二人であることの問い

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登場人物

有 沢 翔 治……推理ゲームシナリオライター
浅 香   萌……その恋人、法学部3年
西 口    ……捜査一課警部
松 岡   昇……その部下、警部補

田 口 真 衣……萌の後輩、法学部2年
田 口 亜 衣……その双子の姉、文学部1年
吉 元 隆 史……真衣の恋人、文学部2年
芦 屋   卓……コンビニ店員。真衣、亜衣と同じバイト先。
里 内 由紀恵……芦屋の元交際相手。書店勤務。

第一部、二人の姉妹

 学食の大きな窓からは陽の光が降り注いでいた。九月も半ばに差し掛かり、日差しは和らいでいるが、まだ蒸し暑い。
 わたしが学食のドアを開けると、真ん中のテーブルは六人の女子が陣取っているだけだった。ルーズリーフや本を広げて談笑している。昼も二時頃を回ると席は空いているのだ。
 わたしは隅の席に一人腰を下ろすと、民法の教科書とルーズリーフを開いた。司法試験の勉強に溜息をつくと缶コーヒーとサンドイッチを開ける。ナップサックを肩から下ろし、資料を取り出していると、明るい声が聞こえた。
「萌先輩。今からご飯ですか?」
 顔を上げると、小柄な女性が怪訝そうな顔で立っている。肩まで垂らしている黒髪が揺れていた。
「うん、お昼は混むから、ずらしてるんだ。……えっと……、真衣ちゃん、だよね?」
 失礼だとは分かりながらも聞いてしまう。彼女には双子の姉、田口亜衣がいるのだ。彼女が胎内からではなく鏡の中から産まれたと言われても驚かない。
 ずっと二人は間違えられてきて、真衣ももう慣れているようである。気を害する様子もなく頷いた。
「そうです」
 やはり同じ法学部で二年生の後輩、田口真衣である。机の資料を見て、真衣は申し訳なさそうな顔で尋ねた。
「ごめんなさい。これから勉強ですか?」
 わたしは教科書と資料をかき集めながら言う。
「あぁ……、別にいいの」
 そして積み重ねると、わたしは続けて尋ねた。
「それよりも何か用? ノートでもコピーしたいの?」
「いえ、大丈夫です。それよりも相談に乗って欲しくて……」
 真衣はそう言うと、笑った。どことなく影がある。わたしは教科書を脇に退けた。こんなものは前日までに終わらせればいい。
 それを見て真衣は安心した顔になった。わたしの向かいに座る。
 わたしは立ち上がって、ウォーターサーバーへと歩いた。コップに冷たい水を注ぐと、真衣に渡す。
「ありがとうございます」
 真衣はそう言ったが、一口飲んだだけでコップを置く。カタンと小さな音を立てた。
 わたしは缶コーヒーを飲むと、聞いた。
「で、どうしたの?」
「あの、こんな話知ってますか? 双子での話なんですけどね。姉の具合が悪くなるとすると妹も具合が悪くなるって」
「ええ」
 手塚治虫のブラックジャックに似た話があったような気がする。もっともわたしは少しも信じていないが、もし仮にあるとしたら素晴らしいとも思う。
 わたしは内心、焦れながらも優しく尋ねた。
「でも、それがどうかしたの?」
 それを聞いて、真衣は唇を震わせる。わたしはその唇を黙って見つめて、彼女の言葉を待っていた。無理に急かしたら飲み込んでしまうに違いない。
 やがて呻くような、絞り出すような声で言った。
「亜衣の……亜衣の様子がここ最近、変なんです」
「変って? 例えば?」
「分かりません。何となくです」
「分からないって……」
 双子の第六感は鋭いかもしれないが、余りに漠然としすぎている。かと言って、気のせいだと言うのも気が引けた。雲が太陽を覆って、机の上に影が差す。
 どうしようかと迷って、缶コーヒーを一口飲んだ。わたしたちは無言になり、女子たちの談笑が大きく響き渡って聞こえてくる。わたしは彼女たちを一瞥すると、席を移るか真衣に尋ねた。
「あ、大丈夫です」
 真衣は小さく言うと、意を決したような顔に変わる。
「ただ……」
「ただ?」
「ただ……最近やたら神経質になってるんです。小さな物音も気にしたり、何だか怯えているみたいで」
 わたしは最初こそ真衣の杞憂だろうと思っていたが、話を聞いているうちに段々とそうとも言い切れなくなってきた。
「亜衣さんには聞いてみた? 最近なんかあったの? とか」
「はい、でも何でもないって言うばかりで……」
 真衣の目から涙がこぼれ、手で顔を覆う。わたしは黙ってハンカチを差し出した。ありがとうございます、と彼女はハンカチを目に押し当てる。声が上ずっていた。
 真衣はしばらく俯いていた。やがて顔を上げると、こう言ったのだった。
「お願いです。先輩の彼氏って探偵なんですよね? 紹介していただけないでしょうか?」
 いつの間にか変なウワサが流れてしまっているようだ、とわたしは独り言ちた。
 有沢翔治なら有益なアドバイスをもらえるかも知れない。少なくとも推理ゲームのシナリオライターとして、双子の姉妹に興味をそそられるだろう。それに自分のオフィスで寝泊まりを繰り返している。健康状態も心配だった。
 しかし無精髭にボサボサの髪の毛……、とても後輩には会わせたくない。そもそも探偵ではないのだ。
 真衣は身を乗り出して言った。話して落ち着いたらしい。
「ダメでしょうか? もちろん調査費はお支払いしますし、何なら泊まっていただいても構いません」
「あのねぇ、亜衣さんのことが心配なのは分かるけど……」
 わたしは苦笑を浮かべてそう言った。それを聞いて真衣はバツが悪そうな顔になった。
「あ……。先輩もよかったら是非」
 わたしが溜息をつくと、真衣は悄然とした顔となる。この誤解をどう解こうかと迷っていると、学食のドアが開く音がした。どことなく重々しい。
 わたしが振り向くと、亜衣の姿が見える。わたしが真衣から話を聞いたからかもしれないが、気怠そうだった。

 わたしを見ると、亜衣は軽く会釈をした。そして真衣に小声で話し掛ける。
「真衣、話し中ごめんね。悪いけど四限目の韓国語、代わりに出てくれない? 朝、少し具合が悪かったんだけど、やっぱり無理そう」
 亜衣はそう言うと、手提げカバンを机の上に置いた。カバンの口を大きく広げ、韓国語の出席カードとペンケースを取り出す。そして学籍番号とハングルをさらさらと書き始めた。ハングルは読めないが、恐らく「田口亜衣」と書かれているんだろう。
 真衣はカードに目を落とすと、戸惑いながらも頷いた。
「別にいいけど……、大丈夫?」
「大丈夫。寝れば治ると思うし。ありがとう」
 亜衣は笑って答えたが、無理に笑っているようにも見えた。
「プリンやゼリーでもコンビニで買っていこうか?」
 亜衣はしばらく考えていたが、首を振った。
「別にいい」
「あ、そうだ。チョコレートなら持ってるけど食べる? とにかく何か口に入れなきゃ」
 真衣はハンドバッグから赤い袋を取り出した。市販品だが、袋は大きい。彼女は袋に手を入れると、適当にチョコレートを掴んだ。そして亜衣に三個のチョコレートを手渡す。
 彼女は包み紙をじっと見つめていた。無言で首を振ると、そのままポケットに押し込む。食欲もないようである。
「よかったら先輩もどうぞ」
「ありがとう」
 わたしはそう言って、真衣からチョコレートを受け取った。そして口の中に入れる。
 真衣はチョコレートの包み紙を破りながら言った。
「余り我慢しないでね」
「ありがとう」
 ごめんね、と続けて亜衣は呟いた。消え入りそうな声である。
「別に気にしないで。亜衣こそちゃんと寝ててね」
「分かった。それじゃあ出席よろしく」
 亜衣はそう言うと、重々しい足取りで学食を後にした。足音が聞こえなくなると、わたしは真衣に言った。
「どうしてここにいるって分かったんだろうね」
「あぁ、それは麻美先輩から聞いたんだと思います。萌先輩がここにいるって教えてくれたのも麻美先輩ですから」
「ひょっとして彼氏が探偵だって言ったのも麻美?」
 真衣はそれを聞いて、きょとんとした顔になる。
「……いえ、萌先輩がそう言ってたじゃないですか。ほら新年会の日に酔っ払って……」
「あぁ……」
 それを聞いて、酒の席での記憶が蘇ってきた。二人のアパートで石井麻美と鍋を囲んだのである。その時、麻美は沖縄旅行のお土産で泡盛を持ってきた。真衣と亜衣は未成年だったから、飲んでいないはずである。
「最初は愚痴だったんですけど……段々と惚気話になっていきました。まぁ萌先輩のマイミクなら彼氏の惚気話には慣れてますので平気ですけどね」
 真実とは時として残酷なものである。わたしは咳払いを一つして真衣の顔を見た。
「と、ところで、亜衣さんの件だけどさ、心配しすぎじゃないの? 確かに風邪みたいだったけど」
「ですかねぇ。でも亜衣は講義をちょっとくらいの体調不良じゃ休まないんです。高校時代、インフルエンザで熱があるのに登校して先生に返されたくらいですから」
 なるほど、とわたしは心の中で呟いた。真衣はさっき過剰に心配しているような印象を受けたが、それを聞いて納得する。
「それに亜衣がこんなこと頼むなんて」
 真衣は亜衣に渡された出席カードを見つめて呟いた。
「こんなこと? 代わりに出席して欲しいって言われたのが珍しいの?」
「珍しいって言うかありえません」
 真衣のきっぱりとした物言いに、わたしは苦笑する。
「どうして? たまにはいいじゃない? 亜衣さんだって人間だもん。たまにはサボりたい時だって……」
「違うんです。亜衣はわたしとずっと間違えられてきて、内心すごく嫌がってました。真衣じゃないのにどうしてみんな間違うんだろうって中学生のときに言ってましたから」
「つまり、真衣ちゃんにだけは頼むわけがない、と」
 わたしが聞くと、真衣は頷いた。
「ええ、そうです」
 例えば亜衣が真衣になりすまし、罪を犯す。そして嫌疑が真衣へ向かうように仕向けてるんじゃないのか、とわたしは考えて首を振った。双子が入れ替わるなんて苔生した推理小説じゃあるまいし。
 それにアリバイ作りだとしたらそもそも変である。彼女は真衣のアリバイを作っているのだ。双子といえば入れ替わり、というのはやはり短絡的だったらしい……。
「萌先輩?」
 真衣に呼ばれて、わたしは我に返る。彼女は不安そうな目をして、身を乗り出しいる。
「彼氏に頼んでいただけますか? 博識なんでしょう?」
 後輩が自分の恋人を頼っているのだ。悪い気はしなかった。それに亜衣に何かあってからでは後味が良くない。わたしは缶コーヒーを飲み干すと笑って頷いた。
「分かった。頼んでみる」
 わたしの答えを聞いて、真衣の顔は明るくなった。わたしは慌てて付け加える。
「任せて、とまでは言えないけどね。まぁ、彼の協力が得られなかったとしても、わたし一人でも何か力になれるかもしれないし」
「ありがとうございます!」
 真衣はそう言うと、コップの水を一気に飲んだ。そして言いにくそうに上目遣いでわたしを見た。
「あの、もう一つお願いが……」
「何?」
 わたしがそう言うと、真衣はあっと声を上げる。視線の先には時計があった。
「もうこんな時間だ。すみません、中国法の講義に行ってきます。またメールしますね」
「行ってらっしゃい」
 わたしが返すと真衣は軽やかな足取りで学食を後にする。わたしは笑うと、民法の資料を引っ張り出したのだった。

 わたしは家の玄関を開けると、階段を駆け上がる。もっと静かに上がりなさい、という母親の小言を適当に聞き流すと、わたしは自室のドアを開けた。
 六畳間だが、木製のベッドで手狭に感じる。机はスチール製で背が低い。その上には黒いノートパソコンが畳まれていた。その隣には小さな観葉植物が置かれていて、モノトーンの部屋に彩りを添えている。
 わたしはナップサックを床に置くと、観葉植物の根元へ静かに水を注いだ。そしてベッドにだらしなく寝転がると、有沢に電話を掛ける。どんな格好で話しているかなんて彼からは見えない。
 挨拶もそこそこに、相談があると切り出した。そして亜衣の一件を話すと、有沢はときおり確認を取りながら丁寧に聞いてくれる。
「それで僕に電話を?」
 わたしが一通り話し終えると、有沢は尋ねた。責める様子は少しもない。
「そういうこと。亜衣さんは何が不安なんだと思う?」
「それが分かればもう不安とは言わないよ」
 有沢の苦笑が電話口から漏れてくる。
「それよりも何で深酒なんかしたのさ。何か嫌なことでもあった?」
 有沢が心配そうに尋ねた。そして付け加える。
「言いたくなかったら別にいいんだけど」
「何でもありません」
 わたしが切り口上に言うと、有沢は怪訝そうな声で言った。
「そう? ならいいけど」
「だってさ、クリスマスも年越しも一緒にいられなかったから」
 わたしは無理に甘えた声を出そうとして、拗ねた子供のような声になってしまう。やはり恋人と言っても男性に甘えるのは苦手だ。
 溜息をつくと、さらに続けた。
「しかもミステリの新刊が出たからでしょ? せっかくクリスマスなんだし映画でも見に行こうと思ってたんだけどなぁ……」
「ごめんごめん」
「まぁ別にいいんだけどね」
 今更だし、いつもだし、とわたしの口をついて出かかったが、すんでのところで飲み込んだ。これ以上責めても二人とも気分を害するだけだ。
 寝ながら電話していると、姿勢が次第に辛くなってくる。ベッドの上であぐらを掻くと、気を取り直すつもりで続けて言った。
「それで亜衣さんの件だけどどうする? 真衣ちゃんは泊まりがけでも構わないって言ってるけど、あんたの仕事もあるし……」
「ちょっと待ってて、今予定を確かめるから」
 電話の向こうで物音が聞こえてくる。有沢がデスクの上を引っ掻き回しているらしい。しばらくして再び彼の声が聞こえてきた。
「お待たせ。二時間程度のゲームシナリオが三件、今月までか。まぁ資料とノートブックさえ持ち込めば何とかなる、かな」
「本当?」
 わたしは嬉しさと同時に申し訳なさが込み上げてくる。それを察してか、有沢は言った。
「まぁ喫茶店で話を聞くだけでもいいしね。それよりも僕が泊まって大丈夫?」
「何が?」
「いや、女性のアパートに男の僕が泊まっていいのかなぁ、とか」
「まぁ、わたしも泊まるんだし、別にいいんじゃない? 真衣ちゃんも泊まって欲しいみたいだったし」
 わたしはつい強がってしまう。浮気の不安、亜衣への嫉妬、そして自己嫌悪が入り混じっていた。
 雑念を振り払おうと、わたしはゆっくりと首を振った。
「で? 泊まるの? 泊まらないの?」
「まぁそう言うことなら……、いつがいい? 向こうの予定だってあるだろうし」
「とりあえず泊まるかどうか聞きたかっただけ」
 わたしは有沢に続けて言った。
「……本当にありがとう」
「僕で力になれるんなら」
 それを聞いて、わたしは不安も嫉妬も薄らいだ気がした。ほんの少しだけ。最悪の事態を免れるなら、わたしの嫉妬心など些細な問題かもしれない。
 しかし彼は誰にでも優しい。もちろん他の女性にも。そんな考えが浮かぶと、奪われしまうのではないか、と思えてならない。
「あぁそうそう、わたし抜きで他の女の部屋とかに泊まったら、そいつともども生き埋めにしてやるかねら」
「物騒なことを……」
「冗談に決まってるじゃない。たまにはいいでしょ? こういう恋人らしいこと言っても」
 わたしは辛うじて冗談めかして言えたものの、最後の最後で不安に負けてしまった。愛してる、と本当は素直に言いたかったのに。
「また連絡するね」
 わたしはそう言うと、電話を切った。彼からの返事を待たずして。

 真衣に連絡を入れる前に、手がかりを得たい。そう考えて、わたしは麻美に電話を掛けた。ウワサ好きの彼女なら何か知ってるかもしれない。
「もしもし、わたしだけど」
 麻美の明るい声が聞こえてくる。
「あぁ、萌? どうしたの?」
「今、大丈夫? 亜衣さんのことで……」
「あぁ、あの子? 真衣さんの相談ってやっぱり亜衣のことだったんだ」
「……まぁそんなところ。何か最近、食欲がないみたいで心配だって言ってた」
 亜衣のことで変なウワサが広まったら困る。詳しくは伏せておこう。
「単なる風邪じゃないの? それか生理痛とか? 今日も体調悪そうだったし」
「かなぁ。だといいんだけど。何も知らないよね?」
 麻美は苦笑して言った。
「全然。だって同じ大学って言っても文学部と法学部だし。そもそも一年と三年じゃ講義だって余り被らないし」
「え? 亜衣さん、一年だっけ?」
 てっきり真衣と同じ二年だと思ってた。真衣が二年生だから亜衣も二年生だろう、と。
「そうよ。浪人したんだって。まぁあの二人には面白い話がたくさんあるんだけど、聞きたい?」
 麻美はそう言うと含み笑いを漏らした。どうせ話したくて堪らないくせに、とわたしは内心で呟いたが、興味を持った振りをする。
「何々?」
「例えば、文学部二年の吉元くんって子と真衣さんは付き合ってるんだけど」
「あぁあの色黒の?」
「あれ? 知ってるんだ?」
 麻美は意外そうに尋ねる。
「うん、同じ講義だったの」
 吉元隆史。小柄ながらもよく引き締まった体格をしている。確か彼も文学部だったはずだ。
「ふうん、何の講義?」
「スポーツ基礎Iだよ。で、吉元くんと真衣ちゃんがどうかした?」
 わたしはさり気なく話題を元に戻すと、麻美は言った。
「それが最初、亜衣に告白したんだけど」
「あれ? でも今、真衣ちゃんと付き合ってるって言わなかった?」
 亜衣から真衣に鞍替えしたんだろうか? わたしはそう思いながら麻美に尋ねた。
「それがね、間違えたの」
「間違えたぁ!? 本当?」
 わたしは素っ頓狂に聞き返した。確かに二人はそっくりである。しかし間違えて告白するなんてにわかには信じがたい。
「うん、一般教養で心理学ってあるじゃん? 三人ともあれを取っててさ。講義が終わると吉元くんは亜衣を呼び止めて告白したの」
 麻美は大袈裟に溜息をつくと、続けて言った。
「実は吉元くんは真衣さんに告白したかったってわけ。あ、でも二日間くらいは続いたらしいけどね」
 続いた? 恋は始まってすらいなかったんじゃないの? 内心でそんなことを考えつつ、わたしは後を促した。
「うん、それで間違いに気付いたときは気まずかったってさ」
 それを聞いて、わたしは苦笑した。
「さすがにねぇ……」
「でも亜衣もそのまま強引に付き合えばよかったのにね。真衣と間違えた責任をとって、とか泣きつけば……」
 麻美はとんでもないことを言い出した。声こそ真剣だが、冗談だろう、多分。わたしは適当に相槌を打つと言った。
「それにしても二日間だけの彼氏、か。悲劇だよね」
 そして亜衣の言葉を思い浮かべる。真衣じゃないのにどうしてみんな間違うんだろう、か。窓の外では風が強く吹いている。
 しかし麻美はあっけらかんとしていた。
「そう? 喜劇だと思うけど……、まぁ間違えられたのは可哀想だと思うけど、でも男なんてどれも一緒だって。まぁあの二人も破局へのカウントダウンが始まったみたいだし、男にの扱いもこなれてくるんじゃない?」
「破局? どうしてそんなことが言えるの?」
「だって、こないだ学食でさ、真衣さんがアイス選んでたの。真衣さんが『この味にしようかな?』って聞いても吉元くんは『それでいいんじゃないか?』って余り興味がないみたいだったし」
 麻美はそう言うと、続けて言った。
「そんなことよりも優しい彼氏とは上手く行ってる?」
 ニヤニヤとした彼女の顔が目に浮かぶ。ギブ・アンド・テイク。内心で溜息をつきながら、わたしは麻美が食いつきそうな話題を探した。
「そうねぇ……。今度、一緒に泊まることになりそう」
 麻美はそれを聞いて、口笛を吹く。思った通り、上機嫌になった。
「頑張って。既成事実さえ作っちゃえば、あとは萌のものだから」
「既成事実って……」
 わたしは思わず苦笑するが、麻美は構わず続けた。
「お互い酒が入るんでしょう? そこで酔った振りをして甘えるの。そのまま行けば、相手は覚えてないって」
「そうかなぁ」
「男には強いカクテルを勧めればいいのよ。スクリュードライバーとかね」
 それを聞いて、わたしは乾いた笑いを浮かべる。そして酔って有沢に甘える姿を思い描いてみた。とんだ茶番である。三文喜劇にもならない。
 わたしは勢いよく頭を振って、想像を打ち消した。そんなマネをして女の矜持を傷つけるくらいなら、舌を噛み切って死んだ方がいい、と考えながらわたしは言う。
「ま、まぁ参考にする。ありがとう」
「それじゃあ、また進展あったら聞かせてね」
 麻美の楽しそうな笑いを、わたしは適当にあしらった。電話を切るとスマホを充電器に差し込んむ。部屋は段々と薄暗くなり始めていた。わたしは窓越しに空を見上げると、鉛色の雲が広がっている。
「嫌な天気……」
 そう呟くと、スマホが鳴った。ディスプレイに目を向けると、真衣からのメールである。どうやら亜衣の机の引き出しにバタフライナイフが入っていたらしい。誤字の目立つ文面とともに写真が添付されている。
 詳しく話を聞きたいから大学近くの喫茶店で会えないか、とメールで尋ねた。すぐに返信がくる。「分かりました」とだけ書かれていて、絵文字も使われていない。
 わたしは一階に駆け下りると、母親は夕飯の支度をしていた。わたしはキッチンのドアを開ける。そして顔だけ出して言った。
「ちょっと出かけてくる!」
 母親は振り向いて聞き返す。
「こんな時間に?」
 そして俎板に向き直ると尋ねた。
「……晩ご飯はどうするの?」
 寂しさを悟られまいとしているような後ろ姿である。家で食べる、とわたしは告げた。余り遅くなるなら連絡してね、とそれを聞いて母親は言う。
 解ってる、とわたしは笑うと傘を掴んだ。そして勢い良く玄関のドアを開けたのだった。

 喫茶店のドアを開けると、辺りを見回した。ログハウスのような木目調の内装である。大きな窓が取り付けられ、店内は明るい。
 わたしは真衣を見つけると、そのテーブルへ向かった。
 真衣はホットミルクを飲んでいたが、小刻みに震えている。わたしは座ると、アイスコーヒーを頼んだ。真衣へ向き直ると、彼女は呟くように言う。
「萌先輩、ごめんなさい」
 そしてホットミルクを一口飲んで俯く。それを見て、わたしは慰めた。
「別に気にしてないから安心して。そりゃあねぇ、あんなものが出てきたんだから誰だって驚くよね」
「ありがとうございます」
 真衣の声こそ弱々しかったが、わたしの顔を見て安心したんだろう。もう震えてはいない。彼女は顔を上げて、さらに続けた。
「亜衣ったらわたしに話してくれればいいのに」
「そうねぇ……」
 言い淀んでいるところへ、ウェイトレスが注文を運んできた。サービスとしてナッツが添えられている。
 わたしは軽く頭を下げると、コーヒーを一口飲んだ。苦さを味わうと、真衣へ優しく言う。
「何とも言えないけど、仲が良いからこそ秘密にしておきたいことだってあるんじゃない?」
 それを聞いて、真衣は頷いた。
「ええ、そうですね。でも……」
「まぁまぁ、それでバタフライナイフなんかどうして見つけたの? 詳しく聞かせて」
「はい、ちょっと探し物をしてたんです」
 真衣はそう言うと、頭を掻きながら続ける。
「わたし、子供の頃からどこかに置き忘れることが多いんですよ。だから亜衣の部屋に忘れたのかなと」
「それで亜衣さんの部屋に入ったのね?」
「はい……机の上を見たらレシートが置いてあったんです。バタフライナイフって書いてあったので、びっくりして……」
「レシートの写真とかって……撮ってないよね」
 真衣は無言でゆっくりと首を振った。わたしはコーヒーを飲むと、言った。
「そりゃそうだよね。気も動転してただろうし」
 期待してもムダだろうけど、一応は聞いておこう、とわたしは続けて尋ねる。
「何も心当たりないんだよね?」
「あればとっくに話してますって」
 彼女は声に出して、刺々しい口調に気付いたらしい。目を伏せて答える。
「すみません。何も心当たりはないんです……」
 わたしはコーヒーを一口飲んで気分を落ち着かせた。そしてにっこりと微笑んだ。変に応えるよりも、何事もなかったかのように質問を続けよう。
「……それにしても亜衣さん、よく許してくれたね」
「あぁ、亜衣は今バイト中なんです。だから内緒で」
 真衣はバツが悪そうに言う。そしてホットミルクを飲むと、窓越しに空を見上げる。雨はまだ降り続いていた。
「バイトって……体調もう大丈夫なの?」
 わたしがそう尋ねると、真衣は向き直る。そして苦笑交じりに首を振った。
「いえ、まだ具合が悪いみたいなんですけどね……。でも頭が痛くてもバイトはバイト。他のスタッフに迷惑が掛かるって言ってるし。体調が悪い時くらい休めばいいのに」
 そうよね、とわたしは短く頷く。
「それに他のスタッフにかえって迷惑が掛かるってことも……」
 そう言いかけると、真衣は短くあっと声を上げた。わたしは身を乗り出して尋ねる。
「どうしたの?」
 しかし真衣は明らかに躊躇ったような顔になった。
「でも、まさか……」
「とりあえず話してみたら? 真衣ちゃんがスッキリするんならわたしはそれでいいし。今回の一件と関係なくても。ね?」
「そう、ですよね」
 真衣はそう言ったが、唇をきつく噛み締めていた。外では風が木々を掻き鳴らしている。
 しばらく彼女は黙っていたが、わたしを見据えた。そして居住まいを正してこう言ったのである。
「亜衣はわたしがストーカーに遭ってるんじゃないかって思ってるみたいなんです」
「ストーカー?」
 わたしは聞き返すと、真衣は戸惑いながらも頷いた。
「は、はい……。わたしたち、同じコンビニでバイトをしてるんですよ。で、バイト先に芦屋さんって人がいまして……」
「その芦屋さんって人が真衣ちゃんを?」
「亜衣が言うには、ですけど。実は有沢さんが泊まるのも、亜衣にはストーカーの調査だってことにしてあるんです」
 なるほど、と腑に落ちた。道理で亜衣がすぐに快諾したわけである。わたしは一人頷くと尋ねた。
「もう一つ頼みがあるって言ってたよね。このこと?」
「ええ、まぁ……」
 真衣はそう歯切れ悪く答えた。決まり悪そうな顔である。そして小さな声で謝ると、言い訳をする子供のような声で続ける。
「こんなことで芦屋さんに迷惑は掛けたくなかったんですよ。でもバタフライナイフが出てきて……それで……怖くなって……それで……」
 次第に真衣の声が小さくなる。その先は言いたくないに違いない。
大丈夫だから、とわたしは慰めようとしたが、どんな台詞も安っぽく感じてしまう。無言で次の言葉を待った。
「亜衣は何を考えているんでしょうか? そりゃ確かに今日だってリップクリームがなくなって探してましたけど」
「そうなんだ。でもだからってストーカーなんて話、信じられないよね」
 わたしは言うと、真衣は頷いた。目には心配と怯えが宿っている。
「最近、亜衣が別人みたいに思える時があるんです。確かに見た目は亜衣なんですけど、まるで異星人と入れ替わっているような感じです」
 真衣の唇は神経質に震えている。
 双子では姉が体調を崩すと、妹も体調を崩すらしい。そうだとすれば亜衣が神経過敏になれば、真衣もまた神経過敏になるんだろうか? わたしはそんな疑問を抱きながら、コーヒーを飲むと言った。
「そう。でもストーカー被害にあってるから調べて欲しい。そう言うことにしておくとしても、芦屋さんの名前は漏れてたんじゃない? 亜衣さんの口からね」
「ええ、それは別に構いませんでした。むしろ有沢さんが調べて、亜衣の前で言ってもらいたかったんです。わたしはストーカーになんか遭ってないって。早く亜衣を安心させいんですよ」
「解ってる」
 わたしは笑って頷いたが、彼女こそ安心したがっているように思えてならない。できるだけ早く調べて欲しい、と真衣は遠慮がちに付け加えた。
 余計な心配をさせてしまうのでは、とわたしは危惧しながらも尋ねた。早目に聞くべきことを聞いて、有沢の手間を省こうと思ったのだ。
「ねえ、もし、真衣ちゃんが本当にストーキングされてたらどうするの?」
「丁重にお断りします。もちろんそれで辞めてくれれば、の話ですけどね」
 彼女は肩を竦めると、顔を赤らめて続ける。
「わたしには吉元くんがいますので。あぁでもお礼を言う、かな」
「お礼? どうして?」
 わたしは尋ねると、真衣は身を乗り出す。そしてうっとりとした顔で言った。
「だってわたしを選んでくれたんですよ。女としてはやっぱり嬉しいじゃないですか。だからありがとう、でもごめんなさい、って言うと思います」
 わたしは曖昧に頷いたものの、実は全く理解できない。愛してもいない男に言い寄られても迷惑なだけである。わたしならどうするだろうか、と頭の片隅で考えながらコーヒーを飲み干したのだった。

第二部 二人の部屋

「お邪魔します」
 わたしたちはそう言うと、真衣たちのアパートに入った。わたしは着替えをキャリーバッグに詰め、おまけにセカンドバッグには講義の教科書が入っている。小さなリュックサック一つだけ背負っている有沢が羨ましい。散髪には行っていないようだが、一応は髭を剃っている。
 彼はさすがに肩身が狭いらしく、しきりに身体を動かしていた。
「もう、堂々としてればいいのに」
 わたしが苦笑交じりに囁くと、真衣がダイニングのドアを開けている。2DKのダイニングは八畳間で、ティーテーブルと座布団が置かれている。脚立代わりに使ってるんだろう、丸椅子も隅にあった。低い食器棚の上には可愛らしいぬいぐるみが飾られている。
 ドアが二つあり、「真衣」「亜衣」と書かれたネームプレートが仲良く揺れていた。木彫のものでペアになっている。バタフライナイフがあるような部屋にはとても見えない。
「あ、これよかったら亜衣さんと食べて」
 わたしはキャリーバッグからパウンドケーキを取り出すと真衣に手渡した。
「わざわざありがとうございます。手作りですか?」
 真衣は恐縮して言う。
「まぁそんなとこ。口に合うか分からないけど」
 ふと目を落とすと、わたしのポケットからケーキ屋のレシートが顔を覗かせている。奥に押し込みながら、真衣へ紹介した。
「……これ、じゃなかった、彼が有沢翔治」
 初めまして、と有沢は微笑む。わたしは真衣を一瞥すると、有沢へ言う。
「彼女が真衣ちゃん」
「よろしくお願いします」
 真衣は有沢へ深々と頭を下げる。彼女は立ち上がると、ドアを開けて言った。
「ここが亜衣の部屋です」
 亜衣の部屋はフローリングの六畳間だった。本棚と使い古した学習机が置かれている。真衣は目を細めてそれを眺めていた。昔を懐かしんでいるようである。
「亜衣さんは今、どちらに?」
 有沢の問いに、真衣は答えた。
「今、大学に行ってて、そのあとはバイトに直行です。帰りは八時過ぎになるかと」
「夕ご飯は一緒に食べられそう? 亜衣さんにも色々聞きたいだろうし……」
 わたしが尋ねると、真衣は戸惑いがちに答えた。
「お二人さえよろしければ……」
「別に構わないよ。この人なんていつも九時、十時くらいにカップラーメンを食べてるんだから」
 有沢は苦笑交じりに頷いた。それを見て、真衣はおかしそうに言う。
「仲がいいんですね。羨ましい」
 それを聞いて、わたしは笑顔で頷いた。
「わたしたちは単なるクサレ縁。そういう真衣ちゃんだって吉元くんがいるでしょ?」
「そうですけど、何か余所余所しさがあるんですよ」
 真衣は少し寂しそうな声でそう言うと、溜息をついた。吉元が亜衣と間違えて告白したらしいが、それが尾を引いているんだろうか。
 どうして双子に生まれちゃったのかな……、という真衣の呟きが聞こえてくる。いかにも亜衣が抱いていそうな悩みだ、とわたしは感じた。しかし繊細な悲鳴こそ共鳴しやすいのかもしれない。
 やがて彼女は肩を竦めると、思い出したように言った。
「ああ、お二人がこの部屋に泊まること、亜衣には言ってありますから」
「ふうん。真衣の部屋に泊めなさいってよく言われなかったね」
 わたしが尋ねると、真衣は答えた。心苦しそうである。
「散らかってて泊めたくないと言ったんです。それにわたしがストーカー被害に遭ってると思ってるんですからね」
 有沢はわたしをチラッと見ると口を挟んだ。
「別に僕一人で大丈夫だからさ。女性同士三人で寝たら? 亜衣さんだって自分の部屋に二人もいたんじゃ余りいい気はしないだろうし」
 このままだとわたしに亜衣の部屋を譲るだろう。そして彼はダイニングの冷たい床で寝るに違いない。ストーカーがくるかもしれないからと、わたしたちに部屋の鍵を掛けさせて。
 わたしは笑って有沢に囁く。
「別にいいでしょ? 相部屋でも」
 そして有沢の手をそっと握ると、続けた。
「こうやって付き合ってるんだし」
「……そうだね」
 有沢が言った途端、母親の言葉がふと蘇る。「成人式迎えたんだから、どこで何しても自由。だけど赤ちゃんだけは作らないでね。妊娠したらあなたにも半分は責任あるのよ。だけど子供には何の責任もないから」。解ってるから心配しないで、と邪険に扱って出て行ってしまった。
 近くの公園からは幼稚園児の遊ぶ声が聞こえてくる。「余り遠くへ行かないでよ」と呼びかける女性の声……。それらの声を聞いて、わたしは心の中で母親へ呟いた。解ってるから心配しないで、と。
 自由だからこそ不自由かもしれない、と思いながら有沢の顔を見上げた。そして、呟くように言う。
「信じてるからね」
 それを聞いて、有沢は力強く頷いた。
「もちろん、何か手がかりは掴むさ」
 本当にこれなら安心できそうである。密かに溜息をついたが、彼らしい、と思い直した。わたしは笑うと、キャリーバッグとリュックサックを亜衣の部屋に運び込んだのだった。

