変革者は惑う


 どこか遠くに、女神の作った世界がありました。
 全能なる女神が永い眠りについたのはいつのことだったのか。
 奇蹟を代行する天使達ですら忘れるほどの時を経て、世界は雪に閉ざされました。
 人々は女神の覚醒を願いました。
 天使は解放を願いました。
 けれど女神が目覚めることは無く、雪が止むこともありませんでした。
 人々は言います。この雪は天使の流した涙なのだと。
 
 
 彼女が壊れてしまってからどれくらい時を経たのか。時間の感覚などとうになくなってしまった。彼女のいない世界に生きることなどに意味を見出せはしなかったから、どれほどの時間を経たとしても意味などないのだから。
 いっそ壊れてしまいたいと彼女を恨めしく見つめたのも、もう過去の話だ。かつて歌い手と呼ばれた彼女は、今も一人で歌っている。腕に抱いた名も知れぬ小さく震える魂、その唯一の聴衆のためだけに、彼女は鎮魂歌を歌い続けている。淡く光る翼をもつ限り、彼女が息絶えることは無い。だから……歌い続けるのだろう。未来永劫、その身が朽ちることも無く。
 かつて誰よりも近く存在していた彼女のことをそんな無機質な眼で見るようになったのはいつからなのだろう。それすらも、忘れてしまった。壊れた彼女と一緒に、自分の中の何か大事なものまで壊れてしまったのかもしれない。歌い続ける彼女を唯見守りながら、淡々と仕事をするだけの毎日が続いた。
 俺の仕事は、魂を運ぶことだ。壊れていく魂は数知れず、日々休むことなく魂を体から切り離しては空へと連れて行く。そんな日々の繰り返しだった。今まで何千、何万の魂を還したのだろうか。数えることすらしなくなったが、どの魂も冷たく冷えて、いやおうなく伝わってくる痛みを押し殺すのは大変な作業だった。特に彼女が壊れてしまってからは、魂の一つ一つの持つ冷たさに身を切られるような日々が続いた。
 いつか俺も彼女のように壊れてしまうのだろうか。魂の冷たさに狂いだす日が来るのだろうか。そんな漠然とした不安が心の片隅にわだかまっていた。普段は意識していなくとも、仕事を終えた後などは特に、そうした不安はゆらりと浮かび上がっては俺を苦しめた。
 
