裁断者はどこに

裁くものなどどこにもいない。
真の裁断者たる女神はまだ目覚めないのだから。
絶望するもの、狂うもの。
それでもまだ女神の目覚めを熱望するもの。
どの生き方を選んだとしても、現実は変わることなく我等を苛み続ける。
変わらないならば、壊れてしまった方が幸せではないのか?
そう思いながらも、まだ女神の目覚めを待ち続けている。


どこか遥か彼方に、女神の作った世界がありました。
女神は全てを作り、深い深い眠りにつきました。
女神が眠りについた後、翼持つ天使達が女神に変わって世界を司るようになりました。
天使が己の咎に流した涙は雪となって世界へ注ぎ、終わらない冬が世界を覆いました。
これは、そんな冬の世界でのお話です。

少女は街の片隅にひっそりと佇んでいました。真っ黒い外套で身を包んだ少女は、灰色の町に同化しているようでした。誰かを待っているのでしょうか。それにしてはその通りには人通りもなく、待ち人が来る様子は見られません。それでも少女はじっと通りを見つめながら、降る雪を掃おうともせずに立っていました。

どれくらいの時間がたったのでしょうか。
遥か地平の彼方から、一つの影が近づいてきました。それはぼろきれのようになった、一人の青年でした。青年は少女を見ると、びくり、と体をすくませましたが、それでもゆっくりと少女の方へと近寄ってきました。

「私は仮初の裁断者。貴方を裁きにきました」
少女は静かな声音で青年に言いました。青年は喜んでいるのか苦しんでいるのか複雑な表情を浮かべて少女を見つめました。
「裁いてくれるのですか。私の咎を。もう抱えているのすら、疲れてしまったのです」
青年はぼろきれの中から包帯を巻かれた一対の翼を出しました。翼は根元のあたりで切り折られ、包帯には赤黒い染みがついていました。
「この翼がある限り、私は生き続けなければならないのかと思っていたのです。そうでないと償うことはできないと。それこそが女神が私に下された罰であると思っていたのです」
少女は青年の翼を一瞥すると、言いました。
「貴方は、自分の咎をわかっていますか? 貴方が為さなかったことの罪をわかっていますか?」
青年は少女を見つめました。
「為した事の罪ならば心得ています。私は命の尊さを知ることなく生き物の魂を天へと送りました。それは女神の作られた命を冒涜することとかわりのないことです」
少女は頭を振りました。
「私が貴方を裁くのは別の咎からです。貴方は成さなかったことに罰を受けるのです」
青年は意味がわからない、という表情を浮かべて少女を見つめました。少女はその視線を受け止めながら、ゆっくりと語りだしました。
「貴方は女神の与えたもうた仕事を放棄した。それがどれほど重大なことかわかっていますか。わかっていないのでしょう? 知らないことは、それだけでも罪となることがあるのです」
「しかし、私の仕事は生き物の魂を体から抜き取って天へと送ることでした。それは生き物を完全な意味で殺すのと大差ありません。女神がそれを執り行うのはまだわかります。けれども私のような不完全な生き物がそのようなことを行ってよいのですか。そのような資格があるのですか。私にはそうは思えなかったのです」
青年は混乱したようでした。その様を少女はその紅い瞳で見つめていました。
「全ては女神のお決めになったことです。確かに貴方の言うとおり、魂を抜き取って運ぶことは不完全な生き物の手におえる仕事ではありません。しかし女神が目覚めない今、誰かが為さねばならないことも事実です。貴方は知っているのですか。死してなお、魂を抜かれなかった肉体がその後どうなるのか。知らないのでしょう? 知っていたならば、どれほどの咎を感じようと、どれだけ深い業を背負うこととなろうとも、仕事を放棄することはできないはずです」
青年は衝撃を受けたようでした。青ざめた顔で少女に詰め寄ります。
「どう……なるんですか。教えてください、どうなるんですか。魂を抜かなかった肉体は……あの時の少女は一体どうなったのですか!?」
少女は青年に掴みかかられたままで、どこからともなく水晶球を取り出しました。
「……見せてあげましょう、あの少女の最期を。貴方の咎を」