「どうして生物学の本なんかあるんだろう」
 亜衣の本棚を一冊ずつ見ながら、有沢は呟く。ゴミ箱の中を覗き込んでいたわたしは、顔を上げた。
「あぁ、教養科目の教科書だよ」
 ふうん、と有沢は生返事をすると、本をパラパラめくり始める。
 本棚には文学史や韓国語などの大学の教科書はもちろん、江國香織やリリー・フランキーの本が並んでいる。
 分厚いガルシア・マルケスの『百年の孤独』が居心地悪そうに並んでいた。他にもアストゥリアスという作家の本が並んでいる。『グアテマラ伝説集』。恐らく民俗学や文学の講義で使ったんだろう。
 有沢は生物学の本に目を這わせていたが、わたしに尋ねた。
「このアンダーラインってテスト対策かな?」
 わたしは有沢に歩み寄ると、本を受け取る。見ると、「一卵性双生児のDNAは同じである」という文章に下線が引かれていた。
「じゃないの? あれ? でも……」
 わたしは違和感を覚えて呟く。
「どうしたの?」
「いや、この授業って採点が甘いって有名でさ。出席も取らないし、講義の感想を一言でも書けば単位がもらえるんだよ。……先生が最初の講義でそう言ってたし」
「そのことは亜衣さん知ってたの?」
「さぁ、そこまでは分からない。でも真衣ちゃんから聞いたんじゃない? わたしと講義、受けてたから……」
 わたしが言っても有沢は腑に落ちないような顔である。それを見て真剣に尋ねた。
「気になる?」
 まあね、と有沢は言ったが、考え事をしているらしい。完全に上の空である。今は何を話しかけてもムダだろう、と思いながら、わたしはペンライトで本棚と床の隙間を照らす。綿埃が少し落ちているだけで、めぼしいものは見当たらない。
 わたしが調べていると、一枚の紙が目の前で舞った。顔を上げると有沢が本を戻している。この紙は本のページに挟んであったらしい。わたしは摘み上げると、彼に見せて言った。
「何だろう」
 それは名刺くらいの大きさのメモ用紙だった。「リップクリーム、ペットボトルのキャップ、鉛筆?」などと記されていて、その隣には「T」や「F」そして何の文字も書かれていないものもある【図1参照】。
リップクリームT
ペットボトルのキャップ
鉛筆?F

【図1】

「買い物のメモかな?」
 わたしが当てずっぽうで言うと、有沢は笑いながら首を振った。
「ペットボトルのキャップなんてわざわざ買う?」
 有沢はそう言うとスマホを取り出す。写真を撮ると、そのメモをポケットに押し込んで続けた。
「あとで確認を取ろう。今、考えてもどうにもならないよ」
「それもそうだね」
 わたしは上から順に机の引き出しを開けていく。空き巣みたいだが仕方がない。
「こっちは小物類ばっかり」
 わたしはそう言いながら、スマホで写真を撮った。碁盤の目のような仕切りにクリップ、付箋、画鋲などがキレイに並べられている。
 奥までペンライトで照らしたが、バタフライナイフどころかカッターの刃すら見当たらない。溜息をつくと、引き出しをそっと閉める。
 有沢は本棚を見上げて呟いた。上には段ボール箱が置かれていて、可愛らしい丸文字で「小物・アクセサリー」と書かれている。
「あの段ボール箱は何だろう」
「あぁ、余り使わない小物類をまとめたんたんじゃないの?」
 有沢はおもむろに抽斗を開けると、ペンライトで奥をしばらく照らしていた。しばらく考え込んでいたが、抽斗を閉めると言った。
「調べてみよう」
 有沢は本棚の前に立つと箱へ腕を伸ばす。彼がバランスを崩し、わたしに向かって倒れ込んで……こなかった。そんな話は今や三文ネット小説家しか思いつかない、と溜息をつく。
「どうしたの?」
 有沢は箱を下ろすと、尋ねた。怪訝な顔付きである。わたしは短く答える。
「別に」
 わたしは笑って続けた。
「そんなことより早く開けましょ」
 わたしは手を差し伸べて箱を支えた。その時、有沢の指がかすかに触れる。有沢はそれに構わず床に下ろすと、箱のフタを開ける。丁寧に可愛い小物が詰められていた。
「これって……」
 わたしは思わず呟いた。バタフライナイフのレシートとパッケージが入っていたのである。有沢は写真を撮ると、パッケージの中を改める。しかし何も入っていない。
 外では風が不気味な唸り声を上げていた。

 真衣はダイニングで夕飯の支度をしていた。簡単なものでいいとわたしは言ったのに、彼女は張り切っている。ガスオーブンの前に屈んでいた。
「あの、すみません。少しお時間いいです?」
 有沢に声を掛けられ、真衣は振り向いた。
「はい」
「亜衣さんの部屋からこんなものが出てきたんですけどね」
 有沢はそう言うと、スマホの写真を見せる。真衣は解決したと思っているんだろう。顔を上げると、安心したような顔で呟いた。
「そうですか……」
「でも肝心のナイフは出てきませんでした」
「えぇ? それじゃどこにあるんです?」
 真衣は驚いた顔付きで尋ねた。有沢は首を振って答える。
「まだ分かりません。そこで三つお聞きしたいことが……」
「何でしょうか?」
「真衣ちゃん、亜衣さんに生物学のテストのこと話した?」
 わたしが尋ねると、真衣は答えた。
「はい。話しましたけど……」
 声には戸惑いと苛立ちを含んでいたが、有沢は満足そうに頷いた。ポケットから紙切れを取り出すと真衣に手渡す。
「あとこれは何のメモか心当たりありますか?」
 真衣が受け取ったのを確かめると、有沢は付け加えた。
「亜衣さんの部屋に落ちてたんですけど」
「リップクリームにペットボトルのキャップ……」
 真衣は天井を見つめていたが、思い出したようにあっと叫ぶ。有沢は身を乗り出して尋ねた。
「何かお心当たりが?」
 真衣は戸惑いながらも頷く。
「え、ええ。わたしがなくしたものです」
「なるほど。このTとかFとかは何でしょう?」
 さすがに分からないと思うけど。わたしは苦笑交じりに傍で聞いていたが、真衣は笑って言った。
「多分、正の字です」
 そしてFを指さすと続けた。
「これはアルファベットのFではなく三という意味です。亜衣はFみたいな正の字を書きますから」
「そうでしたか。参考になりました。それともう一つ。亜衣さんは真衣さんの部屋へ自由に出入りできるんです? それとも鍵は普段お掛けに?」
 それを聞いて、真衣は顔を曇らせた。
「まさか。姉妹ですし。……亜衣がわたしの部屋にナイフを隠したと?」
「ええ、そうかもしれません」
 有沢の顔を見ると、物憂げな顔をしている。
「冗談じゃありません!」
 真衣はそう叫ぶと、ガスオーブンを強く開けた。熱い空気が漂ってくる。
 彼女の目を見据えながら、有沢は静かに言った。
「もちろん冗談じゃありませんし、冗談じゃ済まされません。例えばバタフライナイフで何か事件が起きたとします。凶器が真衣さんの部屋から出てきたら?」
 有沢が畳みかけるように言うと、真衣の目には不安と怯えが宿り始める。オーブンの火を消すと、何度も呟いた。
「どうして、どうして……」
 しかし、わたしには空々しく聞こえて仕方ない。やがて真衣は神妙にうなだれると言った。
「すみません……つい」
 安心させるためだろう。有沢は微笑んだ。
「それで念のため、真衣さんの部屋を調べたいんですが……。もちろん立ち会っていただいても構いませんよ」
 真衣は微笑を弱々しく浮かべる。そして首を振って言った。
「いえ、信用してます」
 わたしたちは真衣と部屋へ向かう。そしてドアを開けると、彼女は言った。
「それじゃ……わたしは料理を作ってます。何かあったら声を掛けてくださいね」
 わたしが安心させようと笑ったが、真衣は振り向かずに、ダイニングへ戻った。重たい足音とともに……。

 真衣と亜衣の部屋は家具こそ違っていたが、同じ造りだった。有沢は真衣の部屋に入ると、本棚を眺める。文芸部の同人誌、精神疾患、統合失調症の本が並んでいた。どの本も大学図書館のバーコードが貼られている。
 有沢は本を手に取り、しばらくパラパラとめくっていた。本を元の位置に戻すと、わたしに尋ねる。
「福祉の講義ってあるの?」
「うん、心理学科もあるからね」
 有沢はそれを聞いて、ふうん、と頷いただけだった。
 わたしは有沢の顔を一瞥したが、相変わらず何を考えているのかは読み取れない。
 これ以上は何を聞いても答えてくれないだろう。わたしは肩を竦めると、ゴミ箱の中を覗き込む。メモが丸めて捨ててあった。摘み上げて広げると、『百年の孤独』、『グアテマラ伝説集』、『マジックリアリズム』と書かれている。そして11/7とも。これらの本は亜衣の部屋にあった。
 つまりこのメモは亜衣が書いたのである。恐らく講義か何かで紹介されたが、買ったのでメモを捨てたんだろう。
 そして亜衣はわたしたちが部屋を使うと知り、部屋を片付けたに違いない。中身も移して、ゴミ箱も空にしたんだろう。念のために裏を見ると、322『法律の歴史』などの一覧が出版社、値段、日付とともに活字で打ち出されていた。真衣が本屋で調べたものを打ち出したのだろうか。
 それにしても二人分のゴミはかなりの量だ、と漁りながら一人溜息をついた。一つ一つ写真に収めなくてはいけない。チョコレートの包み紙一枚、スーパーのレシート、服のボタンに至るまで。
 それでもわたしが持ち込んだのである。落ちている紙片を摘み上げると、品質表示タグだった。よく見るとナップサックのものである。裏返すと赤いシミが付いていた。
 わたしは写真に収めると、黙々と作業を続ける。後ろでは有沢が机の抽斗を開けていと。その音とシャッター音だけが部屋に響き渡っている。
 間もなく、音が止んで有沢が声を掛けた。
「何か見つかった? 手伝おうか」
 わたしは迷ったが、首を振る。そして、振り返ると無理に笑って答えた。
「ううん、別にいいよ。先に部屋で休んでるなり仕事するなりしてて」
 しかし有沢は立ち去ろうとも、手伝おうともしない。黙ってベッドの柵に腰を下ろしているだけだった。ありがとう、とわたしは心の中で呟いた。

「ナイフ見つからなかったね」
 亜衣の部屋に戻ると、わたしはそう言った。有沢があぐらを掻くと、わたしはスマホを取り出す。
「データ送ろうか? ……それとも一緒に見る?」
 そう言うと、有沢は即答した。
「一緒に見ようか。いろいろ聞きたいことも出てくるだろうから」
「オッケー」
 わたしはそう言うと、有沢の隣に座る。二人でスマホを見ようと彼へそっと身体を寄せた。わたしは有沢の表情を見ながら、スマホをタップしていく。作品名の書かれたメモが映し出されたが、有沢はうんともすんとも言わない。わたしはタップして次の写真を見せる。
「これが裏面」
 わたしがそう言った途端、有沢はわたしの手を掴んだ。
「ちょっと待って。今のメモ、もう一回見せてくれる?」
「え? このメモ?」
 相変わらず変なところが引っ掛かるようだ。わたしはタップして例のメモを見せると言った。
「このメモがどうかした?」
「一つ聞きたいんだけど、文学の講義ってあるよね?」
「当たり前じゃない。文学部があるのよ」
「じゃあ南米の作家ってレポートに出る?」
「な、南米?」
 唐突なこの質問にはさすがに面食らってしまう。有沢は頷くと、わたしに言った。
「うん、中南米。グアテマラとかね」
「さぁ……そんな講義はなかったと思うけど」
 わたしはそう言うと、スマホで大学のサイトにアクセスする。講義一覧を眺めていたが、首を振った。南米文学なんて講義があったとしたら、物珍しさに惹かれてガイダンスだけでも受けているだろう。
「スペイン文学ならあるけど南米文学はないよ。でもどうして南米文学なんかあると思ったの?」
 わたしが聞くと、有沢は首を振った。
「ガルシア=マルケスもアストゥリアスも中南米の作家なんだよ」
「そうなんだ。……何かお勧めは?」
 わたしは何の気なしに聞いたつもりだったが、有沢は身を乗り出して答える。
「この『百年の孤独』が面白かったよ。十二時間ぶっ続けで読んで首が痛くなったけど。赤ちゃんに豚のしっぽが生えてくるって本気で信じているインディアンたちの話なんだ」
「へぇ……」
 わたしは呟くと、本棚を一瞥した。
「僕持ってるから今度、貸そうか?」
「うん。この件が落ち着いたら貸して。わたしは……日本法制史って興味ある? アンダーラインとか書き込みとかしてあってもいいなら教科書貸そうか?」
「面白そうだね」
 それを聞いて、有沢は笑顔で頷いた。子供のように屈託がない。
「じゃあ今度貸すね」
「ありがとう」
 そして彼は画面に目を落とすと、有沢は続けて言った。
「それで話を戻すと、二人のうちどちらかが図書館で南米文学について調べててメモした」
「え? ちょっと待って。何で図書館だって言い切れるの?」
 わたしが遮ると、有沢はスマホをタップする。次の写真が映し出されると、画面を指した。
「これって裏面だよね。322、『法律の歴史』って書かれてるけど、この322っていう数字は図書館の分類番号だと思うよ。322は法制史だったはずだから」
 大学図書館のメモ用紙に南米作家の名前が書かれている。レポートを書く時に調べた。有沢はそう踏んだんだろう。亜衣が図書館の検索端末を使い、傍らのメモ用紙に鉛筆を走らせている……。その姿が浮かんだ。
 わたしは笑いながら言う。
「なるほど。それにしても相変わらず変な知識ばっかり」
「いやぁ仕事で本のデータベースを作ったことがあってさ。そのついでに調べてみたんだよ」
「その〈ついで〉を減らせばもっと早く仕事が終わるんじゃない?」
 そうすれば、わたしと色んな場所に行けるのに、と内心で付け加えた。わたしがつい軽口を叩いてしまっても、彼は顔色を変えない。乾いた笑いを浮かべている。
「全ての人間は、生まれながらに知ることを欲する」
 有沢の大げさな台詞を聞いて、わたしは吹き出した。
「何よそれ」
「アリストテレスの『形而上学』。でもまぁ、確かに萌ちゃんの言うことは正しいんだけど、つまらない知識でもあると物の見方が変わって面白いよ」
「全くもう。つまらない知識なんて誰も言ってないでしょ? それに現にこうして役に立ってるじゃないの。ね?」
 わたしはそう言うと、有沢の顔を見つめる。からかっておいて無責任だが、彼の卑屈な姿なんか見たくない。特に強い好奇心と幅広い知識に対しては。
「まぁそうだね」
 彼は頭を掻きながら、生返事をした。わたしのスマホをタップして次を見ていく。やがて全く別の写真……吉元とわたしがテニスをしている姿が映し出された。有沢はそれを見て、ありがとうと言うと、わたしにスマホを返したのだった。

「さて僕は仕事するよ」
 有沢はそう言って、リュックサックを手許に引き寄せた。ノートパソコンを取り出すと、独り言を言いながらキーを叩き始めた。
 わたしは複雑な気持ちでそれを眺めていたが、部屋のドアを開けた。有沢には仕事があるのだ。そっとしておこう。
 それに真衣を全く手伝わないのも気が引ける。彼女に歩み寄って声を掛けた。
「何か手伝うことある?」
「……あ、萌先輩は部屋で休んでてもらって構いませんよ」
 そして彼女はぎこちなく笑って付け加える。
「ありがとうございます」
「……そう」
 ゆっくりと部屋を閉めると、わたしは急に疎外感が湧いてきた。それを察してか、有沢は画面を見詰めながら言った。
「別にゆっくりすればいいんじゃないかな。真衣さんに甘えてさ」
 それもそうね、と言おうと彼に目を向けた。しかし、今の有沢には何を言っても聞こえないに違いない。
「日本文学の課題本でも読もう」
 わたしはそう呟くと心の中で溜息をついた。キャリーバッグから『三四郎』を取り出すと、ベッドに寝転がる。そして仰向けで本を読み始めたが、事件が気に掛かってしまう。とうとう本を枕元に伏せ、手を頭の上で組んだ。そして色んな想像──あくまでも亜衣についてである!──をしたのだった。
 有沢はわたしに目を向けたが、またパソコンの画面を見た。彼へ背を向けて、寝返りを打った。そして最初こそ不安だったが、何もされないとかえって不思議な安心感を覚え、それとともにドッと疲れ、心地よくまどろみ始める。
 おかえりという真衣の声が聞こえた気がしてわたしはゆっくり起き上がると、ぼんやりとした頭で呟いた。
「真衣、ちゃん?」
「いや、亜衣さんだよ。帰ってきたみたいだね」
 有沢は首を振って、そう言った。そして部屋のドアを開けると、亜衣は真衣に歩み寄っている。
「ただいま」
 しかし真衣は小さく悲鳴を上げて後ずさった。亜衣は笑って尋ねる。
「どうしたの? 何か最近変よ」
 真衣は何か言おう唇を震わせていたが、亜衣から目を逸らした。
「何でもない。……それよりも具合はどう?」
「うん、かなり良くなった。ごめんね。心配かけちゃって」
「そう、良かった」
 真衣は心底から安心しているようだった。わたしたちを見て、さらに続ける。
「あぁそうそう。有沢さんが来てくれたの」
 有沢はにっこりと笑って、会釈をした。
「お邪魔してます。有沢翔治です」
 亜衣は深々と一礼すると言った。
「どうもありがとうございます。よろしくお願いします」
「ストーカーのことなんですけどね、亜衣さんからも話を聞きたいんですよ」
 有沢が言うと、亜衣は笑んで頷いたのだった。
「はい、何でしょうか」

 時折わたしたちを見ながら、真衣は配膳をしていた。その視線は不安げで忙しない。
 ここでは話しにくいから、とわたしは亜衣を部屋に誘った。しかし亜衣は戸惑ったような顔で答える。
「ここでもわたしは構いませんけど……」
「そうですか。ではここにしましょう」
 有沢はそう頷くと、椅子へ座った。彼と向き合う形で、わたしと亜衣は並んで腰を下ろす。
「まずお二人の部屋に盗聴器、監視カメラが仕掛けられてないか調べてたんですけどね」
 彼はそう言うと振り返って真衣を見た。真衣がストーカー被害に遭っていないか調べている。亜衣にはそう言ってあるのだ。
「それで探してたらこんなものが見つかりまして」
 有沢はスマホを取り出すと、亜衣へ写真を見せた。バタフライナイフの箱が写っている。それを見て、亜衣の顔が強張った。
 有沢は身を乗り出して尋ねる。
「どうしてこんなものが亜衣さんの部屋に?」
 しかし亜衣は唇をきつく噛み締めて答えようとしない。わたしは苛立ちを抑えながら言った。
「答えて」
 わたしは詰め寄ると、有沢は遮った。そして微笑んで言う。
「誰も怒ってませんから、安心してください」
「だって、萌先輩は……」
 亜衣は震え声でそう言うと、怯えたような目でわたしを見た。有沢は力強く頷く。
「萌ですか? なぁに、心配してるだけですって。それに少なくとも僕は通報しようとは思ってません」
 亜衣の横顔を見ると、少し和らいだようである。ポツリと呟くように尋ねる。
「……どうして、ですか? これって銃刀法違反ですよね」
「確かに問われるかもしれません。でも誰かに迷惑が掛かってます? それに確か自宅にある場合は問われないはずです」
 それを聞いて、わたしは釈然としない気持ちになった。確かに銃刀法や軽犯罪法では自宅にある場合、罪に問われないのだが……。バタフライナイフなんて人に危害を加える目的以外にどんな目的が? しかも、今回は見つからないのである。だが亜衣から話を聞くには辛抱強く待つしかなさそうである。
 時計の音がいつもより大きく聞こえた。話を聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが交錯する。亜衣はしばらく目を泳がせていたが、やがて言った。
「ナイフは捨てました」
「ゴミの日に?」
 わたしが尋ねると、亜衣はゆっくり首を振った。
「……いえ、堀内川にです」
 わたしと有沢は顔を見合わせた。亜衣は肩を竦めると、消え入りそうな声で続けた。
「証拠は? と言われると困るんですが……」
「別に言いませんよ。安心してください。そんなことよりどうしてバタフライナイフを?」
 有沢が尋ねると、亜衣は答えた。
「真衣を……守るためです」
 その時、グラスの落ちる音が部屋に響いた。一斉に振り向くと真衣が慌てて拾っている。気まずそうな顔で口を挟んだ。
「わたしを?」
「そう、真衣を守るため」
「ストーカーから、でしょうか?」
 有沢が聞くと、亜衣は頷く。
「ええ、芦屋さんっていう人から好意を持たれてたんですけど、それが段々とエスカレートしてきて……、このままだと真衣が危ないって思って」
「単なる亜衣の思い込みだって」
 真衣はそう言うと、亜衣は何か言いたそうに口を動かしていた。しかし、溜息をつくと首を振る。
「そうかもね。でもそう思えた。わたしには、だけど」
「警察へは行ったんですか?」
 有沢が尋ねると、亜衣は頷く。
「え、ええ。でも分かりましたって言われただけでした」
 具体的な被害がないと、警察は動けない。民事不介入と解ってはいる。しかしストーカー規制法で取り締まれなかったのか。わたしはもどかしく思いながらも、二人の会話を聞いていた。
「それで護身用にバタフライナイフを買ったんですね?」
「ええ、そうです。最初のうちは安心してたんですけど、段々と怖くなってしまって」
「怖くなった?」
 わたしが聞いても、亜衣は曖昧に笑っただけだった。それを見て有沢が代わりに答える。
「本当に芦屋さんを殺しそうな気がした。いや、芦屋さんだけではなく、彼女の敵全てを。最初は精神安定剤のつもりだったのにいつしか麻薬になってしまった。僕はそう推測したのですがどうでしょう?」
「そう、かもしれません。とにかく持ってるだけで、というか見てるだけで怖くなってしまって……何だか落ち着かなかったんです」
 そう言うと、亜衣は弱々しく笑った。有沢は鉛筆と紙を取り出すと尋ねる。
「その芦屋さんのフルネームと勤務先を教えていただけます?」
「芦屋卓。草かんむりに戸口の芦、屋内の屋、卓は電卓の卓です。わたしたちと同じコンビニで働いています」
「分かりました」
 有沢はそう言うと、メモをポケットにしまった。わたしが視線を感じて、真衣を見ると、申し訳なさそうな顔で待っている。
「ねぇ、一段落ついたからそろそろ……」
 それを見て、わたしは有沢に囁いた。テーブルの真ん中にはわたしの差し入れが置かれている。
 有沢も料理に目を向けると、頷いたのだった。

 机にはチキンのマスタードソース掛けやアボカドのシーザーサラダなどが並んでいる。その隣にはパウンドケーキの姿もあった。わたしは真衣の手料理に箸を伸ばし、一口食べた。
「あ、美味しい」
 わたしはそう言うと、嬉しそうに笑った。
「本当ですか? 嬉しいです。ちょっと味が濃いかなと思ったんですけど……」
「全然問題ありませんよ」
 チューハイに口をつけると、有沢は頷いて尋ねた。
「ところで真衣さんは小説をお書きに? あ、いや、部屋に文芸同人誌があったものですから気になりまして」
 そういえば文芸部の同人誌も置かれていた。真衣は照れくさそうに笑ったが、満更でもなさそうである。
「文芸同人誌だなんてそんな立派なものじゃないですよ。大学の同好会です」
「いやぁ、それでもいいじゃないですか。ちなみにどういった小説を?」
 有沢は身を乗り出して尋ねると、真衣は照れ笑いを浮かべて答えた。
「ファンタジーです」
「剣と魔法の?」
 わたしの想像力は乏しい。ファンタジーは剣と魔法の世界しか思い浮かばないのである。RPGはかなり好きで、今でもよくプレイするのだが。
 真衣は首を振った。
「伝承とか、言い伝えが本当に起こる話です。本当に起こる話というか、本当だと信じてる人の話というか……」
「ホラー?」
「とはまた違うんですけど……、うーん、何て言ったらいいんだろうな」
 亜衣が口を挟んだ。
「マラリアにかかりながら、南米のジャングルをさまよっているような小説です。真衣が書くのは」
 エキゾチックな木々、むせ返るような熱帯の空気、そして呪術師を中心に原始生活を営む人々……。
 わたしは幻想的の物語を頭に思い描きながら、サラダに箸を伸ばした。アボカドの緑にトマトの赤が彩りを添えている。
 亜衣は肩を竦めて言った。
「って余計分かりにくいですね、すみません。最近、真衣に借りて読んだ小説がちょうどそんな感じで……」
「へぇ、何ていう本?」
「『百年の孤独』です。文芸部の先輩に勧められたこともあって、読んでみたんですけど……」
 亜衣が答えると、真衣は聞いた。
「どうだった? 面白かったでしょ?」
 彼女は何かを期待するように身を乗り出している。亜衣は慎重に言葉を選ぶかのように言い淀んでいたが、困惑したような顔で答えた。
「う、うーん、面白かったけど、もっと……分かりやすい作品が好き、かな。あくまでもわたしは、だけど」
「まぁ……前衛文学は分かりにくいですよね」
 有沢は笑って言った。どうやらわたしだけが読んでいないらしい。百年ではないが孤独を感じて、チューハイをグラスに注いだ。
 真衣は少しがっかりとしたような顔をしていたが、やがて笑う。
「まぁ人それぞれだしね。分かりやすい小説かぁ」
 わたしはグラスを傾けると、真衣へ言った。
「せっかくなんだから双子をテーマに何か書いてみたらどう? 双子って推理小説だと替え玉だけどさ、もっと何か別の物が書けるような気がして」
 真衣は少し不服そうな顔をする。
「私小説ですか?」
 亜衣はそれを聞いて、俯いた。そして呟くように言う。
「恥ずかしいから辞めてよ……」
「でも私小説は市場に受け入れられにくくなってません?」
 有沢は真衣に言うと、亜衣へ微笑みかける。亜衣は安心したような顔になったが、真衣はそれに気付かずに話を続けた。
「そうなんですよ。お聞きしたいんですが。双子で何か面白い話ありません? 有沢さん」
 面白いかどうかは分かりませんが、と有沢は前置きすると言った。
「<わたしとは何か>という問いかけと深く関わっているような気がするんです。萌は双子トリックの話をさっきしていましたが、それもこの<わたしとは何か>とつながってきますし」
「どういうこと」
「どういうことですか?」
 真衣とわたしは同時に尋ねた。そしてその後、真衣はわたしと顔を見合わせる。
「人の替え玉って本当にできるんでしょうか」
「え? できるんじゃないんでしょうか。現にわたしたち子供の頃、何回もそれで親たちをからかってきましたし」
 亜衣は戸惑いながら答えると、真衣に不安げな眼差しを送る。彼女は頷くと肩を竦めた。
「そうそう。まぁ悪趣味だったけどね。今にしてみれば」
「お二人は確かによく似ています。しかし亜衣さんは亜衣さん、真衣さんは真衣さん、でしょう?」
 亜衣はしばらく考えていたが、口を開いた。彼女はどことなく物憂げな顔である。
「でも他の人から区別が付かないと意味がありませんよね?」
 真衣は口を挟んだ。
「うーん、そんなことはないんじゃないのかな? 確かによく似てるけど、わたしは亜衣じゃないし、亜衣だってわたしじゃないんだから」
 そして真衣はわたしに尋ねた。わたしが話に入れないので、気を遣ってくれたんだろう。
「ねぇ萌先輩はどう思います?」
「うーん、全く関係ないかもしれないけど……」
「いいじゃないですか、恥ずかしがらずに」
 真衣は赤い頬で促した。亜衣も遠慮がちではあるものの、言った。
「わたしも……聞きたいです」
「そう? でも本当につまらない話だよ。……もしSFみたいに記憶を簡単にコピーできたらどうなるんだろうって。いやさ、今、話してるのは外見が同じっていう話でしょ? じゃあさ心が同じだったらどうなるんだろう、って思ってただけ」
 それを聞いて、スマホを取り出した。タップしているところを見ると、メモを取っているようである。
「へぇ、その発想はありませんでした」
「そう? まぁ、マンガで最近似たような話を読んだだけなんだけど」
 そう言うと、わたしは缶チューハイを注ごうとする。しかし、二、三滴、雫が垂れただけだった。亜衣は立ち上がって冷蔵庫に向かう。中を覗いていたが、冷蔵庫のドアを静かに閉める。
 そしてバッグを掴むと、振り向いて言った。
「ちょっとコンビニで買ってきますね」
「あ、いいよ。飲みたかったらわたしたちで適当に買ってくるし」
 わたしはそう言うと有沢に同意を求める。彼は笑って頷いた。
「ええ、お気持ちだけで結構です」
「そうですか? でも酔っちゃって外の風に当たりたいんです。コンビニはそのついでですから。それに喉飴も買いたいですし」
 ナイフの一件で迷惑を掛けたと思っているんだろうか。そう言うと、亜衣は玄関に向かう。何か言おうと真衣は口を動かしていたが、やがて一人首を振って呟いた。
「そうね、もう高校生じゃないんだから」
 それを聞いて、亜衣の表情が和らいだ。
「真衣は大丈夫? 何か買ってこようか」
 亜衣が尋ねると、真衣は首を振った。
「別にいいよ。それよりも暗いから気を付けてね」
「分かった」
 亜衣は頷くと、閃いたらしい。「あぁ」と息をついて真衣へ言った。
「真衣の靴を履いてってもいい? 踵が光るヤツ持ってなかったっけ?」
 亜衣の頼みを聞いて、真衣は意外そうな顔で答えた。
「あの靴? 別にいいけど……。どうして?」
「遠くの車からでも見えるように」
 亜衣はそう言うと、靴を履く。それじゃあ行ってきます、と言うと、ドアノブに手を掛けた。ドアから冷たい風が入り、踵が毒々しい緑の光を放った。
 ふと机に目を向けるとスマホが寂しそうに置かれている。

