第三の答え

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登場人物

 田 中 敦 夫……強盗犯
 田 中 正 一……その父
 田 中 秀 治……その弟
 飯 島 国 明……医者。敦夫の高校時代の同級生。被害者
 飯 島 美 佐……その妻、被害者
 飯 島 清一郎……その父、医者
 飯 島 房 枝……その母
 木 田 康 子……美佐の母
 木 田 由紀男……その父
 木 田 俊 行……その兄
 古 川 朋 代……敦夫の隣人
 関 口 佳 奈……ホームセンター店員。敦夫の高校時代の同級生。

一、苦悩

 もう十月も終わりに近づいたにもかかわらず、初夏を思わせる陽気である。
 古本屋の軒先に並んでいるワゴンに置いてある推理小説を立ち読みしながら、私と恋人の浅香萌は信号が青に変わるのを待っていた。彼女はショートヘアで、デニムを穿いている。半袖シャツからは健康そうに日焼けした腕が見えていた。
「ほら、行くよ」
 彼女はそう言うと、本を摘まみあげて私の手にポンと乗せる。私は溜息混じりに本を戻すと、背を向けた。そして横断歩道を渡り始めると、パソコンショップの看板が見えてくる。あそこで買っておくものはなかったはずだ……。記憶をたどっているうちに渡り終えて行きつけの喫茶店が見えてきたのだった。
 扉を開けるとコーヒーの香りがプンと漂ってくる。小ぢんまりとしたレトロな店だ。すっかり白髪になってしまった女主人は主婦と四方山話をしていた。カウンターには小さなTVが置いてあって、客が好みそうな三流ワイドショーを垂れ流している。
 字幕には大袈裟に「被疑者が自殺! その真相は!?」と書かれていて、コメンテーターが鹿爪らしい顔で解説していた。私がそれに辟易しながら適当な席に腰を下ろすと、女主人は主婦との会話を止めて、
「いらっしゃい。ご注文は?」
 と近づいてきた。萌はメニューを見ないで、
「コーヒーとサンドイッチ下さい」
「お兄さんは?」
「ちょっと待って下さい……」
 とメニューに目を這わせながら言う。女の子じゃないんだからそんなに迷わないでよ。萌はそう思っているんだろう。苦笑しながらも黙っている。が、そのうちしびれを切らしたらしい。
「同じものにする?」
 と言ってきた。口調こそ優しいもののメニュー一つ決められない私に愛想を尽かしているに違いない。いや、いつものように勝手にそう思い込んでいるのだろうか。そんなことを考えながら、私は黙って頷いた。
「じゃあ、コーヒーとサンドイッチを二つずつ」
 自己嫌悪に陥った私は溜息を一つ吐くと、辺りを見回す。
 隣の席にいる五人の若い男は下を向いてケータイをいじっていたり、マンガを読んだりしていた。なんでみんな一緒の場にいながら好きなことをするんだろう? おかしなものである。しかし私も人のことは言えないかもしれない。向かいでケータイをいじっている萌を見る。彼女は私の視線に気付いて、顔を上げた。
「ん? どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
「そう、ならいいけど」
 彼女のケータイが鳴り響き、メールの着信を知らせる。そのメールを見て、言いにくそうに、
「あ、あのさ。あんまりこういうこと聞きたくないんだけど……」
「ん? 何?」
 しばらく口をもごもごさせていたが、やがて意を決したように、
「ちゃんと安定剤って飲んでる?」
 私は弱々しく首を振った。萌は色々な感情を押し殺した声で私に問いかける。
「……やっぱり。何で飲まないの?」
「……忙しくてついつい」
 目を逸らして、窓の外を見ると、私はあっと声を上げそうになった。窓の外を友人の西口警部が歩いているのだ。とは言っても年は四十代で、私たちとは一回り以上も違うのだが……。一瞬人違いかとも思ったが、あのビール腹を間違うはずがない。一人でいるところを見ると非番なんだろう、と思い少し安心する。今回は事件に巻き込まれなくてすみそうである。ちなみに彼は私が唯一、まともな刑事と認める男なのだが、そんなことは照れ臭くて言えやしない。
 とにかく助かったと思った。もうこれ以上、あの話はしたくなかったのだ。みんな触れられたくない問題があるのである。例えそれが恋人同士でも、だ。
 萌は呆れた様子で、
「何? 話を逸らそうとしてもムダだからね。とにかく薬はちゃんと飲みなさい」
「違うって。警部が今……」
 扉の空く音がして、のっそりと警部が入ってきた。それに気付くはずもない萌は、大袈裟に溜息を吐いて、
「もっとマシな嘘は吐けないの?」
「本当だよ、今、確かに警部が……」
 信じてもらえないに決まってる、と解りながらも必死にそう言う。面白いもので相手が信じないほど剥きになるものだ。私は身を乗り出して、
「あそこに警部がいたんだって」
 と言うと、警部が私たちのテーブルにまでやってきて、
「ん? 俺がどうかしたか?」
 と言ったのだった。

「ハンバーグ定食」
 ソファにふんぞり返ると私たちの注文を持ってきた女主人にメニューを指さした。
「かしこまりました」
 と言うと、彼女は厨房に引っこんだ。溜息混じりに煙草を取り出すと、火を点ける。家で何かあったんだろう。その様子を見て、深くは立ち入らない方がいいと考えた。事件のことなら私に首輪をつけてでもひっぱっていくはずだ。こちらがデート中だろうとおかまいなしに。
 ところが私の顔を見て、首を振る。やはり事件で悩んでいるんだろうか? 私はコーヒーを飲みながら何も言わず警部の表情を窺った。こちらから促した方がいいんだろうか?
 しかしそんな心配は取り越し苦労だったようだ。拳を固めて身を乗り出すと、
「実はもう終わった事件なんだが、どうも心に引っかかってな。こないだ起きた押し込み強盗なんだが」
 警部は立ち上がると地方紙を持ってきた。警部は新聞を広げると小さな記事を見つけて指し示すと、苦々しげに、
「ここだ」
 私はその箇所を丁寧に畳んで、読んだ。

 名古屋市T区の自宅で医師、飯島国明さん(二八)、美佐さん(二七)夫婦が殺害された事件で、天白警察署捜査本部は二十三日、強盗殺人の疑いで無職、田中敦夫被告(二七)を逮捕した。田中容疑者は犯行後、出頭したという。「借金に困ってやった」と述べているが、詳しい経緯については取り調べを進めている。
 調べでは、田中容疑者は二十一日午後三時半ごろ、飯島さん方に侵入し、持参した洋包丁(刃渡り二十センチ)で国明さんの腹部を刺し、殺害した後に美佐さん夫婦の胸や腹を複数回刺して殺害。その後、金庫を壊して中にあった現金十数万円と、キャッシュカード数枚などを奪った疑い。

 どうやら強盗か金の無心かの選択肢しか思い浮かばなかったらしい。第三の答えなんて探せばいくらでもあると思うのだが、と私はやるせない気持ちで首を振って新聞を棚に返す。
「さっき、ワイドショーでやってましたよ。犯人、自殺したんですってね」
 と、萌が身を乗り出して、
「冤罪だったんですか?」
「いや、ホシがゲ……自白したからそうじゃない」
 ゲロを吐いたと言いかけたのを店に気を使ってか、大袈裟に咳払いして言い直した。賢明な判断である。
「で、でもあの事件は被疑者自殺で解決したんじゃなかったでしたっけ。萌ちゃんの言うように」
 私が口を差し挟むと、警部は顔を曇らせ、
「そうなんだよなぁ」
 と呟いた。何だか私の無気力が警部にまで伝染してしまったように見える。
「いやさ、俺が悩んでるのは衝動殺人か計画殺人かっていうことなんだ」
「それは……まぁ包丁を持参しているんじゃ計画的な犯行だったんじゃないですか?」
 萌が言うと、警部は身を乗り出した。
「と思うだろ? ところがやっこさんは手袋もしないで入ったもんだから、そこら中に指紋がべたべた付いてたんだ。そこがどうも引っかかるんだよな。普通、計画殺人なら手袋をしそうなもんだろ? まぁ犯人は田中であることには変わりはないんだが」
「……そうですか? 人の心は解りませんからね」
 私は自嘲的に笑った。確かにおかしいとは思うが、そこまで取りざたすことでもないような気がする。そしてそう思っている自分が嫌になった。以前なら調べただろう? そんなお前はどこに言ったんだ? と自分に問いかける。
「どうしたんだ?」
 警部が心配そうに言う。萌はちょっと迷っていたが、
「どうしたんでしょう」
 私が精神不安定だという秘密を守ってくれる優しさが嬉しかった。彼女は話題をさり気なく元に戻そうと、
「それで変わるのは自殺した田中さんの名誉くらいですものね」
「いや、それすらも変わるかどうかも」
 私は皮肉っぽく言うと肩を竦める。見ると警部は唇を震わせていた。冷静になろうとしているんだろう、二本目の煙草に火を点けるが、顔は強ばっていた。
「実はもう事件には関りたくないんですよ。いや関わりたいのはやまやまなんですが、人の一生を左右することに責任が持てなくなってしまったというか……。今回の場合はちょっと違いますが」
 弱々しく俯いて呟くと、警部を上目づかいで見る。何と思うだろう? ふぬけた奴だと嘲笑っているのだろうか。それならそれでいい、と警部の答えを待つ。
 警部は、
「……そう、か」
 と言って、
「責任か。今のお前の問題とは関係ないかもしれないがな、俺がガキによく言うんだ。『自分で頼んだんだからちゃんと最後まで責任持って食べろ』って。そうやって世の中は回っていくんだよな」
「でもそれは小さいことです。少なくとも人の一生を左右するようなことじゃない。コーヒーを残そうが……」
 警部は苛々しているのを抑えるかのように、
「まぁ聞け。確かにお前の言うようにこのコーヒー残したぐらいじゃ人は死なん。でも、その一つ一つの積み重ねがだな、人の一生を左右するようなことにつながるんじゃないのか?」
「例えば?」
「例えば……、そうだな、痴情のもつれで人が殺されたとする。その痴情のもつれには必ず原因があるんだよな。亭主が浮気してたとか。それで、その亭主の浮気にもまた理由がある。単身赴任で寂しかった、とか。そしてその単身赴任は……、という具合にずっと原因があってそれには小さな責任が付きまとっとる。まるで金魚のフンみたいにな」
「そんな……小さなことにまで僕は責任を持てません」
 頭の中がグチャグチャになる。私はどこまで責任を負うべきなんだろう? もちろん私のやったことすべてに対して追うのが筋だろう。しかし私の知らないところまで巻き込んでしまっているかもしれない。そう考えると今まで以上に生きていくのが恐くなった。
 知らず知らずのうちに私は暗い顔をしていたんだろう。
「つまりだな、俺が言いたいのは責任なんて考えても仕方ないっていうことだ。いくつもの原因がつらなって、人の一生を決めるんだからな。もっと気楽に生きろ」
 そう言うと肩を叩いて慰めて、悠長に紫煙を吐き出す。気楽になれない人はどうすればのかを警部に聞きたかったが、とうていそんな気分にはなれない。言っていることを聞きとり、考えるのがやっとなのである。なんだかとても情けなくなってきた。
 萌が私の心情を悟ってか、
「逆のことも言えるんだよ」
「……逆?」
「そう、つまり何もしないのにも責任は付きまとうんだよ。なんで何もしなかったんだろうってね。同じ責任が付きまとうんなら、後悔しない方がいいと思わない? ……今、無理に引き受けなくてもいいんだし。ゆっくり頭冷やして考えたら?」
「おう、俺はいつでもいいぜ」
「……ありがとうございます」
 そこへ警部の注文が運ばれてきた。私たちの前に置かれているサンドイッチと自分の定食とをしげしげと見並べる。そして、
「足りるのか? それで」
 と心配そうに言ったのだった。

 萌と私は無言のまま、通りを歩いていた。ちらっとときおり横顔を窺うものの、逆光でその表情は解らない。
 コンビニエンス・ストアの角を曲がると雑居ビルが見えてきた。この一階が「我が家」である。地下一階のジャズ喫茶からは「Fly Me to the Moon」の甘ったるいメロディが聞こえてきた。それに耳を傾けながら中に入ると、打ちっぱなしのコンクリートの壁が目に入ってくる。
 ここのエレベータは大丈夫だろうか。そう通る度にいらぬ心配をしてしまう。ぼろい上にメンテナンス上の問題が取り沙汰されたS社のものなのだから無理もない。ポストを開けたが、入っていたのはピンクチラシくらいである。家賃が安い貸し事務所だから文句は言えない。
 そもそも社長という名前こそ聞こえはいいが、もともとは同人ゲームのサークルがずるずると成り行きで法人化したものである。しかし現実はそんなに甘くない。台所は火の車で、大手の同人ゲームメーカーへの技術的なアドバイス、テストなどを行ったり、ゲーム以外のソフトを製作したりしているもののそれでも苦しい。
「はぁ」
 という溜息とともに私はドアを開けて、電気を点けた。まず目に入るのが中央にあるコーヒーテーブルと、それに向かい合わせて置かれているソファである。そしてその後ろには本棚が聳えていた。隅に置かれた机には本やら顧客名簿やらが積み重なって、ほんの少しの衝撃で崩れてしまいそうだ。萌はそれを見て苦笑した。そして片づけようかと迷っている様子だったが、ソファで静かに音楽を聞き始める。
 私は山を崩さないように気を付けながら木箱を取った。そしてそこから錠剤を一つ取り出すと、ぐったりと倒れ込んだ。しばらくして薬が効いてきたらしく、段々と眠くなってきて、それとともになんでこんなことで……、と悩みがちっぽけなもののように思えてくる。
「何もしないのも責任が付きまとう、か」
 と萌が言った台詞を繰り返してみて、やってみよう、と心に決めて、ケータイを取り出した。コール音の後に警部が出て、
「おう、腹は決まったか?」
「はい」
 萌はイヤホンを外すと、心配そうに目を向けた。私の決意を話すと、
「そうか」
 警部は弾んだ声で言った。本当にこれでいいんだろうか? 心の隅では一瞬思ったものの、頭を強く振ってその考えを振り払う。これでいいんだ。
「それでだな、事件は……」
 興奮して矢継ぎ早に事件の顛末を詳しく説明しようとするが、薬が効いてきてとても聞けそうにない。
「ひとまず疲れたから休ませてください」
 そう言うと警部の返答を待たずに電話を切って、そのまま横になる。「おやすみ」とまどろみの中で、萌の唇が動いたような気がした。これは夢の中のできごとだろうか? 遠のく意識の中でそんなことを思っているうちに目蓋が重くなる。
 ドアの閉まる音が遠くで聞こえた。

