絵描きに駆け寄りました。 絵描きはやつれて今にも死んでしまいそうでした。 詩人は絵描きの手から筆をとろうとしました。 一刻も早く医者に連れて行かないと、死んでしまいそうです。 けれども絵描きは筆を手放しません。

「絵描きよ、筆を放せ。このままだと、死んでしまうぞ」
詩人は必死で言いました。
「だめだ。駄目なんだ。まだこの絵じゃ駄目なんだ。 また描きなおさなければ。あの光景は、もっと美しかった」
絵描きは筆を握り締めたまま、絵を見つめました。
「もう十分だ。この絵は十分に美しい。 だから、頼むから筆を放してくれ。医者に行こう」
詩人は絵描きを必死で説得しようとしましたが、絵描きは頑として聞き入れません。 とうとう詩人を振りきって、何枚目かの絵を描き出しました。 詩人は泣きながら、その姿を見守っていました。

次の日、何かを搾り出すようにして、絵描きの最期の絵は描かれました。 絵をかきあげたきり、絵描きは動かなくなりました。 絵描きは最期まで、筆を握り締めたままでした。
詩人は動かない絵描きを抱き締めて、大声で泣きました。 大切な友人を失ってしまった詩人は、大声で泣きました。 どんな詩も、自分を勇気付けることは出来ないだろう。 どんな詩も、自分を救うことは出来ないだろう。 詩人は哀しみと無力感でいっぱいでした。 詩人の涙は止まりませんでした。

それは、泣き疲れた詩人の見た夢だったのでしょうか。 詩人は、湖の上で踊る一人の少女の姿を見ました。 月の蒼白い光を浴びて、少女は踊っていました。 少女の可憐な美しさに。 その舞の美しさに。 なにより人を引きつけて放さないその幻想的な光景に。 飲まれたように詩人はその光景を見つめていました。

ふと、少女が絵描きを抱いた詩人を見つめました。 哀れむような、愛しむような、そんな微笑で2人を見つめました。

詩人がふと我に返ると、少女は影も形もありませんでした。 夢だったのか。幻だったのか。
詩人はしばし呆然としていましたが、ふと絵描きの残した絵がその目にとまりました。
絵描きは最期に何を描いたのだろう…?
詩人は絵を覗きこみました。 その絵は、先程詩人が見た光景と、寸分違わぬ光景を写し取った絵でした。 月の光の美しさも、湖水の輝きも、少女の儚げな表情も。 それらの全てを完璧に写し取った、美しい絵でした。 詩人は知らず、へたり込みました。

「絵描きよ…これは、確かにお前の最高の絵だ。 一生で一度の、美しい絵だよ」
詩人は泣きました。 涙が枯れるほど泣きました。
「絵描きよ……約束だったな。 お前が一生に一度の最高の絵を描きあげたら、一生に一度の最高の詩を贈る、と。
 俺には、無理だ。 お前の絵を前にして、あの光景を前にして、俺にはそんな詩を書くことは出来ない。 自分の心すら救えない詩人に、そんないい詩がかけるはずがない。 お前の絵に見合う詩など、これから何年を隔てても書けるはずがない……」
詩人は泣きながら持っているペンを全て折りました。 詩人は泣きながら持っている紙を全て破りました。 詩人は、絵描きの体と絵を抱いて、森の奥深くへ消えて行きました。

それ以降、絵描きと詩人の姿を見たものはないそうです。 けれども、絵描きの描いた絵は、流れ流れてたくさんの人の目にとまりました。 そして、たくさんの人の涙を誘いました。 その絵はあまりに完成されていて、見る人は皆涙を流さずにはいられなかったのです。

しかしその絵は今はもうありません。
その絵があったことが夢であるかのように、ある日突然消えてしまったのです。 泥棒が盗みに入ったのだとか、金持ちが買い取ったのだとか、様々な噂が流れました。 けれども結局その絵がどこに行ったのか、知っている人は誰もいません。 写し取った光景と同じように、絵は幻のように消えてしまったのです。
けれども絵は、人々の心に深い感銘を与えました。 幻の名画として、幾年を隔てても人々の心に根付いています。 これからも、その噂は人々を魅了して行くのでしょう。 あの幻の光景のように。

これは、そんな名画を描いた絵描きのお話です。

おしまい。

+コメント+
綺麗な作品を残す人ってなに考えながら作品を作るんでしょう。
そんな風に考えた結果が、このお話です。
例によってまた主人公格が死んでいます。
誰か死なないと気がすまないのでしょうか。



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