「解決してよかったね」
 わたしは亜衣の部屋を開けて、そう言った。わたしは大きく伸びをすると、あぐらを掻いて座る。わたしの隣に有沢は腰を下ろすと、押し黙っている。何を考えているのか分からない。
 もしかして吉元とテニスをしている写真が気になっているんだろうか。まさかとは思うが、痛くもない腹を探られたくない。念のため説明しておこう、とわたしは考えた。
「あの男の子は吉元くん。真衣ちゃんの彼氏で一年生……」
 それを聞いて有沢はポカンとしている。全く思わぬところからボールが飛んできて顔に当たった。そんな顔で聞き返した。
「え? 何の話? ゲームのシナリオ考えてて聞いてなかった」
「え? あ、いや、それならいいの」
 わたしは羞恥と後悔が同時に沸き起こって口ごもる。有沢は笑いながら言った。
「友達とのツーショット写真なら別に気にしてないよ。やましかったらスマホを僕になんか見せるわけがない。そうでしょ?」
 有沢は道化て付け加える。
「Q. E. D. 証明終了」
「何の証明よ」
 わたしが笑うと、有沢は伸びをして笑った。
「浮気なんて疑うだけ時間のムダだってこと、かな」
「本当にそうだよね。束縛しても何の意味もないし」
 わたしが頷くと、有沢のスマホが鳴った。しかしわたしも気にしていないし、詮索しようとは思わない。三コール目で留守録に切り替わり、機械的なアナウンスが伝言を促す。「ご用の方はピーッという発信音にメッセージをどうぞ」。
 傍らでそれを聞きながら有沢は言った
「疑心暗鬼に陥ってる暇があったら、僕はもっと別のところに使うけどな……」
「何に使いたいの?」
「ん? ラテン語と古代ギリシャ語の習得だけど? 特にラテン語かなぁ」
 有沢が即答すると、わたしは溜息をついた。いかにも好奇心旺盛な彼らしいのだが……。いや、彼の口から甘い囁きが漏れてきたら、大笑いした後、病気かと本気で疑ってしまいかねない。
 ふと彼を見ると、床の上で寝そべって欠伸をしている。ベッドを譲って、彼は冷たく硬い床の上で寝るつもりなんだろう。わたしは彼の隣で横になると、そして笑いかけた。そして互いに見つめ合う。
「愛も哲学のテーマでしょう?」
 その時、ダイニングから着信音が聞こえてきた。すぐに止むと、真衣の声が聞こえてくる。さすがに内容までは分からないものの、ひどく狼狽している声だった。
 やがて彼女の声が止むとと、慌ただしく足音が近づいてくる。そして勢い良く扉が開いた。
「有沢さん!」
 しかし真衣の叫び声はすぐに気まずそうな声に変わった。
「あぁ……、ごめんなさい……」
 有沢はバツが悪そうに正座をする。わたしも居住まいを正すと、努めて冷静を装った。軽く咳払いをすると尋ねる。
「どうしたの? 真衣ちゃん」
「は、はい。今、警察から連絡がありまして……亜衣が、亜衣が……」
 わたしは有沢と顔を見合わせる。そして唾を飲むと、尋ねた。
「亜衣さんが、どうかした?」
 真衣は顔を手で覆うとこう答えたのである。
「亜衣が刺されたらしいんです」

第三部 二人の傷跡

 夜のコンビニは眩しいほど、白く照らし出されていた。路上にはパトカーが赤色灯を点らせ停まっている。わたしたち三人が着くと、立入禁止という黄色いテープが張られていた。駐車場の血痕が生々しい。一台の自転車が停まっていたが、その傍らで若い巡査が男の話を聞いている。話を終えたらしく、巡査が頭を下げた。持ち主は自転車にまたがると、夜道へ吸い込まれていった。
 一方で地下鉄駅から出てくる人は、好奇の目でコンビニを見ている。
 有沢に声を掛けようとしたが、考え事をしているようだ。じっと血痕を見ていると、でっぷりと肥った五十代の刑事がゆっくりと歩いてくる。西口警部。有沢のちょっとした知り合いである。
 彼は手帳に目を落とすと、仏頂面で有沢に尋ねた。
「何で電話に出ないんだよ」
「僕だって暇じゃ……」
 男が刑事だと知るな否や、真衣は割って入った。
「あ、あの。亜衣は、亜衣は無事なんでしょうか?」
「あぁ、無事ですよ。足にケガを追っているだけで命に別条はありません。今、近くの交番で事情を聞いてます」
 警部は手帳に目を落としていたが、真衣の声でハッと顔を上げる。そして素っ頓狂な声で尋ねた。
「被害者が、二人?」
「あぁ、双子なんです。こっちは真衣さん。真実の衣と書きます」
 わたしが紹介すると、真衣は頭を下げる。真衣を見て警部は呟いた。
「なるほど、そういうことか。それにしても……まるでザ・ピーナッツだな」
 彼はそう言うと、わたしに目を向けた。
「実は有沢より、お前さんに聞きたいことがあったんだ」
「え? わたしにですか?」
 わたしは驚いて尋ねると、警部は頷く。
「あぁ、被害者と同じ大学で、しかも今晩一緒に飲んでたそうじゃないか。何か変わった様子とかあったら聞こうと思ったんだが……」
「実はストーカーの相談に乗ってました」
「ストーカーって言うと生活安全課だな……。よし照会してみよう」
「お願いします」
 有沢は言うと、警部は笑って彼の肩を叩いた。
「まぁ、こういうのが俺たちの仕事だからな。気にするな」
「そのくらいの情報ならわたしがとっくに掴んでいます」
 後ろで濁声がしてわたしは振り向いた。松岡昇警部補。西口警部の部下だが、爬虫類のような顔をしている。生理的に受け付けない男だ。
 松岡が西口警部に駆け寄ると、有沢に目を向けた。やがて囁き声が聞こえてくる。
「何で民間人なんか呼んだんですか。監察官に言いますよ」
「おうおう、言えるもんなら言ってみろ」
 警部は鼻で笑った。そして煙草に火を点けて続ける。
「お前も監察官聴取とか面倒事に巻き込まれるぞ。どうせ言えないんだろ? なら生半可な気持ちで犯罪を告発するとか言うんじゃない」
 西口警部に一喝されると、松岡の顔は仏頂面に変わる。西口警部は彼をチラリと見ると、わたしたちへ詫びた。さすがに苦笑交じりである。
「見苦しいところ見せてすまねぇな」
「いえ、気にしてませんから」
 わたしは愛想笑いを浮かべて言った。やがて松岡が戻ってくると、西口警部に言った。どことなく拗ねているような声である。
「そうそう、警部。生活安全課にはすでに連絡しておきましたので」
「まぁそれがあなたがたの仕事ですからね」
 有沢が笑いながらそう言った。松岡は彼を睨み付けると、A4の紙を取り出して続けた。
「相談者は田辺亜衣となっていました。妹がストーカー被害に遭っているから、と相談者は。いまいち客観性に欠けたため、被害者本人の出頭を促したが、田口真衣はこなかった、と勤務日誌には。一応、周辺の警邏を強化したとあります」
「ご苦労。それで名前は分かったのか?」
 西口警部が苛ついたように尋ねると、松岡は言った。
「芦屋卓、二人と同じバイト先です」
「分かった。ということは……このコンビニか」
 西口警部は険しい顔になると、巡査に駆け寄った。そして何事か囁き合うと、コンビニへと向かう。
 松岡は慇懃無礼な笑みを浮かべて、わたしたちへ言った。
「あ、もうお帰りになっていただいて構いませんからね」
 そして西口警部の後を追ってコンビニへと向かう。わたしたちは固唾を呑んだ。
 やがて二人が出てくると、パトカーに乗り込む。男は付き添われていないが、バイトの女性から熱心に話を聞いている。彼女は二人の質問に答えていた。遠くて表情はよく見えないが、強張っているように見える。
 西口警部は頭を下げると、バイトの女性は店内に姿を消した。松岡と西口警部はパトカーに駆け寄ると、すぐにサイレンとともに走り去る。
 遠ざかる赤色灯を真衣は不安そうに見ていたが、ポツリと呟いた。
「芦屋さんはどうなるんでしょうか……」
「とりあえず怪しい人は見なかったか、とかそういう質問だと思いますよ。それに現段階では任意同行です。帰りたいと訴えればすぐに帰してもらえますし」
 有沢はそう言うと、わたしも頷いた。それを見て、真衣は安心したような笑みを浮かべる。
「よかった……」
「それに警察だって、そんなにバカじゃありませんよ」
 有沢は愛想笑いを浮かべようとしたが、ぎこちないものとなってしまう。それを見て、わたしは有沢に囁いた。
「ありがとね、真衣ちゃんを勇気づけてくれて」
 有沢は笑って頷くと、真衣へ言った。
「さぁタクシーで途中、亜衣さんを拾って帰りましょうか。ここは駅前ですからね。交番の近くで拾うより捕まりやすいと思いますよ」
 彼はわたしたちに言うと、手を挙げた。やがて流しのタクシーが捕まると、ワンメーターになりそうだと有沢は詫びる。構いませんよ、とタクシードライバーは笑うと、わたしたちは乗り込んだ。

 警察で簡単な手当してくれたっていいじゃない! わたしは憤りながら、辛そうに足を投げ出す亜衣を見た。脚の付け根を刺されているが、有沢によれば傷口はそう深くないそうである。
 真衣は救急箱を取り出すと、ガーゼに消毒液を染み込ませた。有沢は血液感染を心配しているらしい。有沢は尋ねた。
「真衣さん、手に傷はありませんよね?」
「はい、大丈夫です」
 真衣はそう答えると、有沢に掌を見せる。有沢が頷くのを確かめると、手を洗った。そして真衣は有沢の指示通りに、亜衣の足に包帯を巻いていく。顔は強張り、不慣れな手付きだった。有沢を時折、見上げて尋ねている。
「こ、こうですか?」
「それで大丈夫です」
 有沢は言うと、亜衣に尋ねた。
「きつくはありませんか? 亜衣さん」
「は、はい……。大丈夫です」
「とりあえずいいと思います。明日また病院で診てもらってください」
 有沢がそう言うと亜衣は恐縮しきっている。すみませんすみません、と何度も繰り返していた。わたしは有沢に言う。
「もう、あんたが手当しなさいよ。真衣ちゃんにあれこれ言うくらいなら」
「いやぁ、必要以上に女性の足を触るのは……ね。しかも場所が場所だし」
 有沢は苦笑しながら答えると、亜衣の患部に目を落とす。わたしは笑って言った。
「わたしは別に構わないんだけど。それにこういう事態なら仕方ないんじゃない?」
 これは本心から言ったつもりである。しかし、何か納得が行かない! わたしは首を振って考えを追い払うと、亜衣へ言った。
「……それよりも、亜衣さんが襲われた時の状況を詳しく聞かせて」
「警察の方にもお話したんですけど、コンビニに入ろうとすると突然、前から誰かが走ってきて……。俯いていたし、暗がりで顔は見えなかったんですが、男性だったような気がします」
 有沢はスマホを取り出した。メモをすると尋ねる。
「それからどうしましたか?」
「近くに交番があったのを思い出し、そこへ行きました」
「なるほど、だいたいは分かりました」
 もっとあれこれ聞かれると思っていたらしい。亜衣は安堵した顔になった。わたしは尋ねる。
「あぁ、一つ質問いい?」
「何です?」
 亜衣は聞き返した。緊張した面持ちである。
「どうして110番に通報しなかったの?」
「あぁ、ケータイで通報すればよかったですね。でもここに置いてきてしまって……途中で気付きましたけど、コンビニへ行くだけだし、まぁいいかと取りに戻らなかったんです」
 亜衣はそう答ると、机の上に置かれたスマホに目を向けた。笑みを弱々しく浮かべていたが、やがて首を振る。
 それを見て、有沢は微笑んだ。
「確かに取りに行ってるのは面倒ですからね」
「ええ、それに緊急じゃないって思いまして……」
 亜衣が暗い顔で言うと、真衣は険しい顔で言う。
「何言ってるの。刺されたんだから緊急事態じゃないの」
「わたしはケガしただけでしょ? 他の事件があるかもしれないし」
「……そうだけど……」
 なおも真衣は何か言いたそうに唇を動かしていた。しかし亜衣は話を切り上げるように遮る。有無を言わせない口振りだった。
「すみません、疲れたからもう寝てもいいですか」
「こちらこそすみません。お大事になさってください」
 有沢がそう答えると、亜衣は椅子から足を下ろす。痛そうに顔を歪め、真衣が手を差しとしたが、亜衣は大丈夫だと断る。
 彼女は足を引きずりながら、真衣の部屋へ向かった。やがて思い出したように振り向くと、お休みなさいとわたしたちに言う。
「お休み。お大事にね」
 わたしもそう言うと、有沢へ目を向けた。しかし彼は何事か考えているようである。わたしが立ち上がって部屋に向かおうとすると、真衣は声を掛けた。
「あの……」
「ん?」
「お風呂、湧いてるんで疲れてたら……」
「そうなんだ。ありがとう」
 真衣へそう言うと、有沢に向き直った。
「それじゃ行ってくるね」
 しかし有沢は生返事をしただけである。わたしは着替えを取りに、独り亜衣の部屋へ戻ったのだった。

 入浴を済ませ、わたしは部屋へ戻った。有沢は椅子に座っていたが、わたしを一瞥する。彼はかすかに手を上げると、言った。
「お帰り」
「ただいま。考え事?」
 わたしはそう尋ねながら、長袖シャツを羽織る。まぁね、と有沢は短く答えると再び物思いに耽ってしまった。
 遠くから虫の澄んだ音色が聞こえてくる。心地よい沈黙を守りながら、互いの時間を過ごすのも悪くない、と自分を無理に納得させた。
 有沢の呟き声が聞こえてくる。
「バタフライナイフはどこに行ったんだろう」
 それを聞いて、わたしは思わず聞き返した。
「捨てたんじゃないの? 亜衣さんがそう言ってたし。とてもウソをついてるようには見えなかった」
「でもまだ見つかってない」
「そりゃそうだけど……」
 わたしは肩を竦めて言い淀む。窓ガラスを見ると、わたしの不機嫌そうな顔が映し出されていた。
 わたしは身を乗り出して言った。
「それより犯人は真衣ちゃんを狙ったんじゃない? ほら二人はそっくりでしょ? おまけに真衣ちゃんの靴を履いてたし」
 もしそうだとすると、亜衣は踏んだり蹴ったりである。間違えて告白され、挙句は間違えて刺されてしまったのだから。しかも交通安全のために履いていった靴が悲劇をもたらしたのである。
「どうだろうね」
「どういうこと?」
「まだデータが揃ってないから何とも言えないんだよ」
「そうなんだ。……ねぇ、傷の角度とか刺され方とかから何か分かないの?」
 わたしは半ば苛立ちながら、シャープペンシルを取り出すと有沢にへ向けた。そして左足を投げ出すと、言った。
「そもそもどういうふうに刺されてたの? これ、ナイフだと思って『刺して』みたら?」
「足が逆だよ。右足を刺されてたんだから」
「どうでもいいじゃない」
 わたしが笑いながら足を変えると、有沢は言った。
「いや、細かな違いほど重要だよ」
 そして有沢はシャープペンシルを受け取ると、わたしの足に突き立てるマネをする。わたしにシャープペンシルを返すと、彼は言った。
「この角度から刺されてた」
「斜め上からナイフが刺さったってこと?」
「うん。傷口を見た感じだとね。さて萌ちゃん、立ってみて」
 わたしは言われるままに立ち上がる。有沢も立ち上がると、わたしに突進してきた。何度か繰り返した後、満足そうに頷く。スマホを取り出したが、タップすると、彼の顔色が変わった。近寄って覗き込むと犯行現場が映されている。
「どうかしたの?」
「……いや、なんでもないよ」
 有沢はそう言うとスマホをポケットに押し込んだ。
「そう」
 言いたくないんなら、無理に聞き出す必要もない。そんなことを考えていると、有沢はゆっくりと首を振った。
「まぁ明日の朝にでもゆっくり話を聞きたいけどね」
「今、聞けばいいじゃない」
「いや、今はそっとしてしておこう。それに誰かと話しているみたいだし」
 そう言われ、わたしは耳を済ました。隣の部屋から声がかすかに聞こえてくる。声だけでは亜衣か真衣かまでは分かないが、誰かと電話をしているらしい。
「……うん、お母さん? うん、大丈夫。真衣に手当はしてもらったし、明日保健室でちゃんと見てもらうつもりだから……。……心配かけてごめんね。一人で出歩かないようにするから安心して。真衣と一緒にいるから。え? 鹿児島から名古屋に来るの? 別にいいって」
 亜衣の声は次第に涙声に変わっていく。聞いているうちに辛くなり、iPodを取り出した。ボリュームを小さくすると、音楽を選ぶ。ドラムの激しいイントロを聞いて、有沢は身を乗り出した。
「これ、何ていう曲?」
「椎名林檎の『アイデンティティ』って曲だよ」
「音質悪いね……。パソコンで聴いたら?」
 有沢はそう言うと、ケーブルとノートブックを取り出す。
「ありがとう」
 わたしは受け取ると、有沢のパソコンに繋いだ。音質も格段によくなり、しばらく二人で音楽に身を委ねる。わたしは好きな音楽を聞いて高揚したが、課題本が目に入って溜息をついた。
「今、『三四郎』読んでるんだけどさ、漱石って退屈。スケールも小さいし、日本文学なんて取るんじゃなかった。三四郎ってなんてつまらない男なのかって思っちゃってさ。それきり読む気が失せてるの」
「そうだねぇ。三四郎もそうなんだけど、けっこう現代にも通じところがあると思うけど」
「そうかなぁ?」
「うん、例えばさっきの『アイデンティティ』って曲とも結び付くし。『三四郎』はそんなに強く描かれてないけど『行人』は自分って何だろうってテーマが描かれてるんだ。あぁ、あと『彼岸過迄』とかもそうだね」
 自意識か。胸の内でわたしは呟いた。
「ふうん。近代になって自由になったのはいいけど、逆に悩むようになったのかもね。自分はなんなんだろうって」
「そうだね。だからこそ導いてくれる何かが必要だったのかもしれない」
「宗教とか?」
「うん、例えば。小説の中で三四郎はストレイシープと何度も呟いているけど……」
「聖書からの引用でしょ? もし百頭の羊のうち一頭でも迷ったら羊飼いは、その一頭を探し回るだろう。このようにどんな弱い人もイエスは探して救うってやつ。確かルカによる福音書とマタイによる福音書からだっけ?」
 普段は彼から知識を見せつけられているため、張り合って饒舌になってしまった。しかし本当は講義の聞きかじりである。新約聖書はおろか、旧約聖書も読んでいないが、そこは伏せておいた。
 言い終えるな否や、わたしは急に恥ずかしくなる。苦笑してるんじゃないか、と恐る恐る有沢に目を向けた。
 しかし真剣な顔付きを見ているうちに、余計に決まりが悪くなる。そんな思いを振り払おうと、歯を見せて笑った。
「わたしにもそのくらいの教養はありますよーだ」
「……その百頭が好き勝手に散らばってたら、その羊飼いはどうするんだろうね」
 iPodからは「此処に居れば良いのですか。あたしは誰なのですか、何処へ行けば良いのですか?……」という歌詞が聞こえてくるが、それは悲鳴とも取れる。
 彼は笑ってはいるものの、ぎこちなく、余計に痛々しい。辛いからこそあえて遠回しに言ってるんだろう。わたしはしばらく考えていた。やがて居住まいを正して、有沢の問い掛けにこう答える。
「うーん、何とかなるんじゃないのかな。迷う時は何しても迷うんだし」
「ずいぶんと……」
 有沢は言いかけたが、わたしはそれを遮った。
「そんなこと言っても、わたしたちには百頭の迷える子羊をどうすることもできないでしょ? 一頭や二頭はどうにかなるかもしれないけどさ。ね?」
 わたしはそう言うと、有沢へ微笑み掛ける。
「でも……」
「そりゃ、わたしだって百頭の羊を助けたい。でも下手したらその一頭の迷える羊を追っていて、羊飼いまで迷いかねないじゃない?」
 もし「子羊」が追い詰められ、罪を犯すんだとしたらそれは社会が矛盾を孕んでいるんだろう。有沢は犯罪を文学的な想像力で捉えなければいけない。いつもそう言うが、わたしは詩人でも作家でもない。
 亜衣も迷える子羊なんだろうか、と考えているうちにわたしは段々漠然とした寂しさに襲われる。気持ちを振り払おうと、窓から秋の夜空を見上げた。
「今夜は月がキレイだね」
 有沢へ言うと、彼も窓辺に立って空を仰ぐ。彼も感嘆の息を漏らしていた。
「十五夜だね。月見酒でも飲もうか。……真衣さんと亜衣さんも誘って」
「うん!」
 わたしが言うと、有沢は笑って頷いた。彼はパーカーに袖を通している。そして部屋のドアに向かうと、わたしへ振り向いて言った。
「それじゃあ、ちょっとコンビニでお酒でも買ってくるよ。ウィスキーとビーフジャーキーでいいかな? 何か追加があったらスマホに連絡して」

 翌朝、わたしたちは荷物を部屋から運び終え、朝食を取っていた。平皿に盛られたフレンチトーストを、わたしは平手で摘んで口に放る。シナモンとバターの香りが口いっぱいに広がった。
 有沢はトーストをフォークで刺すと、口に運んでいる。しかし頭の中では他のことを考えているように見えた。
「ど、どうですか?」
 真衣が不安そうに尋ねると、有沢は微笑む。
「おいしいですよ。……そういえば昨日、コンビニで買い物ついでに店員さんへ色々聞いてきたんです。芦屋さんについて」
 それを聞いて、亜衣と真衣は顔を強張らせた。わたしはフレンチトーストを飲み込むと、尋ねる。
「それで、何か分かった?」
「うん、萌ちゃんたちと同じ大学を卒業生らしいよ。会ったことはない?」
「何学部?」
「法学部。専攻までは分かないけど……」
 有沢の答えを聞いて、わたしは真衣へ尋ねた。
「真衣ちゃんって法学部だったよね?」
「はい、でも会ったことはありません。それどころか芦屋さんがわたしたちと同じ大学だったなんて初耳でした」
 真衣は戸惑ったような顔をしていたが、亜衣を見る。
「亜衣は知ってた?」
 亜衣は黙って力なく首を振った。有沢は安心させようとしているのか、笑った。
「それでは里内由紀恵さんについては? 卒業生の」
「あぁ、法学部の。何回か講義ノートをコピーさせてもらってました」
 真衣が頷くと、亜衣は怖ず怖ずと答えた。
「わたしは……一回だけ」
「え? どこで?」
 真衣が意外そうに聞き返す。里内は亜衣と入れ替わりで卒業しているのだ。彼女は溜息混じりに言う。
「真衣と一回、間違えられて声を掛けられたの。先生に挨拶した帰りだったんだって」
 そして亜衣は明るく笑って付け加えた。
「また間違えられちゃったね」
 真衣は気まずそうに彼女から目を逸らす。わたしは何とも言えない居た堪れなさに襲われた。有沢はきょとんとした顔で尋ねる。
「それでどうしました?」
「そのまま真衣で通しました。どうせもう会わないんですし、双子の姉が入学してきたって言っても信じてもらえませんし」
「何か……ごめんね」
 真衣がぽつりと呟くと、亜衣は首を横に振った。
「別にいいの。気にしないで」
 そう言うと亜衣は立ち上がる。傷が痛むのか、彼女の顔が歪んだ。小さな呻きを聞いて、真衣は心配そうに亜衣の顔を見上げた。真衣は手を差し伸べると言う。
「大丈夫?」
「平気よ。心配症なんだから……トイレくらい一人で行かせてよ」
 亜衣はそう笑ったが、有無を言わさない口振りだった。真衣が戸惑っていると、亜衣はやんわりと手を退ける。そして足を引きずりながらトイレへと向かった。姿を消すと、扉が閉まる音がかすかに聞こえてくる。聞こえるか聞こえないかの音だった。
 真衣はその姿を見送っていたが、有沢へ向き直る。
「それで、里内さんがどうかしたんですか?」
「一時期、芦屋さんと付き合っていたらしいんですよ」
 わたしは有沢に思わず囁いた。
「どこから聞いてきたのよ」
「世間話を装って、中年のパートさんに聞いたのさ。そういえばさっきパトカーが来てましたけど何かあったんですか? っていう具合に」
 有沢はイタズラっぽい笑みを浮かべて返す。わたしは半ば疑い、半ば感心し、尋ねた。
「本当にそんなので上手く行くわけ?」
「うん、いかに雑談に見せかけるかがポイントなんだよ」
 ふうん、とわたしがコーヒーを一口飲むと、真衣が不安そうに尋ねる。
「それで本当に芦屋さんが亜衣を刺したんでしょうか? しかもわたしと間違えて刺したなんて信じられません」
「警察はどう見てるか分かりませんが、違うと僕は思ってます」
「どうしてです?」
 真衣と亜衣の声が重なって、わたしは振り向いた。亜衣がトイレから戻ってくる姿が見えた。亜衣が椅子まで歩くと、真衣は手を差し伸べたる。しかし亜衣は構わずに椅子を引いた。かすかに顔を顰めて座る。
 真衣はしばらく彼女を見ていたが、ティーポットに手を伸ばす。真衣は自分のカップに紅茶を注ぐと、有沢へ向き直った。
「理由は二つあります。一つは傷の角度。亜衣さんは右太腿の外側がいそくを刺されていました。コンビニに入ろうとしたら襲われたんですよね」
 有沢が確かめると、亜衣は頷く。
「はい」
「あの場所から亜衣さんを刺そうとすると、駐輪場を突っ切らなければいけません。でもあの夜、自転車が停まってて遮ってたんです」
 亜衣はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……実は避けようとして引き返したんです」
「つまり駐輪場とは反対から刺されたんですか?」
 有沢が尋ねると、亜衣は頷く。
「え、ええ、まぁ……」
「そのままコンビニに駆け込めばよかったのに」
 わたしが言うと、真衣は不快そうに鼻を鳴らした。
「後からならいくらでも言えるじゃないですか」
「そりゃそうだけどさ」
 わたしは頷いたものの、釈然としない気持ちになる。傷の箇所がどう考えても不自然なのだ。もし本当に逃げようとしたのなら尻の辺りを刺されているのではないか。とはいえ、自分で太腿を刺すはずがない。亜衣は何らかの理由で芦屋を庇っているんだろうか?
 有沢は深く追求せず、やんわりと言った。
「パニックになってたんですよね。分かります」
 それを聞くと、亜衣は弱々しく言う。
「すみません……」
「仕方ないって」
 真衣が慰めると、亜衣は安堵したように言った。
「ありがとう……。でも芦屋さんが犯人じゃないんですか? 吉元くんと付き合い始めたのを逆恨みして……」
 亜衣は口許を引きつらせながら有沢に尋ねる。神経質に笑っているようにも、何かに怯えているようにも見えた。ストーカーとは全く別の、目に見えない恐怖。
 そういえば真衣の部屋には統合失調症や精神疾患の本が並んでいたっけ。講義の参考資料として借りたんじゃないか、と初め考えていた。しかし亜衣の心が病んでいると感じ、彼女は調べていたんだろうか?
 そんな疑問を抱きながら真衣を一瞥した。真衣の顔には困惑と苛立ちが浮かんでいる。
「もう、亜衣の思いすごしだって言ってるでしょ!」
「そうなのかなぁ? 有沢さんはどう思います?」
「芦屋さんがストーカーかどうかはまだ分かりません。でも彼が亜衣さんを刺したとは考えられないんです」
 有沢の答えを聞いて、亜衣は尋ねた。
「どうしてですか?」
「芦屋さんはあの夜、出勤していないんですよ。コンビニにいなきゃ亜衣さんは刺せませんよね」
 有沢がそう言うと、亜衣と真衣は顔を見合わせた。やがて亜衣が戸惑いがちに尋ねる。
「あれ? 昨日の夜は出勤日だって芦屋さん言ってなかった?」
「言ってたよね……、確かに」
 真衣も首を傾げていた。有沢は紅茶を飲むと、言う。
「昨日は体調不良で欠勤だったらしいんです」
「へぇ、珍しい。生活が掛かってるから休めないってあんなに言ってるのにね」
 真衣は同意を求めるような眼差しを、亜衣に送った。亜衣は苦笑している。
「どうせ真衣の同情を引いてるだって」
「そうかなぁ?」
 真衣が首を傾げると、亜衣は頷いた。
「そうに決まってる。ボロボロのカバンをいつも持ってきてるし」
「あ、でも変わってたよ。この間、見たら」
「へぇ……、そうなんだ」
 亜衣の口振りは興味がなさそうである。真衣は小さく肩を竦めると、紅茶を一口飲んだのだった。