二、捜査

 翌日、私と警部は地下鉄駅から出て、敦夫が死んだアパートへと向かっていた。真正面のバス通りにはマンション、スーパーなどが立ち並んでいる。小劇場が近くにあり、アーケードの下には五台のタクシーが止まっていた。客は少ないらしく、ドライバー同士は雑談をしている。車や子供を幼稚園へと見送る母親の姿が見られた。私が、
「それで、事件のあらましを教えてくださいよ」
 と言うと警部は手帳を胸ポケットから取り出した。黒い革の手帳はすっかり年期が入っている。数週間前のことなので手間取っているらしい。ぱらぱらとめくって探していたが、やがて見つけ出すと読み上げた。
「第一発見者は飯島清一郎、六十三歳。飯島国明の父親だ」
「それで何で行ったんですか?」
「あんなことをした理由を知りたかったらしいな。まぁよくある話だ」
「偽装の可能性は?」
 警部は声を潜めて、
「それが、公式発表ではないことになってるが、俺は引っかかる点もあってな」
「どこがです?」
「誰かが手袋をしてここに入ったらしくてな、その痕がたくさん見つかった。遺体に手袋はもちろん付けてない。ただ索条痕以外は外傷が見つからなかったから、俺も引き下がったんだが。……あぁ睡眠薬も検出されなかった」
 ということは勢いで殺してしまって、困った犯人が自殺に見せた線は少ない、ということになる。加えて、意識を失わせて吊るした線もない。もっとも、自殺に見せかけるのなら首吊りなんて面倒な方法は取らないだろう。世の中には投身自殺やガス自殺などもっとスマートな方法がゴマンとあるのだ。
「解りました。それで鍵は開いてたんですか?」
「ああ、清一郎の話だとな」
「遺書は見つかったんですか?」
「いや、まだだ」
「飯島さんの方はどうだったんですか?」
「ほれ」
 そう言うと二枚の写真を手渡した。チェック柄のシャツを着た男性がうつ伏せで倒れている。腹には血溜まりができていて赤く生々しく染まっていた。二枚目はワンピースを穿いた女性で、こちらは胸に包丁が突き刺さっている。よほど恨みがあったのか、それとも一回では死なないと思ったのか、何度も刺されているようだった。
 ということは国明を刺してから美佐を刺したことになる。
 しかし凶器を持ち去らずに逃げている、ということは本来殺すつもりはなかったということか。
「田中さんはどっちが目的だったって言ってましたか?」
 私が訊くと、
「それが何も言わないで自殺しちまったんだよ。それで俺が今頭を抱えてるってわけさ」
 と言って、吐き捨てるように、
「一部の記者は行きすぎた取り調べが原因なんてデタラメならべやがって」
 と呟いた。私は苦笑して、
「大変ですね」
「全くな……こっちだ」
 そう言うと、横に折れて迷路のような路地裏に入った。小さな公園や古い家があって閑静な住宅街である。動くものといえば、素早く通り過ぎる黒猫と青いネットを難なく外して食いちらかすカラスばかりだった。
「ここだ」
 指さされた先を見ると、今にも崩れそうなアパートが建っていた。本来なら「コーポ」と書いてあったはずの文字が消えかかっている。
 すっかりさび付いた螺旋階段を上がって二階に行くと、警部は扉を開けた。201と書かれた茶色いドアである。入ってすぐ左手のドアをそっと開けてみると、薄汚れたトイレが見えた。あまりの臭いにバタンとドアを閉める。見ない方がよかった……。警部はにやにや笑いながら、
「お前とは同じだな」
「ここまでひどくは……」
 と言って先に進む。ただでさえ狭い八畳の部屋であるが、布団が真ん中にデンと構えていて、余計に狭く見えた。枕元には扇情的なパチンコ雑誌が積まれている。正面には申し訳程度のベランダがあり、五つのハンガーが並んでいた。貧乏な一人暮らしなので、服はそう多く持っていなかったんだろう。
 隅に置かれた机には煙草とライターが置いてあった。手袋を探そうと引き出しを丁寧に開けても、何も見つからない。ということは強盗を計画したはいいものの、家に置き忘れたという間抜けな犯人ではないということだ。警部にも確かめるが、首を振った。
 私は憮然として転がっている椅子を指差して、
「田中さんはあの椅子に登って首吊りを?」
「そうだ」
 警部は頷くと、写真を取り出した。私は写真を借りて椅子の近くまで歩いていく。不精髭を生やした若い男が横たわっているのが写っていた。首にはロープが巻かれていて、くの字に折れ曲がって死んでいる。警部はせっつくように、
「なにか解ったことはないか?」
「そう……ですね」
 と言って辺りをゆっくりと見回した。
「自殺するときくらいは身の回りを片付けましょう、という教訓を学びましたよ」
 警部は仏頂面で、
「下らん冗談は止めろ」
「……ところでこの線は何なんでしょうか? 二、四、六……十二本ありますね」
 机の上に黒い直線が描かれていた。まるで何かメモ用紙でも置いてあったかのようにピタッと始まりが揃っている。警部は眉根を寄せて、
「本当だな。こんなもん報告は受けてないぞ」
「まぁ自殺だと思って気が緩んだんでしょう」
 警部は顔を近づけて、
「鉛筆……だな」
「多分そうでしょうね。黒炭です」
 と言いながら机の上に置いてあるペン立てを見回した。隣には電動式の鉛筆削りが置いてある。おかしいな……と心の中で呟く。ボールペンばかりで、鉛筆は一本もないのである。念のため鞄からデジタルカメラを取り出すと、机回りを映した。
 ボールペンでも線は残るのだろうか? さすがにここで再現をするわけにはいかないから、後で我が家の机で実験してみよう。ついでに4Bから4Hの濃さを買ってきて、どの種類かを調べる必要もありそうだ。問題の線を撮り終えると、萌にメールを送る。大学の購買部で買ってきてもらおう。それにしても誰が何の目的で持ち去ったんだろう?
 机の下に手がかりはないかと机の下にもぐると、わずかにする木の匂いとともにカビ臭さが鼻を刺激した。証拠品を吹き飛ばすかもしれないと思い、くしゃみをこらえながら調べていく。何やらコツンと硬いものが手に当たるが、暗がりでよくは見えない。どうやら小さい円錐形をしているようだ。そこでいったん机の外に出て、掌に乗せる。チョコレートだろうか? と考えて首を振った。もしそうならとっくに溶けていて蟻が群がっているはずだ。子供のころ見たことがあるような気がして、記憶をたどる。そうだ、鉛筆の芯だ! 最近ではパソコンとボールペンばかり使っているのでさっぱり解らなかった。私は興奮して丁寧にティッシュに包むと鞄にしまう。床に手を這わせると他にも何個か落ちていた。
 怪訝そうな顔をして警部が顔を覗きこんで、どうしたのかと尋ねた。私は微笑して、
「何でもありません」
 警部には悪いが、彼はこうと思い込んだらそれ以外には目が向かなくなるところがある。他殺を思わせるような証拠は確信が持てるまで隠しておくことにしたのだった。
「ちょっと一服してくる」
 と言うと警部は煙草を吸おうとベランダまで出た。喫茶店では堂々と吸っていたのにこういうところではこそこそ吸うのは蛍族の悲しい習性だろうか。そう思っていると、すぐにベランダから戻ってきた。少し興奮しているのか頬が紅潮している。
「ど、どうしたんですか?」
「あそこに清一郎が立っていたんだ。目が合いそうになって慌てて戻ってきたんだが……」
 なんだって? 私もベランダの外に駆け出して、辺りを見回した。確かに六十くらいの男が立っていて、こちらを見据えている。建物の影になっていてよくは見えない。しかし、辺りをはばかるように見回している。何か後ろめたいものでもあるのだろうか? カーテンを締られなくて歯がゆい気持ちになる。
 私は警部を部屋の隅まで引っ張っていった。そして声を押し殺して、
「何でこんなところに……」
 警部はぶっきらぼうに、
「俺に訊くな」
「とにかく下に降りてみましょう」
 と私たちは扉も閉めずに階段を駆け下りた。

 普段、家にひきこもってパソコンばかりしているのがいけなかったらしい。私が自分から外に出ることと言えば、近所のコンビニエンス・ストアでご飯を買いに行くときくらいである。そんなわけだからちょっと走っただけで息切れを起こしてしまった。私はマンションの駐車場の車停めに腰を下ろして息を整える。
 ふと生け垣を見ると、ツツジの間からひっつきむしが顔を覗かせていた。そしてその下を見ると吸殻が散乱している。警部はそんな私を残し、
「ちょっと辺り見てくる」
 と溜息混じりに言うと、路地の奥へ姿を消した。こんなことで息が上がる私を見てだらしないと思っているのだろうか。あるいは怪しい人物を取り押さえられなかったのに対して、警察官としてのプライドが傷付いたのかもしれない。
 正直、周りを探しても見つかるとは思わなかった。警察に姿を見られそうになったのにその場にいるのはよほどのバカだろう。タクシードライバーか近所の人に話を聞いた方がいい。そんなことをぼんやりと考えていると、警部が戻ってきた。
「いないな。気付かれたらしい」
 そうぼやきながら、缶コーヒーを買うと私へ放る。私は落としそうになりながらもキャッチした。一口飲むと独特の酸味と鉄の味が口いっぱいに広がり、そのまずさに顔をしかめる。私は小説に熱中しすぎてコーヒーを長い時間煮たことがあるのだが、そのときの味と似ているのだ。この思い出もまずくさせている原因だろうか。しかしせっかくの厚意をムダにするのも気が引けた。
 私は一気に飲み干すと、吸殻を一つ摘まみ上げて、
「ここにかなりの時間いたみたいですね」
「ああ、そうだな」
 そのとき、マンションからどやどやと大きい話し声が聞こえた。目を上げると太った主婦と痩せた主婦がマンションから出ているのが見える。どうやら稼ぎの悪い亭主について愚痴をこぼしているようだ。
「あの人に話を聞いてみましょう。近所の噂は主婦に聞くのが一番いい」
 戸惑いながら警部は、
「あの太った方にはもう話は聞いたぞ。名前は確か……古川、古川朋代。ま、あんまり役には立たなかったがな」
「まぁ見てて下さい。……警部はどこかに隠れてた方がやりやすいんですが」
 と言うと、不服そうながらも頷いて電柱に身を隠した。私はそれを確かめると、駆けていった。
「あの、すみません」
 痩せた主婦が、
「はい」
 朋代は探るような目付きで見つめた。私は愛想笑いを浮かべて、
「フリーライターをしてる者ですが、ここで先日あった自殺について調べてるんですよ」
 彼女は警戒を崩さなかったが、身を乗り出して、
「そうそう、強盗した人でしょ」
「恐いわよね」
 と痩せた主婦は横から口を挟んだ。私はメモ帳とボールペンを取り出すと、
「どんな感じでしたか?」
「どんな感じって言われても……、割と大人しい性格でしたよ」
「そうそう、そんなに悪い人には見えませんでした」
 痩せた主婦が言う。
「でも生活は苦しかったみたいよ、奥さん」
「そうなの? 全然知らなかった」
 と言うと朋代は自慢げに手を振って、
「そうよ、あの人は服なんか五着しか持ってないみたいだったし、それに前にスーパーで会ってたんだけどね」
 とわざと言葉を切って辺りを窺う。そんなにもったいぶらなくても……。私は心の中で溜息を吐きながらも彼女の自尊心を満たすために乗ることにした。身を乗り出して、
「どうしたんですか?」
 と訊くと、案の定、
「財布の中見えたんだけど、それが万札一枚もなかったのよ」
 大袈裟に手を振る。さっきの警戒心はどこに消えたんだろう?
「それじゃ生活に困ってあんなことを?」
「多分ね」
「じゃあ私が見かけたのも、それかしら」
 痩せた主婦が言うのを聞いて、朋代はちょっと不機嫌そうになる。いつも会話の中心にいないと気がすまないらしい。
「見かけた? それはいつですか?」
 もしかしたら事件と関係あるかもしれない。そう思うと朋代には悪いが興奮を隠し切れなかった。
「三日だから、事件のあった日ね。刑事さんには話したんだけど……、かなり思い詰めた顔をしてたからどうしたんだろう? って思ったの。でも私も幼稚園に子供を送り出してて急いでたから、そのまま行っちゃったの。あのとき、声を掛けてれば、と思うと……」
 痩せた主婦は顔を曇らせて首を振った。朋代は遮って、
「奥さんは悪くないわ。結局、あの人の心の弱さだったんだし、パチンコに熱を上げてたから私に言わせれば自業自得よ」
 よほどパチンコに恨みでもあるんだろうか? 強い口調で彼女は言った。そういえばパチンコ雑誌があったことを思い出す。
「ちなみにどこのパチンコ店だったかご存じですか?」
「さぁ、そこまでは」
「ちなみに今、パチンコに熱を上げてたと言いましたよね。どうして解ったんですか?」
「……近所での噂よ」
「なるほど。解りました」
 痩せた主婦が喋り足りない、と言いたそうに、
「もういいの?」
「ええ。ありがとうございました」
 と手帳をパタンと閉じて鞄の中にしまう。朋代は、
「ねぇ、記事になるの? どこの週刊誌?」
「さぁ、まだ解りませんが、私も記事が採用されないとお金がもらえませんから頑張りますよ」
「いくらくらい貰えるの?」
「ピンきりですね。千円のものから二十万くらいのものまで」
 二人は感心しきった表情で聞き入っている。
「この後、現場のアパートを見て記事にしますので」
「頑張ってね」
 ありがとうございます、と朋代たちを愛想笑いで最後まで見届けた。警部に向かって手招きをすると辺りを窺いながらそろりと警部は出てきた。そして驚いた顔で、
「俺のときはあんなに詳しく話さなかったぞ」
「警察が行くとどうしても身構えてしまうんですよ。だからフリーライターって名乗ったでしょう?」
 警部は苦笑して、
「あれはやりすぎだ」
 私は済ました顔で、
「ウソは吐いてませんよ。僕だってネットで自由に記事を書いてるんですから」
「そんなこと言ったらみんなフリーライターになる。……さて飯島の診療所の場所は押えてあるから締め上げるか」
 そう言って缶コーヒーを一気に飲み干すと、伸びをしたのだった。