 そんなある日のことだった。
 
 俺はいつものように仕事を終え、ぶらりと彼女の元へと立ち寄った。何をするでもなく、歌う彼女の元で数時間過ごすことが俺の日課だった。
 その日はそこに先客が居た。それは黒いコートを着た、まだ幼いといってもいい雰囲気を持った少女だった。透けるような肌に銀の髪、赤い瞳がよく映える。少女は俺に気付いたようにふりかえると、淡く笑った。
「こんな夜更けに、彼女に何か?」
 俺が尋ねると、少女は小さく頷いた。
「……私は、仮初の裁断者。彼女を裁きにきました」
 噂には聞いたことがあった。女神以外で唯一天使を裁くことのできる天使が居ると。裁きの杖ならば、翼を持つ天使であっても、その業から解放することが出来るのだと。半ば縋るような気持ちで囁かれていた噂だった。
 ……本当に、居たのか。俺は裁断者と名乗った少女をじっと見つめた。
「彼女を、裁くのか? 彼女の罪は?」
「彼女の咎は、女神の与えたもうた仕事を放棄したことです。彼女は多くの魂を浄化することを放棄し、その魂と自らのためだけに歌っています」
 少女が指差す先には、未だ歌い続ける彼女が居た。その手に、蒼く震える魂を抱いて。
「彼女の仕事は、歌うことで魂の疵を多少なりと修繕し、魂を円環へと還す手伝いをすること。完全に魂の疵を癒すことではないのです。一つの魂の救済に引きずられ、主目的である多くの魂の浄化を放棄したことは、重大な咎……」
「……歌い手の唄は、魂を完全には癒せないのか?」
 ならば何故彼女は歌うのか。疵を抱いたままで魂を環に帰してしまってもいいのか。
「完全に癒すことは出来ません。それが出来るのは女神だけです。渦に飲み込まれた魂は他と同化し、いつかはその疵を埋めていきます。だから、かえってその魂のように一つ所に留められた方がより疵が深くなるのです」
 ならば、何故彼女は歌うのか。治らぬ疵を癒そうとしているのは何故なのか。彼女を壊してしまうほどに深い魂の疵は、そのままでも還っていけるのだと言う。ならば彼女のしていることは、全くの無駄なのだろうか。そう問うと、少女はゆっくりと頭を振った。
「……一つ一つの魂を救う事が無駄とは言いません。しかし、貴方達運び手が日々運んでくる魂は一つではありません。今もどこかで誰かが死に、その魂が運ばれてきているのです。その魂に比べ、歌い手の数は少なすぎる。円滑に魂を還していくことが出来なくなれば、その魂は歪んでしまいます。ただ疵付いているだけなら、時が経てば治ることもありましょう。しかし、一度歪んでしまった魂は元には戻らないのです」
 振り向けば、彼女は今、歌を止めている。いつ唄を止めたのか、俺は気付かなかった。彼女は今の話を聞いていたのだろう。表情から静かな決意が窺えた。
「貴方は、自分の咎を理解できましたか?」
 彼女は何も言わず、首を縦に振った。
「……これから先、全ての魂に向けて歌うことが出来ますか?」
 彼女は幽かに微笑んで首を横に振った。
「私はもう魂の悲しみを知ってしまいました。この哀しみを知りながら、癒せぬ疵を抱えた魂に歌うことは出来ません」
 少女はゆっくりと天を仰ぐと、その深い紅の瞳で彼女を見つめた。
「ならば、私の裁きを受けますか?」
 彼女は迷うことなくしっかりと頷いた。
「はい。……私を空へ還してください」
 そう言って目を閉じた彼女を、少女はじっと見つめた。そして、深く頷くとその黒い外套を脱ぎ捨てた。血の色をした一対の翼を大きくはばたかせると、少女は手にした杖でゆっくりと彼女に触れた。
「私は仮初の裁断者。女神の裁きを代行するもの。貴方に裁きを与えましょう」
 厳かにそう言い放つと、ゆっくりと彼女の輪郭がぼやけて行くのが見えた。俺は動くことすら出来ず、彼女をただ見ていた。随分とその輪郭が薄くなった時、彼女はうっすらと目を開けた。俺に向けて小さく唇と動かす。彼女が完全に消えていくのに、そう時間はかからなかった。
 