 わたしたちが朝食を食べ終わると、亜衣は皿を重ねて立ち上がった。そして足を引きずりながら流しへ向かう。彼女は蛇口を捻ると、振り向いた。
「ごめん、真衣。皿、下げてきてくれる?」
「解ってる」
 真衣はそう笑うと、次々と亜衣へ皿を運ぶ。わたしも下膳を手伝いながら、漠然と違和感を抱いていた。真衣なら言われなくとも手伝うはずなのに。
 わたしは亜衣へ皿を渡すと、彼女は尋ねた。
「わたしたちはこれから大学行きますけど、先輩たちはどうします?」
「……わたしも大学に行くよ」
 わたしが答えると、亜衣は残念そうな目をした。事件に巻き込まれて恐怖を感じているんだろう。もっと調べて欲しいと訴えているようにも見える。
「そうですか……」
 彼女はぎこちなく笑うと、続けて尋ねた。
「有沢さんは?」
「僕は駅まで一緒に」
「分かりました」
 そう言うと水道の蛇口を閉めた。そして慣れた手付きで食器を拭くと、トレイに皿を伏せていく。
「じゃ、お皿しまっちゃうね」
 亜衣が頼むよりも早く言うと、真衣はトレイに向かった。
「ありがとう」
 亜衣の声は無理に明るく振舞っているように聞こえた。真衣もそう感じたらしい。一瞬、足を止めて怪訝そうに亜衣の顔を見た。
 どうしたのかと彼女が尋ねると、真衣はぎこちなく笑って答える。
「……何でもない。気にしないで」
 そしてそそくさと食器棚に向かった。ほどなくして片付け終わると、真衣はハンドバッグを掴む。
 わたしもキャリーバッグを掴むと振り返った。見ると有沢はノートパソコンとヘッドホンをリュックサックにしまっている。そしてそれを背負うとわたしたちのもとへ走ってくる。
「ごめんごめん」
「仕事?」
 わたしが尋ねると、有沢は靴を履きながら言った。
「うん、まぁそんなところ」
「すみません。お忙しいのに」
 真衣が言うと、有沢は顔を上げてにっこりと笑う。
「いえ、いつも仕事の予定を詰め込んじゃうんですよ。自業自得です」
「忘れ物はない? ケータイとか持った? 財布は?」
 いつも何か忘れてくるんだから……。わたしが畳み掛けるように尋ねると、有沢は頷いた。真衣は傍らで聞いていて、クスッと笑う。
「大丈夫ですよ。忘れ物があったら、わたしが萌先輩に渡しますから、ねぇ、亜衣」
 それを聞いて、わたしたちはアパートの部屋を出た。しかし真衣はハンドバッグの中身をしばらく探していたが、顔を上げる。
「先行ってていただけますか?」
「分かった」
 亜衣は頷くと、わたしたちは歩道へと出た。わたしは辺りを見回すと、亜衣に囁いた。
「どうしたの?」
 朝から彼女の様子がおかしい。たとえ双子の姉妹に、いや双子の姉妹だからこそ、打ち明けられない悩みがあるのかもしれない。
「いえ、何でもありません」
 亜衣は口調こそ穏やかだったが、顔付きからは頑なな意志が読み取れる。彼女は続けて言った。
「ご心配ありがとうございます。でも本当に大丈夫ですから」
「そ、そう、ならいいの」
「……ただ足が思うように動かないせいで、イライラしてしまって」
 亜衣はそう言うと、弱々しく笑みをこぼす。
「じきによくなるよ。ねぇ」
 わたしはそう励ますと、有沢を見た。有沢も微笑して頷くと、亜衣は戸惑いがちに頭を下げた。しばらく無言が続いたが、やがて溜息混じりにポツリと呟いた。表情も暗い。
「これで間違われなくなりますね」
「ん? どういうこと? 真衣ちゃんと間違われてきたこと、ずっと嫌だったんじゃないの?」
「ええ、嫌でした。でもこれから間違われなくなる思うと……何か……」
 わたしは言葉を継いだ。
「寂しい?」
「そうじゃないんですけど……。うーん、例えば」
 亜衣は素早く後ろを振り返ると、声を潜める。
「真衣と間違えられて声を掛けられることもあったんです、……その、吉元くんに。少し嬉しいんですけど、それがなくなると思うと……」
「亜衣さん、今でも……」
 亜衣は恥ずかしそうに俯くと、後ろから慌ただしい足音が聞こえた。亜衣はハッとして振り向く。
「ごめん、鍵はすぐ見つかったんだけど、ちょっとメールを返してて、ね」
 口にこそ出さなかったが、真衣の嬉しそうな笑みを見て、わたしは吉元からだろうと考えた。亜衣も笑って言った。
「……そう。よかったね」
 いくら亜衣の胸中を真衣が知らないとは言え、見るに忍びない。わたしは話題を変えようと、真衣へ尋ねる。
「ところでお母さんには連絡した? 亜衣さんのこと」
「ええ。今、お父さんが中国へ出張に行ってて、余り心配は掛けたくなかったんですけどね」
「仕方がないよ」
 わたしが慰めると、有沢も笑んで頷いた。
「そうですよ。下手に隠しても仕方ありません。……ところでお父様は海外出張へよく行かれるんです?」
 真衣は戸惑いながらも頷いた。
「はい、貿易関連の商社に勤めてたので」
「へぇ、ということは中国語が堪能なんですか?」
 真衣は亜衣と見合わせていたが、真衣は首を振る。
「分かりませんが、多分そうだと思います。父は大学院で漢字の成り立ちについて研究していたらしいですので。だから漢字にはうるさくて。権利の権って木偏に又って書きますよね」
「えっと……そうなの?」
 亜衣が躊躇いがちな声で真衣に尋ねた。わたしは笑って真衣へ言う。
「いやぁ、それ法学部だけだと思うよ。……それで?」
「この間、帰ったときに木偏に又って書いたんですよ。そしたら、ちゃんと書けって言われましたよ」
「えっと……」
 わたしは「権」という字を思い浮かべようとする。板書もノートも「权」と書いているので、「権」という字が咄嗟には思い浮かばないのだ。
「あぁ、あの面倒な字ね」
 わたしが言うと、真衣は苦笑した。
「いえ、それがですね。お父さんがちゃんと書けって言うときは旧字体のことなんですよ」
 それを聞いて、亜衣は意外そうに尋ねた。
「え? そうなの?」
「何? 亜衣、知らなかったの?」
 真衣に聞かれ、亜衣は頷いた。
「うん……、だって余り興味なかったし。変な字使ってるなぁくらいにしか。そもそもあの人、家にほとんどいないじゃない」
 歩いていると、甲高い機械音が近づいてきた。どこかで解体工事でも行なっているんだろうか。耳障りな音に亜衣は渋顔を作っている。
「まぁ、そうだけど。でも……」
 真衣は苦笑交じりにそう言いかけて、口をつぐむ。亜衣の明らかに不機嫌そうな顔を見て、言い争いになってしまうと感じたんだろう。
 真衣はハンドバッグから例のチョコレートを取り出すと、亜衣に手渡した。
「あ、そうだ。チョコレート食べる?」
「わたしいらないから、真衣食べていいよ」
 亜衣はチョコレートから顔を背けた。その態度に真衣は呆気にとられているようだった。
「そ、そう……」
 彼女はそう言って、チョコレートをハンドバッグにしまう。
 亜衣は彼女の顔に一瞬、目を向けた。ごめん、と亜衣の口だけが動いた。もしかしたら声に出して呟いたのかもしれない。しかし工事の音で真衣の耳には届いていないようである。
 ほどなくして駅が見えてくる。しかし有沢との惜別より、亜衣の異変が気になって仕方がなかった。

  第四部、双子の過去

 テニスコートでは青空の下、学生がラケットを振っている。玉の打ち合う音が気持ち良い。わたしはその横を通り、キャリーバッグを引きながらャンパスのロッカーに向かっていた。
「浅香さん!」
 吉元の声がして、わたしは足を止めた。彼は駆け寄ると、フェンス越しに勢い込んで尋ねる。
「真衣、どうかしたんですか!?」
「どうって?」
「何も知らないんですか!? さっき足を引きずって保健室から出てきたんですよ」
「あれは亜衣さんなの」
 それを聞いて、険しかった吉元の顔が少し和らいだ。すぐに不謹慎だと気付いたらしく、バツの悪そうな顔に変わる。
「何があったんですか?」
「ケガをしたらしくて。わたしも詳しくは知らないけどね」
 吉元に心配を掛けたくないし、どこまで話していいか分かない。何も知らない振りをしておこう。
「あ、そうそう。亜衣さん、何か最近元気なさそうだけど何かあった?」
 それを聞いて、吉元は考えるように唇を指でなぞっていた。しかしやがて首を振ると答えた。
「いや、分かりません。すみません……」
「そう。好きなチョコレートも食べたがらないの」
 わたしはそう言うと慌てて付け加える。
「って真衣ちゃんが」
「チョコレート?」
 吉元がオウム返しに尋ねると、わたしは答えた。
「そう。真衣ちゃんっていつもチョコレート、持ってるでしょ」
「ああ、あのお徳用のですか」
 わたしはその言い方に苦笑しながらも頷く。
「お徳用って……。まぁ、確かに間違いじゃないけど……」
「あれ? 何か俺、変なこと言いました?」
 せめて市販品とかさ、別の言い方はないの? そう思ったが、市販品と言い替えても安っぽく聞こえてしまう。
 わたしは笑って、首を振った。
「ううん、何も」
「そうですか。でも、おかしいですね。あれは真衣にとって思い出のチョコなんでしょ?」
「いや、わたしに聞かれても……。思い出のチョコレートって?」
 わたしが尋ねると、吉元は頭を掻く。
「真衣のやつ、てっきり浅香さんにも話してると思ったんですけどね……」
「どんな話?」
「あれは真衣が小学生のころ、小遣いを出し合って買ったんですよ、亜衣さんと近所のスーパーで。ほらたくさん入ってるじゃないですか。お徳用だから」
 なるほど、とわたしは独り頷いた。真衣がチョコレートを亜衣に渡そうとして、「いらない」と拒まれたときの悲しそうな顔。亜衣との思い出そのものも否定されたような気がしたんだろう。
 それとともに、小さな二人が百円玉を握りしめ、スーパーのレジに並ぶ姿が浮かんだ。そして頬を緩ませ、家路を急ぐ姿や仲良く部屋で袋を開ける姿も。
 そういえば、亜衣の部屋のゴミ箱にはチョコレートの包み紙が捨ててあった。しかしいくら双子と言っても、違う人間である。
「でも真衣ちゃんには思い出がたっぷり詰まってても、亜衣さんは何ともない普通のチョコかもよ? 単に気分が乗らなかっただけかもしれないし……」
 わたしはそう言ったものの、今朝の亜衣にはなおも違和感が残った。思い出が詰まっていると彼女も知っているはずである。もし、食べたくなかったとしてもポケットに入れるなど、真衣を傷つけないように振る舞うだろう。
 それにチョコレートの包み紙がゴミ箱に捨ててあった。ということは、つい最近まであのチョコレートを食べていたんだろう。加えて、味の好みが急に変わるとは考えにくい。もし小学生からずっと嫌いなチョコレートを食べ続けてきたのなら話は別だけど。
 そんなことを考えていたが、吉元もやはり同じ考えらしい。腑に落ちていないことは彼の顔からありありと窺える。しかし先輩であるわたしの手前からか、表立って異を唱えなかった。
「そういうもんなんですかねぇ。まぁ今度メールで聞いてみます。亜衣さんに」
「……あぁ、それは止めといたほうが」
 真衣、わたし、それに加えて吉元からもあれこれ聞かれるのだ。かえって心を閉ざしてしまいかねない。
「分かりました」
 吉元は素直に応じたが、少し拗ねたような声で言った。
「気持ちは分かるけど……。亜衣さんはケガで苛ついてるみたいだから。今はそっとしておきましょ」
「はぁ、そういうもんですか……」
「それよりも真衣ちゃんの側にいてあげて。双子って、片方の気持ちが沈むと引きずられるっていうじゃない? まぁ今朝も吉元くんとメールしてたみたいだから、安心だとは思うけど」
 吉元はそれを聞いて、きょとんとした顔になった。
「今朝、ですか? 今日は一回もメールしてませんよ、真衣には。あいつ、いつも八時ごろ出かけるんですけど、俺、徹夜でゲームしてて、寝たのその時間ですから」
「あ、そうなんだ。わたしの勘違いだね。ごめんごめん」
 誰かと連絡してたみたいだ、と言うと余計な誤解を生みかねない。わたしは誤魔化して笑うと、吉元は怪訝そうに眉を顰める。しかしテニスコートから男子生徒が呼んだ。
「おーい。何やってるんだ。試合始めるぞ」
「おう、悪い。今行く」
 吉元は男子生徒を向くと、わたしへ片手拝みをした。また一緒にプレイしましょう、と彼は早口に言うとテニスコートへ駆けていった。
 わたしはキャンパスへと再び向かいながら考える。吉元からではないとすると、真衣は誰と連絡を取っていたんだろうか?
 満面の笑顔を思い出しながら、真衣の言葉を胸の内で反芻した。……ちょっとメール、か。

 西日が窓から差し込み、ホワイトボードに書き殴られた金釘流の文字を照らし出している。後ろの席で、わたしは欠伸を噛み殺しながらノートを取っていた。何人かは真面目に講義を受けていたが、大半は夢の国に旅立っている。
 先生が講義の終わりを告げると、彼らは一斉に起き上がり、伸びを始める。催眠術でも解かれたかのようで滑稽だった。
 わたしも伸びをすると、ルーズリーフを片付ける。そして席を立とうとすると、吉元が駆け寄ってきた。顔はすっかり紅潮している。
「本当ですか!? 亜衣さんが襲われたって」
「……そうみたい」
「何で黙ってたんですか?」
「あやふやなこと言うと、吉元くんを心配させちゃうかと思って」
「気持ちはありがたいですけどね」
 吉元は刺を含ませてそう言うと、わたしの隣に腰を下ろした。そして鞄からペットボトルのコカコーラを取り出すと、一口飲む。
「まさか真衣と間違えて襲われたんじゃありませんよね!?」
 少し興奮は収まってきたが、コーラくらいではまだ頭が冷えないらしい。身を乗り出す吉元を、わたしは手で押し留めた。この様子だとストーカーの件は黙っておくべきだろう。芦屋を殴り込みに行きかねない。
「……何も知らないってば」
 吉元は探るような目でわたしを見ていたが、肩を落とした。そして溜息をつくと、寂しそうな目付きに変わる。
「そうですよね。浅香さんなら何か知ってると思ったんですが」
 それを聞いて、わたしは曖昧に笑んだ。
「わたしだってエスパーじゃないからね。……そういう吉元くんこそ何も聞いてないの?」
 わたしが尋ねると、吉元は首を振った。
「それが何も」
「そう」
 わたしが短く呟くと、吉元は頭を掻きむしっている。やがて焦れったそうに吐き捨てた。
「あぁ、もう、どうして何も言ってくれねぇんだよ」
 掛ける言葉が浮かばない。かと言ってそのまま立ち去るのも気が引ける。わたしは烏龍茶を取り出すと、一口飲んで、吉元を見た。
 彼はしばらく険しい顔でうつむいていたが、顔を上げると、わたしへ尋ねる。
「そういえば、今朝も真衣と俺がメールをしてたって言ってましたよね」
「う、うん……」
「どうしてそう思ったんです?」
「だから何となくだってば。特に理由なんかないって。あれはわたしの完全な勘違い」
 白を切り通しても二人に迷惑が掛からないだろうか? 不安になりながら、曖昧な笑みを浮かべて吉元の顔を見た。もし迷惑が掛かるようなら当たり障りのないように伝えるつもりである。
 吉元は不服そうな顔をしかめていたが、やがて何か言いたそうに唇を震わせる。詳しい理由を知りたい気持ちと、知るのが怖いという気持ちが入り混じっているのかもしれない。
 吉元は肩を落とすと、弱々しい声で言った。
「そうですか。確かにさっきも誰かとメールをしてたみたいですけど」
「ふうん、いっそのこと聞いてみたら? 悩んでるよりスッキリするんじゃない?」
「聞きましたよ。すぐに何でもないって言ってましたけど。珍しい」
「珍しい?」
「ええ、真衣は決断が早いように見えますが、誰かが口を挟むとすぐに考えが揺らぐんです。どうしようかなぁって。優柔不断っていうんですか? アイスだって、あれこれ悩んだ挙句、結局俺が選んだのにするんです。まぁそこが可愛いんですけど、イライラすることもごくたまに……」
「ふうん」
 わたしは惚気話を聞き流したが、ふと思い出したことがあった。そういえば吉元が真衣への関心がなくなった、と麻美が言っていた。しかしあれは吉元なりに気を遣っていたのかもしれない。
 わたしは頷くと確かめた。
「つまり誰からのメールか言わないって決めてるけど、吉元くんが尋ねたら言おうかどうか迷うはずだと」
「そうですね」
 そして吉元は仏頂面で答えたが、自嘲的に笑ってこう続ける。
「他に男でもできたんですかねぇ。そしたらどうして亜衣さんがあんな目に遭ったかってのも……」
「つまり真衣ちゃんは二股をしてた。そして吉元くんと付き合ってるって解って、真衣ちゃんを襲おうとしたけど、亜衣さんだった。こういうこと?」
「ええ、まぁ」
 吉元は歯切れ悪く頷いた。顔も不機嫌そうである。恋人が二股を掛けていた。その挙句に彼女の妹が間違って刺されたなんて、信じたくないに決まっている。
 わたしは首を振ると、吉元へ優しく声を掛ける。
「まだ誰とメールしてたのか分かないじゃない?」
「でも怪しくないですか? 俺に隠れてメールしてるなんて絶対、なんかありますって」
 そう言うと吉元はコカコーラを一気に飲んだ。口調こそどこか道化めいていたが、目からは苛つきと猜疑心が読み取れる。
「そうねぇ……」
 わたしは呟くと、烏龍茶を一口飲んだ。どう慰めの言葉を掛けよう……、ペットボトルを机に置くと、にっこりと笑ってさらに続ける。
「真衣ちゃんを信じてあげたら? 付き合ってるんでしょ?」
「そうですね」
 吉元はそう言ったものの、拗ねたような顔つきである。無理もない。愛する人を無条件に信じられるなんて小説の世界だけなのだ。
 吉元は首を振って、深く溜息をついた。立ち上がると、重い足取りで教室を去っていった。彼と入れ替わりで、学生が入ってくる。どうやら次の講義を受けるらしい。
 わたしは烏龍茶をバッグに入れると立ち上がったのだった。

 教室から出ると、廊下の窓にはブラインドが降ろされていた。西日が抑えられた廊下を、学生が談笑しながら歩いている。
 わたしは壁にもたれると、スマホを取り出した。有沢へ電話を掛けてみるが、コール音が空しく続くだけである。おおかた仕事をしているか、また本でも読んでるんだろう。
 わたしは溜息をつくと、用件をメールで済ませることにした。「亜衣さんが襲われる心当りがないかって吉元くんに聞いてみたんだけど、特に思い当たらないってさ。隠れて誰かとメールしてたみたいだけど、誰かは分からなかった。それから例のチョコレートだけど、二人で初めて買ったものなんだって」。ほどなくして、メールが返ってくるが、その文面を見て思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「はぁ?」
 そこにはたった一言、「吉元くんって子は鹿児島出身?」と書かれていたのである。どうしてこんなこと聞くんだろう? 有沢と同じものを見聞きしているはずである。いや、むしろ今回はわたしの方が多くの手掛かりを掴んでいるのだ。しかしゴミ箱の中からも鹿児島と二人をつなぐものは見つからなかったし……。
 これ以上、考えても何も浮かびそうにない。わたしは独り頭を振ると、「知らない。聞いておこうか?」と返信する。しばらくスマホを見つめていたが、返信はすぐに来なかった。
 わたしは吉元へメールを送ろうとしたが、ハタと手が止まる。どうしてそんなことを聞くかと尋ねられたら答えようがない。
「真衣ちゃんに聞こう」
 わたしはそう呟くと、彼女へ電話を掛けた。しかし三回も呼び出し音が鳴っているのに出ない。諦めて真衣にメールを書いていると、着信音が鳴った。真衣からだと画面に表示されている。
「もしもし、出れずにごめんなさい。何でした?」
 わたしが電話に出ると、真衣は言った。ひどく急いでいるらしく、早口である。
「……あぁ、急いでるんなら後にしようか」
「そうですね……、どうしようかな、えーと、それで……お願いします」
 電話口の向こうから人の声がかすかに聞こえてくる。はっきりと聞き取れないが、声の高さからして女性のようである。
「OK。また夜にでも電話するね。有沢から伝言があって」
「伝言ですか? 今でも大丈夫ですよ」
 わたしは質問を伝えると、戸惑ったように答える。
「確かに吉元くんは鹿児島出身ですけど……。市内も同じです。でもどうしてそんなこと?」
「さぁ? 知らない。彼の考えが分からないのはいつものことだし」
「そうですか」
 真衣はそう言うと、苦笑が漏れてくる。そんな恋人関係がよく続くと思ってるんだろう。
「うん、用件はそれだけだから。じゃ、忙しいみたいだから切るね」
 わたしはそう言って、電話を切ろうとする。しかし真衣は何か閃いたらしい。
「あ、そうだ」
 真衣はポツリと呟くように言うと、急に声が遠くなった。女性と話しているらしいが、会話の内容までは聞き取れない。しかしすぐに真衣の声がした。
「今、芦屋さんのことで里内先輩と会ってるんです」
「里内さんに?」
「ええ、昨日まで亜衣の思いすごしだと思ってたんです。芦屋さんがストーカーだってこと。でも昨日、亜衣が襲われて、それで、それで……」
 真衣の声は明らかに動揺して、上ずっている。わたしは彼女の言葉を引き継いだ。
「急に怖くなったのね」
「ええ、で、里内先輩なら芦屋さんを説得できるんじゃないかって思って、昨日の夜からメールしてたんです」
「あぁ、じゃ、今朝は里内さんとメールしてたのね。鍵を掛ける時に」
「ええ、話を大きくすると里内先輩に迷惑が掛かるじゃないですか。だから萌先輩たちには黙ってたんですけど」
 言い訳する子供のような口振りである。勝手に話を進めて、わたしが気分を害していると思っているらしい。
「そうなんだ。それで?」
 わたしは明るく後を促す。真衣は安堵の息をつくと、言った。
「事情を話したら萌先輩も一緒にどうかって言ってます。どうしますか?」
 今すぐにでも行きたかったが、ただでさえ恋人と一泊しているのだ。これ以上母親に心配は掛けたくない。もっとも「いつか帰ってくるでしょ」と陰では言われているらしいが、額面通りに受け取るほどわたしも無邪気じゃない。
「場所どこ?」
「学校です。A202教室」
 学内なら余り時間は掛からないだろう。わたしは笑んで頷いた。
「すぐ行く」
 そう言うと、電話を切る。スマホをポケットに押し込んだが、ふと母親の顔が頭をよぎった。スマホを取り出すと、母親にメールを送って家に帰る時刻を報せる。母親からはすぐに「了解」とだけ返事が届いた。
 その文面を見て、大きな安堵感と少しの罪悪感を抱いた。しかしA棟へ向かっている途中で、緊張と期待に変わっていく。
 今は疎遠になっているだろうが、昔の恋人だ。芦屋について何か知ってるかもしれない。そして亜衣が襲われた一件についても……。

 わたしはA202教室の扉を開けた。二十脚の椅子と机が整然と並べられていて、その前にはホワイトボードが置いてある。狭いながらもモダンな教室だ。
 前の席には真衣が座っていた。その傍らには、長身だが少しぽっちゃりとしている女性が立っている。わたしは目が合って軽く会釈をした。
 真衣はわたしに気付くと、立ち上がって頭を下げる。そして女性に手を差し向けると、言った。
「あ、紹介します。里内由紀恵先輩」
 里内はそれを聞いて、微笑んでいる。
「はじめまして、里内です。本屋で働いてるの」
 彼女はそう言うと、わたしに一礼する。慣れているらしく、とても気持ちのいい頭の下げ方だった。その一方で事務的な印象も受ける。
 真衣はわたしへ手を差し向けると、彼女へ紹介した。
「こちらがさっき話してた浅香萌先輩」
「はじめまして、浅香萌です。無理を言ってすみません」
 わたしはそう言うと、頭を下げる。
「いいのいいの。気にしないで。さぁ、座りましょう?」
 里内が気さくに促すと、わたしたちは腰を下ろした。わたしは烏龍茶をバッグから取り出すと、一口飲んむ。そして紙と鉛筆を取り出すと、里内に身体を向けた。
「早速ですが、聞きたいことがありまして……」
「芦屋くんのことよね?」
「ええ、まぁ……、彼ってどんな感じでしたか?」
 わたしが聞くと、里内は首筋を掻いて答える。
「どんな感じでしたかって言われても……。物静かで大人しい人だったわよ。どこにでもいるような」
「どうして別れちゃったんですか?」
 真衣が尋ねると、里内はしばらく宙に視線を漂わせていたが、答えた。
「どうしてって言われても……、就職して生活リズムが合わなくなっただけ」
「生活リズム、ですか」
 オウム返しに呟く真衣の顔は、今一つ実感が沸かないようである。里内は頷いて答えた。
「そう。まぁ、彼の言葉も段々と変わっていったし、それも原因かな」
「どのように変わっていったんでしょう?」
 変化になにか手掛かりがあるかもしれない、と考えてわたしが口を挟む。
「段々、ネガティブな言葉が多くなっていったの。もうダメだ、とかそんな感じ」
「うわぁ、重たそう……」
 そう呟くと、真衣はしきりに頷いている。亜衣からもネガティブな言葉を聞かされているんだろう。
 真衣の台詞を聞いて、里内は言った。
「そうね、疲れてきた。まぁ芦屋くんは就職できなかったから気持ちも分からなくもないんだけど、わたしも社会人になったばかりで色々、覚えなきゃいけなかったし」
 きっと芦屋は里内が羨ましかったに違いない。正社員もどうなるか分からないとは言っても、フリーターよりはずっと安定している。
 そんなことを考えながらわたしは尋ねた。
「別れてからは連絡を取ってました?」
「しばらくはメールをしてた。何か放っておけなくて。だからこそ今回、浅香さんに会おうと思ったの」
「未練でもあるんですか?」
 真衣が意外そうに尋ねると、里内は笑って首を振った。
「別に。ただ何か縁があった人を信じたいって思わない? その人の関係がどうであれ」
「そうですか? わたしだったら昔の男なんてどうでもいいって思っちゃいますけど」
 真衣が戸惑いがちにそう言うと、里内は苦笑する。
「まぁ、人それぞれだから。単にわたしがお人好しなだけじゃない?」
 里内がそう言うと、真衣は慌てて手を振った。
「そんなことありませんって」
 それを聞いて、里内は短い笑みを漏らすと言った。
「でも昔の男をどう思うかは置いておくとして、真衣さんだって芦屋くんがストーカーだって信じられないんじゃないかしら」
「ええ、まぁ、実はそうなんですけど」
 そして真衣はわたしたちの顔を見ると、続けて尋ねる。
「ねぇ、先輩たちはどう思います? 本当に芦屋さんが亜衣を襲ったと思いますか?」
「まだ何とも言えない。犯人だっていう証拠がないからね。不安な気持ちも分かるけど」
 わたしはきっぱりと答えた。しかし真衣は腑に落ちないような顔でわたしを見つめている。「疑わしきは被告人の利益に」。この大原則は真衣も知ってるはずだが、被害者の家族からは割り切れないものがあるんだろう。ましてや間違われて刺されたかもしれないともなるとなおさらである。
 真衣は雑念を振り払うかのように、ゆっくりと首を振った。そして里内に向き直ると、言った。
「里内先輩はどう思います?」
 真衣の目は救いを求めているようである。犯人か無実か確かめて安らぎを得たいんだろう。もちろん今すぐに答えは出せない以上、かりそめにすぎないが。
 そんな彼女に里内は慎重に言葉を選びながら、こう言った。
「そうねぇ、確かに浅香さんの言うことは一理あるけど……、芦屋くんが犯人かもしれないわけじゃない? だったら用心するに越したことはないと思う。何かあってからじゃ遅いし、ね?」
 里内が語りかけると、真衣は息をついた。宙吊りの不安から解放されたんだろう。しかし彼女はすぐ怯えた目つきになった
 それを見て、里内は慰めるように微笑むと時計を見る。立ち上がると言った。
「もうそろそろ居酒屋開くころね」
「そうですね、行きますか」
 真衣も頷いて暗い顔で立ち上がる。口振りから家に帰りたくないという気持ちが読み取れた。
 捨てた、と語ったものの亜衣の部屋からバタフライナイフが見つかったことには変わりないのだ。いつまた妙な気を起こさないとも限らない。気まずさと戦慄とをアルコールで紛らわそうとしているんだろうか、と考えていると、里内はわたしに声を掛けた。
「浅香さんもどう? おごるわよ」
 家族が心配するからと断ると、彼女は残念そうな顔に変わる。しかしやがて笑うと、ポケットから名刺入れを取り出した。銀色で上品なものだった。
「はい、何か聞きたいことがあったら」
「ありがとうございます」
 わたしは里内から名刺を受け取ると、ポケットにしまった。そして教室の出口に向かうと、里内もさり気なく近づいて扉を開けてくれる。
 真衣のことが気にかかって目を向けると、ぐったりと壁にもたれていた。

 家に着く頃には、空は赤かった。キャリーバッグを玄関先に立てかけると、扉を開ける。
「おかえり」
 すぐさま母親の声が居間から聞こえてきた。わたしは居間のドアを開けて「ただいま」と返す。
「ねぇ、どうだった?」
 彼女の口調はからかっているようであり、目はゴシップ記事でも読むかのようだった。
 有沢は確かに安全牌である。母もそれを知っているんだろうが、態度には納得行かないものがあった。もっとも心配してあれこれ詮索されても、いい気分はしなかっただろうが。
「別に」
 わたしは素っ気なく答えると、続けて尋ねた。
「何か期待してるわけ?」
「別に。ただ聞いてみただけじゃないの」
 母はそう言うと、安堵したような笑みを浮かべた。わたしはにっこりと笑んだ。
「安心して。変なことはしてないから」
 わたしはそう言うと、居間のドアをそっと閉めた。キャリーバッグ片手に浴室へ行くと、衣服を洗濯機へまとめて放り込む。そして二階の自室へと向かった。
 わたしは自室のドアを開け、電気を点けた。そしてベッドに寝転がると、有沢に電話を掛ける。ほどなくして、彼の声が聞こえてくた。
「やぁ、どうだった?」
「真衣ちゃんに聞いてみたんだけど、あんたの言う通り鹿児島出身だった。しかも同じ市内だってさ」
「やっぱりね」
 有沢の自信に満ちた物言いを聞いて、わたしは尋ねる。
「ねぇ、どうして分かったの? 吉元くんが鹿児島出身だって」
 まさかわたしと彼の浮気を疑い、密かに調べ上げていたんじゃないか。一瞬わたしの頭にそんな考えがよぎったが、慌てて首を振った。そうだとしたらわたしには確かめさせないだろう。
 だとしたらどうして? 一瞬だけ彼の写真を見ただけであるが、あの中に鹿児島だと推理できるものが写り込んでいたんだろうか。
 しかし有沢の答えは予想外だった。
「名前だよ」
「名前? 確かに村瀬とかなら名古屋に多いけど、ヨシモトなら珍しくないんじゃないの?」
「確かにね」
 有沢が言うと、わたしは戸惑って頷いた。
「そうだよ、だからヨシモトっていう苗字から出身地は……」
「でも普通はヨシモトって言うと、『ほんでしょ? でも鹿児島じゃこれを元気の『元』って書く苗字が多いんだよ」
「へぇ、相変わらず……」
 わたしが揶揄すると、有沢の苦笑いが漏れてくる。
「ムダな知識がたくさんでしょ」
「だから否定してっていつも言ってるのに」
 わたしは拗ねた気持ちになった。しかし気を取り直して、続けて尋ねる。
「でも変換ミスだったかもしれなかったじゃない」
「もちろん。でも『ヨシモ』まで打つと、『本』のヨシモトは変換候補に出てくる。でも、元のヨシモトは最後まで打たなきゃいけない。つまりあえて『元』のヨシモトを送ったってわけさ。それに『元』のヨシモトが変換候補に出てくるのはかなり後ろだしね」
「ふうん、でも吉元くんが鹿児島出身だとして、それと今回の事件とどう関係があるの?」
「真衣さんたちも鹿児島出身だよね」
「そうだけど……、でもさっき、わたしから聞いて知ったでしょ?」
「いや、その前から知ってたよ」
「え? 本当?」
 わたしが驚いて尋ねると、有沢は答える。
「うん、亜衣さんは家族に電話でこう話してたよね。『え? 鹿児島から名古屋に来るの?』って」
「……あ。そういえば」
 わたしは思わずそう呟いていた。そして身体を起こすと、尋ねた。
「つまりあの三人は大学に入る前から知り合いだったってこと?」
「さぁ、そこまではまだ何とも言えないけど……」
 有沢はそう言うと、少し間を置く。しばらく何かを考えているようだったが、さらに続けた。
「でもその可能性はあるね」
「だよね、実際のところどう思う?」
 わたしは興奮して尋ねたが、有沢は冷静である。
「まだ何とも言えないね。データが出揃わないまま仮説を立てると、余計に時間が掛かることもあるんだ」
「そうなんだけどね、真衣ちゃんと亜衣さんが何かたくらんでるんじゃないかって考えちゃって」
 わたしは無理に明るく振る舞おうとした。窓の外では風が強く吹いている。机の上のルーズリーフが風で飛ばされないようにと、わたしは立ち上がると窓を閉めた。
 しかし悲鳴にも似た風の音がまだ聞こえてくる。
「ねぇ、どう思う? 二人が何かを共謀してるとしたら……。顔も声はもちろん、DNAも同じでしょ? 例えば入学以前に、三人にトラブルがあった、とか」
 そう考え始めると、生物の教科書に引かれていたアンダーラインも意味深長に思えてならない。
「真衣さんは誰かを刺そうとしていて、亜衣さんと入れ替わった。つまり真衣さんがコンビニに向かった?」
「そう、それで揉み合いになって刺されたんじゃない? バタフライナイフも亜衣さんは捨てたって言ってるだけだしね」
「確かに僕もその点は気に掛かっていんだけどね。だからと言って亜衣さんたちが誰かを刺そうとしてるって証拠にはならないんじゃないのかな?」
「どうして!?」
 わたしが目を剥いて叫ぶと、母の声がする。もっと小さな声で話すように注意されたのだ。愛の囁きが筒抜けになってしまっていると冷やかされた上で。
 はいはい、とわたしは適当にあしらうと、声を潜める。
「レシート、ナイフの箱、どれを取っても何かくわだててるって証拠じゃないの?」
 わたしが言うと、有沢は重々しく答える。
「どれも状況証拠だよ」
「そうだけど……」
 わたしが反論できず言葉に詰まっていると、有沢は尋ねた。
「じゃあ、何で僕や萌ちゃんにバタフライナイフを見つけてくれって真衣さんは頼んだんだろう」
「証人が欲しかったから、とか」
 もちろん完全な当てずっぽうである。しかし有沢は神妙な声で言った。
「つまり亜衣さんが誰かを殺そうとしているっていう証人?」
「そう。例えば……、芦屋さんを……じゃないよね」
 芦屋は事件が起きた晩は風邪で欠勤だったのである。揉み合いになって刺したとは考えられない。わたしは自分の推理に苦笑してしまった。
 有沢はそれに構わず続ける。
「もう一つ疑問が。二人が誰かを刺そうとしたんだったら、どうして交番に向かったんだろう」
「あ、そうか。できるだけ警察には関わり合いたくないはずだからね。計画が警察にバレたら元も子もないし」
 わたしは少し安堵したが、疑いは完全に消えたわけではない。むしろ何とも言えない不気味さが残った。霧が立ち込めた山道に迷い込んでしまったかのようだ。
 わたしはベッドに再び腰を下ろすと、溜息をついたのだった。