 診療所は歩いて十分くらいのところにあった。途中で保育園を見つけ、懐かしさの余りちらりと覗く。教会が営んでいるらしく、十字架が見えた。立て札もあり、今週の言葉として「医者よ、汝自身を癒せ」と書かれている。もっと子供にも相応しい言葉を選べなかったのだろうか。そんなことを考えながら子供のはしゃぎ声を背に道を進んでいくと、街路樹の枝を切っている男性が目に映る。
「田中さんが自殺したときの清一郎のアリバイは? さっきは急だったので訊きそびれたんですけど……」
「というと四時から六時だな。診療中だった。複数の看護婦から裏も取れてるぞ」
「田中さんを恨んでる人物は?」
「飯島家だろうな。でも殺された国明の母親、房枝も診療所にいた」
 などと話していると、やがて「いいじま心療内科」という緑色の看板が見えてくる。いやでも目に付かざるを得ない大きさだ。建物は白くて近代的で雰囲気を醸している。駐車場にはクラウンが停まっていた。院長の車だろう、と車を覗き込むと真白いシートが見える。その上には黒い鞄と雨具が置かれていた。フロントガラスにはカエデの葉をかたどった芳香剤が釣り下げられていて、カナダの国旗を思い起こさせる。
 患者のプライバシーを守らなければ、と考えているのだろう。診察室の窓はブラインドが下ろされ、外からは中の様子を窺い知ることができない。隣には薬局があり、そこもブラインドが下りている。
 自動ドアをくぐるとゆったりとしたクラシック音楽が聞こえてくる。自然色の蛍光灯が院内を照らしていた。受け付けでは三人の看護婦がいて、忙しげにキーボードを叩いたり、電話で話していたりしている。奥にはパソコンがあり、「インターネットスペース。自分探しにお使いください」と書かれていた。それを見た警部は、
「ここの病院はサービスがいいんだな」
 と目を丸くしていた。私は、そうですねと適当に相槌を打った後、
「……早く本題に」
「ああ、そうだった」
 と受け付けで警察バッヂを見せると、看護婦たちの顔が強ばった。
「あの、何か?」
 院長に会いたいと私が低い声で言うと、看護婦の一人が甲高い声で、
「き、訊いてみます」
 とバタバタと駆けていった。やがて診察室に通されたのだった。

 診察室は八畳の広さだった。こちらは待合室とは違い、真白な光が目に眩しい。壁の白さに反射されているからなおさらである。机の上にはパソコンが一台と医学書が置いてある。ペン立てにはTと掘られていた鉛筆が置かれていた。
 警部が患者用の椅子に座ると、さっきの看護婦が木の丸椅子を運んできてくれる。私は頭を下げると、どういたしましてと言うように微笑んだ。しかしその折にササクレで指をケガしてしまったらしい。引き出しからバンドエイドを取り出すと、また仕事に戻る。清一郎はそれを横目で追いながら、足を組んでうんざりしたように、
「あなたですか。あの事件は自殺じゃなかったんですか?」
「自殺だったんですが、気になる点が出てきましてね」
 警部が言うと、清一郎は溜息を吐いた。
「自殺ならいいでしょう。私の患者でもあるまいし。……それで遺書には何と書かれてたんですか?」
 警部は咳払いをして、
「まだそれは何とも言えませんな」
 ふんっと鼻を鳴らして高飛車に、
「なら遺書を探すべきだ。こんなところにこられても何の解決にもならん。違うかね」
 と言うと、立ち上がって出ていこうとする。私は慌てて、
「あなた、さっきあそこにいましたね」
 と言って清一郎の顔付きを窺った。彼は一瞬顔を曇らせたが、煙草に火を点けると背もたれにもたれ掛かる。私たちに表情を読み取られたくなかったんだろう。
「いや? どうしてそう思うのかね」
 苛々しているんだろう。奥歯で強く噛んでいる。警部は得意げに、
「吸殻ですよ」
「なるほど、しかしそれは死体を発見したときだけだ。そのときの吸殻だろう」
 と反論されて、口ごもる。私が後を引きついだ。
「新しい吸殻と古い吸殻が混ざってました。つまりあなたは二回行ったことになるんです」
「しかし他の人かもしれない」
 呻くように清一郎は言った。私は拾った吸殻をおもむろにポケットから出すと彼に吸口を指し示しながら、
「確かに。こんな風に歯形を残して吸う人が他にいれば、の話ですけどね」
「……あぁ、確かにあそこへ行った」
「今日行ったんですね」
「どうしてそんなことが言える?」
 清一郎のズボンを指し示し、
「それ、ひっつきむしですよね。僕も子供のころ、取るのに苦労しましたよ。でもどこでついたんでしょうね。職業柄、服は毎日洗われるでしょうし、今日ついたのは間違いない」
 服についている小さな緑色のものを見てはっとした顔になったが、しばらく考えるかのように天井に目をやる。ひっつきむしは山や野原では多く見られるが、街中ではあまりない。おそらく種が服について迷惑するからだろう。どこにでもあるものだと反論したらそのことを指摘するつもりだった。どう出るだろう?
「……ここにくるまでの間、あそこで子供がケガをしていたんだ。そのとき手当してる際に付いたんだろう。そのときに一服したんだから」
 そう言いながら、ひっつきむしを丹念にとってゴミ箱に捨てる。
「なるほど。でもあなたは内科でしょう?」
 むっとしたように、
「バンドエイドを巻くくらいだったら誰でもできる。いつも持ってるしな」
「ならなんでさっきあの看護婦さんがケガをしたとき、バンドエイドを差し上げなかったんですか?」
「最後の一枚だった」
「いや、あなたはバンドエイドを持ち歩いてはいないんです」
「どうしてそんなことが?」
 私はさっきの看護婦を呼び止めて、
「ねぇ、なんでさっき先生にもらわなかったの? バンドエイド」
 どう答えようか清一郎の顔つきを窺っていたが、意を決したようだ。緊張のせいで小声になるがはっきりと、
「先生は普段、持ち歩いてないからです」
 と聞き取れた。私は彼女の正義感を賛えると、清一郎に向き直って微笑んだ。
「ね?」
「……確かに今日、あそこに行ったのは認めるし、ケガをした子供もいなかった。しかし……」
「なんのために?」
 私は間髪入れず訊いた。反論を許したらその間に体勢を立て直すに違いない。かといって、あそこで何をしようとしていたかまでは解らないのである。行っただけで罪になるのかと問われれば私たちは引き下がるしかない。不安をできるだけ顔に出さないようにした。
「なぜお答えしなければいけないんですか?」
 鬱陶しそうに手を振って、
「もういいでしょう。患者をこれ以上待たせるわけにはいかない」
 そう言うと立ち上がってすたすたと去って行ってしまったのだった。

 彼をパチンコに溺れさせたものは一体なんだったんだろう? とぼんやりと考えながら少し坂道を上がるとバスターミナルが見えてきた。この辺りはファストフード店が立ちならんでいる。中を覗くと学校をサボった高校生がたむろしているのを見つけて、警部は眉を潜めた。
 その横にはパチンコ屋があって、中からしている球のじゃらじゃらという音と派手な音楽が聞こえてくる。
「ここが田中の行きつけの店だったようだ」
 自動ドアをくぐるとますますその音が大きくなる。巣箱が列をなして並んでいるようだった。隣にいる警部の声ですら声を張り上げてもらわないと聞こえない。こんなところに来る人はどんな人だろう? とそっと人々の顔を見ると、みんな不機嫌そうな顔をして、台に向かっている。まるで工場で働いているようだ。
「チクショウ!」
 と口惜しそうにぼやくのが聞こえてきて。どうやらみんなここに来ると大金持ちになれる、と幻想を抱いているらしい。彼もそんな一人だったのだろうか。そう思いながら、
「すみません」
 と体格の大きな若い店員を呼び止めた。さっきは髪で隠れていて見えなかったのだがインカムをしている。私にはそれが耳栓のように思えて仕方がならなかった。
「ここに田中敦夫さんという方はお見えでしたか?」
 と訊くと警部は気を利かせて、
「この男なんですけど」
 店員は眉をひそめて面倒そうに、
「田中……さんですか。放送でお呼びしますか?」
「いや、結構です。見たことはないですか?」
 店員は首を捻って、首筋をポリポリ掻きながら、
「さあ……? 見たことはあるかもしれませんが、毎日たくさんのお客様がいらっしゃいますので、顔までははっきりと覚えてないんですよ。よっぽどの常連さんか特徴のある人でないと……」
「なるほど。念のため他の方にも訊いて頂けますか?」
 と写真を手渡した。きょとんとした顔で
「別に構いませんけど……」
 と言うとのろのろと奥に消えていく。まるで歩くのが面倒そうな足どりだと苦笑しながら自動販売機の隣にある椅子に腰掛けた。
「考えてみれば奇妙ですよね。袖と袖がくっつきそうなのに、どこの誰かも知らないんですから」
 私は半ば独り言のように呟いたが、そんな私の声は警部の耳には届かなかったらしい。苛々した様子で煙草に火を点ける。恐らく何か新しい糸口が見つかるかどうかと店員が去った後の通路を眺めている。私も淡い期待を抱きながら見つめた。
 きていた、と言う証言だけじゃいけない。何か事件に関わるような話である必要があるのだ。そういうことを考えると警部には悪いが望み薄だろう。まぁあの店員がこないことには何も進まないのだが。
 そんなことをぼんやりと考えているうちにさっきの店員が若い女の店員を連れてのろのろとやってくる。警部は脇の灰皿に煙草を投げ込むと、すっと立ち上がった。
「あなたは?」
 茶髪でロングヘアのほっそりとした女性店員に微笑みながら尋ねる。年は二十代後半から三十代前半だろう。国吉というネームプレートが誇らしげに胸で光っていて、インカムのコードが顔を覗かせていた。
「私、この方がお客さんと言い争っているのを見たことがあるんです」
「ほう!」
 私は意外な掘り出し物に思わず叫ぶ。警部が、
「それはいつのことでしたか?」
「さぁ、九月の終わりくらいじゃなかったかしら?」
「もっとはっきり覚えてません?」
 私が言うと、国吉は苦笑を浮かべた。
「そこまでは……あの、ここではなんですから休憩室まで」
 ただごとではないと感じたのか、客の一人がチラリと目を上げる。しかし「リーチ!」という声がかかると、食い入るように見入ってしまった。