「……それでも」
 どこかぼうっとする頭が少しずつ動き出す。随分とかすれた声を絞り出したのは、彼女の最期から随分と時間を経た後だった。
「……確かに魂が歪んでしまうのは避けなくてはならない。それでも……彼女がしたことは……あの魂を救おうとした事は、ある意味で正しいことなんじゃないのか?」
 少女は俺の問いに答えずに微笑んだ。それは、随分と悲しみを帯びた笑みだった。
「……女神があられた頃の魂は全ての疵を癒され、浄化されたまっさらな状態で円環に加わっていったといいます。けれど、今……女神は居ないのです」
 少女の笑みに苦いものが混じる。
「確かに一つ一つの魂を浄化するのは大切なことです。けれど一つを選んで全てを歪めることはあってはならないことです」
「……疵を持ったまま円環に加わった魂は、本当にいつか浄化される日がくるのか」
「いつか……遠い日に。世界はゆっくりと歪んでいるのです。魂の円環も歪み、生命の円環もやがては……歪んでいくのでしょう」
 ポツリと言った言葉には、どうしようもないほどの苦痛と諦念が刻まれていた。
「……それは――絶望の環、か。逃れられぬ運命の環……」
 女神は目覚めない。狂いだした天使は止まる術を持たない。それを止める裁断者もその業から逃れられない。雪は降る。どんなに望んでも女神は目覚めない。
「彼女は、その環によって潰された。その環に嵌るのを受け入れずに」
 彼女の最期の言葉は耳には届かなかった。彼女はなんと言ったのか。今となっては判らない。知りたいと思った。痛切に。彼女はそれを覆したかったのだろうか。ただ諦めたのだろうか。
「……俺は、環を断ち切りたい」
 ぽつりと呟いた言葉に、少女がゆっくりとこちらを見た。
「それは女神の作られた世界を否定する言葉と取っても宜しいのですか?」
「違う」
 少女が怪訝な眼で俺を見た。
「世界は歪みはじめている。……そう言ったのはあんただ。何故狂う? 女神が居ないからだ。女神が目覚めないからこの世界は狂いだしたんだ。ならばどうしたらいい?」
 徐々に体の芯が熱くなる。自分の口からとめどなく言葉が溢れ出す。
「女神は目覚めない。いつ目覚めるのかも、どうすれば目覚めるのかもわからない。だったら女神のいない世界を維持するのではなく、女神無しで生きられるシステムを作るべきだ。俺達は、天使として奇蹟を代行してきた。けれど俺達に女神の代わりなど勤まるわけがない。女神と同じではなく、もっと違う方法で円環を作り上げなければ、世界は壊れてしまう」
 目の前で少女が真っ直ぐ顔をあげた。そこには苦しげに微笑んだ少女の色は既になく、女神に忠実な裁断者としての厳しい表情が浮かんでいた。
「……理解に苦しみます。それは今の世界を壊そうとしているのと同じことです」
「今の世界は壊れ始めている。だから女神の存在を前提とした今のあり方では問題があるんだ。それを打ち壊さなくては」
「女神は今の世界の存続を望んでいます」
「本当に?」
 本当に女神は今の世界の存続を望んでいるのか。ならば何故目覚めない。
「……女神がそれを望まないならば、私達は何故作られたのです」
 この世界の存続と変革。その選択は俺達の存在意義を根底から覆すかもしれない。世界を存続させるために、奇蹟を代行するために俺達は生まれたのだから。
「世界を、失わないためさ」
 世界を変えたい。
「目覚めない女神の作ったシステムは女神無しでは成り立たない。歪はゆっくりと積み重なっているんだ。それが彼女であり、あの雪だ」
 世界を変えたい。
 腹の奥底から、俺は願った。
 厳しい顔で裁断者がゆっくりと頭を振った。
「どんな言葉を並べようと、女神を否定することは許されません」
「……罰なら受けるさ。いつか、女神が目覚めた時に」
 今更のように、俺の心の中には途方も無い空白が浮かんできていた。何を失ったのかは明白だ。余りの存在の大きさに今更ながら驚く。
 
 世界を変えたい。変えなくてはならない。
 もうこんな思いはしたくない。何も喪いたくない。
 ……こんな思いをしていい筈が無い。
 誰かが同じ思いをすることも、あってはならない。
 円環を壊したい。絶望の円環を破らなくてはならない。
 
 ああ、きっと俺もどこかが歪んだんだ。
 頭のどこか片隅で理解した。
 随分前には共に在った、そして死の間際に遺された笑顔が胸を抉っていく。
 俺も彼女も、きっと同じ歪みの中に居る。
 