 ゲームシナリオの原稿がまだ残ってるからと、有沢は電話を切った。結論が中途半端だったが、誰かを刺そうとしているか今すぐに調べられそうにない。
 わたしは吉元、真衣、亜衣が入学以前に知り合いではなかったか調べようと考えた。麻美なら何か知っているかもしれない。
 しかし電話を掛けたが、なかなか出ない。諦めてメールで聞こうかとした時、麻美の声がする。
「もしもし」
 しかし電話越しからは何かゴソゴソという物音が聞こえてきた。
「ごめん、取り込み中? メールの方がいい?」
「ううん、平気。カップラーメンでもないかな、と思って探してただけだから」
 物音が止むと、麻美の嬉しそうな声がする。
「……あった」
 そして蛇口から水の流れる音がしばらく続いていた。麻美はヤカンに水を入れているらしい。やがてガスコンロの上に置いて、火に掛ける音……。
 それらの音が止むと、代わりに麻美のうっとりとした声が聞こえてきた。
「ねぇ、どうだった?」
「え? 何が?」
 わたしは戸惑いを覚えて聞き返す。さっきから真衣と亜衣のことを考えていたのだ。麻美は苦笑して答えた。
「何がって……、彼氏と一泊したんでしょ? 優しくしてくれた?」
「なんだ。そのこと」
 母にも全く同じことを聞かれていて、わたしは内心で辟易しながら続けて返した。
「麻美が期待してるようなことはなかったよ」
「え……」
 麻美は絶句しているようだった。しばらく沈黙していたが、素っ頓狂に聞き返す。
「本当に!?」
「ウソなんかついてどうするのよ。そんなこと」
 わたしが呆れて言うと、麻美は大袈裟に溜息をついた。
「男と一泊して何もしないなんて、大阪行ってタコ焼き食べないのと同じじゃないの! 何しに行ったのよ!」
 大阪には「タコ焼き」以外にも美味しいものはあると思うけど。わたしは乾いた笑いを浮かべる。
「何よ。その例え」
「いやさ、ちょうどテレビで見ててさ、たこ焼きが映ってたから……」
 麻美は恥ずかしそうな声で言うと、さらに続けて尋ねた。
「で、何か用?」
「うん、聞きたいんだけど……」
 わたしが言いかけると、麻美は我が意を得たりというような声で遮る。ニヤニヤと笑う彼女の顔が目に浮かぶようだ。
「スキンシップから始めたら? 手をつなぐとかでもかなり違うと思うけど」
「え? え? 何のこと?」
 全く話が見えない。わたしが混乱していると、麻美は驚いたような声で言った。
「え、彼氏に女として見てもらうにはどうしたらいいかって相談じゃないの? あ、そうだ。交換日記でもいいかもね、里内先輩たちみたいに」
「違う違う。わたしが聞きたかったのは亜衣さんのこと」
 わたしが笑いながら答えると、彼女は意外そうに聞き返す。
「亜衣? ケガしてたみたいだけど、何かあったの?」
「……わたしも詳しくは知らないけど」
 わたしはウソをついたが、幸い麻美はすんなり納得したらしい。ふうん、と残念そうに呟いたが、それ以上食い下がらない。わたしは続けて尋ねる。
「その亜衣さんたちと吉元くんのことなんだけど、大学に入る前に顔見知りだったとかって知らないよね」
「さぁ、わたしは聞いたことがないけど……。こないだも話したけど学部も学年も違うから余り付き合いがなくて」
 そう、とわたしは短く言った。しばらく麻美は黙っていたが、思い出したようだ。そういえば、と麻美は呟くと続けた。
「吉元くんって一浪してたはずよ。だから亜衣さんとは浪人時代がかぶってるってわけ。ねぇ、何でそんなこと聞いてるの?」
 また変なことに首を突っ込んで……、という非難が少しだけ感じられた。しかし興味本位で聞いているようにも取れる。ウワサ話が好きな彼女らしい。
 わたしはどこまで話そうか迷いながら答えた。
「体調悪そうにしてたよね? 何か悩みでも抱えてるんじゃないかって思って。心当たりない?」
「吉元くんが忘れられなくて、姉妹間で三角関係になってるとか」
 麻美はそう言うと愉快そうに笑った。わたしは思わず苦笑してしまう。
「何でそうなるのよ」
「あら、よくある話じゃない」
 麻美の声は自信に満ちていたが、早い話が何にも知らないようである。安っぽい恋愛ドラマじゃないんだから、と内心で呆れながら言った。
「そうかなぁ?」
「ま、冗談だけどね」
 麻美は笑っていたが、真面目な調子に変わって続けた。
「でも亜衣さんはもともと工学部志望だったはず」
「へぇ、じゃあ、真衣ちゃんと同じだったんだ?」
 わたしは工学部と法学部と聞き違えてしまったようだ。麻美がはっきりと言い直す。
「工学よ、こ・う・が・く」
「え? 本当?」
「確かよ。まぁ、信じるか信じないかは萌の自由だけど」
「ごめんごめん。機械いじりが好きなようには見えなかったからつい」
「機械工学じゃなくて、生命工学だったみたい。わたしたちとは違う大学に入りたかったらしいけどセンターで数学の点数が足らなかったんだって」
 まるでCIA顔負けである。わたしは半ば感心しながら言った。
「それで一年浪人してるってわけね。でも文学部と工学部じゃ方向がかなり違わない?」
 それを聞いて、麻美は含み笑いをして言った。
「それがね、面白いの。初めは生命工学科、生命科学科、生物学科……その手の学科を中心に受験してたんだけど……」
「普通だと思うけど……」
「まぁ、人の話は最後まで聞きなさいって。翌年にはうちの大学の文学部、法学部、心理学部……。こんな受け方は珍しくない?」
 つまりわたしたちの大学にどうしても入りたかったのだ。わたしは頷いて言った。
「確かに珍しいね。名大とか京大とかなら肩書き欲しさに受けるって人もいるだろうけど……」
「でしょでしょ? さっきの推理も的外れじゃないって思わない? こりゃ何かあるって、絶対に」
 麻美の口調はすっかり熱を帯びている。
「吉元くんが忘れられないんなら真衣さんに頼めば紹介してもらえると思うんだけど……」
 わたしはそう答えたものの、亜衣の台詞がよぎる。「真衣と間違えられて声を掛けられることもあったんです、……その、吉元くんに。少し嬉しいんですけど、それがなくなると思うと……」と言っていた。麻美の勘は当たっているかもしれない。
「そうだ。もう一つ……」
 わたしは言いかけて、思い直した。芦屋について何か知らないか聞こうと思ったのだが、麻美のことだ。どうしてそんなことを聞くのかと尋ねるに違いない。
 いいから教えて、とせがんでも不公平だときっぱり断られるだろう。ギブ・アンド・テイクなのだ。しかも麻美が芦屋について知ってるという確証はどこにもない。
 亜衣がストーカーに襲われ、芦屋にその嫌疑がかかっているんだけど。そう打ち明けようとも思ったが、首を振った。ウワサが広まってしまいかねない。
「……やっぱりいいや」
 わたしが言うと、麻美は怪訝そうに尋ねる。
「そう? 彼氏とうまく言ってないんなら……」
 はいはい、とわたしは適当にあしらった。麻美がつまらなそうに唸ると、電話の向こうでヤカンの警笛が聞こえてくる。その甲高い音を聞いて、彼女は弾んだ声で言った。
「お湯湧いたみたいだから一回切るね。また掛け直す」
「あ、用事ってのはそれだけだから」
「そう? ならいいけど」
 麻美の残念そうな声が聞こえてくる。口には出さないものの、どうやらわたしの恋愛事情について色々と詮索したいようだ。わたしは心の中で溜息をつくと、また明日と短く告げた。
 亜衣に話を聞いてみたいと思い、スマホをタップする。しかし時刻が目に入り、そっと充電器に差し込んだ。そろそろ夕食時だったのである。
 亜衣とは話す機会があったら聞けばいい。そう思い直して伸びをした。
「それよりも今は芦屋さんについて調べなきゃ」
 わたしはそう呟くと、財布を取り出して里内の名刺を見つめる。芦屋は本当に真衣のストーカーなんだろうか。果たして亜衣は何を考えていたのか。
 外は薄暗くなり、不気味な風が相変わらず響き渡っていた。

第五部 二人の愛情

 しかしその日の深夜、亜衣から話を聞く機会は訪れた。一時を回り、チャンドラーの小説を閉じようとしていた時である。わたしのスマホが鳴った。
 画面へ目を向けると石井麻美と表示されている。無視を決め込んでいたが、なかなか鳴り止まない。仕方なく電話に出ると、麻美の声は硬かった。
「こんな時間にごめん。今、大丈夫?」
「うん、平気。どうかしたの?」
 努めてわたしは欠伸を噛み殺すと、わたしは尋ねる。
「真衣さんが家に帰ってないらしいの」
 麻美の答えを聞いて、わたしは耳を疑った。
「……え? どういうこと?」
「だから家に帰ってないんだってば。亜衣から電話あったんだけどね。何か知らない? 夕方、里内先輩と三人で会ってたんでしょ」
 麻美は焦りを押し殺しているようだった。普段の麻美なら「吉元くんの家に泊まってたりして」と言いそうだが、そんな様子ではない。
 芦屋との一件もあり、わたしも動揺していた。しかし、ここで麻美の気持ちに引っ張られていては負の連鎖になってしまう。
「会ってたけど……夕方五時ちょっと前までには別れたよ。とりあえず落ち着こうよ。ね?」
 わたしはそうなだめたが、これは麻美に言い聞かせただけではない。自分にも向けられていた。
「そんなこと言ったって……」
「……OK。亜衣さんにわたしの番号、教えていいからバトンタッチしましょ? それともわたしから連絡したほうが落ち着きそう?」
「多分、萌から掛けたほうがいいかも……、番号言うね」
 麻美は力なく言うと、亜衣の電話番号を告げた。わたしはボールペンを掴むと、ルーズリーフにそれを書き付ける。
「亜衣さんのメールアドレスは?」
「さすがにそこまでは覚えてない」
 申し訳なさそうに麻美は答えた。
「ごめん、そうだよね。アドレス帳に載ってそう?」
「多分……」
「なら分かったら送って」
「OK」
 麻美はそう言って電話を切ると、彼女からすぐにメールが送られてくる。アドレス帳には亜衣のアドレスが載っていたらしい。
 わたしは麻美に「ありがとう」とだけ返信すると、亜衣に今から電話していいかメールで尋ねた。わたしの電話番号も添えて。
 すぐに亜衣から電話が掛かってきたが、憔悴しきった声が漏れてくる。
「もしもし、あの……」
「話は麻美から聞いてる。心当たりはないんだよね?」
「はい……」
 亜衣でそう答えると、しばらく何も言わなかった。ただ泣きそうな声が漏れてくるばかりである。どう慰めていいのかと考えていると、亜衣は意を決したように言った。
「真衣は……真衣は……ストーカーに狙われてるんですよ」
「ええ、まぁ。でも……」
 わたしが言い淀んでいると、亜衣は怯えと苛立ちが入り混じっているんだろう。彼女は涙声で呟いた。
「刺されたらどうする気よ、わたしみたいに」
「亜衣さん、きっと……」
 わたしの言葉を遮るかのように、電話口の向こうで勢い良く扉の開く音がした。それとともに、高揚している声が聞こえてくる。
「ただいまぁ!」
 深酒していただけらしい。唖然、呆然、そして憤然。亜衣もわたしもしばらく押し黙っていた。
「亜衣ちゃん、お水ちょうだい」
 真衣は甘えた声でそう言ったが、ついに亜衣は堪忍袋の緒が切れたようである。
「バカ! どれだけわたしが心配したと思ってるの! 連絡ぐらいよこしてよ!」
 亜衣の怒声で一気に酔いが冷めたらしい。真衣の気まずそうな声が聞こえてきた。
「ごめん……」
 しばらく亜衣は押し黙っていたが、大声を出して少しはスッキリしたんだろう。あるいはこれ以上、ケンカをしても意味がないと分かったのかもしれない。亜衣の落ち着いた声が聞こえてきた。
「……ううん、でもどうしたの? 初めてじゃない。こんなに飲むなんて」
「うん……。色々と聞かれちゃって……」
 ふうん、と亜衣は短く言って、押し黙った。次の質問を考えているようだったが、真衣は気まずさがまだ残っているようだ。おやすみ、という声が聞こえたかと思うと、そそくさとした足音、そしてドアがそっと閉まる音が聞こえてくる。
 亜衣の溜息が漏れてきたが、わたしとの通話を繋いだままだと気が付いたらしい。慌てたように言った。
「心配をお掛けしてすみません」
「無事でよかったじゃない」
 わたしは苦笑を噛み殺してなだめると、続けて尋ねた。
「そうだ、電話を掛けてくれたついでに。一つ聞いていい?」
「何です?」
 張り詰めていた緊張が解けて、疲れが一気に押し寄せたんだろう。亜衣は気怠げに尋ねた。
「亜衣さんがこの大学を志望した理由って何?」
「え? ……小説が好きだからですけど?」
 どうして急に生命科学から文学部に「転向」したんだろうかと不思議がっている。質問の意図をそう受け取ったらしく付け加えるように言った。
「わたし、SFが好きなんですよ。それに真衣と下宿したほうが、安全かなと思いまして」
「そういうことね。最近確かに物騒だしね」
 SFが好きで文学部を受けた。ここまではまだ納得が行くが、心理学部は受けなくてもいい。しかし亜衣にこれ以上尋ねてもはぐらかされてしまうだろう。
 何か隠している、と考えていると亜衣は言った。
「すみません。寝ますね、疲れたので」
 穏やかだったが、有無を言わせぬ口調である。わたしは引き止めたことを詫びると、亜衣と別れの挨拶を交わした。

「おはようございます。萌先輩。昨日はごめんなさい」
 わたしがキャンパスの入口に差し掛かると、真衣から声を掛けられた。気まずそうに上目遣いで見ている。わたしは微笑んで頷いた。
「気にしないで」
 そして、わたしたちは石畳を並んで歩き始める。暗い顔で俯く真衣へ目を向けると、わたしは尋ねた。
「里内先輩と色々話してたみたいだけど、どんな話をしてたの?」
「バイト先を変えたら、とか色々相談に乗ってくださってて……」
「そりゃ相談に乗ってもらってたら帰りづらいよね」
「ええ、まぁ……それもありますけど」
 真衣の物言いは奥歯に物が挟まったようだった。そして慌てたような顔で辺りを見回すと、息をつく。安心したような表情である。
 その顔を見て、わたしは短く言った。
「ふうん」
「あぁ、亜衣なんかより吉元くんと同棲でもしたいなぁ」
 真衣はそう嘆いたが、恋人との暮らしを夢見る口調ではない。むしろ疲れたような顔をしている。
「真衣ちゃん……」
 同情とはある種の自己陶酔なのだ。優越感に浸りつつも、「優しさ」という言葉で誤魔化しているのである。そう分かりながらもつい彼女に同情してしまう。
「先輩、呆れてません?」
 わたしの表情を見て、真衣が苦笑交じりに尋ねる。そして彼女は大げさに肩を竦めた。それを見て、わたしは笑いながら手を振る。
「違う違う」
 ふうんと真衣は呟いた。探るような目だったが、単なる冗談だと分かっている。わたしもからかい交じりに言った。
「もう、いっそ同棲しちゃえばいいのに、と思っただけ」
「イヤだなぁ、麻美先輩みたいなこと言わないでくださいよ。それに今の部屋どうするんですか」
「だから冗談だってば」
 そう言うと、わたしはさらに尋ねる。
「でも亜衣さんはどうしてこの大学を選んだろうね。昨日、尋ねたんだけど、何か腑に落ちなくて」
「あぁ……それは多分……」
 真衣はそう言うと、視線を宙に漂わせた。言おうかどうか迷っているようである。わたしは慌てて言った。
「もしかして聞いちゃまずかった?」
「いや、別にいいんですけどね。わたしとは余り関係ありませんし。理系の大学って色々、高いらしいじゃないですか。一浪して予備校の授業料も払ってますし……」
「親に気を遣ったわけね」
 つまり負い目から進路を変えたのだ。亜衣にとって触れられたくなかった古傷に違いない。
「まぁ、そういうことになりますかね? 同じ部屋に住めば家賃も半分ですみますし。亜衣って変なところで気を遣うんですよ。学費を見て溜息をついてましたし」
 真衣は吐き捨てるようにそう言うと、肩を竦める。親しいほど嫌いになった時、反動は大きいものである。亜衣は半身のようだったが、今や共同生活はもちろん、彼女の話すらもしたくないらしい。
「いくら父が転職したばかりで収入が不安定だからって気にしなくてもいいのに……」
 真衣は半ば呟くように言うと、A棟のドアを開ける。わたしは中に入ると、頷いた。
「そうね。気にしなくても」
「まぁ亜衣らしいっていえばそれまでなんですけどね」
 真衣はそう言うと複雑な笑みを浮かべた。親愛と嫌悪の間を行き来しているようである。やがて話を打ち切りたいかように言った。
「ああ、そうそう。里内先輩と芦屋さんは交換日記をしてたらしいんですけど……」
「うん、そうみたいだね」
 どうしてそんな話をするんだろう? わたしが訝しみながら聞いていると、真衣は言った。
「知ってたんですね。その交換日記が事件に関係あるかもしれないと、里内先輩が……」
「本当?」
 わたしが身を乗り出して尋ねると、真衣は戸惑ったような顔で答えた。
「まぁ、酒の席での会話ですからねぇ……里内先輩もかなり酔ってましたし。だから話半分以下で聞いてたんですけど……妙に真剣だったんですよ。ですから気になりまして、念のため」
「そうなんだ。ありがとう」
 そう言うと、エレベーターホールに着いた。真衣とはそこで別れてわたしは階段へと向かう。今日の講義は三時ごろ終わる。終わったら、里内に話を聞いてみよう、と思いながら。

 地下鉄駅の階段を上がりきると、車道を挟んで古本屋が見えてきた。小さいながらも趣きがある店構えである。その店に貧相な男が入っていった。
 気にも留めずに右へ折れると、すぐに赤松堂書店が見えてくる。三階建ての本屋である。わたしは里内の名刺を取り出すと、住所を確かめた。
 しばらく見上げていたが、自動ドアをくぐる。残暑のせいか、手は少し汗ばんでいた。
 中に入ると、ひんやりとした空気がわたしの頬を撫でる。入ってすぐにカウンターがあったが、そこには里内はいなかった。カウンターの向かいには、DVD・CDコーナーへと続く階段があった。
 わたしは本を探す振りをして、一階を歩きながら彼女の姿を探した。一周りしたものの里内の姿は見えない。ぶらりと立ち寄って、簡単に見つかるほど人生甘くはないらしい。
「いないかぁ」
 そう溜息交じりに呟いた。そして二階を探そうと踵を返すと、自動ドアから入ってくる有沢の姿が見えた。……しかも古本屋の入口で見かけた男だったのだ。Tシャツはくたびれて、デニムのズボンには穴が開いている。
 わたしはそれを見て駆け寄った。そして小さく溜息をつくと、わたしは聞えよがしに言った。
「あぁ、他人の振りしようかなぁ」
 それを聞いて、有沢はバツの悪そうな顔を浮かべる。わたしはその表情を見て、彼へ尋ねる。
「ねぇ、帰りさ、一緒に服でも見に行かない?」
「いや、別にいいよ」
「……そう、ならいいんだけど」
 わたしは釈然としない思いだったが、無理強いしても仕方がない。ゆっくりと首を振ると、気を取り直して有沢に尋ねる。
「ところで、あんたも里内先輩に会いにきたの?」
「うん、聞きたいことがあってね」
「でもいないみたいだよ。出直す?」
 有沢は黙って首を振ると、スマホを取り出した。時間を確かめたらしい。すぐにポケットにしまうと、しきりに外を見ている。
 任せきりにするのは気が引けるが、立ち去ったほうがいいのかもしれない。わたしは心苦しい気持ちで尋ねた。
「誰かと待ち合わせ? わたしは喫茶店で待ってようか?」
 そして自動ドアに向かおうとすると、有沢はわたしの腕を掴んで引き留める。振り向くと不安そうな、寂しそうな顔でわたしを見ていた。
 有沢が手を離すと、俯いて押し黙る。わたしは努めて笑顔で言った。
「やっぱり一緒に会いましょ。わたしも聞きたいことがあるし、それにわたしがいれば先輩だって話しやすいでしょ」
「うん、そうだね」
 しかしそう言う有沢はどこか上の空だった。何を掴んでいるんだろう? わたしが思っていると、後ろで自動ドアの開く音がした。それとともに松岡の声がする。
「こんなところで何をしていらっしゃるんでしょうか」
「ちょっと資料を買いに」
 有沢が答えると、今度は西口警部が入ってきた。
「待たせて悪かったな」
 どうやら待ち合わせの相手は西口警部だったらしい。松岡の囁き声が聞こえてきた。
「どう見ても芦屋で決まりでしょう? ストーカーで口頭注意を受けてますし」
「まだそうと決まったわけじゃない。どれも状況証拠だろ」
 西口警部はきっぱりとそう答えると、警察バッジをカウンターの女性に見せた。うんざりした顔付きで、松岡も彼にならう。女性は緊張した面持ちで尋ねた。
「はい、何でしょうか?」
「里内由紀恵さんにお話を伺えたらと思いまして」
 西口警部は穏やかにそう言ったが、女性の顔付きは変わらない。
「少々お待ちいただけますか?」
 そして内線電話を持ち上げて、里内を呼び出した。間もなく里内が事務所の奥から駆けてくる。彼女を見るや否や、松岡は言った。
「あ、もうお二人は帰って構いませんよ」
 わたしはもちろん有沢も動こうとしない。松岡は舌打ちをすると、わたしを密かに睨みつけた。一番立場の弱いわたしから追い払おうと言う魂胆らしい。
 つくづく詰まらない男だと感じながら、里内へ目を向けた。彼女の表情には困惑と怪訝が入り混じっている。後輩が警察官と一緒にいるのだから無理もない。
「この間はどうもありがとうございました」
 わたしは会釈すると有沢に手を差し向ける。有沢は微笑むと一礼した。
「初めまして。浅香さんの知り……」
「恋人です。……見た目で損してますけど」
 わたしは彼の自己紹介を遮ると、有沢と手をつないだ。そして彼へ目で同意を求める。
 しかし人前でのスキンシップはやはり慣れず、落ち着かない。有沢はさりげなく手を離した。
 里内は有沢へ尋ねる。
「話は真衣さんから伺ってます。それで何のご用ですか?」
「田辺亜衣さんが刺されたのをご存知ですよね?」
 松岡が代わりに尋ねると、里内は頷いた。
「はい。驚きました」
「それで芦屋さんについて教えて欲しいことがあるんですよ。傷害容疑が掛けられてましてね」
 西口警部はそう言うと手帳を取り出す。手帳は年季が入っていて、ところどころ手垢で汚れている。
「なんでしょうか?」
「里内さんは芦屋さんと昔付き合っていた、とお聞きしたものですから」
 西口警部が尋ねると、松岡が続いて言う。
「あなた、復縁を迫られて、ストーカーの相談もされてますよね?」
「え、ええ……、昔、ですけど。それに迫られていたと言うよりは、今から思えばお願いという文面だった気もします」
「ともかくあなたは芦屋卓をストーカーとして相談した。で、そのメールって見せてもらえますかね?」
 松岡の威圧的な質問に、わたしが割って入った。
「それは任意提出でしょうか。だったら断わることもできますよね?」
 また余計なことを。松岡はそう言いたそうな目でわたしを一瞥したが、西口警部は頷く。
「もちろん任意です。しかし犯人検挙のためにご協力お願いします。今度は傷害事件にまで発展してるんです」
 彼はそう言うと、熱心に訴えかけた。真摯な態度だったが、里内は困惑したような顔付きになる。
「申し訳ありません。もう別れてから一年くらい前になりますし、携帯電話も変えてしまいましたので」
「別れてから連絡は?」
「あまり取ってませんでした」
 里内はそう答えると、わたしを見る。しばらく連絡を取り合っていた、と言っていたのに。口をそう滑らせないか、懸念しているんだろう。わたしは里内に笑顔で頷いた。
 西口警部はわたしたちを一瞥すると言った。
「そうですか」
「では九月の十五日、夜十時ごろどちらにいらっしゃいましたか?」
「その時間なら部屋にいました。実家ぐらしですが、あいにく両親は旅行中で、証明はできませんけど」
 里内は笑顔で答えた。しかしそれは心の中を悟られないようにする、ある種の仮面にも見える。
「分かりました。コンビニに買い物へ行かれたとか、散歩に出かけたとかは?」
 西口警部が聞いても、里内は首を振るばかりだった。それを見て、彼は手帳をしまう。そして彼はわたしたちを一瞥すると、里内に言った。
「ありがとうございました。この子たちからも聞きたいことがあるそうです」
「それこそ法的根拠はありませんがね。どこにも」
 松岡の嫌味たっぷりな声を聞いて、西口警部が慌てて割って入る。
「確かに法的根拠はありませんが、なかなか役に立ってますよ」
 そして西口警部は松岡を睨み付けると、彼はしばらく口の中でもごもごと言っていた。しかし拗ねたような顔つきになって黙ってしまう。
 わたしは構わず尋ねた。
「交換日記は見つかったんですか?」
「あぁ、あの話、真衣さんから聞いたのね?」
 里内は恥ずかしそうに言うと、呟くように続けた。
「酒の席での会話だから話半分以下で、と言ったと思うんだけどなぁ」
「はい。でも気になったものですから、本を見るついでに寄ってみたんです。ちなみに交換日記にはどんな内容を書いていたんですか?」
「別に他愛もない話。就職活動のことだとか、卒論の締め切りに追われて睡眠時間を削ってる、とか、単位が足らなくて留年しそう、とかね」
 そう答える里内の目は、学生時代を懐かしんでいるようである。思い出を振り払うかのように、ゆっくりとかぶりを振って言った。
「だから全くの当てずっぽうで言ったのよ。強いて言えば読み返したくなっただけ、かな。あるでしょ? そういうこと」
「分かります。昔の日記って読み返したくなりますよね」
 しかし、わたしは全くそう思わない。忘備録の要所要所を読み返す程度だが、話を合わせれば後々いい関係を築けるのである。どうして女性は共感を求め、群れたがるんだろうか? わたしも女性だが、さっぱりその心理が分からない。
 そんなことを考えながら、わたしは里内に言った。
「ありがとうございました」
「ちなみにですが、このお店で万引きの被害って出てませんよね?」
 有沢が尋ねると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で里内は聞き返す。
「万引き、ですか?」
 彼女はしばらく考えていたが、戸惑ったように続けて答えた。
「いえ、把握はしておりませんが……」
「そうですか、向かいの古本屋は六年前くらいに万引きの被害に遭ってたらしいんです。あまりに悪質なので交番にも行ったそうです」
 それを聞いて、西口警部は怪訝そうな顔をしながらもメモを取っている。里内も有沢の真意を量りかねているらしく、困惑顔で答えた。
「そうですか……、この店ではそのような被害に遭っていないので何とも言いかねます。申し訳ありません」
 そして店の時計を一瞥すると、さらに尋ねる。
「あの、もうそろそろよろしいでしょうか。仕事も残っていますので……」
「僕こそお引き留めしてしまい、すみません。……もう一つだけいいですか?」
「何でしょう?」
 食い下がる有沢に、里内は笑顔で尋ねる。しかしどこかぎこちない。
「里内さんはずっと名古屋に住んでいるんですか?」
「え、ええ。そうですが……」
 彼女の答えを聞くと、有沢は笑みを浮かべた。六年前の万引きなんて事件とは何の関わりもなさそうに思える。どうしてそんなことを聞くんだろう?
 そんなことを考えながら有沢の顔を眺めたが、答えてくれそうにない。わたしは肩を竦めると、溜息をついたのだった。

 昼中ということもあってか、帰りの地下鉄は人がまばらだった。カップルが仲良く手をつないで、楽しそうな眼差しを互いに向けている。
 わたしたちは二人の脇を抜け、向かいの椅子に座った。有沢はおもむろにリュックを下ろすと、分厚い本を取り出す。かなり日に焼けていた。
「ねえ、なんの本買ったの?」
 わたしが尋ねると、背表紙をわたしへ向ける。長ったらしく、しかも舌を噛みそうなタイトルだった。『タブーの起源──オイディプスとケツァルコアトル』。
 小説だったら貸してもらおう。そう期待していたわたしは、落胆したが、ふと亜衣の顔が頭をよぎった。アステカ神話をモチーフに小説を書いているのだ。きっと興味を持つに違いない。
 わたしはスマホを取り出した。そして彼女にメールを打っているうちに、わたしも興味が湧いてきた。タイミングを見計らって尋ねる。
「どんな本?」
「見ての通りだけど?」
 有沢は本に目を這わせながら答えた。気分を害しているわけではない。彼は本に没頭していて、答えにまで気が回らないのだ。
 さらに聞こうかどうか迷っていると、有沢は本から目を離した。そして考え考え、わたしへ尋ねる。
「例えば……そうだなぁ、法学部だよね。法の起源って考えたことがある?」
 電車の中で法律論を戦わせることになるのは想定……内だった。それにこんなことを本気で語れるのは有沢くらいしかいない。
 わたしは頷いて答える。
「うん、好き放題にさせると、他の人を押しのけちゃう。一定のルールを決めてるんだよね」
「確かにそれは言えるね。でもさ、それだったらどうしてみんな同じルールになってないの?」
「まだこれから統一されていくんじゃない? 国際法だってあることだし」
 有沢は頷いて、半ば呟くように言った。
「確かにね。でもこうは考えられない? 法は最初から決められてるって」
「え? どういうこと? 法律は変えられるでしょう?」
 わたしは思わず呆気にとられて尋ねる。
「もちろんね。僕が言ってるのは、こう、何と言うのかな。法律っていうか掟っていうか……」
「例えば?」
「例えば……母親と……」
 電車に揺られながら、有沢は慎重に答えた。
「母親と結婚したらどうしていけないのか。兄妹での結婚はどうしていけないのか」
 わたしはようやく納得が行った。オイディプスとは母親と結婚してしまった王の名前だ、と本で読んだことがある。
「それでオイディプスなのね。初めから近親相姦はどうしていけないのか考えたことある? って聞けばいいのに。全く回りくどい」
「なんか女性相手には言いにくくて」
 有沢は「女」とも「女の子」とも言わずに、いつも「女性」と言う。それがわたしには嬉しく、また居心地がよかった。わたしは笑んで言う。
「別にいいのに。まぁ、あんたらしくていいけど。……それでケツァルコアトルも母親と結婚したの?」
「いや、これは妹と酔った勢いで……」
 有沢は言い淀んでいる。その顔を見て、わたしは溜息をついた。女だからって気を遣わなくてもいいのに。それこそ彼の<タブー>なんだろうけど。
 大袈裟に肩を竦めると、道化けて囁いた。
「ヤっちゃった、と」
「……うん、まぁ、そんなところかな。で、二人とも祖国を追われているんだ。つまり……<そういうこと>はタブーなんだよ」
 有沢は言葉を濁すと苦笑する。
「だからこのタイトルなのね」
 わたしたちは兄妹じゃなくてよかったね、と付け加えようとしたが、有沢の真剣な顔を見て口をつぐむ。決して、二人の<そういうこと>を思い浮かべたわけではない。
 わたしは咳払いをして尋ねた。
「へぇ、でもさ、それって奇形児を防ぐためじゃないの? 科学的な知識はなくても経験的に知ってただろうし。それか部族が広がらないからとか? ほら婚姻って部族を広げるためにもあっただろうし」
 民俗学の入門書からの断片的な知識をつなぎ合わせて、答えた。それを聞いて、有沢は首を振る。
「それは極めて近代的な考えだね。そうだとしたら、世界中で同じようなタブーがなきゃおかしい」
「確かに古代エジプトとかじゃ近親相姦は認められてたみたいだけど……でも純血を守るかどうかの違いで、考え方の違いでしょ。どうしてそこから掟が最初から決められてるって言えるわけ? 飛躍があるんじゃない」
 わたしが言うと、有沢は神妙な面持ちで尋ねた。
「そりゃ確かにそうかもしれないけど……、その<考え方>そのものが、最初から決められてるんじゃないかのかな?」
「うーん、どうかなぁ? 知ってると思うけど、確かに慣習も法律として認められる場合もあるよ。みんながそうしてきたからとかね。でも考え方そのものが最初から決まってるってのはちょっと……」
 わたしは首をひねったが、違和感を言葉にできなかった。わたしはポケットから飴を二つ取り出す。心地よい疲れを感じて、甘い物が欲しくなったのだ。
「飴あるけど、どっちがいい?」
「同じじゃないの?」
 わたしの掌に目を落とすと、苦笑して尋ねる。わたしは笑って答えた。
「さぁ? どうでしょう」
「じゃあこっちで」
 有沢はつまむと、丁寧に包みを破って口に入れた。
「ありがとう。美味しいよ」
 包みを破るまで分からないなんて、真衣と亜衣のようだ。そんなことを考えながらわたしも口に放った。
 有沢は本を閉じると、リュックの中に入れる。そしてリュックを背負い、座席から立ち上がった。
「さて、僕はここで下りるよ。シナリオの修正依頼が来てるから」
「まだ仕事が残ってたんだね。お疲れ様」
「まぁ、ね」
「それなのに……ありがとう」
 ごめんね、と言いかけて、口をつぐんだ。有沢は笑って言う。
「いや、別にいいよ。僕も気になるし。また何かあったら連絡ちょうだい」
「オッケー」
 わたしが頷くと、彼は地下鉄から下りた。やがて発車のアナウンスが流れると、スマホで時間を確かめる。芦屋に会う時間は充分あった。もともと今回の一件はわたしが頼んでいるのだ。
 念のため「芦屋さんに会おうと思ってるんだけど、今日って出勤?」とわたしは真衣にメールを送った。しばらく経ってから、「亜衣にも聞いたら出勤らしいですけど……」と返事がくる。「ありがとう」とメールを送り返して、わたしは路線図を思い浮かべた。