 通された休憩室は店内とはまるで別世界のように静かだった。しかし煙草の匂いが充満して、咳き込んでしまう。パチンコ店は騒音地獄かアウシュビッツ並みの毒ガス地帯らしい。
 できるだけ毒ガスを吸わないように下を向いて歩くとリノリウムの床に蛍光灯が反射していた。奥には男女別の更衣室が、隅には自動販売機と流し台があった。真中にはテーブルが四つ置かれていて、それを囲うようにパイプ椅子が並べられていた。三人の従業員が座っていて、うち一人は煙草を吸いながらグラビア雑誌を見て鼻の下を伸ばしている。二人は野球の話で盛り上がっていたが、話を止めてちらりと窺った。壁のコルクボードには人相書が貼ってあってそれと照らし合わせているようである。
 違うと解るとまた野球の話に興じ始めた。
「おかけ下さい」
 と国吉は椅子を薦める。別の従業員が私たちにコーヒーを運んでくれた。
「ありがとうございます」
「それで先程の件ですが、もっと詳しく教えて頂けないでしょうか?」
 警部が言うと、戸惑いながらも頷いた。
「わたしも詳しくは思い出せないんですけど」
「もちろん思い出せる範囲のことで構いませんよ。それで口論を聞いたのはいつだったか覚えていませんか」
 警部がそう言うと、思い出すように宙を見上げた。が、やがて力なく首を振った。やはり日付までは覚えていないらしい。それも無理もないことである。ダメだったか、と落胆していると何やら閃いたらしい。顔色がパッと明るくなった。
「あっ、ちょっと待って下さい。あそこに書いたかも……」
 そう言うとケータイを取り出して、手慣れた手つきで操作し始めた。警部が怪訝そうな顔をして囁いた。
「何をしてるんだ?」
「恐らく自分のブログを見てるんでしょう」
「ブログって日記を公開するアレか?」
「まぁ、そんなもんだと思ってもらえればいいかと」
 インターネット世界に疎い警部には詳しく話しても解ってもらえないだろう。
「それにしても何で日記なんて公開するんだ? 俺には理解できん」
「理由は一口には言えないんですけど……。僕みたいに商品のプロモーションに使っている人もいれば、誰かと繋がっていたいっていう思いからブログを書く人もいますし。最近は専門的なものも増えてますよ」
 国吉が私たちの会話の切れ目を待っているらしく、しきりにチラッと私たちを窺っていた。私はそれに気が付いて、
「どうでしたか?」
「九月二十一日だったみたいです」
 私は警部と顔を見合わせる。二十一日と言えば事件のあった日なのだから無理もない。関係あるのだろうか? それとも偶然だろうか?
「か、顔は覚えていますか?」
 私が言うと力なく首を振った。
「いいえ。でも女の方でした」
「いくつぐらいでしたか?」
 苛々した様子で警部が口を差し挟む。私は後を引き継ぐことにした。
「さぁ、そこまでは」
「年配でしたか? 中年? それとも若者?」
「中年の方だったような気がしますけど……。すみません」
 俯いている国吉に警部は優しく声を掛ける。
「いえいえ、私どもの方が無理を言っているんです。何せ二週間も前のことを思い出させようとしてるんですからね。それで口論の内容は?」
「お金のことだと思います。十万がどうとか言ってましたから」
「なるほど」
 と言ってコーヒーを一口啜ると立ち上がった。
「どうもありがとうございました」
「お役に立ちましたか?」
 国吉が立ち上がると心配そうに言う。私は微笑んで、
「ええ、とっても」
 と手を差し出して別れを告げる。国吉は戸惑いながらも握り返した。そして口論の相手は誰なんだろう? そう思いを巡らせながら事務所の冷たいドアノブに手を掛けたのである。

 私はパチンコ店を出ると警部に尋ねた。バスターミナルでは二台のバスが停まっていて、乗ろうとする人たちが列を作っている。私は彼らの横を通りながら、
「どうやって見つけますか?」
「そうだな」
 と考え込む。普段なら多くの部下を使って、虱潰しに探すのだろう。しかし今回の場合はあくまでも警部の個人的な疑問から出発した案件なのである。どうしたものだろうか、と考えていると誰かの気配を感じて、後ろを振り向いた。
 誰かがこそこそと隠れるようにして歩いている。警部はとっくに気が付いていたらしく、鋭い目をして追っていた。いまどき、泥棒でもあんな歩き方はしない。どこかで見たような気がしてならなかった。
「金を貸していた本人がいて、会話を聞かれたんでしょうか?」
「かもしれん。だとしたら居心地が悪くなって出てきたんだろうな」
 声を潜めて答える。悟られていないと知ると、立ち上がって、
「そこにいろよ」
 警部が後ろから肩を叩こうとした。相手は電気で打たれたように身体を震わせると、脱兎のように駆け出したのだ。しかし二十メートルもしないうちに追いつかれてしまい、あっけなく正体がばれてしまった。
 遠巻きに眺めていて、ここからでは見えないのが悔しい。警部の許へ走っていくと、
「誰だったんですか!?」
「見ての通りだ」
 と俯いている顔を上げさせる。古川朋代だった。

「まぁ犯罪にはなりませんから、ここで話を聞きましょうか」
 警部がそうベンチを指したのでパッと顔が明るくなった。警部がでんと構えていて、私も右隣に腰掛けている。ここから抜け出せるのはプリンセス・テンコーも無理だろう。
 そんなバカなことを考えながら、警部が問い詰めるのを聞いていた。どうやら見知った顔にパチンコをしているのを知られるのが恥ずかしかったそうだ。だったらあんなこと言わなきゃいいのに。いや、と思い直す。だからこそパチンコを貶めるようなことを言ったのである。溜息混じりに、
「関係ないんだったらどうして逃げたりしたんですか」
「だって……、ご近所の奥さんだと思ったんです」
 下を向いて、ぽつりと呟く。ふと顔を上げて、
「ねぇ、このことは誰にも言わないで。お願い!」
 と両手で顔を覆うと、
「このことが主人に知れたら……」
 私は苦笑して、
「誰にも言いませんから本当のことを話して下さい」
 心底安心したようだった。
「よかった。このことが近所に知れたら笑い者どころじゃなくなっちゃうから」
「ただし本当のことを話すのが条件ですけどね」
 と私はさり気なく釘を刺した。
「解ってるわ」
「そもそも何でパチンコなんてしてたんです?」
 私は緊張をほぐそうと世間話でもするように聞いた。影のある笑いを作って、
「パチンコをしてるとね、忘れられるのよ。家のローンのこととか、子供の将来のこととかね」
「なるほど。親としては頭の痛い問題でしょうね。ローンのことは解りませんが、お子さんはまだ幼稚園でしょう? そう悲観的になることはないような気がします」
「あなたには解らないんだわ」
 と立ち上がって叫んだ。そして糸の切れた操り人形のようにストンと腰を落とした。朋代の焦りや不安は解るし、親心としてももっともな話である。
「周りはみんな受験、受験でしょう」
「そうですね」
 私は頷いた。
「だから私はパチンコでストレスを発散してたの。いいでしょう? それくらい」
「ええ、もちろん。それで田中さんと出会った」
「そうです……」
「しかし十万は決して安いお金じゃない。どうしてそんなに貸したんですか」
 警部が焦れったそうに口を差し挟んだ。
「初めは一万円でした。パチンコじゃ千円で出てくる球はタカが知れてるし」
 彼は大きな溜息を吐いて頭を掻きながら、
「それを繰り返していくうちに十万になってしまったというわけですか」
「はい。そうです。二十一日に貸してくれ、と言われたんだけど自分自身が恐くなっていて、断ったの」
「それで口論になったんですね。店員さんが覚えてましたよ」
 私は言った。朋代は目に涙を溜めて、
「ええ、その直後に強盗でしょう? 私のせいだと思うと……」
「いえ、そんなことはないですよ」
 そんな言葉くらいでは彼女の心は癒えないだろうが、そう言葉を掛けないではいられなかったのである。朋代は何事か言おうと口を開きかけたが、黙ってそっぽを向いてしまった。やがてぽつりと、
「……でも、あの人も寂しかったみたいよ」
「何か聞いたんですか?」
「いえ、でも何となく空気で解るのよ」
「なるほど。これで知ってることは全て話しましたか?」
 朋代がこっくりと頷くのを見て、私は警部に囁きかける。
「もういいんじゃないんですか? これ以上、知らないみたいですし」
「ああ、そうだな」
 警部も朋代の動きから目を離さず頷いた。彼女は怯えた目付きで私たちを見つめている。警部は咳払いをして、
「もう帰ってもよろしい」
 と塞いでいた道を開けた。朋代は立ち上がると、重い足取りで家路に向かう。しかし心なしか肩の荷が降りたような歩き方である。
 席が開いたのを見て、傍らで立っていた男性が座った。イヤホンからビートルズの「HELP!」が漏れてくる。懐かしそうに耳を傾けながら、警部は大きく溜息を吐いた。
「世間体ってそんなに大事か?」
「解りませんが、人との距離の取り方は試験に出ないでしょうね」
 と私は肩を竦めて呟いた。答えにならない答えを言われて、警部は面食らったように目をしばたたかせる。私は立ち上がると大きく伸びをして、さっきの話を頭の中で繰り返す。敦夫は寂しかったようだったと言った。だとすると原因は何だったんだろう?
 そう考えながらアスファルトに目を這わせると、新聞が落ちていた。どうやらインフルエンザで学級閉鎖が相次いでいるようである。バカ言っちゃいけない。この世にはそれよりも重い病気が大流行を極めているのだ……死に至る病が。

 マンションのエレベータが閉まると、ゆっくりと上がり始めた。それに合わせるように目眩を覚えて、警部の話に集中できない。中は昼間だというのに蛍光灯の明かりだけで、薄暗かった。光を求めて迷いこんできたのだろう。羽の破れた蛾の死骸が落ちていた。
 警部が手帳を読み上げて、
「……に会うのは関口佳奈。ここの三階に住んでてな、田中が包丁を買ったホームセンターで働いているんだ。ま、自殺だったから前回あまり話は聞いてないんだが」
「なるほど、計画殺人か衝動殺人かの鍵を握る人ですか」
 警部は緊張した表情で頷いた。
「それもあるんだが、田中、飯島夫婦と高校が一緒だったらしい。確か二年のころだったと聞いているが」
「そうなんですか。でも何で職場じゃないんですか?」
 少しは考えろと言いたそうだ。鬱陶しそうに手を振って、
「さっきお前さんが地下鉄で便所行っている間に念のため電話したんだよ。そしたら今日は欠勤しているらしい」
「なるほど。でもこれで死んでたら二時間ドラマの展開ですね」
 と言うと苦虫を噛みつぶしたような顔で、
「冗談じゃない」
 それに同意して身震いするかのようにエレベータが少し揺れて停まる。少し高いだけでも見える景色がずいぶん違ってくるもんだ、とドアが開いた時に改めて感じた。しばらく手摺り越しに見下ろす住宅街を眺めながら廊下を歩く。部屋の前で立ち止まると、
「ここだ」
 と警部はチャイムを押した。キレイに掃除されていて埃一つ落ちていない。数秒も経たずにインタホンから素気ない声で、
「どなたですか?」
 警部が名乗ると、ガチャリと音がして扉が開いた。女の子がいるらしい。赤い靴が見えている。チェーン越しに警部の顔を確かめると、探るような目で私を見て、
「あの、そちらの方は……?」
 警部がどう説明したものかと考えあぐねているらしく、言い淀んでいる。それを見て、私は心の中で苦笑しながらも、うやうやしさを装ってお辞儀をした。
「今年から西口さんと組むことになりました有沢です」
 それを聞いていた警部が半ば感心、半ば呆れ顔で小突いて囁く。
「お前、プログラマなんて辞めて詐欺師になったらどうだ?」
 関口は私たちのやり取りを不審そうに見つめながらも、中に招き入れた。