「今、ここで罰を与えましょう。貴方は仕事を放棄するだけでなく、世界の破壊を望んでいる。それは重大な咎です」
「違う。破壊じゃない。変革だ」
「同じことです」
「違う」
 裁断者が杖を構えようとして僅かに動作が乱れた。その隙を突いて俺は杖を奪い取ると、ゆっくりといった。
「俺は世界を変革する。邪魔はさせない」
 杖から強大な力が感じられた。彼女の命を奪った杖を裁断者の腹に当て、言った。
「邪魔をするのなら、容赦はしない。この杖ならあんたを殺せる」
 裁断者は悲しげな瞳で俺を見つめた。
「何をしているのか判っているのですか?」
「判っているさ」
「……必ずや、天の裁きがくだることでしょう」
「そうかもな」
 そう答えると、裁断者は諦めたように瞳を閉じた。
「……言い残すことは無いか?」
「ありません」
 疲れたような声音で、裁断者は言った。
 俺はゆっくりと杖に力を入れた。杖はやすやすと少女の腹を貫き、紅い血が辺りを、俺を染めあげる。
「俺は世界を変革する。……俺はあんたが流した血の上を歩いていく。それを忘れはしない」
「……まるで、悪魔ね」
 かすれた声でうめく少女の言葉に、俺は口の端に笑みを浮かべた。悪魔……そう、きっと俺は自ら進んで天の高みから堕ちた。
「なんとでも呼ぶがいいさ。俺は何にでもなる。世界を変革するためなら」
 そう囁くと、少女は幽かに笑った。ゆっくりとその眼を閉じて、少女は動かなくなった。体が風化するように風に解けて消えていった。
 
 裁断者が消えてから……否、裁断者をこの手で殺してから。暫く俺は動けずにいた。
 羽根ほどに軽かった裁きの杖が、やけに重たく感じた。
 おそらく、それはこの手で葬った裁断者の命の重たさなのだろう。
 ……あの少女は、今までにどれほどの天使を裁いてきたのだろう。その数だけ、この重みを背負って生きていたのかと思うと、その果てしなさに目眩がした。
 彼女を、多くの同胞を、そして裁断者の少女自身を無に変えた杖は今、血に濡れて禍々しく俺を見つめている。
 それは力の象徴。不死の天使すら滅する力を秘めた杖。
 俺はゆっくりと杖に力を込めた。木製の柄が、めきめきと悲鳴をあげる。
 頭ががんがんと痛んだ。辺りには誰もいない。立ち込める沈黙に耳が痛む。
 ふと彼女のいた場所を見ると、青く震える魂がゆらゆらと漂っていた。それを抱いていた彼女はもういない。
 ゆっくりと息を吸い、吐く。体中が……心までも、軋んだ。
 
 もう、後には戻れないのだ。
 
 自嘲の笑みと共に、俺は杖を握りなおして魂の元に歩いていった。
「……お前も、歪んでしまったんだな」
 魂がふわりと俺に近づいてきた。
 歪んだと言うならば、もう円環へ還ってはいけまい。
 俺は杖でそっと魂に触れると、ゆっくりと囁いた。
「……さあ、彼女の元へ行くがいい。俺の代わりに、彼女の所で眠るがいい……」
 杖が淡く光を発して、魂はゆっくりと震えながら風に溶けて消えていった。
 魂が消えると、俺は溜息を一つ落として、そのまま踵を返した。何処へ行けばいいかなど判らない。けれどここにはいられない。彼女はもういないのだから。世界を変えると誓ったのだから。
「いつか、帰ってくるよ」
 もういない彼女へと囁く。囁きはただ空気を揺らして四方へ消える。
「いつか、哀しみの螺旋を断ち切れたら……君の元へ還るよ」
 例えそれがいつになったとしても。……いつか、必ず。
 一度目を閉じて、今度はもう迷わずに、俺は前を見据えて歩き出した。遠く、まだ見ぬ世界に向けて。
 
 
 
 雪が降っていました。
 遠い遠い、凍てついた世界に雪が降っていました。
 雪の舞う中を、漆黒の羽根を持つ天使が歩いていきました。
 黒い天使は決意を胸に、一人どこかへ消えていきました。
 女神は未だ、目覚めません。


随分前に書いてあったんですけれど、なかなかUPできませんでした。
「彼女」は当然、魂の行方の彼女。裁断者も2で出てきた彼女です。
出る人出る人死んでますね。


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