 わたしは地下鉄駅の階段を上りきると、道を左に折れた。すぐにコンビニが見えてくるが、夜とは違い不健康な印象は受けない。わたしがコンビニの自動ドアをくぐると、レジには覇気のない男性が一人、退屈そうに立っている。
 わたしは缶コーヒーを手に、彼のもとへ向かった。名札を見ると、「芦屋」と書かれている。袖口のボタンが取れていた。
「あの、すみません」
 わたしが声を掛けると、芦屋はバーコードリーダーを操作しながら笑顔で言った。
「はい、何でしょう」
 里内について色々知りたかったが、どんな質問を投げ掛けていいのか分からない。迷った挙句、わたしはキチンナゲットを追加で買い、二七○円を散財しただけ。
「ありがとうございます。三五○円のお返しです。お確かめください」
 わたしが釣り銭をポケットにしまうのを確かめて、芦屋は商品を袋に入れた。しかしわたしは彼の顔も見ず、そそくさとコンビニを後にする。結局、何一つ聞けなかった。
 チキンナゲットをコンビニの駐車場で頬張りながら、芦屋を自動ドア越しに見ていると、亜衣が足を引きずりながら出てきた。何事か芦屋と話している。
 しばらく眺めていると、誰かに肩を叩かれた。振り向くと、コンビニの制服を着た真衣がゴミを出している。
「萌先輩」
「ん? 今日は二人ともシフトなんだね」
「ええ、まぁ……。あの、ですね」
 しばらく真衣は言い淀んでいた。そしてわたしから目をそらすと続ける。
「わたしから萌先輩に頼んでおいて失礼かもしれませんが、警察が動き出したんですし、任せておけばいいんじゃないです? その……バイト先で居づらくなっちゃいますよ、わたしたち……」
 つまり首を突っ込んで欲しくない、と真衣はわたしに言いたいんだろう。「出勤ですけど……」という含み、いやむしろ躊躇いすら感じられる文面を思い出し、わたしは頷いた。
「そうね、軽はずみだった。ごめん。確かに警察に任せておいたら、犯人は捕まる。でも亜衣さんの気持ちは分からないままかもしれないよ、永遠に」
 わたしが尋ねると、真衣は暗い顔つきで目を伏せる。そしてポツリと呟いた。
「そ、それは……。でももう遅いんです。それに細かいところまで理解しなくても……」
 違うとわたしは心の中で反論した。細部まで理解してこそ、ようやく真に誤解が解けると思う。
 しかし今の真衣には伝わらないだろう。わたしが押し黙っていると、彼女は慇懃に言う。
「じゃあ、わたし、バイト中ですので」
 真衣はそう言うと、踵を返した。そしてわたしから逃げるように店舗の中に入る。
 彼女を見送っていたが、ゆっくりと首を振ると、駅に向かった。この複雑な悲しみを鎮めるために、少しだけ長い道のりを歩くことにしたのである。
 一時間ほどで、バスターミナルが見えてきた。降車場に着くと、貼り出されている時刻表を見る。どうやら発車したばかりのようで、まだ三十分以上、時間があった。わたしはベンチに腰を下ろすと、あれこれ考え始めた。
 まず芦屋は間違って真衣を刺したのか。犯行のあった時間は本当に家で寝ていたのか。
 次に亜衣のバタフライナイフの件に捨てたのか。否定したい気持ちはあったが、実際、亜衣がそう言っているにすぎない。わたしたちが泊まると知り、どこかに片付けたかもしれないのだ。
 第三に吉元、亜衣、そして真衣は本当に大学で初めて知り合ったのか。鹿児島と言っても広く、偶然かもしれないが。
 それから有沢の質問も気に掛かる。古本屋での万引きと交換日記のことを聞いていた。彼は何を掴んでいるんだろう。
 わたしがそんなこと考えていると、スマホが鳴った。ポケットから取り出すと、麻美の名前が画面に表示されている。
「もしもし。真衣さんのことで」
 どうやら真衣は彼女に相談していたようである。
「ええ、ごめんね」
「まぁ、分かってるなら別にいいんだけど。それに今回は真衣さんも真衣さんなんだし。萌に相談するんなら覚悟を決めなきゃ。ただでさえお節介なのに」
 何も言えない。わたしは黙っていると、麻美の明るい声がした。
「別に今さらだし。それに法学部生にとっては大事だと思うけど? あぁ、でもわたしにだけは火の粉が掛からないようにしてね」
 麻美の苦笑が電話口から漏れてくる。それを聞いて、わたしは言った。
「気を付けます……」
 わたしが控えめに言ったが、麻美はさほど気にしていないらしい。やがて好奇心を押し隠せないような声で尋ねた。
「ねぇねぇ、芦屋先輩と会ったの?」
「まぁね」
「やっぱり陰湿な顔になってた? 真衣さんのストーカーなんでしょ?」
 麻美の畳み掛けるような問い掛けに、わたしは苦笑しながら答える。
「まだ決まったわけじゃないよ。って、もしかして芦屋さんと一回会ってる?」
 麻美は「顔になってた、、、、か」と尋ねた。もし会ったことがなかったらこう聞くはずである。「陰湿そうな顔だった、、、?」と。
「そりゃ、あるけど……、でも里内先輩と別れてからは会ってないよ」
「ふうん。それじゃ、今会ってきた印象を教えてもいいけど、ね」
 ギブ・アンド・テイク。わたしは含みを持たせて言うと、案の定である。麻美は苦笑混じりの声で尋ねた。
「分かった分かった。で、何が知りたいの?」
「そうねぇ、芦屋さんと里内先輩のこと、かな。どういう経緯で付き合い始めたとか、芦屋先輩は里内先輩のことどう思ってたとか」
「何? 亜衣が刺されたことと関係があるの? 里内先輩が芦屋先輩とよりを戻そうとしてたけど、芦屋先輩は真衣に夢中。そこで嫉妬に狂った里内先輩は真衣を亡きものにしようとした。でも亜衣と間違えた、とか?」
 もちろん本気で思ってはいないんだろう。妄想を楽しんでいるかのような笑い声が漏れてくる。
「それはちょっと違うと思うけど……。まぁわたしも女だし、恋愛の話には興味があるんだよ、一応は」
 本音を言えば、他人の色恋なんてどうでもいい。しかし興味があるということにしておけば、麻美からは色々と聞き出しやすくなる。
 それにわたしの答え次第では亜衣に迷惑が掛かりかねない。独り、わたしはゆっくりと首を振る。
 ふうん、と麻美の気のない呟きが聞こえてきた。さらに彼女は続けて言う。
「うーん、わたしも余り詳しくないのよね。里内先輩は、芦屋先輩と演習科目で知り合ったって言ってたかな。確か法制史だったはず。それで何回か必須科目を取ってくうちに、段々と好きになっていったんだって」
「ふうん。法学部は必修科目が多いから、顔を会わせる機会も多かったってことかぁ」
「そういうこと。で、その試練を一緒に乗り越えて愛が芽生えたってわけ。こう言えばドラマチックに聞こえるけど、平凡でしょ? デートも映画に遊園地……ありきたりだしね」
 麻美はそう言うと、溜息をついた。つまらないと言わんばかりである。
「そうだね、でもまぁ平凡なのが一番じゃない? 大恋愛なんて面倒なだけだし」
「相変わらず冷めてるわね。……まぁ、そうなんだけど。でも、燃え上がるような恋って憧れない?」
 そうだね、ステキ、とわたしは麻美に話を合わせておく。そしてさらに尋ねた。
「で、どっちから付き合おうって言ったの?」
「何言ってるの。決まってるでしょ? 告白って男からするもんじゃない」
 呆れたような麻美の声を聞いて、わたしは乾いた笑いを浮かべる。
「そ、そうなんだ」
「まぁ、そんなわけだから里内先輩たちに関しては面白い話はないと思うけど? あぁ、でも一つ気になってることがあって」
「え? 何?」
 わたしは興味をそそられて尋ねる。
「赤松堂って本屋知ってる? 確かわたしが一年生のときだから、二年前かぁ。買いに行った時に、里内先輩を見たのよ。向かいの古本屋から出てくるところだったんだけどね……」
 麻美はここで勿体つけたように言葉を区切った。そしてさらに続けて言う。
「何かひどく慌ててたっていうか、変な感じだった。その日から数日経ってからかなぁ、里内先輩が芦屋先輩に何か、こう……、変な気遣いを見せるようになったの」
「気遣い?」
 わたしがオウム返しに、尋ねると麻美は慌てて言った。
「あ、無理におごらされてた、とかそういうんじゃないから安心して。ただ口では言えないんだけど関係が微妙に変わったっていうか……」
 関係、か。わたしは麻美の言葉を心の中で繰り返す。わたしが物思いに耽っていると、彼女の明るい声が聞こえてきた。
「それでね、里内先輩は大型書店の内定をもらってたんだけど、辞退してあんな小さな本屋を受けたらしいのよ」
「そうなんだ。まぁ大きいと色々、疲れるだろうしね」
「それがね、卒業の本当ギリギリでエントリーシート書いたって言ってた」
 ふうん、と言うとバスがターミナルから降車場に近付いてくる。わたしは立ち上がると言った。
「あ、ごめん、一回切るね」
「うん、用事ってのはそれだけだから。何か分かったら私にも教えてね」
 そう言って麻美は電話を切った。わたしはバスに乗り込むと、窓の外をぼんやりと眺める。
 そういえば、有沢は古本屋での万引きを気にしていたっけ。古本屋の万引きは里内の犯行だったとしても、五年も前のことである。それに亜衣の傷害事件とはどんなつながりがあるんだろう?
 緩やかに、バスは走り出した。

第六部、二人の齟齬

 その夜、十二時を回った時のことである。浴室から部屋に戻るとスマホのライトが点滅していた。タップすると真衣から何度も電話が掛かってきている。折り返すと開口一番、上ずった声でこう告げられた。
「ナイフが……、芦屋さんのナップサックから……今、店長が警察の人と話してます」
 確かに、電話口からは雑踏の音や人の話し声が漏れてくる。わたしは混乱しながらも尋ねた。
「え? え? 他にどんなものが?」
「何も入ってませんでした。いつも制服しか持ち歩いていないんですよ。芦屋さんは」
「芦屋さんのロッカーにも何も入ってなかったんだよね?」
「ロッカーはそもそもありません。荷物は事務所の床に置いてます」
「そうなんだ」
 真衣の答えを聞いて、わたしは安堵した。そして紙とペンを掴むと続ける。
「で、どんな風に見つかったの?」
「どういう風にって言われても……何をどう話していいのか……、えっとですね、芦屋さんは今日二○時上がりだったんですが、わたしたちは二四時上がりだったんです。二四時過ぎると店長が売れ残りのお弁当をこっそりくれるんです。どうせ捨てちゃうからって。それで希望時間を二四時までにすることが多いんです。時給も二一時以降は高くなりますし……」
 要領を得ない。わたしは苛立ちを圧し殺して尋ねた。
「それで? 見つかった経緯は」
「あ、はい、芦屋さんが帰ろうとして、事務所でナップサックを持ったら、首を傾げてまして、どうしたのか店長が聞いたんです。大丈夫だって芦屋さんは言ってたんですけど、亜衣のことがあったばかりでしょう? だから説得してナップサックを……」
「開けたらナイフが出てきたんだね」
 わたしが確かめると、真衣は怯えたように言う。
「ええ。しかも血がべったりと付いてました。芦屋さんはこんなもの見たことないって言ってますけど……」
「つまり誰かがこっそり入れた、と言ってるんだね」
「ええ、まぁ」
 戸惑ったような真衣の声を聞いて、わたしは考えながら聞いた。
「……そうだ、事務所の防犯カメラには何も映ってなかった? 誰かが芦屋さんのカバンに何かを入れるところとか」
 わたしの質問に、真衣は弱々しく答えた。
「防犯カメラなんかありませんよ。レジの周りにしか。それに自分の荷物を取るために、他の人の荷物をどけることもありますし」
「つまりナップサックに触ってても気が付かない、と」
「ええ」
 真衣は短く答えると押し黙った。顔が見えない分、何を考えているのか分からない。わたしはもどかしい気持ちで尋ねた。
「でもさ長い時間、屈んでたり、触ってたら気付くんじゃないの? そういう人は?」
「それがいないと思うんですよね」
「いない!?」
 わたしは思わず素っ頓狂な声で叫んでしまった。慌てて耳を澄ましたが、家族の足音は近付いてこない。幸い、今の声で起きなかったようだ。念のために声を潜めると、さらに続ける。
「どういうこと?」
「は、はい。確かに今日、みんな芦屋さんのナップサックに近づけはしました。でも事務所には店長がいたんです、ずっと。本部に出す書類を作ってたとかで」
「席を外さなかったんだよね。電話とかで」
「そりゃもちろんトイレには何度か行ったと思いますけど……。でも三十秒もしないうちに戻ってきました」
 なるほど、とわたしは胸の内で呟いた。ナップサックのチャックを開けて、ナイフを入れて、おまけにチャックを閉めなければならないのだ。短い時間では難しい。推定無罪、とは言いながらも限りなく黒に近い。
「芦屋さんが働いてる間、店長さんはずっと誰かと一緒にいたんだよね?」
 わたしが確かめると、真衣は納得が行かないような声で答えた。
「ええ、まぁ……」
「他に何か変わったことは?」
「他に……他に……」
 真衣は必死で思い出しているらしい。繰り返し呟いていたが、やがて溜息をついた。
「すみません。何も思い当たりません……」
「まぁ、そうだよね。仕方ないよ。ところで、さ」
 わたしはそう言いかけると言葉を切った。警察に任せれば安心するだろう。にも関わらず、どうして任せてないのか不思議に思ったのだ。しかし昼間の会話もある。聞き方によっては皮肉とも受け取られかねない。
 わたしの沈黙を、真衣は不審がったらしい。彼女の声が聞こえてきた。
「もしもし?」
「あぁ、ごめん。……一つ聞きたいんだけど、真衣ちゃんって芦屋さんが犯人だと思ってるの?」
 わたしの質問に、しばらく唸り声を上げていた。考えあぐねているようである。
「うーん、そりゃわたしは信じたいですよ。でも亜衣が……」
「亜衣さんは関係ないでしょ?」
 双子のつながりは予想以上に強いらしい。わたしは焦れったく思いながら続けて尋ねた。
「わたしは真衣ちゃんの意見が知りたいの」
 わたしがそう言うと、真衣は押し黙ってしまう。代わりに電話の向こうから聞こえてきたのは、木々のざわめきだった。
 しばらく経って、そのざわめきの中から再び真衣の声が聞こえてくる。
「……そりゃ初めは信じてましたし、今でも信じたい気持ちはあります。でも……でも……ナイフが出てきたんじゃ、無理でしょう。刺されるかもしれないのに」
 真衣の気持ちは、話しているうちに高ぶってきたようだ。わたしは落ち着かせようと、努めて穏やかに言った。
「そっか、そうだよね。無事でよかった。……でも信じたいって思うのはどうして? 何か根拠でも?」
「芦屋さんって陰気、というよりも腑抜けた感じでしょう?」
 真衣に聞き返され、わたしは困惑しながら返した。
「でしょうって言われても……。一回、会っただけだから何とも言えない。しかも会話なんかほとんどしてないし」
「そうですよね。すみません。ナイフなんて持ち歩くような性格じゃないような気がするんですよ」
 真衣はそう言うと、力ない笑い声が聞こえてくる。そしてさらに続けて言った。
「あくまでもわたしの印象なんですけどね。でもあんまり面倒事は起こしたくないって自分で言ってましたし……」
「なるほど。他には?」
 わたしが尋ねると、真衣はしばらく押し黙ってしまった。やがて怖ず怖ずと話を切り出す。
「あ、あの。里内先輩に迷惑が掛かると思って言わなかったんですけど……」
「ん? 何?」
 わたしが促すと、真衣はこう答えたのである。
「……最初、芦屋さんは里内先輩とよりを戻したかったみたいなんです。だからわたしに話し掛けたんだと思います」
「本当に?」
「ええ、それまでは一言も話さなかったんですけど……、里内先輩と同じ大学出身だって言ったら話し掛けてくるようになりましたし、里内先輩の話題も度々出ました」
「ふうん、それじゃ確かに里内先輩と連絡を取りたかったみたいだね」
 わたしが言うと、真衣は自信がなさそうな声で言った。
「ええ、まぁ……、でも段々とわたしのことが好きになったのかもしれませんけど。それがきっかけで話すようになりましたから」
 確かに芦屋は真衣が好きなのかもしれない。わたしはそう思ったが、口に出してしまうと怯えさせてしまいかねなかった。
「そうなんだ。芦屋さん、他になにか言ってなかった? 例えば里内先輩に何かを渡したいとか」
「さぁ、特には言ってなかったと思いますけど」
「ありがとう。……そうだ、芦屋さんとも話したいんだけど」
「え……会いたいんですか? でも……」
「まぁまだ亜衣さんを刺したって決まったわけじゃないんだし」
「そりゃ理屈から言えばそうですけど……でも……」
 戸惑っているような声で言う真衣に、わたしはきっぱりと言った。
「もちろんわたしが勝手に会いたいって言ってるだけだから、真衣ちゃんは別にいいよ」
 しばらく長い沈黙があった。ざわざわと木の葉が風に揺れる音、そしてバイクの走り去る音が聞こえてきたが、真衣は言う。
「……わたしも行きます。わたしの問題なのに、任せきりにしたら悪い気がして……」
「そう? それじゃよろしくね」
 そして互いに「お休み」と言い合い、通話を終えた。スマホを充電器につなぐと、有沢にメールを送った。
 芦屋のナップサックからバタフライナイフが出てきたこと、事件発生の経緯など真衣から聞いた話、そして真衣の取り計らいで芦屋に会えることになったが、何か聞いておくことはないか、と。
 しばらくして、「ナイフの一件は西口警部が電話でこっそり教えてくれたから知ってるよ。それと今のところ、どうしてナイフを持っていたかについては何も話してないみたい。芦屋さんへの質問だけど三つ、交換日記について聞いてきて。それとナップサックの型番、変える数日前、誰とどんな会話をしたのかも」とメールが届いた。
 理由をメールで尋ねたが、返事がくる気配もない。わたしは溜息をつくと、退屈極まりない『三四郎』の続きを読み始めたのだった。

 その翌日、つまり十八日の朝である。わたしが大学図書館に向かっていると、廊下の角から吉元の声が聞こえてきた。
「何考えてるんだよ、真衣!」
 その苛立った声に、他の学生たちはうつむいて、足早に立ち去る。わたしは角から顔を覗かると、吉元が真衣の肩を掴んでいる。
 吉元はわたしと目が合うと、我に返ったらしい。気まずそうに目を伏せた。わたしはそっと真衣に近付くと、声を潜めて尋ねる。
「どうしたの?」
「芦屋さんに会うことがバレました……」
 真衣は吉元を上目遣いで一瞥すると、答えた。彼は腕組みをすると真衣を見据えていた。
「俺はこいつが心配なんですよ。ストーカーと直接会いに行くって、何されるか分かりませんし」
「気持ちは分かるし、ありがたいんだけど、ね」
 真衣はやんわりと言ったが、口許を真一文字に結んでいる。その様子を見て、吉元は大きく溜息をついた。
「勝手にしろ!」
 彼はそう吐き捨てると、すたすたと行ってしまう。真衣が呼び止めても振り返る気配もない。真衣はうつむいて床に座り込んだ。やがてハンカチを取り出すと、目許をぬぐう。
「やっぱりわたし一人で会おうか? 質問とか伝言とかがあればわたしに言ってもらえれば大丈夫だし……」
「そう……ですね」
 真衣は顔を上げ、しばらく目を宙に漂わせていた。もごもごと言っていたが、聞き取れない。しばらく唇を震わせていたが、顔からは自信が全く感じられなかった。やがてわたしから顔を背けると、ぽつりと呟くように言った。
「……すみません、やっぱりわたしも行きます」
 無理しないでいいと告げようとも迷ったが、また決意が揺るぎかねない。それに真衣の気持ちを尊重していないようで、気が引ける。
 わたしは微笑んで真衣へ言った。
「そう、じゃセッティングよろしくね」
「分かりました」
 真衣は立ち上がると、力なく頷く。そしてわたしに尋ねた。
「そういえば有沢さんには話しましたか?」
「話したけど、多分こないんじゃないのかなぁ。まぁ一応伝えてはみるけどね」
 真衣は有沢の同席を望んでいる。わたしはそう受け取ったが、どうやら違うらしい。真衣はかぶりを振った。
「いえ、有沢さんは心配じゃないのかなぁって。萌先輩のことが」
「そりゃ心配はしてるかもね。でも別に止められなかったよ」
 わたしの答えを聞いて、真衣は溜息をつく。
「ちょっと羨ましいかも」
「そう? まぁ長い付き合いだし、わたしに今さら何を言ってもムダだって解ってるだけじゃないのかなぁ? 今の吉元くんみたいに止めるのが普通でしょ」
「そりゃそうですけど……」
 真衣はそう言うと、宙に目を漂わせる。そして言葉を選ぶように続けた。
「でも、たまに……なんて言うんですかね……。居心地が悪いっていうか息苦しいっていうか……窮屈だって思えてきたんですよ」
「窮屈? どういうこと?」
 わたしの問いに、真衣は恥ずかしそうにうつむいた。
「……ええ、実を言うとですね、今までショッピングでも亜衣と一緒に決めてまして。ワイワイと二人で盛り上がりながら」
「仲がよかったんだね。それで?」
「ええ、だからわたしが一人で決めるとき、不安なんです。これでいいのかなって。だから早く終わらせたい。でもデート中にメニューとか迷うこともありましてね。そんなときは吉元くんが代わりに決めてたんですけど……。でもデートをしていくうちに、従わなくちゃいけないんじゃないかって思うようになってきまして」
「吉元くんに? そんなことはないんじゃない?」
「そうなんですけど、そんな気がして」
 真衣はそう言うと、唇を震わせていた。しかしわたしが話しているうちに結論が出たんだろう。自信がなさそうではあったが、顔で続ける。
「怖いんですよね。少し」
「怖い?」
「ええ。窮屈な一方で、吉元くんになら身も心も支配されたい、自分はどうなってもいいから吉元くんに尽くしたいって望んでる自分もいて……。ともかく二人で話し合ってみますね」
「うん、上手く行くといいね」
「ありがとうございます。それじゃこれから講義ですから」
 真衣はそう言って、廊下の向こうへ姿を消していった。廊下に響く足音を聞きながら、烏龍茶をセカンドバッグから取り出す。そして一口飲むと、踵を返して図書館へ向かおうとした。
 しかし、歩いてくる吉元の姿が見えた。わたしの許まで来ると、さすがに気まずそうな顔をした。
「さっきはすみません……。ついカッとなって」
 彼は弁解めいた口調でそう言うと、辺りを見回す。そして続けて尋ねた。
「真衣はどこ行きました?」
 講義に行ったとわたしが告げると、吉元は肩を落とす。あんなに強情な真衣は今まで見たことがないと困惑顔で告げると、壁にもたれた。そして自虐的に付け加える。
「まぁ、付き合い始めてそんなに経ってないんですけどね」
「なら真衣ちゃんに任せたら?」
 わたしは烏龍茶を一口飲むと言った。
「任せるって、そんな! 相手はナイフを持ったストーカーなんですよ!? 浅香さんまで何考えてるんですか?」
 吉元は噛み付くように言うと、うなだれる。
「すみません。言いすぎました。でも心配なんですよ。あの、亜衣さんが刺された一件と関係あるんですよね?」
「ごめん。まだ何とも言えない、かな」
「浅香さんはどう思ってるんですか?」
 吉元はなおも食い下がる。わたしは躊躇いつつも答えた。
「そうねぇ、芦屋さんは亜衣さんを刺したんじゃないって思ってる」
「どうしてです? 疑わしきは何とかって確かに言いますけど。その後、何か分かったんですか?」
「余り大したことじゃないけどね。刺された晩、芦屋さんは出勤だったんだけど、風邪引いてて休んでたの」
 ふうん、とわたしの答えを聞いて、吉元は呟くように言った。怪訝そうに尋ねる。
「あれ? なんで先輩はそんなこと、ご存知なんですか? いや、別に先輩の言うことを疑ってるわけじゃないですけどね」
「実はね、あの晩、真衣ちゃんのアパートに遊びに行ってたの。それで、亜衣さんが刺されたって聞いて真衣ちゃんと迎えに行ったんだけど、芦屋さんはいなかった。店の人に色々聞いてみたら、風邪で休んでるって言ってたってわけなの」
 なるほど、と吉元は頷いたが、まだ腑に落ちないような顔をしている。しかし質問を重ねると、わたしの情報を疑っているようで気が引けたらしい。
 そうでしたか、と吉元は短く答えると、思い出したように言う。
「そう言えば、浅香さんも芦屋って人と会うんでしたよね?」
「うん」
 わたしは短く答えると、吉元は心配そうな目になった。
「気を付けてください。何なら雑誌、貸しますけど?」
「え? 何のために」
 わたしはきょとんとして尋ねる。すると腹の辺りに入れておくのだと吉元は真面目くさって答えた。ナイフで刺されてもいい、とも。
 マンガの読みすぎだとも思ったが、わたしは笑った。
「犯人じゃないと思うし、いくらなんでもそんな無茶はしないと思うけどね」
 わたしがそう言うと、吉元は拗ねたような表情に変わる。しかし、何も言わなかった。

 少し値は張るが安心には代えられないと、真衣は判断したらしい。セッティングしたカフェは高そうではあったが、大通りに面していた。しかも交番のすぐ近くである。
 九月の大型連休は珍しく、ニュースなどでは帰省ラッシュを報じていた。当日はシルバーウィークの最終日で、三時頃でもなお通りは人で溢れ返っている。
 ぶつからないように気をつけながら、扉を開けると、真衣は先に着いていた。彼女はうつむいて、忙しなくミルクティーを飲んでいる。わたしが席まで近付くと、顔を上げて言った。
「今日はありがとうございます」
「ま、わたしも気になってるしね」
 わたしは微笑むと、彼女の隣に座る。そしてウェイトレスを呼ぶと、ブレンドコーヒーを注文した。彼女はわたしの注文を復唱して、奥へと姿を去っていく。
 その時、誰かの視線を感じたのである。わたしはコップの水を飲むと、辺りを見回した。しかし誰もいない。氷水の冷たさが、口の中に残った。
 真衣は不思議そうな顔で尋ねる。
「どうしたんですか?」
「なんでもない。気にしないで」
 わたしが笑って首を振ると、ふうん、と不思議そうな顔で真衣は呟いた。そしてミルクティーをまた一口飲む。しばらく二人の間には沈黙があった。
 ほどなくしてウェイトレスがブレンドコーヒーを運んでくる。わたしは軽く会釈をすると、一口飲んで真衣へと言った。
「それはそうと……」
 有沢にメールを送ったこと、そしてできるだけ顔を出すという返事だったと告げようとする。しかし真衣は早とちりをしてしまったらしい。
「あ、吉元くんとはまだ話し合っていません」
「え? あぁそうなんだ」
 わたしが呆気にとられていると、真衣は恥ずかしそうな顔で尋ねる。
「あれ? その話じゃなかったんですか? 麻美先輩から色々聞かれたから、てっきり……」
「ううん。他人の恋愛になんか興味ないからね、わたしは」
 わたしは笑いながら答えた。そして慌てて付け加える。
「もちろん話したかったり、それで困ってれば話は別だけど」
「そうですか……」
 そう真衣は言うと、しばらく唇を震わせていた。やがて怖ず怖ずと言う。
「あの、ですね、気のせいかもしれませんけど」
 そしてグラスに口を付けると、真衣は自信がなさそうに続けた。
「亜衣は吉元くんを見る時、懐かしそうな目をするんです。亜衣と同じ予備校に通ってたって、付き合い始めて分かったので、もしかしたらそこで知り合ったのかな、とも思ったんですが……」
 謎の一つが解けるかもしれない。思わず身を乗り出して後を促す。
「それで?」
「亜衣に聞いても知らないって言ったんです」
「そうなんだ」
 わたしはそう言うと、コーヒーを飲んで落胆を押し隠した。真衣はわたしへ尋ねる。
「どう思います?」
「うーん、やっぱり気のせいなんじゃない?」
「そうでしょうか……」
 誰に問うでもなく真衣は呟いた。そして首を振ると、力なく笑って続ける。
「そう、ですよね」
「真衣ちゃん……」
 うつむく彼女に、わたしは何と言っていいのか分からない。迷っていると、扉が開く音がした。
 目を向けると芦屋がいた。彼は男性店員と話していたが、男性店員がわたしたちの席を指差した。芦屋はひらひらと手を振ると、わたしたちの席にまで歩いてくる。
 テーブルを挟んで向かい合うと、メニューも見ずアイスコーヒーを注文した。真衣はウェイトレスが去ると、わたしへ手を差し向ける。
「こちらが浅香萌先輩。同じ法学部です」
「はじめまして」
 わたしは会釈すると、そう言った。厳密には初めて会うわけではないのだが。
 真衣は芦屋に手を差し向けると言った。
「こちらが同じバイト先の芦屋卓さん」
「いやぁ参ったよ。銃刀法違反だけで済むかと思ってさ。すぐに釈放されるかって踏んでたのに、亜衣さんを刺した凶器って分かったら傷害の容疑まで掛けられちゃってさ」
 そりゃそうだろう。わたしは出かかった言葉を飲み込んで、作り笑顔で言った。
「本当にナイフを持ってきたんですか?」
「何? 僕のこと、疑ってるわけ?」
 うんざりとした芦屋の物言いに、わたしは慌てて首を振った。真衣は熱心に彼へ訴えた。
「いえ、ただわたしたちは芦屋さんがやったとは信じられないんです! だから本当のことを話してください」
「持ってきたって警察には言ったよ。心当たりはないけど」
 それを聞いて、わたしはつい詰問するような口調になってしまう。
「心当たりがないのに認めたんですか!?」
「だってせいぜい九千円の罰金くらいでしょ? なら素直に認めたほうが面倒臭くないし」
 わたしは素っ頓狂な叫び声を上げそうになったが、すんでのところで堪えた。気分を落ち着けようと、コーヒーを一口飲む。真衣も苦笑交じりに尋ねた。
「それで芦屋さんは納得してるんですか?」
「いや、もちろん納得はしてないけどさ……だって仕方がないじゃないか」
 芦屋はそう言うと、うつむいて首を振る。記憶を葬りたいかのようだった。水を一口飲んで、顔を上げるとさらに尋ねる。
「それだけ? 聞きたいことって」
「いえ、交換日記のことを……」
 わたしがそう切り出すと、真衣はわたしに囁き掛ける。怪訝そうな声だった。
「他人の恋愛には興味がないって、さっき言ってませんでした?」
「まぁいろいろとね」
 ふうん、と真衣は返事をした。
 わたしにもどう事件と関わってくるのか全く見当も付かないのだ。さぞかし芦屋も面食らうだろう。そう思っていたが、彼は真剣な顔でわたしへこう聞き返したのである。
「由紀恵から……里内から頼まれたの?」