 フローリングの居間は八畳間で、隅には揺りかごで女の子が寝ている。全体にがらんとしているのに気付いて、なぜだろうと考える。が、すぐにその理由に行きあたった。
 真中にちゃぶ台が置かれているだけで、目立った家具がほとんど居間には置いていないのである。流し台とガスコンロ、小さめの冷蔵庫、食器棚が置いてあるだけだ。質素、というよりは子供がいるために置くに置けないのだろうか。
「それで今日は何のご用でしょうか?」
 いかにも私たちを歓迎していないように冷たく言った。警部が、
「田中さんのことで……」
「お話しした通りです。あれ以上、お話することなんてありません」
 顔をそむけて、関口はきっぱりとそう言った。
「もう一度だけ」
「あれは敦夫君の自殺で決まりでしょう」
「それはそうですが……」
「だったら何も調べることはないはずじゃありませんか?」
 警部が押され気味なのを横で聞いていて、
「実はいくつか気になる点が浮上してきたんですよ。それで確認のためにもう一度だけ」
 そう言うと関口は眉間に皺を寄せた。明らかに興味をそそられているが、さっきの手前、あれこれ訊くわけにはいかないんだろう。
「まさか殺されたの?」
 と言うだけだった。私はきっぱりと、
「捜査上の秘密ですからお話しするわけにはいきません」
「……そうですか。敦夫君とは高校時代の友人で、しばらく連絡を取り合ってなかったので解りません。それにそれほど親しいってわけでもなかったですし……」
 警部がにこやかに、
「あの時の様子をもう一度お話しいただけますか」
 と言うと、溜息を吐いた。いったい何回訊けば気がすむんだろうと思っているに違いない。彼女は、
「かなり思い詰めてたみたいで、もしかしたら自殺しちゃうんじゃないかって思ったんです」
「自殺とはまだ穏やかじゃないですね」
 強盗よりはましでしょうが。そう私は心の中で付け加え、
「高校時代はどんな印象を?」
「真面目で大人しい子でした」
「解りました。話の腰を折ってすみません。続けて下さい」
「敦夫君?って声を掛けたんです。そしたらビクッとして振り向きました」
 彼女は昔に戻りたいんだろうか。関口の視線を追うと、そこには子育ての本が摘まれていた。私は視線を戻すと、
「手袋も一緒に買いましたか?」
 もし、手袋も買っていたとしたら殺害する計画があって、当日は忘れただけ……そういうことになる。買っていなかったら計画はしていなかった可能性が高い。もちろん発覚を怖れるために手袋と包丁を別々の店で買った、とも考えられうるが。
 しかし、関口の証言から考えるとそんなことを考えられる心の余裕はなかったはずだ。それに犯行計画を立てるなら高校の同級生に声を掛けられた時点で包丁は買わない。そのときは逃げるに決まっている。
 でも包丁を買っている。ということは犯罪で使おうとしたわけではないのだろうか。だが実際に彼は強盗を犯してしまっている。その間に何があったんだろう? そんな思いで関口が答えるのを待っていた。
「手袋……ですか? いいえ、包丁だけでしたよ。売らない方がいいのかな、と迷ったから覚えてます。それに知り合いですし」
 親しくなかったと言っていたことからあまり期待できそうにない、と思いながらも、
「プライベートな面で……例えば悩みとか……は?」
「あまり詳しくは知りませんけど、昔彼女のことが好きだったみたいですよ」
「ほう!」
 私は思わず声を上げた。その時、曇っていた空が急にパーッと明るくなって、陽の光りが差し込んでくる。ちゃぶ台にそれが反射して眩しい。それを感じたのか、関口は立ち上がるとブラインドを閉めた。私は礼を言うと、関口は座りながら、
「ただ当時、美佐……いえ木田さん、いえ、飯島さんは男の人に対して微妙な感情を抱いてたみたいなんですよ」
 木田というのは美佐の旧姓だろう。彼女も混乱しているらしい。
「美佐さんの名前は呼びやすいものでかまいませんよ。高校生は今を生きるのが精一杯ですし、無理もないことだと思います」
 と私が言うと、彼女がぽつりと呟くのが聞こえた。今でもそうですよ、と。彼女は慌てて取り繕うかのように、
「愛情表現が苦手だったんでしょうね。いい娘だったんですけど、男子に対してキツいこと言ってましたよ。昔、酷い振られ方したんだと言ってました」
 男性に対して信じたい気持ちと不信感との狭間で揺れ動いていたようだ。キツいことを言っていたのも恐らく、どこまで言ったら怒るのか試していたんだろう。もしかしたら怒ってくれる〈父親〉を求めていたのかもしれないし、あるいは何か劣等感を抱いて強がりが表に出たのかもしれない。とここまで考えてフロイトの読みすぎだと自嘲しながらも、
「家庭内のことで何か話されてました?」
 と仮説を確かめずにはいられない。
「いえ、それがあまり話したがらなくて、いつも煙に巻いてしまうんです。お母さんの話はしてましたけど、お父さんの話はしていた覚えはありません」
「それは確かですか?」
「ええ、私ずっと母子家庭だと思ってたくらいですから。大学時代まで」
「大学時代になってようやく話し始めた?」
「ええ」
 ということは大学時代に父親に対して何かあったのだろうか。思春期が終わってようやく〈父〉を受け入れられた、と考えられる。しかし父親の悪口を言っているうちはまだ心の奥底では愛情があるのだ。本当に嫌いな相手なら話題にも出さない。
 じりじりして警部が私の質問を遮った。
「田中さんは結婚のことは知ってたんですか?」
 一方、警部は痴情のもつれが原因だと見ているようである。関口は首を横に振って、
「知らせてなかったはずですけど」
「それはどうして?」
「だって惚れている相手に結婚を伝えるのは可哀想でしょう?」
 そのままずっと惚れ続けている方が可哀想だと思うのは私だけだろうか? そう思いながら、私は頷いた。
「そうでしょうね。ちなみにご主人とは親しかったんですか? 四人とも高校時代の友達とのことですが」
 関口は身を乗り出して、
「飯島先輩はすごくいい人でしたよ。相談に親身に乗ってくれましたし……。ただ構いすぎるのが珠に瑕でしたけど」
「構いすぎる?」
「ええ、誰かを助けずにはいられないっていうか……、そんな印象を受けました」
「それは正義感が強いとかではなく?」
 警部の質問を聞きながら、私は国明に親近感を覚えると同時に嫌悪感をも抱いた。救済したいんじゃない。救済している自分に酔いしれているのである。そうしないと孤独から守れないんだろう。そしてその負の気持ちは私自身にもあると気付くのに時間は掛からなかった。
 しかしこの考えを口に出すと関口から有力な情報は聞き出せなくなるかもしれないし、またわざわざ言う必要もない。
「それじゃあ人間関係のトラブルはなかったんですね」
 と確かめるだけに留めておいた。
「ええ、なかったと思います。ただ美佐の方は……」
 と言葉を濁した。友人である被害者を悪く言いたくない気持ちと、真実を話さなければという責任感が交錯しているんだろう。曖昧な笑みを浮かべる。私は、
「田中さんにもキツい態度で接していた?」
「だと思いますけど」
 敦夫の名前が出ると再び表情が険しくなった。真犯人に敦夫は殺された……。そんな淡い希望を初め抱いていたに違いない。しかし私たちの質問に答えていくうちに敦夫がその希望は崩れたんだろう。その落胆と怒りを押し隠そうと、立ち上がって私たちに背を向ける。肩を震わせて、
「もう帰って下さい。普通の生活に戻りたいんです」
 私たちは何も言えずに出て行った。するとすすり泣く声が聞こえてきた。

 飯島の新居は2LDKのマンションだった。二人で働いていれば贅沢をしない限り不自由しなかっただろう。きっと返してもらえるという保証がつけば、工面はできたかもしれない。そんなことを考えながら惨劇の跡が生々しく残るダイニングキッチンを見ながら写真と照らし合わせる。
 結婚祝だろうか、持ち主を失った空のベネチアグラスが寂しそうに並んでいた。その横には小さい抽象画が飾られている。
 私は違和を抱いた。襲いかかったにしては血の飛沫が少ないのである。何か被せられていたんだろうか? 別の場所で殺して遺体をわざわざ運び入れたとは考えにくい。
「どうした?」
 私の疑問点を説明して、嘱託医の所見はどうだったのか訊いた。
「そう言われてみればそうだな。でも何も言ってなかったぞ。考えすぎじゃないのか?」
 それにうつ伏せで倒れていたのも引っかかる。私は持ってきたボールペンで人を刺す仕草をしてみた。腹部を刺され、うつ伏せになるような条件はただ一つ。被害者が追い詰められて、壁を背にしたときだけなのだ。
 警部はそんな私をとち狂ったかのように……実際、理由を知らない人から見ればそう映るだろう……眺めて居たが間合いを見て、
「それでな、ここに金を取りに行ったんだろう」
 と言いながら警部は左の洋間を開けた。壁に掛けられている絵が飛び込んできた。近寄って見ると、A.Tというサインがあった。よほど絵が好きだったんだろうか、と考えながら辺りを見回した。精神医学関係の専門書やドイツ語の辞典、英和辞典が置いてある。本の内容には興味をそそられたがこんなところで時間をつぶしている場合ではない。
「美佐さんの部屋は?」
「こっちだ」
 とダイニングキッチンに一回戻って、右のドアを開ける。こちらは五畳の部屋に絨緞が敷かれている。いかにも女性らしい、と言ったらいいのか人形がたくさん置かれていた。隅に置かれた机にはノートパソコンが置かれていた。
 まるで中学生か高校生の部屋のようである。そういえば萌の部屋にも人形は多く置かれていると思い出した。もしかしたら女の子みんなに言えるのかもしれないと思い直す。
 何か具体的な手がかりはないだろうか? 私は精神分析の真似事は止めて、ノートパソコンを立ち上げる。
「ああ、それか。彼女は日記……じゃなくてブログをつけてたらしくて、事件当夜までほぼ毎日、書いてたらしい。内容はその日の夕食の献立だとかで事件につながりそうなものはなかったが」
 私は椅子に座るとマウスをスクロールさせる。マメと言うよりはつけなければいけない、という強迫観念すら感じられた。恐らくは自分が生きている証を残したかったんだろう。書かれたものは永遠に残るが、人々から覚えようという気持ちを奪い取るというのに。
 目ぼしい記事はないか。そんなことを考えながら読んでいくと「マリッジブルー?」という記事が目につく。興味をそそられ読んでいると、警部が顔を近づける。
「なんだ、単なるマリッジブルーじゃないか。事件とは何の関係もないだろ」
「このマリッジブルーの原因はいったい何だったんでしょうか?」
「そんなもんはフロイトにでもやらせておきゃいい。俺たちは現実を相手にしなきゃいけないんだ」
 クスクスと笑って、私は、
「彼女が孤独感に苛まれていたのも現実ですよ。そしてそれが犯罪を生むんです」
「それは犯人の場合だろ。でも飯島は被害者だ」
「被害者の場合も一緒ですよ。例えばすごく低俗な例ですけど、寂しくてたった一回、不倫をしてしまった。そしてそれが原因で刺し殺してしまった……。もちろん美佐さんと敦夫さんが不倫していたと言いたいわけではありませんけど」
 その時、萌からメールが入った。今、私の事務所にいるらしい。

 いったん事務所に戻ると、萌が鉛筆を買って待っていた。満面の笑みでレシートを渡されて、大袈裟に溜息を吐きながら、ポケットから小銭を取り出す。警部を上目遣いで見ながら、
「捜査経費で落ちませんよね?」
 と言ってみる。ニヤニヤと笑いながら、
「ダメだな。今回の一件は公式には片がついてるんだ。それにケチな男は嫌われるぞ」
 私だって本気でもらえるとは思ってない。軽い冗談のつもりで言ったのである。私は萌に礼を言うと、鉛筆を受け取った。
「でも鉛筆なんかどうするの? しかも全種類だなんて……」
「まぁ見ててって」
 私は鞄から現場で拾った鉛筆の芯を取り出すと、萌が買ってきた鉛筆と並べた。そしてメモ用紙を破るとそれぞれ線を引く。敦夫の家に落ちていたものはかなり濃いようだ。警部が覗き込み、
「4Bだな」
「僕もそう思います」
「でもそれが何になるって言うんだ?」
 と苛々したように言う。
「自殺した田中が4Bの鉛筆を使ってたってことが解っただけで何の進展にもなっていないじゃないか」
 私は大袈裟に溜息を吐いて、デジタルカメラの映像を見せる。萌も横から覗き込んだ。
「メモ用紙の類が一切ないでしょう? ……机の引き出しにもありませんでした。そしていいじまクリニックにはTと掘られた4Bの鉛筆があった」
「清一郎が持ち去ったってことか!」
 と身を乗り出した。
「ええ、恐らくは」
「でも何のために持ち去ったの?」
「たぶん遺書に知られたくないことでも書いてあったんだろうよ」
 警部が私の代わりに答える。
「都合の悪いことって?」
「そこまでは解らんが、開業医はなんだかんだ言っても客商売だからな。おおかた息子の嫁さんが強盗犯に惚れられてたじゃ具合が悪かったんだろ」
 そして嘆くように、
「まったく最近の若いヤツは」
 と首を振った。
「振られたぐらいでパチンコに溺れるか? 十七、八のガキじゃないんだから」
「あら、警部さん。失恋の痛手はいくつになっても変わらないと思いますけど」
 私は思わず吹き出してしまう。普段は男っぽくて恋の話なんかしない萌がこんなこと言うと場違いな感じを受けるのである。萌は私を睨むと奇妙なほど優しい声で、
「なぁに?」
「いえ、何でもありません」
 私たちのやりとりを見ていた警部がわざとらしく咳払いをして、
「話を戻すぞ」
「あ、すみません。それで僕も警部と同じ意見なんです」
 身を乗り出して、
「そうだろう? で俺は考えてみたんだ。関口の話だと知らなかったようが、田中は前々からどこからか結婚したことを知っててだな。逆恨みして殺そうと計画してたってのはどうだ?」
「なんで手袋を用意しなかったんですか?」
「じゃあ衝動的に……」
 萌が口を差し挟むと、警部は首を振った。
「でも包丁を用意してるんだぞ」
「前日っていうのが引っかかるんですよねぇ。ひょっとしたら包丁は別の目的で買ったのかもしれませんよ」
「でも、他人の家に包丁を持って入るって言ったら強盗しかないだろ。常識的に考えて」
「そうですかねぇ」
 と首を振った。考えればいくらかは思い浮かびそうなものだ。例えばすんなり金を出してくれるつもりで強盗に入ったが、上手くいかず振り回しているうちに傷つけてしまった、というのはどうだろう。しかしそうだとしたら防御創ができるはずだが、と写真を確かめる。やはりそんな傷はない。そんなことを考えていると一つの疑問が湧いた。
「そもそも田中さんは後先を考えずに行動するタイプだったんですかね」
「さぁ、そんなことはないと思うぞ。関口は真面目で大人しいって言ってたから。まぁ、あまり親しくなかったようだし、厄介ごとに巻き込まれないよう当たり障りのない答えを言っただけなのかもしれんがな」
「そうですね、ご家族の反応は?」
「父親はすごい剣幕だったぞ。首を締めてやる、と言ってな」
 なるほど、父親が首を締めたとも考えられる、と仮説を思い付いたが首を振った。そうだとすれば首の回りに首を締めた痕が見られるはずである。それに敦夫が強盗を計画していたかどうかは別問題だ。
 もしかしたら敦夫は最初から美佐を殺そうとしたのではないか? つまり怨恨という線も考えられる。そこにたまたま居合わせた国明が巻き添えを食らったとしたらどうだろう。しかし関口の話だと結婚したことは彼には知らされていなかったはずである。万一、風の頼りに聞いたとしても防御創が引っかかる。つまり元クラスメイトとは言っても、包丁を持って襲いかかられたら手で防ぐはずである。背中を一突きなら不自然ではないのだが……。
 何はともあれ激しい性格だったのかを確かめるのが先決だろう。そんなことを考えながら、
「それで?」
「母親は信じられない、と言いながらも否定的な意見だった」
「四面楚歌ですね」
「と思うだろ?」
 と警部が身を乗り出した。
「ところがだな、弟の秀治だけは兄に同情してたよ。しかも表立った形で」
 父親と母親と対立して……つまり自分が矢面に立ってまで兄を守ろうとするには兄弟愛以外の理由があったのかもしれない。知らず知らずのうちに敦夫へ罪悪感を抱いていて、償いの気持ちがそうさせたんだろうか。憶測の域を出ないが、敦夫の性格を知るのに重要な人には間違いない。
「かなり親しかったんですか?」
「いや、大学時代に上京して、結婚すると疎遠になってしまったんだと。ガキのころは親しかったらしいが。でも真面目で繊細らしい。これは関口の証言とも一致するから間違いないと見ていいだろう」
 保身の可能性がある関口とは違ってかなり信用できる表現だと見ていい。もっとも、今度は敦夫をかばっているのかもしれないが……。
「秀治さんはパチンコについては何か言ってましたか?」
「無理もない、と言ってた。詳しくは話したくないようだったから、無理して聞くこともないと思ってそのまま引き上げてきたんだが。これが殺人事件ならそうもいかないが、まぁ自殺だからな。そう突っ込んで訊くことはないんじゃないか、と上が判断したみたいだな」
 もっと突っ込んで警部は顔を歪めてそう言った。
「……なるほど、会って話がしてみたいんですが」
 関口や秀治の話からすると真面目な人物で、強盗はおろかパチンコにも縁がなさそうな人物だそうであるがなぜ犯罪者になってしまったんだろう? 「気持ちが理解不能」ともったいぶったコメンテーターが評論しているが、自分たちの物差しだけで見ているうちは逆立ちしても解らない。逆に犯罪者の物差しで計れば宮崎勤だろうが理解できるのである。
 そう思うと静かな怒りを覚えて私はぎゅっと拳に力を入れた。その仕草を見ていた警部が訝しそうに首を傾けながらも、
「あぁ、これが連絡先だ。……話を聞くんなら数日のうちだぞ。強盗の一件で少しの間、名古屋に戻ってはいるがあと数日で東京に帰るらしいからな」
 と紙を差し出す。おそらく、何で怒っているのか不思議なんだろう。
「ありがとうございます」
「いやいや、礼を言うのは俺の方だ」
 と手を振ると、警部のケータイが鳴り出した。片手拝みをしながら立ち上がる。不機嫌そうに舌打ちをすると、ディスプレイを見て、
「カミさんからだ……ああ、俺だ。どうした?」
「『どうした』じゃないわよ! 何時間待ってると思ってるの?」
 電話口からは怒鳴り声が聞こえ、みるみるうちに蒼ざめていく。どうやら警部から誘った約束をすっぽかしてしまったらしい。それを横で聞いていた萌はクスクスと笑っている。
 必死で謝ると電話を切った。そしてコートを引っ掴むと大慌てで出て行ったのである。