水晶球には、簡素なベッドに横たわる少女と隣に控える母親が映っていました。
青年が部屋に滑り込むように入り込み、少女の傍へと近寄りました。しかし青年は、少女に近寄ると顔色を変えて、その部屋から逃げ出してしまいました。

「ここまでは、覚えているのでしょう?」

青年のいなくなったあとで、少女は息を引き取りました。母親が泣き崩れる中で、少女の体は醜く色を失っていきます。既に死んだ体で、少女はなんとか動こうともがき苦しんでいました。母の暖かい手を求めて、柔らかな抱擁を求めて手を、体を伸ばします。母親は錯乱してしまいました。少女は生きているのです。体は死んでしまっているというのに。
見ているだけで背筋が凍るような、物悲しく恐ろしい情景がそこにはありました。

「……そんな、……そんなことが」
水晶球の映像が途切れました。青年はじりじりと頭を抱えて後退りました。
「あの時ちゃんと魂を抜いていれば、こんなことには、ああ、しかし」
少女は青年を静かに見つめながら言いました。
「このあと、通りがかった別の天使が少女の魂を抜き取りました。けれども母親の心に残った傷は……しばらく癒えることはないでしょうね」
少女はそっと水晶球をしまいこみました。
「わかりましたか。貴方の咎が。貴方の仕事は決して放棄してはならないものだったのです。魂を肉体から抜き取らねばならないのは、肉体が何らかの理由でもう稼動できなくなるからです。活動を停止してしまった肉体に魂を閉じ込めてしまっては、魂まで歪み、狂ってしまいます。そしてまだ生きているものにすら悪影響を与えてしまう。本人の心も体も、正しく還っていくことができなくなってしまうのです。それを防ぐために貴方は女神から仕事を委ねられたのです。だから、貴方の咎は為さなかったことであり、知らなかったことなのです」
青年は大地へへたり込みました。
「……私は、……私の咎は……あぁ……償う術は、もうないのか……」
「……理解できたようですね。では……裁いてさしあげましょう」
少女は黒い外套を脱ぎ捨てました。銀色の長い髪が暗い闇夜によく映えます。外套を脱ぎ捨てたその下には、深紅の色に染め上げられた一対の翼がありました。
「私は仮初の裁断者。女神の裁きを代行するもの。貴方に裁きを与えましょう」
少女は虚空から細い杖を取り出すと、青年の肩にそっと触れました。すると、青年の体は溶けて消えるようにゆっくりと輪郭を無くしていきました。少女は青年の最期をじっと見つめていました。
「さぁ、空へ、海へ、大地へ還りなさい。貴方の咎は私がこの緋の翼に刻みましょう。過去も咎も全て忘れて原初へとお還りなさい」
最期に青年は苦しげに何か呟きました。少女には、なんと言ったのかは聞き取れませんでした。

青年の全てが消え去ったあとで、少女はそっと呟きました。
「この翼は、私の咎。この色は、咎の色。貴方の言葉を借りるなら、私にだって同胞を裁く権利も資格もありはしない。けれど女神がいない今、やはり誰かが裁かねばならない。そうしないと救われないから。だから私は女神から与えられた仕事を放棄しない。私たちは、この翼をもつ限り死ぬことすら赦されないから。せめて女神が目覚めるまでは、私は仮初の裁きを与え続ける。死だけが私たちを業から救ってくれるなら、与え続ける。この裁きの杖で」
少女はそっと杖を握り締めました。手が白くなるほどに、握り締めました。
「いつか、女神が私を裁いて、解放してくれる日まで」


どこか遥か彼方に、女神の作った世界がありました。
女神は全てを作り、深い深い眠りにつきました。
天使たちは今も、女神の目覚めを心待ちにしています。
来るべき裁きと、解放の時を夢見て。
それまではまだ、この世界の雪はやむことはありません。

そんな、冬の世界での御話です。


おしまい。

+コメント+
女神は目覚めないの続きの話。
単体でも読めそうな気はするんですけど、どうでしょう。
続きもしくは別話をもう少し書くかもしれません。


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