 カフェのBGMが一段と大きくなったような気がした。わたしたちが黙っているところへ、ウェイトレスがコーヒーを運んでくる。
 芦屋は黙ってそれを受け取った。そしてクリームとガムシロップを垂らす。一口飲むと、怖ず怖ずと尋ねた。
「どうなの?」
「いえ、別に誰から頼まれたわけではないんですけどね」
 わたしは首を振って、そう答える。疑り深そうな目で芦屋はわたしと真衣を交互に見ていた。
 やがて真衣が尋ねる。
「そもそもどういう内容だったんですか?」
「別に。普通の内容だよ。学校で何があったとか、講義の内容とかね」
 これは里内が言っていたことと変わらない。そんなことを思い出しながら、わたしは尋ねた。
「どちらから言い始めたんです?」
「そんなことは忘れたよ」
「今、どこにあるんですか?」
「もうどこか行った。大事に取っておくとでも? あいにく僕にセンチメンタルな趣味はないよ」
「そうですか、分かりました」
 わたしはそう言うと、コーヒーを一口飲んだ。しばらく考えた後、里内の印象を尋ねた。有沢からは頼まれていないものの、もしかしたら何かの手がかりになるかもしれないと思ったのだ。
「すごく真面目だったよ。それに正義感も強かった。デート中、遊園地のショップで万引きを見かけて、注意したこともあったし。できればやり直したかったけどね」
 芦屋はそう答えると、真衣を一瞥した。真衣は怖ず怖ずと尋ねる。
「じゃあ、わたしに話し掛けた理由って……」
「そうだよ。真衣さん経由で里内に連絡をつけてもらおうとしたんだけど。亜衣さんに誤解させちゃったみたいだね」
 真衣の安心したような息が聞こえた。ストーカーではなく、亜衣の誤解だと確信が得られたようである。しかし飽くまでも彼がそう言っているにすぎない。
「どうして誤解を解こうとは思わなかったんですか? その時点で」
 わたしが口を挟むと、芦屋は溜息をついた。
「誤解を解くのが面倒なんだよ」
 芦屋の答えを聞いて、わたしは絶句する。
「面倒って……」
「だって四年後には二人とも卒業だからね」
「確かにそうですが、芦屋さんはそれでいいんですか?」
 わたしが尋ねると、芦屋は力なく答える。
「だって亜衣さんが思い込んでる以上、どうしようもないじゃないか。話せば分かるってよく言うけど、あんなのは幻想だよ」
 確かに幻想かもしれない、とわたしも思う時がある。しかし真剣に話し合おうともしないうちに諦めては、まるで試合放棄ではないか。
「そんなことはないと思いますけどね」
 わたしの口からそんな言葉が口をついて出た。芦屋はタバコを吸っていいかわたしたちに尋ねる。しかし返事を待たずライターを取り出した。忙しなく紫煙を吐き出すと、微笑して言う。
「……まぁ考えは人それぞれだから」
「そうですね」
 わたしはコーヒーを飲むと、微笑を返した。この議論は明らかに平行線をたどる。これ以上は触れないでおこう、と思いながらわたしは尋ねた。
「ナップサックを変える前、誰とどんな会話をしたんでしょうか」
 芦屋はゆっくりと紫煙を吐き出すと、苦笑した。
「まるで探偵みたいだね」
「わたしたちは……」
 真衣が苛立ちを露わにすると、芦屋はそれを遮る。
「解ってる。僕の無実を証明したいんだろ? 若いね。でも気持ちは嬉しいよ」
 芦屋はそう言うと、わたしを見てさらに続けた。
「えーと、ナップサックを変える前に亜衣さんとは話したよ」
「亜衣と?」
 真衣が驚いたように尋ねると、芦屋は頷く。
「うん、ナップサックを変える数日前だったかな。ボロボロですね、みたいなこと言われたんだ。変えたらどうです? って勧められてさ」
「それだけだったんですか?」
 わたしが尋ねると、芦屋は視線を宙に漂わせていた。やがて首を振って答えた。
「いや? まぁ社交辞令で『ステキなナップサックですね』とは言われて、その流れで雑談くらいはしたけどね」
「例えばどんな話を?」
 わたしが尋ねると、芦屋は面倒そうな顔になる。そんなこと聞いてどうするんだ、と言いたそうだった。
「どこで買ったか、とか何ていうメーカーか、とか。彼女もナップサックが欲しいって言ってたから、僕を人柱に使ったんじゃないのかな。まぁそうだとしても気にしていないけど」
「それ、いつですか?」
 わたしが尋ねると、芦屋は即座に答える。
「一週間くらい前だよ。ナップサックを変えた次の日。そしてしばらくたってナイフが出てきたんだ。なんで今さら? と思ったけど」
「具体的に買った日付けまでは覚えてませんよね?」
 わたしが尋ねると、芦屋はタバコを咥えたままポケットを探った。そしてレシートを取り出すと、わたしたちへ見せる。九月十二日、土曜日、16:30分と記載されていた。十五日に事件が起きたから、三日前である。
 写真を撮りたかったが、上手な口実が思い浮かばない。
「ありがとうございました」
 わたしはそれだけ言うと、レシートを芦屋へ返した。彼はポケットにしまうと笑う。
「気が済んだかい?」
「ええ、まぁ」
 わたしが言うと、芦屋はタバコの火を灰皿で消した。そして立ち上がってナップサックを背負う。しかし型番までは分からない。
「……あぁ、芦屋さん」
 わたしが呼び止めると、芦屋は振り向いて尋ねる。うんざりした声だった。
「……ステキなナップサックですね。わたしも今、ちょうどカバンが欲しいと思ってたんですよ」
「あ、そう」
「どこのメーカーの……何という商品なんですか?」
 さすがに型番まで聞くと怪しまれるかと、口に出した後で思った。しかしわたしの杞憂だったようである。
「クーベルタンスポーツの……型番までは分からないな」
 芦屋はそう答えると、何か思い付いたらしい。ナップサックをおもむろに降ろすと、口を開けて内側をめくった。やがて不思議そうに呟く。
「あれ? タグ付いてたと思ったんだけどなぁ」
 わたしは申し訳ない気持ちにさえなってくる。
「あ、分からないならいいんです。……どうもありがとうございます」
 そんなにいいカバンかなぁ、と芦屋は独り呟くと、ナップサックを再び背負った。そしてポケットから財布を取り出すと、三人分のコーヒー代を支払おうとする。ごちそうさまです、と真衣は笑顔で言ったが、わたしは手を振った。
「わたしはお気持ちだけで結構です」
「あぁそう」
 芦屋はそう言うと、五百円硬貨を取り去った。真衣が不思議そうな声で、わたしへ尋ねる。
「ラッキーじゃないですか」
 真衣の質問に、わたしは声を潜めて答えた。
「おごられるのって苦手なの。特に男の人のおごりは」
 ふうん、と真衣は呟いたが、腑に落ちないような顔をしている。やがて彼女は芦屋が出ていくのを見送った。
 多くの人は気付いていないのだ。庇護と被支配は同義語である、と。そんなことを考えながら、わたしは芦屋の背中を見送った。
 女性は守るべきだと異口同音に人は言う。しかしこの「守る」というホイップクリームよりも甘ったるい言葉で、支配欲と優越感を包み込んでいるのだ。だからこそ、この「毒」に無自覚な人へは助けを求めたくない。

「ちょっとトイレ行ってくるね」
 芦屋が出て行ってしまうと、わたしは真衣へ言った。そして立ち上がると、アロハシャツにサングラス姿の男に近付く。
 わたしは彼に声を潜めて話し掛けた。
「吉元くん」
 吉元は呼ばれると、サングラスを外す。さっきから感じていた視線は彼のものだったのだ。吉元は乾いた笑いを浮かべて言った。
「バレちゃいましたか」
「さっきから解ってるよ。誰からここに来るって聞いたの?」
 わたしは溜息をついて尋ねると、吉元は首を横に振る。
「ちょっとそれは……勘弁してください」
「ふうん、まぁいいけど」
 麻美の顔が頭をよぎった。吉元に知られたのは、場所も日取りも決める前である。しかも真衣は彼女から色々聞かれたと言ってたっけ。推定無罪といっても、彼女が場所を漏らしたのは限りなく黒に近いだろう。
 わたしは溜息をついて言った
「そんなことより、聞きたいんだけど」
「何ですか?」
「もしかして亜衣さんと鹿児島で知り会ってたり……しないよね?」
 わたしの質問に、吉元は首を振った。
「まさか。それ真衣からも聞かれたんですけどね」
 やはり真衣の思いすごしらしい。わたしは笑って頷いた。
「ありがとう」
「で、何か分かったんですか。芦屋って人が犯人じゃないんですか。ナイフがナップサックから出てきたんでしょう?」
「そうねぇ……、多分犯人じゃないと思うよ」
「そうですかね。じゃあ誰が亜衣さんを刺したんですか」
「そこまでは分からないけどね」
「ほら、やっぱり芦屋って人が怪しいじゃないですか」
 吉元は苛立ったような口振りで言うと、さらに続ける。
「あいつが狙ってるかもしれないのに真衣も呑気なもんですね」
 確かにまだ犯人は捕まっていないのは認めるが、このまま議論しても堂々巡りになってしまう。早くトイレに行こう。
 トイレから出ると、その近くで有沢へ電話を掛けた。しかし三回ほどコール音がして、留守録に切り替わってしまう。
「もしもし、浅香萌です。メールの件を聞いておきました……」
 続けて、仕方なく報告のメッセージを吹き込んだ。席へ戻ると、真衣が辺りを見回している。どうしたのかわたしが聞くと、真衣は言った。
「さっき吉元くんの声がしたような……。空耳ですかね?」
「……さぁ、わたしに聞かれても」
 わたしは肩を竦めると、コーヒーを啜る。そして吉元の席を見た。彼はそそくさと立ち上がると、顔を伏せて会計へと向かっている。
 吉元が出て行ってから、しばらく真衣と取り留めのない話をした。どの講義が出席を取らないか、どの講義のテストが易しいか、そしてわたしの苦手な講義について攻略法を乞おうとする。
「そういえばさ、中国法って取ってたよね? 外国の法律ってどうも苦手なんだよね」
「まぁ、わたしも何となくでしか分からないんですけどね」
「そうなんだ。真衣ちゃんって中国に詳しいイメージがあったんだけど。中国語だって取ってたでしょ」
「中級で挫折しましたよ。まぁ、中国自体は好きなんですけどね。お父さんの影響で」
「そういえば、真衣ちゃんのお父さんって貿易関係、だっけ」
「ええ、今は違いますけど。……独立したんです」
 真衣の声は恥ずかしそうだったが、誇らしそうでもある。その表情を見てわたしは尋ねた。
「じゃあ法学部に入った理由って……」
「ええ、お父さんを手伝うためです。商学部にしようか迷ったんですけどね」
 そして肩を竦めて続ける。
「だって就職活動もしなくていいでしょう?」
 素直に感心したが、それを口に出すと子供扱いしてるようで躊躇われた。しかし頷くと、真衣の目標を汚すような気もする。迷った挙句、ふうん、とだけわたしはコーヒーを一口飲んで言った。
 真衣はミルクティーを一口飲むと尋ねる。
「そういえば有沢さんは犯人の目星を付けてるんでしょうか。不安なんですけど。早く犯人が捕まらないと」
「何か掴んでるみたいだから安心して。最後まで言えないのはいつもなの」
 わたしは真衣をなだめたが、真衣は苛立った声で尋ねた。
「秘密主義なんですか?」
「そういうわけじゃないけど……、まぁ繊細で優しすぎるのよ。犯人に対してもね」
「そうですか」
 真衣は溜息をついた。そして身を乗り出してさらに言った。
「里内先輩が犯人なんじゃないかって思うんですけどね……」
「どうして?」
 わたしは尋ねた。里内にはアリバイこそないが、それだけで犯人だと決め付けるのは暴論だ。
「交換日記つけてたって言ってましたよね。里内先輩は何か自分の都合の悪いことを書いた。それを偶然、亜衣が知ってしまった」
「ちょっと待って。どうして亜衣さんが交換日記の内容を?」
「芦屋さんは亜衣と雑談をしてたって言ってましたよね。ナップサックを変えたとき。そのときに芦屋さんが口を滑らせたとしたらどうでしょう」
「つまり、知られたくないことを亜衣さんに知られたから殺そうとした」
 わたしが確かめると、真衣は大きく頷いた。
「そうですそうです。わたしを狙ったって考えてるから、こんがらがるんだと思いましてね。最初から亜衣を狙ったとして考えてみたんです」
「でも芦屋さんのナップサックからナイフが出てきたじゃない?」
「庇ってるんじゃないでしょうか? 交換日記はなくしたって言ってましたけど、本当はまだ持ってるんじゃありません?」
 どうなんだろう、とわたしは心の中で呟いた。確かに可能性の一つとしては考えられなくはないが、漠然としすぎている。まるで雲を掴むような話だ。
「亜衣さんを刺してまで守ろうとした秘密って?」
「それを考えてるんですけどね。でも交換日記に知られたくないことが書いてあったのは間違いないと思いますけど」
「どうして?」
「二人で飲みに行ったとき、しつこく交換日誌のことを聞いてきたんですよ」
「なるほどね」
 有沢も交換日記を気にしていたっけ。しかし彼を尊重して真衣には告げないでおこう。そんなことを考えながら、わたしはさらに尋ねる。
「亜衣さんは何か言ってたの? 交換日記の話とか」
「いえ、何も……やっぱりわたしの思いすごしでしょうか?」
「そうなんじゃない?」
 わたしがそう答えると、真衣は困惑したような声で言った。
「でも里内先輩も芦屋さんも犯人じゃないとすると、一体、誰が亜衣を刺したんでしょうか?」
「さぁ、まさか亜衣さんが自分で刺したとは考えられないし……」
「ええ、亜衣に自傷癖があったらわたしが気付いてます」
「そっか、双子だもんね」
「いえ、そう言うんじゃなくて……、だって一緒に生活しているんですよ。亜衣に何か大きな変化があったら、気付くでしょう?」
 亜衣への気持ちが変わりつつあるのだろうか、とわたしは思った。彼女一心同体だという思いが薄れているように感じたのである。
 そんなことを考えながらスマホで時間を確かめる。有沢に帰る旨を連絡しようとした時である。有沢がカフェに入ってきた。

 わたしが手を振ると、有沢は辺りを見回しながら席へ近付く。真衣と会釈を交わし、彼はテーブルを挟んで向かい合った。人混みが苦手な有沢は具合が悪そうである。
 有沢はウェイトレスを呼んでアイスコーヒーを注文すると、椅子にもたれかかった。
「大丈夫?」
 わたしが尋ねると、有沢は弱々しい声で答えた。
「うん、ありがとう。ちょうどこの辺で用事があったから寄ってみたんだけど、すごい人だね。人酔いしたよ」
 困りごとを気に掛けている。その優しさは嬉しいが、無理を押してまで会いにきて欲しくない。しかしその思いは何となく口に出せないのである。
 代わりに有沢へ言った。
「だったら今日はもう帰って寝なさいな」
 そしてセカンドバッグを手に取ると、わたしは微笑む。そしてさらに続けて言った。
「わたしたちも帰ろうとしていたんだよ。またメールを送って。いつでもいいから」
「ということは芦屋さんは帰ったんだね」
「うん。帰ったよ。留守録、まだ聞いてなかったんだ?」
 わたしが答えると、有沢はスマホへ目を落としたらしい。
「あ……、今気が付いた」
 下を向くと、イヤホンを取り出た。そしてスマホにつなぎながら言った。
「ゲームの音楽を頼んでて、修正の打ち合わせだったんだ。ランチがてらね。で、ついでに電気街でパソコンのパーツとかを見てたってわけ」
「ごめん。そうだったんだ。ならメールの方がよかったね」
「いや、別にどっちでも構わないよ。それよりもこんなに長い時間、一人で話してて疲れたんじゃない?」
 疲労感より孤独感があったが、訴えても解決しない。わたしはその気持ちを圧し殺すと、微笑した。
「……別に全然」
「そう、ならいいんだけど……」
 彼が留守録をイヤホンで聞いていると、ウェイトレスがコーヒーを運んでくる。しかし有沢は一瞥もせず、黙って留守録を聞いていた。集中する余り、ウェイトレスに気が付いていないらしい。
 わたしが有沢に手を差し向けると、彼女は机の上にコーヒーを置いた。留守録を聞き終えたらしい。しばらくしてイヤホンを取って、顔を上げる。有沢はコーヒーを一口飲むと呟いた。
「なるほどね」
 その意味深長な呟きを聞いて、真衣は身を乗り出す。
「何か分かったんですか!?」
「えぇ、まぁ……」
 有沢は奥歯にものが挟まったような言い方をしている。それを聞いて真衣は不服そうに尋ねた。
「何が分かったんです? 亜衣は誰が刺したんです?」
「いえ、まだ細かい点を調べないといけないんですよ。真衣さんにも確認したいことがありましてね」
「なんでしょうか」
「十三日は真衣さんもご出勤でしたか?」
「いえ、違ったと思いますけど……。ちょっと待ってください。今、確かめますから」
 真衣はそう言うと、スマホを取り出す。しばらくタップしていたが頷くと、さらに続けた。
「やっぱりシフトは入ってません」
「つまり亜衣さんだけがご出勤だったんですね?」
「ええ、そうです」
「ありがとうございました」
 有沢はそう言ったきり、コーヒーを飲んで押し黙ってしまう。真衣は立ち上がると、わたしへ囁いた。
「……じゃ、わたしはこれで」
 そして真衣はハンドバッグを手に取った。「田口眞衣」と書かれている。
 踵を返そうとする彼女に、有沢はこう尋ねた。
「真衣さんはその字が正式なんですね。ひょっとして亜衣さんの漢字も?」
「え? ええ。本当はセイジで書きます」
「セイジ?」
 耳慣れない単語を聞いて、わたしがオウム返しに尋ねる。真衣によれば「正字」と書き、旧字体のことらしい。つまり二人の正式な字は「亞衣」「眞衣」と書くわけか。
 しかし……、とわたしは苛立ちを抑えながら尋ねる。
「そんなことが何の役に立つの?」
 有沢はその問い掛けに答えない。わたしは肩を竦めると、頬杖を突いて、わたしなりに考えを巡らせた。十三日にナップサックを買うように促したのは本当に亜衣なのか。途中で二人が入れ替わったのではないか。つまり、真衣と亜衣は共謀して芦屋を陥れようとしているのではないか。
 後輩を容疑者として見ている自分に、わたしは段々と嫌気が差してきた。二人への疑念を、コーヒーで胃の奥底へと流し込む。思ったよりコーヒーは、苦かった。

 大通りの人混みはますます混雑していたが、もう五時である。これ以上の長居は気が引けた。わたしはカバンを持つと、有沢に尋ねた。
「そろそろ出ない?」
「うん、そうだね」
 ずっと無言だった有沢は、それだけ言うとようやく顔を上げる。彼が立ち上がると、ポケットから一枚の紙が舞い落ちた。
 わたしは屈んで拾うと、有沢に尋ねる。
「何? それ?」
「新聞記事だよ」
 わたしから受け取ると、彼はポケットにしまった。好奇心をそそられ、わたしは聞く。
「今回の事件に関係あるの?」
「まぁ、あると言えばあるし、ないと言えばないし……」
「何よそれ。……見てもいい?」
 わたしは有沢の煮え切らない返事に、焦れったい気持ちで尋ねた。有沢はポケットから紙を取り出すとテーブルの上で紙を広げる。A4の紙へ上下に分けて、新聞記事がプリントアウトされていた。
 二○○三年、というからもう五年も前である。上は経済欄の記事だった。本屋の万引き被害について書かれている。被害総額は年間210万円を超すこと、中高生が多数を占めていること、そして防犯の事例紹介。
 その下には小さな死亡記事があった。自営業者の男性が歩道でうずくまっているのを通行人が通報。搬送先の病院で死亡が確認された。死因に不明な点はなく、急激な運動で心不全を起こしたようである。八十八歳なので、ジョギングの最中に高齢がたたったのかもしれない。
「ふうん、ありがとう」
 わたしは目を通し終えると、有沢へ紙を返した。有沢がポケットに押し込むの確かめて、さらに尋ねる。
「でもどう関係してくるの? しかもかなり前の記事でしょ?」
「里内さんの一件が気に掛かってね」
 有沢はそう答えると、レジへと向かって歩き出した。わたしは後を追いかけると、会計をしている彼へ尋ねる。
「どういうこと?」
 しかし有沢は何も答えない。わたしは自分のコーヒー代を払うと、カフェのドアを開ける。
「もしかしてわたしが傷つくと思って躊躇ってる?」
「うん……まぁ」
 有沢が頷くのを見て、カフェの壁にもたれた。優しさは嬉しいが、プライドが傷ついたのだ。
「ふうん、わたしが多少のことでヘコむような女に見えるんだ」
 そして表情を和らげると、有沢に言う。
「確かにわたしの先輩や後輩が関係者だよ。でも有耶無耶にしていい理由にはならないでしょ? 罪を隠してるんなら裁かれるべきだよ。本当はわたしの力で解決できれば一番いいんだけどね。いつも何だかんだで頼りっぱなしだし」
「いや、別に知恵だけならいつでも貸すよ」
 ありがとう。そう心の中で呟きつつも、わたしは首を振った。
「ううん、だって豆腐みたいな心だから」
 普通、ガラスに喩えない? いつもなら有沢は笑ってそう言うのだが、何か考え事をしているらしい。ふうん、と短く答えるとうつむいた。
 こういうときには何を聞いてもムダである。わたしは考えごとの邪魔をしないように黙っていた。
 有沢はやがて意を決したように顔を上げると、わたしへ尋ねる。
「赤松堂の向かいに小さな古本屋あるの覚えてる?」
「うん、最近は行ってないけどね」
「あの古本屋に行きたいんだけど……」
 さもわたしに付いてきて欲しいかのような口振りである。具体的な理由は告げられなかった。ただこれだけははっきりしている。古本を買いに行くのではない、と。
 わたしは笑顔で言う。
「分かった。一緒に行きましょ」
 そして有沢と並んで歩き出したのである。しかし地下鉄に乗ると彼はずっと押し黙っていた。

 地下鉄はかなり混雑していて、休日だというのに通勤ラッシュのようである。やがて乗り継ぎ駅でほとんどの人が下りると、ようやくわたしたちは座ることができた。
 彼はぐったりと座席にもたれる。満員電車の臭いで、具合が悪くなったらしい。わたしは彼の隣に座ると、心の中で謝った。しかし何も言わず見守るだけに留めておく。
「どうしたの? さっきから僕の顔をちらちら見て」
 心配していた旨を、わたしは打ち明けた。そう、と有沢は短く答えると再び押し黙ってしまう。やがて有沢は思いつめたように尋ねる。呟くように、ポツリと。
「ねぇ、愛って何だろうね」
「え?」
 唐突な質問である。わたしは有沢の顔を見つめて、聞き返した。
「それってわたしたちのこと?」
「いや、亜衣さんと真衣さん、里内さんと芦屋さんのこと」
 有沢は首を振ってそう答える。確かに恋愛だけが愛ではない。そしてその愛を問題にしてるんだろう。しかし代わりの言葉が見当たらない。わたしは言葉を探りながら尋ねる。
「広い意味での愛ってことだよね? 愛っていうか愛情っていうか……姉妹愛、親が子供を想う気持ち、友達を想う気持ち、ペットへの愛情とか……」
「そうだね。その愛だよ」
「で? その愛がどうしたの?」
「女性としての意見を聞きたくて……」
「いや、別にそれはいいんだけどさ、何を問題にしてるか教えてよ。そうしないと一般論でしか言えないでしょ?」
 わたしがきっぱりと言うと、有沢は真剣な眼差しで言った。
「その一般論が知りたいんだよ」
「そうねぇ……」
 有沢との関係、真衣との関係、家族との関係……。わたしはしばらく考えていたが、やがて口を開いた。
「一緒にいたいって思う気持ち、かな。一分一秒でも長くいたい」
「一緒にいたい? お互いが同じになりたいっていうんじゃなく? 心身ともに」
 それを聞いて、わたしは自嘲的に笑う。
「まぁ、普通の女の子ならそう答えると思うけどねぇ。わたしは違うかな。わたしはわたしでいたいから」
「どうして?」
「だって、心も身体も相手と同じになったら、……上手くは言えないけどさ、わたしがわたしじゃなくなっていくって言ったらいいのかな、呑み込まれてわたしがなくなっていくって言ったらいいのかな、操り人形になるって言ったらいいのかな……そんな感じなんだよね」
 そう言いながら、真衣の言葉を思い出していた。「窮屈な一方で、吉元くんになら身も心も支配されたい、自分はどうなってもいいから吉元くんに尽くしたいって望んでる自分もいて……」と。
 真意は伝わっているだろうか。不安になりながら有沢を見ると、確かめるように尋ねた。
「人生を壊されたくない、と萌ちゃんは考えてるんだね。つまり相手と〈同じ〉になってまで自分を壊したくないと」
「まぁそんな感じ」
 そう言うと、わたしは肩を竦める。折しも地下鉄は駅に止まり、ペアルックを着たカップルが目の前に座った。
 有沢はわたしに尋ねる。
「法を犯してでも一緒にいたいって思う? 誰かと」
「ノーに決まってるでしょ。どうしてわたしにそれを聞くかなぁ?」
 愚問だったが、ムッとはしない。わたしは真意を促そうと尋ねた。
「ねぇ、もしかして芦屋さんと里内先輩のこと? 芦屋さんは里内先輩と一緒にいたいためにストーカーになった。でも満たされなくて、真衣ちゃんに面影を見出した。まぁ同じ大学出身だしね」
 しかし有沢はそれに答えようとはしない。微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべていたが、言った。
「いや、特に誰かって言うんじゃないんだけどね」
 そう、とわたしは短く答える。そのうち話してくれるに違いない。
 わたしは地下鉄の揺れに身を委ねながら、ちらちらと横目で有沢を見る。彼はずっと黙り込んでいた。やがて車内アナウンスが目的地を告げるが、有沢は全く気が付く気配もない。
「着いたよ」
 わたしは溜息をつくと有沢の肩を揺する。彼は生返事をして立ち上がった。

 階段を上がって、まっすぐ歩くと古本屋が見えてくる。軒先の本棚では三冊百円で売られていた。確かに日に焼けたり、汚れていたりするが、面白そうな小説が多い。それに旧字体の岩波文庫に混じり、東野圭吾などの新しい作家も並んでいる。
 有沢は本を手に取ってぼんやりと眺めている。なかなか踏ん切りが付かないようだ。その様子を見て、わたしは彼の肩を叩いた。
「中で待ってるね」
 そう囁いて、店内に入ると、インクや古い紙の臭いがほのかに漂ってくる。店内の入り口付近には「万引きは犯罪! 警察に通報します」というポスターが貼られていた。
 そして正面にはカウンター。わたしがしばらく来ていない間に、店主は代替わりをしたらしい。白髪の老人から、六十代くらいの男性になっていた。
 わたしが挨拶をすると、新しい店主は戸惑いがちに会釈をする。有沢が入ってくると、店主は親しそうに挨拶をした。
 そして有沢は雑談するかのように近付くと尋ねる。
「何か面白い本あります?」
「あぁ、それなら『詳註 アンティゴネー』なんかどうです? 詳註ギリシャ悲劇っていうシリーズの第二巻だけが手に入ったんですけどね」
 店主はそう言うと傍らに積んであった本から分厚い本を取り出した。彼が本のページを開くと、有沢は目を輝かせて食い入るように覗き込む。
「まだ中をざっとしか見てないんですが、原文も付いてますよ。それからラカンによるアンティゴネー解釈の経緯なども載ってるようです。まだ値段は付けてませんが、……五千円でいかがです?」
「……すみません、また今度にします」
 有沢が残念そうに言うと、店主はにこやかに笑う。そして本を元の位置に積むと、わたしへ目を向けた。
「そちらはご友人です?」
 有沢はわたしを見て、それから自分の服装を見る。そして曖昧な笑みを浮かべて答えた。
「えぇ、まぁそんなところです」
 そして店主に再び目を向けると、有沢は切り出した。
「ところでこれを見て欲しいんですが」
「稀覯本ですか?」
「残念ながら違うんです」
 有沢は首を振ると、新聞記事を取り出す。その記事を見て店主の顔が曇った。
「ある事件について調べてるんですよ。この八十八歳で亡くなった、というのはご主人のお父さん……つまり先代のご主人ですね」
「ええ、まぁ……」
 店主は気まずそうに新聞記事から目を逸らす。
「それで万引きをした高校生を追いかけて、心臓発作で死んだんですね」
「そうです」
「その万引きをした子は……」
 有沢はそう言うと、戸口から外を見た。そして赤松堂を指差して続ける。
「あの本屋で働いていますね?」
 店主はしばらく唇を震わせていたが、溜息をついた。そうです、という答えを、わたしは確かに聞いたのである。
 それを聞いてもなお、有沢は黙って店主を見つめていた。物憂げで真摯な目つきだ。しかしわたしは店主から顔を逸らさずにいられない。傷心を悟られないようにするのが精一杯だった。
 帰ってから机に向かったが、司法試験の勉強は捗らない。わたしは溜息をつくと、ペンを置いた。そして熱いシャワーを浴びる。
 自室に戻ると問題集を広げたが、やはり頭に入らなかった。諦めてベッドに寝転がると、天井のシミを睨み付ける。
 ふとスマホを見ると、メールが届いていた。タップすると有沢からである。気遣う言葉はない。「僕のオフィスで西口警部と会うことになったんだけど、いつにする?」という質問だけ。それとともにいくつか候補日が書かれていた。直近は明日である。逃すと一週間以上、日が空いてしまう。
 頬を引っ叩かれたような気がした。ぴしゃりと。
 明日なら都合がつく。わたしはメールを打つと、そう送ろうとした。しかし手を止めて、一文を付け加える。早く真相が知りたい、と。そして顔を洗おうと洗面所に向かった。できれば氷水で顔を洗いたかった。