 警部が出ていくと額が痛くなって、身体全体に激しい倦怠感が押し寄せてくる。どっと疲れが押し寄せて、指一本動かすのも億劫である。そして自然と今までの事件や、今日会った人のことが頭から離れないのだ。なぜか解らないがポロポロ涙が溢れてくる。
 萌はそんな私を見て、静かに呟いた。
「……大丈夫だって。パチンコにのめり込んで人を殺したりしない」
 言おうかどうか迷っていたが、悲しそうな顔をしてこう言い添えた。
「ましてレイプだなんて」
 五年ほど前になるだろうか。レイプされた娘の相談に乗っているうちに、だんだん私の中での愛情あるセックスとレイプの境界がぼやけてきてしまったのである。もちろん最初は犯人を憎んだが、私も一歩間違えば犯人になりえたかもしれないと思うと恐くて生きていられないようになってしまった。
 そして極め付けは、彼女の一言だった。怯えと蔑みを含んだ目でこう言ったのである。「あなたもあの男と同じね」と。それがなかったらまだ救われたかもしれない。
「確かにその娘の言うように男だもん。性欲はあるに決まってる。だからと言ってすぐレイプするわけじゃないんじゃない?」
「そもそもどこからがレイプかどうかも解らなくなってきて……、例えば嫌がっているのに襲ったらレイプだよね。でもやりたくないなぁ、と思いながらも嫌われたくなくて抵抗できなかったらそれはレイプ?」
「どうなんだろうね。断り切れなかったら、その子の責任だとは思うんだけど。でも確実に言えるのは」
 と私の手を握りしめて、哀しそうに、
「そんな思いを持っている人は犯罪なんてしないよ。絶対に」
 これ以上、私が苦しむ姿を見たくないらしい。その気持ちが伝わってくるからこそ辛いのである。苦しむ姿を見せないためにはどうしたらいいんだろう、と考えて余計ドツボにはまってしまうのだ。その上、体調のいいときでもいつ不安の波が襲ってくるかとビクビクしながら暮らしている。
 体験をより納得させた形で飲み込みたいにすぎない。この孤独がどこからきているのかを探ることで、孤独に打ち勝つことができると信じているのである。でもそれは幻想にすぎないのだ。
「でも……」
 でも何なんだろう? そのことを言おうとして、はたと停まる。萌の言うことはもっともだし、説得力を持って私の心に入ってくる。
 しかしどうも納得できない。本当に私は犯罪を起こさないと言えるんだろうか? 例えば今の苦しんでいる状態に嫌気が差して、通り魔になるとも限らない。もしくはそれこそギャンブルにのめり込んで強盗事件を起こす可能性もあるのだ。そんな犯罪を起こして心の傷を作るかもしれないのならいっそ自殺した方がいいかもしれない、とも思う。
「繊細すぎるんだよ。今回の事件にしても、その娘のことにしても、ね。だいたい……」
 と言いかけてはたと口を噤んだ。
「だいたい、何?」
 萌は暗い顔をしていたが、寂しそうに笑うと、
「かえって苦しくなるかもしれないけどいいかな?」
 何も知らずに苦しむくらいなら知った上で苦しんだ方がいい。これ以上、私の悩みはよくなることなんてないんだから。でも知らずにいたいという気持ちもある。しかし直視しなければ何も変わりはしないのだ。
 私は首をゆっくりと縦に振った。その答えを期待していたのだろう。萌は満足そうに微笑むと、
「百パーセントの愛なんてあるのかな? キリストみたいな」
 ないことは解っているが信じたいのだ。その気持ちを割り切れたらどんなに楽だろうか。
「私は美佐さんが田中さんに結婚を知らせなかったのは可哀想だからじゃないって解る。そう自分に言い聞かせてるだけ。男の人には解らないかもしれないけどね」
「……どういうこと?」
 私は恐る恐る訊いてみた。言いにくそうに、
「……女ってね、例え彼氏がいても男からちやほやされたいもんなのよ。多分結婚してもそうなんじゃないのかな。私、前それで合コンに行ったしね。まぁその席でとんでもないことが起きたんだけど……」
 私も恋人がいるにもかかわらず自然と美人に目が行ってしまう。そしてその度に深い罪悪感を抱いてしまうのだ。それと同じだろう。欲望が悲劇を生むので、それを制御しないといけない。そして私にはそれができる自信がないのだ……。「欲望は人を幸せにできるんだよ」と萌に言われているが、そうは思えない。
 私から目を逸らし、
「……訊くけど何で浮気しないと思う?」
「相手を傷つけたくないから?」
 萌は首を俯いて振った。
「自分が損をするからだよ。人を殺したら自分が損をするだけだからにすぎないし」
 おそらく本当はそうは思っていない。私を吹っ切らせるためにわざとドライな性格を作っているんだろう。そうでなかったら……
「……じゃあ、僕の悩みを飽きずに聞いてくれるのは何の得にもならないよね。五回は同じ悩みを吐いてる。……死んでも代わりはいるのに。代わりどころかもっとステキな人もいるかもしれない」
 優しく抱きしめて、
「バカねぇ。それでも助けたいものがあるの」
「助けたい……もの」
「遺伝子だよ」
「たかだか四種類のタンパク質の結合なのに?」
 萌は寂しそうな顔をするだけで何も言わなかった。
 私も何も言えずに俯いた。大事な人を悲しませてしまう私は最低の人間だ、と頭の中で声がする。生きている価値なんてないんだ、とも。しかしそのことを話しても解ってもらえないだろう、と諦めている。言葉は語れば語るほど真意は奥深くに沈みこんでいくのだ。だから語りえぬものは沈黙しなければならない。
 萌は静かに離れると手を握り直した。本当のことを言うともっと抱きしめていて欲しかったのだが、今の私にはそんなことを頼める資格はないのだ。
「……自分のこと狂ってる。そう思ってるんでしょう? 欲望なんてコントロールしなくてもいいことも本当は解ってると思う。でも不安なんだよね」
 図星なので何も言えない。萌は続ける。
「でもね、人間なんてみんな狂ってるの。私も含めてね」
「いつから……狂い始めたんだろうね」
 私は涙を必死で堪えながら呟くように訊くと、
「そうねぇ、神様が死んじゃったときからじゃない?」
「……そうかもしれない」
「ごめんごめん、しんみりしちゃったね。何か音楽でも聴こうか」
 と言ってipodを取り出すと私の耳と自分の耳に当てて肩を寄せる。気分転換をさせてくれるのはありがたいが、その優しさが突き刺さった。私は首を振ってそんな気分ではないと謝るが、
「いいからいいから。それじゃ行くよ」
 と手慣れた手付きで操作をすると「LET IT BE」が流れ始める。その歌詞を聞いて、私は今までずっと堪えていた感情がどっと溢れ出てきた。

三、肖像

 翌日の夕方、私は警部から渡されたメモを基に田中の実家を訪れた。古い木造建築だったが、名の知れた家ではない。少し郊外に行くと見られる平凡な佇まいである。
「警察の関係で仕事をしています」
 と言うと、疑いながらも居間に通してくれた。緑色の絨緞が敷かれていて、黒ずんだ柱には深い傷が見えた。よく見ると鉛筆で年数が書かれている。敦夫が子供のころ背を測ったときにつけたものだろう。すきま風が建て付けの悪いガラス戸をギシギシと揺らしている。
 秀治によると母親は具合が悪くて寝ているらしい。すみません、と詫びた。
「あんなことがあったんです。無理もありません」
 できるだけ過去を探りたかったが伏せっているのでは仕方がない。そう思いながら私が座ると、正一は机をドンと拳固で叩いた。普段は柔和そうな丸っこい顔を真赤にしている。怒りと言うよりは悔しさが感じられた。そして脇に座っている血色の悪い小柄な青年に目をやり、
「少しは秀治を見習え」
 秀治は私の手前もあり、不快そうに顔を歪めたが、
「まぁ、お兄ちゃんだって生活に困ってたみたいだから仕方ないんじゃないのかな」
 正一は何か言いたそうだったが、ふんっと不快そうに鼻を鳴らしただけに留めておいたようだった。身から出た錆び、とでも言いたいんだろうが、私の前では派手な言い争いはできないらしい。ぶっきら棒に、
「お前もお前だ。いつまでも敦夫をかばってるんじゃない。兄貴だからかばいたくなる気持ちは解らんではないが」
 秀治は怒りを堪えていたが、私を見て、
「……それで刑事さん、何の用でしょうか」
 刑事ではないが、それを言うと追い出されるのは火を見るより明らかだ。
「敦夫さんはカッとなりやすい性格でしたか?」
「いや、とてもそんな風には。十五くらいから父に暴力を振るうようになりましたが、十七、八には収まりましたし」
 思春期のお手本とも言えそうな道を辿ったらしい。心理学の教科書やウィキペディアにでも載っていそうである。
「親に手を上げるようなヤツです。何をしても不思議じゃない」
「……普通そうだよ」
 しかし秀治の呟きが聞こえた。
「なるほど」
 秀治の言うように息子が父親や母親とぶつかるのは当然のことである。その点では極めて健全な育ち方をしていたようだ。
「計画立てる方でしたか? ……例えばテストの直前だとか」
「遊び惚けてて、直前になって焦ってましたよ。今回の事件を見れば人生設計なんてまるでしてないことが解るでしょう。パチンコと絵にうつつ抜かして、金がなくなったら友達のところへ行って強奪ですか……」
「絵?」
 と遮って私は聞いた。口汚く罵るだけで何も得られそうにない。
「ああ、兄は美大卒なんです」
「それで4Bの鉛筆があったわけですね」
「ええ、そうなんですよ。兄は普段から4Bの鉛筆を愛用していまして。でも筆圧が高い兄には合わなかったみたいですよ」
「どうしてお兄さんはもっと使いやすい鉛筆を使わなかったんでしょう?」
「4Bに馴れておきたかったみたいですよ」
 普段から絵を描くトレーニングをしていたらしい。私は頷いて、成果はどうだったのかを尋ねた。
「上げてたみたいですよ。でも緊張するとやっぱりポキポキ折ってたみたいですけどね」
 と恥ずかしそうに笑った。私は他にも現場に多くの芯が落ちていたのを思い出す。あれは遺書を書くときに自然に力が入って、折ってしまったのだろう。
 正一が堪りかねた様子で口を差し挟む。
「私はね、絵がダメだとは言いませんよ。でもね、版画とかもっと割に合うものを作ればよかったんですよ。だから言ってるでしょう? 計画性がテンでないと」
「……秀治さんのご意見は?」
「父と同じ意見ですが、一つ強く言いたいことがあります。兄は強盗なんかできる人じゃないということです」
「じゃあ、お前は敦夫が他のヤツに罪を被せて殺したって言いたいのか?」
 一瞬、どろりと濁った目に光が宿った。そして私に向き直ると戸惑いがちに、
「でも新聞では……」
「ええ、残念ながら疑いようのない事実です。我々が今調べているのは、計画性の有無なんですよ」
 正一は憮然として首を振ると、
「そんなもんどっちでもいい」
「そうですか。ところで子供時代の様子をお聞きしたいんですけど……」
 しばらく私の不躾な質問に拗ねた子供のような顔をしていた。堪りかねて立ち上がって秀治が怒鳴る。温和な表情からは想像もつかない剣幕だ。
「いい加減、自分の接し方が間違っていたって認めたらどうなんだ!」
 正一は突然のことにびっくりしている。反論しようと唇を震わせていたがやがて長く溜息を吐いた。まるで敦夫への怒りをすべて吐き出しているようである。そして懐かしそうに目を細めると仏壇に目をやる。そこには敦夫の祖父母の遺影が仲睦まじく飾られていたのだった。
「……そうだな」
 と聞こえるか聞こえないかの声で正一は呟いた。もとのいかつい顔付きではなく、何か悟ったような表情である。やはり口ではいくら罵っていようが愛情はあるのだろう。しかし本人に伝わるのは遅すぎるのだ。……いつもほんの少し。
「敦夫が生まれたときは可愛くて仕方ありませんでした。今から思えば自分でも恥ずかしいくらいの親バカでしたが」
「ええ、それで?」
 と私は頷いた。
「秀治が生まれたのは敦夫が五歳の頃でした。周りの注目が敦夫から秀治にいっぺんに変わっていったんです。当然でしょう?」
 確かによくある話ではある。正一は同意を求めて、子育てが間違っていないと確かめたいんだろうか。もちろんそれだけでは犯罪者にならないが。そんなことで人を殺していたら日本の人口が何人いても足りはしない。
「それで私たち夫婦が構わなかったものですから不憫に思ったんでしょうね。祖父母のところへ遊びに行ったんですよ」
「でも祖父母も秀治さんの方を大事にした」
 正一は静かに首を振った。
「孫ですもの。そりゃ来れば喜んで遊び相手になってましたよ。でも本心は多分、秀治と遊びたかったんだと思います」
「子供は大人が感じないような些細な空気を感じますからねぇ」
 その体験が弟の代わりでしかない。その体験が子供心に漠然とした喪失感を植え付けたんだろう。版画を作らなかったのもそのことが原因かもしれない。版画はいくらでも刷ることができるからこの体験と知らず知らずに重ねて、刷っているうちにある種の空しさを覚えた、とも受け取れる。……あるいは単に刃物が恐かっただけなのかもしれないが。
「はい。実は敦夫に絵を教えたのも祖母なんですよ。祖母は小学校で図画を教えていましてね。そして早くいいお嫁さん見つけるんだよ、と口癖のように言ってました」
 それを聞いて、秀治は不満そうに正一を見ていた。しかし黙って首を振ると諦めたように俯く。
「多分それが焦らせていた原因だと?」
「ええ、秀治の方が先に結婚したり、同級生が次々と結婚していく中で……」
「なるほど。……ちなみに正一さん自身はどうお考えでしたか?」
「……仕方がないことだと思ってました。こればかりは運命ですものね。でもできれば早く身を固めて欲しかった」
 どうやら最近では不景気なのに「運命」という言葉はインフレーションが起きているらしい。
「そのことに関しては周りがとやかく言いませんでした?」
 痛くもない腹を探られて心外だったのだろう。ムッとした顔をして首を振った。
「じゃあそのことがプレッシャーになって、という可能性は……」
「ないと思います」
 正一は素早く答えた。敦夫はそんな弱くはない、と言いたそうである。まるでさっきの態度とは逆に彼が強盗殺人を犯したことが信じたくないような印象を受けた。正一は信じたくない気持ちと事実を受け入れなければいけない気持ちの間で動いているんだろう。だからこそ最初はけんもほろろな態度を取ったのだろう。
 しかし今は……少なくとも表面上は、私の質問に答えてくれている。せめて敦夫の名誉は回復できると踏んだのか、あるいはここでは上っ面だけでも私に従っておいた方が得策だと感じたのか。それとも事実を知る心構えができたのか。
 いや、と秀治と正一と表情とを交互に見て思った。それはむしろ秀治にこそ当てはまっている。
「……ちなみに秀治さんは」
「兄は兄の生き方がありますから」
 正一の口の中で、
「家族に迷惑を掛けない範囲でなら、な」
 と呟くのが聞こえたが、私はそれをさらりと聞き流す。ここで突っ込んでも何が得られるわけでもない。
「できれば兄には画家として成功して欲しかったんですけど。……こんなことになってしまって非常に残念に思います」
 自分ではできなかったことをしていた尊敬、羨望、そして期待がその口振りから窺えた。いつも人は他人に対してあまりに多くのものを求めすぎているのだ。

 美佐の実家は真新しい一戸建だった。茶色い外装だが、二階のシャッターは全て閉じられている。洗濯物は掛かっていなかった。飯島美佐という名前が頭にあったせいか、「木田」という表札に少し違和を感じながらも、私はチャイムを鳴らして、
「A県警の有沢です。美佐さんのことで二、三お伺いしたいことがあります」
 しばらくしてインタホンから死んだような声で、
「どうぞ。鍵は開いてます」
 と言われ、気まずさを覚えながらもドアを開ける。廊下を抜けると、広々としたダイニングキッチンが見えてきた。四つの椅子が机を囲っていて、そのうち一つは埃をかぶっている。居間に集まっている家族全員の顔を見渡した。
 木田俊行は優しいのだろうが、がっちりした体格の喧嘩早そうな男だった。美佐を殺された怒りのせいか鼻息を荒くしているのでそう見えただけかもしれない。康子はその名前と裏腹に、不健康そうな女性だ。あれからあまり寝ていないらしく、目の下には隈ができていた。由紀男もすっかり意気消沈していて生気がないが、それを押し隠すようにしている。それがかえって不憫に映った。
 私が常に寂しさを感じていたようだが、心当たりはないか、と尋ねると由紀夫は、
「そういえばあの時は子供のために一戸建を買ったのにローンの返済で美佐にあまりかまってやれませんでした。家内も私も、ね」
 皮肉なものだ、と心の中で呟いた。子供を喜ばそうとしたにもかかわらずその結果が寂しさを植え付けてしまうなんて。おそらく私に協力的なのは罪悪感からなんだろう。刑事と名乗った後ろめたさを感じた。
「私もあのころはパートで急がしくて娘ときちんと向き合っていられませんでした。一番向き合わなきゃいけない時期に向き合わなかったなんて、母親失格ですね」
 と自嘲気味に笑った。
「そんなことはありませんよ」
「ありがとうございます」
 しかし感謝の色は窺えなかった。気休めはやめてほしい。どうやら胆の底ではそう思っているのかもしれない。
 これでマリッジブルーの謎は解けた。おそらく子供に同じ思いをさせやしないか不安だったのだろう。あるいは新居の匂いを嗅いで抑圧されていたこの記憶を思い出したのかもしれない。しかしこれだけで男性への不信感を植えつけた理由になるだろうか。孤独を植えつけたかもしれないが不信感とまでは言ってしまうと流石に無理がある。
 関口の言っていた失恋も一つの要因と考えて、
「小中学校に何か異性をめぐったトラブルはありませんでしたか?」
 と訊いてみる。もしかすると何か解るかもしれない。
「私どもの見る限りでは特に……。ま、あの時期は親を恥ずかしいと思う年頃ですからね、話さなかっただけなのかもしれませんが」
 由紀男は肩を竦めると俊行の方を向いて、目配せをした。
「うん、俺もそういった心当たりは特に思い出ない。そういえば……」
「何か思い出したんですか?」
 私は身を乗り出した。
「いやね、中学校の卒業式の帰りに泣いて帰ってきたんですよ。俺……いや僕はてっきり友達と別れるのが辛くて泣いてるんだと思ってましたが、それにしては様子が変でした」
「変?」
 康子も思い出したように、
「そうそう思い出したわ。美佐ったらあの日から突然、小食になり始めたのよねぇ。私が『ご飯はいいの?』って訊くと『ダイエットを始めた』って返ってきたのよ。まぁ、難しい年頃だったから余り深くは追求しませんでしたけど」
 一瞬懐かしそうに目を輝かせたが、また元の表情に戻った。もはや娘はもう思い出の中にしかいないのだろう。
「なるほど」
「ところが高校二年になってからまた食欲が戻り始めたのよ」
 関口に「酷い振られ方」をしたと語っていたのを思い出す。それが美佐にとっての初恋だったに違いない。しばらく失恋と心ない言葉で二重のショックを受け、食欲がなくなったんだろう。家族には恥ずかしいと思ったのかダイエットと言って誤魔化したわけだ。
 恐らく食欲が戻り初めたのは国明との出会いが契機である。相談に乗ってもらっているうちに恋心を抱いたんだろう。しかしそれは古傷をえぐる結果となった。つまりまた酷い振られ方をされやしないか、と不安だったのである。初恋の人と初めて付き合う人生を左右する……私の女友達が酒の席で言っていたのを思い出す。私も経験があるが、十代前半はついつい女の子に対して素直になれないものなのだ。
 しかし酷い振られ方をしただけで男性に敵意を剥き出しにするものだろうか? そういう経験をした女性は何千人といるだろうが、やがてそのうちに矛を収める。
「ところでクラスメイトの話だと何かと男子に突っかかっていたみたいですけど、それに対して心当たりは何かありませんか?」
 康子は驚いたらしく、口元を手で被った。
「まぁ! そんなことを?」
「そうだとすれば多分私が原因だと思います。毎日、接待とは言え飲んで帰ってましたからね。でも家内からの一喝で酒は控えるようになりましたけどね」
「何て言ったんですか?」
 私が聞くと、康子は恥ずかしそうに、
「『酒を飲まずに接待できないの? この意気地なし! 自信がない証拠よ!』確かそんな言葉だったと思います。頭に血が上って詳しくは覚えていませんが」
「……その時、美佐さんはどこに?」
「多分、二階で寝てたと思います」
「かなり激しく言いました?」
「ええ、それはもう。主人がこのまま行くとアルコールに溺れてしまいそうでしたからね。必死でした」
 美佐はそのとき起きていたか、言い争いで目を醒ましたのだろう。
 関口に父親の話をしなかったのは、仕事とは言っても毎日飲んで帰る由紀男の姿を見たくなかったんだろう。仕事で飲んでいたかとは知らずに、現実から逃げていただけと写ったのかもしれない。
 しかしまた疑問が生じる。もし立ち直ったならそれこそ誇るべき父親の姿なのではないか? どうも引っかかる。もしかしたら仕事で毎日飲んで帰ってくるようになったのと、酒を飲むようになったのは時間差があるのかもしれない、と考えて、
「それはいつのことでした?」
「あの子が大学に入ってからじゃないでしょうか?」
 やはり大学時代に父の存在を受け入れたのだ。関口に由紀男のことを話し始めた時期とも一致する。だんだん事件の全容が見えてきた気がした。

 翌日、溜まった仕事を片付けようとパソコンを立ち上げる。ウィーンというモーター音がしている間に、ラックからフローチャートを書いたメモを取り出して条件を確認しようとすると、ケータイが振動した。どうやら警部から電話が掛かってきたらしい。居留守を使おうか迷ったが、大事な要件かもしれない、と言い訳して出る。
 しかしマスターアップまでに時間がなかったことを思い出し、今日は仕事をするんだ、と決意を固めた。
「もしもし、今日は無理ですからね」
「どうしてもか?」
 その深刻そうな口調に引っかかりながらも、切り口上で、
「ええ、どうしてもです」
「そう、か」
「……どうしたんですか?」
「いや、さっき田中秀治からお前宛てに電話が掛かってきたんだ。話したいことがある、とな。お前は席を外していると言って俺が今こうやって伝言をしてるというわけさ」
「……警部が行けばいいじゃないですか」
 私は誘惑を断ち切るように振り切った。
「いや、それがお前さんじゃないとダメだって言ってるんだ」
 そういえば東京に戻ると言っていたことを思い出した。もしかしたらもう会えないかもしれない。仕事は徹夜をすればできるし、いざとなったら土日を返上すればいい。
 いずれにしても仕事の方はどこかで落とし前をつけなければいけないが、他人の人生に介入するそれに比べたら軽いものだ。それに毒を食らわば皿までも、である。最後まで見届けなければ気持ちが悪い。
「……それでどこで待ってると?」
「N駅地下の喫茶店、Sだ」
 私は頭の中で時間を計算した。往復一時間、話は長くなっても一時間あれば十分だろう、と時計を見た。十一時半。
「……まぁ話を聞くだけですよ」
 つくづくお人好しだ。そう私は心の中で言って、電話を切ると地下鉄に乗った。それにしても彼が話したいこととは何だろう? 不満そうに正一を見ていた表情を思い出した。あの場で言えなかったことがあるに違いない。
 そんなことを考えながらホームのエスカレーターで上がる。Sという喫茶店の場所はすぐに解らなかった。売店の中年女性に道を尋ねると、折れてすぐそこだと教えてくれる。私は会釈をすると指示された方へと走った。
「いらっしゃいませ」
 壁は黒を基調としていて、タキシードのような制服が映えている。壁には抽象画が飾られているなかなか洒落た店だった。私はレジの店員に待ち合わせをしている旨を告げた。そうするとピンときたらしく頷いて、秀治の席へと通される。
「どうもありがとう」
 と言ってアイスコーヒーをオーダーした。店員は礼をすると、キッチンに向かって復唱して持ち場に戻る。私は去ったのを確認して、用心深く辺りを見回しながら、
「それで、何ですか? 話って」
「実は兄が強盗をしたのは私たちの遡っていくと子供時代に原因があると思うんです」
「ええ、僕もそれは同意見です。だからこそあの時、お邪魔したんですよ」
 私の話を無視し、秀治は、
「あそこでは口に出しませんでしたが、父や母は私たちのことを比べていました。そして大概、私の方が勝っていたんです」
「なるほど、だから……」
「ええ、まぁ今から思えばもっと頑張れ、という叱咤の言葉だったんでしょうね」
「しかしその思いは敦夫さんには届かなかった」
「ええ、そのせいで自分は弟よりも出来の悪い人間なんだ、と刷り込まれていったんだと思います」
 秀治が「接し方に問題があったのを認めたらどうなんだ!」と言っていたのを思い出して、頷いた。
「私も兄に対してバカにした態度を取っていましたし。今、兄をかばっているのも罪ほろぼしの気持ちが大きいんです」
 人は自分よりも見るからに劣っているものはバカにはしない。そうしても空しくなるだけなのである。他では劣っていてもある一面に秀でているときにバカにするのだ。今までの言動から考えられるのは絵に対する思いを妬んだんだろう。そうやって私たちは精神の均衡を保とうとするものだ、と静かに溜息を吐いた。
「正一さんはそれを自覚してるんですか?」
「……薄々は。でもそれを認めたくないんだと思います」
「それでご結婚して、ますますあなたより出来が悪い息子だと思ってしまった?」
「はい、私は子供のころの罪悪感から『呑気に待てばいいじゃないか』と慰めましたが、伝わる気配もなく焦ってました」
 いや、伝わっているからこそ焦ったのだ。慰めてくれている屈辱感と、早く結婚して秀治に心配をかけたくない想いが入り交じっていたに違いない。しかし、思い通りにはいかないものだ。そしてたまたま目に入ったのがパチンコだったというわけなのだろうか。
「父は刑事さんの前では兄の絵を認めているようなことを言ってましたが、実は全く認めていませんでした。それどころか私を引き合いに出して、まともな職に就くことを命じてたんですよ」
 子供時代ならいざ知らず、大人になっても弟と比べられる兄の心境は想像に難くない。きっと自己嫌悪の塊だったのだ。「俺が死んでも秀治さえいればいいんだ」と思っていたに違いない。そう考えながら、
「そのことについてはどう思ってましたか?」
「兄が……不憫でした」
「そうですか……」
 私は何と言葉をかけていいか解らなく、ただ俯いた。秀治はチラッと時計を見ると、
「ああ、新幹線の時間だ。話しかったことというのはそれだけです」
 と言うと立ち上がった。そして自分のアイスコーヒーを飲んで、壁に掛かった抽象画をちらっと見ると寂しそうに首を振ったのだった。