第七部、二人の日記

 有沢のオフィスは雑居ビルの二階にあり、階段はコンクリートが打ちっぱなしになっている。その階段を登り切ると、メガネを掛けた女性がいた。ラフスケッチが描かれた紙を持っている。
 わたしは会釈をすると、彼女に声を掛けた。
「有沢とここで待ち合わせをしているんですけど」
 女性はそれを聞くと、親しみのある笑顔で応えた。
「ならすぐ来ると思うけど……」
 そして部屋の前まで案内すると、ノックをする。そしてドアノブを捻ると、言った。
「ここで待ち合わせよね?」
「ありがとうござい……」
 しかしその部屋を開けて、女性とわたしは顔を見合わせる。隅の机にはパソコンが置かれているのだが、その周りには書類や本が散乱しているのだ。その上、中央のガラステーブルのコーヒーカップは出しっぱなし。それと向かい合って置かれたソファには、洗濯物がずらりと干されていた。……さすがに下着ではなかったが。
「……別の部屋で待ってる?」
 女性は苦笑交じりに尋ねたが、さすがにこれ以上、仕事の邪魔をするわけにはいかない。
「いえ、大丈夫です」
 わたしは笑って答えると、女性は決まりが悪そうな顔で部屋を閉めた。わたしは所在なくソファに座ると、民法の本と鉛筆を取り出す。
「近親婚の禁止(民法第734条)は違憲(憲法第24条『婚姻の自由』、または憲法第13条『幸福追求権』参照)ではないだろうか。自分の考えと根拠を述べよ。ただしこの男女は完全に自由な意志で婚姻を望むものとする」という文章を見て、鉛筆を持つ手が止まる。先日の会話を思い出したのだ。
 奇形児を防ぐため? 部族が広がらないから? 先日、わたしが答えたものはどれも的外れのような気がした。有沢に貸すつもりで持ってきた『日本法制史』をカバンから出すとぱらぱらとめくった。
 奈良時代の律令では近親相姦が禁止されていなかったが、平安時代に母子相姦が、江戸時代には姉妹、叔母、姪との密通を禁じたらしい。そしてわたしのメモとしてインセント・タブーと書かれていた。
「<考え方>そのものが最初から決められてる、か」
 有沢の言葉を反芻したが、ゆっくりと首を振った。しばらく考えていると、話し声が聞こえてくる。有沢と西口警部が到着したらしい。扉が開くと、西口警部も苦笑した。
 有沢は洗濯物へ駆け寄ると、掻っさらう。そしてソファの上へ丸めて叩きつけた。わたしの真横へ無造作に置かれた洗濯物を見て、溜息をつく。そして見るに見かねて、手を伸ばした。
「まったくもう。洗濯物くらい畳みなさいよ」
 そう言うと、わたしは洗濯物を畳み始める。わたしも母に任せっきりで余り上手くはないが、畳まないよりはマシだろう。
 そんなことを思いながら、ガラステーブルのコーヒーカップを脇に退けると、洗濯物をガラステーブルの上に置いた。
 有沢は決まりの悪そうな顔をしていたが、西口警部はニヤニヤと笑いながら見ている。その顔に気づき、わたしはわざと大きな声で続けた。
「別に有沢のためじゃありませんから。わたしが恥ずかしいんです!」
「そうか」
 西口警部は苦笑しながら、わたしたちと向かい合って座った。有沢はそれを確かめると、西口警部へ尋ねる。
「例の件はどうでした?」
 西口警部はそれを聞いて、写真をガラステーブルの上に並べる。ビニール袋に入ったタグ。タグには血が付いていた。
 それからカバン。西口警部はカバンの写真を指差して、言った。
「まず、芦屋を銃刀法違反でしょっ引いた時に調べたんだが、カバンにはタグが付いていなかった」
「メーカーと型番は分かりました?」
「ええと、外国のメーカーだったな」
 西口警部はそう言うと、手帳を取り出す。そして続けて言う。
「クーベルタンスポーツのM206だった」
 わたしにも聞かせておいて、どういうつもりだろう? 信頼されていないような気がしてムッとしたが、黙って西口警部に耳を傾けた。
「それで、服のボタンには誰の指紋が着いてましたか?」
「芦屋卓と田口亜衣の指紋が出たそうだ。それにしてもこんなもん、どこで拾ってきたんだ? 鑑識の爺さんも言ってたぞ」
「現場周辺に落ちてたんですよ」
 有沢は答えると、わたしに笑いかける。わたしも黙って頷くのを見て、西口警部は訳知り顔で言った。
「ふうん、何かありそうだな。ま、深くは追求しないが。鑑識の爺さんには甘いモノと酒さえ贈っときゃ、非公式だろうがプライベートだろうが、何だって協力してくれる。うちの坊主がオモチャ壊した時にも直してもらったしな」
 そして西口警部はわたしを見ると、ニヤニヤと笑って続けた。
「そうだ、お前さんにガキが産まれたら、鑑識で親子鑑定してやろうか」
 それを聞いて、わたしは笑って言った。
「どういう意味ですか。セクハラで訴えますよ」
「おお、怖い怖い」
 西口警部はそう言うと、肩を竦めた。有沢はどんな顔で聞いているんだろう? 気になって目を向けると、財布を取り出している。
「いつもすみません。あぁ、日本酒とお菓子っていくらしました? レシートがあったら……」
「とっく捨てちまったよ。そんなもん。あぁ! もういいから、野暮なマネはよせ。俺はそんなつもりで言ったわけじゃない。それに参考人から金をもらったって分かったらそれこそ大問題だ」
 西口警部は大声で叫びながら、しかめ面で手を振っている。有沢は財布をしまうと、尋ねた。
「ところでタグの件はどうでしたか?」
「鑑識の爺さんによれば確かにこのカバンに付いてたそうだ。切り口が一致したらしくてな」
「そうですか。この血痕は誰のものでした?」
 有沢が尋ねると、西口警部は腕を組んで言った。
「田口亜衣のDNAだったそうだ」
「やっぱりそうですか……」
 有沢の悲しそうな呟きを聞いて、わたしは言う。
「被疑者の氏名を書かなきゃ逮捕状は下りないでしょ? 真衣ちゃんとは一卵性双生児だよ。もしかしたら真衣ちゃんの血痕かもしれないよ。それに……それに……」
 強がって饒舌になってしまったが、言葉が出てこなかった。そういう問題ではない。真衣と亜衣のどちらかが芦屋に罪を着せようとしていたのだ。
 弱音を必死で堪えていたつもりだった。しかし有沢の横顔を見ていると、最後の最後で溜息とともに弱音が出てしまう。
「……そりゃ確かにわたしもショックだけど、ね」
 わたしはそう言うと、そっと手を伸ばす。しかし有沢はとてもつなぐ気分にはなれないらしい。一瞥したきり、黙って首を振った。
 やがて彼は顔を上げて西口警部へと一礼した。
「あぁそうそう、里内さんの一件で地域課への照会ありがとうございました」
「なぁに、仕事だから気にするな。それとこの間は伝え忘れてたんだが、過去の勤務日誌によるとだな、窃盗案件の相談には乗ったが、被害届は出さなかったそうだ。防犯カメラおよびポスターなどの設置をするよう助言、とある」
「どういうことです? はじめから訴える気はなかったんですか?」
 わたしの質問に、有沢は暗い顔で答えた。
「もし被害届を出してたら、追いかけないよ。でも多分、事情は知りたかったんじゃないのかな。真面目そうな高校生がどうしてこんなことをするんだろうかってね」
「多分な」
 西口警部も頷くと、さらに続けた。
「さてその里内由紀恵の心理だが、交換日記に書いてあった。机の引き出しに入ってたよ」
 センチメンタルな趣味はないので紛失した、と芦屋は確かにそう言っていた。しかし大事にしまわれていた。これはどういうことだろう? そこまで考えて、わたしははたと気が付く。
「え……、証拠品の押収理由はどう書いたんです?」
 わたしが尋ねると、西口警部はしばらく躊躇していたが、やがて答えた。
「詳しくは言えないが、お前さんの勤勉さに免じて教えるか。確かに窃盗じゃ被害届は出ててないから捜査は難しい。だから田口亜衣傷害事件の証拠品として差押令状は書いたさ」
「どういうことですか?」
 わたしの質問に、有沢が代わりに答える。
「里内さんもストーカーの相談をしてたでしょ? だから交換日記から芦屋さんの心理状態を読み解く、と書いたんじゃないのかな?」
 有沢が目で確かめると、西口警部は咳払いで誤魔化した。
「まぁ、そんなところだな。実際、里内由紀恵が相談した日の勤務日誌を読んだんだ。彼女の受け答えが書かれてたんだが、それを読んでも余り要領を得なくてな。まぁそんなわけだ」
 西口警部はそう言うと、ポケットから紙を取り出す。そして続けて言った。
「さすがに原本は鑑定に出しててな。立場上、本当に鑑定しないわけにはいかんだろ。だからお前さんが言ってた箇所のコピーしか持ってこれなかった。ご丁寧に付箋まで貼ってあったから、すぐに見つけることができたよ」
 有沢はその紙を広げると、わたしにも見えるように膝の上に置く。見たくなかったら見なくていい。暗にそう言っているような距離だった。
 わたしが覗き込むと、有沢は日記のコピーをわたしに寄せる。丁寧な丸文字で綴られていた。

 たっくんへ。このあいだはおシャレなカフェに連れてってくれてありがとう。あそこのアイスクリームすごく美味しかった! また一緒に行こうね。
 さてさて……、今日、そんなに具合悪そうだった? 「何でもない」って言ったけど、すごく後悔してることがあって。嫌われちゃわないかって思うと怖いけど、話そうと思います。
 私は高校二年の頃に古本屋さんで、万引きをしたことがあります。一回きりだけど、盗んだことに変わりありません。
 別にスリルを味わおうっていう気持ちじゃなく、その本が欲しかったって言うわけでもありません。何であんなバカなことをしたのか、自分でも本当に分からないの。ただ周りの子がしてたっていうそれだけの理由だったのかも。
 こっぴどく怒られでもしたら、記憶にでも残ってたのに、幸か不幸か親にも先生にもバレませんでした。ただ古本屋のお爺さんが私をじっと見つめてただけです。古本屋を出ると、呼び止める声がして、無視して走ると、足音が聞こえました。だけど、その足音も駅に着くと聞こえなくなりました。それで、諦めたと安心していました。
 もちろん盗んでから数週間は本を返そうと思っていました。謝罪の手紙と一緒にそっと店の前に置こうかとも考えました。でも、なかなか書けませんでした。言葉が出てこないのです。気が付けば、いつの間にか「臨時休業」の札がかかっていました。
 また店が開いたときにでも返しに行こう。臨時休業なんだからすぐに再開するだろう。最初はそう考えていましたが、いつの間にか受験生になってしまいました。忙しい日々を送っているうちに、罪悪感も薄れ、謝罪が面倒になってきました。
 今日、教科書を買いそびれてしまい、赤松堂まで行ったんです。そしたら、あの古本屋さんはちょうど向かいだったんです。
 お店を見た途端、急に涙が出てきました。悲しさが沸き起こってきたんです。悲しさとはまた違っていましたが、その気持ちは自分でも分かりません。
 たった一回だけで、他の子に比べたら大したことない。そう思っていたから、罪悪感が薄らいでいったんじゃないのか。私の罪なのに、他の子のせいにするなんて。
 迷いましたが、勇気を出して、古本屋さんを訪ねてみました。万引き防止のポスターを見て、居心地が悪くなりました。私の罪を知っているんじゃないかと思えたのです。
 謝りたい、後日でもいいから本を返したい、それで許してもらえるとは思っていません。ともかくひと目でいいからお爺さんと話したいという気持ちでいっぱいだったんです。確かにそのときは。
 でもそれは叶いませんでした。息子さんが後を継いでいたんです。「お爺さんは?」と聞くと、死んだと知らされました。
 確かに高齢だったし、もっと早く謝ればよかったと後悔しました。だけど安心する自分もいました。これで私の罪はお墓まで持っていってくれた、と思ったんです
 息子さんと話してるうちに、お爺さんは急性心筋梗塞で亡くなったと分かりました。しかも私が万引きした日だったんです。しかも万引きした女子高生を追いかけてたって聞かされたときは、頭の中が真っ白になって無我夢中で走りました。自分が殺したような気がしたんです。そして気付くと駅に立っていました。あの日と同じように。
 引き返して洗いざらい話そうかとも考えました。だけどこのままウヤムヤになればいいと思ったんです。本屋でバイトをしてる大学生が、高校時代に本を万引きしてるって知られたら? 就職先に本屋を志望しているのに、本を万引きしたことがあるって分かったら? しかも法学部の学生が。
 そんなことを考えると……、いや、どんなに言いつくろっても、自分が可愛いだけ。要するにまた逃げたんです。今度はお爺さんからじゃなくて自分の罪から。

 麻美が「ひどく慌てて古本屋から出てきた」と言っていたが、きっとこの場面を見たんだろう。
 隅に目を向けると、赤松堂書店のメールアドレスがメモされている。あくまでも状況証拠にすぎない。そんなことは分かっていたが、わたしは薄ら寒さを覚えた。エアコンは確かに効いていたが、冷気のせいだけではない。
「ありがとうございました」
 わたしはそう言うと、そして西口警部に交換日記のコピーを返した。そして戸惑いながら有沢へ尋ねる。
「これで里内さんの万引きが分かったけど……でも亜衣さんの障害事件と何か関係あるの?」
「里内さんはこの交換日記を取り返したかったはずだよね。だって今は正社員なんだから」
「だからわたしたちを飲みに誘ったんだ!?」
 わたしは憤然として叫んだ。そしてさらに続ける。
「亜衣さんの事件に関係あるかもしれないって言って、交換日記を取り戻させるために」
「まぁ俺たちの前じゃそんなこと言えるわけねぇよな。勤務日誌を読んでも、里内由紀恵の受け答えが曖昧だったのはそこだろ?」
 西口警部が確かめると、有沢は頷いた。
「ええ、万引きの黙認と引き換えに復縁を迫られてる、なんて交番で打ち明けるわけにはいきませんからね」
 ようやく話がつながってくる。有沢の推理を聞いた後では、単なる甘い恋愛の話ではなくなった。
「つまり、里内さんと復縁しようと思って、芦屋さんは真衣ちゃんに話しかけた。でも亜衣さんはそれをストーカーだと思い込んだ、と」
「そういうこと」
 有沢が呟くように答えると、西口警部はわたしを慰めるように言った。
「まぁ里内由紀恵の案件は初犯だし、不起訴で終わるだろ」
「そうですね」
 有沢はぎこちなく笑って頷く。わたしには気になる点があった。
「あ、そういえば、大きな本屋の内定を蹴ってまで、赤松堂に入ったらしいんだけど、それって古本屋を見張ってたの?」
 昔の過ちが漏れないか気が気ではなかったのかもしれない。わたしはそう思ったが、有沢は首を振って答える。
「むしろ謝りたかったんじゃないのかな」
「え、でもウヤムヤになればいいと思ったって書いてあるし……、色んな気持ちの間で揺れ動いてるみたいだけど、結局は保身に行き着いたんじゃないの?」
 わたしは呆れて言った。もし本当に反省しているなら、謝りに行くはずだろう。しかし、有沢は首を傾げている。
「そうかなぁ。もし、完全に保身だとしたら、そもそもこんなことは書かないと思うんだけど。だって黙っておいたら芦屋さんに軽蔑されないからね。それをあえて書いたってことは誰かに聞いて欲しかったんじゃないのかな?」
 有沢はそう言うと、ふいに言葉を区切った。やがて有沢は深く溜息をつくと、天井を見上げてこう続ける。
「軽蔑されない、信頼できる人にね」
 聞いているうちに、わたしの気分も沈んでいった。まさか信頼して、懺悔したのに裏切られるなんて、里内は夢にも思っていなかっただろう。
「なぁに、今回、里内はたまたま悪い男に引っかかっただけだ。今度はいい男と巡り合うさ。きっとな」
「そうですよね」
 西口警部の言葉を聞いて、わたしは少し元気を取り戻す。そして大きな伸びをすると、明るく振る舞った。
「さぁて、これで一件落着だね」
 しかし有沢は首を振ると、答える。
「いや、まだ終わってないよ。亜衣さんのことが残ってるから」
「亜衣さんのこと? ケガなら大丈夫だって言ってたし、心配ないんじゃない?」
 わたしが聞いても、有沢は何も答えない。芦屋が亜衣を刺したんじゃないの? 現に亜衣を刺したナイフは、芦屋のカバンから見つかったんだし……。
 沈黙の中、エアコンの音がしばらく響いていた。やがて有沢は尋ねる。呻くような声だった。
「萌ちゃん、亜衣さんとできるだけ近いうちに会いたいんだけど」
「分かった。真衣ちゃんは?」
 わたしの問いに、有沢は黙って首を振る。わたしはスマホを取り出すと、亜衣にメールを入れた。「有沢が話があるそうです。真衣ちゃんがいない方がいいみたい。どこかいい場所はありませんか」と。
 わたしはスマホをポケットにしまうと、有沢に送った旨を告げる。有沢は礼を言ったが、上の空だった。

第八部、一人の秘密

 亜衣から指定された場所は、レトロな喫茶店だった。素朴ではあるが、木の温もりが伝わってくる。
 わたしたちが中に入ると、カランと涼しい音が鳴った。
「二名様ですか?」
 男性店員の質問に、わたしは頷く。そして友達と待ち合わせをしている旨を告げた。男性店員は分かったらしく、わたしたちをテーブルまで案内した
 亜衣は足をしきりに組み替えて、レモンティーを飲んでいた。
「こちらの女性でしょうか?」
「そうです。ありがとうございました」
 わたしはそう言うと、亜衣の隣りに座る。有沢はわたしたちと向かい合うと、ホットコーヒーを注文した。わたしはアイスコーヒーを頼むと、男性店員は軽く一礼した。
 やがてコーヒーが運ばれてくると、男性店員は爽やかな笑みを残して去っていく。亜衣は神経質な笑いを浮かべて、尋ねた。
「何でしょうか?」
「亜衣さん、自分で足を刺し、芦屋さんへ罪を着せようとした。そうでしょう?」
「何言ってるんですか? だいたい、ナイフが芦屋さんのカバンから見つかってるんですよ」
 そう言って亜衣は笑う。わたしも頷いた。
「そうよ。真衣ちゃんから聞いたんだけど、あの日は一日中店長さんが事務所にいたらしいし、無理じゃないの?」
「でもトイレには立っていたんだよね」。
「そりゃそうだけど……」
 わたしは言い淀むと、続けて言った。
「でも三十秒くらいだよ」
 それを聞いて、亜衣も頷く。
「そうですよ。芦屋さんのリュックのファスナーを開けて、ナイフを入れて、またファスナーを閉めなきゃいけないんです。たった三十秒でこんなことはできないと思いますが?」
「誰も芦屋さんのカバンの中に入れたって言ってませんよ」
 有沢がはっきり言うと、わたしと亜衣は顔を見合わせる。亜衣は怪訝そうな顔で尋ねた。
「どういうことです?」
「亜衣さんと真衣さんと同じですよ」
「ごめん、意味が分からないんだけど」
 わたしが苦笑交じりに言うと、有沢は答える。
「同じカバンが二つあったんだよ。つまり前持ってクーベルタンスポーツM206にナイフを入れておいた。あとは芦屋さんと自分のカバンを入れ替えるだけでいい。そのカバンならすぐに入れられるだろうしね」
 わたしは思わず亜衣のカバンを見た。確かに口が大きく開いている。そもそも持ち物が変わってたら気付くんじゃない? わたしはそう言おうとしたが口をつぐむ、真衣の話だと、芦屋はいつも制服しか持ち歩いていないらしいのだ。
 わたしは別の疑問が頭に浮かんだ。
「でも待って。あんたの言う通りなら、芦屋さんがどのカバンを買うか分かってたことにならない? 型番も含めて」
「そうですよ」
 亜衣も頷くとレモンティーを飲んだ。そして肩を竦めると続ける。
「わたしはエスパーじゃありません」
 しかし有沢は首を振った。
「逆ですよ。亜衣さんはカバンを買い換えるように勧めたんでしたね」
「ええ、それが何か?」
 亜衣はそう言って、挑むように有沢を見る。有沢はコーヒーを飲むと、尋ねた。
「そしてどこで買ったのか、どこのメーカーの何という型番かを尋ねた。雑談を装って」
 芦屋も同じことを言ってたっけ。つまり芦屋から言葉巧みに聞き出して、同じものを買ったということか。 そう考えたが、わたしは言った。
「確かにそう考えれば辻褄は合うけど、単なる雑談のつもりだかもしれないでしょ」
「証拠はあるんですか!?」
 亜衣が詰め寄って尋ねると、有沢は言った。
「確かに雑談のつもりか、同じカバンを手に入れようと聞き出したのかは証明できませんね」
「ほら」
 亜衣は笑ったが、有沢は静かに言った。
「ですがあなたがナップサックを入れ替えたということは証明できます。ナップサックに亜衣さんの指紋が付いてたんですよ」
「私、芦屋さんのカバンを動かしたんですよ。自分の荷物を取るときに」
「そうですか」
 有沢はそう言うと、スマホを取り出してタップする。そして画面をわたしたちに向けると、血の付いたタグが映し出されていた。
「このタグはあなたの部屋で見つかりました。そしてこの赤いシミですが、亜衣さんの血だそうです」
「わたしと真衣は一卵性双生児なんです。真衣のかもしれないじゃないですか」
「そうですね、DNAはお二人とも同じですから」
 有沢は頷くと、更に続けた。
「でも真衣さんの指にケガはありませんでした」
 確かに有沢は真衣へこう尋ねていた。「真衣さん、手に傷はありませんよね?」と。真衣がケガをしていない以上、これは亜衣の血痕なのだろう。
「わたし以前ナップサックを買って、タグを鋏で切ろうとしたんです。そのとき指を切ってしまって。でもまさか同じメーカーで型番まで同じだったなんて」
「ということは偶然だと」
 有沢が亜衣へ確かめると、彼女の目は泳いでいた。
「……ぐ、偶然です。確かにすごい偶然ですが、ありえない話でもないでしょう?」
「いつ、このタグに血が付いたか証明できるの?」
 わたしが有沢へ尋ねると、彼は頷いた。
「芦屋さんが銃刀法違反で逮捕されたときに、ナップサックも調べたんですよ。そのナップサックとこの切り口の形状が一致しました」
 わたしが喫茶店でナップサックのことを聞いたとき、芦屋はこう言っていた。「あれ? タグ付いてたと思ったんだけどなぁ」と。わたしは彼の記憶違いだと思っていたが、〈別の〉ナップサックだったとしたら納得が行く。
 そんなことを思い出していると、有沢はコーヒーを飲んで、言った。
「つまり芦屋さんはナップサックを買ったばかりにもかかわらず、そのナップサックのタグが亜衣さんの部屋から見つかったことになるんですよ」
 それを聞いて、亜衣は溜息をつく。長い長い溜息で、悩みを全て吐き出しているようでもあった。
 吐き出し終えると、彼女はこう呟く。
「すべては……すべては……真衣を守るためでした。だから真衣がなくしたものをリストアップしてたんです」
「芦屋さんが盗んだと証明したかったんですね」
 有沢が確かめると、亜衣はうなずいた。
「ええ。そうすれば少しは信じてもらえると思ったんです」
「そのことなんだけどね」
 芦屋は真衣を通じて、里内と連絡を取ろうとしていた。話の全ては明らかにしなくてもいいが、誤解を解いておこう。私がそう思って口を開くと、有沢がやんわりと遮った。
「亜衣さんにとって真衣さんの存在は文字通り、全てだったんじゃないかな。僕はそう推測するのですが、どうでしょうか。だからこそ110番に通報せず交番へ行った」
「どういうこと? 事件になれば、警察は動きだすんじゃない?」
 わたしが怪訝に思って尋ねると、有沢はしばらく押し黙る。言葉を慎重に選ぶかのように答えた。
「……つまりね、あなたがた警察が放っておいたから私が刺された、と言いたかったんじゃないのかな? あの時ストーカーの相談をしたのに、ちゃんと対応してくれれば……、そんな気持ちを酌み取ったんだけどね」
 そして有沢は彼女の真意を確かめるように、亜衣に向き直る。亜衣は顔を背けて、聞こえるか聞こえないかの声で、呟いた。
「そうです」。
「どういうこと?」。
「お巡りさんにはご迷惑をお掛けしたと思います」
「芦屋さんにも迷惑を掛けたんだけどね」
 わたしは不快感を押し殺して亜衣へ言った。実際は迷惑という軽い話ではないのだ。勘違いとは言え、いや、もし本当に芦屋が真衣のストーカーだったとしても、彼に無実の罪を着せていい理由にはならない。犯罪行為である。
 しかし亜衣は再び言葉を飲み込んだように押し黙ってしまった。その様子を見ていて有沢が声を掛ける。
「別に亜衣さんを警察に突き出そうというつもりはありませんよ。そもそも僕たちは警察じゃないし、法的には何の権限もないんです。罪を犯した上に、自分の足を刺してまで真衣さんを守ろうとした、その重荷はどこからくるのか、それを話すことで亜衣さんは楽になるのか」
 有沢は素早くわたしを見た。ここは笑顔で頷くべきなんだろうけど、とてもそんな気分にはなれない。コーヒーを飲むと、強い苦味を感じた。わたしたちが亜衣の言葉を待っている間に、柱時計の鐘が店内に響き渡る。
 彼女はしばらく肩を震わせていたが、やがて呟いた
「わたしはずっと真衣の影でした」
「どういうこと?」
 わたしが尋ねても、亜衣は押し黙ってしまう。有沢はコーヒーを一口飲むと、彼女の代わりに答えた。
「つまり真衣さんが主役で亜衣さんはそれに付き従っていたと」
「ええ」
 亜衣は溜息混じりに言うと、さらに呟いた。
「でも本当に真衣を守りたかったのかな? わたしは」
「え?」
 わたしは驚いて聞き返すと、亜衣は首を振った。
「何でもありません。ただ一生、真衣の影かと想像すると、わたしは何のために生まれてきたんだろうって考えちゃうことがあるんです。ときどき、なんですけどね。そしてこの先ずっと真衣の影だって思うと……」
「守りたいと願う一方で、いや願えば願うほど、真衣さんなんか消えてしまえばいいとおもったんでしょうか」
 しかし有沢の口振りは責めるようではない。その問い掛けに、亜衣はハッとしたように彼を見る。しかし、首を振って答えた。
「分かりません、ただ……」
「ただ?」
 有沢が後を促しても、亜衣は何も言わない。その様子に、有沢は優しく微笑んだ。
「別に言いたくなかったら無理にとは言いませんよ」
「いえ、大丈夫です。……ただ長わたし、吉元くんとは予備校で一緒だったことがあるんです。一目惚れでした。大学に入って告白されたときは、本当に嬉しかった。覚えててくれたんだ。真衣の影じゃなくなるんだって」
「え、でも吉元くんに聞いたんだけど、あなたとは大学で初めて会ったって……」
 わたしは戸惑いを覚えて聞き返す。亜衣は複雑な笑みを浮かべて、肩を竦めた。
「ほら、わたしはやっぱり真衣の影なんです。いつも真衣ばかり注目されて、わたしのことなんて誰も覚えてませんもの。おまけにDNAまで同じじゃ、わたしが子供を作っても真衣が子供を作っても同じじゃないです?」
 そんなことないんじゃない? 卑屈な物言いに苛立ったが、真衣の言葉が頭を過った。どうしてみんな真衣と間違うんだろう、と中学時代に言っていたそうである。つまり会う人会う人に間違えられてきたに違いない。
「まぁお父さんから亜衣って名前を付けられた時点で、わたしは真衣の影だって決まったようなものですけどね。亜流、亜種……」
 本物とよく似ているが、少し劣る。そんな含みが「亜」からは感じられる。どうして父親は彼女にこんな漢字を当てたんだろう? よりにもよって漢字の成り立ちを研究していたのに? 本当は愛していなかったのではないかという疑念がわたしの胸にも沸き起こってくる。
 すると有沢は亜衣へ言った。
「確かに今でこそ亜という漢字にはいい意味がありませんね。でも真衣さんと亜衣さん、二人で一つの意味だと思うんですよ」
「二人で一つ?」
 わたしが尋ねると、有沢は頷いた。
「うん。字源を辿ってみると、亜は墳墓を上から見た図で、墓守を表してるんだ。墓を守るのは次の世代だよね。そこから次ぐ、という意味になっていったんだけど……」
「それがどうかしたんですか!?」
 亜衣が苛立ちを露わにして遮ると、有沢はコーヒーを一口飲んで答えた。
「墓守は神聖な職業でした。一方、真衣さんの「真」は行き倒れの死体を埋葬するという意味です。そこで僕はこんな想像をしました。誰かが行き倒れてたら、そのまま放っておかず、家に招き入れるほどの優しい二人であって欲しいと」
 それを聞いて、亜衣は呟いた。
「そんな意味が……」
「まぁあくまでも僕の想像ですけどね。でも全くの空想でもありませんよ。お父様は旧字にこだわっていた、とおっしゃってましたよね? これは神聖な、という意味が亜衣さんの名前に込められてるからじゃないでしょうか」
 亜衣がそれを聞いて、押し黙っていると、有沢はさらに続ける。
「あぁ、そうそう。決して亜衣さんは真衣さんではありません。DNAが同じでも、どんなに顔が似ていようとも、どこか必ず違うはずです」
 有沢が慰めると、亜衣は力なく笑った。
「ありがとうございます」
「例えば、生物の教科書を拝見したとき、DNAのところにアンダーラインが引かれているのを見つけました」
「え、ええ。確かに引きましたけど」
 亜衣は戸惑ったような顔で答えると、有沢はにっこりと笑った。
「今まで真衣さんと間違われ続けて、傷ついてきたと思います。しかしその傷こそが真衣さんと亜衣さんの違いなんですよ。だって〈その傷〉は真衣さんにはありませんからね」
 亜衣はその言葉を聞いて、ハッとしたような顔になった。しばらく肩を震わせていたが、ハンカチを取り出す。そして目許をぬぐいながら言った。
「これから真衣に話してみます。ありがとうございました」
 そしてゆっくりと立ち上がると、財布を取り出した。その表情は少しだけスッキリしたようにも見えた。
 亜衣を通そうと、わたしも立ち上がる。
「話せば分かると思うんだけどね……」
 わたしがそう言うと、亜衣は小さく頭を下げた。そして三五○円を置くと、レジに駆けていったのだった。
 カランと涼しい音が店に響き渡ると、色んな気持ちが途端に込み上げてくる。わたしは有沢の隣に席を移ると、机の上に本を置いた。
「はい、お約束の本。この間は渡しそびれちゃったけど。でも……」
 やはり面と向かって褒めるのは照れ臭い。有沢は知ってか知らずか、苦笑して尋ねた。
「物好きって言いたいんでしょ?」
 わたしは笑うと、大げさに肩を竦める。
「別に。退屈な日本文学の講義を受けなきゃいけないのか、って考えてただけ。漱石読まなきゃなぁとか。『三四郎』なかなか進まなくて」
 そう言うと、ポツリと付け加えた。
「あと……、双子ってどうやって見分けるんだろう? とかね」
「DNAでも区別がつかないのに、と亜衣さんが言ってたけどそのこと?」
「まぁそんなとこかな」
 わたしが笑顔を作って答える。すると有沢はしばらく怪訝そうな表情をしていたが、こんなことを言った。
「全てにあてはまる法則を見つけようっていう考えはアリストテレスから受け継がれてるんだ。でも僕には呪いなんじゃないかって思うことが時々あってさ」
「呪い?」
 わたしはオウム返しに聞くと、有沢は頷いた。
「だってその結果、亜衣さんは一般的な人間を考えるようになったんだよ。そんな人はいないのに」
「確かに普通の人間なんかいないけど……」
 極論のような気もするけどね、と心の中で呟いた。しかしその台詞を飲み込むと、ゆっくりと首を振って言う。
「まるで幽霊探しみたいだね」
「そうだね、……いや、幽霊よりは亡霊かも」
「亡霊、か」
 口に出してみると、おどろおどろしさを感じる。亜衣も「亡霊」に振り回されていたんだろうか? そう考えると、いたたまれない。有沢は呟くように言った。
「うん、亡霊。DNAが違うって言われても実感が沸かないよね」
「まぁ、そうだね」
「だから実感が沸くもので、捕らえなくちゃいけないのかもね。自分って何なんだろう、って」
 有沢はそう言ってコーヒーを飲み干すと、財布を取り出した。この間の埋め合わせでコーヒー代を出すつもりなんだろうか。嬉しいけど、変な貸しができるようで嫌だ。できれば一円単位で割り勘がいいんだけど。わたしは笑って言った。
「たかがコーヒー一杯なんかで買えるほど、わたしの気持ちは安くないんだからね!」
「え? 何のこと? 今日も割り勘だよ。おごると萌ちゃん、苦になるでしょ?」
「うん……、ありがとう」
 わたしはそう答えると、勘違いに恥ずかしくなる。その気持ちを笑って誤魔化すと、わたしは映画に誘った。
「別にいいけど……」
 有沢はそう言うと、ポケットを探っていた。やがてライブのチケットを二枚取り出して、わたしに見せる。
「この間、仕事でインディーズバンドにゲーム音楽を頼んでたんだけどね、そのときに招待券もらったんだ。一緒にどう?」
「うん!」
 わたしは一も二もなく頷くと、チケットを財布の中に入れる。映画は全く同じように上映されるが、全く同じライブはない。つまり一回目と二回目では、どこか違うのだ。そう思うと、不思議な安堵感が沸き起こってくる。
 喫茶店の窓から空を見上げると、秋晴れが広がっていた。
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