 その夜、私は本格的に仕事に取り掛かるために、夜食を用意していた。私もいざとなったら料理くらい作れるんだ、とインスタントラーメンの袋を開ける。冷蔵室からニンジンを取り出すと、一口大の大きさに切りながら頭の中でプログラムを組み立てていると、案の定、指を切ってしまった。
 とりあえずニンジンを切ることに専念しよう。しかしプログラムのことが気になって料理が中断されてしまう。その時、ドアの開く音がする。
「今日は何だったんだ……っておい! バカなマネはよせ」
 慌てて説得に掛かる。私はきょとんとして、
「え? 何がですか」
「ま、まずナイフを置け」
「ああ、これですか。単に夜食を作っていただけです」
 どうやら私の思い詰めた表情や包丁と血を見て、自殺するものだと思い込んだらしい。ただ考え事をしているにすぎなかったのだが……。
「そんなに深刻そうでしたか? 僕は」
「ああ」
 今の話を萌に聞かせよう。そう思いながら頭の中で整理していると、頭の中の霧がスーッと晴れていった。その時、私はすごく悲しそうな表情をしていたに違いない。私の考えが間違いであることを証明したい、と強く願った。そしてそのためには清一郎に奪われた遺書を取り返さなければ。

四、解決

「なんだって七時なんかに迎えにきたんですか。北朝鮮の拉致より酷い」
 と欠伸をすると警部を睨み付ける。おまけに昨日は納期に間に合わせるために太陽が顔を見せるまで仕事をしていたというのに。大きな寺と蟹料理屋の角を右に曲がると、高級マンションが立ち並ぶ大通りに出る。
「ここの最上階だ」
 と言いながら、警部は車を停める。そしてホテルのようなホールを抜けると、エレベータに乗り込んだ。ガラス張りのエレベータからの眺めは圧巻なのだが、寝不足とエレベータの閉塞感からくる吐き気でそれを楽しむ余裕などなく、むしろ早く最上階に着くのを祈るばかりだった。
「やっと着いた」
 私は恨めしそうにエレベータを睨むと、警部の後を追いかける。「飯島」と洒落た金文字で書かれているドアの前に立つとチャイムを鳴らした。すぐにインタホンから中年女性の声がした。
「はい」
 上品そうな声である。
「あぁ私……」
 と警部がまどろっこしい自己紹介をしようとした。私は苛々してそれを遮った。
「田中さんの遺書を取りに伺いました、とお伝えください」
「はい」
 とうわずった声がしてドアが開いた。出迎えた女性はどことなく影のある、大人しい女性だった。この人が母親、房枝らしい。通されたリビングでは清一郎がソファーにふんぞり返ってウイスキー片手にTVを見ていた。
 私たちの顔を見るなり、
「またあんたらか。遺書と言ったそうだな? そんなもんはしらんぞ」
 房枝は心配そうに清一郎を見つめている。どことなく憐れんでいるような気がするのは気のせいだろうか。彼は房枝に席を外すように命ずると、黙って出ていった。まるで命令を聞いてやることが彼の心の安定を保つ方法だと悟っているようにも受け取れる。
 私は房枝が出ていったことを確認すると、
「ならあなたのポケットに入っている鉛筆のTは誰のものですかね? 清一郎はSですし、房枝さんならFかHです。国明さんならKでしょうね」
 ちらっと鉛筆に目をやると、
「ああ、これか。患者が忘れていったんだよ」
「その鉛筆、4Bですよね」
「それがどうした」
 小馬鹿にしたように鼻でせせら笑う。私はそれを無視して、
「偶然ですね。田中さんも画家を志してて4Bを普段から愛用してたみたいですよ」
「偶然だ」
「偶然ついでにもう一つ、あなたが行った田中さんのアパートの机には4Bの鉛筆の線で何本も書かれています。しかしその鉛筆がどこを探してもないんですよ。ついでに紙も。つまり偶然、4Bを使っていたTというイニシャルの患者の鉛筆が、偶然、あなたが行ったその日になくなった。その説明とあなたが田中さんの鉛筆を盗んだ、という説明どっちが説得力ありますかね?」
「……確かにこれは私が盗ったと認めよう」
「なんのためにとったんだ?」
 警部の詰問には答えなかった。ここで追求するか、それとも別の方向から攻めるか? ここで追求すればますます意固地になって遺書のありかを言わなくなるかもしれない。私の目的は遺書を隠したことを証明するのではない。遺書を見せてもらうことなのだ。
 私は追い打ちを掛けようとする警部を手で遮って、
「まぁいいでしょう。確かあなたはこうおっしゃった。『遺書は見つかったんですか?』と。それは認めますね」
 あの時清一郎の高飛車な性格に見える言動の裏には臆病さが見え隠れしていたと気が付くべきだった。いわば強気な態度をとることでその臆病さを表に出さないようにしていたのである。見つかったのか訊いたのは隠蔽工作がまだ見つかっていないかを確かめたかったんだろう。さながら親にイタズラがばれていないか確かめる子供のように。
 しかしその反面、その言動からはプライドの高さを伺わせる。もしそうでなかったら媚びてくるはずだ。
「そんなことを言ったかもしれない」
 後々の逃げ道を確保するためかように曖昧に答えた。恐らく意識して言ったんだから彼も覚えているのだろう。
「言ったんです。看護婦さんに訊いてみて下さい」
「……よろしい。言ったとしよう。しかしそれがなんだと言うんだね?」
「こうは言わなかった。遺書は『あったんですか?』とはね」
「言葉の綾だろう。一緒だ」
 仏頂面で清一郎が言う。私はクスクスと笑って清一郎を挑発する。
「精神科の先生がそんなことを言ってはいけませんね。フロイトに叱られますよ」
 プライドの高い清一郎の性格からするとこれはかなり効くはずだ。案の定、腰を浮かせて、
「何が言いたい?」
 と言ったが、策略に乗ってはいけないと思ったらしい。そのまま腰を落とした。
「つまりですね、見つかったかどうか訊くときは遺書があることが解っているときに使うんですよ。さてここで問題なのはなぜあなたが遺書の存在を知ってたかです。机の上に遺書があって、誰かがそれを持ち去ったのは明らかなんですけど。そしてその人物は用心深く手袋をはめていた。手袋の跡が残ってたそうです」
「どうしてそんなことが言える?」
 警部が口を差し挟んだ。私はデジタルカメラのデータを呼び出して、拡大する。
「ほらこんな風に何か紙でも置いてあったようにピタッと線の始まりが揃ってるからですよ。このことから言えるのは二つ。机の上に紙が置いてあったこと、そしてこれはかなり緊張して書いたということです」
 警部が、
「緊張していたというのは?」
「普通に書いたんじゃはみ出さないでしょうし、もし、そんな癖があったんならもっと鉛筆の線がなきゃおかしい。事実、鉛筆の芯が何本も落ちてました。そしてそんな状況で書くものと言えばラブレターか遺書くらいです」
 しばらく呻いていたが、やがて吐き捨てるように、
「……私も客商売なんでね」
「それは遺書を持ち去ったと認めてもいいんですね」
「あぁ、でも燃やしてしまった」
 溜息を吐いた。私は驚いて、
「中は読んでいないんですか?」
「ああ、読むのが恐かったんだ。国明のことが書かれてると思うと」
 根は臆病な性格だ。内心では震えていたんだろう。警部は怒りをあらわにし、
「そんなことであんたは真実を葬ったのか!」
「そんなこと?」
 と清一郎は警部を睨み付け、
「あんたらにとっては真実をあばく方が大事かもしれないがな、俺たちは路頭に迷うかもしれなかったんだ!」
 確かにもし私の身に同じ災難が降りかかってきたら、真相を葬らないと言える自信はない。ものごとは常に当時者の身になって考えなければいけないのである。そうしないと一方的な「真実」で人を傷つけてしまいかねない。
 清一郎は煙草に火を点けると、紫煙をゆっくりと吐き出した。
「鉛筆を持ち去ったのが間違いの元でしたね」
「しかし遺書だけ持ち去って鉛筆を持ち去らなければ何を書いていたんだろう? ということになる。ましてや自殺の直前だ。それが遺書だってことはバカでも解る」
「遺書が書いてあるところだけ持ち去っても、透けて内容が読めてしまいますしね」
「ああ、だがそれがどうしたって言うんだ? 何かの罪になるとでも?」
 私は首を振って呻いた。
「いや、ただ遺書を読んで僕の推理通りか確かめたかった。ただそれだけのことです」
 息子の死の真相に興味を示したらしい。身を乗り出して、
「……あんたの推理とやらを聞こうか」
「あの日、追い詰められて、自殺しようとしたんでしょう。ホームセンターに行った。しかしそこでは高校時代の同級生が働いていて、それで国明さんのことを思い出した。国明さんは高校時代、困ったら俺のところまでこい、と言ってたみたいです」
「だからって強盗は安直すぎるだろ」
 警部は溜息を吐いた。
「違います。強盗ではないんです。しかし確かに脅した」
「……さっぱり解らんな」
「想像力が足りませんね、警部。金を貸さなきゃ死んでやるって言たんです。もちろんそれで金を貸してくれるものだと思っていた。しかし美佐さんがこう言ったんですよ。『パチンコなんかに溺れるのはあんたがだらしないからよ』って」
「なんでそんなことを? そんなこと言ったら逆効果だろうに」
 清一郎は言った。 「美佐さんの父親がお酒に溺れそうになったときに母親にそう言われて、立ち直ったからです。彼女は立ち直ってくれることを信じて言ったんですよ。しかしその思いも伝わることなく、逆上した敦夫さんは美佐さんを襲いかかろうとした」
「昔惚れてた女にそんなことを言われたんじゃ無理もないだろうな。しかも自分は不幸のどん底にいるのに相手は幸せの絶頂だ」
 警部は頷く。
「さらに悲しいことには田中さんの絵を何点か買ってたんです。高校時代のよしみにしては高すぎる買い物でしょう?」
「何でそんなことが言える?」
「壁にはA.Tとサインされた抽象画が何点かありました。これはAtsuo Tanakaのイニシャルだと考えられます。つまり影ながら彼らは応援してたんですよ。だからこそ見てていたたまれなかった」
「なるほどな」
「……それで隣の部屋で貸すお金を用意していた国明さんは彼女の悲鳴を聞きつけて戻ってくる。当然、止めようとして、国明さんは腹を刺されてしまった」
「だから腹を刺されてもうつ伏せだったわけか」
「ええ、それともう一つ、血の飛び散り方が襲われたにしては不自然なほど少ない」
「そういえばそんなこと言ってたな」
「それも襲われた前提の元での話です。国明さんが止めようとして自ら覆い被さるような体勢になったとすれば納得がいきます。その後、美佐さんを滅多刺しにする。彼の絵が飾られているのを見た敦夫さんは美佐さんの真意を悟って自殺……」
 清一郎は首を振った。
「信じられない」
「……僕だって信じたくありませんよ。でもそうじゃなきゃ全てが説明できません。血の飛び散り方、被害者の姿勢、そして最大の謎だった包丁と手袋を買わなかった理由もそもそも自殺しようとしてたんなら手袋なんかいりませんしね。だから彼の遺書を見せてもらって、間違っているのを確認したかったんです」
 そのとき、房枝の嗚咽がリビングの外から聞こえてきたのだった。
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